耳付きオメガは生殖能力がほしい

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この作品にはオメガバース要素が含まれます。

 

▽1

 生まれた時からある、獣の形をした三角の耳が『きらい』だ。

 オメガは魔力を多く有する傾向にあるが、耳付きは更に多くの魔力を生み出せる。無尽蔵な魔力庫。人としては有り余るような力を、人々は神からの贈り物だと言う。

 だが、その代償としてなのか、耳付きは一代限りだ。

 公に次代が生まれた記録が残っておらず、生殖能力がないとされている。神は力を与え、自らの姿を分けた耳付きを酷く愛する。

 だからこそ、その要素を人の世界に残さず、手をかけた芸術品のように自らの元に還してしまうのではないか。

 そう、言い伝えられている。

 

 

 鏡の前で、ぴんと立った白い耳を撫でる。髪色と同じその耳は、窓の外で鳴く鳥を追ってぴくぴくと動いた。

「動物みてえ」

 はは、と乾いた笑いを零し、服を仕舞った棚を開ける。寝間着を脱ぎ、動きやすい仕事用の服を取り出す。一番上にはローブを羽織った。

 ふわふわの髪をなんとか纏め、櫛で撫で付ける。きょろりきょろりと鏡越しに髪を追う瞳は、晴天と同じ色をしていた。

 広めの髪留めを取り出し、耳を押し潰すように巻く。顔の側面を通り、後頭部で軽く結ぶと、畳まれた耳は隠れて見えなくなった。

 ほんの少しだけ、外界の音が遠くなる。けれど、敏感な聴覚にはそのほうが心地いい。

「飯の時間……!」

 はっと時計から視線を外し、廊下を駆ける。急いで外履きに足を通し、家を出ると、魔術装置に触れて玄関を施錠する。

 カシャン、と音が鳴り、扉の取っ手は動かなくなった。

 官舎から、勤務先である魔術研究所までは近い。強化魔術を使って駆けても良かったが、飯抜きの身体には億劫で、早足で移動するに留めた。

 魔術研究所は王宮に併設された施設である。魔術を国家的に重視していく政策の元、前身となった王宮内の魔術組織が研究所として独立した組織だ。

 王宮の堀を眺めつつ、せかせかと足を動かす。真面目に移動した結果なのか、始業の鐘が鳴る前に職場に辿り着いた。

 王宮と併設されるに相応しい、白を基調とした外観。華美な装飾はなく、側面は最低限の飾り彫り以外はすっきりと平坦だ。

 窓枠も簡素なものだ。装飾としての意味合いも兼ねているのか、はたまた魔術師が研究に没頭して時間を意識しないことに配慮してか、窓自体は多い。

 正面玄関で門番の確認を受け、魔術装置で更に検査されてから、在籍している課の研究室へと向かった。

「おはようございます」

 挨拶をすると、ぱらぱらと返事がある。各々の机の間を抜け、自席に腰掛けた瞬間、ぽん、と両肩に手を置かれた。

 振り返ると、にこにこと微笑む部長が立っている。俺の所属している班の、更に所属している課の、そして課を束ねる部の長だ。

「おはよう。フェーレスくん」

「お、……おはようございます。サーシ部長」

 年齢的には壮年であるはずの部長は、朝から服装的にはぴしりと整いつつも、どこか柔らかい容姿をしている。

 俺が急な呼び掛けに胸に手を当て振り返ると、彼は首を傾げてみせた。

「魔力が崩れているね。今日は、……何かあったかな? 寝不足?」

「あ。いえ、朝食を食べそびれて……」

「じゃあ、お腹が空いているだろう。少し、話したいことがあるんだ。研究所内の店で悪いけど、ごはん奢るから、付き合ってくれるかな」

「は、はい……!」

 先導する部長について行くと、所内の一角、飲食物も置いている小さな店ですぐに食べられるものを買い求めてくれた。

 朝食にしては多いはずの食物を抱え、会議用の小部屋に入る。小さな窓がひとつぽっちの部屋は、中央に小さな机と簡素な椅子が並んでいた。

 机の上に食事を並べ、椅子に腰掛ける。早速、飲み物に口をつけた。店舗で注いでくれた液体は、まだ熱い。

「いただきます」

 食欲には勝てず、向かいにいる上司を放って食べ物に齧り付く。

 俺が夢中になって食べている様を、サーシ部長はにこにこと笑い、時おり近くの食べ物を摘まみつつ見守った。

 腹が六分目ほど埋まると、ようやく顔を上げる余裕が生まれる。

「あの……、話、は」

「食べながらで構わないよ。半分は仕事で、半分は君の私生活の話だ。途中、不快な気持ちになったら、指摘して貰ってもいいかな?」

「は、はい!」

「ふふ。少し、上経由で提案があってね。断ってもらってもいいけど」

 部長が直々に話を持ってくるということは、それなりの線を通ってきた提案だということだ。

 口の端に付いていた欠片を拭い、膝の上に手を置く。一気に糖を身体に入れた所為か、目眩のようにぐるりと魔力が巡った。

「魔術研究所内で『耳付き』の人間に対して、協力依頼があった。出所は医療魔術部だ」

「ああ。だから俺に」

 耳のある位置を指差してみせると、目の前の上司はこくりと頷いた。

 部内でも耳付きの者はいるが、年齢が下で、他の仕事に影響が少ないのは若輩者である俺だ。

「医療魔術部……って、身体の治療とかの研究をしている部署ですよね」

「そうだね。そこで、耳付きの…………あんまり言いたくないけど、話が進まないから言うよ……生殖能力についての研究をしたいんだそうだ」

 うわ、とあからさまに表情を変えた俺に対し、告げた本人も気まずいようで視線が外れる。

「……俺もあんまり聞きたくなかったです。断っていいですか?」

「まあ、断ってもいいけど。取り敢えず、概要だけ話してもいいかな」

「はい。俺は飯を食いながら聞きます」

 断る前提で食べ物に手を伸ばした俺を、サーシ部長は苦笑しながら眺める。だが、あちらも真面目に話す気がなくなったようで、手元に引き寄せた包みを開いていた。

 かさり、と紙のこすれる音がする。

「あちらの部に、魔力と知識はあるんだけど、研究対象に容赦のない職員がいてね。イザナ、って名前なんだけど」

「聞いたこと、あるような。……ないような。その人が、耳付きの研究をしたいと?」

「そう。人体に対しての魔力の扱いと、薬物の知識に長けている人物で、そのイザナくんから、研究をしたい、と上に書類が提出された。研究所……というか、国家としては歓迎、という空気になったらしい」

「それはまた、どうして……」

 己の頭は動かさず、すべてを承知しているであろう相手に問いかける。囓っていた甘いパンは一旦、手元に掴んだままにした。

「耳付きの魔力量は、非常に優れている。魔力が多いオメガの中でも、更に抜きん出たものがある。魔術師を育成する国家としては、次代の魔術師が多く生まれることは望ましいことだ」

「まあ、耳付きに子どもが生まれた記録が残っていない以上、魔力量が多い子が生まれるとは限りませんけどね?」

「でも、魔力量の多い番の子は、やはり魔術師として大成しやすいよ」

 上司は言葉を切って、机の上にあった砂糖菓子の包みを開いた。真っ白く、丸い粒を自らの口に運ぶ。

 白い歯によって砕かれたそれは、こくんと喉の奥に消えていった。

「国王陛下には、もうお子がいる。『だから』ね、そういう意味でも、研究を進めてほしいとのことだ」

「…………。そこまで大事な研究なら、担当は課長とかの方がいいんじゃないですか。同じ耳付きでも」

 同じ課の上司にも、頭の上に獣の三角耳がある。あちらも大量の魔力を振るう、魔術師として優秀な人物だ。

 魔力量に技術面が追いつかない自分よりも、研究が進みそうな気がした。

「あはは。課長くんは既に番持ちだからね。しかも、イザナくんはアルファだ。既婚者で番持ちのオメガと、番無しのアルファが研究、というのは良くないかな、と」

「そう、か。番は絶対、ですもんね」

 理解は示しつつも、相手がアルファ、というのが引っ掛かった。魔術研究所に勤めるくらい優秀なアルファと、一緒に研究をする。

 あまりにも魔力相性が悪すぎて、研究にすらならなかったら。不安が過るのを、甘ったるい生地と共に噛んで飲み下す。

「相手、アルファなんですね」

「うん。だから、『研究にならない』ようだったら、すぐに中断する」

「いいんですか?」

「それはこっちの台詞だよ。他人の生殖能力の研究、だなんて、被験者を特定せざるを得ないからこそ妥協するものの。気分は、よくないでしょう」

 声の縁には、じんわりと濁った響きが纏わり付いている。

 この人が、俺のために他者に腹を立てるとは意外だった。もう少し、仕事上、という付き合いに思われているような気がしていた。

「俺、姉がいるんです」

 突拍子もない話題に、サーシ部長は目をわずかに見開く。

 上司は、続けていい、というように口は開かなかった。

「姉も『耳付き』なんですけど、結婚したばかりなんです。お節介とは分かっているんですが、俺が研究に協力して姉の可能性が広がるなら、嬉しい。だから、そのイザナさんと、話くらいはしてみたいです」

「……君の家は、『耳付き』が生まれやすい?」

「兄弟のうち、上の姉と俺だけ『耳付き』です。うちの家は神殿の近所にあって、昔から神殿の周囲を綺麗に保つよう努めていたそうです。だからかな、耳付きはよく生まれていたと聞きます」

 姉もその魔力量を巧く使い、魔術師としては名が知れている。

 有名な魔術師の血統、という訳でもない家から魔術師が二人も出たのは、耳付きだからだ。そして、耳付きが多く生まれるのは、実家の土地に由来するのでは、と言われていた。

 人間の社会に属する上で、贈り物の筈の耳は、今は髪留めの下でぺしゃんこに潰れている。

「じゃあ、あちらにはまずは詳しい話を、と返事をしておこう。研究を進める中で、嫌なことがあったら僕でも、課長にでも相談するといい。課長くんもね、君に任せるくらいなら同じ耳付きの自分が研究に協力する、とか言っていたから」

「ありがとうございます。力にはなれないかもしれませんが、一応、できる限りやってみます」

 それから、二人で机の上の食事を片付けた。買いすぎだったか、と一瞬思ったが、上司は大口でパンに噛み付く。

 勢いに驚く俺を見て、上司は、僕も朝食がまだだったんだ、と照れ笑いしていた。

 

 

 朝に話を持ちかけられ、午後には当事者であるイザナ、という職員と話をすることになった。

 部長も課長も口を揃えて、自分も付いていこうか、と言うのだが、流石に顔合わせ程度の予定に上司を付き合わせるのも気が引けた。

 大丈夫だ、と伝え、一人で指定された会議室へと向かう。

 魔術研究所内でも医療魔術部とは交流が浅く、建物内でも距離がある。雨避けのある外廊下を通り、目的の会議室の前に立った。

 ひっそりとだが、人の気配がする。腕を持ち上げて、扉を叩いた。

「あの、フェーレスです。…………こちらに……」

「どうぞ」

 内側から、扉が引かれた。見下ろしてきた男は、やけに背が高い。体格が良すぎる程でもないが、アルファらしく身体は適度に服を押し上げている。

 暗い場所では黒、日の光を浴びると青く輝く髪は、背の半分くらいまで長さがあった。そのままでは研究に邪魔なのか、背後で一つに括っている。

 きらり、と動くたびに彼の掛けた丸眼鏡が煌めく。今日は天気が良すぎるらしい。硝子の下の瞳は、大地の色をしていた。

「はじめまして、……でもないんだけれど。一応、はじめまして! 僕はイザナ。医療魔術部所属の魔術師だよ」

「は、初めまして。魔術式構築部に所属しています、フェ……」

「フェーレス! 研究に協力してくれるんだって? ……嬉しいよ!」

 腕を広げたアルファは、その大きな身体で俺を抱き込んだ。目を白黒させながら、腕の中で固まる。

 息を吸い込むたびに、アルファの匂いがする。こんなに濃い匂いは久しぶりで、一気に心拍が煩く鳴った。

「な、んだ。あんたは……」

「ああ、怖がらせてごめん。つい興奮して、距離を詰めすぎたね」

 イザナはぱっと手を放し、距離を取った。先に身を引かれてしまい、俺は逆に動揺しながらその場に留まる。

 彼は白衣を身に纏っており、胸元に開いた掌を当てた。

「僕がアルファということは、伝えておいて欲しいと頼んだんだけど。知っているかな?」

「ああ。教えてもらった」

「良かった。それでね……」

 彼は俺の両手をそれぞれ取ると、中央に纏めて握り込んだ。ずい、と距離が詰められる。これまで接した人物の中で、最高に距離感が可笑しい。

 彼の目元は染まっており、興奮している、という自己申告が嘘ではないことが伝わってくる。

「僕は、君の番に立候補するよ!」

「は、…………はぁ!?」

 胸の前で捕まった手を、ぶん、と振って放し、相手の襟首を引っ掴む。

 職場の関係者だ、と我に返るが、嬉しそうに襟首を掴まれている相手が奇妙すぎて、解放する機会を失った。

「じゃ、じゃあなんで、生殖能力についての研究だなんて……! 嘘か!?」

「ああ。それも本当」

 けろりと言うイザナに、毒気を抜かれてしまう。手を放すと、彼は残念そうに襟を正した。

 会議室の椅子へ腰掛けることを勧められ、大人しく腰を下ろす。

「あ、何か飲み物とかいるかい?」

「いや。まず話をしよう。……なんで番に立候補、なんてとち狂った話が出たんだ」

 彼の座っている椅子は、簡素な事務用のそれだ。だが、ゆったりと背に体重を預け、脚を組む。

 俺と話しているこの時間だって、何の気負いをしている様子もない。

「僕のこと、覚えてないかな? 一度、飲み物を奢ってもらったんだけど」

「ぼんやりと、は……? 研究所全体が修羅場の時期じゃないか?」

「そう。忙しくしていた時期に、僕は君に飲み物を貰ったんだ。その日は実験に魔力を多用して、酷く疲れていてね。天上の飲み物でも与えられたようだった────」

 それから、目の前の男は飲み物を差し出した時の俺が如何に美しく見えたかを語るのだが、早口で専門用語混じりのそれは、右から入って左に抜けていく。

 俺がどうやら褒められているらしい事だけは理解できた。

「──君のことを他の人に尋ねたら、『耳付き』だと言うじゃないか。耳付きには生殖能力がない、というのがこれまでの人間社会での経験則だ。となると、僕は君と番ったとして、美しい君に似た子を見ることが、試す前から叶わない」

