宰相閣下と結婚することになった魔術師さん

宰相閣下と結婚することになった魔術師さん
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◇1

 

 いつもと同じように、朝が始まった。

 三十と少し、正確な年は書類を見るまで自信を持って答えられない年齢を、ぼんやり思う。

「おめでとう、俺」

 ぼりぼりと頭を掻き、寝台から下りる。足先を慣れた感触が包み込んだ。本当に普段と変わらん、と諦めて起き上がる。

 三十を超えてみると、年を重ねて変わることなんて早々ない。脇の机から眼鏡のつるを拾い上げて耳に引っ掛けると、ようやく目の焦点が合った。

 洗面台で冷たい水を降らせてばしゃばしゃと顔を洗い、水分を風で飛ばしながら新聞を浮かせて回収する。日付欄を見てやっぱり誕生日だった、と誕生日くらいは間違っていなかったことに安心する。

 取って返した台所の戸棚から、パンを取り出す。カップに牛乳を注ぎ、指先に魔力を灯してさらさらと宙に文字を書き記す。仕上げに句点をくるりと丸く描けば、『起動』の言葉と軽い爆発と共に、カップが温もった。

 いただきます、の言葉に返ってくる声はない。それらは当然のことながら、今日だけは多少寂しくもあるかもしれない。

 新聞をばさりと広げ、左から右に、興味のない見出しは飛ばしつつ、内容に目を通す。

 パンの味など、覚えてはいない。毎日同じパン、同じ牛の乳だ。齧りながら並行して手を動かす。腹を膨らますためだけの食事に対して、記憶を割くほどの思い入れもない。

 新聞が終わると、月刊の技術誌を引き寄せて付箋の位置を開く。魔術師の中でも、術式構築に関わる内容に特化した情報誌は、ごく一部の偏屈屋向けだと思われているそれだ。

 内にいる人間からすればそんなことはないのだが、他人から見れば魔術式構築家だなんて『十把一絡げに変人』という肩書が付く。医療魔術師らが陽の光を浴びる職種であるというならば、魔術式構築家は影であり、語られることの少ない職種だ。

 魔術を使うことに特化した側ではなく、それらを使うために術式を創り上げる職人である、と主張するのは自由だが、まあやはり周囲からの評価は『変人の集まり』だ。

 時計の鐘が鳴り始めると、魔術師の制服であるローブに着替える。慣れた手付きで髪も括る。

 少し縛れる程度に伸ばして、ごくたまにばっさり切って、という髪形は、顔見知りの理髪店でいつも少しだけ揃えてもらうそれだ。家の鍵を掛け、かつかつと石畳を普段よりも軽い足取りで叩く。

 堀でも眺めながら、少し歩けば職場の敷地に辿り着く。

 王宮の片隅にそれはある。昔は簡易的な小屋だったらしいが、それから少し良くなった小屋が、魔術式構築職である自分の職場である。

 鍵の解錠の術式を宙に展開すれば、認証が通ったことを示す軽快な動作音が響く。音で表現するなら『ぱぱっぱらぱぱぱー』とでも言うような音は、数年前に部下のエウテルが鍵でも付けましょうかね、と術式を創った時に、即興で魔術機をがちゃがちゃやりながら作った音だった。

 エウテルは酔ったら歌いたがるが、歌は下手で歌詞もよく間違える上に基本が雑である。そんなエウテルが作った音なので、たいへん愉快な代物だが、大体他人がやることで問題がなければどうでもいい、というのが上司部下に共通した感性で、個人主義的なところが多分にある職場だった。

「おはようございます」

「「おはようございます」」

 普段どおりの声量で挨拶をすると、朝早い面子はもう既に席に着いて魔術機をかちゃかちゃとやっていた。まだ業務時間ではないので、おそらく趣味であろうと思われる。

 同じように席に着き、魔術機に触れて魔力を通す。起動音と共に、ぐわんぐわんと機械音が響き始める。

 部下の分の出勤記録表を判子打ち機に掛け、魔力を流すと、機械がぺらぺらと記録表をめくり、ぽんぽんと俺の家紋の判子を打つ。

 魔力で記録されてるのになんで承認印が要るのか、と上に苦言を呈したことはあるのだが、魔力が少ない部署もありますので、と総務部署に標準書式に押し込められたのは記憶に新しい。

 一台でも魔術機を使えない場所があるのなら情報収集は総じて紙、お役所仕事はそういうものだ。思う存分カミに埋もれるがいい、あんな不便で嵩張るものを信仰するだなんて馬鹿げている。

 部下のシフに面倒だと告げると、しばらくして魔装技師のトールを巻き込んで判子打ち機を作り、いいもの出来ましたよ、と笑顔で持ってきてくれた。上を変える努力はせず、それでも魔装技師は巻き込んで面白いことをやりたがるあたりが、本当に俺の部下らしいところだ。

 ちなみに判子打ち機は王宮内で若干量産されて、事務部門に愛用されるようになった。シフには臨時給に上乗せしておいた。

 そのシフが代理、と俺が一息ついたあたりで声を掛けてくる。

 課長代理という肩書を持っている俺は、基本的に縮めて姓もなく代理、と呼ばれることが多い。付き合いが長いシフなんて、モーリッツって姓は長いし、舌は噛むし、と人の姓に対して散々な言い様だ。名前で呼べば良いのに、妙なところは律儀でもある。

「今日なんかあったんですか? 王宮内が騒がしくないです?」

「王宮内を通らない通勤しかしないしなあ。あと管理職だからっつって回ってきてる情報もない」

 なんだろうな、と適当な相槌を打ち、画面に映る作りかけの術式を眺める。記述式の魔術でよく使われる文字を定型化して、入力装置から送り込むようにしたこの機械は、この魔術式構築家にとっての良き仕事仲間である。

 昨日どこまでできたっけな、と机の上の覚え書きの紙を拾い上げる。

 シフはへー、と答えにもならない声を返すと、椅子の背に凭れ掛かる。椅子の背が体重で撓った。

「でもなんかめでたい感じだったんですよね。誰かそういう人いましたっけ?」

「宰相閣下とか、引く手多そうだけどな」

「あーわかるー、わかります。顔もいいし、代理と違ってあのひと何でもできるし」

 宰相は俺より数歳上だが、独身のはずだ。王宮の皆は、宰相があれだけ魅力的で言い寄られているのに独身というのは、仕事が原因ではないか、と言う。

 シフが訳知り顔で指を立てる。

「けーど、王宮に住んでるっつうくらい仕事魔で、伴侶がいても関わる時間ないでしょう」

 ・宰相は仕事に厳しい

 ・そして宰相は時間を仕事に充てることを苦にしない

 ・よって宰相は時間がない

 議事録にすればこんなところだ、結論に波線か矢印などあれば尚良い。

 宰相は顔立ちも悪くない。性格も、国王が絡まなければ気が短いわけでもない。稼ぎもあれば、長身で体も締まっている。

 ただし、仕事については質もいい上に期限もきっちりしているので、仕事が宰相に集まりがちになる。尾鰭の付いた噂では、宰相の去年一年の完璧な休日は三日らしい。年間である。

 地獄とはこのことか、と誰かが呟いた言葉に、魔術式構築課の面々は総じて頷いたものである。

「まあ、同じことは代理にも言えますけどね」

 またもや訳知り顔で、ふふん、と言うシフに自分のことについては否定の言葉を差し挟む。

「いや、全然違うだろ疲労感とか。俺がたぶん宰相の生活したら二ヶ月で病む。魔力欠乏症になる。なんであのひとは病まないんだ」

 どうぞ、とエウテルが自分の分を淹れついでに人数分用意してくれた珈琲を、礼を言って受け取り、代わりに机の上にばらまいている飴を渡した。

 課長代理と呼ばれる俺もまた、仕事魔と部下には言われる側ではある。だが、仕事もできるから集まるというより、家に帰りたかったり帰るべきだったりする者を優先して仕事を引き受けているためで、宰相とはまた質が違う。

 宰相は、傍目に見ていても宰相向きだ。俺は仕事が出来る人というよりは、出来る訳ではないが、壊れずにある程度の仕事ができる、人なだけだ。

 シフは俺の言葉には同意しかねるようで、ぎしぎしと鳴る椅子の背は、違うちがうとでも言うように喧しく耳に届く。

「代理も大概ですって。でかい案件のとき一ヶ月ほとんど家に帰らなかったのあんたですよ」

「俺らは波がある、宰相は縦軸が上に触れてしかいない波形だろあれ。はやく宰相補佐が付けばいいんだけどな」

「あー、人選は済んでるんですよね。なかなか就任の切っ掛けが、って」

 宰相補佐は、ここ数年くらい議題に挙がっている案件だった。

 宰相がどうも休まないので、王宮だけでなく民にまでそのことが知られてしまい、労働管理の課が民に文句を言われる、という珍妙な事態になったことが切っ掛けだった。さすがに宰相に法を適用して最低の年間休日数を、という訳にはならなかったが、あまりにも休みが少なすぎでは、といった心配の声を思い出す。

 歴代の宰相の中では、顔も良ければ仕事もでき、問題も起こさない、国民に好かれている稀な宰相閣下である。

 宰相補佐の人選は済んでいる。宰相自身が教えるには時間が足りないので、前宰相の元で学習を積み、あとは就任待ちといったところだ。シフが言うように慶事があれば、一緒に就任式をするだろう。

「祝いごと待ちじゃなく、なんというか、早く宰相補佐を就任させてやったら感はあるよな……」

「ですよねえ。おれ付き合ってる子に贈り物するとして物決まらない自信ありますけど、宰相に一番あげたいもの休みの消化数って即答できますもん……付き合ってる? 人? まあいないんですけど」

 はー悲しい、と茶化して告げられた部下の恋愛事情に、若者ぶってわかるー、と軽く口調を合わせたところで、玄関から、ぱぱっぱらぱぱぱーと音が鳴った。

 それに合わせるように、は? と聞き慣れない驚く声がする。普段この職場を訪れない人の訪問らしい。

 扉を開いたのは、同じ課のサーシ課長だった。俺達はおはようございます、と魔術機から視線を外して声を掛けたが、課長の後ろの人物に驚き、慌てて椅子から立ち上がる。

 シフも同じように転げ落ちるように立ち上がって、びしりと背筋を伸ばした。シフと横目で視線が合う。噂をすればなんとやらという諺があるが、言霊というものは恐ろしい。

「あ、わざわざ立ち上がらなくとも構わない。ロア・モーリッツ課長代理に用があってな」

 シフの視線が俺を向く。

 何をしたんだ、と困惑する視線に、何もしてない、と首を振って宰相の方を向く。そう、宰相だった。

 そこに立っているのは本来なら王宮の中枢を陣取り、こんな王宮の片隅の掘っ立て小屋の屋根だけ強化したような場所に来ることはない御仁だった。

 ガウナー・ハッセ。王に次ぐ権力を持つ、我が国の宰相閣下だ。

 濃い金髪と深い青の瞳は、貴族であるハッセ家の中でも王族の血が入った当主の血統の特徴を色濃く反映しており、端正な顔立ちは女性受けが良い。口元は引き結ばれていることが多く、口調も強いが、ひとたび動物相手に口元が緩もうものなら、乙女以外の口からも黄色い声が漏れる。

 真面目で几帳面、堅物の印象が強い。現国王が朗らかで人好きのする方であるため、赤毛の国王陛下と金髪の宰相閣下を、太陽と月に例える者もいるほど対照的な二人だ。国王、宰相、大神官の三名は対照的な人物であるが、三人とも古くからの親密な友人であるそうで、国王に意見する宰相に遠慮は感じられない。

「宰相閣下、どうされましたか? すみませんが、心当たりがなくて」

「ああ、私も今朝までモーリッツ氏に話しかける予定はなかった」

 課長の背後にいた宰相閣下は、俺の前まで進み出る。

 人違いでもなんでもなく、そこにいたのは先ほど話の種にしていた宰相閣下であった。俺は悪い話でないといいな、と考えながら、宰相の言葉を待った。

 珍しいな、と感じたのは宰相が言い淀んだためだ。言葉の合間すらも上手に操るこの宰相が、困惑という空気を纏って言葉を躊躇うのは稀なことだ。

「神殿から連絡があった。神託が下った。『国王第一の臣下』……これはおそらく私のことだ……『と黒の書を紋に持つ者が婚姻を結ぶ』と」

 シフがえっと間抜けな声を上げ、慌てて口を閉じた。俺は驚きで声も上げられなかった。

 判子打ち機から打ち出された家紋を視界に入れる。判子でも白黒ではあるが、家紋として記録されている俺の……モーリッツの直系の家紋は黒の書籍だ。

 物が食えなくとも学を取れ、学を志す崇高な精神が身体を死なせるものか、とモーリッツ家を急激に興した代の当主が『知識こそが全て』と定めた家紋だった。

 モーリッツは貴族家としての権力はない。ただ、財を全て書籍の収集とその安全な管理、学問分野への出資に充てることを繰り返していく中で、各地の学び舎にモーリッツ家の者が分家も含めて散っており、研究者として横の繋がりが強い傾向にある。

 国家単位の研究には一人モーリッツの者を専門外でも入れておけ、やる気にさえさせれば専門家を絶対にどこからか引っ張ってくる、と人脈を当てにされることが多い。そんな有名な家に生まれたにしては俺自身は天才肌でもなく、落ちこぼれ側なのだが、それでもモーリッツの一員ではある。

「……家紋に黒の書を持つのは……確かに私の家紋ではありますが、該当者は他にもいるのでは……いや、あー。……なるほど、結婚できる者か」

 両親は勿論結婚済み、弟も妹も家庭を持っている。家紋が黒の書で、結婚できる年齢、現在未婚の者は極端に少ない。

 モーリッツ家は分家も含め、研究肌の変わり種が多いことから結婚しない者が多く出るのではと言われがちだが、変わり種が多いからこそ、これだと決めると決して曲げない。

 こうと決めると押しまくるので、俺のように好きな相手を決めずに研究や仕事にしか興味を示さない人間しか、未婚として残らない傾向にあった。つまり宰相と婚姻を結ぶ、と神託によって示された相手は、俺が妥当だ。

「既婚でなく、成人している家紋の該当者が君だった。ついては少し話がしたいのだが、……数分で終わるようなものではないので、仕事は休めるか? 半日でも良いのだが」

 俺はその日の予定表を、上から下に指でなぞりながら確認する。打ち合わせの予定は、今日は幸いにして一件もない、となれば王宮内にも残るのだろうし、どうにでもなる。宰相の方を向いて、こくりと頷く。

「私は一日でも休めますが、宰相のほうが休めないのでは……」

「ああ、だから悪いが私が書類仕事をしている傍らで、色々と話させてもらえればと」

 おそらく宰相が書類仕事のみに調整するまでにも、色々とあったのだろう。それでも書類仕事までにしか仕事を調整できなかったのだから、やっぱり宰相だわ、と心の中で口笛を吹いた。

 ここまで仕事を詰め込む人間を見ると、心の中では拍手と心配が入り混じる。

 ちらりと見た宰相は睫毛も長く、青の瞳は俺から一瞬たりとも逸らされなかった。俺は背筋を伸ばしてその場に立っているだけなのに、上から下まで舐め回されているような心地だった。

 服の下まで見ていると告げられても、ああそうですか、と納得するほど強い視線だ。その視線から逃れるように、机の脇に視線をやる。

「ああ、じゃあ小型の魔術機を持って行きます。私も作業しながら話させてもらっても構わないでしょうか? あ、課長。有給休暇の申請は後ほど」

 サーシ課長はさっと指先で、丸を作った。

 部下の有給休暇数を管理しているのは俺なので、課長が俺の休暇を把握していなくとも基本的には問題ないが、規則上課長の判子が必要なものもあるのだった。

 課長と俺のやりとりを、宰相の瞳が追った。

「仕事をするのだろう?」

「給金を貰う仕事じゃなく、趣味をやろうかなと、あと、休暇は有り余ってまして」

 にこりと作り笑いを浮かべると、宰相も同じように眦をゆるめた。

「はは、奇遇だな。私もたんまりある」

「宰相補佐、早く付くといいですね」

 俺の言葉に、宰相は俺が持つ携帯用魔術機の荷物を引き受けながら言った。

「宰相が結婚するほどの慶事なら、一緒に宰相補佐が就任するんじゃないか」

 宰相閣下が結婚するなんて確かに慶事ですね、と数拍遅れて真面目な顔で言った俺に、君が相手なのだがね、と宰相閣下は今度こそ面白そうに声を上げて笑った。

 

 

◇2

 

 宰相の執務室は一部屋とはいえ、脇に政策企画課の課員が控える。魔術式構築課の部屋くらいの広さがあり、宰相の机以外にも三つ机が並んでいた。その席の二つは使われている様子があり、俺達が部屋に入ると、挨拶の言葉が降った。

 宰相は空席の椅子を机の脇に寄せると、俺に腰掛けるよう勧めた。俺はどうも、と頭を下げ、机の上に携帯用魔術機の鞄を置く。

 ちらりと脇の二人に視線を向けると、二人は立ち上がってこちらに歩いて来た。好機とばかりに俺もまた、二人の前に立つ。

「魔術式構築課のロア・モーリッツといいます」

「政策企画課のテスカです。こっちは双子の兄です」

「存じております。俺も名前でどうぞ」

 姓がないということは、山奥の生まれか孤児出身。この兄妹については、孤児出身であることは二人共隠しておらず、有名な話だった。俺が手を差し出すと、妹が先に手を取った。その後に兄が同じように手を握り返す。

 連絡先です、とついでに名刺を渡しておく。魔術式込みのそれは、緊急時に魔力を流し込めば、一時的な通話能力を持つ。

 宰相は俺と婚姻を結ぶ神託があった、と言った。今後結婚まで進んだ場合には、この二人共に関わることが増えるだろう。

「ロア代理も、お噂はかねがね伺っておりますわ」

 テスカの言葉に、俺は首を傾げる。

 変人、ということだろうか。家も含め、俺自身も噂にならないよう働いている自覚はなく、噂話の花になる種を落としている自覚がある。

 シフの判子打ち機の件をはじめ、食堂の自動精算から給与引き落としの連携機構を作ったり、書庫の本に識別のため記号を取りつけて貸出者の番号と紐付け、返却催促をしやすくなる機構を作ったり、と王宮で働く人間からすれば、見知った機構を手掛けることが多い。

 その度に王宮を駆け回っては、聞き取りやら実地試験やら機構の使い方説明やら、と駆け回っているのだから、噂の的にはなりやすいのだ。王宮は頻繁に歩き回るものだから、国王や宰相ともある程度会話を交わしたこともある。

 それこそ書庫で使い方説明に通い詰めていた時には、借りる立場の宰相閣下に直々にご説明をさせて頂いた。食堂で自動精算の稼働初日に見守っていた時は、宰相閣下が目の下を擦りながら食事を注文しようとするものだから、代わりに注文したりもした。

「悪い噂ばかりでなければいいのですが」

「いえ、正直神託で貴方が選ばれたのは、なんというか納得、というか。うちの宰相閣下はこれですからねえ」

 テスカの言葉に、宰相閣下は意味がわからん、と首を傾げた。宰相がこれ、呼ばわりなのにその結婚相手に納得、と言われるのだから、俺の噂もまた然りなのかもしれない。

 俺は愛想笑いを返しつつも、普段の生活を振り返らなくては、と胸元を押さえた。

 少し世間話をし、宰相に勧められた椅子に腰掛ける。魔術機の画面を引き上げ、かちゃかちゃと釦を叩いて、作りかけの書類を開いた。開いたその書類は、仕事のためのものではない。

 シフがトールと夕食を取る時に、通話用の魔術式をいちいち起動するのが面倒だと言っていたので『今日は夕食一緒にどうですか発信機』の魔術式側の流れ図を作っているのだ。トールが魔装側を作ってくれる手筈になっており、ガワと回路はある程度把握している。

 半仕事というのは、これ自体は仕事ではないが、これを応用して王宮内の事務手続きを簡略化できないか、と算段しているからだった。

 俺に紅茶のカップを差し出しながら、広い机の右隣に宰相が腰掛ける。ぺらりと慣れた手付きで書類を引き寄せると、かりかりと万年筆を動かし始めた。俺は頭を下げながら、カップに口を付ける。

「モーリッツ」

「ロアでいいですよ、宰相閣下」

「ああ、そうだな。私も宰相は役職名だ。敬語も勘弁してくれ」

 俺は携帯用魔術機を操作する手を止め、ふむ、と思案するとガウナー、と声に乗せた。視線をガウナーへ向けると、平坦なその口元は、怒っている様子ではなかった。

 ほっと胸を撫で下ろす。

 いくら神託で結婚相手だとしても、その前に宰相閣下という感覚が強い。

「ロア、恋人はいるか?」

「いない。ガウナーは?」

「こちらもだ」

 うん、と二人同時に頷く。横からくすくすと忍び笑いが聞こえた。ガウナーの部下である兄妹だった。

 二人はすみません、と告げると、ごほんごほんと咳払いした。面白いか? と尋ねると、こくこくと肯定が返って来る。面白いのか、と言動を振り返ってみても、どこにも面白い要素は見当たらない。ガウナーも自分も至極真面目に、お互いの恋人の有無を確認しただけだった。

「神託の内容は王宮でも知られていて、お祭り騒ぎだ。このままだと近い内に書類上の結婚、やがて式になるだろうし、モーリッツも知られた家だ。結婚しない、となっても、ロアにとって面倒なことになるかもしれない」

「え? 断れんの?」

 断れるんですか、とテスカが合間に言葉を漏らした。

 二人とも意外そうにしているところを見ると、神託を断るという発想は、クロノ神を主神とする国教を信仰している国民には考えづらいものだろう。俺は信仰心は薄いほうだが、結婚と葬式はお世話になるつもりでいる。

「神託だが……、ただまあ、恋愛は個人の自由というものだろう? 宗教は法律ではないし、権利が優先されるべきとは思うがな」

 ガウナーは机の脇から、魔力稼働型の算術機を取り出す。

 その脇から右手を伸ばし、算術機を起動し一日動作する程度の魔力を込めた。ありがとう、と礼が返って来る。

 魔力は体力と繋がっている。算術機に込める魔力なんてたかが知れているが、使えば疲れる。

 その点魔術式構築なんてやっているだけあって、うちの課の者は魔力が豊富な者が多く、俺もその例に漏れない。うちの課の人間は、一日中使った上で、家に帰っても魔術機に向かっている者もいる。

「別に結婚にそこまで執着してなくて。ガウナーが結婚することで悪いことがなければ、俺の意向はあんまり考えなくていいんだが。勿論、断っても特になんとも」

「分かった。すまん、結婚してくれ。見合いだの紹介だの小言だのに大概疲れた」

 宰相閣下はとても優秀であられる。真面目に王を立てる執政をするのだが、宰相閣下の優秀さに比べて王が秀でているのは人たらしの部分、質が真逆だ。事務全般に関して、国のあらゆる情報収集に関しては、王といえども宰相閣下には勝てない。

 そうなると王子よりも、宰相閣下の子の方が優秀に育つのではないか、と心ない妄言を吐く者もいる。

 現第一王子は王に生き写しだ。王と意見を違えた反国王派は、宰相閣下を祭り上げたがる。ただし王を大事にする宰相閣下のことだから、それらを大変憂慮していらっしゃるのでは、と王宮勤めの者達は噂していた。

 いくら宰相閣下が国王第一で動いていても、実は成り上がりたいでしょう、と自身の当然を他人にまで押し付ける者達がいる。宰相閣下が俺と結婚したとして良いことがあるとすれば、きっともう誰も、宰相閣下の血を引いた子を望んだりはしなくなることだ。それが、神託によって神に望まれた結婚であるというのなら、尚更だった。跡継ぎを残さないであろう国王を、祭り上げたい者は少ない。

 俺もまた、自身の血に対して思い入れを抱いていない類の人間だった。俺が将来自分の血を引いた子を持てないとして、さしたる問題と捉えない。血なんてあと百年もすれば絶えるかもしれないものに、拘りなど無い。神託を破ってまで、結婚を断る理由は見つからなかった。

 俺は書類に視線を落とす横顔に、視線を向けた。

 金甌無欠の宰相閣下、可哀想なひとだ。自身の結婚にまで国家の思惑が絡むとは、そしてそれを良しとしているとは。湧いたのはおそらく憐憫だったのだろう。

「正直だな。いいよ、結婚しよう宰相閣下」

 モーリッツ家の人間は、間延びするのも心配りも気遣いもあんまり好きではないのだ。有と無の二択くらいが丁度良い。

 俺が魔術機が好きなのも、そういうところにある。トールもこう言っていた。回路は突き詰めれば、有か無から始まるのだ、と。どんな不可思議で複雑な機構も、最後まで突き詰めれば二択に落ち着く、そういうところが好きなのだそうだ。

 また、宰相閣下にも似たところがある。細かな対応とかを組み合わせてなあなあに済ませるのが、あまり好きではなさそうなのだ。面倒だと思ったことが、細かな対応を続ければ問題にならないとしても、宰相閣下の中ではそれは面倒ごとなのだ。

「俺は人を思い遣ったりするの苦手だし、好きなことはするけど嫌いなことはしない。ガウナーがそういうところに我慢できなくなったら、遠くにやってくれ」

「私は自分が好きだ。適当なのは好きじゃない。神託も特に大事だとも思えない。ただ、周囲が面倒になったからロアと結婚したい。耐えられなくなったら張り倒してほしい」

 ちらり、と視線を合わせる。

 ガウナーの腕が伸び、俺の頭に手が乗った。そのままぐしゃりと暗褐色の髪が掻き回され、視界の上で前髪が揺れた。こうやって撫でられるのは久しぶりのことで、気恥ずかしさが押し寄せる。誤魔化すように眼鏡のつるを直す。

 あとは、とガウナーが口を開く。

「今の家は、国が用意しているものか?」

「ああ、王宮勤め用に用意されている家を補助込みで借りてる」

「多少家賃の手出しがあるなら、うちに来るか? 部屋はある」

 じっとガウナーを見やると、冗談では無さそうに真面目な表情をしていた。見に行っても? と尋ねるとうむ、と頷かれる。

 この男に一生を縛られることを想像して、俺はそれを肯定した。先程与えられた体温が心地よかった。同居になれば、あの体温を度々与えてもらえるのだろうか。

 俺は宰相閣下に都合の良い人間になり、この国家にとっても都合の良い人間になる。それならば、あの体温くらい与えられても罰は当たるまい。

 俺は社交辞令かもしれない言葉にいつなら、と約束を取り付けるよう動いた。この時の俺の積極性は、ここ数年で類を見ないものだった。

 後日見に行った家は、広い上に執事もいた。俺に割り当てられた部屋は、ある程度狭く、日当たりも良い。家賃と食費も取らない、だとかガウナーが言うものだから、俺はさっさとガウナーの家に引っ越し、魔術雑誌の購読数を二つばかり増やした。

 

◇3

 宰相と結婚相手の話は、瞬く間に王宮を駆け巡った。宰相と俺を比べると俺のほうが背が低いため、俺に対しては宰相の嫁、の言葉が掛かりがちだ。

 この傾向の報告とともに、その代わり俺のほうが腹は出ている、とガウナーに言うと、珍しく噴き出すように笑われた。どんなもんだ、と友好的に十年前より弛んだ腹を触ってくるあたり、単に堅物なだけで宰相なんかやれないよな、と感心したりもした。

 そんな宰相閣下に嬉しい話がひとつ。先日宰相補佐の就任式があった。政策企画課に宰相補佐という役職で、スクナ・メイラーという青年が異動となったのだ。

 まだ婚約状態だというのに、結婚が決まったからめでたいだろ? な? と言わんばかりの唐突な人事は、国王陛下直々のごり押しであったそうだ。最初は引き継ぎも含めて業務は増えるだろうが、その内仕事は減りそうだな、と他ならぬガウナー宰相閣下が呟いていた。宰相の仕事は着実に減っていそうだ。

 魔術式構築課の仕事は相変わらずで、サーシ課長が珍しい仕事だよ、と、防衛課第二小隊と合同での防衛演習、という案件を持って帰って来た。どうやら、防衛課の魔術小隊がどこも演習やらで忙しいらしく、来月行われる式典の防衛予行演習に、犯人役の人数が足りないのだそうだ。

 魔術式構築課の数名と、防衛課の第二小隊の数名が組んで『隣国の国王夫妻を狙う暗殺者集団』として犯人役で暴れてくれ、とのお達しだった。手を抜きつつ暴れればいいんですかね、と、そこそこの呪文を用意しようとしたのだが、そうは問屋が卸さなかった。

 普段の護衛、防衛に関しての欠点を洗い出すため、犯人役は怪我をさせても良い、と許されている程には、自由に動き回る権限が与えられているらしい。また、ここで短時間で捕縛されようものなら第二小隊の沽券にも関わるそうで、暗殺対象に刃を潰した武器を押し当てれば最高、とのことだった。

 ただ、お互いに準備は入念に行うため、犯人役の人数の関係上、例年そこまでたどり着くことはないらしい。何時も通り折衝は俺か、と思っていたが、魔術式構築課もまた普段どおりの俺ではなく、小さい案件だし、と別の者が長として立つことになった。

 俺が結婚することになったから配慮して頂いたんですか、と問うた俺に対して、サーシ課長は、こんな細かい案件まで君に全部押し付けるのもね、と杖を揺らしていた。

 サーシ・ビューロー課長は元防衛課。足の怪我を理由に、魔術式構築課の当時の課長と異動で交代になった人物だ。この防衛訓練も、元防衛課繋がりで受けたといったところだろう。

 防衛課でも魔術小隊を率いていた程には魔術にも武術にも長けており、現在でも管理職ながら、魔術式構築の実務がこなせる珍しい人物だ。ただし、脚はどう治療しても歩く以上の機能は戻らず、魔術式を仕込んだ杖を友としている。

 俺の昇進は王宮では他よりも早く進んでいて、課長の期間が極端に長くなるので、別の魔術関係の課に異動して、経歴を積むのはどうかという話は前々からあった。ただ、俺や課長くらいしか手に負えないほどにこの課には問題児が多いし、偏屈屋の馬鹿ばかりだ。他の魔術関係の課から、愛執的な程に魔術式を愛する人間が生まれない限り、俺がこのまま課長に上がることになるだろう。というか、他もやりたがらない。

「つきましては昇格推薦状を出したばかりのシフくん。君主導で犯人集団をやってみようね、まあロアくんの補佐で君は慣れてるからね、数人くらいいけるでしょう」

 推薦状から先の話は聞いてねえですよ! と叫んだシフに対して、サーシ課長は、言ってないもんははー、とにべもない。

 サーシ課長はにこにことしているが、上に立ち慣れている者にありがちな突発的な無茶振りが稀にある。周囲の者たちは今度はシフか、とけらけら笑っていた。

 サーシ課長は続いて、シフの助言役としての役目を俺に振り、相手方にいる折衝役との顔合わせの段取りを立て始めた。

 シフは周囲に茶化され若干笑っていたが、ふとした瞬間に顔が強張った。だよなあ、と俺は机に肘を突いて考える。上にひとつ緩衝材があるのとないのでは大違いだ。自分の責任で回答を返して、自分の責任で予定を引く、思ったより心理的にくるそれは、俺達みたいな人間には向かない仕事だ。

 シフの性格上、向かない仕事だと思ってはいる。のに、変人の巣窟であるこの課には、シフ以上にそれができる人間がいないのだった。もどかしいな、とかちゃかちゃと魔術機を操作して、魔装課のトールに連絡を取った。

『シフに小さい仕事を振るんだけど、取り纏めとか折衝とか多い案件。シフが一番上で俺がその下だとやり辛いもんかね? 逆に戻してもらったほうがいい?』

 文字を送ると、しばらくしてトールから返信が来た。珍しく机に座って、魔術機で回路設計でもしていたのかもしれない。

『短期の複数課が絡まない案件なんて、課長代理の直属の仕事に慣れてるシフなら楽なもんでしょ。自分が一番上っていうのがあれですかね……シフ自己肯定感が低すぎなんで……無理無理ってまた騒ぎそう。何かあっても、慰める役と退職を押し留める役は任せてください。今日その話したんなら、奢りっつってどっか連れてきます』

 ありがとう、と魔術機の前で手を合わせる。なんだかんだシフが頼るのはトールなので、トールが実家に帰る、を一旦止めてくれるのならあとはどうにでもなる。

 トールも魔装課の上繋がりで評判を聞くことはあるが、どうやらこっちもいい感じに上にあがりそうな様子だ。トールとシフの両方が上にあがったら、魔術機関連での連携は阿吽で済みそうだ。早く引退しよ、と早期退職を心に決める。

