ただ君の顔が好きである

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※R18描写あり※
18歳未満、高校生以下の方はこのページを閲覧せず移動してください。
この作品にはオメガバース要素が含まれます

 

【人物】
碌谷 遊(ろくや ゆう)
有菱 環(ありびし たまき)

▽1

 夕食にしては遅い時間に、誰もいない実家に帰宅する。

 日常のルーチンは今日も変わらず、左手にはビジネス鞄を、右手には買い物袋を提げたまま玄関扉を開けた。

 通りすがり様に、姿見に自分の顔が映る。

 表情を何処かに置き忘れてきたかのように唇は引き結ばれ、疲れからか寒さからか、血の気の引いた顔色をした男が立っていた。

 郵便受けから取り出した封筒を指定のカゴに放り込みつつ、自分の名を探す。普段なら全てカゴに放り込むことになる封筒は、今日は一通だけ手元に残った。

 『碌谷 遊 様』

 靴を脱いで揃え、玄関の隅に置く。

 よく使われている靴は出歩く主人と共に外出しており、つるりと磨き上げられた床面をがらんどうに見せていた。

 広い廊下は歩く度に勝手に照明が灯り、リビングのソファに鞄を投げ出して食卓へ向かう。

 机の上に買い物袋を置き、中から買った弁当を取り出す。間を空けず電子レンジに放り込んで、あたためのスイッチを押した。ぼう、と力なくランプが灯ったのを確認し、片手に握り続けていた封筒を開く。

 中身は、自治体主催の見合いパーティーの招待状だった。

 見合いだけあって自らの性別を明らかにして、という類いのものだが、アルファ、ベータ、オメガどの性別でも参加が可能のようだ。また、二十代後半から三十代前半まで、ときっちり年齢制限がされての招待らしい。

 役所のホールにて開催されるそれは、抽選会やクイズ大会などの小さなイベントこそあれど、基本的には立食の時間がメインだ。参加費は自治体負担、お土産なども用意された催しだった。

「ベータ限定、じゃない……?」

 引く手あまたなアルファの参加者はいないだろうが、ベータだけではなくオメガも参加可能といい、途中に挟まれる小イベントのゆるいラインナップといい、見合いパーティとはいえ気軽なものらしい。

 服装もドレスやスーツ不可、カジュアルな服推奨と記載されており、役所のホールだものな、と場所も含めて納得する。

 とはいえ、参加したいかと言われれば否だ。書かれていたコードを読み込んでウェブページを見てみたが、参加者登録ボタンには指が伸びない。

「せっかくの休みになぁ」

 温まった弁当を取り出し、蓋を開けると湯気が立つ。箸を指に挟んだまま、いただきます、と呟いて鮭に口を付けた。

 いくら食事代とお土産が無料とはいえ、本気で恋人が欲しい、という訳ではない人間が冷やかしに行くのは申し訳ない気がする。

 しかも『オメガ』が、だ。

 職場では性別を明かしており、発情期には家族には家を空けて貰っている。とはいえ、ベータが多数のパーティに男のオメガが行くのは肩身が狭い。

 うだうだと考えながら咀嚼し、ウェブページを指先でスクロールさせていると、指の端が参加者登録ボタンに触れてしまう。

 遷移したページがすぐ申し込みページ、という訳ではなかったが、それぞれの性別で規定人数に達しているかどうかの表示があった。

 『アルファ:○ ベータ:△ オメガ:○』

 ページの下部には凡例として『◎:参加者募集中、○:空き多数、△:空きあり、×:満員』と書かれている。あれ、と俺は米粒を飲み込んで首を傾げる。

 アルファの欄が、『◎』ではなく、参加登録をしている人がいるのだ。驚いて目を瞬かせる。

「まぁ、……アルファでも、見合いパーティ行きたい奴、も、いるか……?」

 呟いている俺の感覚では、珍しい人もいるものだ、と思う。同じ年くらいのアルファはたいがい番持ちだし、逆に番を持とうとしない、遊び好きの危ない相手もいる。

 もしパーティへ参加するとしたら、後者のはずだ。

 けれど、ぴたりと指先は止まり、ページを閉じるのを惜しむ自分がいる。そんな奇特なアルファがいるのなら見てみたい、とも、つい思ってしまった。

 既に申し込みをしたオメガもいる、その事実も背を押すばかりだ。

「あー…………」

 ふと、就職前に運命の番を探せないか足掻いていたことを思い出した。

 無駄に歩き回ってみたり、遠方を選んで旅行をしてみたり、と今思えばもっとやりようがあったであろう努力をしていた苦い記憶ばかりが蘇る。

 本当なら大学生時代、近くにいたはずのアルファと仲良くなろうとすべきだった。

 だが、万人に埋もれるような顔立ちも押しの強くない性格もそうだが、最大の欠点とも言うべきなのがこの表情筋の動きの悪さだ。

 動きが少なく緩慢な所為で、面白いと思っているのに面白くないのだと誤解させてしまうのが常だった。

「…………土産貰いに行くか」

 参加希望欄に情報を記載し、申し込みのボタンを押す。

 あの時に足掻いた自分を無駄にしたくなかった気もするし、そんな大層な想いではないような気もした。

 ただ、送り終わった後の自分は、大仕事をやり遂げたかのように長く息を吐く。

 抽選会で何か当たればいいな、だとか、美味い食事が食べられるといいな、と思いながら放置していた弁当に向き直る。

 考える時間が長すぎたのか冷え切った弁当は、また温める羽目になった。

 

 

 

 見合いパーティーまでの期間、『キレイめカジュアルな私服』とは何かを考えつつ過ごす。だが、結局のところ何も分からず、餅は餅屋、と普段より少し高めの服屋で一式揃えて貰うことにした。

 明るめのジャケットに濃い色のニット、裾を絞ったパンツを合わせ、手持ちのシューズを磨いて合わせる。

 清潔感が保たれる程度の長さの髪は、会社でもあるまいし、と分け目を変えた。柔らかい所為で纏まりづらく、仕事の時はかっちり固めるのだが、今の服にはそれも似合わない。

 はっきりとしない二重と、濃い色の瞳。どのパーツが際立つわけでもない人の記憶に残らない顔立ちが、前髪の向こうからこちらを見返していた。

 緊張が滲み出ている所為で、顔の強張り方も隈も酷い。

 朝早くに出掛けていった両親はアルファとオメガだが、オメガの母親は俺よりもはっきりとした目鼻立ちをしている。

 兄二人もアルファな為、祖母似、と言われる俺の顔は家族写真の中でも浮いて見えた。

「今日のミッションはお土産を貰うだけ」

 自分に言い聞かせるように靴の踵に指を差し込んで皺を直し、ボディバッグを背負って家を出た。

 久しぶりに朝から外に出歩いている気がする。休日は疲れて昼ごろ目を覚ますことが多く、眩しい日差しを浴びると目元が僅かに傷んだ。

 普段は縁のない役所までの道のりは物珍しく、子どもの頃から変化した街並みを眺めながら歩いた。

 外観だけしか気にせずに選んだシューズは足裏が痛み始め、立食だったことを思い出して既に後悔し始める。

「受付はこちらです」

 役所のホールに近付くと、誘導の声と、同じ年代らしい人々が受付をしている様子が見えた。学生時代の旧友の姿を無意識に探すが、出入りが激しい都市部だけあって見知った顔もいない。

 時間を確認し、あまり余裕もないことに気づいて受付に並んだ。

 招待状と名前などを確認され、性別で色分けされたステッカーを服の上に貼る。ちら、と受付を終えた面々を見ていると、ベータの色が多いが、オメガの色のステッカーを貼っている男女もいた。

 待合スペースの隅に座って待つと、隣の会話も聞こえてくる。

 真剣に相手を探すというよりも、手に入りづらいゲーム機がラインナップされた抽選会の景品や、食事、お土産の内容を話している声の方が聞こえてくるくらいだ。

 なんだ、と肩身の狭さを気にしすぎていた自分に嘆息する。

 参加を悩んだ一瞬、血が巡るようなあの感覚を思い出して、おそらく、がっかりしたのだろうと思う。

「あっ……、ごめんなさい!」

 軽くぶつかるような音と、女性の謝る声に顔を上げる。斜め前で、その女性は長身の男に向かって頭を下げていた。

「いえ、こちらこそ不注意でした。痛みはありませんか?」

 柔らかい声音で告げる男性の容姿に目を見開く。

 その薄い髪色と肌の色は彼を異国人めいて見せ、長身ですらりとした体躯ながらいくらか筋肉が服を押し上げているのが分かる。

 アルファだ、と直感的に分かった。

 彼の立っている場所だけが、浮いて見える。隙さえも愛嬌として見えるほどで、普段はモデルをしている、と言われても納得できた。

 目元ははっきりと主張する二重で、綺麗に垂れ気味のカーブを描いている。眉も薄く、顔立ち自体からの圧はない。

 しかし、あまりにも市井に紛れるには綺麗すぎる気がするし、小心者には会話するのに気後れする。

 アルファの中でも番を得るのに困っているというよりは、あえて番を持たないようなタイプに思えた。それにしても、彼の容姿なら遊び相手を探すにしろ、見合いパーティなど必要無いだろう。

 何故、あえて参加登録してまでこの催しに参加したのか、疑問で仕方なかった。

 男はすぐにオメガのステッカー纏った参加者に囲まれ、ひときわ賑やかになる。ベータも視線をちらちらと向けているが、無理もない。彼がいる一角だけ、全く別のイベントでもやっているようだ。

「──……────?」

 面白がって眺めていると、偶然こちらを見た男と視線が合う。

 愛想笑いを浮かべようとして、うまく笑えずに口の端に手を当てる。悩んでいる内に、いちど絡んだ視線は解けていた。

 やがて、係員から誘導があり、会場であるホールに向かう。

 中は明らかに備品であろうテーブルが並んでおり、その上に大皿に盛った食事が並んでいた。自治体主催とはいえ、いくらか協賛もあり、ホテルから取り寄せたような食事ばかりだった。

 時間進行も緩く、もう食事を始めてもいいらしい。皿を受け取り、記念日などにしか口にしない料理を取り分ける。

「美味……」

 アルコールの提供はなかったものの、口にする料理はどれも美味しかった。

 ちら、と人だかりになっている場所を眺める。周囲の人々から一人だけ身長の高いその輪の中心は、薦められる料理を受け取りながら微笑んでいた。

 あからさまに押せ押せ、という空気が滲み出ていて、ベータの中からも面白がって視線を向けている者もいる。久しぶりにアルファと接触を持つというのも目当てだった筈なのだが、あの空気を見ていると自分も行くのは申し訳なくなってしまった。

「では、これから○×クイズ大会を開始します!」

 やがて全員参加の地域クイズ大会が始まり、抽選会と続く。

 わらわらと移動する所為で、ベータやオメガ問わず、わいわいと近くにいる人に声を掛け合った。その中には連絡先の交換などをしている人もおり、多少なりとも成果が上がっているのを目にする。

 案外、休日の過ごし方にしては悪くない空気だった。

 俺のように積極的に話しかけに行かない景品目当ての人もおり、とはいえ抽選会の参加賞に土産まで貰えるのは悪くない。

 知らなかった地元の観光地や、縁のない業界話。耳に届く新しい話題は物珍しさに溢れていた。

「続いて、一対一でのトークタイムを開始します」

 トークタイムは抽選会と似たような形で、番号が呼ばれた者同士で用意された外のブース内で話をする時間のようだ。とはいえ、用意されたブースも限られているため、運が悪ければ呼ばれずに会食を続けることになる。

 この時間になってくると腹いっぱいになり、眠気に手招きされ始める。会場の隅に用意された椅子に座って、ホール内をぼんやり眺めていた。

「────二十三番、……──」

 自分の番号を呼ぶ声に、はっと我に返る。

 本当に自身の番号か疑いつつ立ち上がり、呼ばれた人が集められている方向に歩いていった。

 誘導された場所では、ブースで区切られたスペースがあり、机が一つと向かい合わせに椅子が設置されている。

 片方の椅子に座って待つと、やがて向かい側の椅子の後ろに人が立った。

「こんにちは」

 にこりと笑って告げたのは、物珍しいアルファのあの男だった。目を見開きつつも、不自然にならないように慌てて口を開く。

「……こんにちは。碌谷といいます、よろしくお願いします」

「有菱です」

 抽選会の特賞よりも、人によっては当たりだと思うような男が来てしまった。彼に見えない位置で、拳をぎゅっと握り込む。

 彼は似合わない事務椅子に腰掛けると、俺に視線を向けた。目を惹く造作の所為か、向けられている視線が自分には眩しすぎる。

 あからさまでない程度に視線を逸らしつつ、指先を自身の服に滑らせた。

「抽選会、何か当たりました?」

 当たり障りもない言葉を放ち、そわそわと答えを待つ。俺を捕らえる眼差しは逸らされないまま、有菱、と名乗った男は眦を緩める。

「近くの百貨店の商品券」

「え。いいなぁ……」

 気の抜けた言葉を返してしまい、くすくすと笑われた。彼は懐から封筒を取り出し、机に置いてこちらに滑らせる。

「あげるよ」

「え!? いや、あの。そんなつもりじゃないし、貰えない」

 せいいっぱい封筒を押し返すと、そう? と有菱さんは残念そうに懐に仕舞った。明らかに賞品目当てではないような行動に、疑問が浮かぶ。

「有菱さん、って賞品目当てに来た訳じゃないんですね?」

 うん、と彼は迷いなく頷く。

「番のタイプに拘りすぎる弊害が出ていて、解消の為に色んな人とお話ししたいな、と」

「拘り、って……匂いとかですか?」

 口に出して、目の前の人物の匂いを自覚する。軽く香水を纏っているようで分かりづらいが、やっぱり微かなフェロモンが彼自身を主張していた。

 複雑に混ざって、これと特定できない掴みづらい匂いだ。

「いや。……顔が……なんというか…………」

「面食い?」

 もののずばりを言い当てたのか、彼は苦笑と共に観念して肯定した。

「多数が綺麗だと言うような人ばかりを好きになる。面食いみたいだね」

 へぇ、と思わず言葉が漏れ出た。とはいえ、彼くらいの美形ならばそう要求しても嫌味に思えないのが不思議だった。

 彼の隣に釣り合う美貌が並んでいるのは芸能人を見るような感覚に近く、自分はそれを嫌悪したりはしないだろう。

「……それって、改善しなきゃいけないもの、……です?」

「一生ものの番を見つけたくとも、長続きしなくて焦ってるんだよ」

 彼が漏らす笑みは情けない空気を纏い、眉も下がってしまう。俺から見ればそのうち番は見付かる気がするが、相手にとっては深刻な悩みなのかもしれない。

「こういったきっかけを持つの、いいことですよね。でも俺、この年代のアルファの人が参加してることに驚きました」

「あぁ……。そうか、俺の歳になると、アルファの参加者も減るなぁ。同年代も番持ちが増えてきたからね」

「俺もです」

 はは、と声だけの笑いを揃えて。これだけタイプの違うアルファとオメガでも共通点はあるのだな、と面白く思った。

 久しぶりにアルファと近くでじっくり話すことへの気負いも、杞憂だったようだ。

「面食いかぁ……。じゃあ、服とかも拘る人ですね」

「そうそう。でもこれは自社製品で」

 さらりとジャケットを持ち上げて紹介する服は、布地もしっかりとしているし、シルエットも綺麗だ。

 彼はキレイめカジュアル、に数日間悩まされた俺と対極にいる。

「服を選ぶノウハウがあるの羨ましいなあ。俺、今日のパーティの服もかなり迷いましたよ。カジュアルだけど名目上、お見合いパーティじゃないですか」

「あぁ、俺も悩んだよ。最初に一式揃えたらあまりにもかっちりしすぎていて────」

 服談義に花を咲かせていると、そのうち時間制限が来る。

 アルファ相手に途切れず話せたことに満足感を覚えつつ、じゃあ、と席を立った。振り返ろうとした服の裾が引かれ、頭の方向を戻す。

 軽く目を伏せた有菱さんが、言葉に迷うように口を開けて閉じた。

「あの、言葉は普通だから。不機嫌、だった訳じゃないんだよね?」

「ああ。よく無表情って言われます、あんまり顔が動かない質で」

 俺の言葉に、ほっと息が漏れた。ずっと気にさせていたのなら申し訳ない、と眉を下げる。

「……あと、香水付けてる?」

「いや、あんまりそういうのは苦手で。ここまで歩いてきたので、汗臭かったらすみませんでした」

 匂いが得意ではない、と、香水を選ぶことが苦手、な両方の理由が俺を人工的な匂いから遠ざけている。

 何も考えずにそう返すと、有菱さんは不思議そうな顔をして裾を離した。

「そういう訳ではなくて、いい匂いだと思うよ。……ありがとう」

 離れていく自分の手とは造りの違う指先を見送り、改めて軽く頭を下げてその場を去る。

 高く鳴っていた鼓動の余韻で胸が痛い。ホールに戻った途端、胸元を握り締めて大きく息を吐いた。

 俺の後にもある程度の人数が呼ばれ、それぞれの交流が過ぎていく。一対一のトークタイムが終わると、パーティも最終イベントだ。

「これから仲良くしたいと思った相手の番号を紙に書いて────」

 司会が投票用紙の説明を進めていた。仲良くしたいと思った相手の番号を書いて、規定のボックスに入れるらしい。

 もし、両思いの二人が成立すれば、後ほど読み上げてくれるそうだ。

 俺は白紙の投票用紙を見ながら、困り果てていた。これまで多少の会話は発生したが、番号を覚えていない。周囲では忘れた相手の番号を見に行こうとしたり、紙に何事かを書く人達がいる。

