宰相閣下と結婚することになった魔術師さん6

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▽1

 とある日の魔術式構築課の職場。そろそろ冬の寒さが最も大きくなった頃だった。

 普段通りに仕事をしていると、背後から珈琲の入ったカップが差し出される。

 振り返ると、部下のシフが立っていた。続けて、机の上に飴玉の包みが転がされる。

「これ、ヘルメス製じゃないよな?」

「自分の仕事も立て込んでるのに、なんでそんな自爆みたいな事するんですか」

 以前に媚薬入りの飴を作り出した別の部下の名を上げると、シフは親切だったのに、と呟く。

 ごめん、と謝罪して、包みを開ける。額に手のひらが当たり、別の魔力がかるく触れて過ぎた。

「熱とかはないみたいですね。体調は大丈夫ですか?」

「平気……のつもりだけど、悪そうに見える?」

「若干。今日、寒いですもんね。体調悪くもなりますよ」

 部下はきっぱりと言い切る。自身の机から飴玉の入った大袋を取り出すと、じゃらじゃらと俺の机にぶちまけた。

 色とりどりの包みは目に眩しい。

「国を挙げた大行事ですもんね。式」

 部下が言うように、日を増すごとに結婚式への準備は忙しくなるばかりだ。結婚が決まった際に業務をシフに投げていなかったら、更に酷いことになっていた。

 きちんと全員の顔色を見ているシフにへにゃりと笑うと、本人は微妙そうに眉を寄せる。

「シフが課長代理になろっか」

「押し付けんな。……ください」

 ひょっこりと、俺の背後から気配なく声が降る。

 上司……サーシ課長の声だ。

「えー。シフくんが課長代理になるの? ロアくんはどうする?」

「平に自主降格しまーす」

「サーシ課長も遊ばないでください!」

 芝居じみた口調で会話に入ってきた上司を、シフは飴の包みを渡して追い返そうとする。だが、上司は帰る素振りを見せなかった。俺に用事があったらしい。

 平然とした声音で俺の予定を確認した後、『誰と』と『何の』を告げぬまま用件を告げる。

「ロアくん。更に忙しくして悪いんだけど、午後から打ち合わせがあるから。昼休憩が終わったら直ぐ出ようか」

「分かりました。持ち物は?」

「無しで」

 俺は無言で課長を見返した。普段よりも若干、彼の目尻が鋭い気がする。

 筆記用具すら持つな、というのは、記録を残すな、ということだ。課長と課長代理の二名が呼ばれる、というのは中々含みのある呼び出しだった。

 手元を動かし、上司だけに見える位置にこっそりと書き付ける。

『呼び出し元は?』

 サーシ課長は、人差し指を一本だけ立て、くい、と上へ動かす。

 呼び出したのはこの国の一番上、『サウレ国王陛下』らしい。細く息が漏れた。書き付けた紙をぱりぱりと破り、魔術で固めて塵箱に放った。

「寒い日は、外に行くのが億劫になりますね」

「そうだねえ。僕も魔構に居たいよ」

 そう言うと、上司は普段通りの笑みを残して自席へ戻っていく。

 最近のガウナーの言動を思い起こすが、今回の呼び出しと関連するような引っかかりには思い当たらなかった。そもそも、結婚式が近づいてくるにつれて、お互いに多忙である。

 一度考えたことで靄が纏わり付き、昼食の間も、その後の撃ち合いも、ぼんやりと過ごしてしまった。真面目にやれ、と部下にどやされる始末だ。

 昼休憩が終わると、直ぐにサーシ課長は俺の机に近づいてくる。

「行こうか。…………リベリオ王子も」

「ああ」

 上司も手ぶらだ。記録に残すな、は俺だけへの言葉ではないらしい。名を呼ばれたリベリオも、当然のように席を立つ。

 リベリオは隣国、ケルテ国の王子だ。

 祖国にて命を狙われる立場にあり、結婚式への参加を口実に前倒しでうちの国を訪れ、こちらで匿っているような状態である。

「あれ、リベリオも一緒だったのか」

「ああ。サウレ……っと、いけない。……国王陛下、に呼ばれていてね」

 リベリオが絡むと言われれば、更に嫌な予感しかない。溜め息を吐きたくなる感覚を押し留めた。

「シフ、書庫のテウ爺から問い合わせあったらよろしくな」

 がつがつ仕事をこなしている部下の、呼吸の間を読んで声を掛ける。

 シフはこちらに身体を向けると、げっとあからさまに表情を変えた。

「ええ……。テウ爺は説明書に一言一句書かないとやってくれないんですよ」

「利用者に機構に対しての慣れを求めないの。頼むよ」

「はぁい、説明書を修正しておきます。……ご武運を」

 シフは良い返事をすると、魔術機に向き直った。記録を残さないという指示に、部下も察するものがあるのかもしれない。

 魔術式構築課を出ると、冷たい風が頬に吹き付けた。

「ニコ」

 アォ。小さく鳴いて、俺達の姿を見つけた大型犬……ニコが近寄ってくる。

 三角形の耳を持ち、身体の大半は黒で脚先だけが白い。その白い脚で歩き出すと、そのまま併走し始めた。

 庭から王宮に入る時にも、専用に用意された脚拭きで肉球を拭って上がり込む。

「付いてくるつもりか?」

 わふ、と当然だとでも言いたげに顎が上がる。俺が眉を下げると、隣を歩いていたサーシ課長が、ふふ、と笑いを零し、杖を動かした。

「まあ、止められた所で帰そうか」

 使用人が使う通路を抜け、王宮の中枢部へ入る前の検査を受ける。

 ニコの方を眺めると、盛んに担当者に向けてお手を繰り返し、仕事の邪魔をしていた。ややあって確認が終わり、どうぞ、と中枢部への扉が開く。

 俺の隣には、一仕事を終えて満足げなニコがいた。

「……ニコ。ガウナーの仕事場、出入りしてたっけ」

 先導するように歩く尻尾を追う。

 ニコは犬の形をした、神様見習い、とでもいうような存在だ。

 俺の結婚の神託を下した、クロノ神の力を分けて作られた存在。彼が存在する未来から跳んできた、いずれ国を護ることになる幼い神。

 王宮内をうろついているのは知っていたが、中枢への出入りもやけに手慣れている。

「普っ通、に通されたねえ」

 廊下を歩いていると、途中で近衛魔術師のニンギと、近衛魔術師長のテップ爺と会った。彼らは王を守る事が仕事であり、この辺りが主な職場だ。

 テップ爺は、慣れた手つきでニコの頭を撫でる。

 彼らは同じ打ち合わせの参加者であるようで、一緒に指示されていた政策企画課へと向かった。

 普段と変わらないように見える伴侶は、俺たちの姿を見つけると直ぐに立ち上がる。

「急に呼び出してすまない。……少し出てくる」

 伴侶であるガウナーは宰相補佐に仕事の指示を残すと、席を立った。何も持たず、入り口付近へと近づいてくる。

 俺の近くに立つと、綺麗な笑みを浮かべ、こちらの背をぽんと叩いた。

 目元の隈が、普段よりも濃い事に気付く。

「打ち合わせの部屋へ案内する。こちらへ」

 長い足で廊下へ出ると、政策企画課からさほど離れていない、小さな部屋へと案内された。ガウナーは、他に比べて質素な扉に手を掛ける。

 扉を開けると、中央の椅子には既に悠然と腰掛けている人物がいた。その場にいた全員が、反射的に背筋を正す。

「よい、呼び出したのは吾だ。時間が惜しい、掛けてくれ。…………おや、ニコも一緒か。中に入れて構わぬよ」

 はい、と鋭い返事がぱらぱらと発せられ、各々が席に着いた。

 部屋の中にいたのはサウレ国王陛下。今回の呼び出し元である人物だった。隣にガウナー、リベリオ王子が腰掛ける。ニコは伴侶の足元で伏せた。

 出入り口を近衛魔術師であるニンギが押さえ、テップ爺は国王陛下の近くに控える。遮音結界の補助を頼まれ、サーシ課長と一緒に部屋を結界で切り離した。

 ぴりりとした空気は久しぶりで、座り心地が微妙な椅子からは腰が浮いてしまう。

「隣国よりリベリオを預かった後、あちらの動向は常に密偵に探らせている。例の誘拐事件は表沙汰にはならなかったが、ケルテの反国家組織には、国全体で圧を掛けているらしい」

 国王陛下が説明した内容は、既に把握していた。何せ、交流のある親戚……サフィアの両親が治めている土地は、ケルテ国と隣接している。

 誘拐事件の後、圧が足りない、と父や兄弟が隣接地の管理を補助しているらしいが、現状を尋ねても大きな変化はないようだ。

「ただ、あまり圧の掛け方が上手くなかったらしくてな。爆発しそうだ、と」

 サウレ国王が言葉を切った後、部屋はしんと静まり返った。

 誰も、問いの言葉を口に出来ない。その中で、今まで静かにしていたリベリオが口を開いた。

「狙われているのは、俺かな?」

「流石に、分かっているか」

 国王陛下は、あっさりと肯定した。

 ぎょっと目を剥くが、古くからの友人である二人の間では、事情を分かっている者同士の視線が交わされている。

「まあ、昔から狙われることには慣れているよ」

「狙いは、前々から分かっていたが、ガウナーとロアの結婚式の会場らしい。……数百年前の祖先でさえ、目出度き日には刃を収めたというのにな」

 全員の視線が、俺とガウナーに散った。

 意外、という感覚もない。それこそ、ニコが先の世から時を渡った理由を聞いた時から、心構えしていた筈だ。

 平穏な結婚式にならないことは分かっていながら、俺達はこの道を選んだ。

「何となく、そんな気はしていました。めでたい場なので、傍目から見て厳重すぎる警備を固めることが出来ない。そこを、狙われるんじゃないかと」

 俺の言葉に、サウレ国王は頷く。

「吾もそう思う。慣例上、結婚式に暗殺というのは皆、心理的に避けたがる。暗黙の了解があるからこそ、祝いの場に固い警備は相応しくない、という意見が通りやすくもなる」

 結婚式という場に相応しくない、と文句が出ない程度に水面下で動く必要がある。且つ、反国家組織が力を入れてくるであろう暗殺から、王子を護衛しなくてはならない。

 俺は、顎に手を当てた。

「当日の襲撃は、確実なんですか?」

「闇での武器の調達や、人員を集めているところからも、ほぼ確実のはずだ」

「結婚式を囮に使えば、国にとって都合が良いですか?」

「ロア」

 俺と国王陛下の会話に、伴侶の声が被さった。

 ガウナーに視線を移し、肩を竦める。じとりとした視線を向けられ、失言を悟った。

「ははは。やはりガウナーの片翼は、肝が据わりすぎておるようだ」

 場に相応しくない国王の笑い声が、狭い室内を満たす。

 俺もガウナーも、言い合う気にならずに絡んだ視線を解いた。

「リベリオ。……王子」

 俺が言うと、リベリオはこちらに視線を向けた。

 彼が原因ではないことに、気を病むことがないよう、にい、と笑ってやる。

「貸しひとつな」

「……あぁ。ケルテ国としての、貸し、かな」

 ふいに、ニコが身を起こした。俺を何か言いたげに見つめてくる視線に、どうしたものか、と顎に手を当てる。

「これから、警備の対策をしていく必要があると思うんですが……」

 俺がそう言うと、サウレ国王は、ガウナーに向けて手を振った。そして、後は任せる、と言うように口を結ぶ。

「では、私から。────リベリオを守るための対策として、以前あった、国王襲撃事件の際の枠組みを、復活させようと思っている」

「国王陛下が頭で、ガウナーのいる政策企画課、と。うち……魔術式構築課と、魔装」

 俺の言葉を、ニンギが引き継いだ。

「そして、近衛と、防衛課の……第二小隊ですね」

 上げた課の中でも、選抜した者にしか秘密を明かさないような、前回は最小限の枠組みだった。

 今回も、それに近くなるのだろう。だが、それにしても。

「会場は広い、出席者も多い。まず主に魔術師の人手が足りない。密かに武器を調達するなら金も足りない」

「人手が魔術師限定なのは────」

「護衛のために潜り込ませやすいからだ。入場には、厳密な手荷物検査を行う。が、魔術師は武器を持つ必要がない」

「だよな」

 予想通りの答えに、空中に視線を投げる。

 あ、とニンギが声を上げた。

「あの。元々、ロア代理の親族の出席は多かったですよね。前回の枠組みを踏襲するなら、今回も協力を仰げれば、と思うのですが……」

 ガウナーの表情がさっと陰る。

 すぐに表情を整えたが、見慣れている顔の変化は分かりやすかった。

「────といっても、モーリッツ一族を全て信用する、という事は、今回は避けようと思っている。ロアと、その父君に協力を仰いで、信用のおける人員を出席者として増員しようとは思っている。が、他にも人数が欲しい」

 なにか違和感があったのだが、話を進めるのが先だ。

 靄を払って、口を開く。

「マーレ国から、来賓の警護を名目に来てもらって、あちらの魔術師の手を借りるか。周辺国の中では、国家間の仲が良く、魔術師の腕がいい。あとは、大型の魔力貯蔵装置を置くのはどうだ。そこに魔力供給する人員さえ確保すれば、一人の優秀な魔術師が二倍三倍にも動ける」

 事情を話さず、魔力供給をしてくれそうな協力者には覚えがあった。

 俺の言葉に、ガウナーは顎に手を当てる。

「大型の魔力貯蔵装置、を急に作り始めたら、疑いの目を向けられるんじゃないか」

「建前……、か。ミャザとの共同研究、とか?」

「彼らには、ゴーレムを使っての護衛を、と既に声を掛けてある。だから、装置の作成に協力してもらう事自体はいいが、急に大型の魔力貯蔵装置を研究する目的にならない」

 といっても、最近、縁ができたのはミャザの魔装と、マーレ国の魔術部署くらいだ。俺がこめかみを揉んでいると、隣でサーシ課長が声を上げた。

「他に協力を仰げる組織…………、魔術学校は?」

「ミイミルのいる学校か」

 ガウナーは、少し待ってくれ、と部屋を出ると、一冊の本を手に取って帰ってくる。ぱらぱらと頁を捲りつつ、早口で言葉を発した。

「ちょうど、王宮へ職業研修の受け入れ要請が来ていたんだ。あちらにも、魔術装置に関する学部がある。ここだ」

 とある学生の名前の横には、研究内容として『魔術貯蔵装置の改良』と書かれていた。頭の中で線が繋がり、案を出すために口を開く。

「魔装のトールが、飼い猫に持たせる為に魔術貯蔵装置の研究をしてた。職業研修を受け入れて、その学生を魔装に遣ろう。魔術学校との共同研究を隠れ蓑に、大型の魔力貯蔵装置を作成して、学生にも魔術の貯蔵を手伝ってもらう」

「それでいくか。あちらの校長には伝手がある。職業研修の時期の前倒しを、と話をしてみよう」

 続けてこの計画に引き入れる人員の打ち合わせを行っていると、想定よりも時間が延びてしまった。一旦、この場はお開き、と決める。

 皆が出て行こうとした時、俺はニコの存在を思い出した。

「あの、国王陛下、とサーシ課長。あと、リベリオ王子も残っていただけますか? 少し、話しておきたい事があって……」

 ニンギとテップ爺に視線を向けると、彼らは心得た、というように頷いた。

「扉の前で待機します。ロア代理がいちど結界を解除して、また張り直していただけますか?」

 俺が頷き結界を解除すると、彼らは扉から外に出た。俺はガウナーの腕を掴み、部屋の隅に連れていく。

 自分たちの周囲にだけ遮音結界を張り、こそり、と声を潜めた。

「その方が護衛もしやすいだろうし。ニコのこと、詳しく話しておこうと思うんだが」

「ああ。確かにそうだな」

「神殿絡みのことだし、ルーカスに怒られると思うか?」

「以前、国王でもあるし……サウレには全ての事情を明かしたい、と相談したことがあった。その時は、情報の公開は私とロアの判断で決めていい、と言われた。だが、きっかけになるような事がなく、先送りしていたんだ」

「じゃあ、大丈夫か」

 再度、部屋全体に遮音結界を張り直す。ふう、と息を吐いて、三人の元に戻った。

「あの、ここにいる犬……ニコについてなのですが。この子、犬じゃないんです」

 サウレ国王陛下は目を軽く見開き、サーシ課長とリベリオは納得したような顔をしている。

 二人はニコと触れ合う時間も長かった。犬と称するには異質すぎる事に、気付いていたのかもしれない。

「ニコは、クロノ神が自分の力を分け与えて作った存在で、ルーカスは、ニコを『神』と呼びます。この子は、俺達から見ると、未来に当たる時代に生まれた存在です。未来から、結婚式で時が分岐してしまう可能性を視て、過去へ渡ってきたんだそうです」

 俺の隣で、お座りをした犬が、わふ、と鳴く。続けて、ぐりぐりと俺の脚に頭を擦り付けるのだが、その姿は紛れもなく犬だ。

 全員が、ぽかんとした顔をしていた。ガウナーは端でこっそり頭に手を当てている。

「俺とガウナーは、『時の分岐』は結婚式で起こり得るんじゃないか。本来ある未来への道筋にニコの存在が必要なんじゃないか、と考えています。そして、今のところニコは俺達にも、リベリオにも好意的です」

 ニコはタッタッ、と床を叩いて歩くと、リベリオの前で腹を見せた。害意はない、という俺の言葉を裏付けようとするような行動だった。

「もし、危険を感じたら、ニコを頼ってください。神に属する存在なので魔術も効かないし、防衛課と戦闘訓練を繰り返しています。きっと、並の魔術師より、頼りになるはずです」

「…………少し、いいか?」

 その言葉を皮切りに、サウレ国王は質問を次々と投げ掛けた。

 神のこと。未来のこと。クロノ神が大河と称する時の定義。答えを返せば返すほど、彼の眉根は寄るばかりだった。

「────時、というより運命か。……を、決まった通りに流す事がクロノ神の意思、ということか?」

「だと、思います。時をクロノ神は大河と呼びます。大きな流れだけがある。支流は許されない、というような言葉を。……ルーカス経由で聞きました」

 農耕神ではなく、実際は時を司るクロノ神の本質を告げる事も迷ったが、ニコは止めに入らなかった。そして、俺は問題なく言葉を発し終えた。

 この俺の選択さえ、掌の上で踊っているに過ぎないのかもしれない。

「これだけの存在がこの時代に来ることを許したということは、未来は俺達が生き延びることを望んでいると思います。特に、リベリオが生き延びることを」

 リベリオは、先程から愕然としたように棒立ちになっていた。

 視線を向けると、あぁ……、と気の抜けたような声を出す。

「すまない。我が国には、護りとなる神がいない。ロアの言葉は、今まで書き写してきた遠い昔の神話のようで……。それに、生を望まれていると言う事が、とてつも、なく」

 嬉しい。彼は小さくそう呟いた。

 起き上がったニコが、立って彼の胸に両脚を当てる。べろり、と舐めたのは彼の頬だった。

「ニコ。君も、俺のような者が生き延びることを望んでくれるかい?」

 アォン。と鳴いた声は、勇気づけるように弾んでいた。

 べろべろと綺麗なかんばせを舐めたくられても、リベリオは顔をくしゃくしゃにしてニコを抱き返す。

 サウレ国王は、眉間の皺を緩める。

「確か、ナーキアの一件でも、人質を背負って駆けたんだったか」

「結界を破ったり、道案内をしたりと大活躍でした」

 そうか、と呟くと、彼は両手を広げた。

「ニコ。吾も励ましてくれ」

 ねだられた犬はリベリオの腕から抜け出すと、サウレ国王の胸に飛び込んだ。

 べろべろとやっている姿を不敬ではないかとはらはらしつつ見てしまうが、二人の関係は和やかだ。

「サーシ課長にも、黙っていてすみませんでした」

「構わないよ。何となく神殿関係の存在だろう、と予想はしていたから」

「へぇ。ニコが神様だって、分かってました?」

「分かるわけないだろう? 見た目はともかく、神にしては人が好きすぎる」

 ルーカスが、ニコは善悪がまだ分からない、と言っていた。

 真っ白い状態で、人間達と触れ合っていたから、こうなってしまった、とも言えるんだろう。だが、俺はそれだけでもないような気がしている。

 身体は黒いが、脚先は白。ニコは、クロノ神の力をそのまま、黒のまま写した存在ではない。

 その存在は、国の頭に無邪気に跳びかかり、国の二番目が止めに入っている。

 平和な光景だった。今は、まだ。

「────明日から、忙しくなるね」

 サーシ課長が呟いた言葉に、俺は天を仰いだ。

 

▽2

 防衛課の人員を確認した所、俺達の計画には前回と同じく第二小隊が割り当てられた。

 第一の方はもともと結婚式の護衛として配備場所が決まっており、変則的に動かす事ができなかった為だ。

 話を聞いたシャクト隊長は、王宮を歩き回っている大型犬の素性を耳にすると、口をあんぐりと開けていた。そして、その日からニコに人を制する術を教え始めた。

 魔術学校との交流を隠れ蓑に、大型の魔力貯蔵装置の研究も始まった。

 主に指揮を執る事になったのはトールだ。ミャザにいる俺の親戚……ウィズにも声を掛け、技術を集めているらしい。

 並行して、ゴーレムの改良がウルカ主導で進められている。こちらは、元々、目出度い場ということで配備の予定があったものだ。

 だが、中の機能追加について、相手は知らない。新しい機能が増えれば増えるほど、有利が取れるはずだ。

「────ほんと、急に話が出た割には、皆よく動いてるよ」

「過去の経験が活きているな」

 今日のガウナーとの夕食の合間も、情報交換を繰り返す。その間、ニコは俺達の足元で、床に伏せ、耳を立てていた。

 全ての情報を聞き漏らさないよう、ぴんと糸を張っているようだ。

「そうだ。君の耳には入れておこうと思ったんだが」

 珍しくガウナーは食事中、酒を入れていた。酒瓶から濃い紅色の液体をグラスに注ぎ込む。

 度は弱くないその酒を、彼は喉に流し込んだ。かっと喉を焼くような感覚が、俺の元にも届いた気がした。

「今回、モーリッツ一族の協力者は、慎重に選ぶ。加えて、結婚式へ参列させず、当日に身柄を拘束する者が出てくるかもしれない」

「……そうか。言い方が変で、引っかかってたんだよ。参加を控えさせるんじゃなく、当日、身柄を拘束、か?」

「ああ。事前に呼ばない、と言えば疑っていることが分かってしまう」

「内通者の目星が付いてるってことか」

 俺の言葉に、ガウナーは黙って酒を口に含む。沈黙こそが肯定だった。

 置かれた彼のグラスを持ち上げると、酒を注いで、煽る。思った通り、喉が削ぎ落とされるように焼けた。

「そ……っか……。一族から罰を受ける人間が出るってのは、複雑な気分だな」

「私たちの言い分を信用するのか?」

「信用する、どうこうじゃない。国としてそう処分せざるを得ない行動を取った人間がいるのなら、庇いようがないんだよ」

 他よりも、繋がりが強い一族だ。きっと、泣く者も多く出るだろう。

 最近は父がよく目を掛けていた所為で、そういった揉め事は起きなかった。処分が、責任問題として父にも及ぶかもしれない。

「内通者の名前を教えて貰うことは、できないんだろう?」

「ああ。君はサウレを守ってくれた。だが、ロアに情報を流すということは、容疑を掛けることにもなる」

 彼が心から、そう言っているのだろうと分かっている。

 分かっている筈なのに、不安の炎に炙られる。百あるうち百、信じ切れないのがお互い様だ、と突きつけられてしまった。

 俺も、彼も。別の人間であり、その真意を測れない。放り投げるように机の上を滑らせ、グラスを返した。

 ぱしり、と大きな掌に受け止められる。

「内通者の噂が、出回るかもしれない。そうしたら、君も疑いの目を向けられることになる。今まで以上に、身辺に気をつけて欲しい」

「……結婚式、できるのか?」

「他国への面子もある。中止、にはならないだろう。だが、結婚式で膿を出し、疑惑を晴らさねば、離婚を求められるようになるかもしれないな」

 酒を口に入れたガウナーは、俺の前で中身を揺らす。

 グラスを受け取って、半分を口にした。強い酒だからか、頭がぐらぐらする。

「きつい酒だな。片付けたら、身体だけ洗って寝る」

「私もそうするかな」

 普段よりも口数少なく食器を片付け、身体だけを洗って寝る準備を整える。

 互いに酒が回っているはずなのに、あまりにも静かだった。

 ニコは普段のように甘えることなく、両肩を丸め、足元を付いてくる。寝室に入ると、敷物の上で丸くなった。

 寝台の上に上がり、眼鏡を外す。一気に視界がぼやけた。

 先に入ったガウナーは毛布を持ち上げてくれる。有り難く隙間に滑り込んだ。

「あんたが自棄酒なんて、珍しいな。今回は、そんなに難題か?」

「まあな。放り投げるつもりはないが、気が滅入ることもある」

 普段なら抱きつけば機嫌も直る、とくっついていくのだが、どうにも指先が痺れて動かない。

「ロア」

「なんだ?」

「君は私に、隠し事をしていないよな」

 脳裏に浮かんだのは、鋭い月の色だ。瞬きを増やさぬよう努め、しっかりと彼と視線を合わせる。

 何でも無いことのように、微笑みすら添えて、俺は滑らかに唇を動かした。

「してないよ。一族のことも、業務上でも、隠し立てするようなこともないしな」

「なら、いいんだ」

 そう、と彼は綺麗な色の瞳を閉じてしまった。

 胸がちくちくと痛んで、やり過ごせないまま眉を下げる。

「────おやすみ」

 酒が入ると、眠りが浅くなる。眠りが浅いと、夢を見てしまう。自分が眠るまで、伴侶に見守っていてほしかった。

 会いたくない男の残像がちらついて、必死に眠りを遅らせる。掴んだ相手の服が、手のひらの中で皺になった。

 

 

 

『遅かったな』

 低い声と共に、どぼん、と泉に落とされる。

 息が出来ることを反射的に思い出せず、呼吸を止めて水面に上がった。見えた岸まで泳ぎ、這いずるように地面へ腕を付ける。

「……クロノ! 何度も水に落とすな!」

『水が飲みたそうな顔をしていたであろう?』

 いつも通り、俺を嘲笑うように声を上げる。

 コン、と息を整え、泉の縁に座っている男から距離を取った。膝を抱え、体温を保たせるために身に寄せる。

 変わらぬ美貌は、月の光に似ている。浅黒い肌、艶やかな黒髪に、目はおそらく金眼と呼ばれる色だ。

 刃物のような美貌は、伴侶よりも棘がある。

「何で呼んだんだよ」

『定期的に問わぬと、忘れられるからな。特にお前は』

 彼は自らの唇に指を当てると、つい、となぞって見せた。

 かっとなって拳を握り締め、詮無い事だと力を抜く。

『最近、変わったことはあったか』

「何でもお見通しなんじゃないのか?」

 問いに問いで返しても、不敬という感覚が湧かない。散々こちらを振り回しておいて、丁寧に扱う気にもならなかった。

『我の力は強い。だが、我は時それぞれに在る』

「は?」

『別の時代の我なら、我の目を弾き出すことができる、ということだ』

「他の時代のあんたが、最近、今の時代の俺達をよく見ている、って言いたいのか?」

『ああ。だから、場面を継ぎ接ぎのように追う他ない』

 未来のクロノ神の中で、俺を見ている存在に心当たりがあった。

 俺の表情から読み取ったのか、彼は口の端を持ち上げた。

『そうだ。おそらく、お前に星を降らせた時代の我であろうな』

 ニコは自らの意思で未来から、俺達の元に降ってきた。だが、未来のクロノ神が許可しなければ、妨害もあり得た筈だ。

 そして、現代のクロノ神の言い分で確信した。ニコが俺達の元に、過去に遡ったのは、未来にいるクロノ神の意思だ。

 目の前に居る男は、苛立っているかのように指の先で草を毟る。はらり、と毟られた草は頼りなく地面に落ちた。

「じゃあ、あんたがその未来の方を弾き出せばいいだろ」

『未来の我は、力を分け与え、一柱の神を産むほど力を増している』

 へえ、と思わず声が漏れた。

 現代と未来のクロノ神がいるとして、未来のほうが力が上であるらしい。相手が神であることも忘れて、知的好奇心が頭をもたげる。

「何故、未来のクロノ神は力が強いんだ?」

『単純に国民か、領地が増えたのではないか』

「信徒が増えたから、ってことか」

『少し、ずれておるな。認識している者が増えたから、の方が近い』

 俺が首を傾げると、仕方ない、と言うように目の前の神は息を吐いた。

 だが、不出来な教え子を見る視線が向けられているあたり、切り捨てるつもりはないようだ。

『実体のないものが、同じ名で呼ばれるのは何故だ』

「多数の人間が、そう認識するから?」

『では。信徒ではない、例えば我を嫌っている者は存在の確立に全く影響しないか。答えは否だ。嫌っておる時点で、我を認め、信徒と同じ名か、同じ定義をした別の名で呼ぶであろう』

 ゆったりと座ったまま、ただ神は言葉を紡ぐ。

 低い声は、呪文の詠唱に似ている。人の声を真似たようで、感情による抑揚が薄い。しんとした空間で、その声から耳が離せなかった。

『多数の人間が、我という同じ像を結ぶ。好こうと、嫌おうと。白も黒も灰も同じく色は色、認識は力だ』

 一瞬浮かんだ悔しげな表情は、彼を人と錯覚させる。だが、その頭に手のひらでも伸ばそうものなら、腕が切り落とされるかもしれない。

 ぞわりと腕を寒気が伝って、無意識に撫でた。

「特に、変わった事はなかったよ」

 今日は、嘘ばかり吐く日だ。自分がろくでなしになってしまった気がする。

『伏せておきたい、ということか。まあよい』

 嘘を嫌う神には、嘘は通用しないらしい。だが、寛大にも雷は落ちなかった。

 彼は手の近くに落ちていた白い石を拾い、泉に放り投げる。水底は深く、石の色はすぐに見えなくなるだろう。

 ちゃぽん、と音がして、意識が途切れた。

 

▽3

 王宮での打ち合わせが増え、俺もシフも、サーシ課長も、何度も魔術式構築課と王宮を行き来する日々が続く。

 その日も、俺は魔装へ呪文を届けた帰りだった。職場へ近づいたところで、門番と、ニコを撫でている人影を認識する。

「サフィア」

「ああ、ロア。久しぶりだな」

 彼が持っている鞄には、本らしき厚みがある。今日も書庫へと出入りしていたのだろう。

 ふと、一族に内通者が、というガウナーの言葉を思い出した。ニコの様子を見るが、無邪気にサフィアの手のひらを舐めるばかりだ。

 俺を守ろうとするニコが、サフィアを拒否していない。何もかもを疑うのは気分が滅入っている所為だろうか。

「少し、一族のことで話したいことがあったんだが。王宮へ入った者には門番の同伴が必要でな、どうしたものかと」

「ああ、じゃあ俺が外に出る。どうせ昼休憩がまだだったんだ。飯のついででもいいか」

「助かる。俺も昼飯がまだだ」

 昼休憩が取れるか分からない日もあり、今日は昼食を用意してもらってはいない。職場に戻り、上司に休憩の申告をして、鞄を持った。

「サフィアが来ていたので、外で食べてきます」

「いいね。僕も一緒に行こうかな」

「それが、一族の事を話したいそうで」

「それだとお邪魔かなぁ。でも、ニコは連れて行ったら? 身の回りには、気をつけた方が良いよ」

 サーシ課長の言葉に、尤もだ、と頷く。

「そうします」

 職場を出て、門番に撫でてほしそうに転がるニコに声を掛ける。

「ニコ。昼食に出るから、ついてきてくれ」

「…………犬が同伴でも問題ない食事処はあるのか?」

 サフィアの問いに、以前休日に伴侶と行った店を挙げる。屋外に木張りの床と、席があり、犬が足元で寝そべっていても問題ない、と前に訪れたことがある。

 俺達は連れ立って、王宮の門から外に出る。

 ふと、視線を感じた。俺が向いた方向を、ニコも見る。ぴんと耳が立ち、方向を探るように動いた。

「どうした?」

 少し経つと、その気配は消えていた。俺は、視線と逆方向を指差す。

「いや。あっちだから、行こう」

 遠回りではあったが、店を知らないサフィアは大人しく付いてくる。

 道中は特に視線を感じることもなく、人通りの多い店の前を通って目的地に向かった。

 店に着くと、変わりなく屋外席があった。店員に犬がいることを伝えると、以前と同じく、外の木張りの床を犬が使ってもよいと言われる。

 用意してあった布でニコは脚を拭き、案内された席の下で丸くなった。

「軽い食事が多いが、足りるか?」

 言葉と共に、お品書きの紙をサフィアに手渡す。

「構わない。がっつりと食べられるような歳でもないし」

 彼は、海鮮を茹でたものと野菜をパンで挟んだ軽食を選ぶ。俺は中身が肉なものを選び、皿を二つと飲み物を頼んだ。

「サフィアは一皿で良かったのか?」

「ああ。仕事柄、魔術を使うことは多くないから」

 彼は、『世の中の奇妙なこと』の研究家だ。

 世間話をしていると直ぐに料理が到着する。腹が減っていた事もあり、手早く食べ物を口に入れる。

 ニコは水を椀に入れてもらい、ぴちゃぴちゃと舐めていた。

「それで、本題は?」

 皿が片付こうとしている頃、俺は本題を切り出した。サフィアは先に食べ終えており、口を付けていたカップをソーサーに置いた。

 いちど、視線が泳いだ。

「一応、遮音結界を使ってもいいか?」

「そっか。張っておく」

 最近は仕事柄、使うことが多い魔術だった。慣れた動きで結界を張ると、ニコは発動前にのそのそと結界の中に移動した。

 結界を破ろうとはしなかったが、明らかに発動の境界を視ているような仕草だった。

「俺が、実家と離れた王都で研究に没頭しているのは、ロアも知っているだろう?」

「ああ」

「最近、ナーキアで起きた事件の影響で、仕事が増えたらしい。実家に帰ってこないかと言われたんだ」

「だけど、サフィアだってまだ、研究したい事があるんだろう?」

「勿論だ。けど、研究が波に乗る前までは、仕送りをして貰っていた。忙しさが落ち着いたら戻れるかもしれないし……」

 彼はそう言って、いちど唇を閉じる。本人も、確実に戻れる、とは信じ切れていないようだった。

「何にせよ。母は今ケルテで領地関係の仕事をしていて、父と兄弟は自国の領地にいる。ロアの父君にまで領地運営を支えてもらっている状況で、俺だけが好きに研究をしているのも気分が悪いんだ。宰相閣下と英雄殿の結婚式が終わったら、領地に帰ろうと思っている」

