一年に一度だけ、クロノ神が嘘を見逃すと言われている日がある。
春の訪れへの喜びか、それとも単なる気まぐれか。果たして実際に見逃されているのかすら分かりようもないものの、国民はその日を待って嘘を口に出す。
『今日だけは、神さまが見逃してくれるから────』
総じて国民はその日は浮き足立っている。何たって一年に一度のお祭りみたいな日で、誰もがここぞとばかりに嘘を口に出す。面白ければ面白いほどいい、与える感情が幸せであれば幸せであるほどいい。
職場の朝は普段よりにぎやかで、互いに朝一番の嘘を披露する場となっていた。広くはない仕事場に、妙な熱気が籠もっている。
「代理、今日はおれ。珈琲を淹れてあげないです」
そう言いながら机に珈琲が差し出される。近くにはそっと飴玉の包みが添えられ、俺は礼を言って受け取った。
いつも通りシフの淹れた珈琲は美味しく、飴玉の包みを開いて口に入れる。甘さの奥に妙なしょっぱさがあった。目を白黒させていると、目の前にいるシフがにたりと笑う。
「あー! しょっぱいの好きだなー!」
やけっぱちになって言うと、それです、とばかりにぐっと指先で丸を作られた。反応は及第点だったらしい。
俺たちの様子を見守っていたヘルメスが、手元にある包みを見て残念そうに言う。
「これ、代理に食べてもらおうと思ったんですが……」
悲しげな様子に同情した俺は、隣にいるシフを指差して、いけしゃあしゃあと言う。
「シフがヘルメスの飴たべたいって」
「そんな訳ないじゃないですか! ……いやこれ嘘じゃなくて」
わたわたと慌てているシフを、生贄よろしくヘルメスに差し出す。ぱあっと狂執的実験者の表情が明るくなり、いそいそと手元の包みを差し出してきた。
「そう? よかった。これは歌い出したくなる飴なんだけど、絶対に失敗しないよ」
「よりにもよって言い出す日が最悪だ……」
えぇ……、とシフは嘆きながら受け取り、意を決して口に放り込む。しばらくもごもごと顎を動かすと、うっと呻いた。
近くにいたツクモが、慌てて水を運んでくる。
「すごく酸っぱい…………」
うぇえ、と舌を出し、受け取った水ごと飲み下した。シフの反応を見たヘルメスは嬉しそうに拍手する。酸っぱさはヘルメスの仕込みだったらしい。
「で? これ歌い出したくなるの?」
尋ねると、ヘルメスは意味深な微笑みを残して席に戻っていった。実験されるだけされたシフは不安そうに水を見下ろしている。
今日は神殿で何らかの儀式が行われ、ガウナーもまたそちらへ出席している。早朝からばたばたと出て行った伴侶に今日特有のお遊びを仕掛ける暇はなく、王宮で会ったら嘘を仕掛けたいところだったが見掛けそうにもない。
家に帰ったら何を言おうかなぁ、と窓の外を眺める。王宮の庭は目に優しく、静かに新緑を身に纏っていた。
今日も平和だ、そう思いながら、ふわりと欠伸をした。
家に帰ってきた伴侶を出迎え、両手を開いてしがみつく。いつものように抱き返されて、ちゅ、と額に唇が触れた。
こういった日はさり気なく帰宅を早めてくれる傾向にあったが、今日も例に漏れなかった。
「今から俺、嘘を言うから」
「…………ええと、宣言しなくても私は勘づくと思うんだが」
わざわざ宣言する必要はあるのか、と目を見開いたガウナーに、すう、と目の前で息を吸い込んだ。たった一言を告げる。
「きらい」
「…………──」
ぴたりと固まり、そのまま動かなくなったガウナーを見て、案の定だ、と前置きが必要だと思った自分を褒め称える。
あの伴侶が、この言葉を急に受け止められる筈がないのだ。
首筋を捕まえて、その唇に向かって足のつま先を伸ばす。かるく唇を啄んで、ふっと笑いながら離れた。
「……予告、必要だったろ?」
「有難う。助かった」
はあ、と息を吐く伴侶の腕にいつもよりもべったりとしがみつき、腕から体温が逃れないようにする。
俺たちの間では、あまりにも珍しい言葉だ。こんど大喧嘩することがあったとして、俺は、嫌い、という言葉を口に出すのだろうか。
未来のことを考えるのは程々に、目の前の伴侶に寄り添った。
「今日、はいつもより距離が近いな」
嬉しそうに持ち上がる唇に、変わらない感情が見えてほっと胸を撫で下ろす。予告ありきなら、嘘の裏にある真実を見透かす余裕もありそうだ。
「じゃないと、あんた普通に誤解するだろ」
今日はしっかりとしがみついて、言葉では伝わらない感情を贈るつもりだ。隣から満足げに声が漏れ、俺に寄り掛かるように距離を詰めた。
浮かれた国民たちの吐いた嘘を見守る存在がどう思うかは、神のみぞ知る。