君の番として映りたい

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この作品にはオメガバース要素が含まれます。

 

【人物】
山吹 稔(やまぶき みのる)
村雨 永登/村雨 映人(むらさめ えいと)

叶 隆生(かのう りゅうせい)
/鹿生 隆(かのう りゅう)

 

 

▽1

 水曜日の最初の上映回。左右から見たら中央あたり、前後で見たら後ろあたり。同じ座席にあのアルファは座っている。

 村雨映人。

 テレビや映画を見るなら先ず耳にする名だ。子役時代から俳優を続け、若手と呼ばれなくなってからも、途切れることなく出演作品を増やしている。

 コメディ物の主演、恋愛物の当て馬、刑事物のおちゃらけた片腕。

 好青年、と誰から見ても言われるくらい毒の無い顔立ちで、役以外では髪型はすっきりと整っている。濃茶の髪色も、あまり薄く染められることはない。

 彼の顔を思い出すときは、朗らかな笑い顔を思い浮かべることになる。同じように芸歴を重ねてきた叶隆生と比較して、二枚目と三枚目、と言われがちな、顔は整っているわりに損な役どころが多い人物だ。

 それでも僕は、二枚目よりも三枚目の彼をよく目で追い、インタビュー雑誌を手に取ったり、出演作には目を通すようにしていた。

 最初に興味を持ったのは初期の出演作で、評判は芳しくない作品だった。今は有名な俳優として活躍している彼にしては、なんというか、そのネームドな筈の登場人物は、一通行人と言えるくらい覇気が無かった。

 次に観たのは、新しい作品だった。同じ人物が演じているかと思うくらい、画面をその登場人物が彩っていた。一人の人間が、こんなにも変化する、という事実が面白かった。

 恋愛対象というより、一介のファンのつもりでいる。だから、近付きたいという欲はなく、ずっと通っている映画館でなかったら、恐れ多くて行くのをやめているだろう。

 オフで映画館にいる時の村雨映人に笑みは少なく、真剣にスクリーンを見つめている。

 僕は、彼に気づかれないように整った顔立ちごと、スクリーンを視界に収めるのだ。

 

 

 

 水曜日は映画館の割引デーだ。

 自宅から最寄りのその小さな建物は、大規模なシネコンとは違い、単館系と呼ばれるような映画館である。

「うわー……、どんどん雨脚が増していないか?」

 今日は朝から雨で、行くまいかと迷った。だが、まあまあ見たい映画だったのだ。ばさばさと傘の水滴を落とす。

 ガラスの自動扉に、何の面白みもないオメガの姿が映る。

 髪は学生時代に薄く染めていたら、あまり濃く色が入らなくなってしまった。そろそろ染めなければ、という斑な色味はどこかうす汚い。縛れるか縛れないかくらいの長さの髪を、今日は湿気の所為で無理やりゴムで纏めている。

 大きめのTシャツにジーンズ、という服装は、今の時期は無難オブ無難だ。ちなみに冬はパーカーになる。体型が隠れる服は、細すぎる体つきをベータに紛れさせる上で都合がよかった。

 入り口に設置してある細いビニール袋を貰い、閉じた傘を入れた。

 飴色の床は磨き上げられ、所々に水滴が散っている。塗り拡げないように気を付けながら、歩を進めた。

 一階には年季の入った喫茶店と、同じく年季の入った受付があり、カウンターにはいつも同じ、年季の入った腕を持つ受付係が座っている。

「おはようございます。『────』の午前の回を一枚ください」

「はい、おはようございます。すこしお待ちくださいね。パンフレットもありますよ」

 トン、とゴムの日付印を押す音がした。

「僕がパンフレット買いそうな映画でしたか?」

「……今日は雨だから。紙は湿気ってしまうかしらね」

「チケット、買うの止めてもいいですか」

「──円です。現金が使えますよ」

 言葉の強さに、くっ、と笑いながら紙幣を出すと、目の前の受付も、ふふ、と笑いながら紙幣を受け取った。結局チケットは買うことになってしまった。まあ、自分で観なければ外れとも言いがたい。

 二階以上の階にはスクリーンがある。

 とはいってもこの建物は三階まで、スクリーンはただ二つだ。未だに人力の受付でも、のんびり並ぶことなくチケットが買える。

 続いて喫茶店でテイクアウトの飲み物を買い求め、スクリーンのある階へと上がった。赤い扉のエレベーターはところどころ塗装が剥げ、プラスチックのボタンは黄ばんでいる。

「今日は、家でのんびりしてりゃ良かったかな」

 思いもしない言葉を呟いている内に、箱はぐんと吊り上げられた。

 扉が開いた先、上映室の扉は閉まっていて、扉の前が待合スペースになっている。

 村雨映人はいつも設置してある椅子に座ることなく、壁にもたれ掛かって携帯を見たり、文庫を開いたり、ただぼうっとしたりしている。彼に流れる時間はゆったりとしたものだ。

 今日も同じようにビニール袋に包まれた傘を持ち、ぼうっと窓の外に視線を向けていた。目元は薄い色の眼鏡で隠され、口元はマスクが覆っている。しかし、上等な服と整った体格は隠しようがなかった。

 自分だって、オメガにしては身長が低くはない。だが、高身長、というカテゴリに入る村雨を見ようと思えば、かならず見上げる形になるだろう。しっかり肉が付いているわけでもない身体は、彼の後ろに立てば隠れてしまう。

 僕と村雨以外は、ほとんどが年配の人々ばかりだ。平日の朝、椅子を譲って立ったまま待つ、僕と彼だけが浮いている。

 時間になると、係員が来て上映室の扉が開かれる。観客は思い思いの席に散っていった。

 よほどの映画でなければ、座席は先着順だ。村雨はいつもの席に座り、僕はその斜め後ろあたりに座る。扉の近くに座るのは、体調が悪くなったときに外に出て行きやすいからだ。

『──────』

 いつも通りのアナウンスがあり、映画が始まる。

 コメディ系の映画だったこともあり、上映中に笑い声が起きた。この場の習慣的なものを言えば、そういうものだ。ここで面白い映画に、笑い声を堪える必要はない。

 良く言えばおおらかで、悪く言えば熱心に観たい人の都合を気にしない。おそらく古くからあるこの館、独特の文化で、他のミニシアターはまた別の文化を持っているはずだ。

 控えめにつられ笑いをして、コン、と喉を鳴らす。斜め前でも、口元に手を当てている村雨がいた。彼もよく笑っている。

 軽快な音楽と共に最後に全員でダンスをして、大団円を迎える。

 受付係のあの絶妙な表情を思い出す。パンフレットを買うかといえば、同じような展開を見慣れていて控えるかもしれない。だが、誰かと笑う時間というものは、ひとり暮らしにとっては悪くなかった。

 ぞろぞろと捌けていく人々を見送って、自分も立ち上がる。ふと、視線を向けた先に傘が置き忘れられていた。

「あれって……」

 おそらく、村雨の持ち物であるはずだ。近寄って持ち上げると、やっぱり彼が持っていた色の傘だった。

 傘を持ち、慌てて駆け出す。途中で空のカップをゴミ箱に投げ入れ、普段は使わない薄暗い階段を早足で下りる。一階に着いたところで、階段を上がろうとしていた男と鉢合わせた。

「うわ……!」

「あ……っと、ごめんなさい」

 僕が両手に持っている傘を見て、あ、と声が上がる。僕は傘の中央に持ち替え、取っ手を差し出した。

「これ。忘れ物じゃないですか?」

「はい、粗忽者の忘れ物です。ありがとう」

 雨脚は少し弱まっていたが、帰りようがなかっただろう。思わぬ遭遇に続ける言葉を持たず、では、と頭を下げて去ろうとすると、くい、と服の裾が引かれた。

 え、と声が漏れてしまう。

「もう少ししたら、雨、止むらしいよ。雨宿りがてら、一杯奢らせてくれないかな?」

 彼は喫茶店のメニュー看板を指差す。頷くか断るか躊躇って、人生すべての経験が仕事の糧だ、と言っていた仕事仲間の言葉を思い出した。

「……じゃあ。有難くいただきます」

「よかった」

 手招きされ、一緒に喫茶店の看板を眺める。

 今日のコーヒー豆、として書かれていたのは角が立たない味わいのそれだ。都合がいい、と眺めていると、ランチセットの記載もある。

 まだランチには早い時間だが、時刻は範囲内に入っていた。

「お腹空いてる?」

「まあまあ、ですかね」

 うーん、と村雨は唇から声を漏らした。

「俺のこと、わかる?」

 僕は唇を閉じた。

 どう答えるのが彼にとって都合がいいのだろう、と悩む。だが、おそらくこの誘いも僕が気づいていることを察してのことだろう。

「分かります」

 ファンであることが伝わらないよう、無害であることをアピールするように、抑揚を押さえつけて言う。だよね、と村雨は一度マスクを下ろした。マスクのない顔立ちは、画面越しに観るそのままの美形だ。

 どくん、と胸が跳ねた。あまりにも衝撃が強すぎる。

「俺がここに通い始めて暫くして、視線を感じるな、と思ってて……」

「え」

 僕は、気づかれていたのか、と気まずく思って肩を落とす。いや、と村雨は身体の前で手を振った。

「でも、見守られてるような気がしたんだ。それに、別にどこにも情報が漏れたりしてないし、ほんとに偶然、時間が被ってるんだろうなあ、と分かって」

「はい。水曜はチケット代が安いし、仕事の関係で朝の回が都合が良くて。別に村雨さんとタイミングを合わせたとか、そういうことはありません」

 誤解の無いようそう言うと、村雨は頷いた。

「だよね。観てる映画がバラッバラだから、映画が入れ替わってすぐ、曜日と時間でしか選んでないんだろうな、って予想してた。答えが分かって良かったよ」

 村雨は会話が脱線していることに気づいたのか、頬を掻いて軌道修正する。

 手の振りも大きいし、ちょこちょことよく動く。若い頃は舞台での仕事も多かった。癖になっているんだろうか。

「バレてるんなら、口止め料も払わないと。ランチにしようか」

「元々、誰にも言うつもりはありませんでしたよ?」

 いつも扉が開くと、作品の登場人物が待っている。映画に来る上での楽しみの一つを、みすみす手放すのは惜しかった。

 マスクの下で、口元が持ち上がったのが分かった。この人は、顔全体で笑うのだ。

「じゃあ尚更、奢らなきゃだな」

 促され、ランチのメニュー表を見るのもそこそこに喫茶店に入った。映画館で飲むものを買うことはあっても、食事で席に着くのは初めてだ。

 床は映画館と同じ材質の飴色だ。カウンターは傷はあれど丁寧に磨き上げられ、その前に赤い座席の丸椅子がいくつか並ぶ店内は、今では逆に珍しい景色だろう。窓辺にはテーブル席もあるが、数は多くない。

 店の隅には広い木製のラックが置かれ、マスターが好きであろう映画のパンフレットが置かれている。何人もの人に読まれ、何度も補修されたであろう紙は黄ばんで縁も欠けているが、何とも味があった。

「お好きな席にどうぞ」

 カウンターの内側で、店主が言う。お冷やを用意する音が続いた。窓の外が見える席に決めると、奥の席を譲られる。

 素直に言われるがまま席に着くと、手書きのランチメニューを改めて見直した。サンドイッチを中心に、甘党向けにフレンチトーストもある。

「あれ、フレンチトースト……」

 表のメニューにはサンドイッチのことだけで、フレンチトーストは載っていなかった。顎に当てた手から、悩んでいるのが分かる。

 何となく、気持ちが分かる気がした。ランチだと思って食べに来ているのに、甘いものだけ、というのも何となく物足りない気がする。だが、写真に映っている分厚いフレンチトーストは本当に美味しそうだ。