「待て、まて! 飛躍が物凄いな!」

「そこで僕は思った。耳付きの特性を調査するにも、君を口説くにも、どちらにしても君の協力が必要だ。一石を投じて二鳥を落とす。仕事にかこつけて生殖能力が無いといわれる原因を調べ、並行して君を口説き落とせば完璧ではないかと考えたんだ!」

「名案だと言いたげに胸を張られても、全、然、納得できないが!?」

 きらきらと瞳を輝かせ、自らの計画を語る男に、嘘偽りは感じ取れない。罵り文句として、正直、と言われる類の人間だ。

 頭を抱え、視線を床に落とす。手酷く口撃するには、動機があまりにも真っ直ぐすぎた。

「つまり。えと、……俺を口説くために、生殖能力についての調査を立案した……?」

「まあ。半分はそうかもしれない。けれど、魔術師として、耳付きの研究がしたいのも本当だよ」

 イザナは手のひらを差し出してくる。一回りは大きい手を、二人の間で握った。

 ぶわり、と強く魔力が押し込まれる。絡め取るように身体を巡る魔力に、不思議と嫌なものは感じなかった。

 波に沿うように、上手く魔力が流れる。心情的に困惑している相手に対して、魔力が妙に馴染んでいる。

「本当に、豊かに湧く、澄んだ水のような魔力だ。だからこそ、生殖能力がない、と言われるのに違和感がある」

「…………違和感?」

 ずっと握っていた手を、我に返って放す。目の前の男は、残念そうに手を引いた。

「魔力というものは、生命力が転じたものだ。生命力とは精力であり、魔力が多い、質の良い魔力を持つものは、生殖能力の高い傾向にある」

「ああ」

「では、質の良い魔力を大量に保有する耳付きだって、生殖能力が高い傾向になければおかしい。そう思って資料を当たってみたんだけど、見事に資料が出てこなかった。確かに、耳付きが一般社会で生活を始めたのは最近のことで、少し前までは、神殿で保護することが慣例となっていたんだけど」

「ああ。一応、実家にも、そうしないかって打診はあった」

 神殿に保護されれば、衣食住は保障される。社会ではまだ耳付きだからと遠巻きにされることも多く、それを憂いて、神殿での生活を選ぶ者もいる。

 耳付きのことが調べられ始めたのは、最近のこと。そして、神殿外にいる数も少ない。

「あまりにも耳付きについての資料が少なく、その大部分は神殿が厳重に保管している。それなら、あとは本人を調べさせて貰うしかない、と思った訳だ」

「理屈は、分からなくもないが。自分を口説いてくるアルファ相手に、一緒に研究しましょう、ってなると思ったのか」

「え…………? 思ったけど」

「その妙な自信はなんなんだよ!」

 軽く叫ぶと、イザナはきょとんとしていた。顔立ちは端正でアルファらしいのだが、言葉の端々で、螺子が何処となく外れている。

 本人に悪意はないようで、ただ、方向性の定まらない純粋な力を向けられているようだ。

「僕が相手だと、駄目かな……?」

 しょんぼりと肩を萎めてしまう姿を見ると、大型の愛玩動物を虐めているような気持ちになった。

 彼の告白を完全に切り捨てるつもりはなかったのだが、重たい空気を背負い始めた相手に、失言だったか、と口元を押さえる。

「駄目、っていうか。初対面に近い相手と……」

「じゃあ、これから交流を深めていけばいいんだね!?」

「それを俺が言うまで待てよ!」

 人を殴りたいと思うことはないが、この男に関しては、軽くひっぱたく位、許されるだろうか。

 はあ、と息を吐いて、椅子の背に身体を預ける。

「────俺だけの問題ならいいんだけど。うちの姉も耳付きなんだよ。だから、生殖能力がない、って言われる原因を調べてもらう事自体は、有難いと思ってる」

「ふぅん。承諾されたのは、そういう理由か」

「初対面のアルファと研究なんて、他の研究なら断ってる。不満か?」

 視線を合わせると、彼はゆっくり瞬きをした。

 値踏みするような視線を向けられ、獲物として追いかけられているような気分になる。

「いや、目的が果たされやすくなるなら、理由は別になんだっていいよ。美しい君だけじゃなく、君のお姉さんの力になれるのなら僕も嬉しい」

「美しい、っての、こそばゆいから止めろ!」

 彼は少し考え、その場に立ち上がる。ゆっくりと俺に歩み寄ると、両手を俺の後頭部に回した。

 するり、と結んでいた布が解かれ、ぴん、と耳が起き上がる。耳を隠していた髪留めは、完全に取り払われた。

 反射的に、全身を強張らせる。この耳を見ると、みな奇異なものをみるような目をする。同じ人間とは、見てくれない。

「────綺麗だ」

 彼はおおきな掌で、俺の耳を撫でる。

 賞賛の言葉は耳込みで言われているのだ、と言葉を添えられなくとも分かった。かっと頬に血が上る。

「僕が神様だったとしたら、こんな綺麗なものには、望むとおりに生きてほしいと願う気がする。フェーレスが望むことをしよう。僕は、その望みの手伝いがしたい」

「…………取りあえず、研究、には協力する。けど! 俺の嫌がる事をしたら、すぐに外れるからな!」

「勿論。君を番にしたいんだから、君の嫌がることなんてしないよ」

 両手を広げ、俺に抱きつこうとした男の脛を蹴る。

 イザナはしばらくその場に屈み込み、ほんの少しだけ下がった肩と共に反省していた。

 

 

▽2

 ゆっくり研究を進めていこう、と合意した筈の数日後、俺の官舎内の自宅から物が綺麗さっぱり消えた。

「やっぱり、君への理解を深めるためには、一緒に長く過ごす事が必要だと思うんだよね」

「俺の部屋!」

「荷物はぜんぶ運んでおいたよ」

 けろりと言い放つイザナは、官舎の管理人へと事情を話し、俺の部屋を開けてもらったそうだ。

 そこまで物は多くない。俺の荷物は何故か、番持ち用の官舎の一室へと移動されていた。

 俺はイザナの襟首を両手で掴み、前後に揺さぶる。目の前の男は嬉しそうに揺さぶられていた。

「この部屋って官舎内でも番が住む二人用だろ!? なんで借りられたんだよ!」

 家具も温かみのある配色のこの部屋は、一人で住むにはあまりにも広い。まだ室内は見回っていないが、まだ開けていない部屋がいくつもあった。

「研究への必要性を説いたら貸してくれたよ?」

「口の上手さを無駄に使うな!」

 猪突猛進が過ぎる相手を解放し、運ばれてきた荷物の前で呆然としていると、両肩に手が置かれる。

「勿論、フェーレスの部屋は用意してあるし、君に無体なことはしない。それに、研究に協力してもらうんだから、全力でもてなすつもりだよ」

「……と、いうと?」

「今日は僕が食事を作る。材料も良いものを買ってきてあるんだ」

 用意されていた俺の部屋は、鍵が掛かるようになっていた。番同士でも、時期によっては発情期に一緒に過ごさないことは起こり得る。そのために用意されたものらしい。

 そして、台所の調理台の上には、確かに質の良い食材が並んでいた。特に、良い色の肉には涎が湧いてくる。

「…………飯を、……食ったら家に帰る」

「え。フェーレスの家、入居待ちがいるから空けてほしいらしいよ? 僕も部屋、引き払っちゃったし」

「研究終わったら俺どうすんだよ! 家!」

「番になるんだから同居でしょ」

「俺が番になると信じて疑わない姿勢は改めろよな!?」

 二人用の食卓の椅子に座り、頭を抱える。周囲を見渡すと、家具はある程度揃っていた。

 俺のことなど気にしないイザナは手を洗い、調理を始めたようだ。

 ちらり、と気になって視線を向けると、明らかに包丁の持ち方が怪しい。そのまま勢いよく振り下ろそうとした男に、慌てて割って入った。

「おい、料理したことあるよな!?」

「小刀は薬の調合に使うけど、あんまり料理包丁を使ったことがなくて。でも、フェーレスのために頑張るよ」

「怖いから頑張るな!」

 俺がやるから、と手を洗い、切り分けた肉に下味を付けていく。

 台所から出て行かないイザナは、俺の手元を興味深そうに眺めていた。

「僕、何か手伝えることあるかな?」

「………………。野菜洗ってくれ」

 帰るはずだったのに、勢いに呑まれて料理を始めてしまった。

 自分の気質に嫌気が差しつつも、新鮮な野菜を切り分ける。魔術装置に魔力を通すと、ぼっと火が点く。片手鍋を置いて火を通し、適度に味付けをしたものを皿に並べた。

 パンも温め、片手間に作ったスープを添える。

「言いたいことは沢山あるけど、……まず、飯食おう。仕事が終わったばっかで腹減った」

 何せ、職場から帰宅したら『こう』だったのだ。

 俺が食卓に皿を並べると、きらきらと目を輝かせるイザナが向かいに座った。

「うわあ。温かいご飯、久しぶりだなあ」

「自炊はしないのか?」

「自分の為の食事は面倒で。でも、フェーレスに食べてもらう食事なら、頑張りたいと思っているよ」

 湯気の立つ食卓を囲み、二人で食事を始める。

 パンはほこほこと温かく、スープもよく野菜の味が出ている。一人暮らしの官舎よりも広い厨房は、数品つくるのに都合がよかった。

「美味しいよ! フェーレスは料理も上手いんだね」

「…………平均だろ」

「これが平均だとしたら、みんな料理が上手いんだなあ」

 魔術師らしく、するすると食べ物が口の中に消えていく。美味しく焼けた肉さえも、だ。

 食べ尽くされないうちに、と食事の手を速めると、前から伸びた手が肉の皿をこちらに押し出した。

 顔を上げ、満面の笑みのイザナを見る。

「お肉、ほんとうに美味しいよ! フェーレスもたくさん食べて」

「…………おう。食材がいいからな」

「料理人の腕もね」

 美味しい美味しい、と食べていた筈なのに、俺の様子を見て彼は速度を緩める。

 誰かと囲む食卓というのは珍しく、特に、手料理を褒められながら食べる事は眩しく感じた。

 食事の時間は目まぐるしく過ぎ、食卓の上は空になる。

「皿洗いは任せてね!」

 俺は座ったまま、腕まくりをして台所に向かう後ろ姿を見守る。

 流石に怪我はないか、と息を吐いて、後頭部に手を回す。しゅるりと解いた髪留めを机の上に置いた。

 ひょこりと立ち上がった耳は、水音や、皿の擦れる音を拾った。途端に鮮やかになった世界に、浮き足だった気持ちを抑えながら他人の足音を追う。

「うわあ。耳だ、可愛い」

 水の音が止まり、イザナは俺の元へと戻ってきた。手には、小さな酒瓶とグラスを二つ持っている。

「うるさい。……酒か?」

 コトリ、コトリ、と机にグラスが並べられた。

「うん。引越祝いに」

「俺は祝ってないが!」

「まあまあ、出て行くのはいつでもできるでしょう。しばらく、俺と過ごしてみてよ」

 グラスには、とぽとぽと薄紅色の酒が注がれる。

 押し出された酒に罪はない。受け取って、口元に寄せた。彼の手元で注がれているもう一つのグラスに気づいて、持ち上げたそれを差し出す。

 彼の唇がにっと笑った。

「乾杯」

 コツン、とグラスをぶつける。

 口元に運ぶと、なかなか強いらしく、口の中がかっと焼けた。

 舌の上で転がすと、甘みが湧いてくる。身の回りを引っかき回していく、この男みたいだ。

「美味い」

「良かった。これ高価いんだよね」

「…………ちなみに、おいくらほど?」

「給料の十分の一くらい」

 こふ、と軽く咽せた。

 かっと酒が全身を巡り、くらりと頭が回る。

「なんでそんなに高い酒を……」

「フェーレスと同棲開始の日だし」

「同居な!」

「……まあ、いいか。同居でも」

 くい、と酒を飲み干す姿は、どこか満足げだ。結局、丸め込まれてしまっていることを自覚しつつも、含む酒は美味かった。

 彼と魔力相性が悪くないらしい事は意外だし論外だが、こうやって最後は落ち着いてしまうから、相性が良く思えてしまうんだろうか。

「そういえば、フェーレス。折角だから、君の魔力をじっくり読ませてほしいんだけど」

「手段如何によっては断る」

「手を繋ぐだけだよ」

 はい、と掌を差し出され、その上に渋々、手を重ねる。下から、きゅ、と太い指が手を捕まえた。

 酒が入っている所為か、魔力がふわんふわんと流れ出している。境界が上手く作れないでいると、それをいいことに相手の魔力が絡みつく。

「…………っ、ん」

 友人同士で、軽率に魔力を混ぜて、なんてことはしない。身体の境を許すのは、基本的には心を許した相手だけだ。

 だから、幼い頃から魔術師は、自分と相手の境を魔力で構成する術を覚える。

「凄いな。笑っちゃうくらいの魔力量だ。何処からこれだけの魔力を生み出しているの?」

「知らない」

 空いている手でグラスを掴み、ちびちびと喉に流し込む。

 ふぅん、と呟いたイザナは、俺の手の表面を擦った。ずくり、と魔力ごと引っ掻かれる。

「体内には、生命力と魔力を変換する炉が存在する。普通の人間は、その炉で燃やす炎の分しか、魔力として使うことはできない。炉が膨大なのか、それとも、他から魔力を供給する仕組みがあるのか……」