「そ……か、寂しくなるな」

 キュウン、と足元でニコが声を上げる。サフィアはニコを見下ろし、唇を緩めた。

「ニコとも、さよならだな。……そうだ、借りていた部屋を引き払う都合で、手持ちの書籍で価値のあるものを書庫に寄贈することにしたんだ。その他に、廉価な書籍はまだ譲り手が決まってないんだが」

「じゃあ、屋敷の書庫で預かるよ。戻ってきたら、返すからさ」

 それからは普段よりもゆっくりと飲み物を楽しみ、店を出る。

 行きで使った道を通って戻ろうとすると、サフィアは不思議そうに最短経路までの道を指差した。

「こっちじゃないのか?」

「ああ……、そうだっけ」

 頭を掻きつつ、思考する。王宮を出てすぐの視線は気になったが、距離もあり、時間も経った。

 問題ないだろうか、と提案に乗ろうとしたが、ニコがふらりと行きで使った道へと歩き始めた。

「ニコ?」

 ニコはひとりの男性の元に駆け寄ると、ぶんぶんと尻尾を振る。男性はニコの姿を見つけると、わしわしと慣れた手つきで撫でた。

 以前、王宮の堀に落ちかけたのをニコに助けられた魔装技師がそこにいた。魔装技師だけあって体格も良く、王宮の魔装課にも出入りしているのをたまに見かける人物だ。

「こんにちは、ベイカーさん」

「どうも」

 作業着姿のベイカーさんは、今日は仕事帰りであるらしい。彼は自身で事務所を持っている魔装技師で、組織に所属してはいない人だ。

「ちょうど良かった、相談したいことがあったんだ。……サフィア、付き合ってもらうのもあれだし、ここで別れるか」

「ああ。時間を取ってくれてありがとう、またな」

 サフィアは手を振ると、自分の家へ向かって歩み去った。

 ベイカーさんへ視線をやると、彼は問題ない、とでもいうように道の端に移動する。ニコは会えた事が嬉しいのか、足元をちょろちょろしていた。

「それで、相談ってのは?」

「うん。ベイカーさんの仕事に余裕がある日、王宮の魔装課の手伝いをしてもらう事はできないか? 勿論、俺から給金を払う」

「寒さの厳しい時期は過ぎたので、大丈夫、……ですけど。手伝い、ってのは具体的に何を?」

 周囲に見えない位置で、魔術式を綴った。ベイカーさんは俺の手元に気付いたようだったが、平然とした表情を保つ。

『魔術学校の学生を受け入れて、魔装課で大型の魔力貯蔵装置の作成をするんだ。その手伝いをしてほしい』「魔装課が忙しいらしくてさ。助けてやりたくて」

 俺と、ベイカーさんの耳には両方の言葉が届いたはずだった。そして、周囲には魔術装置について喋った声は届かなかった、だろう。

 彼は己の耳を触ると、俺に目配せをした。

「仕事に入れる日は多くないかもしれませんが、そうじゃない日はあいつを寄越します。簡単な作業ができるくらい仕込んでいるので」

「助かる。詳しい話は……」

「午後は空きの予定だったので、このまま王宮に行きましょうか」

 彼は通信魔術を起動し、同居人であり、同事務所の魔術師でもある人物へ連絡を入れる。そして、俺の近くに歩み寄った。

「すみません。少し部品を調達したい店があって、時間はかかりませんので、王宮に行くまでに回り道していいですか?」

「いいよ」

 途中で店に寄り、小さな螺子をいくらか購入しているのを見守った。店の買い物はすぐ終わり、それからは行きに使った道を通って王宮に戻ることになった。

 帰り道は、監視されているような視線は感じなかった。それに、体格の良いベイカーさんが近くにいれば、尚更、人も避けて通る。

 ニコが前を歩いていくのを、ベイカーさんが足を上げて通り越した。幼い犬は面白がって彼の足に纏わり付く。

「ごめんな。ニコが。会えたのが嬉しくて堪らないらしい」

「構いませんよ。こいつには恩があるので」

 王宮に帰り、魔装課とベイカーさんの手伝いについて相談する。

 結婚式に合わせて、会場で使う魔術装置の補修にも追われていたようで、あちらは両手を挙げて賛成、とのことだった。

 ガウナー経由で王宮への長期間の出入りが出来るよう処理してもらい、俺は給金の相談をする。提示された金額は、かなり良心的に思えた。

 働いた時間を記録してもらうよう頼み、あとは魔装で取り纏めをしているトールへ任せた。

 俺はそのまま魔術式構築課へと帰る。職場の扉を開けると、中は人でいっぱいだった。

「ウィズ、シュタル。……アルヴァも」

 新婚旅行に行ったミャザで一緒にゴーレムを作った魔装技師のウィズと、その友人であり、ミャザ魔術小隊に所属するシュタルがいた。

 そして、近くにはケルテともうちの国とも隣国である……マーレの王宮で魔術師として勤めているアルヴァに、マーレの魔術師達がいる。

「ようロア。久しぶりでもないけど、久しぶりー」

 ウィズは立ち上がると、俺の前に立って手のひらを差し出してくる。手を取ると、ぶんぶんと上下に動かした。

 反射的に窓の外を見ると、ゴーレムであるアンナもいる。

「結婚式はまだ先なのに、悪いな」

「準備に人手が要るんだろ、親戚のよしみで安くしとくよ。魔力貯蔵装置、だっけ。ゴーレムの共同研究もだけど、新しい装置の手伝いも頑張るな」

「シュタルも」

「はい。僕は結婚式の警備に向けて、ゴーレムを使った実戦訓練を頑張ります」

 二人は連絡事項だけ述べると、魔装に挨拶してくる、と挨拶も早々に職場を出て行った。

 俺は、アルヴァの方へと視線を向ける。

「アルヴァも、わざわざ早めに来てもらって悪い」

「いえ。結婚式の手伝いをすることで、学ぶことも多いと思いますので、上も大喜びでした」

 アルヴァは部下であるヘルメスの親戚で、こちらもかなりの魔術実験狂だ。己の長い髪の色も、実験の失敗によって失っている。

 うちの国では髪色を失うことでルーカスと比較されやすく、祖国には居づらくなってしまった。結果、隣国であるマーレの魔術部署で働くことになった経緯がある。

 国王襲撃事件の後、恙なくマーレ国王夫妻の歓迎式典は行われ、いまも国家間の関係は良い。結婚式以前に魔術師を派遣してくれ、更に警備用の魔術式の改善を手伝わせてもよい、という大盤振る舞いだった。

 あちらの国としては、魔術の研究が進んだうちの国の知識を吸収したい、という意向があるらしいが、それを差し引いても単純に人手が多いのは助かる。

 承諾の返事には、上司と二人で手を握り合ったものだった。

 残りの二人とも挨拶を交わし、早速、あちらが興味のあるらしい結界の改善に取り組んで貰うことにした。

「悪いな、アルヴァ。狭くて」

「そんなことは…………、ありますね」

 流石に否定はできなかったようで、会議用に設けられている椅子にちんまりと座っている。

 俺はあとの事を結界を専門にしているフナトに頼み、自分の席へと戻った。人が揃い始め、歯車が回り始めている感覚だ。

 転がり落ちた先は見えない。それなのに走るしかない。手元にあった書類を引き寄せ、目を通し始めた。

 

▽4

 王宮で高位の貴族と出遭う時、ひそり、とやられているような感覚が増えた。思い至ったのは、ガウナーが警告していた言葉だ。

 モーリッツ一族に件の反国家組織への内通者がいるのでは、と噂が回れば、俺に対しても疑いの目が向く。

 命懸けで庇った相手を裏切る者がいるのか、と不思議に思うのだが、他人の考えは分からないものだ。

 ガウナーとの時間が取れず魔力が不安定な上に、心理的にも追い詰められては敵わない。その日も、苛々を仕事にぶつけるように魔術機の釦を叩いていた。

「代理ー。魔装が、昼飯いっしょに食べませんかー、って」

 昼休憩の時間になるなり、シフが声を掛けてきた。いつも通りの部下の声に、毒気が抜かれる。

「どうせ食いつつ打ち合わせでもするんだろ。行きまーす」

「ありがとうございまーす。食べる空間がどっちの職場にもないんで、外なんですけど」

「フナトも来る?」

「はぁい、いくつもりですー」

 結界の展開をフナトに頼むと、快く引き受けてくれる。

 魔装と打ち合わせをしたい人、と、一緒に飯を食べたい人、で希望者を募ると、室内にいた全員が参加することになった。

 物が積んである辺りから広い敷布を取り出し、抱えて外に出る。

 魔装は昼休憩の時間に入る前に出てきたのか、ぞろぞろとでかい装置を抱えた一団がこっちに向かってきていた。

 一団の端っこに、伴侶の姿を見つける。誘蛾灯に向かう虫のように、ふらふらと近づいた。

 ガウナーもこちらに気付いたのか、早足で歩み寄ってくる。

「……──ぁ、っと。…………どうした、ロア?」

 つい、その広い胸に飛び込んでしまった。頭を撫でられ、涙が滲みそうになるのを堪える。

 ずっと、この腕の中だけで過ごしていたい。

「…………魔力が乱れて気持ちわるい」

「ああ。私もだ」

 傾いだ顔が、頬に触れる。ほんの僅かな接触であったが、俺の波はふわんと跳ね上がって、普段の波を取り戻した。

 我に返って腕を放し振り返ると、魔装の一団は俺達を追い抜き、魔術式構築課と合流していた。

「これから外で飯の予定なんだけど」

「ああ。私も参加することにしたんだ。進捗を把握しておきたくて」

「そっか、嬉しい。フナトが結界を張ってくれるらしいから、安全だと思う」

 そう言った瞬間、足元にふさりとした感触が纏わり付いた。ふわん、と口元を緩める。

「ニコも、守ってくれるってさ」

「それは頼もしい」

 ガウナーの足にも擦り寄ったニコはご満悦だ。

 くっついてくる存在を蹴らないよう注意しながら移動し、二人して昼食の輪の中に加わった。敷物の上に腰を下ろし、自分の昼食を広げる。

 魔装課の面々が運んできたのは、大型の魔力貯蔵装置の試作品のようだ。当日は会場の特定の場所に設置しておくつもりらしい。

 それと同時に、持ち運び可能な貯蔵装置も開発しているとのことだ。

 元々はトールが飼い猫の首輪に仕込もうと設計した、携帯型の魔力貯蔵装置が元になっている。

 大規模化して設置しておくのは勿論だが、小型のものなら持ち運んで貰った方が、と案が出たことにより並行した開発が始まっていた。

「ロア代理。こっちは携帯型の試作品です。どうぞ」

 魔装課のトールに差し出されたのは、掌大の金属に包まれた装置だ。受け取りはしたものの、中から流れてくる魔力に眉を寄せる。

「俺、他人の魔力は割と駄目なんだけど」

「あぁ……。じゃあ、シフ、これ試験を頼む」

 俺はそのまま装置をシフに渡した。受け取ったシフは、装置を見下ろす。

「中身、誰の魔力?」

「俺」

 手を挙げたのはトールだった。シフの表情がわずかに緩む。

「おれも、他人の魔力は割とだめなんだからな。……まあ、いいけど」

 装置の蓋を開けると、一回り小さい魔力を通すための端子が設けられていた。シフは躊躇いなく手のひらに押し付ける。

 魔力が移っていく間、待ってみたが、シフは首を傾げた。

「供給が遅くないか? 戦闘中の補給にしては時間掛かりすぎだろ」

「そんなもんじゃないか。供給に時間が掛かるのは当たり前だろ」

 魔力の貯蔵は、設けられた端子に掌を押し付ける事で行う。装置に設けられた釦を押し、供給に切り替えて掌を押し付ければ、魔力が使用者に移る、といった仕組みらしい。

 確かに、シフが言うようにあまりにも時間がかかりすぎだ。

「まあ、魔術師って後衛だし……? だよな……?」

 俺も含め、その場にいた数名が首を傾げた。

 基本的に魔術師は後衛、なのだが、国王襲撃事件も、ナーキアの誘拐事件も、俺達は完全に前衛として突っ込んでいた。

 隣で聞いていたガウナーが、食事を一休みしてこちらに視線を向ける。

「皮膚以外の方が速いだろうに」

「へ?」

 俺が声を漏らすと、ガウナーはトン、と唇を叩いた。

「魔力は粘膜の方が濃く混ざる、んじゃなかったのか? 端子の素材も、薄くすれば魔力が通りやすいかもしれない」

「あー……。そっか。シフ、やってみてくれるか」

 装置の口の部分を綺麗な布で拭い、シフの唇に押し当てる。

 少しのあいだ供給を進め、部下は唇を離した。

「段違いに速い。こっちならまだ実用の余地があるかも」

「成程な。じゃあ、端子の素材も、強度があって薄い素材に変更してみるよ」

 シフがトールに装置を返すと、そのまま平然と唇に押し当てているトールの姿があった。

 実際に自分で供給の速度感を確かめたかったのだろうが、シフの眉は微妙そうに曲がる。

「携帯型は、魔力の供給者を選定しておかないとな。魔力相性もあるし、どう考えても間接なんとかだし」

「それ! それ! すっごく複雑です!」

 部下の言葉に、トールが携帯型のそれに唇を当てたまま、にたりと笑った。あからさまにからかうような態度に、シフから引っぱたかれている。

 二人が戯れている間に、俺は弁当を食べ進める。

 フナトの結界術が発動している所為か、周囲は静かだ。誰の視線も届かない場所が、あまりにも心地よかった。

「大型のほうはどう?」

 そう尋ねると、トールは実際の装置に視線をやる。

「実際はあの装置を複数個、設置するつもりなんですが、一通り動くものを二台持ってきました。昼食の後、二班対抗の撃ち合いついでに試用してみようかと」

「おお、楽しみ」

 お互いの課題や進捗、人員の調整を兼ねながら食事を終え、しばし休憩を取ってから対抗戦の班分けを始める。

「黒と白で別れるか。班長は……」

 サーシ課長に視線をやると、にっこりと笑って俺とアルヴァを指差した。

「ロアくんが黒、アルヴァくんが白で班にしよう。マーレの魔術師は全員アルヴァくんの方に。加えてニコとシフくんも白班に入れよう」

 ニコがあっちにいったということは、結界は叩き割られる前提で動く必要があった。

「じゃあフナトがこっちな。ウィズとアンナもくれ」

 結界を張れるフナトと、ゴーレムとの共闘に慣れたウィズを指名した。ウィズは魔術師としても魔装技師としても優秀で、模擬戦でも良い動きをしている。

「そうだね。じゃあウルカくんとシャルロッテが向こうに行こうか」

 ゴーレムであるアンナ、シャルロッテとその操縦者は平等に班に振り分け、その他の面子も上手く二等分する。

 トールも割り振ろうとしたが、本人が辞退する。

「装置の動作確認と、使用時の全体の動きを見たいので。折角なら、護衛戦にしましょう。宰相閣下が黒班に、リベリオ王子が白班に守られてください。護衛対象に先に触れた方の勝ちでどうですか」

「そうだね。じゃあ僕は白班に入っちゃおう」

 げえ、と俺が言うと、サーシ課長はけたけたと笑った。ガウナーは、問題ない、と頷き返し、リベリオは面白そうに唇を持ち上げる。

 広い庭で、それぞれの班に分かれる。個々の動きの傾向を見るため、作戦の相談時間はあえて設けなかった。

「では、自班で守っていない方……宰相閣下、もしくはリベリオ王子に先に触れた班が勝ち。あまり殺傷能力の高すぎる魔術は、いい感じに控えていきましょう」

 魔術が他に漏れないよう、外部から中が見えないよう張った結界は、トールが魔力供給を引き受けてくれた。

 風の毛布が使える事もあるが、魔装技師にしては魔力が多く、魔術も上手いらしい。実戦時のシフの魔力は彼に担って貰うのが良さそうだ。

「始め!」

 

▽5

 地面を蹴って突っ込むと、見られていたらしいサーシ課長に杖で殴り返された。両腕で受け止め、距離を取る。

「みんなが魔術詠唱する前に、一人落とそうとしましたね……!」

 シフの文句に、ちい、と舌打ちする。

「当たり前だろ」

 初撃を弾かれたのなら、と更に引くと、代わりにアンナが前に出た。だが、相手もシャルロッテを動かし、お互いの両手で組み合う形になる。

 じりじりと拮抗している中、急にアンナの腹から上下に分かれた。

 下半分がシャルロッテの足を掬うように体当たりをする。ガッ、と金属音が鳴った。

「分解しやすく改良されてるな」

 シャルロッテを操っているウルカの声がする。ふふん、とウィズは胸を張った。

「ついでにこれも食らっとけ! 『汝が脚は雷光を運ぶが如く、この一時翼を持つ』」

 ウィズの魔術は自身ではなく、シュタルに対してのものだった。

 魔術を受け止めたシュタルはシャルロッテの片足にしがみつくと、そのまま引き倒そうと力を込める。

 アンナの操作と並行して、ぼこすか魔術を撃つのがウィズの嫌なところだ。

「あー! やぶられたー!」

 声の方向に視線をやると、フナトの張った結界を、ニコがパリンパリンとやっている所だった。以前よりも、割る速度が増した気がする。

 現状、結界を張る速度が追いついているが、それにしても結界を展開する度に割られるのは心に来る。

 肉体強化魔術の展開を終え、再度、地を蹴る。サーシ課長にはお見通しだったようで、また前を塞がれた。

 とはいえ、全力であろうと俺に分がある筈だった。軽めに吹き飛ばそうと、拳に力を込める。

 その瞬間、サーシ課長はぱっと杖から手を放す。叩き込んだ拳は、手のひらに受け止められ、流れるように地面に転がされた。

「…………あれ?」

「あはは。肉体強化は、術者の体術があってこそ、だよ」

 杖なしに走れはしないと聞いていたが、身体の発条は健在らしい。ばっと立ち上がり、距離を取ろうとする。

「『地は杯より積み上がる。水は宙に満ち、林檎は地に腐り落ちる』代理、お覚悟です!」

「う、わ……ッ!」

 シフに明確に狙われていたらしい。身体にずんと重たい物がのし掛かった。全身に負荷を掛けられ、体勢を崩す。

 どうしたものか、と考えていると、後方から声が聞こえた。

「我が向かうべき道に立つ者よ。──────……」

 詠唱のはじまりと共に紡がれたのは、歌だった。

 奇妙で、魔術の波形を叩き壊し、びしびしと肌を叩くような歌。それが、四方八方から聞こえてくる。

 うぁん、と波形が重なり合えば、冷や汗が滲むほど心地が悪い。一定時間を過ぎると、吐き気が込み上げてきた。

「エウテル! 何だこれは」

「何したんだよ、結界から延々と音が聞こえる!」

 魔術師である味方からも非難囂々で、あのフナトがエウテルの襟首を引っ掴んで振り回した。

 戦闘は一時休戦となり、審判をしていたトールが歩み寄ってくる。

「最初に、試合範囲として外界と切り離すために張った結界術式が、別の術式に浸食されているみたいです。合間に訳の分からない文言が書き込まれてて」

「最初、静かだと思ったらお前……」

「いやあ。実戦でどれくらい使えるか試したくて、やっちゃったっす」

 本人はけろりとしたものだ。フナトからエウテルを譲り受け、ぶんぶんと振り回す。途中で諦めたのか、魔術は解除された。

「妨害できるほど他人の術式への理解がある事自体は素晴らしいことだが。次は、他人の術式を浸食しはじめたか」

 はあ、と息を吐き、浸食された術式をフナトに張り直して貰った。いちど術式が書き換えられると、再構築の方が早いらしい。

 つまり、一度、重要部を浸食された術式は、いくら時間を掛けて組み上げた式であっても使い物にならなくなるということだ。

「エウテル。これ実戦時に相手の結界、浸食できたりしないか」

 提案すると、部下は想定していた、というように頷く。

「勿論やるつもりっす。相手の結界の中でだけ、妨害魔術が掛かるようにしてやろうかと。そうしたら味方に、記述式しか使えない、って縛りがなくなるんで」

「うげえ」

 近くにいたシフが両耳を押さえ、肩を丸める。魔術師として、あんな歌を聞かされ続ける相手には同情してしまうかもしれない。

 トールが仕切り直し、再度、試合の始めの位置についた。

「再度、始め!」

 掛け声と共に、ニコとシャルロッテが突っ込んできた。フナトが結界を張って応戦し、アンナがシャルロッテの豪腕を受け止める。

 ニコがフナトを封じ続けているのも、敵側とはいえ有難い成長だ。力ある魔術師をひとり、完全に押さえ込んでいる。

 そして、ニコと相対するフナトも同様だ。

 結界が切れた一瞬、彼はニコからの攻撃を避けている。学生時代、酷い苛めを受けていたと聞いた。あの動きは、彼の悲劇の副産物なのだろうか。

「シフ、お返し! 『地は杯より積み上がり、水は宙に満ち、林檎は地に腐り落ちる』」

「にたにたしてんじゃ……、うわッ!」

 シフが地面に倒れたのを横目に、杖で殴りかかってきたサーシ課長の一撃をいなす。今日は、上司はやけに魔術を制限している。

 午後、魔術を使う予定があるのだろう。体術ばかりでも圧してくる相手を厄介に思いつつ、鋭く鳩尾めがけて放たれた拳を受け止めた。

 脚を狙えば簡単だが、彼は俺がそうしないことも読んでいる。穏便に制圧する事を狙うのは、死者を出すことより難しいことだ。

「仕方ない……! 『四隅は全ての矛を許さず。力は鏡映しに内にのみ向けられるべし』」

 封じられたサーシ課長は動きを止めると、結界の表面に拳を叩きつけた。展開した結界は、内側にいる人物を外へ出さない類のものだ。

 内部から杖を使って、がっこんがっこんと容赦なく殴りつける様に引きつつ、エウテルに声を掛ける。

「エウテル。この結界の内部にさっきのやつ」

「はいっす!」

「ちょっと……!」

 中からサーシ課長が止めるよう言っているが、エウテルは楽しそうに俺の張った結界術を浸食する。

 中では、先程の気持ち悪くなる歌が響き始めたことだろう。

 大将を抜け、俺がリベリオ王子の間近に迫ると、前に黒い影が走り込んできた。

 ニコだ。

「フナトは────!?」

「あ。倒れてます」

 背後からエウテルの声がする。

 フナトが結界術で押さえているかと思いきや、ニコが相手を引き倒してこちらに駆けつけたようだ。

「グゥ……、ォ……『ウォン────!』」

 ニコは唸りを上げた。初めて聞くような、白から黒へと移り変わる音だった。

 太い手足が地面から発条を使い、俺に突進する。強化魔術を使った身体で受け止めるが、あまりにも衝撃が強く。重い。

 体勢を崩しかけた所に、声が届く。

「風よ跳ねろ!」

 ウィズの声を合図に、背が風によって柔らかく受け止められる。自力で身を起こし、一度引いたニコと向き合った。

 ニコの背後、リベリオ王子の周辺から妙な気配がする。神殿で味わったあの気配だった。神気、そう呼ばれるものが、いびつに組み上がって王子を囲んでいる。

「なんだ、あの結界……?」

 俺の言葉に、他の戦闘が全て止まった。これは、神術による結界と似たものだ。

 その異質さに気付き、瞬時に声を張り上げる。

「試合、一旦やめ! 妙な結界が発生した!」

 全員が攻撃の手を止め、魔術師はリベリオ王子の周囲に近づいてくる。

 結界に駆け寄り、触れたり魔術を掛けたり、と調査が始まった。

 ニコは消し方が分からないのか、リベリオの周囲をうろうろしては、悲しそうにキュンキュンと鳴いている。

 近くにいたフナトが頭を撫でてやると、ごめん、と謝るように腕を擦り付けた。地面に倒したことを詫びているようだ。

 俺達に近寄ってきたガウナーが、混乱している様子を見て声を掛ける。

「このままだと、リベリオがその結界から外に出られないな。助けになるか分からないが……ルーカスも呼んでこよう」

「ああ。頼む」

 神術による結界を受けたリベリオ王子は、ぽかんとしたまま結界に触れている。彼が掌を当てた場所に、ニコは結界越しに頭を当てた。

 そして、その場に寝転んで腹を見せる。

「はは。元気づけようとしてくれているのかい?」

 ニコは起き上がると、再度ごめん、と謝るようにリベリオが掌で触れた場所を舐める。

 神力による結界が消えない間、リベリオ王子も芝の上に座り、結界の調査をしている面々と談笑を始めた。

 敷布を広げ直して待っていると、想像よりも早くルーカスが到着する。

 彼はいつも通り、大神官としての仕事中だったようだ。陽光で白銀に輝く髪は艶やかに流れ落ち、きっちりと神官服を纏っていた。

「こんにちは。丁度、王宮にいましたので……、って。何をしているんですか」

 ひゃんひゃんと縋り付くように声を上げ、ニコはルーカスの手の中に飛び込む。彼は丁寧にニコを撫でつつ、結界に視線を向けた。

「あぁ、確かに妙な結界ですね。解除を試みますが、……見られると困りますので、ロア、と、ガウナー以外は魔術の遮蔽結界の外に出てください」

 大神官からの指示だ。みな素直に結界の外に出ていく。さて、とルーカスは結界を見つめた。

 やんわりと縋り付く犬を退かし、リベリオ王子に歩み寄る。

「貴方は、ニコの事情を聞いたんでしたね」

「ああ。だから、気兼ねなく力を使ってくれて構わない」

 リベリオの返事を合図に、白い指が結界の境に触れた。

 ルーカスは両目を閉じると、ぺたりと手のひらを当てる。しばらくして目を開くと、一歩引いて腕組みをした。

「どうした?」

「断られてしまいました」

「……クロノ、神にか?」

「はい。面倒だと、ニコにやらせたほうが早いそうです」

 ルーカスはニコの上半身を両手で持ち上げ、結界の近くまで運ぶ。運ばれた当犬は、リベリオとルーカスの間を交互に見る。

 運ばれても困る、というような、絶妙な表情が浮かんで見えた。

「貴方がやったんですから、解けますよ。結界を組み上げた瞬間の事を思い出して、……そうしたら、時計を逆回り」

 ルーカスの声に導かれ、周囲をクロノ神とは違う種類の神気が漂い始める。

 夢の中で触れたそれよりも、あたたかい。ニコの本質は、あの漆黒と全く同一ではないのだ。

 ピシ、ピシ、と結界に罅が入る。

「ゥォ、…………ウ、ォ……『────!』」

 パリン、と硝子が割れるような音が、耳の奥に響いた気がした。

 ぱらぱらと神気として固まっていたものが、周囲に飛び散る。雪解けのように、欠片は神気となり、いちど存在を主張して掻き消えた。

 リベリオは周囲を見回しながら、一歩、脚を踏み出す。

「消えたようだ」

 ニコはだっと閉じ込めてしまった相手に駆け寄り、何度も悪かった、というように頭を擦りつける。

 勢いよく地面に転がって、また腹も見せた。

「君の謝罪は、腹を見せることなのかな」

 わしゃわしゃと腹を撫でられ、嬉しそうに芝生の上を転がる。大きな掌にもみくちゃにされてご機嫌な犬を眺めながら、ルーカスの近くに歩み寄った。

「なんで急に結界が?」

「守りたいと思って、無意識に結界を張ってしまったんでしょう。最近は、魔術の結界を破る訓練をしていたみたいですし、壁を作れば誰かを守れる、と学んだのではないでしょうか」

「成程な。ニコが張る結界って、神殿に張られてるものと似てるのか?」

 ルーカスは俺の言葉に眉を寄せると、大きく首を振った。

「力の源が違うので、今の所は何とも……。おそらく魔術は通さず、物理的な衝撃も通さない。クロノの力を源にした攻撃をしても、通りづらいかもしれません」

「ほぼ、人間には太刀打ちできない結界、ってことか」

「はい。ただ……」

 どさり、と芝生に倒れる音がした。数秒経って、寝息が耳に届き始める。

 俺達がぎょっと見守る中、ニコは芝生の上ですやすやと眠っていた。

「────あればあるだけ、力を込めてしまう。効率が最悪です」

 それから魔術による遮蔽結界を解き、ルーカスが結界を無効にしてくれた、と説明する。

 結界が発生した理由を聞かれたが、魔術が大量に発動した所為ではないか、と誤魔化した。ルーカスも、自分が王宮にいたから力が混ざってしまったかもしれない、と言葉を添えてくれる。

 眠ってしまったニコは、雪車を持ってきてもらって数人で身体を乗せる。

「いいなニコ。俺も寝たーい」

「代理は午後も働いてくださーい!」

 敷布を魔術式構築課の部屋の隅に広げ、その上にニコを寝かせる。午後を過ぎても眠りこけた犬は、屋敷に連れ帰って深夜になってから目を覚ました。

 元気に、遊んで、と強請る様子に、二人して安堵したのを覚えている。

 

▽6

 ニコが結界を発動して深く眠ってしまった時、ルーカスから『後日、神殿に様子を見せに来てほしい』と伝えられていた。

 ガウナーの多忙さが気に掛かり、一人で行こうと思っていたが、伴侶も付いていくと言って聞かない。俺が休みの日に、ガウナーも半日だけ休みを取って神殿へ赴くことになった。

 神殿は白と緑に満ちている。人工物の白、自然の緑。人が歩く場所には石畳の床が設けられているが、手入れされた自然が広がる空間は、豊かな地面の色が見える。

 神殿の門を潜ると、俺達が来ることを予測していたかのように、ルーカスが待っていた。予想していた、というか、クロノから情報が齎されているのだろう。

 彼の姿を見つけると、ニコはだっと駆けてぐるぐると足元を回る。ころりころりと床に転がり、甘えた全開だ。

 俺達に対しても甘えん坊なところはあるが、ルーカスに対しては偶にしか会えないためか、更に勢いがあった。

「ロア、ガウナー。それと、ニコ。いらっしゃい、お待ちしておりました」

「どうせ待ってはいないだろう」

 昔からの友人であるガウナーはにべもない。

「ふふ。時間は短かったですが、待ちはしましたよ」

 ルーカスはしゃがみ込むと、ニコを撫でる。べろべろと舐めたくられようと、止めもしない。

 猛犬の勢いが落ち着いたところで、膝を伸ばして立ち上がる。神官服が汚れないかはらはらしてしまうが、当人が気にする様子はなかった。

「大神官室でお話ししましょう。どうぞ」

 先導する優美な姿に、ふらりと吸い寄せられるように歩き出す。歩いている途中、花壇に咲いた花の説明をしてくれた。

「クロノ、って。本質は農耕神ではない、んだよな?」

「まあ、そうかもしれませんし。そうでないかもしれません」

「なんで返事が曖昧なんだ」

 俺が尋ねると、ルーカスは顎に指を当てる。ふわりと風が吹いて、艶やかな長い髪を靡かせた。

「農耕神である、と国民が信じてしまっていますから。全くそうではない、とはならないみたいですよ」

「驚いた。人がどう思おうと、神は全知万能に在る、のではないのか」

 ガウナーの問いに、ルーカスの頭は更に傾く。彼にとっても、答えが難しい問いであるらしい。

「神は、全知万能、ですよ。です……けど、全知万能な神が複数いる、というのは、全知万能ではない、という証左ではないですか」

「それを、お前が言っていいのか?」

「まあ、私なら死にはしないでしょう。……クロノ神の本質は時。けれど、人は何故か言い伝えを違って、彼の神を農耕神として迎えた。きっと、これからも農耕神として祀られていくことでしょう。ならば、農耕神でない、とは言えませんね」

 行きましょうか、と話は切り上げられる。彼の言葉に思い出すのは、クロノが未来の本人に妨害を受けている、という話だ。

 未来のクロノ神が、現代のクロノ神が俺達の様子を窺う事を妨害している。きっと、ニコが来ることを容認したのと同じように、理由があるはずだった。

 長い廊下を抜け、大神官室へと辿り着く。部屋は以前と同じようにすっきりとしていて、中央にある机には椅子が三つ、添えられていた。

「すぐに、飲み物が来ますよ」

 彼が言い終わるか、といった頃に、扉が叩かれた。年若い神官が挨拶をして、手早く飲み物を机の上に並べ、部屋から出て行く。

 全ての未来が見えている事は、この一瞬だけを切り取れば便利なものだ。

「ね?」

「そこまで読めるって事は、ずっとクロノ……神と会話してるってことか?」

「会話……、と呼ぶには話しすぎて、よく分からなくなってしまいましたね」

 どうぞ、と薦められ、椅子に腰掛けて飲み物を手に取った。ニコは、たっ、とルーカスの元に近づく。

 傍に腰を下ろしたニコの頭を、彼は両手で抱き寄せていた。

「ん。……神気が乱れていることも、量が足りない、ということもないようです。随分、こちらの気に馴染んでしまいましたね。逆にあちらに帰ったら、戻すのが大変ですよ」

「あぁ……そっか。未来に帰ったら────」

 はた、と口に出して気付く。

 結婚式が終わったら、未来が意図された道筋に向かったら、ニコは未来に帰ってしまうのだった。

 隣に腰掛けているガウナーは、ゆるりと目を細める。

「こちらの神気を土産に持って帰ってもらうか。本当ならもっと、時間を取って別れを惜しみたいが、それも叶わない」

 伴侶の声の響きに、ニコはぴくりと片耳を震わせる。

 ルーカスの腕の中から抜け出すと、ガウナーの腕に頭を擦り付けた。

「……ああ。分かっているよ、ニコ。だから今日も、こうやって来たんだ。少しでも、一緒に時間を過ごそう」

 両前脚を持ち上げたニコは、ガウナーの膝に脚を揃えた。屈み込んだ頬をぺろりぺろりと舐め、普段よりも大きく、クゥクゥと鳴く。

 黙り込んだルーカスが気になって視線を向けると、赤い瞳をこぼれ落ちそうなほど見開いていた。

「ルーカス?」

 態度が気になって問いかけると、いいえ、と首を横に振る。ふわり、と笑みを浮かべ、表情を塗り替えてしまった。

「こちらに落ちてきた時には、ただ貴方達に会いたかった、と言うばかりだったのに。子どもの成長は早いものだな、と」

「あんたがそういう冗談を言うの、珍しいな」

 冗談を言うときはもっと大袈裟に表情を作る癖に、今日はそれも上手くない。

 ガウナーがニコに対し、ルーカスの元へ戻るよう言うと、素直にとことこ歩いていく。腕の中に戻り、また体調の確認が始まった。

 結界を張っても、上手く力を使えば倒れるような事にはならないらしい。力を込めれば込めるほど強い結界が出来上がるが、人が破壊できる程度の力を遮れば良いのだから、倒れるほど力を込める必要もないそうだ。

