魔術師オメガは遊び人アルファに掛けられた恋の呪いを解きたい

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この作品にはオメガバース要素が含まれます

 

▽1

 父から声を掛けられたのは、午前の仕事を終え、帰宅して直ぐの事だった。帰宅前の仕事は、少し前に解呪した貴族のご令嬢に対する、その後いかがですか、というお伺いだ。

 若い令嬢が気を悪くしないよう接したため気疲れして、午後は休む気満々だった。わざわざ僕を探していた様子の父に、嫌な予感がする。

 父は僕に歩み寄ると、被っていた帽子のつばを持ち上げた。

「シュカ。解呪の依頼だ」

「どなたから?」

「西方の領を持つ、ローレンツ家の三男は分かるか」

「フロード様ですか。ああ、……如何にも、恋愛沙汰で呪われそうな……」

 ローレンツ家の三男。フロードという男は社交界でも悪い方に名の知れた男、そしてアルファだ。

 ベータもオメガも、男も女も見境なく浮名を流している人物。更に言えば、美男美女がお好みのようで、それもまた噂話の種になっていた。

「くれぐれも、本人には言ってくれるな。それで、お急ぎのようで、然程経たないうちに来られると思うが……」

「ご本人が?」

「ああ。対応できそうか」

 僕は玄関下の陰に入り、被っていた帽子を脱ぐ。

 こぼれ落ちた黒髪は、癖がなく、結えていない部分が肩に流れた。暑さに息を吐く。夏に起こる生命の煌めきは、死ともまた近しい。

 父の、茶色の目を見上げる。僕も持つその色は、東の島国から移り住んだ子孫特有の色だ。

「汗を流して服を着替えてきます。その間にいらっしゃったら────」

「分かった。中身のない長話は得意だ」

 父が請け負ってくれた事に安堵しながら、広い玄関を抜け、足早に浴室へと向かう。貴族の屋敷らしい廊下の長さに苛立ちながら、こちらは長くもない脚を動かした。

 脱衣所に入ると、背中の留め具を外す事だけを使用人に頼み、残りの服は自ら脱いで引き渡す。客人のことを伝え、着替えの服を指示して持ってくるよう頼んだ。

 使用人が手短に承諾の言葉を返したのを確認すると、浴室の扉に手を掛けた。真白い石造りの小振りな浴室は、オメガである僕の為に用意されたものだ。

 裸で浴室に入り、壁に備え付けられている魔術装置に手を掛けた。魔力を流すと、湯が頭上から降り注ぐ。

「何故、この時期は忙しいんだろう」

 人が家に閉じ籠もる冬よりも、夏に感情が動くのは理解できる。だが、解呪の案件が立て続けに起きるのは気疲れした。

 僕は通っていた魔術学校で、呪術を専門に学んだ。

 師もまた東の島国と縁があり、引っ込み思案で他人を見てばかりな僕の性格を、解呪向き、だと判断したようだ。

 卒業後は、屋敷付の魔術師のような仕事をしつつ、貴族内で呪いに掛かった人物から話を聞き、自ら解呪するか、僕の手に負えない場合はもっと高位の魔術師への依頼を勧めている。

 汗を洗い流すと、湯を止めた。指先に魔術を灯し、魔術式を綴ると髪に温風が吹く。

 同様に皮膚の水分も吹き飛ばすと、使用人から服を受け取った。またしても背にリボンのある服を恨めしく思いつつ、背後で結んでもらう。

 使用人は僕の髪を整え、結い紐で一つに纏めた。

 客人のことを尋ねると、まだ到着していないそうだ。

「これから客人が来るんだけど、その前に軽く食べ物を入れられないかな」

「厨房へ、相談して参ります」

 戻ってきた使用人に、本当に簡単なものでよろしければ、と言われつつも食卓へ案内される。

 温めたパンと味付けして焼かれた肉、生野菜と果物、という一皿を有難く腹に収め、料理人への感謝を言付けた。

 満たされた腹を抱えていると、来客を伝えに執事がやってくる。然程広くはない応接室へ向かい、執事と父が扉越しに言葉を交わしている様を見守る。

「どうぞ」

 執事が開いた扉から中に入ると、座っている父と、机を挟んで向かいには舞踏会で遠目に見たことのあるアルファの姿があった。

 二人は、僕の顔を見て立ち上がる。来訪者に向かい、軽く腰を曲げた。

「初めまして。シュカ・アサバと申します」

「こちらこそ、初めまして。フロード・ローレンツという。急に押し掛けて済まなかったね」

 いいえ、と返し、大人しく言葉を受け入れた。貴族としての位は向こうの方が上だ。突然来訪されたとしても、完璧に持て成さねばならない。

 差し出された手を握り返すと、彼は近くでにっこりと微笑んだ。

「君を近くで見たのは初めてだけれど、神秘的で美しいね。その濃い瞳は、覗き込めば吸い込まれてしまいそうだ」

「……ありがとうございます。けれど、美しいというのならローレンツ様の方が」

 艶やかな銀髪は柔らかく、白い肌に掛かる。薄色の前髪の下から覗く瞳は薄い青だ。

 アルファらしく上背があり、体にも適度に肉付きがある。上から下まで眺めれば芸術品のような美しさだが、表情が豊かにころころと変わる様は親近感を抱かせた。

「フロード、と呼んでくれるかな? 一族の者は多いんだ」

「は、……い。フロード様」

 ぐっと顔を近づけ、視線を外さずに話すような人物は苦手だ。思わず背が逃げを打つ。

 解呪には人を観なければならないのに、見返されると長くは見ていられない。

 給仕が机の上に茶器を並べていく間も、うっすらと纏わり付く視線が居心地わるかった。

「シュカ。呪いに関わる話をしている間、私は席を外す。ローレンツ家も、フロード様も我が国にとって重要な存在だ。一刻も早く、呪いを解き、心穏やかに過ごせるよう努めてくれ」

「分かりました。お父様」

 父は僕の背を軽く叩くと、フロード様にも声を掛けて退室した。

 机を挟んで向かい合う位置、父と入れ替わるように席に腰を下ろす。

 彼はカップを持ち上げて一口含んだ。ふう、と息を吐いて、ソーサーへと茶器を戻す。

「早速、相談をしても構わないかな」

「はい。呪われた、とお伺いしましたが……」

「そうなんだ。西の魔女に」

 びくん、と僕の背が跳ねた。

 膝の上に乗せていた手が、無意識に丸くなる。フロード様は僕の様子を見ると、肩を竦める。

「使い魔である烏が飛んできて、そう名乗り、私を呪った、という事と呪いの内容を告げてきた。西の魔女、というのは厄介な相手なのかな」

「はい。本人は何百年も生きている、と言い、確かに古くから同じ特徴を持つ魔女の話が文献にいくつも残っています。曰く、『西の魔女は、強大な呪いの魔術を行使する』と」

 湯気を立てるカップに、手を付けることすら忘れていた。

 呪いを解く際には、術者の特定が重要な意味を持つ。相手の術の特性を探り当て、解呪の算段を立てるからだ。

 そして、強大な術者の場合、魔術師は依頼を断る必要がある。力の強い術者の呪いは、解こうとした術者まで巻き込む為だ。

「呪いの内容は『私が好意を持った相手に触れるたび、心臓が鷲掴まれるような痛みを持つ』こと」

「では、魔女が、フロード様に懸想して……?」

「いいや。私と西の魔女との間には何の関わりもないよ。おそらく、これまで私が関わった誰かが、西の魔女に呪いを依頼した、のだと思う」

 彼の言うとおりだとするのなら、西の魔女に依頼した誰か、は彼にほかの相手と関わりを持たせたくないらしい。つまり、フロード様に好意を抱いていた筈だ。

 頭の中で、必死に言葉を選ぶ。

「ちなみに、フロード様を呪いたいと思うような相手に、心当たりはありますか?」

「それが、両の指で足らなくてね」

 ほう、と憂いを帯びた息を吐く姿は美しいが、どこか邪悪でもあった。

 彼に対して呪いを掛けるような人間が十ではきかないほど、恋心を抱いた相手を捨てたか、邪険に扱った、ということだ。

 この美しさと、人に関わることを好みそうな態度から察するに、然もありなん、といったところか。

「西の魔女は力も強く、古くからの知識を持ちます。若輩者である僕の手に負えるような人物ではありません。この件は、もっと力のある魔術師へ繋ぐことになると思いますが、一応、掛かった術の探知を試みても構いませんか?」

