たぶん君がいる仮想空間ならそちらを選ぶ

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※付き合うところまで行きませんが、関係性としてはある程度決着が付くような話です
※攻め視点

 

【人物】
 心木(こころぎ)
 立羽(たては)

 

 仮想空間の広がりは、社会構造を大きく変えていった。現実社会と同じく一つの大空間を共有する、大仮想空間。人々は仮想空間へダイブするためのカプセルを使い、一日の大部分を仮想空間で過ごすことが多くなった。

 居住地区は大都市に集約され、現実世界の部屋はカプセルが入るだけのスペースしかない高層賃貸マンションも増えた。仮想と現実、以前は現実が重視されていたものの、天秤が仮想空間へと傾いていく。

 見ていた仮想宇宙コンテンツを閉じると、プラスチックの窓に顔が映る。高さのある鼻筋と、鋭いらしい目元は整っていると言われることもあるが、無表情だと評価されがちな筋肉が平均点に落とし込む。これこそが、俺にとっての現実だ。

 娯楽の全てが詰まったような空間を抜け出て、俺は息を吐き出す。ようやく、水面に浮上したような気分になった。

 

 

 

 小さい頃から手先が器用で、機械いじりが好きだった。進学する時にも、機械系の学科のある専門学校を選んだ。当時は仮想空間の機械を特に増産している時期で、あっさりと工場への就職が決まった。

 働き始めて、来年で十年ほどになる。後輩が入ってくれば指導に当たるような立場になり、日々の業務に戸惑うことも無くなった。

 仮想空間の広がりによって仕事の一部が仮想空間へ沈んでも、仮想空間を維持するカプセルの修理は現実世界でないとあり得ない。ロボットでの製造が進んではいるが、故障時の修理だけはまだ人の手が抜けなかった。

 その日も仕事を終え、社宅への帰り道をぶらぶらと歩く。

 数年前から、人通りは激減していた。外出しなければならない仕事も減り、娯楽が仮想空間で賄われるようになったからだ。人っ子ひとりいない夕暮れの街は橙に沈み、ぽつりと灯る光ばかりが人の存在を示していた。

「ん?」

 道ばたに葉書が落ちている。脚を止め、郵便受けを探した。葉書の送料は値上がりを続けており、この一通を届ける送料と一食分の外食費はほぼ等価だ。

 ふと、家を出てきた人物に目を留める。

「…………あ、の」

 声を掛けようとして裏返ったのは、彼が仮想世界から抜け出たような美人だったからだ。

 染めた形跡のない黒髪は艶やかで、肩に触れるくらいの長さを後ろで括っている。藍色の作務衣からすっきりと手足が伸びていた。夕陽に照らされる肌は白く、垂れ目がちの視線がこちらを向く。

 こんなにも、現実を疑いたくなったことはない。

「葉書が落ちていたんですが、名前を確認していただけないでしょうか」

 上下を逆さにして相手に差し出すと、名前の場所を視線が追った。

『立羽 様』

 簡潔に記された名前に、姓は書かれていなかった。役所の登録上の姓はあるが、実務的には人は番号によって管理される。よって、姓は使っても使わなくても問題は無い。

 名前の下に記された番号だけが、個人を特定する標だ。

「ああ、申し訳ありませんでした。私宛てのものです」

 葉書を受け取ると、彼は郵便受けを開け、中身を取り出す。彼が手に取る数枚の手紙や封筒を、俺は物珍しく見つめた。

 じゃあ、と立ち去って良かったはずなのに、空気に呑まれたのかもしれない。

「偶には葉書のやりとりもいいかもしれませんね」

 余計な言葉だったか、と口元に触れると、ふんわりとした笑みが返ってくる。

「はい。最近では珍しいかもしれませんが、楽しいですよ」

 ひと呼吸置いて、ひらり、と細い指が手招きする。

 真意を問いかけられないまま付いていくと、玄関先には土間があった。幼い頃、資料館で見たような高さのある上がり框が迎えてくれる。

 開放的な部屋の奥は基本的に板張りだったが、畳のある部屋も見えた。

「お茶でもいかがですか」

「あ……はい。いただきます」

「温かいのと冷たいの、どちらがお好きですか?」

「じゃあ、冷たいものを」

 はい、と静かに言って立羽さんは家に上がっていく。俺が土間を踏みしめて戸惑っていると、掛けてお待ちくださいね、と言葉が添えられる。

 頭を掻き、脚は土間に置いたまま、上がり框へと腰掛けた。

 玄関は開け放たれ、咲いている花が夕焼けに照らされていた。さわさわと風が過ぎていくと、光の差し具合が変わって景色が移り変わる。風は湿っぽく、雨が降るかもしれない、と予感させるにおいがした。

