魔術師さんは爛れた関係の同居人に記憶を取り戻させたくない

魔術師さんたちの恋模様
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◇1

 朝日の眩しさに目を覚ますと、すっと胸元を冷たい風が過ぎていった。

 柔らかい毛布を掻き分けて、絡み付いていた腕から逃れる。昨晩は寝台に縺れ込んで繋がった上、雑に身体を拭って眠りについたようだった。

 毛布の中から手を伸ばし、床に落としていた服を拾い上げる。起き上がって身に纏っていると、空気が入り寒くなったらしい相手が毛布を引き寄せる音がした。

 部屋自体は相手のものだが、もう見慣れた部屋だ。広くはない室内、狭い寝台に、机にはごちゃごちゃと金属製の部品が積み上げてある。いずれ崩れそうな山は、奇妙な均衡を保っていた。

 昨日の情事の名残と、ほんの少しの油の匂いが鼻先に届く。意識しなければ無意識に落とし込めるほど、僕はこの部屋に出入りしていた。

 身体を流そう、と静かに部屋を出て、そっと扉を閉める。

「……うわ、寒い」

 息を吸い込むと、内側を刺すほど透明な空気の味がした。

 冬まっただ中の朝は、いくら毛布の中とはいえ裸で過ごすには寒い。二人で体温を分け合っていたから良かったものの、そのうち向こうも寒さで起きてくるだろう。

 廊下をぺたぺたと歩いていると、足裏から冷たさが染み付いてくる。熱を奪われぬよう、意識して足を持ち上げた。

 脱衣所に入って、羽織ったばかりの服を脱ぐ。

 手前に二人分の物が無秩序に置かれた鏡には、寝癖まみれの頭が映っていた。

 亜麻色と呼ぶには濡れて薄暗く思える髪色と、雨の後の濁った水溜まりのような瞳。僕にとっては、あまり好きにはなれない色だ。

「ひっどい顔」

 似た顔の母は、貴族である父の愛人だった。

 一人で働いて子どもを育てるには病弱すぎた彼女は、生活の殆どを父に頼った。

 僕はその貴族から魔術の素質を受け継ぎ、援助を受けて魔術学校に通わせて貰いもした。だが、学校を卒業する頃、母は病で亡くなった。

 母と住んでいた家は父の持ち物で、母がいなくなった以上、僕の存在は荷物でしかなかった。仕方なく小さな鞄を持って宿屋を転々としていた頃、今の同居人に出会った。

 彼はベイカー、と名乗った。

 個人で商店などの魔術装置の修理を請け負っている魔装技師で、初めて見たのは宿屋で壊れた暖房装置を直している姿だ。

 魔術の心得があった僕が、首を傾げている彼の横から術式の間違いを正したところ、礼代わりに食事に誘われた。

 それから魔術式が分からない場面では呼び出されるようになり、そのうち宿屋を移るのを機に同居を持ちかけられたのだ。

「同居人としては、悪くないんだがな……」

 給湯装置を操作してお湯を湯船に溜め、手足を温めて汚れを泡で洗い落とす。

 見下ろした胸元には情事の痕が残っており、強く吸い付かれた記憶が蘇った。

 ベイカーとの関係を言い表すなら、同居人で友人、と言うのが正しいのだろう。だが、酒癖が悪くて性欲が強いあの男は、平然と同居人である僕に手を出したのだ。

『お前のこと、恋人だって事にしておいていい? 断り文句を用意するの面倒でさ。ついでに、溜まったら抱かせてくれよ』

 初夜の翌日に相手に掛けるにはひっどい言葉だったが、さも当然のように言われた僕はただ唖然とする他なかった。

 しかも、ベイカーの性欲は尽きること無く、たまに、どころではない頻度で寝台に引き摺り込まれている。

 彼曰く『溝鼠の色』という黒に近い髪は艶やかで、相反するように鮮やかな夕陽の色をする瞳は目を引く。意志の強そうな目元と、高い鼻筋、筋肉質な体格といい、人から好かれるには十二分な容姿を持っている。

 一時期はたいへんな遊び人であったようで、初めての夜から僕の身体に痛みは無かった。あっけらかんと謝られてしまえば怒りも萎んでしまって、結果的に彼を受け入れるための魔術を使った自分が悪かった気さえしてしまった。

 身体を重ねるのは素直に気持ちがいい。色々な理由で、僕はずるずるとベイカーとの曖昧な生活を引き延ばしてしまっている。

「フィオノ、お湯溜めてる?」

 浴室の扉ががらりと開けられ、同時に低い声が聞こえた。僕が振り返ると同時に、彼は湯船に溜まった湯に視線を落とした。

 途端に機嫌が良くなった表情を見て、けっと息を吐き捨てる。

「来るな。ベイカーと一緒に入ったら湯が減る」

「俺が入ったほうが温かいだろうがよ」

「どこがだ」

「心が」

 平然と言い切った男は手早く服を脱ぐと浴室に入り、身体を洗い始めた。

 あぁ……、と悲しみで声を漏らしながら、身を縮めて男が入る空間を用意する。身体を流し終えると、僕が空けた場所に大きな身体が入ってきた。

 当然のように、体温を保っていた湯が流れてしまう。

「もっと寄れば?」

「……今日は読みたい魔術書があるんだ」

 この男に不用意に近付けば、だいたい丸め込まれて身体を重ねることになる。警戒して毛を逆立てながら言うと、ベイカーは湯船の縁に肘を突いた。

 髪を掻き上げる様は色男そのもの、恋人にするには悪すぎる匂いのする男である。流し目を向けられても、色香にはもう慣れたものだ。

「風呂で二回とかしないから、なァ」

「一回でも駄目だ」

 抱き込もうとする腕を払い落とし、湯船の反対側に寄る。

 それでも何だかんだと体勢を変えつつ抱き込まれ、背後から頬に吸い付かれた。ちゅ、ちゅ、と何度もキスを落とし、ねちっこく腰を撫で始める。

 腕の長さも、身体の大きさも向こうの方が上で、ぱちゃぱちゃと水を跳ねさせながら攻防しても敗色濃厚だ。

「……しな、……って、言って……。ァ」

 胸の尖りを摘まみ上げた指先に反応して、口から声が漏れた。慌てて口を覆っても、もう遅い。

 首筋を舐め上げる舌は、僕をまたあの時間に引き摺り込もうと欲を煽ってくる。身体を洗ったのはなんだったのか。気持ちよさに丸め込まれ、やがてまた腹を押し上げるほど奥に男根を含まされるのだ。

 少し魔力を扱えるこの男は、わざと境を崩して己の魔力を流し込んでくる。ベイカーとの魔力相性は極上で、この性格の悪ささえなければ恋に落ちていたほど強く理性を溶かす。

「い……ぁ、やぁ……! も、入らな……」

 いくら足掻いても流し込まれる魔力は変わらず、躰じゅうを掻き乱されて陥落するのは直ぐだった。

 魔術書が読めなかった、と文句を言う僕に、けらけらと笑いながら運動できたからいいだろ、とのたまう。

 同居人はそんな酷い男だ。

 

 

 

 その日は、数年そこら彼との生活が変わることはないだろう、と思っていた内の一日でしかなかった。

 ベイカーが夕食は不要だと言い、僕は自分だけの夕食を終えて寛いでいた。もし彼が飲み過ぎたら迎えに行こう、と同居人が帰るまでは待機するつもりでいたのだ。

 僕にとっての契機は、一本の連絡から始まる。魔術を使った通信が入り、見知らぬ声が僕の名を呼んだ。

『────ベイカーさんをご存じですか?』

 通信の向こうの声は、王宮の門番だと名乗った。

 彼は職業柄か好んで王宮の魔術装置を外から眺めに行くのだが、いつもなら王宮に入ろうとはしなかったはずだ。

 詳しく話を聞くと、酔っ払いが騒いで門を越えようとした時、近くを通りかかったベイカーが門番より先にそれを止めようとしたらしい。

 その時、王宮に仕込まれている防衛用の魔術がベイカーまで巻き込んで発動してしまったのだそうだ。今は目覚めているが、一時的に意識を失っていたと言う。

 王宮の医務室にいるので迎えに来られないか、と打診され、一も二も無く頷いた。すぐ出て行けるような服を着ていたため、コートだけを羽織って外に出る。

 外は防寒着が役に立たないほど寒く、大通りにある店の前を選んで王宮への道を急いだ。

 よくは聞けなかったが、怪我はなかっただろうか。特に彼が大事にしている指先に何かあったら。ぎりぎりと胸が痛み、不安を掻き消すようにただ脚を動かす。

 何をするにも器用なあの男が、事故に巻き込まれることを考えてもいなかった。

 大通りから裏路地に目を向ければ、そこには淡く闇が広がっている。近付かぬように気を付けながら、回り道をしても明るい道を選んだ。

 必死で脚を動かしていると、気づかぬうちに王宮に辿り着いていた。昼間に見れば圧巻の華美な建物は夜の静けさに彩を落とし、いまは落ち着きを保っている。

「夜の王宮って、どこから入れば……?」

 普段は縁のない建物を前に、感傷的な空気が一変して現実的な問題が持ち上がる。

 そろそろと閉まっている正門に近付くと、門の横にある小窓から門番らしき男が顔を出した。

「……王宮にご用ですか?」

 優しく尋ねる男が、救世主に見えた。縋るように慌てて声を上げる。

「ベイカーという男が意識を失って、医務室に運ばれたと連絡を受けて来たのですが……」

「ああ、フィオノさん?」

「はい!」

 僕が勢いよく言うと、門番は一度引っ込み、使用人らが使うのであろう小さな扉を内側から開けてくれた。

 そこから中に入ると、門番は整った姿勢のまま口を開く。

「夜分遅くに、急な連絡で失礼しました。では、医務室にご案内します。…………見張りよろしくな」

 言葉の後半は、同じく門番をしている別の男に向けられており、待機所のような場所から別の声で返事があった。

 門番は付いてくるよう言い、先導して庭を歩き出す。

「我々が酔っ払いに気づくのに遅れた所為で、ベイカーさんを巻き込んでしまって申し訳ありません」

「いえ。あの、怪我とかは……」

「双方、擦り傷程度のようですよ。越えようとしていた塀はさほど高くなく、だからこそ防衛用の魔術が仕込んであった箇所だったんです」

 その箇所は乗り越えやすそうだ、と度胸試しのように登ろうとする人間が後を絶たなかったが、景観も考えると塀を高くできず、防衛用の魔術を仕込むことになったそうだ。

 だが、今回も酔っ払いが塀を登ろうとして、近くを通りかかって止めていたベイカーごと魔術が発動してしまったらしい。

「────でも、意識を失っていたと聞いたのですが」

「ええ。ですが頭を打った訳ではなく、魔術式と魔力との相性? が悪かった、というような話をしていました。我々も詳しくない分野の話ですので、医務室で待機している専門の者に聞いてみてください。私から話すより詳しい話が聞けると思います」

「はい……、聞いてみます」

 頭を打っていないのなら、傷が残るようなものでもないだろう。少し安心しながら、普段は通ることのないであろう扉を通って医務室に向かった。

 昼ならば装飾の豪華さに見入る余裕もあったのだろうが、夜で状況もそれどころではない。広い廊下、と思う以外の余裕はないまま、門番の背だけを追って歩く。いくら静かに歩こうと努めても、かつん、かつん、と靴裏が立てる音が広い空間に響いた。