「そう。思ったよりも大変そうだね。探知とやらについては構わないよ」

「では、手を貸してください」

 彼は立ち上がると、平然と僕の隣に腰掛ける。心中で面食らいつつ伸ばされた手を取ると、力を抜くように伝えた。

 性格的には対極にいるはずのフロード様と、予想外に魔力相性は悪くない。皮膚を伝って魔力を馴染ませ、本人の魔力ではない波を探った。

 『心臓が鷲掴まれるような痛みを持つ』と彼は言った。這わせた魔力を、胸の辺りに向ける。触れれば肉を焦がすような、極限まで振れた波があった。

 式を発動させてしまえば、呪いは再現する。

「…………痛みが出たら、教えてください」

 こくん、と頷いたフロード様は、珍しく無言だった。魔力を伝わせるのだって変な感覚があるだろうに、言い及ぶこともない。

 息を吸い、自らの痕跡を術者の波に沿わせてから式に触れる。蔦のように絡んだ式は、彼の心臓を隙間なく覆っていた。

 強い魔力、精密な式。解呪は暗号解読に似ている。呪いを掛ける方が容易で、解く方は多大な労力を必要とする。全てを取り去るには、途方もない時間が必要だ。

「…………っ!」

 ちり、と触れていた指先が、炎に焼かれるような痛みを発した。

 反射的に手を離し、彼は心配そうに僕の指を見る。赤くなった指先を握り込む。蔦は伸び、僕の皮膚にも絡み付いていた。

「大丈夫?」

「はい。フロード様も、痛かった、ですよね……」

 彼の左手は、自らの胸上にある服の生地を掴んでいる。

 相手は、術式を経由して僕を攻撃した。その際に、術式が起きてしまったのだ。

「私は……平気だよ。そもそも、私が招いた事だしね」

 遊び人な割には、その行動が招いた事態を大人しく受け入れている。

 僕は呪いを掛けられるくらいなら奔放さを直せばいいのに、と思ってしまう。だが、この揺らぐ波のような掴み所の無さが、人を惹くのは理解できる気がした。

「僕が下手に触ることで、貴方を危険に晒してしまうかもしれません。魔術学校に、学生時代に師事した魔術師がいます。その方に助言を頂こうと思うのですが、フロード様も、ご同行いただけますか?」

「それなら勿論行くよ、いつがいいかな」

 驚くべきことに彼は、療養中、という身分になっており、行くのならいつでもいい、と言われた。普段は領主の補佐をしているそうだが、呪いを心配され、仕事も休ませてもらっているそうだ。

 僕は直ぐに通信魔術を開き、師匠と連絡を取った。明日ではどうか、と恐るおそる尋ねると、午前なら空いている、と言う。

 僕もまた、今は他の依頼は入っていない。明日の午前に予定を入れてもらった。

「フロード様、予定は明日の午前に決まりました。自領の転移魔術式を使おうと思うのですが……」

「じゃあ、明日もこちらにお邪魔するよ。時間は────」

 転移魔術式までの移動は、あちらの馬車を動かしてくれるそうだ。僕は時間を承諾し、ようやく冷め切った紅茶に手を付けた。

 フロード様は隣から動かず、何なら立ち上がって自分のカップを手元に引き寄せさえする。

「指、赤くなっているね」

 彼は指先を伸ばし、先ほど反撃を受けた僕の手を取った。

 するり、と大きな掌が、大きさの違う手を覆う。痕も残らないようなもので、痛みも引いている。だが、フロード様は痛ましげに手を撫でた。

 その動作の際に、ふと気づく。

 僕に触れても、好意を抱いていないから彼の胸は痛まないのだ。自らの魅力のなさに悲しむべきか、依頼が遂行しやすくなることを喜ぶべきが複雑に思った。

 咄嗟に慣れた笑顔をつくる。

「反射的に魔力で防護していたようなので、傷は残らないですよ」

「そう? 良かった。でも、痕が残ったら私が責任を取るよ」

「はは。僕、まだ神殿へ雷管石を預けていないような人間なので、冗談にならなくなっちゃいますよ」

 貴族に多いアルファ、そしてオメガについては自国内でも特殊な扱いを受ける。

 オメガは命を生む生来の生命力を転じることにより魔力を多く有し、僕もそうだが、魔術師への適性がある者が多い。アルファは体格や力、知性に優れ、国の要人に多い。

 そしてこの両者の間には、番という特別な関係性が存在する。

「そう。シュカはオメガなんだ?」

「はい。けれど、まだ番がいなくて、というか神殿に雷管石を預けていないので、相性の良い相手どうこうも無いですけど」

 国内では、神殿が両者を取り持つ役割を担っている。

 神が雷を落とした時に生じる雷管石は、魔力波形を吸収して永く保持する特性を持つ。

 雷管石を用意して魔力を込め、神殿に預ける。すると神殿には鑑定士が所属しており、番として相性のよい相手を込められた魔力から読み取り、繋いでくれるのだった。

「私はアルファだよ。宜しく」

「はぁ……。存じて、います」

 首を傾げると、フロード様はにっこりと笑った。

 握ったままの手を、軽く上下に振られる。

「シュカ。私は、呪いを受けてしまったことは不運ながら自業自得だと思っているけれど、君と出会えたことは幸運だったのかもしれない」

「…………は、い。僕も、こうやってフロード様と知り合えて嬉しいです」

 褒められているのであろう言葉を流し、机の上に放置されている茶菓子を勧める。

 彼はずっと僕の隣に座り続け、茶菓子を食べる間も笑顔を絶やすことはなかった。

 

▽2

 翌朝、食事を取り、用意された服に着替えて待つと、決めた時間通りにフロード様は屋敷を訪れた。

 玄関から外に出ると、華やかな装飾の馬車が迎える。中から降りてきた持ち主は、フリルのたっぷりとあしらわれたシャツに、夏らしく鮮やかな色味の上着を纏っていた。

 足下は歩きやすいようにか、長いブーツがきっちりと脚を包んでいる。

「おはよう、シュカ」

「おはようございます。フロード様」

 白を基調とした車体に、花を図案化した模様が入った馬車は、人を口説くのには適しているように思える。一緒に馬車で出かけよう、と誘われれば頷く人は多そうだ。

 金を持つ貴族は違う。大きな車体と、最新の魔術装置が埋め込まれた構造にこそ視線がいってしまう僕は、側面の装飾よりも車輪を見つめてしまった。

「落ち着いた色味だし、涼しそうでいい服だ。色味が薄いように思えるけど、草木染めの類かな」

「ええ。領地でよく採れる野菜の皮で、派手さはないのですが、僕は好きな色味です」

「あの煮物によく入っている? 美味しいよね」

 野菜の皮、という雰囲気も何もない種明かしにも、楽しそうに笑って僕の腰に手を回す。

 促されるままに馬車の中に入ると、涼しい風が頬を撫でた。魔力貯蔵装置を使って、空調に影響する術式が動いている。

 僕は広くてふっかりとした座席に腰を下ろす。中央にある机の上には、軽食と飲み物が置かれていた。

 フロード様は当然のように僕の隣に座った。御者に声を掛けられ、馬車はゆっくりと発進する。

「外から見て、知らない魔術装置が搭載されているなと気になっていたんです。冷やすことと、暖めることができる?」

「…………ああ。君は貴族であっても魔術師なんだね。そうだよ。馬車の後部に魔力の貯蔵装置が積まれていて、出がけに屋敷の魔術師が魔力を補充してくれた。行き帰りまでは十分に車内を冷やせる」