「初対面の相手に、シェア、かぁ……」

「え?」

「僕、ホットサンドにしようと思っていて、半分ずつ、って出来たら良かったんですが。今日が初対面の相手に提案することじゃないなあ、と」

 はは、と苦笑してみせると、村雨は目の前で首を振った。マスクと色付きの眼鏡を外し、それぞれケースに仕舞う。

 息を呑んだ。カメラに写ることを商売にするような人間を、じっくりと間近で見るのは初めてだ。

「ホットサンドが半分になってもよければ。是非」

「じゃあ、それで」

 僕がメニューを畳むと、マスターがお冷やを二つ運んできた。つやつやと水滴を含んだグラスが目の前に置かれる。

 銀色の盆を脇に挟み、ご注文は決まりましたか、と尋ねられる。

「ホットサンドとフレンチトーストのセットを一つずつ。飲み物は、俺はアイスコーヒーを」

「僕は『今日のコーヒー』で」

 マスターはメモを取ることなく、机の上からメニュー表を回収する。雨で客の少ない店内は、僕たちの他には客がいない。

「かしこまりました」

 落ち着いた声音が響くと、カウンターの奥へと消えていった。ザァ、と雨の音が思い出したように浮かんでくる。

 一緒に貰った布のお手拭きで手を拭い、たたみ直して金属のトレイに戻した。

「ほんとに雨、止むんですか?」

「調べた限りでは止むらしいよ。……そういえば、名前、聞いてもいい?」

「山吹稔です。敬語、外した方がいいですか?」

「無理にとは言わないけどね」

 僕は冷えたグラスを持ち上げると、唇を湿らせた。

 冷房の効いた室内は寒く感じるほどだ。身長は平均的にあるのだが、筋肉は付きづらい体質をしている。

「じゃあ、外そうかな」

 そう言うと、村雨はほっとしたように肩を下げた。

「よかった。声は掛けないにしても、もう、けっこう長いこと認識してたから。警戒されてたらどうしようかと思った」

「警戒……はしないが、声を掛けなかったのは、ひとがオフの時に、そういうことをしたくなくて」

 カラン、と手元のグラスの中で氷が鳴る。

「俺も基本的にはそう、なんだけど。同じ時間によく見る人だから、ずっと声を掛けてみたくてさ」

「確かに、帰り道に感想を聞きたい映画がいくつかあった」

「そうそう。それ。今日のさ────」

 目の前で持ち上がった唇が、滑らかに動き始める。

 年齢が上がるにつれて、誰かと映画を見る機会は減っていた。仕事柄、本数を観ることが必要だから尚更だ。

 今日、印象に残ったシーンを語って、語り返して、もう一度楽しむ。この体験が蘇ってくるのが懐かしい。

 段々と別の映画に話題が移っていっても、会話の間が増えても、語る手は止まなかった。

「……盛り上がっているところ、失礼しますね。料理も冷えてしまいますので」

 二人して、マスターの言葉に、あ、と黙り込んで。ひと呼吸おいて、くすくすと笑い出す。

 適度な大きさに割られた、分厚いフレンチトーストにはクリームとシロップが添えられている。ホットサンドは焼きたてで、湯気を経由してチーズの匂いが香った。

 脇には付け合わせのサラダと、ココットに入った焼きプリンが添えられている。お、と思って、視線を上げると、幼くきらきらと輝く瞳があった。

 手や足と同じように、瞳もまた雄弁だ。正直者やおちゃらけた役、ふられて同情を誘うような役を監督が与えたがるのも分かる気がした。

「村雨さん、プリン好きなんだ?」

「うん。大好きだ」

 へらっと溶けてしまう表情に、唇がつられた。

 脇から、マスターが取り分け用の皿を差し出してくれる。礼を言って受け取った。

「助かります」

「いえ。ごゆっくりどうぞ」

 空いたスペースに飲み物を置き、マスターはまたカウンターの内側へと戻っていった。

 ホットサンドの半分を小皿に載せ、村雨へと差し出す。彼は皿に鼻先を寄せて、まだ豊かに上る香りを楽しんだ。

「美味しそう。いただきます」

「いただきます」

 きつね色のパンを噛み締めると、香ばしい味わいが口元に滑り込んでくる。ふたりして歓声を上げながら、食事に舌鼓を打った。

 あんなに聞こえていたはずの雨の音は、店を出ても蘇ってはこなかった。

 

▽2

 村雨とは、朗らかに食事を終え、特に連絡先を交換することなく別れた。

 ファンであり、アルファであろう相手に下心を感じさせるのも嫌だったし、また映画の話をしたければいつも通り映画館に行けばいるはずだ。

 翌週の水曜日も、僕は変わらず映画館へ足を運んだ。その日は快晴で、半袖のシャツを着ていても暑い。日光で赤く腫れる肌にぺたぺたと日焼け止めを塗り足しながら、日陰から日陰へと乗り継ぐ。

 映画館の前にあるポスターを眺めて、次の映画の入れ代わり時期を確認する。今日の映画を見終えたら、村雨に会うのはまた先になりそうだ。

「おはよう」

 横から聞き覚えのある声が掛かった。振り返ると、ぱたぱたと忙しなく手を振る村雨がいる。服こそ軽装だったが、顔を覆っているものは暑そうだ。

「おはよう。今日はこっち?」

 ポスターを指差すと、村雨が頷く。

「じゃあ、また一緒だな」

「そっか。今日もランチ食べてく?」

 僕は瞬きをすると、表情がほとんど覆われた顔を見上げる。食事の間は、綺麗な顔がすぐ近くに見えて気分が上がった。

 考える前に、頷いていた。

「今日は、奢らなくていいからな」

「俺はどっちでもいいよ。じゃあ、そうしようか」

 二人揃って受付に並ぶと、受付係は意外そうに目を見開く。ただ、それを口にすることなく、いつも通りチケットに日付印を打った。

 それぞれ規定の料金を支払い、チケットを受け取る。喫茶店にも二人で行って、それぞれテイクアウト用の飲み物を買った。

 エレベーターは村雨がボタンを押してくれて、頭を下げながら中に入る。

「この前、喫茶店から出て別れた後でさ。連絡先、聞いておけば良かったな、って思って」

「え? 何か忘れ物でもしたのか?」

 直ぐに目的の階に到着し、開ボタンを押された状態のまま外へ促される。また頭を下げて外に出た。

 二人してエレベーターから降りると、村雨は頬を掻いた。

「もうちょっと喋りたかったな、って」

「あぁ、僕も」

 これだけ言うと、単純に村雨に興味があるとか、取り入ろうとしている、と思われるだろうか。下心が見えないよう、慌てて言葉を続けた。

「あの映画の主演男優の前作について、喋りたかったのを忘れていたんだ」

「…………ああ。そっか、彼が出ていた前作は全くタイプ違いのホラーサスペンスだったね」

「そう。あの国のホラーって、まだ型が作られている最中だから面白くて」

 二人揃って壁際に歩み寄り、色褪せた壁に並んでもたれ掛かる。椅子は半分ほど埋まっていた。

 静かな空間の中で、大声で喋る訳にもいかずにぽそぽそと声を出した。

「連絡先、なあ……。交換自体は構わないけど、僕の仕事柄、付き合いがあると貴方のほうが周囲にいい顔をされないと思うが」

 僕の仕事はライターだ。

 とはいっても仕事の範囲は広く、主に物を書く、くらいの意味でライターと名乗っている。映画をよく見るのも、運営しているサイトの一つが映画レビューを取り扱っているからだ。

 僕は芸能ゴシップは取り扱わないが、似たような仕事をしている人の中には、そういったものを追いかけている人もいる。

 だから、芸能人である村雨と付き合いを持つことを不安に思い、ランチの途中で職業のことは伝えていた。彼は、態度を変えることはなかった。

「教えてもらったサイトも見たし、君の本名で仕事も追えたけど、俺が付き合って都合が悪そうには思えなかったよ」

「仲間に芸能ライターがいたら、とか……」

「そういう人なら、俺が聞く前に自分から連絡先を聞くでしょ」

 そりゃそうだ、と同意すると、隣でくすくすと笑い声がした。まったく僕を警戒していない彼にこうやって釘を刺すのだが、村雨は僕を信用する姿勢を崩さない。

 人がいい。まだしっかり話したのはあの一度きりなのに。

「僕みたいなのを、あんまり信用しないでくれ」

「まあ、君ときちんと話したのは今日で二度目だけど、近くをうろちょろしていたら、分かることもあるよ。チケットを買うときに話してる内容とか、こうやって席を譲っている事とか、いつも後ろの席を選んでるとか。あとは、そうだな、今日の映画は君がパンフレットを買うんじゃないかな、とかね」

 村雨の言葉は図星だ。不思議な設定とラブストーリーを組み合わせたようなこの作品のあらすじは、興味を引くものだった。

 恋愛もの自体は忌避感なく見るのだが、すこしぶっ飛んでいるくらいの話が豪快で好きだ。

 ただ、よくあることだが、監督も出演者もあまり馴染みがないのが不安だった。

「なんで?」

「面白い作品を見た後、パンフレットないかな、って売店スペースを見てるから。見てた作品の傾向で」

「本当にちゃんと人の観察をしているんだな。職業病?」

「……まあね」

 視線を天井に投げている横顔を、不思議に思いながら見上げる。こうやって見上げていると、相手がアルファだということを実感する。

 僕はオメガの典型である繊細な容姿は持ち合わせておらず、ベータに思われることばかりだ。仕事柄、都合良く勘違いを利用することが多いが、今回もそれに助けられている。

 ライターという職業も、オメガという性別も、ファンだという事実も、彼に近寄るには、都合が悪い要素ばかりだ。だからずっと、話しかけたりなんてしなかった。

 シアターの扉が開かれ、係員にチケットを見せながら中に入る。村雨はいつもの席に向かって歩き始め、僕は別れるようにその場に留まろうとした。

 数歩さきに進んで、村雨はこちらを振り返る。

「たまには、もうちょっと前で観るのはどう?」

 こっち、と手招きされた先は、彼がよく座っている席の隣だった。躊躇いがちに近付き、一つ空いた座席に座ろうとすると、僅かに眉が下がる。

 本当に表情が分かりやすいな、と思いながら、席を詰めた。

「お邪魔します」

「どうぞ」

 別に隣で見る必要はないのに、彼は僕を、新しい友人だ、とでも思ってくれているんだろうか。座り慣れない席で、もぞりと尻を浮かせた。

 村雨の存在を意識していたのも映画の序盤までで、ストーリーが進むにつれてスクリーンしか目に入らなくなる。

 不思議設定は極彩色の画で描かれ、現実に戻って来てラブストーリーが進行する時には一気に現実の風景へと引き戻された。予算も潤沢ではないだろうに、セットは丁寧で、つい部屋の隅に視線を向けてしまった。

 海辺のラストシーンからエンドロールが終わり、はっと現実に引き戻される。一気に隣の存在が輪郭を浮かび上がらせ、僕はばっとそちらを見た。

「面白かったね」

「うん。面白かった」

「パンフ買う?」

「……あったら買うと思う」

 僕の言葉に、村雨は予想通り、とでも言いたげに唇をゆるめる。人が捌けていくのを見送り、行くぞ、と彼の肩をはたいた。

 普段は一人で出て行くシアターの扉を、二人して潜る。飲み終えたカップをゴミ箱に捨てると、階段を降りて喫茶店に向かった。

 今日は外は晴れ。時間も丁度よく、外から見ると店内は客で埋まっていた。ランチに同意していてなんだが、彼が素顔を晒して食事をするには店が狭いように感じてしまった。

 入り口付近で、彼の服の裾を引く。

「……あのさ。他の客が多いのに、いいのか? ちょうど満席みたいだし、ほか探す?」

「あぁ……」

 村雨も同じように中を見て、満席に見える店内に踏みとどまる。他の店の案について話をしていると、マスターが入り口の扉を開いた。

「こんにちは」

「あ、こんにちは。すみません、満席みたいだったから。どうしようかなって……」

 村雨の言葉に、マスターは店内に視線をやる。

「ああ。狭くてもよろしければ、奥に一室あるので。そちらはどうですか?」

 村雨と顔を見合わせる。個室の方が都合がよく、二人して頷いた。

 通されたのは、カウンターの横に設けられている扉の奥だ。扉を開けて中に入ると、テーブルが一つと椅子が四つだけ置かれた部屋になっていた。

 広いとはいえないが、喫茶店と同じように落ち着いたレイアウトで、人目に付かないのは有難い。

「いい席ですね」

「ありがとうございます。普段は満席になることもないので閉めていて、管理が行き届いていなかったら申し訳ない。でも、ゆっくりできますよ」

 そう言われるが、特に埃っぽくもない。

 マスターは部屋の隅に開きっぱなしにされていた古いパンフレットを閉じると、本棚に並べ直し、部屋を出て行った。

 お冷やの用意をしているであろうマスターが戻ってくるまでに、メニューを決める。といっても、お互いに前回と変わりなかった。

 水と交代に注文を伝え、マスターが去っていくと一気に静かになる。店内のざわめきも遠かった。

「最近は映画館によく来るけど、オフなのか?」

「うん。映画の撮影も落ち着いたし、ちょっと休養中というかね……」

 切れ味の悪い言葉に、突っ込んで聞くべきか迷った。だが、たった二度目の食事相手に、語ってくれるような事でもないだろう。

 唇にグラスを当て、ざらついた表面を湿らせる。

「たまにはいいんじゃないか。僕も休むのが苦手で、長く休むと逆に何をしていいか分からない」

「そうなんだよなぁ。あんまり長期休暇を経験してこなかったから。……なんか、これをしたら、ってオススメなことはある?」

「うーん。色々、あるけど……僕は単純に家にいないかな。家にいても、あんまり書くネタが生まれないから────」

 脳が電気信号で動いている、と実感するのはその時だ。人の動き、自然の流れ、自分の身の回りに起きる出来事が、次の記事への刺激を結んでいく。

 締め切り前はもちろん家に籠もるのだが、だからこそ、外へ出ることが僕にとって興味を引くことだ。

 拙くしか伝えられない話も、村雨はゆったり相槌を打ちながら聞いてくれた。

「俺ももっと外に出ないと、だね」

「そのうち何か見付かるかもしれないしな」

「うん。いいかも。……山吹くんも付いてきてよ」

 試すような視線の先、眦はゆるりと垂れている。朗らかで人当たりの良い顔なのに、本気か冗談か分からないのだけは難だ。

「暇だったらな」

「今日は暇?」

「締切に余裕はある。が、今から出歩くなら……」

 どうしようか、ふだん行く場所、二人で行くと楽しい場所を思い起こす。いっそ、彼が行きそうにないような場所がいいだろうか。

「思いっきり外がいいかな。海、山、川、プール……、遊園地、動物園」

「いま挙げた場所、確かに撮影以外じゃ行かないなあ」

「もう昼だし、今から移動するなら遊園地とか動物園かな。つっても暑いし、移動しつつ時間潰して、夜間開園あるとこ探す? 夜なら、村雨さんがマスク外したってまあ、ばれないだろ」

