
黒い毛皮は、よく日光を吸収する。日当たりのいい場所で熟睡などしてしまうと、体温が上がりすぎて下手すると命に関わる。
だから、俺が窓辺で寝そべっていると、いつの間にか持ち上げられ、適度な日陰に移動させられているのが常だった。
その日も獣姿のまま日陰で起き上がり、くあ、と欠伸をして前脚を床に付ける。ぐぐ、と伸ばして尻を高く上げると、ちょうどよく身体が解れた。
顔を上げると、こちらを眺めている飼い主……ルシオラの姿がある。
「おはようセレくん。よく寝たね」
ひくん、と三角の耳が揺れた。
『寝たな』
トン、と床に着地し、ぴょいぴょいと跳んで移動し、長椅子で寛いでいる相手の太股の上に乗った。
ごろごろと喉を鳴らすと、伸びてきた手が身体全体を一撫でする。大きな掌を両前脚で抱え込み、喉を擦りつけた。骨張った手はでこぼこしていて、絡むと気持ちがいい。
「私の子猫ちゃん。窓辺は暑かっただろう? お水を飲もうか」
『うん。だっこ』
相手の胸元に前脚を置いて立ち上がると、慣れた動作で抱き上げられる。尻ごとがっしりと抱え上げてくれる、この男の抱き方は安定感があって好きだ。
ルシオラはそのまま台所へ俺を運ぶと、グラスに注いだ水を出してくれる。舌先を伸ばし、ぴちゃぴちゃと舐めた。
満足するまで喉を潤すと、彼は残った水を近くにある植木鉢の土へと注いだ。
「毛皮がほこほこしているね」
『暑いくらいだな』
「氷舐める?」
『舐める』
魔力で動作する食材保管庫から彼は氷を取り出し、水で濡らしてから俺の口元に近づける。
短い舌を伸ばし、溶けた氷を舐め取っていった。指先は冷たいだろうに、俺が氷を食べ終わりまで、彼はちょうどいい位置に氷を差し出し続けてくれる。
氷を食べ終わると、思わず喉を鳴らしてしまった。
「ご機嫌だ。本でも読もうか?」
『助かる。この姿で本を読むのは大変だし』
太股に乗せてもらい、本を読ませてもらいながら寛いでいると、玄関先から靴の音が届いた。俺がむにゃむにゃと来客を伝えている間に、呼び鈴の音がする。
足音は、聞き慣れた音だった。
「いらっしゃい」
扉が開かれると、見慣れた女性が少しおめかしをして立っている。
「こんにちは! セレさんにお菓子を食べさせて……貰える…………?」
ルシオラが抱えている俺を見て、彼の妹であるリーシアは目を瞬かせる。週末の前日に菓子を作ると約束したのだが、新月の近い俺は、体力温存のために獣姿で怠惰に過ごしていた。
腕の中で、にゃ、と鳴き、床に下ろしてほしいと肉球で飼い主に示す。トン、と床に着地した俺は、彼女に向けて口を開いた。
『寝起きだったんだ。人間に姿を変えてくる』
「そのままでもいいのに……」
『猫だと料理ができないぞ』
撫でてくるリーシアの手を少しの間だけ受け入れ、顔を上げると、扉の陰からもう一人、顔を見せた男性がいた。
ルシオラとも、リーシアとも似た顔立ちに、二人よりも実直で、芯が強そうな空気を纏っている。ソーリス、二人にとっての兄がそこにいた。
予定にはない人物に、俺は首を傾げる。
『ソーリスさん?』
「そそ。途中でお兄ちゃんに偶然会ったんだ」
「午後の仕事が急に中止になってな。リーシアがセレさんに会いに行くと言うから、ついでに差し入れをと思って」
ソーリスさんは、手持ちの紙袋をルシオラへと手渡す。中身は今が旬の、瑞々しい柑橘類だった。
礼を言い、高い身長を見上げる。
『ソーリスさんも、お時間があるなら召し上がられますか? 甘いもの』
「あぁ……。いや、ご迷惑だろうと思ったんだが……」
