同人誌:君の番が僕ならいいのに

同人誌情報
この文章はだいたい22500文字くらい、約38分で読めます
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収録内容

A5サイズ二段組40ページ(35000字程度、短編)、挿絵なし

あらすじ

オメガバース、アルファ×オメガ、短編(3.5万字) 18禁

アルファで俳優の父親の都合で、父親の共演者と期間限定の同居することになって、から始まる話です。

過去作「君の番になろうとは思わないので」の子世代編ですが、読んでいなくても大丈夫な仕様です。

全体的に「辛い、悲しい」描写は少ない「甘々、ほのぼの」した話です。

通販について

電子書籍版(BOOTH)→https://sakamichi31.booth.pm/items/1069839

・BOOSTは電子だとお礼のペーパー同封したりもできないので、基本的に支援のお気持ちだけで十分です。
頂いた分については普段の小説執筆のための事務品やソフト代、参考書籍代などに有難く使わせていただきます。

電子書籍版(楽天Kobo電子書籍)→https://books.rakuten.co.jp/rk/603f8bb7d18d3f40abcafe2cd7af2564/

電子書籍版(BOOK☆WALKER)→https://r18.bookwalker.jp/def9c702a4-fbb9-408c-8840-51c48aa4e8a9/

電子書籍版(メロンブックス)→https://www.melonbooks.co.jp/fromagee/detail/detail.php?product_id=1681757

 

 

 

「君の番が僕ならいいのに」サンプル

 

 

【人物】
鹿生 准也(かのう じゅんや)
鶴巻 円 (つるまき まどか)

鹿生 隆 (かのう りゅう)
鹿生 世津(かのう せつ)

鹿生 里沙(かのう りさ)
鹿生 澪 (かのう みお)

 

 

 物心ついた時から父親は俳優だった。

 パパはアルファで、父さんはオメガ、二人とも男だ。父さんは普通のただの優しそうな人だが、パパは俳優じゃなくモデルで物を食べられそうなくらい美形だと評価されている。歳を取って雰囲気が変わっても、その評価は変わることはない。

 姉妹もそんなパパの顔立ちを受け継いで、姉はタレントを、妹は学生兼モデル業を営んでいる。

 そんなパパの血を引いている僕は、若干パパに似てはいるもののオメガである父さん似で産まれ、アルファの姉のようにすくすくとはいかず、縦にも横にも伸びずに成長期を終えた。

 思春期に受けた検査結果は当然のようにオメガで、家族全員が僕の結果を見て想定内、という反応を返した。高校卒業後は専門学校へ進学し、父さんの会社の関連会社に就職、とはいえ実家の居心地がよく、パラサイトシングルというやつを謳歌している。

 このまま人生というものはのんべんだらりと過ぎていくのだろうと毎日仕事道具と向き合っていたが、そうは問屋が卸さなかったのは秋も終わり頃のこと。

 パパの一言からその一連の騒動は始まった。

 

 

 

「准也、ちょっとしばらくの間一人暮らししてくれないかな?」

「嫌だよ。居心地の良い書斎、お掃除ロボットも全自動洗濯乾燥機も食器洗浄機もある家で家事をやればいいだけなんてこんなぬるま湯手放すの」

 僕はパパの言葉に対し、暗記した台詞を繰り返すように、躊躇いなく言い切った。

 パパはがん、と殴られたように目を丸くした。パパの長めの髪は寝起きで乱れているが、それもまた愛嬌がある。老眼が始まったと同時に掛け始めた眼鏡も、垂れ目がちの目尻と相俟って色気がダダ漏れだ。

 パパの顔が大好きな面食いの父さんは、パパの眼鏡姿やパジャマ姿に、なにやっても美形なんだから歳を取っても美形なんだよなぁ、と番らしからぬ感想を漏らしている。

「……言うと思った」

 隣で座っていた父さんははあ、と言葉と共に息を吐いてパパの肩をとんとんと叩いた。だから言ったのに、とでも言いたげな様子に、分かってるなら言わなきゃ良いと僕はむくれる。

 パパは普段なら僕の言うことはすんなり聞いてくれるのだが、今回は諦め悪く、ううん、と考え込んだ。

「……何か事情でも?」

 珍しいパパの様子に流石に口を挟むと、パパは端正な顔立ちを悲しげに歪め、形の良い指先でテーブルを叩いた。シンプルな結婚指輪が照明を反射する。

「今度昔やったドラマの続編が作られることになって、そのドラマの息子役の俳優がいるんだけれどね、鶴巻くんっていう」

 鶴巻くん、という単語で思い浮かぶのは若手俳優でも綺麗めの顔立ちをした『鶴巻円』という俳優だった。

 一匹狼風の外見通り収録現場でも一匹狼。雑誌で読む限り『悪い人ではないが寡黙で近寄り難い』というのが共演者の共通した感想だった筈だ。

 僕はパパの見学だとか差し入れだとかで里沙姉と撮影現場に訪れることも多いので、鶴巻円にも挨拶をしたはずだった。その中で、にこやかに好意的な返事が返ってきた記憶はなかった。

 ただ、とんでもなく顔立ちは整っているなあ、と感動したのを覚えている。一見浮気しそうなきらびやかな顔立ちをしているパパよりも、僕にとっては親しみを覚える顔立ちだった。

 僕はふうん、とパパに相槌を打つと手持ち無沙汰になり、コーヒーでも飲もうか、と手伝おうとする過保護なパパを席に押し付けてテーブルを立った。

 パラサイトは台所に棲んでいる。

 台所は大体僕とパパの持ち場である。雑にしか食事を作れない父さんは准也のご飯が良い、と駄々を捏ねるのでついつい台所に立ってしまうのだ。

「鶴巻円?」

「そう、鶴巻円くん。メイン役同士で共演するのは初めてで、顔合わせはもう終わったんだけど、どうも掴みどころがない子、というかね。彼自身は勘も良いし、無難なドラマにするだけなら収録までこのままでも良いのだろうけれど」

 コーヒーメーカーにお湯を注ぎ、温めている間に食器棚からカップを取り出す。お盆に三つ分のカップを載せ、コーヒーメーカーの元に戻った。コーヒー粉の違いが分からない僕はあれこれとコーヒー粉のパッケージをパパに見せ、指示された粉とフィルター、水をセットしてボタンを押してから一旦席に腰掛ける。

 鶴巻くん、というのは雑誌と同じように、父親から見ても掴み所のない人物であるようだった。

「昔やったドラマっていうのが、里沙がお腹にいることが分かった時のドラマなんだ。ドラマで父親役なんだ、って言ったら世津から『あと何ヶ月かしたら本当にお父さんになるんだから、ドラマの役くらい何てことないよ』なんて言われてしまって。死に物狂いで父親役を作り上げることになってね」