「夜間開園かぁ……夏って感じがする」

 彼の声が跳ね上がる。興味を持ったらしい様子にほっとしつつ、どうせ夜に動こうとするのなら、予定を立てる間を時間潰しに当ててしまえばいい。

「食べ終わったら本屋に行くか。雑誌見て、行くとこ決めよ。時間の都合が悪かったら別日に時間作るから」

「そう? 嬉しいなあ」

 近くにある遊園地の話をしていると、ランチメニューが届いた。マスターはまた気を効かせて取り皿を用意してくれ、ゆっくりと個室を出ていった。今日も二人で分けよう、と示し合わせていたのが分かってしまったらしい。

 半分ずつ取り分け、うきうきと小ぢんまりしたシロップの入ったポットを傾ける村雨を見守る。この部屋は涼しいが、外はぎらぎらとした日差しが肌を灼くことだろう。

 憂鬱なはずなのに、唇は楽しみにするかのように上向きに曲がっていた。

 

▽3

 書店で観光情報誌を開くと、少し遠い遊園地の、夜間開園の情報が載っていた。駅まで歩いて電車に乗り、最寄り駅まで移動する。

 買い求めた雑誌に電車内で軽く目を通すが、夜を売りにするだけあってイルミネーションの写真が多く載っていた。

「夕飯どうしようか? 中で食べる?」

「夜間パスの時間までもうちょっとあるし、軽く食べていって、足りないなら現地で足そうか」

「賛成。じゃあ、降りた駅でぶらついて店探すか」

 まだアフタヌーンティーくらいの時間だ。あまり使わない駅だと村雨に伝えると、彼もその言葉に同意した。

 カタン、カタンと揺れる車内でも、何となく隣に座った。アルファの空気が近くにあるのは物慣れない。

「何か、欲しいものとか無いの?」

「山吹くんの服」

 突拍子もない言葉に、え、と声が漏れる。

「だぼだぼの服ばっかり着てるから、もうちょっと細身の服を着たとこ見てみたいな」

「細すぎてやなんだよ。不健康に見える」

 身体より大きめの服はベータに見せたいがための足掻きでしかないが、オメガであることは伏せておきたかった。

 村雨は素直に引くが、顎に手を当てて考え込む。

「じゃあ、インテリアとか雑貨かなあ。家に帰る時間が少なかったから興味なかったけど、模様替えとかしてみたくなった」

「いいなそれ。じゃあ────」

 携帯で近くのインテリアショップを調べると、駅前に店が集まっているあたりに何店かあった。

 駅に辿り着いて店を見て回り、半個室席のある店で早めの夕食を取る。今日は朝からずっと村雨と一緒にいるはずだが、瞬くように時間が流れていった。

 夜間パスの最初の波が落ち着いたころ遊園地に移動すると、ちょうど周囲も暗くなってきた。券売機に並んでチケットを買い求め、確認のための列に並ぶ。

「こんばんは」

 貰ったパンフを二人で覗き込んでいると、籠を持ったスタッフが近付いてくる。僕はちらちらと村雨に気づいていないか確認するが、スタッフがそれに言及する様子はない。

 にこにこ微笑みながら、袋を取り出す。

「こちら。ペアで付ける発光ブレスレットをお配りしているのですが、如何ですか?」

 装着イメージのチラシを見せてくれるが、二つの光るブレスレットの間が別のチェーンで繋がれている。手錠、と言うには可愛らしいデザインだが、構造は似ていた。

 画像には二人が手を繋いでいる様子が載っており、前の方を見ると、既に装着して手を繋いでいるカップルや親子連れが、ぴかぴかとそれぞれの色を光らせていた。

「あ、じゃあピンク色のやつをください」

 しれっと言う村雨を、ぎょっと見上げる。

 チェーンの留め金は外せそうだが、同じ色のお揃いのブレスレットを付けるにしても関係値が足りない。

 スタッフは何も疑問に思うところはないようで、どうぞ、と村雨にパッケージを差し出していた。

 彼は持って帰るつもりもないようで、バリバリとパッケージを開けると、発光する部分をぐい、と折り曲げて自分の手首に付ける。

 はい、と当然のようにもう片方を僕に差し出してくるのだが、困惑で動きが止まった。

「は?」

 声で圧を掛けてみたのだが、村雨には通じない。腕を持ち上げられ、仕方ないなあ、といった様子でブレスレットが取り付けられた。

 じわりと光り始めたのを確認すると、手が繋がれる。別の人間の体温はただ熱い。

「村……!」

 名前を呼び掛けて、呼んでしまえば周囲が勘付くかもしれない、と口籠もった。

「……あの、これどう考えても友人向けじゃないだろ」

「え? いいんじゃないかな、別に。おてて繋いで歩こうよ」

 あはは、と笑う村雨は、きゅう、とサイズの違う僕の手を握り締めた。

 隣にいるのがオメガであることを知らない彼にとって、僕がどうしてこんなに動揺しているかなんて伝わらないだろう。

 腕にピンク色の光が浮かんでくる。

「新鮮なことしないと、記事のネタが生まれないんじゃないの」

「そりゃそうだけど」

「じゃあ、新しいことしよう。俺と」

 繋いだ手が持ち上がった。心臓が脈打たなかった、と言えば嘘になる。

 手を繋ぐ距離にいる村雨は、今までよりもずっとずっと近い。周囲の暑さは和らぎ始めているのに、繋いだ手の間が冷える余地はない。

「…………うん」

 言葉少なに同意した僕を見て、村雨の唇が緩んだ。

 シルエットが綺麗なシャツにつばのあるキャップ。目元の色付き眼鏡はそのままだが、暗くなってきてマスクは外している。

 近くにいれば、彼の顔立ちがよく見えた。

 列が進み、僕がスタッフに二枚ぶんのチケットを差し出す。半分が切り取られて返されたチケットを、村雨は横から引き抜いた。

 チケットは器用に小ぶりのボディバッグに仕舞われ、ジッ、とファスナーを閉める音がした。 

 僕もまた、無くさない財布にチケットを仕舞う。日付の書かれたそれを、数年後の僕は懐かしく思うはずだ。

 園内はイルミネーションに彩られ、僕は携帯電話でパシャパシャと写真を撮った。暗闇に浮かび上がる鮮やかな海は、見ているだけでも気分が上がる。

「写真、インカメでも撮ろうよ」

 村雨は僕の手から携帯を受け取ると、インカメラに切り替えた。長い腕を伸ばし、背景のイルミネーションと共に僕たちをフレームに収める。

「いくよ。三、二、一……」

 綺麗に表情を作った村雨とは対照的に、僕の笑顔はぎこちない。写真に映ってみると、顔立ちの違いも顕著だ。

 だが、村雨はその写真を、目を細めて見つめている。

「あのさ。写真、送ってよ」

「ああ。後で送る…………」

 呟いて、まだ彼の連絡先を知らないことを思い出す。

「じゃあ、連絡先、入れておくね」

 アプリを操作して良いか尋ねられ、頷く。村雨は利き手ではないであろう手で器用に携帯電話を操作すると、自分の連絡先を僕の携帯に納めてしまった。

 はい、と返ってきた連絡先の文字列を、じっと見つめる。

「写真送ってくれなかったら、拗ねちゃうから」

「ちゃんと送るよ」

 主要なイルミネーションスポットを見て回ると、パンフレットで遊具を確認する。村雨はその中から、ジェットコースターを指差した。

 あまりにもきらきらとした瞳を向けられ、く、と笑いながら頷く。並んでいる間も、ずっと楽しそうにしていた。

 夜の闇を突っ切っていくコースターは面白く、頂点付近では遊園地内が一望できた。とはいえ、直ぐに急降下して感動なんて吹っ飛んだのだが。

「面白かったー! 番組の企画以外では、久しぶりに乗った!」

「そういえば、僕もかなり久しぶりだったな」

 次、と早足になる村雨に手を引かれて、今度も高所でぐるぐると回される空中ブランコに誘われる。

 テンポ良く次に、次に、と回っていく村雨に付き合っていると、かなりの数の遊具を制覇することになってしまった。

「ホラー大丈夫?」

 お化け屋敷を指差して、村雨が尋ねる。

「大丈夫。でも怖がりだから、ガチのホラーより実はB級ホラーのほうが好き」

「俺はどっちも好きだけど、人と一緒ならB級が楽しいな」

 じゃあ行こ、と方向が変わり、待ち列に並ぶ。

 然程たたないうちに屋敷内に案内されると、真っ暗な廊下が広がっていた。少し歩くと、機械から音声で説明が流れ、急に作り物の幽霊が飛び出してくる。

「ひっ……」

 繋いでいた手を、ぎゅう、と握り締めてしまうと、村雨は手を引いて先へ案内した。

「本当に怖がりだ。あんまり大丈夫じゃなかったら途中で出られるよ」

「ほんと、好き、ではあるけど。……でも怖い…………、うわッ!」

 ぼわ、と浮かび上がった作り物の頭部に悲鳴を上げる。

「それこそ理想の楽しみ方……なのかもね。もうちょっと、しっかり掴まっていたらいいよ」

 村雨は僕の手を光がある所まで引いて歩くと、蛍光ブレスレットの二人を繋ぐ留め具を外した。

 しっかりした腕を差し出され、おずおずと両手でしがみつく。

 距離を取ろう、と遠慮していられたのはしばらくの間だった。少し歩いた先の井戸から、長い髪の女性らしき姿が這い出てくる。

「…………ヒッ、……うあ!」

 腕にしがみついて顔を押し付ける。

 村雨がゆっくり歩き出すと、引き摺られるように一緒に歩いた。一定のリズムで歩く腕は優しく先導し、驚きに揺れても早足になることはない。

 くっついていれば暑いはずなのに、僕は必死に声を漏らしながらその腕に縋った。

「────出口、ついたよ」

 静かな声に、ようやくきちんと顔を上げる。妙に気合いの入ったお化け屋敷で、途中から悲鳴を上げていた記憶しかなかった。

 まだ、僅かに腕が震えている。

「怖かった?」

「怖かった……ドキドキしたけど」

 いま考えれば面白かったと言えるのだろうが、出口まで到達できたのは村雨がいたからだ。

 彼は目を細め、まだ腕を掴んでいる僕の手を見下ろした。

「ここ、本物が出るって噂あるの知ってる?」

「…………え?」

「今度、A級のほうのホラー見ようか」

「やだ」

「隣に座っていてあげるから、ね」

 にこにこと微笑みながら言うと、村雨は僕を引いたまま出口の扉を潜った。スタッフからねぎらいの言葉が掛けられる。

 出口から少し離れて、腕から手を離す。

 流石に遊具に乗る時は繋がった留め具を外してしまうのだが、さっきまでは村雨が几帳面に繋ぎ直してくれていた。

 その癖で、留め具を自ら元通りにし、きゅ、と手を繋いでしまう。間を置いて我に返るのだが、遅かった。

「…………何だよ」

「山吹くんから手を繋いでくれたの、初めてだなって」

 ふふ、とにやけている表情も、近すぎて見えてしまう。からかう意図はなく、ただ喜ばれていることも伝わってしまう。

 新しい友人との親交を深めているだけの言葉に、別の意味を含ませてしまうのは僕がオメガだからだ。ぐう、と厭なふうに胸が締まった。

 握り返してくれる手から、やんわりと力を抜く。

「そういう遊びだろ」

「…………そう、だね」

 次の遊具へと手を引くと、少し後ろを歩く気配がある。閉園の時間も近づいてきて、そろそろ遊具で遊べるのも残りいくつかだろう。

 ふと顔を上げると、遊園地の中で一番目立つイルミネーションがあった。

「観覧車、乗る?」

「…………うん。乗っておきたい」

「高いところからの景色は、新しいもの、だね」

 村雨が僕を追い越して、手を引いて歩き出す。

 あの観覧車に乗ったら、きっと帰る話を始めるのだろう。映画を見ることからはじまった代わり映えのない一日が、まったく新しい体験で幕を閉じる。

 朝から上映された映画、スクリーンの中の極彩色がイルミネーションに移り変わって、まだ続いているみたいだ。

「早めに並んで良かったね」

 みな締めは観覧車、と思うようで、僕たちが並んだあとから列が伸び始めた。閉園時間前には乗り終えられそうだが、前にもすこし列はあって、他の遊具に乗る時間はないだろう。