 あいにく傘は持っていない。だが、主人が茶を淹れている間に辞すのも失礼、と濡れ鼠になる覚悟を決めた。

 やがて、サァ、と雨が降り始める。

「────おや、雨でしたか」

 意外にも、なのか、やっぱり、なのか読み取れない声が背後から届く。俺の横に、お茶のグラスと、チョコレートが載った盆が差し出された。

 リボン型のチョコレートの包みを摘まみ上げる。

「有り難いです」

 両側を引いて出てきた焦茶色の塊を口に放り込む。

「本当は和菓子でもお出ししたら、ふぜいがあって良いのかな、と思ったんですけれど。買い置きがなくて」

 照れ笑いをする立羽さんは、隣に腰掛けて自分のグラスを手に取った。滴を纏った表面に指が触れて濡れ光る。

「好きですよ。特に疲れている時は美味しい」

「お仕事帰りですか?」

「はい。この先の工場で勤めています」

「ああ、仮想空間に入るための機械でしたっけ。すごいですねえ」

 すごい、という言葉には見知らぬ物を褒めるとき特有の曖昧さがあった。目に入る位置に、仮想空間へダイブするためのカプセルは見当たらない。若い割に、カプセルを持っていない珍しい人物のようだ。

「凄く、……は、ないですよ。カプセルの中にいれば大抵の楽しみは得られるんですが、俺たちは壊れた機械ばかり見ているので、こんな機械に身体を預けるのか、と怖くもなります」

 仮想空間へのダイブに伴う死亡事故。仮想空間が与えるショックが死に至ることがないよう、セーフティ機能は備わっている。備わっているはずが、毎年ほんの少しずつ、あの機械が原因で人が死んでいく。

 人々は慣れきって、もう何を言うこともない。仕事に必要だし、と、娯楽を失うくらいなら、と皆が少しずつ目をつぶり続けている。

 カラン、と氷が硝子に鋭くぶつかって音を立てた。

「すごい物にも、すごくない所があるのですね」

「あ、の……。立羽さんは、あまり仮想空間にはご興味がない、ですか?」

 彼は目をぱちくりとして、なんで名前を、と小首を傾げた。彼が玄関先に置いた手紙の束を持ち上げてみせると、ああ、と手を打ち鳴らす。

 彼はグラスを持ち上げ、減りつつある氷を何度か揺らして回した。

「装置、とやら、お高いじゃないですか?」

「ああ、そうですね」

「それだけのお金があったら、本や画材をたくさん買って、手紙を沢山だして、美味しい物をたーくさん食べられるかなと思ってしまったんです」

 カプセルを買うことは俺にとっては普通のことで、買ったことによって楽しい思いをしたことは確かだ。だが、彼が言うたくさんの楽しみと比較して、カプセルの方が得している、とは言えなかった。

 くるくると手元でプラスチックの包みを剥がし、口に放り込む。甘い。舌先から脳に突き抜けるような本物の糖分の甘さは、あまりにも鋭かった。

「ああ。まあ、分かる気はします。仮想空間も、悪いことばかりでは無いんですけどね」

「例えば?」

「そうだな。仕事に疲れている時、見たことも無いような景色を観て疲れが吹き飛んだりとか」

 立羽さんは指を伸ばし、チョコレートの山から一つを摘まみ上げた。くるり、と慣れた動作で包み紙が剥かれる。

 つるりとした表面を指でなぞって、赤い口の中に放り入れた。かりり、と噛み砕く音がする。

「実際に、見に行ったらいいじゃないですか」

「……これは手厳しい」

 肩を竦めると、彼は開け放たれた玄関の先を見る。雨はもう土砂降りだ。軒から流れ落ちる水は線を作り、途切れなく地面を掘り起こしていた。

 立羽さんは郵便物の中から、絵はがきを持ち上げる。裏面にはつやつやとした西瓜の絵が描かれていた。

「モニタでどれだけ色を再現しても、等しく同じにはなりえない。絵だってそう。間違いなく正しいのは、私がこの目で捉えた風景だけ」

 彼は愛おしそうに、外の風景を眺めていた。視線を追うと、水が葉に落ち、枝が撓り、また起き上がって雨粒を跳ね散らかす様があった。透明の飛沫がまた別の波紋を作る。

「庭の花、綺麗なんですよ。いつも」

「ああ、雨が降る前に、少しだけ見ました。綺麗でしたよ」

 立羽さんは、自信ありげに胸を反らした。

「今度は、もっとゆっくり見てください。お日様の光を浴びた時は、また別の色をしていますから」

 そう言われ、次の来訪を約束させられた。

 傘を借り、彼の家を出る。門の外からでは灯りがともっている様さえ見えず、雨に囲まれた古い屋敷はまるで幽霊屋敷のようだった。

 