 思い出のドラマなんだよ、とパパは里沙姉が産まれる前……昔を思い出すように目を細めた。父さんは隣で言葉を溜め、そういうこともあったかなあ、と照れくさそうに言った。二人は視線を合わせ、お互いにはにかむ。

 あーはいはいお熱いことで、と僕はできあがったコーヒーをカップに注ぐべく席を立つ。父さんと僕の分には牛乳を注ぎ入れ、砂糖をぶち込む。僕がカップを二人の前に置くと、パパはじっと僕を見つめた。

「大事なドラマの続編だからいいものを作りたくて、鶴巻くんと話してたら今、一人暮らしをしているらしい。『一人暮らしが長くて家族がいる感覚も忘れている』ということだったから、家族を演じる予行演習がてら、一緒に住んでみたらお互いのことも分かるんじゃないか、という話になってね」

 隣の父さんは事情を知っていたらしく、態とらしく溜息をついた。今回の件でパパは父さんに頭が上がらないようで、ごめんね、と父さんの前で手を合わせている。

 僕はカップの中身をスプーンで一周すると、一口啜った。

「だから僕か。里沙姉はアルファだって分かっているし、澪もあれでアルファじゃなきゃおかしいからなあ。鶴巻円はアルファだったよね?」

「ああ。鶴巻くんは悪い子じゃないけれど、なんというか、間違いでも起こったら……」

 僕ははて、と首を傾げた。

 父さんも同じ考えであるようで、僕と目を合わせて首を数度縦に振った。父さんと僕の思考回路は結構似ているらしく、突拍子もない親子、とパパに言わせれば頭痛の種らしい。

 父さんはパパに『美形の貴方似の子どもが欲しい』と既成事実を作った上で、パパから逃げようとした前科持ちの人物だ。そんな突拍子もない父さんによく似ている、と真面目な顔で言われても、僕はそんなことしませんと言う他ない。

「「間違いが起こったほうが寧ろいいんじゃないかな?」」

 今回も頭痛が起きたのかもしれないパパは、カップを握って頭を落とした。僕と父さんはお互いにだよなあ、と意見の一致を当然のように受け止める。

「言うと思ったよ。だから一人暮らしをさせたかったんけれどね……鶴巻くん顔は良いからなあ」

 積極的に狙いに行こうというつもりは毛頭ないが、間違いでも起きようものならあの鶴巻円である。あの綺麗めの顔立ちとしばらく恋人同士なんてことになったらラッキーだ。鶴巻円の顔を褒める父さんもわくわくした様子だった。

 似たもの親子二人が別にいいじゃない一人暮らしなんてしなくても、という結論で纏まりそうになる中、パパはあの手この手で僕を一人暮らしさせようとしてくる。ただし、父さんはパパが准也の一人暮らしの資金を出すのは駄目、と終始意見が一貫していた。

 資金面でも環境面でも、このマンションは広くて暮らしやすく馴染み深い場所だ。よっぽどお金を積まなければ実家と同じ住宅環境を整えることは難しいだろう。

 結局、僕は一人暮らしは嫌だという考えを曲げることはなかった。

「そもそも、鶴巻円は、それを承諾したの?」

 パパはぎくりと僕の言葉に身を竦ませると、言いづらそうに声を細めながら言葉を返す。僕はあからさまにゆーっくりとカップの中身をかき混ぜ、その返事を促した。

「『そちらのお宅が問題ないのなら』という事は言ってたかな……」

「良識ありそうじゃん」

 悪い人ではないんじゃない、と言うとパパは更に身を縮めた。

 パパは全般的に良識があるほうのアルファなのだが、なにぶん芝居馬鹿なところがある。芝居が絡むと、道場に入門したり海外に高飛びしたりするのだが、これが一年に一回くらいのペースで繰り返されている。毎回連れて行かれる父さんを始め、家族はパパの言動には慣れっこだ。今更なことで今年の突拍子もない事件はこれか、とまた話の種が増えるくらいのものだった。

 基本的には番可愛さと子ども可愛さがこの年まで続くような世話好きで優しい父親なのだが、芝居というものは別の次元にでも置かれているのだろう。

「分かった、分かったけれど、准也と世津は自分の部屋には必ず鍵を掛けること。准也はいくら面食いだからって鶴巻くんにご迷惑をかけることなく、家族として接すること」

「はーい」

 僕が守るつもりもない適当な返事をすると、パパは僕の適当な返事を受けてしょんぼりとカップを握りしめた。准也が結婚なんて嫌だ、と飛躍した心配を漏らすパパに、父さんはそんなことある訳無いって、と声を掛ける。

 パパも大概息子馬鹿なところがあるが、自分の息子の顔を見てからその心配をするべきだ。ただ、パパの中で父さんの顔は好みの顔なのだろうから、何度言ってもこの息子馬鹿の言動は治る様子がないのだった。

「俺と似た害がなさそうな顔に芸能人がグラっと来るミラクルなんて、隆さん一人くらいで十分だよ」

 一人くらいで十分と言われた芸能人のパパはおれは好きな顔なんだけれどね、と首を傾げ、二人はその視線の間で微笑ましげに何らかの会話を交わす。

 ぐいっとカフェオレを飲み干した僕は、散歩に行ってくる、と言い残して席を立った。食卓には甘ったるい残り香が漂っていた。

 

 

 

 鶴巻円が引っ越してくることになった日、僕はいつもよりもきちんと髪を梳かし、部屋着にしてはきちんとした服装に着替えて出迎えた。

 オフの鶴巻円はゆったりしたカーディガンと赤のシャツ、細めのジーンズという格好だった。そもそも画面映えするほどには身長もあり、服に着られてもいない。僕はテレビと同じ格好良い顔だ、センスのいい服装だ、とただ感心するばかりだった。

 僕の隣にいる父さんもパパの顔には慣れているはずなのに、ぽかんと鶴巻円を見つめている。父さんも僕と同じように面食いだから、美形を見て少し気分が上がったのが見て取れた。

 里沙姉と、妹の澪は部屋着なのにファッション雑誌の撮影かと誤解されそうなほどこちらも部屋着を着こなしており、他所行きと同様に髪も巻かれていた。二人も新しい家族には挨拶しなきゃね、と時間を合わせて鶴巻円を出迎えに起きてきたのだった。