「一般的な治療を受けたことはあるけど、変わる事は、耳の構造くらいだ。耳以外の身体が、人のものと外れてると言われたことはない」

「そうだね。僕も同じ認識だよ。でも、外見的に普通の耳だし。触ってもいい?」

 俺は彼のそれから手を抜き取ると、両耳を隠した。耳はぺしゃりと倒れる。

「や、いやだ!」

「なんで嫌なの?」

「び、敏感なんだ……。触られると……」

 黙り込んだ俺に、イザナは首を傾げる。

「けど、以前は、触らせてくれたよね?」

「あの時は、……そこまで、嫌な感じがしなかったから」

「じゃあ、今日も嫌な感じはしないんじゃないかな。試しに、触ってみたらだめ?」

 そろり、と耳から手を離すと、イザナが立ち上がった。俺の背後に回り込み、耳へと指を伸ばす。

 指の腹が、耳を摘まむように撫でる。

「…………? いま、魔力の境を崩してる?」

「へ? いつも通り、だと思う」

「耳経由だと、魔力の通りがいいね。粘膜みたいな……」

 ぺたり、と触る指から逃げるように、耳はぴくぴくと動く。

 粘膜、ということは、耳を触られる、というのは魔力的に言えば口の中を撫で回されているようなものか。

 この耳は、外部との魔術的な境が極めて薄いらしい。

「耳を経由して、魔力を外部に……届ける必要が、何故?」

 分からない、というように呟くが、イザナは深入りすることなく、耳から指を放した。体温を失った耳がぺたりと倒れる。

 彼は自分の席に戻ると、残っていた酒を飲み干した。

「僕の専門は、自然にある草を使った薬の調合で、普段は主に、魔力が干渉したことで起きる病の研究をしているんだ」

 自分の課にも、同じような技術を持った人がいる。魔術のみならず、他の分野の知識と組み合わせて研究をする魔術師だ。

 薬を生成する際に、特定の魔術を使うことで生来の効能を高めたり、真逆の効果を齎したりもする。

「今回も、薬を調合して、魔力に干渉することで生殖能力を得られたら、と思ってる。単純に魔術を行使して治ったら、その術式を簡易化して成果とするつもりだけどね」

「薬って、当たりはついてるのか?」

「今ついた、って言う方が正しいかな。他の人と比べて、魔力がね、耳を経由して過剰に外と行き来しているんだ。子どもができる時、魔術的には、二人の魔力を混ぜ合わせて、新しい力の塊を作る。けど、こんなに魔力が巡っていたら、必要な分さえも留まらない、ような気がした」

「氷の塊を作りたいのに、水の流れが激しすぎて、凍らない……ような?」

「そうだね。あえて、普通の人間程度に魔力を滞留させれば、もしかしたら、と思うよ。魔力を外に放ちすぎてしまう病はある。対処する薬も、既に存在する。けど、その薬を健康な耳付きにそのまま使うのは副作用が大きそうだ。その薬を元に、改良を加えてみよう」

 イザナは立ち上がると、俺の手を引いて一つの部屋に案内する。その部屋は、壁がほぼ棚になっており、沢山の材料が仕舞えるようになっている。

 中央には机があり、いろんな材料が既に並んでいた。俺が帰ってくるまでの間も、何かしら調合をしていたようだ。

「……凄いな。これ、ずっと集めてるのか?」

「うん。貴族の父は仕事に忙しくて、愛人だった母は息子を……僕を、父の元に置いていった。だから、僕は屋敷内の庭師だった人に育てられたんだ。その人は植物に詳しくて、この棚ごと、色んな事を教わったよ」

 俺の父母は健在で、兄弟とも連絡を取り合う仲だ。愛人の子、と自称する彼のことだ、兄弟がいたとしても、縁遠いのだろう。

 室内には沢山の植物が乾燥され、保管されている。未だに魔術で再現できない効能を持つ植物は、薬として重宝されていた。

「フェーレス。耳付きに生殖能力が備わる薬を作れたら、僕と番になってよ」

「嫌だ」

「即答かぁ」

 気にした様子もなく、くすくすと彼は隣で笑っていた。

 ややあって酒のグラスを持ち込むと、立って飲みながら薬棚の説明を始める。酒が進んだのか、じゃあ、と眠たげに自分の寝室に入っていく姿に、何の怖さもない。

 俺は自分の部屋に鍵を掛けず、酔いに揺られたまま眠りに落ちた。

 

 

▽3

 イザナとの同居は、結構な速度で周囲に知れ渡った。

 その度に研究の為に同居を、と説明をするのだが、研究の為に同居できるほど仲が良い番候補なのだ、と曲解されてばかりだ。

 最近は面倒になって、番扱いも受け流している。

 そんなとある日、イザナから俺の実家に行かないか、と誘われた。多く耳付きが生まれている家柄だからこそ、父母なら知っていることがあるのでは、との事だった。

 俺は両親に連絡を取り、耳付きについて研究している同僚が、と説明をして訪問の予定を立てた。今日は昼まで仕事をして、午後から実家に訪問する予定だ。

 昼休憩の鐘が鳴ると、俺は机の上を片付けて立ち上がる。

「フェーレス。昼から休みだっけ?」

「ロア課長」

 俺が動くのを見かけたのか、課長から声が掛かる。この人は俺と同じく耳付きの人物で、イザナの研究協力者としても名前が挙がった人だ。

 薬で魔力に干渉しようと思っている、と簡単に進捗報告もしていた。

「はい、今日はうちの実家に行って、耳付きの事について両親に話を聞こうと思ってるんです」

「ああ。耳付きがよく生まれる家、なんだっけ」

「そう、ですね。なので、俺が知らないことも、両親なら知っているんじゃないかと」

 俺の言葉を聞いて、ロア課長はくしゃりと顔を顰めた。わしわしと俺の頭を撫でる。

 この人は俺が無理をしているんじゃないかと思っているらしく、こうやってよく様子を確認している。

「嫌なことされたら言うんだぞ。俺が医療魔術部へ殴り込みに行くから」

「はぁ……。今のとこ、特になにも……」

「でも、急に同居を始めるってなあ。本気で心配なんだが……」

 はあ、と息を吐く上司は、俺の周りで唯一といっていいほど、イザナへの警戒心を隠さない。

 俺すらも丸め込まれつつあるのに、上司が牙を剥いているのが面白く感じてしまうほどだ。

「まあ、不安もなくはないですけど。生殖能力が備わる薬、できたら課長も欲しくないですか?」

 軽口のつもりだったのだが、相手の視線は泳いだ。

「…………そりゃ、なあ」

 ぽつり、と落ちた言葉に、感情が痛いほど乗っていた。この人には、番がいる。姉と同じだ。

 俺が言葉を返そうと口を開いた時、背後から声がかかる。

「フェーレス。お迎え!」

 振り返ると、部の出入り口にイザナが立っていた。

 今日は眼鏡もなく、白衣姿でもなく。髪もきっちりと結われ、服も訪問着として相応しい上品な服装をしていた。

 俺もローブを別の質の良い外套へと着替えるつもりだが、イザナの変貌はあまりにも抜きん出ている。

 貴族の出、だと聞いた。彼を連れてそう言えば、誰もがそれに頷くだろう。

「捕まえて悪かった。……いってらっしゃい」

 ひらり、と手を振る上司に、断ってその場を離れる。イザナの元に駆け寄ると、彼はにこりと笑った。

「さっきの、耳付きの課長さん?」

「ああ。協力者候補だったんだっけ」

「うん。けど、番持ちは、……あっちのアルファが嫌がるだろうしね」

 時折、イザナは俺の手に触れては、魔力の流れを読んでいる。薬の試作品を飲まされ、魔力の変化を読み、更に薬を改良、という手順を繰り返す以上、互いの接触は不可避だ。

 番持ちのオメガにやろうものなら、相手のアルファによって血を見る気がした。

「フェーレスが引き受けてくれてよかったよ」

「一石投げても、一羽の鳥にしか当たらないぞ」

 俺は更衣室に立ち寄り、外套を羽織った。ほんの少しだけ髪型を整え、待たせていたイザナに歩み寄る。

 彼の手元には、有名店の紙袋が提げられていた。

「それ、手土産か?」

「うん。将来、僕の御両親になる人たちだし」

「もう一々、なんか言うの疲れた」

 最近は、この言動にも反応しなくなった。

 だが、イザナは俺が受け入れているとでも思っているのか、嬉しそうにするばかりだ。今まで周囲にいたアルファはもっと攻撃的な印象だったが、彼に対しては、それはない。

 実は、真綿で絞められているのかもしれない。だが、俺が気づいていない以上、その感触には慣れていくばかりだ。

「あれ? 乗合馬車じゃないのか」

 思っていた方向と、逆に向かうイザナを呼びとめる。彼は一度振り返って、頷いた。

「実家の馬車を呼んであるよ。一応、ご挨拶だし、形だけでもね」

 案内された場所では、白馬が引く明るい色の馬車が停まっていた。御者はイザナを見つけると挨拶をして扉を開け、中へと促す。

 室内は貴族らしく華やかで、生花が彩りを添えている。仕事着に少し良い外套を羽織ったばかりの俺には、場違いに感じるほどだ。

「これ、あとで請求されたりとか……ないよな」

「ははは、ないない。父は相当、財産を持っているよ。請求されるんなら、僕が生まれてからの養育費も請求されないとなぁ」

 黒いものが混じった冗談に、俺は苦笑いを返す。どうやら放任主義ながらも、頼めば役割を果たしてくれる父親らしい。

 イザナ自身は愛人の子、と言っていたが、憎まれている訳でもないようだ。

「そうだ、フェーレス。手土産はお菓子にしたんだけれど、ご両親、甘いものは大丈夫だったかな」

「ああ。好きだよ」

 開かれた袋の先は、手土産としてはちょっとお高めの、定番商品だった。父も母も喜んで食べるだろう。

 ほっとしたように袋の口を閉じる姿から、真面目に手土産を選んだことが窺える。

 服装や、髪がきちんと梳かれ、結われていることから、彼の普段の研究馬鹿っぷりを想像することは難しい。

 普段は眼鏡の奥にある温かみのある色が、まっすぐに俺を射貫く。

 彼を表現するなら、貴族の御曹司だとか、それこそ王子様とでも喩えるかもしれない。

「今日は……、準備がいいな」

「うん。これで手抜きをするようじゃ、君の番にはなれないからね」

 普段は番になることが前提のように発言するのに、今日の言葉はなんとも弱気だ。目を瞬かせ、普段のあの態度が、どうやら虚勢込みであったことを知る。

 本心から、俺と番になれると思ってなどいないのだ。だから、彼は階段を踏む。

「冗談じゃなかったんだな」

「君を番にしたいってこと?」

「ああ。なんだっけ、飲み物を奢った? それで番を決めるなんて、冗談みたいだろ」

 笑っているのは、俺だけだった。イザナは寂しそうに眉を下げる。やがて、俺の笑みも萎んでしまった。

「────僕は、運命的な恋をするのは、アルファの方が多いと考えてる。なんでだと思う?」

「……オメガは、発情期以外では大人しいというか。あんまり、アルファに近づこうとしない、から?」

 俺の返事に、イザナは興味深そうに目を細めた。組んだ指を動かし、言葉を頭に叩き込んでいる様子だ。

「発情期以外に、相手に対して欲を持ちやすいのは、アルファの方かもしれないね」

「うん、そんな感じ。イザナは、なんでだと思うんだ?」

「僕はね。アルファの方が、欠けているからだって思う」

 黙って、言葉の先を促す。

 オメガの立場から見て、アルファに欠けていると思ったことはない。むしろ、アルファと呼ばれる人々は、様々な能力に長けている印象だ。

「生まれた時から、何かが足りないって感覚が付きまとう。だから、揺らいで、欲の振れ幅が強くて、落ち着かない。番にしたいオメガを見つけると、雷に打たれたように思うんだ。やっと、欠けた部分を見つけた、って。手に入れて、傍に置かないと。また、あの、ゆらゆら揺られるような日々が始まってしまう」

