凶星を招く星読師と監視者と黒く白い双塔

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※この作品は以下のクリエイターに協力いただき、完成に至りました。[敬称略]

プロット概要、世界構成(協力):さお
一部登場人物のビジュアルデザイン、世界構成(協力):もきち 

 

▽1

「イオ。起きろ、いつまで寝ている!」

 びりびりと鼓膜を震わせる声に、耳を塞ぎ、毛布の中に頭を入れる。自分でざんばらに切り、見苦しいと整え直された髪が、さり、と耳元で音を立てた。

 大きな足音が体重を掛け、廊下の床を踏みしめる。足音で近づいてきているのを察し、更に憂鬱になった。

 もっと。ずっと。寝ていたい。

「昨日、寝たのは何時だ!?」

 バン、と扉が叩き付けるように開かれ、奥から長身の男が顔を出す。

 炎色で、動きやすさを重視して整えられた髪、湛える水の色をした瞳と、よく見れば端整な顔立ちをした男。

 レグルス。なんだったか、彼の姓は興味が無くて尋ねたかも忘れた。俺の監視をしている男だ。

「……明け方」

 昨夜も、ずっと星を見ていた。男は床に散らばった紙片を拾い上げると、近くの棚に纏めて置く。

 寝台に向かって大股で歩み寄ると、身体の上にあったはずの薄っぺらい毛布も布団も、すべて一気に剥ぎ取られた。

 俺お手製のいびつな寝台は、床からの冷気を直で伝えてくる。

「寒いんだよ…………」

「動けば暖まる。ほら、立たないか」

 背と寝台の間に男の手が入ると、ひょいと抱え上げられた。視界が一気に明るくなり、真正面には朝にふさわしい顔をした男がいる。

 彼の筋肉は服を押し上げ、身体の皮膚のあちこちに治りきらない傷が見える。俺の監視をする前は、戦う仕事をしていたらしい。

「また軽くなったか……?」

「もう。料理、増やされんのやだよぉ……」

 彼と出遭ってしまった頃は骨と皮ばかりで、これでもまだふっくらした方なのだ。

 だが、この男は俺がひょろりとしているのがお気に召さないらしく、食材を持ち込み、料理を作り、食べさせる。

 監視、ではなく、世話、のほうが言葉として適切な気がしていた。

「だったら健康的なくらい太れ」

「健康だ「ひと月前に風邪を引いた事はまだ時効ではない」────って」

 低い声が被さって、己の弱っちい声は溶け消えた。

 開いた扉から男はすたすたと寝室を出ると、食卓まで俺の身体を運んでいく。

 俺たちは、外観上は石造りの塔に住んでいる。

 室内は主に木で構成されており、俺だけで住んでいた頃は、仕事用具以外はこざっぱりした室内だった。

 今は、少しだけ色味のある布が増え、落ち着いた色味で整えられている。戦場にいたであろう男の趣味は静かで、髪の炎色のほうが室内では浮いていた。

 木製の椅子を引き、腰掛けさせられる。刺繍の入った布地を机の上に敷くと、皿が決まった場所に置かれた。

 皿には温かい色味のスープが注がれる。パンは焼きたてのそれ。野菜は取れたての瑞々しい葉を千切って味付けされている。

 真ん中の皿には加工肉を炙ったものに、焼いた卵が添えられた。

「今日もこんなに食べられない」

「残った分は私が食べる。食べられるだけ腹に入れるんだ」

 レグルスの言葉に、好きなものから手をつけ始める。貧弱な腹は少し重いものを入れると、途端に悲鳴を上げ始めた。

 これでも許容量は増えたのだが、美味しいのに、量が食べられない。

「卵。美味い」

「そうか、また作ろう」

 甘いソースを卵黄に絡め、口に運ぶ。はぐはぐと食いついていると、綺麗に野菜類だけが残った。

 野菜類も、好みに合うように味付けされ、苦みやえぐみを抜く下処理がされている。好きな料理に比べればゆっくりだが、口に入れて咀嚼した。

 好んで食べようとは思わないが、不味い、という味でもない。

 満腹に近づいてくると、彼は紅茶を淹れてくれる。前を見ると、彼の皿は綺麗に空になり、底の白さが見えた。

「美味しかった」

「もう食べないか?」

 尋ねられ、頷く。

 そうか、と呟いたレグルスは、俺の皿を回収して残りを食べ始める。俺は皿が片付くまで、お茶を飲みつつ膨れた腹を落ち着けた。

 風が吹いたのに気付き、入り口となった窓を見た。薄墨色の髪の中に、星色の瞳が浮かんでいる。やせっぽちで背の低い。幼い顔立ちの男がこちらを見返していた。

 もう成人して数年経つのだが、町の酒場で酒を飲むことは許されないだろう。町の酒場に行くこともないが。

「イオ。昨日の星見の結果を教えてくれるか?」

 俺は、星読師だ。

 魔術も使えるが、時間が掛かりすぎて魔術師としての腕は良くない。その代わり、魔力の流れを読む事は、他よりも得意としている。

 星の運行、地脈の流れ、そして人の魔力の滞留。それらの情報を重ね合わせ、先の時を読む。本来なら、喜ばれ、尊ばれる職業だった。

 だが、俺は牢のようなこの場所で、監視のこの男にのみ、星読みの結果を告げる。

「『日出づる所 白亜の塔が崩れ 星が墜ちる』」

「いつもの事だが、悪い事しか告げないな」

 彼の声は苦々しげだった。

 俺は悪い事柄しか読むことができず、一度、権力者の死を読んだことがある。

 『凶星を招く星読師』

 しばらく軟禁され、この場所に移された時には、噂は尾鰭を伴って広まった後だった。

 それから俺はこの牢に閉じ込められ、監視されることになった。この男が監視者として赴任したのは最近、ここ数ヶ月のことだ。

「嘘を言っても仕方ないだろ」

 俺が椅子の背に体重を預けていると、食事を終えたレグルスが立ち上がって、机の上を片付けた。大きな手が布巾で表面を拭うと、木目が濡れて浮かび上がる。

 代わりに、空いた場所には地図が広げられた。この周辺しか載っていないような、比較的、小さなものだ。

「『日出ずる』……は、東。最も該当しそうなのは、リギア家所有のこの塔か。館と舞踏場が併設されていて、時折、舞踏会が開かれている」

「へえ。詳しいな」

「私はリギア家の当主から雇われている、と言っただろう」

「自分を閉じ込めてる領主の名前なんか、忘れたいだろ」

「…………」

 むっつりと黙り込んでしまったレグルスの様子に、頬を掻く。

 別に、この場所の生活に困る所はなく、衣食住が揃っていること自体は有難い話だ。ぎい、と体重を掛けた椅子の脚が軋んだ。

「塔が崩れる、か。……近場での話だ、領主に報告して現地を見に行ってくる」

「ふぅん。俺は行かなくていいの?」

 尋ねると、レグルスは渋い顔をした。

 噂の所為で、俺自身が災いを呼ぶ、というような印象を持たれている。この牢獄は檻でありながら、皮肉にも、俺を守る盾であった。

「現地が近いんなら地脈でも読めば、もっと詳しい情報が分かるかもしれないのになあ」

「それは……、領主に聞いてみる」

 そう言い、レグルスは食事の後片付けをして外に出ると、馬に跨がって走り去ってしまう。

 窓からその後ろ姿を見送って、俺も立ち上がる。

 居間を出て作業室に戻ると、仕事道具を星見台へと置き忘れた事に気づいた。机の上に置いていた菓子瓶を懐に入れ、作業室の扉が閉じる前に廊下へと出る。

 この塔の頂上にある星見台へは、階段を使っては時間が掛かりすぎる。廊下の端にある小部屋に入り、天井を見上げた。

 この小部屋は、金属製の綱で頂点から釣られている箱、の構造をしている。

「妖精くん、いる?」

『いる。ひとのこのように、けいちょうにいきてはおらぬ』

 今朝の寝坊は、妖精たちにすら、軽佻、と釘を刺される始末だ。

 ひょこ、ひょこ、と部屋中から何かが姿を現した気配がする。人間とは本質的に違う波が、俺の声に返事をした。

「屋上に行きたい。対価は飴玉で」

 懐から菓子瓶を取り出し、カラカラと中身を振って示した。

 ざわり、と魔力が蠢く。

『よきいろをしておるな。みっつだ』

「分かった」

 ガコン、と小部屋が揺れ、上向きの力が加わった。妖精の操作によって金属製の綱がぐるぐると巻き取られ、箱は持ち上げられて上昇する。

 上方からぶつかる音が響くと共に、最上階へと辿り着いた。

「ありがとう」

 手のひらに飴玉を四つ載せ、掲げる。

「一つはおまけだ。いい天気だからさ」

『ほう。ようせいも、そとにでるか』

 嬉しげな声と共に、気配は小部屋の外に出ていく。流れを追って外に出ると、頬に風が吹いた。髪が舞い上がる。

 ここが星見台、塔の頂上だ。

 星見に適した高い塔。遙か昔に建てられたこの建物は、魔術的な大断絶……大戦以前の時代の代物だ。

 昇降する小部屋を始め、解析不可能な魔術装置が数多く残されているが、俺には操作方法が分からない。

 唯一、この塔に住む妖精たちは装置を動作させることができるが、使い方まで教えてくれることはない。

 円形に広がる床は石で埋め尽くされ、方角を示す文字が刻まれている。ゆっくりと歩いて、周囲を囲む柵に手を掛けた。

 視界の先には、壁が同心円状にこの塔を囲んでいる様が見て取れる。塔よりは低い。だが、人ならまず越えられないような壁が、三重に敷地を囲む。

 そして、最も外側の壁の先には堀があり、なみなみと水が湛えられていた。

 敷地と外との出入りは、ただ一カ所ある跳ね橋を使う。

 跳ね橋は特定の操作をしないと動かず、その操作方法はレグルスの雇い主である、リギア家の領主が管理している。

「外は、遠いな」

 柵に両腕を乗せ、その上に顎を置いた。

 敷地の先には道が延び、町まで繋がっている。領主の屋敷がある町だ。

 反対側にある道を行けば、また別の国の領地が広がっている。国境沿い近くにある交易が盛んな土地柄。だからこそ、貴族たちの交流、舞踏会を行うような建物が存在する。

「今更、外に行きたいか、っていうと。微妙なんだけどさ」

 孤児として生まれ、育ての親の元で魔術の基礎と、星読みを学んだ。

 親元を離れ、近くの町で働き始めたのは成人してからだ。街頭で大道芸人よろしく星読みを行い、投げ銭を得るようになった。

 その時はまだ影響範囲が小規模で、星読みの結果、難を逃れた人もいたのだ。

 だが、ある日から夢を見るようになった。誰かが夢に出て、星読みの結果に言葉を付け加える。ぼんやりしていた星読みの結果は、段々と輪郭を得るようになった。

 夢を繰り返すに連れて、結果を齎す規模が段々と大きくなった。そして、権力者の死を読む、という結末を招いた。

 俺の能力は、危険である。人々はそう言い、領主が手配をして、塔へと幽閉される事となった。

「外に出ても。どうせまた、繰り返すんだろうしなぁ……」

 未だに、星読みの結果を補足する夢は見続けている。知った以上、伝えない事はできない。レグルスはいつも顰めっ面をしながら、結果を持ち帰る。

 屋上は、唯一、外に出ている気分になる。

 買い物をして、古本屋を漁って、美味しいものでも食べて、そういった日常が急に失われたから、名残惜しいのだろうか。

『そとにいきたいのか』

 ずし、と肩に重みが掛かったような気がした。妖精たちは気まぐれだが、時おり慰めのような言葉を口にする。

 くすぐったく思いながら答えた。

「行きたくないよ、面倒だし。そもそも、跳ね橋が動かせないだろ」

『そうか。それならいいが』

 妖精は肩から頭へと移動し、そよぐ風を受けている。姿の見えない彼らは、この敷地を出られない事を不満に思わないのだろうか。

 答えが怖くて疑問を口にできず、ただ俺は唇を閉じた。

 

 

▽2

 夕方になって、レグルスが戻ってきた。買い出してきた食料品を棚に仕舞い、手早く夕食の準備を始める。

 外では夕立が降り始めた。最近は、季節としては珍しく雨が多い。

「俺、手伝うこと、ないよな……?」

「わかっているなら休んでいろ」

 朝から昼までごろごろ読書していた俺としては、眺めていて申し訳なくなるような働きぶりだった。だが、あの最中に俺が手を出そうとしても先ず邪魔だ。

 夕食は、野菜と肉を煮込み、香辛料で味付けしたスープに、炙った硬めのパンが添えられていた。

 肉汁の濃厚さに美味い、という言葉を繰り返しながら、スープの皿を干す。

「肉の味に混ぜると、きちんと野菜も食べてくれるんだがな……」

「俺のこと、幼児だと思ってる?」

「幼児だと考えれば、まだ扱いやすいと思っている」

「俺、なんかしたっけ?」

「胸に手を当てて考えろ。思いつかないなら別にいい」

 はあ、とぬるい声を返すと、彼はてきぱきと皿を片付けた。湯を沸かし、お茶を淹れ、切り分けた果物と共に差し出される。

 食後にこうやってゆっくり時間を取る習慣も、彼が来てからのものだ。

「……領主様に星読みの結果を報告し、白亜の塔の建築資料を見せて貰った。建てたのは十年前。まだ、建物としては新しいようだ。直近の、舞踏会の使用予定は五日後の夜。他国からも人を招く、大規模なものであるらしい」

「それは、なんで?」

「領主様の娘の婚約が決まったからだ」

「おお、目出度いな」

 俺の言葉に、またレグルスは苦々しい顔をした。俺はカップに口をつけ、視線を天井に投げる。

 自身の言葉を心中で反復して、ようやく男の表情の意味を悟った。

「その、目出度い会で塔が崩れるんじゃないかって……?」

「そうだ。『星が墜ちる』、という言葉が引っかかっていた。リギア家……リギア、という言葉は、古い言葉で特定の星の名を示す」

「俺、ろくな言葉を読まねえな」

「……まあ、うん……。そこで、領主様に相談して、イオを外に出すことにした」

 一瞬、鼓動が止まったかと思った。

 外に出ることは認められない、と分かっていたからこそ、冗談として気軽に外出を提案した。この牢の外に出るのは、数年ぶりだ。こんな簡単に叶うとは思わなかった。

 目を丸くしている俺の様子に、レグルスは机に両肘を置く。暖かいカップから湯気が立ち上り、大気に消えていった。

「勿論、私が常に付き従うし、逃げ出そうとすれば即座に拘束する。余計な事は考えないように」

「別に逃げたりはしない、けど」

 ふうん、と切り分けられた果実を持ち上げ、囓る。カシ、と果肉は容易く口の中で解れ、果汁が喉を潤した。

 こくん、と口の中のものを飲み込んで、気圧されたまま視線を下げた。

「じゃあ、明日?」

「ああ。明日、塔へと向かおう」

 塔や併設されている館の話を聞いていると、夜はいっそう深くなった。飲み物が無くなった段階で話を切り上げ、風呂の用意に向かう。

 風呂は、魔術装置で温度を上げる仕組みになっている。妖精の声が聞こえないレグルスには、この塔内で魔術装置を動かすことができない。

 この塔は、失われた技術で構成されている。妖精たちが好きな対価を揃え、交渉をして、装置を動かしてもらい日常生活を送る。

 この塔に来てまで、妖精と接することになるとは思わなかった。ふと、育ての親の元にいた時期を思い出す。

 昔も、妖精が当たり前のように近くにいた。

「妖精くん。風呂に湯を張ってほしいんだけど。対価は新作の砂糖菓子だ」

 町に立ち寄った際、レグルスが買い求めてくれたものだ。ひょこひょこと何者かが足元を駆け回る音がする。

『ふたつだ』

『いや、われはひとつでやるぞ』

 二人の間で価格交渉が行われている。必死な声音に、はは、と笑い、それぞれに二つずつ握らせた。

「少しの間、保温も頼みたい。レグルスが入り終わるまで。いいか?」

『『しょうちした』』

 キイ、と装置が動く音がすると、設けられている管から湯が流れ出る。水を運び、温度を上げ、適度な水位に調整する。

 現代で買い求めれば高価な装置になるであろうそれが、かなり昔の技術でも同じ動作をしている。

「大断絶以前の魔術って、どんなもんだったんだろうな」

『おしえてほしいか?』

 少し低い声が聞こえた。知らなくていい事を知ろうとしている、そう脅されているような響きだった。

「高価いのか?」

 あえて、茶化すように言葉を発した。時おり、人ではない存在を相手にしていることを実感する。

『さとうがしが、まちいっぱいにあふれるくらいだ』

 砂糖を固めて細工した菓子だって安いものではない。この菓子を町一杯に溢れるくらい用意するとなると、とんでもない量だ。値段だ。

 ぞっと、寒くもないのに背を震わせる。

「金が足りないな」

『そうか。それなら、こうしょうはふせいりつだ』

 妖精はそう言い残すと、ぽちゃん、と浴槽に波紋を作る。指でも入れて、温度を確かめているのだろうか。

 浴室を出て、レグルスが皿を洗っている厨房まで戻る。

「レグルス。すぐ風呂の用意ができそうだ。先に入るか?」

「いや。竈の掃除が少し残っている。イオが先に入るといい」

 何だかんだで、レグルスには常に一番風呂を譲られている。そうか、と素直に諦めた。彼の前で両手を差し出す。

「ああ、寝間着か。少し待っていろ」

 風呂の用意を催促するような囚人に対し、怒ってもいいはずだが、彼は当然のように服を取りに行ってしまう。

 彼が来てすぐは心理的に荒れていて、何でも叶えてくれる相手に対し、腹いせに何でも頼んだ。食事から始まり、身の回りの世話すべてだ。

 これまでの監視者は、すぐ食べられるような食品だけを、数日に一度、届けるだけだった。だが、彼は俺が痩せぎすな事を指摘し、生活を人らしいものへと近づけた。

 俺が頼めば全て叶えようとされる。怒られるのは、俺の為にならないことだけだ。

「はい。今日も冷えるだろうから、上着も羽織っておくんだぞ」

 持ち上げた腕に、綺麗に洗濯された寝間着が載った。

 彼は、いつまで、どこまで、俺の我が儘を聞いてくれるんだろう。忍び寄った恐怖が、口を動かした。

「…………ありが、とう」

 相手の反応を見ていられず、すぐに踵を返す。駆け去ろうとした脚は、腕を掴まれたことによって動かなくなる。

 恐る恐る振り返ると、目元を染めたレグルスがいた。

「面倒だ、と思ってはいなかったか」

「は? ……なんで」

「いや。私は、イオが心配だっただけだが……鬱陶しいだろう、とは、自覚していて」

 鬱陶しい、と思ったことがないと言えば嘘になるが、全体を見れば概ね感謝している。身体はふっくらして、寝台の上でぎしぎしと痛むことも少なくなった。

 何より、嫌いな物を入れてくること以外、食事は本当に美味しいのだ。

「いや。俺の生活が駄目すぎただけだろ。助かってる、よ……?」

 レグルスの顔を見上げると、やはり目元が赤い気がする。掴まれた腕に込められた力が抜け、指が離れる。

 強く掴まれていた腕は、じん、と痺れていた。

「…………風呂、入ってくる」

「ああ、長風呂しすぎないように」

 脱衣所で服を脱ぎ、身体を洗って風呂に浸かっても、さっきのレグルスの表情が浮かんでくる。

 あんな顔してたっけ、と以前の表情を思い出そうとして、ろくに顔も見ていなかったことを自覚した。

 俺は、レグルスを蔑ろにしすぎていたのだろうか。

「俺、ひどい奴じゃないか?」

 呟いた声が、広い浴室に反響した。

 白い石造りの浴室は、一人で使うには広すぎるほどの造りだ。身体を洗うための場所が設けられ、浴槽は脚を伸ばしても未だ余る。

『なんだ、きゅうに』

 妖精たちはまだ近くにいたらしい。気配を追うと、水面でちゃぽんと音がして、波紋ができた。

 動きを目で追うと、逃げるように次々と波紋ができる。

「レグルスが世話してくれるのが当然、って態度をしてて、嫌だっただろうな、って」

『かんししゃは、たいかがなくとも、はたらくのか』

「……それは。レグルスは領主から給金を貰っているから、対価がない訳じゃない、かな」

『それなら、かじょうではないか』

 俺の世話に対して給金が払われているなら、それ以上、俺が彼に対して礼を言うことは対価が過剰、理解できるような気もするが、何故か釈然としなかった。

 浴槽のへりに腕を置き、窓辺から覗く星空を眺める。

「俺が、お礼、言いたくなっただけ、だし」

『なぜだ?』

 妖精たちは、分からないことを率直に口に出す。人ならば矢継ぎ早の質問は、鬱陶しいだろうと控えてしまう所だが、この存在に人間の感覚は通じない。

 何故、俺は急にレグルスに礼を言いたくなったのだろうか。

「好感を持った……? から?」

『こういをもったのは、せわをしてくれるから、か?』

「う、ん……。俺のことを、考えて、くれるから。ふと、礼を言いたくなって」

 それでいて、見捨てないでほしい、と思っているらしい事を自覚してしまった。

 とん、とん、と妖精が飛び跳ねるたび、水面に新しい模様を描く。魔力が動き、水を温め、流れをつくる。

 身体が温まっていくにつれて、目の前の霧が晴れていくようだった。ばしゃり、と顔に湯を掛ける。

「久しぶりに、優しくしてくれた人、だからかも」

 はは、と苦笑した。

 問題となった星読みから先は、軟禁され、罵るような人しか周囲にはいなかった。過去に監視者だった人たちも、自分のことを読まれたくないからか、最低限の交流しか持とうとはしなかった。