「そういう力の使い方、ルーカスがニコに教えたりできないか?」

「私は人でしかないので……。まあ、軽く試してみましょうか」

 俺達がお茶を口にしている間にニコの力の調整を終え、飲み終えると大神官室から出る。廊下を通って神殿を出ると、すこし歩いた後、迎賓館と呼ばれる建物へと案内された。

 この建物は神殿、および王宮の敷地に隣接しているが、神殿の管理ではない。だからこそ、厳格に運用する必要もなく、交流の際にはここで飲食物が振る舞われ、歓談の時間が設けられる。

 迎賓館内、一番おおきな広間には覚えがあった。

 結婚式の中で、後半に来訪者との交流のため、宴に使う予定の場所の筈だ。建物内の部屋の配置は、頭に入れてある。

「ここ、結婚式で使う場所だ」

「はい。ある程度は、本番と似た場所で稽古をつけた方がいいでしょう」

 ルーカスは広間の中央に立つと、ばさりと神官服の裾を払った。足元にあったらしい留め具と、腕にあった釦もいくつか外していく。

 その場で前屈を始める様子は、動き慣れた人物のそれだ。

「そういえば、ガウナーもなんか、殴り慣れてるよな」

「人聞きの悪いことを。……三人で学生時代に少し、やんちゃを、な」

 ガウナーは広間の壁に背を預けた。俺も、隣で同じように力を抜く。

 名を呼ばれたニコは何も疑う様子なく、ルーカスの元に近づいていった。

「では。ニコ、私と勝負をしましょう」

 彼は懐から、一枚の白い布を取り出す。ひらり、とその場で振ると、ニコの瞳がきらりと獲物を追う輝きを宿した。

「これを貴方が奪ったら勝ち。貴方が負けを認めたら負けです。いいですね?」

 星の犬は、アォ、と小さく鳴いた。

 ルーカスは四角布の端を摘まむと、ひらり、と振る。

「では、始め」

 静かな声だったが、一気にニコは距離を詰める。じり、と床の感触を肉球で確かめ、そのまま跳んで躍り掛かった。

 ひら、と白い指先で操られた布が、牙の端を掠めて逃れる。

「今。私を傷つけないように、手を抜きましたね」

 犬の瞳が細められた。

 ああ、図星だったのだ、と遠くで見ていた俺にも分かるような、あからさまな態度だった。

「ほら、もう一度どうぞ」

 床を蹴った体躯が、また麗人へと跳びかかる。牙を見せた猛犬に跳びかかられようと、ルーカスは平然と間近になるまで機を待ち、身を逸らす。

 ほお、と思わず声が漏れた。

「鍛えてるなあ」

「普段から農作業で身体を使うようだし。昔から、動きは悪くなかったな」

 ニコの口から唸り声が漏れる。

 段々と夢中になって布を追い始め、床に着地するなりまた跳びかかるようになった。だが、布地は咥えるすれすれを過ぎていく。

 後ろ脚がしっかりと床に着いた。助走から発条を使って、ほぼ目線が同じ高さまで跳ぶ。

「ちょっ……!」

 ルーカスが危ない、と止めに入ろうとした俺の腕を、ガウナーが引いて止めた。

 ニコが布地に触れる直前で、彼は手から布地を落とす。そうして、自らもしゃがみこむと、両腕で四脚獣の前脚を捕らえた。

 突っ込んで反動を利用され、そのままニコがぶん投げられる。神術も併用されたのか、大きな身体が宙を舞った。

 俺の指が持ち上がる前に、空中でぐるんと身体を捻る。脚を下に、理想的な体勢で、ニコは床に着地した。

 つい安堵してしまうが、投げ飛ばされた当の本人は、戸惑うようにキュンキュンと鳴き始める。

 子どもが混乱して、癇癪を起こしているような声音だった。

「『どうして避けるのか』って、貴方が跳び込んでくるからでしょう。当てたければ、相手の動きを最後まで見なさい。あと、肉弾戦だけで私を制するつもりでしょうが、神としての力を使わずに押さえつけられる程、弱くもありません。手加減だってしませんよ」

 言葉は容赦ない。言われた方も、離れた場所で聞いている俺もしょんぼりとしてしまった。

 はは、とガウナーは笑って、俺の肩を優しく叩く。

「ロア。ルーカスは口も強いぞ」

「勝てる気がしない……」

 ただ、一瞬、気圧されたニコは前脚で床を掻く。グルル、と喉が鳴った。

 魔術とは違う、力が渦巻くのが分かった。ぱち、と瞬きをする間、近くに漂っていた気配がニコに集まる。

 それらは一度、体内に取り込まれて波を変えた。

「ア……ォ────!」

 声の後半は、音にはならなかった。ただの、暴力的な波だ。

 全てを弾き飛ばすような渦を纏ったまま、黒い弾丸はルーカスの胸元に跳び込む。

 何かを殴打する音が聞こえた気がしたのに、耳には何も届かない。目が乾くほど、眼前の光景を凝視した。

「────まあ、当てられたとして。なまくらな力じゃ、相手に効くかは分かりませんけどね」

 ルーカスは腕を横にしたまま、ニコの顎を喰らい付かせていた。

 その時、牙に込められていた力が逆流を始める。逆位相に変質した波は、攻撃の意図を持って黒い毛皮に纏わり付いた。

 染み一つ無い白の人は、力を反転させ、脚を踏み込んで腕ごと身体を振る。ぶん、と空気を切る音が鋭く響いた。

 投げられた球を棒で打ち返すように、またしても綺麗にニコは空中へぶん投げられる。今度は受け身を取る余裕がなかったのか、取れないほどの衝撃だったのか。

 どっ、と背中から床に転がる。

 放り投げた方は、傷みに呻くこともなく、食いつかれた筈の腕を振って無事を示してみせた。

「何かを傷つけず、何かを守る事は難しい。私たちは、何をどれだけ傷つける事を妥協するか。社会の中で、程度を計りながら生きています。……いまは少し、難しいでしょうが。貴方がそれを捉えられたら、私に勝てますよ」

 ニコは床の上でころりと転がると、ぺたりと耳ごと床に伏せた。

 長く響く唸り声は、自分を伏せた相手ではなく、そうせざるを得なかった己に向けられているようだった。

 ルーカスは丁寧に白い布を畳むと、懐に仕舞い込む。

「ロア。これだけ暴れられるのなら、神気の具合は問題ないでしょう」

「……お、おう」

 美麗な笑みを浮かべられても、あれだけの強打を跳ね返した腕だ。ぞぞ、と背筋を寒いものが伝う。

 ルーカスはニコを立たせ、今度は布を使わない組み合いを始めた。動く腕は鋭く、猛犬すら、ふっと気を抜けば首根っこを引っ掴まれ、床に叩き付けられる。

 もし、彼が敵になったら。それこそ尻尾を巻いて伏せるしかないかもしれない。

 

▽7

 魔力貯蔵装置の改良を進めている最中、式で着る服が出来上がった、と連絡があった。

 同時期、魔術式構築課が式典用として纏うローブが新調されたという連絡が重なる。ガウナーと試着の日程を調整しようとすると、試着という名目で集まり、打ち合わせがしたい、と提案された。

 確かに、お互い当たり障りのない理由を付けては集まっているような状況だ。課内で時間を調整し、試着のためという名目で、皆で王宮内の一室へ訪れることにする。

 部屋はそこそこ広く、人の形をした型にきらびやかな服が着せられている。仕立師は服を持って部屋を歩き回り、試着の準備が進められていた。

 部屋には窓がなく、扉を閉じると、おそらく近衛魔術師が準備したであろう結界が発動されているのが分かる。

「ロア」

 俺の姿を見つけると、嬉しそうにガウナーが近づいてくる。周囲にいるのが見知った面子だけだからか、ぎゅむ、と腕の中に入れられた。

 もぞもぞと腕から抜け出して顔を上げると、背景に花でも舞っているような、きらきらとした伴侶の姿がそこにはある。試着の為か、普段よりも髪型もふんわりとしていた。

「君の着飾る姿を見られるのが楽しみだ」

「あー……、えっと。打ち合わせもするんだろ」

 そう言うと、彼は俺を腕から逃し、少し大きめの声を上げる。

「ああ。ここにいる仕立師たちは事情を知っている者ばかりだ。当日、動きやすいよう、武器を仕込めるよう、服の加工にも協力してくれている」

 ガウナーの言葉に、仕立師の中でも馴染みの顔が、こちらに向けて腰を折る。ぴんと伸びた背は、全て承知している、とでも言いたげだ。

「では、まずは魔術式構築課の皆さまの、式典用衣装から試着を始めましょう」

 俺以外の課員は、上に来ていたローブを脱がされる。服一式が用意されているらしく、各々が区切られた空間に入って、中で着替えを始めた。

 俺とガウナーも何着か試着があるらしく、服を脱がされ、てきぱきと着せ付けられ始めた。

 髪型はいくつも脱ぎ着するため変わりないが、服は当日着るほぼそのままだ。元々、腕や脚の曲げ伸ばしがしやすいように作られている。その上で、携帯用の魔力貯蔵装置が仕込めるよう、新しく隠し袋を作って貰った。

 服の内部には、耐衝撃の魔術式が縫い込まれている。魔術式構築課で組み上げた術式を、装飾性を持たせた上で裏地に仕込んでもらった物だ。

「これ、魔術式を整形して刺繍化したんだよな。なんか、普通に洒落て見える」

「それは良かった。翻った時に魔術式に見えないよう綺麗に形を崩せないか、という話でしたので、腕が鳴りました」

 急で悪かった、と謝罪し、区切られた空間から出る。丁度ガウナーも試着ができたようで、お互いに一揃いになっている衣装を見比べる。

 ガウナーは着られる衣装が幸せだと思えるほど、あまりにも見事に着こなしている。宰相という立場の堅さは鳴りを潜め、貴族としての顔立ちの美しさが前面に出ていた。

 ぱちり、と瞬きをするたび、青の瞳が金糸に縁取られる。立ち姿も優美で、完成された芸術品でも見ている気分だった。

「ロア……! 素敵だ」

 俺を抱き寄せようと腕を持ち上げ、すぐに腕を下ろす。流石に、試着中の衣装を駄目にする可能性に気付いたようだ。

 俺はゆっくりと歩み寄り、彼の衣装を上から下まで眺めた。肩が上げづらそうだ、と指摘すると、ガウナーも同じ事を仕立師に伝えていたらしい。

「お二人とも、服の装飾が気に入らない、という良くある文句を何もおっしゃられず。ただ、動きやすいかどうかばかり気にされて……」

 仕立師は苦笑し、俺達は気まずくなってお互いに視線を合わせた。

 脚あたりの確認のために部屋を歩き回っていると、魔術式構築課の面々も着替えを終えて部屋へ出てくる。

 ローブの裾には銀糸で刺繍が施され、中に着る服もかっちりと首まで詰まっている。下の服もすとんと綺麗に落ちており、靴も落ち着いた色味の上に、艶やかな光沢を放っていた。

 シフに近づいて、ローブの裾を引く。

「馬子にも衣装」

「そっくりそのまま返しますよ!」

 きゃん、と吠えた部下は、ふい、と視線を逸らして身体を動かしに行ってしまった。部下たちは、強化魔術を掛けた上で、広い室内の端から端まで全力で駆けている。

 ふと、気配を感じた。サーシ課長が俺の背に拳を突き出してくるのを、振り返って受け止める。

「何ですか」

「組み合いしようよ」

 え、と目を丸くしながら仕立師を振り返ると、両手で丸を作られた。そのくらい動く事を想定しているらしい。

「結婚式後は公共の施設への展示が予定されているので、今のうちに弱い場所は補強させてください」

「このひと、組み合いでも手を抜かないからな!?」

 大丈夫、との言質を取り、広い場所に移動して構える。サーシ課長は杖を近くにあった椅子に立てかけ、俺に歩み寄った。

 ふっ、と息が吐かれたかと思うと、鋭く拳が叩き込まれる。怪我している脚を振り子に、器用に反対側の脚を軸に体重を移動していた。

 服の裾で拳を受け止めるが、厚く、丈夫な生地は毛羽立ちもしない。魔力を通すと、内部の防御魔術の発動も確認できた。

「ふぅん、埋め込まれてる魔術式。……ちゃんと動作してますね、っと!」

「ね。……三回くらい。刺されても。生存できそ……よいしょっと」

 怪我して動きが悪いはずの脚で蹴り込んでくる爪先を躱すと、重心がぶれる。

 お互いに魔術は使っていないが、強化魔術を使っても上司の攻撃の突拍子のなさは変わることはないだろう。

「四回くらいはいけ、うわ。……るんじゃないですか、ね。リジェが医療魔術仕込むって」

「へえ。その子は、────信用できるひと?」

 ぴた、と無防備な彼の顔の寸前で、拳を止める。

 にんまりと笑った表情は、俺をからかうような、悪意のある嘲りを倣っていた。

「……ッ。北の国に住んではいますが、あちらの王宮とは関わりが薄いはずですよ」

「そっか。僕の負け。……あ。すみません、肩のところが────」

 サーシ課長は動きすぎて、繋ぎ目の部分を解れさせてしまったようだ。俺は服を見て貰おうとガウナーの元に戻る。

 だが、彼はいなくなっていた。

 きょろきょろと周囲を見ていると、出入り口の近くで伏せていたニコが、俺を見てクゥ、と鳴く。

 意味ありげに鼻先を向けた先には、扉がある。

「外に行ったのか?」

 わふ、と肯定するように返事がある。俺が少し扉を開けると、離れた場所にガウナーが立っていた。

 彼の前には、国家の要職に就く高位貴族がいる。

「────で、次の会議で……」

「だが、資料には……──」

 二人の間で交わされているのは、仕事の話らしい。

 聞こえてしまっているのも良くないな、と扉を閉じかけた時、『モーリッツ一族の件だが』という単語が聞こえた。

 扉を閉じようとした手が、無意識に止まる。

「……結婚は、お互いの家同士の結びつきでもある。結婚後に離婚したのなら、神託に背いたという事にもならないだろう。くれぐれも、慎重になるように」

 貴族の言葉に、ガウナーは普段通りの声音で返した。

 嫌みったらしい、というよりも、うちの一族と繋がりが出来ることを警戒するような、堅い声音だった。

 俺が、俺の一族が疑惑を受けることは、ガウナーにまで迷惑が及ぶのだ。まったくそのことを失念していたことにも、衝撃でぼうっと立ち竦んでしまう。

 ぽん、と肩に手が置かれた。

「なにしてんですか。代理も部屋の端から端まで走ってください」

「シフ……」

 立っていたのはシフで、彼の手で僅かに開いていた扉は閉じられた。両肩を掴まれ、ぐるりと部屋に方向を戻される。

 俺が足を縺れさせつつも歩き出すと、ぽつり、と背後で声がする。

「家同士の結びつきの前に、本人が望むから結婚するんでしょうに」

 部下の耳にも、同じ言葉が聞こえていたようだ。詳細は分かっていないようだが、離婚、を提案した相手に対し、怒気を顕わにしている。

「あ。あぁ……、そうかもな」

「あんたがそういう態度でどうすんですか!」

 部下はおかんむりで、部屋を端から端まで走らされた。二本目、と続けようとするので、文句を言うと、今度は組み手の相手をさせられる。

 ぜいぜいと荒れた息を整えていると、やがてガウナーが部屋に戻ってきた。

 意図していなかったとしても、話を耳に入れてしまった。気まずさと、胸に渦巻く感情を持て余しながら、伴侶に近づく。

「長かったな」

「ああ。次の会議の議題について話がある、と押しかけられてしまってな。少し、長話になってしまった」

 ガウナーはそれ以上の言葉を放つことはない。俺も、それ以上、問い詰めるつもりはなかった。

 問い詰めて、答えに口籠もられてしまったら、もう結婚すらできなくなる気がする。

「すみません。ロア様、ニコ様の衣装なのですが……」

「ああ。着けてくれそうか?」

 尋ねるまでもなかったかもしれない。仕立師の手元には、犬用に誂えられたらしい首回りを飾る品が握られたままだ。

 ニコは逃げはしないものの、ふい、と視線を逸らしている。

「俺が着けてみようか」

「お願いできますか」

 手渡された装飾品は、布で出来ており、リボンにフリルがあしらわれている。少し豪華な布製の首輪、といった程度で、衣装とはいえ、覆うのは首くらいだ。

 俺がニコに近づけると、ささっと避けられた。

「ニコ。これさ、結婚式で着けて貰いたいんだ。着けてくれると結婚式に華が生まれて、見てる人たちが嬉しいと思うんだよ」

 ニコは、クゥ? と疑わしげに首を傾げる。

 確かに、今まで必要な時以外は首輪をさせたことはない。なぜ必要なのかを言葉として伝えたこともなかった。

「ほら、このフリル、白くて細かく装飾されてるだろ。ニコの毛の色が黒だから、きっと映えるし、似合うと思う。俺も、これをしてるとこ見てみたいな」

 ニコは俺の目を覗き込む。俺が嘘を吐いていたら、きっと見抜かれてしまっていただろう。彼の生みの親は、嘘を嫌う。

 仕方ない、とでも言いたげに息が吐かれた。その場でお座りをしたニコは、顎を上げてみせる。

「ありがとうな」

 手早く首元に巻き付け、首の後ろで留め具をする。仕立師がてきぱきと長さの確認をする。

「苦しくないか?」

 尋ねると、平気そうにしている。確認のためとはいえ、俺以外の手に触れられていても振り払うことをしなかった。

 一通りの確認が済むと、ニコは立ち上がって部屋の端まで全力で走る。壁際すれすれで身体を反転させると、また全力で走って俺の元に戻ってきた。

「なんで走ったんだ?」

「皆が服の確認のために、走っていたからじゃないか」

 背後にいたガウナーがそう答える。顔を上げたニコは得意げで、褒めろとでも言いたそうだ。

 両腕でわしわしと首元を撫でる。

「助かる。千切れたりしない、って確認ができたよ」

 外した装飾品を、仕立師に返す。ニコはぶるりと身体を震わせると、また出入り口近くを陣取った。

「あれ、警備してるつもりなんだろうな」

「ああ。実際、警備されているだろう。私たちの誰よりも耳が良いはずだ」

 ふ、と口元から笑みを零す。すこし、ほんの少しだけ、気分が浮上した。

 今から離婚のことを考えていては、式が上手くいくはずもないのに。生まれた悲しみを胸の内に沈めて、無理やり顔を持ち上げた。

 

▽8

 帰宅したとき、ガウナーは見覚えのある小型の装置を持って帰っていた。

 鞄からその装置だけを取り出し、他を衣装部屋に送ってくれ、と言う伴侶に、首を傾げながら魔術を起動させる。

 ぽすん、と胸に跳び込み、後頭部を撫でられる感触を受け止めた。

「それ、魔力貯蔵装置か?」

「ああ。トールから協力依頼があってな。魔力を日々、貯めてほしいそうだ」

「じゃあ、俺の魔力供給者はガウナーで決まりなのか」

「そうらしいな」

 魔力貯蔵装置を作り上げたトールから、魔力の供給者の打診は受けていた。伴侶以外は無理じゃないか、と伝えたところ、相手も理解を示していたのを覚えている。

 既に濃く混ざって、離れると身体に異常を来している。多い魔力と、よく振れる波は、雑味を許さなくさせてしまうらしい。

 相手の背に腕を回し、ぎゅう、と力を込めた。

「あんた以外の魔力は、しんどい」

「はは。それは良かった。刷り込んだ甲斐があったな」

 料理を温めるから、と食卓に招き、俺は牛乳を温めて付き添う。

 出てくる前にちらりと視線を向けた居間の机の上には書類が積み上がり、お互いの領地の間に僅かな谷ができていた。

 こんな多忙な中、魔力の貯蔵などできるのだろうか。

「あの、魔力の供給協力についてなんだが。……我が儘を言っているのは分かってる。から、他の人を用意した方が良かったり、しないか」

 歯切れの悪い言葉を、自覚したままその場に並べた。

 自分がそうしたい、と言っているのに、相反する提案を口に出す。面倒な人物に成り下がってしまった。心中では苦々しく思いながらも、提案しないこともできない。

 彼は、食事の最中に言ったからか、フォークの先に刺した山羊肉をそのまま口に入れた。咀嚼する間、じっと沈黙に浸される。

「自分でも、無理をしているのは分かっているよ」

「じゃあ……」

「だが、『じゃあ、諦めるか』と考えた時、やっぱり君に誰かの魔力を与えたくないと思う。ただの嫉妬だ」

 くすり、と笑って、伴侶はナイフを動かす。力を入れずとも肉の断面は綺麗で、ひとつであったものは容易く二つに別れた。

 このひとは、俺に嫉妬を向けてくれる人だ。離婚を勧められても諾としない。

 けれど前提には、俺がなにも隠していない、事があるはずだ。

 ガウナーが別の誰かと、己が立ち入れない場所で会っていたことを聞かされたら、俺は浮気だ、とささくれ立ってしまう。

 冗談で言い寄られる夢の話をした時、本当のことを詳らかに話せていたら。詮の無いことを思い浮かべて、両手でカップを握り込む。

「もし、うちの一族の誰かが内偵だと処分されることになったら。きっと、今よりもずっと、俺と結婚を続けていくことは、……色々と、言われることになると思う」

「そうだな。隠していても仕方のない事だから言うが、覚悟はしているよ」

 カップに口を付けた。真っ白いカップの中身は、黒と同じく底が見えない。

「俺、今までは結婚を喜ばれる事しかなかった。でも、結婚って、みんなに喜ばれるばかりじゃないんだな」

「ああ、みな立場がある。誰かの利益に反する結婚だって起こりうる。けれど、結局は二人だけの話だ。…………私と、君の結婚だ」

 目の前にいる伴侶の強さに、目眩がする。氷の上を確かめながら歩いて、いずれ落ちることに怯えながら足を踏み出し続ける。

 式に近づけば近づくほど、そうだ。やめたい、その言葉が口を付いて出ようとする。

「……俺、感傷的になってるのかも。やだな、こういうのは」

 はは、と声だけで笑ってみせる。

 支え続けたい、と思っていたのは俺のはずなのに、地面がぐらぐらと傾いでいく。

 ぼうっと机の表面を眺めていると、食器の音が止んだ。目の前の人の食事が終わったらしい。

 皿の片付けを、と立ち上がり、残っていた牛乳を飲み干す。水を出し、手早く汚れを流した。

 流れていく水の先を、じっと見送る。皿が綺麗になった後もそうしていると、隣から腕が伸びた。水が止まる。

「ロア。おいで」

 腰を抱かれ、居間にあるソファに連れていかれる。

 先に座ったガウナーは、俺を膝の上に乗せた。向かい合うようにして、抱き込まれる。体温があたたかかった。

「ずっと、君が何か言いたそうにしているのが気になっていたんだ。以前、君がこっそり記念日の用意をしてくれていただろう? あの時は、秘密も必要だと思ったが、今の君は、抱え込んでいることが苦しそうで」

 ゆったりと背を叩かれると、ほろ、と目元から雫が落ちる。眼鏡を外して、近くにあった机の端に放った。

 仕事から帰って、上着を脱いだばかりの胸元に顔を埋めると、僅かに爽やかな香りと、僅かに汗のにおいがした。

 静かに背が支えられる。

「君が、無益な嘘を吐かない事は知っている。多情ではない事も。仕事以外に時間を使えていない事も分かっている。だからこそ、君が何かを隠しているという事が、それを分かち合えないのが、心配だ」

 ただ、この人のものになりたい。立場も周囲の何もかもを捨てて、お互いの気持ちだけで繋がっていたい。

 ぼたり、ぼたりと頬を落ちる粒を拭わないまま、彼の襟首を引っ掴んだ。持ち上がった唇に、己のそれをぶつける。

 口の端から涙が流れ込んで、塩辛かった。

「ロア?」

 自分の襟元に手を伸ばし、釦を外した。普段は照れが混じるような行動の筈が、震える指先は止まらない。

「ガウナー。俺、おれは……」

 伝えたかった言葉が、喉に詰まった。闇にでも纏わり付かれているみたいだ。

 相手の胸元に手を添え、唇を近付ける。白い喉に痕を残した。

 首筋に唇を伝わせ、相手の上着の釦に指を引っ掛ける。

 指先が、一回り大きな掌に包み込まれた。

「いま、君の考えが分からない。私は、君を理解しきれないまま抱いて、いちど失敗している。覚えているか? 最初に、私たちが躰を重ねた日だ」

「あ……」

「魔力の波が乱れているようだな。今日は、二人で寝よう」

 俺が気持ちごと躰を重ねようとしていない事を、言い当てられたみたいだった。羞恥に頬が染まる。

 大人しくなった俺を立たせると、ガウナーは風呂場に向かった。服を脱がせ、身体を洗い、湯船に浸からされる。

 身体中を湯の中に浸していると、目からまたぼろぼろと涙が零れていった。ガウナーは隣で、頭を撫でてくれる。

 風呂を上がって、服を着て、全ての動作を、丁寧に伴侶が手伝ってくれた。寝室まで抱いていこうか、と戯けて言われるのを、笑えずに首を横に振る。

「ニコ?」

 ガウナーの声に、ニコが脱衣所まで来ていたことを知る。食事の時は、珍しく外で遊んでいたはずだ。

 丁度いい、と風呂場で前脚を洗い、皆で寝室に向かった。二人の間の重苦しい空気が、ちょろちょろと足元を歩き回る存在に和まされる。

 今日は一緒に寝たいようで、ニコは寝室まで付いてきた。

「仕方ないな」

 脚も洗っており、寝台に来ても良かったのだが、星の犬は寝室の扉を塞ぐように横になった。

 来ないのか、と声を掛けても、びくともしない。一緒に寝るのは諦めて、二人だけで寝台に入る。

「照明、消していいか」

「ああ。ゆっくり休もう」

 毛布を引き寄せ、彼の胸の中で目を閉じる。気遣いなのは分かっていて、眠りたくない、と思ってしまった。

 この現実の中で、伴侶の腕の中にずっといたい。けれど、明日だってまた日常が待っている。眠らないわけにはいかなかった。

 

 

 

 ぽちゃん、と水の音が聞こえる。ああ、あの夢だ。

 水の気配が近くにあり、頬に触れる柔らかい草の感触がした。

 身を起こし、いつもそこにいる存在を探す。だが、『いつもはそこにいない』存在が見つかった。

「ロア……?」

 立ち上がったのは、仕事の時に良く見かける服装をした伴侶だった。さっきまで、寝間着姿だった筈、と思って触れた自分の姿も、魔術師としてのローブ姿だった。

 呆然と、自分の両手を見下ろす。

「なんで、ガウナーが…………」

 真横から、くすくすと嘲笑う声が聞こえた。視線を向けた先には、いつも通りの黒の姿がある。

 俺が胡乱げな表情をすると、彼の神は愉快そうに手を打った。

『一幕目はもう下りた。ならば、ここから先は衝突だ。手持ちの札は、提示しなければ公平ではないであろう?』

「貴方、は…………」

 ガウナーは俺の傍に駆け寄り、庇うように前に立った。

 向かい合う男の唇は、満足そうに持ち上がっている。その存在が、何をしようとしているのか。分かったような、分かってしまったような気がした。

『我が名を、お前たちはこう呼ぶ。────クロノ、と』

 伴侶の唇が、ひゅ、と空気を呑んだ。

 人間の動揺など気にも留めず、目の前にいる神は台詞を紡ぐ。

『ロア。我は、お前に長く問いを投げ続けてきた。今日も変わらず、問おう』

「やめろ!」

 つい、悲鳴に似た言葉が口をついて出た。

 神の言葉を遮ることが、これまでの関係性を伴侶に知られてしまう事だと分かっているはずなのに、しらばっくれる事もできなかった。

 くすくす、と嗤う声は、魔に見えた。

『ルーカスと同じように、永く生きたくはないか。身体の時を停め、老いることなく、その身が健やかなまま、学び続けたくはないか。知を求めたくはないか。我ならば、────それができる』

 目の前にあった肩が動いた、振り返った伴侶は、丸まった目で俺を見る。今、神からの提案を切り捨てれば、ガウナーを安堵させることができると分かっていた。

 分かっていて尚、俺は答えを口に出せなかった。

『お前は、ずっと答えを返さなかった。悩んでいたんだろう? 永遠の愛を誓う相手が誰なのかを』

 足元の力が抜けた。力なく、その場にへたり込む。

 目を見開いたまま、ぼう、と地面に両手を突いた。

『我を選ぶといい。文字通りの永遠をやろう。人が口先だけで誓う、死すれば途切れるような仮初めの永遠ではなく』

 がたがたと身を震わせ、白くなっていく指先を見つめる。知られてしまった。不老の提案をされていることも、その答えに、悩んでしまっていたことも、全てだ。

 静まった空間に、低い声が分け入る。

「ロアに、ルーカスと同じような存在になれ、と言うのか」

 僅かに混じる震えを感じ取るも、伴侶の言葉は途切れない。声音はしっかりと、俺にも目の前の存在にも届く。

 声には、怒気が灯っている。

「ルーカスが、老いを喪って、幸せだったと思っているのか!」

『はは。幸せだった、と、思っているとも。人は、無よりは、有の方がいいであろう』

「は?」

『あれは、時の河に呑まれて消えるはずだった命だ。確か、予定通りなら流行病であったか。まあ、……何でもよい。放っておけば消える生命が、延びているではないか』

 俺もガウナーも、声を失った。

 ルーカスが不老であれ、生き延びたほうが良かったのか。そのまま死ぬ方が良かったのか。友人相手に、後者を選べはしなかった。

『確かに、ルーカスは老いなくなったことを後悔しているかもしれない。だが、最初からそれを望む人物ならどうだ? きっと、幸せだ、と答えるはずだ』

 彼にしては珍しく朗々と響く声は、ふらりと傾いでしまうような、奇妙な魅力に溢れていた。

 頷いてしまいそうになって、伴侶の存在で辛うじて杭を打たれている。

 伴侶の視線が、俺を捉えた。

「……ロア、私は。ずっと、ルーカスを見てきた。見てきて、もし自身に永遠が齎されると言われても、きっと首を横に振ると決めていた。クロノ神がいくら生き延びさせた、と言おうと、私の友は、やっぱり神の加護と共に喪われたのだと思う」

 彼は、俺に歩み寄ると、両肩を掴んだ。そのまま、腕の中に囲われる。

「君は、どうして永遠がほしい?」

 指先が白く、震えている。周囲が寒い訳ではない。彼の心に、凍えきるほどの負荷をかけている。

 問われた瞬間、幼い頃からの記憶が蘇った。

 病に罹って、家族に迷惑を掛けた日。それから、兄弟との差が開いたと気付いた日。天才にはどう足掻いても敵わないと悟った日。仕事を始めてから忙しさに平坦になっていく日。

「俺は、昔から、家族の中では不出来な人間だった。周りは一を知れば十を実行できる。その中で、俺は一から二にしか進めなかった。ウィズを、魔構の連中を見ていたら分かるだろう。勘が良い。十知るために、一言、道筋をひらめかせてやれば良い」

 もっと、知識があれば、技術があれば。天から与えられた才なく生まれたのなら、時間を掛け、積み上げるしか他にない。

 その時間が、無限に与えられるとしたら。

「夢があった。『世界の全てを知りたい』天才でなく、何者にもなれない人間が、己の努力のみで、世界の全てを知ることが出来たら。それができたら、やっと自分を認められると思った。あんたと結婚する前は、忙しくて忘れかけてたけど」

 ぼろぼろと鍍金が剥がれていく。俺の内側は、こんなにも醜い物が詰まっていた。

 綺麗事を口に出して、誰かを導こうと足掻いても、俺自身はあまりにもちっぽけだ。

「本当は、神になんか縋りたくない。縋らずとも、俺の力だけで成し遂げたい。けど、俺はあと何年生きられる? 病に斃れるかも、事故に遭うかも分からない。肉は弛んで、皺が増えて。目は文字を上手く映せなくなっていく」

 目の前の光景は、あまりにも綺麗だ。普段見ている、硝子越しの世界ではない。

 神の力はうつくしく、哀しいほど万能だった。

「俺は、……ガウナーが、不老なんて要らない、って言い切れる強さが理解できない。怖いんだ。何も成し遂げず、ただの人のままで、死んでいくことが」

 明日、目覚めないかもしれない。皆、その恐怖を抱きながら眠りにつく。

 今日、目覚めた時に安堵する。俺は未だ、この世界にいる。

「あんたと、生きていきたい。でもきっと、この提案を蹴ったら、俺は、ただの人間のまま死んでいくのがわかる。────もしかしたら、前触れもなく、不幸な出来事に遭って」

 涙ごと、凍り付いていた。

 視線をようやく上げると、目の前の男の頬に、きらりと伝うものがあった。星の煌めきのようで、静かな空間ではその光が眩しい。

 罪悪感に、胸が引き絞られた。二人の別れがあるとしたら、俺が選ぶのだ。

「愛しているんだ、ロア。……愛しているから、私を選んでくれと言えない」

 震える頬をいびつに動かして、彼は笑みをつくろうとする。痛々しい表情は、あまりにも生に満ちている。

 永く生きることに悩む俺と、刹那を生きることを選んだ彼と。どちらを人かと問われれば、間違いなく皆が彼を指差す。

 ガウナーが言葉を続けようとした時、遠くから声が聞こえた。

『……ォ……! アォン!』

 神の唇が、面白そうに笑んだ。見知った鳴き声を合図に、周囲の闇にぽつんと白が落ちた。地面ごと飲み込むように、夜明けが俺に躙り寄る。

 俺よりも先に、目の前にいたはずのクロノが闇に溶ける。元々闇しかなかったかのように、後には何も残らなかった。

 広がった白が俺を呑む。目の前は、まっくらだ。

 

 

 