「いらっしゃい、鶴巻くん。……いや、『円』」

「『父さん』も。いらっしゃいなんて堅苦しいって」

 パパが『円』と呼び名を変えた意味を察し、その返しに『父さん』と返すあたり確かに勘が良い。パパは鶴巻円を一度ハグすると、ぽんぽんとその背を叩いて歓迎した。

 パパに続いて里沙姉と澪も鶴巻円に駆け寄る。

「久しぶりね。改めて鹿生里沙、兄弟では一番上」

「わたしは始めまして。鹿生澪です。一番下かな」

 里沙姉と鶴巻円は同い年だったはずで、鶴巻円は里沙姉を『里沙』と呼ぶことにしたようだ。また年下の妹は『澪』と。

 僕と父さんは二人して顔を見合わせ、微妙な表情をしつつちいさく首を振る。視線で『ハグはやめよう』と伝わってくるその迷いに満ちた眼差しに、僕も小さく首を縦に振る。

 パパや里沙姉や澪くらい綺麗めの顔立ちならまだしも、僕も父さんもコレだ。抱きつかれても嬉しくなんかなかろう。

 そうこうして僕と父さんの二人が先に挨拶するかの順番を譲り合っていると、父さんの腰が長い腕で引き寄せられた。

「番の『世津』だ。悪いけれど、ハグは遠慮してもらえると有り難いな」

 手を出すなと言わんばかりに『世津』と呼んだ番……父さんにくっついたパパに、鶴巻円は流石に同じアルファだけあって番に対しての独占欲は察したようだった。父さんは慣れたもので、パパの手を払いのけるようなことはなく、寄り掛かるように体重を預ける。

「お世話になります、世津さん」

「うん、しばらくの間よろしく」

 鶴巻円は軽く頭を下げ、父さんもそれに倣った。僕はタイミングを合わせるように父さんの隣に立った。

「鶴巻、さん、ええと」

 腕を差し出そうとすると、鶴巻円は当然のように僕を引き寄せて軽く抱きしめた。僕は差し出しかけた腕をたらりと垂らし、目を白黒とさせる。肩口からは香水などではなく、控えめな清潔感のある香りだけが漂った。

「准也だよな、……話は少し聞いてる。名字じゃなく円、でいい」

 僕ははあ、と気の抜けた返事をする。ちらりと近くにいる男の顔を見ると、近くで見ても肌のキメは細かいし、目元はぱっちりとしていて睫毛も長い。

 呼び捨てで良いのだろうか、とおそるおそる円?、と呼びかけると、ああ、と気軽に返事をされた。

 ただ呼び捨てにするだけだと言うのに、鼓動が跳ね上がる。別に芸能人の特別になった訳でもないのに、舞い上がっているのだろうか。

「あとで、食べ物の好き嫌いを書き出してもらえるかな?今日は間に合わないけれど、明日からなら好きなものも出せると思うよ」

「ああ、……悪いが、自分の食事は自分で用意する。気にしなくていい」

 僕はまた目を丸くする。戸惑っていると、横からパパが口を挟んだ。

「円は人の触った食事があんまり得意じゃなくてね。自分で準備させてやってくれるかい?」

 そういえば抱きつく時も布越しであったかもしれない。触れるのもダメなのか、食事のように口に入れるのだけがダメなのかはさり気なく聞き出しておいたほうが良いだろう。

 僕はやんわりと円と距離を取った。

「あ、じゃあ台所の使い方を教えないとね。夕食作りながらで構わないかな?」

「ああ、頼む」

 じゃあ夕食の準備の時に呼ぶから、と言うと円はパパと一言二言会話をして、運び込んだダンボールを片付けるべく部屋を出て行く。円がぱたんと扉を閉めた瞬間、家族全員で顔を見合わせた。

 最初にけらけらと笑いだしたのは里沙姉だった。巻き髪を揺らしながら僕の右腕を取る。

「てかおっかしー准也!鶴巻円だからって石像みたいに固まっちゃってさー。何ー好みの顔なの?んー?」

 澪が里沙姉の言葉に乗っかる。里沙姉に倣うように僕の左腕を確保した。

「えーほんとー!やだ、准也って鶴巻円の顔好きなんだ―!」

「あーかしましいかしましい」

 右に里沙姉、左に妹の澪が僕の両手を引きながら左右で喚く。慣れている僕ははいはいそうだねえ、と受け流すのだが、姉妹は面白くないらしく好きなの嫌いなの、と鬱陶しく繰り返す。

 あーはい好き好き、とおなざりに返すと、やっぱり面白くないらしく求めてるのはそういう答えじゃないのー、と返事をさせておいて勝手なものだ。

「准也ってさっさと番決めちゃいそうで嫌ー」

「まだわたしだって好きな子に振り向いてもらってないのにー」

 僕の身体を左右に一頻り振り回すと、二人はしばらくして飽きたらしい。ぱっと僕の腕を離し、円の手伝いに行ってくる、と部屋を出て行った。

 僕は虎と狼から逃げられた安堵感から、ほっと息を吐く。

「円って潔癖症?あんまり素肌を触れさせないほうがいいかな?」

 振り返りつつパパに聞くと、パパはある程度事情を知っているようで、口を開いた。

「いや、本人がどう思ってるかはわからないけれど、軽く触れる程度なら問題なさそうだよ。ただ、周りは布越しに触れるようには気をつけているくらいだから、さっきのは気を遣ってくれたんだろうね。食べ物は准也だからっていうより、工場で作られたようなものとか、サラダとか焼き魚とかを好んで食べていて、鍋とかが苦手みたいなんだよね」

 他人の体液、と皮膚接触、が苦手というところだろうか。隣で料理をする時には唾だとか、素肌に触れないよう、気をつけたほうがいいだろう。

 僕はリビングの棚に保管してある薬箱からマスクを取り出すと、ポケットに仕舞った。

「一緒に台所に立つならマスク、エプロン、三角巾があればいいかな。なんか調理実習みたいだね」

「懐かしいな」

 僕がバンダナを折って三角巾にすると、父さんは似合うー、と頭を整えてくれる。きゃらきゃらと笑いつつどれだけ三角巾の中に髪を仕舞えるか試行錯誤していると、パパはそんな僕たちを見て目を細めていた。

 僕はパパに三角巾姿を見せて胸を張る。

「パパ、これなら髪は落ちないと思う。どうかな?」

「うん、おでこが出ていてとってもキュートだよ。ああ、でもおれは自分の番の……世津の三角巾も見たいかなぁ」

 パパはだらりと相好を崩すが、うっとりと僕を見て感想を述べるパパのほうが世間的に見ればキュートだろう。そんなパパから三角巾姿を見たいと言われた父さんはパパの言葉にうっと言葉を詰まらせる。

「……やだ、でこ出すと間抜けに見える」

 父さんの言葉に、それって顔が似てる僕も間抜けってことじゃん、と言うと、父さんは口を噤み、うん、と頷いた。僕はぴしりと額に青筋を浮かべる。

 僕は真顔で父さんに近寄り、頭にもう一枚の三角巾を結んだ。勿論額はきちんと出しておく。パパは大喜びで、番のキュートなおでことやらにキスの雨を降らせていた。

 

 

 