 けれど、レグルスは関わろうとしてくれた。監視者の名前を覚えたのは、初めてだ。

『たいかがたりない、とかんじるなら、たいかをわたすべきだ』

「そう……、だな。礼を言わないの、感じ悪いしな」

 とすん、と濡れた頭に何かが乗った気配がする。

 重みが心地よく、腕に顎を乗せて温かい微睡みに揺られる。あわや眠ってしまうところだったが、『しにたいのか』と頭の上をどこどこ跳ね回られて事なきを得た。

 

 

 寝室は、俺とレグルスで共同だ。

 そもそも、塔に泊まろうとする監視者は初めてだった。監視者として赴任してから、組み立て式の寝台を彼は部屋に持ち込んだ。

『監視対象とわざわざ別の部屋で寝るのか?』

 理解できない、というような響きで言われ、俺は、別に部屋を、という言葉を飲み込んだ。

 今は、元々置いていた俺の寝台が一つ。そして、少し離れた位置にレグルスの寝台がある。

 持ち主の性格を示すように、寝具はきっちり整い、丈夫ながら飾り気のない寝台だった。

「今日は星見はしないんだろう?」

 寝台の端に腰掛け、彼が問うてくる。星読みをする時には、俺は星が出る頃には星見台へ行くからだ。

「ああ、今日はゆっくり寝るよ」

 星の動きを書き取った書類を棚に放り投げ、俺は寝台に潜り込んだ。

 部屋の照明が消え、静かになったところで、風呂で『礼を言おう』と決めたことを思い出す。

 食事が美味しかった。掃除をしてくれて助かった。朝も起こしてくれた。俺の、身体を心配してくれることが、嬉しい。

 ぱしん、と雷でも落ちたかのように巡った思考は、あまりにも慣れないものだ。

「レグルス、あのさ」

「なんだ?」

 まだ起きていたようで、低い声が空気を震わせる。部屋は暗く、星明かりさえも届かない。

 俺と、彼だけがいる。しんとした空気は、ぴんと張った糸に似ていた。

「砂糖菓子。妖精たち、喜んでたよ」

「ああ。風呂に入っていた時、水滴が落ちていないのに、波紋ができることがあった」

 ひっそりと目を丸くする。俺にはとても気づかない事だ。

「妖精は、水面を跳ねるみたいだ。俺が風呂にいるときも、ぴょこぴょこしてた」

「微笑ましいものだな。選んだものが気に入られるのも、有難い」

「美味しそうだったから、俺も食べていい?」

「構わない。また買ってこよう」

 もぞり、と毛布の中に潜って、届かないかもしれない声で呟く。こうやって言い続けていれば、いつか自然に口に出るようになるだろう。

「ありがと」

 闇の向こうで、息を呑む気配がした。

「…………どういたしまして」

 部屋は静まり返る。やがて、相手のものらしい寝息が聞こえてきた。

 どくどくと心臓が煩い。たった一言、礼を言うだけなのに、こんなにも緊張して、気恥ずかしい。

 彼となら、新しい関係を築けるだろうか。この牢に入る前のように、災いを呼ぶ星読師でなく、ただの人間として。

 

 

▽3

 朝くらい、自分の力で起床したかったが、無理だった。

 布団の中で起きたくない、とむにゃむにゃやっていると、いつものように抱え上げられ、食卓に座らされる。

「塔を見に行くんだろう。準備をしないと、見て回る時間が減る」

「ふぁい…………」

 考え事をして寝付けなかった、だなんて、言えばまた怒られること請け合いだ。気取られないよう、いつもより気合いを入れて食事を取った。

 朝食の片付けを終えると、いつの間にか増えていた服を着せられ、ローブを被せられる。俺自身は魔術師と名乗れるほど魔術が上手くはないが、魔術師が纏うローブは丈夫で、汚れても目立たない鼠色が気に入っていた。

 レグルスも肌の出ない服装とブーツ、そして腰に帯刀していた。鞄の他に、背にも弓と矢筒を背負っている。

「イオは馬に乗れるか?」

「ああ。訓練された馬なら、ある程度は」

「良かった。今日は二人乗りの鞍を用意した。負荷軽減の魔術が掛かっているし、イオの重さなら問題ないだろう」

 確かに、大人二人、というのは、それこそ妖精に片足突っ込むような馬でなければ重労働だろう。

 鞍の魔術を確認し、念のため魔力を込めて調整する。リギア家お抱えの魔術師の技だろうか、無駄のない生真面目な術式だった。

 主人が馬を宥めている間に、鐙を履き、鞍へと腰掛ける。穏やかな性格のようで、俺が乗っても動揺する様子はない。

「この馬、大層な修羅場を潜っているんじゃないか」

「ああ。監視者として赴任する前は、前線ではないが、戦場にいたんだ。その時に会った馬で、功績を盾に譲り受けた」

「……監視者を辞めたら。また、戦場に戻るのか?」

 俺の表情があんまりだったのだろうか、レグルスは黙って鞍に跨がった。俺を抱え込むように、手綱を握る。

「大きな怪我をして、領主様から、行き過ぎだと怒られた。目に見える範囲で働くよう厳命されている、これからは隠居生活だ」

 レグルスはそう言うと、馬の様子を確認し、脚を動かす。馬体が歩みを始める。急ぐ予定でもないためか、移動はゆっくりとしたものだ。

 心地のいい揺れを感じながら、周囲を眺める。視界が高い。自分が別物にでもなったみたいだ。

 三重の壁に設けられた扉は、馬が近づくと動作音と共に扉を開く。俺が近づいてもこうはならず、おそらく、レグルスと俺を識別する仕組みが存在している。

 跳ね橋に近付くと、レグルスは指を立て、特定の動きをした。カシャン、と何かが動いた音がして、橋桁が動き始める。

 堀を跨ぐように橋が架かり、扉が開いた。

「これ、俺が覚えたら逃走できるんじゃないか?」

「特定の人でないと無理だ」

「へえ。やっぱり、扉も含め、人を識別する仕組みがあるのか」

 俺がそう言うと、あからさまに背後で迂闊なことを言った、というような空気になる。

「脱走したりしないから、安心してくれよ」

「まあ。うん、その辺りは信用……しているんだがな……、職務上、な」

「はは。余計なこと漏らしたよなぁ。魔術師なんかは、こういうところから情報を拾って、装置の技術を探るんだ。注意しておけよ」

 あぁ、と返事をする声にも覇気がない。

 馬の蹄が橋桁を叩く音を聞きながら、堀に満ちる水面を眺める。

 この堀の隅に湧水場所があり、堀を経由して川となって下流へと流れる。堀、と呼ぶには美しい水面は、陽光を反射して白く光る。

 のんびりと眺め、馬に揺られた。

 しばらく馬を歩かせ、振り返ると、深い森の中でも塔は隠れることなく存在を主張している。

「うちの塔と壁、森の中でも目立つな。人が近づいたりしないのか?」

「近づいたりはしないだろう。立ち入った者は帰ってこない、という噂になっているからな」

「俺がいるからか?」

「…………そうだ」

 レグルスは誤魔化す言葉を考えてみたようだが、思い当たらなかったらしく、素直に肯定した。

 俺が数年おとなしくしている間に、人が語る俺は、怪物のように育ってしまっているようだ。伝承はこうやって、形作られていくのかもしれない。

 僅かに整った獣道を、馬は器用に歩いていく。途中で休憩を挟みつつ、目的地である白亜の塔へと向かった。

 到着したのは昼頃だ。急がなかったとはいえ、往復で一日掛かりである。

「綺麗な塔だなぁ……」

 星見台のあるうちの塔は黒が基調であり、要塞のような面構えをしている。対してこちらの『白亜の塔』は優美で、森の中にひっそりと頭を覗かせていた。

 館に併設された厩舎に連れてきた馬を繋ぎ、新鮮な水と積んできた牧草を与える。馬が休息を取り始めたのを確認して、俺たちは塔へと歩みを進めた。

 塔と、向かって右手にある館は空中廊で繋がれており、行き来ができる造りだ。こんなに近いと、塔が崩れた際には館も巻き込んで崩れかねない。

 館と反対側、向かって左手側には崖だ。地肌が現れており、擁壁などで保護されてもいなかった。

 塔と崖の間には、他よりも低い建物が一つある。

 塔が崖側に倒れてくれるならいい、とも言えない。塔は高く、倒れれば左手側にある建物を押し潰して崖まで届く。

 崖を破壊して落石などが起きれば、逆側にある館にまで被害が広がる恐れがあった。

「こんなとこ、よく建てたな」

 崖の位置と、館と塔が隣接している事を指摘する。彼も頷き返した。

「交易路から立ち寄りやすい立地なんだ。だが、確かにもっと崖から離すべきだったな」

「崖と塔の間にある建物はなんだ? あの建物が一番危なく見える」

「舞踏場……主に舞踏会を行う時に使う会場だ」

 俺の眉が寄ったのが分かったのか、レグルスは肩を竦める。

「イオも、舞踏場が危ない、って言いたいんだろう?」

「塔が倒れて、舞踏場を押し潰して、死人、というのが一番ありえそうな話だ」

「私もそう思った。塔を見に行くか」

 嫌な方向に意見が合った。

 塔に辿り着くと、レグルスが取り出した鍵で、内部へ続く扉を開ける。キイ、と手入れされていない蝶番の音が響くと、埃っぽいにおいが漂う。

 内部は何も無く、屋上の展望台へと続く螺旋階段が存在しているだけだった。

「上がってもいいか?」

「ああ。少し移動に時間が掛かるが」

 きょろきょろと周囲を見渡すが、妖精の気配がしない。新しい建物ではあるが、木材はこの周辺の木々を使用したはずだ。

 それなら、きっと住処としていた妖精が移り住んでいる筈なのだが。

「どうした?」

「いや。ここ、妖精たちがいないなあ……って」

「いるものなのか?」

「これだけ大きな建物なら、いると思ったんだけどな。いたほうが、建物と永く付き合える」

 探すことは諦め、二人して階段を登った。

 確かに展望台までは遠すぎる。登って外を眺めるには向かず、権力の誇示だとか、外観の美しさのために建てたものでは、と邪推する。

 俺がぜいぜい言い始めると、レグルスは背を押してくれた。休憩を挟みつつ、展望台まで登り切る。

 展望台は白い石で出来た床が円状に広がっており、太陽の光を反射して眩しく映る。

「ああ……! しんどかった……!」

 外界を隔てる柵に掴まり、しゃがみ込む。しばらく歩きたくもない。

 レグルスは平然とした様子で柵に手を置くと、外を眺めた。

「近くの町が見える。崖側の展望はあまり良くないな」

「だよなあ。あの崖、頭のとこ木が生えてなくて見栄えが良くない」

 俺は、舞踏場を見下ろした。館とは屋根の色が違っている。外観の雰囲気も、館と見比べるとずいぶん違っていた。

「館の方が落ち着いた造りっていうか。全然、違うんだな」

「そうだな。建築時期は館の方が先で、その後……というか、ここ最近、舞踏場を建てたらしい」

「塔と館は、建てた時期が近い?」

「同時期だ。舞踏場の需要が出来て、後から建て増した形になる」

 ふぅん、と座り込んだまま、二つの建物を見比べる。館、塔への魔力の流れは、まあ普通だ。大きな建物を建てればそう流れる、という『うねり』をしている。

 ただ、あの舞踏場側は明らかに変だ。魔力が滞留して、どこにも行けない。周囲の自然から力が流れないし、溜まった力も流れ出ていかない。

「この塔はおかしくない。妖精たちがいないのは気になるが、まあ、ある話だ。館も同じ。だけど、あの舞踏場、明らかに変だな」

「変?」

「魔力の流れ。館と塔は川なら、あの舞踏場は溜池だ」

「淀みやすい、のか。……舞踏場の鍵も預かっている、入ってみよう」

 すぐに階段へ向かおうとしたレグルスの裾を引く。

 へらり、と笑いつつ、眉を下げた。

「……体力が少ないもんで。休ませてくれ」

「気が利かなくて、すまない。じゃあ、ここで昼食にしよう」

 彼は提げていた鞄から、蓋付きの小籠を取り出す。水筒から蓋に、飲み物が注がれた。

 籠にはパンに切り込みを入れ、色とりどりの具材を挟んだものと、果物が詰めてある。つい、手を合わせてしまった。

「綺麗。そんで、美味そう!」

「良かった。イオを連れ回すことになったから、少しでも体力を取り戻して貰わないとな」

 一番好きな具材が詰まった品が取り分けられ、小皿に移される。干し肉を軽く炙ったものに味付けされた一品だった。

「俺の食の好み。完全に把握してるよな」

「当然だ。そうでもしないと、食べなかったから」

「……どう謝ったら許されるんだろ」

「もう少し太ってくれたら、あの時の苦労もすべて忘れる」

「これでも、ふっくらしたんだけどな」

 服を捲りあげて腹を見せると、レグルスは慌てたように服を掴んで下ろした。

 ぱちぱちと瞬きをして、浮かべていた手を下ろす。

「別に。外だけどいいだろ、レグルスしか見てないんだし」

「私が見ているんだから駄目だ……!」

 ふい、と顔を逸らしてしまった男に、頬を脹らませながらパンを頬張る。

 彼の努力の結果、健康的になった所を見せたかったのに。美味しいはずの料理を、美味しい、と手放しに褒めることもできない。

 お互い、普段よりも静かに昼食は終わった。

「じゃあ、今度こそ行くぞ」

「降りるのも怠いな……」

 ぶつぶつと文句を言いつつ、レグルスの後に続く。

 登りは後ろ、下りは先。俺は彼にとって守るべき存在らしい。不幸ばかりしか読めない不出来な星読師だというのに、彼は、そんな俺でさえ守ってくれる。

 最後の一段を降りると、カツン、と踵が鳴った。

「舞踏場の鍵、ってことは、普段は施錠されている?」

「勿論だ。この敷地内の建物はすべて、鍵を領主様の屋敷で保管している」

「じゃあ、塔が倒れる仕掛けをするとしたら、外からになるのか」

 塔に鍵を掛け、舞踏場の建物へと向かう。

 然程歩くことなく辿り着くと、レグルスが鍵を使った。あまり開かれる場所でもないようで、錠の動きは滑らかではない。

 大きな扉を開くと、やはり埃っぽいにおいがする。

「広いな……! でも、人の出入りは無さそうだ」

 円形の高い天井は白く、側面には窓がいくつも設けられている。側面には美しい図柄が描かれ、今は何もない床は気圧されるほど広い。

 人の出入りが少ない所為か、床には埃が積もっている。俺は一歩、床に足を着け、離した。

 くっきりと靴跡が残る。

「この建物に魔力が滞っている、のは、元々の造りの所為か?」

「だと思う。隣も崖で、魔力が出ていく余地が少ないしな。建てた後、人為的な何かによって、って訳じゃなさそうだ」

 あれ? と違和感を覚えた。ぼそり、ぼそりと何かが鳴っている。

 レグルスの口元に、背伸びをして手を添えた。彼は意図に気づいたのか、押し黙る。

『……… ─── ………』

 やっぱり、妖精の声が鳴っている。塔にはいないのに、こちらには居るのだ。

「ここ、妖精がいる。けど、人と会話するのに慣れてないな。言葉が聞き取れない」

「それは……。聞いた方がいいのか?」

「人が気づいていない、魔力の流れを説明してくれたりするんだ。それに、語りかけてきてる、ってことは、伝えたいことがあるんだろうし」

 腕組みをして、どうしたものか、と悩む。しばらく考えてみたが、よい方法が思い付かなかった。

 塔の妖精たちは人慣れしている。人の波を真似、伝わりやすい言葉の波を知っている。この舞踏場は人の出入りが少なく、会話を学ぶことも難しいだろう。

「取りあえず、中、見てみるか。話が伝わらなくても、言いたいことが分かるかもしれない」

 それからレグルスと二人で建物内を見て回ったが、何かを見つけることはできなかった。帰りの時間を考えると、館を見て回る時間は残らない。

 また翌日に、と課題を先送りすることに決めた。

 舞踏場を出て、厩舎に馬を迎えに行く。すると、馬が三頭に増えていた。

「あれ?」

 遠目からその様子を見た俺が首を傾げると、レグルスは近くに停まっている馬車を指差す。

「あれは、ミネラヴァ……様の馬車だな」

「その言い方……、領主の娘か? 舞踏会で婚約発表をする」

「名前、知らなかったのか?」

「当たり前だろ。リギア家だって最近覚えた」

 レグルスの裾を掴み、歩みを止める。

「隠れた方がいいか?」

「いや、領主様から許可は得ている。後ろ暗い事もないが、一応、挨拶だけはして帰ろうと思うんだが」

「そうだよな。……ええと、俺は馬の近くで待とうか」

「…………ミネラヴァ様は目に見えないものを信じやすいところがある、その方が、良いかもしれないな」

 領主の娘は、俺の事を、不幸を呼ぶ、と信じているらしい。更に会う気が失せた。

 俺は馬に歩み寄ると、その体を撫でる。馬は行きの疲れが取れたのか、軽く足踏みをしていた。

 じゃあ、と別れる算段を立てたところで、背後から声が掛かる。

「レグルス!? …………貴方も調査に?」

 館から、ドレス姿の女性が出てきたところだった。

 春を先取りしたような色味の服に、長い赤毛を綺麗に巻き、編み上げている。まだ成人したばかりだろう、可愛らしい顔には幼さが残っていた。

 あれ、と何か引っかかるものがあったのだが、俺の頭はそれを見つけられはしなかった。

「はい、ミネラヴァ様。先日、……あまり良くない、星読みの結果が出てしまい……そのような事が起こらぬように、と」

 ちらり、ちらりと俺を窺いつつ発せられる言葉に、気にするな、というようにこっそり手を振った。

 良くない結果、不幸な結果を読んだ、のは間違いない。

「助かるわ。わたくしも、何か分からないか、と塔を見に来たの」

 おそらく、俺たちとは入れ違いに塔に入ったようだった。

 彼女の瞳が、俺を捉える。一瞬でおおきな瞳が細められ、睨め付けられた、ような気さえした。

「けれど、何もなかったわ。きっと、この塔の事ではないのでしょう。レグルスも、あまり根を詰めすぎないようにね」

「分かりました。領主様と相談の上、開かれる舞踏会に影響が無いようにいたします」

「ありがとう。……何だか、今日はいつもと違って────」

「では、失礼します」

 失礼なのはこっちだ、と言いたくなるほど、ばっさりとレグルスは言葉を切り、一礼して踵を返した。

 話が終わると、ミネラヴァの瞳はじっとりと俺を捉える。あまり良い感情が向けられているようには思えず、逃げるように馬に跨がった。

 

 

▽4

 夕食を終え、寝る準備を整えると、レグルスは居間にある長椅子に腰掛け、白亜の塔、周辺の建物の資料を眺め始める。

 俺はふと思いついて、作った飲み物を持って彼の隣に座った。

「何の資料?」

 二つ用意したカップの片方を、彼に渡す。

 レグルスは驚いたように目を見開きながら、カップを受け取った。

「これ。中身はなんだ?」

「薬草茶」

 彼はおずおずと口を付ける。酷い味ではなかったようで、大人しく飲み始めた。

 疲労回復作用がある薬草を、薄く煮出したものだ。養い親から教えられた調合と作り方で、味が悪くなりようもない。

「これは、建物の建築材に関する資料を書き写してきたものだ。本来は、白亜の塔が崩れやすい材質なのでは、と思っていたのだが、白い石造りで、すごく脆いかと言われると、そうでもない」