 彼は両手を開いて、組んでいた手を解いた。

 伸びてきた指は、俺の頬を撫でる。慣れつつある魔力が、皮膚の上を滑った。感じたのは平穏だ。

 欠けた部分を埋められたような、なんともいえない充足感がある。

「アルファも、オメガも、魔力の波は独特な波形を持っているのかもしれない。その波形を合わせて、噛み合うような相手を探す。そうすると、穏やかに居られるから」

 頬に触れていた掌が離れ、俺との間に差し出される。その掌に、手を重ねた。

 軽く握られた手から、相手の魔力が流れ込んでくる。もう、俺の魔力については、相手の方がよく知っているかもしれない。

 だから、これは単なる戯れだ。

「恋をするのに理由を探すのは馬鹿げているよ。だって僕ら、生物なんだもの」

 こんな男の魔力に対して、身体は落ち着きを覚えている。対して、頭は相手のことでいっぱいで、ぐらぐらと揺れている。

「……そんなの、信用できるか」

「うん。信用してもらえるように頑張るよ」

 不安に揺れている声は、この男には効かない。押し負けていることを自覚しながら、馬車に揺られた。

 普段からすれば静かな馬車内も、酷い空気ではない。アルファを傍らに置く空間に、俺は慣れつつあった。

「お世話になりました」

 御者に挨拶をして、実家の前に降りる。こんなに豪華な馬車が来るのが珍しいのか、もう父母が共に玄関先まで見に来ていた。

 御者は出発前に父母に挨拶をすると、後をイザナに引き継いで馬車で去っていった。

「初めまして。魔術研究所、医療魔術部所属のイザナといいます。今回は、研究へのご協力、ありがとうございます」

 手土産を渡し、両親と自己紹介を済ませる。母は手土産を受け取ると、中に、と建物内へ促した。

 自宅は、家族で住むには狭い家だ。だが、いま住んでいるのは両親くらいのもので、庭は父の日曜大工の成果も含め、綺麗に整えられている。

 子どもたちが家を出るまではここまで整っていなかったから、最近できた趣味なのだろう。

 家に入る前に、イザナは神殿の方向を見上げた。実家からは、象徴ともいえる高い壁が視界に入る。

「神殿、近いだろ?」

「うん。ここまでご近所だとは……」

 二人そろって居間に案内され、上着を脱いだ。脱いだ上着は預かられ、部屋の隅に掛けられる。

 勧められた椅子に腰掛けると、間を置かずに目の前の机にお茶と菓子が出された。

「ありがとうございます。……いただきます」

 イザナは綺麗な所作でお茶を口に含む。座り方も背筋が伸びていて、貴族としての立ち振る舞いの教育は受けていることが分かった。

 父も母も、彼の容姿と空気に飲まれている。我が家は丸ごと一般庶民の家で、その中にイザナを置くと浮いて見える。

「今日、お邪魔したのは、……頭の上に三角耳のある人物に……」

「ああ。『耳付き』と呼んで構いません。貴方が差別的な言葉ではなく、便宜上そう言っているのだと、理解しておりますので」

 父がそう言うと、イザナは助かった、というように浮かんでいた肩を下ろした。

「僕は、耳付きの人々に、生殖能力がない原因が何か。そして、それが解消できないかの研究をしています。この家には、耳付きが生まれることが多かった、とフェーレスに聞きました。耳付きについて、知っていることをお聞かせ願えませんか」

 父は手元のカップを持ち上げ、唇を湿らせた。いちど俺に視線を向け、イザナへと戻す。

「耳付きは、我が家では祝福だと教えられてきました。耳付きの子は、膨大な魔力を有します。魔術師が生まれるような家系ではない我が家から、王家の中枢で働くような子が突然生まれるのです」

「フェーレスのお姉さんも、同じ耳付きだとお伺いしました」

「はい。あちらも親の贔屓目ではありますが、魔術師としてはよくやっておるようです。最近、番を得たばかりで、……ですが、娘の番にも私たちは話をしました。『基本的に』耳付きの人間に生殖能力はない、その覚悟をしてくれ、と」

 父の言葉の中で、強調された一語があった。俺もイザナもそれに気づく。二人で視線を交わし合い、相手の口が開かれるのに任せた。

「『基本的に』? 子どもを得る方法があるのですか?」

「…………。ただの伝聞です。そうした人物がいた、という不確かな情報でしかありません。だから、娘たちには伝えてありますが、あまりにも不確かすぎる情報だとも言いました」

「その、例外とは?」

 ゆらゆらとカップから上がる湯気の所為で、空気が重たい。両親は顔を見合わせる、そうして、重たい口を開いた。

「耳を切り落とす、のです」

 ごくり、と唾を飲んだ。喉がからからに渇いて、痛みさえ覚えるほどだった。

 俺もイザナも、ただ言葉を失う。

「神から祝福を与えられた耳を切り落とし、膨大な魔力を失えば、生殖能力が戻る、と、そう言い伝えられてきました。けれど、神から与えられた祝福を切り落とすなんて、とんでもない。それに、情報も不確かなことから、ここ最近で試した者はおりません」

「………………。すみません、あまり。気分のよくない話をさせてしまって」

「いいえ。このことを話した時、娘も気落ちしていました。耳を失わずに、生殖能力が備わるのなら、娘は喜ぶと思います」

 それから、イザナはこれまでに俺の身体を介して知り得たことを両親に語った。確かに、これまでの仮説からすれば、耳を失えば生殖能力は備わる気がする。

 彼は、普段よりも強い口調で語る。

「────既に、無意識に魔力を放出してしまう病への薬は存在します。零から一は難しくとも、この問題には一がある。今回、話を聞いて、自分の考えが間違っていなかったことが分かりました。あとは、薬を完成させるだけです」

 耳が魔力を取り込む仕組みも、薬が目指す効能も、イザナは強い口調で、感情を含めた声音で語る。

 父も、母も、そして俺もがその熱に巻かれていた。一頻り話し終えると、彼はカップを持ち上げて喉を濡らす。

「…………あまり、専門的な話ばかりで面白くなかったでしょう。取りあえず、フェーレスのお姉さんに、あと数年くらい、耳を落とすのは待つよう伝えてもらえませんか? それまでには、なんとか薬を完成させたいと思っていますから」

「はい。……よろしく、お願いします」

 父母はその場で頭を下げた。

 イザナは頭を上げるように言う。まだ薬も完成していないのに、と彼は言うのだが、ここまで、この問題に深く取り組もうとした人を見たのは初めてだ。

 俺だって、姉がここまで重く捉えているとは知らなかったのだ。

「フェーレス。やっぱり、耳に限定して干渉すればいい気がする。その膨大な魔力の恩恵は一定期間、失うかもしれない。だけど、完全に失う訳じゃない。外界と魔力を中継する、その耳だけに作用しつつ、副作用のない成分を探そう」

「おう」

 俺たちが話し合っている様を、両親は物珍しそうに見つめている。二人の存在を思い出し、俺が言葉を切ると、イザナも申し訳なさそうに苦笑した。

「フェーレス。は、イザナさんと仲がいいんだな」

「う、ん……まあまあ。研究のために一緒に住んでるから」

「「え……?」」

 父と母の声が揃った。

 俺は失言だったことを悟るが、もう放った言葉が戻ってくることはない。視線が泳ぎ、両親の顔を見られなかった。

「あの、同居、といってもお互いの部屋に鍵は掛かります。僕の方は、彼さえよければ番になりたいと思っているんですが」

「おい……!」

 横から彼の腕を掴んで揺さぶるのだが、イザナはにこりと笑うばかりだ。俺が両親の方を見ると、二人ともが生暖かい視線をこちらに向けていた。

「だから、今日ご挨拶に?」

 母の言葉に、俺は額をイザナの肩にぶつける。もう、弁解のしようもないかもしれない。

「いえ、まだ。僕の方が、気持ちを伝えて、回答待ちというか……」

「あらあら。まあ……! お父さん、どうしましょう」

 なんだか嬉しそうな両親と、いつも通りな同居人との間に挟まれ、俺は居心地の悪さに尻が浮く。

 俺だけ来て話を聞けばよかった、と思っても後の祭りだ。

 それから実家で所有する耳付きに関する資料を出してもらい、大量に出されたお菓子を食べ、両親が最近力を入れている庭を見せてもらい、夜になって帰る頃にはイザナは父母と意気投合していた。

 父も母も、新しく婿を迎えたかのような空気だ。外堀を埋められる、というのは、こういう事なのだと身をもって知った。

 

 

▽4

 今日は仕事も早く終わり、夕食も入浴も終えて寛いでいた。広い風呂は二人部屋の特権だ、と思いながら、長椅子の上で爪にやすりを掛ける。

 風呂上がりのイザナが、居間に戻ってきた。手には酒瓶を持っている。引っ越し当日の酒は既製品だったが、彼は果実を漬け込んだ酒を自作している。

 俺は両手を挙げ、飲みたい、と意思表示をした。果実と、適度に薬草が漬け込まれた酒を飲むと、すこぶる体調が良いのだ。更に、味も美味い。

「飲ませるから、いつもみたいに魔力読ませて」

 俺がグラスに入った酒を受け取り、口をつけていると、俺の背後にイザナが回り込む。腕が伸び、ぎゅむ、とその胸の中に収められた。

 それらしい事をされたのは初めてではないが、今日のこれは距離が近い。彼は俺を抱き込んだまま、触れた場所から魔力を流し込む。

 ちびちびと酒を楽しむのに邪魔にはならないが、集中して味わおうとしても、時折こそばゆい。

「後ろ、邪魔」

「お酒いっぱい飲んでいいから。右の瓶が新作だよ」

 新しい瓶を開け、中身をグラスに注ぐ。またちびちびとやると、甘酸っぱくてこちらも美味しかった。

 俺が味を楽しんでいる間も、彼は魔力を調べて何事か呟いている。

「服の下に手を入れて、お腹さわっていい?」

「すけべ!」

「違うって。腹の下の方に生殖器官が固まっているから、その部分の流れを見たいだけ」

「………………」

「瓶、空にしてもいいよ」

 俺が黙り込むと、彼はそれを了承だ、と正しく捉えたようだった。

 服の下に手を滑り込ませ、臍の下に触れる。アルファが触るには際どい部分だが、彼がそれ以上の手を出してこないことは分かっていた。

 魔力を流し込まれるたび、むずむずとしたものが育つ。酒が入っていなければ、勃ってしまっていたかもしれない。

「昨日。試作した薬、飲んだだろ」

「うん。あれ、かなりいい所まで来てるんだよね」

「今日、魔術が絶不調だった」

「え。……あ、そうか」

 彼の理屈で言えば、普段は流れるはずの水を押し留めて氷を作ろうとしているのだから、水を流す、という観点からすれば不調になるのだ。

 上司たちは俺の研究について把握していて、魔術が不調な原因についても理解はしてくれたのだが、仕事の多いロア課長には任せなくて良かった気がする。

「早く、結果を出さないとなぁ……」

 イザナは俺の首筋に鼻先を寄せる。すん、と吸い込んだ吐息が肌にかかった。

 こうやって、魔術の研究としては必要以上に触れられているのは分かっている。分かっていて、背後にくっついてくる相手のことを撥ね除けられない。

 もぞり、と腹に触れた指が動いた。

「いま触ってる……分、は、すけべ、だろ!」

「そうかもね」

 息が耳にかかった。開いた口が、かぷり、と耳を食む。

 びくん、と身体が跳ねた。暴れて腕から抜け出し、真っ赤な顔のままぜいぜいと息をする。

 俺の反応に、イザナはぽかんとした表情をしていた。

「…………耳、だめだって。言った」

「そっか、ごめん。もう触らないよ」

 舐められた耳から、アルファの匂いがする。相手の唾液をなすりつけられて、懐に入れられる。

 それを、巣に入れられることを、安堵と捉えてしまう自分に混乱した。オメガの本能が、彼をアルファだと見ている。

 グラスを持ち上げ、くい、と煽る。

「……寝る」

 そう宣言して、その場から離れた。顔は酒だけの所為ではなく真っ赤で、耳を押さえて自室でうずくまる。

 耳を咥えられたあの一瞬、俺の身体は快楽を覚えてしまった。アルファに耳を食まれるのは、粘膜越しに相手の魔力を混ぜられるのは、悦いことだと覚えてしまった。

 番になるだとか宣って、勝手に同居をして、両親を丸め込んでしまうようなアルファに、俺はただ鼓動を早めている。

「いやだ」

 耳は垂れ、手のひらの下で外からの音を塞ぐ。

「……いや、だ」

 自分に言い聞かせるような声だけが、静かな室内に浮かんでは消えた。

 

 

 