 ある程度片付いた、と円が部屋から出てきたのは二時間ほど後のことだった。里沙姉と澪も最初の方だけ、当たり障りの無い部分は手伝ったそうだ。一ヶ月程度の滞在、日々の生活に支障がない程度の荷物のため、片付けもそこまで長くは掛からなかった。

 僕はその間台所の掃除に勤しんでいた。話を聞く限り、気にするのは人が関わるものだけだろうが、台所の汚れなども気にするかもしれないし、綺麗に越したことはないだろう。

 普段掃除しない場所を拭い、見られてもいないのに除菌スプレーを振った。まな板は漂白し、最後に布巾も洗い上げておく。

 パパと父さんは仲良くカトラリーや調理器具に汚れがないかチェックし、金属製のものは磨き上げた。

 円が来る前に、僕は三角巾を結び直し、口元にはマスクを付ける。爪を切り、流石にゴム手袋まではしなかったが、丁寧に手を洗った。

 そんな僕の姿を見た円は、台所に来るや否や僅かに目を見開いた。僕はその円の様子に気づかないふりをして、手招きする。

「台所案内始めるよ」

 こっちー、と一通りの設備について、スイッチの位置や使い方を説明する。電磁調理器、食器洗浄機、照明の位置、大体ボタンの色を見れば分かるので、ボタンの位置を重点的に説明した。

 同時に、今日の献立についてだけれど、と冷蔵庫を開きながら口を開く。

「鰆をムニエルにする予定だった、から下拵えから焼くとこまでは全部頼んでいいかな。調味料の分量を混ぜるのはこちらで。サラダは千切り用のスライサーあるから自分のぶんは自分で、スープは貰い物のお湯で溶かすやつあるから。付け合わせは冷凍のミックスベジタブルを解凍してフライパンで焼くつもり、……これは僕が焼いても食べられそうかな?」

「…………食える」

 怒涛のように言い切った僕を見て、円は一拍遅れて返事をした。よろしい、と僕はにっと態とらしく笑ってみせる。

「よし、じゃあそれでいこうか。うちの家族は誰が焼いたって焦がしたって気にしやしないから気楽にどうぞ」

 つい家族にするようにぽん、と肩を叩こうとして指先を彷徨わせた。無闇に触れないというのは中々に気を遣う。

 ムニエル、と指示した時点である程度手順が分かるくらいには円は料理をしているようだった。ただ、魚の水分を抜くだとかそういう細かい手順はすっ飛ばすので、その部分だけは僕が口を挟んだ。

 ソースを目分量で作る僕は、味見役を円に任せることにする。粉と魚を入れたビニール袋を振る円の横からスプーンを差し出し、感想を求める作業を繰り返す。

「いい匂いがする……。美味い」

 指で丸を作ると、僕はスプーンで最後に一回ししてそのまま円の方へ差し出した。家族の分のサラダは僕が作ることにしていたので、大皿にいっぱいキャベツをスライスし、人参をスライスし、レタスをちぎって、取り出したコーン缶を開けようとする。

 ただ、引いてもあまり動かず、ぐいぐいと僕がコーン缶と格闘していると、フライパンに魚を置いた円が横から代わってくれた。

 僕は円から受け取ったコーンを、円の分を残してぱらぱらとサラダの上に掛けた。

 円は魚の焼き加減をちょくちょく様子見しながら千切り用のスライサーを使い、便利だと呟きながら自分の分のサラダを盛っていく。

 僕はその間に並行して小さなフライパンを隣の口に置き、ミックスベジタブルをバターでソテーする。

 バターの香りが広がると、円は口元を緩めた。

「いい匂いだ」

 僕はこくこくと頷く。声を発しても良かったが、背後にいた時と違ってフライパンの前にいるというのに声を出せば唾を気にされるかもしれない。

 できるだけ声を出さないようにする、という僕の対応に流石に気づいたらしい円は、申し訳なさそうに僕のマスクを指先で引き下ろした。

「声を出さないように気をつける必要なんてないからな」

 僕はマスクを引き上げ、分かった、と答えた。むっとした円は僕のマスクを耳から外すと、僕がしていたマスクを丸めて自分のポケットに仕舞い込んでしまった。

 『気を遣うな』か『気にしない』ということかな、と僕は円の瞳を覗き込み、ありがとう、とだけ言っておいた。

「塩胡椒、取ってもらえる?」

「ああ」

 パパはミルを使いたがるけれど、僕はフタを開けるだけの塩胡椒がお気に入りだ。パパと違って凝った料理は得意ではないし、父さんほどではないけれど全体的に雑だ。

 大体魚の焼き加減とソテーの出来上がりが揃うように調整できたことに内心喜びながら、お皿を並べ、料理を盛っていく。

 お皿を触ったら嫌?と聞くと首を振られたので、円の分のソテーは僕が盛った。これで手を付けられなかったらどうしようと冷やひやするのだが、甘んじて死刑宣告を待つことにする。

 ごーはーんー、と僕が声を上げると、ソファで映画を見ていた連中がぞろぞろと台所に歩いて来る。僕はお椀にお湯を注ぎ、お吸い物の素でぱっと作ったそれをそれぞれの席の前に置いていく。

 何も言わなかったが、円が全員分のご飯を盛ってくれいて、ダイエット中なのー、と里沙姉から盛り過ぎだと苦情を受けていた。里沙姉は笑いながら、いいけど食べるし、と円の盛ったそれを鮮やかに笑って受け取る。

 僕もエプロンと三角巾を外して席に座り、全員の席の前に食事が揃ったところで、誰が何を言うでもなく手を合わせる。

「「「「「いただきまーす!」」」」」

「いただきます」

 全員が箸を取る。一拍遅れた円も、箸を取って魚に手を付けた。ぱくりと口に含み、ぼそりと美味い、と呟く。そんな円の様子に、めいめい自分の食事を取りながら微笑ましそうに口元をニヤつかせた。

「円は食事は何が好き?苦手なものはあるかな?」

 パパが問いかけると、円は箸を握ったまま口を開く。

「魚は好き、肉は鶏肉が好きで、野菜は極端に苦かったり香りの強いものでなければ何でも。辛めのは……割と好きかな」

 ふうん、と僕はサラダを頬張りつつ、明日は朝から食パンとベーコンエッグ、と献立を組み立てる。焼くところはやってもらって、コンソメスープは冷凍の野菜をそのまま放り込めば僕が直接触れることはない。