 その中で、投票用紙を折りたたんでポケットに入れてしまう人がいた。

 ああ、と目を見開く。変に相手が成立して面倒ごとになるくらいなら、投票しなければいいのだった。

 俺は近くの係員に書きたい相手が見付からなかった、と伝え、投票用紙を返却した。

 集計用のボックスには、相手の番号を書いた人達が投票へと向かっていく。その中には先ほど話した有菱さんの姿もあった。

「いい人が見付かったんだ、良かったなぁ」

 悩んでいた姿を思い出して、独りごちる。邪魔にならないようにホールの壁に身体を預け、集計時間から続く発表をぼんやりと見守った。

 だが、マッチングされた二人組の中に、有菱さんの姿はなかった。あんな引く手あまたに見えるアルファでも、両思いになれないことはあるらしい。

 閉会の挨拶があり、出口付近でお土産の配布が始まる。地元の和菓子店の詰め合わせセットはどうやら好きな菓子が詰まっていそうで、浮上した気分と共にホールを後にした。

 ざわざわとお相手と話している二人組の間を、すいすいと抜けて歩く。人の群れから解放されると、眩しい日差しがまた目を刺した。

「────碌谷さん……!」

 背後から名を呼ぶ声がして振り返ると、人波を掻き分けてこちらへ来る有菱さんの姿があった。

 不思議に思いながら歩み寄ると、目の前に荒く息を吐くアルファが立つ。

「有菱さん。パーティお疲れ様でした。……えっと、俺、何か忘れ物でもしましたっけ?」

「そうじゃなくて、連絡先を交換できないかと思って」

 ぱち、と彼の姿をいちど瞼の裏に隠して、改めて相手を見る。

 綺麗な顔立ちは、僅かに上気していた。日差しがきらきらと薄い色の髪に反射して、やっぱり眩しく映る。

 無言でいる俺の返事を待っている姿に、鞄から携帯電話を取りだした。

「いい、……けど。俺、基本的に愛想は無いらしいし、十人に聞いても一人も美形だって言われない顔だけど?」

 首を傾げて携帯電話を持つ腕ごと差し出すと、有菱さんは我に返ったようにポケットから携帯電話を取り出す。

 端末を操作する指先は縺れ、俺の反応に虚を衝かれたようだった。

「面食いを直したいんだから、碌谷さんがいいよ」

「…………『美形だって言われない』ほうを否定してほしかった」

 有菱さんは失敗した、とでも言うように視線を逸らし、背中を丸めた。差し出してくる端末同士を突き合わせ、互いの連絡先を交換する。

 携帯電話を鞄に仕舞い、ふむ、と顎に手を当てた。

「俺も番は欲しいから、アルファと接触できそうな機会があったらくれると嬉しい」

「……碌谷さんの、顔の好みは?」

「区別がつかない。アルファは大体みんな美形だって思う」

 言葉を吐いて、無にも等しい要望を出したこと自覚した。

 温かい風が、無言を纏って二人の間を通り過ぎる。答えを聞いて、彼は困ったような、いびつな表情をしていた。

 

▽2

 彼を位置づけるなら、久しぶりにできたアルファの友人、といったところだろうか。

 だいたい仕事が終わった頃に連絡が来て、俺は弁当を食べ終わった後、のんびりしつつメッセージで世間話をする。しつこいほどでもなく、適度に話をしては打ち切ってくれるあたり、相手の距離の測り方は上手い方なのだろう。

 メッセージアプリのプロフィール欄にはビジネス姿の彼の写真と、代表取締役、という文字が並んでおり、俺のアプリの友人欄の中では異彩を放っている。

 メッセージ越しでは面食いを直すも直さないもなく、暇ではないだろうに、ほぼ毎日連絡が来る。交流をしようと申し出たのがあちらとはいえ、律儀なことだった。

 また会うことになったのは、仕事帰りに飲もうという誘いからだった。

 その日も買ってきた弁当を食べ終わり、茶を淹れて一息ついていた頃、有菱さんから連絡が来たのだ。

『魚が美味しい店があるよ』

 店のウェブページが共有され、中を見ると半個室の落ち着いた店構えだ。だが、料理の写真などはあまり載っていない。

 隠れ家的な店なのだろうか、縁が無さそうだと思いつつ返事を綴る。

『会社から行きやすそうな場所だし、機会があったら行ってみるよ』

 いつもなら直ぐに来る返事が、少し間を置いた。俺は傍らに置いている湯飲みを持ち上げ、口元に運ぶ。

 熱々のまま緑茶を淹れすぎた所為で、唇に熱い湯がかかる。あち、と呟いて、湯飲みごと食卓の机の上に逃がした。携帯電話がピコン、と音を立てる。

『今度、仕事帰りに行かない?』

 浮かんできた文字を見て、首を傾げる。かなり長い間、飲みの誘いであることを認識できなかった。

 そういえば、そもそも連絡を取るようになったのは彼の面食いを直すためだった。もっと会って話をするべきなのだろう。

『いいよ。金曜とかにする?』

 そう打ち込むと、相手がスケジュールをチェックしているらしい間が生まれた。

『今週? 空いてる』

『じゃあその日に。待ち合わせは────』

 仕事が終わったら集合、という事で話を纏める。改めて手に取った湯飲みは適温で、美味しく茶を喉に流し込んだ。

 仕事帰りならばキレイめカジュアルに踊らされることはないのだが、ネクタイには迷うものである。手持ちのスーツ類を思い浮かべながら、その日は就寝した。

 金曜日まではいつもと変わらず過ごし、夜にふんわり生まれる雑談にも慣れ始める。

 待ち合わせた日は普段よりも意識して仕事を進め、終業になった途端に片付けを始めた。取り敢えず脱出しないことには、と挨拶をしてロッカーに向かう俺を珍しげに見る視線は職場に残してきた。

『職場を出たよ』

 鞄から出した携帯にそう打ち込んで、送信する。

 最寄り駅から電車に乗り、二人の職場の間あたりにある駅での待ち合わせだ。電車に乗り、つり革を掴んでいる間に返信が届いた。

『俺も仕事終わった、すぐ向かうね』

『ゆっくりでいいよ』

 返信して、車窓からの風景を眺める。

 日も落ちてぽつぽつと明かりが灯る風景を、電車が猛スピードで突っ切って抜けていく。この速度では、迷いからの足踏みすら許されない。

 もうちょっとゆっくり走ってくれてもいいのに、とつり革を何度か握り直した。

 少し早めに駅に辿り着き、トイレで身だしなみを整えてから、待ち合わせ場所に着いた旨のメッセージを残す。

 浮き足立つ心を落ち着け、全く内容が入らない駅広告に視線を向けた。瞳が律儀に文字を辿るだけの行為を繰り返していると、どうやら時間は過ぎていたらしい。

 背後から、とん、と肩に手が置かれる。

 びくん、と跳ね上がるように反応し、慌てて振り返った。

「お仕事お疲れさま」

「有菱さん……。びっくりした」

「うん。びっくりした顔は分かりやすかった」

 胸を押さえると目の前の男は、あはは、と罪悪感も無さそうに笑った。咎めるように目を細めると、有菱さんはそれすらも意に介さない様子で俺の腕をとんと叩く。

「今日おごるから、許してよ」

「いやだ。自分の払いじゃないと気兼ねするからあんまり食えないし」

 彼は眉を上げ、仕方なさそうに息を吐く。行こ、と促すと、道を知っているらしい有菱さんが少し前を歩き始めた。

 並んで立つと、顔を見るためにはやっぱり軽く見上げることになる。アルファ相手と分かっていても、物珍しさを感じた。

 歩幅はさり気なく合わせられ、普段と同じように歩くことができる。脚の長さだって違うはずなのに、それを俺が実感することはなかった。

「俺の顔、慣れてきた?」

「……まあまあ。でもまだ会うのは二回目なんだから、ゆっくり慣れさせてよ」

 焦りすぎたか、と反省して口を閉じた。

 俺と長く過ごして無表情で普通の顔の男を見慣れれば、彼の面食いのハードルは下がりそうなものだ。ひいては彼の番候補の幅も広がると言うことで、俺との交流は悪くない結果を生むはず。

 俺は彼にアルファとの仲介を頼めたらいいかな、くらいで気楽なものだった。こうやってアルファという護衛付き、美味い飯付き、で飲めるのも嬉しい。

「ふだん連絡してる時間って、空いてる?」

 歩きながら、有菱さんが問い掛けてきた。口元からは白い息が漏れ、夜の冷えが忍び寄っているのが分かる。

「弁当食べて、のんびりしてる時間だから空いてる」

「弁当?」

 その単語を問い返されるとは思わなかった。手抜きへの気まずさから視線を逃がす。

「作るの面倒なんだよ」

「俺もたまに作るくらいかな。……じゃあ、またあれくらいの時間に連絡していい?」

「うん。合わせてくれるのは助かるけど、ほどほどでいいからな」

 無理をしないよう念押しすると、分かっているようないないようなトーンで返事があった。

 ひゅう、と強く風が吹くと、隣で歩いている有菱さんの速度が落ちた。少し前を歩いていた距離が狭まり、ほぼ並んで歩くような位置取りに庇われているのだと察する。

 こうやって、完全に庇護される側に立つのも珍しい。いい機会だ、と守られている体温を享受した。

「そっち側、寒いだろ」

「なんとこのコートも自社製品なんだ、温かいよ」

 おどけるように襟をつまみ上げて見せる動きに、はは、と笑いで返す。彼が手掛けている会社の服は俺にとって少し背伸びをするような値段だったが、質は当然高い。

 裾の厚みを触らせてもらうと、適度に重さのある造りだった。

「店ってどのへん?」

「本社の一階に店があるよ。こんど案内する」

 歩いて行く道の途中で、有菱さんの視線が店先のオブジェへと向く。金属でできたアヒルのようなオブジェを眺める視線を追った。

「ちょっと時間もらっていい?」

「どうぞ」

 有菱さんは携帯電話を取りだし、そのオブジェを写真に収める。きちんと撮れたか画面で確認し、興味本位で一緒に覗き込む俺に過去に撮った写真を何枚か見せてくれた。

 ついで、とばかりに俺にもカメラのレンズが向けられたため、適当なポーズを取った。間を置かずにシャッター音が鳴る。

「美形に撮れた?」

「撮れた撮れた」

「……同じ言葉を二度言うのって嘘なんだっけ」

 俺がわざとらしく語尾を上げると、有菱さんの眉が下がり、視線が逸らされた。ごほん、と咳払いをして、俺を見下ろす。

「かわいく撮れたよ」

 誤魔化すように伸びた指先が俺の前髪を乱す。無愛想な男がする素の表情の何がかわいい、だ。あのな、と文句を言うと、笑いながら大股で歩み去られる。

 何だったんだ、と思いつつ、同じように脚を開いて後を追った。

 しばらく歩いて辿り着いた店は、送られてきたページの写真通りだった。俺ひとりなら絶対に入ろうとはしない落ち着いた店構えだ。狭いスペースながら店先には砂利が敷かれ、店名は背後から照らす明かりで押しつけがましくなく主張する。

 有菱さんは気負いなく店に入っていき、和服を着た従業員であろう女性が出迎えた。

「────……──」

 二人が話しているのをいいことに、物珍しく店内を眺める。店内も木を基調とした空間で、外から見た敷地のイメージよりも余裕のある造りに見えた。

 出入り口近くには予約無しでも通してくれそうなテーブル席が並んでいるが、これから案内される個室として用意されている席数はかなり少なそうだ。

 次来るなら表のほうの席かな、と考えつつ、促されるままに店員の後について廊下を歩いた。案内された席は半個室席で、気を遣ってくれた有菱さんにコートを渡して席に着く。

 落ち着いたところで酒を選び、二人以外がいなくなったところで力を抜いた。

「俺、たぶん普段なら表のほうにあるテーブル席にしか来ないな」

「ああ。表のほうにも席があると、店自体には入りやすいよね」

 やがて食卓の準備が始まり、続けて酒も届く。

 料理に押し付けない程度の味わいのある日本酒を持ち上げ、互いに乾杯、と呟いた。酒は強いのか問うと、最近はひどい失敗はしない、とゆるりと微笑まれる。

 杯を重ねないように気を付け、運ばれてきた料理に箸を伸ばす。季節としてはもうすぐ本格的な春、というところだが、皿の上にはもう爛漫の春が訪れている。

 歓声を上げ、料理を口に運んだ。

「春の皿、悪いものが出て行きそうでいいな」

「あぁ。あんまり苦みも強すぎないしね」

 興味深くじっと皿を眺め、視線を上げると、和食の楽しみだよね、と放っておかれているにしては寛大な言葉が返る。

 黙っていたとしても、適度に放任してくれるのは有難かった。

「頼んだお酒、味はどうだった?」

「舌が鈍いからぜんぶ美味い。けど、今日は料理も美味しいから、今飲んでるくらいの味が好いかな」

 甘味がどう、辛口がどう、と感想を述べながらのんびりと酒も進めた。

 目の前の男は、言葉は緩んでいるものの背はしっかりと伸びたまま、この隙の無さは褒めたくなるほどだ。

 自宅に帰ったところで、気が緩む姿を見せることはあるのだろうか。僅かに彼という人間への興味が湧いた。

「有菱さん、ってリラックスできる時間ある?」

「……いまだって、酔いは回っているしリラックスしてると思ってたんだけど、そうは見えない?」

「んー。ほんとに姿勢とか言葉とか、抜けてるとこがないんだな。身に染みついてるのか」

 俺の言葉が否定だと悟ったのか、彼の視線が僅かに上を向いた。俺相手だと寛げないんだろう、と嫌味を言ったようにも思えて、繕う言葉を紡ぐ。

「ごめん。悪い意味じゃなくて、有菱さんが……完璧だなって感じがしただけ」

「完璧からは遠いよ。そうだったら、もっと早く番が見付かってる」

 俺はその言葉に反射的に首を傾げ、なんでそう思ったんだろう、と頭を浚う。ああ、と思い付いた答えを口に出した。

「完璧って、それはそれで番は見付かりづらい気がするな」

「そう?」

「うん。だって、今の有菱さんに、俺は要らないよな、って思うもん。あと、俺にとっては自分がいなかったら相手は成り立たない、ってのは魅力、かな」

 伝わるだろうか、と瞳を覗き込むと、どうやら伝わったようでこくりと頷き返された。くい、と目の前の男は杯を干して、ことん、と手から抜けるようにテーブルに空いた杯を置く。