 目覚めると、陽の光が差していた。跳ね起き、周囲を見回す俺を、心配そうに見つめる瞳がある。

 服の下は、汗でじっとりと濡れていた。胸元を掴んで、ぜいぜいと息をする。

「ロア。随分、魘されていたようだったが……」

「あ、あぁ……。夢見、が、悪くて……」

 漏らしてしまった言葉に、ガウナーの眉が下がった。俺を見守るニコも、なんだか哀しげだ。

 乾いた喉に触れると、伴侶は、水を持ってくる、と寝室から出ていく。ぱたん、と閉じられた扉を、呆然と見送った。

 きゅんきゅんと頭を擦りつけてくるニコの額を、そろりと撫でる。

「呼び戻してくれたのか?」

 尋ねると、わふ、と肯定される。

 悲痛ささえ感じるような鳴き声だった。自分の親とも呼べる存在に対して、この犬は牙を向けたのだ。

 他者の体温に心を落ち着けていると、コップを持ったガウナーが戻ってくる。手渡された水を飲み、息を吐いた。

「長いこと、夢渡りがあったのか?」

「……ああ。その、最初は、ナーキアに行く前くらい」

 そう言うと、彼にも思い当たる節があったようだ。らしくない舌打ちの音が聞こえた。

 どすん、と寝台の上、俺の隣に腰を下ろす。

「最近、塞ぎ込んでいたのは、この件か?」

「そうだ。もし、一族への罰が重く、離婚した方があんたの為になるのなら、答えは……」

 黙り込んでも、喋っても一緒だった。二人の間に、沈黙が横たわる。

 長く重い苦悩を打ち切ったのは。彼の息を吐く音だった。

「提案がある」

 窓から陽が差し込んでも、目の前にあるのは影だけだ。

 無言で、続きを促した。

「結婚式まで、回答を出すのは待ってくれないか。リベリオへの襲撃予定も、結婚式自体の遂行も、いま、考えることは多い。この混乱の中で、君が不老を選んでしまったら、……私は、狂ってしまうかもしれない」

 こくん、とやっとの事で頷いた。

「分かった。結婚式までは、答えを返さない」

 大好きな色の瞳が、こちらを見た。

 ぱちり、と長い睫毛が動く。こうやって穏やかに彼を見つめることが、久しぶりのような気さえしていた。

「夢から覚めても変わらない。……愛しているよ、ロア。だから、君の幸せは、君の意思で選んでくれ」

 彼が自身を選ぶことを強制したら、俺はきっと彼を選ぶだろう。そうしてくれないのが苦しい。そうしない、彼が好きだ。

 ぽとり、ぽとりと目から水滴が落ち、服を濡らしていく。

「────俺も、大好きだ。愛してるよ、ガウナー」

 

▽9

 表面上は、平穏で多忙だ。ガウナーは普段通りに振る舞っているし、俺もまた、無くなってしまった円満を記憶で再現している。

 両思いだと分かっていない時、必死で恋人として振る舞おうとしていた頃を思い出す。あの時のほうが、何も知らない分、まだ楽だったかもしれない。

 その日は、朝から魔力貯蔵装置の試験を行っていた。

 大型の魔力貯蔵装置には使用者それぞれに専用の、発条状に伸びる管が付いている。管の先を唇に押し当てると、高速に魔力を補充できる。

 管の先は日々貯蔵されてきた魔力が詰まっているらしい。動作確認をしているトールに近づき、手元を覗き込む。

「ガウナー、魔力の貯蔵に来てたか?」

「はい。あんまり魔装に入り浸りだと怪しまれるので、小型の魔力貯蔵装置を渡して、貯めたものを預かって、って形でしたけど。魔術に関して一般人の割に、よく頑張られていると思います」

 貯蔵量の目盛を見る。魔装の面々には及ばないが、それでも着実に魔力が溜め込まれていた。

「シフはトールが、フナトにはウルカだよな? 魔装が担当できる奴以外は、全員集まったか?」

「魔構の分は大丈夫ですよ。サーシ課長の分はシャクト隊長に。あとは親族とか親しい友人とかでなんとか」

「サーシ課長はそうだよな。でも、シャクト隊長って魔力あるのか?」

 俺が問いかけると、背後からひょい、と噂をされた当人の顔が肩に乗った。

 珍しい行動に、疲れているのだろうと察する。

「まあ、魔力量はあるよ。使い方はてんで駄目だけど」

「サーシ課長。……いいんですか? 隊長、当日も警備に働き詰めでしょ」

「いけるいける。あれ、体力の戻し方は上手いからね」

 平然と言い、サーシ課長は目元を擦った。

 俺が朝から来ると、溜まっていた仕事が片付いている時がある。この人にも、かなり負担をかけてしまっていた。

 声を掛けようと口を開くと、それより前にカラカラと車輪の回る音が聞こえてくる。音の鳴った方に視線を向けると、ニコがリベリオ王子を乗せて雪車で庭を駆け回っている所だった。

 雪車は急転回すると、こちらに走ってくる。意図的に方向を定めたらしいそれに目を白黒させていると、サーシ課長は杖を抱え、ひょい、と飛び乗った。

 カラカラカラ。軽快に音を響かせ、雪車は走り去っていく。

「いつのまに二人乗りに?」

 小さくなっていく車体を指しつつ、トールに尋ねる。

「動いているものって攻撃を当てにくいのと、会場の通路が雪車が通れる広さだったので、なら、リベリオ王子を守りつつ走れる方が良い、と二人乗りに改造しました」

 魔力貯蔵装置、ゴーレム、雪車、通信機も新しく作っていたはずで、取り纏めている人物の隈が濃いのも頷ける。

 魔装の手伝いを依頼した魔装技師のベイカーさんにも、金はいくらでも払うから入れるだけ入って、と頼む段階まで来ていた。

「ごめんな。シフも家では荒れてんだろ?」

「かなり。でも、シフを構って癒やされる部分もありますし」

 全体調整を担っている部下が動ける程度に食事を取り、仕事に来ているのは有難い。拝もうとすると、流石に止められた。

 あちこちで魔力供給と、使用の試験が始まる。概ね速度も問題なさそうで、見知った魔力に嫌悪感を示す者もいなかった。

「じゃ、始めるぞー」

 魔装の一団から魔装技師のウィズが進み出る。ミャザから手伝いに来て、こちらも相方のシュタルと共に籠もりっきりになっていた。

 操作者であるウィズの声と共に、ミャザ所属のゴーレム……アンナが動き始める。ぼとり、と腕の前方が落ちたかと思うと、下から現れたのは砲だ。

 砲の先に立たされているのは、可哀想な部下だった。

「誤動作して死んだら化けて出てやる!」

「しないしなーい」

 狙われるシフがぎゃんぎゃん喚いても、ウィズは平然と砲の照準を合わせる。

 周囲には俺達の動作を覚えられなくする結界と、攻撃を外に通さない結界が何重にも張られていた。外しても大事にはならない筈だが、アンナは無慈悲に微調整を繰り返す。

 そして、弾が放たれる。

「ぎゃ!!」

 弾に当たったシフが、その場に倒れ込む。放たれた弾自体に威力はなく、割れた弾から魔術式が一気に展開されたのが見えた。

 一時的に地面に対する圧を強め、動きを止める術式のようだ。地面に伏せたシフは起き上がれないようで、ぴくぴくと指先を動かしている。

「弾に埋め込まれてる術式の開発者だれ?」

 問いかけると、魔構では実験狂であるヘルメスが手を挙げた。歩み寄って、問いかける。

「あの式すごいな」

「お気づきになられましたか!?」

 ヘルメスは出来の良さを気付いて貰えたのが嬉しいようで、語尾が跳ねている。

「弾自体は人を傷つけず、最速で届けるように強度の調整を行いました。射出中は弾を保護する魔術式が展開されますが、人に当たった衝撃で術式が切り替わります。切り替わった術式は人の重さに干渉するもので、その場に倒れ込むことになります」

「へえ。傷つけないから、人が入り混じった時の誤射対策にもいいな」

「そうでしょう、そうでしょう。あとは、ゴーレムで人を傷つけると、今後、実践配備していく上で印象がよくない、という話でしたので」

 そういえば、国王陛下はゴーレムが人を傷つけるばかりの存在ではない、と繰り返していたのを思い出す。

 防衛課が準備している武器の一覧も、殺傷能力を極限まで落とし、捕らえることを前提に考えられていた。

 何かを傷つけることも、壊すことも容易い。何かを守り、生かすことは難しい。敢えて困難な道を選ぶ。これらの選択は、ただの俺達の我が儘だった。

「うえ……。指先までぴったり押し付けられて、まず記述式の魔術を使うのは無理だった。喉もなんか締め付けられて、上手く波が作れずに詠唱できなかった。動作としてはいいと思う……」

 ヘルメスから解除の魔術を掛けてもらったシフは、起き上がって感想を述べる。魔術師相手でも、攻撃手段を封じることができそうだ。

 実弾を人相手に試験するのに、身内を容赦なく使うのがウィズとヘルメスらしかった。

「魔力貯蔵装置、雪車、ゴーレムの改造、と。……あ、ツクモが現地に通い詰めてたけど、会場の魔術的特性は分かってきたか?」

 魔構の中で、ちょうど近くにいたツクモを捕まえ、問いかける。

 長髪は今日はゆるく編まれており、動きやすいよう整っていた。手元には最近、新調した魔術杖を持っており、俺の質問に僅かに唇を持ち上げる。

 ぽそり、ぽそりと控えめな声が響く。

「古い建物……なので、『見えない存在』が魔力を管理して、いて。…………頼み込んで、当日、魔力を融通してもらえること、に……なり、ました」

「ええと、……何だっけ、以前、一緒に見た文献上では」

「はい。『妖精』と呼ばれている存在、です。……あの、結婚式の会場が……神殿に隣接、して、いて。自然が多いので、古の存在が、……残りやすい土壌のよう、でした」

 古の時代、大戦を機に一度、大きな魔術的な技術の断絶があった。

 大断絶以前は、魔術という名前でもなかったそうだ。自然の生命力を借り、今では有り得ないような、大規模な術式が組まれていた形跡も残っている。

 その断絶以前の文献に時折、出てくるのが『妖精』という存在である。古の時代、ごく少数の人間が、妖精と交流を持った。

 妖精は、魔力の流れに親しく、シフとミイミルが行ったような伴唱を、人にしてくれる事もあったそうだ。

「かれらに言われた通り……建物の補修を、しました。あの場所での魔術は、魔力消費が少なく済む……はず、です。味方の魔術師、は戦いやすくなるかと……」

 それで、とツクモは懐から腕章を取り出す。以前、国王襲撃事件で味方に着けてもらった品だった。

「この、腕章、を……味方の目印にし、ます。妖精たちに、敵味方を、伝えるのが難しい、ので……」

「それ、魔術師以外もしたほうがいいか?」

「何も無いところで、転んでも、よければ……」

「分かった。皆で着けような」

 腕章の件はガウナーに話が通っているそうで、必要数の準備は既に水面下で進められているという。

 当日までこのことは明かさず、ひっそりと確実な味方だけに腕章を配るつもりのようだ。

「ツクモは、妖精とやらは、見えてるのか?」

「いえ。俺は……主に気配と、声、です。文献上も、妖精をはっきり視た古代の魔術師は、それこそ断絶以降も、名前が残っている魔術師ばかりで……」

「ああ。いたなぁ……、うちの始祖も、今の言葉で言うと『北方の』って冠が付いた魔術師だとか、その関係者だとかって与太話がぼんやり伝わってるよ」

 詳しく、と珍しく食いついてくる部下の追及を先送りし、離れた場所にいる雪車を呼び戻す。

 皆で騒いでいると、伴侶との間の荒波も忘れてしまいそうだった。

 

▽10

 昼過ぎ、ガウナーがいる政策企画課に書類を届けてくれ、と部下にお使いを頼まれた。多忙の合間に少しでも会わせてあげよう、という親切心に、今は作り笑いを浮かべてしまう。

 きょとんとしたシフが何かを察する前に、ひらひらと手を振って礼を言った。

「鉄は熱いうちに、な。行ってくる」

「はぁ……? そこそこ、早く帰ってきてくださいね」

 良い塩梅に休んでこい、という有り難い言葉に、手の代わりに書類を振って職場を出る。外の光は強く、目に眩しい。手を翳すと、目元に影ができた。

 ニコは職場をちらりと見ると、リベリオは大丈夫そうだと判断したようだ。たた、と俺の後に付いてくる。

「こっちでいいのか?」

 わふ、と言って、くるりと俺の周りを一周する。

 もぞり、と足下を擽る感触も、もう少しなのだと感傷的な気分になった。一度しゃがみこんで、その毛に顔を埋める。

 わずかに獣くさくて、日向の匂いを吸い込んであたたかかった。

「ニコ。……お前くらい、ずっといてくれよ」

 首を傾げたニコは、べろりと頬を舐めた。そして、ぺしりと硬い肉球で俺をはたくと、先導するように歩いていく。

 行きたいところがあるんだろうか、と素直なその尻尾に続く。

「俺、ガウナーのとこに届け物があるんだけど」

 耳をぴくりと動かし、ちらりと俺を見るが、また歩き出した。

 辿り着いたのは、魔装の職場だ。扉の前で犬が鳴き声を上げると、間を置かずに中から開く。

「お、ニコ。助かる」

 出迎えたのはトールだった。俺がじっと見ていることに気づいたのか、ニコを撫でていた手をすぐに放した。

「こっちに来たい、って言うんで来たんだが。何かあるのか?」

「ああ。書庫に本を返したかったんですが、機会を失ってて」

「なるほど。あと、俺いまから政策企画課に行くけど」

「神の采配に感謝を。書類、お願いします」

 雪車は改修中らしく、台車がニコの胴に取り付けられる。荷台には本が積まれ、底の部分が見えなくなった。

 俺に対しては、束になった書類が預けられる。

「あと、伝言ではないですけど、これ新作の通信機です」

 片耳にぶら下げる形状の装置が、彼の手元にあった。トールはそれを持ち上げると、俺の耳に掛ける。

「おお。何これ」

 トールは、同じ装置を自らも装着する。そして、その場から何歩も後退した。

『聞こえます?』

「え? うわ。声、かなり鮮明に届くな」

『でしょう。ミャザで使ってた通信機の、通信方式を新しくしたんですよ。夕ご飯食べる時に使う装置の術式を元に、ウィズに改良させて』

 彼はこちらに戻ってきたが、俺の耳にぶら下げた装置は回収しなかった。

「いま着けてるものは代理に差し上げます。あと、こっちは宰相閣下に渡してください。通信先の番号は────」

 いま着けている物とは別に、トールが試しに着けていたものを手渡される。

「操作方法を紙に残すと危ないので、宰相閣下に使用方法を教えていただけますか?」

「わかった。その他の人たちは?」

「口伝しか出来ないので、数が揃ってから皆が集まった時に纏めてやります」

 既存の通信機は、盗聴を考えると密談をするのには使えなかった。新しい通信方式による通信機、というものは内部の分析から盗聴に至るまでには時間が掛かる。

 とても、結婚式までの期間で盗み聞きできるようなものではなかった。

「わかった。これ、預かっていくな」

 よろしくお願いします、と言うトールに見送られ、俺たちは書庫に向かって歩き始めた。カラカラと隣で車輪の回る音が聞こえる。

 途切れることなく、カラカラ、カラカラ、と。その合間に、肉球が床を擦る音がする。

 王宮の大窓から差す陽は明るく、陰との間にくっきりとした境界をつくった。光り、途切れ、車輪の音とともに、光陰の煌めきを繰り返す。

 使用人が主に使う通路を使って書庫へ行くと、中は時間帯の所為もあり、がらんとしている。

 荷車の車輪を拭き中に入ると、受付で同年代の二人が談笑しているところだった。

「こんにちは。お二人が揃うのは珍しいですね」

 会話の合間に声を掛ける。話していたのは、テップ近衛魔術師長と、書庫の主であるテウ爺だった。

 二人は年が近いのだろう。会話の合間、目尻はおんなじように緩く下がっていた。

「おや、また魔装からの返却かの。最近はちまっこいのをよう使う。足が萎れるぞ、と言うたれ」

 テウ爺は『ちまっこい』らしいニコの荷台の本を持ち上げると、分類用の小棚へと移す。手慣れた動作で、冊数があったはずの本はすべて荷台から回収された。

 俺も手伝ったのだが、あまりにも作業が早くてぽかんとしてしまう。

「話に花が咲いていたようですが、二人は昔からの付き合いなんですか?」

「そうじゃよ。テウは同じくらいに王宮に勤め始めて、この年になってもまだ居る」

「もうテップ以外は、あんま残っておらんのよ」

「この世にな」

 ほっほっほ、と当人たちは笑っているが、俺は笑っていいのか図りかね、ニコとこっそり視線を合わせた。

 じい、とテウ爺の瞳が俺の方を見る。

「若者、疲れとるの」

「はは。人生の大舞台が待っていまして」

「良い、好い。失敗のできる舞台なんぞあればあるほどよい。これからテップとお茶の時間なんじゃが、一杯どうかの?」

 テウ爺は茶目っ気たっぷりに、摘まんだカップを傾ける動作をする。

 シフには言外に、休んでこい、と追い出されている。言葉に甘えることにした。

 ニコの荷台を外し、受付の奥、職員用の休憩所の隅に置かせてもらう。

 休憩所は狭く、机が一つと、折りたたみ式の小さな椅子がぱらぱらと置かれているだけだった。俺が勧められて椅子に腰掛けると、二人の連携によってお茶が淹れられる。

 出されたカップに取っ手はないが、東の国の品特有の分厚い縁のある構造が、側面を持っても熱を伝えづらくしていた。中身も薄緑色をした、特産の茶葉を使ったものだ。

 熱さに苦戦しながら啜り、ほう、と息を吐く。苦みはあるが、口の中を爽やかな味が抜けていった。

「……で、何に悩んでおるのかの?」

 問いかけられ、茶の水面を眺める。どうやら、暗い顔をしているのを心配されて引き込まれたようだ。

 詳細に伝えることはできず、当たり障りのない、だが、悩みに近いものを口にする。

「長いこと一人で暮らしてきたので、急に結婚、というものに不安になってしまって。もうちょっと若い頃だったら、悩みなく新しい環境に飛び込めたかもしれないのですが」

 二人は顔を見合わせる。

 どちらが何を言うかの目配せは、テウ爺に譲られた。

「それは無いな。お主なら、若くとも同じ事で悩んでおるだろうよ」

「はは。手厳しい」

 老爺は手元にカップを引き寄せると、両手で、ず、と啜った。

「そういえば、少し前に、黄金の林檎に関する物語を借りていたのう」

「よく覚えてますね」

「覚えておるよ。あれは、ほら。食べたら不老不死になるんじゃったか」

 クロノから不老になることを提案された後で、不老不死に関する伝説や神話、物語などを片っ端から読んだのだ。

 その中にはいろいろな人々が描かれていた。ある者は不老不死を得た後に退屈を得、ある者は得た不老不死を譲り渡し、ある者は不老不死とはいえ、癒えぬ傷に苦しんでいた。

 不老不死のまま、幸せなその後を描いた話は、一つもなかった。

「はい。不老不死の効能を持つ黄金の林檎を巡って争う、というような話でした」

 ふむ、とテウ爺は顎を撫でる。

 すべての動作がゆっくりとしていて、急くことを置いてきたかのようだった。だが、走り回っていた身には、その速度感が心地いい。

「テウ爺は、もし、若返ってそのまま老いないとしたら。そうなりたいですか?」

 寒くもないのに、僅かに震える指先を握り込む。

 足元にいたニコがもぞりと動き、俺の足元に、爪先を包み込むようにして丸くなった。

「なりたくはないのう」

 間を置くことなく、驚くほど、はっきりとした返答だった。

 俺は目を瞠る。ぱちぱちと瞬きをしても、答えは変わりようもなかった。

「それは……、どうして。と、聞いてもいいですか?」

 テウ爺はカップをくるりと回し、表面の絵柄を眺める。そこには、白地に赤と黒が差し入れられるような柄の鳥が飛んでいた。

 職場や、ガウナーとの会話にはない、年齢特有のあまりにもゆっくりとした間だった。

「儂は、学生の時にはもう人の寿命がこれくらい、と知っておった。だから、逆算して幼い頃から本を読み耽った。今もじゃ、もう寿命が多くは残っておらんから、読みたい本から読んでいく」

「こいつは、昔から本の虫じゃよ」

 隣でテップ翁が言い添える。

 仕方ない、と寄せられる眉は、古くからの友人を微笑ましく見つめるものだ。

「最低限の食い扶持を稼いで、残りの時を数え、今なにをしたいかを己が定める。そういう儂は、不老不死であったらあり得ないものじゃった。儂は、割と今の儂が好きでの。若返ってしもうたら、地べたの上で足掻いてきた儂が可哀想じゃもの」

「でも、不老不死になったら、もっと本が読めますよ」

「そうじゃな。それは悪くはないのう。……でもな、儂はやっぱり、目が悪くなるまで連れ添った儂と、残り少ない本を読みたい」

 のんびりした言葉には、急いた感情は窺えない。けれど、この人も俺と同じく、悩んだ夜があったのだろう。

 テップ翁は立ち上がると、部屋の隅にある棚から、籠に入った焼き菓子を持ってきた。そう、と俺の手元に小麦色の菓子を握らせる。

「みな、本を読むじゃろ。だが、同じ文字の本が刷られて、読んでも、みな考えることは違う。こんな只の文字の羅列に感情を見いだせるのは、読み手が必死に積み上げてきた、限りある年月があってこそだと思うんじゃよ」

 与えられた菓子を、さくりと囓る。甘くて、ふんわりとして、柔らかい。

 きっと、明日にはもう美味しくなくなってしまうほど、儚い感触がした。

「ロア代理。お主はどうじゃ? 黄金の林檎は欲しいかの?」

「……俺、は」

 建前上の返答を、予想外に迷ってしまった。

 途中でどうしようもなくなって、お菓子を食べ始めもした。けれど、目の前にいる老爺ふたりは、急かすこともない。自分たちも、もそもそ菓子を食べ始める始末だった。

「すごく、欲しいと思ってたんですけど」

「けど?」

「食べたら伴侶が、先に行ってしまうので。それが、嫌で」

 ぽつり、とこぼした言葉に、二人は揃って微笑んだ。

「そうじゃのう。テップが先に行ってしまうと、お茶友達がもうおらん」

「爺もじゃ。テウ以外は皆まじめに仕事ばかりでのう」

 ほほほ、と軽快に笑う様子につられ、俺も頬を緩める。

 美味しいです、と焼き菓子を褒めると、手元にあった籠ごと押し出された。俺より先の道を踏み慣らして行く人達は、むしゃむしゃと豪快に菓子を囓る。

「生物には、多くを産み、短命な、多産多死の種があるじゃろ?」

「はい、ありますね」

「個ではなく、種が重くなる造りをしておる。と、その短い生を憐れむ人もおるが、果たして真に憐れむべきなのは、どちらなのかのう」

「と、いうと?」

「神にとってみれば、人だって多く産み、短命な種であるのに」

 ぱくん、と大きな口に焼き菓子が消えた。大きく咀嚼して、ごくんと喉が動く。

「はて、何の話をしておったか。……ああ、結婚が不安だ、という話じゃったな」

 テウ爺は、特に悩むこともなく、白くなった髭を撫でる。

 白い髭はもうかさついているのに、その背景にある年月が羨ましく見えた。

「そんなのは、してみねば分からんじゃろ」

「ええ……?」

 引き気味に抗議をする俺の声も、二人は耳が遠いと聞かなかったことにしてしまう。

 まだ要るかの、と薦められた焼き菓子は、もう満腹だ、と断ることになる。

 残りは、目の前で茶を楽しむ二人の腹に消えていった。

 

▽11

 結婚式直前に、皆で集まって最終確認を、という話になった。

 大袈裟に予定としてしまうと警戒されかねない。以前と同じように、魔構に昼食がてら集まることにした。

「差し入れだ。遠慮なく食べてくれ」

 食事は、ガウナーの懐から全員分には余る量の昼食が提供される。どれも何かをしながら食べやすい形状をしたものばかりだ。

 そこまで広くもない職場は、更に密度を増している。椅子も足りずに、敷布の上に座って書類を広げている者もいるくらいだ。

 座る位置も円形で、誰が偉いのか最早わからない。唯一、ガウナーの周囲だけが少し空いており、主導する立場だということは分かった。

「では、打ち合わせを始める。初めましての顔はいないが、……政策企画課のガウナーだ。まずは私から、腕章の調達が間に合った。当日の朝に配布するつもりだ。用途と使用方法は前回の通り。詳細は配る際に説明する、次。通信機について、トール」

 はい、と指名されたトールは手を挙げる。配られたのは、全員分の通信機だった。

「主に結婚式当日に使用するものですが、当日までに操作に慣れてください。質問は俺が受け付けます」

 それから、簡単に操作方法の説明が行われた。難しいことはないが、一対一ではなく多数が同時に繋がるため、全員の声が一気に入ると混乱する。

 持つ人数は少ないが、喋る際には気をつける必要があった。

 話は一度、ガウナーに戻される。

「ありがとう。次はリベリオ王子の警備について、サーシ課長から」

「はい。基本的にリベリオ王子の側には僕と、ニコがいることになると思います。古傷を抱えていますので、逃走時の移動手段として二人乗りの雪車も用意しました。通路は問題なく通れると思うのですが、基本的に人にぶつかったら跳ね飛ばします」

「まず避けてください。音がしたら気をつけますけど!」

 シフの言葉に、サーシ課長はにっこり笑うと、話を終えた。あの表情は、もし迂闊に前にでも出たら跳ね飛ばされること請け合いだ。

 ニコは結界を割るし、結界を張りもする。そんな犬に突っ込まれるのは、馬車に突っ込まれるより一溜まりもないかもしれない。

「では次。会場の魔力的特性について、ツクモ」

「はい。会場には……古い文献で妖精、と呼ばれる存在がいます。……彼らは、元は建築物に使われた樹に棲んでいた存在、です。主に、気に入った相手の魔力の増幅、魔術の伴唱、気に入らない相手への……妨害行為をします。転ばされたり、跳ね出されたり」

 部下は打ち合わせ前に、何度も考えた文章を読み直していた。普段よりも言葉は滑らかで、声もよく出ている。

「彼らの気に入ることは、建物を大事にすること、です。気に入らないことはその逆。……柱や壁を傷つけないよう、気をつければ、味方になり得ます。最悪……、壊さざるを得ないときは、謝罪してください。全く、言葉が通じない存在ではありません」

 ツクモの話が一段落すると、ガウナーが言葉を引き取る。

「この話は、魔術の素養のない人間にしても上手く飲み込めないだろう。そこで、基本的には『歴史的価値のある建物を傷つけぬように』と言い含めようと思っている。ただ、この場にいる面々ならば、根本的な話をしておいたほうが上手く立ち回れると判断した。心に留めておいてほしい」

 ほう、と息を吐いて、ツクモが肩の力を抜く。近くにいた課員から背を叩かれていた。

「次は配布物について、例の……『重力球』について、ヘルメス」

「はい。希望する方に、重力球という装備品を配布します。この球を投げると、当たった人を地面に沈めることができます。────いまから実演します!」

 ヘルメスは、実験狂らしく、近くにいた可哀想なシフの腕をがっしりと掴んだ。そのまま庭へと引きずっていく。

 窓から見える位置に歩いて行くと、王宮からは幻影が見えるよう丁寧に結界を張った上で、シフに球をぶつける。

 シフが地面に沈む姿を見て、シャクト隊長は興味深そうに唸った。

「あれを、防衛課の備品に欲しいという話をしていてな。酔っ払いを押さえるのに役に立つ」

「量産できそうだったし、結婚式後に余ったら持ってけば?」

「そうか。では、また相談に来る」

 隣にいたサーシ課長と量産の打診をしている様子からすると、またシフが実験役として連れていかれる未来が俺にも見えた。

 頬に泥を付けた部下は、ヘルメスを罵倒しながら戻ってくる。宥めつつ、一番うまそうな揚げたパンを差し出すと、一気に静かになった。

 ガウナーはヘルメスに対し、他に話しておくことはないか、と尋ね、残りの説明を加えた。

「ゴーレムの腕に砲を仕込み、あの重力球を射出する機能が追加されている。重力球で床に沈んだ相手は、向こうが解除の術式を知らなければ放っておくことができる。逆に、味方が当たってしまった場合は、近くにいる魔術師に解除を頼むように」

 それからも各々から報告が進み、昼休憩の時間が終わる少し前に、打ち合わせのすべての議題を話し終えた。

「では。最終打ち合わせはこれにて終了とする。お疲れ様」

 残り時間は食事を詰め込む。昼休憩の終わりと共に、みな自身の職場に戻っていった。

「リベリオ。当日の服について、少し話がある。内部に魔術式が仕込まれていてな────」

 ガウナーは打ち合わせが終わった後、リベリオを捕まえて説明を加え始めた。

 自国の重鎮なら着るのに慣れているが、リベリオはケルテ国の王族だ。マーレ国と違い、魔術的な技術もあまり進んではいない。

 説明を受けた異国の王子は、ふむ、と興味深そうに口元に手を当てた。

「医療魔術、とやらが仕込まれた場合に、急所はどこになるのかな」

「主に首から上だ。胴体はかなりの範囲で守られる」

 二人は言葉を交わし終えると、残った食事を片付けている俺たちの元に戻ってくる。ガウナーはどかりと俺の隣の椅子に座ると、手近にあった食べ物を掴んだ。

 彼一人だけ喋り通しで、食事を取る暇もなかった、と思い出す。

「いいのか? ゆっくりしていて」

 声をかけると、彼の顔がこちらを向いた。ほんの少し、唇が持ち上がる。

 好きなものに逢えた、そう言いたげだ。嘘をついて、真実を黙っていた伴侶相手に、彼は未だ好意を抱いてくれる。

「ああ。食べないと保たない」

「それ、魔力の貯蔵に協力してるからですよね。トールもずっとばかすか食べてますよ」

 近くにいたシフが、心配そうにガウナーを見て、特に量のある食べ物をこちらに寄せてくる。

 伴侶はそれを受け取ると、貴族らしくない大口でかぶり付いた。垂れた肉汁をぺろりと舐め取る。

「シフは、トールの家によくいるのか?」

「どっちか気力のあるほうが飯の用意できるので、一人より都合が良くて。最近はうちの連中もよく来てますよ」

 みな同じように忙しいはずで、その中でも元気な者が食料の調達をしていると言う。ガウナーは腕を太ももの上に乗せ、背を丸める。

 普段は見せない砕けきった様子に、俺の方が驚いてしまった。

「それはいいな。楽しそうだ」

「宰相閣下もどうぞ、って言いたいんですけど……。防犯がちょっと不安なので、いろいろ落ち着いたら来てください。酒を持ち寄って飲む会に、抵抗がなければ」

「抵抗は無いな。学生時代はよくやっていた。いい酒を持ってくよ」

「良すぎる酒は要らないですよ。量が喜ばれるような面子しか来ませんから」

 そういうものか、とガウナーは目を丸くした。

 珈琲を淹れていたらしいツクモが、カップを机に並べ始める。ガウナーは会議の発言を褒めつつ、礼を言って受け取った。

「妖精、というのは、今もいるのか?」

「……この周辺、も、昔からの樹木が多い、ので……たくさん、います」

 部下たちと朗らかに談笑する様子は、俺との会話よりも気を張っていないように見える。そう、見えてしまった。

 食事の手を止め、カップを持ち上げた。淹れ立ての珈琲の香りはいいが、口に含むと一気に苦みが押し寄せる。

「────ロアは、たくさん食べているか?」

 見知った掌が、背をぽんと叩く。

 不意に泣き出してしまいそうなほど込み上げるものがあって、ぐっと勢いを堪える。

 きっと、妙な顔をしてしまっていただろう。精一杯、表情をつくる。

「食ってるよ。美味いものばっかりで嬉しい」

「それは良かった。少しばかり贔屓して、君の好きなものを多めに買ったんだ」

 これとか、と差し出されたのは、肉を甘辛く煮付けた品をパンに挟んだもので、間違いなく、俺の好みの味だ。

 こうやって最初に魔構で昼食を摂った時から、俺の好みはこの人に把握されていたのだった。齧り付くと、甘くてちょっと辛い、大好きな味がする。

「ガウナーは、これとか好きだろ」

 包装してある菓子を引き寄せ、彼の手元に握らせる。

 好かれるために相手を見て、好きなものを覚えて、自らだってそうなれるように努力して。総て、全て、失われるかもしれないものばかりだ。

「ああ、好きだ。君はよく分かっているな」

「当たり前だろ。もう何ヶ月、一緒に住んでると思ってるんだ」

 言葉を吐く度、胸の表面を引っ掻かれているような心地だった。

 ほんの数ヶ月だ。人生のうちのたった数ヶ月。近くで暮らして、躰を重ねただけの相手に、呆れるほど執着している。

 机の上が片付いた頃、魔術式構築課に来訪者があった。

「おや。ガウナーも一緒でしたか」

「分かっていたんだろうに。白々しい」

 神官服姿のルーカスは、足元で盛んに甘えようとするニコを捌き、室内に入ってくる。ガウナーは用件が分かっていたかのように立ち上がると、書類を受け取った。

 宰相閣下の友人は、生者と変わりなく存在し、言葉を交わす。外見が老いることはないとしても、ルーカスを人間だと思わない人の方が少ないだろう。

 もし、俺が『あの存在になる』として、幸せだと思うんだろうか。

「ロア」

 ぼうっと考えていると、当人が急に目の前に姿を現した。目を見開き、身体を僅かに背後に倒す。

「差し入れです」

「お菓子?」

「はい。神殿の庭で収穫した果実を、干して生地に練り込みました」

「神殿、お菓子作りなんてするんだ」

「寒い日には炊き出しをするので、一緒に配るんですよ」

 魔構の連中も歓声を上げながら、貰った籠からお菓子の包みを拾い上げる。俺は包みを開け、生地に噛み付いた。

 甘くてふんわりした生地に、甘酸っぱい果実の味わいが時おり顔を覗かせる。思わず顔が綻んだ。

「美味い」

「良かった。最近、みな疲れているようだ、と伺ったもので」

「はは……」

 苦笑いを浮かべるが、否定することもできない。早々に菓子を食べ終えると、ルーカスに手を掬い取られた。

 くい、と引かれ、その場に立ち上がる。

「何だ?」

「少し、外で話をしましょう」

 その声には、有無を言わせぬ響きがあった。にっこりと笑われ、断るための言葉を失う。

「────ちょっと出てくる。話し終えたらすぐ戻るよ」

 ひらり、と手を振ると、いつものようにガウナーは手を振り返した。ルーカスと連れ立って職場を出ると、待っていたかのようにニコが纏わり付いてくる。

 脚を上げて踏まないように気をつけつつ、職場から少し距離をとって木陰に入る。

「…………神様から、お話でもあったか?」

「おや、貴方はまだ『こちら側』ではない筈なのに、よく分かりましたね」

「急に訪ねてきて、有無を言わさず連れ出されれば察するだろ」

 木の幹に背を預ける。遊んでほしい、と言いたげなニコの両前脚を受け止め、上下に軽く振った。

 前脚を放すと、星の犬は大人しく腰を下ろす。

「私も驚いているんですよ。貴方に不老を提案するだなんて。貴方がそれを直ぐ、……断らなかったなんて」

「はは。俺、そんなに刹那を生きてそうに見える?」

「いいえ。そうではなくて、貴方がガウナー無しに生きていけるとは、思っていなかったので」

 視線をあげて、赤色の瞳を見る。木の葉が揺れる度、隙間から日の光が差す。その度に、彼の瞳は瞬いた。

 作り物のように、綺麗な人間だ。俺も彼の神の提案に頷けば、同じ色を持つことになる。

「あんたには、そう見えてたのか。……成程なぁ」

 とん、と両肩を掴まれ、木の幹に押し付けられる。額が付きそうなほど身を寄せ、やがて、体温が伝わってくる。

 どくり、どくり、と己のではない心臓が鳴っている。

「私の心臓、まだ、鳴っているんですよ。おかしいでしょう。もう、年を取らないのに。人としての色を失ったのに。この身体は、人のそれみたい」

 声に、僅かな震えが見える。泣きそうな表情をしている彼の頭に手を掛け、自らの肩に押し付けた。

 例え神に対してでも、顔を見られたくないだろう、と思った。

「私は、長くは大神官としていられない。きっと、いずれ私の人から離れた部分を異質だと言う人たちが出てくる。壮年、老人になる年になっても、皺一つできない人間を、周囲の人間が『ひと』ではない、と思う時が来る」