 灯りが落とされている部屋も多くある。近付けば話し声がすることで、直ぐに医務室の場所は分かった。

 部屋の前まで辿り着くと門番が中に声を掛け、待ち侘びていたようにすぐ返事がある。

「失礼します。ベイカーさんの身内の方をお連れしました」

 身内、と言われたことに、どういう経緯があったのか気になりはしたが、追及する間も惜しくそのまま続いて部屋に入った。

 門番は部屋の中にいた人物に引き継ぎをして、医務室から出て行く。

 医務室、と呼ばれる部屋は薬品の匂いに満ちていた。

 白を基調とした室内は、簡単な治療ならすぐ行えるように棚には薬品が並び、病人を寝かせるための空間はカーテンで仕切られている。

 医務室の主らしい白衣姿の男が、ベイカーが寝かされているであろう、仕切られた奥の方へと歩いて行く。

 もう一人。僕の元に残ったローブ姿の人物が、こちらに向けて優しい声を掛けた。

「連れてくるから、ちょっと待っていてくれ。…………顔色が悪いな。身体も冷えてるだろ?」

「あ……。急いでいて、着込む余裕も無くて」

 その人は緑色の目を細めると、指先を動かして魔術を起動させた。僕の身体にふんわりと、あたたかな空気が纏わり付き、肌に温度を戻す。

 ぺたぺたと血色の戻った頬を優しく叩き、安心するように頭を撫でられた。

「大丈夫、ベイカーさんの外傷は擦り傷くらいだ。頭を打ってもいないんだが、本人の魔力と防御用の魔術の相性が悪すぎてな。頭を巡る波まで乱れて、記憶が混乱しているみたいなんだ」

「記憶……?」

 僕が心細く声を漏らすと、ああ、と男性が頷く。

「自分の名前なんかの基本的な事は問題なく覚えてる。ただ、短期間の記憶が飛んでいるらしい。酔っ払いを止めに入った経緯を聞いても、なぜ自分がここに居るのか分からない、って言い始めてな。体調も心配だし、家の人を、って聞いて連絡先を教えてもらったんだ」

「そうですか……。あの、ご迷惑をお掛けしました」

 ローブ姿といい、使う魔術の滑らかさや感覚的な言葉選びといい、この人は王宮の魔術師なのだろう。

 態度は落ち着いており、眼鏡の奥からは急に呼び出された僕を労る視線を向けてくる。その態度につられて、僕自身も落ち着きを取り戻しつつあった。

 頭を下げると、男性は手を振る。

「こっちも門を越えようとした人じゃなく、止めようとした人の方に大きく被害が出てしまって申し訳なかった。記憶も、おそらく魔力の波が戻れば元通りだとは思うんだが、もし長引くようなら、魔術に知識のある医者に掛かった方がいいかもしれない」

「そうですね。魔力の波は元に戻ろうとする傾向がありますので、完全に記憶を取り戻すのに長くは掛からないと思います」

 ベイカーを連れた白衣姿の男性が、そう言いながらこちらへ歩いてくる。背後から付いてくる見慣れた顔には擦り傷が残っていたが、既にかさぶたになっていた。

 同居人は僕を見つけると、早足で歩み寄ってくる。

「悪いな、フィオノ」

「本当にな。酔っ払いを止めようとして自分が魔術を食らうなんて何をやっているんだ」

 怪我はあれど、元気そうな姿につい憎まれ口を叩いてしまった。

 怪我人だということを思い出し、はっと口を噤む。僕の態度をにやにやと見守っている彼に、繕う言葉を続ける。

「……まあ、無事で良かった」

「ああ。お前も仕事に慣れてきた頃だろうに、ようやく休んでる夜に呼び出し掛けて悪かったよ」

 ん? と僕はその言葉に違和感を抱いた。

 だが、こんな夜遅くに医務室を開けてもらっている、という焦りの方が先に来て、疲れたのか、早く帰りたがるベイカーの態度に従ってしまう。

 後日、詳細に状況を聞きたければ、と言われ、医務室への連絡先だけを貰って僕たちは部屋を退室することにした。

「あ、ちょっと待った。念のため、馬車で送っていくから」

 ローブ姿の男性はそう言うと、僕たちを伴って王宮内を歩き始める。途中、彼がどこかに連絡をすると、門まで辿り着いた時には前に馬車が待機していた。

 ベイカーは馬車の側面を見て、目を丸くしている。僕が詳細を尋ねる前に、朗らかな声が掛かった。

「お待たせいたしました。中へどうぞ」

 御者はこんな夜遅くだというのに晴れやかな笑顔で、扉を開いて僕たちを招き入れる。立派な馬車に恐縮しながら中に入る僕と、少し緊張しているベイカーとで、隣の席に座った。

 ローブ姿の男性は、御者に親しげに声を掛けている。

「仕事を増やして悪いな」

「いえ。送り次第、門の前に戻って来て待機しておきます」

「ああ、頼むよ。後処理はすぐ終わると思う」

 この馬車の主は、あの魔術師の男性らしい。続けて細かな内容を打ち合わせると、男性は僕たちが座る時に開けた扉に手を掛けた。

 にかり、と警戒心を和らげるように笑う表情は、夜には似つかわしくないほど日向の匂いがする。

「ベイカーさん。魔術式が巻き込んで悪かった。何か困ったことがあったら相談してくれ」

「いえ。俺が邪魔をしたようなもので、魔術式としては正しい動作だったと思います。馬車も、ありがとうございました」

「いやいや。俺の迎えのついでだから、短い時間だけどゆっくりしてって」

 ぱたん、と扉を閉めると、窓の外から律儀に手を振ってくれる。

 魔術式の動作に巻き込まれて怪我をした、と怒ることもできたのかもしれないが、一番悪いのは酔っ払いで、魔術式としては侵入者を排除するための挙動に問題は無いのだ。

 しかも、記憶が多少飛んでいるとはいえ、酔っ払いもベイカーも傷少なく無力化されている。

 僕が来るまでの手配をしてくれた彼らを、恨む気持ちは持てなかった。

 馬車は御者の指示でゆっくりと発進し、そのまま穏やかに進行する。

「そういえば、記憶が飛んでる、ってどれくらいだ? 明日……は仕事が休みで幸いだったな」

「数日間だと思うが。俺の記憶だと、フィオノがうちに住むことになって、ほら、台所に棚を増やそうって言ってただろ。それを明日、見に行く予定だった」

「え? それ、数ヶ月前の話だろ」

 僕がそう言うと、ベイカーは目を瞠った。彼自身、違和感がなかった所為か、数ヶ月も空いていると思っていなかったらしい。

 確かに、僕も明日に目覚めて数ヶ月分の記憶を失っていたとして、数日だと軽く考えるかもしれない。

「うわ。数日程度だと……。割と大ごとだったか?」

「うーん、数ヶ月だろ。仕事は同じ依頼が数ヶ月置きの仕事もあるし、常連さんも多いからそこまで問題ないんじゃないか。あと問題になるのは、お前の人間関係くらいだ」

 ベイカーは腕組みすると首を傾げた。

 色々と考えているようではあるが、彼の交友関係は僕も把握しきれていない。何処からか新規の仕事を持ってくるのは、だいたい酒場で知り合った客からだ。

「頭を打って直近の記憶が無い、って言ったら笑って済ます奴らばっかりだから、平気だろ」

「……いや。飲み友達じゃなくて…………」

 暗に僕が言いたいことが分かったのか、ああ、とベイカーは声を上げる。

「今はお前が来たばっかだし、慎ましくしてますよ」

 茶化して言う声音に、嘘はないようだった。

 僕が同居し始めてから、深夜に帰ってきたとしても朝帰りは無かった。仕事先から遊び人だ遊び人だ、と言われても、僕が見ている限り特定の恋人の影も見当たらない。

 その上で僕に手を出し始め、欲の発散をしていたのだから、そこから数ヶ月は本当に慎ましく暮らしていたはずだ。

「あれ…………」

 ぽつり、と呟いて重要なことに思い至る。

 数ヶ月前、僕が同居し始めて直ぐの棚を買うか買わないか、という時期ならば、僕たちはまだ身体を重ねるような関係では無かった筈だ。

 あれだけ散々抱き潰しておいて綺麗さっぱり忘れられているのは寂しいものだが、友人、と自信を持って言えないような曖昧な関係が終わるのは、望ましいことのような気もした。

 腹が立つ、というよりも、その事実に茫然と置いて行かれるようだ。

「フィオノ?」

「……何でもない。記憶、戻らなくても大丈夫そうだな」

「そう言うなよー」

 本人もあまり深刻には捉えていないようだし、白衣の男性も長く掛からずに戻るだろうと言っていた。

 もし記憶が戻らないとしても、彼が失うのは数ヶ月分の記憶と、僕との過ちの記憶くらいだ。

 がたん、と馬車が一度大きく揺れ、御者から詫びの言葉が掛かる。

 椅子の端に掴まりながら、それからも収まったはずの高低に揺さぶられ続けているような心地だった。

 

◇2

 予想から外れて、数日経ってもベイカーの記憶は戻らなかった。その中で幸いだったのは、仕事に関して概ね予想通りだったことだ。

 数ヶ月空けての依頼もあれば、数ヶ月より以前から付き合いのある依頼も多い。ベイカーが働く上で僕が補助さえすれば、納期に影響するようなことはなかった。

 一度、魔術に知識のある医者には掛かったのだが、頭に外傷もなく、記憶が無い以外の体調も良い。魔力を流して調べてもらったようだが、医務室で会った魔術師と同じような説明を受け、経過観察、という回答しか返ってこなかったらしい。

 魔力が関わる病というのは多いそうだが、個々人の魔力の波が違うために解決策にも幅がある。薬を出して治るものでもなく、治せる人物は貴重で確保しづらい、という厄介なものだそうだ。