「……毎日、話しかける時間はちゃんと時計を見るし、……返事が遅れるとそわそわする。今だって、嫌ではないかと緊張しているよ」

 造りのいい顔立ちは憂いに満ち、視線は下がったままだ。心細げに言う声のトーンに、僅かに胸が疼く。

 おや、とその変化をやり過ごして、表情が出ない顔は平常時のまま保った。

「今のは擽られる感じがして良かった」

「どうも。参考にするよ」

 本気にしていないような響きだが、まあいいか、と口を噤む。空いた杯に日本酒を注ぎ、更に飲むように促す。

 くっと干すときに見える喉は、気持ちよく隆起していた。

 

 

▽3

 それからはまた穏やかに食事を進めていた。だが、鞄の中に仕舞っていた俺の携帯が突然鳴り始める。着信は珍しく、断りを入れて個室の外で電話に出た。

 電話の主は母親だ。

『突然ごめんね。まだ仕事中?』

 いつもより早口な言葉に、家族の身に何かあったのかと背筋が冷える。耳元から携帯を離さないまま、汗で滑らないように握り直した。

「いや。知り合いと飲んでるとこ。どうした?」

 こくん、と唾を飲み込む。

『お兄ちゃんが仕事場で、同じ職場のオメガの人からフェロモンを受けたみたい。それで、急に発情期になっちゃったの』

「わ。ずいぶん昔にはあったけど、久しぶりだな。兄ちゃんは平気?」

 命に関わるような事態ではなくほっとしたが、母が急に連絡を入れてきた理由も察する。発情期のアルファには感情のコントロールが難しい。力のない俺や母が家にいない方が安全だろう。

『ええ。本人は家まで送り届けてもらったし、私はしばらく実家に戻って仕事はそちらから続けようと思っているの。遊も家に帰らない方がいいと思うんだけど、仕事もあるし、土日だけうちの実家に来る?』

「うーん、それならこっちでホテルでも取るよ」

『そう。じゃあ、必要なものがあったらお父さんに連絡してね』

 細かいことを確認して、電話を切る。少し酔いも回っていることだし、この近くのビジネスホテルにでも泊まれるなら逆に都合がいい。

 兄を心配しながら、個室に戻った。俺を出迎えた有菱さんは、やや強張った表情に気づいたのか、案じるように顔を覗き込んできた。

「……まだ分かりづらいけど、あんまり良い知らせじゃなかったみたいだね?」

「あ、いや。職場で兄がオメガのフェロモンに当てられて発情期になったみたいで、家に帰らない方がいいって。今日はホテルでも取ってくれってさ。酔いも回ってきてるし、この近くでホテルでも取ろうかと思ってるとこ」

 食事はメインどころも終わって終盤、あと一品程度で終わりの筈だ。以前もあったことだと安心させるように言葉を続け、席に座った。

 僅かな間ののち、顎に指先を当てた有菱さんは気負いなく呟く。

「うちに来る?」

「は……?」

 あまりにも突拍子もない提案に、あまりにも気の抜けた声が出た。俺の反応に驚いたように見開かれる瞳に、俺の反応の方が可笑しいのかとすら思えた。

「飲み直しがてら、ゲスト用の部屋に泊まったらどうかな、と思ったんだけど」

「はぁ…………」

 俺がオメガだってこと、この人は記憶に残っているんだろうか。とはいえ、襲われそうで嫌だ、と言うほうが意識しているような気がして憚られる。

 断り文句を浮かべては消し、挙げては下ろした。

「迷惑だろうし……」

「ほら、泊まっている間は碌谷さんを見ていられて俺も都合がいいし。碌谷さんだってホテル代も食費も浮くしね」

 内心混乱しながら、酒の残っている器を持ち上げる。口元に運んで舐めるように飲み、飲みきれなかった中身ごとテーブルに置く。

 正直、この人が俺をどうこうするとはとても思えなかった。相手の身分も知っている上に、番と長続きせず困るほどの面食いだそうだし、タイプ外の俺を懐に入ったからといって力ずくで食ってしまおう、というような、がっついた人にも見えない。

 有り得ない話だが、おそらくこの人なら俺を言いくるめた上でベッドインだって容易いだろう。彼の家に泊まったとしても、俺には実害は出ない、はずだ。

 ぐるぐるしている頭は酔いの所為だろうか、彼の突拍子もない提案からだろうか。

「そう、だな」

 ふと、さっき聞いた彼の隙、が頭を擡げた。自宅にいる間ならば、本当に寛いで気の抜けた表情を見られるのだろう。

 その表情を何故か、焦がれるように見たいと思ってしまった。

「飲み直したいし。一晩、はお世話になろう、かな……」

 ぱっと明るい表情になった有菱さんに、そんなに嬉しいことなのだろうかと内心困惑する。パッと照明を当てられたかのように、綺麗な顔立ちが変化する様は眩しかった。

 最後の品がテーブルに届き、残っていた酒も飲み干す。立ち上がると脚がふらつくほどではなかったが、日本酒を重ねた所為で普段よりもしっかり酔いが回っていた。

 伸ばした指先が頼りなかったのか、有菱さんは先に俺のコートを持ち、腕を通すよう促してくれる。腕を通すと、さり気なく襟を直してくれた。

 その割には、自分のコートは助けも借りずにさっさと羽織ってしまう。

 ふと、その時になってこの店なら席会計だろうと思い出してしまった。鞄から財布を取り出そうとすると、目の前の有菱さんは至近距離まで身を屈め、わざとらしい笑顔を浮かべる。

 しばらく無言で見つめ合い、あぁ、と俺は瞼を伏せながら鞄を閉じた。

「ご馳走様です。……こんど埋め合わせするよ」

「それは嬉しいなぁ」

 店員に見送られながら店を出ると、やんわりと俺を支えるように寄り添ってくれる。タイプ外の相手に対しても、エスコートは丁寧だ。

 冷たい風が頬を撫でていくのが心地よいくらいなのに、その風すらも守られている。

 下り道で軽く躓くと、すぐに腕が伸びてきた。がっしりと掴まれた腕を見つめると、相手も驚いたように目を瞠る。

「ごめん。足元が怪しいかも」

 はは、と茶化してみせるが、有菱さんは捕らえた腕を放そうとはしない。手首が掴み直され、腕を振って歩みを促された。

「有菱さん?」

「危ないから、坂を下りるまで掴んでおくよ。行こう」

 手を繋ぐ、ではなく手首を掴まれた格好で少しずつ歩き始める。手を繋ぐのと比較すれば色気なんてものはないが、俺たちならこれが相応しいような気がした。

 平坦な道に戻るとぱっと手が離れる。手首には絡んでいた指の感触が残り、体格の違いを思い知った。

 駅から電車で移動する先は、自分の最寄りでもある駅だ。

 地域のお見合いパーティで会ったのだから偶然とも言いがたいのだろうが、家自体もそう遠くはなかった。もし兄の発情期が終わるまで居座るとしても、生活を変えずに済む、都合が良すぎる立地だ。

 有菱さんの家の近くでコンビニに寄り、飲み直し用の酒とつまみ、明日食べるパンなどを買い込む。出させてくれ、と支払いは俺が担った。

 まだ建ったばかりであろうマンションは広く、そして高く。見上げた俺は何とも言えない顔をしていただろう。門の近くで一時的にセキュリティを解除した有菱さんの後を通って敷地に入った。

 いくら落ち着いた色味で統一されていようと、磨き上げられた床や余裕のある広さの先に札束が見える。

 実家も裕福な方で広さは十分だが、社会に出てからは自分の稼ぎ主体の金銭感覚に慣れきっていたため、気圧されるものがあった。

「碌谷さん、こっち」

「あっ、ごめん。ぼーっとしてた」

 エレベーターに乗って移動する先は、かなりの上階だ。酔いも相俟って浮くような感覚に慣れず、そっと有菱さんのコートの裾を掴む。

 彼は俺の指先に視線を向けつつも何も言わず、エレベーターが止まると背を押して移動を促した。

 同じ階の扉は少なく、そしてかなり遠くにある。黒い玄関扉にキーを翳すと、カチリと音が鳴った。

「軽く片付けてくるから、少し待っていてね」

 そう言いつつも玄関には通してくれた。玄関先は物が少なく保たれ、部屋に入っていった有菱さんの靴だけが残っている。

 靴を脱がずに携帯電話の未読メッセージを確認していると、さほど経たずに部屋の主が戻ってきた。

「お待たせ。いいよ、入って」

「お邪魔します」

 廊下を抜け、開いた扉の先で室内を見渡した。

 物は多くなく、基本的に色味も少ないのだが、大型の間接照明や家具の中にはかなり色鮮やかな品もある。他が綺麗に保たれているため、一層その鮮やかさが目を引いた。

 服で言う差し色が機能するためには、その他の色が目立ってはいけない。彼の部屋の中では、一部を映えさせるために他の全てを押さえ気味に保っているような印象を受けた。

 コートは預かる、と手を差し出してくる部屋の主に服を差し出す。

「家具とか拘ってるんだな」

「そうだね。でも流石にインテリアは専門外だから、引っ越しの時に業者を入れたよ」

「俺も、服は他の人に選んでもらうほうが好きだな。専門外だから」

「こんど俺にも選ばせてね」

 有菱さんは奥の部屋に入っていくと、まだ新しいパジャマを抱えてきた。パジャマは道中で貸してくれる、という話になっていたが、下着はコンビニで買ったものがある。

 礼を言いつつ受け取って、案内された脱衣所で服を脱ぐ。

 コンコン、と脱衣所の扉が軽くノックされた。扉は開かないまま、声が掛かる。

「ついでにシャワー浴びたら? お風呂入りたいならお湯を張るよ」

「いや、……シャワーだけ借りるよ」

 汗ばんで乾いたシャツも気持ち悪かったし、提案に乗ることにした。あるものは使っていい、と許可を貰い、他人の家のシャンプーとボディソープを借りる。

 身体を洗い終えると再度熱めのお湯で身体を温め、バスタオルを被る。身体の水滴をあらかた拭き取って、貸し与えられたパジャマを身に着けた。アルファとの体格差の所為で当然のように腕の裾が余ったが、折り曲げて整える。

 俺が脱衣所を出ると、交代、と有菱さんも脱衣所に入っていった。

「お酒飲んでて良いよ」

 リビングに戻ると大型テレビが点いており、ソファの前にあるローテーブルに酒とつまみが並んでいた。コンビニで買った以外のつまみも出されていて、生ハムの誘惑に耐えきれずに封を切る。

 よく見れば、外国産らしきラベルの見知らぬ酒缶もあった。こちらも酔った勢いでプルタブに指を掛け、カシ、と音を立てて引く。

 ぐい、と炭酸を流し込むと、爽やかな味が喉を流れていった。

 酔っ払い特有の大胆さで他人の家の食べ物を勝手に食べていると、やがて有菱さんも髪を拭いながらリビングに入ってきた。俺が開けた缶とつまみを見て、ふっと笑いを零す。

「いや。食べるだろうなと思ってたけどさ。……もう生ハム半分も消えてるし」

 あまりにも減っていた所為で面白くなってしまったらしい。ふふ、と笑い声の余韻を漏らしながら、ソファに近付く。

「お酒飲んでていいって言ったろ」

 有菱さんが視線を向けた缶を横から奪い取り、別の缶をそちらに差し出す。彼はくっとまた笑った。

「それ飲みたかったの?」

「飲みたかった」

 きゅっと缶を自分の手元で覆い、渡さないと意思表示する。コンビニで買った缶ではなく、おそらくは有菱さんの買い置きの缶だ。だが、あまりにも興味を引くパッケージで、飲みたくなってしまった。

 そして、目の前の男なら俺の我が儘を叶えるだろうと高を括っている。

「……有菱さんも飲みたかった?」

「いや。飲みたい人に飲んで貰えるのがいいと思うよ」

 部屋の主は寛大に言うと、ガシガシと髪を拭った。

 あらかた拭き終えると、洗面所に戻っていき、ドライヤーの音が響き始める。顔立ちに拘る彼が髪を自然乾燥などしないだろうと思ったが、案の定だ。

 彼の髪が元の色合いを取り戻したところで、俺も洗面所を借り、ドライヤーで髪を乾かした。普段は自然乾燥なのだが、そうじゃない人の前で髪を湿らせているのは憚られる。周囲に散った髪を拾い、近くのゴミ箱に捨てた。

 洗面所からリビングへ戻ったところで、ふわりと鼻先を髪が擽った。僅かに自宅のものとは違ったシャンプーの匂いがする。

 ソファで寛いでいる家主の隣に腰掛ける。

「有菱さん、って匂い付きのシャンプー使うんだ」

「ああ。このシャンプーの最後に残る匂いが、好みの匂いに近いんだよね」

「へえ、よく見付かったな」

 同じアルファとはいえ好みは多種多様で、好みの匂いを見つけられたのなら、丹念に色んな匂いを調べたか、運良く匂いに巡り会えたか。特に拘りの強そうなこの人なら前者だろう。

「碌谷さんちは無香料?」

「うん。うちは家族の人数も多いし、誰かの匂いの好みに合わせると争いが起きる」

 アルファの人数も多く、同じ家で匂いが混ざることはあまり好まれなかった。

 俺が差し出した缶が開く音がして、有菱さんの手が缶を持ち上げる。近づける缶同士を合わせると、コンと乾杯にしてはにぶい音がした。

「俺、顔が好みかつ匂いが好きな人、って会ったことないんだよね」

「付き合いが長続きしないんだっけ。そっか、それは続かないかもな」

 オメガが匂いへ回避と好感をよく言葉にするのに対し、アルファが匂いに対して寄せる感情は嫌悪と執着だ。階段で一歩先を行くようなその強い感情は鮮やかで、人間関係にも影響を及ぼしうる。

