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まったく番になりようのない君との休暇 | 坂みち

まったく番になりようのない君との休暇

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※R18描写あり※
18歳未満、高校生以下の方はこのページを閲覧せず移動してください。
性描写が存在するキャラクターは全て成人済みです。
この作品にはオメガバース要素が含まれます。

【人物】
高嶺 七緒(たかね ななお)
都 章眞(みやこ しょうま)

高嶺 八尋(たかね やひろ) ……七緒の父/オメガ
高嶺 弓築(たかね ゆづき) ……七緒の父/アルファ

須賀 葵(すが あおい)   ……七緒の幼馴染み/オメガ
明月 賢吾(めいげつ けんご)……七緒の幼馴染み/葵とは番/アルファ

 

▽1

『七緒は、発情期、どうだった?』

 質問された時、不味い、と心中でぼやいて、幼馴染み相手なら誤魔化せる表情筋に感謝した。

 あの時、自分はなんと答えたのだったか。動揺していて覚えていないが、ふんわりとした言葉を返したのだろう。

 目の前では、講義を終えた幼馴染み……葵が帰り支度をしている。長めの休暇の直前に当たるその日は、向かいに同じく幼馴染みの明月が立ち、予定を話していた。

 二人は休暇の間、一緒に旅行らしい。彼らはアルファとオメガ、番関係にあり、兄達が同行はするものの、主に二人で行動する旅行、という甘酸っぱい休日となる。近くで聞いている僕のほうが、むずむずしてしまうような恋の駆け引きをしていた。

 ひょい、と葵がこちらを振り返る。ぽやぽや温室育ちのオメガは、帰宅直前だというのに無駄に元気だ。

「────やっぱ、七緒も来たらいいのに」

「馬に蹴られたくないよ」

 きっぱりと言い切って、明月に向かって両手を挙げる。付いていく気はありません、という意思表示だ。

 長身の幼馴染みは、ひらひらと手を振ってくる。

「諦めろ。高嶺だって予定があるんだし」

「でも…………」

 葵はうだうだと言っているが、明月に丸め込まれて頬を膨らませた。

 予定、と言われて憂鬱さが増す。今の僕には、長期休暇直前のあの浮かれムードは存在していなかった。

 僕は荷物を詰め終えた自分の鞄を持った。

「そっちはJ県の別荘地だっけ。いいな、涼しそうで」

「明月と葵はお兄さん達と街中のホテルだっけ。観光地が近くて楽しそうだよね」

 だろう、と明月は葵の肩を抱くのだが、胸元に近づいた葵はシャーッと猫のように威嚇して、僕の方へと駆け寄った。

 丸くて短い指先が、僕の両肩を掴んで背後に隠れる。

「七緒。ハンバーガー食べて帰ろう! 二人で」

「いいね」

 あはは、と笑いながら葵に押され、出口に向けて歩いていく。背後から長い脚が追いかけてくる音がした。

 靴音が、パタパタと軽快に床を叩く。

「二人だけはずるくないか?」

「「ずるくなーい」」

 声を揃えて言い、くすくすと笑いながら扉へと歩く。扉を潜った先には、大きく切り開かれた窓がある。

 鏡の中の自分と目が合った。細身だと言われる身体に、柔らかい髪は染めてもいないのに薄く光に透ける。

 昔から、顔が綺麗だと褒められることは多かった。クールな性格だと勘違いされがちな顔立ちは、馴染みの前ではついだらしなく緩んでしまう。

 ふっと視線を逸らして顔を上げると、真っ青な空が広がっていた。差した陽の眩しさに目を細める。

 足を伸ばして歩き出すと、背後から幼馴染み達がわいわいと騒いでいる声が聞こえてきた。

 本当は、幼馴染みの恋仲を邪魔してでもついて行きたかったのだが、根回しをしてきた明月が何度も懇願するので、折れることにしたのだ。

 連休は、僕も両親と旅行に向かう予定だ。それだけなら問題はないのだが、一人、同行者がいる。

「なあ。高嶺はハンバーガー、俺も一緒でいいよな?」

「七緒は俺と二人がいいもんなー」

 きゃっきゃと騒がしい二人に肩を竦め、人もまばらな大学の廊下を歩く。

 結局、バーガーショップまで明月はついて来たし、葵もそれが当然のことのように、三人での寄り道にはしゃいでいたのだった。

 

 

 

 両親との旅行前日、僕は自室で荷物を整理していた。出来上がった鞄を玄関へ置きに階下へ降りると、リビングから声が漏れている。

 顔を出すと、ソファに寝転がっている父さんがいる。父さんはオメガで、僕の基本的な造りは彼から引き継いだものだ。

 キッチンからパパが出てくる。手には額を冷やすための冷却シートが握られていて、ぺたり、と父さんの額に貼り付けた。

「パパ。父さんどうしたの?」

 ピピ、と電子音が鳴り、脇の下から引き出した体温計を見て、パパは息を吐く。

 パパはアルファで、古くからある会社を継ぐ経営者だ。

 涼しげな美形、と言われるような顔立ちをしており、会社で取り扱っている和服を着ていると、モデルか何かだとよく間違われている。

「熱出しちゃったみたいだね……」

 そんな端整な顔を心配そうに歪め、汗をかいたスポーツドリンクのペットボトルを手渡す。

 父さんはペットボトルを受け取ると、身を起こし、こくこくと飲み始めた。

「じゃあ、旅行は中止かなぁ……」

 ぽつりと呟くと、僕よりも焦り始めたのが父さんだった。誰よりも旅行を楽しみにしており、周囲の観光地や、別荘で食べる予定の食料品を手配していたのだ。

 パパは父さんの隣に腰掛けると、肩を抱く。

「八尋。気に病まなくていいから、体調を崩すことは誰だってあることだし、旅行はまた企画するから」

「うん……。でも、管理人さんに食料を運び込んでもらってたし、無駄に働かせちゃったなぁ」

 話を聞くと、管理人に選んだ食料を既に運び込んでもらっていたそうだ。

 明日、回収してもらって消費してもらうことは出来るのだろうが、数日分、しかも父さんの中では『ちょっと奮発した食料』だったそうで、肩はしょんぼりと丸くなる。

「あ」

「あ?」

 パパが何かを思いついたように口を開き、僕はその声に問い返す。

「都に連れて行ってもらうか」

「はぁ!?」

 パパの言う都。都章眞、というのは家族の他で唯一、同行者として数えられていた人物だ。

 パパの腹心とも呼べるような人物で、面倒見がよく、パパが持っていたグループ内の小規模な会社を今では複数社まとめて預けられている。

 年齢は僕とは一回り離れており、小さい頃から酒を飲んだパパを送りついでに僕たち兄弟の遊び相手になってくれていた。

 僕の、初恋の相手である。

 だが、良好だった関係には、少し前から暗雲が立ちこめていた。

「嫌だよ。僕、いま気まずいの知ってるでしょ……!」

「そりゃ、知ってるけど。でも、気まずいからこそ仲直りするいい機会じゃない」

 パパは平然とした様子で、兄弟たちを呼んだ。父さんが熱を出したこと、同行者が変わることを説明すると、兄弟たちは、あっさりと『じゃあ家に残る』と主張する。

 その場で友達と遊ぶ予定を立て、自室に戻っていく兄弟たちを、僕は黙って見送るしかなかった。

「────え? この流れ、僕と章眞さんだけで行くの?」

「長距離を運転できる人が必要だし。成人しても尚だらだら免許を取りに行かなかった七緒が悪いよ」

「章眞さんと、気まずい相手と二人っきりで旅行だよ?」

「まあ、いい薬になるんじゃないかな」

「劇薬だよ」

 僕が突っ込むと、パパは笑って電話を掛け始める。

 通話先は章眞さんのようで、父さんが熱でダウンしたことを伝え、『七緒だけ』を別荘に連れて行ってやってくれないか、と頼んでいた。

 僕は一つだけ離れたスツールに腰掛け、頭を抱え込む。

「いいってさ。電話代わる?」

「うん。貸して……」

 立ち上がってパパから電話を受け取ると、もぞり、と耳の横で髪が動いた。スツールへ座り直し、口を開く。

「こんばんは。章眞さん、あの、話は聞いたと思うけど……」

『おう。何か大変なことになってんな』

 電話の向こうから、朗らかに笑う声がした。

 予定を空けてもらった上に、気心の知れたパパは同行しなくなり、僕のお守りをさせてしまうことになる。それなのに、彼は昔からこうやって笑うのだ。

「兄弟も、それなら地元で予定を立てるか、って急に方針変えちゃって、行けそうなの……僕だけなんだけど」

『うん。でも、美味い飯がいっぱいあるんだろ。俺は手のかからない七緒ひとり連れてくくらい、なんてことないけど。…………そっちはどうだ?』

 急に、ひそり、と声が潜められる。何かを仕掛けるような声音に、首筋のあたりがそわっとしてしまった。

 電話機を持ち直し、仲直り、とパパが言った言葉を心の中で反復する。僕はまだ、失敗した初恋に縋っている。

「別に、いいけど。僕とじゃつまんないよ」

『なんで。七緒は俺とじゃ楽しくないのか?』

「そんなんじゃないけどぉ……」

 向かい側に座っている両親たちは、お互いの耳元に口を近づけ、何事かをひそひそと言い合っている。

 その表情が何処か小憎たらしく見えて、僕は早々に話を切り上げることに決めた。

「じゃ、行く。細かいことはさ、メッセージ送るから。いい?」

『はいはい。またな』

 僕は耳元から携帯電話を離すと、パパの膝の上に放り投げる。持ち主は急に投げつけられた携帯電話を拾い上げると、事務連絡を加えて電話を切った。

 はあ、と溜め息を吐いた少し後で、僕の携帯電話がメッセージの受信を通知する。

『聞き忘れてた。日程は予定通りでよかったか?』

「パパ。章眞さんが旅行の日程に変更はある? だって」

「好きにしていいよ。飽きたら早めに帰ってきたら?」

「そうする」

 僕は父さんにお大事に、と言うと、携帯を持って立ち上がった。自室に帰って、明日の細かな連絡を詰めたいし、連絡している間、にたにたしている両親を見ているのは腹が立つ。

 リビングを出て階段を上り、自室に入ってベッドへと倒れ込んだ。届いたメッセージに返信をしていなかった事を思い出す。

『長すぎて飽きたら帰ってきたら、ってパパが言ってた』

 送ったメッセージは直ぐに既読状態になり、返事が来る。

『飽きないと思うけどな』

 文字を見つめて、はあ、と息を吐く。僕がしたことを忘れきっているような態度だった。

 僕は、発情期に失敗した。

 自宅で匂いを変えてしまって、その時、偶然居合わせた章眞さんにフェロモンを届かせてしまった。彼の瞳の色に、本能が混じった一瞬を、よく覚えている。

 ただ、その時、彼は手元にあったペンを自分の脚に突き立てたのだ。血の色がスラックスに滲んで、どす黒く色を変えた。

 彼は自ら理性を取り戻し、続けて、大声で人を呼び、僕を別室へと隔離させた。怪我は大したことはなかったが、僕が勝手に気まずくなってしまったのはそれからだ。

 僕は、初恋の人を発情期に巻き込もうとした。そして、彼はそれを良しとしなかった。

「…………引っかかってくれたら、良かったのに」

 僕はオメガとして、彼を発情期に引き込むことができない。

 枕に顔を埋めて、滲んでくる何かを押しつけた。携帯電話からはメッセージが届いたらしく、通知音が響いている。

 枕で耳を挟み込むようにして電子音を遠ざけ、白い布の上で、僕は少しのあいだ嗚咽を零した。

 

 

 

▽2

 いつもの休日より早く起床して、風呂へ駆け込んでシャワーを浴びた。ドライヤーで髪を乾かしながらセットをして、自室に駆け込んで選んでおいた服を着る。

 ぺたぺたと日焼け止めを塗って、肌のトーンが明るくなるクリームを重ね塗りする。ふわりとした髪も整い、化粧台で顔を覗き込んでいると、早起きのパパが通りかかった。

「おはよう、七緒」

「おはようパパ。父さんは具合どう?」

「段々熱が下がってきたけど、解熱に体力を使ったみたいで、まだ寝ているよ」

 パパはまじまじと僕を見つめ、ふっと微笑んだ。その顔立ちに、今まで鏡の中で見つめていた顔との類似点をみる。

「今日はいつにも増して素敵だね。誰のためのおめかしなんだろう」

「……別に。隣にいる人間が遊ぶ気なさそうな服だったら、がっかりするかもって。それだけ」

「そっか。今日、朝ご飯は?」

「いらない。移動途中で食べるから」

 パパはキッチンへ歩いていき、スポーツドリンクのペットボトルを持って取って返す。洗面台での準備が終わり、廊下ですれ違った僕の頭を撫でると、思い出したように呟いた。

「そうだ。都ってさ。結構、年齢のこと気にしてるんだよね」

「年齢?」

「七緒と遊ぶとき歳が一回りくらい違うから、趣味が合わないかも、とかって。ほら、俺とのほうが歳は近いくらいだし」

 しばしばアラサー、と自称する章眞さんは、僕よりもパパとの方が歳は近い。腹心、というだけあって二人は気の置けない仲に見えるが、かなり年下の僕に対しては、一歩引いた接し方をする。