 僕も調べられないかと思ったのだが、魔術師とはいえ治癒魔術は専門外、下手に触れて悪影響があっても堪らないので止めておいた。

 そんな訳で、ベイカーの記憶については現状維持が続いている。

 下手したら数日ぶっ続けで寝台に引き込まれていた僕も、今はひとり大人しく自室の寝台を使っていた。

「おはよう……」

 仕事の波が落ち着いて、ベイカーが記憶を失った翌日以来、初めての休みだった。僕は昼近くに起き出して、ぼやけた声を出しながら居間に入る。

 頭が重く、肩どころか全身に疲労感が纏わり付いている。朝食を取ったらまた寝直さなければ体力が保たない。

 この症状は、ベイカーが記憶を失った頃から出始めていた。

 同居人があわや重傷、という事態は、よほど僕を痛めつけたらしい。精神の乱れが魔力を経由して体調に綺麗に跳ね返るのは、魔術師としての性だ。

 僕やベイカーの個室よりも断然広い居間には、台所から漏れた朝食の匂いが漂っている。匂いの元を辿っていくと、片手鍋を揺り動かしている同居人を見つけた。

 僕を見るなり、元気そうに声を掛けてくる。

「はよ。寝坊か?」

「あぁ……。誰かさんの所為でばたばたしてたからか、あんまり疲れが取れなくてな」

 僕はそう言うと、欠伸を噛み殺した。寝間着はここに越してきたときにベイカーの着古しを貰ったもので、袖も裾も余りに余っている。

 だぼだぼの服を半ば引き摺りながら、緩慢な動作で席に着いた。

「仕方ねぇな。お前の分も温めておいてやろう」

「……夜中に突然迎えに行く羽目になった同居人に、もっと優しくしろ」

「優しさで卵四個に増やしてやろうか?」

「そんなには要らん」

 魔術師らしくそこそこ食べる方だが、いくら何でも朝から無茶だ。僕は茶化す声を振り払いながら、机に突っ伏した。

 仕事で毎日のように魔術が必須、という訳では無いのだが、使う必要が出てきたら失敗を繰り返しそうだ。

 魔力の波が乱れているのはベイカーだけの筈なのに、なぜ僕まで絶不調なのだろう。睡眠時間を削って交わっていたあの頃の方が、まだ元気だった気さえする。

 目の前に出された皿は、温め直されたパン、卵と加工肉を焼いたものに、不揃いな野菜が添えられていた。

 普段なら自分で用意する、と言って作っていただろうが、今日はそんな元気もなかった。

「お前が食事を用意しようとするなんて珍しいな。……いただきます」

「フィオノの飯の方が美味いからな。作ったら作ってもらえなくなるだろ」

 身を起こし、ぱちぱちと目を瞬かせる。

 僕と暮らし始めてから食事の用意を放棄しているな、と気づいていたが、そういう事だとは思わなかった。確かに、やたら美味そうに食べていた気がする。

 手渡された食器を握り、見た目は適当な朝食を口に入れる。

「もうちょっと彩りは何とかならないのか」

「食えりゃいいだろ」

「僕の料理の方が美味い、と言っておいてそれか?」

「お前の料理なら、彩りが無くとも美味いと思うぞ」

 ああ言えばこう言う、を地で行く男は、いただきます、と自分の皿に盛った料理を大口で食べ始める。

 とはいえ、せっかく用意をしてくれた上に料理の腕を褒められていたのだから、先程の言葉は少し配慮が足りなかったと思い直す。

「まあ、彩りはともかく味はうまい……と思うが」

「そりゃどうも」

 にたあ、と笑みを浮かべる男に全て見透かされているようで、気恥ずかしさに頬が熱くなる。

 調味料は過不足なく、ただ盛り付けに拘らない料理なだけだ。温かいパンは文句なしに美味しく、ゆっくりとした食事の楽しさに疲労感も紛れた。

 僕が満腹にパンの欠片を押し込んでいると、立ち上がったベイカーが僕の額に手を当てた。

「熱は無さそうだが……、確かにあんまり顔色は良くなさそうだな」

「…………っ! そう、だな。今日はゆっくりするつもりだ」

 彼の掌が額に触れた途端、体中の魔力が反応しようとした。一瞬で沸騰したような感覚に、慌てて心を静める。

 定期的に身体を繋げていた頃、こんな症状は無かったはずだ。戸惑いを顔に出さないようにしながら、飲み物に口を付ける。

「俺も今日は医者に行かず、のんびりするかねえ。……あぁ、そうだ」

 思い出したように声を上げると、ベイカーは僕の瞳を覗き込んだ。彼の瞳の圧は強すぎて、真っ直ぐに向けられれば軽く身が竦む。

 ことん、とカップの底が力の抜けた手のひらから零れ、机と音を立てた。

「俺、この数ヶ月の間に誰か連れ込んでなかったか?」

「…………え?」

 僕が素で驚いた反応を見せると、あれ、とベイカーも思惑が外れたように声を上げた。互いに予想外の言葉を発した所為で、しばし黙って見つめ合う。

 沈黙を断ち切ったのは、話を切り出した同居人の方だった。

「部屋に使い掛けの香油の瓶やらが増えてるし、明らかに直近で使ったような跡もあってな」

「な……! や。僕……は知らないが、出掛けてる間に連れ込んでいても知りようもないぞ」

 一瞬、知らないうちに誰を連れ込んでいたんだ、と考えてしまったが、よくよく考えれば連れ込まれていたのは僕だけのはずだ。

 出歩くことが多いベイカーと違って、僕は家に残ることの方が多い。僕がいない時間に器用に相手を連れ込めていたとしても、流石に痕跡に気づくはずだった。

 ベイカーは、僕と寝ていたことを勘づいている。もし記憶が戻らないのなら、僕たちの関係は白紙に戻すべきだ。どう言われようと誤魔化す一択しかなかった。

「そうか……。家に連れ込むくらい、入れ込んだ相手がいたのかと思ったんだがなぁ」

「その前に僕が同居しているのに、連れ込んでいたらと申し訳なく思え」

「あー……。まあ、うん」

 まったく申し訳ないとは思っていないような顔で、不思議そうに首を傾げている。

 僕は食べ終わった食器を持ち上げると、ベイカーの皿も一緒に回収して流し台に持っていった。誤作動を恐れて魔術は控え、自らの手で汚れを洗い落とす。

 同居人はのんびりと食後の茶を楽しむと、僕が皿を洗い終わる頃にやってきてカップを水で流した。

「なあ。俺の恋人らしき人、ほんとに知らねえ?」

 見知らぬ恋人に対して食い下がる様子に、かっと頭に血が上った。

「知るかそんなもん! 僕の知らないところで勝手に仲良くしてろ!」

 皿を拭いていた布を流し台に叩き付け、皿を置いてどたどたと部屋に戻った。

 部屋の扉を閉め、はあ、と息を吐く。

 思い返せば、連れ込まれるのはずっと相手の部屋だったのだ。ベイカーが気づく前に、理由を付けて証拠になるようなものを取り上げておくんだった。

「経緯を思い出さないまま、僕と寝ていたことに気づきでもしたら、最悪だ……!」

 小さな声で呟き、頭を抱えて蹲る。

 切っ掛けを作ったのはベイカーであり、この関係を始めた原因は彼の方だ。けれど、もし経緯を思い出さなければ、真実が知られた時、僕は叩き出されかねない。

 恋人の存在を知りたがる様子に、やっぱり恋人が欲しかったんだ、と察してしまったのも厭な気分だった。彼がずっと恋人を欲しがっても作れなかったというなら、僕の所為でしかない。

 いっそ、清算して離れて暮らすべきなんだろうか。

「あぁ……。ただでさえ体調が悪い時に、悩みばかり増やしやがって!」

 頭を掻き毟ると、立ち上がって寝台に倒れ込んだ。

 柔らかい感触が肌に触れると、心地よさにどっと眠気が襲う。だが、夢の中に同居人が出てきたのなら、休むものも休めない。

 脳裏にこびりつく存在を無理矢理思考の外に蹴り飛ばして、ぎゅ、とただ目を瞑った。

 

◇3

 ここ数日、同居人が気味の悪い行動を取るようになった。欠かさず早く起きて朝食を用意し、僕の起床が遅ければ優しく起こしに来たりもする。

 仕事の帰りに菓子屋に立ち寄って二人分の菓子を買い求め、夕食後に出してきたときには、やっぱり頭を打ったんじゃないかと素で心配になった。

 僕への憎まれ口は相変わらずだが、行動はただの猫かわいがり。こちらとしては混乱するばかりだが、不調が治らない現状では世話する人間がいることが有り難いのも確かだ。

 ただ、何か聞き出したいのかと怪しむことしかできず、気は休まらない。

 そんな中で身体的な限界が来たのは、思ったよりも早かった。

 朝から起こしに来たベイカーに返事をしたまま起き上がれず、流石に慌てた同居人に背負われ、医院に担ぎ込まれた。

 こぢんまりした医院の主は、彼の記憶の件でも世話になっている医者だ。魔術知識もあり、診察程度の魔力なら上手く扱うことができるそうだ。

 医院の固い寝台に寝かされたまま、軽く魔力を流されて診察を受けた。

 同居人は僕を運んだ後は待合室で待機しており、帰りにはまた背負って連れ帰るつもりだろう。

「ベイカーさんと似た状況ですね。おそらく直近で魔力の波が変化して、身体は見慣れぬ波形を受け付けなくなってしまった。自分の身体を魔力が流れる時につっかえて、身体にも影響しているのでしょう」

「魔力の波……の、変化……?」

「最近、魔力に関しての生活に変化があったでしょう。おそらく、生活を戻せば症状は治まります。長期的には、生活を戻さずとも魔力は順応するかもしれませんが」

 にこにこと朗らかな表情を浮かべているものの、その瞳の奥は何かを見透かしているようだった。

 魔力に関する生活の変化、と言う時に思い当たるのは、ベイカーと身体を重ねる習慣がなくなったことだ。身体を重ねれば、自然と魔力が混ざってしまう。魔力が相手の波の形を取り込み、変異するのだ。

 だが、僕たちは一気にその習慣を断たねばならなくなった。ベイカーの魔力が混じった波形に慣れきった僕の身体は、それで悲鳴を上げたのだろう。

「……生活を戻さずに、症状を軽くすることはできますか?」

 医者は診療録を軽く叩き、何事かを思い付いたように口を開く。

「深い接触でなく、軽い触れ合いを増やしてみたらどうでしょう?」

「あぁ、そう…………ですね」

 それさえも拒否してしまいたかったが、ベイカーの仕事に影響するのは避けたかった。実際に、彼に背負われている間に触れたおかげか、寝起きの時よりも体調は良くなっている。

 医者は栄養剤を出しておく、とは言ったものの、気休めでしかないと念押しした。

「もしも長引くなら、治癒魔術師のいる大病院への紹介状を用意します。ただ、治療費も高価になるから、できればお相手の協力を得て症状を落ち着かせる方を勧めたいですね」

「……はい。わかりました」

 症状と薬について追加の説明を終えると、医者が呼んだのかベイカーが診察室に入ってくる。

 何度か通院しているからか、医者とは気安い様子だ。

「ベイカーさんは、調子はどうですか?」

「記憶は戻りませんが、体調は……フィオノよりは悪くないです」

 普段なら絶好調、と軽口を叩くだろうに、悪くない、と曖昧な言い方をしたのが気になった。

 その場で薬の袋がベイカーに渡され、このまま僕を連れ帰って欲しいので先に受付で支払いを済ませるよう指示があった。いったん診察室を出て行った背を見送って、医者は横たわる僕を見下ろす。