『ちなみに、付き合いはじめたりしないの?』

 トールとシフは二人で一揃い、形ばかりの結婚をしている俺とガウナーよりも接触が多いし気も合うようだ。俺がわくわくしながら送信すると、トールの返事は容赦なかった。

『自分が宰相の伴侶に収まったからって、周囲も結婚させたがるのはいい迷惑です』

 トールは他の課の課長代理とはいえ、遠慮というものはない。確かに自分の結婚を機に、調子に乗ったところがあったかもしれなかった。

 俺はしょんぼりとごめん、と再度手を合わせる。課長代理が魔術機の前で二度も手を合わせているものだから、周囲はなんか魔術式に不備でも、式が無限に循環して処理が進まないとか、と戦々恐々としている。

『シフは基本懐っこいし、明るいし、しっかり者の努力家だからトールも好きかなって』

 ごめんね、と文字を猫っぽく纏めた文字群を付けて送ると、トールから間髪を容れずに返事が来る。トールは猫好きで、家には二匹の猫飼いだ。飼い猫の毛は、日々こまめに整えられている。

『それは、知ってます』

『えっ惚気られてる』

『あー。本人に言うのやめてくださいね』

 はい、と神妙な顔で別の猫っぽい文字を送り返して、トールとの通信を閉じた。おせっかいは必要なかったのかもしれない、とがっくりと肩を落とすと共に、自分とガウナーを振り返る。

 ずっと一緒に居るわけではない、ガウナーの帰りは相変わらず遅くて会話をする暇がない。とん、と足を床に叩いてしまって靴を浮かせる。寂しい、のだろうか、とようやく思いついた単語に同時に納得した。

 シフとトールは時間を合わせて夕食を取ったり、昼食を魔術式構築課で取ったりと共有する時間を持っているし、通信用の魔術式をよく開いて会話しているようだ。

 対してガウナーと俺はそもそも会わない上に、魔術式を使った通信を多忙なガウナーに強要するのは気が引ける。せっかく結婚するのだから、せめて友人程度の付き合いは持ちたいのだ。

 なのに、俺は宰相としてのガウナーしか知らない。悶々と仕事をこなしていると、昼食時間を示す鐘が鳴った。この鐘を合図に、王宮は一斉に昼休憩に入る。

「今日『撃ち合い』やる日だっけ」

「やる日だよ」

「あっ昼飯をはやく食わないと」

 俺も部下と共に応接間の机に集まり、ハッセ家の厨房で用意された弁当の包みを開く。特定の日に魔術式構築課では、昼休みに『撃ち合い』をやることになっており、弁当は短時間で食べることになっている。

 肉を炙って野菜と共にパンに挟み込まれたそれは、べったりと甘辛く味付けされており、口に含むとそこらへんで買ったものより格段に美味い。同居を始めて良かった、と俺がハッセ家の料理人を内心褒め称えていると、応接机で弁当を広げている俺達の横で、ぱぱっぱらぱぱぱー、と来訪者を告げる音楽が鳴った。

 全員でぐるんと視線を向けると、今度は音に驚かなかった長身がこちらを見ながら頭を下げた。

 サーシ課長ですらきょとんと首を傾げ、シフは卵焼きを詰まらせ、エウテルは麦茶を噴く。その顔を見慣れている俺はあまり動じず、用事のある相手は俺、だろうかと自分に向けて指さして首を傾げると、こくり、と頷き返された。

「たまには昼食を一緒に、と思ったんだが、もう食べてる途中か」

 寂しそうに踵を返そうとするガウナー……宰相閣下に課員全員が待った待った、と慌てて制止の声を掛ける。宰相を止める必要はないのだが、なんだか寂しそうに帰られてしまうのは寝覚めが悪い。

 ばたばたと部下達が駆け回り、空いている椅子を引き寄せて俺の隣に寄せる。

「狭いですけど椅子ありますよ!」

「後から撃ち合いやるんで早食いですぐ食べちゃいますけど!」

「テーブルは汚いですけど! 気にしないなら!」

 そうか、と宰相は昼食の包みを持ったまま、勧められた椅子に腰を降ろした。握手して頂いてもいいですか、と部下のヘルメスが手を差し出すのを、馬鹿か、とシフが背後から引っ叩いた。

 ガウナーは別に構わない、とヘルメスの手を丁寧に両手で握って離し、昼食の包みを開き始めた。じっと俺とガウナーを観察していたエウテルはあれ、と声を上げる。

「まだ指輪とか耳飾りとかしないんすね、式の準備は大変だからって聞きましたけど、婚約状態ではあるって」

 俺は自身の手に視線をやる。結婚予定の相手に装飾品を贈り合う慣習に倣い、お互いに身に着けるものを選ぼうか、という話はガウナーから一度されていたが、その後どうも予定が合わなくて延びのびになってしまっていた。恋愛結婚ならすぐに、と拘るのだろうが、そうではないのだから、と俺は無理に急かしたりはしなかった。

「婚約なんとかの書面は作ったけど、腕か指、どれにしようか迷っててな。どうも俺はこういう仕事だから、指になんか付けると魔術に影響するし」

 空中に文字を描いて発動する、記述式魔術を得意としている俺達の指は、なかなか繊細だ。重さによって感覚が変わることは恐ろしいし、両利きである俺達は、両手を使って魔術の記述時間を短縮する。両利きが前提である魔術師は、利き手以外の指なら、という意識もないのだ。

 誤魔化すように笑った俺を、ガウナーが見つめていた。本当は迷いよりも、単純に関わっている時間が少ないのだ、とそう言うことはなかった。

「家に居る時って代理なにやってるんですか? ずっと本と仲良し?」

 シフが聞いたそれに、俺は昼食の咀嚼を止めた。そもそも家に然程いない上に忙しいガウナーが、家に居る時の様子を見てるはずがないだろ、と誤魔化すための言葉に迷う。

 ガウナーは俺とお揃いの昼食を握ったまま、口を開く。

「基本的には本と仲良しで、よくそのまま応接間の椅子で寝ている。本を握ったまま離さないので、寝台に突っ込むのがそれはそれは……大変だな。休みの日には使用人を手伝おうとして、厨房で皿を洗ってみたり床を磨いてみたりと、最近は仕事が落ち着いたのだと言って働こうとするので、そのあたりは心配している」

「お二人とも忙しいから、全然会ってないかと心配していたんですよ」

「いや、朝は一緒で、ロアが起きる時間を早めてくれたのでな。少しだけ話もしている。……もう少しゆっくりと時間を取りたいものだが」

 ガウナーが澱みなく語る家での俺の姿に、一番驚いたのは俺だった。俺の行動なんて気にされていない、と思っていたし、寝台に運ばれているのも執事が運んでくれたのかとさえ思っていた。

 屋敷に馴染もうと手伝いをしていることを心配されているのも初耳だし、起床時間を早めたのも、さりげなく合わせたつもりでしっかり気づかれていた。

 朝は何を食べるんですか、という問いから、俺の告げたことのない好物の話をするガウナーに、俺は完全に昼食の手が止まってしまった。思ったより俺は気にされていて、寝ぼけながらの、ただの世間話のはずの朝食のあの時間だけで、好みまで覚えてくれていることを知る。

 一人暮らしで毎日同じものを食べていたあの時期と違って、今の朝食には前に人が居て、短くともその人との会話がある。毎日食事は違うもので、昨日どんな朝食でしたか、という問いはその時の会話と共に食事を思い出すものだ。

 思ってたより、というか思っていた通り、宰相閣下は家庭円満にも手を抜かない。予想外だったのは、その家庭を構成する人間が俺であっても、それが適用されることだった。

「ごちそうさまでした! 外に行くぞー」

 全員が昼食を取り終わったところで、わらわらと外に出る。撃ち合いと聞いていた宰相は、球がないようだが、と言ったが、撃ち合いは俺達だけに通じる暗号みたいなものだった。

 実際のところ、その内容はその時々で変わるのだ。撃ち合い、とはつまり余った魔力の発散のため、魔術を撃ち合う時間のことを指す。

 シフから説明を受けたガウナーは、魔力が余るのか、と別の感心をしていた。

「式典の犯人役の案件もあるし、折角宰相閣下がいるんで、護衛対象ってことにして、案件っぽく動いてみましょうか。上手く動く奴に犯人役を振ります」

 シフからさらりと、案件の人選も絡めて昼休みの撃ち合いは模擬戦で、と提案があった。

 いちいち犯人役は誰にする、とお互いの得意な魔術を説明するよりも早い。別に時間を取るより、持ち案件が圧迫されない、と全員一も二もなく頷く。

「じゃあせーの」

「「「上!」」」「「「下!」」」

 手のひらをくるくると左右に動かし、手のひらの上下で組分けを決める。俺とシフが別れたということは、攻撃側はシフが先頭に立つことになるだろう。

「上が攻め、下が守り。念の為宰相閣下と、このあたり一帯に結界張って。……フナト、いけるか」

「はぁーい、僕ならだいじょうぶですよ」

 ぴょこん、と小柄な部下のフナトが手を挙げた。

 始まりは円、両手でくるくると空中に文字を記すと、「起動」の言葉と共にそれらの文字がふわりと浮かんで宰相を取り囲み、光と共に収束した。続いて同じ動作と言葉を繰り返すと、今度は広い円を描く光が辺り一帯を覆う。極稀に炎球を撃ち返して、とんでもない場所に飛んでいくことがあるため、周囲にそれらを防ぐための結界も張る必要があった。

 結界に関する詠唱短縮の技法と、詠唱の同時展開の美しさは他の追随を許さない。犯人役をするなら、フナト一人だけは演習をやる前から絶対に入れる、と決めてかかるところだ。

 防衛課が見れば、なんで魔術式構築課に、と滂沱の海となること請け合いな人物。ただ、フナトは過去、美形であったが故に要らぬ反感を買った、と言い、未だに大きな男が怖いようだ。女性も身長が高ければ怖い、とこぼしている。魔術式構築課は、小さいかひょろりとした男たちが多いため、フナトからすれば気を遣わなくて済む人しかいない、そうだ。

「僕は守りです。一生懸命はった結界です、ばしっとやぶってくださいね」

 ぐ、とフナトが親指を立てた。任せろ、とぐっと攻撃側が親指を立てて返す。シフは攻め側に回ったようだが、俺は守り側だ。そっとガウナーの傍に寄り、息苦しかったりとか魔術酔いはないか、と声を掛ける。なんとも、と仕事柄、魔術を掛けられることには慣れているだろうガウナーは首を振る。そして、興味深そうに俺達を見つめた。

「宰相閣下に張られた結界を破ったら攻撃側が、守りきったら守備側の勝ちとする。宰相閣下の周囲の結界はフナトが、周囲の結界の維持魔力はこちらで持つ。始め!」

 結界の維持を譲り受けたサーシ課長の言葉と同時に、シフが両手を宙に滑らせる。「起動」の言葉と共に発動したそれは、短縮されているが、元の言葉を推理するところ『跳』と『速』。俺は対抗のための魔力を編む。

「代理、お覚悟!」

 うりゃ! と身体強化で空中を跳ねて移動したシフは、その速度のまま回し蹴りを俺に放った。試し撃ちといったところだ。

「風よ跳ねろ!」

 ぐるん、と回転するそれらを受け止める空気の塊、俺の言葉に乗った術式が展開されると、シフは空気の塊に突っ込む。だが、ぼすんと跳ね返され、後方に吹っ飛んだ。小柄な身体は吹っ飛びながらも、いけ! と声がその喉から放たれる。

 指示を出したシフの背後から、投球の軌道で炎の塊が降った。

 フナトが結界を張ろうとすると、エウテルが前に出る。ぐるりと腕を回すと、手のひらに続くように文字が躍った。発動音が響く。その部分の空気が歪み、膜を形成する。

 巨大な盾状に展開された、その透明な厚い膜に触れる度に、炎球はその場で掻き消えていく。水ではなく空気に近い物質が膜として形成されているが、通常の空気とは質が違うように感じ取れる。結界とは違う物珍しい術に、周囲は視線を奪われた。

 シフがヘルメスの様子を確認し、自分と反対側へ動くよう指している。

「シフが邪魔な。風。んー、短縮できん、『風の流れを蔽い隠せ。皮を裂かぬよう、流れは朝露を吹くが如く。二つの帆を崩せ!』」

 魔力の流れに敏い部下が、俺が放ったそれらを瞬時に肉体強化で躱すものだから、むっとした俺は立て続けに「凍れ」とぼそりと呟いて、跳ね上がった足を捕らえて凍らせた。こちらは短縮した詠唱式の魔術だ。

「そういう単純な魔術はほんとに早いな代理!」

「短縮できないやつだってそのうち短縮して持ってくるから! 狸!」

 はん、と俺は腕を組んでふんぞり返った。普段なら午後疲れるから、とここまで連続で攻撃はしないのだが、背後にはガウナーがいる。少しくらい、いい所を見せたいではないか。

 俺は立て続けに地面を隆起させたり、葉の雨を降らせてみたりとこれまで案を溜め込んでいた術式を大量に展開する。それでも俺の手の内を知り尽くしている部下のことだ、しばらくすると緩急付けたそれらにも対応してくる。

 体力と地続きということは、単純に年齢的に魔力総量は減るのだ。俺はあまり持久力がない。対して攻撃側は若い者達が揃っており、なかなか防御しても防御しても、魔力が尽きずに攻めてくる。宰相が目の前にいる所為か、犯人役が魅力的なのか、実践級の魔術が先程から乱発されている。

 これで午後一杯仕事をするつもりなのだから、魔力の総量も鍛えられるというものだ。

「やっべ疲れてきた。やめない?」

 俺が手のひらに顔を埋め、はー、と息を吐くとシフがぎゃん、とその言葉に噛み付いた。彼としては、手を変え品を変えふっ飛ばされ続けていることが不満のようで、声を張った。

「まってあとちょっと時間あるでしょ! 予鈴が鳴るまでですよ! おれ宰相閣下にお覚悟したいですよ!」

 一触即発の空気を、エウテルが詠唱妨害のために流している調子はずれの不気味な音楽が鳴り過ぎていく。あれは魔術師が聞くと厄介さに気づくような、魔術詠唱の重要部分の波形を打ち消す音楽なのだが、普通に聞くとただの不気味で変な音楽だ。

 ただ魔術師特有の感覚上、皮膚をびしばしと不快な波が打つ。

「やだー僕もーつかれたー」

 ふっとフナトの結界、宰相を守っているそれが一瞬途切れる。俺がそれを補助するように結界を展開すると、それを待っていたかのようにシフの瞳がきらりと光った。

 無詠唱だった、記述もそう長くなかった。

 ただ、それらは身体強化の術にしては、もう一つ要素が加わっていた。先程俺が見せた隠蔽、をそのまま自身の体に適用している。やられた、と、敵に短縮もしない魔術を見せるとはこういうことだ、と臍を噛む。

「…………これで! どう! です! か! …………うらぁぁあっ!!」

 一瞬で目の前に現れた部下は、俺を狙わず、宰相の真横に現出した。そして攻撃方法はやっぱり回し蹴りだった。力のあまりないシフの筋力を補うための身体強化と、その反動を生かすための大振りの蹴り、その爪先には魔力が載っていた。

 ぱりん、と結界の上一重が砕けた。フナトが集中を途切れさせかけた上の一重めだ。

 フナトの喉から、ひっ、と声が漏れる。

 その爪先が、俺の張った結界に埋まる。ぱきん、と音が聞こえるような心地すらした。ガウナーが目を見開くその一瞬。俺はガウナーとシフの間に割って入る。

「空を駆けよ! おら!!」

 横から大振りにせず、最短経路で繰り出す風の魔術を載せた蹴りは、シフを思う存分に吹っ飛ばした。ぎゃあああああ、と思ったより吹っ飛んだシフが空中を舞う軌道を、全員で見守る。

 あれ受け身取る余裕あっかな、やべえな、と全員が遠い目をしながら思ったが、全員が全員肩で息をしており、魔力切れだった。

 このままだと新案件に関われないまま、病院送りになりそうだ。サーシ課長、と声を掛けようとした瞬間に、別の声が耳に届く。

「地が空を産む。風は舞い、春を告げるが如くその背を支えよ。か弱き人の身の、地に頭が傷つくことなかれ」

 その低い声は真横から聞こえた。短縮も何もなく、初歩の初歩である術式。通称風の毛布と呼ばれる、落下時の衝撃吸収のための魔術式だった。

 俺がぐるりとその詠唱をした者を見ると、どーも、とその詠唱をした長身の人物は、こちらに手を挙げてひらひらと振った。

「トール! ずっと見てたのか? 視線感じた」

「いや、たったいま来た所だ」

 風に受け止められ、すとん、と地面に降り立ったシフが肉体強化の名残か、ひゅんと魔装課のトールの元まで駆け寄る。トールはぱたぱたとシフの全身から土埃を払う。怪我はないか、と問うトールに、強化してっから大丈夫、とあれだけ吹っ飛んだ癖にけろりとシフは答えた。

 トールはシフの全身を確かめると、うん、と頷き、今日夕飯にでも行こう、と言って、何やら予定を立て始めた。

「終了。守備側の勝ち」

 サーシ課長の言葉にほっと皆が息を吐くと、その瞬間に予鈴が鳴った。周囲に張られたフナトの結界が、ぱっと解除される。

 お疲れ様でしたー、と全員で頭を下げると、お互いにわいわいと披露した術式について語りながら、課へ戻り始める。

 俺はひとり残って、ちらりとガウナーを見遣った。

「あの吹っ飛んでいたシフは昇格推薦が出ていたな。周囲が動きに迷うことのないよう立ち回っていたのは、攻撃側の中では彼だけだった。次の手に迷う人間がいないか周囲を見ながら指示を出して、真っ先にロアを潰そうとしていたのが上手かったな」

 俺? と尋ねると、ガウナーは頷く。

「守備側でも同じような主導する立場の人間がいるとしたら、先程の守備側だとフナトが結界の維持、エウテルが音による詠唱の妨害をしていた。ただその他全部、はロアだった」

「まあ、俺は一点特化してないからなあ。器用貧乏なんだよ」

 昔から得意な分野がない。フナトやエウテルは、防御と音に関しては抜きん出ているから、攻守どちらに回ってもそれらを積極的に使っていく傾向にある。その二人が同じ守備側であるというなら、二人を得意分野で存分に使っておきながら、自身は遊撃に回れば上手く回る。

「特にフナトの結界が切れた一瞬、シフが踏み込んで来た理由は、その一瞬にロアが補助に入るのが分かっていたからだ。そこでロアが補助に魔術を使うとしたら、攻撃を跳ね返すまでに時間がかかることが分かっていた。誤算としては、あれだな、ロアは、体術も習っているよな?」

「学生時代に少しな。今は腹がな」

 うーん、と唸ると、横から腹を摘まれた。やめろよ、とぺちぺちと腕を叩くと、はは、と声だけで茶化された。

 少し、昔習った体術の話をする。型よりも実践重視の、護身術のようなそれ。ただし護身とはいえ、攻撃は最大の防御、というような流派だったので、どれだけ拳や蹴りを重く速く放てるか、が重視されていた。

 俺が訥々と語っている間、ガウナーは相槌を打ちながらも、言葉を促してくれた。

「体術強化というのは、詠唱が少なく済むのか? 私の結界を張った上で、シフを視認してから詠唱のみで展開しても間に合うとは。魔術に触れる機会は多くないが、勉強になった」

「あー、普通はあんなに早くは発動できねえと思う。だから気をつけてくれ。俺はさっき言った護身術習った時にちょっと極めてみたくて、変に短縮してるから」

 変に短縮、といった言葉が分からなかったのか、ガウナーが補足を促す。俺もまた、ガウナーがどれだけ魔術について理解しているか分からず、例えを選ぶのに時間を掛けた。

「んー、普通だったら文脈が分かるように短縮形は組むんだ。『我は願う、この雨が降り止まんことを』だと『雨止めー』でも言いたいことは分かるだろ?」

 両手を空に走らせ、一文章を書き切る。光を纏うその文字にガウナーが目を奪われている様を、小気味よく眺めた。

 そして腕を振り下ろし、一文章の中で文字を切り落としていく、形容詞、前置詞などが切り捨てられ、名詞と動詞あたりが最後に残っていった。短縮の説明をしたかったのだが、ガウナーにしてみれば、記述式の魔術の発動に関わる動作自体が面白いらしく、指を伸ばして文字に触れようとしている。

「意図が通じるかという話なら、まあ」

「俺は『あ』で終わっても、魔術は出せる。さすがに雨を止ませるのは難しいけどな」

 手を払うと、すべての文字が空中から消え失せ、先頭の文字のみが残った。

「意図が伝わらんな」

「喋らずに書かずにある程度組むと、無音なもんだから、魔術の流れを伝える方法がなくてな。感覚的に魔力をこう流すってのが伝わらないのは、あんまりよくないんだ。意味が伝わる上手な短縮ってのは、その削った補完をある程度感覚的に解る短縮であって………。ごめん、面白くない話をしてるな?」

「いや」

 嘘だろ、と俺がじとりとガウナーを見ると、ガウナーは嘘じゃない、と返してくる。

「婚約者の好きなものの話をされて、楽しくない訳がないだろう」

「……俺は国政の話をされても楽しくないかもよ」

 照れ隠しに言葉が口をついて出る。

「国政の結果は、国民に降りかかる、婚約者であり国民でもあるのなら当然だろう」

 婚約者、という単語が耳慣れない。照れ隠しに放った気遣いのない言葉に、こうも真面目に返されると罪悪感だけが募る。

「……ガウナーが一生懸命考えてる政策案とか、楽しい、と思いながら聞いてる。婚約者の、努力の跡が見えるの、は、嬉しい」

 片言で、纏まらない文だった。短縮できなかった、足を引っ掛ける風の魔術のようだった。帰る、と身を翻し、空中に転移の魔術を展開する。

 発動の間際、ガウナーの柔らかい声が背に降った。

「この職に就いてから、仕事以外の場所で、こうやってずっと誰かが傍にいるのは初めてでな。……いいものだな」

 返す言葉に口を開く前に、俺の転移術式は俺を自分の椅子に腰掛けさせていた。俺は一体、どう言葉を返すべきだったのだろう、とは思いはしたが、答えは見つからない。嬉しさは勿論あったが、きっと宰相閣下としての彼に与えられるなら、俺でなくても良かったんだろうな、と嬉しさで沸き立つ心に水を差す。

 本来の意味で、心を寄せられることはないのだ。

 本当に彼が宰相でなく、彼という人間らしく誰か一人を選ぶとしたらきっと、俺はその選択肢に残らない。

 

 

◇4

 その日は雨が降っていた。俺は雨の音を聴きながらハッセ家の書庫から持ち出した本を応接間の机に積み上げ、応接間の椅子でそれらの頁を捲っていた。

 応接間にいるのは、ガウナーが帰宅した時に絶対に気づく場所だからだ。ガウナーが出迎えは要らないと言うので、使用人に主人が帰ったら呼んで、と頼むこともできない。

 寝るまでに帰宅してくれたら一言でも会話を交せる、とこうやって細々と努力を続けているが、基本的には寝落ちする。ただし、その日は違っていて、普段よりも主人が早く帰宅した。思いがけない帰宅に本を床に落としてしまい、表紙を払って机に置く。

「あ、おかえり!」

 慌てすぎて気合が入ってしまった挨拶に、ガウナーは珍しそうに目を見開いて、ただいま、と返した。

 いそいそと鞄だとか上着だとかを差し出してくるかと腕を広げて伸ばすと、上手く伝わらなかったのか、そのまま抱き寄せられてぽんぽんと背を叩かれた。

 は? と俺は抱き寄せられたまま首を傾げたが、ああ、そうか荷物を寄越せ、も抱きしめて、も腕を広げて伸ばす動作としては共通している。それにしても、今までこうやって抱きしめられたことなんてないのだから、いきなりそんな事はしないだろう、と不思議に思うものではないのだろうか。

 おずおずと抱きしめ返しながらも、きょとんと目を丸くしている俺に、ガウナーは笑った。

「すまん、冗談だ。荷物だろう? 仕舞ってくれるのか」

 よろしく頼む、と上着と鞄を預けられたので、記述式の魔術を展開し「起動」すると、上着と鞄はふよふよと空中を漂って鞄は自室に、服は洋服部屋の所定の場所に戻って行く。

 つまりはあれだ、ガウナーは俺の意図も察していてからかったのだ。俺が唇を尖らせると、ガウナーは悪いと俺の頭を撫で、食卓に歩いて行った。

 食卓の椅子に腰掛けるガウナーの前の席に座り、料理に熱を戻す。そして俺は牛乳でもとカップを握って牛乳を注ぎ、そちらにも熱を加えた。

「そんなに魔術ばかり使って疲れないのか」

「魔力量が多いんだよ。だからたんまり実務で残業できんの。今日もう寝るだけだし」

 魔術機を起動する時間が長ければ長いほど、魔力は注ぎ続けなければならない。残業という体力仕事な上に、魔力も消費することになるため、魔力量が低い人間には長時間働かせることはできない。

 俺がぽんぽん魔術を使うことに一々驚いていたガウナーだが、その反応は珍しいものではない。これだけ魔力量の多い魔術師は、確かに少ないといえば少ないのだ。

 俺が料理を温めるためだけに魔術を使っているのは、どれくらい使ってもいいかを把握しており、ちょくちょく屋敷の魔力貯蔵装置に魔力を流してもいて、それでも余ることが分かっているからだ。

 ガウナーは温かい料理は有り難い、と料理を前に手を合わせた。早く食べるのに慣れているのか大口で咀嚼する様子に、ゆっくり噛んで食べろよ、と声を掛け、同じように温めた牛乳を脇に置く。

「まだ仕事するなら珈琲を足すけど」

「いや、もう寝るからこちらがいい。……温めると甘いな」

 カップに口をつけたガウナーが改まったように言う言葉に、砂糖は足してないけど、と言うと、ガウナーはそうじゃない、と言葉を続けた。

「この時間に帰ると疲れてしまって、温めて、というのすら億劫になってな。冷たい料理に慣れていると、こんなにも違うものかと……料理くらい温めないとな」

 俺は返す言葉もなく、誤魔化すように牛乳を口に含んだ。

 ガウナーが得ているものは確かにたくさんあって、ただし、人というものは全てを手に入れられるものではない。何かを手にしている間にぽろぽろと何かを取り落としていて、ガウナーにとってはそれが温かい料理というだけだ。

 本人がそれを良しとしているのなら良い。けれど、この口調から取り戻したことを喜んでいることが感じ取れてしまって、おせっかいもいいものだな、と微笑む。

「そっか、美味しいなら良かった。今日早かったな」

「ああ、スクナがちょうど前宰相のところで作ったことのある書類だったらしく、そちらを任せられたから、少し早く帰れた。宰相補佐とまではまだ言えないが、政策企画課の一員としては慣れてきているな」

 やはり、同じような仕事をする人間が二人になるだけでも、随分違うものらしい。ガウナーが宰相補佐のスクナの成長ぶりを話すのを、飲み物を含みながら相槌を打って聞いた。

 ガウナーはスクナをたまに小狡い、と称しているが、ガウナーは真面目すぎるほうであるため、どっちもどっちだ、とにやつきながら語っている様を眺める。

「私しかできない、と考えていたのは傲慢なことだったのだな、と今は思う。そもそも私にできるのだから、同じように学べばできることだ。スクナが来て分かったことが増えた。助かっているし、スクナが私のように独りよがりにならないように、宰相就任時に宰相補佐を同時に就けることを制度化してはと……、なあロア、眠くならないか?」

「いや? 全然」

 普段はもう少し起きているくらいの時間だから、眠くはならない。俺がそういうつもりで返事をすると、違う、とガウナーは言葉を付け足した。

「……つまらなくはないか?」

「それも全然。宰相の反省と決意表明なんて面白すぎだろ」

 そうか、とガウナーはほっとしたように、鴨肉をナイフで切り分けた。無言の間をかちゃかちゃと食器の擦れる音と、飲み物を啜る音が通り過ぎる。

「数人、名前を覚えてもらいたい」

「……反国王派?」

「婚約者殿はまったく、そういうところは貴族らしいというか」

 ガウナーは行儀悪く口元のソースを拭い、無意識にぺろりと舐めた。俺と二人きりで、気が抜けきっている仕草だ。そして鴨肉にフォークを突き立てる、随分苛立っている様子だ。

 敵対する家名を挙げていく声を、脳に刻みつける。

「……これらの家は、全員敵だと思ってくれていい」

「適当にあしらって、ついでに一緒にならないように気をつければ良い訳ね。了解」

「自分の身を一番に考えて欲しい。最悪、殺しても構わない、全てに懸けて、なんとかする」

 一番考えられる流れは、俺が邪魔だと殺される線だ。再度、了解、と気の抜けた返答をする。暗殺業と渡り合った経験はない。確実性を求めるならある程度、結界を始めとした準備が要る。

 俺はそれから愚痴を聞いて、再度決意表明を聞いて、そして城の堀にいる鴨と鴨肉の話をして、今日読んだ本の話をして、その間牛乳を二回ほどお代わりした。恋愛小説が好きで手を出すらしい宰相から、お勧めの本をいくつか挙げられ、備忘録代わりの魔術式に書き記しながら食事を終える。

 ガウナーが風呂で汗を流す間に、食器を片付けて歯を磨いて、読みかけの本の続きの頁を捲っていると、思ったよりも早くガウナーが風呂から上がった。寝間着姿の彼は、髪も整っておらず、普段よりも若く見える。寝るぞ、と頭を掻き回されて視界を髪が覆う。

 俺は髪を払い、本を抱えて立ち上がった。少し持つ、とガウナーは俺の持っていた本を半分ほど肩代わりしてくれ、揃って階段を上がった。

 俺の部屋の机に本を積み上げると、すぐに出ていくかと思いきや、ガウナーが何やら考えているようだったので、口が開かれるまで待つ。

「………部屋、というか寝台も、分かれていたほうがいいか?」

 言葉に詰まった。

 明らかに表面上だけの結婚であるなら、このままでいいじゃないか、と平然と言えた。けれど、同居してから今までなんとなく、ガウナーが距離を詰めようと努力してくれている様子も感じ取れていた。俺もまた折角結婚するのなら、と二人の時間を持とうと努力しているところだ。

 その状態で、寝台は別がいいかと聞かれて、別が良いとすっぱり切り捨てるのはどうなのだろうと迷いが生まれた。

「……拘りは、ないけど。あんまり、その、一緒に寝るほど親しくなる人とか、……いたことなくて。発想がなかった」

 特に誤魔化すこともないか、と腹の前で腕を組み、素直にそう告げる。

「伴侶なら、……一緒に寝るのが普通のことなんだろうが、私達は神託が降りる前までは恋人であった訳ではない。どうするのが正しいのか、正直なところ私も良く分からなくてな」

 うーん、と二人とも黙り込んでしまった。婚約者というなら一緒に寝るのは普通、で良いのだろうが、恋人でもない二人が一緒に寝るのは普通ではない。

 寝相が悪いだとか断るにしては、発想がなかった以外の理由は今のところ自分にはなく、かといっていいよ、と言うには迷いが残る。

 俺はひとしきり悩んで、悩んだ時の定型文に辿り着いた。

「とりあえず、一回試しに、一緒に寝てみる、とか?」

「そうだな」

 そうやって決めよう、と二人して、ぞろぞろとガウナーの部屋に入った。

 ぽすぽす、と布団を叩いてみると、屋敷の主人の布団だけあって俺が昔の家から持ってきた俺の部屋の布団よりも、上質な生地でできていることが分かる。

 布団に転がると、ふわりと漂う香りに気づく。爽やかな香りだった。偶にガウナーから漂うそれは、この寝台の端に吊り下がっている香り袋が元なのだと知る。

 文机には書類が積み上がっているが、偶に持ち帰って仕事をしている時のそれだろうし、部屋の全てが几帳面に片付いている。寝台に転がりながら部屋中を観察する俺を、寝台の近くに立ったガウナーは面白いか? と尋ねてくる。俺が頷いて返すと、照明を消すぞ、と布団の中に入るよう促された。