 わしわし、と頭が撫でられ、髪が揺れた。

「だから、もっと仲良くなりたいなら、七緒から押すんだよ」

「別に仲良くなりたくないし」

「まあ、それでもいいけど。旅行期間中は仲良くね」

 都が来たら教えて、と言い置いて、パパはスポーツドリンクを持って寝室へと向かっていった。

 僕はリビングへと入り、準備した荷物に忘れ物がないか再確認する。別荘付近の観光ガイドを読み込んでいると、チャイムの音が鳴った。

 ぱたぱたと駆け、インターホンからの映像を見る。扉の前に立っていたのは、章眞さんだった。

「おはよう。早かったね」

『おはよ。予定より前倒しになったけど、七緒なら余裕を持って準備してるだろうと思って』

「まぁね。いま開けるから待ってて」

 玄関へと駆けていき、扉を開けて章眞さんを出迎える。

 パパは美形だが、どちらかといえば静寄りだ。章眞さんは動、真反対の空気があった。

 濃い黒髪は清潔感のある長さに留め、からりと笑っている印象が強く、人好きのする朗らかな気質だ。

 ただ、普段はころころ変わる表情で気づきにくいが、彼が黙って読書をしている時の横顔は、はっきりとした顔立ちをより強烈に魅せた。

 章眞さんは、今日はポロシャツにジーンズ、首元にはサングラスが掛かっている。髪型もラフで、アウトドアに適した服装は清潔感があった。

 その眩しさに、目を細める。

「……お世話になり、ます」

「今更そんなこと言う仲じゃないだろ」

 ぽんぽんと僕の頭に手を乗せると、玄関先に置かれていた鞄を持ち上げる。肩に掛けると、奥から出てきたパパに向かって手を振った。

 彼が左手に持っていたビニール袋を差し出すと、パパは近づいてきて受け取る。

「おはよう、高嶺。八尋さんの熱はどうだ? スポドリと食べやすそうなゼリーを選んでみたから、余ったら家族で食ってくれ」

「わざわざありがとう。七緒のことも」

 パパはビニール袋の中を見て微笑むと、僕の背に手を回し、ぽん、と叩いた。章眞さんはにかりと笑って、僕の鞄を抱え直す。

「や。こっちこそ、若者に休暇の相手させて悪いな。用意してくれた食材は堪能してくるから、安心してくれ」

「いい酒も用意しておいたから、是非」

「助かる」

 パパは僕に封筒を渡し、章眞さんにも同じように封筒を渡そうとしていた。だが、相手に断られてしまう。

 僕は玄関で靴を履き、携帯電話を持っていることだけを確認して踵の位置を正した。

「これは俺の旅行だしさ。高嶺からは貰えない。七緒へのお小遣いだけで十分だって」

「え。これ中身、お金なの?」

「何だと思ってたんだよ」

 それなら、とパパは受け取った封筒を、僕に手渡す。

 僕の手元には封筒が二つ集まり、それでいいのか、と二人に視線を巡らせると、二人ともそれで良さそうな顔をしていた。

 空気に呑まれ、鞄の中に封筒を仕舞い込む。

「七緒、忘れ物は?」

「平気。何回も確認したから」

 そう言うと、背後からまた頭を撫でられる。せっかくセットした髪はもうぐちゃぐちゃだが、章眞さんは気にしてもいないようだった。

 もう、と呟いて手を外すと、彼は僕の荷物を持ったまま扉を開ける。

「じゃあ高嶺。大事なお子さんをお預かりします」

「よろしくお願いします。君以上に信用してるアルファはいないよ」

 僕は二人の空気に口を噤み、パパに向けて手を振った。確かに、息子がこなをかけても、自らを傷つけてまで守ろうとする人だ。

 一緒に旅行して、これ以上、安心して一夜を過ごせるアルファは他にいなかった。

「七緒。朝飯すぐ食べたいか?」

「……うん。お腹すいた」

 以前と同じように振る舞う彼の態度を見て、僕もまた、発情期より前を思い出しつつ対応する。

 章眞さんは真新しい車へ僕を案内すると、助手席の扉を開ける。

 乗り込んだ車内は黒を基調として整えられており、途中で飲んだらしいブラックコーヒーの缶がドリンクホルダーに置かれていた。

「車、変えたんだ?」

「変えた。昔の車、親から貰ったやつで税金が値上がりする年だったし」

 疎遠気味だった間に、車が新しく変わっている。そんな話してなかったのに、と心の中で拗ねながら、座席に背を預けた。

 運転の準備を整えている章眞さんは、ハンドルを握って僕の方を見る。

「本当はさ。車選ぶときに七緒連れてきて助言を貰おうかなって思ってたんだけど、なんか忙しそうだったし、俺だけで選んじゃった。どう?」

「僕、別に車の好みとかないよ。でも、座席は座り心地よくて好き」

「じゃあ良かった」

 忙しそうに振る舞っていた、のは発情期の出来事の後で気まずかっただけだ。一緒に車を選ぼうと思っていてくれたことも、いま初めて知った。

 シートベルトをきゅっと握り込んで、車を発進させる横顔を見る。

「シートベルト締めたな。じゃ、出発しまーす」

 彼は間延びした宣言をして、滑らかに車は発進した。

 手を伸ばし、見知らぬ車のカーオーディオを操作する。隣から口頭で教えてもらいながらラジオを掛け、また座席へもたれ掛かった。

 景色を見ているふりをしながら、ちらり、と運転する横顔を見る。見知らぬ音楽を耳に入れながら、デートみたいだ、って、きっと僕だけしか思っていない想像をした。

 

 

 

 途中、カフェでモーニングを食べ、車は市街地から緑の多い風景へと移り変わっていく。

 休憩で立ち寄る施設は観光に特化したそれで、割と大食らいな章眞さんは盛んに買い食いをしている。僕はといえば、一人分は多い、という感覚で、彼のおこぼれを貰っては色々な味を楽しんだ。

 周囲に見える風景が別荘地のそれになり、標高が上がって涼しくなってくると、運転手は窓を開けて空調を止めた。

 ぶわりと吹き込んでくる風は冷たく、日差しの暑さと相殺し合って丁度いい具合だ。持ち上がる髪を撫で付け、窓の外に視線を向ける。

 道路情報を伝え続けていたラジオは音楽に切り替わり、メロウな曲ばかりを流していた。

「暑い?」

「ううん。外の匂い、気持ちいいよ」

「そうだな。他人のにおいがなくて、自然の匂いだけだ」

 彼は機嫌が良さそうにハンドルを切る。他人の雑多なにおいを疎む発言は、アルファらしい感覚だ。

 パパも番ができるまでは、好みではないにおいに悩まされていたそうだ。ただ、両親が番となった時期は現在の章眞さんよりもずっと若かった。

 番持ちではない、僕の身近にいるアルファは今は彼くらいだ。

「アルファって気になるんだ。そういうの」

「七緒の周りにもいるだろ。ほら、明月家の……」

「いる。けど、今は番持ちだからさ」

 そう言うと、ハンドルに触れていた指がぴくりと持ち上がる。動揺したようにトントンと指先で表面を叩いていた。

 何故、そんなに動揺しているんだろう。不思議に思いつつ、言葉を待つ。

「え。そうだったっけ?」

「最近ね。ほら、葵……須賀家の子と仲がいいって言ってたでしょ。あの子が番」

「ああ。そうか」

 彼は呟くと、そわり、と妙な空気で居住まいを正した。運転は会話中もスマートで、脳の一部分の機能を切り離しているみたいだ。

「七緒は、別に明月の子のこと好きじゃなかった?」

「え。そういう発想自体がなかったな。昔から明月は葵のこと好きだったし」

「長年の恋が実った、ってやつか。羨ましいこって」

 彼が何に対して羨ましいと思っているのか尋ねたかったが、見知らぬ相手に嫉妬しているような気がして、どうにも口には出せなかった。

 車は道を登り、見知った別荘へと辿り着く。建物のシンプルながら洗練された佇まいは、別荘地の中にあっても浮くことはなかった。

「────到着。お疲れ様」

 荷物を運ぶために建物の前に車を横付けすると、彼はさっさと降車して僕の荷物を持ち上げてしまう。

「お疲れ様、はそっちでしょ。荷物ありがと、鍵開けるね」

 小走りで玄関に近づき、預かっていた鍵で解錠する。扉を大きく開けると、章眞さんが荷物を二つ抱えて入っていった。僕も後に続く。

 敷地自体は平均的な一軒家のそれだが、室内は使い勝手がいいように、家具も家電も新しい品が揃っている。

 別荘内は綺麗に清掃され、使用頻度が低い所為か、内部も真新しく見えた。広いキッチンへ入り、冷蔵庫を開けると、びっしりと食材が詰まっている。

「わ。食べ放題だなあ…………」

 僕がぽかんと呟いていると、荷物を置いた章眞さんが背後から近づいてくる。僕の身体を抱き込むように冷蔵庫の扉を掴み、覗き込んだ。

 ふっと彼の匂いがわかった。車内でもずっと、章眞さんの匂いがしていた。何日も二人きりだったら、別荘の中は彼の匂いしかしなくなるんだろう。

「ほんとだ。食べ放題」

 章眞さんは生ものと保存が利く食品を仕分けている。数を確認し、僕の方を見て、うん、と頷いた。

「七緒。これ食べ尽くしたくないか?」

「本気? 僕、戦力にならないよ」

「お前のこと、前々からもっと食わせたいなと思ってたんだよ。高嶺から欲しい食材は持って帰っていい、って言われてるし。持って帰る分は避けておいて、あとは食っちまおう」

 とはいえ、別荘での食事も多く、仕分けられて残った冷蔵庫の中身を見ると、予定していた日程なら実現可能にも見える。

 冷蔵庫の中身を見て、章眞さんは肉のパックを持ち上げる。

「昼、バーベキューやるか」

「あ。やりたい」

 外は涼しく、バーベキューセットも用意されている。僕が同意すると、荷物の簡単な整理だけを済ませ、食材と器具、炭を外へと持ち出した。

 建物の日陰になっている位置にバーベキューコンロを置き、周囲にアウトドア用のテーブルと椅子を並べる。

 僕が食材を運んでいる間に、章眞さんは火の支度を調えていく。大学時代にキャンプをする機会が多かったそうで、手つきは慣れたものだ。

 燃え上がった炎の上に、網が置かれる。

「早いね」

 僕は冷蔵庫から持ってきた冷たいビールを差し出したが、彼から腕でバツ印を返される。その場でぱちぱちと瞬きをして、持ち上げていた腕を下げた。

「休ませようとする気持ちはありがたいけど。昼から近くの観光農園に行かないか? 果物の収穫体験をやってるらしい」

「行きたい。でも、運転続きで疲れてない?」

「仕事ではもっと長時間の運転してるし、大丈夫だって」

 不要になったビール缶を持って別荘の中に取って返そうとすると、背後から声がかかる。

「七緒。俺、コーラがいいな!」

「分かった!」

 言われた通りに冷蔵庫から冷えたコーラのペットボトルを取り出すと、二本とも抱え、サンダルを突っかけて外に出る。

 冷えたボトルに付いた水滴が、服越しに張り付いた。日差しは暑いが、風が吹くたび体の表面が冷やされ、葉が擦れる音と匂いが届く。

 僕が持ってきたコーラを受け取ると、章眞さんは蓋を取って飲み口をこちらに向ける。僕もそれに倣った。

「「乾杯」!」

 ごっ、と一気に流し込むと、冷えた炭酸が喉の奥を気持ちよく引っ掻いて流れていく。その瞬間、びゅう、と勢いよく風が吹いた。

 髪が舞い上がり、ばさばさと肌を叩く。くすぐったさに心ごと浮ついた。

「美味いなー」

「ん。美味しい」

 章眞さんはペットボトルをテーブルに置くと、用意した具材を鉄網の上に載せ始める。じゅわじゅわと肉汁が落ち、表面の色を変えていく。

 焼き上がった肉は、僕の持った紙皿の上に積み上げられていく。

「章眞さん、遊んでるでしょ」

「この肉うまそうだから、いっぱいお食べ」

 にっこりと笑いつつ、最後の肉が積み上がる。塩こしょうとスパイスで味付けされた肉を口に運んだ。

 じゅわり、と脂が口の中で蕩ける。火傷しないよう口の中に息を送り、ぴりりとした刺激ごと味わった。

「おいひい……」

「良かった。俺も食おう」

 章眞さんも大きな口を開け、肉に齧り付く。あち、と熱さに驚きつつも、ぺろりと一枚を平らげた。

 空いたスペースに新しく肉を並べる。僕もトングを持ち、一緒に肉を裏返した。ぱちぱちと炭が爆ぜる音が届くほど、周囲は静かだ。

「なんかさ。ごめんね」

 そう切り出すと、僕の紙皿に肉が置かれる。早く食べなきゃ、と手をつけてしまって、言葉を保留にする。

 黙っている間も、章眞さんは肉を裏返していた。兄弟たちがいない二人だけの空間では、僕たちは静けさを共有できる。

「うちの兄弟たち。揃いも揃って友達と遊びに行く、って勝手なこと言ってドタキャンして」

「ああ、いいって。俺に気を遣ったんだろ」

「…………気を遣った? 来ないのが?」

 首を傾けると、章眞さんはあからさまに視線を泳がせた。口が滑った、とでも言いたげな態度に、顔を覗き込むのだが、手を振って誤魔化される。

 兄弟たちと章眞さんの仲も悪くなかった筈だ、となると、パパが言っていた『仲直りさせようとした』といった所だろうか。

 普段は気にしている様子も見せない兄弟たちだが、時おり聡いところを見せる。

「ほら。七緒、茄子とトウモロコシも食いな。うまいぞ」

「スピードが速い……!」

 文句を言うと、トングの動きは目に見えて遅くなった。焼き色の付いたトウモロコシに齧り付くと、しゃっきりとした食感と、ほのかな甘みが広がる。

 言われた通り美味しかったが、素直に認めるのは癪に障る。

「章眞さんもお肉食べようよ」

「食べてるよ」

 ふと、パパが言ったことを思い出した。年齢を気にしているから、仲を深めたいなら僕から押せ、というやつだ。

 椅子を抱えて近くに寄せると、座り直して紙皿を持ち直す。彼の顎の下に皿を添えると、持ち上げた肉を相手の口に運んだ。

「はい。あーん」

 ぽかんとした章眞さんに、いつもみたいに引いてしまいそうになる。けれど、僕が避けていた日々を、忙しそうだった、と言ってくれた相手と、もう一度、を望みたくなった。

 少し遅れて口が開き、そろりと肉を口に入れる。ゆっくりと咀嚼して、こくんと喉仏が動いた。

「美味い……」

 万感の思いが籠もったかのような余韻のある声音に、ふっと笑みを零す。もう一個、と美味しそうに焼けた肉を箸で摘まみ上げ、口に運んだ。

 食べさせようとすると、すっかり大人しくなって食べ進める。

「なんだか。……章眞さん、かわいい」

 ぽつりと言葉を零すと、黙って咀嚼していた大人の目尻が赤くなる。ぱたぱたと顔を手で仰ぐと、彼は鉄網の上の具材に向き直った。

 

 

 