 二人を繋ぐ手元の留め具を外すと、スタッフの誘導の声がする。

「次の方、二名様ですね」

「「はい」」

 揃ってしまった声に、顔を見合わせる。ゴンドラの到着に合わせて乗り込むと、スタッフが軽快に外側からロックを掛けた。

「いってらっしゃい!」

「いってきまーす」

 村雨がスタッフに向けて朗らかに手を振ると、手を振られた相手は何かに気づいたかのように目を瞠った。だが、何も言わず微笑んで、次のグループに視線を戻す。

 ゴンドラがゆっくりと頂点に向けて上っていく。

「わ、けっこう高いな」

 今まで回ってきた園内を思い返しながら、景色を見下ろす。

 視界いっぱいに光の海があった。

 本来は暗闇だけの世界に鮮やかに色が浮かび上がっては揺れ、また別の場所で灯った。人が動く度に、波がうねる。闇という水底に光が沈んでいるみたいだ。

 先に揺れる光があるだけ、誰かと手を繋ぐ人がいる。今はひとつぽっちの、自分の手元で光るブレスレットを見下ろして、孤独を味わった。

「ゴンドラがてっぺんに着いたら、何しよっか?」

 跳ねるような声が耳に届いた。窓の外から、村雨に視線を戻す。

「え?」

「ほら、よくあるじゃない。てっぺんに着いたときキス、みたいな」

 村雨は手を組んで、太腿の上に乗せた。唇はにまにまと笑んで、僕を『からかっている』ことがよく分かる。

 からかい返してやりたかったが、いい案も思い付かなくて顔を覆った。

「…………名前、で呼ぶ……?」

 下がっていく声量を、別の低い声が拾った。

「まあ、いいか。今日はそれで。『稔くん』」

「てっぺんに着いたとき、ってあんたが言った癖に。…………芸名そのまま。映人、でいい?」

 村雨が首を横に振った。

「読みはそのままだけど。名前の漢字がね、『永』遠に『登』るで永登。────本名は村雨永登」

 へえ、と呟いて、教えてくれたことに驚いた。

「わざわざご丁寧にどうも」

「ううん。別に呼ばれる分に影響はないんだけど、覚えていてくれると嬉しい」

 村雨との距離は空いていたが、誰かと観覧車で隣に座ろうとしたこともない。立つと危ないだろうか、と思って、素直に座ったままでいた。

 向かい合ったまま、頂点に辿り着く。

「稔くん」

「永登」

 ほぼ同時に名前を呼び合って、くすくす、と狭い室内に笑い声が響く。それぞれが名前を呼び直して、音を確かめた。

 慣れようと何度も呼んでいると、そのうちゴンドラは地上に辿り着く。

「おかえりなさーい!」

「ただいまー」

 永登は、スタッフの言葉に朗らかに返していた。僕が先導して歩くと、歩幅を広げて付いてくる。

 観覧車の前から離れた所で、大きな掌が僕の手を取った。さっきまで律儀に留めていた金具は、繋がれることはない。

「稔くん。俺、手を繋ぐの、好きみたいだ」

 暗闇の中で、僕だけに届く声で呟く。そっか、と返事をする。

「たまになら、繋いでもいい」

 まだブレスレットは光っているが、やがて、この光も消えてしまうんだろう。

 それでも、光の消えた先で、また彼と手を繋ぐことがあるんじゃないか。僕はそう思いながら、寂しさよりも期待を抱えてその日を終えた。

 

▽4

 最近の僕は、永登と遊ぶために仕事をこなしているように思う時がある。彼がちょくちょく予定を入れてくるため、仕事はその前に片付けなくてはならない。

 夜中にモニタを見て唸りながら、キーボードを叩くのが常だった。

『稔くん、海いきたい』

 村雨映人は、日頃は行かない場所に僕を連れて行くことに味を占めたらしい。長い夏休みはあと一ヶ月ほど余っているそうで、お呼び出しが掛かった。

 最近になって、ほんの少しだけ村雨映人の長期休暇が取り上げられつつある。といっても、ずっと働きっぱなしだった彼をねぎらうコメントばかりだ。そして、いまも休業している叶隆生のことを述べて、典型の取り上げ方が終わる。

 携帯を握り、メッセージ画面を見つめる。海に行くなら、電車を乗り継いで二時間ほどかかるだろうか。

『泳ぐ?』

『泳ぐのはいいかなあ。海辺を歩きたい』

 じゃあ、と場所の案を出すと、永登と意見が合った。その場で仕事用のファイルを閉じ、座席の空きを調べる。空席は十分で、平日だけあって直ぐに押さえられそうだ。

「移動に時間かかるし、朝早い便で行くか。えっと……」

 時間を伝えると、同意が返ってくる。予約画面でクリックしていた座席の予約を確定した。

 帰りの便の時間を相談すると、少し間を置いて文字が浮かんでくる。

『移動に時間が掛かるなら、泊まりも良さそうだね』

 びくり、と手を震わせ、指先を動かす。

『泊まりで行きたきゃもっと前に言えよ』

『あはは。ごめんごめん』

 謝るタヌキの画像が浮かんでくると、僕はほっと息を吐いた。

 ベータ相手だと思って泊まり、を軽率に提案するのだろうが、何の気もないオメガ相手にアルファが誘うなんて、普通に大問題だ。

『稔くんと、長く一緒にいたいなって思って』

『ずっと遊んでたいだけだろ。泊まりの旅行はいつか、な』

 いつか、なんて言って、そのいつかが来るだなんて端から思っていない。いくら仲良くなったってアルファとオメガだ。間違いが起きるような状況は避けるべきだろう。

 そして、こうやって交友を続けるべきかも迷っている。

 いずれ、僅かにでも発情期のフェロモンが嗅ぎ取られてしまったら。騙していた、と詰られでもするんだろうか。

『ほんと? 楽しみにしてる』

 本当に楽しそうにしている言葉を見ていられない。ふい、と顔を背けてパソコンの画面に向き直った。

 

 

 

 海に行く、と決めた日は快晴だった。互いに電車の中でぺたぺたと日焼け止めを塗り足し、持参した帽子を見せ合う。

 暑さのせいで永登もマスクをする気はないようで、人の少ない車内でのんびりと背を座席に預けている。横の窓からは、途方もないスピードで切り替わる風景が流れていく。

 ゴシップ誌なんかは大丈夫か、とちょくちょく視線を巡らせているが、今のところ僕たちに向けられるレンズは見当たらない。目の前にいる美形のアルファも見慣れて、芸能人であることを忘れてしまいそうだ。

 買い求めた観光雑誌を開き、ぺらりぺらりと捲る。二人とも土地勘がなく、今日はこの観光モデルコースをなぞる形になりそうだ。

「────つっても、この観光コース、明らかに恋人用なんだよな……」

 ぼそり、と文句を言うと、永登は横から雑誌を覗き込んだ。

「俺が相手だと不満でも?」

「ありませんけどぉ……」

 茶化すように語尾を上げると、横で愉快そうに喉が鳴った。覗き込む体勢は、ほんの一、二週間前とは比べものにならないほど近い。

 映画館で、背後の座席から彼を見つめていた時期が遠い昔のようだ。

「稔くん、俺の顔ってあんまり好みじゃない?」

「友達に好みとか好みじゃないって何だよ」

「どっち?」

「……ノーコメント」

 答えがお気に召さなかったらしい永登は、ぐいー、っと横から体重を掛けてくる。おもい、と文句を言うと、気が済んだようで元に戻った。

「稔くん、俺の顔はじっと見てくれるんだけど、反応が薄いんだよなぁ……。悪くない顔だと思うのに」

 真横でひとり拗ね始めた、綺麗な顔立ちを見つめる。反応が薄いと思われているのなら、そう思われないよう努力している甲斐があるものだ。

 好んで彼を見ていた、だなんて、オメガが伝えたって嬉しくはないだろう。

 ページを捲ると、雑誌の途中に時計の広告が挟まっていた。身に付けているのは、叶隆生だ。

「叶隆生『は』、かっこいいよなぁ」

「ちょっと含みを感じるんだけど」

 思ったよりも棘のある声音を、不思議に思う。叶隆生と村雨映人は二人揃うと悪ガキ二人、といった空気で、気の置けない仲であったはずだ。

 僕の言葉も、冗談として受け取ってくれると思っていた。

「……ごめん。目の前に本人がいるから、素直に褒めづらくて」

「いや。俺も、大人げなかったな」

 気にしないで、と今度は萎んだ声に、ちら、と隣を見る。ぽつり、と寂しげに声が漏れた。

「……僕は、叶隆生より村雨映人の作品の方を好んで観てたよ」

 永登がこちらを見る気配がする。

「お世辞でもうれしいな」

「……その言葉、嫌いなんだよな。お世辞にされてるみたいで」

「あ。お世辞じゃない方が嬉しい!」

「知らん。勝手に意地張って曲解してろ」

 横から腕をぶらぶらと揺らす迷惑な男から視線を逸らし、見てもいない窓に向ける。やがて、腕から指が離れた。

 表情を窺うために、視線を元に戻す。

「俺、やっぱ、あいつにコンプレックスでもあるのかなぁ……」

 へにゃりとした声は、彼がしがない男を演じるときによく聞く声音だ。そこには演技派、と称されるであろう役者の影はない。

 だが、ただ一人として付き合うならば、そちらのほうが好ましかった。

「外れてたら笑ってくれていいんだけど、叶隆生の休業と、あんたの夏休み、って関係してる?」

 ばれるよなあ、と呟く彼は、隠すつもりもなさそうだ。

「うん。まぁ、そんな感じ。ずっと競ってたライバルっていうか、視界に入れてた奴がさ。急に休業することになったんだけど」

 叶隆生は子役時代からこれまでずっと役者として一線を走ってきたが、急に私生活が取り沙汰されることになった。

 最近、叶隆生には番ができた。番との間に子も生まれた。だから、叶隆生は番の仕事への復帰に伴い、自分が休業して家での仕事を分担できるようにする、と発表して休業に入ったのだった。

 そして、ずっと視界に入れていた人物が急に消えてしまった男、がここに生まれた訳だ。

「敵対視してた訳でもないし。あいつ仕事しか興味ありません、って顔してたくせにちゃっかり番いるんじゃん、とか思ってないけど」

「うん。……ふふ、そう思ったんだな」

「思ったけどね。仕事だけだと思ってた奴が、どうやら仕事も人生も充実してたらしいんだ。そもそも仕事でもあっちの方が評価されてるし、休業して子育てが話題になりはじめたら今度は父親役をやらせてみよう、なんて前向きな話も出るし。じゃあ、仕事しかやってこなかった俺はなんなの、みたいになっちゃってさ」

 永登は、全てを投げ出すようなジェスチャーをした。それだけで、彼の気持ちは窺い知れる。

 一度すべり出した唇は、彼の気持ちを率直に次々と吐露した。

「人生的な下地がなくたって、いくらでも役貰ってから積み上げて世界を演じられる、って思ってやってきたのに。違うのかなあ、違うんだろうなあ、って。それで、うわー、ってなっちゃった」

「確かに、そんな相手が近くにいるの。やだな」

 僕がくすくすと笑い始めると、永登もつられるように笑った。画面越しに見るものとは違っていたが、そのいびつさも好ましい。

「そういう……やだな、って思っても、いいのかなぁ」

「良くも悪くもない。思っても言わなきゃ同じことだろ」

「え。稔くんに言っちゃったよ」

「本人に対して言わなきゃいいって話だよ。僕は叶隆生と関わり無いし」

 彼はそういうものかなあ、とでも言いたげに首を傾げていた。

 善人を演じさせれば人柄が滲み出ていると称され、悪役を演じさせてもどこか憎めなさが漂う。あまり他人に対して、黒い感情を持ったことはなさそうだ。

「じゃあ、内緒にして。共犯だからね」

 喋りすぎて疲れたのか、永登は僕の肩に寄り掛かった。脚の長さがあるとはいえ、肩の位置だってあちらのほうが高い。

 黙り込んだ相手をひたすら放置していると、やがて寝息が聞こえてきた。短時間の睡眠が上手いらしい。

 僕はちらちらと綺麗な顔を眺め、何もかもを持っているように見えるアルファにもコンプレックスはあるのだなあ、とぼんやり思った。

 座席の揺れは心地良く、つられて眠ってしまいそうになる。

 ちょうど曇が晴れたのか、車内には強く光が差し込んできた。冷房で整えられた車内へ押し寄せるように、熱が伝わってくる。

「……あんたに秘密があるような奴を、共犯にするな」

 ぽつん、と呟いて、眠気覚まし用のタブレットを口に含んだ。今日の休みのために昨日だって夜遅くまで仕事を片付けたのだが、先に眠られては負けだ。

 仕方ない、と窓からの景色を独り占めすることに決めた。

「────……はぁ」

 いつか、オメガだと打ち明けるべきなんだろうか。それとも、墓まで持っていくべきなんだろうか。どちらが、彼に対して誠実だと言えるのだろう。

 じりじりと灼く陽は暑い。服越しに触れ合っている場所が熱い。跳ねっぱなしの鼓動は煩い。

 人を観察する眼がある癖にどうして気づいてくれないのか。共犯者に選んだ相手が、最も自分を騙していることを。

 

▽5

 駅に到着して目を覚ました永登は、平謝りしていた。あの場面で眠り、到着まで寝こけたのは彼にとっても本意ではなかったらしい。

 謝罪の勢いに押されて許すと、彼は頭に手を当てながら言った。

「なんか、いろいろ。晴れたっていうか……稔くんの隣で安心しちゃったというか」

 立ち位置を変え、彼の背中を、バン、と叩くとそのまま置いて歩き出した。コンクリートを蹴るスニーカーの音が後を付いてくる。

「のど渇いたなー」

 わざとらしい声音で言う。

「あ。駅前にジューススタンドあるよ。買おっか」

「みかんがいい」

「うん。買ってくるね」

 嬉しそうに僕を追い越していく姿を見送り、頭を掻いた。一緒に車窓からの風景を楽しみたかったが、あんなにぐっすり眠られれば起こす気にもなからなかった。

 携帯電話のメモリには、車窓からの写真が残っている。あとで送ってやろう、と思いながら、だらだらとでかい背中を追いかけた。

 永登の少し後ろで待っていると、二つぶんのカップを持った彼が振り向く。僕の手にオレンジ色の液体が入ったカップを持たせてくれる。中には大量の氷が入っていて、すぐにストローを咥えた。