 それから数日、なんだかぎくしゃくしてしまう日々が続いた。いつも通りに過ごしているつもりなのだが、今までなら何でもなかった触れ合いに俺がびくついてしまう。

 イザナもそれを察しているのか、俺が身を引くと追ってはこない。俺がまたその事に気落ちしてしまう、悪循環が続いていた。

 朝から無理矢理詰め込んだ腹を抱えつつ出勤すると、ロア課長が近づいてくる。

「今日、昼から休みだったよな」

「え?」

「あれ? 同居人から今日は午後から休みにしたい、って連絡があったんだが」

 残念ながら、同居を始めてからイザナの研究のためなら全ての時間が惜しい、という行動には慣れつつある。本当に、濁流のような男だ。

「…………。理由とか、聞いてます?」

「ああ。例の研究で薬の材料を探しに、遠出をするから、と。転移魔術の使用申請も通しておいたぞ」

「どうせ、イザナが急に頼んだんですよね……。すみません……」

「ははは。関連部門には急すぎるって渋られたけど、お菓子とかで懐柔しておいたから。今度からはもっと早く相談しろよ」

 見せてもらった使用申請に書かれた転移先には、ナーキア、と書かれていた。

 自国の神話によく出てくる地名で、神が岩を割り、水を湧かせたことによる豊富な水資源で有名な土地だ。

 神が与えたらしいこの耳に影響する植物を探すには、うってつけのような場所だった。

「ありがとうございました。頑張って材料を探してきます」

「おう。いってらっしゃい」

 機嫌が良さそうに耳を揺らす上司に頭を下げ、自席に戻った。彼は、俺とは違って耳を隠しはしない。イザナもまた、俺の耳を見て、褒めるばかりだ。

 俺の耳は、隠さなければいけないものなのだろうか。

 昼間では普段通りの業務をこなしていくのだが、自分の置かれている状況を考えていると、気もそぞろだ。

 昼休憩の鐘が鳴ったとき、つい、ほっとしてしまった。

「フェーレス。お迎えー!」

「はい!」

 纏めた鞄を持って立ち上がり、出入り口に駆け寄る。やあ、とこちらに手を振るイザナは、外を散策しやすいよう、動きやすい服装をしていた。

 俺の服を上から下まで見ると、大きな紙袋を渡してくる。中を見ると、服が入っていた。

「軽く山登りをするから、着替えてくれる?」

「まずナーキア行きが決まった事から話せよ!」

「まあまあ、移動しながら話すよ」

 言われたとおり、更衣室で服を着替える。山道が歩きやすいような特殊な底のある靴に、ぴったりと全身を覆うような厚めの服だった。

 着替えを終えてイザナと合流し、転移魔術式のある場所まで向かう。

「で? 経緯は?」

「以前、フェーレスのご実家に伝わっていた資料を預かったでしょう。少しずつ読み解いていたんだけど、その中に『神の泉にしか咲かない花』の記載があってね」

 白い花弁を持つ植物だ、と資料には記載されていたらしい。神の泉、とはナーキアで神が石を割って湧かせたと言い伝えられている泉のことだろう。

 だが、その泉は伝説上のものだ。地図を探したとて見つかるようなものではない。

「その花について、別の文献では、古い言葉で『耳有る者へ贈る』と書かれていたんだ。元々、耳付きの人たちに対して差し出すような慣習があったのかもしれない。けど、それ以外の意味があるんじゃないか。耳に魔力壁を作るような成分が、その花に含まれているんじゃないかって」

「理由は、分かったけど……。急に休みにするな!」

「本当は昨日伝えるつもりだったんだけど、資料の読み込みをしてたら忘れちゃってた」

 あはは、と笑う彼の目元には隈が浮いていた。いつも、こうやって夢中で研究している。

 薬も雛形だった頃は飲んだあと副作用で吐いていたが、今はそういったことは起きず、魔術以外の不調は格段に減っていた。

「寝不足で軽い山登り、って大丈夫か?」

「徹夜には慣れてるし、アルファだしね。体力には自信があるよ」

 本人がそう言うのなら、と納得して、これからの打ち合わせをしつつ歩くと、目的の場所にはすぐ辿り着いた。

 職員に話を通し、転移術式の準備をしてもらう。術式の中に立つと、しばらくして魔術式が動き出した。

 浮遊感と共に、周囲の景色が移り変わっていく。

 隣に立つイザナを見ると、興味深そうに周囲を見回していた。彼は、俺よりもずっと、疑問を持ったものに対する好奇心が強い。

 膨大な魔力は、彼の方にこそあれば良かったのに。何故、この耳は俺の上にあるのだろう。

「────フェーレス。着いたみたいだよ」

 考え込んでいた所で、横から掛けられた声に顔を上げる。周囲の景色の変化は止まり、見知らぬ場所に立っていた。

 ナーキア側の職員が、到着を知らせてくれる。礼を言い、帰りについての説明を受けて建物を出た。

「こっちは、少し暖かいな」

「そうだね。お昼、まだだったよね。お店に入ろう」

 さっそく山に、と言うかと思ったが、彼は調べてあったらしい店に徒歩で向かっていく。どうやら分厚い肉を炭火で焼いてくれる店らしく、豪快な皿が多い。

 朝はあんなに食欲がなかったのに、目新しい料理につい食べ過ぎてしまいそうになる。程々に食べ、イザナへ連れてきてもらった礼を言った。

「良かった。フェーレス、お肉は嬉しそうに食べていたもんね」

「…………うん」

 最後に出てきた甘味も、俺が好きだといった果実が使われている。二人暮らしにも慣れ、相手の事も少しずつ分かってきた。

 彼は、俺の好きなものを覚えていてくれる。

「ご馳走様」

「ふふ。じゃあ、運動に行こうか」

 支払いは済んでいたようで、何も言われず見送られて店を出る。

 それから乗合馬車を使って、山の麓まで移動した。山の近くには小さな集落があり、堀で囲まれてはいるが、人の気配があった。

 もっと人が立ち入ることを禁ずるような山を想像していたが、獣道に毛が生えた程度の道もある。

「イザナはこういうの、慣れてるのか?」

 使い古された鉈を、腰に提げる様子を見て尋ねる。彼は間も置かずに肯定した。

「特定の場所でしか採取できない植物はあるし、そういった物ほど、尖った成分を含んでいることが多いからね」

「確かにそうだな。先頭、任せていいか」

「勿論」

 彼は強化魔術を使い、おそらく頂上であろう場所を目指して駆けていく。途中、目の前が植物で覆われている場所では止まり、切り払ってから、更に上へ足を向けた。

 山道は長い。強化魔術を使っていても、行って帰った頃には日が暮れるだろう。

「────これ、朝から出発した方が良かったんじゃないか」

 頂上に近づいた頃、休憩の合間に水筒で喉を潤しながら尋ねる。イザナは首を横に振った。

「いや。純粋に行って帰って、夕方になるくらいの距離なんだ。行って、すぐ神の泉に辿り着けないのなら、さっさと帰った方がいい」

「なんで?」

「喚ばれていない場所にあるような植物で、大きな運命が変わるはずがないよ」

 その言い分に首を傾げるが、彼は分からないならいい、というように話を続けることはなかった。

「ていうか、この場に俺がいる意味ってあったのか? 勢いに呑まれて来てはみたけど、今のとこ、俺、お荷物だと思うんだけど」

「いや。君が鍵だよ」

「え?」

 ふわりと、周囲が霧で満たされ始める。

 霧はだんだんと濃くなり、恐ろしくなってイザナに歩み寄った。彼は俺の手を掴む。見知った体温が、見知った魔力が、あまりにも心強かった。

 低い声が、近くで響く。真剣な声音は、彼のものにしては珍しい響きを持っていた。

「神の泉には、招かれた者しか立ち入れない。招かれる可能性があるとしたら────」

 俺の手が引かれ、ずんずんと霧の中を突き進んでいく。あれほどあったはずの木々は、真っ直ぐ進んでいるはずなのに遮るように存在しない。

 ただ先へ、霧中で歩いた。

「耳付きだけだ」

 突然、開けた場所に出る。

 中央には青く光る泉があり、こぽりこぽりと底から泡が湧き上がっていた。大きいとはいえない泉だったが、魔力ではない、妙な気配がある。

 イザナは、泉自体には関心を示さず、周囲に視線を走らせる。

「あった!」

 手を引かれて歩いて行くと、そこには小さな白い花が咲いていた。繋いでいた手が離れる。

 彼は花を根っこごと引き抜くと、用意していた袋に入れた。ある程度の量を、袋に仕舞う。

「……この花」

 夢中で収穫しているイザナの横で、花の形状をまじまじと見る。どこかで、見覚えがあるような気がした。

 この花と同じものを、最近、どこかで見たのだ。水の側……いや、池の側で咲いていた。

「イザナ。この花、うちの実家になかったか?」

「は?」

 彼は、眼鏡の奥からこぼれ落ちんばかりに目を丸くした。俺は花弁に触れ、まじまじと全体を見る。

 以前、両親に話を聞きに行った時、見せてもらった庭で、池の側に咲いていた花そのものに見える。

「確かに。……すごく似てる」

「うちの庭、って神殿に近くて、あの池の水、たぶん出所は神殿なんだよな」

 イザナは何かを思いついたように、抜いた花を土ごと袋に入れ始める。

「これ、フェーレスの実家で、神殿の水を借りてたくさん育てられないか試そう。植木鉢とか持ってくるんだったな」

 引き抜いてしまった花は直近で薬の試作に使うことにして、それ以外にも土ごと花を袋に入れる。

 ある程度の量が集まったところで、袋を背負って立ち上がった。

「じゃあ、出ようか」

 彼の言葉に呼応するように、周囲に霧が立ちこめる。来た方向へまっすぐ歩いて行くと、やがて、見覚えのある道に出た。

 さわり、と風が通り過ぎ、髪留めの下の耳を撫でて過ぎる。

 その感触はとても優しく、大事にされているものを布の下に隠してしまっているのが、申し訳なく感じてしまう程だった。

 来た道を辿って山を下りると、イザナが予想していた通り、夕方になっていた。乗合馬車を使って転移魔術式の元まで移動すると、想定していた通りの時間に戻ることになる。

 魔術式を動かしてもらい、俺たちはその日のうちに帰路についた。

「本当に、順調に見つけられたな」

「うん。やっぱり、耳付きって。僕は、祝福なんだと思うよ」

 イザナは、この花が見つかると信じていたようだ。耳は祝福であり、その耳を持つ人物なら、神の泉には辿り着けるのだ、と。

 耳を持つ俺ですら見えていないものを、この男は信じる、と言う。

「…………どうだかな」

 景色はめまぐるしく変わって、やがて元いた場所へと辿り着く。地面がぐらぐらと揺れて、果たして地に立っているのかあやしく思った。

 耳は髪留めの下で、今日も折り畳まれている。

 

 