「うん。俺、匂いも好みが激しいし、顔もこういう顔が好き、ってのがあるからなぁ……」

 言葉尻が弱くなった彼に、生ハムの残りを差し出す。

 ついでにテーブルの上の配置換えをしようと並べ直していると、端の方に雑誌が数冊積み上げられていた。色彩豊かな表紙はファッション雑誌のようだ。

 一番上の一冊を持ち上げて、適当なページを開く。

「どの顔が好み?」

「その雑誌の内容覚えてないな。貸して」

 彼は雑誌をぱらぱらと捲り、この顔と、と男女問わず好みの顔を指差していく。

 共通項を挙げるならば、顔立ちの比率が整っているというか。人形のようなきりりとした美形が好みのようだ。

 シャンプーから感じる匂いの印象はもっと柔らかく、彼が挙げる好みの顔立ちの共通項からは乖離していた。

「有菱さんの顔の好みと匂いの好みって、両方を持っている人が少ないのかもな。今までは、顔の好みで付き合う人選んでた感じ?」

「うん。匂いは難しいんだよね。好みの匂いに似ていても、ずばりその匂い、って人は今まで…………──いないし」

「確かに。うちの兄も匂いの好みは面倒くさいんだよな」

 ついでに記事を流し読みして、雑誌を閉じて元の位置に戻す。

 有菱さんの飲んでいる缶に興味を示すと、飲んでもいいと缶を寄越してくる。有難く飲んで、残っている生ハムも強奪した。

「……口説いている相手じゃないとはいえ、つまみを食べ尽くすようなオメガは初めてだな」

「酔ってなきゃもっと控えめだよ」

 食べようと思ったナッツの袋を開けられず、首を傾げて有菱さんに渡す。綺麗に開封された返ってきた中身をぽりぽりと囓った。

 横からサイズ違いの掌が伸びてきた。その上にナッツを載せる。

「今はもう匂わないけど。最初に話したとき、好みの匂いだった気がしたんだけどな」

「俺?」

「うん」

「人いっぱいいたし、他の人の匂いじゃないか」

 他の誰でもなく、俺に連絡先を聞いてきた理由がようやく分かった。匂いは好みだが顔は全然好みとは外れている相手との交流を試したかったのだろう。

 とはいえ、有菱さんの言葉は今も困惑で溢れていて、とても口説かれているようなトーンではない。

 そもそも、二人でナッツをぽりぽりやっていて何処に恋が生まれるというのか。

「勘違い……。そう、かなぁ……?」

 ううん、と首を傾げる有菱さんに、摘まんだナッツを持ち上げてみせる。彼は掌を差し出し、その上に二度、袋からナッツを送り出した。

「そうだよ」

 俺はさらりと言い切って、その話題を打ち切る。代わりに服の話題を振って、他の雑誌を開きながらアドバイスを聞いた。頭を使った会話ができていたのは、その話題くらいまでだ。

 それから先は酒とつまみの話をだらだらと繰り返して、頭に残らない深夜番組をお供にテーブルの上を片付けていった。

 ふと窓辺に視線をやると、レースカーテン越しには闇が広がっている。

 あと何時間経てば光が差してくるのだろう。ふと周囲を見ても時間が分かるものはなかったが、探そうともしなかった。

「────さすがに眠くなってきたかな?」

 俺が欠伸を繰り返しているのが分かったのか、有菱さんがそう尋ねてくる。こくん、と頷くと、彼は缶の残りをぐっと飲み干した。

「歯磨きしようか」

 コンビニで買い求めた新品の歯ブラシを思い出し、こくこくと頷く。喋るともう声がアルコールで枯れ始めており、僅かな会話なら億劫に思ってしまった。

 久しぶりに立ち上がると、脚の先は緩慢にしか動かない。脱衣所の近くにある洗面台に向かい、パッケージを開けて新しい歯ブラシを取り出す。ぱりぱりとした先端を指先でほぐし、丹念に水で洗い流す。

 歯磨き粉のチューブを持っている有菱さんに歯ブラシの先を向けると、難しそうにしながら中身を絞ってくれた。

 ぱくん、と口に入れると刺激の強すぎない好みの味がする。

「明日、先に起きたら勝手に何か作っていい?」

「もう明日じゃないよ。構わないけれど」

 そんな時間か、と呟き、シャコシャコと慣れない感触の歯ブラシを動かす。泡はきめ細かく、口の中が洗われていくのが心地よかった。

 新しい匂いに満ちた口内を舌先で確かめ、水で洗い流す。

「ありがと。ベッドどこ」

「こっち」

 脱衣所から出て廊下を歩くと、広い部屋に通される。

 こちらはリビングより更に落ち着いた色味が主体で、間接照明を使った明るすぎない部屋だ。観葉植物も緑が深いものが一つだけ、ベッドの近くに置かれている。

 どうぞ、と布団を捲って促されるが、明らかにベッドの大きさが客用ではない。

 眉をひそめ、ベッドと有菱さんを交互に見ると、彼は観念したかのように笑い出した。見間違いようもなく、悪戯っ子の表情だ。

「有菱さんの部屋だろ。ここ」

「碌谷さんの表情が崩れたとこ見たくって。視線が落ち着かなくて、困ってるのが分かって興味深かったよ」

 笑いが収まると、彼はベッドを見下ろして言う。

「でも、こっちのベッドの方が良い品だから、こっちで寝ても良いよ」

「匂いが付くのは嫌だろ。俺が部屋に入るのだってあんまり良くない。ゲスト用の部屋に案内してくれ」

 相手を思い遣ったつもりだったのだが、彼は残念そうに布団から手を離した。とはいえ、しつこく言い募ることもなくゲストルームに案内される。

 全体的に有菱さんの部屋よりはコンパクトに纏まっているが、俺にとってはこちらのほうが都合が良い。人が泊まりに来た時に案内する部屋、と言っていたが、別の人間の匂いは残っていなかった。

 家電類の操作だけ教えてもらい、ありがとう、と礼を言う。もう寝てもいい、という意思表示だったが、何故か彼は出て行こうとはしなかった。

「……俺もこっちに泊まろうかな」

 冗談のような本気のような言葉すら吐く始末だ。ぽんぽん、と背を叩いて、さっさと寝ろとばかりに両手で部屋から押し出す。

「オメガに対しての匂いって、本能由来の好みみたいなもんだろ。一朝一夕で慣れる慣れないじゃないから。基本、対象外の匂いは遠ざけた方がベターなんだよ」

「いやでも、俺は好みの匂いだって……」

「勘、違、い。じゃ、おやすみ」

 パタン、と扉を閉じると、向こうから小さな声でおやすみ、と返ってきた。はあ、と息を吐き出し、部屋のベッドに横になる。

 定期的に手入れをされているであろう布団は柔らかく、手入れした家主の匂いはもうしない。それを残念に思いながら、疲れからかすぐに眠りに落ちた。

 

 

▽4

 目覚めると、明るい色のカーテンから陽が差し込んでいた。ぱちぱちと瞼を動かして目を刺すような痛みをやり過ごし、ぐっと伸びをして起き上がる。そろりと扉を開けて廊下に出ると、家自体から物音はしなかった。

 家主はまだ寝ているのだろう、と当たりを付け、キッチンへ向かう。言質も貰ったことだし、と遠慮無く冷蔵庫を開け、昨日買っておいたパンを取り出した。

「オーブンレンジの使い方、分かるかな……」

 画面をピ、ピ、と操作していると、今時の家電らしくなんとなく使い方が分かった。開封したパンを皿に載せ、スタートボタンを押す。

 飲み物ないかな、と冷蔵庫を見直すと、開封済みの牛乳があった。持ち主を思い起こしながら勝手に飲んでも怒らないであろうと判断し、コップも借りて牛乳を注ぐ。

 パンの代わりにコップを中に入れ、またレンジを動かした。待ち時間の間に食卓近くにあるカーテンを開け、光を取り込む。今日は綺麗な晴れ空で、二日酔いの人間には酷なほど日差しが強い。

 俺がカチャカチャやっている音が届いたのか、有菱さんが起きてきたのは牛乳が温め終わるのと同時だった。ドアを開閉する音がして、静かな足音が廊下を通る。

「おはよ」

 レンジからコップを取り出しながら言うと、まだ目をしぱしぱさせながら有菱さんは返事をした。

「おはよう。……喉が痛い」

「だよな。牛乳あたためる?」

「お願いしようかな」

 どのカップがいいか尋ね、大きめのマグカップに牛乳を注いだ。砂糖は要らないとのことで、そのまま覚えた操作でレンジをセットする。

 二個目の牛乳が温め終わると、有菱さんの分のパンもレンジに放り込む。まだ完全に目が覚めていないらしく、俺が動き回る様を見ながらごめん……、と呟いて力なく椅子の背に身体を預けている。

 髪は寝乱れ、顔色も良いとは言えないが、陽光とはかけ離れた色気があった。

「はい、これ。食べられるか?」

「……食べられないって言ったら、千切って食べさせてくれる?」

「は? 食べさせないけど。俺の匂い付くじゃんか」

 がっくりと机に突っ伏す有菱さんの側に、温めた朝食の皿を寄せる。行動自体はわざとらしく、冗談めかしていた。

 向かいに座って、少し冷えた甘いパンを囓る。

「匂いが付いてもいいんだけどなぁ……」

「せっかく温めたんだから食べてくれよ」

 向かいにいる有菱さんは駄々っ子のようで、もう、と言いながらも起き上がってパンを割った。もぐもぐとゆっくり咀嚼して、美味しい、と呟く。

 マグカップも持ち上げて飲み、のんびり喉が動いた。カップを机の上に置き、ひと呼吸おく。

「碌谷さんは匂いが付かないか気にしてくれているけど、昨日からいるんだからもう結構分かるよ」

「あ、そうなのか。やっぱ自分の匂いって自覚しづらいな」

 パジャマの裾に鼻先を当てると、確かに自分の匂いが移ってしまっていた。クリーニングして返そうと決め、裾をていねいに折り直す。

 食卓にはパンの甘い匂いが漂っていて、それでも互いの匂いは確実に主張していた。

「できるだけ掃除して帰るよ。悪いな」

「別に。いい匂いだよ」

 アルファと一緒に、のんびり朝を過ごすのは珍しい。テレビもラジオもなく、飲酒翌日のお互いの体調、という共通の話題で盛り上がった。

 二人とも声が掠れ、さほど声量も出ないままで喋り続ける。

「そういえば、ご家族から連絡あった?」

「起きたらメッセージが入ってた。夜間診療で抑制剤を処方してもらったから、もう戻っても大丈夫になったらしい。けど、念のため戻るのは日曜の夜にしたら、って」

「そっか。じゃあ帰るのは明日の夜だね」

 自然と今日も泊まっていったら、という方向に進められ、俺は眉を下げる。

「あの。流石に今日は帰……」

「一日も二日も一緒だよ」

「まあ、それもそうなんだけど」

 パジャマを貸し与えられ、ゲストルームには携帯の充電器すらあり、会社帰りですぐ泊まりに来たのに、今のところ何も困っていない。

 昨日も二人してぐっすり眠り、色気のある展開なんてこれっぽっちもなかった。

「今日も飲もう、夜」

「……なに飲む?」

「集めてる酒瓶の棚、見てないでしょう」

「それは見せて」

 有菱さんはパンを咥えて立ち上がると、こちらに手招きして歩き始めた。意図に気づき、その後を追う。彼はキッチンまで行くと、その近くにこっそりとある扉を開ける。

 小さめの収納スペースはパントリーとして使われているようで、酒棚があり、多様な瓶が並んでいた。

「ウイスキー、これ十八年物か。高いんじゃないか?」

「数万、……くらい?」

「覚えてないのか」

「飲むつもりで買ってるからねぇ」

 彼のスタンスとして観賞用にするつもりはないようで、数十万するような酒は置いていないとのことだった。

 ただ、数千円のものはまだしも、一万を超えるような酒はごろごろと置いてある。俺が十八年ものの瓶を持ったままでいると、有菱さんは俺の手元を指さす。

「今夜、それ飲む?」

「い、要らないって……! こんな高いもの」

「未開封なら価値はあるだろうけど、開けちゃってるから一緒だよ。昨日でおつまみ切らしたから、暇だったら買いに出ようか」

 俺が断り切れないまま瓶を元の位置に戻すと、彼はガラス扉を閉じた。

 連れ立ってパントリーを出て、食事の席に戻る。俺は飲み残していた牛乳に口をつける。

「折角だし、買い出しついでにうちのブランドがやってるショップに寄らない?」

「……言ってたな。でも悪いよ。値段的に買えない、かもだし」

「買わせたい訳じゃない。うちのブランドがどんなことをしているか、知ってほしいんだ。ほら、碌谷さん自身が買わなくても、お知り合いとかにご縁があるかもしれないし」

 確かに、金銭的に余裕のある父母や、兄達なら好むかもしれない。

 反射的に断ってしまったことを詫び、連れて行ってくれるよう頼んだ。ふと、昨日はスーツしか着てこなかったことを思い出す。

「あ、外出用の服が要るな。ちょっと家と連絡とってみるよ」

「え? 貸すよ?」

「貸せるもんか?」

「身長差は少しあるけど、何かしら着られるものはあると思う」

 朝食を空にすると、二人で食器を流し台に運んだ。洗おうとすると、彼は据え置き型の食器洗浄機を指さす。

 洗い物も少なかったため、濯いでその中に入れておく。

「あとでまとめて洗っておくよ」

 彼はそう言い、クローゼットへと俺を案内した。ウォークインクローゼット、と呼べるであろう広い空間は、成程、服飾に関わる会社の社長の家らしい。

 中にある服も大量で、お気に入りの服は芸術品のようにディスプレイされていた。

「す…………っごいな。こんなに大量の服」

「付き合いで買うことも多くて。なかなか減らないんだよね。……例えば、この服とか丈感を短めに着るものなんだけれど」

 彼が体に当てると足下がよく見えるのだが、俺に与えられると急にぴったりに近い長さになった。

 隣に立ってみると、有菱さんの脚の長さがよく分かる。

「改めて見ると、有菱さん、スタイル良いんだな」

「ありがとう。お飾りの社長って評判だよ」

「飾って見栄えがいい社長には、価値があると思うぞ」

「はは。嬉しいな。確かに、取材によく呼んでもらえるんだ」

 会話しながらも、彼の視線は服に向いている。いくらか服を俺に宛がい、色味を確認していく。

 最終的に柔らかい色味の服で揃えられた。試着してみたが、多少のサイズの不一致はあれど、出かけて目立つほどでもない。

「丈は仕方ないけど。色とデザインは似合ってるよ」

「ありがと。じゃあ、これ借り…………」

 言い掛けて一つの問題に思い至り、眉を下げた。

 俺の様子に気づいた有菱さんは、選ばなかった服を戻し、こちらに歩み寄る。

「匂いがつかないように気をつけてたのに、……あんたの服の近くに寄っちまった」

「……ああ。気にしてたの?」

「うちの兄が匂いの選り好み激しくて、嫌いな匂いに当たりが強いから」

「俺は気にしないほう、ではないけれど。碌谷さんの匂いは嫌だとは思っていない、って言ったでしょう。嫌なら連れてこないよ」

「次は、気をつける」

「碌谷さんは、申し訳ないと思うときだけ表情豊かだね」

 彼はついでに自分の服を選び、その場で着替え始める。

 体付きはアルファの典型的なそれで、腹にも筋肉の筋が見えた。つい柔々な自分の腹を摘まんで悲しい気持ちになってしまう。

 有菱さんは手早くアクセサリーを身につけ、こちらに向き直った。

「どう? 似合う?」

 ばちっと合った丈の明るいセットアップを身に付けた有菱さんは、春を先取りしたように上品で華やかだ。

「似合うよ。顔もいい」

「アルファは全部同じ顔に見えるんじゃなかった?」

「そりゃ。アルファはみんな顔にも服にも気を遣ってるしな」

「そこは否定してよ」

 クローゼットから出て、洗面台に向かう。歯を磨き終えると、有菱さんから髪を梳かされた。続けてワックスで形を整え、顔に日焼け止めと顔色を良くするためのクリームを塗られる。