「舞踏場は?」

「そう。そちらが気になっていたのだが、木造だな。特別に、何かある訳でもなかった」

 書き写された文字は、戦いを仕事にしてきた者とは思えないほど整っている。

 言葉も、知識も、領主に仕えているという事実からも、彼は学ぶ術を身に付けている類の人間だと分かる。

 どうして、俺の監視などという、左遷のような仕事をしているのかは未だに疑問だ。

「倒れやすい……けど、舞踏場が倒れたとして、塔には届かないよな」

「ああ。館と違って、天井が高いとはいえ一階部分しかないからな」

 レグルスは書類を放り出し、腕組みを始める。

 ミネラヴァにはああ言ったものの、彼も俺も、塔が倒れない、と信じ切れないのだった。

「やっぱり、舞踏場に住む妖精の話を聞きたいよな。館も、何かあるかもしれないけど」

「妖精、な……。この塔に住む妖精に、彼らの言葉を教えてもらうのはどうだ?」

「……教える、のは大変だろ…………。あ! いや、連れていけばいいんだ!」

 妖精から直接聞こうとするから躓くのであって、通訳してもらえばいい話だった。

 彼らの事を口に出していた所為か、近くにいくつも気配がある。

「妖精くん。ちょっと相談があるんだけど!」

『なんだ?』

 白亜の塔の近くに建物があって、話をしたいが通じなくて、とこれまでの経緯を話す。

 ふむ、と妖精は俺の頭に跳び乗る。声が近くなった。

『さとうがし、ひゃくだ』

「砂糖菓子、百個!? あの菓子、そんなには店に売ってないだろ……!」

 俺が声を上げると、一人だけ話が聞こえていなかったレグルスが何事かと問う。俺が砂糖菓子を百個要求されている、と伝えると、顎に手を当てた。

「店主に相談すれば用意は可能だと思う……、が、イオ。妖精たちは、何を対価とすると喜ばれる?」

「綺麗な宝飾品、織物、陶器、工芸品。それに、甘くて美味しい食べ物。……綺麗で、人の手によって技術が注ぎ込まれた品を、殊更好む」

「綺麗で、甘くて、美味しいお菓子ならもっと少なくて済むか?」

 レグルスの問いに、妖精が間髪入れずに答える。資質のない人間には声が聞こえないと分かっているはずなのに、気が急いたらしい。

『すむ』

「済む、と妖精が言ってる」

「それなら、明日、街に食材を買い出しに行ってくる。大きくて綺麗な焼き菓子を作ろう」

「じゃあ、館は……」

「館にも妖精がいて、重要な情報を持っていたら二度手間になる。明日は、妖精たちへの対価を用意する日としないか?」

「そう。……だな、町を経由して、塔へ行くには時間が足りないし」

 俺たち二人が頷き合うと、頭の上で声がする。

『おいしくなければ、だめだ』

「妖精が、美味しくなきゃ駄目だって」

「そうか、腕によりをかけて作らなければ」

 レグルスは机の上に広げていた資料を片付けると、温くなったカップの中身を飲み干した。

 早く解決しなければ、と急いでいた所に、肩透かしを食らった気分だった。

 だが、妖精からの話を聞かなければ、情報を取り落とす気がする。彼の提案した順序が、適切なはずだ。

「イオは、今日は星読みをするのか?」

「いや。白亜の塔の件で頭がいっぱいで……。あまり、こういう時は読まない方がいいんだ」

「そうか。今日はたくさん移動をしたものな、ゆっくり休んだ方がいい」

 レグルスは俺に上着を羽織らせ、竈の火を落とした。

 二人揃って寝室へ向かうべく、廊下を歩いていると、途中で肩の上に何かが乗った気配がする。

『ほしよみし』

「なんだ?」

 俺が足を止め、声を上げたことで、レグルスがぎょっとしたような顔になる。肩の上を指差した。

 ああ、と納得したように彼も立ち止まる。

『しんだいを、もうつかうな』

「え? 寝台?」

『てきとうにくぎうったものを、つかいすぎてげんかいだ。われる』

「それ、俺の寝台? レグルスの寝台?」

『ほしよみしのだ』

 ええ……、と肩を落とし、大人しく聞いていたレグルスの方を見る。

「なんか、俺の寝台。適当に作ったのを使いすぎて、割れるから使うな、って」

「それは残念だな。良ければ、私が補修をしようか。弱っている板を取り替えて、釘を打ち直せばいいだろう」

「本当か? 助かる!」

 やった、と両手を挙げるが、修理してもらうにしても今日はもう遅い。寝具だけ持って、居間の長椅子で寝るのが妥当だろうか。

 伝えるだけ伝えて満足したらしく、肩から重みが消えた。

「木が割れる、というのも、妖精には分かるのか?」

「あいつらは自然から生まれるから、自然由来の建材の状態変化には敏いんだよ。換気せずに木が黴そうになると、親の敵のように怒られる。まあ、親の敵なんだけど」

 廊下を歩いて寝室に入り、俺は自分の寝台から寝具を拾い上げる。そのまま抱えて部屋を出ようとすると、レグルスに止められた。

「どこへ行くんだ?」

「いや、寝台が使えないから、居間の長椅子で寝ようかと」

「寝るには狭いだろうに」

「けど、床はこの時期、寒くてさ」

 苦笑すると、彼は自分の寝台の毛布を捲ってみせた。

「ここで寝るといい。私が床で寝る、寝具を貸してくれ」

「いや! 俺が適当に寝台を作ったのが悪いんだし、それで変に体重を掛けて駄目にしたんだ。俺の所為だよ」

「仮にイオの所為としても、今日連れ回した相手を狭い場所で寝かせるのは私自身が許せない。私は野宿に慣れているから……」

 しばらくの間、責任が己にあるという俺と、どんな場所ででも寝られるレグルスとの間で意見を交わし合ったが、お互いの主張が譲られることはなかった。

 だが、今日は長時間、移動して疲れている。眠気も襲ってきており、早く決着を付けたかった。

「分かった。レグルスの寝台を貸してくれ」

「分かってくれたのなら良かった」

「その代わり、あんたも一緒に寝ろ。俺はこの通り細い。そのでかい寝台ならいいだろ」

 目の前の男の時間が、かなり長い間、静止した。

 俺の言葉が飲み込めなかったようで、瞬きも少ない。何度もその頭で言葉を繰り返して、呑み込もうとしているようだった。

「一緒に、寝…………?」

「じゃなかったら、俺は長椅子に行く」

「────。そう、だな。イオの大きさなら、いける、か」

 はっきりとしない返事だったが、彼も納得したようだった。俺は寝具を自分の寝台に戻し、枕だけを持ってレグルスの寝台へと入る。

 目いっぱい壁側に近づくと、もうひとり入れるくらいの空間ができた。

「邪魔を、する…………」

「いや、邪魔してるのは俺のほうだろ。大丈夫か?」

 毛布を持ち上げると、おずおずと彼は身体を入れた。

 動きはかちこちで、要らない力が入っているように見える。魔術で照明を消し、真っ暗になった部屋の中で、レグルスの肩に触れた。

「どうした? なんか、変な姿勢になってないか?」

「な、なってはいない……! 大丈夫だ。だから、しっかり休息を取ってくれ……!」

「いや。休息を取った方がいいのは、あんたの方じゃないか」

 いや、その、と口ごもり、やがて彼は黙り込んだ。

 珍しい一面が見られた事を面白く感じ、近づくほど強ばる相手に身を寄せる。

「体温があると、あたたかいな」

「…………そ。そう、だな」

 やっぱり、態度が妙な気がする。風呂に入ったばかりで匂いはしないはずだが。

 寝間着の裾に鼻先を押し当てるが、衣類用にレグルスが使っている石鹸の匂いしかしなかった。

「俺、変な匂いしてる?」

「そんなことはない。…………いい匂いが、い、いや。済まない。……普通の匂いだと思う」

「そうか」

 試すように近寄っても、彼は怒ったりはしない。別にひどい臭いがしている訳ではないようだ。

 何故。なぜ、と気になって、何度も話しかけては、その態度の異様さが気にかかる。その最中、ぽすん、と俺の上に重みが乗った。

『かんししゃを、ねかせてやれ』

 普段は、寝室には入ってこないはずの妖精が、わざわざ入ってきてそう言うのだ。今日のところは好奇心を押し殺して、眠ることにした。

「早く寝たいのにごめん。黙るな」

「あ、ああ……。おやすみ」

 これでいいのか、と布団の上に視線を向けると、ふわり、と重さは軽くなった。そして、部屋から気配が消える。

 寝台が壊れる、と警告した手前、きちんと守っているのか気になったのだろうか。律儀なものだ。

 体温を感じながら眠るのは、養い親の元を離れて以来だ。すぐに眠気が襲い、欠伸をして目を閉じる。

 夢さえみない、穏やかな夜だった。

 

 

▽5

 翌日、レグルスは一人で町に材料の買い出しに行った。外は雨、戻ってきた頃には、外套ごと濡れそぼって、時刻は昼を回っていた。

 昼食として町で売られている料理を俺に買ってきてくれており、珍しい味わいに舌鼓を打った。

 食器の片付けが終わると、レグルスは厨房に立ってお菓子作りを始める。

「何を作るんだ?」

「生地を焼いて、卵を甘く練ったものを敷き詰め、その上に果物を飾って、粉砂糖を振るう。綺麗な菓子、というとこれくらいしか思いつかなくてな」

 彼の手元には、粉や卵、果物などの材料が並んでいた。材料だけ見ても、砂糖菓子百個分の対価、を賄うため、かなりの量だ。

「へえ。いや、思いつくだけでもすごいよ。俺も食べたいな」

「そう思って、多めに買ってきてある。丸い形状のものを四つ分とりあえず作ってみて、足りない時のために、元々提案された砂糖菓子も店頭にあった分だけ買い足しておいた」

「足りそうか?」

 近くに寄ってくる気配を感じ、問いかける。ぽすん、と俺の肩に重みが乗っかった。

『あじしだいだな』

「妖精か?」

「ああ。足りるかどうかは味次第だって言ってる」

 レグルスは笑うと、牛酪と砂糖を取り出した。深皿の中でそれらを木べらで混ぜ、滑らかに整え始める。

 俺の肩に乗っていた重みが消えた。

「あー、なんか。妖精たち、レグルスの手元の近くに行った気がする」

「味見が必要か?」

 レグルスは木べらの先に皿の中身を載せ、妖精がいるであろう空間に差し出す。あっという間に載っていた白っぽい塊が消えた。

 はは、と俺は乾いた笑いを浮かべる。

「ぜんぶ一瞬で消えた。がっつきすぎだろ……」

「まあ、これも対価だ」

 俺が横から振るった粉と卵を混ぜ終えると、一旦、生地を寝かせる必要があるという。

 食材を低温に保つには専用の魔術装置が必要だが、この塔にもその装置が存在する。地下にある巨大な魔術装置で、一部屋分くらいの広さがあった。

 この装置は、常に動かしておく必要があるため、一定の期間、という条件で妖精たちと契約をしている。

「俺が行ってくるよ」

「頼んだ」

 珍しく料理を手伝っているな、と思いながら、地下へ行って生地の入った深皿を装置内部にある棚へと置いた。

 早足で厨房へと戻ると、レグルスは中に入れるために卵を練っている途中だった。

「置いてきた」

「ありがとう」

 やっぱり、礼を言われるのは気持ちがいい。

 ちょうどいい重さで胸が持ち上がって、とくり、とくりと少し早く鼓動する。彼の優しさに、感謝を返すと、こんなに嬉しさが溢れるのものなのだ。

 工程の途中、簡単な仕事を任せて貰う。上手くこなせたり、失敗したりするのだが、彼は褒めはしても、怒ったりはしなかった。ただ、笑うだけだ。

 生地が寝かせ終わるのを待つだけ、という所まで作業を進めると、レグルスから休憩を提案された。

 昨日の薬草茶が飲みたい、と言われ、それでいいのか、と思いながら茶を淹れた。

「なんか、レグルスって。……いいひと、だよな」

 彼を評価する言葉が見当たらず、俺はようやくそれだけを口に出す。

「ようやく分かったのか、……なんて。────私は、いい人ではないよ」

「レグルスがいい人じゃない、って言われたら、俺なんて、どうしたらいいんだよ」

「イオは、善い人だと思うが?」

 彼はカップを傾けて香りを楽しみ、口をつけた。横で妖精たちが、やいのやいの言うものだから、瓶の蓋に茶を少しだけ注いで置く。

 少しずつ、水面が下がっていくのが見えた。

「俺は、不幸な結果しか見ないのに?」

「それ、な。私も、最初はどんな極悪人だろうと思っていたが……」

「なんだと?」

「まあ、聞いてくれ」

 宥められ、俺も自分のカップに口を付ける。よく香りが出ていて、いい味だ。

「私は、流れ着くように傭兵になったんだ。命を懸ける分、実入りが良かった。理由というのなら、それくらいだったと思う。ある時、奇襲を食らって、大怪我を負った。若かったし、手足も失わなかった。長期間の療養の末に復帰したが、その時に治療費を負担してくれたのが、……領主様だった」

 こくり、と突き出た喉が動いて、カップの中身が減る。

「領主は、知り合いだったのか?」

「ああ。亡くなった母の……、古馴染みだったらしい。それから、多少の武術の心得を買われて、屋敷で働くことになった。勉学と雑用を任されて、こなせるようになった所で、イオの監視者となったんだ」

 俺は、彼の姓さえも覚えていない。これまで興味を持たなかったから、彼の経歴を尋ねることもしなかった。

 語られることのなかった過去を話してくれたのは、俺が変化したからだろうか。ちゃぷん、と手元のカップの中で水面が揺れた。

「私は、人の命を奪う術を知っている。誰かが、不幸にも命を落とすことを特別なことだとは思っていない。それは、日常であったからだ」

 両手でカップを握り締め、肩を落としてしまった。彼の声は僅かに震えていて、望んでその場所に身を置いていなかった事が、分かってしまったからだ。

 もし、彼が裕福な家庭に生まれたのなら、傭兵になったのだろうか。

「けれど、イオは誰かが不幸になる星読みの結果を、いつも申し訳なさそうに告げる。大切な物が壊れること、誰かが傷つくこと、誰かの命が失われる未来を悲しんでいる。そして、不幸を避ける為に何かをしようと、今も足掻いてくれている」

「けど、俺は今まで、あんまり不幸を避けられた事は、……無くて」

「ああ。腕の良さは、よく分かっている。だからこそ、それでも足掻こうとする姿が眩しい。誰かが傷つくことを避けようとする、その心の在り方が、美しく思えるんだ」

 そろり、と腕が伸び、俺の頬を撫でた。

 綻んだ口元も、今日は撫で付けられていなくてふんわりとした髪も、長い指先も、絵本から飛び出した王子様みたいに見える。

「これからも、不幸な星読みの結果が出てしまうかもしれない。けれど、私たちは足掻こう。結果に結びつかなかったとしても、二人で乗り越えよう」

 震えている指に、自分の手のひらを重ねる。誰かの肌に肌を重ねると、一人のそれよりもあたたかい。

 己の魔力は、彼の波を心地よく感じていた。

「……レグルスが、協力してくれるなら、頑張るよ。俺は、ここから出られない。俺一人じゃ、何もできないんだ」

 彼が監視者になる前は、星読みの結果、不幸を告げても何をすることもできなかった。ただ、言葉を告げて、その先に何かが起きたはずなのに、知る術もない。

 だが、レグルスは漏れなく領主に報告し、その結果を俺にも伝えてくれる。俺の星読師としての力を、人の社会にとって善きものにしてくれる。

「そうか。……いずれ、イオはここから出るべきだろうな」

「そう……、なのかな。俺には、分からない。俺が引きこもってたら、安心する人が多いのなら、その方がいいのかもしれない」

「いや。外に出て、手伝って欲しいことがあるんだ。イオには黙っていたが、この円状の壁で囲まれた土地を、上手く使えないかと思っている」

「…………は?」

 あまりにも、突拍子もない話だった。

 俺が普段、住処にしている塔から、出入りに使う跳ね橋まではそこそこの距離がある。そして、その距離の分だけ、塔から壁までの範囲、ぐるっと一周分の敷地が、外壁との間には存在する。

 小規模な村が入るくらい、だろうか。今は樹木が生い茂っており、畑として使っている範囲も少ない。

「敷地の内外を出入りできる『監視者』として登録できるのは、一人だけなんだ。識別情報を書き換えれば、前の監視者は出入りできなくなる。イオを見張るのなら、それで十分だ、とずっとその問題は放置されてきたらしい。それを、どうにか出来ないかと考えている」

「なんで、この土地を使いたいんだ?」

「この外壁が理由だ。国境沿いにある土地として、あまりに守りに適している。外の監視をするのに使える塔、地下にある大規模な貯蔵装置、堀には湧き水。元々、籠城戦を想定して作られたのではないか、と思っている」

 全く俺にはない、戦い慣れた人物としての気付きだった。

 ぽかんとしていると、レグルスは安心させるように微笑む。

「まあ、今の時代、この土地から戦は遠い。だが、災害を想定した時にも、こんなに理想的な作りはない。人が住むのにも、良い土地になるはずだ」

「そうか。この土地を……、人が住む土地に」

「イオの星読みの力を使って災いを遠ざけ、この地を起点として栄える土地を作る。そういうことを続けていけば、もう、イオを閉じ込めようとする人なんて居なくなる」

 ようやく、レグルスが俺の星読みの結果を大事に取り扱っていた意図が分かった。彼は、本当に正攻法で、俺をこの土地から解放しようとしていたのだ。

 彼の手が、膝に落ちていた俺の手に重なる。ごつごつとして、所々皮膚が厚くなっている、戦士の掌だった。

「私たちで、自由になろう」

 熱の籠もり方は、愛の告白でも受けているかのようだった。

 こくん、と頷き、そろり、と彼の手を握り返す。言葉が思い浮かばなかった。けれど、つたない言葉のどれよりも、体温の方が雄弁な気がしていた。

「伝えられて、良かった」

 彼は息を長く吐き、置きっぱなしになっていたカップを再度、手に取った。

 もう湯気は薄くなってしまっていたが、心臓は高鳴りっぱなしで、温度は暑いくらいだった。

 

 

▽6

「完成だ」

 作り上げられた品は、赤い果実を詰めた、丸い宝石箱のようだった。おお、と妖精たちと感嘆の声を揃える。

 皿の周囲からは、ぐるぐると出来上がった菓子の周りを走り回っているような音がする。早く食べたい、と言いたげな行動だった。

「ええと、舞踏場に住む妖精との通訳、これだと何個分だ?」

『みっつと、はんぶんだ』

「おい。もしかして四つあるから、って訳じゃないよな!?」

『ようせいは、ねぎりも、ねあげもせぬ』

 風呂場で砂糖菓子を少なく見積もった事を、あまりにも棚上げした台詞だった。

 俺たちの様子を見守っていたレグルスに向き直る。

「三つと半分だそうだ。俺たちが食べる分を差っ引いた、残りをぜんぶ寄越せ、だと」

「まあ、足りたなら良かった。どれくらいの大きさに切り分けようか」

 動き回る足音がして、菓子の端が二カ所囓られる。

 ああ、とレグルスは意図を察したようで、中心からその二カ所に向けてナイフを入れた。切り分けた分を、真っ白い皿に盛ると、香り付けの葉を添える。

 次々と同じ方法で大きさを指示され、全員に行き渡るよう切り分けられた。

「イオ。お前もだ」

 最後に残った一切れは、片方が大きくなるような、不揃いな切り方をされた。大きな方が皿に載せられ、俺のほうへと差し出される。

「俺、小さい方でいいんだが」

「甘いものは好きだろう?」

「好き、だけどさぁ……」

「私は自分で作れるから遠慮するな。紅茶を淹れてくる」

 レグルスの分は、妖精たちのそれよりも小さかった。

 俺がお茶を持ってくるまで待つと、彼は驚いたように目を丸くする。

「先に食べていて良かったのに」

 妖精たちは既にむしゃむしゃと齧っている音がする。音だけでも、美味しいという評価が伝わってくるほどの勢いだった。

『こうちゃもくれ』

「はいはい。レグルス、妖精たち紅茶が欲しいって」

 レグルスがスープ皿に紅茶を注ぐと、ちょうど飲みたかったらしく水面が下がった。

「熱いから、気をつけるんだぞ」

『おそい』

「……? 何か言っているか?」

 彼は指先を不思議そうに持ち上げる。どうやら、指を引っぱたかれたらしい。

「警告が遅いってさ」

「そうか……、妖精は難しいな」

 俺のカップにも紅茶が注がれ、午後はゆっくりと菓子を食べながら時間が過ぎていった。この敷地に閉じ込められてから、初めてといっていいくらい、穏やかで、気持ちのいい時間だった。