 一気に吸い上げると、甘酸っぱい味が流れ込んでくる。

「うま」

「地元の果物なんだって」

 永登が飲んでいるものは少し薄い色をしている。僕が視線を向けていると、ストローの先をこっちに向けられた。

 躊躇って、秘密に辿り着かれるのを恐れて、何事もないことのようにストローから中身を吸った。

「あ。こっちもみかん、だけど……ちょっとほろ苦い」

「へえ」

 飲む? と僕のカップも差し出すと、何の抵抗もなく永登は口を付けた。

「こっちのほうは甘味が強いね。美味しい」

 日陰に入って、互いのジュースを分け合う。ホットサンドとフレンチトーストといい、彼とはシェアすることが多い。

 微量とはいえ、唾液が混ざると僕の匂いが伝わってしまうはずだ。アルファはそういった匂いの選り好みが激しいという認識だったが、彼は例外なんだろうか。

 ジュースを飲み終え、カップを店に返すと、観光コースの最初の目的地に向けて歩き出した。

 いつもなら携帯のマップを頼りにするところだが、観光雑誌に一枚マップが付録にされていた。バッグからちょくちょくマップを取り出し、かさかさと風に揺らしながら歩みを進めた。

 とはいえ、観光地だけあって案内も親切だ。最初の目的地である砂浜にはすぐに辿り着く。

「海だー!」

「長かった……」

 しみじみと呟く僕の言葉に、隣ではしゃいでいた永登が一度だけ真顔になって謝罪した。いいよ、と腕を叩いて、ざくざくと砂浜に下りていく。

 夏の太陽の存在で、砂はさらさらと靴底の下で崩れた。ひと気の無いほうを指差すと、永登も頷いて付いてくる。

 二人してざくざくと砂を踏みしめ、カンカン照りの陽の下にでる。厚く塗った日焼け止めの層すら貫通しそうだ。

 海は大量の日光を照り返し、波の稜線が白く煌めく。水の色は濃く、中に何を秘めているのか想像もつかない。対照的に、上方には抜けるような青空が広がっている。波が揺れる度に、水色と、濃い青の間を白が突っ切っていった。

 僕は携帯電話を持ち上げ、海をパシャパシャと撮った。ふと、悪戯心が疼いてそのカメラを永登に向けると、彼は慣れた様子でサングラスを持ち上げる。

「ポーズがプロだ」

「俺だけじゃなくて、二人で撮ろうよ」

 僕だと身長がなくてうまく映らない。彼の手に携帯電話を預けると、インカメラに切り替えて、号令が掛かった。シャッターが切られる。

 画面に映った自分を見下ろして、唇をゆがめた。被り慣れない帽子、明るい服、拙い笑顔、眩しすぎるくらいの日差し。全ての要素が、僕らしくない。

「夏休みだなあ……」

 あはは、とカメラの先を空に向け、水色を切り取った。僕が色々と撮っていると、永登はどこからか手頃な枝を持ってきていた。犬か。

 うきうきと砂浜で枝を動かす永登は、さっき飲んだジュースの形を絵に描いている。

「あ。アイラブユーとかにすればよかった」

「なにがいいんだよ止めろ」

 背後から肩に軽くチョップを入れ、絵と一緒に写れ、と唆す。彼が棒を持ったまま腕を上げると、シャッターを切った。

 村雨映人の休日にしては間抜けすぎる一枚だ。

「稔くんも書く?」

 はい、と手頃な枝を渡され、手始めにくるりと円を描いた。ヘタを描いて、果皮の部分の点々を打つ。

「みかん?」

「みかん」

 隣で永登もみかんを描き始める。不揃いで大きさも違うみかんが並んだ。大人ふたりが汗を滲ませながら、砂浜に絵を描いては消す。

 最後はへとへとになって、枝を放り出した。

「……悪い意味じゃないけど、俺ら、なにやってるんだろうなぁ」

「いや、本当になにやってるんだ」

 残った絵の前で二人で記念撮影すると、足を動かして砂浜を平らにした。最後には、色の変わった砂だけが残る。

 行こっか、と促し、二人で砂浜を後にした。最後に海を振り返ると、縛りそびれた髪の先を風が過ぎる。

 どこもかしこも青かった。

「次どこ?」

「展望台」

 街自体がコンパクトで、観光地も纏まっていて回りやすい。ひいひい言いながら登った高台から街を見下ろし、その場で昼食の店を決めた。

 地元の海鮮を使ったイタリアン。テラスに海側を向いたカウンター席があり、二人で並んで座った。風の強さがあり、気温よりも過ごしやすい。

 店長に話を聞くと、休日は予約なしには入れない店のようだ。自由業ふたりが揃っての平日旅行が功を奏した形だった。

 ワインで乾杯し、大皿の料理を小皿に取り分ける。店自体が混んでおらず、テラスにいるのは僕たちだけだからか、店長は観光地の相談にも乗ってくれた。

「──その雑誌は通年用だから載っていないかもしれませんね。近くの神社の境内に、紫陽花が綺麗な場所があるんですよ。木陰があるから今くらいでも涼しいし、のんびりご覧になるのもいいですよ」

「そっか。そんな時期なんだ」

「見たい」

「はいはい。行くから。……ありがとうございます、あんまり雑誌以上のことは分からなくて」

「いえ。食事も美味しいですから、小腹が空いたら近くの通りの食べ歩きもいいですね。練り物なんかは名産ですよ」

「あ、美味しそう。助かります」

 店長が引き上げていくと、肩に手が乗った。

 さっきからワインが進んでいる永登は、普段よりべたべたべたべたと、隙あらば触ろうとしてくる。酔うとスキンシップ過多になる質らしい。

 過度な接触にならないようあしらいつつ、皿に料理を取り分けた。

「ほら、カルパッチョ美味いぞ」

「あ」

「は?」

 口を開ける永登にげんなりしつつ、フォークで料理を運ぶ。もぐもぐと大人しく咀嚼すると、また、ぐー、とグラスを傾けた。

「酔っ払いめ……」

「はは。傷心旅行中なんだ、許してよ」

 とはいえ、泥酔するほど飲むつもりもないらしい。杯が空になると、今度はノンアルコールカクテルで酔い冷ましを始めた。

 デザートのシャーベットが運ばれてくると、黙って口に入れている。舌に載せると、しゅわ、と溶けた。名残惜しくて、シャーベットが溶けるぎりぎりまで、滞在時間を引き延ばした。

 そろそろ出るか、と立ち上がると、永登に伝票を持たれてしまう。

「俺のほうが飲んだから」

 そう言い残し、レジに向かってしまった。僕は、すとん、とまた椅子に腰を下ろし、彼が帰ってくるのを待つ。

 食べ歩きさせて少しずつ返していくか、と算段していると、視界の向こうで店長と永登が一緒に写真を撮っている。更に、手近にあったノートにサインを入れ始めた。

「気づかれてたんだ……」

 食事中は何も言うことなく、気づかれていないのか、と思っていたが、流石に食事中に顔を隠すにも限界がある。

 最後に握手を交わしている様子からは、永登が嫌々やっているようには見えなかった。ほっとしながら立ち上がり、歩いてくる相手を出迎える。

「ご馳走様。あとで何か奢る」

「じゃあ、そうしてもらおうかな」

 店を出る際に、出口付近で見送ってくれた。永登は手を振ってその場を離れる。

「店長、気づいてたんだ」

「うん。『よい旅行になるといいですね』って。ずいぶん昔の作品のこと褒めてくれて、ちょっと嬉しかった」

 彼が自ら交流を望んだのなら良かった。ゆっくりと合わせてくれる歩幅に揃えて、店を眺めながら歩く。

 旅行先でも気づかれて、サインを求められるような俳優。僕よりも背が高くて、体つきがしっかりしていて、綺麗な顔立ちを持つアルファ。ほんの少し弱味を見せることもあるが、その疵さえ愛嬌になるひと。

 隣に並ぶ僕は、どう映るのだろうか。ガラスから目を逸らして、水分の枯れきった石畳を見つめた。

 

▽6

 また、いつもの水曜日が来た。ベッドから起き上がって、時間を確認する。早朝、とも呼べる時間に起きたのは、締め切り合わせでリズムを崩したからだ。

 ふあ、と欠伸をして、薄っぺらいタオルケットを舞い上げる。昨日は小学生の入眠くらいの時間に眠りに落ちた覚えがある。

 携帯に視線を落とすと、永登からのメッセージが入っていた。

『明日、映画に来るなら────見ようよ』

 示し合わせて同じシアターで映画を見ないか、という誘いだ。ちょうど見たいと思っていた方の映画で、嬉しい誘いだった。

 だが、リズムが狂った身体に不安要素が残る。

「前回の発情期っていつだっけ……」

 ブラウザから発情期を管理するためのサービスを立ち上げ、ログインする。ぺらぺらとカレンダーを捲っていると、周期的にはもう発情期が来てもおかしくない時期だった。

 栄養が足りないと言われがちな体つきの所為か、周期通りに発情期が来ることは少ない。なんの気配もない現状、抑制剤を飲んで外出してもいいような気はする。永登の夏休みだってずっとある訳じゃなく、こうやって会える機会も少ないだろう。

「強いやつ、飲むか……」

 周期が安定しないことと同じように、体調にだって波がある。

 最近は永登から食事に誘われる所為でふっくらしてきたが、それまでは体調を崩すことを理由に、後ろの座席を選んでいたくらいだ。

 強めの抑制剤を服用すると、しばらくして目眩が襲ってきた。あぁ、と濁った声を漏らし、ベッドに倒れ込む。

 数時間、症状と闘っていると、ようやくマシになってきた。クローゼットを開け、立て襟のシャツを身に着ける。チョーカーも持っているが、オメガであることを明かすこと自体が少なく、身に着ける機会もない。

 普段よりも制汗剤を念入りに付け、髪を下ろしたまま櫛を通して家を出た。人が多い場所で視線を確認するが、匂いに気付かれている様子はない。

 そのまま、道の端を通って映画館まで向かった。今日も映画館に人はまばらだ。永登に指定されたチケットを買おうと中に入ると、パンフレットの販売コーナーを二人の男が眺めていた。

 片方には見覚えがありすぎるほど。そして、もう片方にも見覚えがあった。

「……おは、……よう。なに、その組み合わせ」

 永登が隣の男に、ちら、と視線を送り、その背を叩く。叩かれた男は、色男、を地で行くような顔立ちをしていた。

「なあ、一発で見破られてるよ」

「おれ、変装には自信があったんだけどな」

 濃い色の眼鏡をした男は、どうも、と手を差し伸べた。マスクをしていても、あまりにもオーラが分かりやすい。永登と比較しても、群衆に気づかれ易いのはこちらだ。

 差し伸べられた手を受け入れて、どうも、と同じ言葉を返す。

「初めまして、山吹です」

「こちらこそはじめまして。永登がいつも世話になっているみたいだね」

 僕は、何のつもりだ、と永登に向けて眉を顰めた。

 目の前で手を握っている相手は、画面越しに見覚えのある顔だ。

 『叶隆生』ずっと村雨映人と一線を走り続けてきた俳優で、そして、永登が休暇に入る原因になった人物。

 この間まで、明らかに彼へのコンプレックスを押し出していたというのに、こうやって映画館に連れてくるとは何事だろう。

「こいつがこの映画、観たいって言い出してさ」

「そうそう。おれが見たいって言って、連れてきてもらったんだ」

 会話する声音は仲良さげだ。何も知らない共犯者は、はらはらと二人の会話を見守った。

 三人でそれぞれチケットを買い、飲み物を買い求めてシアター前の待合スペースに向かった。

 極上のアルファふたりが映画談義をしていても、周囲の人々は気にする様子もない。普段よりも賑やか、その程度の認識のまま空気が流れていく。あまりにもこの場の色は濃く、定着しきっている。叶隆生と村雨映人を内包して尚、場が崩れる様子はない。