「魔力と身体の差で軽微とはいえ、貴方と同じように、お相手にも影響が出るものですからね」

「あの、相手が分かっていらっしゃるなら……ぼかさなくて大丈夫です……」

「はは。私は双方の魔力に触れていますからね、察してしまうんですよ」

 つまり医者が言いたいのは、お互いのために接触を増やせ、ということだ。

 せっかく色々と誤魔化すために接触を避けてきたのに、それが僕に取っては徒となっている。

 ベイカーは支払いを終えて戻ってくると、起き上がった僕の前に背を向けた。身を起こして首に掴まると、そのまま背負い上げられる。

 体重は軽くないはずなのに、力仕事も多いしっかりとした体躯はよろめくことも無かった。

「お世話になりました」

「お大事に」

 ベイカーの声に医者はまた穏やかに微笑み、見透かすような瞳を瞼の裏に隠した。

 医院から出ると、同居人は無言で歩き始める。もっと症状について問われるかと思ったが、促すような言葉はない。

 寒くないか、つらくないか尋ねられたとしても、原因を聞こうとはしなかった。

 ああ、こういう男だったな、と思い出す。

 すぐに友達は増やす癖に、それ以上の関係は線を引くような慎重さがこの男にはあった。心の奥深くを明かすことを、決して相手に求めない。

 だから僕は、同居人と寝台を共にする理由を、決して彼に聞けなかった。翌日に丁寧に釘を刺されてしまえば、相手にとって僕は特別なのだ、と浮かれることも無かった。

 もし、彼が恋愛感情ゆえにそうしたのなら、僕は嬉しく思ったんだろうか。

 触れた皮膚越しに、馴染んだ魔力が帰ってくる。ほんの少しの接触の筈なのに、身体は長く待ち侘びていたように歓喜していた。

「魔力が、さ」

「…………ああ」

 脚を踏み出すたび、揺れる感覚は夢の中にいるようだ。顎も肩に預けて、見知った身体に全てを委ねる。

 どう言おうか、と迷って僕は誤魔化すことを選んだ。

「すっごく乱れて身体に影響してるみたいだ。だから、普段いっしょにいる人と、接触を増やした方がいいって」

「俺か」

 途端に跳ね上がる声に、くす、と背後で笑う。茶化してくれているのだと分かって、気が楽になった。

「なんでちょっと嬉しそうなんだよ。面倒がれ」

「面倒がって欲しいのかよ?」

「少なくとも、喜んで、って感じじゃないだろ」

 言い切って、瞼を閉じる。

 彼が喜んで僕に触れることはないし、体調を崩した僕の世話をするのは面倒ごとのはずだ。僕たちの間柄は、それでいいはずだった。

 規則的な揺れの合間に、段差を越えたのか大きく揺れる。

「面倒じゃねえよ。調子が狂うから、早く元気になってくれ」

 友達の延長線上である言葉に、鼓動が跳ねる。気づかれぬように背を丸めて、胸を彼から僅かでも離した。

 軽口を叩き合っていた頃は、こんな感傷に浸ることなんてなかった。珍しい二人の間の沈黙が、否が応でも関係を見直させる。

 背に当たる陽光は暖かくて、慎重に歩く揺れの感覚はただ心地よい。ベイカーと、こんなに穏やかな時間を過ごせることを初めて知った。

 半分眠っていたのか、家に辿り着き、はっと身を起こす。扉を開けた先、玄関で下ろされ室内履きに履き替える。

 ベイカーは僕に羽織らせていたコートを受け取ると、わざわざ僕の部屋まで片付けに行った。戻ってきた手には毛布が抱えられている。

「居間で寝てろ」

「仕事は?」

「これから休みにしてくる」

 平然と言い、僕に毛布を放って居間から出て行った。

 僕はとぼとぼとソファまで歩いて横になり、与えられた毛布を掛ける。少し前までは僕も共に使っていた毛布で、見知った匂いが懐かしい気分だった。

 部屋の外からは、ベイカーの話し声が聞こえてくる。予定を先送りする必要があったはずで、申し訳なく身を縮めた。

 しばらく経って戻って来た同居人は、僕が寝ているソファの空いている場所に腰掛ける。

「大丈夫だったか?」

「平気だよ。記憶無くすほどのことがあったんならもっと休め、って同情的だった」

 体調に問題は無いから、と長期の休みも取らずに働き続けるベイカーに、事情を説明した依頼主達はみな驚いていた。本人は身体が鈍る、と変わらずに手を動かしていたが、確かにもっと休んでも良かったはずだ。

 彼の勢いに呑まれて僕も働いてしまったが、休みを勧めれば良かった、と自分が体調を悪くしてやっと反省する。

「俺も良い機会だから、今日は休むわ」

 ベイカーは近くの机に積み上げていた僕の魔術書を手に取ると、躊躇いなく特定の頁を開いて読み始める。

 彼は技師として知識の取得は好きらしく、興味の広さから乱読派だ。僕の魔術書も意味は分かるらしく、置いておくと分からないなりに目を通している。

 ちょっかいを掛けようとしたり、無駄に話しかけてきたりもしない。僕の頭に時おり手を伸ばし、撫でて魔力を混ぜてくれる。

 不揃いな間隔で、紙の擦れる音がする。毛布からは嗅ぎ慣れた匂いがして、引き寄せると柔らかい。触れてくれる指先の馴染んだ感触から、魔力が流れ込んで身体を落ち着けてくれる。穏やかな場所は、心地良い眠りへと手招きした。

 うとうとしている僕の横顔に降る視線は、ただ案じる者のそれだ。

 明るい室内で、僕は眠ってしまったらしい。ほんの一瞬だったのか、長い間だったのか、目を覚ますとまだベイカーは同じ場所で、同じように本を読んでいた。

「体調はどうだ?」

 本に栞を挟むことなく、膝の上で閉じる。

 僕は毛布を引き寄せたまま身を起こすと、ぼんやりとしたまま彼を見返した。大きな掌が頬に伸ばされ、すり、と優しく皮膚を擦り付ける。

 僕がそうしたほうがいい、と言ってから先、几帳面に希望を叶え続けている。

「力、入るようになった……」

 手元で拳を握りながら答えると、ほっとしたように息が吐かれた。起き上がれないほどの脱力感や、頭の怠さも改善している。

 両手でわしわしと頭が撫でられると、慣れた魔力も頭皮を掠めていく。

「やっぱ触ってると体調良い?」

 ぐ、と言葉に詰まるが、背に腹は代えられない。正直にゆっくりと頷いた。頭を撫でていた手が両頬を包み込む。

「俺もそう。あんまりお前と仲良くなれると思ってなかったけど、数ヶ月で俺たち、魔力を交換しないと体調が変化するくらい仲良くなったんだな」

「…………別に、そこまで仲良くなかった」

 むす、と頬を膨らませると、挟み込んだ掌が押し返してくる。

「照れんなって。嬉しいって言ってんの」

 頬から手が離れたかと思うと、広げた手に抱き竦められる。初めてではないはずなのに、妙に気恥ずかしくて顔を胸に埋めた。

 顔を擦り付け、背を撫でる腕は寝台の中と触れ方がまた違っている。身体を重ねていたあの頃より、まだ今の僕たちの方が関係が深く思えるのは何故だろう。

 関係を清算することばかりを望んでいたが、もし一からやり直せるのなら、手を伸ばすのを躊躇うようなあの時期には戻りたくなかった。

「やっぱり、心地良いな。なぁ、このまま寝よう」

 狭いソファで横に並んで、少し動けば落ちてしまいそうになりながら目を閉じる。裸でもなく、深い触れ合いをしている訳でもない。

 けれど、服を隔てたこの距離が、今まででいちばん近かった。

 

◇4

 僕の体調が完全に戻るまで、ベイカーはきっちりと世話を焼いていた。

 軽い接触を増やすように、という医者の指示は彼の手で守られている。栄養剤が要らないくらいの食事を与えられ、魔力を重ね合わせて体調を整えられた。

 数日後の定期検診では好調、とのお墨付きを貰い、以降は経過観察となった。

 対して彼の記憶は変わらずだが、僕はそのまま忘れてくれないだろうか、と身勝手に思ってしまう。

 身体を重ねる唯一ではない寂しさはあれど、今の関係のほうが二人にとって望ましいように思えるのだ。

 ただ、この事態をなあなあにしたがっている僕とは違い、ベイカーは定期的に医院に通い続けていた。

 そして朝食の最中、思い出したようにその話題を口にしたのだった。

「────あの時、王宮の医務室への連絡先を貰っただろ。受けた魔術の詳細について改めて聞きに行こうかと思ってる」

「ああ、そうか。発動した魔術についての詳細が聞けたら、何か解決するかもしれないのか」

「そうそう。俺は魔術は専門じゃねえけど、お前が同行してくれれば分かるだろうしさ」

 表立ってそのまま忘れていてくれたら良い、とは言えず、僕も同行することにした。付いていく、と頷けば、ほっとしたように顔を綻ばせる。

 同居人にとっては珍しい表情だった。いくら楽観的な彼でも記憶の喪失は不安だったのだろうか。

 予定を話し合いながら食事を終え、今日もベイカーが作った食事の皿を僕が洗う。

「最近、料理が上手くなってきたな」

 皿に水を流しながら言うと、医務室への連絡先の紙を探しつつ同居人が答える。

「フィオノに食わせる楽しみを見いだしつつあるわ」

 僕のコートの懐から連絡先が書かれた紙を引き出すと、まだ皿を洗っているのに通信魔術を起動してくれと言い出した。水を跳ね飛ばしながら、連絡先の書かれた厚紙に魔力を流す。

 あの時の、白衣姿の男らしき声が聞こえてきた。ベイカーは挨拶から会話を始め、医務室を訪れる予定を取り付けている。

 会話する声が一度止まり、僕の前に彼が姿を見せた。

「今日の昼でもいいって言われたけど、どう?」

「向こうが良いのならいい」

 朝と夕方ごろに仕事の予定が入っており、確かに昼頃は空いている。ありがと、とベイカーは言い残すと、また会話をするために離れていった。

 予定の調整は無事終わったようで、連絡先の紙をまた僕のコートに仕舞い直した。水を止め、濡れた手を拭う。

「じゃあ、昼までに仕事終わらせないとだな」

「任せろって。俺の修理の腕ならすぐだ」

「その自意識過剰さ、腕が錆びるのも時間の問題だな」

 はぁ!? と反応するベイカーを置いて、仕事の準備のために自室に戻る。鞄に仕事道具を詰め、肩に掛けた。

 記憶を取り戻したら、もう今ある甘やかしは無くなるのだろう。居心地が良かったのに、と残念に思いながら部屋を出た。

 居間へ向かうと、同居人も準備を終えている。

「じゃ、行くか」

「ああ」

 朝からの予定は、青果店にある冷蔵装置の修理の筈だ。

 店に向かいながら、仕事の情報を交換した。前回、同じ装置の様子を見たのは一年前だそうだが、ベイカーはぺらぺらと型式や特徴について説明する。

 二人で仕事はするが、僕の担当は魔術式関係と、作業の手伝いくらいのものだ。

「装置を動かしたときに調子が悪くなった、って言ってたんだよな。あの装置、魔術式が外に見える位置に彫り込まれてるから……」

「傷ついた魔術式の埋め込み直し、もあり得るのか」

「そういうこと。昔と違って、フィオノがいると無駄な仕事にならなくて助かるわ」

 僕と組む前は、魔術式の損傷が原因の故障は別日に魔術師を呼ぶ、という手間が必要になり、装置も魔術式も両方破損していると予定の調整が手間だったそうだ。

 装置の故障単体であれば僕は作業手伝いのみになり、そうなると自身がいる意味を見出しづらく感じることもあるのだが、ベイカーは仕事が早く終わること、そして案件が増えることを喜んでいる。

 実際に、商売に関わる故障を抱えた依頼主からは、魔装技師と魔術師をいっぺんに手配できたことを喜ばれることも多いのだ。

「だから、これからもよろしくなー」

「……まあ、お前の態度次第だな」

 珍しく殊勝な態度に、僕は温度の上がった顔を背ける。

 ベイカーは僕の肩に手を回すと、顔を擦り付けてきた。文句を言っても、治療だと言いくるめられてしまう。

 陽の光が当たる時間、ただの仕事の合間にこうやってさり気なく触れてくるようになった。ほんの少しの変化なのに、むず痒くて切なくて、無くなってしまうことを惜しんでしまう。

 暖かい日差しの下、石畳の階段を踏みしめる。肩が揺れると、かつん、かつん、と鞄の中の物が触れ合って僅かに音を立てた。

 同居人が語りかける低い声に、相槌を打ったり、答えを返したりする。互いに届けば良い声量、互いが分かればいいだけの言葉。広い街の中で、僕たちだけの空間にいるようだった。

