※R18描写あり※
18歳未満、高校生以下の方はこのページを閲覧せず移動してください。
この作品にはオメガバース要素が含まれます。
【人物】
緋居田 深代(ひいだ みしろ)
/朝背 深代(あさせ みしろ)
須賀 誠(すが まこと)
須賀 圭次(すが けいじ)
須賀 優征(すが ゆうせい)
父の会社名と、破産、の二文字が見えた時、ああやっぱりか、と思うと同時に目眩がした。
ふわふわとした意識の中で、父と母が離婚することが伝えられる。荷造りをしないと、と指先の感覚がおぼつかないまま服を詰めた。
玄関は騒がしい。裏口から小さな荷物を持って軽自動車に乗り込む間に、大きな屋敷も、質のいい車も、残ったものが売られてしまうことに感傷を抱かずにはいられなかった。
母の旧友が車を運転し、私は助手席に座った。母は幼い弟と妹を抱き寄せ、時おり涙を浮かべている。
弟と妹にはお父さんは仕事の都合でついて来られない、家も引っ越す、とだけ伝えられている。母が父と離れることを寂しがっている、とでも思っているのだろう。
母の旧友……三嶌さんは、ハンドルを握りながら、私の体調を心配して声を掛けてくれる。
顔色が悪いと指摘された。車のミラーで確認すると確かに倒れる寸前のような生気のない顔をしていた。元気です、と言う声も上滑りする。
「深代くんには詳しく説明できなくて悪かったけど、うちも余ってる部屋って一つしかないし、そこに四人詰め込まれるのっていやでしょう?」
「え、あ。そんな、ご厄介になるのはこちらです。それに、私も高校はすぐ卒業ですし、アルバイトでもして、早めに出て行けるようにしますので……」
最近では、アルバイトにも学歴が必要なところだってある。大学は諦めなくてはならないだろうが、それでも、働ける余地がまだあるだけ幸運だった。
二馬力で働けるのなら、家族四人が慎ましく暮らしていく位なんとかなるだろう。屋敷から持ち出せた金もいくらかはある、その金としばらく家賃を浮かせて働くことで新居の資金に充てるつもりだった。
「あっはっは。いいのよー私ね、高校のとき家出少女で、三年間ずっと君のところのお母さんの家に入り浸りだったの。家はそこそこ広いし、少し騒がしくなるくらいなんてことないし、一年でも二年でもいなさいよ、……って、言いたいとこだけど」
三嶌さんは言葉を切る。
彼女は信号待ちの合間にこつこつ、とハンドルを人差し指で叩きながら、言葉を選ぶように赤い光を見つめた。
「深代くんはもう大きいし、お母さんと一緒の部屋、気まずいんじゃないかってなあって思うのよ。で、私、お部屋余りまくりな家で、ご飯だってたくさんあるはずのおうち、知っててね」
「はぁ………」
部屋が余りまくり、で、ご飯もたくさん、とは何と豪勢な話だ。だが、しばらく前までは自分の家だって同じようなものだった。
当然とは思っていなかった。ただ、無くなってみると、あの時少しでも節約してお金を貯めこんでいれば、と考えざるを得ない。
私は黙って三嶌さんの横顔を見つめる。
「雑用ばかりになると思うけれど、……住み込みでバイトする気はあるかしら? お給金は弾んでくれると思うわよ」
「あります。何でもいいです、働かせてください」
即答した私に三嶌さんは目を見開くと、じゃあ、週明けには勤め先にご挨拶に行きましょうね、とゆったりと笑った。
雑用でも何でも構わなかった、こうやって悩んでいる間だって働けば金になる。働ける余地があるだけまし、すぐに働けるなんて幸運にも程がある。
私は三嶌さんによろしくお願いします、と呟く。荷物の入った鞄を、震える指先で握り締めた。
案内された部屋は、以前住んでいた部屋の数分の一程度の広さしかなかった。だが、住むには不足ない部屋だった。
お給金が悪くない額で、しばらく住んでお金が貯まると皆、通いに変わっていくそうだ。
この部屋も数年ほど使う人はいなかったそうだが、埃も少なく、屋敷全体がきちんと手入れされている印象だった。
紹介されたのは三嶌さんの現在の勤め先。破産する前の父親のグループより、規模が一回りも二回りも大きなグループ会社社長の邸宅だ。
使用人の数もそこそこおり、人手としては足りているそうだ。ただ、お手伝いさんが一人産休ということで、一年程度、勤められる人を探していたらしい。
求人を出して応募もあったそうだが、旦那様とその番の方のご厚意で私を入れ、他をお断りしていただいた、とのことだった。
三嶌さんの顔に泥を塗る訳にはいかない、と睡眠はきちんと取り、頂いた制服に袖を通す。鏡の前に立ち、髪を邪魔にならない程度に整えた。
ぱりっとした制服に皺などは見当たらない。メンテナンスには気をつけたほうが良さそうだ。
この屋敷では緋居田ではなく、母親の旧姓の朝背を名乗る。
自身に苗字を何度も言い聞かせる。間違っても、破産した、とニュースで報じられた苗字を名乗らないようにしなければ。
コンコン、と扉をノックする音がして、返事をする。
三嶌さんは、入るわよー、と声を掛け、数拍置いてドアを開けた。私をつむじから爪先まで一通り眺める。
うん、うん、と向けられた視線はもう一巡し、ぱちん、と手が合わされる。
「合格! と言いたいところだけど、表情が硬いわね。口角が下がると言葉のトーンも下がり気味になっちゃうし、うちの屋敷はあんまり硬くならなくても大丈夫よ」
「はい、旦那様とそのご家族の前では笑顔を心掛けます!」
慌てて言葉を発すると三嶌さんが、にー、と口元を引き上げて笑ってみせる。つられるように、にー、と笑ってみると、よしよし、と背中を叩かれた。
もうちょっと真面目に勤務したほうが、と思っていたが、確かにしかめっ面をして働かれても、接する立場が見て楽しいものではないだろう。
三嶌さんは、ご挨拶に行きましょう、と扉を開いて先導する。
広い屋敷は、夜の間に寝室から遠い場所は案内してもらったが、ご挨拶、の場所はご家族の生活圏の真っ只中だ。当然、道順が分かるはずもなく、案内されるがままに廊下を歩く。
三嶌さんは制服姿だったが、背筋に一本の筋が通った姿勢をしている。動きだって雑ではないが遅くもない、丁寧でありながら無駄なく動く。
私はこっそり背筋を伸ばし、歩き方もスマートに見えるよう姿勢を正した。
使用人の働き方が屋敷の質そのもの。普段、使用人が聞かされているのを横で見ていた立場だったが、自身に押し付けられるには、なんて重い言葉だろう。
三嶌さんは大きなドアの前に辿り着くと、コンコン、と重い扉をノックする。
「圭次さん。新しくいらっしゃった朝背さんをお連れしました」
扉の向こうから、はーい、と朗らかな声が聞こえる。パタパタとスリッパで床を叩く音が聞こえたかと思うと、バン、と勢い良く扉が開いた。
扉ってこっちが開けるものじゃないのか、と目を瞬かせながら、発する言葉を失って立ち竦む。
「新入りさん? どうも」
よろしく、と差し伸べられた手に応じると、きらきらと向けられた視線は三嶌さんのように上から下までを巡った。
うん、うんうん、と何事か頷くと、圭次さん、と呼ばれたその男性は入って、と部屋に入るよう促した。
失礼します、と三嶌さんに続いて部屋に入ると、別のお手伝いさんが控えており、広いテーブルの上には紅茶が載っていた。
朝食後にデザートを食べ終わって、ゆっくりしていた、というところだろう。
もともと座っていたらしい場所の向かいを勧められた。断る理由もなく、促された場所に腰掛ける。
私と三嶌さんの前にも紅茶が出され、これから共に働くことになるお手伝いさんに頭を下げる。
「須賀圭次です。この屋敷からすると、俺も君と同じく新入りです。仲良くしてほしいな」
朗らかに言って紅茶を含んだ圭次さんは、私をじい、と見るとやっぱり、と小さく呟く。
「同じオメガじゃない? 珍しいな、休みは配慮するから早めに相談を……」
へ!? と三嶌さんとお手伝いさんが、ぶん、と振り返って私を見る。三嶌さんに至っては全く予想もしていなかったらしく、えー! えー! とらしくもなく驚いていた。
私もこんなに率直に問われたのは初めてで、紅茶を持っていなかった事にほっとした。
「はい。検査ではそう出ました。ただ、発情期がまだで……周期がよく分からず……」