 ガウナーは、転がりながら布団に入る俺の動作を、子どものようだと笑いながら、両手で俺の眼鏡を優しく引き抜いた。

 眼鏡は丁寧に、寝台の横の机に置かれた。ここ、と律儀に説明するガウナーに、こくこくと頷き返す。

 部屋の主の操作で部屋に暗闇が訪れると、ごそごそと布団に入ってくる音がする。そういえば、二人で入っても寝台が広い所為か、ゆったりと寝転がることができる。

 俺がそれをガウナーに告げると、ガウナーはしばらく言葉を途切れさせた。

 誰か別の女でも連れ込んだことがあるとか、そういうことだろうか。別に過去の誰それとかは気にしないのだけれども、と露骨な反応に戸惑う。

「……え。なに、何で黙るの。広いの、いいことだろ」

「ああいや、気にしなくていい。確かに寝台は結構広めだし、良いものだ。準備した甲斐があった」

 言いづらそうに言われた言葉から察するに、一人用には広い寝台は、どうやら俺の引越しと共に用意されたものらしかった。早く言えよ、と呆れたように言う俺の声に、ガウナーは困ったような笑い声を返した。

 それでいて俺に一緒に寝るか、という選択を委ねようとするのだから、気遣いと言えばいいのか、無用な遠慮と言えばいいのか。

「せっかく用意したんなら、ちゃんと使わないとな」

 離れて寝ることもできるが、これから一緒に寝ていくことができるかというお試しということなら、と俺はガウナーの傍に寄った。俺は横向きで寝る質だから、寄ったついでに胸元に埋まってみる。

 えい、と掛け声を付けんばかりの、唐突な理由もない擦り寄りだったが、ガウナーは離れることはしなかった。

「鬱陶しい?」

「いつもより温かいな。足元も冷えない」

 ガウナーがそう言うものだから、足先を擦り寄せる。普段よりも体温が高かった。

 このまま果たして寝れるのだろうか、と心配していたが、雨の音と共にぼそぼそと話をしている内に、二人とも疲れから眠ってしまったようだった。

 結論として温かいので一緒のほうがいいかな、ということに落ち着き、俺は眠くなったらガウナーの部屋の寝台に行くようになり、応接間で寝落ちしたら同じ寝台に運ばれるようになった。

 そのうち俺の部屋の物がガウナーの部屋に持ち込まれるようになり、ガウナーに一気に狭くなったと笑われながら、俺の部屋という概念は無くなっていくのだった。

 

 

◇5

 結婚式いつやるんですか、と尋ねられる度に、いやいつやるんだろうね、ちょっと宰相閣下忙しくて予定がね、と繰り返していたのだが、宰相閣下自身より来年やるから、と正式にお達しがあった。一年も何の準備すんの、と変な返しをしてしまった俺に対し、国賓とか呼ばない訳にはいかない立場でな、と申し訳無さそうに告げられてしまって、お互いに謝り合ったのは先日のことだ。

 そもそも宰相の人気が高い我が国では、伴侶という立場だと国王の奥方の次。つまり王妃様に続く立場だと考える者もいる程だ。

 サーシ課長に、護衛官の配備の打診と共にそう言われた俺は、ようやく自分の立場を理解しはじめた。先日敵対する家名を聞いたところだが、ガウナーが言うには何やら動いている様子があるとのことだった。俺は自身の周囲に、結界の展開を始めた。多少疲れはするが、宰相閣下の心労に比べれば安いものだ。

 護衛官についても打診されたが、残業が多くて拘束時間も長く、配属されても相手が気の毒なため、魔装課のトールに相談した。

 すると、ウルカというゴーレム作りを得意としている男を紹介され、護衛用のゴーレムを用意しましょうか、とゴーレムを製造し、出入り口付近に設置してくれて事なきを得たところだ。

「ということで護衛用ゴーレム急いでくれた礼にトールとウルカと飲むけどシフも来る? お財布は俺。もっかい言う。お財布は全部俺」

「あっ代理が財布なら行きます。容赦なく飲める」

「僕もー!」

 その場に居たフナトも行きたい、と言い始め、エウテルに知れると財布の中身が無くなるし内緒な、と口止めして、二人を伴って飲み会をすることにした。

 フナトには魔術式構築課とガウナーの屋敷全体に結界を張る消費魔力を減らしたいのだが、という打診をしている。フナトが維持魔力の軽減のためにがりがり魔術式を改善しているのを横目で見ているので、たんと飲め、とお高めの飲み屋の個室へご招待した。

 俺が三人連れ立って飲み屋にたどり着くと、魔装課の二人はもう到着して席に着いていた。遅くなった、と頭を下げ、部屋の隅に上着を掛ける。一番いい席に案内されようとしたため、主賓は君、とウルカをその席に押し遣った。

「どうも! 本日はお招きいただき! というかゴーレムは仕事兼、趣味なのにこんな席まで用意してもらってありがとうございました! 宰相案件で普段使わない額のたっかい部品の見積通って幸せでした! あれはとてもいいゴーレムです! 名前はシャルロッテといいます! シャルロッテに乾杯!」

「「「「かんぱーい!!」」」」

 魔装のウルカは筋肉質だがにこにこしていて、フナトもあまりにも彼が陽気なため、怖がっている様子もなさそうだった。社交辞令ながらも笑みを浮かべ、ウルカと杯をこつりとぶつけている。

 ああやって微笑んでいると、魔術式構築課でも珍しい線の細い美形の顔立ちが引き立つのだが、本人が課以外の場所で笑っているのは珍しい。

 俺は全員と乾杯すると、ようやく席に戻る。運ばれてきた料理を皿に盛り、再度ウルカに差し出そうとすると、フナトに代わるから座っていろ、と腰を落ち着けさせられ、フナトが全員に料理を配ってくれる。

「代理なんですからー、座っててくださいよ」

 そう言われて、料理を配ることは許されなかった。ちぇー、とつまらないのだと主張するが、料理を配る役は丁寧なフナトのほうが向いている。

 フナトに酒の成分だけ除外した解毒の魔術、長時間展開してくれる? と尋ねると、露骨にげっという顔をしながらも、しぶしぶ魔術を展開してくれた。

 ウルカも酒を適度に飲む質のようで、けらけら笑いながらゴーレムの作り方を指南しつつ杯を重ねる。酔い始めながらもゴーレムの作り方は正しい業界用語でぺらぺら話すものだから、俺達も面白くなってしまって、即興でゴーレムに埋め込まれた魔術式の改良案を出し合った。

 ウルカが筋肉質なのは、筋肉は付けば力が出る、その筋肉が発達する場所と同じ場所を強化すれば、性能の良いゴーレムができるのでは? という研究結果の代物だそうだ。陽気に見えても、自室では身体を鍛える以外は、基本的には読書と研究、という、むしろ体を鍛えるのも研究のためという有様で、なかなか変わった青年であることが分かった。

 ウルカの屋敷には自作ゴーレムが動作しているらしく、身近に置くのなら人間よりいいものですよ、と言い切る言葉は、陽気な彼にも影はあるんだな、と笑って流しておく。

 ただ、ウルカの闇の部分が垣間見えたその言葉は、フナトになんだか安心を与えたようだった。筋肉質なウルカは苦手だろうから、と離れた位置に座ってもらった筈なのに、ぱらぱらと席が替わり始める時間になると、隣に寄って料理をよそったり酌をしている。フナトの中で珍しく『怖くない筋肉』に属したらしいウルカに、良かったなあ、と杯を傾ける。

「代理ちょっと今日飲みすぎじゃないですか?」

「飲みすぎて道端で潰れないでくださいね、宰相の伴侶なんですから、つか命危ない身なんですから。迎えを呼んでくださいね」

「ですね。あ、俺も式出たいです」

 ウルカが冗談のように言うが、別に何人増やしても良いとガウナーに言われているので、別にウルカが出席するのは構わないが、と言い置いて、言葉を続ける。

「国賓とか多いから、面倒だと思うんだけどな。なんかガウナーと仲良いからって理由で、王様ほいほい来るって」

 行くのはいいんですか? と尋ねられたので、こくこくと頷く。

 王様とか王妃様とか見たいです、とそれでもウルカが言うので別に良いけど、と参加連絡用の魔術式をその場で展開した。参加と不参加の文字を指差し、ここ押して、と言うとウルカが迷わず参加を押したので、名簿に自動で名前が転送された。後で住所とか書いておいてね、と紙の招待状も渡しておく。

「ちょっとまって代理。おれ、その参加可否の魔術式は見てないですよ!」

「俺も見てないですね」

「僕もないですよー」

「君ら知り合いだから、着飾った自分を見せるの気恥ずかしい」

 課員くらいは参加させろ、と全員から詰め寄られたため、その場で参加連絡を送る羽目になった。本気で送ってなかったこの人、信じられない! とシフは大変おかんむりである。

 送らないつもりはなかった、ちょっとどうしようかな、って気恥ずかしくて迷っていただけで、まだ送らないのかとガウナーには催促されていたので、送るつもりではあったのだ。

 ただ、自分が結婚するという事実を、まだ受け止めきれていない。結婚式の招待状なんていう、相手の名前と自分の名前が並んだそれを送るのが気恥ずかしくて、どうにも送信できていなかった。

「あのですね! あんたが着飾った姿はそれはそれで見たいですし! 宰相閣下が着飾った姿も見たいです! 各国の王族なんてきらびやかな美男美女もっと見たいし! そもそも料理が! 食いたいです!」

「おい誰だよシフに酒を飲ませたの」

「まだそんなにのんでませんよー」

 フナトはけらけら笑いながら酒を呷った。シフよりもまだ杯が進んでおり、ウルカへも酒と料理を注ぎ足している。筋肉質だからってそんな食べてばかりいないですよ、と言うウルカは、フナトに勧められるまま食事を取り、酒を飲んでいた。

 そんなもんかね、と首を傾げると、シフはそんなもんだと首肯した。

「各国王族参加の式って代理だいじょうぶですー? 代理は地味だし埋もれないですー?」

「大丈夫大丈夫、主賓だから衣装代やばくてえらいこう、ひらひらとか付くんだこれが。めっちゃ目立つし宝石とかぴかぴか光るから俺は、とーっても、目立つ」

「代理の語彙が足りなすぎて良い衣装には思えないんですが」

 ちなみに衣装がこれで、と差し出された図を最初俺は冗談じゃねえ旅芸人か、とべしりと叩いたものだ。ただ、宰相閣下曰く、どうにもならない、ということで、どうやら宰相の結婚式というものも代々こんな感じらしいのだった。

 俺は王族ではないです、貴族だけど本ばっかで金はない家に育ったんです、と何度も繰り返したのだが、残念ながらお前はもうこの国の宰相の婚約者だ諦めろ、と宰相閣下は珍しく、いいから着ろ、で押し切ったのだった。

 俺がその時の話を愚痴混じりに言うと、シフの瞳がきらきらと輝いていた。

「……、何?」

「やーほら、神託ありきで結婚なんてことになってるんで愛がないのかと思ってたんですけど、痴話喧嘩? 喧嘩とかできるようになったんですねー!」

 シフはコップを両手で握りながら、良かった、とにこにこと笑っている。シフ以外の視線も温かいもので、俺は思わず頬を掻いた。

 愛はあるのか、と俺も考えることがある。愛しているとは言われていないので愛されてはいないのだろうが、大事にはされているようだ。

「いってきますのキスとかおかえりのキスとかするんです? そういうのは大事な時だけ?」

「や、したことないけど」

 周囲一帯が沈黙で満たされた。隣の部屋から脱ぐぞー、という大声が響いてくる。俺がうめえ、と煮魚をつついていると、フナトがおそるおそる口を開いた。

「いってきますのキスみたいな、挨拶はしないってことですか? それともキス自体……」

「……一応、結婚式ではすると思うけど。普段までしなくてもいいかな、って……あれ?」

「あれ、これ不仲なんじゃ? 一緒に暮らしてて会話するけどキスしない? それ以上もしない?」

「しない」

 再度、周囲一帯が沈黙で満たされた。はー、と溜息が聞こえる。えっ、と俺もその異様な空気に気づき、ちびりと酒を舐める。

 不仲、不仲っていきなり結婚になったにしては仲良くなったほうだと思っていたのだが、確かに普通の恋愛とは、もう少し進んでいてもおかしくないものだろうか。

 酒の味がぼんやりと遠く、舌に届く。辛口のはずのそれも、痺れた舌には重たい水のようだ。

「一緒に寝る、って聞いたので、それって隠語込みの『寝る』だと思ってたんですけど」

「は!? あ、ああ、いや、そういう意味では『寝て』ない」

 あわあわと言葉を重ねる俺に対して、トールとシフは無言でお互いに酒を足し合い、ウルカはフナトに貝の酒蒸しを盛ってやっている。

 そういう意味では、寝てない、という俺の言葉をシフは正確に捉えたようで、コップをぶらぶらと振ってつまりは、と口を開いた。

「友達付き合い、の延長感が強い感じです?」

「あっはい」

 背筋を正した俺に、ふむ、とシフは座り直した。

 トールがシフまだ三杯目だぞ、とぼそりと呟く。シフは自身の金髪を指先で摘むと、でも、と言葉を続けた。

「代理、割と宰相大好きでしょう。それはいいと思うんですよ。まあ端から見ても、憧れみたいなのは見えますよ。で、も、ほら、お付き合いってそれだけじゃないでしょう」

「あっはい」

 びくりと俺は背を縮め、説教の気配に構える。シフがこうなると、お説教の流れであることは経験則から知っていた。

 シフに酒を注ぎ足す係になっているトールは、笑うさまを隠しもせず、シフと俺を指さしてはウルカに耳打ちしている。

 ウルカも最早恐縮を通り越し、酒の瓶を両手で握りながら耳打ちされた内容をフナトに耳打ちし回している。フナトに耳打ちが回った時点でフナトはトールに回った、と指で丸を作ってみせた。

「ぶっちゃけ、宰相と寝たくないんですか?」

「一緒には寝て……」

「息子を突っ込むとか突っ込まれるとかそういう話ですよ」

 トールが横で酒に噎せた。フナトも口元を押さえながら、トールへ台拭きを投げやった。ウルカはもう堪えきれなくなったようで、うははは、と容赦なく笑い始める。

 身の置き場のない俺だけがむしろ、笑いたいのに笑えないような変な状況に置かれていた。

「でも俺、あの、下手くそみたいで」

「っ、ぶは、ちょっとまって、シフごめん、割り込む。代理は、昔の相手にそういうこと言われたんですか?」

「言われた」

 割り込まれたトールに尋ねられ、うん、と頷く。唯一喧嘩別れした女性に、前戯が短くて雑だったし、そもそも小さいし、というような言葉を投げかけられて別れたことがある。

 それからも、付き合う相手というものはできたことはあるが、前戯が上達したかどうか、十分良かったか、なんて聞けるはずもなかった。

 ぽつりぽつりと両手でコップを握りしめたまま話をする俺を、これまで付き合いのなかったウルカまでもが興味深そうに見つめている。穴を掘りたいし、その場で埋まってしまいたかった。

「そもそも、宰相職って忙しすぎて、その上で俺の性欲を満たしてって、なんか。仕事と私、どっちが大事なのみたいな……うっ」

「泣き真似しても誤魔化されませんよあんたそういう性格じゃないでしょ」

「シフだって、そんな性格じゃないでしょ」

「は? ばっか、そりゃ上司には遠慮しますもん」

 今は遠慮してないじゃん、と言う俺に、誰がしますか酒の席で、とシフはばさりと切り捨てた。俺の部下は皆、こんな良い性格をしている。俺が酒を呷ると、シフは俺の持つコップに酒を注ぎ足す。

 俺が道の端で寝たらどうせ腹を抱えて笑うのだろうに、この部下はまだ飲ませるつもりのようだった。

「宰相に代理ごときでお手数をお掛けするのもどうかなって思いますけど」

「シフすげーな! 俺酔っても上司にああは言えねえ」

 トールは完璧にこの様子を面白がっており、シフの酒が少しでも減ろうものなら、なみなみに注いでいる。シフがもっと酔うともっと面白い、と解っているが故の所業だった。こちらも友人だからといって容赦はなかった。

「でも代理が尻の準備すれば宰相は突っ込むだけで済むのではと」

 今度はフナトがごふ、と酒を噴いた。笑いながらウルカが台拭きで周囲を拭っているが、フナトはもう無理堪えられない笑う、と空のコップを持ったままその場に転がった。

 トールはそう来る、とげらげら笑うが、俺はうんそれは分かるんだけど、と至極真面目に現状報告を加えた。

「や、わかる理屈は。準備する魔術式もあの、あの娼館とかで使われるやつをちょっと親戚筋から仕入れてさ。いつでも出来るんだって」

「じゃあ今日したらいいじゃないですか」

「なんでシフは情緒とかに配慮しないのかね」

「酔ってるからですかね」

 トールがそう言いながら、どうどう、とシフの口を背後から塞いだ。シフがばたばたと暴れるため、更に全身を拘束する。もうその辺りにしておきなさい、とトールが窘めると、でも、と珍しくシフはトールに噛み付く。

 俺がもうトールに任せて良いか、とほっとすると、トールから何やら耳打ちされたシフがずるりと身体から力を抜いた。

 シフの視線は、再度俺を捉えた。

「……なんか、あんなに幸せそうに笑ってるのに、キスもまだとか、表面上だけだったのかって悲しくなるじゃないですか。代理の感情は分かりやすいですけど、宰相は感情を隠すことに慣れてるし、恋に溺れているようにも見えない。そしたら代理の一方通行じゃないですか、なんか、代理は確かに大事にされてるのは分かるんですけど、恋人って、結婚って、友達とはまた違うでしょう……?」

 シフはトールに凭れ掛かって、右手のグラスをそっと台に置く。シフはトールに身を預けているというのに、それを恥ずかしがる様子もない。

 俺は未だに、ガウナーとの触れ合いに慣れていない。それを慣れるほど繰り返している、あの接触をしている彼等は、かれらが言うには『友達同士』であるのだ。

 シフはもういい、暴れないとトールの腕をぽんぽんと叩く。

「神託っていう逃げられない命令で宰相なんて面倒な相手と番って、それであんたが恋してるのは良かったなって思ったんです。でも、その結果が表面上大事にされてるだけって言うなら、あんたが将来恋する相手が他にできたとして、その相手があんたを人間として正しく愛したら、あんたはこの神託に振り回されてるだけってことが結果として残る。解りますか?」

 解っているのだ、と俺は言おうとしたのだが、シフの眼差しは酒に呑まれているのに尚、冴えざえとしていた。寧ろ、理性を押さえつけた酒のお陰で、普段は外面で隠している鋭さが垣間見えているようだった。

「あんたは何も選べずに結婚するんですよ。あんたの血は残りませんよ。あんたも宰相だって男なんです。宰相はそりゃもう国王の跡継ぎを自分の跡継ぎが揺るがすことがないって、そんな安心を神託っていう大義名分を以って得ることが出来て、神殿の評価も上がるでしょう。でもあんたには何もない」

「『宰相の伴侶なんて、いいことづくめじゃないか』」

 言葉に出して俺は気づいた。この言葉は俺自身の言葉ではないのだ。俺以外の皆が言う、俺を想像して発する言葉なのだった。

「結婚してあんたが得るのは主に名誉と金、あんたはそういうものを欲しがる人間じゃないのは知ってる。もう一回言います。この結婚は、宰相は良くてもあんたには全然良いことなんか、一個もないんですよ」

 ぼたりと涙が落ちた。ぼろぼろとシフの瞳から溢れるそれは、俺の瞳からは落ちないものだった。シフがあまりにも泣くもので、トールはその身体を反転させて、自身の胸に押し付けた。

 ぐしゃぐしゃと乱れた金髪を振りながら、シフはトールに縋りながらいやだ、と泣いた。あんたが愛されなくて幸せじゃないのは嫌なのだ、と年若い部下は人前で泣きじゃくった。

「シフ。ごめんな、でもまだ、諦めるには早いかと」

 身を焦がすような恋情を、心を砕くような愛情をガウナーから感じることができない。気を遣われているし、大事にはされているけれども、それは結婚相手でなくてもそうすることはできる、と俺の心が盾を張り続けるからだ。

「……、ほんと、……宰相と結婚するくらいなら、おれとしたほうがまだましですよ……。代理馬鹿なんで、そのあたり解ってないんですけど、おれ、代理みたいに鈍くないんで……」

「いやー、その台詞をトールの前で言える君のほうが鈍いと思うんだよ俺はね」

 シフはトールと視線を合わせると、分からない、と小首を傾げた。シフがトールの胸元に埋まると、トールの視線が俺に刺さった。シフが刺さなくなったと思いきや、トールに刺されているので、この二人は俺の胃にでかい穴でも開けたいのかと勘ぐりたくもなる。

「代理ほんとわからず屋できらい」

「俺だって君は大好きだけど、君はもっと君を愛してくれる人と結婚すべきだと思うなー」

「だからきらいだって言ってるじゃないですか……」

 うっうっと泣き上戸になってしまったシフを宥めるトールに任せ、俺はウルカにうちの部下がごめんな、と謝りついでに酌をする。ウルカはシフの様子にぎょっとはしていたが、シフの言いたいことも分かる気はしますよ、と微笑んだ。

「シフの言うことと似たようなことを言う人も一定数はいるんです。この神託は宰相が宰相として身を終えるために、国王の権力を揺るがさないために、国王派に全てに於いて都合が良い」

 ウルカは俺と乾杯をやり直した。この先を言ってもいいかと視線で探るウルカに、促すように口角を上げてみせる。

「男で跡継ぎを残さず、国王の後継者争いの火種になりようがない、神託の通りに動くことで神殿への覚えも良い。モーリッツという学術以外の権力がない家の人間を娶ることで次の宰相争いの力の均衡が崩れない……、ああ、これは宰相閣下は実力主義なので、次の宰相も実力で選ばれてほしいんじゃないか、って予想からですけど」

「ああ、確かに。つまりは出来すぎてる、って話か?」

「ええ、国王を国王たらしめる脚本として、とても出来が良い。代理の性格も宰相閣下を家庭に縛るような性格じゃない。護衛も要らないほど強くて、役職持ちで宰相の権力争いで吹けば飛ぶほどの立場にもない。かといって、魔術式構築課は力を持ったところで何があるような課でもない。そして、神殿の大神官は代理もご存知だと思いますけど」

 当代の大神官は、ルーカスという男だ。

 大神官としては優秀な男で、この男が大神官となってから、クロノ神の渡りが格段に増えたのだそうだ。神の奇跡というものを意図して起こせるほど力がある、珍しく力のある大神官が就任した代であると聞いている。

 それよりも、今回関連しているのは大神官の経歴だ。大神官は宰相閣下の昔馴染み、学生時代に宰相閣下と同じ学び舎、同じ年で学び、そしてとても仲が良かった。その大神官は、今回の神託を告げた人間である。と共に、現在でも宰相閣下と親交の深い人物である。

「まあ、噂ですがね。神託のでっち上げ、そういった口さがない噂を立てる反国王派もおります。そんな噂が立つほど代理は宰相の伴侶としては出来すぎているということですから、持たざる者の僻みとでも思っていれば良いでしょう。そもそもクロノ神の神官は、嘘が許されませんしね」

 末端の神官であれば抜け道もあるのかもしれないが、農耕を司るクロノ神は虚言を嫌う。信徒にもそれを完全に求めることはないが、神官へは『嘘をつかないこと』が求められる。神託の内容を偽ったとするなら、神への冒涜である。

「けれど、大神官なら、とも思うのです。大神官なら、神に愛され、神の奇跡を身に起こす大神官なら一度の自身のためでなく、親友のための嘘は許されるのかもしれない、とも」

 黙っているのは貴方にとって不義理だと思うので言いました、とウルカはにこりと付け加えて酌を返した。ありがとう、と俺は忠告と酌に礼を返した。

 フナトはごろごろと床を転がり、寝入る体勢になっている。大丈夫かー、と頬をつつくとねむい、と細く声が届く。

 ずりずりと頭をウルカの太腿に乗せ、かたいと文句を付けながらまぶたを閉じた。寝たら一晩うちに泊めちゃいますよ、寝椅子しかないですよ、と朗らかに言うウルカに、うん、と頷いている。

 あのフナトが信用しているのだから大丈夫か、とウルカと飲みを再開した。

 筋力の衰えを感じている俺はウルカに普段鍛えるためにやっていることを聞き、魔術師なら腕の筋肉をあまり急に付けると、記述式の魔術の発動に影響するということと、全身満遍なく運動していくと良い、と助言を受ける。

 ややあってシフが落ち着きを取り戻し、そのままコップを握って酒を寄越せと言い始め、トールも苦笑しながら加減させるんで、と飲みの輪に加わった。それからは宰相の話を出すことはなく、それぞれの仕事やら研究やら趣味の話に終始する。

 俺の周囲で通信用の魔術が展開されたのは、四人がそれぞれに眠気を訴え始めて、宴も酣といった頃だった。

『ロア。ああ、悪い。まだ仕事だったか?』

「ガウナー」

 俺が返した名前に、その場に居た全員がびくりと肩を震わせた。

 シフなんて先程は宰相に都合の悪いことを言っていた自覚があるのか、見られてもいないのに、こそりとトールの背後に隠れた。

「いや、飲み。でもたぶん、もうそろそろお開きになるかと」

『ああ、じゃあ迎えに行こう。どの店だ』

「いや、い……」

 いい、と断ろうとしたのだが、じとりとシフが俺に視線を向けたのを見て、嬉しい、と言い直して店名と場所を告げる。

 シフの前でガウナーとちょっとでも不仲な様子を見せようとすれば、自分が結婚する発言が再発するかもしれない。それはトールの視線を浴びる俺にとっては、非常によろしくない言葉だった。

 これでいいか、と言いたげにシフを見ると、うん、と大きく頷き返された。俺は溜め息と共に、酒を飲み干す。

 残り少なくなっていた料理を片付けた頃に、見計らったようにガウナーが現れた。赤いな、と俺の頬に触れると、支えるように腰に手を回した。

 シフはよし、と拳を握り、俺は突然のことに混乱する。余った酒を確認する店員に支払いを、と告げると、もう頂いております、と返され、俺はあれ? と声を上げる。

 酔っている間に払ったっけ、と首を傾げると、トールは勘づいたようにガウナーに向けてご馳走さまでした、と頭を下げた。

「いや、仕事も楽になっているとはいえ、婚約者を放ってばかりで碌に気晴らしもさせてやれなくてな。若い部下と語らうのは楽しかっただろう。ウルカ、トール。ゴーレムに関する話は聞いた。急いで用意してくれたそうで、礼を伝えてはいたのだが、重ねてありがとう。婚約者の安全は何ものにも代え難い」

 ゴーレムを用意したにしては納期が早かったな、とは思っていたが、宰相案件だから何か優先度の繰り上げがあったのかもしれない。自身の安全が、国家的な案件を含めた優先度でも上に関わることに、今更ながらに複雑な心境だ。

「フナトは……眠っているか、結界を屋敷に常時張れるよう改良してもらっているそうで、こちらも有難く思っていると伝えてほしい。我が王も興味を示されていて、いずれはゴーレムと共に国の要所にどうか、と言っていた」

 ウルカ、トールの二名はありがとうございます、と再度頭を下げ、ウルカはぱっと晴れるような笑顔を見せた。

 結界とゴーレムが王様案件になっていることに、俺は顔を一瞬歪ませたが、まあ、多少盛ってもいるだろうし、間にガウナーが入るなら短納期にはならなさそうだ。

「シフ」

「はっ、はい!」

 シフは元気よく返事をしたが、その返事が先程の発言によるものだと知っている全員は、その場で笑いを堪えるのに必死だった。

「普段からロアが迷惑を掛けているな。君はしっかりしているようだから、君がロアの仕事を一部引き継ぐと聞いて安心した。我が婚約者は家でも『次の仕事に使う魔術書』ばかりで私には構ってくれないのでな」

 ガウナーは、君たちにも表に馬車を用意しているので乗り合わせて帰るといい、と告げ、お疲れ様、と俺の腰を抱いて場を辞した。

 俺はハッセ家の馬車に乗せられ、蝶よ花よとばかりに、全てに於いて補助されながら席に腰掛ける。

「揺れが少ないよう気をつけてくれるか。酔っ払いがいてな」

「承知しました。ロア様、気分が悪くなったらお知らせくださいね」

 御者のベレロに声を掛けられ、程々に気をつけて貰えば良いよ、と微笑みながら返事をする。

 俺が、ぼす、と背凭れに凭れ掛かると、ぴたりと頬に掌が触れた。少し冷たい体温が心地良く、されるがままになっていると、楽しかったか、とやわらかく声が降る。

 ああ、と掠れた声で返事をすると、ガウナーは嬉しそうに頬を緩ませていた。

「飲み代、は返すな……、あ、馬車も助かる。俺が無理言ってみんな誘って」

「いいから。楽しかったんだろう?」

「皆いい奴らだよ。俺がこんな感じだから心配させちゃって……」

 左手が上から包み込まれる。整った指先が絡み、指の間を抜けて手のひらに指の腹で触れた。びくりと震えた俺に体温が寄りかかり、暗く浮かぶ金髪が、暗褐色の髪の隙間から覗いた。かたん、かたん、と馬車が揺れ、その度に金髪が揺れる。

「『こんな感じ』にしたのは私なんだろうな。最近は疲れさせているような気がする」

 否定のため首を振るが、ガウナーはそれを信じてはいなさそうだった。

「色々な変化をロアに強いることは分かっていた。それら全部からロアを守り切れるのだと、神託を受けた時は思った。……けれど結局、ロアでなければ、どうにもならなかったことも多い。ロアがこれまで積み上げてきたものが、ロア自身を守っている。それは、私が守っていることではないんだ」

 凭れ掛かるガウナーを見下ろす。これまでこの男は、誰かに凭れることを良しとしていたのだろうか。こうやって、俺が全て寄りかからないことにだって自己嫌悪を抱くような男が、誰かに体重を預けたりしていたのだろうか。

「俺は、逆にあんたを守りたくて同じ感情を持ってる。だから、おあいこだ」

 ふふん、と笑ってやると、ガウナーはそうだな、と小さく呟いた。らしくもなくしゅんとしてしまったガウナーが珍しくて、わざと茶化すように話を変える。

「時間が取れるようになったら俺と飲みに行かないか? 今日奢ってもらった分、奢るから」

「ああ、楽しそうだ」

 手を持ち上げると、きゅっと力を込められる。

「頼むから、約束をくれ。一年後の式まで、いや、それより先も約束がほしい。私は、ロアに見限られることが怖い」

「見限るなんてあるはずないだろ」

 見限るのはあんたのほうだ、と心で嗤った。一年後も、それより先も、彼が宰相として勤め上げるために俺が必要だったのなら、必要な間、必要な分だけ俺は自身をガウナーに提供できる。

 けれど、その先は、あるのだろうか。

 彼の中で仕事が必要なくなったら、仕事よりも必要な人ができたら、きっと俺が要らなくなる日はいずれ来るのではないのか。

 シフの目から見て、俺はガウナーに憧れ、恋をしているように見えるのだろう。恋情も愛情も、欲しいほしいとばかりに思い続けているのだから、到底愛しているようには見えないのだろう。

 俺はきっと、寂しがりだ。

 ガウナーが俺でなくてもいいだろうと思うのは、神託が降りた時、俺だってガウナーでなくても良かったからだ。俺が都合良く、近くに居る人間を欲しがった結果がこうなった。誰でも良かったからくれるなら欲しかった。でも、シフがそれを与えてくれると言った時、俺は断る答えしか持たなかった。

 俺はガウナーという存在に、拘りを持ち始めているらしい。

 いつか徹底的に破綻するだろうに、破綻予定の感情を得ようとする自傷行為を繰り返す。歳を重ねても、下手くそだと罵られた恋愛の仕方は、一向に上手くはなっていないらしい。

 

 

◇6

 案の定、というかシフから代理がおれの補佐なら代理もやりますよね犯人役、ということで俺自身も犯人役として国王夫妻を襲う不逞の輩に加入させられた。

 実際の演習は来月とのことで、まずは防衛課側の犯人役と顔合わせしましょう、と防衛課側の責任者との打ち合わせがあった。

 責任者はシフとフナトに向けて目を見開いていたが、この二名は魔術式構築課という体格を必要としない課においても小柄な方だ。本当に犯人役で大丈夫か、と思うのも無理もない。