▽5

 花を持って帰り、実家へ行って見比べると、はっきりと同じ花であったことが分かった。泉から土付きで持ち帰った株は、実家の花の横に植えさせてもらう。

 両親に花を増やしたい、と相談すると、二人は快く引き受けてくれた。彼らの感覚では、育てづらい種ではないらしい。

 ただ、ずっとこの池の周囲にしか広がらなかったそうだ。

 イザナは花の成分を取り出すと、色々と実験を始めた。医療魔術部にも協力を要請し、保有している魔術装置で人体に悪影響がないかも調査したようだ。

 結果、この花の成分として健康を害するような成分はなさそうだと分かった。

 試作していた薬に花の成分を混ぜ込むべく、数日のあいだ、イザナは薬棚のある部屋に籠もりっきりだ。

「イザナ。きりがいいところで飯を食わないか? 余裕がないなら、運んでくる」

 その様子は寝食を忘れる、という表現が正しく、俺はなんとなく食事を運び、風呂に入れ、そろそろ寝るように声かけをしていた。

 俺の提案をイザナが断ることはないが、声をかけられない限りは研究に没頭している。

「…………食べるよ」

 力ない声が室内から届き、背を丸めたその人は眼鏡の下を擦りながら部屋から出てきた。つい、手を差し出して身体を支えてしまう。

 イザナはうつらうつらしていて、食卓でも船を漕ぎつつ食事を口に運んでいた。多くの魔力を使っている所為か腹は減るようで、用意した食事はすぐ空になった。

 研究に戻ろうとした彼の服の裾を掴む。

「風呂がまだ! ……だけど、風呂、入れるのか?」

「いや。寝そう」

 会話すらも億劫なのか、述べてから黙った。頭の中には研究しかないらしい。

「不安だから、背中流してやるよ。明日も仕事なんだし、風呂には入れ」

 明日になれば、この男は入浴を放り出してその時間さえも研究に充てる。普段は不潔なところはないのだが、研究以外の何も頭に入れたくない、という態度だった。

 イザナの目が僅かに見開かれる。

「分かった」

 短く同意すると、寝間着を拾いつつ、風呂場に向かった。脱衣所に入ると、彼は躊躇なく服を脱ぎ捨てる。

 オメガである自分とはまったく違い、適度に締まった身体がそこにはあった。俺も服の裾を折り、その後に続く。

 浴室に入ったイザナは、風呂椅子へと腰掛けた。ちらり、とこちらを振り返る男の様子を合図に、汲んだ湯を身体に被せる。

 薬草の混ざった石鹸を泡立て、泡を相手の身体に擦りつけた。ふわふわの泡が、彼の全身を覆っていく。

「股間も洗ってくれるの?」

「そういったご奉仕はしておりませんので」

「はは。泡貸して」

 彼は立てた泡を受け取ると、下腹部を洗っていた。全身を洗い上げると、今度は頭だ。泡を垂らした髪に指を入れ、地肌を指の腹で擦る。

 イザナはうとうとしていて、背後で支えていなければ寝ていた気がする。ばしゃり、とお湯を掛けると、驚いたように顔を振った。

「入浴は少しだけな」

 湯船には浸からせたが、短時間でやめてもらった。湯の中で、温度が心地良い、と眠りかねない。

 浴室で水気を落とし、手を引いて脱衣所に戻る。全身を拭っていると、あ、と唐突に彼は声を上げた。

 そのまま、ずるずると屈み込む。

「何?」

「……ごめん」

「だから何?」

「服、くれる?」

 事情が分からないながら服を渡すと、彼はもぞもぞと屈み込んだまま服を纏った。濡れた髪を拭おうとしたが、それより前に魔術で乾かされる。

 はあ、と低く息が漏れ、立ち上がった肩は丸くなる。

「ごめん、フェーレス。ありがとう」

「おう……」

「今日は、疲れてるみたいだ。寝るね」

 とぼとぼと廊下を歩いて行こうとする身体はまだふらついており、横からしがみついて支える。

 寝室に、とそのまま歩き、彼の部屋の扉を開けた。よろよろと寝台の近くまで歩くと、ぼすん、とイザナを布団の上に放り投げる。

 その時、ぐい、と手が引かれた。

「ちょ、っ……!」

 巻き込まれるような形で、寝台に縺れ込む。俺の背に回った腕が、きゅう、と身体を抱き竦めた。

 その時、ようやく気づく。彼の中心は膨らんで、形を変えていた。

「な、な……」

「あはは。ごめん、眠くて……人恋しくなっちゃった」

 ぱっと手が離れ、ひらひらと振られる。

 俺はその場に起き上がると、相手の熱には気づかないふりをして、寝台から降りた。

「ちゃんと寝ろよ」

「ありがとう。おやすみ」

 布団に潜り込む姿を見送り、相手の寝室から出る。

 廊下を歩いているうちにふと気づいて、自分の服の裾に鼻先を当てた。服から、イザナの匂いがする。

 ぺたん、と耳が垂れて頭に張り付いた。何度も、なんども匂いを嗅いで、夢中で頬に擦り付ける。

 それから、風呂に入って、自分の匂いを落とした。視線の先には、彼が脱ぎ捨てた服がある。指先を伸ばして、流石に、と躊躇した。

 彼を風呂に入れるときに着ていた自分の服を抱え、寝室に入る。寝台に転がり、服に鼻を当てると、ほんの僅かな彼の匂いと、花の香りがする。

 オメガは、番のアルファの匂いがするものを集めたがる。じゃあ、番ではないアルファの匂いに安堵している俺は、何なのだろう。

 眠りたくて、眠れなくて。服を抱いたまま長いこと微睡んだ。

 

 

 その日は、何でもない一日のはずだった。午前の仕事を終え、昼食をどうするか迷っていると、廊下を駆ける足音がする。

 ばん、と勢いよく職場の扉が開かれ、髪をぼさぼさに、眼鏡のずれたイザナが駆け込んでくる。

「フェーレス! 薬の試験が終わった!」

「本当か!?」

 つい手を取り合って喜んでしまう。あの花の成分が記録になかったため、花単体と、作った薬としても試験を通さなければ俺で試せない、と言われていたのだ。

 安全試験が通ったということは、あの花を使った薬を俺で試し、調整をすることが可能になる。

「さ、……早速、試すか?」

「あ。一応、仕事に影響するだろうから、帰宅してから、と思っていたんだけど……」

 話し合う俺たちの背後から、近づいてくる足音がする。振り返ると、にっこりと笑った上司が立っていた。

「フェーレス。昼からの仕事、引き受けるか?」

「ロア課長、いいんですか!?」

「おう。一刻も早く試したいって顔してるしな。まあ、研究が進んだ祝いってことで」

 有休を取れ、と言われることもなく、これも仕事、と午後からの仕事を持って行かれた。俺は鞄に荷物を詰めると、イザナの元へと駆ける。

 俺たちは廊下を早足で歩くと、医療魔術部から薬を持って自宅へと戻った。あちらの部署で飲んでも良かったが、フェロモンに影響する副作用が出ると、大事故になる。

 薬包紙に包まれた薬は、乾燥した草の色が残っていた。美味しそうではないそれを、水で口に流し込む。

「飲んだ。大人しくしておけばいいか」

「そうだね。安静にしておいて」

 俺は長椅子に座り、魔術書に目を通し始める。隣に腰掛けたイザナは試作した薬の成分表と、安全試験の結果を比較していた。

 ある程度、薬が身体を巡った頃、あれ、と違和感を覚える。何かが、堰き止められている感覚があった。以前の試作薬よりも、明らかにはっきりとした効果だ。

「イザナ。効果が、出てる気がする」

「本当!? 触ってみても?」

 こくり、と頷くと、彼は俺の手を握った。

 軽く魔力を流してみるが、普段は流したそばからまた新しく魔力が流れ込んでくる感覚がある。今は、それがなかった。

「フェーレス。悪いんだけど、耳、触らせてもらえないかな?」

 俺は黙って髪留めを外し、起き上がった耳を彼の目の前に晒す。

 指が伸びてきて、耳に触れた。ぴくん、と反射的に耳は逃げを打つ。指先が表面に生えている産毛を撫でた。

 指から、彼の魔力が流れ込んでくる。だが以前、粘膜だと称したほど、吸い込むような魔力の浸透を感じない。それどころか、耳からはまったく魔力が通らなくなっていた。

「耳を経由した魔力の行き来が、完全に無効化されている」

「だよな。なんか、魔力が使ったら『減る』んだ」

「え? 魔力は、減るものでしょう」

 俺とイザナは、視線を合わせてお互いの齟齬を知る。耳付きではない人にとって、魔力は使ったら減って、その回復には時間がかかるもの、だ。

 耳と外との魔力が遮断されただけで、俺は普通の魔術師のように成り果てている。

「耳付きは、自分の炉と、外部から魔力を変換する耳と、二つの魔力源を持っているのかな。けれど、耳は使わない魔力を外にも出して、流れを作ってしまう。子を作るに当たっては、ある程度の量の魔力を固めたものが必要だ。そのために、今、流れを堰き止めた」

「耳を経由して、いま、魔力がまったく動かない。実験としては、これで成功、なのかな」

 俺の言葉に、イザナの眉が下がる。

「これ以上の成果を出すとするなら、実際に子どもを授かれるか、という話になる。けど、それは、僕たちで研究するには違うかな」

「あ…………」

 これから、薬を使って子を、ともなれば、彼との性的な接触は不可避だ。彼は、そこまでは、と研究を打ち切ろうとしている。

 だが、彼は俺と番になることを、生殖能力を備えることを、望んでいたのではないのか。ここで幕引きが当然だと分かっていながら、何故か腹が立った。

「そうだな。結果が出てよかったよ」

「うん。フェーレスのおかげだよ。上司に報告に行ってくる!」

 薬を飲んだばかりの俺を置いていくのか、だとか、言いたいことは色々あったが、全てを喉の奥に飲み込む。

 嬉しそうに駆けていく背中を見送って、俺は息を吐いた。長椅子に寝転がり、耳を引く。

「今の俺なら、イザナに乗っかれば子ども、作れるのか」

 昔から、生殖能力がないことは当然のことだと思っていた。オメガでありながら、誰かと番うことを考えたことはなかった。

 では、それが叶うならどうする、と考えたとき、頭に浮かんでくるのは言い寄ってきたはずの男の姿ばかりだ。

 最近は、研究に忙しくて、めっきり触れてくれなくなった。

「研究の成果が出たから、目、覚めちゃったかもな……」

 はは、と笑って、握った拳に魔力を流す。使っても、使っても無尽蔵に湧いていた魔力が戻ってこない。音が遠いような、そんな感覚だ。

 祝福を失って、人に近づいて。望んでいたはずのものが与えられたのに、何故かただ孤独だった。

 

 

▽6

 研究は一段落し、俺はお役御免になった。あとはイザナが助言しながら、実際に番持ちが薬を使って効果を試していくらしい。

 同居の解消は、俺から言い出した。官舎にはもう戻る部屋はなかったが、外に部屋を借りることにした。

 彼にはかなり引き止められたが、俺は何度ももう同居する意味がない、と言い続けた。

 根負けするような形で、イザナは同居解消を許した。彼が仕事に出ている間に、部屋は引き払って、新居に荷物を移した。

 職場では会わないように気を遣い、通信魔術で飛んでくる連絡はすべて無視した。用済みだ、と彼の口から告げられることが堪えられなかった。

 彼は、俺と最後まで研究をしてくれなかった。そんな恨みがましさだけが、最後に残ったものだ。

「フェーレス」

 イザナがいない日々にも慣れてきた頃、仕事の合間に、上司から声を掛けられた。飲み物を奢られ、小さい休憩室に呼ばれる。

 最初に研究を持ちかけられた、あの時のようだと思った。

「あの、どうしたんですか?」

「ああ。別に仕事の話じゃないから、気負わなくていい」

 目の前の椅子に座った上司は、容器に入った飲み物に口をつける。

「フェーレスに元気がないからさ。飲み物でも奢ろうかと思って」

 上司がこうやって飲み物を奢ってくれるから、修羅場だった俺は、イザナに飲み物を奢ろうとしたんだろうか。

 珈琲を口に含む。色は真っ黒で、口の中はただ苦かった。砂糖を入れなかったことを、心の底から後悔した。

「…………ロア課長に、変な相談していいですか?」

「いいぞ。なに?」

 俺が何を言うかも分からないのに、聞くだけ聞こうとする上司は、あまりにも懐が広すぎる。

 両手で、飲み物の容器を握り込んだ。

「例の研究で、試作した薬ができた時。俺、イザナと。…………子どもを作るとこまで、試したい、って思ったんですよ」

「…………そりゃ、熱烈だな」

「変でしょう。だって、子ども、作るなんて大ごとなのに。最初から一緒に進めたんだから、最後まで一緒に、って。……別に、イザナとなら…………って」

 視界がぼやけて、上司の顔が分からなくなる。ぐ、と目元を拭ってようやく、泣くまで追い詰められていたことを自覚した。

「あんな奴が相手とか嫌すぎる……」

「はは。心からの叫びだな」

 上司に部屋が引き払われた話とか、急に山に登ることになった話だとか、つらつらと語って、話すたびに俺がそんな彼を嫌だと思っていないことを自覚してしまう。

 俺の話を静かに聞いたその人は、ようやく口を開いた。

「────フェーレスは、自分がオメガじゃなかったら、もっと冷静に恋してた、って思うことない?」

「え。そりゃ思いますよ。だって、こんなぐちゃぐちゃなの、変でしょ……」

 ぐす、としゃくり上げ、浮かんでくる涙を拭う。目の前に座っている上司は、ふふ、と笑う。

「それがさ、別にベータでもオメガでも、アルファでも変わんないんだってさ。みんな本能に振り回されて、ぐちゃぐちゃになりながら恋愛してるらしい」

「はぁ……。そういう、ものですかね」

 苦いはずの珈琲を、上司は平気そうに口に運ぶ。俺よりもずっと年上のこの人は、俺と同じ耳のあるこの人は、もっと、ずっと苦いものを飲み込んできたのだろうか。

「けど、そういうぐちゃぐちゃなものを織り交ぜて、俺たちは関係を築いていく。なあ、俺は、フェーレスがこうやって悩み続けて萎れてるの、勿体ないと思うけどな。イザナ、『最近、避けられてる』、って沈んでたぞ」