圭次さんは、三嶌さんと、その場にいたお手伝いさんに公言しないように言い含める。一部の使用人の間には明かしておいてもいいか、と尋ねられ、当然です、と頷く。突然、休むような事になれば、屋敷の業務に穴を開ける事になる。
圭次さんは、隣にいるお手伝いさんは三嶌さんと同じく古株であること。使用人の中でも管理側の立場であるため明かしたほうがいいと考えた、と告げた。情報を外で言いふらしたりしないよう、慎重に取り扱うことも約束してくれた。
そこまでしなくても、とは思ったが、同じオメガで、考えることもあるのだろう。
発情期が来ていなかったことで頭が回っていなかったが、この人がいなかったら大変なことになっていた筈だ。オメガであることを黙って屋敷で働くなど、考えが足りていなかった。
両親の離婚に動揺していたとしても、働くと決めた以上もう少し、話をすべきだったと猛省する。
「ああ、若いもんな。あの、一個だけちょっと気を付けて欲しいことがあってさ……本人呼ぼ」
圭次さんは携帯電話でどこかに電話を掛けると、今すぐ食堂に来て、と言って電話を切った。
まあ紅茶でも、と勧められ、紅茶のカップを握って一口啜る。いい茶葉で、いい淹れ方をされているのだろう、香りが強い。
張り詰めていた気が少し緩んで、ソファの背に身体を預ける。
しばらくするとノックの音が響き、どうぞー、と圭次さんが答えると扉はガチャリと開いた。
「誠。この人が昨日言った、新しいお手伝いさん」
私は急いで立ち上がると、一礼する。
「朝背深代と申します。よろしくお願いします」
「どうもご丁寧に。須賀誠、向かいに座ってるあのぼんやり顔の息子です」
名乗った青年はスーツ姿で、少し見上げなければ顔が見えないほどの長身だった。
歳は少し上だろう。切れ長の瞳は意志が強そうで、見つめれば呑まれそうだった。若い顔立ちに似合わないほど落ち着き払った様子は、人に指示するのに慣れた空気を感じさせた。
だが、ぼんやり顔、と父親を称する時は目尻が少し柔らかくなり、ふわりと香るような親しみやすさが見え隠れする。
「この子、オメガらしいんだ。発情期が近くなったら気を付けてやって。誠が一番、接触が多いアルファになりそうだし」
「あー……。そうなんだ?」
誠、と名乗った男性は身を屈め、私の瞳を覗き込んでくる。
逸らすのも失礼な気がして、ぱちりぱちりと瞬きながらもこくんと頷く。
ふーん、と誠さんは顎を指でなぞると、確かにそれっぽい、とごく自然に受け入れたようだった。
「俺さ。兄弟の中で、今この家に残ってて番持ちじゃない、ただ一人のアルファなの。発情期には、こっちが逃げるかあんたを逃がすよ。悪用しないから、連絡先よこして……携帯ある?」
「あ、はい。お手数おかけします」
携帯電話を差し出して、お互いに連絡先を交換する。
携帯電話は勿体無い、と解約するつもりだったが、こういう使い道も含めて連絡手段は必要だ。料金プランの見直し程度に留めておくべきだと思い直した。
誠さんは私の髪を一房持ち上げると、鼻先に擦り付けて離した。どくりと血が一瞬で廻る。
「いまのとこ、匂いはしない。気にすんなよ、あんたも住み込みで働くなんて大変だろうし。なんか気づいたら、細かいことでも連絡してくれ。すぐ逃げる」
じゃあ行って来ます、と誠さんは仕事に出て行ってしまって、私は思わず心臓を押さえた。スキンシップが物凄く近い、……気がするのは気のせいだろうか。どくんどくんと暴れる中心が落ち着かない。
私は呼吸を整えながらソファに戻ると、ぽすん、と座り込んだ。
「誠の機嫌よかったし、タイミング良かったかも」
「ええ、優しい気がしましたねえ」
圭次さんの言葉に、三嶌さんまで同意する。
連絡先を交換してくれたことといい、家を離れてくれるという言葉といい、最後の気遣いといい、突然来たお手伝い相手に親切な方だなあと思っていたが、この様子だと気分屋なのかもしれない。
声を掛けるタイミングだとか、言葉には気をつけなければ、と二人の会話を聞いて印象を改める。
「普段はあの顔でばっさり物事を切る上に、オメガは更にばっさばっさと切っていくからどう対応するかちょっとだけ不安でさ。まあ当然か。お付き合いして、とか言い寄るようなオメガじゃなきゃ優しいのかもな」
「はい。主人と使用人ですから、恋愛どうこうは避けるよう心掛けます」
カップを握って、安心してほしい、と圭次さんに告げる。圭次さんはちょっと納得がいかないように首を傾げていたが、その原因が分からなかったようで戸惑いながらも頷いた。
三嶌さんはカップを飲み干すと、私のカップが空なのを確認して、それではそろそろ、と場を切り上げる。
圭次さんはもっと話がしたいようで、おやつの時間に休憩を合わせて欲しいとお願いされた。オメガという存在自体が珍しい上に、体調だとか性格だとかを聞いて配慮したいそうだ。この人には頭が上がらない予感がした。
「あ、そうだ。大学は行きなよ」
唐突に言われた言葉に、私は一瞬、返す言葉を失った。
「……学費が惜しいので。……その、落ち着いたら入学を辞退しようと」
「三嶌さんに言ってなかったっけ? うちで働いてくれるんなら、学費の補助はできる」
須賀のグループ企業が設立した団体に、奨学金制度のある団体があるそうだ。
将来的に須賀が指定する企業のどれかに一定期間、勤めるのなら、返済が免除される制度もあるらしい。
三嶌さん経由で書類を届けると告げられ、私は目の前が真っ白になった。
「俺は勉強が得意じゃないんで、使用人に教えて貰わないとうちの屋敷は立ち行かなくてさ。勉強を目一杯つめて、残りの空いてる時間にこっちのシフトを入れる。授業の調整とか、研究室もレポートも大変だと思うから、聞き取りは定期的に、……そうだ、おやつでも食べながらしような。お団子とか」
頑張っておいで、と手を振る人に泣きそうになったのは秘密だ。
土下座でもしたいくらい感謝の気持ちで一杯でも、返す手段は働くことの他にはない。
私は唇を噛みながら精一杯頭を下げて、三嶌さんの後を追った。
残り短かった高校生活を終え、大学の授業が屋敷の仕事と両立できるよう使用人長にシフトを作ってもらった。皿洗い、荷物の受け取り、急ぎの書類の手配、掃除の手伝い、洗濯の手伝い、仕事範囲は多岐に渡る。
執事の鵜来さんから、私より仕事の種類は多いですよ、と笑いながら備品の買い足しを頼まれるほどだ。
スケジュールの管理は秘書が、家族とお客様のもてなしは使用人が、料理は料理人が、庭の手入れは庭師が行う。
私はどれでもなく、全てが上手く回るための裏方作業から始めて適性を見る、という話になった。
屋敷の生活にも慣れてきた。
一度ホームシックに駆られて昔住んでいた緋居田の屋敷を見に行ったが、その時、柄の悪そうな人物が集まっている光景を見た。緋居田の屋敷を見ながら何かを言っているように見えて、私は視線が合ったと同時に須賀の屋敷に逃げ帰った。
もう、近づくべきではないのだろう。その後はホームシックも落ち着いている。
働いていれば、余計なことを考える暇もない。今日は備品の買い出しに行こう、と車のキーを取った。
ちりん、と貰ったキーホルダーがかろやかな音を立てる。免許もまた、必要だからと合宿免許取得コースに放り込まれてきたばかりだ。
「出掛けるのか?」
オフらしい誠さんが、私服姿で階段を降りてくる。シャツとジーンズ、アクセサリー程度だが、髪を崩しただけでも男前度が上がって眩しい。
誠さんがちょっとそこらでは見ない男前だと驚いていた私は、その後に圭次さんの番である旦那様とも遭遇した。
誠さんに更に鋭さと渋さを足したような男前で、誠さんと旦那様はそっくりだ。だが、誠さんのほうが、顔を崩した時の印象は柔らかく感じる。
昔の旦那様は今の誠さんよりもきつめの美形で、押しの強い性格だったらしい。
お二人の馴れ初めについては、聞くと圭次さんが無言で首を振る。成人した子持ちにしては若いお二人を見るに、色々と、そう色々とあったのだろう。
「はい。買い出しに」
「なに買うんだ?」
「コピー用紙とテープと洗剤、あと腐葉土を」
「はは。重そう」
誠さんは鵜来さんを呼ぶと、私をしばらく借りると言付けた。私は二人が会話している横で、会話が終わるのを待つ。
「運転まだ不安だろ。横に乗ってコーチするから、買い物の前に朝メシ付き合って」
「……はい。助かります」