 

 

 翌日、仕事帰りに傘を持ってまた家を訪れた。

 手土産くらい、と行き慣れないデパートへ向かい、買い置きが無いと言っていた和菓子を買い求めた。プラスチックの容器に入った水色のゼリーに、月型の飾りが載っている。

 土産を提げて門の前に立った頃には、とっぷりと日が暮れていた。インターホンのボタンを押す指は何度も躊躇い、物を返すだけだ、と気を奮い立たせる。

 指を押し込み、はあ、と息を吐いた。

『────はい』

「こんばんは、心木です。傘を返しに来ました」

 スピーカーから漏れる声が途切れた。ゆっくりと廊下を歩いてくる足音が響く。キッ、キッ、と床が僅かに沈んでは浮き上がる、年月を経た家特有の音だ。

 カラカラと音を立て、玄関の引き戸が開いた。

「こんはんは。お名前を聞いていなかったので、誰かと」

 ころころと笑う様が夜によく似合っていた。

「あ。……そうでしたね、心木といいます」

「立羽です」

 お互いに一頻り笑って、俺は傘と手土産を差し出す。立羽さんは手土産に目を瞠った。

「わざわざ、ありがとうございます」

 傘を傘立てに戻し、俺に視線を戻す。ぱっちりとした目は、すぐに手繰れるくらい、よくこちらを見ている。

 彼の背後から、甘い匂いが漂ってきた。

「夕飯の時間でしたね。長居してもあれなので、これで」

 振り返ろうとした肩を叩かれる。持ち上げられた指は空中でゆるりと握り込まれた。

「肉じゃが、お好きですか?」

「はい」

「召し上がっていくのと、持ち帰りはどちらがお好きですか?」

 つい、腹を押さえてしまった。仕事帰りにデパートまで行って、買い物をしてこの家を訪れている。きゅる、と胃が収縮する音が聞こえてきそうだ。

 俺の仕草に、察するものがあったらしい。

「炊きたてのご飯もありますよ」

「……ご馳走になります」

 手土産で恩を返したつもりだったのに、また借りができてしまいそうだ。そして、自分が借りを作ることを嬉しく思ってしまっているのも自覚していた。

 玄関先で埃を払い、開いた引き戸から中に入る。土間で靴を脱ぎ、廊下を歩いた。

「昔からある家なんですか?」

「ええ。祖父母の持ち物だったそうで、父母の世代で大きな改修を入れています」

 外観に比べれば、内装は新しく見える。手入れが行き届いている所為か、古めかしささえも魅力的に見えた。

 男物しかない靴、普通と折りたたみの一対しかない傘。彼以外が住んでいる様子のない家は、一人で住むにはただ広い。

 食卓の椅子はもともと一つきりしかなく、台所から立羽さんが椅子を抱えてきて二つになった。

「料理を運んできますので、お待ちくださいね」

「あの……。良ければ、運ぶのを手伝わせてください」

 申し出ると、では、と台所に招かれた。炊飯器から普通にご飯を盛り、まず一つが盆に載る。

「自分のご飯は、お任せしましょうか」

 しゃもじと茶碗を手渡され、遠慮がちに少しだけ丘を作った。立羽さんは肉じゃがを盛り付けており、近づくとおたまを渡される。

 蓋を取った鍋からは、醤油とみりんの甘くてしょっぱい香りがぶわっと立ち上った。匂いを嗅ぐだけで、口の中にあの懐かしい味わいが広がってくるようだ。

 皿に盛っていく間も、他人の家である遠慮と、空腹がせめぎ合っていた。躊躇いがちにおたまを動かしていると、肩の近くで声がする。

「たくさん、食べてくださいね」

 吐息が掛かるかと思った。

 動揺に遠慮が吹き飛んでしまい、肉じゃがの皿は山を作った。明らかにご飯とのバランスが悪い。

 盆の空いたスペースに、お味噌汁が添えられる。

「行きましょうか」

 食卓へ盆を運ぶと、テーブルの上に漬物の入った保存容器が添えられた。氷の入ったグラスに麦茶が注がれ、隅に置かれるともう何も言うことはない。

「いただき……ます」

「はい、どうぞ。私もいただきます」

 食卓の近くにメディア機器はなく、染まったジャガイモを口に運ぶ間は無音だった。ほくり、と口の中で芋がほぐれる。染みこんだ醤油の香りがご飯を誘った。箸で持てるだけの米粒をたんまり口に入れる。

