※『宰相閣下と結婚することになった魔術師さん』『魔法使いと養い子と暁空に咲く花』のネタバレを含みます。
また、この話は両作品の人物達が出会うことがあったら、というクロスオーバー的なif設定の小話として書いたものであり、これを正史とするかは読み手の皆さまへお任せしています。
ニコと庭師の手入れを手伝っていると、朝から仕事だと出掛けていった伴侶が昼前には帰ってきた。不思議に思いながら出迎えると、相手方の体調不良で昼からの予定が全部無くなった、と肩を落としながら言う。
「予定の先送りは嬉しがることではないが、過ごしやすくていい日だし……」
「俺も出掛けたい!」
はいはい、と手を挙げると、待ってました、とばかりに相手の口元が緩んだ。
その背を追って衣装室に入り、庭仕事で汚れた服を脱ぎ落とす。不埒な視線が纏わり付くよりも前に、服を選んで羽織った。
「何買いに行く?」
「最近、積んでいた本が崩れつつあるから、本と、……ニコのおもちゃはまだ無事だっただろうか?」
「全然。何個あっても足りない」
帽子と色付きの眼鏡を手に取った伴侶に、どうやら今日は歩きで出歩くつもりらしいことを悟る。俺の色はさほど目立つようなそれではないが、伴侶の色は市井に紛れるには鮮やかすぎる。
色付きの眼鏡はいつもの堅物さを一掃し、遊び慣れた男の空気を纏わせはじめる。服も王宮に着ていくようなそれではなく、小金持ちの商人であれば持っていそうな布地を敢えて選んでいた。
「歩きで行く……? ニコも連れてくよな」
「当然だ。そこら辺の護衛が何人いても、あの子には敵わない」
ニコは防衛課に連れていかれ、訓練の相手をこなすうちに、順調に相手を無力化する術を学んでいるらしい。
逸材だから、とシャクト隊長が色々と教えており、『剣を持っている相手の一撃目を躱すには……』と講義をしている場面に出くわした俺は、両者共に真剣な様子に、とても声を掛けられはしなかった。
ただ、最近ではニコがいるため、突然の用事に護衛がおらず出掛けられない、ということは無くなった。傍目には犬の散歩をしている二人連れであるため、街にも紛れやすい。
サウレ国王もガウナー宰相閣下もルーカス大神官も、揃いも揃ってお忍びが大好きな人種だ。学生時代の武勇伝には事欠かない。ニコが不自然に連れ出されていたら、まずサウレの所為だろうな、と旧友を指して伴侶は言う。
名前を呼ぶと、ニコが全速力で駆けてきた。散歩を察したようでぶんぶんと尻尾が振られる。防衛課に唸りながら突っ込んでいく猛獣の片鱗は、欠片も見当たらない。
準備を終えて、執事のアカシャに行き先を告げてから家を出た。風は少し冷たいが、日差しが温かくて過ごしやすい。
ニコは人物の横にぴったり沿って歩いている。ふらりふらりと虫に目移りしたりもするが、それ以外は俺たちの行動を読んでいるように、行き過ぎることも、遅れすぎることもない。
ニコは人を見るのが好きだ。建物も、動物にも興味を持つが、通りに連れていくと、ちらりちらりと人ばかり見ている。すいすいと人にぶつかることなく器用に歩き、様々な人を視界に入れ、声を聞く。
休日である人々が多いのであろう今日は、通りにも露店がいくつか店を出していた。その中に、古書を取り扱う店を見掛ける。
おや、と立ち止まり、並べられた題名に目を通す。敷物の端には魔術書もあった。
本は料理書、恋愛小説、剣の指南書と雑多に並べられている。種類を定めずに仕入れている間に、いつの間にか紛れ込んだのかもしれない。
「軽く読んでも構いませんか?」
「ええ。歓迎しております、どうぞ」
ありがとう、と返事をして、本を持ち上げる。
その魔術書は、古代魔術に関わる本だった。ぱらぱらと捲って、目新しいことがあるのか判断が付かなかったが、付けられた値札はお手頃なものだ。