誠さんが言うようにちょくちょく乗り回してはいるものの、まだまだ初心者マークの人間が屋敷の車を乗り回すのだから冷や汗ものだ。
使用人の買い出し用の自動車に誠さんを押し込むのは申し訳ないが、送迎用の高級車をぶつけたら更に申し訳ないことになる。
誠さんの誘導で喫茶店まで車を走らせ、上手、と褒められながら駐車する。誠さんは先に車を降りた。
私は当然このまま車内で待っている気でいたのだが、誠さんが運転席のドアを外から開け、どうぞ、と促すものだから言われるがまま降りてしまう。
店の前で待てということだろうか。その背を追い、店の前で待っていようとすると、店の扉を先行して開けられ、またしてもどうぞ、と促された。
「あ、の……。私金を勤務中にはロッカーに預けていますので、買い出し分のお金しか持っていませんし、その、外で待ちますので」
「飯一人で食べるの味気ないから奢るし、付き合ってって意味だったんだけど。それは駄目?」
「駄目……、ではないです」
「じゃあ、年上にいい格好させて。奢るから好きなもの頼んでいいぞ」
私は促されるまま、店内に入る。
落ち着いた空気の店内は、毎日磨かれているようで清潔感に溢れていた。いらっしゃいませ、と通った声も、明るいながら穏やかな響きだ。
す、と吸い込むとコーヒーの香りが肺を満たす。
「お連れ様がご一緒なのは初めてですね。明日は雪ですか?」
頭に白いものが混じったマスターは、悪戯っぽく笑いを浮かべながら席に案内する。ふかふかとしたソファは居心地がよく、数時間でも座っていられそうだ。
奥には絵画が数点並んでいるのが見えた。
「ちょくちょく連れて来ようと思っているので、そうなるとトンネルの中まで雪かな。残念」
「これは失礼、今は雪の降る夜ではなく朝でしたな。おふたりとも、モーニングでよろしいですか?」
マスターの言葉に、誠さんはちらりとこちらを見やる。使用人用の朝食を完食済みの私は、慌てて口を開いた。
「あ、すみません。もう朝食は頂いてしまって……コーヒーだけいただけますか?」
「豆の指定はありますか?」
「いえ。詳しくないので、朝飲むと美味しい、とか? おすすめのもの、をください」
「食事と合わせず単体で、朝からリラックスできるような香り。……ええ、考えてみましょう。酸味と苦いのは?」
「どちらも、美味しく頂きます。ブラックが好きで」
「それは選び甲斐がある。うちの店は甘味もありますので、次はどうぞ」
マスターはゆったりとカウンターに戻っていく。メニューすらも机上の紙切れ一枚という小ざっぱりした様子で、豆のリストもない。
リストがあれば味の目安で選ぶこともあるが、ここまで誠さんに気安い相手なのだから、多少頼っても構わないだろう。
コーヒーの豆は分からないが、味は平均的に好きだ。缶コーヒーだってコンビニのコーヒーだって、喫茶店で豆を選んで飲むコーヒーだって好きだ。
屋敷にいた時はずいぶん気を遣ってもらっていたが、これからはあのレベルの一杯を飲みたければ自身で凝るしかない。
「意外。砂糖とミルク入れそうな見た目してんのに」
「それ、どんな見た目ですか」
「紅茶派……ミルクティー飲みそうな?」
ぽつりと落とされた言葉に私が首を傾げると、誠さんは深く考えなくていい、と手を振った。
勝手に席を選んで腰掛け、新聞をテーブルに広げて読み始める。
マスターがすぐにお冷を置かなかった理由が分かった。この人は、いつもこうやってテーブルいっぱいに新聞を広げて読むのだろう。
最初から最後まで目を通し、最後に株価。暇だったので一緒にざっと目を通したのだが、この新聞は屋敷で誰でも読めるように置かれているものだ。朝に全て頭に叩き込んでしまっている。
緋居田の会社のその後も多少取り上げられていたが、利益が出る会社を始めとして売却が進んでいる。大手のグループに少しずつ引き取られているようで、そのうちの一つに須賀家が経営するグループもあった。
挙げられた社名には業績が良くなかった会社が含まれており、申し訳無さに消えて無くなりたかった。あの会社を引き取るのはやめたほうがいい、とは、立場を隠している手前口に出せない。
誠さんは紙面から社名をピックアップし、携帯で何やら調べている様子だ。
「芽能生の業績なんで黒字回復してんの? ここ動きあったっけな……」
更に深く調べようとしたところで、あ、と私は声を上げる。
「あの、芽能生はギリギリの時期にVFっていう不動産会社を子会社化してて、ここの黒字幅がものすごいのでその所為で、芽能生本体は赤字なんです。芽能生だけの赤字幅は実は去年より増えてて」
「はー、よくやるよなあ。見せかけだけのグループ決算。木蔵酒場は?」
「そっちは店舗を潰しての黒です。でも大幅に店舗数を減らしたので、去年の数字までの回復は絶望的かと、……店のコンセプト、飽きられてますしね」
へー、と新聞から顔を上げた誠さんは、じっと私を見ていた。喋ることに夢中になっていた私は、変な事を言っただろうかとその顔を見返す。
悪戯が成功した子どものように、面白いものを見つけた、と顔に書いてある。こっちはどう? とぽんぽん他の話題を振られ、その度に悩みつつ言葉を返した。
「やたら詳しいな」
「大学の専攻がそっちなもので」
大学の専攻がそっちなのは間違ってはいないが、どちらかといえば緋居田での次期社長候補としての教育の影響が大きい。
習慣というのは恐ろしいもので、朝たくさん並んだ新聞を前に普段通りに数紙きっちり目を通してしまうのだ。ついでに、携帯で数社動向をチェックしてしまっている。
ただ、これから先は役に立つことのない知識でも、誠さんの暇つぶしくらいになるのなら喜ばしいことだ。
「朝メシの時近くに来いよ。で、おしゃべりして」
「お手伝いさんは足りてますよ。私は掃除の手伝いの時間で……」
「そうだ。朝食の満足の為に鵜来に我儘を言おう。配膳に回させよう」
「私は、……ええと、そう食器! 食器を落としますよ」
「俺が拾うからいいよ。割れたら小遣いから出すから落とせ落とせ」
食事の配膳順を間違えるから、とか慣れていないから、とか上手く運べないから、と言っても誠さんは頑として聞かない。
朝の潤いが欲しい、知識欲満たしてくれるおしゃべり相手が欲しい、とその場で執事の鵜来さんに連絡し、ちゃっかり配膳係がひとり増えることになった。
朝のぼっちゃまの機嫌がすこぶるよくなった、とは三嶌さんの言である。
人生のターニングポイントが来てしまったのは、有給休暇付与のお知らせ、なるものを三嶌さんから受け取り、そろそろ休んだら? と言われて首を横に振った時期のことだった。
旦那様も圭次さんも誠さんも、ご家族の皆様は健やかで、変わった事といえば野菜の皮むきだとか軽い剪定、蔵書の管理が仕事として増え、誠さんとの朝食談義に旦那様が参戦し始めたくらいのものだ。
「なんで本人は気づいてないかな」
「なんで誠さんは気づくんですか」
唐突に屋敷を歩いていると首根っこを引っ掴まれ、何で発情期が近いのに歩きまわってんだてめえ、と凄まれた。
私にとっては青天の霹靂で、自覚が無いです、と伝えても誠さんは引かずに屋敷関係に手回しを済ませてしまい、私の一週間の休みがもぎ取られた。
誠さんが言うには圭次さんが篭もる前と同じような匂いがするからほぼ確実、とのことで、外れたら普通に休めよ、と荷造りをさせられた。
誠さんが会社所有にしている別荘があるらしい。過去にも一人で集中したい仕事がある時にはそこに篭っていたようで、その場所に私を案内してくれるそうだ。
「……今、私の前にいるのは大丈夫なんですか」
まだちょっと時間あるだろうし、とぐっと親指を上げた誠さんはリュックを受け取り、連れ立って歩き始める。
「発情期って辛いんでしょうか?」
「らしいよ。相手がいないほうが精神的に辛いらしいから、頑張れよ」
「相手がいるほうが、体力を無くしそうですけどね」
なんとなくふんわりとぼかして話をしているが、アルファとオメガの間で繰り広げられる話題にしてはビターな話でもある。
だが、その微妙さに口に出してから気づいたものだから、視線も合わせられず、絨毯の床を伝うばかりだ。
「それよりも、欲しいのに与えられないっていうほうが、辛いってことなんだろうな」