▽3

 観光農園から持ち帰った果物を持って帰宅した頃には、もうすっかり夕方だった。

 夕食には買い置きされていたオードブルを食べようと決めており、キッチンのテーブルに華やかな食事が並ぶ。

 今度こそ章眞さんは食卓にビールを持ち込み、酒の肴と交互に気持ちよく喉を鳴らしていた。

「────採ってきた苺。洗って食べちゃおうか」

「食いたい」

 立ち上がろうとした章眞さんの肩を掴んで椅子に押しつけ、任せて、とキッチンへ入る。冷やしていた苺を取り出そうとした時、カステラのパッケージを見つけた。

 冷蔵庫を探索すると、生クリームも見つかる。切り分けたカステラと苺、泡立てたクリームを交互にグラスへ入れ、最後に一番見映えのする苺をてっぺんに盛り付けた。

 お盆に出来上がったトライフルを載せて戻ると、章眞さんの瞳が輝く。

「パフェ!」

「残念。トライフル」

「何が違うんだ……?」

 僕の持ってきたグラスを見つめ、彼は首を傾げる。デザートスプーンを手渡し、僕も自分のグラスを持って席に腰掛けた。

 ふわふわの生地に泡立てられたクリームが載っかり、苺の断面が鮮やかだ。

「何が違うんだっけね、忘れちゃった。いただきます」

「いただきます」

 彼はてっぺんの苺とクリームを掬い上げ、大きな口に入れる。んん、と声を上げ、表情が輝いていく様を面映ゆく見守った。

「美味い。自分で摘んだ苺だから尚美味い」

「ね。それ、章眞さんが摘んでたやつだよ」

「だよな。形がそうだなって思ったよ」

 ぱくぱくと食べ進める酔っ払いの方が、僕よりもずっと食べるスピードが速い。こちらはといえば夕食を食べ過ぎてしまい、少し余りそうな気配がある。

 椅子を持ち上げて近づけ、自分のグラスから苺を掬い上げる。僕が何をしているのか見守っていた章眞さんは、近づけられたスプーンで意図に気づいたようだ。

「なに? 俺に食わせるキャンペーン?」

 ふっと笑みを零しつつも、差し出された苺を口に入れ、美味い、と呟く。僕は美味しそうな部分を掬い上げ、またスプーンを口元に運んだ。

 二食とも完食となり、章眞さんはお腹を抱えて息を吐く。

「そういや、生クリームまだある?」

「そのままのやつも、泡立てたやつもちょっと余ってるよ」

「お。助かる」

 章眞さんは空になった食器を持って立ち上がると、コーヒーメーカーを動かして二杯のコーヒーを用意する。片方のカップは余った生クリームを浮かべて僕にくれた。

 僕はいそいそとリビングのソファへと移動する。リビングは色味としては多くなく、シックで落ち着いたデザインになっている。

 ただ、大きな窓が絵画のように部屋の中心として配置されており、今もレースカーテン越しに満天の星が見えた。

 カップを抱えて息を吐いていると、同じようにカップを持った章眞さんが近づいてくる。隣に腰掛けた酒好きのカップからは、コーヒーと一緒にお酒の匂いがした。

「ウィスキー?」

「そう。少しだけな」

 彼はコーヒーを口に含み、唇をクリームだらけにして満足そうに息を吐く。クリームがあるだけ甘いのだが、加えられた砂糖は多くなく、甘味後の舌を洗い流してくれた。

 隣にいる章眞さんと明日の予定を相談していた時、ポケットに入れていた携帯電話が着信を告げる。

 会話の切れ目に内容を確認すると、明月から葵とのツーショットが送られてきていた。

「これ。話してた明月と、その番の須賀の子」

「ああ。……双方ともご両親とは面識があるんだが、確かに似てるな」

「だよね」

 彼は画像を見ると、ぱちり、と瞼を開閉した。

「これ、隣の隣の県か」

「そうそう。この県とは、いっこ別の県を挟んだ先なんだって」

 章眞さんは僕の携帯のカメラを起動させ、内側向けのカメラをオンにする。長い腕が伸び、僕たちの姿がカメラに入った。

 合図に従って表情を作る。

「苺狩りでもツーショット撮っておけば良かったね」

「だな。七緒だけの写真ならいっぱいあるんだけど」

「無駄に連写してたやつでしょう」

 もう、と隣で文句を言っても、彼はどこ吹く風だ。僕は撮ったばかりの写真を明月に送り返した。

 そういえば伝えていなかった、と父さんが熱を出し、二人の旅行になった事も書き添える。

 明月からは速攻、といえるようなスピードで返事が届く。メッセージに目を通し、ソファに背を押しつけた。

「なんか。章眞さんと二人の旅行なの、すっごく驚いてるみたいだよ」

「そりゃなあ」

 含みのある言葉に問い返しても、目を伏せて答えてはくれない。カップに口を付け始めた動作に、それ以上、言及するのは諦めた。

 明月から、明日の予定は決まっているか、と質問が届く。隣に見せつつ、決まってない、と返事をする。

 ピコン、と鳴ってばかりの着信音がまた続いた。

『俺たち明日、ホテルから隣の県の遊園地に行くんだけど。そこ、高嶺にとっても隣の県だよな』

 確かに、彼がウェブページを添付してきた遊園地は僕がいる別荘地からしても隣県に当たる。

 僕たちと明月たちの宿泊地が、遊園地のある県を挟んで位置するような格好だ。

『そうだね』

『合流して一緒に遊んだりできない? 葵は、七緒が一緒じゃなかったの残念そうにしてたしさ』

 僕は黙って、携帯電話の画面を章眞さんに向ける。彼はさほど悩むこともなく、指で丸を作った。

「いいよ。車だと高速を使って、二時間までは掛からないくらいかな。他にも行きたい場所があったら乗せてくし」

 アクティブな方だとは思っていたのだが、即決された事といい、友達の友達的な人間と会うことに躊躇いがない事といい、宇宙人でも見ているみたいだ。

 気圧されながらも承諾の返信をすると、明月から集合時間を打診される。章眞さんに画面を見せつつ、返事をした。

「明日は七時起きか」

 彼はぐっとカップの中身を飲み干すと、キッチンから水のペットボトルを持ってきた。もう酒は打ち止めのつもりのようで、ペットボトルの大部分を一気に飲み干す。

 明日の予定を決める必要もなくなった僕たちは、部屋に配置してあるスクリーンを下ろし、スナック菓子をお供にプロジェクターで映画を流し始める。

 夜は早めのお開きだったのだが、章眞さんは早々にねむねむ状態になり、僕が寝る準備を整えて寝室に突っ込む羽目になった。

 やっぱり、大のおとなに何処か可愛さを感じたことは黙っておいた。

 

 

 

 アラームの音ではなく、人の立てる音で目を覚ます。僕がパジャマのまま音の出所であるキッチンに向かうと、章眞さんがコーヒー片手に立っていた。

 僕の姿を見つけると、寝起きでくしゃくしゃの髪をしたまま、くしゃりと笑う。

「おはよう七緒。コーヒーいる?」

「おはよう。牛乳いっぱい入れてほしい」

「おう」

 僕がダイニングにある椅子に腰掛けて待つと、章眞さんがマグカップを運んでくる。自分の家ではそれぞれ好きなものを飲んでいるが、彼に付き合っているとコーヒーの頻度が増す。

 僕にとってコーヒーは、まだ、ほんの少し苦い。礼を伝えて受け取り、牛乳たっぷりの色味に安堵して口をつけた。

「朝飯さ。道中にフレンチトーストが美味い店あるらしいんだけど、好きか?」

「うん。すっごく好き」

「じゃあそこにしよう。三十分くらい移動したら着くから、それまでに腹減りそうなら何か入れておいて」

「分かった。けど、コーヒー貰ったから平気だと思う」

 時計を見ると、まだ六時台だった。窓の外の景色を眺めながら、二人でのんびりと一杯のコーヒーを飲む。

 換気のためか少しだけ開いた窓からは、時おり鳥の声が届く。ピチピチという鳴き声の間、なんとなしに会話を止め、その声音に聞き入った。

「章眞さん、アラームで起きた?」

「いや。昨日は寝心地よくて、アラームも掛けず、ぐっすりだったな」

「寛げてるなら良かった」

「ああ。…………七緒はオメガだし、長い時間、一対一で一緒に過ごすなんて緊張するかも、とか思ってたけど、杞憂だったな」

 きょとん、と目を開くと、章眞さんは気まずそうに顎に触れる。どう説明したらいいものか、と思考を巡らせているようで、視線がゆらりと揺れた。

「別荘内、今、割と俺の匂いがするのな。無意識に、フェロモンまではいかなくとも、匂いを強めてしまってるらしくてさ」

「まあ……。分かるかも、他の人の匂いはしないね」

「だから、今この別荘内、って俺のテリトリーって感覚で、そこに他人を置いて寛げるか不安だった。……って言うと、伝わるか?」

 こくん、と頷いて、無意識で息を吸う。彼の匂いしかしない空間で、僕は昨日、ぐっすり眠ってしまっていた。

 力で制圧することのない人だ、と僕は彼を知っている。彼の手の内に入ることは、僕にとっても同じく、安堵だった。

 のんびりと過ごすうちにカップは空になり、僕は差し出された手にカップを預ける。キッチンへ去って行く後ろ姿を見送って、すう、と息を吸い込んだ。

 起きたばかりで、すこし眠たくなってしまったのは秘密だ。

 

 

▽4

 レトロで雰囲気のいいカフェで朝食を食べ、少し長い運転を経て僕たちは遊園地へ辿り着いた。

 駐車場に車を停め、外に出るとぎらぎらとした日差しが肌を灼く。お互いに帽子を被り、忘れ物がないか確認して車から離れた。

 キャップを被った章眞さんは、手がけている会社製のシャツとジーンズという装いで、適度に焼けた肌も相俟って爽やかなお兄さんといった風貌だ。

 僕は肌が弱く、細身のパンツと薄い色味の襟付きシャツの上に、パーカーを羽織っている。並んで立った姿が、他の車の窓に映っては過ぎる。

 他の人から見れば、恋人、に見えるんだろうか。自分の顔がどうにも幼げに見えてしまうような気がして、つい鞄のベルトを握り込んだ。

 遊園地の入り口に近づくと、こちらに向かって盛んに手を振っている姿がある。僕たちが近づくと、だっと駆け寄ってきた。

「七緒! 久しぶり……!」

 僕に飛び付いてきたのは葵で、章眞さんはやや面食らったような顔になる。小さな背をぽんぽんと叩き、葵の背後から近づいてきた明月にも手を振った。

「おはよ、葵。でもたった二日振りだよ」

「そうだっけ? 長く感じてた」

 ぎゅう、と僕を抱き締め、葵は身体を離す。そして章眞さんに向き直ると、軽く頭を下げた。

「おはようございます。俺、須賀葵っていいます」

「これはご丁寧に。都章眞です」

 葵が雑に差し出した手を、章眞さんはゆっくりと握り返す。

「明月賢吾です。葵とは番同士で」

「ああ。その辺りは七緒から聞いてるよ。仲良し三人組に混ざることになって悪いな」

「いえ。こっちから誘ったことですし、都さんとは幼い頃に面識もあるんですよ」

 明月の言葉に、章眞さんは驚いて相手を見つめる。二人の間で話が進んだ内容によると、明月は数年前、まだ社会人になりたての章眞さんに会ったことがあるそうだ。

 大きくなったなぁ、なんて典型的な会話を、隣から葵にちょっかいを出されつつ見守る。

「都さんって年上なんだ?」

 隣から腕を引かれて尋ねられ、うん、と頷く。

「割と上、かな。一回りくらい違うから」

「え、そうなんだ。あんま分かんないもんだな」

 二人の話が終わると、合流して入場ゲートまで歩き始める。自然と前に出た章眞さんは、券売機でさっさとフリーパスチケットを四枚買うと、僕たちにそれぞれ手渡した。

 僕はいつものこと、と礼を言って受け取るが、明月と葵は少し戸惑っている。

「え、っと。高いですし……!」

「俺たち、出しますよ」

「いいっていいって」

 僕はまだ食い下がろうとする二人の背を押し、チケットの確認場所まで歩き始めた。こうやって食い下がっても、章眞さんが譲ることはない。

「章眞さん。うちのグループ会社いくつか任されてるくらいの人だから、金銭面はあんまり気にしなくて大丈夫だよ」

「そうなの……!?」

 悲鳴のように言う葵の手から、スタッフさんがチケットを確認し、腕にリストバンド式のフリーパス証明書が巻かれた。

 ゲートから吐き出された僕たちは、人の流れに沿って一番近くにある空中ブランコに近づく。

「苦手な人ー」

 明月が音頭を取ると、全員がそこまで苦手ではない、という意見の一致を見る。開園直後のまだ短い列に並び、スタッフさんの案内に従って椅子へと腰を下ろす。

 帽子を脱いで持ち物の確認をし、身体を固定する器具のチェックを終えると、馴染みの音楽が流れ始めた。ふわふわと地面から座席が浮き始める。

「うわぁ……」

 葵の間の抜けた声が届く。座席が高所へ届くと、ぐるん、とブランコは回転を始めた。

 別荘の近くとはまた違った匂いのする風が、髪を跳ね上げる。

「うわー!」

 誰のものかも定かではない悲鳴が聞こえ、声が混ざり始める。みな好き勝手に叫んでいると、やがて回転の速度が緩み始めた。

 最後の方は気持ちよく座席が回り、やがて低い位置へと移動が始まる。スタッフさんに留め具を外してもらうと、脱いで仕舞っておいた帽子を被り直した。

「怖かったー! 七緒は平気だった?」

 怖かった、と言いつつご満悦の葵に微笑み返す。

「大丈夫。楽しかったよ」

「次、ジェットコースター行こ!」

 はしゃいでいる葵の横で、明月が園内マップを開いた。ああだこうだ、と道順を章眞さんと話し合い、最寄りの屋内型ジェットコースターが指さされる。

「順路的には最寄りはあれ」

「行くかぁ!」

 葵は明月の腕を抱きかかえると、そのまま引き摺るように歩き出してしまう。番になる前は明月から葵を確保していたような気がするが、番になってからは逆も増えた。

 脚を踏み出しながら、繋がれている腕を見つめていると、隣から声が掛かった。

「七緒も繋ぐかー?」

 茶化すような響きに、戯けるような仕草で伸ばされる手。きっと僕がにべもなく断って、それを笑うことを期待されている事に、ひっそりと腹を立てた。

 浮かべられた手を、二人の真ん中で捕まえる。

「うん。繋ごうかな」

 きょとんとした章眞さんの手を、ぐい、と引き、振り返って舌を出す。

 僕のこの行動だって茶化しているのだ、と嘘っぱちな意思を伝えて、染まった顔を見られないよう向き直って帽子のつばを下げた。

 繋いだ手の温度がこの天気では暑すぎて、じんわりと汗が浮く。

「七緒」

「なに?」

「俺の手、熱くない?」

 熱いよ、と言い返そうとして、思い留まる。正直に答えたら、繋いだ手が離れてしまうような気がしてしまった。

 うーん、と悩むように声を出して、ゆるりと腕を振る。

「じゃあ。手、放したら?」

 相手に選択権を委ねて、それでも僕の手はやんわりと彼の手を握り込む。放さない、という訳でもなく、突き放す訳でもない距離感で、僕たちは言葉少なに歩き続けた。

 屋内型ジェットコースターの待機列に辿り着くと、日陰になっていて涼しい。前ばかり見ていた明月は何の気なしに背後を振り返り、僕たちの手を凝視する。

「高嶺って誰かと手、繋ぐんだな」

「葵とは繋ぐじゃん」

「まあ、かわいこちゃんズはノーカンってことで」

 明月の視線につられて振り返った葵は、特に気にすることなく番の腕を引く。

「賢吾って俺のこと、かわいいってカウントなんだ?」

「まあな」

「へえ。七緒は分かるけど」

 な、と同意を求められても、僕に『自身をかわいいと認めろ』と言われているようでむず痒い。

「七緒はどっちかっていうと、綺麗系じゃないか?」

 隣にいる章眞さんから更に追撃され、困って眉を下げてしまう。二人を交互に見る僕の様子に同情したのか、明月が口を開く。

「まあ、他から見た印象は綺麗寄りなんだろ。あんまり親しくない奴らから『クールでミステリアス』みたいな言われ方してるの聞いたことあるし」

「でも七緒ってミステリアス、って言われる割に顔に出ない?」

「あー。出るよな」

 幼馴染みたちの会話に、章眞さんまでもが、分かる、と言いたげに頷いている。横から非難するように繋いだ腕を振ると、反対側からゆったりと振り返された。

 顔を上げると、細められた目元と視線が合う。

「なにニヤニヤしてるの……!」

「いや。友達といる七緒を見るの初めてだから、微笑ましい気持ちになってる」

「そ、そう」

 気まずさに視線を逸らしていると、くい、と手を引かれる。

「ほら。進むぞー」

「はぁい…………」

 僕らしくもない気の抜けた返事をして、導かれるままに歩き出す。室内型コースターだけあって階段を上った先に乗り口があり、座席に乗り込む時に手は離れてしまう。

 また、繋ぐ機会はあるんだろうか。寂しく思いつつ、こっそりと体温の名残を噛み締めた。

 

 