 それに、と彼は僕の座席の横にある扉を開いた。

 中には飲み物の瓶が積まれており、開いた扉からは冷気が漏れ出している。僕が思わず手を寄せる様を、フロード様は目を見開いて眺めた。

「素敵な馬車ですね」

「君は、きっと外観じゃなく魔術装置に対してそう言っているんだろうね」

「……すみません。魔術学校では寮住まいで暮らしていたら、服や色味の妙が縁遠くなってしまいました」

「別に謝ることはないよ。美しいものには興味はない?」

 柔らかい色の髪は、日差しの色を受けて輪を抱く。そう尋ねるフロード様の顔は、窓から入る日差しを受けて一層美しく見えた。

 彼のような美形に興味がない訳ではないのだが、付き合いたい、だとか、番になりたい、と思う感情が遠い。

 魔術学校で思春期の衝動をすべて魔術に向けていたら、今になって恋というものが分からずにいる。

 恋情を理由に掛けられた呪いを解いてほしい、という依頼自体は多いのだが、話を聞いていても、ずっと距離は他人事のままだ。

「見るのは好きですよ。触れたいとは思いません」

「成る程なぁ。シュカ、はずっと敬称で敬語のままだものね。依頼人にはそうする決まりでもあるの?」

「父にはなにも言われていませんが、何が依頼人の気に障るか分からないので、そうしています」

「ねえ、私たちは年も近いよね。依頼人がお願いしたら、その堅苦しい喋り方は無くしてくれる?」

 彼の笑顔は苦手だ。言われたことを叶えなければ、という気持ちになる。

 圧から来る怖さの中に、ほんの少しだけ揺れる感情が混ざった。

「依頼人が、そう望むなら。……いいよ」

「フロード、呼べるかな?」

「うん。分かった、フロード」

 彼は笑みを深めると、机の上に置かれていた箱を僕に手渡す。

 金属製の箱は蓋が花の形に盛り上がり、彩色されていた。蓋を開けると、中には焼き菓子が詰まっている。

 僕がフロードを見上げると、彼はこくりと頷く。一つ、小さな円形の菓子を摘まみ上げ、口に含んだ。

「美味しい」

「本当に、君は外側に興味がないね。今度は倍の量の菓子を用意するよ」

「きょ、興味はあるよ……!」

 慌てて蓋を裏返し、表面を見る。

 赤い薔薇を象った模様は、隙間なく鮮やかな色に塗られ、つやつやとした保護材で覆われていた。

 僕が蓋を持ち上げて見つめていると、隣からくすくすという笑い声が聞こえた。

「箱、貰っていいの?」

「市井にも出回るような、お土産用の安物だよ」

「くれるなら、貰う」

「そう? じゃあ、中身ごとどうぞ」

 彼に食べなくていいのか、と尋ねると、もう食べた、という返事だった。

 菓子を摘まみ上げ、さくりと囓る。喉が渇いて、机の上にある飲み物を含んだ。

 僕が食べている間、フロードは黙って景色を見ている。

 だが、気配が追ってくるような気がして、指先がうわついた。馬車の車輪が地面を掻き、ふと小石に座面が浮き上がる。

 捉えようもなくふわふわとした、見知らぬ空気があった。

「美味しかった」

「やっぱり、倍の量を買ってくればよかったね」

 伸びた掌が、僕の頭に乗った。欠片すらも残さず空になった箱に、うれしそうに蓋をする。

 僕の家は歴史が浅く、領地も広くはない。彼は安物だと言ったが、とっておいても父は何も言わないだろう。

 蓋を閉じた箱を仕舞うと、小さな鞄はいっぱいになった。

「食べるのは好き?」

「それも、あるけど。解呪の依頼期間中は、よく食べるようにしてるよ。魔力切れが理由で、守れないことがあるといけないから」

 フロードは眉を上げた。

「そうか。私は知らないうちに守られていたみたいだ」

「今、術式は動いていないよ。でも、その式が全力で僕に向かったら、正直、本調子じゃないと厳しいかな」

「君はずいぶんと腕のいい魔術師だと聞いている。となると、相手が悪いのかな」

 フロードは自らの胸に手を当てた。

 掌の下には、蛇の牙のように術式が食い込んでいる。明日、その心臓を絞め殺すかもしれない。その恐れは、誰よりも彼がいちばん分かっているはずだ。

「師匠は、僕よりずっと呪いに詳しく、腕がいい魔術師で……。だから、きっと大丈夫。呪われていることを怖がると、呪いの力は増してしまう。だから、ただ僕を信じて」

 声が揺れないよう、気をつけて言葉を発した。

 貴族たちにとっては見慣れない、神秘的と言われる僕の容姿は、こういう時にうまく機能する。

「そうだね。怖がらないのは難しいけれど、君を信じることは容易いよ」

 彼は、僕に開いた掌を差し出す。

 望まれているような気がして、その手に自分の手のひらを重ねた。フロードに痛みを感じる様子はない。術式も、動いているような様子はなかった。

「シュカは体温が高いのかな。触れていると安心するよ」

 あからさまな口説き文句を何の好意もない人間に対して吐くのに、それが良く似合っている。

 遊び人だと知らなければ、柔らかい空気に釣られてころっと落ちてしまいそうだ。

「それで落ち着くのなら、好きにして」

 そう言うと、彼は僕と手を繋いだまま、軽く肩を寄せてくる。

 重い、と文句を言うには羽でも載っているようなそれに、口を噤んで馬車に揺られた。

 

▽3

 魔術学校に到着すると、身体検査を受け、慣れた敷地内を案内なしに歩く。

 僕が解呪に困った時に頼れる人物は少なく、師匠はそのうちの一人だ。来訪の打診をすると事情を汲み、すぐに時間の都合を付けてくれる。

 僕の家のような小さな貴族に親切にしたとして、研究室に入る金銭は殆どないというのに、弟子であることを理由によく都合をあわせてもらっていた。

 扉を叩いて返事を確認し、研究室に入る。

 大量の本棚、術式が刻まれたいくつもの古びた品。最低限の明るさしかない狭い室内は、昔から変わっていなかった。

「いらっしゃい、シュカ」

 ローブ姿の美形の男は、僕と同じような色彩でありながら、白い肌を持っていた。

 手を広げる師匠の腕の中に飛び込むと、軽く背を叩かれる。僕もまた、彼の背を抱き返した。

「セイウ師匠。予定を空けていただいて、ありがとうございます」

 僕は身体を離し、扉の近くに立つフロードを振り返る。

 彼の眉は軽く寄せられていて、瞳の中に感情は読み取れなかった。

「この方が、フロード・ローレンツ。今回の依頼人です」

「初めまして。フロードという」

 セイウ師匠は差し出された手を取ると、腕を引いてフロードさえも腕に収めた。

 師がぽんぽんと背を叩く動作に、初対面であるはずの相手が驚いているのが分かる。

「これは……。西の魔女の恨みを買った? 何をしたんです」

 師匠は身体を放すと、魔力の出所をぴたりと言い当てる。

 続けて、無言で目を丸くしているフロードの肩を叩くと、近くにある椅子を勧めた。

「まあ、ゆっくり話を聞きましょう」

 師匠は一旦その場を離れると、カップを三つ、盆に載せて運んできた。

 椅子に座った僕たちの前に二つ、もう一つのカップは使い古された師匠自身のカップである。

 お茶に手を付けない僕たちを放って、彼は飲み物を口に含む。

「ああ。緑茶はお好みではない?」

「いえ」

 フロードに向けて尋ねた師匠の言葉に促されるように、彼はカップを口に寄せる。

 こくん、と飲み込んで、興味深そうに水面を眺めた。

「そういえば、自己紹介が未だでしたね。僕はセイウ・オザキ。シュカの祖先と同じ、東の国から来た移民の子孫です。専門は呪術」

「その。西の魔女の呪いだって、どうして分かったんですか?」

 僕が尋ねると、師匠は軽く目を瞠る。

「西の魔女に関する書物には、かなり多く目を通した。同じ専門分野を極める者同士ね。だから、魔力波の特徴や、術式の癖は知っている。滅多なことで人を呪わない、という彼女の人間性もね」

 師匠の言葉は、ぴりり、と空気を締め付ける。

 本人は薄く笑みを浮かべ、緑茶の味すら楽しんでいる様子だ。だが、僕ははらはらと二人を見守る。

 フロードは肩を竦め、観念するように口を開いた。

「私は、沢山の人と交際することが多くて」

「番を持たずに遊んでいた、とか?」

 師匠の問う声は浮いていて、なんだか愉しそうにすら思える。普段なら依頼人のこういった事情を煽るように聞く人ではないのだが、今日は様子が違う。

 西の魔女、呪った相手のことに思い入れがあるからだろうか。

「…………ああ。だから、呪いを依頼した相手は特定できない。何故、西の魔女がその依頼に合意して、呪いを掛けたのかも分からない」

 僕と同じ考えを、フロードも抱いているのかもしれない。

 僅かに、彼の声に余裕がなくなっているように感じる。

「呪いの内容は、心臓に関わることですか?」

「ああ。好意を持つ人物に触れると、心臓が締め付けられるんだ」

「試していただきたいところですが、僕相手じゃ発動しなさそうですね」

 はは、と師匠は笑うのだが、フロードは同意も愛想笑いもしない。

 無言に耐えかね、僕は身を乗り出した。

「それで、師匠。僕は呪いを解きたいのですが、術式を無理やり剥がすには、僕と相手の力量差がありすぎるようです。何か方法はないでしょうか?」

「西の魔女の呪いを解く、か……」

 ううん、と師匠は濁った声を漏らす。

 彼は腕組みをしたまま、視線を空中に投げた。寄せられた眉から、簡単にはいかない事を悟る。

「西の魔女の呪いを解いた人物で、最も有名な話が一つある。昔々、とある王が西の魔女の機嫌を損ね、短命の呪いを受けた。その呪いは何代にも続き、とある若き王の時代まで続いてしまう。代々の王は諦めのうちに死んでいったが、その若き王は諦めなかった。当時、西の魔女と同じくらい力を持っていた魔術師……東の魔術師を頼り、呪いの解き方を教わったそうだ」