一人で生来の衝動に耐え切るのは辛い。誰かが隣にいて与えてくれば抑えられるのに、例えば、こうやってずっと隣で気遣ってくれる人のような、誰かがいればいいのに。ふと思って、言葉が零れた。
「……ああ、そう考えると、発情期のために相手をしてくれる人を捕まえておくっていうオメガも、責められるべきではないのかもしれませんね」
先日見た週刊誌で、遊び人のアルファの間をふらふらするようなオメガの人たちを取り上げていた。それを見た私はなんとなく、咎めたくなるような気持ちになった。
ただ、私は発情期を知らない。
焼けつくような渇きや飢えを知らないような人間に、彼らに感情を抱く権利はない。
ぴた、と歩を止めた誠さんは私の言わんとする所をその頭の良さで把握してしまったのか、苦虫を噛み潰したような絶妙な表情をした。
がし、と私の肩を掴み、やめろ、と地の底から這うような重い声が言い聞かせるように耳に届く。
「あ、えと。例え話というか、そういう選択肢もあるんだなって……週刊誌でそういう記事、読んだもので」
「お前が隣に番もいないのにでかい腹抱える未来なんて考えたくもないんだよ。例え話でも好きじゃない」
誠さんは私がそんな風にならないようにセキュリティもしっかりして、誰にも会わずに済む場所に案内してくれようとしているのに、確かに私は誠さんに対して失礼な言葉を吐いた。
ごめんなさい、と言うと謝ることじゃない、とぽつりと呟かれ、無言で玄関まで歩いた。隣で並んでいながら、視線の先に居るような距離を感じる。
言ってはいけない言葉を発してしまったことに、心の中で謝罪を繰り返しながら、更に距離を取った。
誠さんが私用で使う車の助手席に誘導される。
朝食を例のカフェで取る頻度はなかなか多く、付き合わされる……というよりも美味しいコーヒーを奢ってもらう時には、この車で出掛けることが多い。
車内ではぽつぽつと世間話を広げ、笑いもしたが、先ほどの言葉が胸に重く残ってしまって心から笑うことはできなかった。
目的地に到着し、車を降りる。
自宅からは一時間ほど離れた別荘は、新築の一軒家に見えた。休暇を過ごすには十分だ。家電や家具も一通り揃っているが、使用する頻度が低いのだろうこちらも真新しかった。
鍵をしっかりかけてしまえば、誰にも会う余地はない。
途中で買い求めた食料を冷蔵庫に詰めてしまい、部屋を一通り見回す。発情期さえなければ本当に休暇のように過ごせそうな空間だった。
「……こんなもんか。他に質問とかはないか?」
「だ、いじょうぶ、です。こんな綺麗な所に、ありがとうございます」
「ああ。まあ社長用に空けときますって、他の人間を入れてないみたいだからな。少しでも気が晴れるなら良かった」
頭をくしゃりと撫でられると、気恥ずかしく思うと同時に罪悪感がむくむくと頭を擡げる。何かを言おうと思うのに、何を告げていいのか纏まらない。
「誰も入れるんじゃないぞ。お前がちょーっと誘おうもんなら、くらっとくるような馬鹿も世の中にはいるんだから」
「……あ、はい。ちゃんと、守ります。ごめんなさい、発情期、他の人より遅くて、不安で変な事言いました」
すみませんでした、と消え入りそうな声で重ねると、誠さんは腕を下ろして唇を引き結んだ。
「適当なアルファとかベータを捕まえることをどうこう言えないのは分かってるんだ。それほど衝動がきつい奴もいる。相手がいればハードなセックスで済むんだから、それでいいっていう意見だってあってもいい」
でも、と誠さんはさっきと同じ表情をする。苦しくて、悔しくて、耐え難いとでも言うような、珍しい表情をする。
「でも、俺はお前にそれを言ってほしくなかった。真面目だし、一生懸命で。できれば、お前には相手が一人で、長く付き合うような恋愛をしてほしいって、考えを押し付けたくなってしまった」
勝手な話だよな、ごめんな、と誠さんは苦笑するのだが、私はかぶりを振ってまたごめんなさい、と繰り返した。
私に対して平穏に生きてほしいのだという言葉を、変な話だとは思わなかった。
たかが数ヶ月世話になった人で、連れ回されて、支えられてきた人で、すとん、と何かに落ちたのはこの時だ。じわりと視界が滲んで、なんでこんな時に気づいてしまうんだろうと嘆息する。
「不安で、心細くて、ここには、誰もいない。誠さん、も、いなくなって……」
「一緒にいて欲しいみたいに聞こえる」
「一緒にいて、ほし、い……? かもしれないです」
「お兄さんアルファなんだけど、知ってる?」
知ってます、と返すと、ふわっと目元を隠された。ぱちぱち、と目を瞬かせる。
「知ってます、けど。深く考えてなかった。……え、これベッドへのお誘いみたいなニュアンスになるんですか?」
「うん。なっちゃいますよ」
「……どうしよう。うっかりでした」
本気で悩み込んでしまった私に、誠さんは口元を押さえて笑った。
恋に落ちた瞬間にベッドに誘ってしまった。とんだ恋愛初心者だ。
「初めてにさほど拘りがないんなら、発情期を一緒に過ごしてみる? ハードなセックスで済ますから」
相手が一人で、長い恋愛をして欲しいと言ったのは誰だ、どの口だ。私は心の中で突っ込みながら、ふるふると首を振る。
彼の言葉をどれだけ飲み込んだのか、試されているのが分かったからだ。
「がまん、します。一人の発情期がどんなものか、私は一度知っておきたい。耐えられなくなったら相談します」
「そっか。振られた」
振ってはいないんですが、と言うと、冗談だよ、と柔らかく返答される。彼の望む答えを返したのだとほっと胸を撫で下ろし、力が抜けてぽすんとソファに腰掛けた。
「もし大量に抑制剤を使うくらい酷くなったなら、貞操と副作用を天秤に掛けて」
「…………その心は」
「俺をフェロモンで落として。そしたら症状を抑えてやれる」
「…………それは、誠さんに悪いです」
「悪いのはお前にだよ。そんなことにでもなったらうっかり結婚して一生うちの屋敷で暮らしてうっかり俺と墓の中だぞ、人生終わりだな」
けらけらと笑う誠さんだが、その言葉は垂らされた蜜のように甘かった。
「……ええと、次回以降の課題とさせてください」
「おう、検討してくれたまえよ」
誠さんは私に鍵を渡して、オートロックらしいその別荘を出て行く。
私はそれを見送って、息を吐いた。
そんなことにでもなればきっと幸せなのだろうが、私は『朝背深代』ではなく『緋居田深代』なのである。破産した緋居田、会社の取引先、父親が生んだ負債は未だに思い出されたように報道される。
そんな『緋居田』の人間は『須賀』に関わらないほうがいいのは分かりきっている。うっかり墓の中にでも一緒に入ってしまいたい、なんて身の程知らずもいいところだった。
いつか、どころかすでに離れたほうが『須賀』のためにはいい状況で、それを含めて隣にいたいなど、言えるはずもなかった。
発情期はおそらく平均的に辛く、平均的に発散して、平均的な期間で終わった。
シーツに爪を立て、赤くなるまで自身を擦り上げて、獣のように息をしながらひたすら眠るよう努めた。
副作用の少ない抑制剤に頼っても良かったのだが、誠さんがああ言ってそれに頼らなかった手前、薬に頼ることも憚られた。
ふらふらになりながら別荘を出た私を、誠さんは寝かせたまま屋敷に連れ帰ってくれた。休みの最後の日は、解放された安堵からか、撫でられる手のひらと共に一日中眠り続けた。
須賀の家のお手伝いさん達は、普段はぴしりとしているのに、オフな場所では朗らかな方が多い。
今日も近くに鵜来さんがいないことが分かると、手のひらを口元に添えて内緒話よろしく顔を寄せてくる。
「深代くん、最近変な人が屋敷の周りをウロついてる、ってこのあたりに通達が流れたの。買い出しとかで出歩くことが多いんでしょう、気を付けてね」
「そうねえ。深代くん私みたいに人投げられないし」
その割には、普通に業務中に話してもいいような内容だった。内緒話をしているような気分が大事なのかもしれない。
見知った二人は両側からやいのやいのと言い募り、気を付けてね! と言ってモップを走らせていった。はーい、と頷き、花瓶を抱えて水場へと向かう。
このあたりは屋敷が集まっている区画のため、警備の人数もまた多い。大事にはならないのは分かっているが、近距離の移動でも車で出歩くよう気をつけたほうがいいのだろう。
外の水場に花瓶を置き、水を注いでいると、使用人用の門のあたりが騒がしい。