 口の端で呼吸をして、火傷しそうなほどの熱を逃がす。

「……おいひい、です」

「良かった」

 俺の様子を見守った後、立羽さんも食事を始めた。彩りを添える人参を持ち上げ、ふう、と吹き冷まして口に運んでいる。

 ん、とご機嫌そうに声が鳴った。

「いいですね。肉じゃが」

「いいです。……今日、食べたくなったんですか?」

「ええ。折角だから作り置きにして、明日も食べようと思ってはいたんですが。お鍋が家族で暮らしていた頃のものをそのまま使っているので、作りすぎなんですよね」

 あの鍋いっぱいの肉じゃがを一人で食べきるには、明日で足りるんだろうか。そして、やはり彼はひとり暮らしのようだ。

「俺は作らないことが多いから。……や、多いので、尊敬します」

「ふふ。心木さん。私、家に年上の人の出入りが多かったから敬語に慣れているんですけれど、貴方までそうしなくてもいいんですよ」

 お漬物いかがですか、と薦められ、ぽりぽりと沢庵を囓る。ご飯の上に仮置きすると、僅かに色が移った。

「ああ、助かる。職場もあまり、そういったことに気を遣わない人が多くて」

「私もこれ、使い分けが面倒で染み付いてしまったところがあります」

 甘辛の肉は、出汁の染みた玉葱と重ねてがっついた。みるみる茶碗から米が消えていく。がつがつと食べている様を、柔らかい瞳が一層細くなって見つめた。

「お仕事、力仕事も多いんですか?」

「人ひとりが入るカプセルなので、部品として大きい物も多い。力がない人のための補助機械もあるが、数が足りなくてな。力がある者はかつぐ方が早いんだ」

「たまに、肩を落として歩いているから、なんだろう、と思っていました。あれ、疲れておなかが減っていたんですね」

「ああ。間違いなく疲れて腹が減っていたな」

 ごっ、と喉に麦茶を流し込むと、ピッチャーから補われる。小さくなった氷が揺れてガラスにぶつかった。

 冷蔵庫で冷やされていたそれは、まだ頭を痛めるほど冷たい。喉と胃がそれぞれの食べ物を欲しがっては視線をふらつかせた。

「立羽さんのお仕事、って聞いても構わないか?」

「いいですよ。といっても、これ、と決まったお仕事は無いんですよね。手持ちの不動産や骨董品の管理とか、家族が遺した作品の維持だとか。あとはご近所さんの畑のお手伝いをして現物支給していただいたり、でしょうか」

 何となく、イメージ通りの仕事だった。彼が何かに急いでいる姿を見ることはなく、会社勤めにはない、まったりとした速度感がある。

「沢山、仕事があるのは大変だな」

「毎日おなじ時間にお仕事に行くのだってたいへんですよ」

 互いが遠すぎるだけに、羨むような気持ちも湧かなかった。彼に自分と同じように働いてほしいかといえば、そうは思わない。

 今の彼の立ち姿にこそ好感を持っている。大きな変化を望むかと言えば否だった。

 俺の茶碗が空になると、立羽さんは腰を浮かせる。自分で、と言い置いて、思う存分、米を盛らせてもらった。

 肉じゃがを食べ終え、漬物と味噌汁で一息つく。外から虫の鳴き声が聞こえてきた。

「まだ入ります?」

 立羽さんは、俺の持ってきた手土産の包みを持ってきた。満腹の腹をさすり、手を横に振る。

「もう、お腹いっぱいだ」

「そうですか……。じゃあ、あした食べましょうよ」

 ゼリーの賞味期限を確認して、彼はそれらを冷蔵庫に戻す。あまりの厚かましさに返事を躊躇っていると、彼は向かいに腰掛けた。

「明日は冷やし中華の予定なんです。麺のパッケージが二人用なので、手助けがあると助かるんですが」

「……来ます」

 錦糸卵とハム、しゃきしゃきの野菜。思い出すだけで味が舌の上に浮かんでくる。しばし、ゆったりとした時間を楽しんで、食器を流し台に運び、軽く濯ぐところだけ手伝わせて貰った。