▽5

 昼食は日除けパラソルのある屋外席を確保し、明月と章眞さんが二人で買い出しに行ってくれることになった。

 僕は自分の日焼け止めを塗り直しがてら、近くにいる葵の汗を拭き、同じように日焼け止めクリームを塗る。朝は明月が塗ってくれたそうで、赤くなっている箇所もなかった。

 買い求めたペットボトルから水分補給をしていると、葵がなんだかそわそわと手を動かす。ペットボトルの飲み口から唇を外し、蓋をした。

「あの、さ……」

「うん。どうしたの?」

「都さん、って、昔から七緒が話してくれた『父親の友人』だよな?」

 微妙に視線が合わず、葵は緊張しているように声が上擦っている。彼の意図が飲み込めず、素直に頷いた。

「そうだよ。名前、言ってなかったっけ?」

「覚えてないだけかも。……それで、都さんって、七緒の、……番候補?」

 がたん、と指先からペットボトルを取り落とす所だった。驚いて目を見開く僕に、葵は困惑した視線を向けている。

 慌てて胸の前で手を横に振る。

「ちが……! 違う、本当にパパの部下で友達、なだけだよ……!」

「そう、なのか?」

 釈然としない、というような幼馴染みの様子に、きゅ、と太股の上で指先を握り締める。普段は世話を焼いてばかりの幼馴染みだが、彼は既に番を得ている。

 僕よりもずっと、恋に関しては先輩だ。

「僕が、長いこと片思いしてるだけ」

 予想通りに反応ではあったが、しん、と静まり返られると居心地が悪い。僅かずつ視線を逸らしていると、ずっ、と椅子ごと近付かれた。

 伸びてきた両手に僕の手が取られ、持ち上げられる。つられて顔を上げると、きらきらと瞳を輝かせる幼馴染みがいた。

「やっぱりそうなんだ……!」

 葵はきゃあきゃあと言い出さんばかりに興奮した様子を見せ、握り込んだ手を振る。

 端から見ていれば可愛らしい仕草だが、話題の種になる恋話は僕のものだ。腕が捕まって逃げられもしないのも、都合が悪かった。

「向こうは年上だしさ。特に、番候補、って感じじゃないから。何もないよ」

 僕がそう言うと、葵はしゅんと肩を丸める。言いたくないことを言わせてしまった、と思ったらしい。

「確かに、大人だな、っていうか……。賢吾も年齢にしては落ち着きがあるほうだけど、章眞さんって、ずっと朗らかに見えるのに、俺たちも含めて目を配ってて、人生経験の差を感じるよな」

 賢吾は葵を見ているし、世話も焼いているが、そんな二人も含めて遊園地での行程が滞りなく進むように目を配っているのが章眞さんだ。

 かといって、僕に対しても普段と変わらず接してくれる。

「だよね。ずっと、そんな感じ。親戚のお兄ちゃん、のまま……、変わらないんだよなぁ……」

 ぽつんと呟いて視線を下ろすと、風が吹き、座席に設置してある日除け用のパラソルがくるりと回った。影がそれを追うように回り、少し遅れて停止する。

 きゅ、と繋がれた指先は離れない。物心ついたときから、ずっとだ。

「────俺。賢吾に番になりたいって言われたとき、すごく、びっくりした」

 降り注ぐ声音に、大人びた色が混ざる。幼馴染みには、番がいる。誰かと過ごす発情期を知っている。

 幼馴染みは、二人とも、僕を置いていってしまった。けれど、それでいて尚、こうやって僕と手を繋いでくれる。

「七緒はきっと相手に好きだって言ってないだろうから、まず、そこからなんじゃない?」

「……好きだって、伝えてから?」

「そう。俺みたいな『ぼんやり』はいっぱいいるからさ」

 ほら、と繋いだ手が持ち上がって、手遊び歌でも唄うように上下に振られる。頑張れ、とエールを送られるような、ふんわりと浮かぶような心地だった。

 僕たちがそうやっていると、背後から声が掛かる。

「お待たせー!」

 トレイを二つ持った明月は、片方を葵の前に置く。その様子を見守っていると、僕の前にもトレイが置かれた。

 顔を上げると、章眞さんが腕を振っている。

「ありがと」

「どういたしまして」

 二人ともうっすらと汗を掻いており、座席から少し離れた場所で身体を拭い、スプレーを掛け合ってから戻ってきた。

 買い出しをしている間に何があったのか、二人の間の空気が、僅かに気安いものとなっている。

 戻ってきた明月は、自分のトレイからジュースを持ち上げて喉に流し込んだ。そうして、それぞれのトレイを指差す。

「葵はテリヤキで、高嶺はフィッシュバーガーだったよな」

「美味そう……! いただきます!」

 葵は飲み物を口に運ぶと、さっさとバーガーの包みを持ち上げる。僕は先に、添えてあるポテトに手を伸ばした。

 明月と章眞さんは示し合わせたかのように、肉が二段になっているビッグサイズのバーガーの包みを開いている。

 自分のハンバーガーを囓り、屋外で食べる食事に舌鼓を打つ。半分ほどを食べ終えた僕が章眞さんのバーガーを何の気なしに見ていると、彼は包みを回転させ、まだ囓っていない部分を上に持ってくる。

 その状態で、僕に差し出してくれる。

「食べたい?」

「…………。うん」

 要らないよ、と以前の僕の反応が頭に浮かんで、それを押さえつけ、真反対の言葉を口に出す。

 今の僕は、恋をしている彼が食べたいと思ったものを共有したい、のだった。

 口を開け、近づけられた大きなバーガーに齧り付く。彼のひとくちと比べれば小さな歯形が、半円の生地を囓り取った。

 魚を主体としたバーガーとは真反対で、口の中に肉汁が溢れる。

「美味しい」

「だろ。そっちもくれる?」

「いいよ」

 包みを持ち上げ、口の付いていない位置を上に持ってくるよりも先に、彼の顔が傾いだ。大きな口が遠慮がちにハンバーガーを囓る。

 アルファは匂いの好みにうるさい。オメガの匂いがするものを臆せず食べようとしてくれるくらいには、まだ僕にも望みはあるんだろうか。

 離れていく端正な顔立ちを、ぼうっと見守る。

「美味いな。ありがと」

 章眞さんはポテトフライでなくオニオンリングを選んだようで、そちらも一つくれる。続けて、明月や葵にもどうぞ、と配っていた。

 胸もお腹もいっぱいになった僕は、もそもそと両手で持ったオニオンリングを咀嚼する。

「そういや、葵、高嶺。飯も都さんの奢りだから、感謝して食べるんだぞ」

 明月はオニオンリングすら、一口でぱくりと食べてしまう。

「はは。後で明月が全員にアイス奢ってくれるらしいから、それも楽しみにしておこうな」

 章眞さんは笑いながらそう言い、アルファ二人の間にはそういった約束が交わされていたことを知る。

 彼が年下や部下にお金を出させないのは今に始まったことではなく、僕は葵と礼を言ってポテトに手を伸ばした。

「章眞さん。奢りたがりだよね」

「だって七緒と会った頃はまだ小さくて、アイス一つで大喜びするんだぞ。貢ぐ喜びを覚えちまったなぁ」

「ごめんね。育ちきった今じゃ大喜びしなくて」

「嬉しがってるとこは変わらないだろ」

 ポテトを彼に差し出すと、平然と腹に収めてしまった。ハンバーガーも大部分が消えており、あっさり完食しそうだ。

 僕たちは実にならない会話の合間に食べ進め、トレイの上を空にする。バーガーショップにトレイを返却し、次の乗り物を相談しつつ歩き出した。

 移動の途中、園内キャラクターをモチーフにした被り物を取り扱っている店に通りかかる。葵が興味を持ち、涼しい店内に滑り込んだ。

 幼馴染み達は被り物がしたいようで、猫耳のように見えるカチューシャをいくつか頭に添えて選び始めた。

 僕の背後から、両肩に手が乗る。振り返ろうとすると、章眞さんから前に押される。

「ほら、七緒も選ぼうな」

「に、似合わないって……」

 彼はネコとウサギをモチーフにしたカチューシャを持ち上げると、僕の頭に近づける。章眞さんの中では、どうやらウサギに軍配が上がったようだった。

 さっさと買いに行こうとする背後から服を掴む。

「僕に付けろって言うんなら、お揃いだよね……!?」

 レジの横では、店員に値札を外してもらい、早々にネコ耳カチューシャを被った幼馴染みたちの姿がある。

 章眞さんは彼らを見やり、躊躇うように視線を彷徨わせた。顎に手を当て、数十秒考え込んで、こくん、と頷く。

 言質を取った僕は、ウサギ耳の色違いを一つ棚から持ち上げた。彼は二つともをレジに持って行き、支払った後でわずかに丸まった肩と共に戻ってきた。

 値札を外してもらったカチューシャを付け、置かれている鏡に全身を映す。

「似合う?」

 僕に隠れるようにカチューシャを被った章眞さんに問いかけると、ぱぁっと表情が明るくなった。

「すごく似合う」

 店を出ると、ファンタジー世界にある小さなおうちの外観をしたショップの前で写真を撮ろう、と葵に誘われた。

 章眞さんがカメラマンを買って出ようとするが、明月は平然と自撮り棒なる文明の利器を取り出し、全員に近づくよう指示する。

「撮るぞー。三、二、一……」

 パシャリ、とシャッターが切られ、ややぎこちない笑みの大人ごと写真に収まった。

 それから僕がカメラマンになって明月と葵を撮り、交代して僕と章眞さん、と組み合わせを変えて写真を撮ってもらう。

「明月。あとでその自撮り棒の型番教えて」

「いいけど。七緒も欲しいのか?」

 意外そうに言う幼馴染みに、こくんと頷く。

「章眞さん。僕だけ撮って自分は写らないから」

 隣で聞いていた章眞さんは、気まずげに頬を掻いた。

「七緒だけ写ってればいいだろ」

「ぜんぜん良くないよ」

 ぽす、と相手の背を叩いて歩き出す。少し遅れて付いてくる章眞さんは、やっぱり釈然としないようだった。

 猫かわいがりされているのは理解しているのだが、猫の方も飼い主の写真が欲しいのだと何故わかってくれないんだろう。彼は自分が愛情を向けられることを想定してくれない。

 暑い、と顔を手で仰いで、青空を見上げる。太陽の日差しは、照らされることを知らないかのように強い光を放っていた。

 

 

 

 乗り物を全部制覇する勢いで歩き回った僕たちは、最後にはへとへとになりながら夕方のパレードを鑑賞した。

 閉園時間ぎりぎりまで滞在し、遊園地を出てからは二人を最寄り駅まで、章眞さんの車で送ることになった。

 葵は後部座席にておねむ状態で、明月にもたれ掛かりながら船を漕ぐ。僕も眠気に目が細まりつつも、ラジオやカーナビの操作で覚醒を保っていた。

「────都さんって、番はいないんですよね?」

 ふっと明月の声が浮かび上がって、僕は身体の反応を誤魔化すように飲み物のペットボトルへと手を伸ばす。

「いないなー。仕事し始めてから、七緒の父親に付いていくので精一杯で、気がついたらずるずると」

「へえ。モテそうなのに」

「そうか? パブリックイメージほど社長ってモテないぞ。番も仕事に巻き込むから」

 興味なさそうに前方に視線を向けるが、そわそわとした自分が映ってしまった。ゆっくりと、瞬きをする。

「いい人はいないんですか?」

「…………。そこは、運命に任せてるよ」

 明月は章眞さんの回答に対して面白そうに息を吐き、とすん、と座席に頭を預けた。隣にいる葵を見下ろし、掌を重ねる。

 その何でもない仕草が、ひどく羨ましくて仕方がなかった。

 遊園地から最寄り駅までは近く、案内に従って乗降場へと車を停める。明月は葵を起こすと、荷物を持って車から降りた。

「お世話になりました」

 丁寧な礼とともに頭が下がり、隣で葵も同じように礼を言う。

「ホテルまで気をつけて帰るんだぞ」

「また学校で」

 僕が手を振ると、二人も手を振り返してくれる。車は名残を惜しむようにゆっくりと発進した。

 連休中の駅は人で溢れており、みな楽しそうに帰宅していく。家族、恋人、と二人連ればかりを目が追ってしまった。

「章眞さんはさ」

「うん」

「どういう人を番にしたい、って思うの?」

 うーん、と考え込むような声の後で、彼は長いこと沈黙した。夜の道は車のランプが次々と横を通り過ぎていく。

 無機質にも思える道路情報のアナウンスが、ラジオを通して間を埋めた。

「俺が好きになった人、かな」

「好みのタイプは『やさしい人』みたいな回答だね」

「辛辣だなぁ」

 覚悟をして尋ねた割に、茶化されて終わってしまった。いつもこうだ、と諦めを覚えつつも、葵の助言が蘇ってくる。

 好きだ、と伝えていないなら、まだ始まってもいないんじゃないか。

 高い位置にある道路を通り様に、街の明かりが絨毯のように眼下に広がった。いくら努力して光ったとして、目を向けてもらえなければ記憶にすら残れない。

 彼の視線は進行方向ばかりを見て、街の明かりには一瞥もくれなかった。

 

 

 

▽6

 浅い眠りの夜、夢を見た。

 吐く息は熱く、ぜいぜいとつっかえながら呼吸をする。芯は火照って、手を伸ばそうとして躊躇う事を何度繰り返したか知れない。

 トントンと階段を登ってくる音がする。部屋の中にいるか、と扉の向こうから尋ねられて、僕は黙って嵐が過ぎるのを待っていた。

 だが、無情にも扉は開かれてしまった。

『七緒?』

 彼の目が、僕を捉えて見開かれたのがわかった。その瞳の奥に侮蔑だとか嫌悪だとか、濁った黒のような色味が過ったようにみえた。

 僕は何を言ったんだったか。とろりと欲に眩んだ目をアルファに向けて、唇を動かす。

 腕が動いた。色褪せた血の色が、彼のスラックスの表面を染めていく。

 太股に突き立てられたペンを見つめたその一瞬、低く唸るような叫び声が響いたその一瞬だけ、僕は半分の理性を取り戻していた。

 

 

 