「その方の、呪いは解けたんですね」

「そうだよ。手段、については残っていないけれどね」

 師匠の言葉が真実なら、東の魔術師を頼ればいい、ということになる。

 だが、その時に簡単にはいかない、と魔術の師ですら考えた理由を察した。

「それ。何年前の話ですか、東の魔術師は……」

「何百年も前の話だ。魔術の歴史的な断絶以前の話だからね。勿論、東の魔術師の消息はいざ知れず。西の魔女、が当時の文献に残る西の魔女と同一人物かも分からない」

 僕は、絶望のうちに黙り込んだ。

 自然と肩が丸くなり、組んだ手が祈りの形をつくる。

「シュカ。呪いの解く手段を挙げてみてくれるかな」

「……はい。一つは、術式を別の術者が解くこと。これは、術式に精通している必要があり、掛けた術者よりも、解く術者の方に力量がある場合に行えます」

「じゃあ、この場合は不適切だね。他には?」

「呪いの主に、呪術を諦めてもらうこと。呪いたいと思った原因を取り除くこと。そうすれば、今後、同じことも起きにくくなる」

「そうだね。僕は、後者を君に勧めてきた。それは、呪いは解消しなければ繰り返すからだ。恨みは呪いを呼び、呪いは相手ともども術者を蝕む」

「でも、西の魔女は、その呪いを行使しています」

 僕と師匠の問答を、フロードは黙って聞いていた。いや、口を挟む隙もなかったのかもしれない。

 彼の眉は寄りっぱなしで、それでも、僕はそんな依頼主へ気を遣う余裕もなかった。

「西の魔女は過去、呪いの代償となるものを一気に支払ったと言われている。その後、何百年も誰かを呪い続けて尚、残るほどの代償をね」

「じゃあ、西の魔女に働きかけるのは、得策ではないですか?」

「ああ。僕は、その……彼が遊んだ、と認識している人全員に、誠意を持った別れをやり直すことを勧めたい。今回の件が解決したとして、恨みが残っていればまた呪われる。呪術師は世の中にいくらでもいるからね」

 僕は、フロードの方を見る。

 視線を受けた彼は、何かを決意したような強い眼差しで頷いた。

「分かった。それが最適だというのなら、そうするよ」

「フロードは、それでいいの……?」

 普通は、誰かに謝れ、と言われれば、避けたい人間が多いものだ。

 僕がおずおずと尋ねると、彼はいびつな笑みを浮かべた。

「その方法があることは、うすうす分かっていたことだよ。けれど、私はその方法から逃げて、解呪を魔術師に依頼する、という手段を選んだ。何となく、この呪いを呼んだ原因が……僕自身の悪い部分が、分かったかもしれない」

 彼は自らの拳を、反対側の手で包み込む。

 ふと、また肩を貸してあげたくなった。この事態を呼んだのは彼自身に違いなく、だが、そこまで彼が人を惹くのは天性の才能だ。

 人たらし、というのはこういう人のことを言うのだろう。

「心当たりがある全員に謝罪して回る。……けれど。もし、それで上手くいかなかったら、また相談に伺っても?」

「ええ、お待ちしていますよ。この研究室はあまり人気がなくて」

 はは、と笑った師匠は立ち上がり、机の上から菓子箱を持ってくる。

 蓋を開けた中には、可愛らしい包装で包まれた飴が入っていた。師匠はその内とびっきり可愛らしい包装を摘まみ上げ、フロードに差し出す。

「今、僕の魔力を込めておきました。短時間、多少ではあれど、術式の効果を和らげる効果があるでしょう」

 フロードは包みを解くと、中身の飴を口に含んだ。

 薄紅色に染まっていた飴が、口の中でからからと音を立てる。

「美味しい」

 強ばっていた彼の表情が、ふわりと和らぐ。

 師匠は僕にも飴を薦め、僕は両手で受け取って同じように口に含んだ。

 それから、師匠からたくさんの菓子をご馳走になり、次の授業の時間まで研究室で世間話をする。

 そろそろ、と話を切り上げた時には、思ったよりも長い時間が経っていた。

「────では、師匠。お世話になりました」

「うん。もし進展がなければ、またおいで」

 見送りを受け、僕たちは研究室の外に出た。

 師匠は別れ際に、思い出したように口を開く。

「良きを願うも、悪きを願うも『まじない』です。そして、人が変化し続ける限り、恨みという力を人は長くは保てない。人は、生きなければ、進まなければなりませんから」

 師匠は、僕の頭に、ぽん、と手を置く。

 掌は頼りがいがあり、柔らかい魔力が手を通して流れ込んでくる。

「いずれ、呪いは解けますよ。うちの弟子を信じてやってください」

 師匠の柔らかい笑みが、フロードにも伝染った。

 そして僕もまた、隣で唇を緩める。

「ありがとう。世話になった」

「気が早い。まったく終わってなどいませんよ。……また、お会いしましょう」

 では、と師匠は手を振り、研究室に戻っていく。

 フロードは足を動かし、廊下を歩き始めた。僕も小走りにその背に続く。

「師匠は願いを口に出すことを、言霊、っていうんだ。何でも言い続ければ叶う、って。だから、いつも別れ際に、またね、って言うんだよ」

「へぇ。あの人は、なんというか、君の師匠、って感じだ」

「そうかな。でも、師匠にも解けない呪いが一つだけあって……」

 師匠は、いつも一人のことを話すときだけ嬉しそうで、頬を赤らめて、難しい顔をする。

 その呪いは生涯解けることはないのだ、と、誇らしげに言うのだ。

 少しだけ脚を大きく開いて、いつもより大きな一歩を踏み出す。

「自分が番へ抱く感情は呪いだと思ってるけど、解けないんだって。難儀だ、っていつも言ってた」

 僕の歩幅が広がり、フロードを追い越す。

 乾いた床を靴底が叩き、心音のようにトトン、と小気味よい音を立てる。僕が彼から離れようとした時、振っていたはずの腕が掴まれた。

「……早く歩きすぎてた?」

「そうだよ。心細い、一緒に行こう」

 ふふ、とフロードは笑い、手首を掴んだまま歩き出す。

 掴まれると手を握り返せないと思って、ふと、僕は握り返したいのかと自問した。

 

 

▽4

 フロードとは暫く、会う予定を立てなかった。彼が思いつく限りの償いと、誠実な別れをしてくる、そう言ったからだ。

 会わない間、時おり手紙と菓子が届けられた。詳細な謝罪については書かれておらず、来訪した地名と、その場所での近況が書かれている。

 途中までは元恋人の人数をなんとなく数えていたのだが、本当に両手の指を超してから数えるのをやめた。

 毎回届けられる美味しいお菓子は、各所の名産品ばかりだ。

 随分と会っていない筈なのに、手紙と土産の所為か離れている気がしない。彼にとって数でしかない昔の恋人たちも、この気遣いに絆されていたのだろうか。

「やっぱり、古い書物は見つかりにくいな……」

 一方の僕は、西の魔女の呪いを解く術を教えた、という東の魔術師について調べを進めていた。

 起きてから寝るまで、国立の書庫や、書店に行っては古い書籍をあたった。

 古い書籍というものは、ある一定の時代からめっきり姿を消す。

 魔術的な歴史の断絶というものが、大戦争時に一度起きている。大断絶以前の時代は書物の印刷技術も未発展であり、本の絶対数も少なかった。

 よって、数百年前に生きた、東の魔術師についての情報は、必死で見つけた本を数十冊当たって数行の記述が見つかるかどうかだ。

 よくあるのは、西の魔女でも考えられるように、教えを受けた弟子が師匠と同じ呼び名を引き継ぐことだ。だが、同じ呼び名を引き継いだ、東の魔術師、なる人物が存在するかすら追えていない。