「おはようございます」

「おう、おはよう。待ってたよ」

 挨拶を返した青果店の主は馴染みの顔で、開口一番ベイカーの体調を案じている。数ヶ月の記憶を失ったとしても彼に依頼したいと言う人達は、長年の付き合いのはずだ。

 特に魔装技師として知識を学んだ後は、何処かに弟子入りするでもなく、仕事を重ねて技術を身に付けたのがベイカーのやり方だった。

 仕事が安定するまでは金銭的にも余裕はなかったそうで、従業員として僕を抱え込めるくらい顧客を増やせたのは、ひとえに彼が重ねた年月があるからだ。

 僕が依頼主たちに容易に受け入れられたのも、長い付き合いの彼が雇ったからだろう。

「お邪魔します」

 店の奥、冷蔵装置の近くに寄ると、普段はしている筈の動作音が全く聞こえてこない。近くの店の装置を間借りしているそうだが、いちいち運ぶのは大変なのだそうだ。

 ベイカーは装置の裏に回り込むと、魔術式を確認した。

「ああ、やっぱり術式の端が擦り消えてるわ。フィオノ、ちょっと術式だけ先に埋め込み直してくれないか? その間に術式保護するために簡単な覆い作るから」

「ああ。一度掠れたのなら、二度目もあるだろうからな」

 役割分担をして、僕が装置の裏に回り込んだ。掠れている箇所をどうにか読み取り、指先に魔力を込めて式を書き直す。

 魔力が流れるようになると装置が起動音を響かせ、扉を開けると冷気が這い出てきた。

「装置に問題は無さそうだ」

「了解。もうちょっと待ってな」

 ベイカーは手持ちの金属板を術式の大きさに切り落とし、蓋状に曲げて装置に固定する。

 力を込めれば外せるような形状で、もしまた不調が起きたら確認できるようにしてあった。

 店主を呼んで確認して貰い、修理代と共に野菜を受け取る。いつもよりも多めなお土産は、呼んだら早く来てくれたから、ということらしい。

「術式の掠れねえ……。昔だったら魔術師を呼ぶのにまた日数が掛かってたとこだが、もう魔術師がここにいるんだもんなぁ」

「はは。フィオノが来て本当に助かってるんですよ、これからもご贔屓に」

 ベイカーは店主の言葉にさらりと僕を褒め、野菜の袋を両手に持って店を出た。

 その背を追いかけ、片方の袋の取っ手を引く。だが、彼は指先を大事にしろ、と野菜の袋を持たせてはくれなかった。

 いちど家に戻って野菜を保管し、昼近くになってから王宮に向けて移動する。途中で昼食を買い食いすると、使った魔力も戻ってきた。

 僕が満腹になってお腹を擦っていると、手を広げたベイカーから軽く抱き付かれた。以前なら撥ね除けていたのかもしれないが、親切心から来るものだと知っている僕は黙って抱かれる。

 声を漏らしながら後頭部を撫でてくる同居人は、何が面白いのか分からないが、非常に満足そうだった。

 

◇5

 昼に見る王宮は、高くそびえ立ち、気圧されるほど圧倒的な美を誇っている。夜には見づらかった装飾も、細部まで目に届いた。

 僕たちが門に近付くと、このあいだ医務室まで案内してくれた門番の姿があった。今日は門自体は開かれており、こちらを見て声を掛けてくれる。

「ああ、ベイカーさん、フィオノさん。お待ちしておりました」

 夜に来た時には緊急事態として融通を利かせてくれたらしいが、今日は一時的な通行許可証を正規の手続きで発行するとのことで、二人して申請を一式書かされた。

 代わりに服に挟む形状の許可証が与えられ、また同じ門番が医務室まで案内してくれるとのことだ。

 体調は悪くないか門番に問われ、調子が良い、と答えているベイカーを横目に、体調『は』いいんだけどな、と心中で呟く。

 王宮の庭からは何かを言い合っている声と、魔術の起動音がした。また侵入者でも、と視線を向けると、目を向けた先から黒い何かが全速力で駆けてくる。

「わ!」

 駆け寄ってきたのは大型の犬だった。

 僕の前まで走ってくると、進行方向で座って行く手を阻む。咄嗟に飼い主を探していると、犬の後ろから駆けてくる人影があった。

「こら、急に走って行く……な……」

 立ち止まったその人は、医務室で出会った魔術師の男性だった。僕が挨拶をすると、何事かを思い出しながら返事をする。

 僕の横にいたベイカーはその場にしゃがみ込み、犬の頭を撫でる。

「なぁ、フィオノ。俺は覚えてないけど、こいつが魔術を受けて堀に落ちかけたとこ、引き上げてくれたらしくてさ」

「え、あ。そうなのか、ありがとうな」

 撫でて良いか魔術師の男性に視線を向けると、どうぞ、と手のひらで促された。そろそろと耳の裏に手を伸ばし、目を細めている様にわしわしと撫でる。よく梳かれているのであろう毛は柔らかかった。

 この犬は門番と連携しつつ、王宮の警備を担っているらしい。

「ベイカーさん、フィオノさん。ちょうど良かった。俺もあの時に発動した魔術式の説明に、医務室に呼ばれてるんだよ」

「あ、じゃあ一緒に行きましょう」

 そういえば、と男性は思い出したように手を差し出す。

「改めて、俺はロア。王宮付きの魔術師だ」

「フィオノです。いちおう同じく魔術師で、魔術装置の修理を仕事にしています」

「ベイカーといいます。魔装技師で、フィオノと仕事は一緒です」

 よろしく、と続けて手を握り、犬を撫でながら待っていてくれた門番と共に医務室へと歩き始める。どこか聞き覚えのある名前のような気がしたが、ここ数ヶ月は新しい仕事やら、ベイカーに手を出されたりやらで怒濤のように過ぎていた。

 結局、なぜ聞き覚えがあるのか思い出せないまま、医務室へ辿り着いてしまった。黒い毛の犬は医務室の前で待つようで、自然に扉の横で腰を下ろす。

 医務室に入ると白衣姿の男性が待っており、応接机を使うよう言われた。声の届く位置にはいるようだが、ベイカーが別に専門の医者に掛かっていることから、どちらかといえば発動した魔術式の話が主なようだ。

 ロア、と名乗った男性は並んで座る俺たちの向かいに腰掛けた。

「もし嫌だったら断ってもいいんだけど、ベイカーさんの魔力を少し診せてもらえないか? できたらフィオノさんも」

「俺は大丈夫です」

「僕も」

 ベイカーが手を伸ばし、机越しに手を握る。僅かに魔力が動いたような感じがした。魔力を診る、と言っていたから、無意識に作る魔力の壁を崩し、あえて魔力を僅かに混ぜたのだろう。

 僕も同じように手を握り、相手が壁を崩す時に同じように魔力を触れ合わせた。

「フィオノさんも魔力が多いな。……その、ふたりって一緒に住んでるんだっけ?」

「はい。俺とフィオノの二人で、事務所兼自宅、って感じですが」

「付き合いは長いの?」

 なんで世間話のような事を聞くのだろう、と思うのだが、そういった話が好きなベイカーは躊躇いなく言葉を返す。

「会ってから数ヶ月、ってとこです」

「ええと、通信魔術で話した時、実は数ヶ月分の記憶が飛んでた、って言ってたのは聞いたんだけど……」

「はい。フィオノと『同居を始めてすぐ』と俺は思ってたんですけど、フィオノが言うには『数ヶ月のあいだ一緒に暮らしてた』って」

 僕に視線を向けられたのに気づき、首肯する。

 ふむ、と顎に手を当てると、ロアさんはベイカーに向けて言った。

「……悪い。魔術式の話をしたいんだが、王宮で使われる魔術だから、防犯上、できたら中身を知る人を減らしたいんだ。話を聞くと、フィオノさんの方が知識はあるはずだから、細かい内容は彼だけに話しても良いか?」

「ああ、そうですね。じゃあ俺は外に……」

「いや、この辺りに遮音結界を張るから、向こうにあるカーテンの仕切りの先で待っててくれたらいいよ」

 医務室の主からも寝台に座っていたら良い、と許可を貰い、ベイカーは仕切りの先へと離れていく。

 ロアさんは手早く遮音結界を起動すると、ベイカーがこちらを見られる位置にいないことを確認して僕に向き直った。

「手短に聞く、気を悪くしないでくれ。ベイカーさんとは恋人か?」

「………違います。……けど」

「けど?」

 促されて、口籠もる。

 僕たちの魔力に触れてそう尋ねたと言うことは、それくらい僕たちの魔力が混ざっていると言いたいのだろう。

 少し前までは身体を重ねていたし、今は僕の不調を防ぐためにあえて接触している。

「いや、質問が悪かったな。記憶を戻すために聞くんだが、身体の関係はあったか?」

「…………はい。あの、ベイカーはそれを忘れているんです」

「時系列的に、そうだろうなと思ったよ」

 はぁ、とロアさんは息を吐く。彼には何かが分かっているようだ。

「記憶が戻らないのは、魔力の波形が元に戻らないからだ。ベイカーさんの魔力は、相性が良すぎるのか、あんたの魔力ありきでもう再構成されている。魔力が乱れた後、あんたの分の波が足りないんだと思うぞ」

「でも、あの…………寝ては無くとも、こう、手を繋いだりとか、は、していて。それなら、元に戻るんじゃ……」

「寝たときの魔力の混ざり方を思い出せるか? 手を繋いだ時と同じだとは言わないだろ」

 ぐ、と僕は言葉を詰まらせた。

 手を繋ぐことが魔力を触れさせる、と表現するならば、身体を重ねて、粘膜で繋がった時の感覚は文字通り、混ざる、だ。

 それだけ深い接触を持っていたからこそ、今回の件で僕の体調までが崩れることになった。

 僕は項垂れて、背を丸めた。

「僕たち記憶を失う前は、友人だか恋人だか、っていうのは曖昧な関係で。だから、忘れているなら、その方がちゃんと友人に戻れていいんじゃないかと思ったんです」

「まあ、恋人同士じゃなくて身体の関係がある、だもんな」

 僕の言葉に理解を示しながらも、ロアさんは爪の先でこつり、と机を叩いた。ぴくり、と音に反応して顔を上げる。

 目の前の表情はただ柔らかく、怒ったような顔ではなかった。

「だけど、関係をやり直したいんなら、なおさら記憶は取り戻すべきだと思う」

 言葉は静かで、声音に迷いはない。僕がいくら言葉を重ねても、この人の意見は曲がらないだろうという確信があった。

「ベイカーさんが失った数ヶ月の記憶は、すべて悪い思い出だけだったか? その中には、あんたが惜しむような記憶は無かったか? 二人だけの思い出を持っていられるのは、あんた以外には、もう一人しかいないんだぞ」

 ベイカーは覚えていた時の僕と、棚を買おうとしていた、と言った。

 棚を見に行ったときも、低すぎるのは嫌だとか、高価すぎるのはいやだとか、散々言い合って一つの棚を決めたのだ。食器も、服も、たまに喧嘩になりながら譲り合って同居する家を整えた。