 ばちり、と目を開けて、掛けていた毛布を跳ね上げる。額は寝汗で湿り、服の裾で拭って現実を確かめた。

 無意識に時計に視線をやると、昼近くになっていた。慌てて服を着替え、脱衣所へと駆け込む。バシャバシャと水を跳ね散らかして顔を洗い、タオルで水気を拭き取る。

 人の気配を追ってリビングへ駆け込むと、読書をしている章眞さんの姿があった。

「おはよう。ごめん、寝過ごしちゃった」

「はは、安眠はいいことだろ。腹減ってないか?」

「お腹……減ってる…………」

 腹部を押さえてそう言うと、章眞さんはまたからからと笑った。

「まだ肉があるんだが、バーベキューばっかりじゃ味気ないし、昼はしゃぶしゃぶでどうだろう?」

「大賛成! 準備していい?」

「いいよ。俺も朝食まだだったし」

 もしかしたら、一緒に食べようと待っていてくれたんだろうか。一緒にキッチンへ向かう長身の隣で、ごめんね、と服を掴む。

 頭が撫で回され、服を放すと腕は離れていった。

「俺が野菜を切るから、七緒はスープの加熱を頼めるか?」

「これ?」

 蓋をされた鍋を空けると、味の調えられたスープが入っている。中の液体からはうっすらと出汁の匂いがした。

 章眞さんは材料を揃え、スープも準備していたようで、冷蔵庫で寄せてあった材料をキッチンに取り出していた。

 僕は加熱のボタンを押し、近くでふつふつと煮えていくスープを見守る。傍らでは章眞さんが慣れた手つきで野菜を洗い、切り分けていった。

「最近は自炊してる?」

「仕事が忙しくない時期だけな」

 肉や野菜を大皿に盛り、彼はそのままダイニングへと運んでいった。テーブルに卓上調理器をセットし、調味料や飲み物を準備していく。

 僕も料理ができない訳ではないのだが、手際の良さは敵わない。スープが沸騰した、と章眞さんを呼ぶと、ミトンを填めて鍋を卓上調理器の上に運んだ。

 最後に二人で取り分け用の小皿を運び、席に付く。

「いただきます!」

「いただきます」

 間に囲んだお鍋に桃色の肉をくぐらせ、色が変わったら引き上げる。寝起きの空腹に任せ、何も考えずにぱくついてしまった。

 ふと、二人きりで同じ鍋を囲んでいることに気づく。僕はオメガだと認定されるほどには身体が育っていて、目の前の人は紛れもなくアルファだ。

 僅かな唾液を交換できるくらいの間柄なのに、番にはしてくれない。

「章眞さんは朝から起きてたの?」

「いや。いつもより一時間くらい長く寝たかな。それでコーヒー飲んで本を読んでたら熱中してた」

「僕より章眞さんのほうが身体、若くない?」

「睡眠時間が長いのは若い証拠」

 そう言いつつも、大量の肉を次から次にスープへと潜らせていく。食べっぷりは気持ちよく、大きな口の中にするすると食べ物が消えた。

 肉ばかり食べようとする章眞さんに野菜を薦めつつ、僕も箸を動かす。

「昼からどっか行く?」

「そうだな。昨日は一日中遠出して遊んでたし、近くで川遊びなんてどうだ?」

「いいね。行きたい」

 遊園地の振り返りを語りつつ肉を食べていると、思ったよりも量を食べてしまった。

 空になった肉の皿をこちらに向ける章眞さんは嬉しそうで、極端に僕が痩せることを心配していたのを思い出す。

 二人で食器を片付け、川遊びに相応しい服装へと着替える。僕も彼も半袖シャツとハーフパンツになり、サンダルを準備した。

 水筒とバータイプのお菓子をいくつか、加えてレジャーシートを用意する。僕が外に出る前に日焼け止めを塗っていると、章眞さんが何気なく近づいてくる。

 塗ってほしい、と身を屈める首の後ろにクリームを塗り、相手の腕と顔にも塗り広げる。

「容赦ないな」

 顔にべたべたと指先で触れる僕に、彼は喉だけで笑った。遠慮なくきっちりと塗り終え、日焼け止めのボトルを彼に手渡す。

「僕も塗って。首のとこ」

「はーい」

 冷たい感触が首の後ろを伝った。ぺたぺたとクリームが塗り広げられていった後で、長い指が項をなぞる。

 指の腹で皮膚が押され、僕は背後を振り返った。

「どうしたの?」

「いや、綺麗な皮膚だと思って」

 背後から腕が回され、首の前で重なる。ぐっと体重を掛けられ、身体が前方へとつんのめった。

 じたばたと慌てていると、背後で楽しそうな声がする。

「なーなお」

「人で遊ばないの!」

 玄関先で一頻り戯れてから、別荘を出る。

 章眞さんの車に乗って近くの川まで移動していると、パパから連絡が入っていた事に気づいた。

 指先を動かし、メッセージを開封する。

『八尋はすっかり元気で、家でのんびりしてるよ。旅行はどう? 早く帰ってくるなら連絡してね』

 そういえば、つまらなくなったら早く帰ってきてもいい、と言われていたのを思い出す。果物の収穫をして遊園地へ行って、川遊びをしようとしている僕は、すっかりその提案を忘れていた。

「章眞さん。パパが、楽しんでる? って。日程を早めて帰るなら連絡がほしいって」

「おう。けど、…………七緒は帰りたい?」

 僅かに怯えているような響きを、僕は、ううん、と声に出して否定する。

「章眞さんが疲れて帰りたいなら付き合うけど」

「いや。疲れても別荘で休むって」

「ね。僕も、読書したいなと思って本を持ってきたけど、忙しくて読む暇もないよ」

「じゃあ、今のところ予定通りに帰る、ってことで」

 僕は携帯電話を持ち上げると、パパに向けてメッセージを綴る。

『旅行、楽しんでるよ。旅行先が近かったから、明月と葵と一緒に遊園地に行ったんだ。詳しくは帰ってから話すね』

 まるで帰る気もなさそうな文面を読み返し、まあいいか、と送信ボタンを押す。

 緑の中にある道を登っていくと、一気に開けた場所に出た。駐車場と、その先にある川原も整備されており、窓から届く空気が一気に冷える。

 駐車場に車を停め、僕たちは持参していたパーカーを羽織った。

 外に出て川原へ歩いて行くと、ごつごつとした岩が増えていく。水辺に近づくにつれて、更に涼しさが増した。

 サンダルのまま水に足を浸けると、キンとした冷たさが皮膚を伝った。

「つめた!」

「え? そんなに?」

 僕の言葉を疑った章眞さんは心構えもなく足を入れ、妙にツボに入ったようで爆笑している。

「……はは! ……っふ。すげ、冷たい……!」

「だから言ったじゃない……!」

 笑いの余韻が消えずにいる章眞さんは、僕の服を引き、そのままじゃぶじゃぶと水を跳ね散らかす。

 飛沫すらも冷たいのに、本人は楽しそうに足を動かした。

「うりゃ……!」

 服から手が離れたと思ったら、彼は掌に水を掬って周囲に撒く。キラキラと水の飛沫が陽光を反射して、彼の髪を濡らした。

 濡れて困るものは車に置いてきたが、その割には大胆だ。

「こっちまで掛かったんだけど……!」

「七緒もほら!」

 自身に向けて指を差す章眞さんに言われるがまま水を投げると、彼は避けようとして裾を濡らした。

 彼の大きな掌が水を掬う。視線が合って、意図を察した瞬間に水が飛んできた。素早い動作を、避けきれはしなかった。

「も、びっちゃびちゃじゃん……!」

 濡れた服の裾を絞り、ばしゃばしゃと水の中を歩く。相手に水を掬ってぶつけようとするが、器用に躱された。

 僕が避けられないと分かったのか、章眞さんはほんの少しの水飛沫だけを飛ばしてくるようになる。こちらは容赦なく水を投げているつもりなのだが、相手の反射神経の方が一歩上だった。

 暑いはずの日差しは濃い緑に遮られ、足先に伝う低い水温は氷の内側でも歩いているかのようだ。

 しばらく水の中を楽しんでから、川辺に上がってレジャーシートを広げる。水筒に熱いお茶を注いでいた章眞さんを奇妙に思っていたが、この川の冷たさに納得した。

 まだ熱いお茶を口に含むと、体温が戻ってくる。

 未だに川に入っている大人は、時折こちらに手を振っている。律儀に手を振り返すと、彼はまた水で遊んでいた。

 どちらが年下なんだか、と目を細めつつ、持ち込んだお菓子を口に含む。木々を眺めているうち、章眞さんも戻ってきた。

「寒! 俺もお茶貰っていいか?」

 彼は差し出したタオルを受け取って軽く身体を拭うと、レジャーシートの上に座った。

「どうぞ」

 水筒から蓋にお茶を注いで手渡すと、彼は嬉しげに口へと含んだ。手元にあったお菓子を並べると、チョコバーを手に取っている。

 涼しい風が髪を乾かしていく間、隣でぽりぽりとチョコを囓る音がした。

「川が冷たいの知ってて、あったかいお茶用意してたの?」

「ああ。七緒と会ってすぐくらいの時、川遊びに同行したら似たような場所でさ。日陰だし水も冷たいし、七緒が真っ先に川から逃げて、その時は唇まで青くしてて。慌てて近くの自販機に温かいもの買いに走ったよ」

「なんか。うっすら記憶にあるような……お手数をおかけしました」

「いえいえ。今回は、教訓が生きたな」

 子どもの頃のように唇まで青くはないし、少し休んだらまた川に入りたい気持ちがある。ただ、川原にレジャーシートを広げたこの空間もまた心地よく、微睡んでしまいそうだった。

 彼が体勢を変えると、ハーフパンツの裾が捲れる。もう少し覗けば傷跡が見えるだろうか、と思った瞬間、脚の位置が変わった。

「なんだよ? パンツ見えてた?」

「違うよ。そうじゃなくて、……太股、怪我させちゃったから治ったかなと思って」

 僕の言葉が何を指すのか、彼は直ぐに汲み取って表情を固くする。伸びてきた手が僕の頭の上に乗って、柔らかく撫でた。

 昔から、変わることのない感触だった。

「怪我させたのは七緒じゃないだろ」

「僕だよ……! その上で謝りもせずに避けて、……逃げたんだ。ごめんなさい。ずっと、謝りたかった」

 撫でる腕は止まらずに、絡みやすい僕の髪はぐちゃぐちゃになる。身体が近づいてきて、肩を抱かれた。

 導かれた先は彼の胸元で、泣き顔を隠すように、未だ湿った服に顔を押しつけられる。

「つめたい……」

 ぼそりと呟いてしまって、耳元で笑いを噴き出す音がする。

「体調が原因で起きたことで、七緒を責めたりしないよ。ずっと気にしてたのか?」

「……そのあと、避けてたから。その事も」

「まあ、気まずいんだろうなとは思ってたけどな」

 お茶を飲む? だとか、お菓子食べる? だとか尋ねられるが、僕は首を振って彼の服に顔を押しつける。

 頬は水気でべちょべちょで、間抜けすぎて泣き叫べもしなかった。

「俺も、あんなに強くオメガのフェロモンを食らったの初めてでさ。病院で怪我を診てもらった時に聞いたら、酩酊状態に近い感じだったみたいだ。本当ならもっと安全な手段を選べただろうに、できなかったんだと」

「…………それは、僕の所為で」

「違うって。フェロモンの相性問題らしい。効いたり効かなかったり、作用だって組み合わせによって違ってくる。だから、あれは『事故』だ」

 事故、と言われた瞬間、胸がぎゅっと縮こまった。

 僕の本能は、初恋の人を発情期に引き摺り込みたくてフェロモンを発したのに、彼にとっては迷惑な事故でしかない。

 自分の匂いは、フェロモンは、相手を誘えないほど不出来な代物だった。

「許してくれるなら、……いいんだ。これからは気をつけるね」

「ああ。俺以外にはやるんじゃないぞ」

「章眞さんにだって、もうしないよ」

 髪に触れてくる手を外して、目元に溜まった涙を拭う。差し出されたタオルに顔を埋めると、やっぱり湿っている。

 タオルに顔を突っ込んだまま、ふくくと笑う。じめじめして苦くて、それでいて塩っ辛かった。

 

 

 

 夕食の後、湯船の中で遊び回って凝り固まった筋肉を解す。広いバスタブで足を伸ばし、顔にばしゃばしゃとお湯を掛ける。

 腫れぼったくなってしまった目元も、すっかり元通りだ。鏡に顔を映して、ぺちぺちと頬を叩く。

「僕、こっから巻き返せるのかな……」

 太股を身体に寄せ、ぎゅう、と腕で抱き締める。統計的に考えるなら、章眞さんの歳で番を得ているアルファの方が多いんだろう。

 モテない、と嘯いていたが、社会的な立場もあり、顔も人柄も好ましい彼が望めば、頷くオメガは多いはずだ。

 昔から好きで追いかけてきたのに、一度も振り返ってはくれなかった。

「あー……、もう。嫌だ」

 じわ、と涙が浮かんで、ぽちゃぽちゃと水面に波紋を作る。何度この葛藤を繰り返したか知れないのに、まだ諦め切れもしない。

 いくら大股で歩こうとしても、彼は先に先に進んでしまう。間に横たわる時間を埋めなければ、隣で、番として歩けはしないのに。

 ひく、ひく、と声を殺して嗚咽する。離れていた時間も苦しかったけれど、必死で追いかけている今はもっとくるしい。

「もっと早く生まれてたら、番にしてくれた……?」

 くすん、と余韻を吐き出して、顔を洗い直す。目元の色が落ち着くまで待って、湯船から出た。

 お湯を抜いてバスタブを軽く磨いてから脱衣所に出ると、身体を拭って髪を乾かし、パジャマを身に纏う。

 新品のそれは、旅行が決まってから買い求めたものだった。落ち着いた色味の、まだ身に馴染まない感触は、背伸びをしながら歩かされているみたいだ。

 脱衣所から出てとぼとぼと廊下を歩いていると、リビングで話し声が聞こえる。電話だ、と気づいて足を止めた。

 そろり、と扉に近づくと、声が近くなる。

「────ら、高嶺さんとこの息子さんと…………。……確かにオメガだけど、ご両親から了承は得て…………うん。そういうのはまだ……、いや」

 途切れ途切れの会話の中で、彼の両親との会話だと悟る。更には、僕を連れての旅行をどうやら咎められているような気配があった。

 本格的に扉を開けられなくなってしまい、廊下で立ち尽くす。その間も会話は進んでいった。

「────はぁ!? 見合いなんて要らないって。まだ早いから…………ほんと、時期が来たらちゃんと……────、はい。はい」

 見合い、という単語に身を竦め、そろそろと後退する。距離を取ってから踵を返し、脱衣所に駆け込んだ。

 音を立てないように引き戸を閉め、扉にもたれ掛かった。背に触れる温度は冷たく、身のうちから凍らせてしまいそうだ。

「お見合い……」

 ぽそり、と声にならない声で呟いて、かくんと脚から力が抜ける。ずるずるとその場に座り込み、膝を抱えた。

 彼がそういった話をするような年齢だと知って、僕が結婚できる歳になってから、こうやって早足で追いかけ続けてきたはずだ。だが、突きつけられた彼の立ち位置は、遙か前方にいる。

 指を伸ばして、目の下を擦る。涙が出るかと思ったが、もう枯れ果ててしまったようだ。

 

 

▽7

 眠りは浅く、章眞さんが見知らぬ番を伴って挨拶に来る夢を見た。起きた瞬間、布団を跳ね上げ、夢であったことに安堵してシーツを握り込む。

 二度寝する気にもならず、まだ早い時間に寝室を抜け出した。洗面台で顔を洗い、見上げると、鏡の中の自分は何もかもを失ったような悲壮感に満ちていた。

「こんな顔と旅行してちゃ、楽しくないでしょ」

 ふっと笑顔を作ってみせても、どこか憂いを帯びていた。諦めて顔を拭い、洗面台を離れる。

 ぱたぱたと廊下を歩くと、独りだけの足音が空虚に響く。キッチンに入って冷蔵庫を開けると、まだ食材は豊富に余っていた。

 足の速い野菜を取り出し、スープから作ろう、とのんびり調理を始める。ピーラーで皮を剥き、サイコロ状に切り分けた。

 お湯を沸かし、材料を放り込んで放置する。

「スープと。魚は……包み焼きにして、パンとサラダ。で完璧かな」

 擬似的に二人暮らしを体験できる機会は、もうこの先ないだろう。彼に手料理を振る舞う機会は、きっと、これっきりだ。

 悩みを散らすように機械的に手を動かし、料理を仕上げていく。品数が揃うと、食卓も華やかになった。

 コーヒーを片手に魚焼きグリルを見守っていると、廊下から足音がする。扉が開き、パジャマ姿の章眞さんが顔を覗かせた。

 朝食の匂いが分かると、ぱっと顔が輝く。

「おはよう、七緒。いい匂いがする」

「おはよう章眞さん。早起きしちゃって、暇潰しに作ってみた」

「へえ。いつの間にか料理も上手くなったなぁ」

 キッチンに入った章眞さんは、手を洗って残った料理を仕上げていく。説明するより先に動いてしまえるあたり、僕よりも料理の腕は上等だ。

 魚が焼き上がるのと同時に、他の料理も揃ってしまった。

「章眞さん好きでしょ。お酒、飲む?」

「え?」

 僕はワインセラーがある方向を指差す。

「いや、白ワインとか合いそうだなって思ったんだけど」

「飲んだら車は出せなくなるぞ」

「いいんじゃない? 今日は家でゆっくりして、後で散歩とか」

 章眞さんはワインセラーへ歩いて行くと、一本の白ワインを持って帰ってきた。表情からは喜びが隠し切れず、漏れ出ている。

 朝から酒、というのは彼にとって言い様もなく魅力的なものであるらしい。僕は食器棚からワイングラスを出すと、軽く濯いで布巾で拭った。

 食卓の準備が整うと、向かい合って腰掛ける。

「じゃあ。七緒のお手製の朝食に、乾杯!」

「そんなのでいいんだ。乾杯」

 僕のワイングラスの中身は微炭酸のリンゴジュースで、口に含むとぱちぱちと音を立てた。

 果実の甘みが口に届き、さっぱりと喉を流れていく。

 僕の作った朝食は章眞さんの口に合ったようで、美味しい、と何度も言いながら完食してくれた。番以外の手料理は匂いが無理、というようなアルファもいるが、彼はそのような素振りは見せなかった。