「……あの男が、ですか?」

「あの男が。それに、フェーレスもだよ。二人とも、この世の終わりのような顔してる」

 そういえば、部屋を引き払うときも、ろくに会話もしなかった。もう一度くらい、話してみてもいいだろうか。

 鼻先に、一度嗅いだにおいが呼び起こされる。もう一度、彼の腕の中に包まれたかった。

「話を、してみます」

「よかった。俺、フェーレスより、イザナの気の落ちようが心配だったんだよな」

「…………そんなに?」

「薬の調整で忙しいんだろうけど、目の下の隈が酷いわ、やつれてるわで」

 食事を摂らせて、それで身体を洗って、寝かしつけるくらい、いいだろうか。一度は同居人だったのだ、心配することくらい、許してくれるだろうか。

 容器の中身を飲み干し、机の上に置いた。

「そういえば、フェーレス。発情期はまだ、のはずだよな?」

「はい。来月、だったかな」

「だよなぁ……。匂いが変わってる気がしたんだけど、気のせいか」

 俺は手首を鼻に押し当てるが、特に自分の匂いは分からなかった。

「試作として作った薬の作用、ですかね……。飲んだのは一回きりなので、もう抜けてるとは思うんですけど」

「抑制剤はちゃんと持ち歩くんだぞ」

「はい」

 それから少しだけ仕事の話をして、上司との面談は終わった。すっきりとした気分で仕事に戻り、その日の仕事は難なく片付く。

 普段よりも早い終業に、イザナへ会いに行けないかと考えた。

 材料を持って家に押しかける、というのは迷惑だろうが、出来合いの食べ物を届けるのならいいだろうか。

 外へ出て、すぐに食べられるものを買い求めると、俺は官舎へと向かった。いつも通りの部屋に向かおうとして、彼も引っ越しているはずだ、ということに気づく。

 慌てて階段を降り、管理人室へ向かった。

 身分証を提示し、イザナの体調が悪そうなので食べ物を届けに来た旨を伝える。部屋番号を教えてほしい、と言ったのだが、管理人は不思議そうに俺を見る。

「いや、フェーレスさんの部屋でもあるでしょう? 熱でもあるんですか?」

「…………え、あ。す、すみません。最近、喧嘩をして部屋を出ていたものですから、引き払われてやしないかと……」

「はは。部屋はそのままですよ、早く仲直りをしてくださいね。どうしようもなくなって引っ越すときには、またお知らせください」

 管理人に申し訳ない、と詫びをして、管理人室を出た。どうやら、俺が出て行ったあとも記録上はそのまま、イザナは住み続けているらしい。

 忙しくて、引き払うのが面倒になったのだろうか。不思議に思いつつも、部屋まで向かった。

 玄関にある装置に魔力を流すと、鍵が開く。室内は静かで、まだイザナは帰宅していないことが分かった。

「俺の魔力登録、そのままなんだ……」

 食べ物を食卓に置き、周囲を見回す。部屋は少し荒れていて、書類などが床に散っていた。

 気になって、散らばったそれらを拾い集める。自分の物だけ運び出してしまって、この部屋の掃除は甘かったかもしれない。

 罪滅ぼしのように、目につくところを片付けた。

 二人で買って、俺が置いていったものはそのままだ。いつでも戻れるように、何も変わっていない。俺の痕跡だけがなかった。

 広い部屋は、所々、何かが抜けている。

「寂しい部屋、だな…………」

 たった一人がいないだけなのに、部屋の空気は変わってしまっていた。

 俺が片付けを続けていると、玄関から音がする。家主の帰宅に顔を上げ、廊下を歩いて玄関へと向かう。

 扉を開いたイザナは、俺の姿を見て鞄を取り落とした。彼の背後で、玄関扉が閉じる。

「おかえり。…………最近、元気がないって聞いて差し入れに来たんだ。悪いと思ったんだけど、鍵が開いたから────」

 俺が言葉を続ける前に、長い腕が伸びた。身体を引き寄せられ、広い胸の中に閉じ込められる。

 ぎゅう、と抱き竦められる最中、耳元に近づいた唇からは荒い息が漏れていた。

「フェー、レス……!」

 押し潰されそうなほど、力を込めて抱かれる。鼻先には彼の胸が当たって、息をするたびにアルファの匂いがした。

 存在を確かめるように、背に回った手のひらが服の上から撫でる。

「戻って、きてくれたの……?」

 切なげな声音に、胸ごと締め付けられる。待ちわびていた、とでも言いたげな響きに、出て行った事を咎める音はない。

 ただ、戻ってきてくれた、と嬉しがる声だけがそこにあった。

「戻ってきた、訳じゃなくて……。差し入れを」

「どうして……、戻ってきてくれないの?」

「…………もう、研究は終わっただろ」

「研究が終わったら、フェーレスが、僕と同居する理由はないの?」

 全くない、と言えば嘘になる。だから、彼に対して、偽りの言葉を吐くことを躊躇った。

 黙ったまま、彼の胸を押した。そのまま閉じ込められたいと願いながら、身を捩る。

「僕じゃ、だめなの……?」

「…………俺じゃ駄目だって言ったのは、お前の方だろ!」

 丸めた拳で、彼の肩を叩く。

 八つ当たりのような行動も、彼は咎めない。ただ、握り込んだ掌を包み込む。

「僕が、フェーレスじゃ駄目だなんて、言うはずない!」

「言った!」

「言ってない!」

「だって、────俺とは、作った薬を試してくれないんだろ!?」

 口から零れ出た言葉を、後悔しても遅かった。

 口を噤んで、視線を落とす。

 彼の指が伸び、頭の後ろに回った。しゅるりと結び目が解かれ、髪留めが外される。

 拘束が解かれたはずの耳は、萎れてその場にぺしゃりと折れた。

「耳、ぺたんこだ。……フェーレス。これ以上、薬を試すってことは、僕と子どもを作るって事だよ」

「……あんたは、俺と子どもを作る未来が見えないって言ったんだ」

「そういうことじゃなくて、僕だって順序くらい弁えてるよ!」

「勝手に同居に持ち込んだような奴が順序を弁えるな!!」

 は、と荒く息を吐いた。今日は、感情の上下が激しい。

 上司が、匂いで発情期を疑っていた理由も分かる気がする。熱に浮かされるようなこの感覚は、発情期前によく似ていた。

「僕が、君に対して引いた態度を取ったから、不安になったの……?」

「なってない」

 手を抜き取って逃げようとしても、力の差で敵わない。ぎゅう、と抱き寄せられて、広い腕の中に入れられる。

 彼の、巣の中に仕舞われる。

「そっか。それは、僕が悪かったな」

「何、一人で納得してるんだよ……! 俺は────」

「好きだよ」

 唐突な愛の言葉に、ぐう、と言葉を飲み込む。

 彼は、こうやって言葉を躊躇わない。俺に対して、感情を隠すことはない。

「君が不安になるなら、何度だって伝えるよ。綺麗なひと。……僕は、君と番になりたくて、君と子どもを作りたくて研究を立ち上げてしまうような人間なんだよ? 少し節度のある態度を取ったくらいで、不安にならないでほしい」

 相手の指先が、顎の下を擽る。

 持ち上がった唇に、柔らかいものが重なった。頬の端に、眼鏡の金属部が軽く当たる。

 触れて、離れる。粘膜越しの接触は、耳を唇で触れられた時と似たような感覚があった。

 イザナの服の裾を引く。

「俺と、将来。家族を作ること、……考えられる、のか?」

「考えて、その為に動いてきたつもりだよ。だけど、……こんなお誘いを受けるとは思わなかったなぁ……」

 彼の掌が、俺の服の下へと潜り込む。

 目を丸くしているうちに、皮膚が撫でられる。

「仕事、積もりに積もってるけど、まあいいや。投げちゃお。折角のお誘いだし」

「お誘い……?」

「ずっと、いい匂いがしてる」

 ちゅ、と頬に唇が触れて、鼻先が首筋に近づく。す、と息を吸う音がした。

「発情期にアルファのところに来たんだから。────もう、逃げないでね」

 すう、と目が細められる。獲物を見つけた、狩猟者の眼をしていた。

「発情期、のはずはない。だって、周期的には来月のはずで……」

「間違いないと思うけどなあ。いいや、寝てみたら分かるよ」

「な……! ね、寝る!?」

 抱え上げようとする腕を、はたき落とす。イザナは自らの手を見下ろすと、眉を下げた。

「フェーレスは難しいね。俺が触るのは、いや?」

「い、……ッ。いや、では……」

「素直じゃないのは可愛いけど。そればかりだと、どう受け取っていいか不安になるよ?」

 見上げた彼の目の下には、隈が浮いていた。

 彼に食事を摂らせて、眠らせたくてここに来たのだ。

「俺、……イザナの体調が心配で来たから。だから、……そういう意味で寝たら、もっと疲れる」

 耳ごと萎れた俺を見て、くすくすと笑い声が響く。

「今は食事より睡眠より、性欲の方が勝ってる」

「そ、それなら……!」

 こくん、と唾を飲み込む。

 相手を受け入れようとしている自分も、何もかも混乱して、ぐちゃぐちゃだ。ただ、アルファの匂いがして、あの匂いを吸い込みたくて堪らない。

「風呂、はいりたい。…………あんただって、職場の匂い、するの嫌だろ」

 仕方がない、というように彼の唇から長く息が漏れる。

 両手で頬を包まれた。持ち上げられた先の視線はとげとげしく、ぎらついていた。

「今のところは引くけど、引っ越していった時みたいに。もう、……逃げたら、いやだよ?」

 宿った光に、背筋をぞっとしたものが伝う。

 こくん、と頷いた俺に、アルファは満足そうに喉でわらった。

 

 

▽7(完)