 仕事を始めたばかりの僕を、色んな場所に連れて行って人に会わせてくれたのも、数ヶ月間の失った記憶の中だった。

 もしベイカーの記憶が戻らなかったら、始めたばかりの僕たちの関係は、もう思い出して話すことも出来ないのだ。

「フィオノさんが一つでも残したい記憶があるなら、それごと取り戻させてあげてほしい。ベイカーさんは間違いなく、記憶を取り戻したいと願っているんだから」

「…………はい」

 ただ逃げるだけで、だらだらと解決を引き延ばしていた自分が恥ずかしくなった。それでも視線を上げて、助言をくれる瞳を見返した。

 僕の表情が変わったのか、ほっとしたように口元が綻ぶ。

「あと、記憶を取り戻す方法なんだけど……」

「はい」

「寝てみたら?」

「…………はい?」

 僕は素っ頓狂な声を上げ、奇妙な解決策を提示した人を見返す。

 問い返した声音で、自分がとんでもないことを言っている事に気づいたらしい。頬を掻いているその人は、歯切れが悪くはあるが、その提案に至った考えを述べてくれた。

「記憶を失う前と、失った後の魔力の違い。が、そこかな、と…………」

「あー……」

 言い分は分かる気がするし、身体を重ねるという接触が齎す魔力の変化は身に沁みて知っている。だが、それを実行できるのはあくまで記憶を失う前の僕たちだけだ。

 僕は手を組むと、がっくりと肩を落とす。

「でも。あの人、記憶失ってるんですけど」

「だよなぁ……」

 魔術師同士、魔力の厄介さを恨み、互いに労りの視線を向け合う。

「あの、ベイカーを引き剥がす建前だとは思うんですけど、王宮の警備のための魔術式って……」

「うん。外には出せなくてさ。だから魔術式以外の糸口で解決して貰えたら助かる。あ、思ったより症状が重いし医療費も掛かってるだろうから、王宮から見舞金が出るって」

「それは、ありがとうございます……」

 ロアさんに礼を言い、それ以外の案は無いか考えてもらう。申し訳なく思ったのか、いくらか案を出して貰ったのだが、僕にとっては途方も無い案も多かった。

 身体を重ねる以外で魔力を混ぜる方向で頑張ってみる、と言ってその日は切り上げる。

 帰り道でベイカーに魔術式はどうだったか尋ねられるが、魔術式が難しく対応が思い付かない、と言い訳をする他なかった。

 半分上の空で会話をする僕は、挙げられた解決案ばかりが頭を巡り続けていた。

 

 

 

 ひとまず、記憶が戻らない要因として僕の魔力がベイカーの身体にまだ欠けている、という話は納得できる。ただ、いくら彼と寝ることが効率的とはいえ、それ以外でも接触を増やせば記憶を取り戻す可能性はあるはずだ。

 普段から仕事で行動は共にしているが、買い物だとかちょっとした用事でも同行することにした。刷り込みの雛のように彼の姿を視界の端に入れては、ほんの近くへの買い出しにでも付き従う。

 最初は不思議そうに見ていたベイカーも、数日経つと僕の存在に慣れ始めた。その日も夕食の材料を買い出しに行くという同居人の言葉に、黙ってコートを羽織った。

 何も言わずに外出の準備を整える僕に目を見開くも、それ以上なにも言われることはない。

「今日なにが食いたい?」

 家を出て、寒空の中を二人で歩く。接触を増やそうと無駄に近寄ってみるのだが、手を繋ぎたくとも僕から伸ばす距離が計れない。

 じっと少し後方から、彼の寒そうな掌を見つめ続ける。寒いから、だとか言って手を取ってしまえばいいはずなのに、自分の手のひらはぴくりとも動かなかった。

 斜め前の身体が立ち止まった。

「…………聞いてたか?」

「へ? なんだ」

 僕が首を傾げると、振り返ったベイカーは困ったように頭を掻いた。

「悩みでもあるのか?」

 屈み込んで、視線を合わせてくる。僕はただその視線と結んでいられず、やんわりと解いた。

 悩みなんて、ずっと考えているのは目の前の男のことくらいだ。

「何も。手がでかくて寒そうだなって思っただけだ」

 指先を伸ばし、目の前にある冷えた手にそっと触れて、離れる。僕の腕はぶらりと垂れ下がり、もういちど伸ばす気力は湧かなかった。

 ベイカーは自らの掌を持ち上げ、軽く握る。そしてまた開いた手は、こちらへ伸びてきた。

「あ…………」

 力を失っていた僕の手が、そっと掬い上げられる。持ち上がった指先が絡みつき、ぎゅっと握った。その一瞬で、体温が灯った。

 彼は立ち位置を変えると、歩きやすい位置で手を繋ぎ直す。

「そう思ったんなら、黙って繋いでくれりゃいいのによ」

 別に手を繋ぎたくない、とか、なんでわざわざ手を繋ぐんだ、とか、咄嗟に返していたはずの言葉が浮かんでは消えた。

 彼が記憶を失う前の僕なら、それで良かった。だが、僕はこれを機にやり直したいのだ。恋人だと自信を持って言えなくて、彼がどこに行ったとしても縛れなくなる関係が、いっそ記憶を無くしたいくらい嫌だった。

 口を開くと、白い息が漏れた。

「…………次からは、そうする」

 自分の口から零れるにしては、甘ったるい言葉だった。僕の言葉に彼は目を瞠り、握っていた手から力が抜けていく。

 僕はその掌を、自らの手で、力を込めて握り返した。

「………………」

 互いに無言のまま、一歩踏み出す。

 歩いていると、少しずつ歩幅が揃っていく。前を歩くベイカーの表情は見えなくて、僕は顔を上げて、彼の耳だけを見ていた。

 寒い空気の中でわずかに赤く染まる耳だけを、ずっと見ていた。

 

◇6

 投げた球は、壁に当たって同じくらいの速度で返ってくる。

 人付き合いに同じ法則が適用されるというのは不思議なもので、僕が手を差し出すと、同じだけ彼も手を差し伸べるようになった。

 以前は辛いばかりだった言葉の応酬に、たびたび甘いものが混じる。鋭かったはずの目つきが、柔らかくこちらを見ていることに気づいたのは何時だっただろう。

 今なら記憶を取り戻しても、別の関係が築けるのではないか。僕は、彼の記憶を取り戻したいという方向に舵を切っていた。

「ただいま……」

 声が掛かったのは、僕が煮込み料理の完成を鍋の前で待っていた時だった。装置の故障だけだから、と先に帰らされ、夕食の支度をしつつ帰りを待っていたのだ。

「おかえり、ベイカー。……どうした?」

 普段なら、もっと跳ねた声で挨拶をしてくれるはずだ。僕がいったん火を止めて向き直ると、僕の胸の前に紙が突き出される。

 よく見ると、開封された封筒と中身の便箋だった。

「悪い。俺宛ての郵便物ばかりで、つい開けちまった」

「それくらい、別に構わないが……」

 いや、と歯切れ悪く言い、ベイカーは封筒の差出人名を僕に向ける。

 丁寧に封蝋がされていた箇所は剥がされており、差出人の場所には父の名があった。僕は便箋を開き、立ったまま手紙に視線を落とす。

 かさかさと紙が擦れる音が、煩く耳に届いた。

 均等に並んだ几帳面な文字は、見慣れた父の筆跡だった。手本のように僕の身を案じる言葉から始まり、家を出て行く必要は無かった、と続けられていた。

 家は既に母の持ち物になっており、母が死んだ後は僕への遺産となるはずだった。母は父に頼り切っていたものの多くの金は使わず、僕に残した金銭も僅かだった。

 だから、そのまま住むか、もし不要なら売ってしまうように書かれていた。同封されていたのは家の権利を示す書類の複製で、間違いなく持ち主には僕の名がある。

『他にも困ったことがあれば、この住所に連絡するように』

 僕は初めて、父の住所を知った。

 手紙を畳んで、封筒に仕舞い込む。家を出るときに鍵の所在に迷って持ったままだったから、そのまま開けばまた住むことができる。

 家自体は多少古くとも住むのに不便はなく、ベイカーと住むこの家よりも広さはあるほどだ。

 家が僕の所有になっている以上、父の気が変わって取り上げられることもないだろう。ふう、と息を吐くと、ようやく顔を上げる。

 僕が手紙を読み込んでいる間、ずっとベイカーはこちらを見ていたらしい。

「ベイカー……」

「良かったな、って、言うべきなんだろうな」

 そう言う彼の声は弱々しく、心からそう思っていないことは明白だった。

 僕は手紙を机に置くと、彼の近くに歩み寄る。

 逃げ道ができたことは、良かったと言えるのかもしれない。もしこれで関係を崩したら、と怯えることも無くなった。

 俯きがちなベイカーの前に立って、揺れる視線を覗き込む。

「寂しくなる、って思ってくれるか……?」

 両腕が伸びて、僕の身体を抱き竦めた。背を支える腕は力強く、身体を引き上げる。

 ぴたりとくっついた胸から、相手の鼓動が聞こえてきそうだ。

「別に、寂しくねえよ」

 言葉自体は記憶を失う前に戻ったようであるのに、音は最近になって聞き慣れた柔らかい声音だった。

 引き留めてはくれないか、と当然のことに失望して、相手の背を抱き返す。

「……そっか」

 ぽんぽんと僕の背を叩いて離れ、できあがりかけの鍋へと近付いていく。蓋を開けてわざとらしく歓声を上げている様子を、働かない頭を持て余しながら眺めた。

 湯気が立つ料理を皿に盛っていく。席について食べ始めても、美味しくできたはずの料理にさっぱり味がしない。

 ベイカーの方は美味いと言って口に運んでいるのだから、僕がただ美味しく思えないだけだろう。

 普段より静かな夕食を共にして、皿を洗ってくれる同居人を置いて風呂に向かった。服を脱いで鏡の前に立つと、ベイカーが記憶を失う前のような酷い顔をしていた。

 湯船にお湯を貯めつつ、丁寧に石鹸を泡立てて身体の汚れを落としていく。

『寝てみたら?』

 そう言われた言葉が頭で何度も繰り返された。

 もし断られても、上手く記憶が戻らなくとも、僕が家を出て行くのならどちらも問題ないはずだ。失った筈の数ヶ月は、彼の元に置いていきたい。

 ざば、と頭から湯を流して、湯船に脚を入れた。身体中を温かい血が巡っていく。乱入者もいないその時間は、寛げはしても何だが物足りなかった。

 身体の水分を拭い、寝間着を身に纏う。寝台に誘うとき、ベイカーは何と言っていただろうか。

 上手く誘えなければ話にならないのに、今日の彼は一滴たりとも酒を口にしていない。

 魔力を灯した指を持ち上げ、閨で使う魔術を空中に書き綴る。身体を柔らかくして雄を受け入れやすくする魔術の発動は、久しぶりの感覚だった。

 僕は脱衣所を出ると、不安を抱えたまま居間へと向かった。

 同居人は皿を洗い終わった後は読書をしていたようで、こちらを見るとまた栞を挟まずに本を閉じた。

 ソファの横は空いていて、僕は近くまで歩いて行くと隣に腰掛ける。この距離感も最近では珍しいことでもないのだが、出て行く話をした後でこうするとは思っていなかったのか、彼は目を丸くしている。

 太腿の上で腕を組んで、話を切り出す。

「僕、出て行くにしても、ベイカーの記憶を戻してからにしたいって思ってる」

「あぁ……そうか。でも、お前が気にすることじゃねえよ」

「それが、たぶん気にすべきことなんだ」

 距離を詰め、相手の肩に手を添える。上手く誘えているとは思えなかったが、技量もない僕には、勢いくらいしか手段が残っていなかった。

 距離を詰める僕に、ベイカーは目を白黒させている。

「黙ってて悪かった。僕たち、ベイカーが記憶を失う前、……身体の関係があったんだ」

 息を吸う音が目の前から聞こえた。返事はなく、そのまま言葉を続ける。

「だが、断じて。恋人なんかじゃなくて! お前はただ溜まっていたから、と言って、僕も気持ちよさに断り切れずに関係を続けていたんだ。だから、自然と、ベイカーの魔力には僕の魔力が混ざってしまっていた」

 言っているうちに勢いが萎んで、引こうとした手が空中で捕らえられた。こちらを見つめる瞳はぎらぎらとして、逃がさないとでも言いたげだ。

 無言の間は、続きを促していた。

「だから、記憶を取り戻すために、もういちど魔力を元に戻す……身体を重ねてみたらどうかと思ったんだが、お前は乗り気にならなそうだし、記憶が戻らなかったら同居もやりづらいだろ。それで、ずっと迷っていて」