本屋の経営でも世話になっているが、彼は真面目で、道理に外れた事を嫌う。誘っても遠慮されるのは、想像通りだった。
ただ、その表情が少し和らいだのが分かる。甘いものは、嫌いではないようだった。
「いいよ。仕事も空いたんなら、兄さんも食べていったら?」
「……じゃあ、お邪魔する」
『果物も剥きますね』
にゃにゃ、と言うと、ソーリスさんは不思議そうに俺を見つめた。獣人の声を使わない会話にまだ慣れないようだ。
ぴくり、とその指先が動いて、けれど、持ち上がらずにその場に下がる。撫でられるのか、と思ったら違うようだ。
ほんのすこし目を丸くして見つめ、ふい、と視線を逸らす。
『じゃ、ちょっと服着てくる』
「はいはい」
ルシオラは二人を居間へと通し、俺は自室に戻って人に変化し、服を身に纏った。髪を雑に縛り、廊下を歩いて台所に入る。
仕込んで冷蔵しておいた焼き菓子の生地を、魔力で動作する小型炉へ放り込む。
続けて、お茶を淹れよう、と湯を沸かしていると、途中で恋人が貰い物の果物を持ってきてくれた。手分けして皮を剥き、切り分けて小皿に盛り付ける。
お茶と一緒に居間へ運ぶと、リーシアは本に目を通している最中で、ソーリスさんは本棚へ視線を向けていた。
「おもたせで失礼ですが、美味しそうだったので」
「いや。一緒に食べられるとは、……有り難いよ」
ソーリスさんは率先して小皿を受け取り、嬉しそうに唇を緩める。甘味用の小さい匙を大きな手が持ち上げると、皿がちんまりとして見えた。
俺たちも菓子が出来上がるまで、果物を摘まみ、飲み物に口をつける。
「美味しい」
果物を咀嚼してそう言うと、兄妹はそれぞれ嬉しそうにしている。どうも猫の印象が強いのか、恋人のみならず兄妹もが俺に甘い。
リーシアは匙を持ち上げ、腰に手を当てる。
「恩人には、美味しいもの食べてもらわないとね」
「まだ言うか?」
もうそろそろ忘れていいのに、と息を吐くと、妹のみならず兄達もが心外だというような顔をする。
ルシオラが、悪戯っこの顔で口を開く。
「妹が退院するって聞いたとき、兄さんも号泣してたよ」
「えっ」
ソーリスさんは頬は染めたものの、否定はしなかった。それどころか、弟の暴露を受けて言葉を続ける。
「俺だけじゃないさ。うちの両親なんて、働き出したリーシアが元気に帰ってくるたび泣いていたくらいだった」
「えっ。リーシアが退院後にお伺いした時は普通でしたよ」
なあ、とルシオラに視線を向けるのだが、恋人は拳を口元に当てて笑いを堪えていた。息子から見るに、普通、ではなかったようだ。
隣でぱしぱしと腕を叩いていると、ようやく呼吸を持ち直してくれた。
「いや。最初に会った時は、セレくんが何か言うたびに泣くのを堪えてたよ」
「あれ、そういう事だったのな……」
やけに言葉が途切れるな、とは思っていたのだが、俺も最初は恋人の両親との対面に緊張していて、真意を推し量ることができなかった。
乾いた唇をカップの中身で潤し、口を開き直す。
「まあ、嫌われてないならいいけど」
「ないない。仲良くなったら獣姿も見てみたいそうだよ」
「別にいいけど。ただの猫だぞ?」
ルシオラはまたくつくつと笑い、俺の肩に腕を回すと、頭を撫でたくる。妙に面白がっている恋人へ抗議していると、ソーリスさんは何だかそわりと腰が浮いていた。
機嫌が悪そうには見えないが、出会ったときから落ち着かない様子だ。
「ねえセレさん。本棚見ていい?」
「ああ。好きなの持っていったら?」
「やったー!」
リーシアに誘われたソーリスさんも揃って本棚を見に行き、俺たちは焼き菓子ができあがるまでの間、本談義に勤しんだ。