 係員が扉を開くと、のんびりと皆、各々のお気に入りの座席に向かう。僕は二人の後ろからシアターに入った。

「稔くん」

 こっち、と手招きされたのは最近、定番になっている永登の隣だ。僕がその席に腰掛けると、反対側に座っていた筈の叶が立ち上がった。

 ぐるりと通路を周ると、僕を挟むように座り直す。両手に叶隆生と村雨映人という構図は、居心地が悪いったらない。

「な、あの……あんた、何!?」

「あはは。普段、交流のない人と座らないと、と思ってね」

 どうぞよろしく、と微笑んでいる姿に、ぐう、と黙りこくった。助けを求めて永登に視線を向けると、安心させるように唇を持ち上げた。

 伸びてきた手が、僕の手と重なる。

「あんたも何してんだ」

「こっちのほうが安心するかと思って」

 平然とのたまう永登は、手を離すつもりもなさそうだ。

 不安になって叶のほうを見ると、微笑みの質がにたにたとしたものに変わっている。何も言わないのがまた薄気味悪い。

 映画館の照明が落ち、スクリーンに光が灯った。大きな銀行から大量の金を盗んで逃げる、序盤のシーンが始まる。

 やがて、手を繋いでいたことも忘れた。豪快にクラッシュしていく車を見ながら、おお、と歓声が上がる。途中で拍手も起きる。

 皆で一つのでかいテレビでも見ているような空気だった。初めてここに来たであろう叶が気を悪くしてないか様子を窺うが、当人は笑いが堪えきれないようで肩を震わせていた。

 最後は大炎上をバックに歩く男達を映して映画は終わり、エンドロールが流れ始める。騒がしさの余韻と共に黒背景を見終え、ぼう、と照明が灯った。

 人がいなくなるまで室内で待ち、誰もいなくなったところで席を立つ。

「永登。やっぱりこの映画、良かっただろう?」

「まあ。隆が薦めるからどんな凡作かと思いきや。あんがい面白かったなぁ」

 僕を挟んで空中で美声が行き来する。縮こまりながら、感想が行き交うのを聞いていた。しばらくして会話が落ち着くと、飲み終えたカップを持ってシアターを出る。

 ゴミを捨て、エレベーターの前で立ち止まった。

「今日はご飯、どうする?」

 叶と食べるのではないのか、と視線をやると、視線を向けられた先で、色男が手を振った。

「おれは昼から予定があってね。すぐ帰るつもり──……?」

 あれ、とこちらを見た叶が、僕の額に手を伸ばす。額なんて軽く覆われてしまうほど大きな手のひらが、ゆっくりと押し付けられた。

 目の前にいる人は、父親の顔をして首を傾げていた。

「少し熱があるかな? あんまり無理はいけないよ」

「え!?」

 近くにいた永登が、慌てて僕の額に手を伸ばす。

 別の手で触れてもすこし熱く感じるようで、空調の整った映画館にいてこれなら、体調が平常ではないのだ。

 朝方、無理をして出てきてしまったのが、映画という緊張が切れて噴き出した形だろうか。

「あ、えと。大丈夫……風邪とかじゃなく、薬の副作用というか」

 わたわたしている永登の先で、叶は何かに思い当たったかのように目を見開いた。

「ああ。じゃあ『おれがタクシーで送っていこうか』? 永登のほうがいい?」

 番以外の匂いは届きづらいはずなのに、目の前の人は僕が隠していることに思い至ったらしい。それでいて、番持ちが送っていく方がいいか、と問うている。

 言葉の裏に、永登を番にしたいのかも併せて尋ねられている気がした。

「え…………。あ、……の」

 僕が永登に送ってほしい、と言えば目の前の番持ちはそれを許すだろう。けれど、僕自身が許せなかった。

「いえ、自分で帰ります。元々、そこまで体調も酷くないので」

 質問を重ねられないように、エレベーターのボタンを押した。直ぐに開いた箱に乗り込む。

 叶はもうこれ以上なにを言うつもりもなさそうで、永登の視線だけが何かを迷うように彷徨っていた。

 エレベーターの扉が開くと、すぐに外に出て、距離を取る。

「ご心配をお掛けしてすみませんでした。……永登も、ありがとうな」

 その場を去ろうと身を翻すが、完全に反転する前に腕が掴まった。顔を上げ、掴まれた腕を振る。

 僕の腕を掴んだ本人は、自分の行動に驚いているかのように腕を見つめていた。

「────俺が送っていくよ」

 永登の背後で、叶が、にたり、と嗤った。罠にかかった、とでも言いたげな表情は、自分が仕掛けた言葉が実を結んだことを喜んでいる。

 やっぱり断った方が、と不安になるのだが、永登の表情はあまりにも真剣だ。

「嬉しい、けど。そこまでしなくても……」

「俺が不安だから。タクシー呼ぶよ、ちょっと待ってて」

 永登の背後から、ぽん、と背が叩かれる。彼が振り返ると、叶が携帯電話を振った。

「昔から世話になってる運転手がいるから、呼んでおくよ」

 そう言うと、手早く電話を始める。すぐに話がついたようで、少し先の時刻を告げられた。

 待合スペースで座っていると、予定の時刻よりも早くタクシーは姿を見せた。乗り込むとき、叶がわざわざこのタクシーを選んだ理由を察する。運転席と後部座席の間が完全に区切られた車だった。

 オメガが移動するにも、病人が移動するにも適した車内だ。

「よろしくお願いします。住所は────」

 住所と、周囲の目立つ建物を述べる。

『分かりました。それでは、車を動かしますね』

 スピーカー越しに運転席からの声が届く。窓越しに手を振る叶は、目を細めてこちらを見ていた。

 タクシーの車内では永登は僕の方ばかりを窺っていて、居心地が悪かった。さっき見た映画の感想を振ってくれるのだが、僕の返事もそぞろだ。

 心の中で慌てているうちに、僕の家に辿り着いた。家の前で別れるのかと思いきや、永登もタクシーから降りてしまう。

 なんで、と疑問符を浮かべても、問うのは失礼な気がして口に出せない。

「あの、お茶……くらいなら、出せるけど」

「お茶はどうでもいいけど、……心配だから、すこし様子見させてくれる?」

 こくん、と頷き、エレベーターで自室のある階まで上がった。密閉された小さな部屋が動いている間、自室の片付けをシミュレーションする。

 鍵を開けて永登に外で待ってもらい、先に部屋に入ってばたばたと片付けた。少し熱が上がった気がした。

 どうぞ、と玄関から顔を出す。

「お邪魔します」

 玄関で靴を脱いで揃え、狭い廊下を抜ける。彼にはソファへ腰掛けるよう勧め、買い置きしていた常温のペットボトルを渡した。

 ソファに間を空けて座り、体温計を脇に挟む。永登が水分補給をしている間に計った体温は、普段の体温よりは高いが、熱がある、ほどではない。

「微熱」

「横になったら?」

「……そうするかな」

 ソファもベッドも同じ部屋にある室内で、僕はベッドに横たわる。

 永登は本棚が気になったらしい。特に、映像媒体のスペースをじっと見つめている。

 村雨映人の映った媒体がかなりの割合を占めるその場所を、僕が気まずく思っても遅い。永登の指先は媒体の本数を数え、そして自身が出ている媒体のパッケージを数え直す。寝転がっているのに、体調が悪くなりそうだ。

 その後、雑誌コーナーに纏まっている村雨映人が映った雑誌をパラパラと捲って、律儀にそちらの冊数も数え直した。

 どうにでもしてくれ、と出荷された牛の気分だ。

「……あのさ。稔くんって俺のこと好────」

「ファンなだけなんだ……!」

 地の底から響くような濁った声で、寝転がったまま頭をベッドに押し付ける。顔を上げると、永登は照れくさそうに頬を掻いていた。

 照れが伝染し、僕の顔にも血が上る。

「あんまり俺が話しかけても嬉しそうじゃなかったから、興味ないのかと思ってた」

 ぽん、ぽんと跳ねるように言う声は、ただ嬉しそうだ。タオルケットを引き寄せて、頭に被せる。

 足音がして、上の方から布が摘まみ上げられる。

「ねえ、俺の方見てよ」

「いやだ」

 答えておきながら、ちら、と視線を向けた先で、永登は表情を溶かしている。広い掌が頭に乗って、わしわしと撫でた。

 ぽん、と被せられたタオルケットを、ぎゅ、と握り締める。

「折角だから、自分が関わった作品でも観ようかな」

 永登はソファを通り過ぎ、ディスクを再生機にセットした。映画が始まると、すぐに帰らせようと意気込んでいた決意も挫かれる。

 匂いが強くならないうちに、帰らせなければ。寝ることも出来ず、背後から映画の終わりを見守った。

 永登は黙ったまま、じい、と画面を見ていた。大きくもないモニタが、あたかも映画館のスクリーンであるかのように真剣に見入っている。

 一作の映画が終わると、蓋を開けたぬるい飲み物をがぶがぶと口に含んで呑み込む。そうして、次のディスクを手早くセットした。

 なんだか、止められなくなってしまった。

「──────面白い?」

 作品の緩急の合間に尋ねる。横たわって気分が楽になり、僕も一緒に作品を楽しんでいた。

「うん。……俺が作ったもの、面白いなぁ」

 そっか、と呟いて、好きなだけ映画を見続けることを許した。途中で腹が減ったとコンビニへ買い出しに行って戻って来て、フィナンシェを片手にまた映画に見入る。

 僕は永登が買ってきてくれたかき氷を開けて、ざくざくと桃色の氷をスプーンで崩す。ぱく、と口に含むと心地よかった。

 画面越しの村雨映人は、どの映画に対しても誠実だった。

 後期の作品に移るたびに、表現する手法が変化していく。初期からの変化に気づくのは、後期の作品が停滞の先にないからだ。

 休暇を取って尚、僕の助言を聞いて、なにか変化しようと動き回る男だ。彼の歩んできた姿勢は、まったくブレていない。村雨映人の夏休みは、いつか助走になるんだろう。

 永登が深夜を過ぎても見続けているものだから、僕は自分だけ眠りに落ちた。朝起きたとき、彼は真っ赤になった目を擦り、朝食を口にしてからすぐ寝入ってしまう。

 他人のタオルケットをぶんどってソファで横になったアルファは、あまりにも平和に微笑んだまま眠っていた。

 