 僕の言いたいことは、彼に伝わったようだった。

 さっき置き去りにした手紙を、視界の端に入れている。

「でも、もし上手くいかなくても、僕には戻る家ができた。だから────」

 ごくん、と唾を飲み込む。

 これは彼に誘われたからじゃない、なあなあに丸め込まれた訳でもない、ただ僕が、彼と抱き合いたくなっただけだ。

「いちど、僕と寝てみないか……?」

 後頭部に腕が周り、そのまま上方に引き上げられる。噛み付くように唇が覆い被さり、驚きに声を上げようとした唇の隙間から舌が滑り込む。

 厚い舌は僕の舌の先を擽り、歯茎を辿って舐めしゃぶる。ふ、と息のために唇が離れたかと思えば、また覆い被さって呼吸を遮られた。

 久しぶりの感覚に、僕の身体は恍惚と溶けていた。

「……ふ、ぁ…………ン、く」

 唇から逃れて息を吸い込み、また近付いてくる唇を受け止める。差し込まれる舌を、受け止め、拙く絡めた。

 唇が離れた時には、既に息が上がっている。

「多少の予想はしてたとはいえ、本人の口から聞くと厭な気分だ」

「……僕と、寝てたことがか?」

「恋人でもなんでも無かった、ってとこだよ!」

 膝裏に手が回され、肩に担ぎ上げられる。大人と子どもくらいの体格差がある訳ではないのに、背負われた時といい上手く運ばれてしまう。

 彼の頭を抱きかかえ、懐かしさに浸っている間に寝室へと連れ込まれた。優しく寝台に下ろされ、額にキスが落ちる。

「なんで恋人でもない男と寝たんだ」

 むすり、と唇を歪める顔に、お前がそれを言うのか、とかっと頭に血が上る。

「お前が丸め込んだんだ!」

「まあ、……そうだよなぁ」

 曖昧な関係になった引き金が自分、という自覚はあるようで、はぁ、と息を吐きつつ顎を撫でている。

 自らも寝台に腰掛けると、軽く僕を抱き寄せた。

「俺、お前が思ってるよりずっとフィオノと同居したくて」

「……は?」

「同居したら、どんな手を使っても恋人になってやる、って思ってたんだよ」

 ぎゅう、と抱きしめられると、やっぱりベイカーの鼓動も鳴っている。

 不安そうに息を吐く様子に、ようやく僕は口説かれていることを自覚した。

「なのに、これだもんな……。自分が割と馬鹿だったことにがっかりだ」

「……ベイカーって、僕のこと好…………」

「あー! 待て、ちゃんと言うから」

 身を離して、乱れていた僕の髪が掻き上げられる。

 太い親指が唇を撫で、軽く相手の唇が覆い被さった。ふ、と柔らかい感触を離すと、日が暮れる色の瞳がゆるく細められた。

 水平線に消えていく太陽のようでもあり、その先に待っているのは濃鼠の闇だ。

「好きだ。……俺は、ずっと恋人になりたかったんだよ」

 掛け違えていた釦が全て外れたことに不安になっていたが、彼はもう一度整えるつもりらしい。ベイカーの服をぎゅうと握り締め、こつん、と胸元に額を預けた。

「数ヶ月の間に心変わりしてたら、どうするつもりだよ」

「ねえよ。そうだったら、記憶を戻せないほど魔力が乱れたままになってない」

 互いに抱きしめ合っているのが、不思議な気分だった。苛立ち混じりに彼の背を引っ掻くでもなく、悪口の応酬をするわけでも無く、ただ気持ちを明かしては愛を囁く。

 外は暗く静かで、締め切った室内に互いの小さな声だけが響いていた。

「僕は、住めるのならずっと一緒に住みたい。記憶も取り戻してほしい。たまに、一緒に出歩くのは楽しかったし、……身体を重ねるのも、嫌いだとは思えなかった」

「一言でいい」

 僕の回りくどさに、呆れたような声が漏れる。素直に謝って、そうか、一言で伝えられる言葉があるのか、とようやく答えを口にした。

「好きだ」

 言葉に出せば、それが一番しっくりと馴染む。

「……恋人になる?」

「なる」

 嬉しそうな声が漏れて、力いっぱい抱き付かれた。

 

◇7(完)

 やがてくすくすと笑い出し、部屋の中が温かい声で満たされていく。しばらくそうしていると、大きな掌が腰を撫でた。

 不埒な手つきに、払い落としてやろうか、と考えが頭をよぎるが、この行為が目的だったのだと思い直す。

「……今日だけ、だからな…………」

 許しを得て、指先が服の下に潜り込む。

 僅かに冷たい指が腰を撫でると、びくりと身体が震えた。僕の反応を面白がって、奥深くにまで指を伝わせる。

「つめたい」

「おまえの体温が高いんだよ」

 言葉の応酬が行き交っても、声音はただ優しい。つられて僕もふわっふわな声で返してしまって、あたりに響くのは愛を交わし合っているだけの衣擦れのような声だ。

 僕の体温で指を温めて、つい、と腹から胸元へと指先を忍ばせる。

「…………ァ」

 悪戯を仕掛ける指先が、尖りを摘まみ上げる。ひく、と喉が鳴った。

 か細い小動物のような声を聞いた目の前の獣は、愉しそうに唇を持ち上げた。くっと乳輪を広げるように親指で押し潰す。

「……ぁ、ンあ。ばか……ふぁ……ぁン…………」

 服の下ではもぞもぞと指先が動き、突起を指の腹で擦った。擽るような感覚だが、僕の身体はもう胸で快楽を拾える。

 事あるごとに、面白がってこの身体を拓いたこの男の所為だ。

「く……ふ、…………いッ……ん、うぁ」

 噛み締めようとした唇が、知らない触れ方で綻ぶ。

 混乱していると、見下ろす視線を目が合った。

「……開発したのは自分なんだろうが、色慣れしてない奴が知らない間にやらしい躰になってるってのはなァ」

「な、理不尽だぞ……ァ、ン。ゃ……ぁ、っは」

 ベイカーはの寝間着の釦を半分外し、たくし上げる。色を濃くしてつんと立った場所が露わになり、がっつくようにしゃぶり付かれた。

 舌で舐め、柔らかく転がしては歯を当てる。相手の後頭部に手を回しても、腰を捕らえ、吸い付く力は離れなかった。

 ぽす、と頭を叩くと、胸を甘噛みしていた唇が離れる。

「俺が開発したかった」

「開発したのはお前なんだが?」

 散々しゃぶられた場所は形を変え、唾液で濡れ光っている。

 ベイカーはいったん身体を離し、寝台の隙間に手を伸ばす。彼が恋人がいたのだろうと疑念を抱く元になった小瓶は、わかりやすい場所にある。

 瓶の残りを確かめている姿を見つつ、手持ち無沙汰に問い掛ける。

「寝てた相手、僕だって思ってたのか?」

「ああ。元々ちょっかいかけたくなる性格してるし、似た色の髪が落ちてたら勘づくだろ。けど、告白くらいしてると思ってたよ」

「それは残念……、だったな」

「仕切り直しできたし、良いことにしとく」

 僕の寝間着を下着ごと引き下ろすと、身体を寝台に持ち上げて脚から引き抜く。

 瓶が傾き、薄い茂りにとろりと粘り気のある液体が垂らされた。きゅ、と蓋が閉じられ、脇にある机に瓶が置かれる。

 長い指が伸び、色を変えた下の毛の隙間から陰茎が持ち上げられる。ぬめりを帯びた指は、滑らかに先端を擦った。

「あ、ひ──……ぅ、ぁ、んく…………ッ」

 鋭い刺激を与えられ、呼吸を乱す。ぬるりと粘膜の上を滑る所為で、扱き上げる手つきに容赦は無かった。

 一瞬で絶頂へと引き上げられるような手つきに、制止する余裕もない。

 くちくちと先走りと粘着質な液体が撹拌され、泡立って弾ける泡の刺激が指先で塗り広げられる。

「……ひ、うぁ、……あ、やだ……ァ、──っく!」

 軽い絶頂は、ぱっと手を離されて噴き上がらないまま終わる。

 顔を上げて彼を見ると、にた、とあくどい笑みを浮かべていた。縋るように潤んだ瞳で見たとしても、ただ愉しがるだけで望みを叶える様子はない。

 く、と唇を噛み、自らの手を半身へと伸ばそうとする。拙い指先は、別の大きな掌で遮られた。

「触ったら駄目だろ……? まだ後ろにも触ってねえのに」

「ヤ……僕、魔力が混ざってるのに……ッ! いきた────」

 両手が取られ、そのまま体重を掛けて背後に転がされる。どっとシーツの上に倒れ込み、起き上がる前に力を込められた。

 両手はまとめて縫い止められ、片方の手が両頬を鷲掴みにした。まだ絶頂が引き延ばされることを理解させるように、至近距離まで鋭い目が近付く。

「お前は後ろ、拡げられて突っ込まれて────ぎりぎりまで引き延ばされた分、ぎゅーって食い締めて達くんだ。魔力、混ぜなきゃいけないもんなァ?」

「……──や、ぁ。いらな」

「安心しろ。泡立って溢れるくらい、出してやる」

 ひくん、と喉で鳴いて、大人しく脚を開かれる。腰を持ち上げられて尻を晒し、谷間を辿った指がくっと窪みに潜り込んだ。

 魔術で準備が整った場所だが、更に快楽を拾えるように太い指が捏ねていく。

「う、あ────」

 ぐぶぐぶと一気に奥まで指が押し込まれ、内側を探るように辿っていく。弱い処はすぐに探り当てられた。

 指の先で、そのしこりを撫でさする。

「ひ────、ァ、や、やめ…………ぁぁああッ!」

 久しぶりとはいえ、それまでは散々男根で押し潰され、快楽を拾っていた場所だった。指先でその感覚を思い出させられ、啜り泣くまで捏ねられる。

 混乱にばたついた脚は押さえつけられ、ぐぐ、と更に深くまで指が含まされた。

「ぁ、あ、そこ────きら、い…………ン、ぁ、あ、あ。やだァ……!」

 逃れようとしても身体を絡み付かせ、縁が捲れ上がるほど指を前後させて褥の記憶を呼び起こされる。

 啜り泣く声と、後腔を掻き混ぜる音が不規則に響いていた。びくびくとつま先が痙攣し、シーツに指先を食い込ませては波立たせる。

 ただ、すぐに迎えられるかと思った絶頂は、適度に緩む指に押し留められた。

 弱い炎に炙られたまま、燃え上がることなく置かれる。

「ひ……っぐ。な、で。いかせて──……くれな……?」

 半分泣くように問うと、ベイカーはその問いを待っていたように、布越しの膨らんだ股間へと僕の手を導く。

 囁くように耳元に落ちる声は、魔が唆しているかのようだった。

「せっかく両思いになって強制、って訳じゃないし。触ってくれねえかなぁ、──って」

 ちゅぷ、と後腔から指を引き抜くと、自らの服で濡れた指を拭った。

 また炎は止められてしまって、ぐずぐずと僕の内は熱で煮え崩れている。ぐす、と涙を飲み込み、よろよろと身体を起こす。

 寝台に座り込んだベイカーは、何をするでもなくこちらを見守っていた。

 僕は相手の服に手を掛け、前を寛げる。下着を引き下ろすと、ぼろりと肉棒が黒い茂りの間からまろび出た。

 僅かに形を変えつつあるそれは、少し刺激を加えれば突き入るのに丁度良い硬さになりそうだ。

 身体を倒し、彼の半身の近くまで顔を寄せると、口を開けて迎え入れる。

「へぇ……。舐めてくれんの……?」

 口いっぱいに頬張りながら、こくんと頷く。丸い部分を頬に擦り付け、竿に舌を絡み付かせる。

 更に膨れつつある質量に怯えながら、じゅぷ、と顔を前後させた。口の中には独特の味が漏れ、鼻から抜けていく。

 だらりと口からは唾液が零れ、漏れている液から魔力が伝うのが分かる。彼を突き入れられている時のような快楽に、僕の分身もだらだらとシーツに涎を垂らしていた。

「ンく、……ふ、う……ん、ん」

「か、っわいいなァ……」

 しゃぶりついていた雄を口から出し、ちゅう、と先端を吸う。反応しているモノを口を開けて喉奥に擦り付け、溢れた液を飲むように喉を動かした。

 性欲が強い上に体力がある所為で長くて、曖昧に放置すれば突っ込まれた後に延々と揺さぶられることになる。喉でいちど達してくれないだろうか、と希望を込めて扱いていたが、ちょうど上り詰めるところで制止された。