「防衛課、第二小隊。シャクト・レーベルだ」

 シフに向けて大きな手を差し出すシャクト隊長に、シフは背筋を伸ばしてその手を握り返す。シャクト・レーベル隊長は、筋肉質で背も高く、身体に厚みもある。

 数年前から一線は退いており、教育を主業務としているが、隊長なだけあってべらぼうに強いとのことだ。一対一よりも、一対多として敵を撹乱する術が上手いのだと聞く。

「ちなみに、サ……サーシ・ビューロー課長は」

「今回は担当ではありませんが、何か?」

「いえ」

 少し残念そうに引いたシャクト隊長に、俺はしばし視線を残した。彼の部下三名も次々と名乗り、フナトはびくびくとしながらも名乗り返し、握手のための手を差し出している。

 どの程度の人数までなら良いか、と探りを入れたところ例年三名もしくは四名とのことで、シフは俺とフナトを躊躇いなく指名した。

「それで、こちらが装置をいくらか用意したい、という件で以前お話ししていた魔装課の担当者で」

「ウルカです。細々としたものでも案を頂ければ組みますので、気軽にお知らせください」

 四人目、を選ぶにあたって、シフは魔術式構築課じゃないと駄目でしょうか、と言い始めた。

 妨害用に何らかの装置を用意するにしても、魔術式は組めるものの、装置の用意ができない。買っていては高く付く。上経由で魔装課にも協力を要請し、人選は指名した。また、いくら魔装を作れても、当日棒立ちになる人選では困る。ある程度腕っぷしがあって、尚且つ当日操る魔装がある人物が都合が良かった。

 ウルカに声を掛けると、殴るのは苦手なのでゴーレムを暴れ回らせますけど、とのことだったため、その場でとっ捕まえてシフに引き渡した。後からトールからも、参加したかった、と文句を言われたが、二人も要らないと断った。

 フナトもウルカが気を遣ってか近くに居ることで、目に見えて震えてなどはいないようだ。こちらの意味でも間違ってはなかったようだ、と安堵する。

 全員が着席し、シャクト隊長が演習のざっとした概要を纏めた書類を配る。あとの会話は任せた、とシフに主導を全部投げているので、俺は脇で小型魔術機へぽちぽちと議事を入力する係で、気楽なものだ。

「では、まず魔構から質問は出たか?」

 シフが用意した書類を元に、口を開く。

「はい。まず去年魔術小隊が作成していた、使用する魔術の一覧ですが、我々には殺傷能力が高すぎるように思えました。護衛対象にはある程度本番と同じ魔術結界が張られている前提でしょうか。本当にこれ、大丈夫ですか?」

「まあ、そう思うか……。いや、本当に毎年それくらいの魔術は撃ち合う」

 シャクト隊長の話によると、下手すると死ぬような魔術であっても、演習で使うくらいの魔術であれば、去年は容赦なく使っていたとのことだった。

 演習で使われる魔術についての基準の資料を貰い、この基準を満たす程度に威力を落として使用することで合意した。威力が制限されるということは、どれだけ意表を突けるかが大事になりそうだ、と個人的な覚え書きも残す。

「第二からいいか? この合意からすればもう少し使用魔術一覧の案から威力が上がるということで、……何となくやりたいことは分かるんだが。この主に使いたいと挙がった二十くらいの魔術の中で、我々が見たことがあるのは、類似魔術を除いても数個程度なんだが……」

 いや、さすがに見たこと無い、ということはないはず、と、冗談でしょう、と笑いかけたシフが、シャクト隊長の苦笑で真顔になった。魔術式構築課というだけあって、全員が新しい魔術式を組むのが好き、魔術式の改良は大好き、という面子ばかりだ。

 どんな魔術使うよ、ということで全員持ち寄りで魔術を出し合ったのだが、案の定、防衛課からすれば見覚えのない魔術ばかりだったようだ。

 シャクト隊長は見たことがないものは却下、とは言わなかったが、味方が内容を知らないのは問題である、と言葉を続けた。

「うちの魔術小隊に似たようなものを見せてもらえないか、と軽く話をしてみたが、『基本的に実現可能とは思えない』という式と『こんな発想したことはない』という式と『やりたいことが分からない』式が大分混じっているそうで」

「すいません……、見慣れない魔術というのは、犯人役のこちら側も混乱しますよね」

 シフはシャクト隊長の言葉に同意する。

 丁寧に説明書きは付け足したつもりだったが、視覚的に見えなければ動作にも影響する。一瞬の判断が捕縛に影響するのなら、慣れるくらい魔術を見てもらってもいいくらいだった。

 ぺこぺこと頭を下げるシフを、シャクト隊長が宥める。

「ああ、百聞は一見に如かず。練習の中で全部一通り、見せて貰えれば、と」

「承知しました。ええと、類似で見たことがある物もあるかもしれませんが、最初の練習で全部一通りやりますね」

「……一日でこれ全部?」

 シフは平然と頷き返す。

「え? ……あ、はい。誰か欠席するかも知れませんが、種類として全員撃てるようにしていますので、誰かが出れれば全部お見せできます。欠席が出なければ、もしかしたら使うかも、で出している魔術も撃てるだけ撃ちます」

 シャクト隊長が二十近く並んだそれと、緊急時用、例外用に並んだ一覧を見て、ふむ、と顎に手を当てた。

 隊長らしくなく、視線が泳いでいる。シャクト隊長の混乱がシフには分かっていないようだったが、防衛課の魔術小隊の魔力量なら魔力切れ必至だ。休憩を挟んでようやく、あの二十を撃ちきれるかといったところだろう。

 しかもあの二十の中には、魔力を馬鹿みたいに食う魔術がしれっと混じっている。一日中魔術機を動作させ、昼休みには魔力が余ると撃ち合いを繰り返し、家に帰っても趣味で魔術機を使い倒すような魔力の使い方に慣れている魔術師の感覚で他部署と話すと、基本的には首を傾げられることになる。

 魔力が多いと言われる俺以外でも、他部署から言わせれば十分な魔力量だ。

「訓練時間の間で、回復なしに、この二十近くを撃てる、と」

「実際の犯人役の時間なんて、この半分よりも短いくらいですよね? 呪文短縮は万全に行うつもりです、これからの期間で更に短縮できるものは短縮しますね」

 シフは魔術を発動する時間を心配されている、と思い込んでおり、短縮できるので、と言い募るが、シャクト隊長が混乱している点はそこではない。

「いえ、時間的なものは勿論だが。訓練時間は仕事終わりに近い時間で、魔力は……」

「大丈夫です。足りますよ」

 平然と言ったシフに、シャクト隊長は、そうか、と言う他なかった。俺は口を挟むか、とそろそろ手を挙げて口を開く。

「魔術機に長時間魔力を吸い取られ慣れているので、我々の魔力量は魔術小隊の二人分以上はあるとお考えください。魔術小隊に回していないような、人を選ぶ魔術式も使いますので普段よりも発動が早い。その辺りは実際動かして感覚を擦り合わせましょう。その代わり我々は強化魔術を使ったとしても、普段訓練に参加する魔術小隊と違って体術は専門ではありません、そのあたりの補助をお願いしたいところです」

「成程。……中々、魔術小隊と勝手が違う。いや、面白いことになりそうだ」

 シャクト隊長はふむ、と愉快そうに紙を捲った。

 部下同士は大丈夫か、と視線を交わし合っているというのに、隊長は多少表情は変わるものの、引き摺ることはない。ある程度の修羅場には慣れていそうだ。

「あと、すいません。魔装からですが、攻撃にゴーレム使って構いませんか?」

「…………本当に勝手が違う」

 ゴーレムと共闘というこれまでにない戦闘に、シャクト隊長は目を瞬かせたが、ウルカは詳細に動かせるのは一体が限度なので、大丈夫ですよ、としれっと笑っていた。

 

 

◇7

 

 その日、俺は珍しく、政策企画課を訪れていた。

 来ることは知られていたらしい、室内にいた課員である兄妹に挨拶をし、宰相補佐として初めて会う、スクナ・メイラーと頭を下げ合う。

 ガウナーよりも外見の印象は優しく、にこにこしていたが、いい性格をしているのは聞いて知っていたため、慎重に口を開いて名乗る。

「宰相閣下はもう戻られている時間なんですがね……。会議が長引いているのでしょうから、宰相閣下の机に座っていてください」

 俺は時計を見たスクナから、ガウナーが普段座っている椅子への着席を促され、おずおずと腰掛ける。魔術式構築課の自席よりもゆったりと腰を受け入れ、かつ高級感のある椅子に、うわあ、と思わず声が漏れる。

「メイラー宰相補佐、これ、いい椅子じゃない? 俺も欲しい」

「名前で良いですよ。僕はその椅子の役職ごと頂く予定ですので自動的に座れますもん。ていうか魔術式構築課は予算を書籍と魔術機に回しすぎですから、課長の椅子に肘掛けなんか要らねえ、ってその分の予算で本買ったでしょう」

「あっ忘れてた」

 初対面だというのに、メイラー宰相補佐は人懐っこい性格のようで、俺が砕けた口調で話すと、そのまま自身の口調も砕けさせた。

 数ヶ月前に、課長に本は欲しいでも予算が、と打診したところ、耐用年数過ぎてぐらつく机と椅子の分の予算はあるから、最安値にしてその分の予算で書籍を買おう、と俺の机と椅子が犠牲になったのだった。

 それにしても、魔術式構築課ほどの小さな組織の予算状況までよく分かるな、とスクナに感心して口を開く。

「なんでスクナのほうが詳しいんだ。宰相補佐ってそこまで把握するものか?」

「いえ、僕は宰相閣下から聞いただけです。宰相閣下が魔術式構築課の事情を色々把握してるのはあれ、多分趣味ですよ。予算とかその最たるものなんで、魔術式構築課の予算があまりにも少ないっつって使い道を浚ってました。椅子のくだりでは明らかに自分の婚約者の仕業で、笑いを噛み殺してましたね」

 俺が言い出したことは、ばれているらしい。あらぬ方向を見て今日もいい天気だなあ、と誤魔化す俺を、スクナは予算を増やしとくので設備にも使ってくださいね、と窘めた。年下なのに、手玉に取られている感が多分にあった。

「いや、予算はあれで十分だし……」

「宰相閣下の結婚相手ということで、王妃様に割り当てられる予算の数分の一ですが、予算は下りる予定です。結婚後は会食だとか出てもらいますから、服代だとか諸々と。その関係で魔術式構築課に対しても予算割当は増額です」

「会食……作法とかもう忘れたんだけど」

 王妃に次ぐ立場ということは、食事会への出席くらいはあるんだろうな、と戦々恐々としていたが、案の定食事会というものはあるし、伴侶を連れて、という食事会には、俺も招かれることになるそうだ。

 宰相閣下は顔も良いし、王様はいかにもな顔の良い王様だし、王妃様は美人だが、それらに並ぶのが地味な俺、というのが絵面の暴力に思える。

 狸の毛並を整えて後ろ脚で立たせたとしても、所詮は狸だ。

「忘れていても、身体に染み付いているようですよ。宰相閣下は食事の作法が普段から綺麗だと褒めていらっしゃいました。作法を思い出すよう高級店に連れ回す、と……代理も腐っても貴族ですね」

「腐ってないもん。若いし」

「若い人は、若いしって言わないんですよ」

 この容赦のない物言いは部下のシフを思わせたが、部下のシフがああやって適当な言葉を投げるようになったのは、数年間俺が修羅場に巻き込み続けた末の結果だ。

 スクナは出会ってすぐの俺に対して、豪速球の言葉を容赦なく投げつけてくる。上に言葉選びが一々酷い。しかも、俺がそれらを受け取れることを知っての所業だった。俺は狸だと周囲からは揶揄されるが、それを言うならスクナは狐に違いない。

「ガウナーに聞いていた話より、強かな部下で安心した」

「ええ、僕は強かなので、さっさと宰相の椅子に座ります。そして、貴方のところに宰相閣下を早く帰して差し上げる。……それまでの辛抱ですから、食事会くらいこなして見せてくださいね」

 おいでおいで、と手招くと素直に寄ってくるので、立ち上がってわしわしと頭を撫で回した。

 そしていい部下だった。ガウナーは事あるごとにスクナの事を話す。いい部下なんだろうな、と思ってはいたが、思っていたよりも、かなりいい部下だった。

 スクナは自分の台詞が恥ずかしくなったのか、眉を寄せてうーん、と唸った。

「調子に乗りすぎたかもしれません。忘れてください……いえ、貴方のことはそれこそ腐るほど聞いたので、初対面に思えない。それなのに今日会えたので、浮かれた、と。まあ、そういうことにしてください」

 くすくすと他の二人に笑われると、スクナも肩を落とす。

 そんなスクナを撫で回していた俺は、その瞬間に扉が開いて視線を向けた。上がっていた息を整えるように息を吐いた男前の婚約者は、ああ、とスクナに絡む俺の姿を見て、目を細める。

「済まない、遅れた。……私の部下は苛められているのか、婚約者殿」

「いいえちっとも、可愛い甥を撫で回すようなものですよ宰相閣下。お許しを」

 俺の言葉を宰相閣下はお気に召さなかったようで、スクナを撫でていた腕を掬い上げられ、腰を取られた。

 一度軽く抱き締められ、耳元に口を寄せられる。何事か言おうとして口を開いたようだったが、ガウナーは黙って俺を離した。

 横から、ぱちぱちと的はずれな拍手が聞こえてきたのは、その直後だった。視線を上げるとスクナが拍手をしており、上気した顔で口を開く。

「宰相閣下が伴侶に甘い質なのは分かっていたつもりでしたが、目の前で見ると衝撃ですね」

「そうか?」

 まだ腰に腕が回ったままの俺が、ガウナーと距離を取りながら言うと、ええ、とスクナは首肯した。

「魔術式構築課の予算は見るわ、昼食をどうにか一緒に取れないか算段するわ、早く帰りたい帰りたい、とこれまで仕事中毒だったのが嘘のように、今度は婚約者殿伴侶殿、と……。宰相閣下も人の子だったのだなあ、と笑い話の種は尽きませんよ」

 ごほん、とガウナーは咳払いをする。俺は腕の中で目を白黒とさせた。

「スクナ・メイラー宰相補佐。打ち合わせの資料をここに置いておくので、明日、数字の直しをお願いしたい。あと、君は些か口が軽いな。そういったことを婚約者殿に聞かれると、私はきまりが悪いのだが」

「宰相閣下は口が重すぎる。愛の言葉は多ければ多いほど良いと思います、僕の主観ですが」

 善処しよう、とスクナに返したガウナーは俺を解放すると、持っていた書類や道具を所定の位置に片付けた。

 そのまま席に座ることなく、俺の元に取って返す。手のひらを捉えられ、そのまま手を繋がれた。

「ではメイラー宰相補佐、私は婚約者殿に重い口で、必死に。愛を囁かなければならないのでこれで失礼しよう。皆に残って頼むことは特にはない、お疲れ様」

「「「お疲れ様でした、宰相閣下」」」

 ついでにひらひらと手を振ってくるスクナに手を振り返し、手を繋いだまま政策企画課を後にした。

 さらりと職場を後にしたガウナーの耳元は、やや赤い。

 ガウナーがこういった軽口が苦手な質だ、ということも分かっている。気の毒なことをした。いくら婚約者とはいえ、好きでもない人間を口説くのは無理をさせてしまうな、とじわじわと後悔が押し寄せる。

 廊下を歩いている間も、俺とガウナーが手を繋いでいるために、掛かる声は微笑ましい、などといったものが多い。ガウナーはそれらを微笑んで軽くあしらっていたが、それでも手を離すことはしなかった。

 あまりにも俺とガウナーが一緒に居る機会が少ないために、偽装結婚、という声もまだある。多少、そういった振りをばら撒かなければならない頃合いなのかもしれない。

 俺は大人しく、ガウナーに手を繋がれたままでいた。その真意を問うこともしなかった。今日早く終わるので食事にでも、という言葉も、嬉しい、と微笑んで受け入れた。その背後に何らかの意図があるのだろう、と分かってはいたが、その意図を聞くことは、俺の心には疵しか与えないだろうと分かっていたからだ。

 何も考えずに、頭が悪い男の振りでもしておこう。ただ笑って、一緒に食事が出来て嬉しい、とだけ言っておこうと決めた。ガウナーが寂しさを和らげてくれるなら、体温を与えてくれるのなら、俺はその間物分りの良い伴侶でいる。

 迎えに来た御者のベレロに頭を下げて馬車に乗り、行く先の料理店について話を聞いた。やはり普段行く食堂などよりも、格式が高い場所のようで、服について問うと、途中で服も買う、との返答だった。

「食事のために服だなんて豪勢な話だ。一度帰ったほうが早いんじゃないか」

「いや、モーリッツ家にその手の服があるかと思いきやそうでもなく、普段の服は魔術師用のローブばかり、出来合いの服を買うついでに測らせる」

「こんなおっさんを着飾っても」

「普段が適当なだけに化けるだろう」

 ひどい、とくしゃりと前髪を握り潰す。髪も適当過ぎる、とガウナーは俺の髪を縛っている結い紐を解いた。多少伸びた髪が肩に散らばる。

 面倒、と散った髪をまとめ、ガウナーに結い紐を返すように手のひらを差し出したが、ガウナーはそれを返してくれはしなかった。諦めて髪から手を離す。

「髪も、服に合わせて結い直そう」

 ガウナーが指定した仕立て屋は、通りに面した店ではない、小ぢんまりした店であった。

 質の良い服を纏った店員から扉を開かれた時点で、居心地の悪さにガウナーの傍に寄る。借りてきた猫のようになった俺に、ガウナーは面白そうに口角を上げ、店員に採寸を指示した。

 それから俺は人形のように、言われるがまま手を上げ足を上げ、立ち上がり腰掛け、自分が知らない部位の大きさまで測り倒された。

 脇に設えられた椅子に腰掛けたガウナーは、店員の前では面倒だと言えない口数が減った俺に対して、疲れてはいないかと確認はしてくれたが、俺は全てに首を振った。

 いずれ王様と食事なんて天変地異が起きたら、だとか嘯いてきたが、どうやらそんなことを言っている立場にはないらしい。こうやって細かく採寸されているのも、いずれ必要になるとガウナーが判断しているからだ。各国の意匠をあしらった小物や民族衣装を揃いで身に纏うことで、好意を示すこともある。

 求められて人形になることを、良しとしている。それらを背負うつもりであることに、自覚は驚きを伴った。俺がこの役目を投げ出すことは、おそらくはガウナーとの別れを示している。俺はガウナーとの別れを、無意識に良しとはしていないのだった。

 夕食の場に、と出来合いのものから、普段遣いしやすい色を揃えてもらい、袖を通す。

 吊りベルトは留めてもらおうかと思ったが、店員が手を出すよりも先に近づいてきたガウナーが、遊び半分に金具を留めた。

 それから先、ジャケットに腕を通すのも小物類もガウナーが手を出してしまい、仕方ないなと俺は笑いながら全身を着せ付けられる。髪は普段よりも丁寧に櫛を通され、普段よりも低い位置でゆったりと纏められた。

 眼鏡は細かいものを近くで見なければ絶対に要る訳ではない、と言うと、口元に弧を描いたガウナーが懐に奪い取ってしまう。

「多少不自由になるからな。基本的に左腕を貸してくれ、婚約者殿」

 ガウナーの口癖を真似て苦笑した俺に、ガウナーは数拍動きを止め、勿論だと胸を張った。

 鏡の前に立った俺は、魔術でも掛けられたかのように上流階級の紳士然としている。

 暗褐色の髪と対照的に、襟元は明るい色が配されており、襟元は貞淑さの含みでもあるのか、当然のように詰襟とされた。

 眼鏡が外れると、翠色の瞳は自然と色を主張しはじめる。チーフは青色を、と指定した。我が婚約者殿の綺麗な瞳の色なのだ、本人に気づかれていなかろうが、外せないところだ。

 国王陛下と宰相閣下が立ち並んだ時に、対照的だと思ったものだが、俺とガウナーもまた髪色も瞳の色も、肌の色も体格も含めて全体的に造りが違う。それらを上手く纏め、隣にガウナーが立つと一揃いになるよう、服に調節されているかのようだ。

 ガウナーは小物だけを店のものと取り替え、自然に左腕を俺に差し出して店を後にした。

 俺は馬車に乗り込むなり、転移の魔術式を起動して、食事作法の本を手元に取り寄せた。続いて起動した魔術式で、高級店の作法の頁を探り当て、ぱらぱらと流し読みする。

 そんな俺の姿にきょとんとした顔をするガウナーに、ここ数年高価な店で食事したことなんかない、と素直に白状する。基本的にはガウナーの作法を真似ることにするが、なんかやらかしていたらこっそり教えて欲しい、と本で顔を隠すと、ガウナーは作法を気にする者が近くに寄るような店ではないが、と告げる。

 俺がその言葉に首を傾げながら店に着くと、確かに案内された席と席の間隔が随分広かった。その間を埋めるように給仕が行き交っているが、人数も十分足りるようで配慮が欠けることはない。

 ガウナーを出迎えたのは、明らかに支配人らしき人物で、変わった襟章が首元で主張していた。

「静かな席に通してもらえると助かるんだが」

「承知いたしました。こちらへどうぞ」

 この店であれば、中央が上席ではあるのだろうが、そちらに案内されずにほっとする。立場上、最上席に案内されても仕方がないのだろうが、中央は兎角、人目に触れる。

 律儀にガウナーが腕を貸してくれるお陰で、進む先を迷わずに席に座ることができた。

 近くにある置物に目を向ける。犬を象ったその像には、魔術が仕込まれている。

 フナトが掛けるものほどではないが、簡単な解毒と若干の気分の高揚。貴族が出入りする店ということなら、魔術師を一人抱えていようとも不思議ではない。良い術とは言えないが、民間の雇われ魔術師なら十分な腕だ。

 料理と酒の選択は全て任せる、俺の好きなものは知っている筈、と無茶ぶりをしてみたところ、ガウナーは平然と食前酒を選んで給仕に伝えた。

 ほー、と感心してみせたところ、余裕たっぷりに軽いものを頼んだから、と付け加えられて説明を受ける。

「基本甘党が好きそうなものを選んでいれば文句なかろう」

「お、正解」

「肉や魚よりも、菓子に食いつきそうだな。ここのは美味い」

 訓練での犯人役が決まり、身体を鍛えるために走り回るようになった俺は、甘いのはなあ、と最近甘味を控えるようにしている。だが、そこまで勧められる甘味を味わわなければ損だろう。

 ガウナーはただ甘味の味だけで店選びをしたらしい。貴族女性の間で他店より菓子に力を入れている、と流行りの店なのだそうだ。

 運ばれた食前酒のグラスを傾けてうま、と口に出した俺を、ガウナーは目を細めて眺めた。正解、と俺が言うと、毎日食事が一緒なのに間違うものか、と言葉を返される。

 何度食事を共にしたかは覚えてないほどには、食事を共にしている。それくらい一緒に食事を取れば、好みの話は絶対に出るものだ。

「ああ、美味い幸せ。高価い料理の味」

「屋敷の料理も絶品だが、こちらの料理はまた違った味だな」

 屋敷の料理長であるイワもまとめて褒める言葉に、俺は素直に同意した。

「イワさん家で作ってくれるとき、基本的に味が優しいし冒険しないもんな。あ、魚うま」

 魚をつつきながら漏らす俺に、肉より魚だな、とガウナーも同意した。多い肉はもたれる、と言うと、年若い部下は肉なんて多いほうがいいじゃないですか、とのたまうのだが、自身の身体はもう大量の肉を求めてはいないのだ。

 カトラリーの順序と使い方くらいは知っていた。ただ、細かな食材別の食べ方は、ガウナーの仕草を見るまで自分が手を出すのは控え、様子を窺うことを繰り返して食事を終えた。

 酒も適量以上には飲まないよう気をつけ、若干ふわりとはしているが行動に支障はない。

 目の前にお手本がいるというのは、かなり心理的に楽な食事だった。王様が同席した場合には、王様の作法が正になるため窺う先が変わるが、なるほど自分が真っ先に料理に手を伸ばさなければ良さそうだ。

 俺がほっと食事を終え、甘味を口に入れていると、ゆったりと緩んだガウナーの目元と視線がかち合う。

「んー? どした」

「また来るか?」

「ん。また忙しくない時にでいいけどな」

「…………、私は今自分の不甲斐なさに、地に埋まりたいよ」

 自分の発言を振り返り、どうせ時間なんて取れないんだろ、という含みが感じ取れたかも、と察して、ごめん、と謝罪した。

「婚約者殿はこう、何か言う度に『忙しくない時に』と言い添えるのでな、私は気を遣われていて嬉しい、とスクナに言ったら、我慢させてんじゃないですか、とざっくり刺されてだな……」

「いや、あの、この歳で旦那いなくて寂しい、とか会わなきゃ駄目とかないから」

「とか言いつつも、ロアは家では傍に寄って来るから、人が居ることに慣れてる質かと思ってな」

 一瞬で、甘さも酔いも掻き消えたかのような心地だった。ごくり、と飲み込んだ音が遠く聞こえた。

 ああ、伝わってしまっているのだ、と返す言葉を失う。人に慣れているとかではなく、違うのだ、ただ、俺がガウナーの隣に寄りたいだけなのだ。

「……ああ、そう、かも。でも、独り暮らしも長かったから、気を遣ってもらうほどではないんだ」

「ああ、違うな。私が帰ってきた時のロアの顔を見るのが楽しいから、なるべくロアが夢に連れていかれない間に帰るな」

「だから、起こしてくれてもいいんだけど、って」

「寝ていたら寝ていた、で運ぶ楽しみはあるぞ。寝ている間は無防備で何をしてもばれないしな」

 何してんの、と言うと無言で微笑み、口元に人差し指を立てられた。やだお茶目、よりも何されてんだろ、という動揺が襲い、寝る時間を遅らせるか、と思考が一気に酔った頭を駆け巡った。

 明らかに手が止まった俺を、ガウナーはにこにこと見守っている。自分の皿を差し出しかねなかったのは、流石に口で止めた。

「ご馳走様」

 席を立った瞬間、ガウナーが左腕を差し出し、当然のように腕を絡めて身を寄せる。条件反射のそれも、思い返せば馬車の移動ばかりで、街を二人で歩いたことなんてなかった。

 二人で地に足を着けて歩くのさえ、限られた時間だったことに、こういう機会は次はそうそうないんだろうということに、こみ上げてくる何かがあった。俺がどこかに行きたい、と言えばガウナーは叶えるよう努力してはくれるのだろうが、彼が俺を慮って身をこれ以上削ることを、俺は良しとはしないんだろう。

 国に身を捧げることを決めた人を、支えるつもりでいる。物分りの良い伴侶で居たいのだった。

 馬車に乗る際にも支えられながら席に座り、ぼやけた視界のままで屋敷に着くまでを過ごした。

 屋敷に着いてからも馬車を降りる際には、支えられて降りる。流石に屋敷まではと思ったが、ガウナーに眼鏡を返してくれる様子はなく、そのまま玄関を過ぎた。

「ガウナー、眼鏡を」

「ああ、もう少ししてからな」

 ジャケットを脱がされ、結い紐を解かれる。

 小物が回収され、ガウナーが連絡を入れたのか、まだ待機していた執事のアカシャの手に渡った。

 食事も取ったし、先に風呂に入ってもらって早めに寝てもらおう、と風呂を勧めると、さらりと意外な返事をされた。

「偶には背中でも流そうか」

「うん?」

 その時俺が思ったのは、キスもまだなのに先に風呂か、であった。男女の仲であれば、キスもまだなのに裸なんて、といったところだが、生憎身体の構造は同じだ。

 けれど、まだ恋人の仲という訳ではないような気がしている状態で、裸を見せるのは早い。いや、別に裸を見られる事自体には抵抗はない、とぐるぐると思考が同じところを回る。

 風呂で如何わしいことをしなければ、別にキスより前だろうがどうってことない、という結論に達した俺は、混乱したまま高級な酒で若干酔った頭で、言葉を口に乗せた。

「身体触る?」

「……何が?」

「服を脱ぐのはいいけど、身体触りたい?」

 動揺のためか、脇でごん、と執事のアカシャが扉に頭を打った。そのままさり気なく退出するアカシャを見守り、俺はガウナーと視線を合わせる。

 ガウナーはかちこちに固まっていたが、俺がじっと見ているとややあって自我を取り戻した。

「風呂で? 私がロアに触れるかという意味か?」

「そう。洗うとかじゃなく、触る?」

「触ったら、何かあるのか」

「……触るのは、早くない?」

 じっとガウナーを見上げる俺を、ガウナーは無言で見下ろした。

「……早いかどうかはともかく、許しを頂けるなら」

「なら?」

「触る、と思うが」

 そうか、と俺は頬に手を当てた。許しの有無で違う、というのは困ったことになった。つまり俺がいいよ、と言えば身体を重ねるところまで許可を出したことになる。

 でももう結婚すら許可しているのに、身体を重ねるのは駄目というのはなんか違うような気がする。夜の生活の拒否、は確か離婚理由として認可されたはずだった。

 普通の婚姻はおそらく身体を重ねた上で、決めるものだろう。

 ならば、結婚するならば寝て当然ということだ。俺は結局迷って、迷って、迷って、一緒に寝るかどうかを決めた時と同じ結論に達した。

「いいや、寝て決めよ。分かった脱ぐ。……けどその前にキスだけしてくれ。そゆとこ、有耶無耶になるのは困る」

「は?」

「いや、キスすら、したことないだろ」

「あ、ああ、そう……そう、だったか」

 言葉に詰まったガウナーに疑問を抱きかけたが、その疑問は数瞬後に霧散した。腕を引かれ、腰を抱き込まれ、目を見開いたまま唇に柔らかいものが触れた。

 一旦離れたそれは、次の瞬間には噛み付くように唇を覆った。舌が唇をなぞり、口を開くよう促す。舌を受け入れると、厚い舌が上唇の裏を一舐めする。

 普段から抱き寄せる仕草にある種の慣れを感じ取ってはいたが、学生時代か宰相就任前に、女慣れする程度にはこういったこともしていたのかもしれない。

 経験値の差から口内を全部味わうように刺激され、混ざる唾液を合間に必死に飲む。

 キスというより前戯のようなそれと共に、貪られている間に腰を撫でられる。は、と息を吸う間に腰を引こうとするが、力強い腕がそれを許さなかった。

 散らばった髪が掻き回されるその刺激さえも、鈍く体の芯を疼かせた。髪が散る音が、粘着質な音が、服が擦れる音が全て混ざって耳を溢れさせる。止めなければ延々とそうしていたかもしれないほど熱烈なそれに、音を上げたのはやはり俺のほうが先だった。唇が離れた瞬間に、口元に掌を差し込み身体を離す。

「………、ながい」

「そうか?」

 しれっと言った宰相閣下は、その態度のまま、脱がせていいかと問うてくる。自分でやると言ったのだが、許しては貰えずに脱衣所に連れ込まれ、全身の釦を他人の手で外されるという恥ずかしさを知った。

 ぷちん、ぱちんと服が床に落とされる度に、血が頭を渦巻いた。恥ずかしくはないだろう、と軽んじていたが、明らかに性的に貪られた後でこうされるとまた訳が違う。

 お返し、というように宰相閣下の服を脱がそうとしたが、釦も飾りもいくつか付いた襟章もごちゃごちゃして、指先がもたつく。

 当の本人はあまりにも俺が無理そうにしていると手を出したが、基本的には俺がちまちまと苦戦しているのを見守っていた。

「襟章、面倒だな。今度着替える時、手が空いてたら付けるの手伝う」

「もう慣れたので私がやったほうが早いだろう、が、必死な顔を見ているのも悪くはないな」

 眼鏡を外した視界を心配するように、ほら、と背を支えられてぺたりと温もった床に足裏を着ける。宰相閣下の屋敷は元居た家より格段に広いが、風呂場もまた造りが広めにできている。

 にこにこと石鹸を確保した宰相閣下に座らされ、宣言通り身体は洗われてしまったし、ついでにあちこち触られるものだから気が抜けない。風呂に浸かった時には、ぐったりと風呂の縁に凭れ掛かった。

「悪い、湯が少し冷めているな。温度を上げてくれるか」

「はいよー」

 温度を上げるための装置も遠くにはあるが、俺は特にそんなものは必要としないので、その場で記述式の魔術を起動する。水の温度を適温にするくらいなら、装置に頼らずとも十分だ。

 よくできました、と頭を撫でるガウナーに目を細め、称賛を享受する。

 ガウナーは当然のように俺の横に並び、風呂の縁に背を付けた。こうやって裸でぱちゃぱちゃとやっていれば只の男だというのに、風呂の脱衣所には、この国の国章を始めとした二人と持たない位を示す章が置かれている。