 下拵えのされた冷凍食品をストックしておくと便利かもな、と後でネットスーパーを巡回することに決めた。

 僕がううんとあらぬ場所を見ながら料理を考えていると、円がちらりとこちらに視線を向けた。

「なんだ?」

「明日の朝食に思いを馳せてる」

 ああ、と円は汁物に視線を向けた。

「なあ、一回味噌汁作ってみてくれないか?」

「……えー、食べられる?」

「それを試してみたくて」

 食べられなければ円の分だけお湯で溶かすだけの味噌汁になるだけだし、僕はいいよ、と答えておいた。円の皿に視線を向けると、僕が焼いた付け合わせも随分減っている。

 清潔だよ、と主張して良かった。わざわざ間抜けなおでこを晒した甲斐もあるというものだ。

「お豆腐楽しみだなあ」

「わかめもほしい」

「おあげ」

「ねぎもたくさん入れてほしいな」

 それぞれ勝手なことを言う鹿生家の人々に、僕は了解、と苦笑気味に返事をした。そんな言葉の群れの後で、その群れに続くように言葉が発せられる。

「大根がほしい」

 ぽつりと呟いたその声は、円の口から漏れたものだった。僕がぽかんとするものだから、円も動揺したように視線をうろうろさせる。可哀想な反応をしてしまった。

「……仕方ない。たくさん入れてあげよう」

 僕が耐えきれなくなってくすくすと笑うと、円は気まずそうにしながらも、こくんと頷いた。雑誌で見た取っつきにくいというより、単純に人のたくさんいる場であまり率先して喋りたがらないだけのように思えた。一対一ならこんなにもお喋りだ。

 汁物を啜ると、ほどよい塩味と温かさが喉を滑り落ちる。

「円、ちょっと食べ方についてなんだけど、自覚してたら聞き流してくれていい」

 パパの言葉に対し、がらりと真剣な表情に変えた円に、僕たちは箸を止める。

 僕はパパの言葉を繰り返した。

「食べ方?」

「そう、円って食べ方が綺麗すぎるんだよね」

 役者だけあって背筋は伸びており、座り姿も横から見てきちんとしたものだ。円は多くを箸で摘もうとはしないから零すことはないし、吸い物を啜るときにも音は立たない。食器を持ち上げてテーブルに戻す時に大きく音も立てないし、食べている途中の皿は綺麗なものだ。

 ただ、パパはその円の食べ方は一般的に見ると綺麗すぎる、と言った。僕はああ、と手を叩く。

「次の役柄的にそんなに綺麗に食べる役じゃないってこと?」

「それそれ、ちょっとがさつなくらいの、一般的な男性なんだよね。お腹減ったーって時はご飯は掻き込むだろうし、おれのイメージだともうちょっと魚の切り身は大きく箸で切り分けそう。一口も役のイメージより円はちょっと少ないかなあと思うし、姿勢はモデルとしてならパーフェクト、だけど一般人ならもうちょっと崩れているかな、と」

「……気を抜くとこんな風になってしまうので、崩し方を考えてみます」

 思い当たる節があるようで、円はぺこりと普段の名残のようにパパに頭を下げた。

 円も分かっているのだろうが、パパも仕草を役に寄せている真っ最中だ。次の映画の父親役が前回の続編だというのなら、僕はそのドラマを飽きるほど見ている。

 前回の父親役は左利きの人物だ。パパは基本右利きなのに、箸を今左手で持っている。

「パパは役に寄せてる間、仕草とか癖とかが役準拠になっておかしなことになってるけれど、円も役の仕草を普段から練習するの?」

 パパの仕草に視線を向けながら、興味本位で円に問い掛ける。円はインタビューのようなものを好んで受けようとしないのか事務所の方針なのか、他の共演者に比べて円の言動が表に出ることが少ない。

「ふとした瞬間にうっかり地の癖が出るタイプの人間だから、普段から近づけないとぼろが出る」

 円もパパと同じで普段の仕草から役に近づけていくタイプの人間のようだった。

「朝食の様子を撮ろうか?」

 僕の言葉に、円はカメラでか?と聞き返す。僕は頷いた。

「ビデオカメラを回しておくと、客観的に自分を見ることができて良いらしいよ」

 ね、とパパに視線を向けると、パパもこくりと頷く。

「助かる。あと、カメラの映像も悪いが一緒に見てくれるか?」

 別にいいけれど、と承諾する。僕が原作を読んでいるような作品は、パパが映像を見せてどこが違う?と相談を受けることもあって慣れている。今回の作品なんて前作の台詞の一部は覚えているくらいだから、アドバイスできることもあるだろう。

「でも、パパじゃなくていい?」

 同じ演技仲間の意見でなくていいのか、と問い掛けるとパパは、おれは聞かれなくても気になったら直ぐ言うからね、と聞かれるまでもないと言った。確かにパパは芝居好きだけあって空気は読むが口に出すことを憚らない。

 そっか、と僕が納得すると、更に円が口を開く。

「この中で、一般的な男性、は准也が一番近いと思う。准也にも意見を聞きたい」

 パパも役柄と同じ職業の人だとか、性格的に近い人に話を聞きに行くことがある。同じようなことだろうか、と僕はそちらも気楽に引き受けた。

 円は食事を終えると、パパと台本の読み合わせを始めた。横に原作の本を積み上げ、気になるところがあれば即座に原作の本で確認する作業を繰り返す。

 本人は何も言わなかったが、パパは普段よりも生き生きと台本を捲っては円と意見交換を繰り返す。芝居馬鹿の言動に円が迷惑がっていたら止めようとちらちら様子を窺っていたが、芝居に関してはパパにでも違う、と躊躇いなく言い切る円に、止めるのは野暮だと口を噤んだ。

 リビングで映画を見ていた他の家族は、パパ楽しそうだね、とこっそり顔を見合わせて笑う。一時的だが家族に加わった円が、付き合いづらい人、ではなかったことに僕はほっと胸を撫で下ろした。

 

 

 

 翌朝、この時間に朝食を作り始めるから、と伝えていた時間になっても円が起きて来なかった。あまりにも遅いものだからエプロンも身につけ、食材は冷蔵庫から出して並べ終わってしまい、わかめを水に漬け終わっても円は来ずに、仕方なく円の部屋まで迎えに行くことにする。

 円の部屋に近づくと、本人がセットしたらしいアラーム音が部屋の外まで漏れ聞こえていた。こんこん、と扉をノックするが、返事はない。

「円、朝だよー、アラーム鳴ってるー」

 何度か呼びかけるが、返事はない。扉を開けるか開けまいか迷ったが、円はパパを『父さん』と呼んだ。ならば僕と円は兄弟ということだ。

 ならば開けてもいいだろう。円の朝食がなくなることと僕が円に嫌われるかもしれないことを天秤にかけて、円の朝食を取った。

「失礼しまーす」

 再度ノックし、がちゃりと扉を開けると、円は大量に鳴り響くアラーム音の中で熟睡中だった。こんな音の群れの中で熟睡なんて信じられない、と僕は額を押さえる。

 僕は毛布ごと円を揺らす。

「起きてー、円。朝だよー」

 何度か繰り返しているともぞりと腕が動いた。薄く目が開き、僕を見るや否や僕の腕が取られ、ベッドへ引きずり込まれる。もぞもぞと長い腕が僕の身体を捉えてそのまま毛布の中に留めようとした。