 余った肉じゃがを名残惜しそうに見ていると、朝ご飯にいかがですか、と笑われた。保存容器に入れてもらい、手土産になる。

 帰宅する時も、玄関先まで見送りに来てくれた。あまり接したことのない几帳面さだ。

「おや、外が真っ暗ですね。車にはお気を付けて」

「ああ、端を通って帰るよ」

 靴を履いて外に出ると、彼が言うとおり、外は真っ暗だった。

「打ち火でも差し上げたいくらいです」

「打ち火?」

「祖母がやっていたんですけれど、こう、火打ち石を叩くんですよ。無事に帰ってきますように、って」

 手を動かして見せてくれると、カチン、と鳴る音が聞こえてくるようだった。覚えのない習慣だが、願掛けをされるのは悪い気分ではない。

 暗闇の中に潜って振り返ると、彼がいる場所だけが灯って見える。真白い肌が光に照らされ、艶めかしく浮き上がっていた。

「ああ、じゃあ。ええと、『いってきます』?」

「ふふ。……はい。『いってらっしゃい』」

 茶化して言うと、笑って返された。失礼します、と言い直して、門を出る。

 帰宅してお土産を冷蔵庫に仕舞い、シャワーで汗を流す。すると、うとうとと眠気が襲ってきた。あまりにも気持ちよくて、仮想装置にダイブする気にもならない。

 もし、今どちらかを選ぶとしたら、あの家の縁側で横になりたい。叶わぬ願望を抱きながら、いつも通りのベッドで眠りについた。

 

 

 

 彼とは、次の来訪時に連絡先を交換した。携帯電話すら持っていないかと思ったが、流石に固定電話は面倒だそうで、あまり使われている様子のない携帯電話を差し出された。

 終業時間ごろ、夕食の誘いと共に美味しそうな料理の画像が届く。一度、飲み会と被ってしまった時には、ハンバーグの美味しそうな写真を見ながら唇を噛んだほどだ。

 夕食の代金を支払おうとしても受け取ってくれず、たまに手土産を持参してはいるが、返している感じがしない。そんな時、ふと、立羽さんが愚痴をこぼした。

「冷蔵庫の下に水漏れがするのって、何でなんでしょう?」

 冷蔵庫は比較的新しく、俺はおなじ型番の説明書を調べて背面を掃除した。器具も要らない簡単な作業ではあったのだが、たいそう感謝された。ついでに、と洗濯機の買い替えの相談をされた。要望を聞いてスペースを測り、適当だと思う型番を書き留めて一緒に家電屋へと行った。

 立て続けに問題を解決した俺を、立羽さんは魔法使いかなんかのように思い始めたようだ。携帯電話や家電などの不調を、たまに相談されるようになった。休日の庭作業など、力仕事の話が出ると進んで手伝えるよう声を掛けている。