▽7

 朝食を食べた永登が眠って、その間に念のため、仕事のメールをいくらか返信した。自分の体調が全く読めず、いつ発情期に入ってもいいように身の回りを整えていく。

 体調に波があるのは、きっと近くにアルファがいるからだ。本能的に、番を欲しがった身体が波打っている。

 流石に彼が起きたら、熱が引いたと帰ってもらうつもりだ。

「…………おはよう」

 ばさりとタオルケットを跳ね上げ、永登が起き上がった。ラフな格好だからとそのまま寝て、余所行きの服をシワシワにしてしまっている。

 髪は寝起きで乱れていたが、やっぱり素地の所為か、崩れても可愛く見えてしまう。

「おはよう。もうティータイムの時間だけど」

「……ごめん、寝過ぎた」

 ぼうっとしている永登に近寄り、跳んだタオルケットを回収する。様子を窺っていると、彼の指先が僕の服の裾を捉えた。

「じゃあ、そろそろ帰────」

「匂い、おかしくない?」

 はっきりとした確信を持って告げられた言葉に、ばさりと抱えていた布を落とす。誤魔化そうにも、行動が怪しすぎた。

 服ごと腕が引かれ、体勢を崩す。倒れ込んだ身体が受け止められ、首筋に鼻先が擦り付けられた。

「……あぁ、やっぱり。匂いが変わってる」

 どく、どく、と心臓が脈打った。近すぎる身体を撥ね除けようとも、首筋が捕らえられた。

 とん、と膝をソファの座面に押し付けて、がくんと頭を倒した。

「そっか。やっぱりオメガなんだ……」

 顔が首の横に押し付けられ、唇の柔らかい感触がした。すう、と息をする音が耳元で響く。心臓が壊れかけの楽器のように、引き攣れた音を立てる。

 広い胸に手を当てて、力いっぱい押し退けた。

「ごめ……! だま、……ってて」

 喉が痙攣したように声が途切れる。静かになった永登に、怒っているだろうか、と指先が震える。

 左手の上に被せるように右手を置き、ただ、耳を澄ませた。彼からの言葉がないのを確認して、口を開く。

「僕、はオメガで……。仕事では、ベータと間違われることが多いから、そのまま誤解させておくことが多くて。永登にも、同じようにしたほうが、いいと思って……」

 返事がない。

 心細さに肩が震え、頭はますます下がった。噛み締めた唇に感覚が失われたころ、上から声が降ってくる。

「俺がアルファなのは、知ってた?」

 こくん、と頷く。

「俺のこと、怖かった? オメガだと知られたら、強引に迫られるんじゃないか、とか」

「違う……!」

 顔を上げると、不安げな瞳とかち合った。互いが、鏡映しになっているようだった。

「……永登に、下心があるって思われるんじゃないかって……! それで、嫌な思いをさせたくなかった」

 肩を丸めて、謝罪の言葉を吐き出す。ごめん、と呟いた。

「傘を届けたのは、雨で困るだろうって心配になったから。遊園地に行ったのも、一人だと行きづらい場所だから、いないより、いるほうがいいって思ったから」

 ぼろぼろと零れる言葉の中に、しゃくり上げる息づかいが混ざる。押し込めていた物が零れ落ちて、ぼたぼたと手の甲を濡らした。

「永登と番になりたいとか……、そういう意図じゃなかったんだ。でも、オメガだと知られたら、そう思われるんじゃないかって不安で、言えなかった」

 謝罪の言葉を、何度も繰り返した。そして、ようやく解放されたことに安堵していた。明日から彼に会うことはもうないんだろうし、僕があの映画館を訪れることもない。

 飴色の床も、珈琲のにおいも、スタンプを付くあの音も、知らない人と笑うシアターの空間も。もう、明日からは僕の手にはない。

 最初、正直に伝えられたらよかった。そうしたら、スクリーンの外で、ラブストーリーとして終わったのかもしれない。

「そっか、残念だなぁ……」

 伸びた腕が、腰を掬い上げる。抱かれた背が胸元に押し付けられた。匂いに、違和感があった。

 僕の肩に顎を置いて、すっきりと通る声が告げる。

「俺はね。演技以外にも、隆を羨んだことがあったんだ」

 声音に怒っている様子はなく、言い聞かせるような声はただ優しい。このひとの告げてくれる声は、疑わずに信じられる。

「『番』だよ。番ができた、ってこと。俺、ずっとそういうことを考える余裕がなかった。けど、話を聞いたら、途端に羨ましくて仕方なくて」

 沈んでいた声が、水面に浮上して、ひと跳ねする。

「だから、映画館にいつもいる子に、今日こそ話しかけようって。ずっと思ってたんだ」

「…………え?」

 ゆっくりと指先を持ち上げ、自分を指す。こくん、と頷いた永登は、僕を抱き竦め、髪をめちゃくちゃにした。

 押し付けられた胸元であぷあぷと呼吸をし、動揺のまま唇をひらく。

「……なん……ッ! え、はぁ!?」

「君がオメガだって、俺はずっと知ってたよ。知っていて近付いて、モーション掛けてただけ。だから、気にしないで。……いや、これからは気にして、なのかな」

 すん、と耳の横で鼻が鳴る。

「すごく良い匂いがするなぁ。理性が溶けそう」

 僕が大人しいのをいい事に、彼は匂いの変化を確かめている。ぽかんと頭が固まって、言葉の中身をうまく噛めない。

 もぞもぞと腕の中で藻掻く。

「はは、まだ匂いは強くないから大丈夫。何もしないよ」

「そうじゃなくて……! あんた、知ってて遊園地で手を繋いだり食事のときべたべた触ったりしてたのか!?」

「うん」

「なんで……」

 萎んでいく声に、笑い声が被さった。

「番になりたいからだよ。だから、明日から先は、アルファとして君の瞳に映してね。……好きだよ」

 顔が傾いて、柔らかい唇が頬に触れた。ほんの少しの接触だけを残して、彼は身体を離す。上がりきった熱に、空気が触れてわずかに冷やそうとも追いつかない。

 ぽかんと口が開いて、それから数拍おいてわなないた。

 僕の反応に、永登はわずかに眉を上げる。

「あのさ。思ったより、俺、期待してもいい。のかなぁ……?」

「…………」

「ねえ、稔くん。いまの君の顔を見たら答えは分かる気もするけど、俺はちゃんと言葉にして欲しいな」

 髪が掻き上げられ、真っ赤になった耳が晒される。腕の中でぶるぶると震えている様を、やんわりと長い腕が閉じ込める。

 自分から、その胸元に寄り添った。

「あんたの番になることなんて、考えたこともなかった」

 覗き込む瞳は、答えを期待している。窓からきらきらと跳ね散らかす光が、その瞳を薄く浮かび上がらせた。

 指先を伸ばすと、間で捕まる。ごつごつした指先を撫で、造りがちがうのだと思い知った。

 何故、オメガであることを隠せると思っていたのだろう。

「番になることより、傍にいることのほうが大事だった。番の関係を望んだら今の関係すらなくなるなら、望まなくて良いと思ってた。……でも、両方がいっぺんに手に入るなら…………」

 指の股に、するりと別の指が入り込んでくる。組み合うように絡め、体温を交換する。

「……好き、だ。…………あんまり、こういうのは得意じゃないから、これで勘弁してくれ」

 背に回った掌が、僕の身体を永登の胸に押し付ける。ぴったりとくっついた部分から、どくどくと鳴るこの喧しい音は、どちらの物なのだろう。

 ぎゅっと目をつぶって、身を固くした。

「番になってくれる?」

「まずは恋人だろ」

「番がいいなぁ」

「……一生ものなんだから、もっとしっかり考えろ」

 ぽす、と軽く握り締めた拳を胸に押し付ける。手の甲を一回り大きな掌が包み込んだ。

 ご機嫌そうな声音は、モニタの内でも外でも聞いたことのない浮かれ方をしている。

「稔くんって、石橋叩きまくって渡らないんだよね。誰かが手を引いて渡るくらいでちょうどいいよ」

「あのなぁ……。僕はあんたの事を考えて……!」

「考えてくれてるなら、俺の希望通りに番になってよ。それがいちばんだから」

 むう、と頬を膨らませて、トクトクと鳴る自分以外の心音を聞いた。端から見れば余裕そうにしている、やっぱり演技が上手い。

 どこぞの舞台から飛び降りるような気持ちでいながら、そう見せないのは僕のためなんだろう。

「…………じゃあ、そうする」

「え」

 僕が同意したことに心から驚く永登に、またお世辞にしてやろうか、と唇を持ち上げる。おろおろと本気で狼狽えている姿が可笑しくて、すぐに嘘だと訂正した。

 

▽8

 しばらく抱き付いて触れ合った後で、永登は自宅に来ないかと誘った。彼の自宅は管理人付きのマンションで、買い出しなどを頼むことも出来るそうだ。

 発情期を一緒に過ごすつもりでいる彼に、本当にいいのか、と何度も念押しした。

「稔くんだって、抑制剤なしで過ごしてみたくない?」

 彼の誘いは甘かった。

 今まで散々、抑制剤で体調を崩してきた。体重がない所為か、薬の副作用が重すぎるのだ。

 あの体調の悪さを味わわなくていい。気持ちいいことだけしていればいい。深く考える前に、頷いていた。

 きのう世話になったタクシーへと連絡をして、永登のマンションへと送ってもらう。僕の家よりも格段に広いマンションを見て、あのまま自宅にいなくてよかった、と胸を撫で下ろした。

 永登は、途中で寄って貰ったスーパーで買った物を冷蔵庫に仕舞っている。僕が広いソファの上で溶けていると、額に冷えたペットボトルが当てられた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 喉を潤して、正気を保っているうちにシャワーを借りたい、と頼んだ。何故か一緒に入ろうとする永登を叩き出して、浴室で身体を洗う。

 自宅から持ち込んだ室内着に着替え、頭にバスタオルを載せる。

「あのよく分からない形のドライヤー借りていい?」

「よく分からない形……?」

 僕の言葉に釈然としない様子だったが、変な形のドライヤーを借りる許可はくれた。小型だと侮っていたら、あんがい早く乾いた。

 乾いた髪を撫で付け、脱衣所を出る。

 僕を見つけた永登は、立ち上がって大股で近寄ってくる。僕の手を持ち上げて、ちゅ、と甲に唇を落とした。形の整った鼻先が皮膚をこする。

「他の臭いがしなくなって、ますます良い匂いになった」

 屈み込んだ唇が近付いて、啄むように触れて離れた。永登にも、香水以外に目立つ匂いがある。僕の匂いに反応しているんだろうか。

「永登の匂い、も、変わってる、か……? なんか、いつもより……」

 瞳に陰が差して、唇が持ち上げる。

「うん。君のフェロモンは、効き過ぎるみたいだ。俺が身体を洗ったら──」

 ぐ、と腰に手が回り、つま先立ちになるほど高く持ち上げられた。こつり、と額がぶつかる。

「いちど、抱かせてくれる?」

「…………ッ! だ、抱く……!?」

 舌が縺れるばかりの僕の言葉に、永登は面白そうに目を見開いて、無言で身体を解放した。

 クローゼットに向かい、室内着を取り出すと、僕の頭にいちど手を置いて歩き去る。

「永登……!」

「身体を洗い終わるまでに、返事を考えておいて」

 じゃあ、と軽く手を挙げ、リビングの扉が閉じられた。よろめきながらソファに向かい、ぼすん、と弾みを付けて座る。

 両手で顔を覆って、前髪をくしゃくしゃにした。頬が火照って仕方がない。

 微かに水音が聞こえてくる静かな室内で、ぼうっと壁紙を眺めていた。

「僕に……、どうしろと」

 目元に手を当てて、ただ透ける光を見つめる。身体を重ねても、番になってしまったって構わないと彼は言外に示してくる。

 永登にとっては、ただ発情期を楽に過ごすための行為ではないのだ。

「────……返事は決まった?」

 ラフな室内着を身に纏った永登が戻ってくる。その格好であっても、美形の顔立ちは損なわれない。

 隣に座ったアルファの、服の裾を指で掴む。

「……僕、さっきまで発情期を楽に過ごせたら、って下心があって」

「ああ。抑制剤は身体が小さい人ほど、負担が大きいだろうね」

「うん。それもあって、まだ永登が持っている気持ちほど、感情が追いついてないかもしれない。でも、永登以外のひとと、発情期を過ごすことを考えられないのは本当だから。……それでも、いいか?」