 皿が空になると、レグルスは思い出したように言う。

「そういえば、イオの寝台を直さないとな」

 彼の言葉に、妖精たちのうち一人の声が近くなる。

『そとはあめだ。それに、くぎもないぞ』

「レグルス、妖精がもう釘がないって言ってる」

「そうなのか。しまった、町で一緒に買ってくれば良かったな」

 はは、と笑いつつ、皿を一緒に流し台へと運んだ。

 やっぱり対価が払いすぎだったようで、今日の皿洗いは妖精たちが手伝ってくれるらしい。空中に皿が浮き、水が汚れを落としていく様を、興味深く見守った。

「寝台がそのまま、ってことは、今日も一緒に寝ることになるか」

「私は……寝返りも打てたし、暖かくて助かった部分もあったが……」

「はは。実は俺も。じゃあ、今日もお邪魔していいか?」

「構わない」

 笑い合う俺たちの様子を、じい、と見つめる視線を感じる。

 そちらの方を向いても何もないが、おそらく、視線の元は妖精なのだろうと思った。

「なんだ?」

『とりがいる。せきをはずさなければな』

 そう言うと、妖精たちは皿洗いを終え、ぴゃっと気配を消した。あまりにも意味の分からない言動を伝えると、二人揃って首を傾げる。

 午後の残りは、塔に関する資料を読んで過ごすことにした。舞踏場の木材は、周囲の山で穫れる木を使っているらしい。

 近くの山から運んできたのなら、やはり、妖精と話せれば色々と知っていそうだ。

「────そろそろ、夕食にするか」

「今日は俺、なんか手伝おうか」

 お菓子作りに引き続き、手伝いを申し出てみると、野菜の水洗いと皮剥きを頼まれた。熱した石板の上に保管しておいた肉を焼き、味付けした野菜を添える。

 肉自体は凝った味付けではなかったが、高温、かつ短時間で仕上げた肉は美味しかった。以前よりも、レグルスとの食事が和やかというか、俺が彼の料理を褒めると、そこから会話が続く。気がつけば、皿は空っぽになっていた。

 今日は食べすぎたな、と腹をさすり、風呂を沸かしに行こうと立ち上がる。

「風呂か?」

「ああ、沸かしてくる」

 皿洗いをしているレグルスをそのままに行こうとすると、くい、と頭のてっぺんあたりにある髪が引かれた。

 明らかに妖精の仕業であるそれに、大人しく立ち止まる。

『ふたりでふろにはいるなら、たいかをわりびくぞ』

「は!?」

 俺の素っ頓狂な声に、レグルスも手を止め、こちらを見る。

 あ、いや、と取り繕うように声を上げ、妖精がいるあたりを指差す。俺の奇声の理由は無事に伝わった。

「二人で、ってどういうことだよ!」

『ふたりなのに、ひとりずつはいるから、ゆをずっとあたたかくたもたねばならん』

「つってもなぁ……」

 明らかに困ったような表情をしていたのか、説明してくれ、と視線で促された。誤魔化すのを諦め、長く息を吐く。

「俺らが風呂に一人ずつ入るから、保温時間が延びて、妖精たちの仕事時間が延びるのが不満なんだと。一緒に入れ、ってうるさい」

「…………まあ、私は構わないが。その方が対価も少なく済むんじゃないか」

「そうだけどさぁ……」

 鍛えていない身体も、外に出るのを億劫がった生っ白い肌も、進んで見せたいものではなかった。

 だが、彼に言い寄られている訳でもないのに、たかが一緒に風呂に入るだけ、を頑なに拒否するのも感じが悪い。

「わーかったよ。対価は安くしろ」

『さとうがし、ひとつだ』

「つか、散々食っただろ今日!」

『それはそれ。これはこれ』

 人間めいた言葉を発し、妖精たちは対価をちゃっかり受け取ると、風呂を沸かしにぴょんぴょんと跳ねる音を立てていなくなった。

 ったく、もう、と頭を掻き、服が仕舞ってある部屋へと向かう。

「レグルスの服も持って来ようか?」

 皿洗いを切り上げようとした彼の動作を、言葉で制する。きょとんと目を見開くと、それじゃあ、と皿洗いを再開した。

「私が持ち込んだ、右の棚の一番上だ」

「知ってる。いつも見てるし」

「…………」

 無言になったのを不思議に思いながら部屋を出て、二人分の服を回収して戻った。

 俺が居間で少し待つと、やがて、皿洗いが終わった、とレグルスが来て、ふろがわいた、と妖精が報告に来た。

 彼の服を押しつけ、二人で揃って風呂へ向かう。

「そういえば、この風呂はどういった仕組みになっているんだ?」

 脱衣所に入ると、レグルスは躊躇いなく上着を脱ぎ捨てた。盛り上がった胸の筋肉と、いくつかの大きな傷跡が見える。

 肌は適度に焼けており、そういえば外の畑仕事もしてくれていたな、と思い出す。

「堀から水を汲み上げるための管が通っていて、装置を妖精たちが動かして水をここまで運ぶ。風呂場に併設する形で、温度を変えるための装置があって、調節をしつつ、温度を上げてくれるんだ」

「ああ。だから風呂に入っている時、波紋ができるんだな」

 話している間に向こうは服を脱ぎ終わり、俺は流石に迷いすぎか、と上着を脱いだ。レグルスの視線が、向けられているのが分かる。

「なんだよ?」

 睨め付けながら、下の服も脱ぎ落とした。

「いや、……もっと太らせないと、と決意を新たにした」

「今日の菓子は効果があったと思うぞ」

 身体の貧相さを指摘されず、ほっとした。彼を追い越し、風呂場へと入る。ばしゃりと頭から湯を被り、身体中を泡立てた。

 追うように入ってきたレグルスも、同様に身体を洗い始める。ちらり、と視界に入る躰は、どこもかしこも大きい。

「……背中、洗ってやろうか?」

「ああ。いいのか」

 植物を乾かして作った身体用の束子を泡立て、彼の背を擦る。僅かに赤みが出たが、尋ねると心地よい、と返事をされた。

 確かに、少し掻くくらいが気持ちいいもんな、と思いつつ、広い背中を隅から隅まで洗い上げる。

 本当に、身体のつくりが別の生き物みたいだ。

「終わり」

「ありがとう。じゃあ、イオも」

 そうか、逆もか、と慌てて背中を向ける。大きな掌が、肩に掛かった。

 びくん、と身を震わせる。

「どうした?」

「い、いや……。なんでも」

 泡が背中に擦りつけられ、少しだけ力を掛けて背中が洗われていく。

 自分では洗う場所だが、人にやってもらうのは心地が良かった。

 彼と俺の魔力は相性が良いのかもしれない。養い親以外と深い付き合いはして来なかったが、彼との生活はあまりにも違和感がなさすぎる。

 ばしゃ、と背中を流されると、一皮剥けたような心地だった。

「人に洗ってもらうの、いいな」

「私もそう思った」

 示し合わせて、浴槽へと浸かる。ちょうどよい湯加減が全身を包み込んだ。

『ゆかげんは?』

「ちょうどいい……」

 あぁ……、と声を漏らしながら、白い風呂のへりにもたれ掛かる。

 浴槽は広く、二人で入ってもまだ余る。今まではそれぞれで入浴していたが、背中を洗って貰える事といい、対価が安く済むことといい、時間が合う時には、一緒に風呂も悪くない気がした。

「なぁ……、イオ」

「なんだ?」

「また、背中を洗ってくれ」

「いいぞ。俺の背中も洗ってくれるならな」

 裸体を晒して、同じ湯に浸かっても、まったく嫌だとは思わない。それどころか、もっと、親しくなれたような気さえする。

 広く取られている窓、温度で曇った硝子の先では、雨の降る音が響いている。ざあ、と遠くで響く音は、かえって音楽のように心地よく耳を打つ。

「あのさ、俺。ずっと、レグルスに対して感じ悪かったよな、って。思って」

「どうした、急に」

「いや。俺を外に出そうって思ってくれてること、知らなくて。なんかさ、ここに閉じ込められてから先、人間が信用できなくなってた。だから、……レグルスが優しいのをいいことに、八つ当たりしてた、と思う。ごめん」

 視線が、水面から上げられない。

 ぱしゃり、と水音がして、彼の腕が動くのが見えた。大きな掌は、俺の頭にぽすんと乗る。

「捕らえられた人間は、そういうものだ。しかも、罪がない人間なら、尚更だ」

「罪がない人間、って俺のこと、……か?」

「当たり前だ。ただ星読みをして、未来に起きる出来事を当てただけで幽閉する、というのは、私にはとても納得できない」

 低い声は唸るようで、滲み出る怒気が伝わってくる。

 俺を想って、俺の為に怒って、そして、解放しようとしてくれているのだ。もっと早く、態度を改めるべきだった。

 これまでの怠惰な生活が頭を駆け巡って、更に肩が丸まった。

「なあ、俺も、レグルスの力になりたい。外に出たい、からじゃなくて、レグルスがしたいと思ってることを、叶える助けがしたい」

 想いを言葉に出すたびに、輪郭を形作る。

 いつからか零してきたものを、取り戻している気分だ。

「そうか。それなら、困った時には相談しよう」

 頬に熱が上がって、ぼうっと頭がのぼせたようになる。浴槽から出て、段差の作られた部分に腰掛けた。

 僅かに届く風が心地いい。どくり、どくり、と鳴り続けている鼓動は、送られてくる感情は、あまりにも湯の中で抱え込むには熱すぎた。

 

 

▽7

 朝になって、もぞりと身を捩る。目を開けると、端正な顔立ちが間近にあった。

「うぉ……」

 妙な声を上げ、腕を持ち上げようとしたが叶わない。身体に太い腕が巻き付き、やんわりと抱擁されていた。

 目の前で幸せそうに眠っている男は、嫌な夢でもみたのだろうか、それとも、夢の中の恋人とでも間違われているのだろうか。

 後者を考えると、何となくむっとしたような、厭な感覚が胸に宿る。指先だけを動かし、ぺちぺちと頬を叩いた。

「レグルスー。レグルース。朝だぞー」

「もう少し……」

 腰が抱かれ、すり、と身体を擦りつけられる。相手の股間で膨らんだ『それ』ごとだ。

「うぉおう……」

 もう、動揺して妙な声を上げることしかできない。熱を持ったそれが、持ち上がったそれが、太股に擦りつけられる。

 昨日、風呂で視界に入れてしまったご立派なものを思い出し、一人で赤面した。

「レグルス!!」

 大声で叫ぶと、流石に目の前の男も覚醒した。

 ぱちぱちと瞬きをし、自分の腕の先をゆーっくりと辿り、そろそろと放す。俺が彼の股間の方向を指差すと、うわあ、という叫び声と共に、布団を引ったくられる。

「な、なに……!? 私、が……」

「落ち着け。まあ、…………俺、席外すから。えと、ごゆっくり」

「わ、分かった……」

 お互いに気まずさを残しながら俺はその場を去り、廊下にある窓から外を眺めた。すると、普段は空いている止まり木に、鳥がいることに気づく。

 あの止まり木は、人が届ける手紙より急ぎたい連絡の際、鳥でやり取りすることを想定して用意されているものだ。

 外に出て、止まり木にいる鳥に用意してあった餌を与える。鳥が餌を食べている間に、脚に取り付けられている手紙を外した。

「妖精くん。この鳥にちょっと待ってくれるよう伝えて」

『あめだま、ひとつだ』

「後で払う。ちょっと待ってな」

 寝室に駆け戻ると、レグルスがぎょっとした表情でこちらを見た。股間は治まったようで、平常に戻っている。

 俺は受け取った手紙を彼に差し出す。

「これ、鳥が届けてくれた。領主のところの鳥だと思うんだが」

「あ、ああ……。ありがとう」

 彼は手紙にさっと目を通した。

「鳥、待たせてるけど、返事いる?」

「ああ。すぐ書いて渡してくる」

 レグルスは届いた手紙の裏に何事か書き付けると、鳥に括り付けるために寝室から出ていった。

 俺も机の上から飴玉の入った瓶を持ち上げ、その後を追った。

 外に出ると、鳥の脚には返信が括り付けられ、飛び立ったところだった。

「妖精くん。これ、ありがとな」

 飴玉を空中に投げると、ある一定の場所で掻き消える。

『たしかに、うけとった』

 俺はレグルスに歩み寄る。

「連絡、なんだったんだ?」

「ああ。すぐに領主様の屋敷に戻るように、と。悪い。今日は舞踏場を見に行く予定だったが、明日に延ばしてもいいか?」

「ああ。分かった、……気をつけてな」

 何となくそう言いたくなってしまって、言葉を掛ける。ああ、と彼は頷き、準備を整えると早々に家を出て行ってしまった。

 朝食の準備にすら言及されない。本当に急な用だったのだろうか。

「まあ、飯くらい。俺でも……」

 厨房に入り、調理台の前に立ってみたのだが、果たして、何をすればいいのだろう。

 うろうろと歩き回って材料を確認しても、そこから料理に結びつかない。そもそも、レグルスが来る前は、朝食なんてパンと干し肉を齧って生きていたのだ。

 同じようにパンを取り出し、干し肉を皿の上に並べた。

『あまりにも。あんまりだな』

 机に上ってきたらしい妖精には、昨日の菓子作りで余った果物を丸ごと渡しておいた。

 最初は不満そうにしていたが、俺からはこれ以上でてこないと悟ったらしく、しゃりしゃりと音を立て始める。

「不味くは、ないけど。美味くもないなぁ……」

 温かくない食事というものが、こんなに寂しい気持ちになるとは思ってもいなかった。最近は、二人で囲む食卓というものに慣れきっていた。

 彼が仕事でほんの少し、席を外しただけでこうだ。

 黙ったままパンを食べ終え、余った干し肉はそのまま置いておく。

「残りの資料に目を通すか……」

 レグルスは、白亜の塔と周辺の建物に関する資料をそのまま残している。

 妖精と話をするとしても、他に可能性がないか探っておく必要があった。丁寧に頁を捲り、重要だと思う部分は帳面に書き起こして纏める。

 言葉を調べる際に、建築関係の参考資料が欲しくなった。だが、レグルスはもう領主の屋敷へ行ってしまった後だ。

「あぁ……。本の調達、頼んでおけば良かった」

『ちしきがいるのか?』

 ひょこり、と机の上に跳び乗ってきた気配を感じる。最近、ずっと彼らは俺を見守っているらしい。

 一挙手一投足に対して、反応されている気がしていた。

「なあ。こう、建物の建て方、みたいな知識って出せないか?」

 建築の方法によって、弱点がないか追加で調べたいと考えた。だが、妖精からの返事は呆気にとられるものだった。

『しょこに、ほんがある』

「書庫!? どこに!?」

『ちかだ』

 数年間暮らしてきた俺が、全く知らない書庫が存在している。

 目を丸くしつつも、身体から力が抜けてしまった。

「なんで教えてくれないんだ!?」

『きかれてもおらぬのに、なぜおしえねばならぬ』

 妖精の言葉は尤もだったが、がくり、と俺は身体を丸めて頭を抱えた。

 俺が教えてと言わない、という理由で、この塔にはまだ想像もつかない装置が隠れているかもしれない。

「わ、わかった……いいや。書庫に案内してくれ」

『たいかは、さとうがしが、まちいっぱいにあふれるくらいだ』

「はぁ!?」

『しょこはたかい。すべてのちしきがある』

「もしかして、その『砂糖菓子が町いっぱいに溢れるくらい』って、断り文句なのか……!?」

『やっときづいたのか』

 つまり、以前に『大断絶以前の魔術を教えてほしい』と頼んだ時の依頼も、断る、というのが本来の返事であったらしい。

 ああああ、と俺は頭を抱えて、滑稽な悲鳴を上げた。

「じゃ、じゃあ建物の建て方が書いてある本、一冊だけなら……?」

『さとうがし、よんじゅっこだ』

「砂糖菓子がぜんぶ消えた!」

 仕方ない、と諦めながら、昨日、レグルスが念のために、買ってきてくれた砂糖菓子を吐き出す羽目になる。

 蓋を開けて、妖精のいる方向に差し出すと、瞬きの間に菓子は掻き消えた。

 代わりに、ぽすん、と一冊の本が俺の腕の中に落ちてくる。

「ほんとに本が出てきた……!」

『ひとりでよむこと。よみおえたら、へんきゃくするように』

 そう言い残して、妖精の気配は消えた。

 俺は本を開き、目次を眺める。紙の材質が、現在、主流となって使われているものとは違っている。繊維質が多く、表面がざらざらとしていた。

 ならば技術は古いもの、と思ったのだが、完成予想図、として描かれている建物は、どれも今の時代の建物に近しい形状をしていた。

 本を裏返して、奥付を見る。本の製造年の箇所には、大断絶以前の年が刻まれていた。

「大断絶以前の書物……って、砂糖菓子四十個で足りるのか……?」

 あまりにも希少な書物すぎて、捲る指が震える。塔、館、そして舞踏場、似た外観を持つ建物の建造手順を見て、資料に残っている手順と比較をしていく。

 書物の中で重要、と指定されている柱が抜かれている、などの問題は見当たらなかった。つまり、構造的な欠陥が原因で建物が崩れる可能性は低そうだ。

「せっかく持ってきてもらったから、他の頁も見ておくか」

 ぱらぱらと捲っていくと、俺が閉じ込められているこの土地の外壁に似た図が出てくる。外壁には魔術的な障壁が彫り込まれているようで、物理的、魔術的を併せて壁を構成しているらしい。

「こういった技術が、失われてるんだよな……。うちの壁、なんとか調査できないもんか……」

 呟きつつ内容を頭に入れ、更に頁を捲る。

 擁壁、と書かれた頁には、崖の横に新たに壁を作り、崖の側面が崩れた際に、擁壁から先を守る術が書き記されていた。

 この書籍の特筆すべき点は、埋め込むべき魔術が併記されていることだ。この書物を書いた人物は魔術に造詣が深く、多くの建物は物理的な材質に、魔術的な補強を施している。

「魔術だけ、書き取っておくか。あと、うちの壁っぽいやつの魔術も……」

 紙を取り出し、それからはひたすら魔術を書き写した。魔術師としての腕の所為か、大断絶以前のものだからか、一つの魔術を起こすための術式が兎角長い。

 痛む掌を摩りながら、正しく術式を書き写していく。

「後からこれ、短縮化しよ……」

 心に決めるほど、長い術式だった。写し終えて顔を上げると、周囲がすっかり暗くなっていることに気づく。

 あれ、と違和感に気づいて、慌てて照明を点した。

「そっか。いっつもレグルスが点けてくれてたから……」

 音はしなかった筈だ、まだ彼は戻ってきていないらしい。立ち上がって、今朝、鳥が止まっていた木を見に行くが、鳥が来ている様子もない。

 うろうろと部屋を歩き回って、見知った姿がないことを確認した。

「今日、帰ってこない……?」

 事前連絡なしに、彼が丸一日、帰宅しないなんて珍しい。

 夕食も遅らせてみたが、空腹に耐えかねて素のパンを囓り始めるまで、レグルスは帰ってはこなかった。

 寝る準備が整った頃には、もう夜も深くなる。

「……もう、今日は戻らないだろうな」

 寝室に入り、彼が普段使っている寝台に潜り込む。

 今、この寝台の中にはレグルスはいない。いないのに、息を吸い込むと彼の匂いが分かる。

 毛布を引き寄せ、他人の気配に安堵する。見知った気配のする毛布を身体に巻き付け、目を閉じた。

 

 