 その日は二人で鉄板プレートを囲み、焼き肉をしていた。俺がたまには、と肉の用意を申し出ると、立羽さんは庭から焼き野菜に適したものを収穫してくれた。

 じゅわじゅわと焼ける肉を前に、立羽さんが思い出したように立ち上がった。冷蔵庫から、缶を二つと、透明な瓶を持ってくる。

「取り敢えずビール、でしょう」

「いただきます……!」

 人の家で飲酒を言い出せず、肉を買ってくる時に一緒には買わなかった。だが、家主はきっちり用意してくれていたらしい。

 プシュ、と空けた缶を打ち鳴らして、喉へ流し込む。

「お肉も焼けましたよ」

 どんどんと俺の皿に入れてくれる。脂の滴る肉に塩を振り、まずはそれだけで口に運んだ。奮発した肉だけあって柔らかく溶ける。

 そしてまたビールが喉を過ぎた。かっと熱が灯る。

「お、美味しい……」

「ん。……本当に、美味しいお肉をありがとうございます」

 普段は一人ぶん以上を食べない立羽さんにしては箸が進んでいた。透明な瓶は日本酒で、水のようにすっと流れる酒を口に運んでは、あまりの旨さに突っ伏した。

「美味しいでしょう」

「美味しいです……」

「敬語、戻ってますよ」

 頬を赤く染めた立羽さんも普段より上機嫌で、俺に負けないくらい飲み進めていた。お猪口が空になる度に注ぎ足してくる様子に、流石に制止を入れる。

「これ以上、呑むと帰れなくなる……!」

「明日、お休みじゃないですか。ご予定がなければ、泊まっていってください」

 引いたグラスを酒瓶が追って、透明な液体をなみなみに注ぐ。

「……そのうち泊まっていく日もあるのかなあ、と天気が良い日にお布団を干していたんですけれど。心木さんが几帳面に帰って行かれるから」

 注がれたお猪口を見下ろして、揺れる水面を持ち上げて更に揺らす。くい、と一気に干すとアルコールがぐるりと回った。

 火照った頬は、酒の所為に違いない。

「帰るのは……明日にする。立羽さんには、世話になってばかりだな」

 本物の水の入ったグラスが差し出され、がぶがぶと渇いた喉を潤す。はあ、と息継ぎをして、口元を手の甲で拭った。

「明日、新しい種を蒔くんですよ。畑を広げて、土を買いに行こうと思っていて」

「そういうことか。手伝う」

「よかった。仕事を頼まないと、心木さん、うちに来てくれないから」

「そう言うのなら、材料代くらい払わせてくれ」

「じゃあ明日、土を買ってもらいます」

 鉄板の上には、鶏の喉元の肉が焼かれていた。じわじわと脂を落とし、焼き上がった肉が皿に渡される。

 俺から何も受け取ろうとはせず、ただ家に招いて食事をする。家族の匂いがする家は、一人には寂しいのだろうか。だから、俺みたいな何でも無い人間を頻繁に招こうとするのだろうか。

 話の内容を覚えていられないような会話ばかりを続け、肉が大方なくなったところでお開きになった。

「シャワーくらい浴びておきます?」

「ああ、ちょっと酔いが醒めてきたところだ」

「着替えとタオルを用意しますね」

 俺よりも量が少なかったのか、食事をきちんとして飲んだからか、彼の手足はふらつかず、短い時間で服とタオルを運んできた。

 未開封のパンツまであるような、至れり尽くせりの待遇である。

「これ、甚平か。……糸巻き?」

「余っていた布で縫いました。糸巻きは長寿を願う柄ですよ」

「……綺麗だが、酒を呑んだ後に着るには似合わない柄だな」

 しみじみと言うと、ふっ、と立羽さんは口元を押さえる。

「百薬の長になんてことを」

「長だって肝臓に過度の負荷を掛けるような奴のカバーはできないだろ」

 ありがとう、と言い置いて、風呂場に向かう。一人で使うには広い脱衣所は、すっきりを通り越してがらんどうにすら見えた。

 タオルと服を置いて、ちょうどいい温度のお湯を浴びる。長居して迷惑を掛けるような状態になってもまずい。手早く身体を洗って、泡を落として風呂場を出た。

 タオルで水滴を拭い、わざわざ作られた甚平に袖を通す。甚平と呼ばれるような形はしているが、いつも立羽さんが着ているものとは違って、首元にはボタンが付き、被れば済むようになっている。

 大柄の男でも余裕がある造りで着心地がいい。すう、と風が肌をすり抜けていった。

「立羽さん。風呂空いたから」

 元いた場所におらず、姿を探すために少し歩き回ってしまった。

「ご無事で何より。私もシャワーを浴びてきます」

 待っている間に自分の服も用意したのか、しっかりした足取りで脱衣所に向かっていった。近くにある縁側の窓は開け放たれており、蚊取り線香の火が点いている。特有の匂いを物珍しく思いながら、立羽さんが座っていた場所に腰掛けた。