もし古い時代の情報が含まれていたら、古書店ではこんな値段ではとても済まない。古代魔術と呼ぶ古い魔術の研究の中で、術式の大きな断絶が起きる以前の知識は貴重なものだった。
古代魔術贔屓な部下のツクモがいることだし、買っていって、ツクモが欲しいと言ったら渡すか、そう思いながら、ぺらぺらと頁を捲る。その最中、ふと覗き込む気配があった。
気配を発する側を向くと、見慣れた色の瞳があった。だが、顔立ちは見慣れぬものだった。長い睫と、結われた髪、過剰なほどに露出度の少ない服装から覗く肌は、透けるほど白い。彼が呼吸をする度に、瞳を瞬かせる度に、美しさに視線が吸い寄せられた。
俺よりも十は下であろうか。だが、身体から漏れる膨大な魔力に、この人物もまた魔術師だと分かる。
「ご興味がおありで?」
「いえ、この図面が」
その青年は、そっと細い指で本の図面を指差した。手の甲は傷跡もなく綺麗で、爪の先は丸く、桜貝の色をしていた。
「少し、懐かしくて」
古代魔術の研究に携わっているのだろうか。ツクモと同じように、この人物も髪が長い。
古代魔術の中には、髪の毛を使うものが多くあり、研究の実益のために伸ばしている意味合いもあるはずだった。
「古代魔術、お詳しいんですか?」
「そう。……そうですね、多少は」
珍しいこともあったものだ。部下のツクモは、古代魔術の研究者の少なさを嘆き、術式の断絶以前の知識の少なさに悲鳴を上げている。他と関わりも少ない研究だ、少しでも情報を引き出して、部下に伝えてやりたかった。
「ちなみに、この本は要りますか?」
「いえ、手持ちの資料で事足りていますので」
店主に金を払い、本を鞄にしまい込む。では、と去ろうとした手を、がしりと両手で捕まえた。ぱちぱちと瞬きをする青年の前で、すらりと言葉が口をついて出る。
「この後、お時間はありませんか?」
「…………街中でいきなり口説くんじゃない」
背後からぽすりと後頭部をはたかれる。俺が立ち止まったことにようやく気づいたらしいガウナーが追ってきていた。ニコがくるりと足元に纏わり付く。
えー、と文句を言う俺に、そもそも相手方の都合をだな……、とガウナーのお小言が始まる。事情があって古代魔術の話がしたいのだ、と説明していると、背後から助け船が入った。
「では少し、お茶でもいかがですか? 夕方には迎えが来ますので、そのくらいまで。私も魔…………術には興味がありますし、お話ししてみたいです」
青年は感情が表に出づらいようだったが、前髪の下に隠れた瞳には、好奇心の光が見えた。俺とガウナーは顔を見合わせる。俺がお願い、と手を組むと、伴侶から諦めの息が漏れた。
「…………貸しにしておくよ」
何で返そうかなぁ、と腕を組んで擦り寄ると、はいはい、と頭を撫でられる。どうやら本気にはされていないようだが、俺の記憶力はいいほうだ。
「恋人同士、です……よね?」
俺たちの様子を見ていた青年が、そう問いかける。どう返すべきか、視線を合わせると、ガウナーの口元が緩んだ。きゅ、と組んだ腕に力を込める。
「結婚してて、俺の旦那でーす」
「同じく。私の旦那です」
お互いを指差すと、へえ、と目の前の瞳が面白そうに光を受けた。
屋外席のある喫茶店に入り、犬を足元に転がしておいてもいいか尋ねると、快く了承され、ニコは皿に水を汲んでもらった。屋外に設けられた席の足元は木張りになっており、ニコは水を飲み、気持ちよさそうに横になる。
俺は飲み物が届けられて早々に机に先ほどの本を広げ、青年の方に突き出した。
「ちなみに、この本はどうですか? 俺があまり古代魔術に詳しくないので、この魔術書の価値がよく分からなくて」
「お借りします」
青年はぱらぱらと本を捲り、全体に目を通す。