 一緒に食器を片付け終えると、章眞さんは余ったワインとチーズを持ってリビングへ移動する。

 僕は寝室から本を持ってくると、ココアを用意し、彼と同じソファへと腰掛けた。

「何の本?」

「ミステリー」

「あ。俺も持ってきてたな」

 章眞さんはリビングに置いていたマガジンラックへ近づくと、文庫本を数冊持ってきてくれた。

 どれも廉価版が売られるような有名なミステリー小説で、一冊を除いて未読だった。僕はありがたく本を借りる。

 彼は隣で写真集を開き、ぺらりぺらりと眺めながら飲酒を始める。

「軽く音楽、流そうか?」

「ああ。オーディオ機器あったっけ」

「そうそう。僕が契約してもらってる音楽サービス、クラシックも聞けるから」

 オーディオ機器と携帯電話を連携し、契約している音楽サービスから読書を邪魔しないプレイリストを呼び出す。

 音楽が流れ始めると、章眞さんは気持ちよさそうに目を細め、写真集へと視線を戻した。

 誰かと黙って時間を過ごす体験は物珍しく、物語に没入している合間に、ふっと食器の音で水面へと浮上する。

 手を伸ばしてチーズを摘まみ上げ、口に運んでから手を拭う。そうして、また本のページを捲った。

「────章眞さんさぁ」

「なに?」

「『信頼できない語り手』ものを他人に貸すのは、下手したら関係が破綻するよ?」

 僕が奥付ごと本を閉じると、章眞さんはグラスに口を付けたまま喉で笑った。自覚はあったようだった。

 ごめん、というように頭が撫でられ、気分を戻す。

「あー……。騙されたぁ」

「面白かった?」

「面白かった」

 休憩、とココアを飲み、おつまみに持ち込まれたサラミを摘まむ。いつの間にかワインの瓶は空になり、新しくウィスキーの瓶が持ち込まれている。

 外見にそこまで変化はないが、普段よりもへらへらと表情がだらしなかった。じっと顔を見つめていると、腕が伸びてきて肩を抱かれる。

 引き寄せられた先の体温は高く、近いだけにアルファとしての匂いが分かる。浮かれているのか、何度も頭を擦り寄せられた。

「七緒」

「はぁい?」

「また、普通に話してくれるようになったなぁ……」

 くるる、と猫が喉を鳴らすような嬉しげな息が漏れて、隣から体重が掛けられる。

「…………。そうだね」

 ある種の失恋が、平常へと戻る契機になったのが皮肉じみている。

 章眞さんは僕の肩から腕を離すと、ここに座って、とでも言いたげに自分の太股を叩く。その後で、ぱっと両手を広げてみせた。

 にかりと笑う表情からは、理性が溶け出ている。

 ウィスキーの度が高すぎたのか、と瓶に視線をやり、恐るおそるソファの上を移動する。太股に座るのは重いだろう、と彼の足の間に座ると、腕が絡みついてくる。

「わっ……!?」

「ななおー」

 肩口に顔が近づき、すん、と呼吸音がした。

 初恋の人の、こういう所がきらいだ。思わせぶりに近づけておいて、オメガとして誘っても一向に靡いてくれない。

 心の内の一カ所はもう冷え切っているのに、まだざわざわと期待に頭を擡げる部分が存在している。

「大好きだぞー。七緒ー」

「はいはい」

「仲直りできて、一緒に旅行もできて嬉しい……」

 形の違う掌に指先を添え、混ざっていく匂いに身を委ねる。追いつけない距離も、こうやって馴染んでしまえたらよかった。

 酔っ払いの戯れ言に付き合っていると、酔いが回ったのかそのまま、くたり、と寄りかかって寝てしまった。

 重たい身体を支え、ソファに寄りかからせて、腕から抜け出す。近くにあったブランケットを掛け、僕は少し離れた位置に腰を下ろした。

 

 

 

 昼食の時間が近づいて、そろそろ章眞さんを起こそうかと考え始めた頃、携帯電話にパパからメッセージが入っていた。

 同行者が朝から酔っ払って寝ている、と書き込むと、少し通話はできないかと尋ねられた。承諾のメッセージを返すと、直ぐに着信がある。

『もしもし? 七緒、元気にしてたかな?』

「してたよ。どうしたの、急に」

『いや。都のご両親から朝方に連絡があって、どうやら二人の旅行の話を聞いたみたいでね。開口一番、すごい勢いで謝罪されて焦ったよ』

「あれ? でも、昔から付き合いがあるってご存じだよね?」

 章眞さんのご両親とも、数年前に面識はあった。

 アルファとオメガが二人きりの旅行とはいえ、子どもの頃からの顔見知りでもある。章眞さんのご両親が慌てる理由を理解できず、電話を持ちながら首を傾げた。

『それが、七緒がオメガだって診断を受けたことをご存じなかったようでね。年頃の息子さんを、しかもオメガだと分かった子と旅行なんて申し訳ない、というような言い分だったかな』

「そっか……。僕は、……以前に章眞さんにフェロモンが効かなかったことを知ってるから、番になりようがないって分かってるけど、流石に、そこまでは伝えてないか」

 僕の言葉に電話の向こうから、うーん、と声が漏れた。パパは何か否定したがっている空気だったが、そう言う場合でもない、と話を進める。

『都が黙っているのに、こちらが言うことでもないしね。…………それで、お伺いがあったんだけども』

「何の?」

『”うちの息子がふらふらしていて落ち着かないので、息子さんと見合いでもどうでしょうか”…………と』

 提案を耳にして、僕は目を丸くする。どくどくと心臓が鳴って、相反するように指先が冷たくなった。

 見合い、というのは、運命の番、という要素を無視して行われる。もう運命の番が見つからない、と判断したか、前時代には、会社間の付き合いの為に行われたこともあったようだ。

 パパはこちらの動揺など気にしてもいない様子で、さっさと話を進めていく。

『都は相手として申し分ないけど、七緒はまだ若い。俺は、運命の相手を待ってもいいとも思う』

「………………」

 僕は眠っている横顔を見て、その場から立ち上がった。リビングから廊下に出ると、階段を上がって、寝室へ入った。

 寝室からは、ベランダに通じる窓がある。大きな窓を開けて、置かれていたサンダルに足を通した。

 ごう、と風が吹き、髪を跳ね散らかす。手摺りを掴んで外を眺めると、一面の緑が広がっていた。

「パパはさ。なんで父さんのこと、運命だって思ったの?」

『……八尋? …………うぅん。気づいたら、八尋のことしか見てなかったからかな。あと、他人と仲良くしてるのに腹が立った』

 パパは、何度も聞いた父さんとの馴れ初めを語っていく。

 まだ若かったから他の人と接触させないように努力したのに、父さんがあっさりと躱して友人を増やしていったくだりには笑いすら漏れた。

 父さんはぼんやりした所はあるが、決めたことは譲らない。しかも油断していると言葉少なに動いているから、また質が悪いのだ。

 腕を伸ばして掴もうとしても、どこ吹く風と擦り抜けていく。

「────パパはさ。僕の初恋の人が章眞さんだって知ってた?」

『それは勿論。だから、最初の発情期でやらかしたのが都相手なの、納得してたよ。…………ただ』

 電話の向こうの言葉が切れて、迷いながらも声は続く。

『…………都の強情さを甘く見てたかな』

「強情?」

『彼は、幼い頃から七緒を知ってるから。自分の存在が刷り込みのようになって、七緒が運命だと誤解したら嫌だ、って話をしてた』

 僕はいちど瞳を閉じて、また空を映した。空が水色だということを僕たちは一般常識としているけれど、色は脳が知覚した結果でしかない。

 真実、瞳に映っている空は水色であるのだろうか。

「僕は、…………まだ人間として幼い部分があって、刷り込みで章眞さんのこと、好きになってて。いつか、この感情を後悔する日が来るってこと?」

『七緒はそう思う?』

「思わない。……けど、僕のこれからの人生に、絶対はない、のも分かる」

 彼が理屈を語るとき、僕の胸はただ息苦しくなる。純粋に、章眞さんを好きだ、という感情を抑え付けられているような気がしている。

 この感情は、何年も、何年も一緒に併走してくれた。

『俺は大人として、都の言い分は分かるんだけど。七緒が都を好きだっていう気持ちだって、大事だと思うんだよ。そこに重さを付ける事は、俺にはできない』

「パパは、僕が章眞さんと番いたいって思ったら、反対する?」

『しない。心が欲しがる人を諦めるの、苦しいでしょう。じゃあ、選んで後悔した人生だって好きにすればいい』

 ただ、と電話の先でパパはからからと笑いながら釘を刺した。

『都を頷かせるの、骨が折れると思うよ。あれは色仕掛けでどうにかなるアルファじゃないな』

「僕もそう思う」

『分かっているなら良し』

 パパと父さんの話をして、頑張って、という言葉だけを残して電話は切れた。電話をポケットの中に入れて、顔を上げる。

 空は変わりなく水色のまま、掴めない風はまた髪を優しく持ち上げて過ぎていった。

 

 

 

▽8

 休暇の残りの日程は、瞬くように過ぎていった。

 酔っていない章眞さんは僕に過剰に接触してくることもなく、僕が発情期を迎えるまでの二人をなぞっていた。

 帰宅日が近づいていくにつれて、終わってしまう物寂しさが付きまとう。この旅行に二度目はない。分かり切った事実を突きつけられる度、さめざめとこの胸は泣くのだった。

 帰宅の前日、夕方から別荘内の片付けに取り掛かる。長期滞在に持ち込んだものを回収し、お土産類と一緒にまとめて鞄へと入れる。

 遊園地で買い求めたカチューシャを持ち上げ、きゅ、と握り締めて鞄の奥へと押し込んだ。

「帰る準備、終わりそうか?」

 リビングの整理を終えた章眞さんは、持ち帰る食材の箱を玄関に運び終えたようだった。初日の宣言通り、期限の短い食べ物は彼の手によって調理されて腹に収まり、保存がきく食材は車に積んで持ち帰ることになっている。

 急に熱を出した父さんも拍手するであろう、完璧な采配だった。

「終わったよ」

「流石」

 近づいてきた腕が伸びてきて、頭を撫でる。仲直りをしてから、彼はこうやって触れるのを躊躇わなくなった。

 夕食は残った食材をすべて使い切るそうで、これから調理に入るのだと言う。

「────楽しかったな」

 ぽつんと零れた言葉は、本当に楽しかったんだろうと窺わせる。今だけ、と彼の胸元に頭を寄せ、ふっと唇に笑みを刷いた。

「楽しかったね」

「また来るか?」

 僅かに不安そうに揺れる瞳と、視線が合った。

「章眞さんが忙しくない時だけね」

「……七緒は優しい子だなぁ」

 伸びてきた腕に抱え込まれ、近づいてきた頬が僕の頭に擦り寄る。この近い体温も、いずれ失われるものだ。

 彼の隣に立つオメガの姿がぼんやりと浮かんで、緑の炎が燻った。

 

 

 

 豪華な夕食を終えた後、僕が先に風呂に入らせてもらい、入れ替わるように章眞さんも浴室へ向かっていった。

 僕はリビングのソファに腰掛け、携帯電話の中に保存された今回の旅行写真を整理していた。先に眠っても良かったのだろうが、最後の夜くらい、一秒でも長く一緒に過ごしたかった。