 じっとガウナーを見つめていると、額に口付けられた。思わず額に手を当て、は? と声を上げる。

「……嫌だったか」

「嫌ではないんだが、あんたは別に、家族間でキスしたいほうじゃないのかと」

 これまで抱き寄せこそされたが、キスは一回たりともされたことはなかった。スキンシップは多いほうだと感じていたが、綺麗にキスだけがなかったのだ。

 やっぱり恋人とは違うのだし、触れ合いは多くともキスはないかと一人納得していた。唇の貞節を捧げたい人がいるのか、と疑いすらもしていた。

「うちでは割とするほうだ。なので、つい婚約者殿に同じようにしようとして、慣習が違うと嫌がられるかと」

「……うちは北からの嫁が多くてあんまりしないから、別に俺からする考えがなかったな。あ、その顔は気にしてたな?」

 ガウナーはあからさまに肩を竦めた。

「『挨拶としてのキスの慣習自体がないのですか? それともキスの慣習があるのに嫌われているんでしょうか?』なんて聞けるか。私には無理だ」

 照れを誤魔化すようにばしゃり、と顔に湯を掛けたガウナーは、落ちた髪を掻き上げた。

 傍目に見れば、つれなくされて落ち込む旦那の様子である。結婚生活まで完璧にこなそうとする宰相閣下は、どうやらそちらも気にされていたようだった。

 確かに使用人の中には、両親の代からの使用人もいたかもしれない。その使用人の前でキスもしない婚約生活を過ごしていれば、仲が悪いのかと勘ぐられることもあるだろう。

 ある程度、事務的に結婚生活を過ごしたほうが、と考えていたが、多少こう婚約したら婚約したらしい様子を周囲に振りまくというのも、宰相の立場上必要になってくるらしい。

 旅芸人にでもなったつもりで、多少演技しているくらいに思っていたほうが気が楽かもしれない。好きでもない相手とキスができる男なのか、と様子を窺っていたが、この様子では嫌がっているところをこちらが察せない程度には、上手くやれる男だということだ。

「前者だ。実家では家族間でおかえり、とキスをする慣習はなかった。ただあんたの家にはキスの慣習がある、さてどうしようか?」

「いや、無理には……」

「ここに先人の格言があってな」

 俺は多少大げさなほどの仕草で、人差し指を立ててみせた。

「『郷に入れば』なんたら、という。俺は一応、ハッセ家に入るつもりでいる。ならばハッセの家のキスの慣習を教えてくれ。俺はその慣習を覚えて、自分の慣習としよう」

 これは俺やガウナーの意思ではなく、家の慣習に合わせる、それならばきっと傍目には、理想的な伴侶たり得る。典型的なままごとをしているようだ。結婚相手という理想像に自身を添わせていく。そこに必要なのはロア・モーリッツではなく、宰相閣下の伴侶という立場の像だ。

 ガウナーは目を瞠り、やがてくすりと微笑んだ。掌が頬に添えられる。

 顔が傾くのを見て瞳を閉じた。唇が触れる、軽いそれは、すぐに離れた。離れた唇は頬に、額にとキスを降らせた。

「……わざと増やしているんじゃなかろうな」

「そんなことはないさ、婚約者殿、これがハッセ家では普通だ。だから私は隙あらば婚約者殿の唇を盗む心づもりだ」

「墓穴を自分で掘った死人の気分だ」

「私は獲物を見た猟師の気分だよ」

 仕方なく同じ場所にキスを返す。ガウナーはくすぐったそうに瞳を細めたが、俺は照れてしまって、まともに顔も見られなかった。この様子でベッドを共になど、果たして可能なのだろうか。

 そもそも勃つかね、とちらりと股間に目をやるが、ガウナーの息子は大人しい。俺のほうも、先程からびくびくと一挙一動に全身で反応している所為で、こちらも大人しいままだ。

「なあロア。身体に触っても良いとは言っていたが、どこを触っても怒らない?」

「は? 怒るもんか」

「言ったな。私は本気にするぞ」

 耳裏をつつ、となぞられることを皮切りに、こちらへ、と相手の太腿の間に招かれる。

 触ってもいいと言った手前、おとなしく招かれた場所に収まると、二の腕を撫で下ろされる。柔らかい、という囁きを落とされながら内側を軽く摘まれた。

「あんたな……、は」

 その合間にも、唇を奪われる。呼吸が怪しくなりながら、息を吐く合間にも指先は背に移った。つつ、と滑り下ろされる擽ったさに、背を逸らす。

 悪趣味、と呼吸の合間に苦言を呈すと、正解、と相手にもされない。腰を掴んだ腕は、腰骨をぐりぐりと親指で撫で回した。そのまま手の腹は太腿へ、ぐ、と広げるように外へ向けられる。

 もう片方の腕は鎖骨から胸元まで滑り降りると、乳首を摘み上げた。ひ、と喉から声が漏れた。

 ここまで性的に際どい部分に触れてきたのは、初めてだった。これまでならまだ、友情の延長でも許された。これ以上は駄目だ。こんなのは、きっと友達ではいられない。

 脚を広げた手が、俺の中心に無遠慮に触れた。骨ばった指先が掴んだそれをぐりぐりと刺激する。振り上げようとした腕で跳ねた湯が、遠くで音を立てた。

「意外だな。本気で嫌がられることも覚悟の上だったが……」

「……ひ。うあ、あ」

 ぱちゃり、ぱちゃり、と湯を跳ねさせながら、俺は身体の不安定さにガウナーに縋り付いた。

 ガウナーは握り込む位置を変え、同時に耳に舌を入れた。ざり、ざりと耳を舐られる間、ぞわぞわとした感覚に身体が震える。

 手元の杭が弄ばれる合間に、キスと舐められての刺激が続く。

 風呂に浸かっていることも相俟って息が上がってしまい、刺激に不慣れな身体がぶるりと震える度に、中心は上を向く。太腿を硬度をもったそれが掠めた。

「さい、しょ……、あんた、は、俺で……っあ、あ」

「役職名は。止めてくれ、萎える」

 俺で性欲を感じられるのか。触ったら勃つかもしれない。それなら、俺で、感じてくれるのか。

 掌を伸ばして、硬くなったそれに触れる。自分のものを慰める時と同じように手を動かすと、耳元で息が漏れた。

「っ……、提案、提案だ婚約者殿。案外逆上せる。ベッドへ」

「ん。俺のが、先に、のぼせる……」

 解放された俺は、ざばりと風呂から上がると、逃げるように脱衣所まで早足で去った。

 顔を覆ったまま魔術で水気を吹き飛ばし、追ってくる足音に合わせて、そちらにも風の魔術を展開した。いつの間にか置いてあった寝間着を持ち上げ、ほっと息を吐く。

 と、背後から伸びた腕が寝間着を取り上げた。代わりに羽織るだけの化粧着を渡される。

「釦を外すのはもう面倒だ。こちらで」

「……アカシャ、まだいるだろ。いつものやつを着る」

 明らかにいまからやります、といった体で風呂場を出たくないと暗に告げると、ガウナーはふむ、と自分だけ軽く羽織った状態で浴室から顔を出す。何事かアカシャとやり取りをして、こちらに戻った。

「もう寝るなら下がるとさ」

「……あんたな、もう今からいいから帰れってあからさまに言うのも同じ。……ああ、もういい」

 俺は言葉を切った。というか、それが目的だった節もあるのかもしれない。使用人の目に触れるよう、平均的な婚約者として俺を扱うということを使用人に見せる。その意味であれば、今日のこれは十分効果的だ。

 預かった布でしか無いそれを羽織り、眼鏡だけを拾い上げてずかずかと先に階段を上がる。

 寝室の扉を開け放つと、今日も寝台はきちんと整えられていた。

 ちっと舌打ちをして、記述式の魔術を起動する。飲み屋でシフに言った、実家筋から仕入れた娼館で使われる魔術である。

 売れっ子の娼婦が魔術師であったなんてよくある話で、実家筋に聞いて初めて知ったが、裏で引き継がれる魔術には快感を増すような魔術もあれば、便利な魔術の類としての事前の準備から事後の掃除までなんでもござれだった。身体の内側を突っ込まれやすいよう、仕上げる魔術だってある。

 それを聞いた時、果たしてガウナーはどっちのほうが楽なのか、と考えたものだが、結論は俺が突っ込まれて、俺が動けば、身体的負荷は少ないだろうという結論に達した。

 魔術師は突っ込まれる立場の方が多いんだけどさ、と男と結婚した従兄弟は下世話な魔術を教えながら、平然と宣った。

 身体の中をいじる魔術を他人に施すのは医療魔術の世界で、ある種の職人技だ。それを他人に施すのは、どうあってもやはり気が抜けない。自分の身体に関してはそうでもなく、ある程度加減が効く。こういった準備のための魔術を、魔術師が自分に掛けるほうが楽だ。

 そうして魔術で仕上がった魔術師の身体というのは、男であってもすんなりと雄を飲み込み、至上の快楽を齎すというのだった。

 考えてみれば、モーリッツ家がいくら相手に惚れ込みやすい質だとしても、俺以外に神託の対象者がいないほど、こんなに都合良く伴侶が捕まる訳がないのだ。

 にんまりと笑う従兄弟は「ロアは初心だなあ」と俺をからかい、自分は酔った旦那を襲って二度三度と身体を重ねる内に相手がのめり込んだのだ、と悪びれた様子もなく言った。性格が多少合わなくても、好かれていなくとも一度寝てみな、どうにでもなるから、と。

 まったく、どこぞの昔話で男を誑かす淫魔のような様子だった。

「ロア?」

 魔術を展開し終わった俺を、追いついたガウナーが抱き寄せる。座って、とベッドへ誘導され、腰掛けると、普段一緒に寝ているはずの場所なのに別の場所のようだった。

 使用人に仲が良い婚約者であることを見せることが目的なら、もうここからは寝るだけでいいはずだった。ころり、とベッドに寝転がってみる。寝間着ではないが、このままでも寝ることはできるだろう。

 おやすみ、と言い合えば、まだここから先に進むことはなくなる。けれどガウナーは寝転がった俺に覆いかぶさると、胸元を開いた。眼鏡も慣れたように引き抜かれ、視界が霞む。

「ロア」

 降りてくる唇を受け入れる。ああ、普通の婚約者であるために、俺の前だけでもガウナーは演じるつもりなのだ。俺をも騙すつもりなのだ、と苦いものが込み上げた。

 俺は一度唇を舐め、その首に縋り付いた。

「さっき魔術を使っといた。たぶんすぐ突っ込めるけど?」

「……魔術師を伴侶に迎えるというのは、なんというか、本当に異文化だな。触ってくれるか」

「ん。喜んで」

 つつ、と指を滑らせると彼の雄は柔らかかった。掌で握り込んで、上下させる。

 思っていた通り、ガウナー相手なら他人のものを握る嫌悪感は欠片もなく、可愛らしくびくびくと反応を返す分身を、慣れた手付きで育てていく。

「ロア、君も。足を開いて」

「うん」

 足を開くと、同じようにガウナーが俺の中心を包み込んだ。近い位置に腰を寄せて、ゆるゆると彼のものを弄びながら、互いのそれを見比べる。

「なあ、おっきい、って言ってやろうか?」

「……あまり評判は芳しく無くて。過ぎたるは及ばざるが如しというものだが、あれだ、……娼婦には絶賛してくる者もいる」

「ふふ。体格は良いのに初心だなあこの子」

 よしよし、と頭のところを撫でてやると、びくりと震えて先走りを溢れさせる。

 本人もこれくらい本心が見えたら有り難いものだが、とちらりと顔を見ると、余裕なく息を荒らげさせていた。ぞくぞくと征服欲が満たされる感覚に震える。

「……っ、は。ああ、ロア、あまり、苛めないでくれ」

「うん、ん。ああ、い……も、ちょい強く」

 普段と違う太い指先で扱かれることを、自身は悦んでいる。

 もうちょっと触れてほしいのにその部分を外されたり、これまで思いもつかなかったような場所に刺激が与えられたりもする。お互いのものを近づけてまとめて撫でると、身体の揺れに合わせて先走り同士が濡れた音を立てた。

 肩を掴まれて口付けられた。ずり、と硬さを帯びたものが、太腿に擦り付けられる。俺のものから手を離したガウナーは俺の右足を自身の太腿に抱え上げると、俺の尻を撫でた。

 鍛えていない脂肪の乗ったそれをむにむにと揉み、満足そうに息を吐く男に、やっぱり趣味は悪いかも、と苦笑する。

 指先が潜り込んだ。しっとりと濡れたそこを指先で突付かれる。指を滑らせて、引っ掛かった部分に指が埋まる。

 内部を確かめるように慎重に撫で回す指先は、茎の裏側のしこりを見つけるや否や、ゆるゆると執拗に押した。

 ぐちぐちと内部を拡げられる間に、胸元を舐めた舌先は乳首を突付く。

「……っあ」

 息を吐きながら、シーツに爪を立てる。制止を掛けたい気持ちに支配され、口を噤んで唇を噛んだ。

 あ、あ、と断続的に声が漏れる。

 低い声が、ここがいいか、と尋ねるので、良ければ応えを返した。宰相閣下は俺が反応を返す部分だけを弄り、俺はただ息を吐き、声を上げるだけの人形に成り果てていた。

 こんなところに触れられたら常識が裏返ってしまいそうだと思っていたが、案の定だ。全く知らぬ快感だった。指先だけでは足りない、あのさっき触れた熱が欲しい。きっとまだ受け入れるには準備が足りない、それなのに気が急いた。

 彼が誤って熱を感じている間に、終わらせてしまわなくてはならない。

「ガウナー……、ガウナー、頼む」

 視線が合った。青色の瞳が、こちらをじっと観る。罪を犯したような心地だった。

 婚約者の立場をもって、この男に自身を抱かせることを責められているような心地だった。神に託され、熱に浮かされでもしなければ、身体を重ねる相手になるはずのない人物だ。

「……慈悲を、くれ」

 ただ一言が地に落ちた。指先が埋まるほど強く脚を捕まれ、ずっと引かれた。添えられた熱が、綻んだそこに触れる。

 何度も押し付けられて具合を確かめ、ややあって一瞬、腰を叩きつけられた。

「…………あ────、あぁあああああッ、うあ、ああ」

 裂ける痛みはなかった。ただ、内臓を殴りつけるような鈍痛が、一気に滑り込んだ雄の感覚が腹に埋まって、じくじくと熱を帯びる。

 何かが壊されたと感じた。身体を揺すぶられ、ずっ、ずっと杭が奥に進む。存在を主張する雁首がどこまで入るのか怯えていると、ようやく侵入が止まった。

 息を吐く。ここにいるのだ、と腹に触れる。自分の身体は、彼を呑み込める。

「……ロア、ロア。痛みは?」

「だい、じょ……あ、まって、動……くのは……」

 引いた腰が、再度潜り込む。腰を掴んだ腕が、俺の全身を寝台に押し付ける。脚を閉じようとしても、間に身体が入っている所為で叶わない。

 止める声は届かないのか、握りつぶされているのか、抽送が始まった。

「動くの、だめ、て、言ッ、あ……、あぁ」

「すまな、が、……駄目だろ、ロア、これは駄目だ。君の中、痙攣したように絞って……」

「しる、か……」

 踵で蹴ると、窘めるようにぎりぎりまで引き抜かれ、ごつんと一気に突き入れられた。

 ぐ、と敏感な部分が、膨れた肉で抉られる。ひい、と引き攣った声が漏れ、やがて悲鳴に変わった。啜り泣きを噛み殺す俺を体重の差で押さえつけながら、無遠慮にがつがつと腰を押し付ける。

 何度も長く息を吐き、軽くガウナーの胸に拳を押し付ける。明日になったら覚えていろ、いくら魔術で守っているとはいえ、過ぎた快楽は痛みに近い。数度罵る言葉を吐いた。

「も、離せばか、いきたい、いけな、……いたい」

 見開いた目尻から、涙が流れ落ちた。指先で弄られていた弱い部分を、指より質量のあるもので雑に押される。

 それでも火を点けられた身体は、その刺激を快楽として拾った。上手く当たらないことに焦れ、やがて諦めて受け入れるように合わせて腰を揺らす。

「男の魔術師は……、麻薬だと、きみと婚約して、こっそり言ってくる者が、いて」

「あ、っ、……ひ、あッ、あ、あ、だれ」

「きみは、禁欲的で、けれど、私は、私はずっと、抱きたくて」

「おもい、な、そこばっか……っ、やめろ、や。いたい、んだ」

「いつも強くて、絶対にこんなこと、他人に、許さない、きみが、……、こんな弱いところを、私に」

「…………あ──ッ、あぁ、うあ。あ、あ、あ、うあ」

 勃ち上がった俺自身はだらだらと先走りを流し、達したような量の薄い白濁を漏らし続けていた。突き入れられるたびに、揺らされるたびに、泣くように撒き散らす。

 身体の中で熱が膨れ上がった。反射的に引き抜こうと腰が動く、ずりずりと細径を屹立が擦り上げ、唇を噛んだ。

「すまない、ロア」

「な、なん、やだ……、やめろ、いれ、な」

「きみの、中で」

「やだ、や、膨らんで。は、はいら、ない……」

 涙を溢れさせながら、もがく腕が取られ、体重で寝台に押し付けられる。ぴったりと尻に押し付けられ、腹の中で雄が張り詰めた。

「…………ひ、あ、あぁあああああ────っ!」

 体内に白濁が撒き散らされる。奔流が身体の中で暴れ回り、ひたひたと腹を満たした。

 味わったことのない感触に、見開く目尻にキスが落ち、遂情の名残で痙攣する尻を、最後まで吐き出すべく雑に擦られて声が漏れる。あ、あ、とされるがままに揺すられる俺に、男はすべてを吐き出しきり、名残惜しそうに腰を引いた。

「……。つか、れた……」

 くたりと寝台に沈んだ俺を抱え込み、少し考え込むように視線を逸らした婚約者は、何事かを思いついたように、にこりと微笑みを浮かべた。

「きみも、もっと早く私に抱かせておけば良かった。そうしていたら……」

 彼は自分の精をたっぷり含んだ腹に、よくやったとばかりに口付けた。ぞわぞわとした感触が駆け上がる。

「……ここまで、拗らせたりはしなかっただろうに」

 視線を向けた彼の雄は、二度目を期待するように硬さを帯び始めており、俺はぐす、と啜り上げた。逃げようとする身体を容易く引き寄せた太い腕は、そのまま身体を拘束する。

 いっそ魔術でも使ってやろうか、と掠れた喉を開き、指先を持ち上げたが、やがて漏れたのは嬌声だけだった。

 

 

◇8

 目覚めた俺は、腹の違和感で、がばりと身を起こした。

 身体の表面は拭われでもしたのか、清められてはいたが、体内はそうではなかった。詠唱式の呪文を唱えようとして、上手く発音できない喉の掠れに気づく。記述式の魔術に切り替えて身体を清め直し、ようやく違和感と別れる。

 やや掠れたような声は、ガウナーが無茶をした所為だろう。まったく、いい歳をしてよくもああ無体を働いてくれたものだ。

 俺は今日いっぱい休みだが、ガウナーは昼から仕事がある、と言っていたはずだ。

 なにかが晴れたように気持ちよく眠っている頬を、容赦なく抓った。逃げた身体を押さえつけ、引き寄せ、がつがつと突っ込まれたことは許し難い。が、昨日のガウナーの言葉が蘇った。

 もっと早く抱かせておけばよかった、そう彼は言ったのだ。

「『ずっと、抱きたかった』なんて……嘘だろ。何の面白みもない身体をか?」

 弛んだ腹を、嬉しそうに撫でた表情を思い出す。

 振り払うように首を振った。伴侶としての義務と欲の発散、それ以上はない筈だ。あの行為が、何を産む筈もない。

 膝を立て、寝台近くの窓を開ける。涼しくていい朝だった。あ、あ、と発声を確かめる。少し喉を鳴らしていると、ようやく普段どおりの波形を取り戻した。

「我が愛すべき領を囲む、蛇は尾を噛み、環となり離すことなく。一に毒、二に刃、三に魔の術。この円を越える術は心にのみあり、澄んだ水の如き心にあり」

 ぽつり、ぽつりと詠唱を漏らし、屋敷の結界を修復する。普段と少し違った魔力を通した屋敷は、馴染みの質に歓喜の声を上げる。

 俺はガウナーと物理的に混ざった。無意識に俺は宰相閣下の魔力の流れを感じ取り、それらを身体に取り込んだらしい。

 魔術師ではないほどの魔力量しかないガウナーだが、宰相を輩出する貴族の家出身なだけあり、魔力酔いをしない体質から予想していた通り質が良い。

 身体に魔力を巡らせてみるが、まったく酔いもしない。拒絶されもしない。

 相性が良いのか、相手の魔力の質が他人と混じりやすいそれであるのか、俺の中ではまったく質の違う魔力がまるで自分のものであるかのように馴染んでいた。

 休日で良かった、この状態なら同じ課の人間には寝たことがばれる。強い魔力を身に宿していれば、もしくは、何度も何度も交わって交わりを濃くしてしまえば、相手に気づかれる程度にその人物と異質な魔力は存在を主張する。

 どろりと、甘ったるく溶けてしまいそうだ。質が良く、焦がれている相手の魔力が身を満たす。

 ぞくぞくと震えが込み上げてくる。魔力を少し巡らせれば、息が漏れた。満たされた魔力を、不規則な波形のまま、興奮のままに、力を溢れさせる。

「…………ロア?」

「まだ時間がある。寝てろ」

 ぼんやりとした表情のガウナーは、それでもゆるりと起き上がり、俺の腕を引く。

「寝てろって、なんだ、まだ足りないか?」

 俺がくく、と笑い、茶化すように言うと、ガウナーは律儀に頷いた。

「おそらく。でももう我慢する」

 嘘だろ、と声が漏れた。寝る前の交わりで疲れた、ともう完璧に終わるつもりでいたのに、婚約者は朝になっても燻ぶっているらしい。

 んー、と俺は声を漏らすと、書きかけの魔術式を掻き消した。腕を引かれるままに、寝台に倒れ込む。途端に抱き込まれ、するりと身を擦り付けられた。

「魔術師を抱いたり、魔術師に抱かれたりすると分かるそうだ。何度も抱けば混ざるのだと、……魔術師の伴侶の不貞を防ぎたいのなら、ただ夫婦円満であるべし、と、魔術師たちは、混ざった魔力が分かるのだと」

「ほう、そんなことを、あんたに囁く人間がいるのか」

「近衛魔術師長のテップ翁がな。君が私に魔術を色々と掛けるから、いつも寄ってきては面白がって魔術を見て、色々と吹き込んでいく。……なあ、私を見れば、君を抱いたと分かるか?」

 ああ、だから抱いたのか、と得心がいった。近衛の中には当然魔術師もおり、それらの魔術師が見れば、身体の繋がりがないことは分かった筈だ。

 そうか、彼らに対しても円満であることを示すなら、こんな面白くもない男でも、抱く他なかったということだ。

 すっと、昨晩の熱が冷めていくようだった。表情にこそ出さなかったが、あれだけ反応してもらえたのが嬉しかったはずなのに、それらが全てやはり他人への評価のため、という一点が全てを消し去っていった。

 執拗に何度も精を含まされたのも、その為だったのか。俺に対して欲を抱いてくれた訳ではないのか。

「あんた一人だと、どうだろう。……きっと俺のほうがよく混ざっている。仕事の合間に甘いものでも届けて、お茶会でもしよう、それなら近衛魔術師の目に俺が触れる」

 態とらしく、笑ってみせた。

「……お茶会なら、王宮の厨房に甘味を頼むか。食す機会も限られているし、珍しいだろう。スクナも休日の仕事に拗ねていたし、気分転換に、仕事の合間のお茶会、というのも良い提案とは思うが」

 ガウナーは、腕に閉じ込めた俺の首元に吸い付いた。ちりりとした痛みと共に、きっと襟には隠れないであろう位置に、赤い痕を残す。

「今日の君は、目元も赤いし、声も掠れているし、魔力も見る人が見れば分かるのか? 一人で王宮を歩かせたくないんだが」

「部下と一緒ならいいのか?」

「……うーん。まあ、な」

「じゃあ、シフに連絡入れてみる」

 宰相の仕事部屋、見たい? で来てくれそうなのはシフくらいだが、そういえば今度の演習の件も、しばらくすれば政策企画と話をすることもあるだろう。軽く顔合わせしておいても損はない。問題はトールと予定を合わせていないかどうかだ。

 俺は呼ぶだけ呼んでみるかと思い直し、ごろりと寝返りを打つ。ガウナーは昼まで俺と惰眠を貪った。

 お互いに腕枕をし合い、お互いの胸に頭を埋め、指先を絡め合った。あたかも恋人同士のようだった。

 ただ、俺の心は冷え切って、心臓が凍傷で疼いていた。魔術師であって良かった。快楽を引き出す魔術を、知る術があって良かった。でなければ、こんな只の男で果てるなんて無理だ。

 だらりと起き上がって一緒に昼食を取り、しばらくしてガウナーは家を出て行った。残された俺は服を着て、アカシャに髪を結ってもらう。

 部下に連絡を入れると、案の定トールの家で猫と戯れている、という返答だった。

 同類だから猫と仲が良いのか、と茶々を入れつつ、美味いお菓子食いたい? トールも連れてきたら? と言うと、あっ行きます、と良い返事が来た。年若い部下はトールが大好きで、彼も一緒に誘わなければ仕事も上司も、比較になんてならない。

 ガウナーは、仕事と俺なら仕事だろうな、と当然のことを思いつつ、しばらく読書をしてから、追うようにシフと落ち合うことに決めた職場へ向かった。シフは職場に入ることなく、玄関付近でトールと屯していた。

 腕を上げて声を掛けると、遅いです、と文句を言われる。

「あれ? 代理ローブじゃないの珍しいっすね。職場だから良いだろー、ってローブ姿で来ると思ってました」

 俺もローブを着ようとしていたのだが、ガウナーが当然のように俺が着る服を、これとこれ、と執事のアカシャに押し付けたために、質の良い貴族が着ていそうな服を身に付ける羽目になったのだった。

 俺の服を上から下までじーっと見たシフは、うん、と頷く。

「いや、代理もうちょっと外見どうにかしたら、顔は貴族のそれだし、育ちからか姿勢もぴしっとしてるし、物腰優雅だし、で、もっといいのにって思ってたんで、こっちの方が良いです、……よ」

 シフは俺に近付いて、ようやく気づいた、というように目を見開く。わなわなと指先を震わせているシフに代わって、隣のまだ平然としているトールが口を開いた。

「この魔力の波って宰相閣下ですか? いつもの代理の波と全然違って、でも安定してますね。相性良さそう」

「……やっぱ気づくか」

 寝たのは昨日の夜だというのに、昼過ぎても瞬時に気づかれる程度に混ざっているということは、随分まだガウナーの魔力が体に残っているということだ。

 触ってもいいです? と手を伸ばしてくるトールに、されるがままに手を寄越す。俺の両手を握ったトールは、ややあって納得したように両手を解放した。

「モーリッツとハッセって家系図に重なる部分あるでしょう? あと二人の基質は違うでしょうけど、何だろ。兎に角、あんまり喧嘩しない間柄ですね」

「はー……、あっそうか。そうだわ、よく知ってるなー」

「まあ、うちの家系もほらモーリッツ出の人間いますし。てかモーリッツってどこに嫁いじゃ駄目とかがあんまりないんで、割とどこの家系にも居ますよね」

 モーリッツは、どこの派閥にも属さない。学が大事、知識が大事、書籍が大事。ただし、知識や技術を発展できないのは悪、という前提のため、神術を秘匿する神殿関係者とは微妙な関係にある。

 そういった一族のため、他国にも嫁げば、他国の嫁でも貰う。この国に根を下ろしてはいるものの、当主筋の家族を始め、末端の一族も、この国だけに縛られるつもりもなさそうだ。

 シフとつるんでいる時にあまり貴族姓を名乗るのは好きではなさそうだが、トールの家系にも親戚に嫁いでいる者がいたはず、と思い出す。

「ああでも、羨ましいですね。俺も魔装にしては魔力ある方なので、魔力の相性合わないとぜんぜん勃たないですもん」

「へー、俺たぶん気にしないほう。シフは?」

「は? めっちゃ気にしますよ。おれ傍に寄るの駄目ですもん、探索魔術も得意な方なんで、肌触るの駄目です。フナトよかまだ顔に出さない分、平気に見られるんですけど、好き嫌いの激しさはどっこいどっこいでしょ」

 いいなあ、とシフは俺の掌をぴたぴたと叩いて、魔力の混ざり具合に感嘆の息を漏らしている。

 シフの行動に、トールがこっそり微妙な顔をしたのが視界に入った。シフはトールには自分から寄っていくし、手も繋げば寄りかかりもするので、間違いなくトールとは相性良しだ。

 ただ、さっきから俺に触れるのを躊躇わないあたり、俺の魔力も、俺と混ざったガウナーの魔力も問題なく触れる、こちらの相性も悪くなさそうだ。

 おそらく、顔と性格がシフの好みであれば、俺もガウナーも恋愛対象になり得る。俺と同じようにトールもその事実に気づいて、苦く思っているようだった。

「ロア代理。宰相閣下を捕まえとかないと、俺は怒りますよ」

「こんなおっさんに向こうが浮気すんの止められるわけ無いだろばかもの。理不尽だ」

 行くぞ、と二人を伴って王宮に向かう。

 政策企画課は王宮の中枢も中枢。なにせ国王の居室やら王座のある一角であるので、向かうためには数回、門番に所持品と身分を確認された。一応、宰相の婚約者が人を伴っている状態なので、確認作業自体は流れ作業みたいなものだが、慣れていないシフは、緊張したように顔を強張らせていた。

 身体検査を潜り抜けて政策企画課の扉を開くと、そこには政策企画の面々以外にも先客が席に着いている。

「あれ、フナト、ウルカも」

「シャクト隊長、サーシ課長」

 あれ、他にも呼ぶ予定だったか、と俺は目を見開く。

 サーシ課長はにこにこ笑いながら会議机越しに手を振り、その脇にはこの間演習の打ち合わせをした防衛課のシャクト隊長が、同じように椅子に腰掛けていた。フナトはいつものように見知らぬ人物が多い場所で身を強張らせており、魔装課のウルカが大丈夫か、とゆるゆる背を撫でている。

「僕たちは宰相閣下に呼ばれまして……。あ、の、ちょうどゴーレムを見せてもらっていて、ウルカもいっしょにいたので、よければ二人で来てくれといわれて、一緒にきました」

「僕もそうだ、シャクトは僕が連れてきた」

 サーシ課長は、シャクト隊長の肩に気安そうに手を置く。

「サーシ課長。シャクト隊長とお知り合いでしたっけ?」

「あー、名前まで言ってなかったっけ? 僕ら防衛課時代の相棒」

 こくりとシャクト隊長も頷く。

 道理で、隣で座っている姿がしっくりくる筈だ。サーシ課長はにこにこと紅茶のカップを手に笑っている。サーシ課長の杖はシャクト隊長の側に立て掛けられており、座る時の補助をしたのだろう。ある程度、補助することにも、されることにも慣れた距離を感じさせた。

 防衛課の役職を持った手練の隊員には、一対一で魔術師が付き従うことがある。サーシ課長は怪我を機に魔術式構築課に異動となったので、そのぎりぎり前まで相棒であったということは、おそらく、怪我の瞬間も共に居た筈だ。

 シャクト隊長は数年前に第一小隊から第二小隊へ異動。教育する側に立場を移して以来、前線には出ていない。年齢も理由ではあるのだろうが、相棒を前線から失ったのなら納得もいく。魔術酔いをしない相性の良い相棒は、馬にも武器にも、伴侶にも例えられる程に重い存在だ。

「それより、ロアくん。あのね、あのねきみね」

「はい?」

「爛れてる」

 サーシ課長は腕でだめ、と示してみせた。はあ? と俺が聞き返すと、フナトもこくこくと頷く。

「それ、まざり方。んー、蜜月の夫婦でもそんなにならないですーやだー」

 フナトは言い過ぎた、と椅子を引いてウルカの背に隠れ、ウルカは戸惑うように頬を掻いた。

 魔術式構築課の面々はある程度予想はしていたが、感知の術にも長けているためか反応が顕著だった。政策企画課の面々は魔術式構築課の反応に対し、きょとんとしているので、うちの課の人間が魔力に関して敏感なのは間違いないらしい。