蛇口を捻り、水を止めた。
警備員が対応しているのは分かっているが、手元の携帯を握り直した。何かあれば教えられていた警備会社に連絡を、と門に近寄る。
辛うじてスーツ姿、だが、明らかに柄の悪い男たちが警備員と言い合いをしていた。
男たちは私に視線を向けると、警備員を振り切って突っ切ろうと力を込めたようだ。怒声が飛ぶ。
「緋居田の息子だな。あんたに用がある!」
身が竦んだ。その男は朝背ではなく緋居田と呼び、その呼び名は私を示す。
私には、その男たちが父親の関係者で、此処まで辿り着いてしまったことを悟った。どうしよう、どうしよう、と思っている間に男たちは目の前で門を叩く。
荒い口調。非があるとすれば借金を負ったこちらである。それらの要素が、その場に足を留まらせた。
「……深代。門から外には出るな」
広い背が割り込むのが、閉じようとした瞼の隙間から見えた。
「そいつを寄越せ! 借金の話があんだよ!」
「ある訳ねえだろそんなもん! コーヒーくらいで喜ぶ苦学生が、自分のために借金なんかするもんかよ!」
唇が震えて、言葉にならない声を漏らす。
誠さんは男を、じ、と睨み据えた。
上背もあり、スーツ姿の誠さんが目を細めると、思わず後退りたくなるような迫力を孕む。
「そいつの親父の借金が……」
「返す必要が、『こいつには』ないって言ってる。こんな輩にまで回ったのかよ」
警備員は屋敷に侵入しようとする男を拘束する。
もう一人、と視線を向けると、その門にいたもう一人も正門から駆けつけた警備員によって捕らえられていた。
「手子摺っているようだから、正門からこちらへ来て貰った。深代くんは無事らしいな」
はは、と笑顔で歩いてくるのはこの屋敷のトップである旦那様……誠さんのお父様で、圭次さんの番であるその人だった。
「誠の不手際だな。債権の流れた先は全部、洗うよう言っただろうが」
「失礼いたしましたお父様! ちくしょう一週間くらい詰めて事務仕事したのに!」
ああ、と誠さんは頭を抱える。
こちらを振り返り、無事か、と問われる。こくんと頷くと抱き寄せられた。
身体に傷はないか検分され、何事もないことが分かると更にぎゅっと抱き締められる。普段よりも息が荒く、行動の前に思考が伴っていないように窺えた。
「ごめん。今度はもっとちゃんと洗い直すからな、もう大方、終わってるんだ。細かい金額だけが微妙に出回ってるっぽくて……」
「借金、て、お父さんの、いえ。……緋居田の……ですよね?」
半ば確信を持って問うと、誠さんは頷き返した。
「なんでそれを、誠さんが洗うとか、処理するってことになってて……。私は、緋居田だってことも黙っていたはずでは?」
「……いや、それはー。その」
微妙な表情をして頬を掻く誠さんの頭を、ばし、と背後から旦那様が叩いた。
「何すんだよ」
「超好みだったから下心から力になりたかったんですって言ったら?」
「煩い黙ってパーパ」
「パパも可愛い息子が欲しいから、会社吸収していろいろ引き受けたり従業員を引き抜いたり会社の引き取り先を探したり大変だったんだけどなー。可愛くないほうの息子は全く感謝もしやがらねえし有難みがないなー」
「親父が回収する会社って旨味がある会社しかなかったし見込み悪い会社はこっちに押し付けただ……やめろ! くすぐるんじゃねえよ子どもか!」
じゃれ合っているようにも見える旦那様と誠さんは、同年代の旧友のようだ。父親と息子にしては随分と気安い二人を、私はきょとんと見守った。
じわじわと二人の言葉が身体に染み込んでくると、私は身体から力が抜けていくような感覚に襲われた。
「私が緋居田の人間だって知って、それで、会社を引き取っていただいて……? すみません……詳しく教えてください。私は、誠さんに親切にしていただく謂れはありません」
ぶるぶると指先が震える。ずっと黙っているつもりだったのに、もう誠さんには知られてしまっていた。
怒っているだろうか、蔑まれるだろうか。旦那様にも、圭次さんにも知られてしまっているのだろう。
最初から何も言わずに緋居田のことを黙って母の姓で勤めてしまって、せっかく色々と便宜を図っていただいたのに、裏切るような真似をしてしまった。
「なあ誠、この子あんまり自己評価高くない感じか?」
「かっこいいパパの番と似たようなもん」
「成程」
はは、とかっこいい屋敷の旦那様は私の頭を撫でる。
「違う。怒っているわけじゃないぞ、深代くん」
その手のひらは大きくて、もっと撫でて欲しいという感情を飲み込んだ。社長をしていた父は忙しくて、教育は母に任されていた。
須賀の家では、全員が揃う朝食の席を全員が大事にしている。その姿勢を私は眩しく見たものだ。
家族の輪の片隅に少し置かせていただく瞬間は、金平糖でも与えられたかのようだった。
「あ、大丈夫だったか? 武器になりそうなもんを探してたら遅くなって………」
ぱたぱたと居間に飾られていたらしい観賞用の槍を持って現れた圭次さんに、旦那様は目を剥く。溜息とともに圭次さんの腕から槍を取り上げ、もう終わったから大丈夫だ、と背を叩いた。
そっか、と首を傾げた圭次さんは、普段通り、おかえり、と旦那様にしがみついた。
モップを武器に参戦しようとしていたお手伝いさんたちも、鵜来さんが解散、と元の業務に戻るよう指示している。
「やっぱり深代くん、護身術習わせた方がいいんじゃないかしら?」
「使用人用の門とはいえ、深代くんが使うなら、しばらくこちらの警備も増やした方がいいわね」
無事でよかった、と普段の業務に戻っていくお手伝いさん達は、腕に覚えがあるらしい。私に声を掛けて去って行くものの、面倒ごとを引き込んだ私を咎めるような言葉はひとつもなかった。
「深代。ちょっと話する時間をくれ、鵜来。すまん、こいつをしばらく借りる」
「かしこまりました」
執事の鵜来さんが頭を下げ、私は掴まれた腕に目を白黒させる。
そのまま誠さんの自室まで腕を引いていかれた。
お互いにアルファとオメガで、誠さんの自室は掃除以外では訪ねることはなかった。部屋に入る手前で、あ、と誠さんは声を上げる。
「俺の部屋で話そうと思うが誓って何もしない、が、ええと、他で聞かれたくない話をしたいんだ。何かあったら叫べば届くと……」
「いえ、大丈夫です」
何かしたければ、発情期の時にした筈だ。誠さんならもっといい相手を選べる。
私は部屋の扉を引き、自分から身を滑り込ませた。
机だけに乱雑に本が広がっている部屋は、誠さんの性格通り、使用人が掃除する必要もなく整っている。
誠さんは私の背を追うように部屋に入ると、私の手を再度取った。
「朝背……いや緋居田の話は、深代が勤め始める時に親父から聞いて知った。元々、再生の計画はあったようだが、もっといい形はあるか、と親父と洗ってみたら、他のグループ企業や、須賀の体力の下ならもっと利益が出せる会社も多かった。いくらか売却のような形で引き取らせてもらうことになっている」
きっと、それらを言い出したのは須賀からだったのだろう。浮いた涙は安堵からだった。自然と社員の中には顔見知りも多くいた。安定した働き先があるのは有り難いことだった。
「あとは、深代の親父さん個人の借金を片付けるのを手伝っていただけだ。全てが綺麗に片付くまで会う気はないと言っていたが、深代が元気にしているかは、話す度に気にしていた」
その中で、取り残した借金分が先ほど会った人物たちの所に行ってしまった、とのことだった。
すみません、と細い声で何度も謝罪する私の頭を、誠さんはひたすら撫でた。
「俺ももう少し片付いたら言おう、と思ってたんだが、親父があっさりばらすしな」
頭を撫でていた腕が腰に回る。先程と同じように深く抱き込まれ、ぽんぽんと背がやさしく叩かれる。
「……なんで、こんなにたくさん助けてくれたんですか?」
「付き合ってって言っても、緋居田を理由に断られそうだから」
え? と私が問い返すと、誠さんは苦笑していた。
「深代を見たときは、誰かが寄り添わないと崩れそうだと心配したもんだけど、働かせてみると全然そんなことはないし、発情期は振られるし。口説きたいなーと思ったけど、口説いたところで家の事情を理由に、応じてもらえることはなさそうだな、って思ってさ」
ぎゅ、と抱き締める力が強まった。