「目の下の隈すっごいよ」

 長い指が、丁寧に肌の上を滑る。少し、心臓の音が速くなった。

「酒飲むと眠りが浅いからじゃないか」

「いや、会ったときから。寝具とか気にしてる?」

「し、…………てる」

「表情が変わらないのに、嘘は下手なんだね」

 間近に顔を寄せた有菱さんは、楽しそうに笑った。くしゃり、と変化する表情は、昨日の夜、飲みながら見たいと思った顔そのものだ。

 完璧そうな男の抜けたところを喜ぶなんて、俺は意地が悪いのだろうか。

「はい、できた。どう? 顔色良くなったでしょう」

「おお。すごい」

 彼の手で丁寧に塗られたおかげで隈も目立たなくなり、顔色が一段階明るくなった。

 髪もふんわりと整えられ、服装の明るさも相俟って垢抜けて見える。隣で自分の顔を整えた有菱さんに叶うはずもないが、普段の俺と比べれば雲泥の差だ。

 服と、髪と、肌。ほんの少しの手入れで、ここまで違うものか。

「なあ。今日の俺、顔よくないか?」

「いいよ。というか、碌谷さん雑に扱いすぎなだけで顔自体は悪くないしね」

「雑な、扱い……」

 洗面台に化粧水の瓶を置くような、この男に言われては頷くほかない。

 彼はこちらを見て満足そうに唇を上げ、楽しそうな声音で言う。

「本当に。素敵な顔だよ、大事にして」

「…………おう」

 妙に高価そうなお出かけ用の鞄も貸してもらい、仕事鞄から荷物を移す。

 靴だけは履いてきた仕事靴しかない、と思っていたが、有菱さんは俺の元々履いてきた靴を裏返し、サイズを確認する。そして、シューズクロークに入っていき、取り出した一足の靴に中敷きを詰めはじめた。

 置かれたのはオフホワイトのスニーカーだ。

「これ、ちょっと履いてみて」

 恐るおそる足を通す。彼と俺の足のサイズは少し違うのだが、靴下の厚みと中敷きのお陰で隙間が埋まり、滑りにくくなっている。

 広い玄関を歩いてみると、違和感はなかった。

「あ。楽に歩ける」

「足のサイズ、そこまで違わないみたいで良かったね」

 彼はすみれ色をした靴を取り出すと、足を通した。

 行こう、と促されて外に出る。朝に感じた眩しさは少しも衰えておらず、つい目を細めてしまう。

 逃れるように視線を向けた先にも、これまた変わらず眩しい男がいた。

 

 

 

▽5

 有菱さんと歩く街は、また別の顔をしている。

 時折こちらに視線が向けられる度、俺は隣に立つ男の顔の良さを再認識する。出会いから目まぐるしすぎて忘れていたが、誰もが欲しがるアルファに違いない。

 隣を歩く俺は、ベータか、もしかしたらオメガとしか思われない。番にはとても見えない二人組だ。

「おつまみの調達は最後でしょう。先にうちの店に行って、服見て、お昼ご飯食べて、ショッピングしてお茶して、おつまみ買いにいく?」

「服買って、つまみの買い出し、だけじゃないのか?」

「お昼ご飯、外で食べたくならない?」

「なる」

「美味しいデザート、興味ある?」

「ある」

 隣でからりと短く笑われる。

 ちょっとした外出だと思っていたのに、上手いこと丸め込まれて一日掛かりだ。それなのに、とくん、と胸が鳴った。別に、悪い気はしない。

「つまらなくなったら帰っていいから、エスコートさせてよ」

 ん、と曖昧に返事をして、頬を掻く。

 家を出てすぐ、彼は歩幅を狭めた。俺が店に気を取られてゆったり歩いても、距離が離れることはない。

 駅から店までは、徒歩で数分、といったところだ。彼が指さした先には、ビルの一階に入っている真新しい店舗が見えた。

 ガラス越しに見る服は色鮮やかで、かといって下品ではない。店舗の内装には白色と木目が多く使われ、服の色が映える造りにもなっていた。

「いらっしゃいませ」

 店員は有菱さんに気づいたようで、ぱっと顔を綻ばせる。世間的に見れば、この店員もまた美形の範疇に入るだろう。

「どうしたんですか、社長。今日はお休みですよね」

「ああ。店を見せたくて、知り合いを連れてきたんだ」

 店員は俺に対し、にこりと笑いかける。奇妙がる様子も、社長が連れてきた相手として相応しくない、というような様子も見せなかった。

 こっそり、ほっと胸を撫で下ろす。

「ありがとうございます。特に、服をお探しではないですか?」

「うん。一通り見て回れればいいから、他のお客様を優先して」

「助かります。ごゆっくり」

 春物はこちらです、と一番目立つブースだけを紹介して、店員はその場から離れていった。

 有菱さんは、ディスプレイされた春物の服へと目を通す。俺もまた、服へ視線を向けた。明るく、柔らかい色味が共通した服たちは、桜、菜の花、といった春の特徴的な花々を思い起こさせる。

 コツ、と響いた音につられて視線を向けると、彼の履いたスミレ色の靴が目に入った。

「いい色だな。最近じゃあ、着られる期間が少ないのが残念だ」

「はは。そうだね。……けれど、そんな短い春をめいっぱい楽しむというのも悪くないよ」

 彼は一枚のシャツを持ち上げると、俺の胸に宛がった。姿見を指さされ、そちらを向く。

 丁寧に整えられたとして、『そこそこ』にしかならない。普通の人間がその場に立っていた。何時からか、鏡を見るのが億劫になった。

「これはちょっと、違うなあ」

「……違うか?」

「『そこそこ』は似合うけどね」

 彼は服を丁寧に畳んで置くと、次の棚へと移る。

 後に続きながら、店内を見回した。出会った頃に完璧だと思った有菱さんの空気というよりは、彼が好むと言ったシャンプーの匂いが似合う店だと感じた。

 彼が好むはずの、作られたような美形は何故かこの店にはそぐわない。

「碌谷さん、好きな服。あった?」

「うぅん。俺、あんまり服を選ぶのは得意じゃないしな」

「じゃあ、好きな色、とか」

 春物の色の中で目を引く色、周囲にある色味を見回しても、どれもしっくり来ない。

 んん、と考え込みつつ、自然と視線が下がった。あ、と呟く。

「あんたの靴の色」

「ああ。菫色?」

「その色は好きだな」

 俺が言うなり、有菱さんは店内を見回すと、手招きをして歩き出した。

 連れてこられたのは、色とりどりのベルトが並んだコーナーだ。その中から、スミレ色のベルトを取り出す。

 腰に当ててみると、確かに目を引く色味だ。

「ああ。こういうの助かる。小物によっては合わせ方が難しくて」

「分かる。スカーフとかね」

 服ではなくベルトだけ、というのなら然程高価なものでもない。折角なら、と俺はベルトを握った。

 だが、隣から掌が差し出される。

「何だ?」

「社割効くから、一旦、俺の方で立て替えておくよ」

「そか。悪いな」

 ベルトを預け、次の棚を眺めに行く。

 社長と店内を一周した結果、シルエットの綺麗な白シャツも追加で購入することにした。

 一式買うのは値段的に気後れするが、少しずつ揃えていけばいいかもしれない。

「お待たせ」

 袋は有菱さんが持ったままで、持とうか、と手を差し出すが、いいよ、と渡してはくれなかった。

 重くもないだろうに、手間を引き受けてくれるつもりらしい。

「お昼ご飯、希望ある?」

「店知らない」

「正直だなあ。俺が好きな店でいい?」

「頼む」

 案内されたのは、カジュアルな鉄板焼きの店だった。テーブルそれぞれに鉄板が用意されているが、焼き肉、というよりは、ステーキ、と呼ばれるような厚みの肉が多い。

「なんで肉?」

「昨日、魚だったから。ここ、赤身のお肉も柔らかいよ」

 飲んだ翌日だけあって胃も本調子とは言えず、脂身を避けて赤身の肉を選んだ。焼き野菜の切り方も大ぶりで、バーベキューのようだ。

 彼は器用に肉を焼き、切り分けると、俺の方へ寄せてくれる。何から何まで至れり尽くせり、悪く言いようもない。

 ふと、彼が恋愛が長続きしない、と言っていた事を思い出した。ここまで尽くされて、相手から切る、というのは考えづらく、有菱さんの面食いから来る心変わりが影響している事を何となく察する。

 取り分けた肉を口に運ぶと、丁度よい焼き加減だった。岩塩とどっと溢れた肉汁が混ざって、口の中を楽しませる。

「うまい」

「だよね。美味しい」

 店の中は煙が充満しないような構造になっており、デート中のカップルの姿もある。赤身肉も手頃で美味しく、サイドメニューも豊富だ。

 言葉少なに、食事と咀嚼を続ける。

 人形のように整った美しさか、あの柔らかい匂いを持つ人。彼と並び立つその姿は、未だに像を結ばない。

「有菱さん、さ。……言いたくなかったら答えなくていいけど」

「何かな」

「今まで長続きしなかった恋愛って、振ったの? 振られたの?」

「…………どっちもだよ。まあ、俺の気持ちが冷めたことを悟られる事が多かったかな」

 やっぱり、先に恋から冷めるのは有菱さんの方なのだ。おそらく、彼の望む顔の人物はいくらでも寄ってくる。それでいて、気持ちが冷める。

 いちど歯車が狂えば、もう後戻りはできない。

「いや。……あの、さ」

「俺が悪いのは分かってるから、言ってもいいよ」

「面食いを直すより、理想の人を探す、って手もあるかと思ったんだけど。妥協したって、それも続かないんじゃないか?」

「俺もそう思ってた。けど────」

 彼は何事かを続けようとして、途中で口を閉じた。

 届いた肉を鉄板に載せ、また焼き始める。あたかも言葉を忘れたかのように振る舞う様子に、言う気はないんだろうと悟る。

 俺も会話を切り上げ、肉にフォークの先を突き刺す。肉は変わらず美味しかったが、舌の感覚は鈍かった。

 

 

▽6

 俺が予想していたよりも、有菱さん……途中から環と呼ぶようになったその人との付き合いは長く続いている。

 クリーニングに出したパジャマを返しに行った日も飲みに誘われ、飲まない日も食事に誘われるようになった。

 それほどまで、面食いを直したい……番を得たいという彼の望みは切実なようだ。同情心と、用意される食事と酒の美味しさにつられて、付き合いを続けている。

 奢られすぎて不満はないが、他のアルファを紹介してほしい、と伝えていた件についての進展はない。

 その日も週末の仕事帰りに串焼きの店に誘われ、二人して串入れの隙間を埋めていた。

「遊は……」

 名を呼ばれ、お猪口を置いて顔を上げる。

 長い腕が伸び、串入れにまた一本、客が増えた。

「好みのアルファってどんな人?」

「あんまり見分けがつかない、って話しなかったっけ」

「その時は、好みの顔、の話しかしてないでしょう」

 そうだったっけ、と思い出そうとするが、鈍い頭では答えが見付からない。

 確かに、一般的に、好み、とは顔だけでなく性格も含まれるものだ。

「昔、運命の番に出会いたくて旅したこともあったんだ。でも、どんな顔か、性格か、なんて考えたこともなかったなぁ」

「旅ねぇ。出会って、雷に撃たれるような運命を信じてる、ってこと?」

「そうかも。自分の番ってものを、想像したことがない。だから、環にいい人がいたら紹介して、って頼んでる訳で」

「そんなことも言っていたね」

 忘れていた、と言いたげな口調の裏に、やんわりと不機嫌さを感じ取る。

 完璧だ、と思っていたのは最初だけで、今はこうやって僅かな変化から感情を読み取れるようになってきた。

 周囲から完璧だと思われるようなアルファの、感情の機微がわかる。

「いや。あんたの交友関係を壊したくないから、本気にしなくていいよ」

 そう言うと、彼の不機嫌さは鳴りを潜めた。

 皿を相手に差し出すと、長い指が自然に受け取る。居酒屋で串焼きを食べていても様になる事には感動すら覚えた。

「逆にさ。俺にはどんなアルファが合うと思う?」

「………………」

 環は長いこと沈黙して、途中、豚肉串を食べだした。冷酒を注げとお猪口を差し出し、とくとくと透明なそれを注いでやると、きゅっと飲み干す。

 最終的に出た結論は、首を傾げる姿だった。

「遊、って感情表現が薄いから、何が好き、って分かりにくいんだよね」

「ああ。まさにそれ。よく言われる」

「喜ばないの。……だから、よく分からないな」

 少し親しい友人に、好みのタイプが分からない、と言われるのだから俺も相当なようだ。

 タッチパネルで追加の皿を押していると、隣から指が近づいて追加する。

「環は、雷に撃たれたような相手、会ったことある?」

「………………」

 再度、沈黙する様子に、俺はそれ以上突き詰めて聞くことを諦めた。

 おそらく、答えはイエス、だ。それでいて、俺には言いたくないように見える。

「雷、撃たれてみたいよなぁ」

「そう? 相手から見向きもされないかもしれないよ」

 美形で、何もかも持っていそうな男にしては気弱な発言だった。

 俺らしくもなく、元気づけるように声を張り上げる。

「環だったら、相手はすぐ落ちるって」

 彼は長く息を吐くと、何かを言おうと口を開いた。だが、思わぬ横槍が割って入る。

「お待たせしましたー!」

「ありがとうございます」

 店員から追加の品を受け取り、テーブルに並べた。座席に腰を落ち着けた時には、環は手を組み、肘を突き、なんだか項垂れている。

 届いた梅ささみ串を差し出すと、微妙な顔をして受け取っていた。

 

 

 