「サーシ課長だってたまに混ざってます。爛れてるなんて心外ですよ」

「僕はそこまではないもの」

 サーシ課長は平然と自身を棚上げし、椅子に座り直した。気まずげにしているシャクト隊長に視線を向け、おや、と違和感を覚える。それでも確認にはほど遠く、仕方なく口を開いた。

「そうなんですか? シャクト隊長」

 びくりと可哀想なほど身を震わせるシャクト隊長に、サーシ課長が鋭く視線を滑らせる。やがて笑いを噛み殺すようにサーシ課長はふふ、と口元に手を当てた。

 シャクト隊長を小突き、すまないと頭を下げさせている。長い付き合いではあったのに、サーシ課長とシャクト隊長の普段の様子が垣間見えるのは初めてのことだった。随分慎重だったということだ、そしてこうやって遂に明かす気にもなったということだ。

「ロアくん、詮索も程々に」

「承知しました」

 いつもの表情で釘を刺されては仕方がない、と俺が黙って席に着こうとすると、その前に背後の扉が開いた。扉を開いた人物は俺を見てぱっと顔を輝かせると、その長い脚で部屋を横切った。俺の垂れ下がった両手が取られ、軽く引き寄せられる。

「ロア、遅かったな。心配した。たくさん菓子を用意して貰っていた。とても美味しそうで、君に喜んで貰えると嬉しいのだが」

 一気に言いきった宰相閣下は、我に返ったようにはっと口を閉じると、それでも俺の手を離すことはなく、こめかみにキスを落とした。一瞬の躊躇いの中、周囲の目を感じて俺は瞬時にその動作に返事を送った。身長的にこめかみには届かないため、頬にキスを返すことにする。

 俺の動作に意外そうに目を瞠った宰相閣下は、ぶわりと口元に笑みを刷いて、ぎゅう、と軽く俺を抱きしめた。

 なんだこれは、と俺は混乱しきりだった。

 どこの恋愛結婚の熱愛夫婦でも、職場でこうはしない。しかし、熱愛で有名な国王夫妻と比較すれば、こんな動作だって普通に思えてくる。国王夫妻の仲が良くなくては、国民も不安に思う。仲が良いことが求められるのなら、これくらい態とらしいものを求められるのかもしれない。

「嬉しい。俺、甘いものに目がないから」

 するりと喉から模範的な回答が滑り出る。半ば本心であっただろうそれも、他からの視線を意識すれば、ひどく態とらしく響いてしまった。

「代理ー。いちゃいちゃしてるのはいいんですけど、あのー背後のお菓子とか運んでくれた方が困ってるからーもー」

 シフは、気にしなくていいですよ、と背後で戸惑ったままワゴンを押している給仕を部屋の中へ誘導する。窘められた俺はするりとガウナーから離れ、何か持っていきましょうか? と給仕へ声を掛けた。

 給仕は表情を正してにっこりと笑い、大丈夫ですよ、と返事をする。国王陛下の給仕係に頼んで、配膳してもらうことにした、とガウナーはゆったりと俺の腰に手を回しながら言った。

 手を繋がれたり腰を抱かれていることが多い気がするが、俺の方はそういった仕草は照れてしまう質なので、任せておくことにする。ようやくガウナーに促されて椅子に座った俺の前に、きらびやかな菓子類が、これまた優美な皿に載って置かれる。

 カトラリーも磨き上げられた銀で、くすみ一つない。

 俺がするりと腕を動かして、解毒の魔術式を起動しようとすると、傍らに寄ってきたローブ姿の男が、あ、と声を上げた。

「すみません、近衛魔術師のニンギです。基本の解毒はこちらでやりますので、解毒対象の毒素が足りない分だけ追加をお願いしてもよろしいでしょうか?」

 近衛魔術師は王宮内の重要人物の護衛を、魔術的に行う立場にある。俺達と同様に仕事中はローブ姿だが、俺達のそれよりも動きやすいよう裾が短く、常に戦闘用の杖を所持している。

 昔の魔術師は杖で魔術を増幅し、式を書いていた時代もあったらしい。しかし、最近では、指先に増幅の魔術を灯した上で書く方が都合が良いので、あの仕込み杖は、人を殴る切る専用の単なる武器である。

「ああ。すまない、王宮にいる間は近衛の仕事なのにな。追加で魔術を掛けても良いのか?」

「近衛の仕事とはいえ、宰相閣下に対しては楽なものです。毎日宰相閣下に対しての結界が更新されているのは、常に見ておりますよ。ご自宅では解毒魔術を掛けていらっしゃることも存じております。モーリッツの家であれば、こちらが把握していない種の解毒魔術式をご存知かもしれませんし」

 宰相閣下の結界魔術というものは、これまで近衛のみの仕事であったのだが、同居を始めて近衛の結界魔術を見た瞬間、俺のほうが良い結界が張れるな、と判断した。更に言うなら部下の欲目を差し引いても、フナトならまだ数段いい結界が張れる。

 近衛魔術師の腕が悪い訳ではなく、緊急時には戦闘できる魔術師であることが求められる近衛魔術師の性質上、防衛課と似たような質の魔術師が集まりやすいのだ。

 俺が結界を張っても構わないか、とガウナーから近衛魔術師へ打診してもらい、ガウナーの魔力酔いが俺の魔力のほうが少ないことを知った近衛魔術師側からも、魔力酔いもなく結界が強まるなら良いこと、とあっさり許可された。

「今では国王陛下よりも、宰相閣下のほうが魔術的にはがちがちに守られている状態です。何と言いますか、国王陛下のほうの結界も強めないと、と良い圧力が生まれておりまして、我々もまた学ばせていただいております。あの、この間追加された鋭利なものを弾く改良式を、後日、ちょこっと解説いただきたく」

「ああ。ちょっと誤作動の虫取りしたら送ります。説明は合わせてその時にでも」

「ありがとうございます。では宰相閣下、魔術を掛けますので」

 するすると記述式の魔術を展開するニンギの動作を見て、対象毒素を特定し、足りない分の式を傍らで組み始める。

 重複になる分は疲れるので省き、最近出て来た毒素を分解する式を展開した。ええっと、と俺とニンギの式を見たシフが魔術を追加。あーこういうのも、とフナトも追加。横で見守っていたサーシ課長までもが魔術を追加して、展開が終了した。

「シフのやつ最新だけど毒がめちゃくちゃ高いやつじゃん、人を殺すのに離宮が建つやつ。使うやついるかー?」

「や、ちょっと雑誌に載っていたので試してみたくて! それを言うならフナトの式とか、滅びた種からしか取れない涙から生成される毒じゃないですか」

「滅びてないかもしれないしー。シフのやつそれ雑誌からそのままだし、式に虫わくでしょ。サーシ課長の毒も今どきじゃないですー」

「言うねえ。でもまあ数日行動を止めたいなら、それでもいいと使う者もいるだろうから、王宮の普段使う解毒構成から消すべきではないと思うんだけどね」

 俺たちのやり取りをぽかんと見守っていた近衛魔術師のニンギは、先程俺たちが展開した式を、自身でも掌に指先で書いて記憶している。シフが発動した魔術に関しては、雑誌に先行公開されたもので安全性が確保されていない、と記録するのは横から止めた。

 魔術師は『式に虫が湧く』とよく表現するが、多少記述の文字がぶれたり魔力の流し方を失敗すると、別の結果を引き起こしやすいような、詰めの甘い魔術式が存在する。それらは安全ではないとして、要領を知っている自分では使うものの、王宮での実用を止めている式もあるのだ。

「これらの魔術ってまだ安定しませんか? 実用に乗ってないですよね」

「シフのやつ以外は、来月から順次安定した式をそっちに卸すことになると思う」

「なるほど。やー、宰相閣下が婚約されてから防衛関係の魔術式の進歩が著しくて、本当に助かります」

 魔術式構築課の面々は、ぐっと口を噤んだ。防衛関係の式は別に苦手ではないのだが、防衛関係である都合上、安定しない式を卸すことは許されない。魔術の試験項目が、普段の倍に膨れ上がるので、魔術式構築は好き、でも試験はあんまり好きじゃない面々が、防衛関係の式に手を出したがらなかったのだ。

 配膳が一段落すると、給仕は部屋の端に控えるように立ち、ニンギは椅子に腰掛けた。席がそもそも用意されていたところを見ると、彼もまた参加者であったらしい。

 そしてニンギの隣の席は、二席空いていた。

「誰か他にも参加者が……?」

「ああ、サウレとテップ翁が、もうそろそろ来るはずだ」

 その言葉をガウナーが放った一瞬、全員の背がぴしりと伸びた。言葉を待っていたかのように扉が開き、先に杖を持った老人が、その後から赤髪の男が早足で部屋に入ってきた。

 全員が椅子から立ち上がり、腰を折った。

 心臓がどくどくと音を立てる。よくも黙っていたな、とガウナーを心中で罵倒した。

 サウレ・ヘルツ。

 この国でその名前を持つ人物はただ一人。我々が彼を呼ぶとしたら一言、『国王陛下』と呼ぶことになる人物だ。

「ご機嫌麗しゅう。これはいい面子だな。固くなることはない。後から無理に参加したいと駄々をこねたのは、こちらなのでな」

「や。若いものばかりで甘いものを食べる、楽しげな会に爺が来てしまってすまんの。でも爺も甘いものは好きでなぁ、ハッセの孫に来たい来たい、ゆうたら呼んでくれたんじゃ」

 よっ、と二人して軽く手を上げて登場した国王陛下と近衛魔術師長は、そのままぽかんとしている面々を通り過ぎ、用意された席にゆったりと腰掛けた。給仕がポットを持って近寄り、まずサウレ国王から紅茶を注いでいく。

 ぽかんとしている俺たちを前に、魔術式構築課、魔術装備課の者は悪いが名乗ってくれ、と国王から口火が切られる。

 全員が名乗り、貴族出身である俺とトール、サーシ課長とフナトは、家名についての確認も入る。

 国王陛下、宰相閣下。政策企画課、防衛課、魔術式構築課、魔術装備課が集まることなんて、そうそうあることではない。しばらくして何事だと身を竦ませた俺の予想が合っていることを確信したのは、テップ翁が周囲に張った結界の詠唱を聞いた時だった。

 防音、目眩まし。攻撃よりも内部の情報を隠すための魔術である。

「では吾から話をしよう。次のマーレ国王歓迎式典の防衛演習に関してだが、横槍が入りそうでな」

「……といいますと」

「吾、王子、ロア・モーリッツのいずれかが襲撃を受けそうだ。横槍は二十から三十本、密偵から報告が入った」

 しん、と静寂がその場を支配した。俺が自身を指差すと、国王陛下はこくりと頷いてみせる。ガウナーが驚いた様子がないところを見ると、ガウナー自身は知っていたということだ。

 俺はごくりと唾を飲んだ。

「その面子ということは、反国王勢力ってことです、よね。つまりは訓練だろうと防衛側が手加減することを予想して、犯人役に紛れて来るという予想ですか?」

「ああ。本来吾か息子……王子が狙われるところだろうが、犯人役として魔術式構築課が参加するのであれば、間違いなくロア、お前もまた狙われる対象になろう」

 基本的に反国王勢力で、次期国王を宰相閣下にしたい連中にとって、ぽっと出で邪魔なのは俺だ。俺と結婚ということになれば、次期国王になったとしても跡継ぎがいない。

 来年には結婚予定であることだし、常に狙われている国王陛下よりも消さなければ、という熱は高まりやすいだろう。いくら神託を受けたとはいえ、死んでしまっては結婚もできない。

「という訳で、できれば当日は近衛の守りがある場所で待機を……」

「するつもりはないですよ、国王陛下」

 国王陛下よりも意外な反応だったのは、宰相閣下の方だった。がたりと足をテーブルにぶつけ、紅茶を波打たせて傍にいる者に謝罪している。国王陛下の方は、半ば予想の範囲内であったかのように溜息を吐いた。

「あのな……、いくら婚約段階とはいえ、宰相の伴侶でありモーリッツの直系を危険な場所に放り込む訳にはいかんのだ。分かるだろう、モーリッツの者が、大人しくうんと頷くとは思わなかったがな」

「宰相閣下の伴侶候補であるからですよ、国王陛下。俺には替えが利きます。けれど国王陛下と王子殿下の替えはおりません。俺が殺されている間が猶予になれば御の字でしょう、狙いも多少分散される方が良い」

 隣りにいたガウナーに、腕を取られた。

 ぎり、と痛みを覚えるほど握りしめられた右腕に、俺が首を傾げて見せると、ガウナーは口を開いて、閉じた。腕が解放され、俺は取られていた右腕で紅茶のカップを持ち上げる。渇いた喉を紅茶で湿らせて、更に口を開いた。

「俺は宰相閣下の婚約者でもありますが、貴族であるモーリッツの直系です。国民に生かされている命は己だけのものではなく、国民のために捨てる覚悟を持てと言われて育ちました」

 ”我々の食事は民の血により齎された。我々の土地は抑々は民の土地である。

 恵まれた立場と僻まれようとも、我々の立場が必要であるならば、秩序の為に我々はその立場に甘んじる。

 但し、我々は民の為に生き、民の為に血を流す。”

「俺は予行演習の日には、犯人役として参加すべきです。国王の前に貴族が守られるなどあってはならない。宰相閣下の婚約者が王を庇わないなど、あってはならないのです。陛下」

 いつか別れる時まで、物分りの良い婚約者でいることに決めた。いくら浮気されようと、いくら物のように扱われようと、その先にガウナーの求める何かがあったのなら、それで良しとすると決めた。

「だとさ、ガウナー。お前の婚約者は、些か肝が据わり過ぎているきらいがあるな。渋られるかもしれないとお前は言ったが、ここまできっぱり断られるとは。なあ、今度吾が奥方に会ってみぬか? 性格がそっくりだ」

「サウレ。そういったことは後で。ちょっと待ってくれ……ロア」

 ガウナーは顔を顰めて、拳を握り締めた。その様子が俺は本音なのか、演技なのか、それらが混ざったものであるのか判断ができなかった。危険に飛び込んでいく伴侶を憂慮する表情が、彼の本心なのかがわからない。

 ガウナーは表情をつくるのが上手い。

 俺はその表情の奥を見ることができない。何度キスを受けても、抱かれても、抱いたとしても、きっと何も確信が持てないままかもしれない。

「君の考えは分かる。君が正しいのも分かる。宰相としては、それが正しいのだと、分かっている」

 けれど、と彼は言葉を続けた。

「頼むから、引いてくれないか。君に代わりは……」

「ガウナー」

 俺の声は、優しげに響いた。

「俺の代わりはいるんだよ。男で、貴族で、魔術師で、それなりの役職を持つ人間。それらを兼ね備える人間はそれなりにいる。じゃあ逆に、国王陛下や王子様の代わりはいるのか? 俺たちは王を失って混乱しないのか? ……一つ言えるのは、俺が明日消えたとして、この国は何も揺らがない」

 にっこりとガウナーに笑ってみせる。替えが利くと言われて気分を害したりはしないのだ、と表情で示してみせる。

「宰相閣下、あんただって育ててきた国だろう。『頼むから、引いてくれないか』」

 ぐっとガウナーは口を噤んだ。これで演技としてなら十分だ。宰相閣下は婚約者を失うことに心を痛め、安全な場所に居て欲しいと主張し、それでも婚約者はその意思を曲げなかった、それなら誰もガウナーを責めるまい。

 一口、紅茶を口に含む。

 国王陛下はやれやれと肩を竦めており、近衛魔術師長のテップ翁は面白そうに豊かな髭を撫でている。

 サーシ課長はにこにことしており、シフとフナトは微妙な表情で俺を見ていた。

「……分かった。ロア、……モーリッツ代理が式典演習の犯人役として出席することは認める、ただし、それならこちらにも条件を出させてくれ」

 まだ、俺が参加することを認めきれていないらしいガウナーの言葉に、俺は顔を上げた。

「最善を尽くすために、国王陛下の協力が欲しい」

「ほう、具体的には?」

 サウレ国王は面白そうに、焼き菓子を指で摘み上げた。

「私は、今回の一件に関与する者を、反国王派を、この一件を使って全員排除する」

 びりりと空気が震えたようだった。俺も紅茶のカップを持ったまま、ぽかんとガウナーを見つめた。

 反国王派との対立は、これまでずるずると引き伸びている問題ではあった。反国王派というよりも、名前としては前国王派と言うほうが正しく、サウレ国王よりも、先代の国王に端を発する。先代国王の統治下、不作の年に、安易に力を借りるために一部の貴族を囲い、税を始めとした甘い汁を与えた。

 その後、先代国王が死んだ後に、次代であり潔癖なサウレ国王からその恩恵が引き続き受けられなくなったことに、緩やかな反発が起きているのだ。

 先代国王の妹はガウナーの母であり、ガウナーの父母はその貴族たちからの緩衝材として、貴族たちの動向を探っては、時には笑いを堪えながら、時には顔を顰めながら、サウレ国王に情報を流し続けている。

 ガウナーの父母はその立場上の役割から、反国王派寄りだと貴族の間では言われがちだが、その噂でさえも仕組まれたものである。実際にはがちがちの国王派で、兄嫌いのガウナーの母を始め、息子共々、国王の盾になる気満々であるらしい。

「魔術式構築課を始め、参加者に全面的な協力を仰ぎたい。式典演習までにはひと月ほど、その間に打てる策をすべて打ちたい。その為に宰相の仕事は一部滞る。私に時間をくれ、国王陛下」

 サウレ国王とガウナーの視線が合った。サウレ国王はこくりと頷いてみせる。ガウナーは軽く頭を下げた。そして俺と視線を合わせる。

「ロア、君を危険に晒すのは一度きりだと誓う。君が表に出る機会はこれから増えるだろう。それでも、今回最善を尽くして、今後の危険を排除することを誓う」

 だから、と言葉を続けようとしたその行動は、言葉と共に飲み込まれた。俺もこくんと頷き返す。いくら身を投げ出すことを良しとしても、それが延々と続けば流石に精神が保たない。

 では、と一度沈黙が落ち着いた中で、口火を切ったのはサーシ課長だった。

「魔術式構築課で出れるものは、全員出ましょう。……と言いたいところですが、命の危険があるのなら、それでも出ることを良しとする者だけとしましょう。覚悟を決めない者は、足手まといになりますからね」

 サーシ課長は足手まといだ、と覚悟の弱い者を切り捨てながらも、普段の人の良さそうな笑みを崩すことはない。

「ただ、私は参加しましょう。昔取った杵柄ということで」

「サーシの足のこともある、予定通り俺も出よう。第二小隊に関しては命の危機は常のこと、予定の変更はない」

 サーシ課長とシャクト隊長は、揃って参加を決めた。予想に反して、真っ先にすっと手を挙げたのはフナトだった。

「僕はでますー。というか、僕が出なくて誰か死人でも出たら死んでも死にきれません。思い上がってる自覚はないですけど、自分以上に結界張れる人間、みたことないので」

 言いたいことを言い切って、フナトは手を下ろした。

 フナト以上に結界を張れる人間を見たことがないのは、俺も同様だった。防衛課にそれらを得手とする人間がいるのかもしれないが、学生時代の知人からモーリッツの一族内、王宮内の見知った人間の中でフナトの結界術は群を抜いている。

 フナトの習得した術をどうにか虫取りして術として卸し続けているが、フナトの感覚でしか成功しない高度な術も多い。

「防衛課時代から敵味方多くの魔術師を見てきていますが、フナト以上に結界術に長けている人間はいませんでしたね。フナト、君は長子ではなかったね」

「三人兄弟の末っ子です。兄たちにわんぱくな甥姪もいますよーだいじょうぶです」

 では、とウルカも挙手する。

「ゴーレムを俺以上に使える人間も見たことないので、俺も同じです。貴族ではないので家督相続なんかに問題はありません、最後までお供させてください」

 なー、とフナトに笑いかける。フナトはこくりと頷くと、安心したようにほっと息を吐いた。防衛課との話し合いでも、ウルカの立ち回りで、フナトが体格の良い者との接触を逃れた場もあった、何だかんだと頼りにしているのだろう。

「代理が出るのにおれが出ないとかないでしょう。おれも出ますけど、おれに得意な魔術とかないですけどね!」

「あ、予定外ですけど俺も出ていいですか? 一応防衛課も打診されたくらいには、魔装の扱いには長けてます。砲もいけます」

 シフとトールがそれぞれ手を挙げるが、トールの言葉にシフがぎゃんと噛み付く。冗談じゃない何でお前が、と声を荒らげるものの、トールは俺も協力したいし、と考えを変える様子はない。

「トールは長子で兄弟もいなかっただろ。ちょっとはそのあたり考えたか?」

 俺の言葉に、トールは平然としたものだった。

「俺の家の血が絶えたら、両親にモーリッツから養子を引き取らせてやってください。代理みたいな人間がごろごろしてる家系が増えたらきっと楽しいですよ」

「お前なあ……、ん、分かった。当てはある」

 その目の奥に真剣なものを見とめて、俺は真面目に返事をした。伴侶を愛しすぎる所為で、子沢山の家族なんかいくらでもある、その中で、家を継がせたいほどの才覚を示すような次男もいくらかいた。

 俺はちらりとシフに視線を向ける。青褪め、膝の上で拳をぎゅっと握り締めていた。

 トールが死ぬかもしれない、というのを本人以上に重く捉えている様子だった。トールの家系が絶えるかも、ということにも、本人以上に考えがあるのかもしれない。自分が巻き込んでしまったかも、と生真面目に考えてしまっているのかもしれない。そういう質のある部下だった。

 貴族ではないと考えづらいのかもしれないが、自由恋愛が一般化しつつある昨今、貴族の家に継ぐ人間がいなくなることなど割とよくあることだ。

 高貴さは強制する。お互いにお互いの家名の存続を立場上必要とするなら、有能な次男、長女を養子として引き取る貴族間の養子のやり取りは、ある程度の数が行われている。シフにはあとで説明してやろうと思った。

 唐突に、しゅんとしてしまったシフの頭に、トールの手のひらが乗る。わしわしと撫でまくるその動作を、やめろ、とシフが振り払う頃には、多少気分も浮上していたようだった。

「僕も、お手伝いできることがあったらいくらでもどうぞ」

「近衛は全員出ます。モーリッツ代理に護衛は要らないでしょうが、まあ、何でもお申し付けください」

 宰相補佐のスクナと近衛魔術師のニンギもまたにこりと笑って見せ、この場に居合わせた全員が多かれ少なかれ、演習への準備を共にすることになった。

「では、時間が惜しいな。右手に菓子を持ったまま、食いながらで良い。密偵からの報告を詳しく話す。サウレ、不敬だなどとは言うまいな?」

「勿論だ。無礼講といこう、酒がないのが残念だが、……式典を全員生き残ったら酒宴でも開くか」

 からからとサウレ国王が笑う。ガウナーはその横で苦笑した。

 死ぬかもしれないのか、と俺はふと湧き上がる恐怖感に、いつものように蓋をした。伴侶ならば、縋り付いても良いのかもしれなかった。死にたくない、と、参加しない、と我儘を言っても良かったのかもしれなかった。

 でも、そんなものを神託を受けて婚約相手になっただけの人間に、言う資格はないように思えた。

 

 

◇9

 魔術式構築課の直近案件に関して、宰相閣下が直々にサーシ課長と一緒にこっそり相手方へ出向き、それぞれの案件の先送りを依頼するという例外的な対応が取られた。

 魔術式構築課内では、反国王派に関わる人間はいないことが調査された上で事情が共有され、一つの最優先案件として、防御用の魔術式の開発、および演習当日の対策を行うことになった。

 現在は、使用される講堂の構造から、防衛策を調査する段階だ。

 俺は主に、モーリッツ一族内で有用な魔術を持っていないか、という調査と、当日までの準備における協力者探し、そして俺個人の身体が鈍っていることから走り込みをしては、シフや第二小隊の協力者相手に戦闘の模擬訓練を繰り返している。

 並行して、俺は自身の死に支度を始めた。

 財産の整理と、手持ちの本の死後の行き先、葬儀の手配くらいのものだが、もし今回死ななかったとしても、準備しておくべきものではあったので丁度良かった。

 預かって貰っている遺書には、死後の手持ちの遺産はモーリッツ一族へ、という文言になっていたが、モーリッツ関連で得た資産は一族へ返す、それ以外の自身で得た資産は全てガウナー宛とすることにした。

 婚約しているとはいえ、まだ正式に結婚している訳ではない。遺書が無ければ、俺の資産は全て一族に戻されているはずだった。葬儀があったとしても、伴侶でなければ主導するのは父になるだろう。

 まだ、俺達は他人なのだ、とすこし寂しくなってしまった。

 そうやって準備していく内に、ひとつ心残りがあったな、と思い出した。大神官であり、ガウナーの親友であり、神託を告げた人物であるルーカスのことだった。

『神託は本物であったのか、それとも偽物であったのか』

 いっそ本人に会えたりはしないだろうか、と思ったのだが、大神官への伝手はない。ただ、ありがたい神託も受けたことだし、王宮の隣だし行ってみるか、と休日を利用して礼拝に出向くことにした。

 他の信者に合わせて礼拝を済ませ、ふらりと、開放されている中庭を散歩でもしよう、と外に出る。

 クロノ神は農耕神である。神官もまたその教義によって、土を耕す日課がある。中庭は綺麗に区分けがされており、礼拝者用に目を楽しませるための花を植えている区画もあれば、明らかに食用と思われる野菜が植えられている区画もあった。

 何か式は仕込まれているのだろうか、とざっと確認したところ、結界の起動装置、水やり用の吹出口と、その作動装置あたりは確認できた。

 基本的には除草やら剪定やらは手作業で行っているようで、埋め込まれているものも、魔術式とは異なるものだった。同じ単語が頻出することから、魔術と同様に短縮が為されているらしい。

 神術はそもそも学んだとしても、加護が与えられない者には無用だ。ただし、魔術と違って生まれ持っての素質は関係ない。どれだけ神から力が与えられるか、が高度な神術を使えるかに関わるため、魔力が少ない者でも神官を志し、高位神官となることもある。

 攻撃には特化せず、結界や治療、農耕や畜産に関わるような、穏やかな術に特化している。それらは体系化されてはいるそうだが、広く知識が出回っている魔術と違って、知識が神殿から外に漏れることがないことから、いくらモーリッツの人間とはいえ、持っている知識は限定的だ。

 また、モーリッツの者は、代々神殿には仕えることはない。

 モーリッツ家は、代々魔力だけは多い傾向にある。神殿側も、神術の知識を神殿以外なのに保有しているモーリッツの人間とは、関わりたくないというところだろう。

 魔力でできるのに、面会制限や行動制限のある神殿にわざわざ仕えて神術を学ぶ必要もなかろう。ただし神術について知識を出回らせる機会があれば、ここぞとばかりに流出させたい、というのが親族間の概ね一致した見解だった。

 モーリッツは、知識の制限を極端に嫌う。

「『広がる』『地下』『水』『濾過』……、ある程度読めるな。地下水の汲み上げをこの装置単体で? 他にでかい装置がある訳じゃないってことか」

「よく読めますね。ええ、こちらの装置単体で汲み上げから水撒きまで終わるのですよ」

 にっこり、と微笑みかけて来た神官服の人物に、俺はざっと後ずさった。静かに寄ってきたにしても、全く気配を感じなかった。黙り込んだ俺とその人物の間を、鳥の鳴き声が通り過ぎていく。

 白髪が印象的なその神官の名前を、顔を見た今なら間違いなく言える。

「…………ルーカス大神官。失礼しました、あまり見慣れない装置で、つい」

 国王陛下および宰相閣下の昔なじみでご学友。……というか、噂を聞く限り悪友と言えば良いのだろうか。

 この大神官は神から愛されているようで、魔術師の目で見ても、訳のわからない力が彼の周囲を揺蕩っている。

 大神官への就任時に色を神に捧げたそうで、以前は美しい金髪だったそうだが、現在は白髪であり、目の色は血溜まりのようにぞっとするほど赤い。

 珍しい色彩を持つ美形が、間近で俺に向けて微笑むものだから、俺の表情はさぞや強張っていたことだろう。

「動かしましょうか?」

「はい? ……え、と、よろしいのでしょうか?」

「構いませんよ」

 大神官は、躊躇いなくその装置に指先を触れさせる。詠唱や記述した動作は何もなかった。しかし、大神官がその装置に触れた瞬間に、サァ、と周囲に雨が降った。その雨はしとしとと地面を濡らし、ある程度湿らせると、ややあって止んだ。

 力の流れは見えた。けれど、それを発動する動作は、触れること以外何もなかった。

 知識が流出しないはずだ、詠唱も記述もなにもない。短縮だって装置には掛けられているが、それらを発動する神官が何も唱えないのなら、この力の流れを感覚的に口伝する他あるまい。

 俺がぽかんとその雨が止むまで佇んでいるのを、大神官は面白そうに見守っていた。

「ああ、すごかった、です。ありがとうございました!」

「いえ、こんなことくらいで。……ああ、我々は慣れているので体の周囲に水避けを張るのですが、濡れてしまいましたね」

 大神官は俺の服の裾を摘むと、濡れていることを確かめた。気にしないと言う前に、こちらへどうぞ、と付いてくるように促され、俺は首を傾げる。

「服、乾かしましょう。ね?」

 水くらい風の魔術で吹き飛ばすことは出来るのだが、会いたかった人物と話ができるのなら僥倖だった。

 それにしても、と長く伸びた白髪を目で追いながら、果たして故意だったのか偶然だったのか、と大神官の行動を思い返す。少し避けてください、と言われれば、その場から離れることもできた筈、大神官がさも偶然のように振る舞うのに違和感を覚えた。

 大神官は門番と一言二言やり取りをし、俺は神殿の奥の、おそらく普段は信者が立ち入らない場所へ案内される。あれこれと内装について質問を投げかけると、回答に慣れてでもいるのか、歴史的な経緯も含めて説明を受けた。

 こつこつと石畳に靴音を響かせながら、外見からは低めに感じる声音で、淀みなく当時の大神官の名を挙げる。神学者なら金を払ってでも聞きたいくらいの、短い講義を受けたような心地だ。

 中庭から随分歩いた筈だが、体感的な時間としては短く感じた。

 案内された部屋は質素で、それでも十分な広さのある部屋だ。白を中心に色彩が纏められており、陽の光が豊かに取り入れられるようにか、窓が広く、開放的な造りだった。

 大神官に椅子を勧められ、座ってそわそわとしている間に肩にそっと手を置かれた。ぶわり、と温かい風が渦を巻き、湿っていた服はからりと乾く。

「拭くものを貸して頂けるものだと、……驚きました」

「ああ、いえ。モーリッツの家の人間なら神術は見たいかなと、余計なお世話でしたか?」

 いいえ、と首を振ると同時に、会話の中で名乗っただろうか、と自分の発した言葉を思い返す。いや、自分がロア・モーリッツである、と俺は名乗った覚えがなかった。

 何故、と問いかけようとした俺に、先回りするように大神官は俺の頬を両手で捉える。

「……だって、貴方に会わせて欲しいと言っても会わせてもらえなくて。いつか会わせる気になってくれるかも、と思って大人しく待っていたのに、神託が広まってから随分経ちます。酷い話でしょう? 私のお陰で貴方を得たというのに、薄情な男です」

 そっと俺の頬に指を滑らせる仕草は、身体を重ねることに慣れた人物特有の空気を放った。

 ふふ、と微笑む唇は艶々として赤みを帯びており、隙間から真珠のような歯が覗いた。どきり、と胸が一度跳ね上がった。

 同年代にしては若すぎる見た目と、異彩を放つ色、白磁のような肌と色づいた頬、人形のように丸く垂れた目、長身とその肉付きから女性と間違えることはないが、うっかりと、そう、間違いでも起こしてしまいそうな性別を問わない色気があった。

「薄情な男とは、ガウナーのことでしょうか?」

「ええ。私、貴方とお話ししたくって」

 気が付けば大神官は椅子に上がり、その膝は俺を跨いでいた。

 頬も捉えられていることから、俺はぴたりと動きを止める。お話ししたい、にしては距離が近すぎるかなあ、と内心苦笑いだが、表情には出さない。

「ルーカス大神官。こんな風にしなくても、私は逃げません」

「大神官は役職ですし、敬語もご遠慮いただきたいのですが」

 流石に友人だけあって、似たようなことを言う。俺は彼の時と同じように、ルーカス、とその名を呼んだ。満足そうにころころと笑う仕草から、回答としては正解であったことを悟る。