「じゃあまず会社が上手くいって、借金どうこうが片付いて、その上で口説こうと思った。でも、親父はさらっとばらすし、屋敷の人間には色々言われるし……もう、潮時か」
少し身体を離して、頬に手が伸ばされる。
「……深代を好きになった。いろいろとごたごたが片付いたら、落ち着いて将来の伴侶のことを考える余裕ができたら、俺を候補に入れて欲しい」
すっと身体から腕が解かれる。
途端に体温が離れていくことに、寂しさを覚えた。思わず手を伸ばして、その身体に縋り付く。
誠さんには目を丸くしているかもしれない。
「あ、の……」
絶対に、こんな人間が誠さんの近くに居ない方が良いのだと分かっている。誠さんのことを思うのなら、離れるべきだと分かっている。
でも、誠さんと一緒に、父親がかつて持っていた会社をこれから維持することができるのなら、そんな未来を夢想してもいいのなら、私はずっとそうしたかった筈だ。
「好きです、誠さん。でも、お付き合いは、できないです」
フェロモンで誘ったりしない。発情期になったら逃げる。会社のことは、できることはする。だから、想うことは許してほしい。
ぐすぐすと頬を濡らしながら告げると、予想はしてたけど、と情けない声が頭上から響いた。
「……深代、俺が抱きしめたらどうする?」
「嬉しい、と思います」
「キスは?」
「恥ずかしい、です、けど」
「……付き合ってほしいと言ったら?」
「それは、良くないと思います」
言い切った私に、誠さんは半眼で頭を抱えた。座りますか? とソファへ導くと、素直に手を引かれる。
誠さんが腰掛けるのを待って、私も隣に座った。
「まあ、予想してた通りだけど……。言われてみると、ダメージでかいな。嫌われてないだけ十分か」
「あ、の、誠さんが求めるものは、全部応えたいです。けど、私とは、お付き合いはしないほうがいいです。もっといい方が……」
「深代、俺が番になってくれって言っても頷かないな?」
「はい。それは良くありません。私は緋居田の社長の息子です。誠さんがどう言われるか分からない」
誠さんはしばし私の言葉を反芻していたが、やっぱり肩を落とした。
ぐるぐると視線が泳ぐ。組まれた指先は浮いては落ちた。最後に、重たい息が漏れる。
「他のアルファと付き合わないでくれるか?」
「はい。お付き合いをしたことは、ないですが」
「前回みたいにやつれた姿は見たくない。俺と、発情期を過ごしてもくれる?」
「喜んで」
「デートに付き合ってほしい。プレゼントなんかも受け取って欲しい。そういうこともしてくれるか?」
「私も、誠さんにプレゼント、渡したいです」
誠さんは少し笑った。
「歳を重ねて、俺が番に困ったら。貰ってくれ」
「そうですね。そういうのなら、……いいかもしれません」
少し歳を重ねた誠さんが誰も見つからない、なんて言ってくれたら、私は喜んで誠さんの番になる。
偶然、誠さんの番が見つからなくて困るだとか、そういうほんの少しの楽しみを待つのもいいだろう。
なんだか恋人めいた約束を、ソファの上で身を擦り寄せながらお互いに言い合う。
「指輪を贈ってもいいか? 深代も面倒がなくていいだろう、と思うんだが」
他のアルファと付き合わない、ということについてなら、あってもいいな、と私は頷く。恋人がいると嘯けるのに、越したことはない。
「でも、私、指輪を買うお金は……」
「年上に、いい格好をさせてくれ」
誠さんがそういうものだと言うので、私はよく分からないながら承諾した。
数日後に渡された指輪は誂えたようにぴったりで、その銀色の輝きに、私はしばし見惚れた。
二度目の人生のターニングポイント、というのか、その日が来るまでは目まぐるしかった。
指輪と、なんとなく変わった距離感に慌てている間に、私と誠さんの距離が変わってしまったことは周囲に伝わったようだった。
私は改めて旦那様と圭次さんに頭を下げたが、誠さん同様、私を責めることはなかった。逆に黙っていたことを謝られた。
誠さんにぼんやり顔だと称される圭次さんは、私がオメガであることも、緋居田のことも知っていたらしい。使用人の素性くらいは事前に調べるものだし、使用人の最終的な採用の決定権は圭次さんに任されている。
旦那様は私を迎え入れることに迷いがあったようだが、その背中を押してくれたのはやっぱり圭次さんだった。
全て知っていたということは、自然に私を受け入れるよう振る舞っていたということだ。私がオメガだということも、もちろん元々知っていて、黙っていたのだ。
家族の中ではぼんやりしている、圭次さんもまた須賀の一員だと、私はその時知った。私は呆然と『たぬき……』と呟いてしまい、旦那様は私の様子を笑っていた。
家族の中ではそんな旦那様だけが誠さんと私の微妙な関係について不満げで、事あるごとに誠さんに突っかかっては小突き返されているらしい。
「なんで! 本人は気づいてないかな!」
「本当に、なんで誠さんは気づくんでしょうね……?」
顔が赤いとか? と頬に手を当てていると首根っこを引っ掴まれた。
いつも気にしてるからだよ! と好意を隠そうともしない誠さんは、避難させるから、と私に荷造りするように促した。
私は部屋に戻り、まず服を着替えて荷造りを始める。前回も同じことをしたため、作業は慣れたものだった。
荷物を抱え上げようとしたところで、扉がノックされた。続いて誠さんの声が響く。慌ててリュックを背負い、扉を開けた。
普段着姿の誠さんは、肩にボストンバッグを掛けていた。行くぞ、と軽く声を掛けられ、腰に手が回る。
「誠さんも、大荷物ですね……?」
ぴたり、と誠さんは歩を止めた。
「前回行った別荘に、送っていこうかと思ってるんだが……」
「はい、助かります」
「……ちょうど、来週まで休みにしててさ」
嘘だろうな、と反射的に思う。
普段から誠さんのスケジュールが埋まっているのなんて分かりきっていて、そんな中で休みだというのなら、きっと、私のためだ。
「俺は、ちょうど、アルファだから。……発情期、アルファが要るなら、と」
私が首を振れば、誠さんの休みはすぐに取り消しになるのだろう。誠さんの宙に浮いた左手を、軽く握る。
「一緒に過ごすなら、誠さんがいいです。お休みを、分けてください」
伝わったかな、と覗き込んだ目元は赤くなっていて、つられて私も緊張した。
「……こういうのは良くない、って、叱るべきなんだろうな」
「は、はい……?」
「俺は悪い大人だ」
しょんぼりとして歩き出そうとしない誠さんに、行きましょう、と手を引く。
そわそわと廊下を歩いて車に乗り、移動する間は世間話にもいちいち詰まった。誠さんの運転はいつも通り落ち着いたものだったが、言葉を発するまで時間が掛かる。
車内には多くの空白が満ちていた。横から飲み物を差し出して返ってくる感謝の声も、間が空いた。
私は誠さんばかりを見ていたような気がする。
別荘に着き、誠さんが空気を入れ替えている間に、私は買い出してきた食べ物を簡易キッチンに積み上げた。
手の掛かる食べ物はほとんどなく、パッケージを開けるだけで食べられるようなものが多くあった。
前回の発情期はほとんど物が食べられず、少し痩せてしまった。今回は、前回ほど酷くはならないだろう。誠さんが熱を発散させてくれるなら、楽に過ごせそうな気がした。
解放が遠く、いつまで耐えれば終わるのか、とひとり唇を噛んだあの時間のようにはならない。言葉を投げれば、返る声があるはずだった。
飲み物を冷蔵庫にしまい込むと、私の仕事は終わった。もうすぐ終わりそうな誠さんを待つことに決め、ソファに浅く腰掛ける。
「深代、そろそろ風呂が溜まり始めるから、入っておくか?」
「はい!」
「一緒に入る?」
「はい! ……え? い。いいえ」
誠さんは悪戯っこの顔で、私にタオルとバスローブを押し付けた。違う、間違えました、と言って渡された物を握りしめる。
「まあ、無理強いはしないけどな。一番風呂どうぞ」
「ありがとうございます……」
私は手元のバスローブに視線をやる。
「……着替えがいらないようなこと、するつもりですか」
「優しくできるうちに身体のこと、知っておいたほうがいいだろ?」
私は返す言葉もなく、ややあって頷くことになった。