 飽きるほど捲った頁を放り、堅くなった肩を揉む。机の端に置いていた容器の蓋を開け、中の菓子を口に放った。

 干した南国の果物の甘みが口に広がる。届けられた土産は、こうやって書物を読み解く際のいい友となっていた。

「シュカ。少しいいか?」

 扉を叩く音と共に、父の声がする。

 開けることを了承すると、ゆっくりと扉が開いた。

「首尾はどうだ」

「上々……、と言いたいところだけど。全く」

 父は数冊の本を、机の脇にある山へ積み上げた。

 専門外ながら、父も時間が空いたときに手掛かりを探してくれている。

「ありがとうございます」

「いや。フロード様の父君……ローレンツ家の御当主から、シュカの尽力に感謝する、との言葉を頂いた。どうやら、あちらの家で『とても親切にしてもらっている』と評判らしい」

 父に続いて、給仕が入ってくる。冷えたポットを交換すると、新しいカップと焼いたばかりの菓子を置いて去っていった。

 僕はまだ湯気の立ち上る菓子を摘まみ、口に含んだ。

「あちらから、呪いが無事解けた暁には、見合いでもどうかと打診が届いた」

「見合い、は……」

「勿論、シュカとフロード様の間で、だ」

 摘まんでいた菓子が、ぽろりと皿の上に転げ落ちた。

 ぽかんと父を見上げると、視線を向けられた方も肩を竦めている。

「私も、うちの家は領地も狭いし、とても釣り合いが取れないとやんわり伝えたのだが、あちらは、救世主、とでも言わんばかりで」

「あの、僕も。あまりにも釣り合いが取れていないし……」

 父には伝えておいた方がいいだろう、と身体をそちらに向ける。

「フロード……様の呪いは、好意を持つ人に触れると心臓を握り潰すような痛みを覚える、というものです。ですが、その呪いは、あの方が好意を持っていない僕相手には発動しません。フロード様はアルファですから、神殿経由で相性のいいオメガを探すべきでは?」

「あちらは神殿には雷管石を預けているそうなんだ。それでいて、相手が見つかっていない。だからこそ、見合いを、という話が持ち上がったのかもしれない」

 けれど、と僕は言葉を言い淀む。

「運命の番を、蔑ろにするようなことは……」

「……そうだな。私もシュカに無理強いをしたいとは思っていない。まずは解呪を、そして二人の考えに任せる、と、そう返事をしておこう」

 父は僕の肩に手を置くと、思い出したように先ほど積み上げた本を持ち上げる。

 紙を糸で束ねてあるだけのその本は、装丁されている他の本と比べると異質だった。

「この本は、遠い東の国の古語で書かれているんだが、シュカは読めるか? 難しいようなら、読める者を手配するが」

「師匠が教えてくれたので、多少は。題名もない……これはなんですか?」

「うちの先祖の日記、だ。本当なら今回の件には関わらないはずの本だから、読むのは最後でいい、いいんだが……」

 父は本をそっと置くと、腕組みをする。

 最後でいい、と言っておきながら自らの言葉に疑問を持っている様子だ。

「東の国には、人魚、と呼ばれる存在がいる。その存在は、この国では妖精、と括られる存在のうちの一種だ。人魚の肉を食らえば不老不死になると伝えられ、強大な魔力と、美しい声を持つと言われていた」

「この国にも、水妖が歌う港町が存在します。同じ種族なんでしょうか?」

「私は共通点の多さから、同じ、もしくは類似した存在だと考えている。我が一族には強い魔力を持つ者が多く、その特性を持つ者はえてして長寿だ。先祖返り、と呼ばれるような人間もいる。その理由として、古い祖先の中に人魚の血を引く者がいるからだ、と言い伝えられてきた」

「僕の先祖に、人魚がいる……?」

 居てもたっても居られず、その日記と呼ばれる書物の頁を捲る。

 確かに古語が使われていたが、癖のある字ではなく、読み解けないこともなさそうだ。

「人魚の肉、骨、涙、そして血。それらには薬効があると信じられている。その効能は、人魚が、水妖が持つ強大な魔力から齎されているものだ。西の魔女は確かに強大な魔力を持っているが、それは、人外のそれを上回るほどだろうか、と考えると……」

「もし、呪った人物に謝罪しても呪いが解けなければ、こちらの方向から解呪の手立てを探れるかもしれない……?」

「可能性があるくらい、だがな。まあ、他に文献が見つからなかった時にでも、読んでみるといい」

 父は本から視線を外さない僕の頭を撫でると、卓上照明の位置を整えて部屋を出て行った。ぱたん、と静かに扉が閉まる。

 他に文献が見つからなかったら、と言われたが、この文献を追うべきだと考えた。

 西の魔女の呪いを解く術を教えた、東の魔術師の情報はほんの少ししか集められていない。だが、その中に、強大な癒やしの力を持つ、と記載があったのだ。

 東の魔術師が、人魚と、水妖と関わりがあるのなら、呪いを解くことができた理由に近づけるかもしれない。

「──────」

 本を読み解くのに、一昼夜かかった。

 日々のくだらない話から、先祖の出自まで、日記の量は大量で、その中から必要な情報を拾い上げる必要があったからだ。慣れない東の国の言葉、更には古語、ということもあり、読み解く速度も上がらない。

 途中、給仕が何度か食事を運んできた。本から視線を上げないまま口に運び、味もわからないまま咀嚼する。

 そして、ようやく求めていた記述に辿り着いた。

『人魚の血を引く者は、癒やしの魔法に長ける傾向があるようだ。人魚の強大な魔力は、水のように属性を持たず、人の魔力と馴染む。だから人魚は、人の魔力を我が物のように扱う。人魚に扱われた魔力は、重い病すらたちまち治してしまうそうだ。人魚の血を引く我々の中にも、よく癒やしの魔法使いとなる者が現れる。それは、人魚の血の成せる業であろう』

 僕は解呪の時、相手の魔力をよく辿るのだが、その際に拒否反応を起こされることは少ない。

 魔力には好き嫌いがありがちで、持ち主が違和感を抱いていると探知に影響が出る。

 その特性をこれまで偶然だと思っていたが、僕の中に流れる人魚の血も、何代も過ぎて尚、まだ力を失ってはいないようだ。

「今、『西の魔女』『東の魔術師』を名乗る人物の居場所は分からない。だけど、有名な人魚……水妖が歌う港町の場所なら分かる」

 港町に行けば、水妖は僕が似通った血を引いていると分かってくれるだろうか。協力を仰げば、血や骨、肉はともかく、涙くらい貰うことはできないだろうか。

 東の魔術師が、どうして西の魔女の呪いを解く術を知っていたかは分からない。

 だが、もしかしたら、人魚の力こそが、呪いを解いたのではないか。

「水妖の魔力が、西の魔女のそれを上回るのなら……あるいは」

 解呪は原因を取り除かなくとも、術者が諦めなくとも、解呪者の魔力が上回れば可能である。

 自分の身近な存在の中で、西の魔女を凌駕する力を持つ存在の手掛かりは、これしかないように思えた。

「それにしても……水妖って、お伽噺にも程が」

 ああ、と濁った声を吐き出して、めいっぱい伸びをした。

 机の上に伏せて、目を閉じる。目が覚めたらまた調査を再開するつもりだ。だが、あまりにも遠い話にくらくらして、眠りでもしなければ頭の熱が引きそうになかった。

 

 

▽5

「────それが、会いにいった誰もが、心当たりがないと言うんだよ」

 久しぶりに屋敷を訪れたフロードは、溜め息を吐いてカップに口をつけた。

 謝罪行脚の過程については、さわりだけ話を聞き、その後、彼が告げたのがその言葉だった。

 僕は目を瞬かせると、菓子の盆を相手の側へ寄せる。

「嘘を吐いている人がいる?」

「だと思う。数名、目が泳いだように感じた人がいた。けれど、この人だ、と分かる訳でもないしね」

 彼の呪いについては、再会ついでに状態を見させてもらっている。

 結果、変化なし、だ。彼の胸に巣くった呪いは、何も変わらずその場所にあった。

「精一杯、謝罪はさせてもらった。曖昧だった別れも、きっちり言葉にしてきた。私としては、これ以上、思い当たる節がない。あとは……時間を置いて、謝罪を繰り返すしかないかもしれないね」