「ロア・モーリッツ。……ロア。貴方が形式上とはいえガウナーの婚約者になって、私もほっとしました。ガウナーは大変な責務を背負っているし、私は大神官という役職上、此処からあまり外に出ることが叶いません。勿論、ガウナーは訪ねてはくれますけれど、彼、忙しいでしょう」

 俺は不穏な空気を感じ取っていた。『形式上とはいえ』と『彼、忙しいでしょう』のあたり、婚約者相手に親友あたりが言うには顰蹙ものの台詞だ。けれど、この大神官……ルーカスが頭が良いのは有名な話だ。

 故意に言っているんだろう。俺はルーカスの言葉を、一字一句なぞるように頭に焼き付ける。

「貴方はお強い、職位もお持ちです。ガウナーの伴侶という立場には、誂えたようにぴったりで、これでガウナーも少しは楽になるでしょう。私を訪ねてくれる頻度も、最近は増えてきました」

 密会、を連想させる言葉に、自然と眉根に皺が寄る。俺が不愉快そうな表情を見せても、ルーカスは気にしてもいない。

 頬を捉えているのに、俺なんて目の前にすらいないかのようだった。

「……ガウナーは、貴方を抱くのですか? 貴方に抱かれる?」

「……ガウナーが、俺みたいなのをどうこうすると?」

 咄嗟に問いが口を衝いて出た。部屋をねっとりとした笑い声が満たす。

「いえ、ごめんなさい。……ふふ、だから、ガウナーはこの部屋を訪れるのでしょうね。手近なところで十分発散できれば良いのに……、それが出来ないから、ここで」

「……………。そういう話をするために、ここへ呼んだ?」

「ええ、そういう話をするために呼んだのです。貴方にとっては、形だけでも伴侶のことでしょう? お知らせしたほうがいいかと思いまして」

 ふふ、と小首を傾げて笑う仕草は優美だった。寝台に組み敷きたくなるような、雄を駆り立てるような空気を纏っていた。

 ぱさぱさした暗褐色の髪とも、少し弛んだ身体とも違う。整えられた髪と手入れのされた肌、そして靭やかな身体だった。

「あんたは神に仕えているんだろう? 俺にこんなに擦り寄って神はお怒りにならない?」

「お怒りにはならないでしょう、だって私の身も心も神のもの。こうやって触れさせたからといって、私が貴方のものになる訳ではありません」

 だったら、ガウナーに触れたとしても神罰は下らない。成程、と俺はルーカスを持ち上げると、そのまま椅子を立った。帰ります、と一言告げる。止める言葉は掛からなかった。

「貴方が神のものであるように、ガウナーは俺のものにはなりません。貴方が言うように、俺達は形式的な結婚をします。性欲の発散は他ですることも、貴族の婚姻ではよくあることです」

 いくら大神官とはいえ、ガウナーの親友なだけはある。表情を隠すのが抜群に上手い。笑うルーカスの表情から、彼の真意を読み取ることはできなかった。

 けれど、彼が嘘を吐かないというのなら、ガウナーが性欲の発散にこの場所を訪れるのだろうし、俺を婚約者として祭り上げ、そちらに伴侶の仕事を押し付けてしまえば、ガウナーとルーカスは心置きなく密会することはできるのだろう。

「そういえば、ずっと聞きたかったんです。……俺達が結婚することになったあの神託は、本当に神から託されたものでしたか?」

 ルーカスは今度は笑わなかった。手を組み、祈りの形を取る。

「……以前、ガウナーに『貴方が結婚するとしたら、一体誰なら都合が良い』のか聞いたことがあります」

 目を伏せるその表情に、何の色も浮かばなかった。

「彼はいくつか条件を挙げ、条件に沿う名前が挙がりました。……私が貴方の名前を初めて聞いたのは、その時です」

 ありがとうございました、と俺は再度頭を下げ、その場を辞した。近衛魔術師に指摘されるまで、俺を抱かなかった理由は分かったような気がした。

 ガウナーに真意を問いたいような気もしたが、気力がとんと湧かなかった。

 

 

◇10

 その日は調査結果の発表会ということで、魔術式構築課、魔装課からトールとウルカ、防衛課からシャクト隊長と、ガウナーも参加して、一歩進んだ小屋、と評判の魔術式構築課にて、全員の前に講堂の映像が投影された。

 全員の前には皿いっぱいにパンや菓子、果物をはじめ、手で摘めるお手軽料理が堆く積まれており、それぞれの手には飲み物の入ったカップが握られている。何だかんだと役職持ちが多く、あまりにも全員が集まる時間がないことから、昼休憩時間に集まることにしたのだ。

 全員が集合した時点で、魔術式構築課全員で小屋全体に結界と隠蔽を展開する。最近覗かれている感覚が、頓に増えた。

 シフなんかは俺と一緒にいると、行動を悉に見られている感覚に襲われるそうで、気持ち悪いとトールに泣きついている。おそらく半分は正解で、半分は見られている感覚に慣れないことから来る被害妄想だろう。

 トールが愚痴は聞いてくれるわ、家に泊めてくれるわ、食事は出してくれるわで、なんとかシフの精神が保っているような状態だ。代理はほんと面の皮が厚いですね、と部下はほざくのだが、面の皮が薄くて生きていけるなら、その方がいいに決まっている。偶にガウナーに縋り付きたくなるくらいには、害意に俺も参ってはいるのだ。

「はい、アルムガルト講堂の映像が出ました。あ、魔構のエウテルっていいます。当日は裏方担当します。音響は握りますんでよろしくお願いしまっす」

 適当な自己紹介もそこそこに、串焼きの肉を振りながら、エウテルは投影された図面を切り替える。エウテルが取り出した図面は、アルムガルト講堂の断面だった。

 この図は資料からの抜き出しではなく、エウテルが効果的な音響を考えたいから、と魔術機で自作したものだ。完全に趣味の領域である。

「壁は古いですが造りは良いっす。厚みと耐久力は十分、ただしまあ結界自体の式が古めかしいので、壁に関しては事前にこっそり結界を張り直しましょうってことになってます。これはうちとモーリッツ家から魔術師をお借りする予定。物理的な補強は目に付くので、あくまで魔術的な補強、ついでにそれらが補強されたことの隠蔽、を深夜に行います。フナトの術を、モーリッツの魔術師たちで拡大展開しまっす」

 俺は焼き菓子を口に放り込み咀嚼してから、ひらりと手を挙げる。反対の手で宙に魔術式を展開し、投影内容の横に文字情報を差し込む。

「魔構のロアです。モーリッツの当主……うちの父親も協力してくれるそうです。一つ、事前準備に関しての魔術師の派遣。二つ、当日ひとつの医院に、通常以上に医療魔術師を控えさせる対応。つまり怪我したらここに運べっていう医院を、一つ確保できてます」

 医療魔術師は、当日非番のモーリッツの人達だ。怪我人が出なければ仕事もなく、食事でも取りながら親戚内の交流会の予定となっている。喉が渇いて、珈琲で喉を湿らせた。

「三つ、ゴーレムの材料提供及び魔装の無償貸与。四つ、反国王派の財源の資料を始め情報提供がいくつも。講堂に関しては市街地から続く地下通路の、効果的な封鎖方法の情報提供がありました。こちらは当日のみに限定して封鎖予定です。封鎖に関して事前告知はしません」

 続いて、咀嚼を終えたフナトが、おずおずと手を挙げる。小動物が食事をもごもごやっている様は、微笑ましさしか生まない。

「魔構のフナトです。空からの襲撃も想定しています。天井は造り自体もよわいのでこちら新しい魔術式を……宰相閣下の自宅に展開予定だったものをつかいます。壁と同時に深夜に適用予定ですー」

 フナトが空いた手で、ぽんと資料をウルカに手渡す。ウルカは油塗れになった指をハンカチで拭い、資料を受け取って頁を捲った。

「魔装のウルカです。ゴーレムは全部で三体。俺とトール、そしてサーシ課長に一体ずつ操作をお願いします。控えるのは封鎖した地下通路、俺は犯人役として最初から出ますが、残り二体は事態が発生した場合に、緊急出動という形とします。俺から二人への出動連絡は『今日は夕食一緒にどうですか発信機』の試作機で、『食べる』返事を送ることで代用します」

「変な装置がまた増えてる……」

 うちでもガウナーからの『今日は自宅で食事を取るよ』連絡機と化しているが、割と便利に使っているので、是非実用化されてほしいものだった。

 第二小隊のシャクト隊長が手を挙げる。

「防衛第二のシャクトだ。当日は想定通り第二小隊は犯人役として参加、他小隊から出動できる者を地下通路へ配備。サーシ、魔装のトール両名の出動と同時に出る」

 シャクト隊長は、蒸した鶏肉を口に運ぶ。サーシ課長に横から次々食事を奪われている光景は、二人の力関係を如実に表しているようだったが、嘴を突っ込むのは止めておいた。

「代理、ほんと何回も聞きますけど、この大部隊の出動合図が実質『今日は夕食一緒にどうですか発信機』でほんとにいいんですよね!?」

「魔力そんなに使わなくて合図も早く、遮蔽物に強くて対抗魔術が開発されていない新しい通信方式の小型の魔術機なんて他にないっつったろ!」

 ぎゃんぎゃんと俺とシフが無意味な言い争いをする間に、ガウナーが、重要人物は複数持っておき、障害が起きにくくなるようにしよう、と話を纏める。

「政策企画のガウナーだ」

 政策企画の、という自己紹介に、全員から笑いが漏れた。

 複数課の集まる場では、所属と名前を名乗るのが通例だが、国王と宰相にそれを求めることは通常はない。

 ただし、宰相といえど政策企画課に所属していることは間違いはなく、そういう意味では宰相ではあるが、政策企画という別の課に所属している人、であることに間違いはないのだった。

「笑われると話し辛いんだが……まあ、ガウナーだ。犯人役と本物の犯人との見分け方についてだが、犯人役は腕章を毎年付けている。反国王派はこの腕章の模造品を身につけて紛れ込んでいる筈だ。ということで、この腕章を二重にする」

 ガウナーは喋りの合間にスープを飲んだり、パンを食べているが、欠片を零したりもせず器用なものだ。

 食事と並行して仕事、というものに慣れきっている婚約者を見ていると、またゆっくりふたりで食事を取りたいものだなあ、と場違いな事に思いを馳せる。

「襲撃を受け、……何だったか、『今日は夕食一緒にどうですか発信機』だな。一緒に夕食だ、と連絡が入った瞬間に、表の黄色い腕章を剥ぐ。下に隠す腕章に関しては新しく作っても良いが……作ることで目論見がばれるのも面倒で、検討しているところだ」

 サーシ課長が、食事をつつきながら手を挙げる。ええと、と記憶を掘り起こすように言葉を溜め、ようやく思い出したように口を開いた。

「フノー城への奇襲時に、敵味方の区別のために腕章を用意したんだけれど、あれ、まだ倉庫に眠っているよ。当時の部隊の人数も、予備の規定の発注数も覚えているから、在庫の数が合えば使えると思う。当時の発注の際には時間をかけて、隣隣国の繋がりがある工房に複製しづらいよう頼んだ上で、口止めもしているから、下手に新しく頼むより、そちらのほうが複製しづらいのではないかな?」

 にっこり、と微笑んだサーシ課長に、助かった確認する、とガウナーは短く返答した。手持ちの手帳に書き留めようとして、止めた。会議を終えれば、資料類は全部焼却する。書き留めても破って燃やすことになるだけだった。

 結局、医療魔術が脳内を読み取る領域に踏み入るまで、最も安全な鍵が掛かるのは頭の中だ。

「エウテルです、説明に戻ります。音響ですけど、襲撃が感知された瞬間から詠唱妨害を展開再生しまっす。つきましては犯人役の我々は、止まるまで詠唱式の魔術は使えません」

「エウテルの曲聞きながら防衛とか、本気で頭おかしくなりそう」

 シフの言葉に、魔術式構築課全員でうんうんと頷く。ガウナーは話が分からずに、目を見開いていた。

「相手も頭おかしくなるから、いいじゃないですか。よって、用意する魔術式は主に記述式です。書き慣れてないと遅延が出ますから、みんな練習がんばって、っす」

 ぐあああ、と頭を抱える魔術式構築課の面々は、先日、式典当日に使う予定の記述式の魔術一覧を受け取ったばかりだ。

 いくら魔術式構築課とはいえ、よくもここまで、と言わんばかりの魔力貯蔵量いじめのその魔術の一覧を見て、全員が魔力切れでぶっ倒れることを覚悟した。

 

 

◇11

 

 各人の役割の割り振りが終わり、引き続き、当日に向けて準備が進んでいる。

 特に俺はモーリッツとのやり取りもあり、多忙といえる渦中にあった。ガウナーとは朝食では会えるので問題はないが、あれから体を重ねることはなかった。大神官様に啖呵を切った手前あれだが、義務として抱かれてその後放置、というのは若干腹立たしい。

 抱かれ慣れている体ではないし、あんまり積極的だった覚えもないので良くなかったのだろうが、次があろうものなら乗っかってやる覚えていろ、と心中で毒づく。見目麗しく、色ごとに慣れた相手がいるなら、お飾りの婚約者になど手を出す必要はないのだろう。

 うろうろと思考を各所に飛ばしながら、魔術式構築課から大体人が居なくなった頃、俺はまだそこに居た。少し、他とは違う類の、狙われる当人だからこそ仕込む、魔術の使い方を復習しておこうと思ったからだ。

 出来れば少しでも魔力の軽減はできないか、とも試行錯誤している。当日、何よりも恐れるのは弾切れだ。

「代理、ご飯ですよー」

「どうもー、おじゃましまーす」

 シフに続いて、紙袋を抱えたトールが二人して部屋に入って来る。シフが突然、うわああ、と書類を放り投げ、息抜きしてきますね、と出ていったと思いきや、突然のこれだ。

 腹を押さえてみると、確かに俺の腹はべっこりへこんでいた。

「軽く弁当作って来ました。苦手なのあったら、こっちに寄越して下さい」

「助かる。特に食べられなさそうなものもない」

 トールはテーブルの上に弁当箱を広げた。彼は貴族出身だが俺と同じく家を出ており、身の回りは自分でやっているので、これらはお手製のそれだ。濡れた布巾を手渡され、有り難く手を拭う。

 いただきます、と手を合わせてフォークを引っ掴み、早速肉に手を伸ばした。

「ごめんな、トールも通知機の量産とか、防衛課との合同訓練に参加したりで忙しいのに」

「とはいえ、魔構よりまだましなほうですよ。宰相閣下も帰られないでしょう?」

「かな? 最近はどっちが早く帰るか、ってとこ」

 ガウナーがあまりにも俺を待っていようとするので、最近もう待つな頼む、心労が祟る、と懇願して先に寝て貰っている。

 俺だってガウナーが遅い時は先に寝落ちしているのだから、お互い様だ、と伝えると、ようやく納得してくれたようだった。こう考えると手を出さない、というよりも、物理的に忙しくて勃てている時間も体力もない、というのが正直なところかもしれない。

「とはいえ、お互い頑張れば頑張るほど生存確率が上がる、って解っててやってることだから、必要な労力っつうか」

「ここ数日、フナトめちゃめちゃ頑張って、結界の魔力消費がんがん減るし、エウテルは魔装と大規模な音響装置を着々と改良するし、医療魔術もモーリッツ一族から、防御用にこれ仕込んでください、って改良式が送られてくるし、サーシ課長がゴーレムの操作めっちゃ上手くなって、シャクト隊長と一緒にまた前線に立ちましょうよ、って防衛第二に誘われてるし。うちすんごい修羅場を迎えてますよ。おれ、調整にいろんな課駆けずり回ってて、声掛けられて面倒くさい……」

 それは仕事相手が増えるということで、顔が広がるのだということだが、シフ的にはあまりよろしくない事態らしい。

 俺は苦笑を返しておいた。今回俺も大分手を出しているが、他の課との演習の時間調整だとか、聞かれてはまずい話をする時の結界張りも兼ねて、とかで、ちょこちょことシフがガウナーに引っ張り出されている。

 最近ではちょっと宰相閣下が分かってきました、あのひと仕事相手としてはすごく楽です、と、部下が婚約者に慣れ始めているようだ。

「案の定ですけど、代理が代理だから宰相閣下も気を揉んでるらしくて……代理、ほんとあんたってひとは……」

 部下の言葉に、俺はぐっと喉を詰まらせた。は? と声を上げると、部下は更に言い募る。

「ずっとロアがロアが、って、何が好きだとか何をすれば嫌われないかだとか、距離を詰めるには、とか、片思いしてる学生みたいなんですって。気の毒で気の毒で」

 うわあ、と顔を覆うシフの肩を芝居がかった仕草で抱きながら、トールも俺に批難がちな視線を送ってくる。

 俺はぶんぶんと首を振る。

「多少こう、大袈裟に言うんじゃないか? だって俺たちが仲悪いと、外聞悪いし……」

「「は?」」

 シフとトールの声が綺麗に揃った。ふたりは顔を見合わせると、目で会話をして、トールが、お前から話せ、と言うようにシフの腕をとんとんと叩く。

「代理、宰相閣下から好かれてるか好かれてないか、で言うと、自分はどっちだと思います?」

「同居できる程度には嫌われてはないんじゃないか、と思ってるけど」

 うわー……、と言うように、シフはげんなりした顔になった。

「そもそも、好きだとか嫌いだとか、愛してるだとか憎んでいるだとか、俺たち、そういうことを言い合ったことはないよ」

 神様から言われたから結婚をする相手、もしくは都合が良いから選んで神託を下ろしたことにしてもらった相手が、好きだとか愛しているだとか言ってくるのは重かろう。周囲に仲が良いことを演技ででも示さなければならない相手が、それを真に受けて寄ってくるのは鬱陶しかろう。

 俺がガウナーに必要な間、置いてもらう為には、付かず離れず真に受けず、ある程度心の距離を置いておく必要があるのだ。

「寝るのに?」

「近衛から魔力が混ざったりしないんですね、って言われたらしくて、そしたら同衾してないのなんてすぐ分かるだろ? だからそういうことも、まあ、した」

 シフは、疑わしげな眼差しを俺に投げる。

「好きとか嫌いとか言わないのに寝るんですか?」

「王族なんかでは、よくある話なんじゃないか?」

 本来なら気持ちの先に行為があるべきものが、社会的な立場によって強制される。それらが悪いものだという意識は、貴族で育った人間にはない。我々は歯車であり、機械そのものにはなり得ない。

 歯車として育って、次の歯車を用意してその位置に置いたら、ただ転げ落ちるのみだ。

「宰相閣下が愛していると言ったら、代理はそれを信じないんですね」

「そうだな。多分、また何かあったのかな、って本気には、……しないだろうな」

 苦味のある葉を口に入れてしまったらしく、咀嚼すると青臭さと共に気分が下がる。惰性で顎を動かすが、吐いてしまいたい気分になった。

「モーリッツっていう一族って、明らかに天才肌って人間が多くてさ。俺の王宮付きの魔術師、なんて地位より、学術塔の長だとか、研究施設の長だとか、治療施設の長だとか、地位がある人間ばかりだし、俺よりも魔力が多い人間も、俺より魔術を極めている人間も、わんさかいる」

 その代わり天才肌ではない分、多少、周囲との交流を円滑に図る術を手に入れたのは幸運だった。天才には兎角、話が通じない。

 それでも、幼い頃から『あのモーリッツ』の直系の割には、出来が悪い人間だった。出世を願う訳ではなかったし、魔術師の中では中の上くらいのものではあるのだろうが、それでも、一族の人間を見ていると、自分の腕など大したことはないと痛感させられる。

 日々モーリッツから送られてくる防御用の医療魔術も、全てが素晴らしいものだった。ただ、彼らは普段、それらの成果に興味を抱かなければ、見向きもしない。

 それなのに、俺達が血反吐を吐きながら必要として、日々改修していくそれを、ふと興味を抱けば一足飛びで追い越していく。天才とはそういうものであるからこそ、天から与えられた才なのだった。

「だから、俺の代わりなんて沢山いるって話だ。俺よりも魔力がある魔術師も、俺より武を極めている魔術師も、俺より見目が良い魔術師だって、家の柵がない人間だっていくらでもいる。から」

 大神官の居室で、ルーカスに言われた言葉が蘇る。屈辱だと思うことなんてなかった、確かに彼は美しい。あの生き物と比べられれば、仕立ててもらった服で着飾っても自分は見窄らしい。

 だから、ガウナーの言葉が響かないのだ。愛していると言われても、きっと俺はそれを受け入れられない。俺以上の人間の価値を知っているから、自分の位置は下にしか置けないのだ。

「俺以外のほうがいいのにな。ガウナーが俺を愛していると言ってくれても、困ってしまう」

 シフは顔を手で覆ったままの体勢で、動かない。その口元から長い長い溜息が吐き出される。

「…………トール、ごめん。おれ、言葉がうまくでない」

「あー」

 うーん、とトールは一拍間を置く。

「代理が宰相閣下と婚約したとき、なんていうか、皆、納得してたんですよね」

「ああ、なんか。そういう話を政策企画課でもしたような……」

 誰だったか、納得した、というようなことを言われた記憶を掘り起こす。あの時は、深く追求しようとはしなかった。

「代理の立場とか、魔術の腕とか、そういうものも理由にはあったんですけど、俺からするとどちらかといえば、最初に思ったのって『確かに代理といたら宰相閣下癒やされそうだな。楽になると良いな』ってことでした」

 トールは珈琲の入ったカップを握り締めて、思考をまとめる間を持たせるように、何度も言葉を切る。

 所作は貴族出身だけあって整っていた。隣のシフの食事の仕草が大家族出身特有のものだから、尚更、トールの育ちの良さが透けて見える。

「宰相閣下って確かにできる人でしたけど、やっぱりいつか崩れるんじゃないかって俺たちは、無意識に恐れていたみたいです。でも、神託が下ったとき、ああ、そうかこれから宰相閣下の隣には、代理がいるんだ、って思って、安心しました」

 やっぱり分からない、と困惑しているのが顔に出たのか、トールは苦笑して更に口を開く。

 出来が悪い子どもに対して、微笑ましさを感じているような表情に、俺は居た堪れなく思いつつも、俺以外の言葉でなくては、俺が捉えられないものは受け止められない。

「代理って、尖ったものを近くに置いておくと、先を丸めてこっちに渡してくれるんですよ。人間関係なら橋渡しを、技術関係なら噛み砕きを。宰相閣下も同じで、あんなに取っ付き辛かった宰相閣下が、代理と隣で歩いてるだけで、まあるくなっちゃって」

 天才肌の人間と付き合いが多いと、その説明に間に入らざるを得ない。そのために言葉の置き換えや、説明のための知識は自然と付いた。どう伝えれば噛み砕きやすいのか、どう例えればぴんと来てもらえるのか、少しずつその癖は俺の身に染みていった。

 俺にはそういう立場しか無かったからだ。尖れもせず、ただ、尖っているものと平べったいものの間に挟まれ続けてきた。

「宰相閣下、昔のかっこいい笑い方じゃなくて、最近、目尻を下げて笑うんです。ずっと代理を追いかけているから、最近、代理が近くにいましたよー、って報告する機会が増えて。で、またそれを言うと無意識に笑うものだから、皆嬉しくなっちゃって。昔は、あんなに声を掛けるのに、緊張してた方だったのにね」

 トールが、カップへ温かいままのスープを注いでくれる。礼を告げて受け取り、口に含めば、甘い野菜の風味が口を満たした。

 ガウナーの笑い方なんて、俺には気づくこともできなかった。俺は、俺と出会う前のガウナーをよく知らない。近くに居すぎるのか、変化にも気づきにくい。

 結局、トールの贈ってくれる言葉の半分も受け取れずにいる。

「宰相閣下はいくら国の為だからって、代理が危険な立場になることを嫌がった。それは、宰相閣下という立場じゃなく、代理の婚約者としての愛情から来るものだった、と思います。俺は、その考えを持つに至った宰相閣下に、もう少し寄り添ってあげてほしい」

 俺がカップを持ったまま考え込むと、トールはまだいりますか? と尋ねて来る。無言で首を振ると、トールはそのスープをシフのカップに注いだ。シフの表情がにかりと緩み、その表情のままスープを啜る。

「代理って人の感情の裏とかを考えがちですけど、人ってそんなにずっと演技なんてできないものだし、宰相閣下ってめちゃくちゃ分かりやすい人ですよ。言ってることそのまま受け取っても、本心とそう変わらない人ですって」

 スープをぐるぐるかき回すシフは、野菜の欠片を拾い上げて口に放り込む。

「…………って、周りは気づくのに、なんで本人はこれなのかなあ」

「悪かったな。でも、なんか、分かった。ちょっとだけだろうけど」

 ここまで言われていると、ルーカスのことを尋ねない俺の方が、不誠実のような気がしてきた。

 認められたならば、それでも良いのだ。その上で自分の立場を考え直せばいい。ただ、ルーカスの話ばかりでは、ガウナーの本心は分からないままだ。不満があるのか、ないのか。このまま結婚するつもりなのか、いつまでも結婚し続けるつもりなのか。何も話さないまま、宙ぶらりんで続けていけるような関係ではない。

 この結婚を、宙ぶらりんでどうにかなるような、甘いだけのものにしたくはない。

「式典演習が終わったら、もうちょっと、話をする時間を取ってみる」

 トールとシフが揃って帰って行き、残って書類と向き合っている間、俺はこれからのことを延々と考え続けた。

 もし、式典演習が無事に過ぎたら、やんわりと、好意を持っていることくらいは伝えたくなった。どこで浮気されていても、感情が何も向けてもらえなくても、こうやってひょろりと芽吹いたものは、根付かずに枯れてしまうには可哀想な感情だった。

 受け取ってもらえることを期待しようとは思うまい、と魔術機を叩きながら嘲笑う。とんとん、と叩いた胸元を引き絞る感情に、もう少し待ってくれ、と答えを先延ばした。

 

 

◇12

 駆けるように、ひと月は過ぎて行った。

 魔術式の仕込みも、武術のおさらいも、身体を鍛えもした。これで死んだらそれまでだ、と思うくらいの準備はしたつもりだった。前日は、魔術師は全員早めに帰ることになった。

 今回一番恐れられているのは、魔力切れだった。式典演習としての立ち回りの途中、もしくは後に、おそらく襲撃があるのだと考えている。そうなれば最悪、立ち回りと襲撃阻止の二重に魔術を発動する機会が発生するかもしれない。

 せめて前日くらいは十分な休息を、そう言われて明日の準備を終えた俺たちは、昼頃には帰宅させられることになった。驚いたのは、帰宅したらガウナーが居たことだった。

「……今日、早かったのか?」

「ああ。どうせ居ても仕事にならんだろうと、今日くらいは補佐に任せろと帰らされた。うちの補佐は宰相を宰相とも思わないから楽だ」

 ソファに腰掛けたガウナーは、手に何も持たず、ぼんやりと考え込んでいた様子だった。一瞬、声を掛けるのも躊躇ったくらいだ。

 軽く笑みを浮かべたガウナーは立ち上がると、俺を抱き寄せて口付けてきた。顔を傾け、いつものように受け入れる。こめかみ、手の甲、とキスを落とされ、最後にぎゅう、と抱き締められる。

「ゆっくりしろと言われたんだ。久しぶりに午睡でもしようかと思っていたところだ。一緒にどうだ?」

 良い提案だった。同じく、考え込んでしまえば他の事はできないだろう。こくりと頷くと、手を引かれて階段を上がり、部屋まで導かれた。

 ローブを脱ぎ、眼鏡を外してベッドへ倒れ込む。ガウナーもまた上着を脱ぐと、椅子の背に引っ掛けてベッドまで歩み寄った。

「疲れたなあ、今日まで」

「だな。もうあの講堂の図面を見るのは懲りごりだ。一生分見た」

 毛布を引き上げ、二人して丸くなる。無意識にくっついて、無意識に縋り付いた。

 なんだか、本当に恋人同士と錯覚させられるようだ。不意にルーカスのことを口に出したくなる衝動が湧いては、それを殺す。

「婚約者殿、式典の演習が終わったら、行きたい店があるんだ。甘味が美味いらしい」

「それはいいな」

「新しい服もそろそろどうだ、と言われたんだ。少し作っておくのも悪くないだろう」

「うん。やっぱり手持ちが少ないからな」

「結婚式の衣装も、少し落ち着いたものにして貰おうかと思って、相談をしているから、あまり不安に思わないでくれると有り難い」

「来年のことだろ、早いって」

「…………来年まで居てくれ」

 その碧色の瞳が、潤んでいたような錯覚を覚えた。腕の力が強まり、胸元に押し付けられる。

 柔らかい布の感触が、頬を擦った。

「来年も、その先も、ずっと居てくれ。ロア。私は……」

 その先の言葉を、何故かガウナーはぐっと噛み締め、飲み込んだ。俺もまた、その先の言葉を求めることはしなかった。

「………………頼む」

 ずっと居るのだ、と答えを返すことができなかった。もし明日何事もなかったとしても、その先、まだ俺たちはその先のための話を控えている。俺が、恋情を少しでも伝えたらどうなってしまうのだろう。顔を見たくとも、押し付けられていて視界に入らない。

 俺はその腕に縋り付いて、やがて眠気が襲うまで、ただそこに居た。

 

 

◇13

 動きやすい服、二重になった腕章、そして体中に仕込まれた記述式の魔術。少しでも隠蔽を解除しようものなら、体中にびっちり詰められた魔術式を魔術師が見て、悲鳴を上げるくらいの代物だった。

 黄色い犯人役の腕章の下に、サーシ課長から提案のあった、過去に使用していた腕章が隠されている。合図と同時に黄色い腕章を剥ぎ取ることで、目立つ色をその場に残すことを目的とした。隠されている腕章の方は、奇襲作戦の物のため、褐色をしている。

 シフとフナト、ウルカとシャクト隊長はお互いに腕章を確認し、決めてあった合図と『今日は夕食一緒にどうですか発信機』の挙動を確かめた。発信機は急ごしらえの割に、今日も順調に動作している。

 トールの魔装は基本的に当人の性格の通り、想定外の動きをすることが少ないが、試作機が本運用という今回に於いてもそれが良く作用している。

 ウルカはゴーレムを叩きながら、最終調整をしていた。人よりも一回り大きいそれは、人よりも丈夫で、身体が撥条でできているかのように自在に跳ね回る。それらを操りながら並行して軽い魔術なら発動してしまうのだから、ウルカも器用なものだ。

「緊張してきました……」

 フナトがあまりにも震えているので、手招きしてぎゅーっと容赦なく抱きしめた。痛いいたい離してくださいー、と俺を跳ね除けたフナトは、俺の頭をぱかんと叩きながらも、その時には、震えは止まっていたようだった。

 フナトは隣りにいるウルカの手を取る。

「がんばりまっしょー、おー!」

「ああ」

 フナトはそのままウルカの手を容赦なくぎゅう、と握り締めたらしく、ウルカから、いてて、と悲鳴が上がった。外見から想像するよりも腕力のあるフナトは、にこにこと笑う。

 二人の様子を脇で見ていたらしいシフは、はあ、と息を吐く。

「がんばろーとか代理てめー、死ぬかもってのに呑気かもう!」

「お? 俺が死ぬって思うくらい手を抜く気か?」

 にやあ、と俺がシフに笑いかけると、真面目な部下は胸の前で手を振る。

「抜く気ねーです! 朝からなんも魔術は使ってない、魔力貯蔵万全です!」

「おう、その意気だ」

 ぽんぽんとシフの頭を叩いて、そのまま抱き竦めた。勝ち気で真面目な部下の瞼は今朝から少し腫れていて、誰もそれをからかうことも、心配することもしなかった。

 離せよばか、と頭をぽかぽか叩いてくるシフもまた、少し表情が和らいだ。

「俺が死んだらシフが課長代理か楽しみだなあ」

「自分が死んだらてめーも過労死だ部下よ、って脅しはやめてくれませんかねえ」

 けらけらと戯れている俺達に、シャクト隊長は眉間の皺を深くする。この中で一番気を張っているのは、間違いなくシャクト隊長だろう。

 そんなシャクト隊長に、第二小隊の部下が寄って行く。周囲には盗聴防止の結界は張ってあるが、出来る限り小声で用件を伝えている。

「悪い。参加者について追加があった」

 こちらに近付いてきたシャクト隊長が、全員を呼び集める。円陣を組むように近寄ると、シャクト隊長は周囲を警戒しながら口を開いた。

「ルーカス大神官が参加することになったようだ。実際の式典にも参加されるので、演習のことを伝えると是非にと」

「さすがに、大神官狙われないよな?」

 シャクト隊長はこくりと頷いてみせる。

「それは無い筈だ。ただ、流れ弾でも当たらぬよう気をつけはしないとな。本人は神の加護があるから、と呑気なものと言うか、平静と言うか……」

 部下の報告を思い出したのか、シャクト隊長はげんなりした様子だ。大神官は、位置的には国王とは多少離れた場所に居るらしく、大神官付きの護衛も傍に控えるらしい。その中には魔術師もいるらしく、流れ弾さえ気をつければ、作戦自体に支障はなさそうだ。