 虫の鳴き声と、ほんのたまに車が通る音。暗闇は藍色なのだな、と星の瞬きに見入った。やがて、うとうとと眠気に揺れていると、ポン、と両肩が叩かれる。

「うわッ!」

「おねむですか? 歯磨きしましょうか」

 普段よりふんわりした声音を発して、立ち上がる俺の背を支える。カラカラと窓が動く音がして、続いて障子戸が閉まった。

 背を押されてのろのろと洗面台に向かい、買い置きの歯ブラシを与えてもらった。歯磨き粉は共用だな、と思って、あまりにも気持ち悪い思考を振り払う。

 黙って口内を泡だらけにして、口の中を濯いだ。コップも共用だった。

「歯ブラシ、置いておきます?」

「……邪魔じゃなければ」

「はい」

 そう言って、歯ブラシ立ての隣の位置に置いてくれた。なんだかむず痒くて、頬を掻きながら先に洗面所を出る。

 寝室は奥の部屋なのだと言い、襖を開けて招かれた部屋には、少し離れた布団が二つ並んでいた。

「同じ部屋だと気になるようであれば、別の部屋に動かしますが」

「いや。大変だろうし」

 そそくさと片方に潜り込むと、さらりとした感触がした。シーツは旅館のそれのように真っ白で、ふわりとした布団は手入れされていることがよく分かる。

 この部屋にはエアコンがあるようで、布団を被っても暑くはなかった。照明が消えると、互いに黙りこくり、一気に静かになる。

 緊張からか、酔いが醒めたからか、眠気が遠ざかる。何分経っただろうか。視線を隣に向けると、すう、すう、と寝息を立てる麗人がいた。

 真っ黒な髪は白い肌に垂れ、喉の隆起と鎖骨までのラインが露わになっている。磨りガラス越しに漏れる光が、肌を淡く照らし出す。

 身体の芯がかっと熱くなる。アルコールが入っていて良かった、そう心から思いながら、無理矢理、目をぎゅっと閉じた。

 

 

 

 何度眠りに落ちても、あの青白い首筋がちらつく。

 せいいっぱい畑を耕すのを手伝ってから、週末開けの月曜日に、仕事が忙しくなった、と告げた。それから察してくれたのか、料理の写真が届くことはなくなった。

 何度も彼との連絡を追ってしまうから、連絡アプリは通知を切ってある。仕事関係は別のアプリから連絡が飛んでくるため、しばらく困ることはない。

 その日も帰り道で出来合いの食事を買って帰り、家でもそもそと食べた。立羽さんの手料理に敵うべくもない。少し残ってしまって、そのまま冷蔵庫に仕舞った。

 今日は残業も短く、狭苦しい一人だけの部屋でぽつんと取り残される。ふと、仮想装置のカプセルが目に入った。電源を入れ、中に身体を滑り込ませる。柔らかいクッションに身を横たえ、指先でコンテンツを選び始める。

 画面をスライドしていると、すこし前に見たアダルトコンテンツが履歴に表示される。豊かな乳房を持った金髪の女性と、相手主導でセックスをする、というようなコンテンツだった。

 何の気なしに再生を押して、途中まで進む。けれど、息子はぴくりともしなかったし、何かが上塗りされるようで再生を止めてしまった。

「………………」

 操作を止めて、無言で機械をオフにした。カバーを持ち上げて、カプセルから抜け出る。これは、あまりにも重傷だった。

 ベッドに横になって、瞼を閉じればあの時の立羽さんだけが浮かんでくる。相手に無体を強いるような人間ではないが、一方的な好意は罪悪感がずしりと腹にのし掛かってくる。

 相手に悪いことをしていると理解しているのに、それでも会いたい。携帯電話の画面を何度も見つめて、電源を落として放った。

 仮想空間にのめり込まない人達のことを、理解できない部分があった。仮想装置のカプセルを買うことが当然の価値観で、こんな楽しい世界を知らないなんて、と思ったこともある。

 でも結局、現実世界に誰がいるか、仮想世界に誰がいるかだけが重要で、何かとの繋がりなしに生きてはいられない。そして、彼がいる世界は現実にあった。

 

 

 

 仕事帰りに、何度も通り過ぎた門の前に立った。扉を開けようとした時に、門に看板が掛けられていることに気づく。

 看板には、『空き家』と書かれていた。

「は……?」

 俺はがくんと顎を落とし、傘を握りしめる。あの美形といい、儚げな立ち姿といい、幽霊と言われればそうかもしれない。狸や狐にでも化かされたのだろうか。俺は混乱したまま、門の近くを眺めて回る。

 花たちは温度を切っ掛けに咲き誇り、茜色の空の下で持ち前の色を存分に鮮やかに見せていた。夢のように綺麗な景色だった。

 呆然と立ち竦む。もともと彼が人では無かったとしても、退去したとしても、これで彼との繋がりは切れたのだ。悶々として、ただ逃げ回っていた間に、あっさりと線は切れた。

「は、はは……」

 こんな唐突な幕切れ、仮想世界のストーリーでもそうない展開だ。

 わしわしと髪を掻き回し、記憶の中に立羽さんの姿を浮かべる。夢でも思い出そうとするように、間を空けた所為で彼の顔がぼやけて見えた。

 もうあとは、俺が忘れてしまうだけだ。

 ぴったりと戸口は閉じられ、ここ数日、開いた気配もない。丁寧に手入れされていたはずの庭も雑草が生え始めていた。手がかりを求めて中に入ろうか、法律的には、と躊躇いで門に手を掛けたまま立ち竦む。