 風呂に入らせてもらい、パジャマを貸してもらい、他人の家のソファで寛いでいると、家主が瓶を持って戻ってきた。

 雑誌を閉じ、コン、と置かれた瓶に視線を向ける。

「今日はワインか?」

「スパークリングワイン。これこそ、二人いないと開けられないからね」

「一人で飲めばいいのに」

「流石に一人で四合瓶はきついよ」

 つまみとしてチョコやチーズ、燻製がテーブルに並べられる。

 綺麗な形をしたワイングラスを貸し与えられ、中に琥珀色の液体が注がれた。傾けると、照明の光が色づき、キラキラとテーブルに当たる。

 環は隣に腰掛けると、自分のグラスを手に取った。

「乾杯」

「かんぱーい」

 コツン、とグラスを合わせ、匂いを嗅ぐ。底から細かな泡が浮かび、グラスに入った姿は可憐だ。

 そう、とグラスを口につけ、中身を口に運ぶ。繊細な泡が口の中で弾けた。

「美味。これ高いだろ」

「遊との高い安いの感覚、合わないんだよね」

「はぐらかすな」

 先日、与えられた酒が美味しすぎて二人して一瓶空けたところ、値段が五万の瓶だったことが判明したのは記憶に新しい。

 ベルトとシャツの代金もプレゼントだと受け取ってもらえず、いま着ているパジャマだって明らかに俺のサイズにぴったりな代物が、いつの間にか用意されていた。

 俺が環好みの美形だったら、番としてアプローチでもされているのかと疑うところだ。

「今度はつまみ、俺が用意するから買い置きするなよ」

「美味しそうなものを見つけると、遊との飲み会で食べよう、ってつい手に取っちゃうんだよ」

 楽しみを奪うな、と抗議され、俺はしゅわしゅわの泡に打たれながら口を閉じる。

 貢ぎ癖、とでも言うのだろうか。アルファがオメガに対して行う求愛の一端が、友人相手にも癖として出ているようだ。

「なあ、なんか欲しい物とかないか」

「遊とアウトドアがしたい」

「キャンプとかか?」

「いいね。でもテント持ってないから、コテージ借りようよ」

 彼は雑誌の棚からアウトドア雑誌を取り出すと、机の空きスペースに広げた。

 写真映えするアウトドアスポットがいくつも紹介されている。つい見入ってしまい、はた、と我に返った。

「アウトドアの予定は立てるとして……ほら、欲しいけど買ってないもの、とか」

「何だろう。遊に似合いそうな服を見たんだけど、試着して貰ってないからまだ買ってない」

「俺絡みじゃない物!」

「………………」

 沈黙する環の様子に、無いらしい、と分かって息を吐く。

 彼は手前に置いていたチーズを口に運び、咀嚼を始める。

「何。いま俺がブームなの?」

「ん」

 環は短く肯定するともごもごと口を動かし、中身を嚥下する。

「人寂しくてお見合いパーティーに参加したとこで、遊と会えたから。運命みたいだなって思ったね」

「そういうのは運命の番にとっておけよ。……面食い軌道変更用のフツメン相手に貢いでどうする」

 相手の肩をぱしぱしと叩き、空になった彼のグラスにスパークリングワインを注ぎ入れる。

 環はむすりと何か言いたげに口を引き結び、持ち上げたグラスを傾けた。

 それからは、アウトドアの雑誌を見ながら訪問先を決めた。春のスケジュールはまだ環のほうが未定な部分が多いそうで、休みの予定が決まったら教えてくれるという。

 話しつつ瓶が空になると、心地よい眠気が襲いはじめる。今日の酒は度数が強かったかもしれない。

「────歯磨きする?」

「する」

 環は何故か俺の頭を撫でると、机の上を片付け始める。

 手元がおぼつかない俺も、ゴミをまとめたり仕分けして手伝う。机の上は直ぐに片付け終わり、拭われて綺麗になった。

 近寄ってきた家主は、俺の様子を見てまた頭を撫で、支えて立ち上がらせる。

「歯、磨ける?」

「いける」

 洗面所まで連れて行かれ、歯ブラシを洗い、歯磨き粉を塗ったものが渡される。

 ん、と返事をして柄を掴み、動かす。環もまた隣で歯磨きを始めた。

 口の中を濯いでさっぱりすると、また眠気が強くなる。

「おっと」

「…………悪い」

 環は俺を受け止めつつ器用に口の中を濯ぎ、水を止める。

 そのまま肩を抱き、ゲストルームの方へ歩き始めた。のだが、途中で方向を変え、違う部屋の扉を開いた。

 照明が灯って分かったのは、ここが環の寝室だということだ。彼は布団を捲ると、俺を寝かせてまた布団を掛ける。

「なん、で……」

 反論しつつも、目は半分閉じている。照明を消されたら直ぐに眠ってしまいそうだった。

「隈が酷いから、ゲストルームの安いベッドじゃなくて、今日はこっちを使ってもらおうと思っていたんだ。シーツ類は洗いたてだから、心配しないで」

 言われてみれば、指先を滑っていくシーツからは環の匂いはしない。

 照明が消され、扉が閉まる音が聞こえる。足音が去って行くのを耳で送った。

「…………匂い、しないのかぁ」

 布団を掻き抱いて、シーツの波に溺れる。すん、と鼻を動かすと、部屋の奥からは彼の匂いが、ほんの少しだけ届く。

 此処は巣のようだと思って、そこで意識は途切れた。

 

 

▽7

 環の家に通い続けていると、ある日、両親から恋人でもできたのか、と尋ねられた。俺は首を横に振って、友達だ、と説明する。

 両親は納得したのだが、兄たちは匂いに聡い。俺にアルファの匂いが染み付いていくのが気になるようで、『番にならない関係をずるずる続けるのは止めろ』と五月蠅く言うようになった。

 兄達に言われなくとも、環に番ができればこんな宙ぶらりんの関係なんて直ぐに終わるはずだ。そう説明すると、哀しそうな顔をされた。

「────どうかした?」

 眠気に負けて食卓でぼうっとしていると、今日は元気な環が朝食を準備してくれた。

 珈琲と焼いた食パン、サラダと目玉焼き。買い置きのヨーグルトも小皿に盛られている。

「何でもない。いただきます」

 色鮮やかな食事に有難く手を合わせ、フォークを手に取る。

 今日は何処に行こう、と相談しながら食べ進めていると、環の携帯電話が着信を告げた。彼は素早く電話を取ると、こちらに申し訳なさそうに頭を下げつつ廊下に出て行った。

 別に気にする必要もないのだが、俺との時間に横槍が入るとこうやって謝られる。

 通話を終えて戻ってきた環は、見てわかるほど消沈していた。

「どうした?」

「ごめん。ちょっとトラブルで、会社に出なきゃいけなくなった」

「そりゃ災難だ。早めに飯、片付けちまうな」

 彼が家を出るとき、一緒に出なければ鍵が掛けられない。

「ああ。それはゆっくりでいいよ」

 彼は立ち上がると、引き出しの中から一枚のカードを取り出す。いつもこの家を開けるときに使うカードと似たものだ。

「これ置いてくから。好きなだけゆっくりしてって」

「合鍵? いいのか」

「いいよ。雑誌見ても、契約してる映像サービス使ってもいいし。冷蔵庫の中身も好きなだけ食べちゃって」

 環は朝食にラップを掛けて冷蔵庫に仕舞うと、ばたばたとスーツに着替え、一瞬でビジネスマンの顔へと切り替わる。

 最後にもそもそと食事を続ける俺に近寄ると、ひらり、と手を振った。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 手を振り返すと、彼は真面目な顔に戻り、玄関から外へ出て行った。

 机の上に置かれた合鍵……カードキーを見やる。不用心にも程がある気がしたが、確かに雑誌も見たかったし、豊富に契約されている映像サービスが使えるのも捨てがたい。

 冷蔵庫の中には、昨日買った美味しい食べ物も入ったままだ。

「休みだし、ゆっくりしてくか」

 食べ終えた皿を濯いで食器洗浄機に入れ、洗剤をセットして動作させる。

 動き出したそれを見送って、布巾で食卓を拭った。よし、と確認を終えると、冷蔵庫から飲み物とお菓子を調達してソファへと向かう。

 モニタから映像サービスのホーム画面を開き、キャンプ番組を選択する。火の起こし方と、バーベキューの手順くらい知っておきたかった。

 お菓子をつまみつつ番組に熱中していると、今度は俺の携帯電話から着信音が鳴った。画面を見ると『有菱環』と表示されている。

 おぼつかない手つきで、通話ボタンを押す。

「……碌谷です」

『遊?』

「どうしたんだ」

『忘れ物をしたみたいなんだ、確認してもらえるかな?』

 彼の指示通りに書斎に向かう。仕事道具が置かれているこの部屋はふだん出入りすることもなく、家を一通り案内された時に見て以来だ。

 ゆっくりと扉を開き、カーテンの閉じられた部屋に照明を灯す。

『机の右側に引き出しがあるでしょう』

「ああ」

 置かれたデスクに近寄り、彼の言われた通りに引き出しに触れる。

『一番上の引き出しを開けて。うちの社名の書かれた封筒ある?』

 言われたとおりに引き出しを開けると、これまた彼の言うとおりに社名の書かれた封筒があった。

 封筒を持ち上げて振ると、中からかさかさと紙が動く音がする。

「あった。届けるか?」

 彼の会社は、以前訪れたショップの上階だと聞いている。

『助かる。会社への入り方は────』

 裏手から警備室までの入り方を聞きつつ、封筒を持って書斎を出る。

 リビングに置きっぱなしにしていた自分の着替えが入った鞄に近づき、中身を出した。

「今からだと……。一時間は掛からないくらいか、出来るだけ直ぐ出るから」

『ごめん! 埋め合わせは必ず!』

「もう物は要らない。じゃあな」

 手早く服を着替え、モニタを消し、机の上を纏める。

 お出かけ用の鞄を手に取って肩に掛け、封筒を持って靴を履き、そして玄関を出た。

 

 

 

 早足で移動したからか、彼に告げたよりも早く会社に辿り着く。裏手に回り、教えられた休日用の通用口から中に入った。

 ちょうど横にあった小窓から、警備員に話しかけられる。

「あの、……有菱……さんの忘れ物を届けに来ました」

「ああ。有菱社長の。お伺いしていますよ。こちらにお名前だけ頂けますか」

「はい」

 急いで差し出された帳面に名前を書くと、年配の警備員が奥の部屋から出てくる。

 案内されるまま後に続くと、エレベーターの前に出た。

「社長室は最上階ですので、案内しますね」

「ありがとうございます」

「いえいえ。こちらこそ、社長の忘れ物ですから」

 警備員は休日に外出させられた俺に対して同情的だった。エレベーターの操作パネルに率先して近づき、丁寧に誘導してくれる。

 最上階に辿り着くと、廊下の一番奥。他とは違った扉を開いた。

「お疲れ様です。有菱社長にお届け物をされたいとのことで、碌谷さんをお連れしました」

「ああ、ありがとうございます!」

 中から出てきたのは、落ち着いた空気を持つ、オフィスカジュアル姿の女性だった。

 陶器のような肌を始めとして、容姿も美しく、以前見せてもらった、環の好きなタイプど真ん中だ。

 ひゅ、と無意識に息を吸い込む。オメガだろうか。彼は、この人とも恋人だったことがあるのだろうか。

 自然と薬指を見てしまい、指輪がない事に落胆する。

「碌谷といいます。有菱さんの友人で、書類を届けに来ました」

「秘書をしております、鵜来です。本当にご迷惑をお掛けしました! 社長はいまトラブル対応中ですので、私がお預かりしますね」

「はい。じゃあこの封筒を……」

 鵜来、と名乗った女性は封筒の中身を確認すると、ほっと息を吐く。

 おそらく、トラブルに関係する書類なのだろう。無事届けられたことに、俺も力を抜いた。

「抜けもないようです。本当に助かりました」

「良かった。では、私はこれで」

 軽く頭を下げ、待機していた警備員の方へと身体を向ける。

 背後から再度お礼を言う声が聞こえたが、俺は振り返らずに社長室を後にした。

 エレベーターを使って一階に戻ると、警備員室で残りの入退室書類を書き、会社を後にする。空調の整った場所から出ると、春とはいえ日差しが熱かった。

「……あっつ」

 誰にも聞こえない場所で声を上げ、街の方向へと脚を踏み出す。

 歩くたびにじりじりと肌が灼かれ、汗が浮いてくる。本当に、春は一瞬だ。

「美人だったなー……。顔の好みで選んでるとかか?」

 はは、と気の抜けた笑いを浮かべ、口を閉じる。あんな美人ばかり侍らせていたら、確かに目も肥えそうだ。

 少し歩くだけで、店の並んだ通りに出る。ショップの前を通ると、ガラスに自分の姿が映った。

 普通の顔、ちょっといい服。少しはましになった隈と、あまり良くない顔色をしたオメガ。

 面食いを直す為だけに付き合う、特に好みでもなんでもない。寧ろ、番にする余地のないような相手。

 自ら付き合いを望んだのに、環を酷いと詰りたくなってしまう衝動に、狂いそうになる。

「俺。長く付き合えば、……環がこっちに靡くかも、なんて思ってたのかな」

 だとしたら、人としての差を突きつけられた気分だった。目の奥で先ほどの美人がちらちらと浮かび上がってくる。

 大きな目、整った鼻筋、小さな顔と細い首。手入れされた髪と、きれいな指先。環と並んだら、誰もがお似合いだと思うような美女だった。

 もう終わらせた方がいいのかな、と思った。湧いてしまった希望に気づいてしまっても、その先があまりにも昏い。

 合鍵を返さなければいけないことを、ただ億劫に思った。

 

 

▽8

 環からの連絡に返信しないことが増えた。お出掛けに誘われそうになると、さりげなく話題を変える。

 自然消滅を狙っているのだが、未だに環からの連絡は入り続けている。

「折角の休みなんだから、お出掛けしたら?」

 最近は家にいることが増え、ソファで寝そべる俺に、母はブランケットを投げ渡す。ありがと、と言って受け取り、広げて腹に掛けた。

「それ、兄共にも言われた」

「心配してるのよ。恋破れたんじゃないかって」

「分かってるなら美味い物でも買って来いっての」

「買ってきてるじゃない。ケーキとかプリンとか」

 兄達は俺が消沈しているのに気づいたようで、今になって美味しいものを貢いでくる。環を思い起こさせる行動に、更に気分が落ちた。

 ころり、とソファの上で寝転がる。

「寝ます」

「はいはい。おやすみ」

 心地よくうとうとしていると、近くに置いていた携帯電話が鳴った。

 無視しようと思っていると、母の声がする。

「遊。着信よ」

「無視しようと思ってたの」

「せっかく連絡を入れてくれてるのに、そういうの良くないわよ」

 優しい母の言葉に良心が疼き、腕を伸ばして携帯電話を持ち上げた。

 メッセージが届いており、送り主は環だった。更に開きたくなくなり、うろうろと指先を彷徨わせる。

 長く息を吐きながら、それでもメッセージを開いた。

『急で悪いんだけど、今日は暇?』

 予定がある、と打ち込もうとして、合鍵を返しそびれている事を思い出す。

 眉を寄せ、文字を見つめながら唸る。いくらつれない返事をしても、彼からの連絡は絶えない。

 いっそ、きちんと会って合鍵を返し、兄に付き合いを止められたからもう会わない、と言えば連絡は来なくなるだろうか。

 指先を動かし、文字を綴った。

『空いてるけど、何かあったか?』

『服の展示会に招待されたんだけど、遊もどうかなって』

 少し前までなら、すぐ頷いて向かっていただろう。

 行きたい、と思えなくなった変化を悲しく思いながら、返事を打ち込む。

『今から準備するから、集合、遅れてもいいか?』

『平気だよ。場所は────』

 送られてきた場所を参考に、到着予定時間を返信すると、俺はソファから起き上がった。

 母が面白がった視線を向けてくる。逃げるように視線を逸らし、ブランケットを畳んだ。

「お出かけ?」

「まあ」

「いつもの人?」

「いつもの人」

 にま、と母の笑顔が深くなる。逃れるようにリビングを出て、自室に駆け込んだ。

 服の中から彼に選んでもらった品を組み合わせ、スミレ色のベルトを締める。肌に日焼け止めと下地を塗り、髪をワックスで整える。

 少し見られるようになった普通の顔を見て、ふ、と笑みを零す。

「仕方ないよなぁ。俺、生まれてこの方この顔だもん」

 人形のような美形なら、と願う気持ちは捨てきれないが、それも含めて、好きになって貰えないのは今の俺だ。

 鞄を肩に掛け、玄関に出ると、母が見送りに出てきた。

「いってらっしゃい。……あれ。肌、綺麗になった?」

「下地塗ってるから」

「へえ。ずっと隈ひどかったもんね」

 母から見ても酷い隈だったのだ、苦笑しながらスニーカーに足を通す。立ち上がって脚を踏み締めると、ぴったりだ。

 ひらひらと手を振る母を振り返る。

「じゃ、いってきます」

「いってらっしゃい。お父さんとお兄ちゃんには今日帰ってこない、って言っておくね」

「また騒ぐからやめてくれよ」

 そう言い残し、扉を開けて外に出る。

 環ときっぱりと別れることは寂しいが、曖昧な距離感に線引きができるのなら、悪いばかりではない。

 周囲を見渡しながら道を歩くと、季節の移り様がようやく視界に入った。

 

 

 