 音楽もない静かな室内は、僅かな物音でも耳が拾ってしまう。浴室の扉が開く音が微かに届き、入浴を終えたことが分かった。

 リビングへ戻ってくるタイミングをそわそわと待っていると、突然、脱衣所から大きな音が響く。

「うわ…………!」

 章眞さんの焦ったような声と共に、物が崩れる音、床に何かを打ち付けるような大きな音が響いた。

 僕は携帯電話をソファへ放り投げ、慌てて立ち上がって廊下を駆けた。閉じていた脱衣所の引き戸を開け、中に滑り込む。

「大丈夫……!?」

 床にはバスタオルとソープのボトルが転がり、まだ裸の章眞さんがぽかんとこちらを見つめていた。

 どうやら、タオルを取ろうとして他の物まで巻き込んでしまったようだ。僕は床に転がったタオルを拾い上げ、彼に手渡す。

 まだ真っ裸だったその人は、一拍遅れたような動きをしつつも、身体にタオルを巻き付けた。

「悪い。久しぶりにすっ転んだ…………」

「ううん。怪我してないならいいんだけど」

 ソープのボトルを拾い上げ、元あった場所へと並べる。大部分の片付けが済んだ、と振り返ると、章眞さんが身体を拭っている所だった。

 体格が大きく、バスタオルも大部分を隠せてはいない。その中で、彼の太股に目が吸い寄せられた。

 赤みを帯びて引き攣ったように残っているそれは、僕の所為で出来た傷跡だった。

「…………。じゃ、じゃあ……。僕、出るね」

「おう。ありがとうな」

 脱衣所の扉を閉め、早足で廊下を歩く。リビングに入り、ソファに座ってから、自らの膝を抱き込んだ。

 彼の身体に、傷を残してしまった。

「………………なんで」

 朗らかに近くにいてくれるから、あの色の跡が残ってしまっている事を察せなかった。

 酩酊状態と言われる程になって、力一杯みずからを傷つけて、その上で僕を守ろうとしてくれた人に甘えて、仲違いした、とさえ思わせてしまった。

 独りでひっそり沈んでいると、廊下から足音が響く。反射的に腕を解き、ソファに座り直した。

「まだ寝てなかったのか?」

「寝るには早いでしょ」

 パジャマ姿の章眞さんは時計に目をやって、そうか、と呟いた。髪がくったりとしていて、普段よりも幼い印象があった。

 彼はソファに近づいてくると、僕とゼロ距離になるように腰を下ろした。更には、座った後で距離を詰めてくる。

「な……! なに……!?」

「なーんか。沈んでるなぁって」

 相手の表情がくしゃりと崩れ、伸びてきた掌が僕の頬に触れる。親指が擦りつけるようにやんわり動いた。

 僕が表情を作れずにいると、もう片方の手も加えて挟み込まれる。逃げ場のない状況に、僕は彼の顔を見つめ続けることしか出来なかった。

「どした?」

「…………。太股の傷、見えちゃって。僕の所為だよなぁ、って」

 ぽつりとそう呟くと、両頬に力が加わり、ぎゅむ、とやんわり押しつぶされる。慌ててその両手を掴み、引き剥がした。

「また茶化して……!」

「茶化すくらいの事だろ。七緒はいつも考えすぎなんだって」

「でも。……僕が────」

 もし、章眞さんの事を好きじゃなかったら、彼にフェロモンを向けたりなんてしなかった。

 言えもしない原因を噛み締めていると、僕の両手が握られる。軽く上下に振られて、二人の間に落ち着いた。

「あれは…………俺も、過剰反応しすぎたっていうか。反省してるんだよ」

「章眞さん、……が?」

「そう。七緒に妙なアルファがくっつかないように守ってやる、くらいの気持ちだったのに、妙なアルファはどっちなんだ、っていう……」

 はぁ、と息が吐かれて、情けない、とでも言うように眉が下がる。指先は風呂上がりで火照っていて、握っている僕は熱く感じるほどだった。

 窓の外は、もう闇の帳が降りている。僅かに生き物の声がするような、静かな夜だった。

「章眞さんはあの時、僕のフェロモンの匂い、分かったの?」

 彼は軽く目を見開いて、肩を丸めた。

「分かるよ。それこそ酔っ払って理性が吹っ飛ぶような……」

「でも。……別に、何もなかった」

 僕がぽつんと呟くと、目の前のアルファは苦々しげな顔をする。

「それは、俺の努力の賜物だよ」

「…………違うよ。僕の匂いが、未熟で、アルファを堕とせないようなものだったってだけ」

 章眞さんは唇を引き結んで、何かを堪えるような顔をする。僕は手を離し、彼の胸元に倒れ込む。

 腕が動いて、がっしりと身体を受け止められた。己の胸が鳴っているのが分かる。自分の腕の中に、撃鉄が起こされた銃がある。

 引き金をひいたら、本当に駄目になってしまう気がした。

「章眞さん」

「…………うん」

「僕、たぶんね。章眞さんのこと、誘おうとしたんだよ」

 彼の顔は見ていなかったが、近くから、息を呑む音がした。笑い出したいような妙な心地で、支えてくれる身体に縋る。

 指の中で、相手の服に皺ができた。

「あんまり覚えてないけど、『そういうこと』を言ったんでしょう?」

「……あの時の言葉は、熱に浮かされたようなもので」

「違うよ。僕に、下心があったから。だから」

 胸の内をこじ開けてみて、醜い感情が想像もできないほど育ってしまった事を知る。一か八か、成就か破綻しかないような、もう、崖の縁に近付きすぎてしまった。

 終わらせることがお互いのため、なんて、大人みたいな定型文を思って、僕はただ目を閉じる。

「ごめんなさい。ずっと、好きだった。章眞さんのこと」

 応えを待っても、発せられる声はない。相手の指は固まっていて、動き出す気配もない。

 押し退けられないことだけを幸運に思いながら、ただ、失われる体温に身を寄せていた。

「誰でもいいだなんて思ってない。近くにいたから貴方だった訳じゃない。あの時の僕はただ、発情して、貴方と生殖がしたかっただけ」

「七、緒…………?」

 顔を上げると、彼の瞳が見知らぬものを見るような色を帯びていた。今度は僕から手を伸ばして、その頬を包み込む。

「あれは、事故なんかじゃなかった。僕が誘って、振られただけ。本当に、……ただ、それだけ」

 そう囁き終えると、彼の頬から手を放した。

 二人の間には、沈黙しかない。けれど、元より答えが欲しいとも思ってはいなかった。

 話を終えて寝室に戻ろうかと思い始めた頃、ようやく彼の唇が動いた。

「七緒は、……昔から、俺といたから。だから、そういう風に誤解を…………」

「なんで? 僕だって近所の人とも付き合いがあって、友達がいて、その中にはアルファだっていたよ」

 他のアルファの存在を示唆した瞬間、彼の瞳に何か燻るものがあった。周囲に漂う匂いが変化して、身体に纏わり付くように強くなる。

 伸びてきた腕が、両肩を掴んだ。

「…………頼むから、惑わせないでくれ。あの時も、狂いそうになるほど魅力的な匂いがした」

 惑わせるな、と言う割には掴んだ肩から手が離れる気配はない。相手の瞳は忙しなく動き、額には汗すら滲んでいる。

 普段の鷹揚とした様子からは想像もできないほど、余裕を失っているように見えた。

「じゃあ、どうして受け入れてくれなかったの……?」

「出来るわけがあるか!」

 強い声音を放って、彼は我に返ったように謝罪する。嗚呼、と声を漏らす様子に、僕の方が困惑してしまった。

「大事な友人の息子で、何年も前からから見守ってきた。偶然オメガとして魅力的に育ったとしても、番うことを本人が望んだとしてもだ。────俺は、それに甘えちゃいけない」

 彼の言葉は、望むことを我慢しているような文脈だった。あれ、と前提との齟齬に心の中が騒ぐ。

「僕のこと、魅力的に見えるの?」

「………………」

「番、として……?」

 長い沈黙の後で、彼はすべてを投げ捨てるような息を吐く。肩を掴んでいた手が緩み、だらりと垂れ下がった。

「……自分でも、よく分からなかった。昔から見ている顔なのに、育っていくにつれて……周囲よりも早く、大人びていった。昔から、誰にも何も言えずに考え込むような所があって、それを支えたいと願うのは……兄みたいに思ってるからだって……」

 両手で顔を抱え込む姿は、悲壮感さえ感じるほどだった。僕が思うよりもずっと、彼の方が深い沼に沈んでいたのかもしれない。

 僕よりも早く、彼は大人だった。

「なんで、そんなに駄目だって思うの? 僕はもう何時でも結婚できる歳だし。いろんな人に話を聞いたけど、僕がずっと好きだった人と番いたいって思うこと、誰も反対なんてしなかったよ」

「…………高嶺なら反対するだろ」

「パパも反対しない、って言ったんだよ。元々パパの友人だったのに、本人に話を聞かないはずないでしょう」

「あいつ、何考えて……」

 彼の方が塞ぎ込むようにして、僕から距離を取ろうとしている。僕は彼に乗り掛かるようにして、逃げ場を封じた。

 最後には視線すらも逃げを打つ。

「ねえ。章眞さん、僕が他のアルファと番ってもいいの?」

 ぴくり、と顔を覆っていた手が動いて、そろそろと門が開く。仮定の番を口に出したとき、やはりその瞳には炎が燻った。

 手を出してはいけない、と思っている割に、他のアルファへ嫉妬を向けている。

「…………。いい」

「そう。じゃあ、次の発情期にはそこら辺で引っかけてくる」

「お前な……!?」

 柔らかいパジャマの襟を両手で掴んで、布地が伸びてしまうほど強く引く。触れるほど近くに顔を寄せて、きっと睨み付けた。

「僕のこと好きなのか嫌いなのか、感情で応えて! 誰にも渡したくないって思うんなら、番にして最期まで放さないでよ……!!」

 堪えていた涙がぼたぼたと頬を伝い落ちて、それでも、僕は掴んだ服を握りしめたままでいた。

 僕が手放したら、彼はそれを許してしまうような気がして、固まった拳を解けなかった。

「…………お前が泣くの、珍しいな」

「だって。僕が泣いたら章眞さん、何もかも譲っちゃうんでしょう……? だから、泣くの、いやで……」

 昔の僕はそれを分かっていて尚、優しい人の前で泣きわめいては色々なものを譲ってもらった。

 長い指が目の下を拭って、伸びてきた腕が背に回る。くっと力が込められて、僕は彼の胸に飛び込む形になった。

 パジャマに顔を押しつけると、涙が吸い込まれていく。

「昔。高嶺と話をしたんだ。七緒が俺と一緒に居たがるのは刷り込みのようなものだろうから、いつの間にか恋情と誤解したら嫌だな、って。そうしたら、あいつ笑っててさ」

 ぽん、と柔らかく後頭部が叩かれて、抱く腕に力が籠もった。

「刷り込みだって言い聞かせようとしても、あの子が運命だと思っているなら諦めないだろうよ、って」

「…………うん」

 きゅ、と服を握ると、章眞さんはようやく強ばっていた表情を解いた。全身を擦り付けて、匂いを移すように接触する。

 これまでの触れ方には遠慮があったのだな、と分かるような動作だった。

「俺の所為で可能性を縮めてしまっていたら、……ごめん。自分の出来る限りで、一生をかけて幸せにするから。だから」

 そろり、と近づいてきた唇が、軽く頬に触れて、離れた。目の下を染め、唇が触れた場所に指を添える。

「好きだよ、七緒。番は、…………俺でいいか?」

 腕を伸ばして、相手の首筋に縋り付く。脚を伸ばしすぎて、ぶつかるようなキスになった。

 じんと痛む唇を舐めて肩を落とすと、ふ、と笑い声が届く。近づいてきた唇が、今度はゆっくりと重なった。

「────章眞さんがいい」

 それから、長く長い片恋の話をした。彼が思っていたよりも昔から、僕は延々と片思いをしていたようで、最後の方になると、章眞さんは申し訳なさそうに縮こまっていた。

 夜は、文字通り寝るだけだったけれど、同じベッドに入れてもらえた。

 僕より遅く眠って、僕より早く起きた章眞さんによく眠れたか尋ねたが、曖昧に笑うばかりだった。

 

 

 

▽9(完)

 旅行から帰宅して早々に、章眞さんからご両親と挨拶がしたいと言われ、普段よりもきちっとした服を着て挨拶に来た。

 ただ、パパも父さんにも事情は伝えてあり、反対もされない相手で、本当に形式上の挨拶だった。

 章眞さんは婚約と番になることを急いでおり、理由を尋ねると、今後の発情期に鉢合わせて自分を律しようとすれば、今度こそ大怪我をしかねない、と神妙な顔で言った。

 僕はといえば、ようやく番になれる機会を得て、嬉しい以外の感情は持ち合わせていなかった。

 両親たちは双方ともに面識があり、顔合わせの場でも昔からのエピソードが出てくるような関係性だ。家族の話、日常の話、両親たちの会社の話をして、余裕がある時に章眞さんの実家にも改めて遊びに来るよう伝えられた。

 僕は晴れて章眞さんの婚約者という立場になり、日々浮かれたように過ごしていたのだが、ある日、スケジュールを眺めていて気づいたことがあった。

「あれ? 次の発情期って…………章眞さんと一緒に過ごすの?」

 偶然その場に居合わせた明月には、『ぼんやり二号』との不名誉な渾名を賜った。

 近くにいた『一号』にすら婚約者に相談するようアドバイスを受け、僕は何も取り繕わずに情報だけをメッセージで送る。

 事情を把握した章眞さんの手回しは早かった。早々にパパと連絡を取り、発情期にあちらのマンションで過ごす手筈を整えてしまった。

 こうして僕は、番候補と過ごす発情期、という新しい休暇を得たのである。

「────冷蔵庫の中身、たくさんだね」

 僕は章眞さんの家に上がり込み、買い出しを終えた食材を眺める。

 まだ抑制剤の服用でにおいが消せる程度の変化しかないが、薬の作用が消え始めたら体調も変化していくんだろう。

「食い切れないかもしれないけどな」

 日用品の収納を終えた章眞さんは、眉を下げて笑った。僕の近くに歩み寄ると、首筋に相手の顔が近づいてくる。

「におい、どう?」

「抑制剤の効果が切れたら一気に来そうだけど……、薬もあんまり合わないんだろ? もう家だし、追加で飲まなくてもいいぞ」

 ちゅ、とついでとばかりに耳にキスをされ、恋人としての距離感に瞠目する。熱を上げるように触れられていれば、限界は近そうだ。

 見慣れないリビングへ入り、広いソファに腰掛ける。

 彼の家にある家具は落ち着いた色味で纏められているが、僕たち兄弟が贈ったぬいぐるみや、旅行地で買ったであろう土産の品を飾っているスペースは一転してごちゃごちゃしている。

 相手の匂いがするブランケットを身体に巻き付けると、気怠さに任せてソファの上で横になった。家に帰った途端、気が抜けたのか体の不調が襲ってくる。

 キッチンからは珈琲の臭いがして、普段なら何でもないのに、やけに不愉快に感じてしまう。

 リビングに入ってきた章眞さんは、様子を見て近くへ寄ってくる。僕の頭の先に腰掛けると、指が伸びてきた。

「コーヒーの臭い嫌かも……」

「えっ。……じゃあ、キッチンに置いてくるよ」

「いや。何処にも行かないで」

「無茶を言うなぁ」

 彼は服の裾を掴む僕を宥めつつ、持っていたマグカップの中身を手早く飲み干した。

「……いま、章眞さんの匂いが消えちゃったから」

「うん」

「何かほしい」

「何年ぶりかな。この駄々っ子具合」

 彼は僕の手を解いて立ち上がると、何処からか上下の部屋着を持ち込んでくる。差し出された服を受け取ると、彼の普段の匂いがした。

「洗ったばっかりの部屋着だけど、どうだ?」

「これ着たい」

「着てもいいけど……」

 僕はその場で余所行きの服を脱ぐと、丈の長い部屋着を被った。案の定、長すぎて太股あたりまで隠れてしまう。

 長い裾を口元に当てて匂いを確認し、着てきた服を畳む。

 改めてソファに寝転がり、完全に寛ぐ体勢になった僕を、章眞さんは興味深そうに眺めていた。

「猫みたいだなぁ……」

「こんな自堕落な猫いやだよ」

 ずりずりとソファの表面を這って、婚約者の太股に頭を預ける。僕の突然の我が儘も彼はすんなりと受け入れ、頭を撫でる始末だ。

 数年前の、我が儘盛りの僕の相手をしていたおかげか、恋人になっての我が儘は甘噛み程度にしか思われていない。

 部屋にあるモニタでアクション映画を流し、お互いにのんびりとした時間を過ごす。やがて、明確に抑制剤の効果が切れ始めてきたのが分かった。

 匂いの変化が分かったのか、撫でる手も探るような温度を帯びる。

「怠いのか?」

「うーん。そう、かも」

「意識してフェロモン出してみるか? 抑制剤、そろそろ効かなくなるだろ」

 でも、と口籠もり、見下ろしてくる顔に視線を返す。

「そうしたら、今度こそ、誘っちゃうよ……?」

 腕を持ち上げると、手の甲にキスが降った。

「うん。今なら叶えられるから、誘って」

 周囲の匂いが強くなって、外と内を分けているように思える。相手を誘っているのは、果たしてどちらなのか分からなくなった。

 身につけた衣服も相手のもので、この場は徹底的に相手の懐だ。軽い接触を繰り返しているうちに、熱は上がっていく。

 最初に仕掛けたのは、果たしてどちらだったのか。

「もう無理そうだな。…………寝室に行くか」

 こくん、と頷くと、伸びてきた腕が身体を抱え上げる。その肩に縋り付き、僕はご機嫌に喉を鳴らした。

 

 

 

 寝室はうっすらと灯るような照明で整えられており、ベッドに下ろされると空間が切り離されてしまったかのようだった。室内は白と黒で纏められており、ぴんと張ったシーツに乗ると皺ができる。