 そう告げる彼の表情は、どこかさっぱりとしていた。

 謝らなければ治らないのなら、そうする、とでも言いたげだ。

 僕は、人魚の話を切り出すのか迷った。フロードがまた繰り返すのであれば、根本的な解決なしに呪いを解くのは無駄骨になる。

「気を悪くしないでほしいし、話したくなければそれでいいんだけど。フロードは、どうしてそんなに恋人が沢山いたの? 番になる人を、探してたの?」

「いや。オメガとは、あまり交際はしないようにしていたよ。遊びではなくなってしまうから」

 彼は少し迷うように視線を上に投げると、諦めたように息を吐く。

「今は、反省しているし、もう無闇に恋人を増やすような真似はしないと固く誓った。……という前提で聞いてくれるかな?」

「勿論。今日も、以前からすると、大分しおらしいものね」

 僕の言葉に、彼は力なく笑みを浮かべる。

 肩はすっかり丸くなって、この事態に堪えていることが伝わってきた。

「聞いて楽しい話でもないから、概要だけ。若い頃に、オメガの発情期に巻き込まれたことがある。気がついたら、ろくに知らない人間と肌を重ねていた」

 ひゅっと僕の喉が変に鳴った。服の裾を両手で掴む。

 オメガの立場でも悪夢であろうその出来事で、アルファの立場を慮るのは容易かった。

「しばらくは人間不信のようになって引き籠もっていたんだけど、少しずつ回復して。それからかな、無意識に恋人を増やすようになったのは。一なら傷だけど、百ならよくある事。そう、……思いたかったのかもしれない」

 彼の声は不規則に震え、まだその傷が癒えていないことが分かった。

 立ち上がって、隣に座って、また手を重ねたかった。人魚の魔力の一端は、彼の魔力をなだらかにするだろう。

 けれど、そう考えるだけで足が竦む。呪いの発動しない、好意を持っていない相手が、癒やそうとしたとして、彼を発情期に巻き込んだオメガと何が違うのだ。

 フロードの意に沿わないことをしている。その事実に違いはなかった。

「けれど、切っ掛けがどうあれ、したことに変わりはない。情状を鑑みて酌量されたとしても、罪状は変わらないんだよ。それが分かった。私は、呪いを受けるべきだったのかもしれないね」

 最後まで言い終えたフロードの顔には、少しずつ色が戻ってきた。

 僕が呪いに掛かった後の彼しか知らない所為かもしれないが、会わない間にやつれたような気がする。原因を作ったのは確かに彼だが、償おうとしているのもまた彼だ。

 軽く息を吐く。持参していた書物を取り出すと、机の上に広げる。

「────フロードがいない間、西の魔女の呪いを解く術を知っていた『東の魔術師』について調べていたんだ。昔の文献を漁っていたら『東の魔法使いは強大な魔力を持ち、治癒魔法に優れた才を示した』と書かれていた。これが、西の魔女の呪いを解けた理由かもしれない」

「原因を取り除く以外の方法で解呪するときには、術式への理解と、相手の術者を上回る魔力が必要、だったかな」

「そう。東の魔術師は、強大な魔力を持っていた。それだけを理由に、呪いを解いたのかもしれないけど、『強い力を持っていて、治癒が得意な存在』という共通点を持つ存在ががもう一ついるんだよ。……フロードは、水妖というものを知ってる?」

「ああ、分かるよ。うちの家が所有している別荘があって『水妖の歌う港町』は訪れたことがある。妖精の一種で、水辺に棲み、美しく歌う存在。港町では、人間の男と恋をした話が伝わっていた」

 水妖は人に近いかたちをしている為か、時おり人間と恋に落ちる。

 けれど、双方の寿命は悲しいほどに離れている。悲恋で終わる話が多く、僕はあまり好きではなかった。

 指先で頁を捲る。開いた頁には、水妖の想像図が描かれていた。

「僕の先祖に、水妖と似た存在……人魚の血を引いた人物がいた。人魚の魔力は膨大で、水のように人に染み渡る特性を持っていたみたい。人魚の血を引いた人間もまた、治癒魔術に優れた才を示すことが多かったそうだよ。僕は、『東の魔術師』もまた水妖と何らかの関わりがあって、水妖に力を借りて呪いを解いた可能性があると思ったんだ」

「シュカ。もしかして、この妖精の存在すら朧気な時代に、港町に行って水妖に力を借りようと思ってる?」

 僕とフロードの間に、無言の時間が流れた。

 恐るおそる、ゆっくりと首を縦に振る。彼は面食らったような表情のまま固まっている。

「フロードは妖精なんて眉唾だって思ってるかもしれないけど、僕、小さい頃には家の中を走り回るころころした妖精とか、水辺に浮かんでる小さい人たちを見たことがある。今まで錯覚だと思ってきたけど、でも、僕の血に水妖に似た存在の血が混ざってるなら、錯覚じゃないかもしれない。……じゃない」

 最後に近づくにつれて小さくなっていく声が、気持ちと共に萎んでいく。

 荒唐無稽なことを言っているのだろうに、何故か気持ちは遠いはずの港町にあった。

「フロードはほら、忙しいだろうから、僕だけで港町に行こうと思うんだ。水妖のことが分かれば、また手段が見つかるかもしれないし」

「…………君が行くというなら、私も行くよ。毎日毎日謝りに向かっても迷惑だろうし、元々すこし、時間を空けようと思っていたんだ」

 フロードは手帳を開くと、僕に日付を問うた。

 移動手段を調べておらず躊躇っていると、別荘を所有している関係もあり、彼の領地から港町付近への転移魔術式が存在するそうだ。

「狭い別荘ではないし、シュカが泊まれる部屋もいくらかある。料理は管理人に買ってこさせてもいいし、食べに出るのも楽しいはずだよ」

「……なんだか、観光みたい」

「まあ、可能性が低いものを探しに行くんだし、それくらいに思っていた方がいいよ。観光ついでに情報収集、なら成果がなくてもがっかりしないしね」

 二人で予定を擦り合わせ……とはいえ前回と同じように二人とも時間の自由が付く状態で、かなり近い日付に決まった。

「……気を悪くしないでほしいけど、念のため。発情期は平気?」

「うん。抑制剤も持って行く。フロードを巻き込まないようにするから」

 僕がそう返すと、彼は複雑そうにゆっくり眉を寄せた。

 何か言いたげだったが、途中で諦めて唇を閉じる。言葉に追い縋ることもできたが、そうはしなかった。

「折角の遠出だし、楽しい旅行にしよう」

「うん。フロードは呪いを抱えたままなのに、何だか、ごめんね。あまり進展しなくて」

「呪いを受けた原因は私にある。それに、気持ちがすっきりした所為か、『好意を持った』の条件を満たす人がいなくなってしまってね」

 僕が首を傾げると、彼はくすりと笑った。

「昔、恋人であったはずの人と会っても、呪いが発動する類の『好意』を抱けなくなっているようだよ」

「でも、僕に依頼に来るまでは、発動したことがあったんだよね?」

「そうだね。けれど、その人ともきっちりお別れをさせて貰ったし。会って握手しても、胸はなんとも無かった。最近はめっきり無事で、呪いが緩和していると言えるのかもしれない。だから、多少、楽しい旅行を挟んでも平気だよ」

 フロードが変化している事は、魔力の波に触れる時になんとなく分かった。以前の波よりも穏やかで、芯のようなものを感じる。

 呪いを解きたければ謝って回れ、と言われて受け入れる人間に、芯がないとは思えない。その選択が生来の彼の心根によって成されたのなら、今の波の方が彼の素のはずだ。

 恨みも、呪いも多数は悪いものに違いない。けれど、呪いを受けてからの彼は、おそらく良い方向に変化している。

「フロードの魔力の波、とても気持ちがいい波に変わってきてる。そのうち番が見つかったら、もっと安定するよ。きっと」

 そう言いながら、何となくもやっとしたものを抱えてしまう。呪いを解いて、番が見つかって彼が幸せになること、を僕は素直に喜べないらしい。

 感情を誤魔化すために、わざとらしく笑顔を浮かべた。

「……だと、いいけれどね」

 微笑みあって、お茶の時間を一緒に過ごした。

 それから立てた旅行の算段はとても楽しいものだったけれど、一度できた澱みは胸の中に残り続けた。

 

 