▽8

 翌日、目を覚ますと、鳥の鳴き声が聞こえてきた。

 身を起こし、窓辺に視線をやる。寝室の中に、俺以外の気配はなかった。寒さに震えながら寝台を出ると、欠伸を噛み殺して居間に向かう。

 予想通り、誰の姿もなかった。

「レグルスがいないと、ほんと、ひとりっぽっちだなぁ。……俺」

 はは、と乾いた笑いを浮かべ、食卓についてパンを囓る。余らせていた干し肉は、表面が乾いてひどい味になっていた。唾液でふやかしながら、腹に納める。

 居間に戻ってきて、積み上げた本に視線をやった。レグルスが数日、帰らないつもりだというのなら、待っているだけの時間が勿体ない。

「妖精くん。きのう借りた本、返すな」

『しょうちした』

 持ち上げた本は、ぱっと空中に消えていった。それと引き換えに、妖精の気配が机の上に乗り上がる。

 このまま調査を続けてもいいが、と一人で悩むことを諦め、話し相手にはなる筈の妖精を手招きして留まらせる。

「なあ、妖精くん。俺さ、舞踏場で妖精の声を聞きたいんだよ。でもほら、レグルスが帰ってこないだろ」

『そうだな』

「かといって、のんびりしてたら、白亜の塔が崩れるかもしれない。特に、領主の娘の婚約を祝した舞踏会とやらは、明日の夜のはずだ。どうしたらいいと思う?」

『どうしたらいいかおしえてほしい、という、いらいか?』

「そっか……妖精相手だとこうなるのか」

 おちおち相談もできやしない。机の端に置き忘れていた飴玉の瓶を引き寄せると、中からひとつ、琥珀色の飴玉を取り出した。

「いくつだ?」

『それだけでいい』

 摘まみ上げた飴玉が空中に持ち上がると、ぱくりと食べるように消えた。

 もごもごと音がする、しばらく食事をのんびりと待つ。

『りょうしゅは、とうをみに、そとにでてもいい、といった』

「でも、あれは。レグルスが監視するなら、って条件で……」

『きいていない。きいていないことは、かなえられない』

「……俺もあんたらと同じように、傍若無人に生きてみたいよ」

『ようせいは、えんりょえしゃく、だ』

 何か言っているような気がするが、妖精が遠慮会釈だなんて、俺も養い親も思いはしないだろう。

 彼らが従っているものは、彼らの理だ。人の理を慮ったりなどしない。

「勝手に外に出ちゃえばいいじゃん、ってことか?」

『なにをなやんでいるのか、ようせいにはわからない』

「そもそも、俺は外に出られないんだって」

『でたいのか?』

「出たいだろ」

 妖精は黙ると、がらがらと飴玉の入った硝子瓶が揺れた。彼らが、報酬を要求するときの行動だ。

 腕組みをして、あれ、と首を傾げる。

「なんで、報酬を払え、って催促するんだ」

『ほしよみしは、かんがよくない』

「はっきり悪いって言え。えー……? 待て、待てよ」

 ああ……! と叫ぶと、妖精は大声を出した俺に抗議をするように、ガラガラと硝子瓶を揺らした。

 悪い、と謝罪を入れ、すう、と息を吸い込む。

「妖精くん。俺は外に出たい! 外に出るための方法を教えてくれ!」

『ようせいはねびきをしない。ねびきをしないが、たまに、けいさんをまちがえることはある』

 硝子瓶の蓋が開き、ざらざらと中身が零れていく。だが、零れていく最中に、次々と飴玉は消えていった。

 硝子瓶が、すっきりと空になる。ゴロゴロゴロ、と飴玉同士が擦れる音が響く。大人しく待っていると、やがて音は止んだ。

『ほしよみしを、このとうのかんりにんとして、とうろくしてやる』

「管理人? レグルスが出入りできたのは、管理人だからか?」

『あちらは、しようしゃ、だ。ひとりしか、ゆるしていない』

 塔の管理人と、使用者はまた別の存在であるらしい。妖精は、とっ、と机から降りる音を立てると、居間の扉が開いた。

『ついてこい』

 足音を頼りに付いていくと、塔の頂上へ行くときに使う小部屋へと通された。俺が何を言うまでもなく、小部屋は釣り上げられ、頂上まで辿り着く。

 だが、小部屋の扉は開かず、代わりに天井で、カコン、と音がした。するすると目の前に縄梯子が下ろされ、その先は天井に開いた小さな扉へと繋がっている。

「えぇ……?」

 気圧されながら、恐るおそる縄梯子を上る。

 扉から頭を出すと、目の前には別の通路が奥に向かって延びていた。明らかに使われていない様子で、埃が積もり、蜘蛛の巣が張っている。

「いつから使ってないんだ……?」

『ずっとだ』

 ととと、と小さな足音がして、瞬きの間に埃と蜘蛛の巣が払われていく。

 綺麗になった先の道は、俺の身長程度の高さはあるが、両手を伸ばせばつっかえるくらいの広さしかなかった。

 ぼう、と吊り下げられていた照明が点る。薄暗い廊下に、一歩踏み出した。

「なんだ、ここ……」

 壁には幾本もの管が通り、見知らぬ釦も多い。奥へ奥へと歩いて行く足音を追うと、最奥には一つの小部屋が存在していた。

 カシャン、と何かが解錠された音を響かせ、ゆっくりと扉が開く。

『ここが、かんりしつ、だ。かんりにんのとうろくは、ここでおこなう』

 前面には、外を映した大画面が存在する。似たものを挙げるとするなら、魔術機の画面と似ている。

 だが、こんなに大規模に、外を監視する画面は見たことがない。

「ここに入れば、外の監視ができるのか?」

『そうだな。ふしんしゃを、とおざけるしくみもある』

 釦を押すと、水を撒いたり、砲弾を飛ばしたりすることもできるらしい。失われた技術、というものが世の中に取り上げられる事は多いが、この装置は最高峰のものだろう。

 操作盤のような装置の中央。金で枠を囲まれた範囲には、人の手形を模した窪みがあった。

『ここに、てをおけ』

 手を押しつけると、ちくり、と人差し指に痛みが走った。ぼとり、ぼとりと血が流れ、枠から広がっている溝を伝っていく。

 流れた分は極少量のはずなのに、血は固まることなく、溝を通って操作盤全体に広がっていった。

『管理人を、登録しました。ようこそ、我々の世界へ』

 人の声に近しい、だが微妙に発音のおかしい声がそう告げる。声音は、妖精たちの発する声に似ていた。

 ぽすん、と肩に重みが乗っかる。

『うまくいったようだな』

「そうだな。……って、え?」

 俺の肩に、ちっこくてまるっとした小さい人が乗っている。輪郭は丸く、子どもみたいだ。帽子を被り、俺の感覚でいえば古い形をした服を着ていた。

 視線が合うと、ちんまい手を振られる。

『よう』

「よう。って……妖精くん、そんな姿してたのか」

『あいらしいであろう』

「まあ、……えと、うん。…………そうだ、外に出たいって話は」

『なんでことばをにごす。まあいい、ここをおせ』

 言われるがままに釦を押すと、レグルスが跳ね橋を動かす時にやっていた、手の動きを解説する図が画面に表示される。

「俺も管理人だから。この動作を真似れば開く、ってことか」

『そうだ』

「よし、舞踏場に……! ……って、俺じゃ、馬動かせないか。それに、馬もない」

『ここをおせ』

 また言われるがままに釦を押すと、今度は画面に古い文字が浮かび上がってくる。今の言葉に直すなら、『自動走行式台車』とでも言うだろうか。

 塔の外で、ガシャン、ガシャン、と何かが動作する音がした。

「何がなんだか分からないが、何がなんだか分からなくてもいいし。時間もないし、準備して出発するか……!」

『いくぞー』

 元来た廊下を通って小部屋に降り、階を下降して、服を準備する。軽い食料と記録用の筆記具、妖精への対価になりそうな天然石を鞄に詰めた。

 普段なら替えの利く菓子類で済ませているのだが、連日力を借りっぱなしで尽きてしまったのだ。

 最後に妖精を服に突っ込み、塔の外へ出た。

「何これ」

『うま、みたいなものだ』

 台車、と訳しただけあって、蓋のない、底の浅い箱状の荷台に車輪が付いている。そして、先頭のあたりには操作用らしい、縦になった棒が付いている。

「これ、動力は?」

『まりょくだ』

 怯えながら荷台に乗り、操作棒を両手で掴む。

『てまえにひけ』

「お、おう」

 言われた通りにすると、車輪が動き始める。試しに操作棒を右に倒すと、車体も右に曲がった。

 速度を落としたいときは逆に奥に倒せばいいらしい。直感的な操作方法には、すぐに慣れた。

 台車を動かし、最も内側にある壁の出入り口に近づく。特に操作をする必要もなく、扉は開いた。

 そのまま残り二つの壁を開け、跳ね橋の動作を指示する動きを手順通りに行う。前回、通った時と同じように、跳ね橋は道を作った。

 台車を操作して、橋を渡る。台車の揺れは大きく、とても心地がよいものではないはずだったが、どくどくと胸が騒いだ。

 ようやく、俺は外に出たのだ。

「よし、行くぞ」

 大きく風が吹く。髪を巻き上げる突風の中、ただ、俺は前だけを見据えていた。

 

 

▽9

 台車は順調に、白亜の塔までの道を走りきった。

 動いているところを通行人に見られてはまずい、と人の気配がする度に台車を止め、休憩することになったが、想像よりも魔力の消費は少なく済んだ。

 俺のような魔術師が、近くを散策する時に使っていたのだろうか。

「妖精くん、人の気配はするか」

 白亜の塔のある敷地に近寄るが、人の気配はない。

『たいかを……ようきゅうするのもぶすいか、しないぞ』

「助かる。後でたくさん払うよ」

 そのまま台車を動かし、敷地へと入った。

 迷いなく舞踏場へと近づくと、荷台から降りる。しんと静まりかえった建物は、どこか物寂しい。

 前に立ち寄った時のように扉へ近付き、鍵を失念していた事に気づく。

「鍵借りて来てない……」

 頭を抱えてしゃがみ込む。折角ここまでたどり着いたのに、これでは無駄足だ。

『かぎなどいらぬ』

「え?」

『よべばよかろう。おぉい』

 妖精がキィン、と鳴るような声を出した。思わず両手で耳を塞ぐ。

 なんだ、ときょろきょろ辺りを見渡すと、扉の下からよじよじと這い出てくる影がある。塔で出会う妖精たちと姿形は似ていたが、こちらの服はぼろぼろだった。

 妖精たちは向かい合うように座ると、ごにょごにょと何事かを話し始める。

『なんのようだ? ときいている』

「ええ、っと、俺は、少し離れた塔で星読みをしていて────」

 これまでの経緯をうちの妖精越しに語る間、舞踏場に住む妖精は真摯に言葉を聞き取っている様子だった。

 俺の話が終わると、今度はあちらが妖精同士で話をする。

『ほしよみし。やはり、くずれる』

「ああ、だから塔が……」

『がけのほうだ』

 妖精たちは揃って、崖のある方をちいさい指で差した。

 俺は、その方向を見る。可能性として考えていたのは、塔が崩れることによる副次的な崩壊だ。

『ぶとうじょうのようせいは、もとはがけのうえの、きにすんでいた。きがたてものになったから、こちらにうつりすんだ』

 それが、自然の中で生まれる妖精たちが人工物に住むようになる理由だ。

 彼らは長く棲んだ木を愛する。木が切り倒され、建物になったとしても、木があるのならそこに移り住む。

『さいきんは、あめがおおい。じばんがゆるんでいる。そして、おおあめがくる』

「土は固そうに見えるけど、それじゃ保たないか?」

『つちをくずれぬよう、からめとるのが、きのねっこだ。ねをぬくと、とたんにもろくなる』

 崖の上方から側面にかけて木はなく、おそらく景色的に醜いと思われたのか、綺麗に根も取り去られていた。

『とうはたおれる。たてものもすべてが、つちにのまれて、だ』

 そこまで聞いて、ようやく舞踏場に住む妖精たちが俺に協力的な理由を察した。

 彼らは、全力で建物を維持し、守る。俺に頼ることもまた、彼らが建物を守りたいと願うからこそ、だ。

 つぶらな瞳は、じっとこちらを見上げている。そろり、と手を伸ばし、額あたりを撫でた。

「この建物を建てた領主が、塔を、館を、そして、舞踏場を守ることを望んでいるんだ。だから、俺はこうやってここに来た」

 撫でられた妖精は、何事かまた話をしている。言葉は分からなかったが、感謝の意を伝えられていることは分かった。

「それで、大雨はいつ?」

 妖精たちの間で、短く声が交わされる。

『あしたのよる、だそうだ』

「舞踏会の日、大当たりかよ……!」

 舞踏会の当日ともなれば、遠方からの参加者が到着し始める。俺がここに来られたのは、本当に滑り込みだった。

 このまま領主の家へ飛び込んで、レグルスを訪ねるか。一度、戻るか。

 妖精は妙な理屈を捏ねていたが、俺はそもそも塔の外に出てはいけないはずだ。外出を咎められれば、もっと悪い境遇に落とされる。

 もしかしたら、レグルスも今日は戻ってくるかもしれない。

「妖精くん、一旦帰るぞ。レグルスが戻ってきてたら、伝えないと」

『わかった』

「……ええと、舞踏場の妖精くん。俺たちは領主と相談して、また来る。少しだけ、待っていてほしい」

 妖精の間で言葉が通訳されると、相手もこくりと頷き、舞踏場へと戻っていった。

 俺たちも自動走行式台車へ乗り込むと、自身が管理人である牢獄へと舞い戻るのだった。

 

 

 舞踏会前日の夜。そして、舞踏会当日の朝になっても、レグルスは戻ってこなかった。

 あれほど星読みの結果を重く見ていた彼が戻ってこないことに、流石に予期せぬ事態が起きていることを悟る。

 朝になり、もう飽きてきたパンを囓りながら、妖精と向かい合う。

「もう、領主の所に乗り込むしかないよな……」

 はあ、と息を吐き、温めただけのお湯を飲んだ。

 妖精は俺の手元からパンの欠片を盗み、咀嚼すると、不味い、とでも言いたげな顔をする。

『ほしよみし、しんだらほねはひろってやろう』

「本当にな……! 領主が話が通じない奴だったら即刻打ち首だぞ!」

 とはいえ、もう舞踏会は今日の夜だ。

 このままレグルスの帰りを待つ、という選択肢は昨日で終わっていた。窓から外を眺めると、朝から雨が降っている。

 昨日の夕方から降り続けている雨は、今日は止むことはなさそうだ。

「もう、考えるのも疲れた。行く」

 服を着替え、雨具を上に羽織った。

 妖精はもぞもぞと足下から服を這い上がり、頭巾の中に収まる。一人がそうすると、今日は二人、三人、と服を登り始めた。

 予期せぬ大所帯で、頭巾は満杯だ。仕方なく鞄を開け、その中に入るよう促した。

 外に出ると、ざあ、と雨が頭を叩いた。自動走行式台車に乗り込み、発進させる。雨であれ、変わらなく動いてくれるのは有難い。

 壁を通り、跳ね橋を渡ると、黒く聳え立つ塔を見上げる。

「帰ってくることを、祈っていてくれ」

 誰に言ったのか分からない言葉は、雨の音に掻き消された。

 台車の操作棒を引くと、カラカラと車輪が回る。

 雨だからか、道路には人っ子一人いない。これ幸いと台車は進み、領主の屋敷の近くへと辿り着いた。

 そろそろ人が増えるだろう場所まで辿り着くと、台車に取っ手を取り付け、引いて歩く。

 ようやく辿り着いた領主の屋敷の塀は高く、先端には槍のような装飾が付いていた。ぐるりと屋敷を囲む塀には切れ目もない。こっそりと忍び込むのは難しそうだ。

「打ち首覚悟で、正面突破か……」

 少し離れた場所で悩んでいると、近くを馬車が通った。水溜まりを通った車輪によって泥水がばらまかれ、頭から水を被る。

「うげ……」

 顔や妖精の入った鞄こそ無事だが、雨具も台車も泥塗れだ。俺が泥を落としていると、少し進んだ先で馬車が停まる。

 中から出てきたのは、傘を差した領主の娘……ミネラヴァだった。雨具を纏ってはいるものの、その可愛らしさは健在だ。泥塗れになっている俺とはえらい違いだった。

 彼女は俺を見つけると、きっ、と眦を釣り上げた。

「『凶星を招く星読師』……なぜ、ここにいるの。────脱走者よ! 捕らえなさい!」

 ミネラヴァの後から続いた男たちに腕を掴まれ、縄のようなもので縛り上げられる。俺は地面に叩き付けられながら、綺麗なままの彼女を見上げた。

 近づいてくるヒールが雨水を踏む。ぴしゃり、と頬に泥が跳ねた。

「どうして、お……監視者無しに、塔から出ているの」

 俺が黙っていると、彼女は護衛らしき男たちに俺を屋敷へ連れて行くよう指示を出す。

 地面から強い力で引き上げられ、歩くよう背を小突かれた。

「なあ、レグルスは何処に……!?」

 俺が『レグルス』と呼んだ瞬間、彼女の瞳に炎が宿った。明らかな敵意に、ぞっと背を伝うものがある。

「貴方の監視者だった人物は、『本人の希望で』職務を外れることになったわ。ご愁傷様」

 すっと彼女の目が眇められる。

 口元を覆う手のひらは白く、汚れなど知らない爪は磨き上げられた宝石のようだった。

「連れて行きなさい」

 また、強い力で背を押される。体格の違う男たちにそうされれば一溜まりもなく、屋敷の裏口へと歩かされた。

 雨具や持ち物を奪われ、辿り着いた先は地下だ。じめじめとした空気は、以前、権力者の死を読んだ後に幽閉された部屋と似ていた。

「領主様から沙汰が下るまで、大人しく待つように」

 縛られていた腕が解かれると、室内に突き飛ばされる。床から起き上がった時には、鉄格子の付いた硬質な扉は、閉じられた後だった。

 周囲を見渡しても、窓一つない。牢ではなく、簡素な小部屋、といった内装だったが、それにしてはあまりにも空っぽ、がらんとしすぎていた。

 木張りの床に座り込むと、手持ちの道具がすべて取り上げられている事を思い知った。自動走行式台車も、妖精たちの入った鞄もだ。

 俺の手元には、今、何もない。試しに魔術を使おうとしてみたが、術式が纏まらずに掻き消えた。妨害魔術が仕込まれているらしい。

 愕然と両手を見下ろす。

 ぼろり、と頬に何かが伝って、それを拭う余裕も、何か確かめる余裕もありはしなかった。

 

 

▽10

 床に座り、自身の脚を抱え込む。

 ミネラヴァは、『レグルスの希望で』監視者としての責務から外れることになった、と言った。嘘だ、と言うことはできなかった。

 もし、あのとき熱を持って語られた言葉が本心ではなく、彼の職務への忠誠心から出た言葉であったなら。浮かんだ可能性を、否定し切ることができなかった。

 妙な夢を見るようになる前、ほんの小さな、ひと一人のちょっとした未来を読んでいたあの頃は、不幸を回避できた、と喜ぶ人たちがいた。

 星読師としての俺を見る眼差しは、まだ、人間を見る目をしていた。

 だが、権力者の死を読んだ時から、周囲は俺を人として見なくなった。噂で語られる化け物としての俺は肥大化し、もう、俺自身にすら制御できぬ存在へと成り果てた。

 たぶん、それから唯一、俺を人間として扱ってくれたのがレグルスだった。責めても、軽口を叩いたとしても、怒って、言葉を返して、人間として扱ってくれた。

「レグルス……」

 ぼとり、ぼとりと目から水が滴り落ちる。地下室であるこの場所には、雨が届かない筈なのに、水音は止まない。

 彼の希望で監視者を辞めるのか、問い糾したくない。是、と答えられてしまったら、今度こそ俺は、人間ではいられなくなる。

 脚を抱える指先は真っ白になって、感覚を失っていた。

「どうせ、いなくなるなら────」

 人としての幸せなんて、思い出させないで欲しかった。

 化け物は化け物のまま、ひっそりと塔の中で、ただ胸を痛めながら、救えぬ不幸を読んでいたかった。

 夜空の中に、人は星を探す。真っ暗な、どこまでも黒く広がる夜空に、人は輝くものを見つけようとする。

 人が希望を絵として描くなら、きっとそれは、何れ墜ちていくであろう星のかたちをしている筈だ。

 今は、暗闇しか見えない。

「────……」

 どれだけの時間が経ったか分からない、手足の感覚が遠くなっていく中で、耳が階段を降りてくる音を拾った。

 しかも、どかどかと蹴るように床を叩く音だ。

 腕を放し、立ち上がる。危害を加えられぬよう、魔術を思い浮かべたところで、ひょっこりと鉄格子の隙間から、ちいさな影が姿を現す。

『よう』

「なん、……、っ、妖精くん……!」

 ぶわ、と目元から涙が溢れ出した。ぴょん、ぴょん、と妖精たちは閉じ込められた扉の中に入ってくると、わらわらと俺に群がる。

 小さな指で涙を掬い取ろうとする姿に、また泣けた。

『おほしさまは、みんなのちかくにいるものだ』

 カシャリ、と扉の外で鍵を回す音がする。

 音に身を竦めると、扉が外から押し開けられた。見知った姿、求めていた姿に、一気に体温が上がった。

「イオ! 無事か!?」

 その声で、俺の目元は決壊した。うわぁああ、と悲鳴だか歓声だか分からない声を上げ、彼の首筋に縋り付く。

 腕の中は温かくて、寝台で感じたそれと同じだった。

 ただ子どものようにわんわんと泣くことしかできない俺を、大きな掌が撫でる。

 泣きすぎてしゃくりあげることしか出来ない身体を、根気強く支え、しっかりとした胸元に押し付ける。

「レグルス! お、おれ……!」

「ああ。妖精たちから話は聞いた。塔が崩れる原因を突き止めて、早く知らせようとしてくれたんだろう?」

 『妖精たちから話は聞いた』その言葉に、はた、と顔を上げる。

「なんで、会話が……?」

「それが、私にも分からないのだが。この子たちが、君のいう妖精だろう?」

 レグルスが指さした先には、確かに妖精がいた。基本的に、人間には妖精が見えない筈だ。

 視線で説明を促すと、妖精たちのうち一人が進み出る。

『とうの、かんりにんは、まりょくのなみをとうろくする』

「どの人間が管理人か、っていうのを、個人の魔力の波形を登録し、読み取って見分けている?」

『そうだ。でも、ほしよみしには、いま、べつのまりょくがまざっている』

「魔力が混ざるって……! 別に、……レグルスとは一緒に寝ただけだぞ!?」

 魔術師にとって魔力が混ざる、最も簡単な手段は粘膜接触、性交だ。

 だから、あいつと魔力が混ざってないか、という問いは、あいつと寝たのか、という意味合いを暗に含んでいる。

 慌てて否定するのだが、レグルスは何が何か分かっていない様子で、妖精たちには、はいはい、と流された。

『ほしよみしは、まざったじょうたいで、かんりにんをとうろくした。よって、かんししゃもまた、とうのかんりにんになった』

「魔力が混ざっていた所為で、管理人を登録する装置がレグルスも管理者であると誤認した。結果、同じく管理人になったレグルスも、妖精たちが見えるようになった」

『そうだ。いちゃいちゃしておいて、たすかったな』

 妖精たちの言葉に、ずっとレグルスの腕の中にいたことに気づく。びくりと身を震わせて腕を放し、慌てて距離を取った。

 彼は俺の身体に傷がないことを確かめ、背を支えて立たせる。渡された鞄は、妖精たちが入っていたものだ。

「手間取って悪かった。領主様には話をしたいと連絡をして、白亜の塔へ行く前に、屋敷に立ち寄ってもらうよう頼んだ。イオも来てくれ。対策を話し合おう」

「分かった」

 部屋を出て、地下室から上階へと向かう階段を登る。ほんの数時間ぶりのはずの地上は、やけに眩しかった。

 大股で廊下を歩く、レグルスの背を追いかける。そういえば、今日の彼の服装は、装飾が多く、布地も分厚い。

 どこぞの貴族のような服装が、やけに似合っていた。

「あんたは、なんで戻ってこなかったんだ……!?」

 脚の長さの違いを埋めるため、息を切らせながら付いていく。ほぼ駆けるように、精一杯、脚を伸ばした。

「ちょうど、決めなければいけない事が溜まっていた。領主様から連絡を受けて帰ったら、い……、ミネラヴァ……様に、留まるよう工作された。事情を相談する手紙も飛ばしたが、握りつぶされたようだな」