しばらく経つと、台所から生地の焼けるいい匂いが漂ってくる。俺は頻繁に様子を見に行き、ちょうどいい焼き具合になった所で取り出した。
ざくざくとした生地を温かいうちに切り分け、人数分の皿に盛る。台所に入ってきたルシオラがお茶のポットに中身を補充し、一緒に運ぶ。
リーシアは居間の机に皿を置くなり、わぁ、と嬉しそうな声を上げた。
「これがセレさんの故郷のお菓子!? 焼きたてだぁ……」
素朴な色味の焼き菓子だが、生地に干した果物が練り込まれている。生地はしっとりと甘さ控えめで、ときどき強烈な甘さの果実が顔を出す一品だ。
入院中は食事にも制限があり、リーシアは今、食への熱が燃えさかっている。都会の菓子に比べれば華美ではないが、彼女にとっては物珍しいようだ。
そっとフォークを持ち上げ、さくりと焼き上がった生地を割る。そっと口に運び、ぱあっと顔を輝かせた。
「甘くて美味しい……! これ、私でも作れるかな?」
「これなら分量さえ守れば、技量は要らない。作り方を紙にでも書いて渡そうか?」
「わぁい、お願いします!」
ふと、彼女の隣で静かに食べている人物が気にかかる。ソーリスさんへ視線を向けると、彼の手元の菓子は、もう一口分ほどを残すのみとなっていた。
あまりの早さに、俺は目を丸くしてしまう。じっと見つめすぎたのか、顔を上げたその人と視線が合った。
「あ、すみません。よく食べるなあと思って。お口に合いましたか?」
ソーリスさんはおどおどと視線を彷徨わせると、咳払いをして肩を丸める。
「実は、甘いものに目がなくて、自分でも店を出してしまった程なんだ」
「……あぁ。そういえば、ルシオラとお邪魔しました」
「ああ。あの店は、俺が通いたくて作った店でな」
二人ともお代わりについて尋ねると所望され、六つに割った焼き菓子はちょうど消えてしまった。
食べ終わって人心地ついていると、ソーリスさんの甘いものに対する態度に既視感を覚える。
それこそ、甘いものを提案された時のあの態度は、俺を撫でようとした腕を下ろした、あの気配に近かった。
腹が満たされて機嫌が良さそうな今なら聞けるかも、と声を上げる。
「あの、ソーリスさん。……ちなみに、猫は苦手だったり?」
「まさか!」
思ったよりも直ぐに否定され、俺はぱちぱちと目を瞬かせる。はっと口元を押さえたソーリスさんは、気まずげに視線を泳がせた。
「…………ね、猫は昔から好んで、はいるんだが……。この体格の所為で、嫌われることが多い」
「あー……そういう。俺の黒猫姿は、触ってみたかったり、します?」
「流石に、弟の恋人にべたべたと触れるのは躊躇われる」
俺はリーシアに視線を向ける。あはは、と気まずそうに彼女は苦笑し、頬を掻いた。
「私だってお兄ちゃんの恋人だってことは分かってるけど、セレさんの猫姿が愛らしすぎて忘れちゃうんだもん……!」
「ああ、別に気にしてないけど。猫の姿の時は、思考も猫に引きずられるしな」
人間でいえばこの部位を触られている、という思考よりも、触られて気持ちいい、という感覚の方が勝ってしまうのだ。
彼女に慰めの言葉を掛け、ソーリスさんに視線を戻す。
「まあ、ちゅっちゅしたりとか、股間あたりを撫で回さなければ触っても良いですよ。変化しましょうか?」
「流石にそんな事はしない、が……。ルシオラは気にならないのか?」
「うぅん……。でも、セレくんの意思を尊重するよ」
ソーリスさんはたっぷりと悩みに悩んで、頼む、と呟いた。その言葉がどちらであるのかは明白で、俺はその場からそっと席を外す。
自室で服を脱ぎ、猫へと身体を転じる。軽やかに自室の扉を抜け、開いたままの居間の扉の隙間から入室した。