▽6

 お互いの家からも了承が出て、旅行がてら解呪に当たることが正式に決まった。

 ただ父は何となく歯切れが悪く、何度も大丈夫か、と心配していた。番ではないアルファとオメガが旅行、というのは表面上、体裁が悪いといえばそうなのかもしれない。

 僕は一貫して、依頼だから、と言い続けた。だが、他のアルファと宿泊、ということになったら、頷いていたのかは疑問だ。

 つばの広い帽子を被った僕は、その日の朝に迎えに来た馬車の前に立っていた。

 中から降りてきたフロードも今日は軽装だが、立ち振る舞いの優雅さから、お忍び、という空気は拭えない。

 手を広げた彼は、出会うなり軽く僕を抱き込んだ。

「素敵だよ。普段の服が落ち着いているから分からなかったけど、シュカは童顔だなあ。普段よりも幼くて、構いたくなる」

「……あ、ありがとう…………」

 暑いから、と馬車の中に招かれると、以前と同じように空間ごと温度が調整されていた。

 浮きそうになった汗が、さっと引いていく。

 座席に腰掛けると、当然のように彼は隣に座った。目前の机には新しい菓子箱が置かれている。

「これ、うちの父がシュカにって」

「え? …………僕、あの。フロードの父君には、何もしてないよ」

「はは。君がお菓子が好きだと言ったら、自分も用意すると言ってきかなくてね。父が運営している農場で採れた果物を使っているそうだよ」

 中身を持ち上げてみると、生地の表面が薄く黄に色づいている。

 ふっかりとしたそれを口に含むと、柔らかい甘みが舌先に届いた。だが、日持ちするようにか水分は少ないようで、僕は準備されていた飲み物の容器を持ち上げた。

 中身は薄めの果実水だ。口の中が洗われるように、すっきりした後味だけが残る。

「ありがとう。この果物も美味しいね」

「良かった。私が君のことを話すから、まだ会っていない事を忘れているみたいで、機会があれば顔を見せてあげてほしい」

「うん。別荘もお借りしてるし、それも含めてご挨拶したいな」

 とはいえ、直ぐに挨拶には行けないだろう。後日、手紙とお礼の品をフロードに託すつもりだ。

 彼の父といえば、見合いどうこう、という話があった事を思い出す。本人から言及されないことを僕がとやかく言うつもりもないのだが、彼の真意は気になっている。

 ちらりと横顔を見て、やっぱり何も言い出せずに口を噤んだ。

 

 

 港町は、眩しい日差しと、暑い季節特有の活気に溢れている。

 到着後にフロードが手配してくれていた店で海鮮をたらふく食べ、それから徒歩で通りを散策することにする。

 僕はともかく、大貴族とも呼べるローレンツ家の一員が街歩きして大丈夫かと思ったのだが、護身術くらいは嗜んでいるよ、とあっさりしたものだった。

 僕の方は魔術に任せて体術の習得を疎かにしており、何か言えるような立場ではない。

「本屋、寄っていい?」

「いいよ。私も気になる」

 古くからある店構えの書店は、外からの日差しを遮るように窓がなかった。

 店内の様子は外観からは伺えず、フロードが重い扉を開いてくれるのをそわそわしながら待つ。

「わ……」

 店内は本の山で、天井が高く、通路は狭い。店の端には梯子が置かれており、高所の本は梯子伝いで取るようだ。

 埃っぽいにおいはなく、紙の匂いだけがいっぱいに詰まっていた。

 店の奥では、新聞を広げた壮年の店主がこちらに気づく。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

 店主の頭の色は新聞と同じ灰色、白髪混じりの髪と髭は、書店の歴史を感じさせる。

 彼は新聞から手を離すことはなく、僕が、何もない、と言えばまた直ぐに読み始めるだろう。

「水妖のことを調べています。関連する書籍はどの棚にありますか?」

 店主はゆっくりと新聞を畳む。安楽椅子から立ち上がると、僕に向け、ちょいちょい、と手招きをした。

 後ろに手を組んで進んでいくのは、店の隅に当たる部分だ。

「最近、水妖が歌ったんだよ。嬉しいことでもあったかね」

「え? う、歌うんですか?」

 水妖の歌う港町、とは古い伝説ばかりのことだと思っていた。今でも歌っている、という事実に声が裏返る。

 店主は顔をくしゃりと崩す。

「歌うよ。でも、聞ける者と聞けない者がいる。聞けない者が多いから、昔の伝説、ってみんな聞こうともしなくなってなあ。だから、興味を持ってくれるのは嬉しいよ」

「水妖が歌ったの、いつですか!?」

「三日前くらいだったかな。……そんなに興味があるのかい?」

 店主は本棚から本を抜き取ると、まずフロードに数冊持たせた。更に移動して本棚から本を抜き取り、僕に数冊持たせた。

 最後に自分の片腕に本を数冊持つと、また手招きをして、先ほど店主が新聞を読んでいた机に戻る。

 店主は机の上に本を置くと、近くに放ってあった椅子を二脚引いてきた。机に本を載せるよう言われ、言われた通りに本を置く。

「これらの本は、とんでもなく高価いんだよ。必要な分だけ読んで、書き写していくといい」

 店主は店の端から紙切れを持ってくると、近くに筆記具を寄せた。

 僕は有難く紙を受け取り、頁を捲った。隣に座っているフロードからも、紙の擦れる音が響く。

 僕の手にした本は、屋敷で集めた書籍よりも更に、水妖の生態に関して詳しく記録がされている。フロードの手持ちの本についても尋ねると、伝承や民話と呼ばれる物語が収められた本だそうだ。

 二人して熱中して読み、時おり紙へと書き付けた。店主は黙って、新聞に目を通し続ける。

「シュカ」

 唐突に、くい、と袖が引かれた。顔を上げ、示された頁に目を向ける。

「ここ。シュカの言っていた、西の魔女の呪いを解いた日のことが書かれているよ」

「え。でも、なんで水妖に関する書籍にその記載が……?」

 疑問に思いながらも、素早く文字を追う。

『若き王の呪いが解けた日。一日じゅう家妖精はざわざわと騒がしくして落ち着かず。港町では水妖が声を上げ、歌い続けた。特に水妖の声は港町に長く住む者たちでも聞いたことのない程の喜びに溢れ、その日はみな漁を休んで聞き惚れた。こんな日に船を出したら沈められちまう、港の者たちはそう言って笑いあった』