 ふと、郵便受けに目が留まった。口のあたりから、白い紙切れが飛び出ている。手を伸ばすか、伸ばすまいかと悶々としていた時、背後から肩を叩かれた。

「うわァっ!」

「こんにちは。お久しぶりですね」

 ひらり、と手を振る姿は、少し日焼けしてはいるものの、記憶にある立羽さんの姿だ。な、あ、と言葉を失っている俺を通り越して、彼は空き家の看板を見る。

 平然と近づき、ガコン、と取り外した。

「…………それ、何だ?」

 看板を指差すと、彼は隣の家を指差して視線を送った。

「隣の家が空き家になったんです。間違えて置かれたみたいですね」

 お土産です、と菓子の箱を手渡された。南の方にある観光名所のお土産だった。はあ、とあいまいに返事をして、箱を受け取る。

「旅行、だったんだな」

「あれ、忙しかったんですね。メッセージとしては送っておいたんですが、貴方と仮想装置の話をしているうちに、海が見たくなって」

 行ってきました、と彼は荷物を持ち上げた。訪れていなかった間は、単純に旅行で不在にしていたらしい。両膝に手を当てて、長く息を吐く。

 幽霊だとか、妖精だとか、仮想世界に没頭するのもほどほどにすべきのようだ。ああ、と髪を掻き上げ、身体を持ち上げた。苦笑しか浮かんでこないほど、情けない様だった。

「…………海、いいな」

 凡庸で十人並みな言葉しか浮かんでこなかった。はは、と作り笑いを浮かべて、肩を落とす。

「では、今度ご一緒しましょう」

 海にただ行きたいから行った。思ったよりアクティブな立羽さんを見ていると、今度、が社交辞令ではない空気を感じる。頷きつつも、有休の残りを考えてしまうのは社会人の悪い癖だ。

 空き家でないのなら良かった。立ち去るべきかと身を引く前に、服の裾が掴まれた。

「お忙しいですか?」

「いえ、今日はもう帰るだけです」

「ご飯、いかがですか」

 早い口調に、誘いたい、という意思を感じ取る。服を引かれる感覚がくすぐったくて、ああ、現実で良かった、とぼんやりと思った。

 彼への罪悪感より、逸る恋心が口を動かす。

「……食べたい」

「今日は夏野菜カレーにしましょう」

 立羽さんの手が、俺の腕に掛かった。腕を組むようにして、ずるずると家に引っ張って行かれる。

 唇は嬉しそうに持ち上がっていて、けれど、少しだけ震えていた。

「お仕事、落ち着きましたか」

「ああ。……大体は」

 別に忙しくなったりも、落ち着いてもいない。本当のことを伝えられないまま、促されるままに靴を脱いで家に入った。廊下に荷物を置いて、立羽さんも靴を脱ぐ。

 俺を逃がすまいというように、腕は少しでも機会ができれば絡みつく。躊躇いがちに見上げる視線が、伏せた睫の下から覗いていた。

「…………連絡もくれなくて、寂しかったんですよ」

 頭を腕に押し付けられながら愚痴を言われ、反射的に近くにある頭を撫でる。もっと撫でてほしい、とでも言うように、顔がさらに近くに寄った。

 些細な仕草にさえ心臓を鷲掴みにされ、震える口元を押さえる。

「お詫びに右隣の家、買ってくれませんか?」

「あの家か? 広すぎるだろ」

「じゃあ、うちに引っ越してきてください」

「はぁ?」

 俺がいない期間が寂しかったらしい立羽さんは、駄々っ子のようにそれだけを繰り返す。それから彼との間では、何かにつけて引っ越してきたらいい、と言うようになった。

 好意を示す表情が眩しすぎて、仮想装置は要らないから捨てて、と言われればそうしたくなるかもしれない。今日も現実世界の彼は、俺の訪問を嬉しそうに出迎える。

 

 

 

 数週間後、年齢を理由にした社宅の退去があと一年先に迫っていることが伝えられ、更に、いま社宅の入居待ちも多いんです、という話を会社の事務員から聞いた俺は、更に頭を抱えることになる。

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坂みち // さか【傘路さか】
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