 寝起きの悪さはこれまで見た誰よりも悪い、と僕は溜息をつくと、反動をつけて円の脚を蹴った。ついでに頬もべちりと叩いておく。

「…………あ?……ああ、准也……」

 寝ぼけているらしく僕の顔をぺたぺたと触る円に、僕はされるがままになりつつも額に青筋を浮かべる。芸能人という遠慮が僕の中から剥がれ落ちたのはこの時だった。

 僕は円の両頬を思う存分引っ張る。

「おーはーよーうー、お寝坊さん。ごはん作るよ―」

 僕が両頬から手を離すと、流石に痛かったようで円は自分の両頬に手を当てて、え?え?と困惑の声を上げる。

 それから徐々に覚醒が始まったようで、覚醒しきった円の最初の一声は何の捻りもないおはよう、だった。

「この寝起きの悪さって今日だけ?これでノーマル?」

「……仕事がない日は、これで平均かと」

「うわ、毎日顔引っ張って起こして欲しい?」

「顔は引っ張らないでほしいが、起こしてもらえると、非常に有り難い」

 顔を引っ張らないと起きなかった癖に、と言うと円は押し黙った。

 髪は乱れており、目もしぱしぱと瞬きを繰り返す。セクシーと言えばセクシーなのだろうが、しょんぼりと悪いことをした、と反省している姿は毛並みの乱れた犬のようだった。

 普段はどうしているのかと尋ねると、仕事がある日だけはきちんと起きるのだそうだ。今日は引っ越しの翌日ということもあり完全にオフにしていたが、オフの日はまず起きない、と本人は自信を持って言い切った。

 僕はこのまま寝かねない円をベッドから引っ張り出すと、寝間着の裾を引いて台所まで誘導する。円はリードを引かれた犬のように僕の誘導に従う。

「今日は食パンを焼いて、ベーコンエッグを焼くから、食パンとベーコンエッグはお願いするよ。味噌汁は僕が作るけれど、食べられなかったら味噌汁の素の買い置きをお湯で溶かして」

 増えたわかめをザルに上げておく。手の上で切るのは嫌がられるかな、と昨日の夜洗ったまな板を再度水で洗い流し、その上に豆腐を乗せる。普段よりも丁寧に賽の目に切った。

 油揚げにはケトルからお湯を掛け、ねぎと大根は火が通りやすいよう刻んでいく。

 色々な具材を行き来している僕を、円はフライパンに卵を割り入れながら眺める。

「懐かしいな」

「お味噌汁が?」

「ああ、こちらに来てから長いから……、お手伝いさんがいたんだが、こんな風にやっていたなと」

 懐かしむような視線に、円の家のお手伝いさんよりも僕のほうが手際も悪いし下手くそだろうな、と思いながら料理を進める。

 こうやって慣れている体で味噌汁を作っている僕も、在宅勤務で構わないという会社が決まって、一番融通がきくようになってから家事を本格的にやり始めた。料理に関しては事前にこうしたいなと考えた後で作り方は調べるし、料理本の基本の作り方のマニュアル通り、くらいのものだ。

 鍋にお湯を沸かす間、大根好きなの、と聞くと素直に好きだと頷く。他人が作ったものは食べられない割に、大根の煮物の味は好きなのだそうだ。ただ、普段食べるとしたらパッケージに詰められたおでんだそうで、好きなものなのに手作りは食べられない、というのは難儀なものだなと具材を茹でながら考えた。

「あ、でもお手伝いさんの料理は食べられるんだね」

「ああ。ただ、子どもの頃から居た人だから慣れかもしれない……、何が違うのか、俺も全然わからないんだけどな」

 だから准也の味噌汁が食べられるのかも食べてみないと分からない、と円は続けた。

「何が違うと思っているのか。准也なら食べられるのかそうじゃないのか、手をつけてみないと……、理由がわからないだけにな。ただ、お湯を掛けるだけの味噌汁はまずくはないが飽きた」

 丁寧に綺麗な形のベーコンエッグを作り上げると、円は冷蔵庫からキャベツを取り出してスライスし始めた。

 既成品の粉末だしと味噌で失敗することはないが、お試しで小皿に少し汁を取って円に差し出す。この時点で食べられないかもと思ったが、円は平気そうに小皿を受け取ると、口に含んだ。

「美味い」

 即座に返され、大丈夫そうだとほっと胸を撫で下ろす。料理ができあがると、お互いにできた料理を皿に盛り、ふたりだけの食卓に皿を並べた。

 円から他の家族は起こすかと尋ねられたが、朝食の時間を揃えられる時は僕が作っている横で偶に手伝いつつ待っているような家族たちだ。今日は誰も起きてこないということは、休日だからいつもより長く寝ているのだろう。

「准也は休みの日なのに早いんだな」

「在宅勤務ってこともあって、休みが自分で決められるから、自制しないと休みだから寝ちゃおう、っていうのが癖になるからね。平日も休日も平均的に寝て、同じ時間に起きているよ」

 僕が同じ時間に寝起きしていると、家族にとって朝食が起きた時には完成している状態になっているのも都合が良かった。パパと里沙姉の仕事なんて特に、忙しい時は朝も昼もない状態だから、睡眠は取れる時に取ってもらいたいのだ。

「あ、カメラ」

 忘れるところだった、とビデオカメラを取り出し、丁度全体が映るよう棚の上に置く。円に席に座ってもらい、きちんと写っていることを確認して録画ボタンを押した。

 じゃあ、とふたりして席に座り、お互いにちらちらと視線を交わす。

「いた……、「いただきます」」

 ばらばらに始まり、最終的に声が揃った瞬間にふたりして笑ってしまった。二日目にしては良い出来なのではないかと思う。

 円は前のめりに味噌汁に口を付ける。味見はできたが、僕がそわそわ反応を待っていると、円は味見の時と同じ言葉を繰り返した。

 褒める言葉としては短いが、十分だった。ベーコンエッグをつまみながらも早々に味噌汁を干し、真顔で二杯目を食べたら足らなくなるか、と問うてくる。

 僕はまたしても噴き出し、たくさん入れたから大根いっぱい取りなよ、とにやにやしながら言った。円は僕の言葉に反発することもなく、言われたとおり几帳面に大根だけを取り出しては盛っている。