「ああ、届いてないな。じゃあ、俺が捕まったのも」

「彼女は、信心深いと言っただろう。お前の星読みを、心から信じている人物のひとりだ。その所為で、私とイオを引き離さねば、と思ったらしい」

 バン、と叩き付けるように扉を開ける。

 扉の先には、白髪の男性が豪奢な椅子に腰掛けていた。服装は舞踏会用の洒落たもので、男性は立ち上がると、俺に視線を向ける。

 この男が、リギア家当主であり、ここ一帯の領主その人のようだ。

「レグルスから概要は聞いている。星読師よ、分かっていること話してくれ」

 俺は建物の構造に問題が見られないこと、舞踏場の妖精と話したこと。舞踏場を建てる際に崖の上の木を切り倒した所為で、その部分には木の根がなく、土砂崩れを起こしやすい状態になっていること。ここ最近は雨が続き、今日の雨がとどめになるであろうことを語った。

 領主は、俺の話を遮ることなく聞き終えると、表情を曇らせた。

「あの崖は、私も目にして気になっていた。そうか。『星が墜ちる』とは、舞踏場が潰れて死者が出る、ということか」

「領主様。まず、白亜の塔に集まっている人々を、脱出させましょう」

「それは、……今はできない。先ほど、塔に通じる馬車の通れる幅の道路が、土砂崩れによって埋まった。雨がまだ落ち着いていた時間に館に入った来賓には、道路が直るまで滞在していただくことになっている」

 馬で白亜の塔へと向かった時に使った、大きな道路のことだろう。あの道路が塞がっているなら、半分獣道のような道しか残っていない。

「ですが……!」

「当たるか、当たらないか分からない星読みの結果を元に、来賓の皆様に、雨が降った暗い道を歩かせることは、……私には選択できないな」

 レグルスが食い下がっても、領主は首を横に振った。

 人を逃がせないのなら、あの崖を崩れなくするか、崩れた土砂を何らかの方法で食い止めるか、だ。

「なあ、妖精くん。もし妖精たちに、対価を積んだら、どこまでできる」

『がけのそくめんに、いしをつむくらいなら』

「強度は足りるか」

『おそらく、たりない』

 妖精は何も言わず鞄に潜ると、水分を吸ってよれた紙を引っ張り出す。

 渡された紙を開くと、以前、建築方法の書かれた本から俺が魔術式を書き写したものだった。

 今日は、本当に彼らは大盤振る舞いだ。言われなくとも、意図が伝わった。

「崖の側面に、妖精くんの力を借りて石を積み、魔術で補強した場合は?」

『…………ためす、かちはある』

 途中、何事かを問おうとした領主は、黙って俺たちの会話を見守っていた。

 二人に向き直ると、あの、と提案を口にする。

「妖精が、対価を積めば、崖の側面に崩落防止のために擁壁……石で出来た壁を建ててくれると言っています。ただ、それだと強度が足りないので、魔術で壁を補強して、土砂崩れを食い止めよう、と」

「領主様。あの、妖精など、絵空事を、と思うかもしれませんが……」

 説明しようとしたレグルスの言葉を、領主は手を上げて制した。

「説明はよい。妖精はいるとも。君からずっと報告を受けていたし……昔、幼い息子が、よく話して聞かせてくれた」

 レグルスは呆然と領主を見つめ、はっと我に返る。

「少し、待っていてくれるか。妖精たちへの対価を用意する」

 彼は部屋を走り出ると、しばらくして、小さな宝石箱を抱えて走り込んできた。蓋を開け、妖精に向けて箱ごと差し出す。

 その箱を見たとき、領主の顔色が変わる。

「その箱は……」

「母の遺品です。私に譲られたものですので、使い方は、────私が決めます」

 箱の中に入り、宝石を確認している妖精たちは、こくん、と頷き合った。

『よいしなだ、たしかに……』

「待ってくれ」

 妖精が箱を受け取ろうとした時、領主の声が割って入った。ふう、と苦笑を浮かべ、俺たちを見ている。

「誰かの遺品は、大切にしたまえ」

「でも、私には、他に対価になるものが……」

「領地の事だ、私が払っても良いだろう。宝石なら、私の方が多く持っている」

 領主は片目をつぶると、執事を呼びつけ、両手に溢れるほどの宝飾品を運んできた。

 妖精たちの了承を得ると、瞬きの間に、その品々は掻き消える。領主は唖然としていたが、憑き物でも落ちたかのように、穏やかな笑みを浮かべた。

『では、ようせいたちは、さきにむかう』

 そう言い残し、妖精たち自身も屋敷から姿を消した。

「屋敷に仕えている魔術師に、補助をお願いできませんか。俺一人より、魔術の強度が上がるので」

「今、屋敷にいるのは、多くても五名ほどだが」

「いないよりいいです。魔術師なら、身体強化魔術を使って白亜の塔へ足で移動もできるでしょう、急いで向かわせて貰えますか」

「分かった」

 領主が指示を出し終えると、俺たちも白亜の塔へと向かう準備を整える。

 雨具を身に付け、屋敷の外へ出る。捕まった時に持っていた台車を、と言うと、領主を経由しての言葉だったこともあり、すぐに手配された。

 雨に打たれながら、レグルスが台車を見て怪訝な表情を浮かべる。

「なんだ、これは……?」

「『自動走行式台車』だ」

「だから、それがなんだ、と……」

「乗ってくれ」

 二人でいっぱいになる荷台に乗ると、俺は操作棒を目いっぱい手前に引く。屋敷の綺麗に整えられている土を跳ね上げながら、台車は動き始めた。

 俺たちの姿を、馬に乗る領主が見送る。

「星読師! あとは頼む!」

 操作棒を掴んだまま、片手を挙げた。

 目の前には何も見えない、暗い景色だけが広がっている。

 この雨音の中でもはっきりと通る声を背に、俺たちは暗い雨空の下を走り出した。

 

 

▽11

 白亜の塔までの道は、細く、荒れた道しか残っていない。俺が操作に手こずっていると、途中でレグルスが操作棒を握った。

 魔術師でなくとも動作するらしい台車は、良い操舵手を得て、木々を掻き分け、全力疾走をする馬と見まごう速度で進んでいく。

「レグルス……! 壊すなよ!」

「任せろ!」

 ギュル、と車輪が泥道を掻いた。僅かに車体を浮き上がらせながら、速度を落とさずに曲がりきる。

 浮いた車体は足で踏みつけて水平に均した。さっき、身体が浮いた気がする。

 光も少ない夜の道を、ただ覚えている道順だけを頼りに、駆けに駆けた。

「塔が見えたぞ!」

 あれ、と俺は目を擦る。見間違いか、と雨水を払っても、同じ景色が見えた。

 壁の側面。崖の頂上とまったく同じ高さまで、擁壁が聳え立っている。おそらく石を積み上げたものであろうが、継ぎ目が全く見えなかった。

 あの造りを、俺は知っている。俺が住んでいる塔の側面も、同じような組み方で作られていた。では、あの黒い塔は、元は人と妖精たちの手によって造られたのか。

 舞踏場の間近まで台車を走らせる。連絡が届いたのか、舞踏会は開かれてはいなかった。だが、館には照明が光っている。

 石壁を見上げる。近くで見ても、どう組み上げれば、と疑いたくなるほど、素晴らしい出来だった。

『ぶとうじょうの、ようせいたちも、かせいした。いいできだ』

「助かった。あとは、魔術を発動させれば……」

 だが、まだ屋敷の魔術師たちが応援に来る様子はない。俺たちは先に着いたが、あの悪路だ。あの台車の速度が異様だった。

 待てるのか。待って、大丈夫なのか。俺の迷いを読んだかのように、妖精が声を上げる。

『くるぞ』

 

 

 ザァ、と雨脚が強くなった。桶から水をひっくり返したような雨が、頭を叩く。もう、土砂が崩れる雨量としては、十分すぎる。

 遠くから、土の動く嫌な音がする。俺は加勢を諦め、術式の詠唱を始める。

「────牛の革を重ね、複ね、累ね。最後に青銅を当てる。輪郭は壁。我らを隔てる、高き壁』

 ず、ず、と崖の頂上が滑る。一撃めが、石壁に激突した。

 ぱらぱらと小さな石が降ってくる。あの、石壁が崩れたら、俺たちもろとも呑まれる。

「…………!」

 続け様に、二撃めが石壁を叩いた。

 崩れてもいないのに、泣き言を言いそうになって歯を食いしばる。まだ、壁は耐えている。

「『汝は十三人目の客である。木造りの馬は赦さぬ、たったの一穴さえも許さぬ』」

 三撃、四撃。轟音が響くたびに、心臓が竦み上がる。

 呪文を放り出して、逃げ出したら間に合うのだろうか。そうしたら、レグルスだけでも助けられるのだろうか。

 救いを求めるように、傍らに立つ人へ視線を向ける。何で、このひとは、いま此処に、こんなにも危険な場所にいるのだろうか。

 冷たくなった指先が、温かい掌に包まれた。境界を崩すと、親しみを感じる魔力が流れ込んでくる。

 唇の震えが止まった。もう、逃げようもないのだ。

「『邪なる眼は汝を睨む。決して』……────ッ!」

 一人で大量の土砂を止める、という規模の魔術に、供給があっても力が抜けていく。崩れ落ちそうな足を踏みしめ。また、唇を開く。

 ぎりりと噛んだ口内には、鉄の味がした。

『ご。そして、ろく』

 五撃、六撃。土砂が叩き付ける音が、大地すらも震わせる。

 耳元に、うわん、と人のものではない響きが届く。右肩には見知った妖精が乗り、そして、左肩には舞踏場で見た、あの妖精が乗った。

『ようせいは、いちをしらぬ』

『かさね』

『まだ、かさね』

『もっと、かさね』

 響く声は、歌に似ている。黙って聞き入りたくなる声は、人を海へ招く水妖のようだ。

 うっすらと薄く羽衣のような、魔術とは外れた何かが、石壁を覆った。

 宝飾品を与えた見返りは、石壁を作るだけだ、と彼らは言った。魔術的な伴唱、詠唱者の増幅は、契約外の、妖精からの温情だ。そして、自分の住処への愛情だ。

 するり、と空いている方の手で、舞踏場に住んでいた妖精の頬を撫でる。

「『一から進んで、我は七を超える!』 決して、この盾は砕かせない────!!」

 術式の完成と共に、土の動く音が止んだ。

 残った魔力を注ぎ込み、壁への魔術を完成させる。ふらり、とよろめいた俺の身体を、レグルスが受け止めた。

 今までの雨が嘘のように、空も静寂を取り戻す。

『……まじゅつし、きたぞ』

 背後から足音がする。

 レグルスと話している内容からすると、屋敷に仕えている魔術師たちのようだ。意識を失いそうになりながら、出来上がっている魔術の補強を頼んだ。

 新しく、大きな魔力が石壁を強化していく。もう、どれだけ崩れても大丈夫だ、という程に術式が重ね掛けされるまで、俺は意識との境へ必死に縋り付いていた。

「レグルス!」

 領主の声がした。レグルスは俺を支えたまま、これまでの経緯を説明する。

 来賓に怪我はないようだ、という領主の言葉が聞こえた。ほう、と胸をなで下ろす。

「無茶をする。星読師も、君も」

「いえ。私は、何もできませんでした。土砂崩れの被害が出なかったのは、イオの功績です」

 俺を最初に動かしたのは、レグルスだ。

 この塔へ引き入れたのも、大量の書物を集め、調べ続けていたのも。だが、もう声を上げることさえも辛かった。

 二人は、これからの対応について話し合う。その終わりごろ、領主が口調を変えた。

「────レグルス。やはり、私は、君に領地の運営に携わってほしい」

「ですが……!」

「君の母は、聡明な女性だった。私が与えた宝石を、大切に保管して、すべてを君に与えるような。そして、君もそうだ。舞踏会が行われ、多くの死者が出ていたら、私は失脚していたはずだ」

 土砂が動く音は、完全に止んだままだ。魔術師たちは、今も魔術式で補強を続けている。

 複数人の魔力の気配があり、もう、これ以上の被害は出ないだろう。俺の星読みの結果は、すべて回避されたのだ。

「……頼りない父親だと思うかもしれないが。私は、これから君の支えが欲しい」

 声を抑えて告げられた言葉が、くっきりと輪郭を持って浮かび上がった。

 領主が、父親。レグルスは、領主の息子なのか。

 おそらく、母は、愛人だったのだろう。ミネラヴァが俺を遠ざけようとした理由が理解できた気がした。

 異母兄が、『凶星を招く星読師』なんかと付き合いがあったら、それは、引き離しに掛かる。監視者としての仕事も、大怪我の後の、様子見のつもりだったのだろう。

 いっそ、笑い出したくて仕方がなかった。同じ夢を抱けても、あまりにも立場が違う。

「……父上。私、は…………いえ。今は、そんな場合ではない────」

 二人が、来賓の避難の算段を立てるのを耳にしつつ、意識の崖から手を離す。

 妖精たちが、呼びかける声が聞こえる。少しくらい寝かせてくれ、と伸びてくるその指先を払った。

 

 

▽12

 目を覚ますと、窓の外は晴天だった。

 鳥が穏やかに鳴き、雨の降る音はもうしない。名残のように頭の中で鳴る雨音を、かぶりを振って払った。

 眠らされていたのは、俺が寝るにしては大きすぎる寝台だ。隣に、誰かの気配はなかった。

『おきたか』

『ぶとうじょうは、ぶじだったぞ』

『ひとのこも、ぶじだった』

 身を起こすと、ちょろちょろと扉の外から妖精たちが駆け寄ってくる。肩に乗ったり、頭に乗ったり、膝の上を跳ね回ったりと、俺が大人しいからといって好き勝手している。

 誰にも被害がなかった、という結果にほっと息を吐く。

「俺の星読み、久し振りに外れたなぁ……!」

 自分の能力不足、という結果なのに、久しぶりに清々しい気分だ。

 伸びをしていると、寝室の扉が大きく開いた。

「イオ……! 起きたか。あまりにも眠っているものだから、心配した」

「はは。多分、魔力不足だと思う」

「そうか。妖精たちもそう言ってはいたのだが、本当に、良かった……!」

 寝台に乗り上がったレグルスが、両手を広げ、俺の身体を抱き竦めた。

 俺は固まり、ただ、瞬きを繰り返す。腕は優しく、だがしっかりと、腰に回り、離れることを許さない。

「……心配、かけちゃったみたいだな」

「いや。私が勝手にしたことだ」

 レグルスは俺の身体を放すと、寝台の端に腰掛け、俺が気絶した後のことを話し出す。

 あれから、作られた擁壁を魔術で補強しながら夜を明かし、平行して夜通しで大道路の方の土砂崩れの復旧を行った。

 翌日、道が元通りになった朝には、屋敷へと来賓達を避難させ、詫びともてなしをした上で、帰宅の運びとなったそうだ。

 俺は丸一日寝こけて起きず、昨日の夜、レグルスが俺を塔に連れ帰ったらしい。

「────崖の上の植林はもちろん必要だが、出来上がった壁は建造物としても、魔術としても出来のいい物のようで、長期的に改修を加えて利用すべき、との話になった」

「あれ、俺の魔術はあんまり良くないけど、妖精たちが張り切って伴唱してたからな。植林が進めば、舞踏場の魔力も壁を媒介に植林した樹木へ流れ、魔力の停滞も解ける。いい土地になると思うよ」

 失われた技術を目いっぱい使った、俺の力というには勿体ない出来栄えだ。

 もし、そのまま活用してくれるなら、舞踏場に住む妖精たちも安心して過ごせるだろう。

「あと、ミネラヴァ……異母妹が、父上に絞られたようで、後日お詫びを、と言っている。まあ、受けるも受けないも、任せるが」

 レグルスの眉が寄り、身体からは怒気が滲み出る。

 解決を急いでいた時に拘束された彼はお怒りなのだろうが、俺は行き過ぎた噂が呼んだ、事故みたいなもの、という感覚だ。

 それに、もう全て解決した。とっくに下がる溜飲も残っていない。

「本人が望むなら受けるよ」

 レグルスの肩を叩くと、彼は渋々、というように頷いた。

 この様子では謝罪を受けるにしても、時間をおいた方が平穏に終わるかもしれない。

「あんた……領主の息子だったんだな」

「ああ。とはいえ、知らされたのは最近で、ずっと母一人、子一人の貧しい暮らしだった。母が死んで、傭兵をしてまで稼いで金を送る必要もなくなったがな」

 領主の下で、息子として働くのか、そう問いかけたかったが、唇がうまく動かなかった。話に区切りが付くと、レグルスは寝台から立ち上がる。

 伸ばされた手のひらを取ると、そのまま起き上がらされた。

「イオが起きたら食べさせようと、たくさん料理の下拵えをしておいた。腹も減っているだろう。すぐに用意する」

「おお。祝賀会だな」

 食卓へ向かうと、言葉通り、すぐに机の上には大量の料理が並べられた。

 机の端には小さな敷布に、これまた小さな座布団が乗せられている。首を傾げていると、わらわらと妖精たちが集まり、それぞれの席に座った。

 端っこの方には、舞踏場で見た妖精の姿もある。手を振って示すと、俺に対して何か言い、ぺこりと頭を下げた。

「舞踏場の妖精も呼んでくれたのか?」

 鍋を持ってきたレグルスに問いかけると、彼は配膳をしながら答える。

「本来は、石壁を作るところまでが契約だっただろう。対価を、と話をしたら、料理が食べたいと言うもので」

『いつも、ほしよみしばかり、ずるい』

『でも、ようせいはまねかれぬと、たべられぬ』

「折角なら、あの時に働いてくれた全員連れてこられないか、と相談したら、呼んでくれた」

「助かる。俺も、思ったより働かせたの、気になってたんだよ」

 食卓の準備が整うと、最後に酒瓶がどんと置かれた。

 俺の前にグラスが置かれ、とくりとくりと泡立つ黄金色の酒が注がれる。妖精たちにも、底の浅い容器に酒が注がれた。

 レグルスはグラスを持ち上げ、俺に向けて掲げる。

「乾杯!」

「『『かんぱーい!』』」

 最も大きな牛肉の塊を切り分け、口元に運ぶ。味付けは凝ったものではなかったが、肉の質がいいのだろう、嚙み締めると肉汁を垂らしながらほぐれる。

 パンは温められ、上から溶かした牛酪がたっぷりと掛かっている。半分に割ると、ほくりと湯気が上がった。

「妖精くん。パン美味いぞ」

『ようせいはまだたべていない』

『『おかわり』』

「はいはい。少し待て」

 客たちの注文があまりにも多いが、レグルスは慣れたように厨房と食卓を行き来しては、料理を追加する。

 俺は酒のグラスをくっと喉に流し込む。しゅわしゅわとした炭酸が喉を流れ、滑り落ちていった。かっと頬が熱くなる。

 このまま頭がぼうっとなって、未来の事なんて全て忘れてしまいたかった。

『ほしよみし』

「なんだ?」

『なつかしい、こうけいよなあ』

「…………人間と妖精が、こうやって、宴をすることがか?」

 妖精は、ふふん、と満足げに笑うと、酒の入った器に頭を突っ込んだ。ごきゅりごきゅりと喉が鳴り、酒は消えてなくなる。

 俺が器に注ぎ足すと、また満足そうに飲み進めた。明らかに、妖精の容量より多く飲んでいる。

「妖精は、底のない枠だな」

「沢山買ってきた筈だが、私の飲む分がどんどん消えていく」

 レグルスは快活に笑い、妖精たちの望むままに飲ませていく。炭で焼いた大きな肉、じっくりと煮込まれた野菜、大きな卵焼きと、揚げた芋。

 そして最後に、以前作った菓子が、まるまる四つ運ばれてきた。妖精たちは大喝采である。元々飲めや歌え、という気分だったのに、あの美味しかった菓子まで運ばれてきてしまった。