私のフェロモンが強まれば、誠さんもつられて発情期に入る。理性を失ったアルファを私は知らないが、誠さんが手加減してくれるうちに身体を重ねておいたほうが、きっと楽なはずだ。
私が納得したのを察したのか、腰を抱かれてバスルームに導かれる。廊下の途中で、そうだ、と思い出したように立ち止まった。
「深代、キスはいいんだっけ?」
「はい、嬉しいで……」
答えを待つことなく、下唇に齧り付かれた。心臓が竦み上がる。ぎゅっと目を閉じ、支える手に身体を委ねる。
柔らかいものは、角度を変えて私の唇に触れた。
「……うれしい、です」
そう言うのが精一杯だった。
こつり、と額を胸元に押しつけると、誠さんは安心したように唇を緩めた。褒められる時のように背が撫でられる。
廊下を歩き出しても、私の心はぐるぐるしたままで、手を引かれなければ歩き出せはしなかった。
ごゆっくり、と脱衣所で誠さんはひらりと手を振った。
もぞもぞと服を脱いで、風呂場に入った。浴室は少し暖められていて、湯船をきれいな湯が満たしていた。
ぼうっと身体を洗いながら、唇の感触を反芻する。恋人でもないのにキスまで貰ってしまって良かったのだろうか。
私は泡に塗れながら、指先まで丁寧に汚れを洗い落とした。
湯に浸かり、足を伸ばす。誠さんらしいな、と思った。最後まで、考える時間を与えられているのだと感じる。
風呂から出て、帰ってほしい、と言えば誠さんは言われた通りにするのだろう。誠さん自身の望みではなく、私の望みを叶えようとするだろう。
こんなに長いお休みは、会社を抱える誠さんの立場ならきっと大変なはずだ。性欲の発散を理由に取る長さの休みではない。
「私も、何も考えてない訳じゃ、ないんだけどなぁ……」
風呂から抜け出して、バスタオルを被る。ざっと水分を拭って、渡されたバスローブを纏って、リビングでソファに腰掛けている誠さんの元に戻る。
髪を濡らしたまま、後ろから誠さんの胸元に腕を回した。誠さんは手に持っていた雑誌を置き、こちらに視線を向ける。
「こら、冷たいだろ。若干濡れたし」
「お風呂、温かかったですよ。はやく浸かってください」
私が促すと、誠さんは少し目を見開いて、そうするか、と部屋を出て行った。私は一仕事やりきったような心地で、誠さんの代わりにソファに腰掛けた。
髪は乾かさなかった。着替えがてら風呂に入るしかないほど、濡らしてやった。帰るつもりなんて更々なかった。
誠さんが置いていった雑誌をぱらぱらと捲る。折り曲げられた箇所は、年若い社長のインタビュー記事だった。
誠さんとは違った、人懐っこそうな、それでいて行動力のある社長の記事を、何ともなしに流し読む。
旦那様や誠さんを見ていて、自身の適性を考えるとき、私の適性は社長には無かったように感じることが多くなった。オメガどうこうよりも前に、単純に誰かを支える仕事が好きな、気質の問題のように思う。
そういう仕事を目指すのもいいのかもしれないな、とつらつらと雑誌を目で追いながら考え込んだ。
「たーだいま」
「わ!」
背後から抱きつかれた私は立ち上がって、屈んだ誠さんの頭をわしわしと拭った。嬉しそうに受け入れている姿も、髪を濡らした無防備な姿も珍しい。
普段スーツ姿を見慣れている誠さんが年齢相応に見える、と言えば、すこし不機嫌になりそうだ。
私が手を止めると、誠さんはテーブルの上の飲料水のペットボトルを拾い上げる。
「ゴムとかは寝室に置いておいたから」
「は!?」
「……そういう反応だよな。ほら飲み物、キッチンから寝室は遠いからさ」
私にペットボトルを持たせ、誠さんは私の背を押して寝室に向ける。さっきまでぐるぐるしていたはずなのに、誠さんがいつも通りで肩の力が抜けた。
寝室の扉をそろりと開く。
明かりが点いたままの部屋に身を滑り込ませ、握っていたペットボトルをベッド脇のチェストに置いた。
そのままそっとベッドに腰を下ろす。誠さんはリモコンで室温を調整すると、私の横に座った。
「番でも恋人でもないのに、ごめんな」
頬に手が伸ばされる。小さな懺悔の言葉が耳を打った。
恋人にも番にもならないという私の選択はこういうことなのだ、と、何よりもその言葉が正確に伝えていた。
「私こそ。番でも恋人でもないのに、発情期に付き合わせてしまって……」
もし、会社も家も破綻することなく順調で、普通に出会って、好きになったら、私は今この瞬間からこのひとの番だったのだ。
「いや、俺が悪い大人なだけだよ。お前のフェロモンが他のアルファに見つからないうちに、閉じ込めて、繋がってしまおうな」
顔が傾くのに合わせて瞳を閉じる。啄むような軽いキスをしつつ、身を擦り合わせた。
誠さんの指がバスローブの紐に掛かる。くい、と引かれ、唇を引き結んで結び目を解いた。
肩に引っ掛かっていたそれが太い指先によって落ち、腰のあたりに広がる。
「抱けそうですか?」
無言になった誠さんの手の甲に、指を添える。じっと私の、特に胸元に視線を落としている顔は、こくりと頷きを返した。
齧り付くように顔が寄せられ、首筋を、胸元を唇が伝う。胸に這った指先は、湯に浸かって鮮やかになった尖りを押し潰した。
「据え膳。あんまり自分では分かってないかもしれないけど。お前、フェロモンで俺を落としに掛かってるぞ」
「ひ……! うそ、そんなつもりは……」
ない、と言う言葉を飲み込むように唇を奪われ、そのまま誘導されて身体を倒す。
シーツの感触が、頭の下で主張した。胸元を弄る指先は止まることはなく、意地悪なその所業につい言葉を漏らす。
「ねちっこい……!」
私の言葉に、誠さんはにこりと笑った。笑ったのだが、その笑顔は仕事の電話を受けた時、たまに浮かべる表情と酷似していた。
今なら表情の意味がわかる、これは誠さんの気に障った時の顔だったのだ。
「そうだなあ? ねちっこいのが嫌なら、さっさと食っちまうか」
ひい、と震え上がる私の乳首を、窘めるような指先が摘まみ上げる。ひくん、と息を呑み、身体を縮めた。
置いたペットボトルの奥に目をやる。
見ないようにしていた場所には、チューブ入りのクリームと、コンドームの箱が置かれていた。
逃がしてくれる気がなくなったらしい誠さんは、チューブを手に取る。口元は微笑んでいるのに、目が笑っていない。
「ほら、足開いて」
「……誠さん、あの」
じと、と視線を向けられ、押し引きで私が負けた。おずおずと足を開く。
はしたない体勢に頬が上気するが、誠さんはそんな私に構う様子も無くキャップを開け、手のひらにクリームを伸ばす。
指が尻を辿り、あわいに滑り込む。
「ふ、うぁ……」
ぬめりを借りてずるりと滑り込んだ指先は太く、異物感が強い。思い切りシーツを掴んだのを見られたのか、もう片方の手は私自身を覆った。
ぬるぬるとしたものが、屹立の裏を滑る。知った快感につられ、気持ちよくなっている間に、後ろが弄られた。
深いストロークで後腔が拡げられ、僅かに快楽を拾える箇所に指が届く。
「ねちっこいか? ん?」
「……ぁう。ん、ぁ、あ、ごめ、なさ……!」
「慣れてないんだろうし、ちょっとでも身体に負担がないようにしてんだぞ」
「言い過ぎ、だ、で、でも、いっぱい、擦られるの……むずむず、して。うあ……!」
くちくちと溶けたクリームが音を立てる。前も後ろも器用に高められ、指先が白い波の上を掻いた。
私が声を上げる箇所を探り、押し上げ、声が上がると撫で擦られる。
「そっか、気持ちいい、か?」
「ん。発情期、なのに、辛くない。じわじわするとこ、ぜんぶ、誠さん……触ってくれるか……ぁあ、あっ、あっ!」
もどかしさの波が時が経つにつれ強くなっても、そのもどかしさに触れてくれる。ふ、ぐ、と声を漏らして唇を噛みしめた。
「まこと、さん、もしたい。さわりた……ん、あッ、ひん!」
「うん。後で、たくさん触ってくれよ」
ちゅ、と額に口付けられる。後ろを弄る指はいつの間にか増え、くぱりと蕩けたか指先を開いて確かめられた。
ぬるついた肉輪は、雄を求めるようにひくつく。
「まこと、さん」
「ん?」
「いやらしい、こと、しましょ」
更に足を開いてみせる。
笑ったつもりだったが、笑えているのかどうか分からなかった。額には汗が浮いていて、力は入らずに、大事な部分は他人の手の中にある。
誠さんがバスローブを滑り落とした。がさりと伸ばした手の中に小さな包みがある。
「ゴム、しちゃう、の?」