 展示会場は街中から少し離れた、住宅街の一角にあった。送られてきた住所を頼りに地図を調べて辿り着くと、目立つ長身の立ち姿がある。

 俺の顔を見るなり、ぱっと笑顔を浮かべた。ずくん、と胸が痛む。

「遊!」

 駆けんばかりに大股に近寄ってきた環は、腕を広げて俺に抱き付いた。

 初めてのことに、目を白黒させ、ただ固まる。動きを、呼吸すら止めていた俺の様子に気づいたのか、そろそろと身体が離れる。

「久しぶり! ……少し、隈が酷くなったね」

 伸びてきた指が、目の下を撫でる。下地で隠したつもりだったのだが、相手にはそれすらお見通しだったようだ。

 はは、と作り笑いを浮かべる。

「最近、すこし体調が悪くてさ」

「本当!? じゃあ、今日も休んでいた方が……」

「いや。今日は体調も良かったし、それに」

 鞄の中から、合鍵のカードを取り出す。

 俺の手元に気づいたのか、環は目を見開いた。

「これ、返さなきゃって思ってたから」

「…………そっか。別に、持っていても良かったのに」

「不用心だろ?」

 押しつけるようにカードを返すと、彼はのろのろとそれを仕舞った。

 僅かに寂しそうな顔をしたような気がして、俺は環の顔を覗き込む。視線に気づくと、彼は視線を逸らした。

「行こうか」

「おう。服の展示会なんだっけ?」

「そうなんだ。うちのブランドとも関わりのあるデザイナーさんの展示会で、『二人の服』ってタイトルなんだよ」

 デザイナーが手掛けた服の中から、二着一セットになった服を集めた展示会だそうだ。二人で受付に向かい、環が名刺を出すと中に通される。

 最初に出迎えたのは、ベビー服のようだった。兄弟で着ることを想定されているのだろうか、真っ白な服に、ウサギの耳が付いている。

 デザイナーが自分の息子の為に制作した、というその服は、手首の部分に細かいレース細工が縫い込まれている。

 次は子供服、学生服、と人の成長と共に服が移り変わる様子が、順路を辿るにつれて表現される構成になっていた。

 洒落た普段着に近いものから、ハレの日に着るような服まで。兄弟、友人、恋人、と着用パターンも様々だ。

 案内文も面白く、想像していたよりも見入ってしまった。

 そして、展示フロアの中央に、一番スペースを取って展示されているのが婚礼衣装だ。といっても、スタンダードな白いタキシードとドレスではない。タキシードが一対、そこにあった。

『親愛なる友人の 人生の起点に捧げる』

 フリルとレースがたっぷり使われた一対は、ドレスの裾がなくとも華やかにその場に佇んでいた。

 今までに見たどの服よりも、目を引く。

「これは、……凄いな」

「この服が、展示の目玉だそうだよ。話には聞いていたけど、白一色でこの出来は素晴らしいね」

 くるりと背面へ回ることができる配置になっており、有難く後ろに回り込んで服を眺める。

 特に環は職業柄気になるようで、一周回ったあとで、もう一周見に行っていた。

「こういうの、憧れるなぁ」

 彼の呟きに、びく、と身を震わせる。

 肩を落とし、気づかれないように彼の背後に回り込む。

「そうだよな。あんたは、番を欲しがってたもんな」

「まあね。全く脈はないけれど」

 彼の言葉に、目を見開く。

 脈が無い、ということは、意中の相手が見つかったんだろうか。とびきりの美人か、それとも、面食いが直って彼の好む匂いが見つかったのか。

 どちらにしても、胸は引き絞られるばかりで、ただ苦しかった。

「……あんたなら、いずれ着られるよ」

 その姿は見たくないが、と心で付け足し、視線を上げた。結婚を、将来を誓う二人の姿が、服を通して垣間見える。

 届かないものほど眩しく、得られないものほど苦しい。白は憧れの色だ。決して、俺には届かない色だ。

「そう? どうだろうね」

 完璧な男には似合わない言葉を吐きながら、環は俺を振り返る。

 歩み寄り、伸びてきた手が頬を撫でた。

「どうしたの?」

「なにが」

「悲しそうな顔してる」

 表情が顔に出ない、と彼に散々言われてきた。表情筋が死んでいる、なんて良く言われたものだ。

 頬に触れた指をやんわりと払って、いびつに嗤った。

「気のせいだろ。ほら、満足したなら次いくぞ」

 俺の動きづらい表情を、眺めて、覚えて、読み取れるようになってくれたのは彼だけだ。

 目的はどうあれ、慣れるくらいは一緒に過ごした。

 彼に思い入れを抱いてしまった、俺が悪いのだ。こんなにも完璧な男に、手が届くかも、なんて分不相応な願いを抱いてしまった。

 婚礼衣装を過ぎ、落ち着いた色味の服を辿って、最後に辿り着いたのは喪服だった。

 喪った存在を悼むための服。何者にも染まらない色が、もう染まりようもない色が、この空間のどの色よりも鮮やかだった。

 そして、展示会のすべての服が二着……一対で飾られている中で、この最後の服だけは、俺と同じ、たった一着だ。

 それが堪らなく喪失感を煽って、突き放されたような気分になった。

 

 

▽9

 展示会の会場を出ると、昼食に誘われた。俺の具合が悪く見えたのか、テイクアウトして環の自宅で食べないかと提案される。

 ゆっくりと、他に人がいないところで話をしたかったのも事実で、彼の提案を受け入れた。店に立ち寄って優しい味付けの料理を選び、環の家へ向かう。

 久しぶりに訪れた彼の家は、表面上はいつもと変わらない。だが、雑誌の片付け方が雑だったり、ブランケットの畳み方がおざなりになっているのが気になった。

 環は食卓に料理を並べようとするが、俺はそんな彼の服の裾を引いた。

「すこし、話したいことがあるんだ」

「なに?」

 彼は皿を置くと、俺に向き直る。

 心臓が早鐘を打ち、息が上手く吸えない。けれど、俺こそ、別れを切り出さなければならないのだ。

「俺。もう環の家に来るの、これきりにしようと思うんだ」

「………………。どうして?」

 長い沈黙のあとで、彼は短く言葉を絞り出した。

 うん、と頷き、鋭い視線を見つめ返す。

「兄に、番でもないアルファと深い付き合いをするのは良くない、って言われた。最初は、そんなことない、って思ってたけど……」

 展示会の最中、彼が放った言葉が蘇る。

 俺がきちんと関係を終わらせることは、彼にとっても、彼の意中の相手にとっても良いことなはずだ。

「あんた。脈がない、って言ってた。ってことは、好きな人がいるんだろ。それに、もう流石にさ、俺の顔にも慣れたんじゃないか。これ以上、番になる気もないアルファとオメガが、付き合いを深めるのは良くないと思う」

 腕が伸びてきて、俺の両肩を掴む。

 痛みに顔を顰めると、はっと表情が変わって力が緩んだ。そう、と包み込むように、肩が抱かれる。

「だから、……最近、突き放すような真似をしたの?」

「やんわり自然消滅できたら良かったんだけどな。あんた律儀だしさ。きちんと、話をした方がいいかと思って」

 肩から手が離れて、俺の背後に回り込んだ。腕が腰を捉え、強く掻き抱く。

 胸元に押しつけられると、強い匂いが漂った。発情期に近い匂いの変化は、彼の激情をつぶさに伝えてくる。

「最初から、『番になる気もない』のは君だけだよ」

「…………は?」

 彼は言うと、俺の身体を強く繋ぎ止める。

 触れた部分から心臓の鼓動が伝わる。落ち着いていて、表情をコントロールできる彼らしくない、跳ねるような、乱れた音だ。

 喉から絞り出すように、言葉が放たれる。

「君のほうが、……俺と他のアルファを見分けてくれないんじゃないか」

「は? そもそも、他のアルファとなんて知り合ってない。あんたが紹介してくれなくて……」

「誰が紹介なんかするもんか!」

 吐き捨てるように言う言葉は、嫉妬に塗れている。

 縫い止められた腕は、アルファの力から逃れられない。跳ねた鼓動と、上がる体温と、強くなる匂いを浴びせられながら、その場に留められる。

「面食いを直す必要なんて、最初からなかったよ。あれは、建前」

「建前って、……だって、面食いを直さなきゃ番だって」

「最高に好みの匂いを見つけたら、顔も好きになった。あとは、その人と深く関係を築くだけ。だけど、全くもって脈がなくて」

 どくん、どくん、と心臓の鼓動が移る。

 耳元に囁かれる言葉は、身体の奥まで染みこませるかのように低く響く。

「────遊。もう、流石にさ。……気づいてくれないかな」

 自分の中で何度も言葉を反復して、もしかして、と可能性に辿り着く。

 腕を伸ばして、相手の背に添えると、俺を抱く力が強くなった。俺の出した回答は、間違っていなかったようだ。

 背を抱く力が緩み、少し離れて視線を絡める。蕩ける目元も、上気した頬も、どれもこれも、俺に恋をした顔をしている。

「お、れは……、美人じゃ…………」

「ううん。何かね、元々の顔の好みとか、一瞬でどうでも良くなった。俺は、遊の顔が好きみたいだ」

 好き。告げられた言葉は聞き慣れないもので、ぼっと頬が赤くなる。

 慌てている俺に気づき、環はこちらを覗き込んでくる。美しい顔立ちが、至近距離にまで近付いた。

「だから、これからはさ……。俺が君を好きなことを前提に、付き合いをしよう。泊まったりは良くないなら、外で会いたい。勿論、君が嫌でなかったら、だけど」

「あ、あの……」

「そしていずれは、俺を番にすることを考えてほしい」

 好きになった顔が、綺麗だと思った顔が、間近で真剣に愛を囁く。

 心臓はまったく落ち着かず、逃れようにも腰を抱かれて動けない。動揺しすぎて言葉が出ない。

 だが、このままでは彼の片思い、と結論づけられてしまう。

「環。あのな」

「うん」

「俺、……環が俺のこと好きでいてくれてるの、知らなくて」

「だと思ったよ。でも、いま知ってくれたのなら────」

「そうじゃなくて!」

 息を整えて、熱くなった頬を手のひらで冷ます。

 この男を番にしたいのなら、自分が美人だと思えなくとも、相手への好意を伝えなくてはいけないのだ。

「本当に、面食いを直したいから、付き合ってくれてるんだと思ってたんだ。だから、俺。…………おれ、は」

 言葉が詰まって、代わりに目元から水滴がぼろぼろとこぼれ落ちる。

 伝えなくちゃ叶わないのに、誰かに好意を伝える事が怖い。口を開けて、喉を震わせて、相手の服に縋り付く。

「……将来の番のために。俺と付き合うあんたを見ているのが、さみしかった」

 醜い独占欲を吐露して、頬を滑る水滴を拭うこともできない。きっと、今の俺はひどい顔をしているんだろう。

「遊。……なんだか、告白されているみたいだ」

「鈍いな。あんたの方こそ、気づけよ」

 こつん、と額を合わせると、相手の瞳が潤んでいる事に気付く。

 いちど顔を離して、それから、唇同士を軽く触れさせた。俺を抱き込んだ環は、ちゅ、と、額にキスを落とす。

「好きだよ。俺の番になってほしいな」

「俺も、あんたが番だったら。嬉しい」

 間近で彼の顔を見ていると、段々と愛おしい思いが膨れていく。

 今は他のアルファと同じには見えない、と伝えると、彼は嬉しそうに顔を蕩けさせ、また俺を腕に閉じ込めた。

 

 

▽10(完)

 番を前提とした恋人関係、と思っていたのは俺だけで、環はさらりと実家を訪れ、兄たちや父母に挨拶を済ませた。

 それから何度か家を訪れるうちに、最初は不機嫌だった兄達も歓迎ムードへと変化していく。気づいたときにはもう、家族の中では俺の番、というような位置づけになっていた。

 環の両親への挨拶も、『遊びに来ない?』という軽い誘いを受けたところ、こちらは最初から歓迎ムードでもてなしを受けた。

 アルファにしては番を定めようとしなかった環のことを、ご両親はそれなりに心配していたらしい。もし良ければ番に、と言われてしまえば、頷く他なかった。

 更なる転機が訪れたのは、半同棲状態だった俺が『しばらく実家に帰る』と言い出した事からだ。

「え?」

「別にあんたに不満があるとかじゃなくて、来週から発情期なんだよ」

「何で言ってくれなかったの!?」

「言ったって、どうせ休み取れないだろ。普段でさえ忙しいのに」

「取れるよ! 待ってて」

 有言実行、を地で行った環は、元社長……彼の親族を期間限定で社長業に戻すことで長期休みをもぎ取ってきた。

 休みが決まったから一緒に過ごそう、と迫る環に、俺が逃げる術はどこにも残されていなかった。

 

 

 

 用意していた発情期の休暇は、実家ではなく、環の家で一緒に過ごすことになった。

 体調を心配する恋人は、黙っていても何もかも世話してくれる。本格的に発情期に入っていない、熱っぽいくらいの体調なのに、ソファで自堕落に過ごすことを勧められてしまう。

「なぁ、環。俺、手伝うことない?」

「食器も洗い終えたし、掃除も済んだよ。寝ていて」

 ずっとこの調子だ。普段の休日よりのんびり過ごしていると、次第にむずむずとした感覚がせり上がってくる。

 与えられた毛布を引き寄せ、匂いが漏れないようにする。だが、直ぐに環はこちらに気づいて近寄ってきた。

「そろそろ限界?」

「かも。匂いきつくないか?」

「まあね。さっきから理性ぐらぐらで、気分転換に家事してたし」

 俺が立ち上がると、環が支えるように腰を抱く。

 ゆっくりと廊下を歩いて寝室に向かい、整えられたベッドに腰掛けた。身体を洗ったばかりだというのに、パジャマの裾を鼻に当てると、匂いが既に染み付いている。

 環が隣に腰掛けると、アルファの匂いが急に膨らんだ。

「なんか。急に匂いが強くなったんだけど」

「そりゃあ、抱きたくて仕方ないからね」

 しれっと言う環は、唇を寄せてくる。目を閉じ、触れてくる感触を受け止めていると、ぬるりとしたものが唇を割った。

 唾液と共に、アルファの匂いが混ざって飲み込まされる。舌を絡め、唾液を交換し、媚薬とも呼ぶべき液体を飲み干す。

「ん……ぁ、ふ。…………ンン」

 のし掛かるように唇を押し付けてくる身体を受け止め、唇が離れた隙に急いで呼吸する。こくん、こくん、と相手の体液を身体に入れるたびに、腹の奥でぼっと灯るものがあった。