 身体を引き剥がされ、けふ、と咳き込むと、口の端から色んな味が混じった液体がこぼれ落ちる。

 見下ろした場所にある欲望は、凶悪なほどに膨れ上がった上に、唾液を纏って赤黒い表面が主張するように光っていた。こぷりと露を零す鈴口からは、まだ濃い白濁が噴き上がるはずだ。

「奉仕してもらったからには、しっかり返さないとな?」

「こわ……いから、要らない」

 はは、とベイカーは笑い、脚を掴んで僕を寝台に引き倒した。

 腰が持ち上がり、指先で慣らされた場所が相手の目の前に晒される。さっきまで太い指が挿っていた所為か、輪が閉じきれずにはしたなく濡れた口を開閉している。

 自らが育てた肉棒が眼前に突きつけられ、その巨きさに身体が逃げを打つ。けれど、力は弱まることなく、丸い部分が尻の谷間をつう、と辿った。

 ゆっくりとした動作は彼の焦らしでしかなく、質量の違いを擦り付けられては体液が絡み付く。

「や……。も……挿れ、な……」

「ほんとか?」

 ぴたぴたと竿で尻たぶが叩かれる。繋がらなければ魔力は混ざらないし、記憶を取り戻したいのは僕も同じだった。

 そして、何より懐かしい感触を、躰が欲しがっていた。この身体はあの熱を知っている。

「…………ッ。あ……挿れ……て」

 言葉を言い終わる前に、ぐぷん、と孔に先端が埋まった。角度を定め、ぐぐ、と体重が掛かる。

「あ─────、ぐ、う。……ぁ、あ」

 しばらくご無沙汰だった身体は、その質量を初めて受けたかのように食い締める。上手くちからも抜けず、めりめりと押し拓く力だけで侵入を許した。

 肉襞が竿に絡み付く所為で、敏感な場所を膨れた部分が擦っていく。

「おい。本当に俺、……ッら……寝てたのか? もうちょっと、力抜けって……」

「わか、な……。まだ、最初の時……ッのが、楽だ……ぁア……」

 担ぎ上げられた太腿を叩かれ、ずっ、と軽く引き抜かれる。身体を楽にするための刺激さえも酷で、ただ快楽に震える。

 置かれていた小瓶が持ち上げられ、中身がたら、と結合部に垂らされた。滑りが良くなった場所は、容易く刺激を拾えるようになる。

 中身の無くなった瓶をシーツの上に放り、ベイカーは体勢を変えた。腰が持ち上がる姿勢は、繋がっている部分が視界に入る。

 肉槍が突き刺さった縁は赤く捲れ、垂らされた液体で色を濃くしている。くぷ、と僅かに竿が動くと輪が拡がり、そして反射的に閉じて皺を作る。

「……ぁ、あ、あぁ────……ッ」

 ほんの少しずつ奥に進んでいく度に、薄い腹を押し上げる。身体の中を預けて、ただ拓いて、その場所に他者の魔力をぶちまけることを許す。

 恋人じゃなくたって、こんな事は彼以外には許せなかった。

「…………、っく」

 ばん、と腰が尻に叩き付けられる。視界に入っていた赤黒い棒は僕の身のうちに収めきり、くっついた部位には違う色の下の毛が濡れて絡み合っている。

 もう腰から下には力が入らず、僕はただ息を吐いて、腹を撫でた。こんなに、ぜんぶ押し込まれたら彼の雄の形が手のひらで分かってしまうかもしれない。

 呼吸を落ち着けている恋人を、滲んだ視線で見返す。

「ベイ、カー……──」

 指先を伸ばしても届かないのに、身体は繋がっているのが不思議だった。

 嫌と言うほど含まされて、無くせば体調を崩すほどに馴染む魔力に頭をぐらぐらと揺さぶられる。

「僕たち、こいびと、……だな」

 視界が狭まり、ふ、と口が緩む。

 繋がってようやく、満足感が足元から湧き上がってくるようだった。ベイカーは呆気にとられたような顔になって、いつも通りの悪い笑みを浮かべた。

「ああ」

 ゆっくりと引き抜かれた雄が、ずん、と突き入る。

 目の奥がちかちかとして、滲んだ体液から伝わってくる魔力はもう溢れそうだ。身体が覚えているかのように、滑らかに抽送を繰り返す。

「んァ、あ……ッは。……ぁ、ん、あ、あ、ぁ」

「うぁ、…………く、う」

 ぐぷ、こぷ、と濡れた音が響く度、縁から零れた液体が鞍部を伝ってシーツへ落ちる。指で探り当てた弱い部分を通り過ぎ、更に奥まで亀頭が届く。

 ぐり、と奥に押し付けて、引き抜かないまま小刻みに揺らされた。

「……や。それ、────ほんと、だめ、だ……て、ァっ」

 制止しても感じているのが分かっているのか、同じ箇所を散々苛められた。今日のこれを味わってしまえば、今まではまだ手加減されていたのだと悟る。

 目の前にいる男の欲のまま、欲しがるだけ強く快楽を引き出された。

「まだ奥、いけるだろ……?」

「も、……前、も、……こんなとこ────届いたこと、な、ァ……ッ!」

「…………っく。そりゃいい」

 寝台に押し付けられ、体重が掛かる。もう奥へは入らないはずなのに、更に奥に吐精すると言わんばかりにぴたりとくっついた。

 僕の半身も、もう欲を吐き出したいと膨れ、視界で揺れている。

 身体の中で膨れる雄の形からか、それとも奥を濡らされる感触からか、彼の限界も近いことを悟る。

 脚を彼の身体に擦り付け、頂へと誘った。

「…………中に、くれ」

 指先が太腿に食い込み、引いた腰が叩き付けられる。

 ただ吐き出すことだけしか頭にない動きは、快い場所を滅茶苦茶に押し潰す。唇を開いて嬌声を漏らし、見開いた瞳から涙を零した。

 ぱん、ぱん、と皮膚が叩き付けられ、内側を押し上げられて呼吸を乱す。

「……う、ァ」

 膨らんだ欲望が、奥へと狙いを定めた。

 もう引き抜かない、と決めているように距離を詰め、呻き声と共に全体重を掛ける。

 暴力的な魔力の奔流が、ただ僕だけを追い詰めた。

「……は、ぁ。……──っ、う」

「────ひ、う。…………ぁ、ン、ぁああああぁああぁああぁッ!」

 叩き付けられた白濁を通して、別の魔力がひたひたと身体を浸していく。

 頭が痺れて、繋がっている感覚しか分からなくなった。これまでのどの交合よりも近くて、自身の境が分からない。

 既に溢れている内へと蛇口から欲望を次々と流し込まれ、ただ断続的に声を漏らす。受け止めた腹の奥が、熱を持つようだった。

「……大丈夫、か?」

 一瞬、意識でも飛ばしていたのだろうか。

 まだ後ろには銜え込んでいる感覚があり、ねっとりと内壁に絡んでいる。もぞり、と身体を動かすと、僅かに熱が燻る。

「……へい、き……だ。……けど」

 ベイカーが僕の腹に手を置き、中からずるりと肉棒を抜く。食んでいた輪の縁から濡れたものが零れ、閉じきれずにぱくぱくと開閉する。

 だらりとシーツに手足を投げ、放心したまま天井を眺める。しばらくそうして、ようやくベイカーの様子を見る。

 寝台に腰掛けたまま僕を見ている恋人は、体力差ゆえか、まだまだ余裕がありそうだ。

「……記憶、もどりそうか…………?」

 力の入らない声で問い掛けると、何かが変わった様子もなく、いつも通りの表情で唇を吊り上げる姿があった。

 ただただ飄々としていて、彼の心の内を掴むのは容易ではなさそうだ。

 彼がすでに記憶を取り戻していたとしても、僕には分からないに違いない。

「残念。……でも、ちゃんと記憶取り戻したいからさ。もうちょっと付き合ってくれよ」

 唇に浮かんでいるのは悪巧みをする時のそれで、僕はやっぱり記憶が戻っているのではないか、と訝しむ。

 指摘してやろうか、と考えて、詮無いことだと諦めた。はぁ、と息を吐いて、腕を目の上に置く。

「仕方ない。……恋人の頼みだからな」

 染まった目元は見えないようにして、ぶっきらぼうに吐き捨てる。耳にはベイカーの満足げな笑い声だけが届いていた。

 

 

 

 翌日になって、記憶が戻った、とにんまりしていたベイカーに、僕は怠い腰を押さえながら良かったな、とだけ伝えた。

 いつ記憶が戻ったかは彼しか知り得ないのだが、もう既に僕にはどうでもいいことだ。記憶が戻ろうが戻らなかろうが彼は僕を抱くし、その日だって記憶が戻ったから、とまた寝台に引き込まれた。

 恋人だから、と意図しない禁欲生活を取り返すように、僕は何かにつけて部屋に誘われ続けている。

「なぁ、釘取って」

 ベイカーとの同居は解消しなかったが、母と暮らしていた家はいちど見に行った。

 子どもの頃から住んでいる家ゆえ、がたが来ている部分もあるのだが、魔装技師である彼はあちこち見て回って、直すか、と言い始めた。

 基本的に物作りは好きな質のようで、僕が好むように改造したり壁紙を貼り替えたりと休みを使って補修を続けている。

 家は思ったよりもいい出来で、主に使う部屋の改修が終わったら、一緒にこちらの家で暮らそうかと話しているところだ。

「はい」

 釘の入った小箱を渡すと、彼は慣れた手つきで金槌を振るう。僕は掃除を兼ねて、細々とした家具を塗り直したり簡単な補修を担っていた。

 今の家は、ベイカーの工房だった部屋を僕が使っている。けれど、こちらの家なら、もっと広い部屋を工房に割り当てることだってできるのだ。そうすれば、大型の魔術装置の開発だってしやすくなる。

 過ごし慣れた懐かしい家が、別の色に変わっていく。

 寂しさもあるが、それよりも未来への期待の方が大きい。庭も、家も、手を掛けようと思えば何でもできるのだ。

 そして、傍らにはずっとベイカーがいる。

「…………何?」

 じいっと恋人を見入っていた僕に、視線を感じたのか、振り返った本人から声が掛かる。ふわりと唇を綻ばせて、首を横に振った。

「なんでもない」

 脚立から下りて金槌をベルトに引っ掛け、彼は僕の頭をくしゃくしゃにする。僕は背伸びをして、彼の頭にも同じ事をした。

 縺れ合っていると、視線の先の窓硝子に、ちょっかいを掛け合う僕たちが映る。

 そこには表情を崩して、満面の笑みを浮かべるひどい顔の僕たちがいた。

魔術師さんたちの恋模様
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坂みち // さか【傘路さか】
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