 そうっと肩に手を伸ばし、宥めるように撫でる。

 彼は、人の中にいたかった。背筋を伸ばし、神の声を聞いて、先の事を伝えられ続けながら、それでも尚、人でありたがった。

「昔、まだ学生だったサウレが国の未来を語るとき、輝いて見えた。私もガウナーも、助けになりたかった。だから、大神官になった直後は、自分の後ろ盾に神がいることが、サウレの、ガウナーの力になれることが、嬉しくて仕方がなかった」

 相槌を打って、ひそり、ひそりと言葉を交わす。二人の間だけの言葉、きっと何の効果もないと分かっていて、指先を動かして結界を張った。

 この空間だけは、誰の目にも触れさせたくなかった。

「でも、それも、長くは続かなかった。サウレも、ガウナーも、いくら若く見えても、年相応に変化をしていく。私だけ、年を重ねるごとに、取り残されていく。彼らは、国民と共に歩むと決めた人達です。それは、時すらも。……きっと提案したとして、私と同じ時間を生きてくれない事は分かっていました」

「…………うん。ガウナーは、不老を望まないと、言ってた」

 俺の言葉に、ルーカスは悲しげな顔をして、少しだけ唇を持ち上げた。

 いつもの笑い顔のはずが不出来で、あまりにも人間らしかった。人の表情とは、割といびつなのだな、と他人事のように思う。

「ロア。貴方が不老を望むとしたら、私はきっと、独りではなくなって、嬉しくなってしまうことでしょう。けれど、……まだ貴方は人だから。これだけ、伝えたくて」

 赤い唇が、耳の近くに寄る。吐息のような声は、本当に俺だけにしか届かない声量で告げた。

「────時は。本当に沢山の、かけがえのないものを与えてくれたけれど。友と足並みを揃えて生きたかった私の、寂しさを埋めてはくれなかった」

 俺の背に腕が回って、きゅう、と力が籠もった。目の前にいて、鼓動をして、言葉を交わし合って、抱き合ったとしても、俺たちには超えられない壁がある。

 俺は彼の背を抱き返して、ほんの少しの間、小さな嗚咽を共有した。

 

▽12

 結婚式の前日は、静かだった。

 仕事も昼頃には帰るよう言われ、屋敷に帰ると、追うようにガウナーも帰宅していた。結婚式の流れについての確認だとか、細かな話をしていると一気に夜になった。

 ニコは、今日は神殿で神気の調整をするらしい。執事であるアカシャが帰っていくと、本当に二人きりになった。

 二人でいつもよりも豪華な夕食をとり、二人で風呂に入って身体を洗った。寝室へと向かう道中は、差し出された手を取った。

 窓の外にある闇のような、しんとした夜だった。

「今日も、一緒に寝てくれるのか?」

「あと、どれくらい一緒に寝られるのか、分からないだろ」

 嬉しそうだった瞳が、一瞬で陰った。

 神の提案を受けるとは言っていない。そう言葉を取り繕おうとして、意味はあるのかと自問した。

 結婚式で起きる出来事次第で、それこそモーリッツ一族から反逆者が出てしまえば、その罰如何では離婚やむなし、となるかもしれない。ハッセの姓は短いのが気に入っていて、愛着もある。だが、だからこそ、愛着があるものに迷惑を掛けたいとも思わない。

 いっそ、離婚しなければならないほど、一族の誰かが何かをやらかしたら、提案を呑んでしまおうか。

「……君、ろくな事を考えていないだろう」

「分かるか?」

「それはもう。君の誕生日だって、遠くないんだ」

 俺たちは、誕生日から次の誕生日を迎える程、一緒にいるらしい。それなのに今も尚、関係を続けられるかの綱渡りをしている。

 結婚は、ある種の終わりだと思っていた。だが、これが終わりだというのはあまりにも、数多くの問題が起こりすぎだった。

 寝台に入ると、照明が消される。眼鏡を外して渡すと、ガウナーの掌が寝台の脇にある小机へと置いた。

「……あと何日、一緒にいられるか分からないので、抱きしめてもいいか?」

「どうぞ? ……こんなの、結婚式前日の会話じゃないな」

 笑っても、伴侶は笑い返してくれない。腕を伸ばして、彼の背中を抱いた。

 もう涙は枯れきっていて、ただ、体温だけがその場にある。大きな掌が、頭を撫でた。何かに包まれる感覚は、彼と出会ってから得たものだ。

 腕を放して、身を寄せる。

 相手の呼吸音と、鼓動の音。少し体勢を変えたときの衣擦れの音。眠るのが怖くて、ただ息を潜めて音を聞いていた。

「────ロア」

「なんだ?」

「長いこと、私と過ごしてくれて、ありがとう」

 別れの言葉みたいじゃないか。そう詰ってやりたくて仕方がない。それと同時に、彼を罵る資格などないことは、俺が一番よく分かっていた。

 彼の顔が見られなくて、天井だけを見ていた。

「君と過ごした日々は目まぐるしかったけれど。思い返して、失いたいものなど何もない。人生での博打は、してみるものだと思った」

 はは、と笑う声は、大好きな声と、響きをしていた。

 布団の中で、手のひらが捕まる。指先を絡め合うと、ふと、魔力の輪郭を解いた。慣れた波が流れ込んでくる。

 この人を構成する全てが、好きだった。胸はただ引き絞られて、にぶい音だけを立てる。

「もし、私が先に死ぬとしたら。君は寂しがり屋だから、それだけが心配だ」

「……それは、あんたもだろ」

 彼はちらりと視線を寄越して、また天井を見た。視線の先に俺はいないのに、彼の全てが俺を追っている。

「私は、……大丈夫だ」

 僅かに震える声をしておいて、誰が大丈夫だと信じるものか。きゅう、と責めるように指先に力を込めた。

 彼は何も言葉を発しようとはしなかったし、俺も、それ以上なにも言えなかった。いつの間にか指先の力が抜け、寝息が聞こえ始める。

 ようやく、彼の横顔を見る。

「このまま、死んでしまえたらなぁ……」

 ふふ、と独りだけでこっそり笑って、ぴったりと身を寄せる。

 眠りの淵に沈むまで、ただそのほんの僅かな間、幸福を噛み締めていた。

 

 

 

 答えを促すためか、また夢を渡られた。

 とぽん、といつもの泉の中に落とされ、水中を漂う。水面に上がろうとは思わなかった。そのまま沈んでしまえ、と身体の力を抜く。

 くい、と見知った腕が、俺の手を掴んだ。そのまま、水面ではなく水中に引き摺り込まれる。

 見知った浅黒い色の腕。だが、込められる力は優しく、違和感を覚える。俺は自らを引く腕の主を見る。

 腕の主は、夢の中でよく出会った、見知った顔立ちをしていた。だが、笑う表情はいつもより柔らかく、ただ水底を目指して潜る。

「あんたは……?」

 男は、自らの唇に立てた指先を当てた。指示された通りに口を閉じると、それでいい、と唇を緩めて潜り始める。

 あの神と同じ顔をしていながら、纏う空気がわずかに違っている。丁寧に棘を落とされた薔薇を思い出した。

 深く潜るたび、意識が遠ざかっていく。夢から弾き出されるのだ、と分かった。

 礼を言おうと、男を見る。

 ふわり、と彼の髪が水中を漂う。彼の漆黒であるはずの髪には、白い髪が一筋だけ混ざっていた。

 

 

 

 光の中で、揺すられて起床する。俺が目を開けると、心配そうな顔をしたガウナーがこちらを覗き込んでいた。

 身を起こすと、ほっとしたように俺の身体を抱き竦める。

「君が、……起きなくて。夢で遭ったクロノ神の気配がして……、よかった」

 長く吐き出された息に、現実に戻って来られたのだと実感する。広い背中をかるく叩いて身を離した。

 夢の事を口に出すことを躊躇って、けれど、周囲にガウナーが言うような神気は、もう無い。

「今は、クロノ神の気配はするか?」

「いや、しない。気配が切り替わったというか。例えるなら、ニコに似た気配がするんだ」

 周囲を見回しても、ニコの姿は見えない。それに、あの子が実体なく助けを飛ばせるとは思えなかった。

 ニコは、まだ神殿にいるはずだ。首を傾げ、彼の肩に額を当てる。

 夢から引き出したあの違った存在は、もしかしたら、まだ近くにいるのだろうか。それなら、口を開いても構わない気がした。

「……その、クロノ神に夢には引き摺り込まれていた、と思うんだけど。なんか違うクロノ神に追い出された」

「違うクロノ神?」

「ほら。クロノ神って黒髪だったろ? 今日は、夢でいつもの泉に引き込まれたんだけど、『髪が一房だけ白いクロノ神』に追い返されたんだ」

 ガウナーは俺の身体を抱いたまま、あやすように頭を撫でる。そうしながら、しばらくのあいだ黙った。

「クロノ神に姿が似ていて、君を逃がすことができるほど力のある存在……?」

「うん。似てるんだけど、違う、って感じがして……。ニコ、でもないはずだけど。白黒だからかな、気配は似てたかも……?」

 クロノ神に似ていて、ニコと共通するものがあって、けれどクロノ神よりも柔らかい印象のある存在。あの白い髪のほんの一房が、大きな違いに見えた。

 二人して頭を悩ませたが、朝の短い時間で答えが出ることはなかった。起き出した方がいいだろう、と寝台から抜け出る。

 窓から届く日差しは、眩しいほど明るかった。

「体調は?」

「よく寝た気がする。魔力も万全」

 くしゃりと掌に髪を掻き回され、逃れつつ眼鏡を持ち上げてつるを引っ掛ける。今日も伴侶の美貌は変わらずそこにあった。

 寝室を出て、居間へと向かう。扉を開けると、執事であるアカシャも、料理長であるイワも、それぞれの仕事をしている最中だった。

 俺たちが起きてくるのが早すぎたのか、二人して目を丸くしている。

「おはよう」

「おはよ」

「「おはようございます」」

 机にはいつも通り、鮮やかな朝食が並んでいた。量も普段と変わりない。俺が目を輝かせていると、イワは腰に手を当てる。

「式で魔術を使う予定があるってんで。普段よりじっくり火を通した、いつもと変わらない朝食を準備させていただきましたよぉ!」

 朝が似合う男は、ほらどうぞ、と執事でもないのに椅子を引く。勧められるまま腰を下ろすと、ちょうど良く椅子を押し出された。

「八分目までは食べてもいいか?」

「ああ。衣装の中には腹を締めるものもあるから、満腹だけは避けてくれ」

「だよなあ。でも魔術を使うから食べないと……」

 魔力切れで生死に関わるほうが困るか、と苦しくなる一歩手前まで食事を腹に詰めた。普段はイワが朝食を見守っていることはないが、今日はくるくると食卓と厨房を行き来していた。

 ああ、特別な日なのだな、と実感が湧いてくる。

「ガウナー」

「なんだ?」

「生き残ろうな」

「……冗談を。と、笑えないのが困ったところだ」

 明日、俺はどんな道を選んでいるのだろう。選択しなければいけない事が多すぎて、まったく予想が付かない。

 食事を終え、立ち上がる。

「美味かったよ、イワ。あのスープ、うちの実家の手順で作ってくれたんだろ。懐かしくて、実家からも送り出されてる気分になった」

「はい。モーリッツ家の料理人から、教えて頂いた味です」

 料理長は綺麗になった皿を見て、満足げに笑った。お気をつけて、という声を背に受けながら、二人して衣装室に入る。

 式の衣装に着替えるのは会場近くでだが、今日の服もまた用意をされていた。アカシャに、今日はベレロも補佐をしつつ服を身に纏わせてくれる。

 本番の衣装ほど飾りは多くないが、たっぷりと布を使った服は、当然のように白を基調としている。

「それと。これを」

 耳元に、クレーニー工房で作った耳飾りが添えられる。鳥の意匠が組み込まれた品は、動く度にきらりと瞬いた。

 ガウナーの耳にも同じものが飾られた。やはり、揃いの目の色と並ぶと感慨もひとしおだ。

「式場に向かうまでとはいえ、この装飾品になったのは……?」

「ああ。指輪だと、移動中に何が起きるか分からないし、飛び立つ鳥、という題材が相応しいかと思ってな」

 飛び立つ先が何処になるかは全くわからないが、それでも俺たちは翼を羽ばたかせようとしていた。

 衣装室を出て、玄関へと向かう。外出用の靴に足を通すと、庭から駆ける脚音が聞こえてきた。

「ニコ!」

「先ほど、ルーカス大神官が送り届けてくださいました」

 毛皮はつやつやと梳かれ、日差しを浴びてその滑らかさを視覚に伝えてくる。普段なら飛びかかってくるところなのだが、今日は玄関の床の上に腰を下ろした。

 頭を撫でると、すりすりと頬を擦り付ける。

「神気。溢れてるな……神官が怪しみそうなほど」

「まあ、それはルーカスに誤魔化してもらおう」

 連れ立って屋敷を出ると、普段とは違う馬車が目の前に控えていた。

 白い車体の外装には今朝がた用意したであろう花が飾られ、たっぷりと白い布を使ったリボンが更に華やかに魅せる。

 乗るのを躊躇って一歩引いた俺の背を、ガウナーの掌が前に押し出した。普段とは違い、かっちりとした服を着た御者のベレロが扉を開く。

「……どうぞ」

「なあ、ベレロ。身体ががちがちだぞ」

「精一杯かっこつけてますので……! 時間もありますから、早く乗ってください!」

 ベレロはばつの悪い表情をして、こほん、と咳払いと共に気を取り直す。丁寧に誘導する御者により、俺たちは普段よりも広い椅子に腰掛けた。

 おそらく部下……それもフナトの術であろう、結界が張られているのが分かる。

「うちの部下、早朝から良い仕事してるなあ」

「分かるものだな。後ほど、たっぷりと礼はしようと思っている」

 声が掛かり、馬車が走り出した。

 普段なら即、床に寝転ぶニコが、今日は扉の近くで座ったまま耳を立てている。わざわざ早朝から、ルーカスがニコを届けた理由が分かった気がした。

 しばらく問題なく馬車は走っていた。だが突然、俺を見て、アォ、とニコが鳴く。

「ベレロ。ちょっと減速できる? 邪魔にならない所で停めて」

「分かりました!」

 ベレロが馬車を停めると、ニコは窓のあたりで俺をちらちらと見る。促されたような気がして窓を開けてやると、外に顔を突き出し、また耳を立てた。

 カシカシと御者台と通じている扉を引っ掻き、ベレロが開けて顔を見せると、わふわふと何事か話し始めた。途中、ベレロの右腕をぽんぽんと前脚で叩く。

「あの、右に曲がれって言われてる? みたいなんですが……、右の道のほうが下町の近くを通るので、景観としては雑多なんですよ」

「左に行く予定だったのか?」

「はい。右に遠回りしても間に合いますが、左の方が道も広くて景観が良いので」

 俺はガウナーに視線を送る。こくん、と彼も頷き返した。

「じゃあ、右で頼むよ。動物の勘って馬鹿にできないしさ」

「分かりました。では、右折しますね」

 ニコはそのまま御者台に移り、わふわふとベレロに何事かを言い続ける。道中、眺めていると、ぶんぶんと明らかに頭を振って御者に前脚を添え、何らかの誘導をしているような動作をしていた。

 その後も、言われるがままに馬車を走らせる。俺も周囲に気を張っていたが、選ばれた道は人が少ない道ばかりで、魔術で監視されている様子もなかった。

 星の瞳は、彼の神のように、先の時を読んでいるのだろうか。明らかに意思を持って俺たちを守ろうとしている様子で、初め拾った時には弾き飛ばされていたのにな、と感慨深く思う。

 集合場所であり、準備が整えられるのは王宮に用意された一室だ。

 門の前に馬車を滑り込ませ、王宮に用意された部屋へ入ると、仕立師が待っていた、というように俺達を誘導する。

 背を押されながら振り返った視線の先で、ニコは疲れた、とでも言うように扉に体を預けていた。

 

▽13

 そこからは、怒濤のように飾り立てられた。

 皿の上に転がされた、食材にでもなった気分だ。仕立師に言われるがまま、次々と服を取り替えられる。

 途中、自分が何をしているのかわからなくなりつつ、顔に液体を塗りたくられ、皮膚を揉まれ、そして種類の分からない液体や粉をまぶされる。同時に、少し伸びた髪は編み込まれ、肩に付かない髪型に変えられた。

 整えられた顔を保護しつつ、用意された衣装を身に纏う。どの布も、染み一つない白だった。

 昔、自国で婚礼衣装が白である理由を聞いたことがある。

 数ある理由のうちの一つに、『結婚相手が、神ではなく人であるから』という理由があった。クロノ神が持つ神気は、色で表現するならば黒だ。

 白く、厚い布地を見下ろした。守られているような気がして、ほっと胸を撫で下ろす。

「ロア」

 先に衣装が整えられたらしいガウナーが、俺の準備をする区画に姿を現す。彼もまた、きっちりと髪は整えられている。

 装飾品類を調整している俺の姿を視界に入れた途端、ぱあっと彼の表情が綻ぶ。にっこりと目を細める眼差しは、本当に愛おしいものを見ている時のそれだった。

 気恥ずかしく、僅かに視線を逸らすが、相手はつかつかと歩み寄ってくる。

「……────、綺麗だ」

 長く考え込んで、伴侶は、たった一言だけを告げた。

 窓から光が入り、彼の瞳にある水面に生命を吹き込む。声音はただ跳ねるばかりで、喜びを声にしたらこの音になるだろう。

「君には白が似合う。今までも沢山の服を着てくれたが……。今は、胸がいっぱいで言葉が見つからない」

 潤んだ目元を、苦笑と共に仕立師が拭った。そのまま、直し、と奥へ引いていかれる。

 くすくすと笑い、顔を上げると鏡には整えられた自分の顔があった。俺が着飾って、盛大に喜ぶのはガウナーくらいだ。

 きゅう、と締め付けられた胸の内を、見ない振りする。

「ガウナー。俺の方は終わったよ」

「ああ、私もだ」

 立ち上がった伴侶は、白を基調とした裾の長い服を身に纏っている。

 裾には銀糸で刺繍がされているが、国花を図案化したものだ。二人が並び立つと、対になるよう服はほぼ揃いで、装飾品に使われる宝石は互いの持ち色を使っている。

 化粧を直されたガウナーに近づき、腕を組む。背伸びをして、耳元に唇を寄せた。

「あんたも、いつも以上に綺麗だ。……化粧さえなければ、吸い付くんだけどな」

「どうぞ?」

 ん、と唇をつき出し、片目をつぶられる。分かりやすい戯れへ、軽く笑い返した。

「あとで、な」

 互いに、不自然なほど浮かれているのは分かっていた。問題から目を逸らして、この一瞬だけを目いっぱい楽しもうとしている。

 掌を捕まえると、指先を通して握り締められた。

「ニコ。衣装に毛が付くと目立つから、遊ぶのは式の後な」

 俺たちの手が空いた、と喜び勇んで跳びかかろうとしたニコが、ぴたり、と動きを止める。浮かんだ前脚は地に着き、少し距離を取って尻尾を振った。

「酷いことをしている気分だ」

「私もだ」

 しょんぼりとした俺たちの元に、歩み寄ってくる姿があった。普段よりも布を重ね、表面に光沢のある、式典用の神官服を纏うルーカスだった。

 髪は上品に編み上げられ、銀の髪飾りで留められている。口さえ開かなければ、鍬さえ持たなければ、清楚な美人、という褒め言葉がよく似合う姿だった。

 駆け寄っていったニコが、神官服に跳びかかる直前で停まる。一応、俺の言葉は通じていたようだ。

「お待たせしました。……おや、お二人とも、良くお似合いですね」

「そうか? ルーカスも、今日は着飾るんだな」

 長い裾を持ち上げてみせ、彼の服へと視線を向ける。普段の神官服は、美しさはあれど、ある種のかっちりとした堅苦しさがあった。

 だが、今日の服は明らかに、審美性が重視されている。神官に対しての感想としては違和感があるが、神々しい、という感想が浮かぶ。

 ただ、布が多い割には布自体が軽いのか、足は滑らかに動いていた。

「ええ。流石に、私を狙うつもりはないでしょうし。……貴方がたはともかく」

「んん……? 狙いはリベリオだろ?」

「ついでに他国の国力を削ぐため、重要人物の一人や二人、と考える輩もいるかもしれませんし、ねえ?」

 大神官の視線は、宰相閣下に向けられる。繋いだ腕を引くと、ガウナーは厭そうに額に指を当てる。

「私で遊ぶな。……まあ、そういった想定もしている。あちら側には、裏に属するいくつかの勢力が力を貸している。助力の見返りとして、誰それもついでに、と指示された者がいるかもしれない」

「俺たち。今日は結構、人前に出るよな?」

「私の返事は、君の想像している通りだ」

 自分が暗殺者であるのなら、祝い事だと気を抜いている標的なんて格好の獲物だ。相手側がはっきりと誰を狙っているか定められないのも、あまりにもやりづらい。

 服の下には防護のための仕込みがあるとはいえ、前回と同じく、痛みはどうにもならない。

「前回は、医療魔術を仕込んでいたようですが、今回は相手方に魔術の心得があるようですので、私が代わりになりますね」

「ああ。……そういう話は事前に貰ってたけど、神術を仕込むのか?」

「ええ。別に、術とかではないんですが」

 ルーカスは左右の手のひらで俺とガウナーの手を持ち上げると、上下に振った。手のひらのちょうど中心あたりに、じゅう、と焼き付くような熱が走る。

 反射的に白い手を振り解き、手の内側を見る。獣の爪痕のような赤い筋が数本、皮膚の上に色を残していた。

「身体の表面に、結界が張られているようなものだと思ってください。もし、この防護が破られたら、さっきと同じような感覚があるはずです」

 拳を固め、ガウナーの胸元へと突き出す。柔らかい胸のあたりを狙った筈だが、何かに弾かれたように指の先が痺れた。

 指を開いて、同じ場所にぺたりと当てる。普通に触れる分には変化はなかった。

「魔術じゃないから、何にも詳細が読み取れない。結界みたいなものがあることすら分からない」

「はい。我が神は、夜闇に隠すのがお得意ですので」

 黒く塗りつぶされてしまえば、その下に仕込んだ色は分からない。神の特性をそのまま力に転換した防護は、魔術師でも知りようがない守りだ。

 力の源に対して心中複雑な部分はあれど、伴侶の安全は何物にも代えがたい。文句を呑んで、ルーカスに礼を伝えた。

「では、神殿へ行きましょうか。神殿での儀式は、結婚する二人だけで行いますので」

 神殿では、神と、言葉を仲介する大神官と、結婚をする二人だけで儀式に臨むのが一般的だ。だが今回は新郎が、国の要職に就いている。

「……詳しく確認してなくて悪い。国としての儀式でも、護衛とか要らないんだっけ?」

 自然と、護衛が手配されているものと思っていた。ガウナーに尋ねるが、彼は首を縦に振る。

「儀式に参加できるのは、神と、神官、そして結婚をする二人のみ。そして、神殿へ向かう道中もまた、儀式のうちだ」

「王宮と神殿が近いとはいえ、護衛なしで移動か……」

 肩を落とすと、ガウナーは指で下を差す。向けられた先には、顔を持ち上げたニコがいた。なんだか得意げだ。

「ただ『神』は儀式に参加できる」

「……いや、神。だけどさぁ」

 フリルの付いた白い首輪を巻いたニコは、得意げに尻尾を振る。仕方ないか、と息を吐き、皆で王宮を歩き始める。

 王宮内には人はおらず、静かだ。普段なら喧噪がある場所が、また別の一面を覗かせている。

 広い通路を通って、王宮の外に出た。ルーカスの導きに従って歩くと、普段は高い塀が設けられているはずの場所が、大きく開いていた。

 神殿がある方向、王宮を囲っているはずの塀が、そこだけ無かった。

「門、があったのか……?」

「元は、民の反乱があった際に、王族が神殿に逃げ込むために造られた門でした。サウレの時代になって、『民に反乱を起こさせなければ良いだけの話』と、普段は閉じています。ただ、今日くらいはいいでしょう。ここを使うと、王宮と神殿は直通なんですよ」

 開いていた門は、俺たちが通った後にルーカスが閉じた。

 王宮と神殿が、側面同士を門を通して繋がっている格好だ。普段は表から出入りしていたが、設けられていた石造りの階段を上がっていけば、すぐに神殿の建物が見えた。

 王宮の敷地も、神殿の敷地もまた広い。近くにあるとは思っていたが、移動がこんなに楽に済むとは驚きだった。

「これ、俺に知らされてなかったのって……」

「門も古く、耐久性も然程ないから。警備上、存在を明かさない方が都合が良くてな」

「ああ、そりゃそうか」

 神殿の庭、自然にある森林としては整った区画を抜け、建物へと近づく。普段なら神官の一人や二人いてもおかしくない時間だが、人影は見えなかった。

 表にある高い門も、今日はぴったりと閉じている。しん、と静まりかえった光景の中に、靴底が石畳を叩く音が異様に響いて聞こえる。

 白で整えられた静かな神殿は、神域、と呼ぶに相応しい面をしていた。

「本当に誰もいないんだな?」

 周囲を見回しながら言うと、ルーカスは抑揚の少ない声を返した。

「神が降りてきますから。……もし、望まれたら。隠されてしまうかもしれないでしょう?」

 俺を一瞥すると、大神官は視線を神殿へと向け、歩き出した。縫い付けられたように止まった足を、手を引かれながら少しずつ動かす。

 見慣れているはずの廊下も、彩度を落としたかのように景色を変えていた。

 コツン、コツン、と足音がする度、背後から何かの気配がする。人ではなく、もっと、大いなるものが、ほんの小さな俺たちを追っていた。

 先導する影が立ち止まる。ルーカスの両手が、大きな扉を押し開いた。

 普段なら礼拝に訪れる人々で埋め尽くされているはずの場所は、がらんと静かな顔をしていた。

 奥へ歩みを進めると、彼は一段高くなっている場所、普段なら神官が立っている場所へと俺たちを手招きする。

 彼は、奥の壁に手を当てる。カチリ、と何かが動く音を聞き取ると、ルーカスは手のひらに力を込めた。

 壁に線が入り、その線は四角……扉を構成していることが分かった。

 開かれた扉の奥には、小部屋があった。

 黒い天然石で敷き詰められた床、黒く塗られた壁。ほんの小さな棚と、一面を埋める祭壇。

 ボウ、と灯る燭台は部屋全体を照らすには足りない光量しかなかった。

 黒。黒。黒。

 あまりにも異質な空間、表とは違う色味に気圧されるばかりだった。俺たちが足を踏み入れると、背後で扉が閉じられる。外からの光が閉ざされる。

「愛を誓うには、……おどろおどろしい場所だな」

「違いますよ。愛を誓うなら、表で、陽の当たる場所で誓えば宜しい。この場は、普段なら閉じている場所、神と遭うための場所です」

 ルーカスは一つの燭台を持ち上げると、祭壇へと向かった。備え付けてある燭台に火を移す。

 祭壇の全体が浮かび上がる。抽象的に描かれているのは、大型の犬だ。

「山犬か……?」

「いえ、狼です。クロノ神の使いとして、最もよく描かれる姿ですね」

 狼、という言葉自体、本当に古い文書にしか出てこない、縁遠いものだ。俺は足元で尻尾の動きを止めている存在を見下ろす。

「ニコとは、……似てるけど、半分くらい?」

「そうですね。ニコは、犬と狼を足した姿をしているような…………? 気がします」

 じっと祭壇を見つめているニコの瞳に、燭台の光が浮かび上がる。

 人の側で営みを助ける犬であり、神の使いとして意思を為す狼でもある。神が黒を持つのなら、人は白で線を引く。

 今朝、夢で出会った、白い髪が一房混ざった『クロノ神に似た存在』が、更に分からなくなった。

「ルーカス。俺、夢の中で『髪に一房だけ白髪が混ざったクロノ神』と会ったんだけど……」

「え…………?」

 ゆらり、と燭台の炎が揺れた。ルーカスの手が震えたようだ。

「いつも遭うクロノ神より、柔らかい。優しい感じがしたんだよ。ルーカスは……」

 言葉を進めようとした時、ニコがぴんと耳を立てた。ルーカスの背後に回り込むと、その膝裏を扉に向けて鼻先で押す。

 ルーカスは何かを察したような表情になり、腕を振った。室内の燭台がすべて掻き消える。

「外に出てください」

 小部屋から礼拝のための部屋へ出ると、素早く扉が閉じられた。扉が閉まった頃には、ニコが聞き取った足音が、俺たちの耳にも届く。

 閉じていた扉が、外から押し開けられた。

「儀式中、失礼します」

 室内に慌てた様子で踏み込んできたのは、神官服を着た人物だった。息を切らせた様子のその人は、やっと息を整えると俺たちに向かって言う。

「想定より早く、敵の集団が動き出したそうです。儀式後に宴を行う迎賓館自体を閉じ、一人でも多くの拘束を目指す、と。つきましては……」

「ルーカス。儀式は」

「延期で構いません」

 こくり、と頷き返す動作を合図に、開いた扉から足を踏み出す。示し合わせる必要もなく、全員で駆け出していた。

 

▽14

「外、通ってあっちの建物に向かわない方がいいよな!?」

 走りながら声を上げると、ルーカスが珍しく声を張り上げた。走りづらそうな服の裾を上手く捌き、足を動かしている。

「地下通路に案内します。こちらに!」

 案内されたのはルーカスの私室だ。

 部屋に入った途端、彼は床の中で特定の位置を靴底で叩く。ぐっと持ち上がった部分に手を引っ掛けると、床板が持ち上がった。

「この通路は、神殿と迎賓館を繋いでいます」

 地下は暗いが、ルーカスは慣れた足取りで細い階段を降りていく。

 足元を確かめつつ後に続くと、しばらくして、ぼうっと明かりが灯った。彼の手のひらの上には、自ら光を放つ球が浮かび上がっていた。

 最後尾にいたガウナーが、床板を閉じて降りてくる。

「大広間へ向かう、で、いいですか?」

「ああ。侵入者を確認して建物自体を閉じたのなら、来賓を集めたその部屋は最も守るべき場所のはずだ」

「では、さっそく向かいましょうか」

「強化魔術、使うか?」

「ああ……そうですね。私が強化しましょう」

 光球からふわりと気配が広がり、身体に纏わり付く。脚を動かすと、あまりにも軽い。視線で示し合わせ、駆け出した。

 走りながら周囲に視線を向ける。隠されている地下通路の割には、汚れが少ない気がする。

 通路は神術の気配で満ちていた。維持するための術が仕込まれているのかもしれない。

「この、通路って……、普段も使われてるのか?」

 耳を澄ますと、遠くから音がする。もう、地上で交戦が始まってしまっているのだろうか。

「この通路は、神殿と迎賓館、そして神殿と王宮、王宮と迎賓館の三つの通路がすべて独立して存在します。一番使うのは、王宮と神殿を繋ぐ通路ですね」

「私は、……昔も。内密な、仕事以外には、……使ってない!」

 ガウナーが走りながら言葉を添える。言葉には焦りが滲んでいて、不貞を疑われたくないという感情がありありと伝わってきた。

 口元に手を添え、こっそりと笑う。

「別に、もう疑ってないって」

「それは……分かってはいるんだが、念のため、な!」

 全力に近いほど速く駆けているが、疲れというものは吸い取られて散っていく。見知らぬ術を興味深く思いながらも、走り続けた。

 辿り着いた先には、金属製の縄梯子が掛かっていた。ルーカスは躊躇いなく足を掛け、頂上で扉らしきものを押す。

 そのまま地上に出ると、完全に蓋を取り外した。俺が地上に登ると、ガウナーがその後に続き、最後にニコが上がってきた。

「ここは?」

「婚礼の儀式の後で、宴を行う大広間の隣にある物置です。あの扉の先が大広間ですね」

 ルーカスは扉に耳を押し当てると、こちらに向けて頷く。俺が何を言う暇もなく、扉を押し開けてしまった。

 突然、扉が開き、大神官が登場した空間にはざわめきが走る。背後から室内に視線を向けると、見慣れた一団だった。

 内密に、今日の準備をしていた者たちが集まっている。

「……宰相閣下!? 代理も!」

 一団の中で、目ざとくシフが俺を見つけた。小走りで近寄ると、中央がざっと開く。俺たちを含むように円となり、サーシ課長が口火を切った。

「ロアくん。想定よりも敵方の人数が多いみたいだ。敷地の外へ続く門はゴーレムと若干名が外で足止めをしている。ただ、さっきから此方の想定していない経路を使って入ってきているらしい。さっき、この広間を閉じ、来賓は奥の間に移動してもらった所だよ」