 その時点で僕は笑いで撃沈した、なんでそんなに大根が好きなんだ。ひーひー笑っている僕の横で、円は口元を緩めながら味噌汁を口に含む。

 昨日よりも大口でがっつくように食事を取っているように見える。足が開いていたり、椅子の背に身体を預けたりと、仕草が昨日の様子とはかなり違っていた。箸を置く時も円が昨日やることのなかった皿の上にばらばらに置くなど、細かい動作も変わっている。

 撮るまでもなかったかもしれない。丁寧に食事を取る理想的な姿勢の芸能人、から朝お腹が空いてがっついて食事を取る男性、に仕草が変わっていた。

 円の様子を見つめながら、円の言葉を反芻する。

 円は分からないと言ったが、僕は安心感じゃないかなあとぼんやり思った。昨日僕は三角巾にエプロンまでして清潔ですよ、とアピールしたが、今日は円の寝起きが悪かったあの一件で三角巾を忘れていた。

 それでも、円は何も言わないし、味噌汁には手を付ける。他人がどう用意したのか分からない料理には何が含まれているのか分からない。けれど、隣で誰かが作っていたのを見ていた料理ならその過程は分かる。

 料理の過程が分からないものが汚く感じる。円の基準はそれじゃないかと思ったが、それだけでもないような気がするし、会って二日目でそれを物知り顔でずけずけ指摘しようとも思わなかった。

 隣で料理をする間に何かに気づいてくれればいいなあ、と思うばかりだ。そうすれば、円の好きな大根の煮物も習慣的に口にできる日が来るだろう。

「円は今日、どこか行くの?」

 それは、単純に興味本位の質問だった。

「ああ、前回のドラマのロケ現場を近場だけでも見てこようかなと」

「へー、取材ってやつだ。いいなあ」

「暇なら来るか?昼過ぎ頃には帰れると思う」

 円は平然と言うが、僕には急な話だった。つまりは一緒にお出掛け、である。

 昨日、円は一般的な男性に近いと思われる僕の感覚を教えて欲しいと言った。現場に同行できればそれも捗るのだろうが、昨日今日でいきなり一緒に出掛けるとはやっぱり急な話だ。

 結局遠慮しようと言葉を選んでいる間に連れ出された僕は、一緒にたい焼きを食べてみたり、ランチに行ってみたりと普通に楽しんで帰宅したのだった。

 

 

 

 円は順調に僕の家族に馴染んでいる。パパとは言わずもがな役について詰めを進めているし、里沙姉や澪とはファッションについて話し込んでいる姿を偶に見る。

 里沙姉も澪も、自分たちを可愛い、と褒めそやすことをしない男性の意見を聞きたかったようだ。僕から見れば里沙姉も澪も可愛い以外の何ものでもないので、どの服を見ても可愛いと言ってしまうが、円はその上着にスカートはスタイルが悪い、などと美人を美人とも思わない直球さで感想を言う。

 父さんと僕は二人して映画を見ていることがよくあるが、そこに円も加わった。パパの映画コレクションは一室分あるし映画チャンネルも契約しているので、アレがいいコレがいいと最近では好みの映画の持ち込み会のようになっている。

 円はパパと父さんの馴れ初めが面白いらしく、ちょくちょく父さんから話を聞いている様子を見掛ける。

 接しにくいとは?一匹狼タイプとは?というような状態で、家にいる間、円は大体リビングにいることが多くなった。僕もリビングにいることが割合多いので、円とはだらだらと世間話をする仲になった。二週間も経った頃には芸能人という感覚はとうに消え去っていた。

 円の滞在は一ヶ月と聞いている、もう折返しなのだなあと寂しくなってしまうくらいには、家族の一員という感覚が日々強くなってきている。芸能人で、縁のない相手で、滞在が終わったらもう会うこともないのだろう。

 その日は澪は学校へ、里沙姉もパパも仕事で、珍しく父さんが打ち合わせに出てくる、と外へ出ていった。僕は朝から仕事をしていたが、昼過ぎになり、朝早くから出て行った円が戻ってきたことを機に手を止める。

「おかえり、お昼は食べる?」

「まだ。食べれたら有難い」

 おっけ、と炊飯器の中身の処理がてら簡単にできる炒飯にすることにして、出来合いの冷凍餃子を冷凍庫から引っ張り出す。

 円は僕の手伝いに台所に立っているが、自分の分だけ用意するような分担は徐々に無くなっていった。品を変えこれは食べられる、というテストを続けていった結果、少なくとも僕に対して、円の『食べられない』は全く発症しなかった。めんつゆで味付けしただけの煮物を作った日は大根が真っ先に消え、思い出したようにまた食べたい、と呟いている。

 朝早くから撮影だったという円は、顔を洗い、服を部屋着に着替えてリビングに戻って来る。僕がもう作り始めていることを察したらしく、塩胡椒を僕の近くに寄せ、隣で昨日使った食器を食器洗浄機にセットする作業を始めた。

 できた、というタイミングではもう皿が用意されていて、僕は有り難くその皿に炒飯を盛る。

 テーブル拭き、飲み物の用意、といった作業は円が行ってくれていたらしく、マメだなあと感心しながら炒飯の大皿と餃子の皿を中央に置いた。僕と円の二人だけの時、皿も分けずに用意されるので従っているが、唾液が触れることが避けられないのに本当に大丈夫なのかと僕のほうがはらはらしてしまう。

「「いただきます」」

 挨拶のタイミングも慣れたものになった。

 辛めに味を付けたそれを僕は少し辛すぎたかな、と円の様子を窺うが、美味しそうに口に含んでいる。レンゲで口元に寄せるように炒飯を食べる姿は、初日のあの行儀の良い姿とは全く違っていた。

「うまい」

 ぱっと顔を上げ、思い出したように口を開く。どうやら少しの間夢中で食べていたらしい。勢いよく茶を飲み干し、レンゲを握り直す。

 几帳面に味の感想を述べてくる円の癖は、作り手にとっては嬉しいものだ。

「あ、完全にスープ忘れてた。たまごスープでいい?」

「ああ。いいな」

 お椀にお湯で溶かすタイプのそれを入れ、お湯を注ぐ。お椀を両手に持って円に渡すと、円は礼を言って受け取った。お椀の中身を椀の縁に口を付けて啜る。

 鋭い目元が細められ、整えられた長い指先は大切そうに椀に添えられている。陽の光が差し込む部屋で、一度も染められていないような濃い黒髪が煌めいた。美しいものとはこういうもののことを言うのか、と僕は咀嚼を止めた。

 父さんが言うところのパパくらいの美形の顔に慣れる、という感覚が僕には分からなかったし、鶴巻円と同居なんてとんでもない、といった気分だったのだが、確かに美形の顔にも慣れる。