 下がっていた視線を必死で持ち上げると、彼の顔は愛しさに蕩けきっていた。大げさに両手を広げる腕に飛び込むと、そのまま持ち上げられる。

 ぐるん、と反転した視界で、悲鳴に近い声を漏らす。

「……あ、わ……!? こわ……!」

「ごめんごめん、ゆっくり運ぶね」

 器用に僕を抱え上げたまま、彼は明るいリビングを出た。廊下を歩いて、一つの扉を押し開ける。

 リビングよりも暗い室内に戸惑っていると、壁に備え付けてあるスイッチを押すように指示された。反転したまま戸惑いつつ指を伸ばすと、ぱっと柔らかな照明が灯る。

 部屋の中央あたりに、大きなベッドが鎮座している。ここが寝室であることはすぐに分かった。

 部屋を大股に突っ切ると、僕はベッドの上に下ろされる。

「君がノーと言わないなら、俺はそれに付け込むよ」

 屈み込む男の唇を、顔を傾けて受け入れた。唇に指を当て、よこしまな笑みを浮かべるアルファを窺う。

 手のひらを彼の胸に当てると、やっぱりドクドクと鳴っていた。

「……演技が上手いな」

「ばれたか。生業だからね」

 くい、と服を引いてベッドへ促す。重い体重がベッドに乗って、座った面が深く沈み込んだ。

 届く位置になった頬に、ちゅ、とキスをする。

「不安がらせてごめんな。おいで」

 手を広げると、大きな体躯が降ってきた。ぎゅう、と距離を詰めると未だにどこどこと忙しなく鳴っている。

 唇が首筋に触れた。つっと辿られると、くすぐったさに身じろぎする。開いた唇から覗いた歯が、皮膚に軽く立てられた。

「……──っ、ン」

 ぞわぞわと刺激が伝って、縋り付く背を抱き返す。唇が触れた場所を吸われ、朱い痕が残った。

 掌が、上着の下に潜り込む。つ、と腹の薄い皮膚の上を指が滑った。視界の下で服が持ち上がって、指が胸元まで這い上がった。

 円を描くように丘を撫で、てっぺんを摘まみ上げる。

「……なっ…………! う、ン……」

 声を遮るように、相手の舌が唇を舐める。促されるままに唇を開くと、間から厚い舌が入り込んできた。

 ざらざらとしたものが、口内の柔らかい粘膜を舐める。舌先が長く入り込む度に苦しくて、何度も息を唾液ごと飲んだ。

「ん、ふ。……ぁ、ふ、あ……! ンう」

 頭を振っても、食らいついた顎は離れない。唇が離れた隙に息を吸って、また覆い被さる唇を拙く受け止めた。

 僕が抵抗できないのを良いことに、指先は動き回り、こりこりとした感触を堪能している。

「この……ッ! やらし、ことばっか……ン、う」

 声を許されるのも一瞬だけだ、胸の粒が膨れ、撫でられるだけで感じるようになったところで、ようやく不埒な指は離れた。

 解放されたくちびるを開き、息を吸い込む。

「俺、誰にでもこんなことしないよ?」

「してたら引っぱた……おい。もう、や……」

 服が捲り上げられ、色を変えた突起が露わになる。にたり、と目の前の口の端が上がったのが見えた。

 開いた口の中に、赤いものが覗く。ちろりと突起を舐め上げ、口に含まれた。

「……ン、ぁ。……あぁッ、ふ、うあ」

 ちゅう、と吸われる感触で、また刺激に反応した部分が持ち上がる。空いた手はもう片方の先端を捏ね回し、乳輪を摘まんだ。

 一度くちが離れると、唾液が残る場所が、すう、と冷える。ちろちろと舌の先端に突起がなぶられて揺れた。

「かわいいなぁ」

「やめろ。もう、いっぱいいっぱい、で…………ん、ァ!」

 そんなに吸われたら膨らんで、戻らなくなってしまう。まだ弄り足りなさそうな男を引き剥がし、いちど呼吸を整える。

 引き離された男は、不満、と顔に書いてあった。僕の上着を引くと、持ち上げて腕から引き抜く。

 唾液で濡れた場所が、つんと尖った。

「予想通り身体、細いね。もう少しすっきりした服も似合うんじゃない?」

「オメガだって隠せる方が都合がいいから……」

「うん。何となくそれは分かってたけど、俺と番になったら隠す必要ないし」

 大きな掌が、胸に触れて、するすると下がる。腹の肉を摘まもうとするが、皮膚だけで上滑りした。

「もっと食べさせないと……」

 ひとり決意を新たにするアルファは、腰骨あたりをまるく撫でた。自分の指ではない感触が、皮膚の上を這う。

 もぞもぞとした僅かな快感が、皮膚の下で燻った。

「さっきから……、焦らされてるのか?」

 周囲は、アルファの匂いで満ちている。濃厚で、圧のあるにおいが周囲に広がり、身体の熱を押し上げていく。

「手加減していたつもりだよ」

 骨張った指先が下の服に掛かった。咄嗟にその指を遮ろうと手を掛けてしまい、見下ろす瞳と見つめあう。

 指を持ち上げ、かるく握り込んだ。

「指、外さなくていいんだ?」

「……いい」

 届くか届かないかというような声を、聡い耳は律儀に拾った。愉しそうな笑い声と共に、下着もろとも脱がされる。

 僅かに迸りを蓄えている茎は、まだ茂りの内に身を潜めたままだ。気恥ずかしさに太腿を寄せる。

 永登は何かを思いだしたように近くの小机に手を伸ばすと、引き出しの上から未開封な半透明のボトルを取り出す。

 フィルムを剥いでいる横顔を、ぽかんと見つめた。

「……買い置きしてんの?」

 他の相手への嫉妬というよりも、純粋な興味だった。彼は剥けたフィルムをゴミ箱に放る。

「心配しなくても。さっき寄ったスーパー、端っこにドラッグストアがあったから、そっちで買ったやつだよ」

「別に心配はしてないが」

 心配するとしたら、今からその中身を使われる自分の身体に対してだ。

 永登はキャップを開け、中身を掌に絞り出す。べとべとになった掌を塗り広げ、僕の股の間に潜り込ませる。

 ぬるりとしたものが草叢に纏わり付き、中で縮こまっているモノを引き摺り出す。先端に液体をまぶすと、粘膜の上をちがう皮膚が滑った。

「……ンっ、……ふ、ぁ。……うあ」

 永登は僕を引き寄せ、自らの太腿に乗せると掌中におさめた熱をぐちぐちと弄ぶ。唇は声を零し、彼の耳元で嬌声を上げた。

「……ァ、ひ……っ、ぁ」

 自分の手のひらで慰める時とはまるで違う。厚い皮膚も、皮膚の下から押し上げる骨のかたちも、容赦なく扱き上げる大胆さも。彼の手で施されていることが脳に刻み込まれる。

 丸い爪を避けて、鈴口を指先が抉った。

「っ……! ……ぁ、ぁあぁああッ」

 かさぶたを剥がすかのように、やがて下からじくじくと薄い体液が零れ始める。ローションと体液が混ざり、くぷくぷと泡を作った。

 悲鳴へと過渡する声を愉しみ、男は首筋を掬って唇を重ねた。呼吸を繋げたまま、指は弱い場所を嬲る。掻き消された悲鳴の奥で、息を交換した。

「……ゃ、も……! じゅうぶん……!」

「『いや』? じゃあ、別のトコ触ろっか」

 永登は僕の身体を持ち上げ、肩に凭れさせる。太腿が持ち上がると、触れるようになった尻を撫でる。

「揉んだら怒る?」

「…………べつに。……って、言った傍から……ッ!」

 ぽこぽこと頭を叩いても、許可されたからいいだろうとばかりに揉みしだく。感触を堪能すると、ローションのボトルを持ち上げ、広い掌にぬめりが足された。

 伸びた指が肉の狭間を通り、まだ閉じた輪の上を伝う。

「…………ひッ」

「ここ、弄らないと繋がれないから。触るよ?」

「ん。……う、ん」

 おずおずと承諾すると、近くにあった胸のてっぺんにキスをされた。もぞり、と身体を動かし、不安定なバランスを相手の身体に委ねる。

 もういちど窪みに指を押し当て、周囲の筋肉を揉む。指の腹に吸い付く粘膜をいいことに、ずぶ、と潜り込んだ。

「あッ……!」

 弱い粘膜を、慎重に探る指が奥へ進む。節くれ立った場所はごりごりと内壁を掻く。掴まっている肩に爪を立て、違和感をやり過ごした。

 かなり長い時間、隅々まで探られ続ける。ふと、くっと伸ばした先、指の腹が確信めいてその場所を捉えた。

「────え? ……ヒッ、ぁあああッ!」

 ずくん、と普段とは毛色の違う快楽が襲う。身体がぶるぶると震え、崩れかける体勢を腕が支えた。

 支えた腕は僕の身体を固定し、更に深く見つけた場所を撫でさする。

「……ぁ、ン、ぁあ、う。ッ……ぁあ…………!」

 指の腹で押される度、快楽の火が広がる。指が前後する度に、ごりごりと粘膜を擦る。肉縁は綻び、ちゅう、と太い指に吸い付いた。

 腹の奥を押し上げる感覚は、電気信号のような刺激を長引かせた。神経に薄皮越しに触れられ、奥を許しているからこそダイレクトに苛む。

「ん、く。……ひあ、……あぁ、ン、……ぁああッ!」

 どれだけの時間、触られていたのか分からない。ちゅぽ、と指が引き抜かれたときには、身体の中心は痺れの名残があった。

 臍の下に手を当て、押し当てられた快楽の余韻を味わう。背に回された腕が、身体をアルファの元に引き寄せた。

「ナカ、入りたいな」

 掌を置いた股間は盛り上がり、どくどくと血の巡っている様すら分かりそうだ。指先で捏ねられた場所を、肉棒で押し潰される様を想像する。指先の味を知った後腔がきゅっと疼いた。

「僕、も。されたい」

 近付いてきた唇に、自分からも距離を詰める。唇が離れると、支えられていた身体が反転し、ベッドに押し付けられた。

 彼はふっと表情を崩すと、纏っていた上着を脱ぎ、シーツの上に落とした。下の服にも手を掛け、一気にずり落とす。膨れて持ち上がった雄に手が添えられると、ぶるりと震えた反動で汁を垂らした。

 画面越しに、そして背後の座席から見ていた顔が、鼻先にまで近付く。シーツに背を付けて、映像を見る動機そのままに綺麗なものを見つめた。彼の瞳に映る僕は、どんな顔をしているんだろう。

 太腿が持ち上げられ、腰が浮く。大きな体躯が覆い被さった。ひくつく縁に、丸く張った亀頭が押し当てられる。

 くち、と水音が鳴った。

「────ん、くう……」

 ずぶ、と滑りを借りて潜り込んだ雄を、反射的に喰い締める。息継ぎをするタイミングを見計らって、更に腰が押し付けられた。

 ぐぷぷ、と嵌まり込んだものは内壁を巻き込み、指先で覚えさせられた快楽の火をまた灯す。

「……ぁ、あ、──ぁあああッ!」

 ぐり、と指よりも重い質量で突き上げる。残響にくちびるを開き、残った息を吐き出す。は、と荒れた息が整うのを待たず、性急に肉慾は奥へ奥へと進む。

 狭い場所を、太いものが押し拡げる。

「……ン、ぁ、……ぁ、う、あ」

 不安定な脚を揺らすと、固定している腕が支える。ぐっと体重を掛け、膨らみがその場所へと辿り着いた。

 こつん、と柔らかい場所に触れ、ぐりぐりと押す。閉じきれない奥は、ぢゅう、と雄の鈴口を銜え込んだ。

「ァ、……ひ、……ァああ、ぁ、や、だ」

 引き抜くことなく、硬さを保った剛直を揺らす。指よりももっと奥、神経を擦り切るほどに近い場所に、どくどくと子種を蓄えた灼熱が押し当てられている。

 ぬるつく腔をみちみちと拡げ、僅かずつデータを刷り込む。伸びた掌が、僕の腹の上を撫でた。膨らんだ雄のかたちが分かりそうな程、身体のすべてを使って受け入れている。

「俺と、番になってくれる、って言ったよね?」

「そう、だよ……! でも。こんな、おく……ぁ、ン……!」

 身体の中のモノが動き、不意のことに唇を噛む。ぐす、と啜り泣くように声を漏らすと、大きい手が腰を掴んだ。

 引いた腰が、大振りに打ち付けられる。

「──────ッ!」

 二度、三度と反射で締め付ける感触を味わうと、ゆるくピストンが始まった。奥に辿り着く度についでだとばかりに抉られ、ひっ、と声が溢れる。

 濃厚なフェロモンはもうだだ漏れになり、息をするのにさえ逃げ場はなかった。

「……ぁあ、ぁ、ぁ、ン。────ヒッ、ぐ、うぁ、あ、あッ!」

 人畜無害な普段の表情とは裏腹に、集中している眉は顰められ、瞳は逐一、僕の様子を追う。彼の瞳がこんな風に動く様を僕は知っている。

 いつもの、スクリーンを見るときと同じだ。

「ァ。や……ぁ、奥ば、っか……あ、ぁ、ひ、う、ぁぁあ……」

「いちばん、気持ちよさそ、……、な、トコ、だよね……ッ!」

「──ァ、あぁっ」

 番と定めた、知らない雄を身体に受け入れて悦んでいる。まさしく発情だった。身体を柔らかく綻ばせ、先走る精を飲み下す。

 ずちゅ、ずちゅ、と水音で溢れた音に、ベッドのスプリングが軋んで、嬌声が重なる。互いを誘う匂いを混ぜ合って、境界を無くして、ただ絡まり合っていた。

 傾ぐ背に手を伸ばし、繋がる身体に脚を絡める。

「……おく。奥、に…………ッ!」

 瞳の奥に、ほの暗い、見たことのない色を見た。

 いっそう強く腰が引かれる。膨れて熱を孕んだ猛りが、ずるる、と狭道を駆け上がった。どちゅ、と突き入った先端が奥の口を捉える。

 びゅる、と白濁が暴発した。

「────ァ、ンぁっ。……ぁあぁあぁあああぁぁぁっ!」 

「ぁ、うわ。……っく、ぁ…………」

 じくじくと鈍いしびれが残り、押し付けられた腰からは精が零れ落ちる余地はない。永遠にも思える間、繋がったまま、細くみじかい呼吸を続ける。

 靄のかかった頭は、ただ自らに子種を送り込むアルファに脚を絡め、逃がすまいと縋っていた。

「……稔くん?」

「ぁ、……うん」

「名残惜しいけど、抜こっか」

 おずおずと脚から力を抜くと、ずる、と柔らかくなった男根が抜け出る。体液を纏っててらてらと光る巨きなそれを見て、ごくんと喉を鳴らした。

 抑制剤はもう効かず、頭のタガが外れている。開いた脚を戻さないまま、僕はぽつりと呟いた。

「それ、勃ったら。……もっかい、できる?」

 媚びるような顔をして、閉じきれない後腔を晒す。目を見開いた男の喉が、さっきの僕と同じように動いた。

 覆い被さるアルファの身体を受け止め、肩口に隠して唇を持ち上げる。スクリーン外のこの貌は、もう僕だけのものだ。

 

▽9(完)

 木曜日の最初の上映回。左右から見たら中央あたり、前後で見たら後ろあたり。隣の座席に番は座る。

 映画が終わると、僕のぶんのカップも回収し、一緒に上映室から出てゴミ箱に捨てた。

 村雨映人の夏休みは、決められていた期日通りに幕を閉じた。

 遊園地や海、夏休みの中で初めて体験したことを話す映人は、しばらく番組に引っ張りだこになった。新しい仕事もいくつかオファーがあったようだが、以前ほどあれもこれも、と出演しようとしない。

『どれくらい熱を傾けられるか、しっかり考えてみようと思って』

 その日も僕を家に連れ込んだ永登は、いくつもいくつも送られてくる案件に慎重に目を通していた。

 もうしばらく、助走は続くらしい。

 今日は夏休み明けに初めて恒例の映画を見ることにして、二人並んで映画を見た。ずっと猫が寛いでいるだけの、ストーリーと呼べるものがあるのか分からない代物だった。

 だが、物珍しいと言えば珍しく、ひどい脚本よりも腹が立たないぶん数倍よかった。

「あのさ……」

 誰もいなくなった上映室前の待合スペースで、永登はエレベータのボタンを押さない。

 僕が彼を見上げると、色付き眼鏡の下で不安そうな瞳が揺れていた。

「稔くんのこと、番のこと。公表、をしたいんだけど」

 たっぷりと、わざと間を置いた。

 突然、聞かされて、悩んでいるような素振りを見せた。瞳はどんどんと揺れが激しくなり、ぎゅっと眉が寄った。

 感情が人に伝わりやすいのは、役者としても人としても彼の美点だろう。

「……ごめん、意地悪した。いいよ、ただ、ライターだってことは伏せたいな。記事に僕個人の色を付けたくないんだ」

「あんまり、驚かないんだね」

 ふ、と唇を緩めて、種明かしをする。ポケットから取りだした携帯を操作し、メッセージ画面を呼び出した。

『最近、永登が悩んでるみたいでさ──』

 その言葉から始まる悪戯は、彼の悪友から贈られてきたものだ。送り主の名前を見た永登は、ずるずると古いエレベータのパネルにもたれ掛かった。

「隆────……。あいつ、やっぱりそういうとこが……」

 はあ、と溜め息を漏らす。携帯を渡すとメッセージを読み、返信画面を開く。『勝手にばらすな』だとか『でも今回は』だとかぐちぐちと文句を書き連ね、送信ボタンを押す。

「まあ、内容はっきりとは言わなかったけど、あんたはこういうこと悩んでそうだなあ、って考えてた内の一個だったから、衝撃は少なかったかもな」

「ちなみに、他は何を悩んでると思ってた?」

 壁に凭れたまま、情けない声を漏らす。演技にしてもひどい響きだった。

「『一緒に住もう』とか『結婚しよう』とか、『指輪を選びに行こう』とか」

 ずるずる、と大きな身体が崩れ落ちる。おっと、と支えに入り、重い体重を手を広げて受け止めた。

 僕にもたれ掛かった永登は、耳元で囁く。

「その三つも、言いたかったんだけど」

「はは、四つとも答えは決まってた」

 受け止めた背を抱き返す。

 これが映画の中だとしても、古びた映画館での告白は画として悪くないだろう。

「全部、『いいよ』」

 唸るように喜びの声を漏らした永登は、ぎゅうぎゅうと僕を抱き竦め、やがて我に返って身体を離すと、照れたように笑う。

 まだまだ、エンドロールは遠そうだ。

 

 

 

きみつが
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坂みち // さか【傘路さか】
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