俺の姿を見た途端、リーシアの唇から声が漏れる。
「わぁ……」
「リーシアは後で、ね」
恋人がその妹を押し留め、俺の姿を見たソーリスさんが近づいてくる。彼はずいぶん手前で足を止めると、ちいさな俺と視線を合わせるように屈み込んだ。
弟に形の似た指が伸びてくる。すり、と顎を擦りつけると、指先がやんわりと動いて喉を撫でた。
お互いにおっかなびっくりといった形で交流を進め、ようやく時間を経て長椅子に戻り、ソーリスさんの膝に乗せてもらう。
大きな掌は、遠慮がちに背を撫でている。
「お兄ちゃん、ぎこちなさすぎない?」
「…………逃げない猫に慣れていなくて」
「セレさんの毛、ふわふわでしょ」
「ああ。変な意味ではなく、触り心地はとてもいい」
ぽふぽふと毛の先に触れているソーリスさんに、弟が俺用のブラシを持ってくる。毛を整えてくれている最中、腹の毛も整えてほしくてごろんと反転する。
途端、膝の主が驚きすぎて身体が跳ねた。
『あ。ごめんなさい、腹の毛を繕ってほしくて』
「い、いや。こちらこそ……。こう、でいいだろうか」
『もうちょい右です』
俺は言葉こそ丁寧なものの、恋人の兄の手をあっちこっちと働かせる。だが、忙しそうにする瞳の奥には、子どものような煌めきが見えた。
ただの貧相な黒猫にも、心をときめかせる物好きはいるようだ。
ぐるぐると喉を鳴らし、広い膝の上でごろんごろんと転がる。伸びてきた手を捕まえて後ろ脚で蹴りたくっていると、指の腹が肉球に触れた。
「肉球とは、こんなに柔らかいものなんだな」
『飼い猫なので』
どうぞ、と脚の裏を提供すると、ふわふわの菓子にでも触れるように、丁寧に感触を味わっている。
ほう、と唇から感嘆の息が漏れた。
「とても、良いものだな」
『普通の猫はあんまり触らせてはくれないらしいので、今のうちにどうぞ』
「ああ。頂戴する」
俺たちの会話を見ていた残りの兄妹は、不思議そうに顔を見合わせている。ふにふにと肉球に触れた後は、身体ごと抱き上げられた。
肉付きは弟の身体によく似ている。相手の肩に凭れていると、すん、と隣にある鼻が動いた。
「日向のにおいがするんだな」
『黒なので、よく吸収するんです』
無意識なのか、間近まで鼻先が近づいてくる。俺の頬に触れるかも、という所で、間に掌が差し挟まれた。
顔を上げると、恋人の掌だと分かる。
「兄さん。私の恋人のほっぺにべたべたしない」
「…………ああ。悪かった。可愛らしくてつい」
「まあ、セレくんが可愛らしいのは認めるけどね」
俺はまたソーリスさんの膝上に戻り、今度は丁寧に毛を梳かされる。その後、お預けを食らっていたリーシアに抱っこされると、せっかく整えられた毛はもみくちゃにされてしまった。
来訪者たちは長いこと楽しそうに過ごし、予定になかった夕食まで食べて名残惜しそうに帰っていった。
二人が出て行くと、ルシオラは丁寧に扉を閉め、鍵を掛ける。本当なら気疲れするのは俺のほうだろうに、がっくりと肩を落として抱き付いてくる。
「家族と仲良くしてくれるのは嬉しいけれど、妬けるものだね」
「そういうものか? 気のいい人たちだけど、あんたの兄と妹だからこそ交流があるんだろ」
背中を抱き返し、ぽん、と叩く。彼は俺の肩に顔を埋めると、すん、と息を吸った。
「…………セレくんは、人に戻っても日向の匂いがするんだね」
「服が干し立てだからだな」
「情緒がない」
ぎゅう、と抱き竦めてくる恋人を、けらけらと笑って抱き返す。頬に柔らかい髪が触れた。
鼻先を突っ込み、頬を擦り寄せる。俺がずっと微睡んでいたくなる、日向の色だった。