 大広間の奥には、もう一つ、予備的に設けられている部屋がある。今回は使う予定のなかった部屋だが、大広間を抜けないと辿り着けない。

 この広間を守る限り、建物内では安全なはずの場所だ。

「想定していない経路……?」

 俺が物置に視線を向けると、ルーカスが頷き返す。

「私たちと同じように、地下通路を使って、王宮から、迎賓館へ来ている可能性がありますね」

 ひとまず、先ほど出入りした扉をフナトに結界で塞ぐよう指示した。だが、魔術を使いに行く前に、ルーカスが割って入る。

「『魔術で』塞ぐなら、最優の結界術を。あとは、扉の金属を溶かして固めるような、物理的な対応をお勧めします」

「魔術は駄目か?」

「生半可な魔術も、生半可な神術も駄目です。王宮と迎賓館を繋ぐ地下通路が解放されている。王宮側の扉を封じていた神術が、解かれている、という事ですから」

 大神官の立場で話しているにしては、感情が表に出すぎている。歪んだ眉が寄り、何事かを確信したかのように俺と視線を合わせた。

 彼は、にっこり、と作り物の笑いを浮かべる。

「よくも、やってくれましたね。素晴らしい研究の成果です」

「は?」

「いえ。侮っていた内偵が、思ったよりも手強かった事に驚いているだけです。年月を掛けた執念の研究を、こんな下らない事のために使うとは」

 はあ、とルーカスは息を吐く。

「魔術に詳しく、神術に心得がある……? 解術ができるほど?」

「はい。それが、今回、ケルテの反国家組織に寝返った内偵の資質です」

「────ガウナー」

 視線を向けると、伴侶もまた、こめかみに指を当てていた。俺と同じ結論に達したようだ。

「あんた、うちの一族をずいぶん疑ってたな?」

「ああ。妙に『王宮への出入りが多すぎた』んだ。書庫で本を借りるにしては、別に王宮の書庫でなくとも閲覧できる本ばかり、とテウ爺は不審がっていた」

 王宮に立ち入ることができたのなら、王宮の何処かにある、地下通路への入り口を探り当てる事もできたかもしれない。そして、その扉を塞ぐ神術を読み取り、解除する術を探ることもまた、容易かっただろう。

「…………俺は、ニコに会いに来てるんだと思ってた」

「私は、そうは思えていなかったよ」

 不思議なことに、居るはずの、宴には出席するはずの『サフィア』の姿はないらしい。

 握りしめた指先は感覚を失い、ぐらぐらと踏みしめる地面が揺らいでいた。

「そもそも、君の実家への帰省に付いて来たがった時の態度が不自然だった。相乗りさせて貰うにしても、自国の宰相が婚約の挨拶をするための馬車に乗り、ついでに自分の実家に、だなんてな。君を見慣れていると、あまりにも違和感が強くて」

「まあ。俺は……そういう事は、しないけど」

「だからあの時は、反国家組織がいる場所には、彼を近付けないようにした。できるだけ、複数人で行動を監視できるよう振る舞った。事前に、護衛の二人には話をしてあったんだ。私が穿って見過ぎなのだろう、と前置きしてな」

 思い返せば、旅行中はサーシ課長がサフィアの近くにいる事が多かった。おそらく、旅行中の言動を見て、ガウナーは疑惑を深めたのだ。

 ごくり、と唾を飲み込む。

「もし。本当に、内偵だったとしたら……」

「本人は死罪。親族と、……一族の当主にも、何らかの罰が下ることになるだろう」

 似たような事例を、文書で見たことがある。貴族の反逆罪は、民のそれよりも罪が重い。権力を持っている以上、民に大きな被害を及ぼすからだ。

 サフィアがケルテの反国家組織に手を貸していたとしたら、彼が死罪になるだけでは済まない。親族からも幽閉者が出るはずだ。一族の当主である父も、少なくとも当主ではいられなくなるだろう。

 そして、俺もまた、ガウナーとは伴侶でいられなくなる。

「ロア。今できることは、これ以上の被害を出さないことだ」

「…………ああ、そうだな。なんとか……、死人を出さずに済ませないと」

 本人の死罪は揺らがないだろうが、周囲への罰を軽減するためには、被害がこれ以上広がっては不味い。

 元々、目指すべきものは変わっていない。それなのに、あまりに途方もない課題のようで、目眩がした。

 

 

▽15

※この回より先に、戦闘および人の死に関する描写が含まれます。犬はラストまで無事です。

 

 

 周囲に遮音結界を張り、動ける者たちだけで集まる。

「今回の護衛対象は、いま何処に?」

「俺はここだよ」

 リベリオ王子は慣れた位置取りで、集団内にいた。王妃様と王子殿下も別室……奥の間におり、近衛の護衛下にあるそうだ。

 だけど、と彼は表情を曇らせる。問いかけようとした時、サーシ課長が進み出た。

「国王陛下とは今、分断されているんだ」

「は!?」

「王妃様の親族が気分を悪くされて、ちょうど近くにいた国王陛下が肩を支えて別室に休ませにいったんだけど、大広間とその部屋とを繋ぐ廊下を敵方に塞がれた。近衛魔術師……、ニンギが一緒にいて、別室を結界で閉じているらしい。ちょうど、救出に向かおうとしていた所だ」

 シフから通信機を耳に付けられ、別室らしい音が耳に入る。結界がどれくらい保ちそうか確認している、サウレ国王の声が聞こえた。

 まだ、生きている。

「王宮外にいる防衛課の別隊を呼び戻している。けど……」

「待っていられない、ですよね。何人か向かわせる?」

「そのつもりだよ。けど、大広間の前にも一団がいてね」

 サーシ課長は懐から携帯式の筆記具を取り出すと、近くの机に歩み寄った。真っ白なテーブルクロスの上に、躊躇いなく黒い線を描く。

 大広間、廊下の形状。そして国王陛下のいる別室。敵の位置。布の上を走る所為でよれた線だったが、建物の構造を記憶していたおかげで配置は分かる。

「ここを散らさないと、助けに向かわせられない。正面からぶつかると負傷者、場合によっては死者が増えるから、分散して各個撃破、としたいところなんだけど……」

 全員でぶつかれば一団は叩きのめすことができるだろうが、大広間の扉の前にいる人数が多い所為で、扉を開放しての全面衝突を躊躇っているようだ。

 顎に手を当てたガウナーが、配置図を見下ろす。

「地下通路は、『王宮から迎賓館』への通路は敵の手に落ちているだろう。逆に言えば、『神殿と迎賓館』を繋ぐ通路は使える」

「神殿から迎賓館までの通路。他に出入り口はあるか?」

 質問と共にルーカスを呼ぶと、彼はサーシ課長ににっこりと微笑み、その手から筆記具を奪い取る。

 建物の玄関付近の部屋に一カ所、国王陛下のいる別室とは大広間を挟んで逆方向の部屋に一カ所、丸が描かれた。その地点は確か、休憩室の筈だ。

 玄関、国王陛下のいる別室、新しく描かれた休憩室、これらを線で結ぶと三角。その三角の中央あたりに大広間は位置している。

「国王陛下がいる場所とは……、大広間を挟んで真逆か。だが、玄関横の控所、大広間、休憩室。この三方向から挟み撃ちは可能だな。────ん?」

 ガウナーが間の抜けた声を漏らしたのも無理はない。

 離れた場所から、カラカラカラ、と場違いな音が聞こえてきた。車輪の回る聞き慣れた音は、ニコの雪車から出ているものだ。

 端に置いてあった雪車。荷台から繋がる綱を、口で噛んでこちらに引き寄せている犬の姿があった。

 俺たちはぽかんとニコを見るが、ルーカスの手から、ぽん、と軽やかに手を打ち鳴らす音がする。

「確かに。釣りには餌が必要ですね」

 麗人はすたすたと歩いて、リベリオの肩を叩く。叩かれたその人が自身に指を向けると、こくこくと頷いてみせた。

 二人の間には、学生時代の友人らしく容赦のない空気が漂う。

「貴方。サウレとは反対方向の休憩室から廊下に出て、扉の前にいる一団に顔見せしてください。その後、サウレとは逆方向に走って、裏口から外へ。できる限り、引き付けて遠ざけてください」

「まさか、俺に囮になれだとか……?」

「言いますよ。他国の王子と、自国の王、どちらが大事だと思ってるんです」

「………………」

「貴方が狙われれば、他の人が助かりますよ」

 はあ、とリベリオが息を吐く。

 命を狙われる事に対し、場慣れしすぎているように思える。更に、自らとサウレ国王を天秤に掛けて判断を下すには、あまりにも早かった。

 ニコの元に歩み寄ると、頭を撫でる。

「雪車を使って囮になれば早く移動できる。……と言っているのかもしれないけど、君の方が危ないよ。ここに────」

「アォン!」

 大型犬と呼べる存在の頭が、王子の腹部にめり込んだ。

 ぐ、と声が漏れ、よろめく身体を、歩み寄ったサーシ課長が支える。水くさい、と伝えるにはあまりにも手加減なしだ。

「二人乗りですので、僕もお供します。フナトくん、雪車に結界を頼めるかな」

「は、はい……!」

 フナトの結界が張り終わると、ニコの身体に胴輪が取り付けられる。

 シャクト隊長をちらりと見ると、あからさまに顔色が悪い。その様子に気づいたらしい元相棒は、艶やかに微笑んだ。

「シャクト、国王陛下のことは頼んでおくよ。僕のいないところで死んだら、死んだ後で首絞めに行くね」

「…………お互い様だ」

 ひらり、と互いの左手が振られ、サーシ課長の唇から強化魔術が紡がれる。術式の光は、元相棒に対して収束した。

 コン、とガウナーが咳払いをする。

「結界を張った雪車にリベリオが乗り込み、サウレと反対側へ廊下を移動。その間に控室と大広間から、残っている敵を奇襲。サウレの救出を目指す、と。囮にはリベリオ、サーシ、それとニコ。サウレの救出には……」

 すっとシャクト隊長の手が挙がった。部下を率いて先陣を切ってくれる事に感謝しつつ、魔術師の面子を見回す。

 魔術師が一人、というのは避けたいが、誰も彼も、『つれていく』には躊躇われる人物ばかりだった。

 どうしたものか、とこめかみに指を当てると、背後から両肩を掴まれる。

「私も行きますよ」

「……あんたが……、ひとの『運命』に関わるような事をしていいのか?」

 声を潜めて尋ねるが、ルーカスはただ笑っていた。

 作り物の色のない吹っ切れたような表情は、彼の持つ色にしては珍しい。昔は、ずっとこんな風に笑っていたのだろうか。

「もう、畏いものはないので」

「そう、か。じゃあ、一緒に行くか」

 言葉を告げ、俺もガウナーに向けて手を挙げる。

「魔術師もいたほうがいいだろ。俺も行く」

「『大』神官もいたほうがいいと思うので、私も行きます」

 揃って挙手をした俺たちを前に、ガウナーは頭を抱えんばかりに肩を丸める。

「近衛魔術師もいくらかは大広間にいる。そちらに……」

「いや。最も守られるべきは、第一王子殿下だろ」

 今、王子殿下が安全な場所にいる以上、この大広間に守りを重く置くべきだ。近衛魔術師を動かさず、荒事に慣れた人物が動くのがいい。

「あと、俺の身内が加担したことだ。他の魔術師をこれ以上、危険に晒すのは気が引ける」

「………………」

 誰かが救出に行って、道中で命を落とす危険に身を晒すことを、俺は良しとすることができない。

 ガウナーは、旧友に視線を向ける。

「ルーカス。君は我が国の大神官だ」

 するり、と白い指先が動き、自分の胸元に手を添える。満面の笑みは鮮やかで、人の持つ温度があった。

「はい。大神官であり、この国で一番の加護を受けた人間です。私以上に、神術に優れた人間はいません。最も適切な人選でしょう?」

「本当に。ああ言えばこう言うな!」

「『私が死なない』ことは、貴方が一番よく分かっている筈です。ロアを守るために、同行させてください」

 伴侶の唇から、長い息が漏れた。視線が逸れる。

 好きにしろ、とでも言うような、それでいて、自らの口から指示を告げられない葛藤を感じ取り、心中で謝った。

 第二小隊から数名が付いてきてくれる事が決まり、その時点で、外に出るであろう全員の腕章の色が既に裏返しになっている事に気づいた。

 俺も、大広間に残る人員から腕章を借り受け、腕に巻く。ルーカスも面白そうにそれに倣った。

「では、行ってくるよ」

 リベリオは雪車を抱え、サーシ課長と共に地下通路へ向かう。道案内を、と思ったのだが、ルーカスではなく、ニコが二人を力強く先導している。

 休憩室まで護衛として付いていき、そこから控所へ移動予定の防衛課の面々には、僅かな困惑の色が見えた。

「ニコに扉の場所、分かるのか?」

「休憩室と控所の扉に掛かっている、神術の色を教えておきました」

 大神官がそう言うのなら、と俺もガウナーも引くのだが、彼以外に言われたのならまず睡眠不足を疑う話だ。

 俺たちは準備を整え、駆け足で大広間の扉に近付いた。ちょうど近くにいたルーカスに、疑問を投げ掛ける。

「王宮と迎賓館を繋ぐ通路だけ、敵側に落ちてる。王宮と神殿、神殿と迎賓館を繋ぐ、二つの通路は無事、か」

「ええ。最も重要度が低く、古い術をそのままにしていた通路が見事に奪われましたね」

「ガウナーは、地下通路への対応は検討しなかったのか? 大講堂の時は対策したよな」

 彼にしては珍しい、という意味で尋ねたのだが、ガウナーの視線は見事に泳いだ。

「言い訳でしかないが。神殿は不可侵、という感覚が強かったのかもしれない。神術で守られた扉が破られる、という事態を、想定していなかった」

「そうか。神術の知識を持つのは今まで神官のみ。……裏切れと言われて、自刃するような人間くらい、だったからな」

 息を潜めて、しばし待つ。耳元に、通信機へ向けて掛けられた声が届いた。

『サーシだ。休憩室から、走り出す準備が整った。いつでも行けるよ』

 俺はシャクト隊長に視線を向ける。こくり、と頷き返された。

「ロアです。大広間、準備できました」

 続いて、控所にいる面子から準備ができた旨が伝えられた。リベリオ王子のいる方向は囮、二方向から国王陛下のいる場所へと向かう。

『出ます』

 サーシ課長の宣言の後、大広間の扉を閉めていても届く大声が響き渡った。はっきりと通る、覚悟の籠もった波だった。

「我が名はリベリオ・ローサ! ケルテ国の王子であるぞ!!」

 外から慌てるような声がいくつも上がり、雪車が動く音と、足音が響いた。

 シャクト隊長が扉を僅かに開け、こちらに向けてこくりと頷いた。彼が外に身を滑らせると、扉の外から打撃音が響き始める。

 俺が動く前に、ルーカスが開いた扉から外に出る。驚きに動作が遅れ、外に出た時には、一団の中で扉の前に残された数名は武器を落とされ、床に伸びていた。ヘルメスが作った重力球を使ったようだ。

 一気に前線を崩され、戦意を削がれた者たちを確実に沈め、拘束する。控所方向からも攻撃を加えられ、逃れられた人物もいなかった。

「……────」

 手を振るシャクト隊長の指示で、俺たちは駆け出す。背後で残った面々が、意識を奪われた人物たちを物理的に縛り上げる音がした。

 人を拘束して中に入れ、扉を閉じればしばらく大広間は安泰だ。

 駆け始めると身体が軽い。手の平を見下ろすと、焼き付けられたような爪痕が残っていた。

 廊下の曲がり角で、シャクト隊長が立ち止まる。

「……二人か」

 呟くと、直ぐに床を蹴って駆け出した。

 指示くらい寄越せ、と思わないでもなかったが、あの山中で反国家組織を共に敵に回した仲だ。仕方ない、と息を吐いて、指先に魔力を纏わせた。

 

☆16(通信機のその先にて)

 地下通路は湿っぽく、隣に座るリベリオ王子の表情は闇に覆われている。対して、先導する犬はゆるく尻尾を揺らしながら雪車を引く。

 部下があの存在を、星、と称したのを聞いたことがある。だが、星というには、今はあまりにも眩しい。

「サーシ」

「はい」

「君は俺と、……運命を共にして良かったのかい?」

 随分と、甘い言葉を吐く男だ。

 相手が定まっていないのか、軽率に誰にでも分け隔てなく砂糖をぶちまけていく。彼にも、部下のように伴侶が定まれば未だ揺らがないのだろうか。

 ふと、今日が人生の晴れ舞台である筈の、部下の様子を思い出す。伴侶を得ても、揺らいでばかりかもしれない、と思い直した。

「僕は、運命を知りませんが。死を共にする相手は決めていますので」

「ああ。あの……怖い顔の」

 くす、と笑いを漏らす。相棒は、今日はたいそう怖い顔をしていた。

「むかし、僕も防衛課に所属しておりまして。その時に、誓いを立てました。互いを置いて逝かない、と」

「……美しい話だ。だが、そうなると、俺と来たのは良くなかったのでは?」

「いいえ」

 頬に当たる風はぬるく、目の前はうすぼんやりとした光越しの風景しかない。けれど、戦場、と呼ぶには、昔より、あまりにも穏やかだ。

「────死ぬ気も。貴方を死なせる気も、ありませんので」

 周囲に響くのが、車輪の音だけになった。

 星の犬はまず、控所に挟撃のため防衛課の面々を案内し、小さく鳴く。魔術とは違う何かが、動いたような気がした。

 術で施錠されていた筈の扉は押し上げられ、縄梯子を使って上がっていく。最後の一人が上がり終えたのを見届け、僕たちもまた移動を始めた。

 少し走った先で、雪車が止まる。荷台から降り、雪車を抱えた。

「…………ォ」

 ちいさく鳴いて、位置を示された。

 ニコは胴輪と車体の金具を外し、壁を蹴った。上手く足場にし、扉を頭で跳ね上げる。

 痛くないのだろうか、と気にしているうちに、同じ位置を蹴って地上へと姿を消した。

 僕も縄梯子を掴み、開いた扉から地上へと出る。身を乗り出して両手を伸ばすと、リベリオ王子が持ち上げた雪車が手に渡った。

 脚を傷つけた時に、もう前線へ出ることはないと思った。けれど、不思議なものだ。僕はまた新しい脚を得て、間違いなく前線を駆け回っている。

 リベリオ王子が上がり終えたのを確認すると、扉を閉じる。ニコは扉に近寄り、ぺたり、と肉球を乗せた。

「何をしたんだい?」

 神気が動いたのを確認し、扉に手をかけると、ぴくりとも動かない。確かに、自分たちが廊下に出た後、この通路を使われては困る。

 だが、その人間の都合を目の前の存在が理解している、というのが不思議だった。もっと、幼いような印象を受けていた。

「閉じてくれたんだ。ありがとう」

 頭を撫でると、ゆる、と耳が伏せられ、瞳が細められる。撫でられる姿は、いつもの犬だった。

 室内は休憩室、と言うだけあって、長椅子が置かれているだけの部屋だ。扉に近づいて、耳を当てる。

 大広間の扉付近の気配以外に、新手はいないようだ。

「では、行くか」

 リベリオ王子は懐から短剣を柄ごと取り出すと、手に持った。隠し武器を上手く持てるほど、場慣れしているのが意外だった。

 自らの両手を絡め、指の筋を伸ばす。普段通りに動くことを確かめ、通信機を口元に寄せた。

「サーシだ。休憩室から、走り出す準備が整った。いつでも行けるよ」

 部下と、控所に移動した第二小隊の面々から、準備が終わった旨が伝えられる。そろり、と扉を開け、廊下に出た。

 ちょうど曲がり角の先、相手はこちらに気づいてはいない。ニコは車体と胴輪を繋ぐ金具を鼻先で指す。

 取り付けてやると、ぐ、と太い脚に力が籠もった。

『出ます』

 通信機に告げ、荷台へと乗り込む。

 僕が姿勢を定めると、背後にいたリベリオ王子はにこりと笑った。すう、と息が吸われる。

「我が名はリベリオ・ローサ! ケルテ国の王子であるぞ!!」

 びりびりと、空気を震わせる声が廊下に響く。

 敵の集団に指示を出す声が聞こえ、足音が響き始めた。ニコはこちらを振り返り、助走のように軽く駆けはじめる。

 追っ手が曲がり角からこちらを捉えた時には、十分な距離ができていた。

「いいよ、ニコ! そのまま『真っ直ぐ』だ!」

 ぐん、と荷台が強く引かれる。一気に速度を増した雪車は、聞いたこともないような車輪の音を響かせながら廊下を疾走する。

 背後から呪文を紡ぐ声がした。

「避けた方がいいかな!?」

 リベリオ王子の問いに、前を向いたまま、いいえ! と叫ぶ。

「まだフナトの結界が生きています! 落ちないことだけを考えて!」

 王子の手は、荷台に掴まった。

 背後から攻撃魔術が跳ぶ。狙いは正しかったが、ぐん、と雪車は一気に蛇行した。おや、と荷台を引くニコを見る。

 視線は前だけを見ている。耳は伏せられ、空気抵抗を避けながらただ一心に駆ける。背後は、見えていない。

「…………そうか。君は、未来から来たんだっけ」

 この存在には、目で観る必要すら無いのかもしれない。

 結界で防げる程度の攻撃が、数発。着弾こそあれど。それ以外の攻撃は上手く躱していく。速度の調整も巧みなもので、想定よりも多くの人数を引きつけていた。

 廊下はそろそろ終わりだ。奥に主に使用人が使う、裏口の扉が見えた。

「『妖精』くんだっけ……!? 済まない! 扉を外すよ!」

 指先を動かし、風の流れへと干渉する。指の軌跡は光となり、走るそばから煌めきながら背後に流れていった。

 最後まで術式を書き終え、指を振り下ろす。

「起動!」

 練り上げられた風の刃は、扉と壁の接合部を切り落とす。だが、半分だけ外れた扉は、まだその場にあった。

 もう一撃、と構える前に、速度を増したニコは扉に突っ込んでいく。

「待って、ニコ! 危な……!」

 言い終わる前に、神気が動いた。以前、王宮の庭で感じた、あの気配だった。

 半円状に薄く展開された結界が、ニコの鼻先から前を覆う。そのまま、扉に突っ込んでいく。

「──────う、わ!」

 衝撃音と共に、扉が跳ね飛ばされる。

 地面に転がった扉を上手に躱すと、ニコは方向を反転させる。迎賓館の建物を沿うように、正面玄関の方向に走り出した。

 背後からは、まだ追ってくる足音が聞こえる。

「あ。そうか、……もう外か!」

 建物内では壁を傷つけないよう、避けることに終始したが、上には空すら見えている。リベリオ王子はにっと口元をゆがませる。手持ちの球を振りかぶると、追っ手に投げつけた。

 見事に一人がすっ転び、他を巻き込む。

「春の乙女は冥界へ。月光の夜道を抜け。太陽の草原を辿り。辿り着いた先、十二の柘榴は乙女の腹の中。芽吹きはもう戻らず、地上は嘆きに凍り付く!」

 残りの魔力は温存したい。多くは力を込められずに発動した魔力が、ぐん、と何故か増幅されて発動する。

『──── …─……… ───』

 耳の奥を直接揺らすような、子どもの笑い声のような音が、僅かに聞こえた気がした。耳を押さえて、大きく瞬く。

 魔力で盛大に生成された氷柱で、一人が氷漬けになり、数名が巻き込まれて足踏みする。的が止まった先を優先して、傍らの狙撃手が重力球で沈めていった。

「サーシです。迎賓館。正面玄関の外を守ってる人、誰か。連絡に出られる?」

『こちらヘルメス。どうぞ』

「十から二十弱に追われてる。そっちに連れてきた場合、戦況は?」

『正面が片付いてきたので、そろそろ数名を残して中の応援に行く予定でした。……────構えます! そのまま、誘導してください』

「助かる! ニコ、そのまま建物沿いに走って!」

「ォン!」

 短く鳴くと、ニコは速度を上げた。正面玄関へ到着するまでの間に、携帯用の魔力貯蔵装置を唇に押し当てる。

 大広間を来賓に事態が重く受け取られないよう努めつつ、封鎖。そして現在の迎撃、と今日は魔力消費が激しい日だ。部下達ならともかく、前線を退いた老いぼれに長期戦は堪える。

 見知った魔力が、唇を通じて流れ込んでくる。

「……悪くないね」

 風が頬を叩き、灰の髪をはためかせる。

 ゴウンゴウンと特有の動作音が聞こえ、そちらに視線を向ける。ゴーレムが僕たちの方向に移動してくる所だった。

 足の裏の位置には小振りの車輪が大量に取り付けられ、疾走、というよりも滑走と言う方が正しいかもしれない。

 ニコが走りつつ、ゴーレムを二度見する。味方か、と疑いたくなる気持ちは痛いほど分かった。

「アンナ! 重力球を投擲!!」

 前からウィズの指示が響いてきた。

 戦場には似合わない声音が、緊張を孕んで強い波を作る。術者との魔力の鎖が空中に伸び、自らの腕のようにゴーレム……アンナを動かした。

 巨体が僕たちを庇うように立ち、重力球で相手を沈める。

「ニコ、『止まって』!」

 指示通り雪車は減速し、アンナの背後に回り込む。

 安全な場所で、魔力を編んだ。

「金の矢を選べども。汝には鉛の矢を、決して逃れる事を許さぬ踵へ!」

 魔力で練り上げた矢が、敵の足を追尾する。結界の綻びを突き止め、その隙間から、足ごと地へと縫い止めた。

 崩れた身体を、アンナが上段から振り下ろした拳を伸ばして沈める。背後から内向きの結界術が飛び、更に拘束した。

 昔なら、胸を射貫いていたところだ。だが、今日、死者を出すことはよろしくない。殺傷とはかけ離れた重力球を大量生産して多用しているのも、同じ理由だ。

「新手は、……来ないな」

 出てきた扉の方向を確認すると、ウィズ達はまだ完全に拘束していない追っ手へ魔術の手を伸ばす。

 後方へ位置取っていたツクモが口火を切った。手持ちの魔術杖を掲げる。

 昔、まだ魔術師が魔術師という呼び名を持っていなかった時代、指に魔力を灯すやり方を知らなかった時代の、古の魔術師の姿に見えた。

「『我らは館を守る者』」

『…─… ……… ─……… ……』

 さわり、さわりと耳元を過ぎていく波がある。

 館の窓がひとりでに開き、中から大きな棚が刺客に向かって跳んでいく。どっしりとした棚は、刺客を押し倒してその上に陣取った。

 撥ね除ければいいはずなのに、地面に伏せた男はそのまま沈黙する。ぴくり、ぴくりと指先を動かしているが、何かもっと重いものが棚と共に、上からのし掛かってでもいるようだ。

 ツクモの横から進み出たヘルメスは、手のひらを開くと、詠唱と共に何かを掴む動作をした。

「世界の表層には地があった。地は回って巡って宙へ征く。地は杯より積み上がる。水は宙に満ち、林檎は地に腐り落ちる」

 彼の手のひらの中に、力が集まっていくのが分かる。呪文を力として一時的に物質に近い形に整えると、彼は腕を振りかぶる。

「────ッ!!」

 皮肉なほど、その制球は完璧だった。

 実験体が逃げるのをこうやって阻止していた、と言われれば頷いてしまいたくなるほど、何故だか妙に上手いのだ。刺客の一人が地面に倒れる。

「シュタル、こっちも結界!」

「魔力切れだ! 少し待ってくれ!」

 ウィズがシュタルの元に走り込む。

 目元を覆っていた前髪は、邪魔だとばかりに後ろに払われていた。彼の指先は魔術式を綴っている。術式を編みながら、もう片方の手でシュタルの胸元を引っ掴んだ。

 つま先が伸ばされる。目の前の光景は、戦場などではなく、それこそ神殿で愛を誓う図のようだ。

「──────!」

 シュタルの目が見開かれる。重なった唇の先で、境界を崩し、ウィズからの豊富な魔力が受け渡されたのが分かった。

「早く結界! 寄越せ!」

 記述式の魔術で相手を牽制しながら、ウィズが鋭く指示する。

 我に返ったシュタルの指先が結界を生成する。二度、三度、相手方の魔術師による爆発音が響いたが、結界は全てを防ぎきった。

 少しずつ相手を減らしているうちに、玄関の扉が開いた音が届いた。

 慌てて視線を向けると、玄関横の控室に回ったはずの第二小隊と、大広間にいた筈のシフ、フナトの姿がある。

 こちらの戦況に気づいた途端、二人は魔術を編み始めた。

「我は呪文という手綱を引く。我が脚は雷光を運ぶが如く、この一時、翼は此処に宿る!」

 シフは強化された足を踏み込むと、劣勢な戦闘に割り入る。急に現れた存在に相手が怯んでいる内に、ゴーレムが体勢を崩した刺客に狙いを定めた。

 そして、また一人、拘束者が増える。

「エウテル! 結界を、はるから……!」

「お任せあれ!」

 エウテルは携帯式の魔術貯蔵装置を唇に当てると、視線で指示する。こくん、とフナトが頷き返した。

「四隅は全ての矛を通さず。一穴さえも許さず。力は全て、全て、鏡映しに内にのみ向けられるべし!」

「我が向かうべき道に立つ者よ。汝が大樹ならば炎を、岩漿なら海を、日出ずるなら薄暮を与える。やがて訪れるのは、眠りの時────……」

 エウテルの詠唱の後で、歌が響き始める。歌として紡ぎ上げられた術式は、柔らかくフナトの張った、刺客たちを取り囲むように生成された結界に絡み付く。

 結界が別の質へと書き換えられ、囲まれた刺客たちは外に出ることが許されないまま、その場に、一人、二人、と倒れていく。

 加勢、そして更に加勢。いつの間にか、多くいたはずの刺客たちは全て地に沈んでいた。戦闘ではなく、相手の武装解除と、安全な拘束へと段階が移る。

 戦い続きの集団は、慣れたように魔力貯蔵装置に駆け寄っては、魔力補充を済ませてまた魔術を使う。魔力切れを克服できるからこそ、の疲れが見えた。

 だが、来賓に対して事態を大袈裟に思わせないほどの少数で、あれだけの人数、しかも殺意をもって掛かってくる相手を拘束している。

 その中の一人、主に後方支援を担っていたらしい部下を捕まえ、問いかける。

「ツクモ。さっき、子どもの声のような声がして、魔力の効率が変に上がったんだけれど。あと棚も飛んできたし。例の存在、いる?」

「声……。サーシ課長も、素質が、あるんでしょうか。確かに、妖精たちが、……ずっと伴唱、してくれていて」

「やっぱり。思ったより威力が上がるから、驚いたよ」

「……あ。お伝えしておけば、良かったですね。魔構の面子は、すぐ、慣れていたので」

 耳の近くで、悪戯がばれた、とでも言いたげな、くすくすという笑い声がする。高い音は鈴の鳴るような、とでも言うのだろうか。心地よい音をしていた。

「助かったよ。誰も棚を修理しようとしなかったら、僕が直すね」

 誰宛てでもなく呟くと、続けて様子の確認に歩き出した。

 正面玄関への一団も、自分が来る前に大よそ沈めきっていたようで、魔術で固められた人間たちがゴーレムによって一カ所に纏められていく。

「ヘルメス。リベリオ王子の護衛を頼んでいいかな? 僕は、ニコと迎賓館内の加勢に向かう」

「承知しました。────ご無事で」

 防衛課の面子と、魔術師も複数人。そしてゴーレムもいる。周囲を見渡すが、新手を差し向けらたような気配はなかった。

 雪車の荷台に乗り込むと、ニコは心得た、というように走り始める。部下は、そして国王は無事だろうか。

 おそらく生きているであろう相棒を思うたび、鼓動が早くなる。ぎゅ、と服の裾を握り締め、湧いてこない唾を動作だけで飲み込んだ。

 

 