顎に手を当てて、小首を傾げている仕草は一枚の絵画のようだった。俺がその顔立ちに見惚れていると、そっと手の甲に体温を感じた。ふは、と軽く笑い、伸ばされた伴侶の手を握り返す。
「古代魔……魔術、と括られる年代の幅も広いものですが、この本に書かれているのは、その中でも古い魔術についてのものです。古い呪文もあります。ですが、無理やり文字に起こしているので、これを読んでも詠唱として再現するのは難しいですね」
「無理やり文字に起こしてる、ってことは、詠唱が主体だった時代の、知識の断絶が起きる以前のもの、ということですか」
「断絶……とは、大戦争が起きた頃に、魔術書が失われた時代を指しますか?」
「え……? はい」
ツクモはよく断絶の時代のことを話している。大国二国間の大戦争が起き、名を残した大魔術師が多く死に、戦火に焼かれて魔術書も失われた時代がある。それまで培われていた魔術はその一時を境に毛色を変え、それ以前の魔術を記録した魔術書は稀少だ。
「では、はい。その時代より前の呪文も載っています。ですが……」
青年は本を広げ、俺に書くものを出すように言った。俺が帳面を取り出し、筆記具を握ると、本の中の呪文を書き写すように言われる。
俺が雑な文字で呪文を書き写すと、青年はその文字を読み上げるよう言った。魔力を乗せずに、呪文を詠唱すると、青年は嬉しそうに笑った。
「心地の良い、いい波をしていますね」
「……あ、はい。魔術は、……そこそこ得意で」
そこそこ、と横で反復する伴侶に、黙っていてくれよ、と視線を送る。青年はどうやら俺にもガウナーにも気づいていないようで、俺たちの名を聞いてくることもしない。尋ねられても答えられはしないので、都合は良かった。
「まず、二文めのこの言葉ですが、伝えられていくうちに間違えて別の言葉に置き換わっていて────」
青年は文字から俺が行った詠唱の中で、本来の音と乖離している箇所を次々と読み上げていく。魔力が乗っていないはずなのに、その揺らぎはゆったりと親に抱かれて揺らされているような、波のさざめく音に似ていた。
時おり、ガウナーが質問をして、青年はそれに知っている範囲で答えた。即席の魔術授業のようだった。
ただ、青年の知識は深かったものの、その知識にはむらがあった。彼の知識範囲外の話をしている時には、箱入り息子と話しているような気さえするほどだ。
青年はたまにニコがじゃれついてくるのに優しく応え、その頭を撫でる。
「そういえば、発音がこちらの方ではないですよね? ご旅行ですか?」
「はい。この国の宰相閣下が魔術師と結婚された、と遠い国まで噂が回ってきました。話を聞いてみると魔術の研究も進んでいる国のようで、どういう所だろうと興味を持ちまして」
偶然、飲み物を口に含んでいた哀れなガウナーはその言葉に咽せることになり、俺はお手拭きを手に、大丈夫? と尋ねながら机を拭った。青年は気にした様子も無く、自分のお手拭きも差し出そうとしている。
本気で俺たちのことには気づいておらず、本当に偶然、口に出したようだった。
「あー、有名ですよねー。へえ、遠い国でも噂になるほどなんだ」
「ええ。色恋話というのは、やはり面白いものなんでしょうね。友人が楽しそうに話をしてくれたんです」
隣に置かれた青年の荷物は、おそらく本だろう。中身も詰まっていて、俺たちの誘いに乗ったのは、それらの本が重かった所為もあるのかもしれない。古代魔術をこれほどすらすらと語るのだから、著名な研究家ではないだろうか。
「どうでしたか、ご旅行は?」
ごほん、と咳払いをして、ガウナーが青年にそう問いかけた。青年の表情が綻び、花のような笑顔が浮かぶ。