 エウテルを始めとした妨害魔術については話を通したそうだが、『神術がありますので、大丈夫です』とのことだった。

 魔術と神術では、詠唱もなにもかも形態が違う。流れ弾が来たら魔術を神術で防御することになるが、知識的にも技術的にも向こうのほうが上で、その上で問題ないと言っているのなら、と飲み込むことにした。

 式典内で流れる音楽が鳴り出した。

 来賓入場の音楽らしく、この音楽はまだ普通の音だった。ただし、今回の音響についてはエウテルの手の中だ。連絡が入り次第、音が切り替わる。魔術師にとっては凄まじく悍ましい妨害音への恐れから、腹がきゅっと縮こまった。

「音が次の曲に入り次第我々が突入する。準備は?」

 魔術式構築課と防衛課第二小隊が混ざっているものだから、全員がてんでばらばらに返事をする。

 シャクト隊長はようやく眉間の皺をゆるめ、口元を吊り上げた。

「では、式典演習、犯人役。配置に」

 事前に何度も聞いた曲だった。曲が切り替わると同時に、俺達は控室を飛び出して回廊に展開した。回廊を駆け抜け、それぞれ違った経路で、大講堂への扉を蹴り開けた。

 目を見開いた来賓役の者と視線が合う。

「演習始め!」

 シャクト隊長の声が、大講堂内部へ反響した。数箇所ある扉が次々に開き、犯人役が雪崩れ込む。今回犯人役は第二小隊から十数名と魔術式構築課から数名といったところだ。

 ざっと視線を巡らせる。まだ人数に変化はなかった。今のうちに、国王陛下に近寄る必要があった。ガウナーには明言していなかったが、俺の今日の目的は国王陛下と王子様の盾役だ。

 俺を狙ってくれたほうが都合が良く、庇える位置まで到達しなければならない。

「我が脚は雷光を運ぶが如く、この一時翼を持つ」

 空間転移については、講堂への結界強化時に妨害魔術を含めておいた。抜け道は、身体強化した上での跳躍である。身体強化は医療魔術とも通じるものがあり、体内に展開させるために身体との結び付きが強く、妨害が難しい。

 俺の身体は講堂の天井ぎりぎりまで跳ね上がると、そのまま大多数の来賓役の頭上を越え、随分国王陛下の近くに寄った。

「代理!」

 シフの声が響いた。その声が響いたと同時に、先程犯人役が潜り抜けてきた扉から、第二陣ともいえる者たちが滑り込んでくる。

 シャクト隊長の動きは素早く、釦が押されたらしい。全員の夕食装置が、通知音を流し始めた。

 俺は来賓の間を擦り抜ける合間に、腕章を剥ぎ取る。国章が刷られたそれは、第二陣の者達が纏っているそれとは随分と色が違う。どす黒く、闇に紛れるための色だった。

 犯人役として参加している第二小隊、部下たちも含め、揃ったように綺麗に腕章の色を変えた。

「来たな」

 反国王派の刺客は、犯人役とほぼ同数だった。倍の数に揃えることで、予想以上の人数は想定外の連絡不備である、との誤解を狙ったのかもしれない。姿形は第二小隊の面々の装備そっくりだった。ただ、腕章の色が違っている。第二小隊の面々の一部は身体の向きを変え、まだ腕章が黄色いままのその者達と相対した。

『我が向かうべき道に立つ者よ。汝が大樹ならば炎を、岩漿なら海を、日出ずるなら薄暮を与える』

 エウテルの魔術が展開された。思わず耳を押さえるのを堪える。わんわんと脳内を掻き回すように響くそれを、聞きながら詠唱などとても無理だった。

 耳だけで聞くのなら、それはただの調子外れの音楽だった。ただ、その音を波形として聴くのなら、魔術師にしてみればこれほど邪魔な音もあるまい。魔術の詠唱にとって重要な波形を打ち消す音の群、魔術の発音に慣れ親しんでいる魔術師が生理的に恐怖を抱く音の波、この中で精神状態を保って、波形を保ちながら詠唱などとても無理だ。

 まだ黄色の腕章を付けている刺客達の中で、数人が耳を塞いでいる。あれらが魔術師であることが分かったのは幸運だった。

「成程。『シャルロッテ、その人にお仕置きをしよう』物理的にさ!」

 ウルカが心得たとでも言うように、シャルロッテと呼ばれたゴーレムを耳を塞いだ者達に差し向ける。人よりも随分大きな腕が、一人を腕で掬い上げ、壁に叩きつけた。

 ブォン、と豪腕が風を切る音と共に、人が壁に衝突する。

 しかし、壁は凹むことも欠けることもなかった。フナトが主導して改良した結界が、それだけ強固だということだ。

「『シャルロッテ、離れて』捕らえますー!」

 ゴーレムがその場を離れる。追撃するようにフナトが発動した結界がその者を内側に閉じ込め、行動を封じて壁に吸着させた。

 フナトは後は任せました、とウルカと離れ、国王に向けて走って行く。俺も移動がてら黄色い腕章の一団に向け、雷を落として動きを封じる。

 大講堂とはいえ、もう少し早く国王の元まで辿り着けると思っていたが、刺客の突入が自分達とほぼ同時であったため、国王はもう少し先だ。俺が国王に辿り着くよりも、地下通路に控えていた面子が講堂へ到着するほうが早かった。

「はーい、『マグダレーネ、捕らえて、絞めて、落とす』よ」

「あっちょっとサーシ課長離れて当たっ、……うらァ!」

 サーシ課長はゴーレムを操りながら、自身も杖で身体を支えていることを感じさせないほど器用に、相手の刃を躱している。時々杖で相手をぶん殴っている所を見るに、あの杖は相当丈夫なものだろう。そんなサーシ課長に振り回されながらも、トールは器用にサーシ課長への周囲の攻撃を防いでいる。

「代理、まだ残弾ありますよね。周囲を蹴散らすのも程々に、向こうに近づくことを優先しましょう。できるだけフナトを近づけないと」

「おう」

 近付いてきたシフは、フナトを引き連れている。フナトもこくこくと頷きつつ、近くの刺客を手早く逆向きの結界で閉じ込めていた。刺客は容赦なく刃も魔術も繰り出してくるが、こちらに許されているのは制圧だ。フナトの結界術は都合が良い。

 最初から国王陛下の元に置いておこうと試行錯誤はしたのだが、どうしても急に国王の元に近衛ではないフナトを置いておく理由付けができずに、近衛にフナトの術の一部を教えておくに留まった。

「先導する。悪いが防御は自分でな」

 俺がなるべく人のいない経路を駆け抜けていれば、攻撃魔術も飛ぶし刃も飛ぶ。先行してそれらを叩き落としつつ反撃し、切り開いた道をフナトとシフが続く。先程から飛び道具が多いことを考え、跳んでの移動は控えた。

 刃を纏った、もしくは尖った飛び道具が、自身のすぐ近くを掠めていく。命の危機というものを身近に感じるのは、これが初めてだった。

 貴族として、そういうこともある、と教えられて育った。加勢を頼む、と奇襲に際しての魔術補助に放り込まれたこともある。それでも、自分個人に対して殺意を向けられるのは、初めての事だった。

 一発食らってすぐ死ぬかと言われれば、体内の医療魔術がそれを許さない。それでも、千が一、万が一それらが命を奪うほどの威力で、効果的な部位に当たれば自身は今死ぬのだった。

 びしり、と背筋が凍り付いた。ガウナーにとって重い感情は伝えることはせず、今死んだって構わない準備はしてきた。

 ガウナーの姿が視界に入った。近衛が守りやすい位置にいながら、背に国王を庇っていた。刺客側も宰相は殺すな、と命じられているのだろう。宰相に庇われた国王には、その刃は届かない。

 その姿を視界に入れて、じわり、と感情が湧いた。

 隠してきた感情も、封じてきた言葉も、全部ぶち撒けてしまいたい。そうして、その後で、共に並んで歩きたいのだ。

「結界展開、終わりました!」

 フナトの記述が終わり、国王と宰相を囲む結界が完成した。多重に展開するそれは、薄く儚げに見えながら、展開直後から刃も魔術もきれいに跳ね返した。今度は一枚たりとも割らせません、そう宣言するフナトに呼応するように結界が脈動する。

 ほっと近衛から息が漏れる音が、届いたような気さえした。

 視界の端に刺客の中で、一番体格の良い男が動いたのがちらついた。身体を反転してその動きを捉える。

「複数の魔術攻撃、来ます!」

 記述式の魔術の展開の光が、反対側から視界を通り過ぎた。

 炎だ。

 多数の炎球が、国王諸とも近場に居る近衛まで巻き込むように降り注ぐ。発動時間の短さからすれば、周到に用意されていたのだろうことが窺える。

 ただ、準備していたのはそちらだけではない。炎も氷も雷も水も、考えつく限りの攻撃方法を、それらを打ち消す式を用意する時間は婚約者が頭を下げ続けて、十分に作ってもらった。

『はじめの音は紫から、一音ずつ駆け下りろ』

 その一瞬、妨害曲が鳴り止んだ。

 そして、鍵盤楽器の弦を全力で叩いた時のような音が、講堂に張り巡らされた音響を通じ、大講堂全体に鳴り響く。

 妨害の音ではない、これは魔術の発動音。先程までの不協和音ではなく、恐れを抱くあのいびつな音ではなく、叩き付けて心臓を跳ね上げるような、これは自分たちを生かす音だ。

 放火は最初から想定されていた。

 想定された上で、一瞬でその場の炎を消し尽くす方法として取られたのは、人物を魔術で保護した上で、燃えるための物質を一瞬その場から消す魔術だった。

 フナトの結界を講堂に仕込む際に、同時に組み込まれた魔術のうちの一つ。エウテルの音を合図に、大講堂全体に掛けられた隠蔽が解かれ、その一瞬だけその空気が変質する。

『そして赤に至り、我々は息吹を取り戻す!』

 結果、見事に一瞬でその場から炎はすべて掻き消えた。次の手段、とでも言うように滅茶苦茶に乱発される術が周囲を打つが、フナトの結界はびくともせず、国王は守られている。

 フナトも狙われていたが、自身を守る結界が一番強いというのは彼の言だ。

 体勢を崩された刺客が次々と捕らえられていく中、先程の体格の良い刺客はまだ動いており、随分こちらに肉薄していた。その男から国王を庇うように、その間に立った。刺客は一瞬動きを止めたが、立っているのが俺だということが分かると、にやりと僅かに口元を吊り上げた。

 刃が迫るのが分かった。そして俺はそのまま、動きはしなかった。

「ロア!」

 ガウナーの声は痛いほど耳に刺さった。どう魔術で守っても痛いものは痛い、と口酸っぱく言われた言葉を思い出した。

 腹に刺さる刃は、この世のものとは思えないほどの激痛を脳に刻んだ。しかもそのままひねるものだから、尚更だった。

 俺はその短剣の柄を、がしと掴んだ。

「待ってたんだよ。あんたが頭領だな」

 身体強化を発動させる。筋力を強化して、その短剣をその場に固定する。男は焦ったように腕を引こうとした。俺の腹からはだらだらと血が流れ出したり、鮮血が噴き出したりはしていない。この体には止血を始めとした医療魔術が、元々仕込んである。内臓を傷付けられれば修復に時間はかかるだろうが、失血はない。

 刺されても、一瞬で致命傷になり得る内臓を完全に破壊されなければ死なない、という前提で俺はここに居た。

 俺はその腕から、電流を男の体に流した。刺客はふらつくが、そのまま倒れ込むことはない。多少の魔術防御は仕込んでいたということだろう。

 俺と男の間で、刃を挟んでの攻防が繰り広げられる。俺があまりにも追い縋るものだから、男は短剣から手を離した。踵を返し、逃れようとする刺客に、俺は慌てて魔術を編もうとするが、痛みで頭が回らない。

 ぐっと拳を握りしめ、再度口を開こうとする。ここまでしておいて、逃したら刺され損だ。

「鎌鼬!」

 詠唱しかけた時、シフの声が近くで鳴った。見えない風は男の足元に絡みつき、男の体勢を崩させ、床に叩き付けた。

 魔術にしては極端に短いその詠唱は、練られに練られたものに感じられた。

 男が倒れ込んだ途端に、全体の時間が動き出す。指示を出す叫び声が耳に入った。

「結界張ります! 確保!」

「内部で気絶させろ!」

 もう大丈夫、と力が抜けると、更に深い激痛が身体を襲った。痛みに慣れていなければ痛みの衝撃で気を失ったりするかも、とも忠告されていたはずだった。

 やべ、と剣を抜けないよう固定しながら、口元に手を当てる。

「ロア、剣が!」

 男が完全に無力化された後、フナトに自身の結界を解かせてこちらに寄ってくる宰相閣下に、俺は更に顔が青褪めた。まだ残っている刺客がいるかもしれない、と怒鳴りつけたい気持ちよりも、おそらく痛みの衝撃の方が強かった。

 ふらり、と身体が傾ぐのを受け止められる。

「自身を囮にするなとあれほど言ったというのに!」

「…………まあ、怒るよなあ」

 俺だってガウナーがやったら怒るだろう、と思うような所業だった。

 それでも、抱き留められながらもどうしても気になってしまい、指先を僅かに動かして記述式の結界を発動させ、自分たちのいる位置に何重にも結界を張る。

 意識が遠のいていく中、身体を温かいものが包み込んだ。魔術ではないその術は、俺の痛みを和らげる。神殿で身体中を乾かしてもらった時の、あの感覚だ。

 神術の痕跡を辿って視線を彷徨わせる。こちらに駆け寄ろうとして、神殿付きの護衛に止められる大神官……ルーカスの姿が見えた。

 俺が驚きと共にゆるりと身体の自由を失う中、ガウナーはただただ俺を抱きしめ続けていた。

 

 

◇14

 覚醒は突然だった。

 死ぬことはなかったとはいえ、重症だった。腹に過剰なくらいに掛けられた、治療魔術の痕跡を感じて苦笑する。

 国王は無事だろうか、ガウナーに怪我はなかっただろうか、と顔を上げると、俺の胸のあたりで突っ伏して眠っている婚約者がいた。目の下には隈が染み付いているようで、記憶にある姿よりも顔色が悪かった。

 それでも、身体に異常はなさそうで、ほっと息を吐く。ガウナーがここに居るということは、国王にも大事はなかったということだろう。国王陛下も、王子殿下も、俺も死ななかった。頭領も確保された筈だった。それなら、今回の一件は大成功としても良いはずだった。

 重い拳をぐっと持ち上げた。俺もよくやった、筈だ。明らかに重傷ではあるが、頭領を確保できたのだからまだ刺された意味もある。痛みの衝撃に耐えられなくて気絶、というのは誤算だった。

「今度は痛みに慣れるとか……、言ったらぶん殴られるかね」

 こんな戦法は今回限りだ。止血諸々の数々の医療魔術を仕込んで貰って、こんな戦法を取ったとモーリッツの面々にばれたのだから、大目玉を食らうのは覚悟している。

 きっと家族は泣くだろう、と分かっていた。

 それでも、金甌無欠の宰相閣下が泣くとは思わなかった。俺は手を伸ばしてガウナーの目元に触れた。涙の跡があった。

「お加減はいかがですか?」

 涼やかな声色に、びくりと身を震わせる。そこに居たのは大神官のルーカスだった。呼吸を落ち着けて、口を開く。

「無事だったらしい。国王陛下は──」

「無事ですよ。王子も傷一つありません。大講堂に居た刺客達は、多少死にましたが、逃げられた者はいません。首謀者の貴族も、ほぼその日に捕らえられました。国王陛下と宰相閣下は、……いえ、サウレとガウナーはずっとその為の準備に、演習の日まで走り回っていましたから、当然といえば当然ですが」

 にこり、とルーカス大神官は笑って、座ったままベッドに突っ伏して眠っている、ガウナーの隣の椅子を引いた。

 神官服の長い裾を慣れた手付きで払うと、そのまま腰掛ける。

「近衛にも第二小隊にも、魔術式構築にも大怪我を負った者も、死者も出ませんでした。ロアが一番重傷です」

「おわ。……わー、ええと、ご迷惑を」

「ええ。医療魔術も効いています、私も神術で手を貸しました。傷はもう完全に塞がっていますよ。二日間眠っていたのは、魔力切れと、大量に魔術を仕込んだことによる身体の拒絶反応、激痛の衝撃に慣れていないがため、だったそうです。すぐ家にも帰れるでしょう、と」

 ルーカスは起き上がろうとする俺の背を支えて、身体を起こさせた。身を起こす時に痛みはなかった。傷は塞がっている。腹を撫でると、確かに包帯すらも巻かれてはいなかった。

 服を持ち上げればそこには痕はあるが、縫った様子もなく、ただ短剣の刺さった部分の色が変わっている。

 顔をあげると、ルーカスと視線が合った。その笑顔をじっくりと見つめると、あれ、と違和感を覚える。先日会った時のような毒気が何処にもなかった。

「あの、ルーカス。聞いてもいいか?」

「ええ」

 ルーカスはその問いを待ち侘びていたかのように、表情を輝かせた。神の作り給うた美貌に、人間らしい感情が灯る。

「ずっと、ガウナーはルーカスの部屋で何をしていたんだ? 何でルーカスの元を訪れていた?」

 ルーカスは、しばらく堪えるように表情をむずむずとさせていたが、やがて感情を噴き出した。笑みが乗った表情は、ほっとした様子だった。やはりそうか、と俺は内心頭を抱えた。

 神に愛されるような人間が、ああやって喧嘩を売るような言葉を吐くはずがなく、ガウナーの親友をやってきたような人間を、俺はもっと慎重に見るべきだったのだ。

「ガウナー、ええ、ガウナーですよね。私の部屋で何をしていたかって、そりゃあ相談ですよ」

「相談?」

 俺が問い返すと、ルーカスは子どものように答えた。

「『婚約者がつれない』『婚約者にキスをしたいがどうしたらいいか』『婚約者から好意を伝えられたことがない、嫌われているのか』とかそういったことを延々と喋りに、態々用事を作って大神官の部屋に来るんです。すごく迷惑でしょう?」

 こいつ、と眠っているガウナーを指差すルーカスは、今まで溜め込んでいたものを、ここぞとばかりに吐き出している様子だった。

「つまり、ええと、ガウナーとルーカスの間に身体の関係は無いと」

「ありませんね。伴侶としての好みとも別ですし、誰と交わろうと神はお怒りにならないでしょうが、私自身が一夫一妻の家庭で育ちましたので、奔放な質ではないのですよ」

 ぐるり、と異質な気がルーカスを包んだ。魔術ではなく、俺が倒れる前に、俺の身体を包み込んだあの気と同じものだった。それらがルーカスを包み込み、そして他所を拒絶している。

 言葉にするならば、神気とでもいうのだろう。全く魔力とは質の違うものだった。

「私は神に十分愛されていますので、ガウナーを求めるほど飢えてもいませんしね」

 ふふ、と微笑み、小首をかしげる仕草は芸術品のようだった。大神官は神に仕えるにあたって、体の色の大部分を失った。ただ、その色を纏ったルーカスは、誰よりもその色に馴染んでいた。

 色は失ったのではなく、それらは神に依って与えられたのではないか、と俺はぼんやり彼を見つめた。ルーカスの美しさは人形めいている。そして彼の色は、更に彼を人ならざるものに見せる。

「もう一つ、誤解があるかもしれませんが、貴方は本当に神託の上でのガウナーの伴侶ですよ」

「は?」

「ガウナーも誤解しているんですよね。確かに貴方の名前は『結婚するのに都合の良い相手』としてガウナーから聞いていました。ただ、それと神託とは別の話です」

 ルーカスは膝の上に手を揃え、脚を揺らす。俺は結婚に都合が良いだけの相手として選ばれ、神託だって偽物であったのだ、と思ってきた。

「ガウナーは私が気を回して、自分が気に入っている相手との結婚、という偽の神託を告げたと思っているようでした。しかし、神託は未来における事実です。ガウナーが貴方を気にしたから神託にまで発展したのかもしれませんが、神託は神託。そこに嘘はありません」

「気に入っている、相手?」

 恐るおそる自身を指差すと、ルーカスはこくりと首肯する。まさか、と否定しようとした俺の言葉は、ルーカスの言葉に遮られた。

「貴方だって分かっているでしょう。貴方と同じ立場の人間なんていくらでも居ると、宰相の伴侶にふさわしい候補なんていくらでも挙げられると。でも、ガウナーは真っ先に貴方の名前を私に告げた」

 ルーカスはガウナーの頭に手を置くと、乱暴にぐしゃぐしゃと掻き回した。にんまり、と笑う表情は悪餓鬼のそれだ。その表情を以ってようやく、彼がガウナーの、そしてサウレ国王の親友であったことを実感する。

「理由なんて簡単ですよ。単純に貴方が好みの顔だったとか、好みの性格だったとか、気になっていたとか、そういうことでしょう」

「…………ルーカス」

 むすり、とした声が下の方から響いて来た。起きていたのか、と俺が視線を向けると、ガウナーは居心地悪そうに身を起こす。途中までは本当に寝ていたのかもしれない。目元を擦ると、ガウナーはルーカスの背を容赦なく叩いた。

 ルーカスの薄い身体がよろめくのに俺は慌てるのだが、ルーカスは慣れたように体勢を立て直していた。

「いくら友人だからといって、言っていいことと悪いことがある。と、ロアの言葉を聞くに、私はルーカスとの浮気を疑われていたのか? これと? 浮気を?」

「貴方が相談と称した愚痴を喋りに、私の部屋に押し掛けるからですよガウナー。そんなことを繰り返さなきゃ、私もぶち切れて貴方の婚約者に思わせぶりな台詞を吐いたりしませんでしたよ」

「二日に一回もなかった」

「三日に一回でも貴方の顔は見たくないです。サウレも妃を怒らせた、と駆け込んでくるし」

「学生時代は毎日会っていただろう。サウレが泣くぞ」

「貴方達二人が肩を組んで押しかけてこなきゃ、私はもっと静かな学生生活を送れてましたね」

 騒動を起こしていたのはサウレだ、だの貴方だって大概ですよ、だのぎゃあぎゃあ言い合う様は、気心の知れた友人間のそれだ。話を聞いている限り、ガウナーが相談のためにあまりにも神殿に押し掛けるものだから、ルーカスが怒って俺に八つ当たりした、というのが真相といったところだろう。

 ああ、と俺は重く息を吐く。ルーカスに言葉で惑わされても、自分がガウナーに声を掛けていたら、こんなに悩むこともなかったのだ。

「と言う訳で、引っ掻き回したようなのは申し訳なく思っていますが……、私ももう鬱陶しさの限界で。ガウナーとサウレはこれから、しばらく大神官室に立ち入り禁止。神も貴方達に構い過ぎだとお怒りで、私、今からご機嫌取りしなければなりませんので」

 ぴしり、とルーカスはガウナーの鼻に指を突きつけると、立ち上がった。

 踵を返すその肩は、重荷が降りたというように軽いものだったが、後悔でも残るのか背がすこし丸かった。部屋を出る前に、ルーカスは思い出したように俺を振り返る。

「ロア。私は貴方に意地悪してしまうような嫌な人間ですが、気が向いたり困ったことがあったら、大神官室にいらしてください。私の立場が、貴方にとって役に立つこともあるでしょう。利用するのには立場のある良い人間ですよ、私は」

 俺がそうする、と軽く返事をすると、ルーカスはほっと息を吐いて、扉を閉めて出て行った。

 けしかけてはみたものの、思ったよりも拗れたから罪悪感を感じていたとか、そういった様子だった。今度、手土産でも持って、訪ねてみようと思った。

 本質的に悪い人間なのか、単純に今回の件がたまたま彼の逆鱗に触れてここまでのことを言わせてしまっただけなのか、どちらか判断するにはまだ尚早だ。

 まあ、ガウナーと長年友人をやっているのだから、後者なのだろう。

「ロア」

 扉が閉まったのを確認して、ガウナーが口を開いた。腕が伸び、俺の頬を掬う。

「君が生きていてくれて嬉しい」

 ぶわっと熱いものがこみ上げて、堪らなくなってガウナーに腕を伸ばした。ガウナーは寝台に乗り上がるようにして、俺を抱き返す。

 ぼろぼろと肩に雫が落ちた。慌てて顔を上げると、青い瞳から涙が滴り落ちていた。

「君が、自分を犠牲にするような行動をするのが、君に、そういう選択をさせた自分が腹立たしい。君が死んだら何が何でも後を追ってやると思った。……今は思い直したが、本当にひと時、そう思った」

 指先がきつく背に食い込む。手を離したら逃げられる、とでも思われているように、必死に彼は縋り付いてくる。ずっと欲しかった力強さだった。

 俺はただ、自分だけを欲しがられたかったのだ。

「私は、友人に名前を話すほど、君が気になって仕方なくて、神にまで見抜かれて背中を押されるような情けない男だ。君は私を買いかぶりすぎだ」

 瞳から涙をぼたぼた零す姿を、指先がかたかたと震えるほど緊張する姿を、支えたくなるほど肩が落ちる姿を初めて見た。

 数ヶ月前は何でも出来るんだろうな、なんて思っていた宰相閣下は、今このとき、ガウナーという人間だった。

「こんな私だが、私は君が好きで、君と結婚したい。………返事は、いつまでも待つから、ゆっくり考えてほしい」

 そう言って立ち上がろうとする腕を、咄嗟に掴んだ。驚いたように目を見開く、その顔を見上げる。

「返事って……、婚約者の守る何かのために命懸ける以上の返事がどこにあんの。俺、そんなに分かりにくい?」

 こんなに好意を示しているのを、口に出すのは恥ずかしい。顔に血が上ってくる。ガウナーが、無言で縋り付く俺の手を見つめていた。

 俺は掴んだ手を離すまいと、ぐっと力を込める。

「毎日部屋であんたと話すのを、楽しみに待ってた。恥ずかしいけど、触られるのも好きだ。あんたが別の誰かを好きになったら嫉妬する。何より、腹を刺されんのなんて怖いに決まってる」

 俺の体温が上がった顔を撫でたガウナーは、熱が籠もっているのを確かめるように耳に指先を滑らせた。

「好きじゃなきゃ、こんなぼろぼろになってない。こんなになっても、俺はあんたの婚約者でいたかった」

 居た堪れない、と服を握り締める俺の拳を、ふわりと体温が包んだ。強張った掌の力が緩む。伸ばした俺の手を受け止め、ガウナーは口元を緩める。

「……私は、愛されているのだと自惚れてもいいか」

「当たり前だろ。好きだよ、それと、俺もこんなだけど、結婚してくれ」

 俺が腹を撫でてみせると、ガウナーはぐっと言葉を切った。返す言葉に迷うように視線を彷徨わせ、ようやく声が絞り出る。

「こんなのは、これきりだ」

「そうなるといいな」

 悪戯っぽく俺が言うと、ガウナーは流石に声を荒らげる。

「ロア!」

「冗談だ。もうしない、きちんと相談する」

 けらけらと笑う間に、いつの間にかガウナーの涙は止まっていた。代わりに、俺を見つめる眼差しが優しくて、しばらくして、ほっとした俺のほうが泣けてきてしまった。

 子どものように泣きじゃくって、お互いに言いたいことを言い尽くした頃には、空は温かい茜色に染まっていた。

 

 

◇15(完)

 最近の俺は、この言葉に埋もれて生きている。

『モーリッツ代理、もう怪我は大丈夫なんですか?』

 国王陛下の襲撃事件に同席していた宰相の婚約者が、犯人を取っ捕まえるために医療魔術を万全に準備して刺されたあの一件は『国王陛下を庇って刺され、刺客を拘束した後に倒れた』と美化されまくった噂として盛大に広まった。

 国民には、婚約の事実は公にされていたが、お披露目式などをした訳でもなかった。そんな中で顔も知らない婚約者が刺され、ぶっ倒れて入院、更には国王陛下を庇ったという美談として脚色を加えられ、噂は国内外で、とんでもない勢いで語り続けられているらしい。

 国王陛下は俺に勲章だの金だの会食だのを寄越した上で、婚前旅行はしないのかと宣った。

 仕事が忙しい、とガウナーに切り捨てられるかと思いきや、俺と二人きりでの旅行に魅力を感じたらしく、気がつけば二つ返事で是非行きます、と返事をする婚約者の姿があった。役職上、視察やら会食やらも勿論仰せつかったが、基本的に国王陛下の別荘を借り受ける形での婚前旅行となりそうだ。

 そういう訳で、俺もガウナーも、襲撃事件が一段落したものの、今度は婚前旅行に向けて仕事を片付けるような毎日を送っている。

 宰相閣下は退院以降、非常にそわそわしていて落ち着きがなく、それでもこれまでの鬱憤を晴らすかのように俺に付き纏っては隙あらば抱き締めてくるようになった。何の理由もないキスの空気にも、やっと慣れてきたところだ。

 思い起こせば、実家では挨拶にキスが当たり前な家系なのだから、我慢せずに素で振る舞うとこうなるのかもしれない。若干鬱陶しいものの、逆にこれまでの猫でもかぶっているような宰相閣下よりも分かりやすく、俺の心労が溜まらないので、俺は素のガウナーを喜んで受け入れている。

 今日も早めに帰るので一緒に食事でも、といつもの装置が着信を告げ、俺は食べるところだった夕食を脇に、しばし読書に勤しんだ。しばらくすると玄関から、扉の開く音がする。

 おかえり、と玄関に顔を見せると顔を輝かせたガウナーはただいま、と俺を胸元に閉じ込めてキスを落とす。爪先を伸ばして同じようにそれを返すと、上機嫌なガウナーは、手を差し出す俺に上着と荷物を渡した。

「……早く結婚式になると良いな」

 魔術で荷物を飛ばす俺の横で、最近のガウナーは思い出したようにそう言う。どうやらガウナーにとって嬉しいことがあると、結婚できない程のことが起きたら、と俺が刺された時を思い出すらしく、その度に言葉が口をついて出るようだった。

 俺はその言葉を耳に入れる度に、手を握ったり抱きついたり、と、もうしませんという意思を示してみせるのだが、ガウナーは倒れる俺を今でも夢に見るそうだ。

 恋は盲目とはいえ、自分の価値を見ようともしなかった俺が悪かった。

「……まあでも、そこまで婚約状態なのが気になるなら、式の前に国への結婚の書類だけ先に出しちゃうとか。そうすれば届け上は家族、だしな」

 ぽつりと呟いた俺に、がばりとガウナーが顔を上げ、目をきらきらと輝かせた。

「いいのか!?」

「は? や、もう結婚してるようなもんだ……ろう?」

 あからさまに嬉しそうなガウナーに、もしかしてずっとそうしたいと主張されていたのか、と俺はようやく気づく。

 そうしてもいいか、と再度尋ねるガウナーに、こくりと頷き返す。そうか、式がとにかく先だから、制度上だけでも婚約者じゃなく伴侶になっておきたいという主張だったのか、あれ、と俺はこめかみを押さえる。

「今度届けを貰ってくるな?」

 気を取り直した俺がにこりと笑いかけると、ガウナーは嬉しそうに頷き、俺を抱き竦めて何度もキスを贈る。

 感情を抑えなければこうなるのだから、以前は余程我慢させていたらしい。

「ロア、食事はもう……」

「いやまだ」

 ぱっと破顔する婚約者に、笑いを噛み殺す。

 いや食事の前に一度、と頭が沸いたようなことを言うガウナーを宥めすかし、疲れてんだろ胃に物を入れてくれ、と力づくで食堂まで導く。

 その後風呂を一緒に入り、ベッドで今日は騎乗位でどう、と言うと、何故か顔を覆って悶えていたので、ガウナーの繊細な心情は放って置いてさっさと乗っかって腰を振った。

 
 

 珍しく気疲れしたようで、俺より先に寝てしまったガウナーの横で、俺はくふふと笑いながら幸せな眠りに就いた。

 きっと明日もまた、新しい何かが見えるのだろう。

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