 パタン、と相手によって扉が閉じられ、完璧に部屋を区切ってしまった。

「章眞さん。……早く」

 声にねだるような響きが混ざる。近づいてきたアルファに手を伸ばし、寝台に乗り上がってきた身体を捕まえる。

 しばらくの間、理性を取り戻してもらっては困るのだ。

「七緒。何か、今日はやらしくないか?」

「章眞さんの視線が不埒なだけでしょ」

 首筋に縋ると、近づいてきた唇と重なった。数度の接触の後で、唇を開いて舌を誘う。

 厚い舌が口内を探り、内側を擽りながら過ぎていく。

「…………ん、う。……ふぁ、あ」

 ちゅくちゅくと唾液が混ざる音がして、相手の匂いごと腹に収める。舌先を伸ばして絡め、合間に息を吸った。

 夢中でキスを繰り返しているうちに、ぼやりと意識の輪郭が溶けていく。

「ん、ん。う……すき、っ。…………ふ、っう……ン」

 軽く唇に歯を立てられ、相手の匂いは離れていった。

 僕は唇を尖らせ、相手の服に手を掛ける。雑な動作で脱がそうとしてくる婚約者に対し、章眞さんは面食らったように目を瞬かせた。

「七緒……」

「脱がせたらもう、逃げられないよね?」

「それはそう、だけど」

 彼が上に着ていたシャツを捲りあげると、露わになった身体は想像していたよりも筋肉質だった。

 学生時代はスポーツも嗜んでいたそうだし、現在もジムに通っているという話は聞いていた。

 風呂場で鉢合わせた時には、こんなにまじまじと見る余裕もなかった。指先を胸元に沿わせ、感触を確かめる。

「……七緒の服も、いいか?」

「自分の服でしょう。好きにしたら?」

 そろりと伸びてきた指が服の裾を掴み、捲りあげるように脱がされる。下を履かずにいた所為で、既に纏っている布地はパンツ一枚だ。

 僕の股に視線をやった章眞さんは、呆気に取られたように呟く。

「パンツ、……薄くないか?」

 白くて薄いパンツは、下の肌の色が僅かに透けている。僕はぴらりとパンツの裾を持ち上げ、形が分かるように引っ張る。

「好みじゃない?」

「…………。ああ……いや。好き、だが」

 清潔感があり、水分を含ませたら更に下の色を透かす白は、何となく彼が好むような気がしたのだが、合っていたようだ。

 急にそわそわとし出して、余裕を失っているように見える。彼は隠そうとしている様子だが、周囲の匂いが動揺を如実に示していた。

「ほら。…………触って」

 相手の掌を掴むと、自分の首筋へと引き寄せる。控えめに首を撫でた指先が、鎖骨を伝って下へ降りる。

 焼けたら赤くなってしまう肌は、服の下では血管の色が浮き出るほど白い。そんな全身の肌の中で、胸の突起だけが色づいて存在を主張していた。

 長い指が躊躇うように彷徨って、そう、と胸のわずかな膨らみを包み込む。

「肌の感触が俺とはぜんぜん違うんだな……。柔らかい」

「そう……? …………ん、ふふ。くすぐったい」

 最初は戯れのような触れ方でも、次第に指の温度が高くなる。視線は食い入るように色づいた部分を見つめ、指の腹で突起が押し潰された。

「ン…………。う、ぁ……」

 明確に快楽へとスイッチが切り替わり、触れられるたびに、弄られる度に未知の感覚を拾えるようになっていく。

 胸の先端を相手の指が摘まみ上げ、くっと引かれる。ぴん、と弾くように解放されると、じわ、と何かが伝い広がった。

「……美味そうな色してるな」

「え」

 こくん、と唾を飲み込んだ相手の動作に、何がしたいのか察するものがあった。膝を立てて相手の太股を跨ぐ。

 彼の頭を胸元に抱き込むようにすると、導かれるように唇が開いた。

「ふ、…………ぁ。ひァ……ぁ、っあ」

 ぴちゃり、と濡れたものが胸を這って、かぷりと先端へ食らいつく。伸びてきた舌が突起を捉え、押し潰す。

 味わうように舌先で辿られた後で、ちゅう、と吸い上げられた。相手に回した手が震え、抱いていられるかすら怪しくなる。

「も、……い、でしょ、……う……?」

「…………。もうちょっとだけ」

「ンン……!」

 彼の口から解放されたそこは、濡れ光り、いやらしい器官と成り果ててしまっていた。

 僕がシーツの上に座り込むと、長い指が伸びてくる。掌が太股を這い、パンツ越しに中心へと触れた。

「う、ぁ……」

 一度触れて、何かを思い出したのか。彼はベッド脇に置かれていた小机の引き出しを開ける。

 中から出てきたのは透明な液体が入ったボトルで、彼はそれをシーツの上に置く。

「下も触ろうか」

「あ。パンツ、脱ごっか?」

 手を掛けようとすると、それより先に相手の指が割って入る。パンツの布地に指が引っかかり、するすると引き下ろされていく。

 露わにされたそこを見下ろす視線が恥ずかしくて、太股を擦り寄せた。

「下。あんまり、僕、生えてなくて……」

 手足の毛と同じように、股の間も産毛のような細い毛が僅かに生えそろうだけだった。薄い毛の隙間から、肌の色も、半身の色も透けてしまう。

 真っ赤になって縮こまっていると、両手が太股に触れた。

「笑ったりしないから、見せてくれるか?」

「でも……」

「俺は、自分の番になる子の躰が見たい」

 その言葉に絆されるように、閉じていた脚を開く。章眞さんはベッドの上に置いていたボトルを持ち上げると、中身を股の間に垂らす。

 ぬちゃぬちゃとした粘り気のある液体が絡みつくと、芯を持ちつつある半身の形がはっきりと浮き上がった。

「…………ふぁ、あ。……ンうう、ぁア、……ひ──!」

 長い、自分のものではない指先が輪を描き、茎を絞り上げる。水音を響かせながら腕は動き、熱を育てていった。

 章眞さんの肩にもたれ掛かり、はくはくと息を零す。ふと、視線を落としたとき、相手の股間が存在を主張しているのに気づいた。

 誘われるように指を伸ばすと、触れた瞬間、寄りかかっていた体が跳ねる。

「なッ…………!」

「…………ぼくも、触るね」

 撫でるように指先を動かすと、布越しの熱はびくびくと震える。お互いに触り合って、果てるのだろうと夢中になっていたが、途中で制止される。

 何故、と思ったのが見上げた視線から伝わってしまったのかもしれない。彼は、疑問に答える前に、僕の上半身をベッドへと押し倒した。

 ぼすん、とシーツに沈み込む、のし掛かってくる身体を見つめる。

「へ……?」

「こっちは、七緒が想像してるより、ずっと限界なんでな……」

 彼は困ったように笑うと、僕の脚を持ち上げて広げる。無防備になった股にローションを垂らすと、指先が谷間を辿るように動く。

 つい、と指を滑らせ、一つの窪みへと辿り着いた。

「うあ、ぁ────」

 ぬめりの助けを借りて、指はずぷんと中に滑り込んでしまう。太い指が内部から押し拡げ、狭い径を駆け上がっていく。

 ゆっくりと、探るような動きがかえって焦らされているような気になった。体液とローションが混ざって攪拌した泡が、ぷっくりと膨れた肉縁にこびりつく。

 指が足されて、圧迫感が増した。

 奥へとたどり着いた指の腹は、くっ、と押し上げるように感触を確かめている。何度か同じ動作を繰り返したとき、一点だけ、まったく違う感覚を伝える場所がある。

「ヒッ…………!」

 短く叫ぶように反応してしまい、存在を相手に認識させてしまった。彼の指は正確にその場所を押し上げる。

 びくびくと身体を震わせながら、身のうちから与えられる快楽に溺れる。何度か、同じ動作を繰り返され、僕のそこは刺激を拾えるようになる。

 ピストンじみた動きを滑らかに行えるようになると、ようやく指が引き抜かれる。拡がった孔が余韻を覚えているかのように空を食んだ。

 相手の腕が動いて、自らの下の服を脱ぎ落とす。服からまろび出た雄は、茹だったように色を変え、見たことのないほど膨れていた。

 触って育てる必要がないほど持ち上がった肉根ごと躙り寄られ、股の間に擦り寄せられる。

 触れた時、粘着質な音がする。くちくちと粘膜を擦り付け、突き入られる体勢が整った。脚が抱え上げられ、尻ごと持ち上がる。

「本当は……前回だって、こうしてしまいたかった」

「あ。ぁ、ひぅ……」

 ぐぷ、と太い部分が輪をくぐると、液体の滑りを使って肉棒が押し込まれていく。ずっ、ずっ、と少しずつ、だが確かに圧迫感が増していく。

 相手の雄から漏れ出ている液体が、ずりずりと内壁に擦りつけられる。体液のにおいが鼻先に届いて、性に圧されてくらくらした。

「ふっ、う……ひ、ぐ…………」

 力を失った脚を開かされて、圧倒的な質量を躰で受け止める。結合部は濡れて拡がり、アルファの生殖器をひっしと食い締めている。

 ぶらりと垂れ下がった袋は、蓄えている液体を予期させる。雄の茹だった液体が、胎の奥に叩き込まれる。

 口の端から、唾液が溢れた。きっと僕は前回の発情期で、こんな顔をしていたのだ。

 瞳を蕩けさせて、もしかしたら己の半身を持ち上げながら。こうやって、圧するような獣性に支配されたいと望んでいたのだ。

「ッ、七緒……。ずっと、こうしたかった…………」

「ん……ぼく、も。…………ぁ、うあ。……ふ、ぁああ!」

 指先で辿られた場所ごと、大きな塊が腹を突き上げる。躰の中身を造り替えるような、夢中で身体をむさぼるような動きを、ただ愛おしく受け止める。

 指よりも更に奥へ届く瘤が、ずるずると道を拓いていく。こつん、とその一点を軽く小突かれた時、全てが相手の手の内に握られた気がした。

 ふつふつと鈴口から煮えたぎった液が溢れ、身体の中に違う遺伝子を届けてくる。まだ薄い体液の次に、どろりと濃い、マグマのようなそれが来る。

 そして、この雄は最もふさわしい位置に照準を定めた。

「章眞さ、ァ……。そこ、は、…………だめ」

「けど。……たぶん、ここが」

 ずるん、と肉襞に挟み込まれながら、丸い部分が泥濘を捉える。そこに填め込んで、至近距離で叩き付けたいのだと、ずりずりと腰が動いた。

 発情期に性を交えたら、それは生殖に相違ない。このアルファはあわよくば種を付けようとしている。

 理解していて尚、僕の脚は相手の身体を抱くように挟み込んでいた。

「ひ」

 くぷ、と奥で鍵穴が見つかった。相手の唇が弧を描き、満足げに舌が動く。

 探るように、やんわりと腰が動く。二度、三度と揺らされて、やがて、抽送の動きへと変わっていった。

「あッ……。ひ、うぁ、ふ、……っぁ、ああぁッ! あ、あ」

「…………すっご、いな……ッ。もってかれそ……!」

 彼は腰を引くと、脚を抱えてめいっぱい突き上げる。ずっしりと肉の圧がかかり、こぷりと反った己の半身が液体を撒き散らした。

 ずぷ、ぐぷ、と内部を泡立てるようなピストンが続く。嬌声は濁り、腹を押し上げられる度に空気が混ざった。

 ずるる、と大ぶりに雄が引き抜かれる。脚から相手の手が離れ、僕の左右に手が突かれた。引き抜かれたそれが、慣れた道を駆け上がる。

 体重ごと、押し潰されるような突き上げがあり、ばつん、と肉同士がぶつかって音を立てた。

「…………ッふ。うあ、ぁー……」

「あぁ───、……あ、ひ。……ぁあああぁぁああッ!」

 びゅる、と吐き出された白濁が、腹の奥に叩き付けられる。一瞬である筈なのに、体を固定されている間、ぞくぞくと身を震わせるその時は異様に長かった。

 最後の一滴まで含ませ切ると、ようやく男根が引き抜かれた。ぶらり、と垂れ下がったそれは液体が混ざって濡れ、ぽたりとシーツに染みを作る。

 指を伸ばすと、握り返してくれる手があった。ぽつん、と僅かに枯れた声で言う。

「…………これでもう、……逃げられないね」

 ふふ、と笑った僕の隣に、章眞さんは力が抜けたように倒れ込む。ベッドの上で手を繋いで、いつもの困ったような表情をする。

 けれど、婚約をして、発情期を一緒に過ごしては流石にもう逃げられまい。

「ああ。ずっと一緒だ」

 腕を伸ばして首筋に縋り付いて、その頬に吸い付く。

 過剰に肌を擦り付けて、こっそりと相手の熱を高めていた僕の意図に章眞さんが気づいた時には、二人揃ってまたシーツの中だった。

 

 

 

 若くない、と嘯く割には章眞さんは容赦なく僕を抱いたし、僕も気が向けば相手を誘い続けていた。最後まで彼の男根が萎えることはなく、同じ温度で発情期を越えられた事に安堵する。

 発情期明けで目覚めた朝、僕はキッチンから立つ音に導かれて起き上がる。扉を開けて番を探すと、彼はフライパンでいい匂いのするものを焼いていた。

 横から覗き込むと、中身はフレンチトーストだった。

「おはよう。章眞さん」

「お。おはよう七緒、よく眠れたか?」

「うん。ぐっすりだったよ」

 おいで、と手を広げる彼の胸に抱きつき、ぎゅう、と抱き締めて離れる。僕たちが抱擁している間も、じりじりと砂糖の焦げる音と、甘い匂いが漂っていた。

 僕がリビングへ行かずに見守ろうとしている事を悟った章眞さんは、僕にフライ返しを預けてくれる。

 僕はきつね色になるまでフレンチトーストを見守り、出来上がった皿を食卓に運ぶ。旅先で食べた品とは比べるべくもないが、こちらも美味しそうだ。

「いただきまーす」

「いただきます」

 発情期明けとはいえ、行為の合間に手軽に食べられる物を与えられ、動いていた割には痩せている様子はない。

 向こうも血色が良く、悩みが晴れたような清々しさがあった。

 僕たちは美味しくできたフレンチトーストをつつきながら、初めて共有した発情期の感想を語り合う。

「────そういえば、章眞さんがベッドの中で言ってたことで、気になってた事があるんだけど」

「なんだ?」

「僕のこと『ずっと抱きたかった』って、いつ頃から?」

「え?」

「いや。出会った頃から僕、けっこう育っちゃったから。その頃から好きだった、とかだったら、身長も伸びて、がっかりしたかなと…………」

 章眞さんは、がちゃん、とフォークを皿に落とすと、じたばたと妙な格好で手を横に振る。

「違う……! ずっとってのは、成人した後のことで、前回の発情期からって話……。ほら。七緒からやんわり避けられて、長く感じてたって事だよ!」

「じゃあ、今の僕でいいの?」

「むしろ、今くらいまで育ってなかったら、オメガとして意識してないよ」

 とはいえ、僕はこれからも歳を重ねていく訳で、幻滅される心配がなくなったのは安心だ。

 ぱくぱくと熱心にフレンチトーストを食べていると、伸びてきた指先が、僕の口の端にくっついていた粒を持ち上げる。ぱくり、と相手の口に運ばれてしまった食べかけを見送り、ふわふわの笑顔を浮かべる。

 番としての関係性が増えても、昔から変わらないものもある。残った休暇を過ごす間、僕はひたすら優しく世話を焼かれ、僅かにふっくらと育って日常に戻るのだった。

きみつが
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坂みち // さか【傘路さか】
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