 ただ、やっぱり顔は好みで、ふとした瞬間に輝く表情にくらりと来るのは仕方がないところだ。

「なあ、准也も昼から休みにしないか?」

「何の映画?」

 相手の意図を察して問い返すことにも慣れたものだ。円は一言、二十年ほど前に流行った恋愛映画のタイトルを挙げた。

「見たことないや」

 僕が答えると、円の口元が嬉しそうに弧を描いた。

「じゃあ休みだな」

 里沙姉や澪なら分かるが、ミステリーやホラー好きの円にしては恋愛映画という選択は珍しいものもあるものだ。それに、自分のオフに付き合ってくれと言われるのもまた初めての事だった。

 もうちょっと仕事やりたいなあ、とは口が裂けても言えそうになかった。浮かべた表情に楽しみ、とでかでかと書いてある。

 子どもの前に飴を差し出しておいて、取り上げるのは良心が痛む。

「「ごちそうさまでした」」

 そのうち、挨拶を合わせようと考えることすらなくなるのだろう。

 食事を終えて食器を片付けている間に、リビングのテーブルの上には飲み物が用意されていた。横には軽く摘めるよう、おやつに買ってきたらしいお饅頭が添えられている。

 テーブルに近づいた僕がわ、と声を上げると、悪戯の成功した子どもみたいな表情で、お饅頭のうちの一つを僕の手に握らせた。

「長く置くと悪くなるから、ふたつしか買って来なかった。世津さんには内緒な」

「任せて共犯者さん。父さん甘党だから、バレたら怒られちゃうや」

 有り難く頂くことにして、僕は円と距離を空けてソファに座った。円はリモコンを取りにテレビの前まで歩いて行くと、片手にリモコンと、左手にティッシュの箱を持って戻って来た。

 戻って来た円は僕が距離を取ったというのに、僕のすぐ隣に座り、ティッシュ箱を僕に手渡してくる。僕があまり触れないよう気を遣っているのに、当の本人はこの調子だ。

「泣ける系?」

「たぶん。病気を抱えた主人公だし、たぶん俺は泣く」

「円、割と何でも泣くよね」

 円は動物ものと人情ものに弱く、怖くて泣くことはないが、感動ものに関しては僕よりも父さんよりも先に涙が頬を伝っていることもある。本人からすると役で泣くのに困らないので、これはこれで助かっているのだそうだ。

 手元で再生ボタンが押され、映画が始まる。

 登場人物が画面に映し出されると、円が役者さんについて解説を加えてくれる。円が実際に会ったことのある人物に関しては、円から見た役者像も追加で語られていき、僕は相槌を打ちながら、円の視点の細かさに感心した。

 僕はティッシュ箱を円と反対側に置き、いつでも手渡せるよう備える。

「なあ、准也、ちょっと手貸して」

「ん?」

 左手、と言葉を足され、言われるがままに左手を円の側に差し出した。円はその左手を包み込むようにきゅっと握る。慌てて手を引こうとしたが、引こうとした瞬間更に強くホールドされて引くこともできなかった。

「は?」

「怒るなよ。俺、自分が潔癖症みたいなものかと思ってたけど、違うのかもな……」

 ぎゅ、ぎゅ、と僕の手を握る円に、離せ、と手を引いてみるけれど、手を離されることはなかった。円は考え込むようにしているが、その間にも僕の指の股を摘んでみたり、指先をなぞり上げるように辿ってみたりと僕の手は弄ばれ続けている。

「ちょっと、こっち寄って。それでここ座って」

 ぽんぽん、と叩かれたのは座っている円の足の間だ。僕がまた疑問符付きの声を上げると、円は困ったように眉を寄せた。

「頼むから。ぎりぎりまで俺に寄って、ついでに俺の身体にべったべたに触って。素肌だと尚良い」

「待ってそれは僕が円のファンに刺されるって!」

 ひえ、と逃げようとした僕の服の裾を引かれ、ついでに足を引っ掛けられて器用に引き寄せられると、がっしりと腰を捉えられたまま言われた場所に座らせられた。ひどい、としくしく泣き真似をする僕を気にもせず、円は僕の頭を撫でる。

「おー。いいサイズ感」

「だめだこれは刺されても仕方ない。ああ……」

 円は僕の腹に手を回すと、そのまま両手でぎゅう、と抱き締める。僕は先程からされるがまま奇妙な声を上げ続ける人形と化していた。円はその体勢がしっくり来たようで、僕の肩に顎を乗せて僕の様子を窺う。

「そういや世津さんも准也も面食いなんだっけ。俺はどう?」

「ものすっっごく美形だと思う!だから離して!」

「……その割には逃げられるわ顔逸らされるわで真実味が薄いな」

 もうちょっと近づきたくなるもんじゃないのか、と耳元で囁かれるが、世の中には近寄り難い美形ってカテゴリがあるんだ、と僕は心中で絶叫した。その近寄り難い美形の典型のような顔は、好みじゃあないのか、と変に誤解をしてすこし寂しそうにしている。

「そりゃそうか、隆さんの顔に慣れてたら、俺くらいじゃ全然だよなあ。俺も仕事柄、割と悪くないと思ってたけど、比較対象が隆さんだもんな……」

 『隆さん』……パパの顔と比べたらなあ、とぐりぐりと傷ついたように頭を擦り付けてくる円に、訂正してあげたい気持ちは山々だった。ただ、同居人から『好みのストライクの顔で同居中にあわよくば間違いでも起こってくれないかと思っていました』なんて言われたらドン引きだろうと、僕はぐっと口を噤んで頭を撫でた。

 ありがとうな、と円は少し浮上すると、その後は少し黙って映画に集中することにした。 僕が有り難く饅頭に齧り付き、美味しい、と声を上げると、もう一個の饅頭を齧っていた円はいる?と食べかけのそれを差し出してくる。僕が黙って首を振ると、おもむろに口に饅頭を突っ込まれた。

 何なんだろうこの分からず屋、と白い目をした僕は、饅頭の味も分からずに咀嚼も程々に饅頭を飲み込んだ。

「……円は潔癖症じゃないよ。絶対そうだよ」

「まだ分からないだろ。まだ抱っこしただけだし、……おかしいな、キスシーンとか後で皮膚が剥がれるほど洗って殺菌してそのあと吐いてたのに」

 ぶつぶつと過去のあれこれを語って聞かせる円は確かに他の人に触れられることを嫌っていたようだが、だというのならこの距離感は何だというのだろう。

 ああ、と納得したようにぽんと手を叩いた円は、

「なあ、キスしてみてもいいか?」

 途端、僕にひっぱたかれ、蹴られ、ふざけるのも大概にしろ考えなしと罵られ、反省したのかその後は大人しく僕を確保して映画を見ていた。

 結局ぐずぐずになるまで泣いた円は、いい映画だったとしきりに言っていたが、僕はほとんど映画の内容を覚えておらずに見直す羽目になった。

 

 

 

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坂みち // さか【傘路さか】
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