は? という声と共に包みが取り落とされる。ぼんやりと、考えもなく口に出したそれは、本能故のものだったのだろうか。
はあ、と誠さんは息を吐き、コンドームの包みを拾い上げた。
「『うっかり結婚して一生うちの屋敷で暮らして』……何だっけ『うっかり俺と墓の中だぞ』?」
「それ、……なんか、嬉しいことしか、ないなあって……思いました、よ」
ふふ、と力なく笑うと、誠さんはくしゃくしゃと頭を撫でてくれる。
「そっか。俺も、その未来は見てみたいもんだな」
パッケージが開かれ、器用に中身が誠さんの雄を覆う。
足が持ち上げられ、身体を引き寄せられる。尻たぶを掠めたそれは、硬く張り詰めていた。
「……けち」
「気持ち良くてぐずぐずになったら、付けるの忘れちまうかもな」
「そういうこと、言うと、ぐずぐずにしますからね」
解れた場所に亀頭が押し当てられる。
ぐっと力が込められ、綻んだ部分が更に押し拡げられてゆく。
「あ、あ、うあ、……、ひ」
指先で解れたと思っていたのに、押し入ってくる肉棒は硬く大きい。ぬめりが足されていて尚、経験のない身体には凶器だった。
腕を持ち上げて、背中に縋り付く。
「も、おっきく、しな」
「力入りすぎ。だいじょうぶ、だ、食い締めんな」
どうしても、ちからが入る、とぐずぐずと泣きを入れる。
さっきから半泣きで受け入れていても、止める様子なんてないのだから、半分は誠さんが悪いのだ。
体勢を変えても、宥めるように撫でてくれても、それでもこのアルファに引く様子はない。小刻みに揺らされるたびに、着実に身体が繋がっていく。
誠さんの掌が私の腹を撫でる。
ちらりと視線をやると、赤黒いものは腹に埋まってしまって、視界に入らなかった。ふ、と息を吐く。
「動くぞ」
ひえ、と声が漏れた。勢いよくずるりと引き抜かれたそれが、ばつん、と一突きする。
「まって。あ、あ、あぁ、……あっ……!」
「あー。こんなことしてるから、フェロモンの箍外れてんなこれ……、悪い。もう」
揺れる足は捉えられ、腰が叩きつけられる。身を引くたび、追いかけては突かれるのだから堪ったものではない。
身体が逃れようとする度に、指先に力を込めた。
「ひ、う。ねちっこい、し……、ながい!」
「見てろ。何日で、も、揺さぶってやる」
先ほどより随分余裕はなかったが、またあのにっこりした表情になった。より深く、強く穿たれる。
ぐ、と喉が鳴った。
「あっ、あ、ひン……、あ、ぁう。や、いや」
「っ、あー、や、っ、べえな」
足が宙で揺れる。誠さんの表情は夢中になる子どものようでありながら、僅かな愉悦が行き交っていた。
逃げを打ち、体勢が崩れるたび、動きやすい位置に容赦なく戻される。そうしてはまた穿ち易い位置に固定される。
そうして、あの痺れるような快楽に引き摺り込まれるのだ。
視界が覆われてしまって、天井が狭い。いま私は、かれに身体の全てを預けている。
「ぜっ、たい、誰にも、やらない」
ずん、と強く刺激する箇所を抉られる。茂りが擦れた。
「も、あっ、ぁあああああああ―――っ!」
ぶるりと震えた雄が、欲望を解放した。ぐう、と体重がのし掛かる。背中にしがみついていたかったのに、ずるりと腕が落ちた。
数度、精を最後まで放ちきるべく奥を突かれる。
荒れきった呼吸の合間に、気づけば私もまた腹を汚していた。痺れるような震えに襲われたままの肉壁がごりごりと削られ、質量が引き抜かれる。
「あ、ひ、……うぁ……あ……」
ベッドに張り付くように手足を投げ出し、息を吐いた。入りたての発情期の欲よりも、押し付けられる愛の方が重い。
私は押しやられていた毛布をたぐり寄せ、すん、と洟を啜りながら丸まる。
「あー……深代? 言いづらいんだけど、俺もうちょっと……」
「気持ちいい、ですけど、いっぱい、は、いらな」
「まあまあまあ、そう言わずに」
アルファの力を存分に使って剥ぎ取られた毛布は、部屋の隅に丸めて放り投げられる。じりじりと壁に寄る私を、にこにこと囲い込む誠さんは、普段の調子を取り戻していた。
「大丈夫。今度は体重も減らさせない、気持ちいいだけの発情期にしような」
優しく頭を撫でる誠さんの腕の中は心地よいのに、言葉を素直に受け止められない。
結局、気持ちいいだけの発情期、という言葉は有言実行されたのだが、私は何度も泣きを入れる羽目になった。
私が大学で学び続けている間に、父の借金は減っていった。父のものであった会社は、新しい環境で、それぞれ概ね順調に存続している。
誠さんと恋人同士だと言われることも多くなった。
やはり緋居田と須賀が、というのは噂としては面白いのだろう。けれど、その内容は誠さんを悪く言うものではなかった。
緋居田で傾いていた会社が須賀の元で持ち直しつつある、と、状況の悪かった会社を引き取った年若い誠さんを褒める声がぽつぽつと、しかし確実に増えていった。
私を責める声はない。
かけられる言葉といえば『結婚はいつごろ?』くらいのもので、まず恋人ではないと否定するのだが、謙遜のようなものだと受け取られる日々だ。
発情期を過ごす間に、なんでこの人が番ではないのだろうと狂おしいほど強く思う瞬間が度々あった。
その度に私は屋敷の人々を思うのだが、どれだけ彼らの顔を強く思い出しても、番になりたいという誘惑に駆られることがあった。
その日、誠さんは机に紙を広げて書き物をしていた。
何度も書いては消し、書いては消しと繰り返しているその様子に、飲み物の差し入れがてら声を掛ける。
こうやって、誠さんの部屋で過ごすことも多くなった。
「手紙ですか?」
「今度結婚式のスピーチを、と頼まれたものだから気合を入れて原稿を書いてる」
整った字で書かれたそれは、小学校以前からの思い出に始まるもので、旧い友人という言葉そのままの内容だった。
思い当たる名前を挙げてみると、頷き返される。
私にも気さくに声を掛けてくれる男性で、父の会社を誠さん同様引き取ってくださった恩人でもある。
その恩人から届いた結婚式の招待状と共に、誠さんから参加のためのスーツを贈られた。
「何を書いても羨ましい、という気持ちが滲み出てるような気がする……」
うう、と濁った言葉と共に、数文を誠さんは消してしまう。おいで、と手招きされ、太腿の上に座る。横抱きしてくれる腕に身を預けた。
「誠さん、引く手あまたでしょう?」
「んー。好きな相手と結婚したいからなー」
「でも、そうやってずるずる先延ばししてたら、私くらいしか残りませんよ」
以前の言葉を思い返す。誠さんは少し寂しそうに、私を抱き込む。
「そうか、それなら、待ってるよ。……ずっと」
結局、私が誠さんの恋人だと思われようと、悪く言われることなんてなかった。この人が、誰かにそんな事を言わせる筈がなかった。
私は随分と、このひとを過小評価していたらしい。そして私が思っていたよりも律儀に、頷く一瞬をひたすら待っている。
私は言葉を詰まらせて、あ、ええと、と言葉にならない声を上げるのだが、誠さんはただ、ごめんな、と言って笑ってみせる。
何もかも、遅すぎたのだった。
「……私に、しておきますか」
腕が暴れ、がちゃん、と机の上から筆記用具が落ちた。誠さんの顔がぎこちなくこちらを向く。
「期待させるようなことを言うのは……良くないぞ」
最初は傷ついたような表情をしていたのに、取り繕うのが上手くなった。
何度もこの人を諦めさせてきたのだ。
そうやって、このひとは平気な顔をするのが上手くなった。もう少し早く、頷いてしまえばよかった。
「好きです。……まだ、あの時と気持ちが変わらないでいてくれるなら、私と、お付き合いをしてください」
誠さんは数秒後、顔を覆った。手のひらに髪が落ちる。
反応がないことに不安になっていると、少し遅れて、私の身体が強い力で抱き締められた。
言葉はなく、しばし後に覗き込んだ目元は潤んでいる。
「誠さん?」
「……そっか。もう、……頷いてくれるのか」
ずるずると私に凭れ掛かる誠さんを、力いっぱい受け止める。
返事は何度も向こうから言われてきた言葉なのだろうが、私はその言葉が返ってくるのをしばし待った。
「籍を入れよう」
「……いや。お付き合いしてから……、に、しましょう、ね」
予想外の返事もいいところだ。
誠さんはなかなか譲らず、間を取ってできるだけすぐに婚約しよう、ということになった。