▽17

 シャクト隊長の投げた重力球は、相手に躱された。戦い慣れた動きに肝が冷える。内部に侵入するような手練、人を殺すことに慣れた人間、ということだ。

 繰り出される刃を、目の前の人物は短い動きで躱していく。その横を、別の敵手が通り過ぎる。

 白刃が、目の前に迫った。反射的に指を動かす。

「我を覆う盾を!」

 術式の半分は記述式との併用で、ようやく刃の速度を上回る。キン、という音と共に、額すれすれで刃を弾いた。

 ぶわっと汗が皮膚を湿らせる。

「凍れ!」

 放った魔術は、敵の短刀に払い落とされた。仕込まれた魔術が分かる。

 武器と、おそらくは防具にも魔術への対抗策が存在しているらしい。発動した魔術の気配を辿って、男との距離を取る。

 見知った、似た。血の繋がった魔力の波だ。

 短刀を構え直し、突っ込んでくる相手の刃から逃れる。指先で魔術を綴り、攻撃を二、三と受け流す。

 その度に、触れた場所から術式を読み取る。見慣れた術式だ。読めなかった部分は、想像で埋めた。

「文字を数へ。皿へ乗せ、乗せ。余った数だけを拾い上げる」

 放った魔術式は、相手を守る魔術へと浸食し、ぼろぼろと崩していく。部下が、エウテルが編んでいた術式だったが、結界以外にも効くらしい。

 何かを崩す時には、何かを組み上げる時の知識が必要だ。魔力が術式を伝い、根を張って波を腐らせる。

 男は異変に気づいたようで、自らの短剣を見下ろす。表面から煌めきは失われていた。

「黄泉より出で。上より鳴る。────疾く地に伏せろ!」

 指先の表面がばちりと跳ねた。

 掲げた魔力は壁を跳ね、相手に雷撃となって直撃する。低い呻き声と共に、床に倒れる音がした。

 丁寧に掛かっていた魔術を剥がし、内向きの結界で床に固める。ルーカスはにこにこと笑いながら武器を奪い取り、一度、空で振った。

 ぼろぼろと刃が崩れ落ちていく。

「────悪い。こちらも頼めるか」

 シャクト隊長も一人を床に組み伏せていた。同じように魔術での防護を外し、拘束する。掛かっていた魔術は、やはりモーリッツの癖があった。

 武器すらも砕いて無力化した刺客たちを、後を追ってきた第二小隊の面々に引き渡す。視線を交わし合い、更に奥へと向かった。

 廊下は不気味なほど静まりかえっている。周囲を探りながら、指示された部屋へと駆けた。

 目的の部屋が近づいてきた頃、ルーカスが足を止める。

「あ」

 声に反応した俺が、理由を察した。シャクト隊長の服の裾を掴んで止める。

「なんだ?」

 潜められた声を指先を立てて封じ、壁に触れて魔力を伝わせる。

「床に魔術が仕込まれてる」

「解除できるか?」

「やってる」

 魔術を読み、綻びを引いて術式を崩す。几帳面な術者だと伝わるような、付け込む隙の少ない式だった。

 長年、他人の術式を読み慣れているような人間でなければ解けない。けれど、俺が出て行かなければ目的が達成し得たような、程度には高度な式だった。

「…………っ! 解けた」

 突き当たりの廊下の角を曲がる時、爆音が轟く。ぱらぱらと天井が崩れるような衝撃波が、俺たちの所にまで届いた。

 二撃目が来るかもしれない。急いで角を曲がると、破壊された扉の奥に、数名が駆け込むのが見えた。

 見慣れた髪色が通り過ぎていく。ぐっと唇を噛んで、その後を追った。室内からは戦闘が始まった音が響いてくる。

 二つの声が、別々の術式を詠唱していた。片方は近衛魔術師のニンギ、そして片方が……、この声はサフィアのものだ。

 燃えた扉を払い、広く開いた入り口から室内に踏み込む。ちょうど端では、刺客の刃が、ニンギの腹へと吸い込まれる所だった。

「いけない!」

 俺よりも先に、駆け込んでいったのはルーカスだった。庇うように二人の間に割って入り、肩に刃を受ける。

 白の衣服が、ぞっとするほど朱で染まる。倒れ込むその一瞬、麗人は停まった刃を、躊躇いなく綺麗な手のひらで鷲掴む。刃先はぼろりと根元からもげた。

 ニンギは素早く魔術を唱え、刺客へと反撃する。男へと飛びかかり、腕ごと魔術で拘束した。

「傷は!?」

「死にませんから……! 他を!」

 刺客はそれぞれ近衛達と戦闘を続けている。そして、サウレ国王の元には、サフィアが駆け寄っていく所だった。

 懐に、ぎらぎらと光る白刃が見える。ちらりと、彼の視線の端が、俺を捉えた。ふわり、と唇には場違いな笑みが浮かぶ。

「サフィア!」

 呼んだ声も、彼には届かない。

 横から、俺に気づいて斬りかかってくる刺客がいた。

 つい動きが遅れてしまった。が、相手の刃は目の前で跳ね返される。神術による結界が、掌に浮かんでいたはずの痕が消える。

「邪魔だ!」

 魔術で反撃し、相手を地に転がす。

 攻撃の最中、国王陛下が護身用の剣を抜くのが見えた。斬りかかられた一撃目を受け止める。

 ぼそ、ぼそ、と魔術式の詠唱の音が聞こえる。サフィアの声だった。

「────お覚悟を」

 低い、低い声だった。この世界には、もう望むものなどないような、疲れ切った音だった。

 開かれた唇が、一瞬だけ震える。発動のための言葉が、ほんの僅かに遅れた。背後から、車輪の動く音が届く。

「アォン!!」

 開いていたはずの扉から、全速力で駆けてきたらしい大型犬が姿を現す。雪車を引いていたはずの胴輪から、紐は外れていた。

 巨躯がサフィアに飛びかかろうとし、詠唱していた炎はニコへと放たれる。

 僅かに軌道は逸れたが、毛皮に火が纏わり付く。だが、燃え移ることはなかった。

「…………ッ!」

 もう一撃、をその唇が紡ぐ。

 低く、深く響くような声音が、ニコに向けての魔術を紡ぐ。起動のための鍵となる一言、が一瞬、躊躇われた。

 白刃が動いた。視界の端、犬が入ってきたことで、誰もが意識を外した人物が動く。

「……あ、……ッ、が────?」

 濁った声と共に、その胸から銀色の刃が生えた。彼が持っていた短剣が床に落ちる。

 柄を両手で掴んだ人物は、力を込めて剣を押し込む。サフィアの両手は自らの胸から突き出た刃を掴もうとし、やがて、指の震えと共に左右に落ちた。

 崩れ落ちた躯を、国王は静かに受け止め、問い掛ける。

「……誰を脅しに使われた?」

 こふ、とサフィアは息を吐いた。

 胸からは鮮血が迸り、剣を抜き取れば更に悲惨な状態になることが見て取れる。

「…………母、と。……すんでいた、部屋の、大家の……孫……」

「ロア。心当たりは?」

 俺に向けられた質問に、早口で情報を渡す。時が進むごとに、倒れた躯は動かなくなっていく。

「────あの。治療を……!」

「明らかに、殺されるつもりだった者に。治療は、……必要か?」

 刺されたその人は、無言で首を横に振った。

 サウレ国王陛下は、瞼を伏せる。冷静に振る舞っているように見えて、瞳は常に盛んに動いていた。

「吾に刃を向ける前に、他の者がお前を制圧した。全力で人質を奪還する。そして親族への罰は最小限に留めるよう宰相が取り計らうであろう。命の対価は、それでよいな?」

 口を開いて、何事かを紡ごうとして。こくん、と首が縦に振られる。

 そうして、だらりと手が垂れた。動いていた何もかもが、僅かにあった体温と共に停まった。国王陛下はしゃがみ込み、力を失った身体の大部分を床に預ける。

 周囲で動いていた打撃音が止む。後を追ってきたらしいサーシ課長が、味方が、部屋に入り、刺客たちを拘束していくのを、呆然と見守った。

「ロア! サウレ!」

 部屋の安全を確認してか、近衛を従えて部屋に入ってきたガウナーに、国王陛下は力なく息を吐いた。

 部屋の惨状を見て、彼も状況を察したらしい。

「ガウナー。サフィアの母を奪還しろ。そして彼が住んでいた部屋を調べ、大家の家族も保護してくれ。死人が増える」

 死人、と称しながらも、サウレ国王はサフィアの上半身を今も尚、支えている。

「…………サフィア、は?」

「もう、動かん」

 無言の俺たちの横で、キュンキュンと鳴く声がする。

 炎を破って、サフィアを止めようとしていた大型犬は、困ったように、動かなくなった躯の周りを歩く。

 そっと、鼻先をサフィアの掌に当てる。そうすれば、撫でて貰えるからだ。けれど、もう撫で返す手はない。

「ニコ。もう、動かすな。サフィアは…………」

 言葉が詰まって、先を紡げない。

 ニコは俺を見て、サフィアを見て、言葉の意味を悟ったようだった。とぼとぼと歩み寄ると、頬に擦り寄る。

 何度も、何度も。健気に起きるように促して、けれども、その呼びかけに返ってくるものはなかった。

 

▽18

 人間が死体に変わるということは、こういうことだ。

 明日、明後日、もしかしたら数年の先。見知った顔を、声をしていた人が、その身体から体温を失い、動かなくなる。

 俺と似た色を持つ彼の死に顔は、俺の未来をも突きつけられたように思えた。

「ロア」

 近づいてきたガウナーに、肩を支えられる。

 相手の胸元に頬を当て、ぐらぐらと揺れる脚をなんとか地に立てた。

「……俺、間に合わな…………。止められな、かった……」

 救いたかった命は、サフィアも含めてだ。

 それなのに、俺は彼が自ら死を選ぶような状況を肯定した。彼が一人、犠牲になれば、親族では明確に罰を免れる人が存在する。不明確な未来を、人の命で贖おうとした。

 両手が、真っ黒に染まってしまったみたいだ。自らの手のひらを見下ろしても、震える指があるだけだった。

「悪いのは、君ではない。私の方だ」

「ガウナー……?」

「当たり前だろう。こうならないように、私が、策を打てなかった」

 俺の肩を支える手が、震えているのが分かる。立っていることさえもおぼつかない互いを支えにして、俺たちは二人でその場に在った。

 この体温が失われる未来を、瞼の裏に映す。

 もし、不老を選んだら、俺は老いないまま、死んだ彼に寄り添うことになる。老いた彼の皺くちゃな指に、張りのある皮膚を纏った指を重ねる。重なった指先が、まったく違う形を、感触をしている。

 その想像は、彼を人に置いていってしまうようで、あまりにも苦しかった。

「クゥ……、ォ……」

 甘えるように掛けられる声には、切なさが混ざった。

 起きるよう、諦めることなく繰り返す声に、流石に割って入ろうと声を掛ける。

「ニコ。もう、……やめろ」

 俺を見返す星色の光の奥に、炎が点った。

 何故、諦めるのかと、短く、鋭く吠える。ぶん、と首が大きく振られ、大股で歩み寄った先には、動かなくなった躯がある。

 開いたままの顎は、そのままサフィアの首へと向かった。

「──────ッ!」

 がぶり、と体温を失った喉に、大きな顎が食らいつく。首を食い千切らんばかりに力を込め、ぎりぎりと牙が埋まる。首の骨が折れてしまいそうなほど、食い込んだ場所は色を変えた。

 だが、埋まった場所から血は流れない。

「おい、ニコ……!?」

 神気とも呼ぶべき気配が、その顎へと収束する。力は牙を通り、動かなくなった躯へと流れ込む。

 止めに入ろうと俺が動いた。背後から。

 ぱちん、ぱちん、と手を叩く音が響く。

「『ははは! ああ、そう為ったか。成程、為る程なぁ────!」

 けらけらと場違いに響く明るい声は、小さな部屋の隅から発せられていた。

 視線を向けた先に立つ男。黒髪に一筋の白い髪が混ざり、身体を布で覆った浅黒い肌の男は、サフィアに食らい付くニコへと歩み寄った。

 ルーカスは、崩れ落ちるようにその場に膝を突く。

「何故、貴方が…………」

 響いた声は、俺の思いをも代弁している。

 今朝、夢の中で出会ったそのままの姿で、神は、クロノは現世に顕現していた。

 彼が床を歩いても、足音が立たない。目の前に確かに見えているのに、泡沫の幻のように現実味が揺らいでいた。

 クロノ神は、ニコの背に手を添える。

「そう。そのまま、力を注ぎ込め。『人』を総て、お前の力で塗り潰してしまえ」

 にたにたと愉快そうに嗤いながら、その存在は自らの子へと策を与える。集まった力は、言われるが儘、サフィアの身体に流れ込む。

 一気に染まるように、俺と同じ色の髪から、色が喪われていった。一瞬で老いる様を見るかのようだ。

 白い睫が震え、瞼が開く。

「ほう……。やはり、そうなるか」

 クロノ神は、驚いたように声を上げた。開いた先の瞳は、生来の、緑色を残している。

 ニコは、そろり、と首から牙を外した。

 怒ったように自らの背に手を添えているクロノ神を振り払うと、サウレ国王さえも前脚で突き飛ばす。

 支えを失い、床に倒れ込むかと思われた身体は、動いた四肢で支えられる。上半身を起こしたサフィアは、不思議そうに自らの身に生えた剣を見下ろした。

「…………ぁ……。何、が……?」

 声は、震えながらも発せられていた。

 クロノ神はサフィアの背後に回り込むと、剣をずるりと引き抜き、その場に放り捨てる。からん、と床を金属が転がった。

 牙の抜けた痕は残っていたが、新しい血は一滴も流れない。

 白い髪、白い肌に緑の瞳。瞳の色さえ除けば、ルーカスの色味を思い出す容姿へと、サフィアは変わり果てていた。

「……サフィアを、私と同じ存在にしたのですか?」

「したのは我ではない。『────』ああ、この時代では、ニコ、というのであったか?」

 ルーカスが抱いていた怒気は、ニコの仕業だ、というクロノ神の言葉によって萎む。

 大型犬は嬉しそうにサフィアに纏わり付き、場違いに甘えていた。

 重すぎる体重を受け止めながら、裏切り者は、困ったように言う。

「死んで、詫びることができなければ。俺は…………一体、どうしたら」

 彼の言葉は、俺たちにとっても同じだった。

 サフィアが死んだことによる幕引き、はもう叶わない。まだ、劇は続いている。

 俺は、ガウナーへと視線を向けた。こくり、と伴侶は頷き返す。

「サフィア。人質のことを喋った上で、国王陛下を殺す意思はあるか?」

 問いかけると、サフィアは力なく首を横に振った。

「……そもそも、俺は。裏切った己が死ぬことでの幕引きを望んでいた」

 得手としていない剣を使った事といい、事前に俺にケルテにいる母の話をした事といい、振り返ってみれば彼の計画は彼らしくなく粗が多かった。

 反国家組織に対しては裏切りの姿勢を見せること。そして、俺たちに対しては手を抜いて自分が討ち取られること。彼が望んでいた事は、人質の生存と、その後、親族へ与えられる罰の軽減だけだったように思える。

 だが、おそらくあの場でニコだけが、それを望まなかった。

 ずっと黙っていたガウナーが、俺の横から進み出る。

「ルーカス。サフィアは、深く神の加護を受けた人間は『神殿預かり』だな?」

 視線を向けられた大神官は目を見開くと、しばし静止する。そして、一気に針が動き出すように、大きく頷いた。

「勿論です! …………失礼。彼は、自らの罪について命を対価に赦しを請い、神がそれを受け入れました。神が赦した者に、神殿が罰を与える事はできません」

 ガウナーの唇が僅かに持ち上がった。

 何か、筋書きを思いついたらしい。屋敷で仕事の書類を前に唸って、最適解を見つけ出した時と同じ笑みがそこにはあった。

「国王陛下。その者は陛下に刃を向けましたが────」

 サウレ国王は手を振り、前書きごと払った。

「嗚呼。この場に堅苦しい言葉は要らぬ。……吾はその者を一度、殺した。罰を与えた。人の社会で罰を受けたものは、記録だけを抱えて社会に戻る。神は、その者の悩みの深さに寄り添われた。神が赦したもうた者を、人がもう一度罰することはならぬ」

 旧友の間で、お互いに頷き合う。二人の中での短い算段は、それだけで終わった。

 サフィアは、申し訳なさそうに国王陛下に視線を向ける。だが、陛下の眼差しには慈しみしかなく、向けられた裏切り者の眦に涙が浮く。

 殺した者と、殺された者の間に流れるにしては妙な、あまりにもお互いを理解したような空気だった。

「では、『サフィアは、母と身近な存在を人質に取られ、苦悩しつつも反国家組織の助力を行った。だが、国王に刃を向ける前、周囲を守っていた者達によって討ち取られた。彼自身は刃を受けることでの幕引きを望んでいたが、その悩みを聞き届け、憐れまれた神により、その命は世に戻された。死をもって罪を償ったことにより、親族への罪は放免とする。但し、サフィアは神殿預かりとし、生涯、その身を神へ捧げること』…………という筋書きで、どうだろう?」

 宰相の視線は国王と大神官へ向けられ、二人の唇が持ち上がる。

 身内である罪人への赦しのために神を利用する構図を、否定する者は、この場には誰もいなかった。

「まあ、根回しは必要であろうが。それについては、神殿側も助力してくれるな?」

「勿論です。我が神の、御意志ですので」

 三人の間で合意が為されるのを、利用された形になるクロノ神がにこにこと腕組みをしながら眺めている。俺が見ているのに気づくと、ひらひらと手を振ってくる始末だ。

 ようやく、片付いたのか。強張っていた身体から力が抜ける。

「……あんた」

「何だ?」

「ずっと考えてたんだ。同じように見えて、あんたの髪に白い房がある理由。……あんた『今の』クロノ神が俺たちを観察するのを妨害していたよな? 『ニコを生み出した時代の』言うなら『未来から時を渡った』クロノ神なんだろ?」

 俺の問いに、クロノはにっと笑った。現代の、俺を脅かしていたクロノにはない、なんとも人間に似た笑い方だった。

 満足そうに、その存在は黙って俺に言葉を促す。

「あんた、自分が黒だから、人を『白』と定義してるだろ。だから過去には、ルーカスも白に染めた。そんなあんたが髪に一房だけ白を入れるなんて、現代のクロノ神では有り得ない。でも、ニコの脚は白いんだ。だから、未来の存在だと仮定するなら……」

「概ね、合っている。『この時代の』は、思ったよりも新しい玩具に夢中だった。大河の流れを別たんほどにな。だから、『未来の』我が出張る羽目になった」

「あんたは、『この時代の』クロノ神とは違った気配がする。ニコは、クロノ神になんて欠片も似てないもんだと思ってた。けど、あんたからは、人慣れした犬と似た気配がする」

 似てる。俺がそう表現した時、彼の眦は嬉しげに下がった。

「ニコは、人と同じように創った。人は二つの情報を掛け合わせて、人を造る。だから我もな、我と人の力を混ぜて造ったのだ。だからニコは我ではなく。脚も白い。綿のかたまりのようで、可愛らしいであろう?」

 細める視線は、親が愛する子を眺めるそれに似ていた。

 彼は、何年先を生きているのだろう。あれだけ俺の苦悩を嘲笑っていたクロノが、こう、なるまで。途方もなく先に思えて仕方がなかった。

 クロノは近くにいたガウナーの肩を掴むと、自らの方へと向かせた。ガウナーの片眉が上がる。

「何だ? 未来のクロノ神とはいえ、私は貴殿を……!」

 ガウナーの唇に、浅黒い指先が添えられる。

 全てを圧するような存在の前では、ガウナーですら少年のように幼く見える。

「ガウナー、汝に問う。不老を得られるとしたら、汝はそれを望むか?」

「…………っ!」

 伴侶は、ぎり、と奥歯を噛みしめる音でも聞こえてきそうな、ゆがんだ表情をしていた。

 気持ちを落ち着けるために長く息を吐くと、クロノ神に向き直る。怯えた様子はない。相手だって人、とでも言うように、背筋は伸びていた。

「望みません。私は、伴侶とも、民とも同じ時を生きています。人は、神に救いを求める。神はきっと加護を与えてくれるでしょうが、同じ時を、共に手を取って生きてはくれません。私は短い生を、人と手を取り、生きて死にます」

 クロノ神は満足げに、問いかけの答えを受け止めた。

 そうして、俺へと向き直る。彼が動いても、床に足音は立たなかった。

「では。……ロア、汝に問う。不老を得られるとしたら、汝はそれを望むか?」

 本来は、現代を統べるクロノ神からの問いかけである筈なのだが、意にも介さない様子で、未だ訪れぬ時より来た存在は問いかける。

 俺は、サフィアに視線を向ける。

 神から与えられた色を得て、永遠の時を得て、これからいくらでも書物が読めるであろう彼を、羨ましく思う気持ちがないと言えば、きっと嘘になる。

 ガウナーの視線が、不安そうに揺れる。俺と目が合うと、さっと逸らされた。彼は、俺を思い通りに動かそうとはしなかった。

 彼と共に歩みたいのなら、俺が足を踏み出さなければ隣に並べない。

 今までも、これからも。

「いいえ。望みません。……俺が、ガウナーと出会わなかったら。もう少し寂しい人間だったのなら、不老を選んだかもしれません。けれど、明日ガウナーが死んだとしたら、人でなくなった俺には、もう何も、彼を送るための自分がなくなってしまう」

 死んだ彼の傍に立つのが不老の自分であったとして、人の感性のまま、彼を送ることはできないだろう。

 俺はガウナーと、人のまま月日を重ねてしまった。重ねた時と共に生きた感傷を、たった少しの間でも構わない。そのまま、変わることなく持っていきたくなった。

 果実を囓って甘さを知れば、炎が齎す暖かさを知れば、人はもう、寒い夜、独りで飢えて過ごしはしなくなる。

 変化を尊びながら、選んだのは不変でしかなかった。俺は結局、人以外には成れなかった。

「…………全ての物事は、知らなくていいのか?」

 顔を上げて、胸を張った。

 虚勢でしかないと分かっていて、俺は軽く顎を上げる。

「それくらい。俺なら、人のままでもできますよ」

 覚束ない足取りで俺の元に歩み寄ったガウナーを、両手を広げて受け止める。

 相手の服を汚してしまうと分かっていながら、その胸元に擦り寄った。重ねた腕からは、体温が届く。

 肩に押しつけられた瞼からは、涙が滴っていた。つられて涙腺が緩む。

「…………あんた、前より泣き虫になったな」

「いずれ失うものが、増えたんだ」

 相手の金髪を撫でていると、クロノ神の手元に小さな杯が握られていた。黒の貴石で誂えられたような杯の中には、透明の液体が揺れている。

 俺の視線を受け、相手はその杯を差し出してくる。

「この後、『この時代の我』に役割を任せては、更に引っかき回しかねん。『未来の我』であるうちに、二人で一つの杯の中身を分かち、未来を誓うといい」

 俺は杯を受け取り、中身を喉に滑らせる。何の味もない水のはずだが、僅かに後味は甘かった。

 俺から杯を受け取ったガウナーが、残りを飲み干す。杯をクロノ神へ返すと、その場で溶けるように消えた。

「時が、この眼で見届けた。二人に、未来より祝福を」

 どうやら、現代のクロノ神に儀式の主導権を渡さず、簡略化して終えてしまったようだった。

「これにて、婚姻の儀を終了する」

 準備してきたすべてが、ここで終わった。隣にいたガウナーの膝から力が抜け、支えるために腕を抱く。

 顔を見合わせて、笑い合った。

「……今の、クロノ神は、いいんですか? 怒りません?」

「我が認めたことは覆らぬよ。違う時とはいえ、我は我だ」

 もしかしたら、この人が手を出さなければ、俺はもう一つの道を選んでいたのかもしれない。けれど、未来のこの人がニコを寄越し、更には俺たちを結んだ。

 クロノ神は俺たちから離れ、ルーカスの元へと歩み寄る。傷つき、深紅が枯れた傷口の上に手を当てると、瞬きの間に傷は掻き消えた。

「『今の』我は薄情で、在る道を教えもせぬだろう。だが、いくら我とはいえ、あまり干渉するのも可哀想だ。だから、一つだけ」

 クロノ神は掌を伸ばし、愛おしげに白い頬を撫でた。ほんの少しだけの逢瀬の後、指先を離す。

「神術には、人の目を眩ます術もある。一年過ぎたら、一年老いた姿を作ればいい。二年過ぎたら、二年老いた姿を作ればいい。時を模しさえすれば、人の世に紛れることは容易いであろう」

 ルーカスが、旅の間、俺の髪色を模していた姿を思い出す。

 彼は自らの姿を変える術を持っている。その方向性を加齢した姿へと向ければ、民は自分たちを同じく年を取る大神官としか思わない。

「いずれ、お前が人の世に厭いたら。────その時へ、我はきっと迎えに来る」

 ルーカスは唇を震わせ、目をめいっぱい開いた。

 赤い色は潤んで色づき、その瞳が閉じられると共に滴が流れた。宝石が頬へこぼれ落ちるように、美しく時が移りゆく。

「…………我が神の、御意志のままに」

「ではまた。未来で逢おう」

 にい、と笑うと、クロノ神はニコの首輪をがっしりと掴んだ。

 まだサフィアの元へと行こうとする巨体を、それよりも強い力で己の元へ引く。

 だが、ニコは唸り、暴れ散らかす。前脚で親神の身体を押し、後脚で蹴り付けてすらいた。

「ヴ! ワウ!!」

「ルーカスは置いていくがな! お前は、帰る約束であっただろう!!」

 強く声を発されても、人の身には恐ろしいような声の響きでも、ニコは退かない。俺達の前に立ち、唸り声を上げている。

 はあ、と保護者は長く息を吐いた。

「お前の世話係とは、未来に戻ればまた会える。この時代に留まる理由にはならない」

 だが、ニコはその時、明らかに俺たちへと視線を向けた。

 人のそれと同じように、左右に首を振る。未来には戻りたくない、言葉は発しないが、垂れ下がった尾ははあまりにも雄弁だった。

「失う哀しみを知らぬ、愚か者よ。その二人は、人を選んだ。死後は、お前の力でも世話係と同じようには出来ぬぞ」

 それでも、とニコは俺たちの元に歩み寄り、その頭を足に擦り付けてくる。

 誰も傷つけさせたくない、サフィアには生きていてほしい。そして、俺たちと共に生きたい。子どもがもつ無謀さのまま、全ての希望をその牙で掴み取る。

 いつか訪れる別れを、星の犬は選んだ。

「────嗚呼。……世話係と『あれ』には、少し戻りが遅くなると伝えておく」

 ニコは嬉しそうにクロノ神に駆け寄ると、その足に頭を擦り付けた。

 撫でることに慣れた掌が、黒い頭を容赦なく撫でる。伏せられた耳は、盛んに振られる尾は、喜びだけを伝えていた。

 一頻り撫で終えると、彼は一度、指を鳴らした。変化は一瞬だ。壊れていた戸も、汚れ、破れていた服も、すべて元通りになっている。

「あ。ありがとう、ございます」

「我は『今の』と違って気が利くであろ? ……では改めて。『また』な」

 ひらり、と手を振ると、その姿は瞬きの間に掻き消える。

 春の幻だったかのような、本当に一瞬の事だった。俺たちは、ぽかんと消え去った痕を眺めていた。

 最初に我に返ったのは、ガウナーだ。

「…………これから、結婚式、どうしたものか」

「取りあえず、残党の確認から、だな」

 まだ残る仕事を思いつつ、二人して顔を見合わせる。問題は山積みだというのに、久しぶりに見る、晴れた表情だった。

 

▽19

 シフの談によれば、こうである。

「刺客はほぼ捕らえられました。ただ、不思議なことに、来賓の皆様は刺客だとかの記憶、ぼんやりしてるみたいなんですよね」

 戦闘にて捕らえた刺客たちは、街に配備していた防衛課の人員を呼び戻し、早急に牢へと移送した。

 刺客たちが襲ってきた際に、大広間から奥の間に待機させられることになった来賓たちは、集団で催眠にでも掛けられたかのように、俺たちの筋書きに都合のいい記憶だけが残り、あとの事を忘れていた。

 迎賓館に戦闘の爪痕は残らず、都合の悪い時は、すべて巻き戻ってしまったかのようだった。

「心情としては複雑だが、都合はいい。全力で煙に巻く」

「…………うん……。まあ、そうするしかないか」

 地下通路の出入り口を塞ぎ直し、俺たちの式典は警備を敷き直し、時間を遅らせて再開することになった。

 とはいえ、式典の最中にも関わらず、サフィアの住んでいた部屋の大家を突き止めた、だとか、大家の家族ごと安全な場所に移送した、だとか通信機に連絡が届きつつ式が進んでいく。

 微笑みながら式をこなしつつ、裏に回ればガウナーは報告を受け、指示を出す。式の終盤には、サフィアの母を保護した、との連絡が回ってきた。事前に、ある程度の当たりを付け、ケルテ国側が動ける体制は取ってあったようだ。

「代理ー、おめでとうございます!」

 戦闘後に服がぼろぼろであったはずの部下たちも、綺麗に元通りになっている。

 神の介入を知っていた俺たちと違い、急に服と傷が消え去った魔構も魔装も、果ては防衛課までもが、夢ではないかと頬を抓ったそうだ。

 防衛課は未だに迎賓館の警備を行っているが、魔構の面々は警備がてら、式で提供される食事を楽しんでいる。

「シフ。…………いろいろ、悪かったな」

「本当ですよ! 正面だってけっこう人数が多かったんですからね!」

 他の人の目がある為に文句はその程度で収まるが、シフはふふ、と笑って俺の服を見る。

「本日は、まことにおめでとうございます。『宝石とかぴかぴか光って』代理にしては、お似合いですよ」

「ありがと。まあ、今日は一番の主役だしな。服で目立てる」

「そうやって茶化すの、今日くらいは止めましょうよ。……とても、綺麗ですよ」

 部下は染まった目尻を隠すように顔を背けると、そのまま食事の方へと歩み去ってしまった。

 部下も服が似合っていると言いたかったのだが、逃げられてしまっては仕方がない。後日、伝えるとしよう。

「代理、おめでとうございますー」

「ありがとうなー。フナトは魔力、足りたか? 俺のやろうか?」

「うわきです! ……なんちゃって。いえ、ウルカから奪うので平気ですー」

 ね、と腕を引かれたウルカは、もう魔力は尽きた、と身を引いていた。そういえば、俺の魔力貯蔵装置もほんの少し、魔力が残っている。

 思い出したように装置の口を唇に当てると、やっぱり馴染んだ魔力が身を潤した。

「サーシ課長は?」

「そとで警備ですー」

「……良い飯くらい、食べてもらいたいんだけどな」

「まあ、元相棒とごいっしょ、なので……」

 フナトの言いにくそうな声に、察するものがあった。嘴を入れるのは野暮かもしれない。

「ローア!」

 背後から背を叩かれる。聞き慣れた声に振り返ると、親族の集団にいたはずのウィズが抜け出てきていた。

 彼も特に正面玄関の守りのために暴れ回ったようで、本来は戦闘を得手としているはずのシュタルが、疲れ切った様子でとぼとぼ後ろに付いてくる。

 俺は身を寄せ、声を潜めた。

「サフィアの話、聞いたか?」

「聞いた。まあ、元々悪いやつじゃないと思うけど、頭が固いんだよなあ。人を頼るのも下手そうに見えるし」

 ふう、とウィズは息を吐く。

 ばしばし、と俺の背が叩かれる。力が強すぎて慰めになっていないが、彼は慰めるつもりでそうしているらしい。

「けど、そういう奴を見捨てる人もいれば、拾う神がいるんだなぁ。あいつ、これからずっと神殿で過ごすんだっけ?」

「ああ」

「……あんなお堅い場所でずっと暮らすなんて、つまんない、って俺は思うけど。それに意味を見出せれば、悪くない住処かもしれないな。神殿の書庫は俺も漁りたいもんだしさぁ」

「確かに」

 つい漏らしてしまった本音に、にい、とウィズは笑う。

「てことで。おめでと!」

「ありがとう」

 子どものような表情からは、俺を責める色はなかった。飯が美味いことを褒められ、彼は食事へと戻っていく。

 少し浮上したような気分になり、うっかりウィズ相手に慰められてしまったことを悟った。

「ロア」

 俺の元に歩み寄ってきたガウナーは、挨拶回りが一段落したらしい。背に手を添えられ、耳元に顔が近づいてくる。

 小さく抑えられた声がした。

「リベリオを見なかったか?」

「あ。少し目を離してた」

「そうか。通信機で聞いてみよう」

 通信機越しにリベリオの所在を尋ねると、『西側の窓を見るように』指示がある。窓の向こうには、灰茶色の後頭部が見えた。

 大きな窓の外には露壇が設けられ、椅子に座って外を眺められるようになっている。防備の際には窓自体に結界を展開していたのだが、今は庭との境にまで範囲を延ばしていた。

 ガウナーは、見つけたリベリオの元に歩いて行こうとする。俺も足並みを揃えた。

 扉状に開く窓を開けると、少し冷たい風が頬に吹き付ける。

「リベリオ」

「おや、ガウナー。心配しなくとも、俺は安全だよ。何たって、最強の番犬がここにいるんだからね」

 リベリオが手を差し出すと、その手に向かって黒い頭が浮かび上がってくる。最強の番犬は、撫でられると嬉しげに目を細めていた。

 ニコはずっと、律儀にリベリオの護衛を続けているらしい。

「心配はしていない。刺客のうち、雇い主を吐いた者が出た」

「追求できそうかな?」

「これからだな。とはいえ、我が国からすれば他国の事だ。最終的な決着は、ケルテ国で着ける他ない」

「まあ、そうだろうね。先が思いやられる」

 リベリオは視界の先、尻尾を振る番犬に視線をやる。

「ニコ。ケルテに付いてきてくれないかい?」

「「うちの子だぞ」」

 揃った声に、お互いに顔を見合わせる。誰かに知られたら親馬鹿だと言われそうな言葉を吐いて、俺は笑い、ガウナーは気まずそうに咳払いをした。

「はは。いや、本当に。まだケルテは悪人が跋扈して、神を迎えられるような国ではない。だけど、いつか。それこそ俺の何代か後には、君のような神が、来てくれるといいなと思うよ」

 耳の裏を撫でてもらうと、ぴんと立っていた耳が倒れる。襲撃を受けていた間とは違い、ニコの様子は穏やかで、尻尾はゆるく揺れている。

「今のうちに予約でもしておくか? まだ、ニコは特定の守護国を持ってないし。ただ、まだ力を使うのが上手くないらしい、発展途上の神様だけどな」

 俺の方をちらりと見る瞳には、陽の光を受けて星が浮かんでいた。

 一応は俺達の元にいてくれるようだが、俺達が死んだ後に、ニコにはその先がある。

「丁度いいじゃないか。よし、ニコ。未来の我が国へおいで。……きっと、素敵な場所にしてみせるよ」

 分かったのか、分かっていないのか。ニコはその両手の中に顔を埋め、嬉しそうに鳴いた。

 将来、リベリオの願いが叶ったとしたら。大河の流れが大きく変わる点は、今、この時だ。

 

 

 

 化粧を落とし、服を着替えると、いつも通りの伴侶に戻る。魔術が解けた俺もまた、鏡に映る自分は普段と変わらない顔立ちをしていた。

 屋敷に馬車が辿り着くと、アカシャとイワ、執事と料理長は律儀に出迎えてくれる。食事どころではなかっただろう、と用意された料理は、あまりにも甘美な匂いを届けてくれた。

 ガウナーと顔を見合わせ、がっつくように食卓へ向かう。スープを注ぎながら、イワは笑った。

「やはり、食事を取る余裕はなかったでしょう」

 器を受け取りながら頷く。

「コルセットもきつかったしさ。時間的にも、来賓が挨拶に来たら次に来賓が挨拶に来て、裏では警備の指示して……って感じで」

「そうかも、とは思っていたんですがね。買い出しに行くか迷っていたら『夕食の発信機』が音を立て始めまして。あぁ、これは空腹で帰宅しなさる、と」

「ああ、私が押したんだ」

 同じく、スープを受け取ったガウナーが苦笑する。

 会場での食事ともなれば、毒味だのと面倒になることもあり、席の前に置かれた食事はほぼ観賞用の代物が用意されていた。

 豪華な料理を食べたくない、と言えば嘘になるが、心労で疲れ切った胃には普段の優しい味わいが有難い。スープを口に含んで、ほう、と息を吐いた。

「イワの味付け、優しくて好きなんだよな。こんなくたくたに疲れても食べたくなるもん」

「有難いお言葉ですなぁ。朝の心配事は解決したようで、何よりです」

「…………気づかれてたか」

「はは。けれど、病もうが健やかであろうが、常に共にあり、腹を満たすのが料理というもので。朝食もきちんと召し上がっていたので、特に心配はしておりませんでした」

 用意されていた皿が無くなりかけると、厨房へと向かって新しい皿を用意してくる。もう食事を制限する必要もなく、魔力をほぼ尽きかけるほど使い切った俺は、普段よりもよく食べた。