 満腹になった、おそらく古よりの偉大であろう存在たちは、用意された敷布の上にごろりと横になって眠りはじめる。

 俺は残った料理をつつきながら、ようやく仕事が落ち着いたレグルスと杯をぶつけた。

「お疲れ様。もう、対価としては十分だろう」

「そうか。良かった。昔の文献に、妖精は対価を与えないと消えてしまう、という記述があって、心配になってな」

 過剰と思われる食事と酒、そして菓子は、仕事をしすぎてしまった妖精たちを慮るものであったらしい。

 だが、彼らの生態を知っている俺は、首を傾げる。

「対価を払わないと、腹を立てて家出する、ってだけだと思う」

「消えないのか?」

「こいつらの力の源は、世界だからなあ。消える……消えるかなあ……?」

 肩を竦めてみせると、レグルスはほっとしたように息を吐いた。ゆっくりと酒を味わい、鈍くなった舌で塩辛い料理を摘まむ。

 隣からは、すぴすぴと満足げな寝息が届いていた。

「なあ……領主が言っていた、ことだけど」

「ああ。監視者としての役目を外れて、正式に父上の元で働かないかと打診された」

 駆け引きのない、誤魔化すつもりのない言葉が、今は胸を引っ掻く。

 彼の美点だと分かっていても、もう少し、優しい嘘が欲しかった。

「…………行くのか?」

「未練が無さそうに、背中を押さないでくれ。────まだ、悩んでいる」

 そうか、と呟き、話を終わらせる。未練は大ありだが、あるように見えないのは助かった。

 拘束されていた日のこと、彼の異母妹のこと、塔の管理人のこと。そして、無事何事もなく、助けられた人たちのこと。

 取り留めのない、掛け替えのない時間を、なんでもない事のように話をしながら過ごした。

 傾けた酒瓶から、滴が落ちる。あれだけあった酒は、すべて無くなってしまった。

「お開きだな」

 机から立ち上がると、酔いが回ってぐらりと身体が傾ぐ。倒れようとした俺を支えたレグルスは、そのまま抱え上げた。

 居間の長椅子に寝かされ、毛布を掛けられる。

「悪い。片付け……」

「慣れている。それに、功労者はゆっくり休むべきだ」

 微睡んでいると、指先が前髪を払った。反応を返さず、深く息を繰り返していると、額に柔らかいものが触れる。

 彼が、何の意図でそうしたのか。夢なのか、現実なのかも分からない。ただ目を閉じ、暗闇を見続け、やがて眠気に負けた。

 

 

 数日の間、レグルスは変わりなく塔で過ごした。俺は、いつ居なくなるのかと怯えながら、表面上は変わりない日常を演じた。

 同じ寝台で寝起きして、ふと、怖くなる。明日、目覚めて、彼はそこにいるんだろうか。

 その日は、珍しく俺の方が先に起きた。絡みついている腕を持ち上げて身を起こし、目元を擦る。そして、ぱしぱしと隣で寝ている男の身体を叩いて起床させた。

「……おはよう」

「はよ。寒い…………」

 レグルスはすぐに起き上がると、羽織るための上着を持ってきてくれた。服を羽織らされ、揃って寝室から出る。

 なんだか、恋人だか、伴侶にでもなったみたいだ。硝子に映った自分たちを見て、もし本当にそうであったのなら、彼は出て行かないだろうに、と詮無いことを考えた。

 ふと、窓の外に見慣れぬ影を見つける。止まり木の上には、以前、連絡を持ってきた鳥がいた。

「なあ、レグルス。あれ、領主様からの連絡じゃないか」

 俺の指さした先を見たレグルスは、僅かに目を見開く。二人で外に出ると、鳥は確かに以前、手紙を届けた個体と同じだった。

 俺が鳥に餌をやっている間に、彼は手紙に目を通す。

「土砂崩れの件で、経緯の説明に俺に来てほしいそうだ」

「説明? 誰に」

「国から調査団が来ているらしい。周辺の地域でも大雨の被害が多く、白亜の塔と周辺の建物はどうやって被害を免れたか、話が聞きたいと」

「そうか。自動走行式台車は要るか?」

 茶化して尋ねると、彼はつられて笑った。

「いや。馬がいるからいい。準備をしたら、すぐに出る」

 宣言通り、レグルスはすぐに支度を調え、馬に跨がって出て行ってしまった。

 俺は欠伸を噛み殺すと、食事を準備せねば、と厨房に立つ。近寄ってきた妖精たちは、厨房にいるのが俺であることに、あからさまにがっかりした顔をする。

『かんししゃではないのか』

「レグルスがつまみ食いさせてくれるからって甘えすぎだ」

『しっけいな。そうじをてつだう、たいかであるぞ』

 妖精たちとレグルスの間には、なんらかの契約関係が成立しているらしい。そういえば、彼もまた塔の管理人であり、会話が交わせるようになれば、交渉もできるのだ

 ぴょこん、といつの間にか肩に乗ってくる。

『ぱんをやいてくれ。それで、あの、きいろくてあまいのをかけてくれ』

「牛酪を溶かして掛けるやつ? まぁ……それくらいなら。その代わり、風呂掃除してくれよ」

『まかされよ』

 交渉が済むと、パンを焼き、上から牛酪を軽く溶かしてかける。牛乳を温めると、少しだけ砂糖を溶かして横に置いた。

 パンを要求してきたのは一人だけだったが、何故か食べる段階になると人数が増えている。結局、何個もパンを焼かされる羽目になった。

「疲れた……。レグルスの存在の有り難さが身に染みる」

 帰ったら礼を言おう。そして、もっと手伝いを増やそう。

 決心してぴかぴかに磨き上げた部屋に、レグルスはその日、帰ることはなかった。

 

 

▽13

 たった一日帰らないだけなら、と思っていた翌日も、レグルスは帰宅しなかった。帰ってきたら、何の連絡もなしに外泊することの同居人の不安を切々と語って聞かせたい。

 そう決心して、一人だけの寝台の中で肩を丸めた。

「……帰って、きたらな」

 たった一日、されど一日だ。その日は、久しぶりに星読みをしよう、と日中はすべて星読みの準備に充てた。

 周囲の魔力の流れは、先日の大雨によって少しだけ質を変えていた。所持していた記録を書き換え、帳面を閉じる。夕方までは仮眠を取った。

 夕方になり、またわいわいと夕食を食べる間も、帰宅する者は誰もいなかった。食事を終えて服を着込み、星座盤を抱えて居間を出る。

 移動用の小部屋に入ると、妖精は黙って指を二つ立てた。飴玉を渡し、装置が屋上へと辿り着いた所で、はっと立場の変化に気づく。

「あれ? 俺が管理人なら、使い方を覚えれば動かせるのか?」

『しごとをうばったら、でていくぞ』

『だれが、ぴかぴかにふろのそうじをするんだ』

『ようせいから、おかしをうばうな』

 やいやいと耳元で喚かれ、両耳を塞ぎながら屋上へと出た。

 別に仕事を奪うつもりはなかったのだが、成程、対価を与えないと妖精が家出をする、というのはこういう事らしい。

 周囲は暗く、月明かりだけが唯一の光源だ。

 すう、と吸い込む空気は、微少な氷の粒でも吸い込んでいるようだ。呼吸をする度に、人が温度を持っている事を知る。

 見上げると、大量の星が瞬いていた。

 人が遙か太古という時代から、ともすれば変わらないかもしれない光だ。人は営みの基準を、星に求めた。

 屋上に刻まれた方角を確認し、屋上の中央に立つ。石畳の床に敷布を広げ、その上にどかりと座った。

 水筒に入れてきた薬草茶をその蓋に注ぎ、星を見上げながら、ずっ、と啜る。

「綺麗だなぁ……」

 紺色へ青みがかかった幕に、白い光がぽつり、ぽつりと浮かぶ。

 普段は人の社会に属している自分が、全く世俗から切り離されたような気分になる。半円型の世界には、俺と天体だけがある。

「仕事、するかぁ……」

 帳面を広げ、星の位置を書き写していく。吉星、凶星、瞬き、動き、巡る魔力の流れ。そして、人。

 膨大な記録を取り、過去の記録と比較する。そうしてやっと、想定通りではないもの、が表に浮かび上がってくる。

 今日の星は、かなり未来の話をしているようだ。

「『日出ずる地 ───塔 ────── 国──となる』……? 白亜の塔のことか? 塔の近くが、何か変わる?」

 確かに、白亜の塔には近くに石壁ができ、安全な地へと変化した。少し先の話であれば、あの地が、何か特筆すべき変化を起こすこともあるだろう。

 それにしても、今日の星読みの結果はあまりにも曖昧だ。久しぶりとはいえ、腕が落ちたのだろうか。

『ほしよみし』

「なんだ?」

 妖精がよじよじと太股の上に乗っかってくる。

 熱い薬草茶を冷まし、その口元に運んだ。大人しく香りを吸い込み、妖精は一杯分を飲み干してしまう。

『ほしよみは、こいのみらいは、よめないのか』

「ああ、まあ。昔はやってたけどなあ、恋関係の星読み。今は、読む相手もいないし……誰と誰を読めばいいんだ?」

『ほしよみしと、かんししゃ、だ』

 水筒の蓋に口を付けていなくて良かった。驚きのあまり、噴き出してしまうところだった。

 空になった蓋を床に取り落とし、な、な、と言葉にならない声を上げる。

『かていはだいじ。だが、あまりにもじれったいのでな』

「は!? なんで、恋……?」

 妖精は腕を組むと、首を傾げた。

『ようせいも、たすけぶねをだしたのだぞ。しんだいをこわれた、といってみたり』

「な……! 壊れてないのかよ!」

『あたりまえだ。へたにくぎうったって、きはとまる。あと、ふろにふたりで、はいらせてみたり』

「あれも故意なのかよ!?」

『こい、のための、こい、だ』

「やかましい!」

 妖精を両手で掴んで、前後に振る。他に何もしてないだろうな、と凄むと、ほかにはない、と返された。

 はあ、を息を吐きながら、妖精を解放する。

「何で、そんなことをしたんだ」

『ほしよみしが、こいをするめ、をしていたからだ』

「してない」

『してた。で、ほしよみはしないのか』

 目の前に散らばっている道具を見つめる。

 レグルスのことは、大体のことは知っている。恋の結果を星読みで調べることもできるだろうが、それでも、手をつける気にはなれなかった。

「しねえよ! 『両思い』を読んでこっぴどく振られてもみろ! 俺は向こう十年は引き摺るね!」

『まあ、そうだろうな』

 しれっと言う妖精をまた振り回してやろうかと思ったが、体の小さい存在に無体を働くのは気が引ける。

 舌打ちをして、そのまま放置した。

『すきになったか?』

「分かるか! ここ数年で、唯一まともに話した相手だぞ!? 友愛と恋愛を混同してても見分けが付かねえよ!」

『ああ。それで、なやんでいたのか』

 心の内を、言い当てられたようだった。彼へのこの強すぎる不安と、恐れと、ぐちゃぐちゃになったその他に、俺は人付き合いが少なすぎて、名前を付けられない。

 名前を付けて、愛を告げたとして、相手に誤解だと笑い飛ばされたら、心が砕けてしまう。

 何も見えない暗闇で、必死に、必死に考えて名前を付けたのに。俺と、彼の感情に付ける名前が違うというなら。

 こんなに多く星が輝く夜空で、彼と同じ星は指差せない。

「こんなに、一人に、執着しているのがこわい。レグルスが、俺無しの人生を勝手に歩んでいくのがこわい。…………怖いよ」

『ほんとうに、てのかかる』

 特に方針を決める訳でもない妖精は、頭によじ登って、つむじの当たりをぽんぽんと叩く。

 膝を抱え込んで、ぶわりと浮かんでくるものを擦り付ける。小さな手のひらは、もういい、と言うまで飽きることなく頭を撫で続けていた。

 

 

 翌朝、隣に誰の姿もなかったことに、長く息を吐いた。

 仕方がないことだ。彼は、俺以外に沢山の選択肢を持っている。

 塔の中だけでしか過ごせず、星を読むことしかできない。こんな痩せっぽちの男を選ばなくとも、もっと、相応しい人がいる。

 そう思い知ると、逆に胸がすっきりした。窓を開け、寝室に朝方の風を入れる。ひんやりしすぎているきらいはあるが、概ね、心地よかった。

「妖精くん、朝飯は何にしようか」

『うしのにくをやこう』

「朝からぁ……?」

 やいのやいのと算段を立てていると、跳ね橋が動く音がする。あれ、と慌てて上着を羽織り、肩に乗っかってくる妖精と共に外へ出る。

 ちょうど二頭の馬が、壁にある扉をくぐった所だった。

「レグルス……、と。領主様……?」

 二人は厩舎まで馬を走らせ、人だけになって戻ってくる。

 寝間着に上着だけを羽織った格好を、恥じても、もう遅かった。へらり、と笑って、敵意がないことだけを伝える。

 一応、領主は俺を捕らえる上での責任者のはずだ。

「数日ぶりだな、星読師」

「領主様が、なぜ……?」

「おや。レグルスが文を飛ばすと言っていたが……」

「はい。確かに、文を飛ばし、鳥は戻ってきたのですが」

 レグルスに視線を向けられるが、俺は真横に首を振る。

 不思議そうな顔をする彼の様子からは、嘘の気配は見えない。

 ちょいちょい、と頬をつつかれ、真横を見ると、妖精が自身を指していた。口を動かさなくとも分かる。『ようせいがやりました』だ。

「す……、みません。塔に住んでいる妖精が、悪戯をして……手紙を隠していたみたいで」

「はは。力を貸してくれたと思ったら、悪戯か。気まぐれなものだな」

 領主は笑って許してくれたが、俺は背を丸め、ひやひやするばかりだった。

 昨晩の星見台での言動を思い出すに、俺があまりにも妖精たちの思い通りに動かず、発破を掛けたかったのだろう。

 戻ってこないレグルスを想い、悩みに悩んだあの日々は何だったのだろうか。こっそりと拳を握りしめる。

「では、改めて。息子に領地の運営に携わってほしい、と頼んだところ、領地の運営に携わること自体は引き受けて貰えたのだが、息子にはこの地でやりたいことがある、と言われてな」

「やりたい、こと……?」

「イオには以前話しただろう。この塔がある敷地を、防衛拠点、および災害時の対策拠点として、人が住む土地にしたい、と」

 あの時の言葉は、本心から、そして、実行するつもりでいたらしい。驚きに目を見開いていると、領主は塔を見上げた。

「この塔がある敷地は、私もずっと持て余していた。何せ、この敷地に入れたのは、素養のある囚人と、監視者が一人だけ。しかも、監視者の引き継ぎ方法は口伝え、という有様だった」

 俺がこの塔に幽閉されることが決まった時、この敷地に入れなければ、別の場所へと幽閉されることになっていた。

 連れてこられた時に跳ね橋を動かしたのは当時の監視者で、ずっと俺はそれらの動かし方を知らなかった。

「だが、息子は自分が塔の管理人となった、と言う。そして、素養のある囚人や監視者以外に、立ち入る人間を増やすこともできるようになった、と」

「妖精が教えたのか?」

「ああ。一度くらいは、父上にこの場所を見てもらいたい、と思っていた。妖精たちに、人をこの敷地に入れてもいいか、と尋ね、教えてもらったんだ」

 俺が知らないうちに、妖精たちとの間ではこの塔、および壁で囲まれた敷地の活用方法の相談が進んでいたらしい。

 妖精に向けて眉を寄せると、なにもしりません、というように視線を逸らされる。

「私は、三重になった壁の向こうを見るのは初めてだ。案内をしてもらえるかな?」

「は、はい。……喜んで」

 人を見分けて降りる跳ね橋。高くて厚い三重の壁。綺麗な水が湧く壁の周囲の堀。レグルスが整えている畑。塔の内部にある地下保管庫。昇降用の小部屋と、そして屋上。

 最初はびくつきながら説明をしていたが、適度な相槌と、適切な質問が飛んでくることで、会話と案内に慣れていく。

 領主は特に、堀と壁、地下の保管庫に食いついており、息子と気になるところが同じなのだな、と感慨深く思った。

 そして、星見台のある屋上へと上がった時、領主はらしくない、少年のような声を上げる。

「ここは、────眺めが良いなぁ!」

 領地が見渡せるこの屋上を、彼はたいそう気に入ったようだった。

 柵に手を掛け、乗り出すように周囲を眺める。領主と出会った時、浮かんだ違和感の答えをようやく得る。子どものような表情をすると、二人の顔立ちは似過ぎていた。

「私はね、高いところが好きで。白亜の塔も、建てたいと言ったのは私なんだ」

「登りたくて、建てたんですか?」

「いい眺めだっただろう」

「はい。……うちの塔も、負けてはいませんが」

 にんまりと笑う領主に、同じ表情を返す。

 背後で見守るレグルスは、眉を下げて目を細める。

「この塔には、名前はないのかい?」

「名前……」

『こくようのとう、とむかしは、いっていた』

 尋ねるより先に、肩の上から声が聞こえる。

 食い気味の答えは、ずっと聞いてほしかった、とでも言いたげだ。数年住んでも塔に興味を抱かない住人だった所為で、寂しい思いをさせたようだ。

「『黒曜の塔』と昔は呼んでいた、と妖精が言っています」

「ああ、綺麗な石の名だ。今は壁面も色褪せているが、以前はそれこそ、『黒曜』と呼ぶような色をしていたんだろう」

 領主の言葉を聞いて、妖精たちが嬉しそうに口元を緩ませる。

 頬を指の背で撫でてやると、鬱陶しそうに押しのけられた。

「レグルス」

「はい、父上」

 向かい合う親子の間を、暖かくなった風が過ぎていった。陽が雲の切れ間を抜け、いっそう強い日差しが目を貫く。

「土砂崩れの被害を最小限に留めた功績により、星読師イオの幽閉を解く。この塔に、囚人はいない。その上で、レグルス、そしてイオ。両名に、この塔の管理人としての任を与える」

 レグルスと顔を見合わせ、頷き合った。

「喜んで、拝命いたします」

「この塔、およびこの周囲の敷地を、領地にとって有用なものとなるよう努めるように。まあ、急ぎはしない。のんびりやりたまえ」

「はい」

 領主は、たまに領地運営の仕事をレグルスに頼みたい、と話をしたが、彼の拠点としてはこの塔のまま、変わりないようだった。

 一通りの話を終えると、領主は白くなった髪を気持ちよさそうに風に靡かせる。

「此処で、いつも星見をしているのかい?」

「そうです」

「そうか。この場所なら、────何でも見通せてしまいそうだ」

 しばらく周囲の景色を楽しみ、次の仕事の時間が、と名残惜しそうに屋上から降りた。今度は夜に来たい、と領主は言い、社交辞令なのかと思いつつも、暖かくして来るよう伝えた。

 帰りもレグルスが送っていくようで、厩舎から馬を二頭連れにいく。馬が来るまでの間、領主と二人きりになったのだが、この機を待っていたかのように、声を掛けられた。

「屋敷にいる間に、レグルスに縁談を勧めてみたのだが」

「え……!? あ、そ、貴族ですもんね……?」

 明らかにしどろもどろになってしまった事を恥じつつ、なんとか返事をする。

 だが、俺の態度を見た領主は、予想通り、というように意地悪い笑みを浮かべた。

「屋敷を継ぐつもりはなく、貴族として生きるつもりもないので必要ない、と断られてしまった。それと、心に決めている人がいるそうだ」

「…………そう、ですか。……領主様は、それでいいんですか?」

 心に決めた人、という言葉に心折られそうになりながら、反射のように言葉を紡ぐ。

 大きな掌が、肩に乗った。励ますように、力強く叩かれる。

「仕方ない。好みの人間を追ってしまうのは、血なのだろうしな」

「はぁ……?」

「私は、レグルスの母親をずっと一人にさせてしまった。宝石を持たせても、売って生活費に充ててもくれなかった。寂しさから一緒に働いてほしいと望んだが、息子は、もう進むべき道を決めている。なら、親としてはもう、それでいい、と言うくらいしか、してやれることがないんだ」

