その日は番も早々に帰宅し、しかも帰宅途中に夕食を買ってきてくれたため、僕は早めの夕食にありつくことができた。その日の仕事は既に終わっており、夕食の後は自由時間となった。
風呂も終えてのんびりしはじめたところで、永登は契約している映画見放題サービスのページをリモコンで操作し始めた。冷蔵庫から炭酸飲料のペットボトルを運ぶと、夕食と一緒に買ってきてくれたポップコーンが温められて隣に並ぶ。
氷の入ったグラスにしゅわしゅわと泡立つ飲み物を注ぐと、礼と共に大きな掌に受け取られた。まだ温かいポップコーンを口に運ぶと、溶かしたバターが贅沢の味をしている。
画面に視線をやると、おどろおどろしいサムネイルが並んでいた。
「え。今日ホラー?」
「ホラー」
「しかも割といい感じのやつじゃないか?」
「割といい感じのやつ」
画面に意識が向かっているのか、僕の言葉に対して反復でしか答えが返ってこない。ランキングを上から見ているのか、予算が潤沢にあり、多数の映画館で上映され、怖さを追求したような映画しか並んでいなかった。
嫌だ、という気持ちを込めて永登の腕を揺するが、本人は気にした様子もない。上げた腕で駄々っ子をあやすように頭を撫でられた。欲しかったのはそれではない。
「ほら、お化け屋敷も一緒なら完走できたしさ」
「あの時、前見てなかった」
やだ、と頭を腕に擦りつけるが、当人は構われるのを嬉しそうにしていた。やがて選定が終わり、制作会社のロゴが流れ始める。都市伝説をテーマにしたホラー映画のようで、高校で学生が噂話を始める。
『この話を聞いたら、七日以内に他の人に伝えないと────』
「こういうのやだー!」
「俺もやだな。被害を広げるなら自分で止めたい」
映画を見ること自体の否定と、作中での行動についての否定が噛み合わずに流れる。わざとそうしているのか、と心中で罵りながら、思わず胸元に擦り寄った。腕が僕の肩に回り、抱き寄せる。
映画が進むにつれて、不穏な描写も増えていく。唐突に窓の外から白目も黒く塗りつぶしたような青白い肌の女性が覗き込むシーンでは、ぎゃ、と悲鳴を上げながら顔を押し付けてしまった。
肩に回った腕が服越しに肌を撫でる。
「やっぱり、苦手なんだな」
「なんで永登は見れるんだよ……」
うぁぁ、と悲鳴の名残を吐き出し、そろそろと画面を窺う。登場人物が錯乱するシーンへと移り変わっていた。
「ある程度、こういうメイクの方法とか知ってるからかな。見てても特殊メイクの技術の事を考えてしまうのかも」
「僕も、……裏側を知ればいいのかな……」
弱り切った声で言うと、ふふ、と彼は唇を持ち上げた。
「今度ホラー映画を撮るとき見に来たら?」
「…………考えとく」
声が細すぎた所為か、永登は口元に拳を押しつけ、笑いを噛み殺す。ぱしぱしと胸元をはたいて抗議し、胴体にしがみついた。
口伝えで呪いが広がっていくと、叫び声を漏らしそうになるシーンも増えていく。大型のモニタ、拘った音響の効果で怖さもひとしおだ。
恐怖場面のラッシュが落ち着き、解決のための推理パートに移ると、ほっと息を吐いて身体を起こす。
「……永登って、怖い物はないのか?」
そうだなあ、と空中に視線を向け、何事か考えているようだ。彼が一般的な怖いものを見る時、顔立ちは崩れないまま、目を細めたり眉を寄せることはあっても、叫びはしない。
あ、と思いついたように声が上がった。
「稔くんが、いなくなるのは怖いな」
「………………」
そういうことではない、と言ってやりたかったのだが、本人が真面目に考えた言葉に水を差すのは止めておいた。
もう冷え切ったポップコーンを口に運び、しわしわになった品を咀嚼する。塩味の先に、ほんのりとした甘みが浮き上がってきた。
「本気にしてない?」
「してるよ。あんた、アルファの気質が強そうだもんな」
「そういうことじゃなくて……、稔くんがいなくなると」
空調の温風が喉を渇かした所為か、コン、と咳払いをする。飲み物の入ったグラスを渡すと、既に炭酸が抜け、氷が溶けて薄まった液体で喉を潤した。
いちど彼の指が自身の喉に触れ、視線が戻ってきた。
「いちばん俺を分かってくれる人が、いなくなるから」
「……買いかぶりすぎじゃないか」
「ううん。ずっと一緒にいるんだから、間違ってないよ」
所構わず追いかけてくるお化けよりも、そこら辺にいるであろうオメガひとりの方が彼にとっては怯えになり得る。
恐怖の形は人それぞれ、あのおどろおどろしい幽霊は彼にとっては怖いものではない。画面越しの顔が、少し違って見えた。きゅ、と腕に縋り付いて、抱き締めてくれるよう促す。
手招きされ、脚の間に座らされると、ぎゅう、と背後から腹に腕が回った。包み込む匂いも、体温も、見知った大好きな相手のものだ。この体温が無くなることを思い浮かべて、映画を見ている時とは別種のおそれを抱いた。
「僕も永登がいなくなるのが怖い。……働くのも、ほどほどにしてくれよ」
「お互い様」
背後から抱かれたまま、終盤における恐怖シーンのラッシュを掻い潜る。ぴったりとくっついた背が温かく、冷える余地はなかった。
エンドロールが流れ始めると、ほう、と息を吐く。
「こ、わかった…………」
体重を相手の胸に委ねると、頭を撫でられた。
「稔くんってホラーを全力で楽しめるからいいなあ。びくついたり、悲鳴を上げたり。羨ましい」
「そうか……?」
「うん。押さえつけられていたものが解放される感覚はない? 怖がらせるための映画が娯楽ってカテゴリに入る理由、俺は映画が終わった後の解放感にもあるのかな、って気がする」
そう言われてみると、終わってしまえば映画が始まる前より力が抜けている。ストーリーも後から思い返せばスリリングで、面白かったと言えるのだろう。とはいえ、ずっと怖がらせられた立場からすると釈然としないものもある。
「次は低予算ホラーがいい」
「俺、怖さが足りないと笑っちゃうかもしれないよ」
「そこもいいんだよ!」
腕の中で主張し、次に見る映画を選定する。今回は譲ったから次は僕が選ぶ、と言うと流石に次の主導権は譲ってくれるようだ。
とびっきり馬鹿馬鹿しくて、テンプレートをなぞったようなホラーを選んでやろう。僕がひとり決意を新たにすると、服の下に掌が潜り込んだ。
「なんだこれは」
服の上から、不埒な手をはたく。
「怖くて眠れないんじゃない? 運動しようよ」
「………………」
言外にベッドへ誘われているらしい。疲れ果てるほど激しく交わったら、夢を見ることもないだろうか。指から力を抜き、ソファの上に転がした。
彼の掌上であることに釈然としない気持ちが呼び起こされるが、自分が怖かっただけに、傍にいる間くらいは怖がらせずにいてあげよう、と寛大な気持ちにもなった。
断じて、カーテンの外が怖かったからではない。