 腹の中に食物が貯まるたび、魔力に変換されていくのが分かる。

「はい。最後は甘味を」

「やった、別腹!」

 両手を挙げて喜ぶと、目の前でガウナーが笑いを噛み殺していた。

 魔術師として多く働いた俺の空腹度合いに対し、笑ってはまずい、という配慮らしい。

 皿の上に盛り付けられた甘味は、宝石箱をぶちまけたように色とりどりの果実が使われていた。

「美味いー! 盛り付けの腕上げた?」

「ロア様の大好物ですので」

 最後まで給仕を行うと、すべて空になった皿を下げてくれる。厨房までついていって皿洗いに魔術でも使おうとしたが、段取りの上手い料理長には不要だった。

 荷物の片付けは食事の間にアカシャが済ませてくれており、食事が済めば、風呂に入って寝るだけだ。

「では、我々は失礼いたします」

「また明日の朝食で!」

 入浴の準備を整えて帰っていくアカシャとイワに手を振って別れ、俺たちは準備された風呂へ行く。

 脱衣所の一角には、寝間着が纏められていた。何気なく視線をやると、普段とは違ったものだ。

 布地を両手で持ち上げる。光沢のある白の生地は薄く、触れればつややかな質感をしていた。裾にフリルがあしらわれているのが華やかで、特別な装いであると主張している。

「いつの間に選んだんだ?」

「少し前にな。……いや。結婚式の夜くらい、気持ちよく寝てほしかっただけで。決して邪な気持ちではないんだが」

 式の後で疲れているかと思ったのだが、目尻を染めた伴侶はそわそわしている。広げた寝間着をその場に置き、真横から抱きついた。

 びくん、と抱きつかれた身体が震える。相手の胸元に手を伸ばし、意味深に撫でた。

「神様は嘘がお嫌いらしいぞ」

「…………ほんの少し、くらいは。邪な思惑があったことは否めない」

「正直でよろしい」

 眼鏡を外し、爪先を伸ばし、頬に唇で触れた。

 そのまま眼鏡は洗面台の側に置き、服に手を掛ける。釦を外し、首元を寛げた。

「流石に今日は疲れてるかな、って。お誘いを掛けるつもりはなかったんだけど……」

 肌を晒す範囲が増えていく程、熱い視線が露わになった部分を灼く。

 俺から視線を向けると、慌てて逸らされる。ほんの一日で色んなことがあった筈なのに、彼はまだ今日を続けたがっていた。

「疲れてるんなら、無理はしなくていいぞ? 明日でも、明後日でも。この服、着るよ」

「……疲れては、いると思うんだが。その……ずっと、お預けだっただろう?」

 何が、とは言わなくても分かった。

 クロノ神より引っかき回されてから先、お互いにお誘いを控えあっていたのだ。お預け解消、に対して、伴侶には並々ならぬ感情があるらしい。

 ふ、とつい唇に笑みが浮かんでしまう。

「じゃあ。今日、着るかぁ」

「着てくれる、のか」

 ほんのりと嬉しさが滲み出る声音に、俺相手に、とつい思ってしまう。だが、この人は神を敵に回しても不老を選ばず、俺の傍に居ようとし続けた。

 この人にとっては、大事に仕舞われている宝石箱の中身のように、俺だって宝物になり得るらしい。

「ほら、風呂はいろ」

 髪の結い紐を解き、服を脱ぎ落とす。

 毎日のように見ていた身体の筈なのに、視線を向けてはそわそわしている伴侶が可笑しかった。

「結婚式前だからさ。ちょっと磨いたんだよ、肌とかも」

「そう、か」

「触って確かめてくれる?」

「…………っ!」

 相手が服を脱ぐのを待って、明らかに挙動不審な伴侶と風呂場に入った。

 湯船からはさかんに湯気が上がっており、ちょうどいい湯加減らしい。風呂椅子に腰掛け、頭から湯を被る。

 朝から身体中に色々と塗られたものを、泡を纏わせて洗い流す。俺よりもゆっくりと身体を洗っているガウナーは、まだ泡塗れだ。

 つい悪戯心が疼く。手元で泡を立て、彼の背に回り込んだ。

「洗ってくれるのか?」

「ん」

 俺の思惑など知らない伴侶は、背中を泡立てる手に嬉しそうだ。

 普通に洗うのだ、と油断しきった様子になった頃、背後からぎゅう、と相手の胸に手を回す。

「ロ、ロア……!」

「きれいに洗おうなァ」

 手に広げた泡を相手の胸元に塗りつけ、そのまま手のひらを腹に滑らせる。つつ、と意味ありげに辿った指先は、更に下へと向かう。

「…………あ」

 俺の胸と彼の背の間で、ぬるりと泡が滑る。突起は押し潰され、僅かな快感を与えてきた。

 手のひらの中には、収まりきれない熱がある。ぬるぬると指先を滑らせると、感触が変わり始めた。

「……ッ、ロア! 君が思っているより、私は……」

「なに?」

 ぺったりと胸をくっつけ、戯れに滑らせてもみる。

 泡立った茂りの中で、水音を纏いながら指を動かす。輪を作った指が搾り取るようにくびれをなぞると、躰は跳ねた。

「悪戯が、過ぎる……!」

 腕が解かれ、両手を挙げる。

 にたにたと笑う俺を悪趣味だと言いたげに、彼は眉を顰めた。

「楽しかった」

 ばしゃり、と頭から湯を被る。

 伴侶を置いて湯船に浸かると、しばらく経ってから後を追ってくる。股間は静まったようだが、そわそわ、よりも苛々のほうが表に出ている。

 湯船に肩まで浸かったのを見るや否や、その太股へと乗り上がった。

「………………ロア」

 彼の首に手を回す。

 つい、と指先で首筋を伝うと、また相手の眉が寄った。

「なんで触ると怒るの」

「暴発しないよう堪える側の気持ちにもなってくれ……!」

 お預け、は俺にとってもお預けであった訳で、思う存分いちゃいちゃとしたいのだが、触れるたびに眉がぴくぴくと動く。

 彼の胸元に寄り掛かり、ふふ、と笑った。

「俺を諦めないでくれて、ありがとな」

「…………こちらこそ。永遠の時よりも、私を選んでくれてありがとう」

 近づいてきた唇に啄まれる。

 仕返し、と顔を引っ掴んで吸い付くと、お互いに我慢比べみたいになった。最終的には、俺が折れて離れる。

「ずっと、一緒にいような」

 願いでしかない言葉を口に出すと、頷き返してくれる。

「ああ。ずっと、一緒にいよう」

 指先を絡めて、力を込めた。

 人は、叶わない願いほど強く思い、口に出そうとする。

 彼に出会う前の俺は、きっと寂しかった。寂しさが埋まればいいと願って、この腕を掴み取った。だから別に、叶わなくとも願えばいい。

「────今日の君、は何だか……馴染む? みたいな感じがするな」

「そりゃ、あんたの魔力で満ちてるんだもん。今の俺、ガウナーのものだって、全身で主張してるみたい」

 あはは、と照れ笑いを浮かべると、繋がった手から魔力が流れ込んでくる。

 いずれ、この身に満ちた魔力は元の波を取り戻してしまうんだろうが、それまでは相手の波に浸っていたかった。

「それなら、もっと主張して貰わないとな」

 掌が、ねっとりと俺の腰を撫でる。

 長風呂の間に盛り下がられても困る。誘い文句を凝るべきか悩み、数瞬経たずに諦めた。

「……寝室、行こ?」

 じっと上目遣いで見つめると、彼の金髪からぽたりと滴が落ちた。

 目をぱちくりとしている反応を見るに、俺には似合わない言葉らしい。視線を泳がせて、頬を掻いた。

「あー……。らしくないことを……」

 言葉を続けようとして、赤く染まった目元に気づいた。

 ガウナーは口元に掌を当て、なんかもごもご言っている。

「────とても、可愛かった」

 最終的に紡がれた言葉には、俺の方が赤面してしまう。

 互いに茹で上がった俺達は、視線で示し合わせて風呂から出る。身体の水分を落とし、拭う間にも、戯れのように言葉を交わし、肌に触れた。

 貰った寝間着は特に、下着を身につけていない所為か肌の上を滑る。

「なあ、これ布。若干、透けてない?」

 太股のあたりで裾を持ち上げると、ガウナーは、ごほん、げほん、と態とらしく咳払いをする。

 やっぱり透けているらしい。じい、と見つめる相手の肩をはたき、腕に抱きついた。

 ふわりと崩れた金髪は、乾いたばかりで柔らかい。俺を見下ろす伴侶の瞳を見つめ返した。

「案内よろしく」

「ああ」

 

▽20(完)

 ガウナーは俺の手を引いて廊下を歩き、寝室まで誘導してくれた。

 歩く途中、指先をにぎにぎとやっていると、微笑みながら振り向かれる。立ち止まって、額に唇で触れられた。

「何?」

「愛らしいなと思って」

「俺も、ガウナーのこと、愛らしいなって思うよ。ぼろぼろ泣いてるとことか」

「ありがとう。君絡みだと、衝撃的な事が多くてな」

 出会う前は、彼が泣く姿など想像ができなかった。

 お堅くて、いつも気を張っているような、我が国自慢の宰相閣下。でも今は、昔よりずっと多くの人に囲まれている。

「俺以外の為に泣いたら嫌だぞ」

「…………いや、今日ニコが未来に帰る、という話になった時があっただろう?」

「うるっと来た?」

「何なら泣き喚く所だった」

「はは。残ってくれて良かったな」

 彼の頭を撫でていると、やがて寝室に辿り着いた。

 扉を開け、中に身を滑り込ませる。照明を灯すと、中は普段と変わらない寝室があった。いや、寝台の整い方は普段以上だろうか。

「俺さ。ガウナーが死ぬ時、泣き喚くと思うんだけど」

「そうか? 嬉しいな」

「でも、ニコがいたら、もうちょっと生きなきゃ、って思えるかも」

 二が三になって良いことがあるとすれば、一が減っても二が残る。数とは偉大だ。

 俺の言葉に、ガウナーも同意するように声を上げる。

「私も、ニコの前で後追いは憚られるかもな……」

「な。だから、ちょっと安心したかも」

 伴侶が自分の後を追うことは、嬉しいとは思えない。俺がいなくなった後の世界だって、きっと、彼が心を動かされるものは残るはずだ。

 特にガウナー宰相閣下は、国をよく知っている。老後であろうと、引っ張りだこの未来が見えた。

「魔術。……今日なんかしてほしい事ある? ぬるぬるする?」

「はは、普通にしてくれ。結婚式後というだけでお腹がいっぱいだ」

 注文通りに、身体の中を整える。

 とはいえ、人は普通でいい、そのままでいい、と言いつつ、普通を続けていると停滞と見なす生き物だ。次はいやらしいやつを考えておこう。

 寝台脇、小机の引き出しを開けると、中から保湿用の瓶を取り出す。

「ほら、しよう」

 寝台に腰掛けて両手を広げると、大股で部屋を突っ切ったガウナーが腕の中に飛び込んでくる。

 そのまま横向きに寝台へと転がった。

「っ、ははは。何だよ、今日はご機嫌だな」

「君を取り返したんだ。ご機嫌にもなる……!」

 顔を近づけ、唇を重ねた。

 やんわりと触れていた筈の唇は、段々と吸い付くような動きへと変わる。何度も同じように強請ると、開いた口から舌が滑り込んだ。

「……ン、ふぁ、……ア」

 相手の掌が首筋を捉え、舌先が柔らかい部分を辿る。魔力ごと口内を引っ掻かれ、もぞもぞする身を引こうとしても、更に喰らいつかれた。

 うまく息ができなくて、苦しい。

「んん……!」

 俺が降参する形で、唇が放れる。

 むう、と唇を尖らせながら身を起こし、寝台に座る。ガウナーも同じように身体を起こすと、俺の頬に触れた。

「愛しているよ、ガウナー」

「私も愛しているよ、ロア」

 今度は広げられた腕に俺から飛び込む。

 しっかりとした身体は、背後に倒れ込むことはなかった。首筋に手を回し、胸元にぐりぐりと頭を押しつけると、耳元に笑い声が届く。

「ずっと寝ないつもりか?」

「だって。今日が終わっちゃうの、寂しくてさ」

 傾いた顔に合わせて目を閉じる。柔らかいそれが唇に触れて、離れていった。

「じゃあ、終わらせないようにしようか」

 端が持ち上がった唇は頬に、そして首筋に触れる。

 自分とは違う指が、首筋の釦をひとつ外した。身体を持ち上げると、胸元に唇が当たる。強く吸われると、明日には消えてしまう痕が残った。

 手のひらは服の上から胸を撫でる。布越しの指の感触は、もどかしさを連れてきた。

「ン。脱がせない……のか?」

「もう少しだけ、な。生地が薄いから、こうやって押しつけると、色が分かる」

 つ、と指先が布を皮膚に押しつける。

 感触に反応したのか、胸の先端は言われたとおりに布を押し上げ、白い布は下の色を透かしていた。

 端整な指先が、突起を摘まみ上げる。

「……趣味が悪……っ、ぁ」

 く、と布を押し上げた中心を押し潰す。跳ね返った場所をまた摘まむと、今度は引かれた。

「きみは、自分を選んだのが趣味が悪い男でいいのか?」

「だッ……、だって。俺を選ぶとか趣味がわる、い……ン、あ」

 傾いだ頭を見下ろすと、その唇が胸の先端を食む所だった。

 薄布越しに、ぬるりとした感触が伝う。

「く、ふ。……ン、うあ、……ぁ」

 ちゅう、と吸い上げた後で唇が離れると、空気が熱を奪って先端を尖らせる。

 濡れて透けた乳首は、吸われて僅かに色を変えているようだった。

 ガウナーは食い入るようにその場所を見つめると、寝台の上に転がった瓶を拾い上げる。

 中身を掌に広げると、指先は両胸へと向かった。唾液で濡れた場所の上に、ねっとりしたものが塗り広げられる。

「ひ……ッ。……ぁ、く。ンぁ」

「以前よりも、悦くなったか?」

「ぁ、ちが……。いつもと、違、ン、から」

 胸の部分だけ、肌の色を透かしている。つんと布を押し上げる部分に濡れた服が張り付き、かえって恥ずかしい。

 自分が淫らな人間だと、見せつけているかのようだ。

「ぁ、は。……っ、しつこ、いぃ……!」

 下に比べれば鈍い快感は、ただもどかしい。太股を擦り合わせ、胸ばかりを弄る指を押し退ける。

 睨めつけるのだが、犬猫にでもそうされたかのように、彼は目を蕩けさせるばかりだ。

「下、脱ぐ」

「触ってほしいからか?」

「…………ッ! やっぱり悪趣味!」

 自ら下の服に手を掛け、脱いだ布を寝台の上に放り投げる。

 上着の丈が長く股のあたりは隠れるのだが、何とも心もとない。裾を引いて隠そうとすると、手のひらが捕まった。

 視線をあげた先には、にっこりと笑う伴侶がいる。

「私は趣味が非常に悪いので、出来ればその下を触らせてほしいんだが」

「すけべ!」

「申し開きの余地もない」

 眉を寄せつつも、促されるままに服から手を離す。

 ガウナーは手のひらに小瓶の液体を塗り広げると、何かを思いついたように目を開く。

「膝立ちになってくれないか」

「今日は普通でいいって言っただろ……!?」

「興が乗ってきた」

 言われるがままに膝立ちになり、触りやすいように軽く脚を開く。この人は、割と目で愉しむのを好むのだ。

 大きな掌は、嬉しそうに服の下へと伸びる。

「…………う、ァ」

 茂みの中に潜り込んだ指が、半身を捕らえる。

 上からでは手の動きはよく見えないが、触られている感触は視覚よりも鋭い。短く息を吐いた。

 ぬる、と指先が裏筋を辿る。

「ぁ、あ……ン、っく。……ふ」

 丸く胴を握り込んだ指が、中身を搾り取るように動き、芯を育てる。

 躰は久しぶりの指の感触に悦び、やがて涎を滴らせはじめた。吐息が白く染まりそうなほど、息は熱を高めるばかりだ。

 二人だけの寝室で、ひっそりと嬌声をこぼす。

「先っぽ、は。っ、……やだ、ァ……!」

 指の腹で先端を引っ掻かれると、更に液体は塗れ広がった。

 視界には指の動きは入らない。無意識に感覚を研ぎ澄ましてしまい、更にそれが身体を苛む。

「久しぶりだからか、反応がいいな」

 ぴん、と相手の指がだらしのない半身を弾く。

 その感触にすら声を漏らし、息を零した。

「おれ、も。……さわる…………ッ」

「後で頼む」

 反撃の余地も潰され、ただ快楽だけを与えられた。主導権を握られると、いつもこうだ。

 熱を放出する前に、上手いこと制御されて指が放れた。一息つけるかと思いきや、彼の手はそのまま背後に回り込む。

 裾の下から、広い掌が尻肉を掴んだ。

「揉み方がやらしいんだよ……!」

「…………。弾力があって素晴らしいな」

「正直者が!」

 戦闘訓練で少し筋肉が付いた尻の感触の変化を言い当て、これもいい、と指の先を肉に埋めている。

 本人は楽しんでいるのだろうが、焦らされているようにしか思えなかった。

「も、やめ。早く……繋がりたい……! し、さ……」

 上機嫌で尻を揉んでいた手が止まる。

 呆気に取られたような表情に、咄嗟に口を噤む。ガウナーは無言で瓶を拾い上げると、中身を荒く掌に広げた。

 回り込んだ手が、伸びた指先が、受け入れるのに慣れた場所を容易く捉える。

「ひン……!」

 くぷん、と飲み込んだ後腔の感触を確かめ、更に指先を奥深くに埋める。魔術で整えられた内壁は痛みを伴うことなく、男の指を受け入れ、やわく食む。

「あ、く……ふぁ、あ」

 ぬるりとした感触が内側に広がり、ぞわぞわとしたものが背筋を駆け上がる。体内を他人に許すのは、伴侶以外はお断りだ。

 潜り込んだ指先同士が隙間を作る。閉じようとした肉の輪は限界まで拡がる。

「……ン、ふ。…………あ、っ。うあ、ァ────!」

 指先は入り口ちかくの弱点を直ぐに捉えた。指の腹で捏ねるように押し上げると、びりびりと鋭い快楽が頭を灼く。

 口を開き、喉に力を込めて呼吸をする。

「ふ、う…………ッ、ア、うあ」

 相手の魔力は無意識に輪郭を解き、全てを押し流す高波のように己の魔力を襲う。食らいついて、丸め込んで、そうして我が物のように混ぜられる。

 身体には、昼間に取り込んだ彼の魔力が残っている。同族を引き入れるように、魔力同士が結びついては、俺を書き換えていく。

「魔力、……あ、や……流さな、で……!」

 びくん、びくん、と身体を震わせ、相手の肩に縋り付く。

 だが、いくら懇願するように高い声音を使っても、彼の指は抜かれることはない。

「私は何もしていないよ。ここだって、君が」

 ずる、と指が大きく引き抜かれる。そうして抜け出た場所を、それ以上の速度で駆け上がる。

「ン────! ぁ、ひ」

「こうやって、吸い付いているだけだ」

 指の付け根までずっぷりと埋め込んで、弱い処を押し上げる。ぼたぼたとシーツに液体が垂れ、体液が混ざったそれは白いだけの色に染みをつくった。

 前はもう、触っては貰えない。形を変えて持ち上がったまま、根元からの快楽だけを与えられる。

 腹の奥に、滾っている雄を受け止めたい、と頭が狂っていく。

「……や。……は、っく。うぁ、────ひ」

 声は短く、言葉には変わらない。嬌声は濁り、呼吸は荒れに荒れていく。

 ぼうっと息が上がっていく中で、窓の外を見る。無意識に確認した外は、まだ暗い。

 いつになったら責めが終わるのか、そう思い始めていた頃、指が引き抜かれた。

「すまない、夢中になりすぎた」

 ちゅ、と唇の端に触れられる。

 夢からほんの少し浮上したように、青の目を頼りに視線を動かす。腕を伸ばして、その首筋に縋り付いた。

「────いっしょ、に、なりたい」

 首筋から胸元へ辿らせた指で、彼の服の釦を外す。上着を脱がせ、寝台の上に放った。

 自分の服も縺れる指先で解き、同じ場所に落とす。

 既に盛り上がった相手の服に手を掛けると、動きを助けるように腰が浮いた。足先から下の服を引き抜く。

 露わになった股間にあるものは、隆起している。

「………………」

 こくん、と喉が鳴った。

 膨らんだ竿の大きさも、体液を零して色を変えた粘膜も、体内に引っかけるためのくびれも、目にすれば、はやく体内に埋めてしまたいと気が急くばかりだ。

 腰を浮かせて、太股へと更に乗り上がる。意図を察したのか、彼は僅かに身を倒した。

「その眼、……食べられそうだ」

「そう、かも」

 脚を持ち上げ、身体をしっかりと跨ぐ。

 拡がって、縁は綻んで膨らんで、指ではないものを求めてひくつく後腔に、その熱を宛がった。

「…………っ、ふ」

 焦ってぬるりと滑った肉筒を支え、改めて腰を落とす。

 体重を掛けた途端、ぐぶり、と一番張った部分を呑み込んだ。

 内壁を押し上げる塊に怖じ気づく。それでも、ゆっくりと腰を下ろした。

「……ふ。ぁ、ア」

 自分で砲身に宛がい、弱点であるその場所を狙うことを怯える。やんわりと押し当てて、快楽の近さに唇を噛む。

 息を吐いて、内側のしこりを掻くように逃げを打つ。だが、直ぐに腰が掴まれた。

「────ひっ! うあ。あ、ぁ……」

「気持ちいいよ、ロア」

 下に敷いていた身体が浮き、ぐり、と出っ張りが逃げていた場所を押し上げる。

 重たい刺激と共に、ぬめる内壁越しに漏れ出た魔力も擦り付けられた。じわじわと浸食するように魔力が絡み、じん、と痺れを残す。

「い……っ! あ、ひ。うあ……ァ、あ」

 肉輪は窄まり、男根を逃すまいとばかりに縋り付く。もっと、あの魔力を食らいたい、と身体が騒ぎ続けている。

 揺れた反動で体勢を立て直そうとすれば、また腰ごと男の股に擦り付けられる。

「もう少し、挿れてくれるかな?」

「ま、……って。ふ、う……ッ!」

 奥を拡げて、根元まで迎え入れようと躰を揺らす。

 けれど、どうしても我を失う怖さが先に来て、腰は逃げっぱなしだ。この膨らみを長いことお預けした身体に、刺激が強すぎる。

 男の肩を掴み、目尻を染めたまま、情けなく口を開く。

「なん、ァ……。うまく、……できな」

 滲んだ涙を、相手の指が拭い取る。

 悲壮感さえ滲むこちらとは裏腹に、相手はとても嬉しそうだ。

「ここまで、よく出来たね。代わろう」

 こくん、と頷くと、腰が浮かされ、ずるんと肉棒が抜け出た。余韻に身を震わせていると、身体が寝台へと倒された。

 お預け、の原因を作ったのは俺だ。だから、俺が彼を気持ちよくしたかった。今度は下から、覆い被さる身体を見上げる。

「どうした?」

「上手に…………したかったのに」

 しゅんと視線を逸らすと、頬に深く唇が当たった。

 ちゅ、と音を立てながら相手の顔が離れる。浮いた顔を見上げると、相手の頬は紅潮していた。

「まだ、今日はこれからだ」

 脚が持ち上げられ、腰が浮く。

 開かれた股の間に、相手の体が入り込んできた。猛った屹立はぬるりと肉縁を撫で、体液を擦り付けながら突き入る位置を定める。

 相手の腕が脚を掴み、重たい躰が覆い被さった。

「ふ、……う。ぁ……うああ……」

 先程まで含んでいたはずの熱が、また温度を上げて割り開く。

 反射的に引き絞るのだが、呼吸の合間を狙われてまた深く潜り込まれた。息を吐き、力を抜こうと努める。

 ひっ、と啜り泣くような息遣いをして、男の欲望へと身を投げ渡した。

「まずは。ここ、か……?」

「あ、ア! ────ひ、っう。ぁ!」

 軽く引いた腰が、先ほどまで押しつけていた場所を突き上げる。

 自らで貪るのとはまた違う。相手好みの抽送は、力強く、容赦なく弱点を狙ってきた。ずっしりと、腹の内側を違う温度の瘤が押し上げる。

「あっ……ア。ひ、……ン、く。あ、あ、あ!」

 相手の腕を押し退けようとするが、脚を掴まれて引き戻される。滲み出る相手の魔力は、感情に呼応するように荒い。

 思うがまま揺さぶられ、欲望のたっぷり詰まった液体を含まされる。

「まだ、入るな……」

 愉しんでいた場所から先端が離れ、更に奥を目指し始める。

 目を見開いて、慌てて腕に力を込めた。

「……っ! いま、敏感……ぁ、から、奥、は、やだ……!」

「────────」

 彼は黙ったまま、瞳に暗く影を落とした。

 ほんの一瞬だけ、彼の口の端が持ち上がったのが見える。長い指先に力が籠もり、脚の柔らかい肉に指が食い込んだ。

 ずっ、と腰が一歩、奥へ進んだ。

「今のは、……クるな」

「……そういう、つもりじゃ。……ア、あ────!」

 泣こうが、腕をはたこうが、少しずつ肉杭を受け入れさせられていく。

 相手の息は荒い。ぎらぎらとした瞳が、舌舐めずりをする唇が、窓の外の昏さよりも尚、底知れないものがあった。

「ロア。……っ、ここ、開けてくれ」

「知る、かよ…………。ァ、ひ……!」

 ずん、と一突きされ、漏れ出た魔力で分からされる。

 身体の奥の奥を拓いて、この男の波で上書きされたい。躰は楔を柔く包み、白濁を絞りだそうと蠢いていた。

「君と、気持ちよくなりたい」

「………………今日だけ、だからな」

 ふ、と息を吐いて、奥を閉じようとする力を弛める。

 より一層、男の亀頭がぬかるみに填まり込んだ。ガウナーの腕が、腰へと掛かる。

 僅かに抜け出た雄に、安堵したのも束の間。ずりり、と押し戻った先端が、緩んだ場所を掻き分ける。

「────っ! あ」

 どちゅん、と重たい肉の塊が腹を埋めた。

 粘膜を取り払って繋がったかのように、あまりにも近かった。はくはくと呼吸を整え、腹に手を当てる。

 結合部は隙間なくくっつき、尻には相手の股が当たっている。おもむろに緩く腰が揺らされ、深い快楽に呑まれた。

「は……ぁ。…………一段と……ッ、絞ってくるな……!」

「……あんた、が、ぁ。ァああッ! あ、っう……ア、あ」

 熱杭は抜かれず、居場所を定めたまま小刻みに中を突く。

 相手が動くたび頭まで刺激で埋め尽くされ、焼き切れるかと思うほど熱が上がった。上擦った声が、自然と口から零れる。

「ガウ、ナー……! ────ッ……なか、欲し……!」

 滾って魔力を濃く含んだ精を、奥に注ぎ込んでほしい。頭の中はそればかりで、自然と相手の体に脚を擦り付け、腰を揺らしていた。

 無意識に、きゅう、と締め付けた相手の眉が寄る。ぶるり、と震えた体は、限界が近いことを示していた。

 くっと己の唇が持ち上がる。赤く染まった唇を舌で舐め、獲物が手に入った悦びに酔いしれた。

「……これは。……ッ、君が、悪い……!」

 ぐん、と引かれた腰が、尻に叩き付けられる。

「────ン! あ……っ、は」

 濁った嬌声を上げ、ぶるぶると全身を震わせた。唇からは言葉にならない声ばかりが漏れる。

 腰を掴む腕は強く、何度も、何度も教え込むように深く突き込む。ひ、ひ、と喘ぎ、もっと、と強請った。

「ロア……! いくらでも、ッ、やるから……」

「うん……ぁあ、ひあ! ン、ぁああ────!」

「だから…………────」

 聞き取れたのか、聞き取れなかったのか。その言葉に、ほんの一瞬だけ、理性が水面に浮かび上がる。

 ふわりと笑って、その頬を指先で撫でた。

 彼は、こくん、と頷き返し、また本能へと意識を沈めた。ずるる、と引き抜かれた腰が、細径を駆け上がる。

 どすん、と腹の奥を膨らみが叩き、雄の訪れに慣れた門は柔らかく受け止める。

「──────ッ! は、ぁ。……っく」

「……ひぁ、ア! ……────ぁ、あ、あぁあああぁぁァン!」

 望み通りに、ぎりぎりまで押し込まれた奥で熱が吐き出される。

 どろりとした白濁が、びゅう、と粘膜を叩いた。頭の底まで白く塗り潰され、魔力の波はめちゃくちゃに掻き乱された。

 注ぎ込まれているあいだ、びくん、びくん、と躰が跳ねる。最後の一滴まで吐き出すと、ようやく男根は引き抜かれた。

 両手で腹を抱いて、余韻に浸る。まだ、あの質量が中にいるみたいだ。

「……疲れたか?」

「…………ん、な、か。……ぁ、もっと……」

 ひくん、と震える俺の様子を見て、ガウナーは催促を察したらしい。身体をずらし、今は大人しくなった彼の半身を指で捉える。

 体液に塗れたその塊を、指先で撫でた。

「まだ、欲しくて…………」

 鈴口を指で撫でると、こぷり、と滴が浮いた。

 ずりずりと寝台を這い、体勢を変えてその濡れた先頭を掴み直す。未だに濡れ、男との交合の後そのままの股は、二度目を望んで疼いている。

 相手の太股に頭を預け、砲身に頬擦りした。

「な。……もっとしよう?」

 頬の柔らかさで男の膨らみを甘やかすと、やがて竿は持ち上がり始める。

 唾液を落とし、指を絡めて自らの欲のまま扱く。精を作る袋をやわやわと揉み込むと、観念したように息が吐かれた。

「君の望みなら、存分に」

 育った欲望を突き立てられるのを俺は喜んで受け止め、夜の闇に紛れたまま、獣のように互いを貪り合う。

 魔力が混ざりに混ざった俺の体はガウナーの波形を覚えすぎて抜けず、しばらくは魔術師から、からかわれる羽目になった。

 

 

 例の神とは、すべてが終わった後で、一度だけ夢で相見えた。

 僅かな、人通りが多い道で擦れ違うくらいの時間の邂逅。泉に沈んでいく俺を見ながら、漆黒の髪を持つ彼は、ひらりと手を振って、ただ笑った。

 ほんの少しだけ、寂しそうに見えたのは気の所為だろうか。

 

 

 事態は、おおむね神様の用意した舞台装置通りに収拾した。

 この事件を機にサフィアは生涯を神殿預かりとなり、モーリッツ一族の中から複数人に、一定期間の謹慎という措置が執られた。

 サフィアの両親が管理していた土地は、ナーキアでの一件から引き続き、父の預かりのままだ。

 うちの一族に権力が集中することは避けるべきだが、荒れているケルテ国への抑えになる貴族は数少ない。父の領地も含めて、まだ調整には時間が掛かりそうだ。

 ともあれ、父に対しての建前上の罰は重くはなく、謹慎期間中も楽しそうに読書をしていたそうである。

 忙しくしている間に、季節はもう春だ。道端の木には国花が咲き、地面を薄紅の花弁で埋め尽くしている。

 外を歩けば、花弁の一枚でも拾ってくるのが恒例になっていた。

「ロア。もう朝だぞ」

 もぞり、とシーツを掻き分け、身体を起こす。結婚式から先、伴侶は隙あらば寝台に引き摺り込もうとする。

 魔力を突っ込まれ、揺さぶられた俺は、みしみしと凝った身体を起こす。

「おはよう」

 ちゅ、と頬に唇が当たる。

 俺も相手の頭を抱き、頬に、ぶちゅう、と唇を押し付けた。

「おはよ。…………寝過ぎた」

「はは。私の所為だ」

 のろのろと寝台から降り、眼鏡を拾い上げる。

 ガウナーの服の裾を掴んだまま廊下を通り、食卓へと向かう。その最中、足下にもふりとしたものが纏わり付いた。

「ワォン!」

「おはよ、ニコ。いつの間に神殿から来たんだ?」

 立ち止まると目が細まり、耳が垂れる。撫でられると信じて疑わないその仕草が可愛く、しゃがみ込んで撫で回してしまった。

 神殿で気を充填してもらったニコは、今日も元気だ。

 今まではルーカスも、神殿へニコを頻繁に呼んだりしなかった。だが、ニコとの間に繋がりができて直ぐだからか、サフィアが時おり体調を崩すようになった。

 最近は頻度も落ち着いてきているが、ニコは好んで定期的に神殿と屋敷を行き来しては、サフィアに毛並みを整えてもらっている。

「朝方に、サフィアが連れて来た。まだ君には、合わせる顔がないらしい」

「は?」

「私に聞かないでくれ。責任を感じているんだそうだ」

「はあ。神様が許してるのになぁ……」

 ニコに同意を求めると、分からない、というように首を傾げる。

 星の犬はどうやら俺たちが死ぬまでこの時代に留まるつもりらしく、神殿へ行っても一定期間で帰ってくる。自宅は、どうやら屋敷の方だと認識しているらしい。

 愛着を感じてもらっているのは、素直に嬉しいものだ。

 最近はガウナーも一段とめろめろで、ルーカスにもサフィアにも大事にされ、この犬にとっては此の世の春かもしれない。

「ニコ。今度サフィアのとこ行ったら、神術について教えろって言っといて」

 わふ、とニコは勢いよく返事をして、また俺の足下で永遠を描く作業に戻った。

 俺とガウナーは顔を見合わせて笑うと、食卓へと向かう。食事を摂り、服を着替え、屋敷から出発の準備を整えた。

 家を出るばかり、となった時、伴侶がやけにそわそわしている事に気づく。

「そういえば、……ガウナー、なんか今日…………」

 何事かを問いかける前に、俺の唇に指先が押し付けられた。

 ガウナーはふっと一度ほほえむと、廊下の影へと姿を消す。戻ってきた伴侶は、両手いっぱいの花束を抱えていた。

 目を丸くしていると、生涯を共にするその人は、花束を俺に差し出してくる。

「誕生日おめでとう。────ロア、愛しい君が生まれてきてくれて。私と共に生きてくれることを、心から嬉しく思う」

 ぼうっと花束を受け取って、抱き締める。

 黄色を主体として作られた大きな花束は、以前、式典で受け取ったあの花束を思わせた。花が顔に近づくと、ふわりと柔らかな香りが漂ってくる。

 咄嗟に、衝動に突き動かされるままに、花束ごと彼の腕に飛び込んだ。

「…………ありがと。嬉しい」

 朝から泣かせるな、とそれだけ文句を言い、綻ぶ顔で花束を見下ろす。足下ではニコがくるくると二人を纏めるように歩き回った。

 目元を指先で拭えば、涙でぼやけた眼鏡が浮く。

「俺も。ガウナーと一緒にいられて、幸せだ」

 ほんの一年前、変わらなかった日々の中で迎えた誕生日を思い出す。

 一介の魔術師が、宰相閣下と結婚することになるなんて思いもしなかった。だが、もう宰相閣下は……伴侶は、当然のように隣に居座ってしまった。

 空いている方の手を伸ばし、彼と指先を絡める。

 また明日、また次の誕生日。重ねていく約束を、俺はもう『いつもと同じ』と言うことはないのだろう。

 

 

 

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