 風呂場で全身を洗って、脱衣所に行くと、そこには新しい寝間着が置かれていた。全くの新品で、戸惑いながら袖を通す。

 下着は置かれておらず、必要ないか、と求めることもしなかった。髪を乾かして、廊下に出る。

 居間に向かうと、書類に目を通しているイザナがいた。

「……身体、洗い終わった。けど」

「じゃあ僕も」

 横を通りがてら、頭を捕まえ、耳に唇で触れて去っていく。

 一瞬の接触に、耳はぺたんと垂れ、しばらく起き上がらなかった。

「音、とか……。大丈夫、かな」

 番で住むことを前提とした部屋なのだから大丈夫だろうが、心配になって遮音結界を展開した。

 魔術を綴っていると、この先に待ち受けている事も忘れた。しばらくして、廊下を歩いてくる足音に我に返る。

「ただいま」

 帰ってきた彼は、寝間着こそ纏っていたが、髪の結い紐は解かれ、目元の眼鏡は外されていた。眼鏡を外した後の彼は、瞳が更に存在を主張し、普段よりも柔らかい空気を纏う。

 乾いたばかりの柔らかい髪が、彼の肩に掛かって流れる。言葉少なに立っていると、色気によろめきそうになった。

「寝室、いこっか」

「…………うん」

 頷いて、差し伸べられた手を取る。立ち上がって、導かれるままに歩いた。

 久しぶりに入ったイザナの寝室は、居間と同じようにすこし荒れている。物が多くない所為で酷くは見えないが、以前見たときより、物の置き場所が散らばっていた。

 一人で寝るにしては広い寝台に腰掛けると、隣に座ったイザナが、ずい、と顔を近づけてくる。

「…………ン、う」

 ちゅう、と唇が重なり、舌で舐められた。何を求められているか分からずに口を開くと、舌が口内に割って入る。

 自分のものではないそれが、口の中を動き回る。歯茎を辿り、舌裏を擽った。

「ふ、……っく。ン、う」

 ぴちゃり、と水音を交わしながら舌を絡める。

 押しつけられる粘膜越しに、相手は魔力を流し込んできた。境が崩れ、自らの波が相手のそれに乱される。

 息を吸い込むと、彼の、アルファの匂いだけがした。ぎゅう、と胸が締め付けられて、幸せだ、という意識に占められる。

 夢中で唇を重ねていると、ふと、感触が離れた。名残惜しく唇に指を当てると、相手の視線がその動きを追う。

「フェーレス。耳、触ってもいい?」

「……ん」

 軽く耳が傾いだような気がした。指先が耳を撫で、その感触に、ひくん、と反応する。続けて、唇が耳の先端に触れた。

 開いた唇は、耳を食む。

「ん……っく。……く、ふ」

 舌で舐められると、ぞくぞくと芯を擦り上げるような悦さが湧いてくる。

 駆け上がってくるものに怯えながら、相手の胸に縋り付いた。唇で挟み、舐め上げ、そして軽く歯を沿わせられる。

 水音が限りなく近くで聞こえる。ざり、と舌の表面が耳を引っ掻くたびに身を震わせた。

「耳、悦いんだ?」

「……敏感、なンだって、……言った……」

 耳まで真っ赤になって顔を上げられない俺の背を、イザナは喉を鳴らしながらぽんぽんと叩く。

 顔を上げると、ちゅ、と唇を盗まれた。手が服に掛かり、釦を外していく。下には何も身につけていない所為で、前を開けると白い肌が見えてしまう。

 気恥ずかしくて、視線を彷徨わせる。

「ごめん」

「なにが?」

「俺……あんまり見目は良くない、から…………」

 そう告げると、驚いたように彼は目を丸くする。

「フェーレスって、そういう所あるよね。耳だって、普段は隠してる」

「綺麗、ってイザナは言うけど。俺は、……奇異の目で見られたことしかない、から」

「耳を隠すのは、人目を避けるため?」

 こくん、と頷く。

 耳付きで、隠さずに暮らしている人もいるが、俺はどうしてもそう出来なかった。

「誰がどう見ようとも。僕にとっては、フェーレスの素敵な耳だよ」

「……ありがと」

 誘われるままに、自分から唇を寄せた。二人の真ん中で、唇が重なる。

 にっと笑ったイザナは、僕の耳にもキスをした。

「あのさ、イザナ」

「ん?」

「好き、……なんだけど」

「うん、知ってた。でも、伝えてくれて嬉しいよ」

 重なる唇から流れ込む魔力は、渦みたいだ。絡め取られて、相手しか見えないようにされていく。

 初対面の時からこんなに間近で暴れ回られて、他に視線を向けられる人間がいたら見てみたい。

 唇が首筋に当たる。口が開かれると、皮膚に牙が軽く埋まった。うなじには届いていないが、牙から魔力が根を張って、杭打たれる感覚を味わう。

 鎖骨から下りた唇は、白い肌に痕を残す。色が変わった場所を彼は親指で撫でると、満足げに息を吐いた。

「フェーレス」

 腰に回された腕が、身体を浮かせる。傾いだ頭は、胸元へと唇を落とした。

 胸の先端が、相手の唇に消えていく。ぬるりとした感触が先っぽを包んだ。

 ちゅう、と吸い上げられ、歯の丸い部分を掠める。空いていたほうも指先で摘まみ上げ、くっと引かれた。

「ん……ひ、……ぁ、ン」

 快楽を得ることを知らない場所の筈なのに、粘膜越しの接触は痺れるような感覚を与えてくる。

 嬌声を上げ、息を吸うとアルファの匂いごと取り込んでしまう。くらくらと酩酊するようで、彼が発情期を疑った理由を理解した。

 試作した薬を使った所為か、それとも、目の前にこの男がいるからか。俺の躰は時間間隔さえも失ったようだ。

「可愛い。かわいい。……やっぱり、研究にかこつけて近付いてよかった。こんなにいい匂い、きっと、我慢できなかった」

「ひッ……う、ア、……ひ、ぁン……!」

 自分のものだと教え込むように、強く突起が引かれる。刺激の余韻がじわじわと纏わり付いた。

 顔を上げた唇は唾液に濡れ、わずかに開いた口元から、白く光る歯が覗き見えた。溜まった唾液を、ぺろりと舌が舐め取る。

「下の方も、触るね」

「…………ッ! いい、いらな……!」

「触らないと、怪我をするよ? これくらいのものが挿入るし」

 掴まれた手が、彼の股間へと押し当てられる。布越しの熱はまだぬるく、だが、その下にあるものの質量ははっきりと分かった。

 口を開き、顔を紅潮させて言葉を失う俺を、細められた視線が追う。

「少し、待っていて」

 彼は寝台から降りると、部屋の隅にある机から小さな瓶を持ってくる。

 揺らすと、ゆっくりと中のものが揺れた。

「フェーレスは、こういう事する時、使う魔術は分かる?」

「こ、こういう、事……?」

「お尻をね、こう────」

 ひそり、ひそり、と耳元で囁かれた言葉に、俺は顔を真っ赤に染めた。

 知らない、と首をなんども横に振る。

「じゃあ、僕が教えるから。続けて」

 彼が魔力を込めずに口にする術式を、俺は魔力の波を作って同じように詠唱した。起動すると、ぞわりとした感覚が後腔で広がる。

 太股を擦り合わせ、頬に血が上る。

「何も知らない子に、悪いことをした気分になるなぁ……」

 唇を持ち上げるアルファの表情は、悪人のそれだ。

 彼は俺の下の服に手を掛けると、そのまま引き下ろした。下着がないことを知ると、笑みが深くなる。

 脚から服を抜き取るのを手伝いつつ、気まずさに視線を逸らす。

「今度、下着も脱がせてね」

「な、ッ……! しない!」

 手元の小瓶が傾けられ、股の間に垂らされる。とろみのある液体は、まだ縮こまっている半身に絡み付いた。

 伸びてきた指を、遮るように手を入れる。

「俺にも、させ……ろよ……」

「僕の? 触られたら爆発しそうだからだめ」

 手の合間を抜け、指先が茎を捉える。すり、と指の腹で優しく撫でられた。

「う、ン……あ、……ヒっ……ァ、あ……!」

 液体が滑るたび、他人の指が敏感な場所を狙って触れてくる。

 くちり、と水音が立って、羞恥心に頭が下がった。

「ひン……!」

 かぷ、と耳に囓りつかれた。ねっとりと舌が地肌の部分を舐めしゃぶる。

 急所を押さえ込まれて動けないまま、指と舌に翻弄される。

「あぁ……、っや。……ひ、ィ……ッ……ぁ、くあ」

「耳が、悦いんだもんね」

 フッと息を吹きかけられる。

 びくん、びくんと震えた躰を、動きを止めない指が追い詰めた。

 嬌声に泣き声が混じり始めた頃、ようやくその場所から解放される。

 腕に引っかかっていた上の服が、イザナの手で剥ぎ取られた。

「うなじ、見せて」

 頭の中が快楽しか追えない。言われたまま四つん這いになり、項を晒す。

 相手に、完全に屈服した格好だ。

 お預けを食らった中心は尻尾のように垂れ下がり、ぽたり、と涎を垂らした。

「傷一つないね、ここ。まあ、今からくっきり歯形が付くんだけど」

 彼は指先を伝わせて、視線で噛み付く予定の場所を灼いた。

 とろりとした液体が、尻の上から垂らされる。谷間を滑り落ちた液体は、足を伝ってシーツまで垂れた。

 太い指が、濡れた場所を伝う。くい、と指が曲がった瞬間、中へと侵入した。

「あ、あ……────」

 他人のそれは、異物感が酷い。内壁を辿るように、指先がひたひたと探る。

 身体の構造を知っているかのように、指はとある場所を目指して進む。

「────ぁ! なに!? それ、ヤ……!」

 指先が捉えた場所は、ずくずくと質の違う快楽を教えてくる。指の腹がその場所を撫でるたび、腹の奥が揺らされ、内壁が指に絡み付く。

 ぐちゅ、と素早く引いた指が音を立てた。間髪を容れずにまた突き込まれる。

「あ、ひ……ン、んん────! ぁ、あ」

 男根を突き入れられた時の動作をなぞるように、指は後腔を溶かした。くるりと円を描くように縁を辿り、指が抜かれる。

 突然、無くなった指を追うように、閉まりきらない口が開いては閉じる。

 背後から衣擦れの音がして、綻びた縁にぬるりとしたものが当たった。指とは違う質量に、本能的に怯える。

 怯えて。それでいて、何かを待ちわびるように血が巡る。

「ねえ、押しつけたら、吸い付いてくる」

 膨らんだ先端が、肉輪に押し当てられる。ほんの少し押し込んで、意地悪な雄は腰を引いた。

 息を荒げ、肉欲に支配されるばかりの頭を寝台に押しつける。腰を高く上げ、弱い場所を晒した。

「お利口」

「────ッ! ……あ、ッ。うあ゛────!!」

 ずるん、と肉棒は輪を潜り、大部分をまっさらな躰に叩き込んだ。イザナは反射的にみちみちと食い閉める淫肉を、喉を鳴らして味わっている。

 腰が掴まれ、ずっ、ずっ、と軽く引いては突き込まれる。軽い身体は、男の腕に引かれる度、その思い通りに中への侵入を許した。

「ひ……っぐ。ふ……──ァ」

 亀頭がずりり、と内壁を掻いた。指で押し込まれた場所を探されている。

 無意識に爪先を動かして、前へと逃げを打った。だが、力の差によって直ぐに引き戻される。

「……っ、ぁ。あ、ァ────ここかぁ」

 腰が引かれ、そして、思う存分押し潰された。

「──────!」

 濁った声は言葉にならず、喉の奥、口元を寝台に押しつけて叫んだ。

 追い出そうとうねる動きを気にもせず、アルファは更にぐりぐりと体重を掛ける。重たい刺激が、容赦なく長く、与えられた。

「あ……ッ、ヒ。あぁッ、あ……うぁ、あ」

 ようやく奥を苛めることに飽きたのか、男は抽送を始めた。

 ぐち、ぐち、と結合部から水音が立ち、泡立って溢れた液体が縁から漏れる。体重を掛ければ、溢れんばかりの熱さえも躰に押し込まれた。

 腕は崩れ、肩を使って身を支える。

「……あっ、ひ。ん……ふぁあ、あ。ン、うア……!」

 倒れ込んできた身体が、背後から耳を舐める。きゅう、と滾るような熱に吸い付いて、自分の腹は子種をねだる。

 背後から届く荒い呼吸音は、熱を更に追い上げた。

「もう、すこし奥。つつかせて」

 引いた腰が、ずりずりと奥を狙う。まだ余っていたらしい長大なそれを、ぜんぶ埋め切ろうと腹の内側を押し上げる。

 また、何かを探るように小刻みに突き上げ、膨らみがその窪みを捉えた。

「え────?」

 くぽ、と何かが填まったような感覚とともに、重たく、近すぎる刺激が響く。口を開き、必死で呼吸をする。

 寝台の表面に、口を押しつけた。

「…………────ッ!」

 最早、声というにはざらついて、濁りきっていた。

 組み敷いたオメガに呼吸が戻るなり、男はまた半身をその場所に押しつける。ふ、ふ、とお互いに息を漏らし、身体を重ね合った。

 体の中で濡れているこれには、相手の体液が混ざっているだろう。魔力の波がおかしい。制御のできない渦が、荒れ狂っている。

「ぁ、アっ。……ふ、く。ひ、うぇ……、あァ、あ、あ」

 相手の腰が尻に当たるたび、瘤が弱い場所を抉る。

 瘤からだらだらと漏れる液体を、身のうちで悦びながら飲み干していく。試作した薬を使っていたら、結果が出たかもしれない。

 アルファが与える欲望を、縋り付いて、絡め取る。周囲にはにおいが混ざって漂っていた。

「フェーレス。首を……」

「あ、ぁ。ひ! ……っふ、あ、あ。────あァン!」

「ま、いいか……ッ。噛んじゃお」

 ぺろりと首筋を舐めると、牙が皮膚へと食い込む。

 食い千切られんばかりの力が掛かり、確実に残る傷を与える。逃げを打とうとした躰も、怯えて動かない。

 ゆっくりと引いた腰が、ぐぷん、と大きく突き上げる。

「ふ、あは。……気持ち、いッ……ね。……っ」

「ぁ、アあ……、あ。────ひ、く。……ぁああああぁぁぁあッ!」

 びゅる、と先端から放たれたものが、狙い定めた場所へと撃ち込まれた。

 膨らんだ部分は奥へと辿り着き、逃がさぬよう襞は絡みつく。長く、精が吐き出される間、執拗なほどに肌を押し付けられた。

 こふ、と短く息を吐き出す。

「フェーレス……? 大丈夫」

「ん、……ぁ、ふあ……ぁ、ッ!」

 まだ快楽の名残に震える俺を、イザナは大きな手で撫でる。繋がった場所は抜かれず、断続的に刺激を齎した。

 顔を傾け、背後にいるアルファを睨み付ける。

「お互い、魔力、強いからなぁ。……混ざると媚薬だよね」

「……わか、ってなら……ぁ────ンで」

「はは。君が番になってくれるかもしれないのに。……僕が、逃すはずないよ」

 軽く引いた腰を、戯れのように打ち付ける。

「……────ひン!」

「かーわい。もっと、いっぱいしちゃおう」

「…………する、……な!」

 混ざった魔力に屈服した俺をいいことに、イザナは寝台の中に番を引き込み続ける。翌日には起きられず、周期外れの発情期に突入することになった。

 結局、試作した薬が原因だったのか。番になったアルファが仕掛けて発情期が早まったのかは、未だにはぐらかす相手の所為で分からないままだ。

 

 

 実家の池に持ち帰った白い花については、できる限りの量を確保するために早急に研究が進んでいる。

 神の泉に取りに行けば生えてはいるのだが、続けているうちに尽きてしまったら、という話が出始めたからだ。

 両親が長年育てていたことで育成方法は把握できており、今後は神殿の協力の元、定期的に採取できるほどの体制づくりを目指すそうだ。

 そして、完成した薬は数人の協力者の元、最終的な結果を待つことになっていた。

「────イザナ。あのさ、うちの姉のこと、聞いた?」

 わざわざ早く届く配達方法で届いた手紙は、姉の変化を伝えるものだった。同居人、兼、番は今日も長椅子の隣で研究資料に目を通しつつ、俺の方を見返す。

「知ってたよ。一応、ずっと体調に関する情報は見てたから」

「なんだ。じゃあ、知らなかったの俺だけか」

 イザナの作った薬は耳付きの耳だけに効果的に働き、副作用が少ないことから、経過としてはあまりにも順調だ。

「耳付きの子は、魔力を外部から取り込みながら育つみたいだ。育ちが早すぎて、いますぐ生まれたとしても、現在の医療技術なら生かせる大きさになったみたいだよ。心配していた時期は過ぎたから、フェーレスにも伝えてくれたんだと思う」

「へえ、そっか。……もう、心配しなくても大丈夫なんだ」

 姉が協力者として名乗り出た時には、もし悪い作用が出たら、と心配したものだが、姉は俺がいくら考えられる危険性を伝えても聞かなかった。

 『俺になんともないのなら、姉である自分にだってなんともない』そう言い切って研究に協力を続け、軌道に乗せてしまった。

「ありがとうな」

「別に。僕はフェーレスと子どもが欲しいだけだし。……まあ、いずれ、ね」

 伸びてきた手が、顕わになっている耳を撫でる。最近では髪留めで隠さなくなった耳は、時折、知り合いに『綺麗』だとか言われる。

 率先して俺の耳を褒めて回る、番の所為かもしれない。

「いずれ、ねえ……」

「不満? 僕はいつ薬を使ってもいいんだけど」

 首筋の噛み痕を撫でた指は、俺の頭を引き寄せる。ちゅ、と軽く触れた魔力は、愛すべき番のものだった。

「俺も、いつ薬を使ってもいいんだけど?」

 ふふん、と笑いかけてやると、ぽかんとした顔になったイザナが目尻を染める。珍しい表情に見入っていると、俺の両手が彼のそれに包み込まれた。 

「結婚、しよ!」

「いつも通り、急なんだよなあ」

 この勢いにも慣れたものだ。けらけらと笑って承諾すると、番は両手を宙に放り投げて喜ぶ。

 番も、俺も大好きな耳は、上機嫌にぴくりと動いた。

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坂みち // さか【傘路さか】
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