「綺麗な街並みを眺めながら歩くのは楽しくて……、特に朝焼けが綺麗で、心地よかった。本屋で尋ねごとをした時には店主に親切にしていただきましたし、私がきょろきょろとしていたら、迷っていないか、頻繁に声を掛けられます。とても、居心地がいい国でした。また機会があれば、訪れたいと思います」
「あの、是非その時、……時間があれば、王宮を訪ねていただけませんか? 部下に古代魔術を研究している者がいて、紹介したいんです」
筆記帳を破り取ると、門番に向けて、この人が来たときには魔術式構築課に取り次いでもらうよう書き付ける。もし来ることがあったら門番にこれを渡してください、と告げると、青年は首を傾げながら、その紙を受け取った。
「魔術式構築課……なるほど、王宮にそういった専門の部署があるものなんですね」
青年はその紙を受け取ると、鞄の中に大切にしまい込んだ。
「また、…………この国に来るような縁があれば、その時は王宮にお伺いします」
お互いのカップの中身が空になり、そろそろ別れようかとしていた時だった。店の外の道を歩いていた金髪の男が、こちらを見て、あ、と手を挙げたのだ。その合図は、俺たちではなく、青年に向けたものだった。
「見つけた!」
「おや。見つかった」
いったい何処を歩いて、とお小言を食らう青年はにこにこと笑顔で、二人の間柄が親しいものだと分かる。青年が経緯を説明すると、金髪の男は俺たちに礼を述べ、青年の飲み物の代金を机に置いた。
青年のあの重そうな荷物でさえも、軽々と片手に持ち上げる。目に見えて筋肉質、というほどではないが、防衛課の人物のような、身体を動かすことに慣れた体格をしていた。
「あの…………」
別れ際に、青年は俺に向けて手を差し出した。俺はすっと手を握り返す。また来ます、と断言されなかったということは、この人にも事情があるということだ。
また会えるかもしれないし、もう会わないのかもしれない。それこそ縁があれば、その言葉に尽きた。
「「よい旅を」」
「ありがとう、お元気で」
青年は手を挙げ、雑踏に紛れていった。去り際に、青年が迎えに来た金髪の男性に掛けている声が漏れ聞こえてくる。
「────……──に似た緑の、懐かしい瞳の色だったよ」
あの青年と会ったことはなかったはずだが、親族が知り合いだったりするのだろうか。俺がその背を視線で追いながら考え込んでいると、服の裾が引かれる。
「そろそろ、私とのお出かけを再開してくれるかな?」
「勿論。付き合ってくれて、ありがとうな」
帰宅したらどうお返しをしたものか、思考を巡らせながら腕を組む。引き続き買い物をしていると、やがて日は暮れ始め、街の石畳が橙色に染まっていった。
しばらくして、魔術式構築課宛てに荷物が届いた。
知らない間に王宮の前に置かれていたらしい荷物は、門番が開封して、中身を確認された後に俺の手に渡った。中身は大量の魔術書で、魔術式構築課で流し読みしていると、隣で読んでいたツクモが机に倒れ込んだ。
卒倒、と言うくらいの見事な倒れっぷりだった。
「え? 何?」
「断絶以前の! 古代魔術の中でも古い時代の! 死ぬほど貴重な資料……です!」
あのツクモが、こんな大声を出すのは数年ぶりに聞いた。どうやら、貴重すぎるほど貴重な、魔術知識の断絶以前のことが書かれた魔術書の詰め合わせのようだった。
送り主の名は無く、手紙などは入っておらず、その代わりに大量の花が瓶に詰められて同封されていた。
「これ何? 食べられる?」
「古代魔術で使われる貴重な花! ……です! 瓶は開けないでください!」
一生分の、ツクモの大声を聞いた気分だ。
はい、と大人しく彼の意見を聞き、瓶を置いた。ことり、と静かに置かれた硝子瓶は、陽の光を反射してきらりと煌めく。
珍しい青い花は、あの青年の瞳の色をしていた。