 瞳には、何かを伝えようとする含みがあった。その意味を捉える前に、真横から声が掛かる。

「お待たせしました! 父上、行きましょう」

「ああ。……では、イオ。天体観測の約束、楽しみにしている」

 領主はそう言い残すと、馬に跨がって、レグルスと共に壁の向こう側へと進み出てしまった。二人を見送り、息を吐く。

 つい管理人を引き受けてしまったが、心に決めた人がいるレグルスと、これから上手くやっていけるんだろうか。

 彼を独占したいという気持ちが零れないよう、必死で蓋をする。胸元を握り締め、しばらくその場に立ち尽くした。

 

 

▽14(完)

 レグルスは、大量の食材と共に夕方には帰ってきた。

 妖精たちに手紙を渡さなかった文句を言い、新しい任を得た祝賀会、とまた美味しそうな料理を仕上げてくれた。

 けれど、俺はすべてが膜の外にあるような気分だった。

 どう接すれば友人でいられるのか、彼に強い感情を抱いていることが、どうすれば伝わらないかだけを、必死で考え続けていた。

「イオ。今日は、食が進まなかったみたいだな。また明日、余った食材で違う料理を作ろう」

「うん。なんか、領主も来て、びっくりしすぎたのかもな」

 はは、と声だけで笑ってみせても、表情を作れているのか分からない。微睡みのように現実を見られないまま、俺は寝るまでの準備を整えた。

 レグルスと寝室に向かい、同じ寝台に入る前に、伝えなければいけなかったことを思い出す。

「あのさ、レグルス。妖精が俺の寝台が壊れそうだ、って言ってたの。あれ、嘘だったらしくてさ……なんか、悪戯でそう言ってたみたい。ずっと一緒に寝てもらって、悪かったな」

「…………そう、なのか」

 文句を言われるが、笑い飛ばされるかだと思っていたが、寂しそうに眉を下げられたのは予想外だった。

 俺は、もう寝る、と言えずに立ち尽くす。

「ずっと壊れたままだったら、良かったのにな」

「…………っ、お、俺。そんなに温かかったか?」

 レグルスは俺を見つめ、ゆっくりと首を横に振った。力の抜けた指先が、彼の指先に囚われる。

 彼は身を屈めると、俺の頬に唇を当てる。

「ひとつ、謝罪をさせてくれ」

「なん……ッ! なん、だ」

 突拍子もない行動に、その場でたたらを踏む。

「魔力が混ざっていたのは、私のせいだ」

「は?」

「イオが寝ている隙に、唇を盗んだ」

「………………は?」

 怒りも何もなく、ただ、困惑だけがあった。

 ぽかんとして見つめ返す俺に、レグルスは背を丸くする。身を縮め、沙汰を待つように俺の次の言葉を待っている。

「え、と。……嫌がらせ?」

「そんな訳があるか……!」

 半分悲鳴のような声に、俺の方が驚いてしまう。

 腕が引かれ、身体ごと抱き寄せられる。ぎゅう、と締め付ける腕は、僅かに震えていた。

 どくり、どくりと二人の間で胸が音を立てる。

「私は、イオに、懸想していて。……その、少し、だけなら、と。欲が。だが、決して、それ以上はしていない」

「けそう、とは……?」

「好きだ、ということだ……!!」

 妖精に『かんがよくない』と言われたことを思い出した。

 俺は腕の中で動きを止め、ただ固まることしか出来ずにいた。塔の管理人の話と、レグルスに心に決めた人がいるという話と、今の告白で、もう頭は容量を超えている。

「ま、待ってくれ……。領主は、レグルスには心に決めた人がいて、縁談を断ったと……」

「イオ以外と、縁談をするつもりはなかった。そもそも、他の貴族家と結婚しても、私の血筋が問題になるだけだ」

 ようやく、妖精たちが暗躍していた理由を思い知る。

 彼らは、俺がレグルスに執着していた様子も、そしてレグルスが俺に恋心を抱いていた様子も、両方を知っていたのだ。

 それはそれは、『じれったい』光景だっただろう。

「……レグルス、俺は数年程、この塔を出ることなく生活をしてきた」

「ああ」

「人付き合いも、ほとんどレグルスとだけだ。俺は、……重い感情をレグルスに抱いているが、それを、恋情だと断言できない」

「私を、そこまで好きではない、ということか?」

「とても、好きだ。……好き、なんだが、そもそも、俺の人間関係があんただけなのが問題なんだ。あんたと同じ好き、を返せている自信がない」

 不安を吐き出しきって、彼の肩に額を当てる。

 あまりにも自分が不甲斐なかったが、それも、伝えることができて胸が軽くなった。言葉を選ぶように間が空いて、心地のよい声が耳に流れ込んでくる。

「広い世界で生きていたって、同じ気持ちとは限らない。相手のことが好きで、他の誰よりも独占したい。その対象が、お互いであれるのなら、私は、気持ちが違っていてもいい」

 彼の顔が傾いだ。近づいてくる、とわかった。

 唇が重なるように顔を動かし、瞼を閉じる。柔らかいものが、唇に当たった。

「嫌、ではなかったか?」

「……ん。やっぱ、俺たち、魔力の相性。いい……ン」

 近づいてきた唇が、また覆い被さる。ちゅう、ちゅう、と何度も唇に吸い付かれて、舐められた。

 言葉を発しようと唇を開けると、それをいいことに舌が滑り込んでくる。潜り込んだ舌先は口蓋を舐め、舌の裏をなぞる。

 彼は腕の中で震える体を逃げぬよう抱きしめ、口内を貪る。

「ん、む……ンう……ッ!」

 基本的に、身体の造りが違う。食べられている、と思った。

 唇が離れた瞬間、間に手のひらを差し挟む。は、は、と息を吐いて、真っ赤になった顔のまま、相手を見返した。

「……きゅ、……急、だろ…………!」

 俺の言葉に、レグルスは目を見開く。

 初めてその種類の動物を見たような、新鮮な驚きを伝える表情だった。

「そうか。急だったな」

 腕がするりと腰に巻き付き、身体を上方向に持ち上げる。

 額、頬、と触れる笑んだ唇は、また柔らかく俺の唇と重なった。

 急だ、と意見を伝えたのは何だったのだろう。腕の中でくたりとなるまで翻弄される。

「……おれ、レグルスのこと。きらいかもしれない…………」

 腕の中、魂の抜けたような表情で告げても、愉快そうな表情を浮かべられるばかりだ。

 身体が離れると、腕を引かれ、ずっと二人で寝ていた寝台へと導かれる。気持ちを伝え合ったのだし、もう、分かれて眠ることもないのだ。

 そう思って大人しく寝台に腰掛けると、隣に座ったレグルスに両肩を掴まれ、首筋に唇が落ちる。日焼けしていない真っ新な肌に、赤い痕が散った。

「急だって、言っただろ……!」

「お前はどうせ、十年後もそう言ってる」

「そ、……うかもしれないけど!」

「だったら、十年先も今も同じだ」

 指先が、服の裾に掛かった。

 持ち上げられた服は、頭や、腕から容易く引き抜かれる。服の下の身体は、日の光を知らない色をしていて、寒さで、つん、と胸の先が持ち上がっていた。

 視線は寝台の表面を這い、うまく顔が上げられない。

「魔術が使える俺が、受け入れたら楽だけど。……そうなると、あんたに勃ててもらわなきゃ出来ないぞ」

「余裕だ。触ってもいいか」

 視線が、じとりと上半身を這いまわる。どこに、こんな感情を隠していたのだろう。

 ぞく、と心地いい痺れが背を伝う。

「こんな躰で、いいなら」

 伸びてきた手の平が、首筋に触れた。少し冷たい体温は、皮膚を確かめるようにゆっくりと首を撫でる。

 擽るような触れ方は、身体の中にある、ぞわぞわを増やしていく。

「イオ」

 呼ばれて、彼の元へと躙り寄る。近づいてきた唇が、首筋を舐めた。相手の肩に腕を置き、びくり、びくりと身体を震わせる。

 痛みこそなかったが、薄い皮膚に歯が押し当てられる感触は、怯えと共に違う感覚を連れてきた。

「ン……っ、く……ふぁ……!」

 開いた唇が、胸の突起を食む。濡れた感触がねっとりと敏感な部分に吸い付き、ちゅう、と吸われると、色を変えて、じん、と痺れた。

 自分の躰が、他人の手によって作り替えられていく。

「ンん……! ふ、ぁ……うあ」

 炎色の髪に、指を埋める。気持ちよさに乱れて髪を掻き回すと、火花が散るように色が舞った。

 綺麗な男が、必死に貧相な身体を貪っている。俺を相手に、欲望を抱いている。

「なぁ、そろそろ……ッ!」

 やっと男の唇から解放されたそこは、ただの性器に成り果てていた。濡れて、ぽってりと膨らみを持っている。

 唇は名残惜しそうに、胸の中央に口付けた。

「イオを太らせた甲斐があった。柔らかい」

 腹部の肉を摘まみながら言う声は、とても満足げだ。さらり、と腰を撫でる指は、どこかねちっこい。

 太らせて抱き心地を良くしようとした訳ではないだろうが、結果的に、触っても痛いほどには骨が浮き出なくなった。

「すけべ」

「目の前に好きな人の裸があったら、触りたくもなる」

 手が下の服に掛かった。前を寛げ、下着を持ち上げて半身を引き摺り出す。

 風呂で見たご立派なものとは比較されたくもない、興味深そうに見ている視線がいたたまれなかった。

「な、……なんだよ…………!」

「愛おしいな、と」

「罵っていいか!?」

 何かを思い出したように、レグルスは寝台を下りて鞄を拾った。

 中から出てきたのは、軟膏を保管するような瓶だ。寝台に戻ってくると、彼はその瓶を持ち上げ、揺らしてみせる。

「買って、渡すのを忘れていた。植物を調合したもので、本来は、肌に潤いを与える為のものだ」

「折角の贈り物を、まぐわいに使うのは気が引けるんだが」

「まぐわいにも使えるかと思って買ってきたから、本来の用途だ」

「やっぱり罵っていいか!」

 蓋を開けると、中身には透明で、ねとねとした液体が入っていた。太い指先は中身を掬うと、露わになった俺の局部に中身を落とす。

 掌が茎を掴むと、上下に動かす。造りをよく知っているが故に、最初から容赦なく責め立てられた。

「ひっ……ぁ。うあ……、そこばっか……ぁ、あッ!」

 自分で慰めるなら手加減してしまう場所も、厚い皮膚が掠めていく。

 何度も弱い場所を往復され、とどめに鈴口を擦り上げられた。こぷ、と雫を垂らし、男の手からの刺激を待ち侘びて赤くなる。

 絶頂が近いことを悟られたのか、指先はそっと離れた。

「意地悪……!」

「自覚はある。だが、まだ先があるからな」

 両手が下の服を掴み、そのまま後ろに転がされる。

 何がなんだか分からないままでいると、脚から下着ごと服が引き抜かれた。露わになった股の間を隠そうと脚を動かすが、上手いこと間に陣取られる。

「み、見るなよ!」

「見ずにどうやってするんだ」

「ま、待て! 近づくな! ……魔術、準備するの、使うから…………」

 ぼそぼそと呟くと、意味がわからない、というようにレグルスは眉を寄せる。

「だから、あんたが突っ込みやすくなるように。魔術で、身体ん中、整えたり……そういう魔術があって……」

「ほう」

 相手が何かを考えている間に、必死で思い出した呪文を紡ぐ。

 男同士で繋がる場所を、清めて、濡らして、内部を保護する。自らの手で、相手を受け入れる準備をする。羞恥心で、耳まで真っ赤になった。

「ど、どうぞ……?」

 手間取った所為で、疼く身体は更に悪化していた。媚薬でも仕込まれたかのように、掻き回されたくて堪らない。

 瓶の中の液体を股に垂らし、なすりつけて濡れた指が背後に回る。擦り付けてそこを探り当てた指が、押し込まれて輪を潜った。

「ひ、い……!」

 食い締めてしまっても、力を抜いた瞬間に押し込まれる。

 体格差のぶん指は太く、節くれ立った場所が内壁を掻く。内側を探られている感覚がぞわぞわして、爪先が丸まる。

「ちょうど良く指を締め付ける……早く、挿入りたい」

「……ン、や。……ふ、うァ…………!」

 指の先が、とある場所を撫でた。ぞくん、と知らなかった感覚が突き上げてくる。

 混乱しながらシーツに爪を立て、見開いた目をレグルスに向けた。彼は、探り当てた場所が当たりだと悟ったらしい。

 さらに深く、その場所を擦る。

「ァ、え────? な、なに、これ……、ァ、うあァッ!」

 ぐちゅり、ぐちゅりと音が耳を犯し、身体の中で動く指は、響くような快楽を与えてくる。前を全く触られていないのに、身体の奥で、魔力が掻き混ぜられる。

 悲鳴と嬌声が混ざったような声が、静まりかえった寝室に響いていた。

「……ァ、ン。……ひ、っう。あ、……やぁッ!」

「イオ。まだ、……指だぞ」

 囁かれた言葉に、更に混乱して異物を引き絞る。この後、起きることを俺はうっすらと伝え聞いている。

 覆い被されば隠されそうな差のある、彼のものが、来る。

「────……ッ!」

 びくん、といちど跳ねて、それを機に指が引き抜かれた。

 彼は下の服を脱ぎ落とし、中から雄を露わにする。既に芯を持っているそれは、茹だるように色かたちを変えていた。

 ぼとり、と先端から滲む液体がシーツの上に落ちる。

 両脚が掴まれ、肉棒が谷間を伝う。ぬるり、と滑る感触がする度、牙を研がれているようだった。

 ぐぶ、と先端が輪を引っかける。指しか知らないはずの場所を、質量の違うものが押し開いていった。

「……は、っく。……う、わ……ァ、むり、ッ!」

「少し、力を抜いてくれ」

 腰を引いて、ずる、と押し入る。小刻みに角度を変えられるたび、腹の奥をばかでかい重さが押し上げていく。

 腰から下が、別物にでもなったみたいだ。暴れて、逃れたくとも、楔を打ち込まれていて離れられない。

「……うぅ、……ひッ! や、あ────!」

 さっき初めて教えられたばかりの場所を、今度は塊で殴られる。指のような繊細さはなく、広い範囲を、ただ質量だけで押し潰す。

 前を触ろうとする指を、思わず払い除けた。これ以上、されたら。

「あッ……や、おく、……こないでッ!」

「残念だったな。もう少し、長さがある」

 言葉通り、ずり、と余っていた部分が押し込まれる。

 突き入っても、突き入っても、まだ先があった。先端は執拗に奥を探り、道筋を探している。

 その荒い確認さえも、快楽を拾ってただ啼いた。

「あ……──エ? な、こ。これ……」

「ああ。そう、ここだ」

 ぐぽん、と腹の奥で音がした。細い場所を通って、亀頭が嵌まったような音。神経を、粘膜の境なく撫でられるような、暴力的な接触だった。

「っぁ、あ……。────……!」

 喉の奥で、絶叫を殺した。ひっ、えっ、と嗚咽を漏らし、ぴんと立ち上がった半身を絶望しながら視界に入れる。

 脚を掴み、ゆったりと腰を揺らされた。膨らみを嵌めたまま、押し当てたままで、だ。

 俺は抜いてくれ、と情けなく泣き喚き、力なく暴れては更に自らを追い込んだ。

「ひ、……うぐ。……あ、あ、うぁ……」

「イオ。もう少し、だ。……もう少し、したら」

 何が、そう考えて、正解に辿り着いて、怯えた。

 先端から吐き出る精は、生命力そのものだ。それが、粘膜越しに放出されたら、今ですらこんなにも身を苛むのに、身体の奥深くから、全身で相性のいい魔力を含まされる。

 首を振って、哀願した。

「や……! それ、は…………──ッ!」

 踵で相手の身体を蹴りつけても、深い場所で繋がった躰は離れない。逆に、窘めるように奥を抉られる始末だった。

 目元も、口の端も、流した体液がこびりついて酷いことになっている。そんな俺の顔を、レグルスはうっとりと見つめた。

「もっと。もっと。……魔力を、染みこませないとな…………」

「やだぁあッ!」

 腰が掴まれ、抽送が始まった。

 男根が突き入るたび、結合部はぐちゃぐちゃと音を立てる。勢いで奥を押し上げ、ぐりぐりと存在を刻み込む。

「あ、あ、あ。いッ、……ひ、ぁああ、あ────!」

 ぼたり、ぼたりと俺の半身は揺れて雫を飛ばす。絶頂したのかも、絶頂しそうかも分からなかった。

 ただ、男の熱が膨らみきる頃には、無意識に腰を揺らし、快楽を貪っていた。

「ああ、もう……」

 ずる、と引き抜かれた剛直が、ずるる、と狭径を駆け上がる。

 こつん、と先端が最奥を叩いた。また、ぐぷりとそこに潜り込む。

 駆け上がってきたなにかが、躰の奥を塗り潰した。

「っく。うぁ……は、ぁッ…………!」

「あぁ、あ、あ。……ぁああッ、────い。あ、ぁあああああああぁぁッ!」

 びゅう、と噴き出す体液が、腹の奥を汚す。魔力が混ざる感覚に似た、けれど、あまりにも暴力的な交換だった。引き摺り出されて、混ぜられて、返される。

 目を見開いて、ほんの短い時間を、永遠かのように錯覚した。腹に手を当てると、自分で吐き出した液体に塗れている。

 吐精の間も、身体が揺らされる。最後の最後まで、快楽を得ようとする。一滴残らず、俺の躰に残そうとする。

 俺は、自分の感情を執着だと思った。けれど、彼の感情の方が、その文字に相応しい気がする。

「……ぁ、……ッ、う」

 ようやく、彼の肉棒が俺から出て行った。抜け出たそれは、ぼとぼとと先端から液体を落とす。

 寝台に腕を預けて、いっそこのまま眠りたい、と目を閉じる。

 だが、また脚を持ち上げる感触に、嫌な予感を覚えながら彼を見返した。

「……体力差、を、……理解、してる、よな……?」

「………………」

 レグルスは黙って、俺の股に、自身を擦り付ける。むくり、と動くそれは、相性の良すぎる魔力の所為か、すぐに芯を持った。

 これまで味方だった相手の体力が、初めて敵に思える。

「イオ。……だめか?」

 好いた男に、強請るように首を傾げられて、首を横に振れる猛者がいたら感心したい。

 俺は結局、目の前の男に二度目以降を許した。

 

 

 翌朝、ようやく回復して起き上がった俺は、妖精たちに生ぬるい視線を送られている事に気づく。

 彼らは、魔力と親しい。これだけ魔力が混ざっていたら、昨晩がお楽しみだったのは言わずとも分かる筈だ。

 レグルスは俺を抱き上げて食卓まで運び、朝食の準備を始めた。無体を働かれすぎて、腹は減っていた。

『きょうのちょうしょくは、なんだ』

「パンを牛乳と卵に浸して焼いたやつ」

『なあ、ほしよみし。ものおきの、かたづけをしたくないか?』

「レグルスに聞けよ」

 妖精はぴょんぴょんと跳ねていくと、レグルスに同じ交渉を始める。どうやら交渉はまとまり、余分に焼いてもらえることになったらしい。

 ご機嫌に鼻歌をうたいながら戻ってくる姿に、古の、希少な存在という感覚はまるでない。机の上に肘を突き、くすり、と笑った。

「なあ、レグルス。この前の、星読みの結果だけどさ」

「星読みしていたのか?」

「してた」

「後で記録しておくから、教えてくれるか?」

「『日出ずる地 黒曜の塔 星の導きにて 国の要となる』 …………だって」

 二人の間に、静寂が流れた。彼は手を止めることなく、料理の仕上げを続ける。

「…………不幸では、ないな」

「な。これで、不幸な結果以外は当たらない、んだったら面白いけど」

 あまりにもはっきりとした言葉は、他の意味に受け取りようもない。今までとは毛色の違った結果を夢で告げられ、俺は面食らったものだ。

 外は晴天で、眩しいくらいの光が差し込んでくる。ふあ、と欠伸をして、甘い匂いを吸い込む。雨は、もうしばらく降ることはないだろう。

「おまたせ」

 目の前に、できあがった料理が並べられる。いつも通り、ありがとう、と言ってもいいが、恋人らしい感謝の伝え方をしたいものだ。

 ちょいちょい、と手招きをして、かがみ込むよう強請る。そして、その頬に、ちゅ、と唇で触れた。

「……ありがと。大好き」

 頬を押さえたレグルスが耳まで真っ赤になっていたのを、俺はにまにまと眺める。

 その後、顎を掬われ、ちゅう、と仕返しをされたのは言うまでもない。

 

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坂みち // さか【傘路さか】
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