 唇が完全に解放されると、深く息を吸い込む。

「…………熱い」

「服、脱がそうか?」

 くすくす笑う様子に、むっと唇を尖らせる。

「自分で脱ぐ」

 言い張ってボタンに手を掛けると、そっと掌が重なる。

 やがて、役目を奪い取られ、長い指がボタンを外し始めた。自分の手は下ろし、されるがままに様子を見守る。

「なんか、恥ずかしいな。これ」

「今度は、遊が脱ぐとこ見せてね」

 パジャマの上がシーツに落とされ、上半身が露わになる。

 弛んでいる訳ではないが、美しいとはとても言えない、中肉中背の身体だ。

「綺麗だよ」

 ちゅ、と頬に唇が押し当てられた。

 つい、そんなことはない、と否定が口をついて出ようとする。けれど、視線を合わせた時の愛おしげな目は、真実だけを語っていた。

「あんたも脱げよ」

「いいよ」

 今度は俺が、環の服に手を掛けた。もたもたとボタンを外していく様を、眼差しが追いかけてくる。

 上の服を脱ぎ落とすと、線が入り、盛り上がった筋肉が見える。アルファは体格がいい者が多いにしても、しっかりと鍛えられた身体だった。

「いい体してるな」

「ありがとう。気を付けてるのは、仕事帰りのジムくらいのものだけどね」

 ぺたぺたと身体に触れていると、相手の掌も俺の身体を触り返す。首筋に指が当てられると、ぴくん、と反射的に肩が跳ねた。

「首。軽く歯を当ててもいいかな?」

「い、……いけど。なんで」

「本番の時、どれくらいの力で牙を立てればいいか、柔らかさが知りたくて」

 身体の向きを変え、側面から首筋が見えるよう傾ける。

 環は顔を近づけると、首筋を舐めた。

「な……ッ! 牙を立てるんだろ」

「ちょっとくらい味見してもいいでしょう?」

 そう言うと、首筋にキスをし、舌を這わせる。

 敏感な場所を触れられる快楽に、ほんの一滴、本能的な恐怖が混ざる。唾液で濡れたその部分に、アルファは軽く牙を立てた。

 戯れのようなものだったが、身体の中を何かが巡るような感覚がある。本気で牙を立てられたら、細胞ごと作りかえられてしまう気がした。

「力加減、分かったか?」

「うん。けど、思ったより噛み心地が良くて、本気で牙を立てるところだったよ」

「おい……。せっかく休みが取れたのに、番になるのは失敗、とか嫌だぞ」

「それは俺も嫌だなぁ」

 全く深刻そうな様子はなく、環は俺の胸元に唇を触れさせる。キスした場所を指で追うと、すす、と左右の胸の中心に指先を這わせた。

「ちょ、……待て。おい」

「え。胸はだめ?」

「さ、触るものなのか?」

「触るものだよ」

 きっぱりと言い切られ、勢いに負ける。長い指は薄い胸の肉を揉みしだくと、中央にある突起を弾いた。

 快楽と呼ぶには薄いが、くすぐったさはある。

「遊。俺の肩に手を掛けてくれる?」

 突然の要求に訝しむが、初心者故に指摘もできない。身長差の所為で座っているとやりづらく、膝立ちになって、彼の両肩に手を置いた。

 すると、相手の腕が俺の腰に回った。ぐい、と引き寄せられ、相手の唇が胸の中心に触れる。心臓の上からキスをするような格好だ。

「な、にして……」

「遊の胸にもキスがしたくて」

「しなくていいっての……!」

 腕の中で藻掻いていると、胸の先端に吸い付かれる。背を抱かれ、口の中で粒を転がされた。

 ぬるりとした感触が纏わり付き、かと思えば吸い上げられてじんとした痺れが走る。

「……ぁ、うぁ。……ン、ふ……」

 最後に軽く歯を当てると、彼は胸から顔を離す。

 吸われた乳首は淫靡に色を変え、つんと立ち上がっていた。

「もう片方も、可愛がってあげないとね」

「も、い……。ふ、……っく」

 同じくらい丁寧に両方の突起を可愛がり、彼は満足げに唇を舐めた。

 普通は、こんなに乳首に吸い付かれるものなのだろうか。息を荒らげながら、彼の肩に寄りかかる。

 大きな手のひらは胸から腹へ伝い下りると、腰を撫でた。快楽を得る場所ではない筈なのに、どこを触られても僅かに痺れるような感覚がある。

 彼の手は、布越しの俺の股間へ触れる。

「下、脱がせていいかな」

「…………好きにしろよ」

 両手が服の腰あたりを掴むと、下着ごと引き下ろす。足を上げて、と指示された通りに動くと、器用に服を抜き取られた。

 いくら番候補とはいえ、裸を晒すのは初めてのことだ。かっと頬に血が上り、視線を合わせられない。

「そうだ。ローションも買っておいたんだよ」

「…………え、あ。準備がいいな」

 彼に指示されたベッド脇の小机の一番上を開けると、確かにローションの入ったボトルがあった。

 持ち上げて環に手渡すと、蓋を開け、中身を手に広げる。

「やっぱりほら。オメガの身体って繊細だし、遊が遊び慣れてるようには見えなかったしね」

「当たり前だろ」

「嫉妬する先が減って嬉しいよ」

 粘り気のある液体を手に広げると、彼は俺の茂りを撫で下ろした。柔らかかった毛は濡れ、ぺったりと肌に貼り付く。

 指が濡れた幕の下に潜り込むと、俺の半身を引き摺り出した。大きな掌が包み込み、一撫でする。

「かーわい」

「……ン。あ、……っァ。ヒぁ、……ンン、く」

 乳でも絞り上げるように、円を描いた指が根元から先端へ行くにつれて輪を窄める。ぷっくりと膨らんだ先っぽは、指の腹で撫でられ、涙を零していた。

 同じ造りの器官を知っているからか、的確に弱い処を追い詰められる。

「も……い。からァ……イ、……っく」

 熱が漏れ出る前に、悪戯な指先は前から離れた。

 じとりと責めるような視線を向けてしまうが、環は平然とそれを受け流した。

「どっちかっていえば、本番はこっちでしょう」

 背後に伸びた掌に、尻の肉を鷲掴まれる。ついでとばかりに揉みしだき、環は柔らかい感触を楽しんでいた。

 彼は尻から手を離すと、ボトルの中身を指先に塗り広げる。ぬめりを帯びた指は谷間を割り開き、隠れていた窄まりを探り当てた。

「う、あ゛ッ……!」

「力抜いててね」

「でき、な……、ひッ」

 指先が肉輪を割り開くと、内部を探るように挿し込まれる。ぬるぬるとした液体を纏っているからか、ずるりと滑る感覚が生々しい。

 身体の内側から、太い指で押し上げられる。

「……ぁ、ふ。…………う、わ……」

 内部を拡げ、何処かを探っているのは分かっていた。だが、何を探っているのか分からない。

 そんな俺に、指先がその場所に辿り着いたことを、快楽を伴って知らされる。

「ひ──! ……ァ。そこ、何……っ!?」

「気持ちいいとこ」

 探り当てた場所を、指の腹で捏ねられる。身体の奥から湧き上がる痺れは、前を触るときのそれよりも長引く。

 見知らぬ快楽に混乱し、突き入れられた指を締め付ける。けれど、それすらも悦く、身を苛んだ。

「力抜ける?」

「……ァ、ン。ん、が、……、ばる」

 意気込みを伝えてみたものの、環に知られたその部分を触れられれば、反射的に身体が動いてしまう。

 そうしているうち、指先が引き抜かれた。

「……も、いのか…………?」

「本当は、もうちょっと丁寧にしてあげたかったけどね。匂いで誘われ続けてるから、こっちも限界かな」

 彼が手を重ねた自らの股間の部分は、服を押し上げるように隆起している。

 つい視線を向けてしまい、唾を飲み込む。次に与えられるのは指先ではなく、あの膨らみそのものだ。

 環は服に手を掛けると、躊躇いなく引き下ろす。

 中から転がり出た肉塊は、何かを突き上げる形状へと変化し、凶悪にその身を火照らせていた。

 彼はローションの入ったボトルを持ち上げると、中身を自らの雄へ垂らす。ぬらぬらと濡れ光った逸物は、更に存在を主張している。

「遊。項が見えるように四つん這いになって。お尻はこっちにね」

 言われた通り四つん這いになると、項が見えるよう頭を下げる。背後から躙り寄る気配がして、膨らんだソレが太股に擦り付けられる。

 押し上げる塊の感触で、指とはあまりにも質量が違うことを悟ってしまった。

「本当はゆっくりしてあげたいけど、余裕がなくてごめんね」

 背中にキスが落とされ、指でほぐされたそこに熱が押し当てられる。ちゅ、ちゅ、と肉輪に亀頭が当たった。

 ようやく狙いが定まったのが、ぐ、と力を掛けられる。両腕が俺の腰を掴み、背後へ引いた。

「う、ぁ────! あ、……ァ」

「これは凄いな……、ッ」

 ぐぶ、と張り出した部分が一気に押し込まれる。圧迫感に息を詰め、シーツに爪を立てた。

 身体は逃げを打つが、がっしりと腰を掴まれ、逃げ場はなかった。ゆっくりと含まされるのが尚更辛かった。

 じわじわと知らない感触を長く与えられ、その度に腹を相手の肉棒が埋めていく。快楽と捉え、感じるほど質量が主張するのだ。

「い、ァ。も、……ナカ、おも、い……ァ、ひう」

「……っ、まだ入るから。我慢してね」

「ひ、ィ────!」

 ずっ、ずっ、と小刻みに腰が打ち付けられ、腹の奥が揺れる。

 指先で探り当てられた場所までその振動は響いて届き、俺は今日初めて知ったはずの快楽に酔い痴れていた。

 口から漏れる声は言葉にならず、だらりと涎が口の端を伝う。

「そう。ココ、だっけ」

 軽い響きとは裏腹に、突き上げは重かった。

「ぁ、ん。ア──! ぁあ、うあ。……ひ」

「当たっ、た……。悦い、みたいだね」

 彼は何度かその場所を捏ねて苛めると、更に奥へと歩を進めた。

 指で届かない場所は、割り拓かれるたびに妙な刺激を伝えてくる。一体どこまで届いてしまうのか、それが恐ろしくて仕方なかった。

 支えていた腕はとうに崩れ、肩で上半身を支えている。持ち上がった唇は、濡れて光っていた。

「ちから、抜ける?」

「ァ…………。な、に?」

 問い返しつつも、腹の力を抜くように努める。すると、奥に在る塊が、こつん、こつん、とその場所を小突いた。

 扉をノックするような、何かを割り開こうとする動きに、本能的な恐怖が絡み付く。それでも、俺は唾を飲み込んで、彼に言われた通りに動いた。

「いけそう」

「な──? あ、……え?」

 先端が、ようやく割れ目を捉えた。肉の塊をその場所へと滑り込ませ、質量で割り開く。

 ずっぷりと、その場所に重たい肉が埋まった。どくん、と胸が妙な脈打ち方をする。

 許してはいけない場所を、ゆるしてしまった。

「あァ……っ、うあ。……ヒ、……ぬ、ぬい」

「ふふ、抜いたらね。……きっと、もっとヒドいよ」

 埋まった屹立が小刻みに揺らされる。突き入るわけではない僅かな動きさえ、理性を削り取った。

 雄を、アルファを受け入れなければ知らない感覚は、あまりにも強烈だ。別の価値観を埋め込まれるようで、怖いのに、逃れたくない。

 ずっと、このアルファに杭打たれていたい。

「うァ、あ。……い゛、ア……っ! これ、こわい……」

 振り返って懇願すると、ご機嫌そうに笑う綺麗なアルファの顔と視線が合う。その時、願いは聞き届けられないと悟った。

「じゃあ、早めに終わらせようね」

「そう、じゃな……っ! ────! い、……ァ、そこ。ぁ、だめ……!」

 相手の膨らみは割り入った領地を確保したまま、少しずつ大きな揺れを与え始める。頭の中が本能で塗り潰され、濁った声を上げながら腰を上げた。

 大きく腰を引かれると、相手の亀頭に吸い付いた媚肉ごと持っていかれる。そうやって離れたと思えば、また戯れのように、ずしん、と腰を打ち付けられる。

「あ、……あ゛ッ! イっ……、ひぐ、ぁ、うあ、あ、あ」

「……気持ち、いいよ、遊。こんなに濃く交わったら、きっと……番に、なれるね」

 ぐぐ、と相手の身体が傾ぎ、体重が掛けられる。

 相手の指が、俺の髪を払った。項が露わになる。動きを追おうとした視界の端で、牙が煌めいたのが見えた。

「あッ、あ──! …………ァ、あ。ヒッ、ぁああああぁぁあぁッ!」

 ぐぐ、と項に牙が埋められ、沈み込んでいく感触と共に、躰の中でアルファの熱情が迸る。

 みっちりと雄が埋まるまで押し込まれた上での放出は、確実に実を結ばせようという執念すら感じるほどだった。ゆるく腰を揺らし、最後の一滴まで押し込める。

 どっとその場に倒れ込むと、ようやく牙が離れた。相手の体が俺を押しつぶすようにのし掛かり、膨らみが嵌まった場所を刺激する。

「…………ッ。抜かない、の……か」

「んー。此処、居心地がいいからね」

 彼が身を捩るたびに、腹の奥が捏ねられる。びくん、びくん、と反応する躰は、彼の半身に支配されていた。

 相手の身体の下で、すんすんと啜り泣く。番になったのだから逃がしてくれ、という訴えは、発情期が終わるまで叶えられることはなかった。

 

 

 

「酷い朝だ……」

 発情期明け、隣ですやすやとお眠りやがっている頭を軽く叩き、まだミシミシと関節が痛む身体を起こす。

 皮膚を確認すると、汚れは洗い落とされているようだ。だが、自らの腹を擦ると、やはり内部に違和感がある。

 アルファはみんな『ああ』なのだろうか。それとも、自分の番が偶然、絶倫だったのだろうか。

 ベッドから起き上がり、落ちていた服を拾い上げて身に纏う。寝室を出てキッチンに向かい、空腹に導かれるように冷蔵庫を開け、牛乳をカップに注いだ。

 慣れた手つきで中身を温め、椅子に腰掛けて両手でカップを握り込む。項は消毒され、傷テープが貼られているが、まだじんと痛みが残っていた。

「確かに、……環の匂いはわかるけど。他の匂い、薄くなったな」

 これから俺は、別のアルファを誘うことはない。番だけの匂いしか届かない身体になった訳だ。

 指も、手首も。表面上は何も変わらないが、細胞ごと作りかえられた感覚は悪いものではなかった。

 一人で飲み物を楽しんでいると、途中で環も起床したようだ。足音が響き、食卓に一番近い扉が開く。

「おはよう」

「おはよ。絶倫」

「…………盛り上がった自覚はあるけど、俺、性に関しては淡泊なほうだと思うけどな」

「嘘だろ」

 相手の反論を切り捨て、カップに口をつける。

 環は頭を掻くと、自らも牛乳をカップに注いで温め始めた。

「体調は平気?」

「疲れてる」

「……それはごめん」

 文句を言っていると、電子レンジから温め終わった旨が告げられる。彼はカップを持つと、俺の向かいに腰掛けた。

 長いことベッドの中での会話ばかりだったからか、今の空気はまだ静かに思えた。

「────番になるって、こういう事なんだね」

「匂いの変化か?」

「そう。遊以外の雑な匂いが、まっさらになったみたいな」

 彼の言葉に同意する。覗き込んだカップの中身は、何も混ざらず真っ白だった。

 世界から薄布を剥ぎ取ったような。もしくは、俺と彼以外との間に薄布が張られたような感覚だ。これは、後者なのだろうか。

「嬉しいか?」

「嬉しいよ。遊と番になれたことも、君が、もう別のアルファの匂いに振り回されないこともね」

 時おり覗かせるぞっとするような独占欲に、俺はこっそり身を震わせる。

 彼は最終的に、匂いで番を選んだ。匂いはアルファとしての本能に直結する感覚だ。本能に一番近い部分が、俺を定めた。

「あんたこそ。俺に飽きないといいな」

「飽きないよ」

 環はきっぱりと言い切ると、少し冷めた牛乳を口に含んだ。

 彼にとっては、何かしらの確信をもって俺を選んだようだ。それならいいか、と息を吐く。

 

 

「────今日の、少し疲れた顔も素敵だね」

 ただ俺の顔が好きだ、と言い張る番は、こちらを見て、心底幸せそうに笑っていた。

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坂みち // さか【傘路さか】
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