 二度、三度と読み返して、僕の仮説がまるっきり間違ってもいないようだと悟る。

 東の魔術師が呪いを解く術を与え、呪いが解けた時、水妖は喜んだのだ。この二者の繋がりを察するには十分な材料だった。

 二人して腕組みしていると、店主が新聞から持ち替えた本から視線を上げた。

「西の魔女のことも調べてるのかい?」

「あ、はい。西の魔女、東の魔術師と、水妖の関わりについて調べていて……」

「そうかい。よく西の魔女はともかく、東の魔術師と水妖に関わりがあると分かったね。書籍にはほとんど載っていないだろうに」

 僕は目を丸くして、店主を見つめた。店主は面白そうに笑って、手元の頁を捲る。

「東の魔術師は、この町をよく訪れていたようだよ」

「何故?」

「さあ。森の中で過ごしていたら、偶には海でも見たくなるのかねえ」

 店主ののんびりした言葉に、ふふ、と隣でフロードが笑った。

「確かに、偶には海でも見たくなるね」

「そういうものかなぁ……?」

 一気にのんびりとした空気になる中、また頁に視線を落とし、調査を再開する。

 途中から、フロードは本を一箇所に纏め始めた。積み上がった本を見て、僕は彼の意図を悟る。

 すべてに目を通し終えると、僕たちは書き付けた紙を纏め、筆記具に蓋をする。横目で様子を見ていた店主は、片付け終えると共に立ち上がる。

「情報は集まったかね?」

「はい。ありがとうございました。それで、この本なんですが……」

 僕が言い出すより先に、そっとフロードに手で制される。

 視線を上げると、にっこりと笑って更に駄目押しされた。

「後から人をやるから、その人間に本を預けてもらえるかな。その時に、代金も持たせる」

「…………おや。本日はお忍びで?」

「はは。名乗るのが遅れたが、フロード・ローレンツという。涼しい店内で読めて助かったよ」

「いえ。こちらこそ、お買い上げありがとうございます」

 フロードは別荘の管理人の名を挙げると、すべての本の代金を聞いて書き留めた。

 僕の小遣いでは少し頑張った買い物になる金額だったが、彼は何でもないような顔をしている。

 店を出る空気になった時、僕は尋ね忘れていたことを思い出した。

「あの、ついでにご存じだったら教えていただきたいんですが、水妖に会いたかったら、何処に行けばいいですか?」

「これはこれは。……何百年も時を戻ったようなことを言いなさる」

 そう言いつつも、昔によく水妖を見かけた、と言われている浜辺の場所を、紙に図で示してくれた。

 文字を書き付けた紙と地図を受け取り、鞄に仕舞う。

「お世話になりました」

「またどうぞ」

 店主は手を振り、僕たちを見送る。店の扉から通りに出ると、一気に眩しい日差しが戻ってくる。

 僕は思い出したように帽子を被り、先ほど貰った地図を取り出す。

「ここ、行ってみる?」

「ああ。人の多い昼間には出てこないだろうけど、位置だけ確認しに行こうよ」

 影伝いに歩き、途中で水分補給をしながら通りを抜ける。眼前に広がるのは一面の海だった。

 真っ青な海が、薄い青空を背負っている。地平線近くには小さな船影がちらほらと見えた。

 海沿いの道を歩いて行くと、高い岩の影になるような位置に指示された浜辺はあった。僕は地図を畳んで鞄に仕舞うと、柔らかい砂浜に靴底を沈める。

 思ったよりも深く沈み、体勢を崩すと、背後から受け止められた。

「気を付けて」

「びっくりした。……ありがと」

 慎重に脚を進めると、波打ち際に辿り着いた。波が揺れて泡立ち、境界線を何度も白く浮き上がらせる。

 周囲を見渡すと、岩場で釣りをしている姿が見えた。昼間には、多少、人が出入りする場所らしい。

「……うぅん。風が強くて気持ちがいい場所だけど。こんなに人目があったら、水妖が姿を見せそうにない、かな」

 風を受けて気持ちよさそうな顔をしていたフロードは、靴を履いたまま、ざぶざぶと海へ入っていく。

 服の裾が濡れているのも気にしていないようだ。

「ああ。姿が見えるとしても夜のはずだ。時間を変えて見に来よう」

 大きな掌が海水を掬い、ぱっと周囲に撒き散らした。

 彼の生まれ持つ色彩は、水を連想させるそれだ。空と海の中にあって、異物には思えない。いっそ、彼ごと景色に閉じ込めてしまいたくなるような姿だった。

 足下が濡れるのは気になったが、追うように海に入った。水に濡れた部分はすっと体温を下げる。

「シュカ」

 伸びてきたフロードの手を取る。頭が暑くて、茹で上がってしまいそうだ。

 波に足を取られないように、二人で手を繋ぎながら波打ち際を歩いた。水に触れている間は涼しく、波の寄せる音は、彼の魔力に似ている。

 繋いでいる手の間は暑いのに、汗が滲んでも互いに放そうとはしなかった。

「こういうの、貴族らしくはないけど、楽しいね」

 そう言うと、二人の間で手が揺らされた。

「貴族だって、遊んでもいいはずだよ」

 彼の胸が痛まない以上、僕の存在は有象無象と同じだ。こうやって戯れても、呪いが解けたらきっと繋がりは絶たれる。

 眩しい陽の下で、水を跳ね散らかしながら、ただ歩く。こんなに近くにいるのに、少しの好意も抱かれていないのが哀しかった。

 海から上がると、足を振りながら砂浜を踏む。僕たちが浜辺から道に戻るのと入れ替わりになるように、二人連れが砂浜へ向かってくる。

「こんにちは」

「ああ。こんにちは」

 二人連れのうち、背の高い金髪の男がこちらへ頭を下げる。もう片方の青年はフードで日差しを遮っており、長い髪以外の特徴は窺えなかった。

 だが、ローブを着ている以上、魔術師だろう。勝手に好感を抱きながら、笑みを浮かべた。

「汚れてもよければ、海に入ると涼しかったですよ」

「へえ、ありがとうございます。……入ろうかな」

 男はそう返事をすると、ローブ姿の片割れの背を押した。

 その瞬間、涼しげな声が押された人物から発せられる。声音に生成された波があまりにも美しく、僕は目を丸くする。

「君だけ入りなよ」

 短い言葉だけ、二人はそれから海に近づいていったが、僕はその背中を呆然と見送った。

 フロードは不思議そうに僕の背を叩く。

「どうしたの?」

「いや。あんなに魔術に適した声が、この世に存在するんだ、と思って」

「へえ。あの魔術師の方、綺麗な声だとは思ったけど……何か違うの?」

「芯があって、でも適度に揺れている。海みたいな声。ああいう声って、何故か魔術の出がいいんだよね。詠唱したら、術式の効果が何倍にも膨らみそう」

 僕たちは魔術談義を挟みつつ、海辺から離れる。

 別荘に帰ったら、夕方は何を食べよう、そう言い合う旅行の始まりだった。

 

 

▽7

 別荘に行くと、別荘の管理人が出迎えてくれた。お茶にお菓子が添えられ、歩き疲れた僕たちは有難く手を付け始める。

 フロードは本屋の件を管理人に告げ、机の上に内容をまとめた紙片を広げた。

「今までの情報を纏めると、『昔、西の魔女が掛けた呪いを解く方法を東の魔術師が若き王へ教えた』『東の魔術師は強大な魔力を持ち、治癒の魔術に長けていた。これは水妖の特性と極めてよく似ている』。ここまでは、港町に来るまでに分かってたこと」

 長い指が、紙片を摘まみ上げる。低い声が僕の言葉に続けて、内容を読み上げ始めた。

「ここからは港町に来て分かったこと、だね。『水妖は歌をうたう。これは昔から同じ記述があるが、現在でも少ないものの歌を聴ける人が存在する』『三日前にも水妖は歌った。何か嬉しいことがあると歌うらしい』『昔、若き王の呪いが解けた際にも、水妖は歌った』『東の魔術師は、何故か港町を訪れていたことが言い伝えられている』それと、紙には書いていないけど『どうやら、今でも水妖は存在しているらしい』……こんなところかな」

 二人して、紙片を前に腕組みする。

 紙を持ち上げ、目を通してはひらひらと振る。途中、お腹が減ると菓子を摘まんだ。

「一つ、思いついたのは水妖に会って、呪いの解き方を聞くって方法。でも、これって会える可能性、低いよね」

「私が思いついたのは、同じように『東の魔術師』に会って、呪いの解き方を聞く、って方法もかな」

「港町に来てるかも、ってこと?」

「ああ。通りを歩いてみたけど、魔術師らしい格好をしている人物は少ない。手っ取り早く全員に声を掛けてみて……それこそ、今日、浜辺で会った人とか」

 魔術師に次々と声を掛け、東の魔術師であるか尋ねる。

 可能ではあるが、ある程度の労力と、変質者と間違われかねない懸念があった。それに、東の魔術師であっても、そんな変な問いをされて頷きはしないだろう。

 うーん、と僕は唸り声を上げた。

「明らかに東の魔術師です、って人がいたら声を掛けてみるのもいいかもしれないけど、外見じゃ分かんないなぁ」

「そういうのを調べる魔術はないの?」

 魔術師ではないフロードの問いに、僕は情けない声を出す。

「触れてみるのが手っ取り早い、けど。東の魔術師って僕なんかとは比較にならないほど優れた魔術師だし、たぶん巧く誤魔化されるよ」

 萎れてしまった僕の皿に、フロードは微笑んで菓子を積み上げた。

 僕がだいたい食によって機嫌が直ることが知られてしまっている。手を伸ばし、ぱりぱりと咀嚼する。

「取り敢えずは、水妖に会うことを優先しよう。昼間は情報収集と観光をして、夜は時間を変えつつ浜辺に行く、でどうかな?」

 提案に頷くと、また皿の上の菓子が増えた。

 減ってしまった菓子を補充しようか、と管理人が近寄ってくる。遠慮しようとした僕より先に、フロードが受け入れてしまった。

 増えた焼き菓子は、僕の皿に積み上がる。たくさん歩いて頭を使った今日は特にお腹が空いていたし、魔術師は食べ物に関する効率がすこぶる悪い。

 食事を疎かにすれば忽ち痩せるし、多少食べ過ぎても研究のために魔力を撃っていたらやっぱり減るのだった。

 僕は大人しく菓子を咀嚼し、無力感を慰める。

「シュカ。君が東の魔術師に比べて力がないと自称したとしても、一生懸命、私を助けてくれようとした魔術師は君だけだ。君に報いるために、私自身が変化しなければ、と思い直す程にね」

「僕、は何もしてないよ……!」

「嘘。君の父君と話をしたよ。寝る間も惜しんで調べてくれていたそうだね。旅行のことを心配しながらも、成果が出て良かった、と喜んでくれた。父君が喜ぶほど、君は努力してくれたんだろう?」

 皿から顔を上げると、彼は柔らかい表情をしていた。

 何か、美しいものでも眺めているような眼差しは、ずっと向けていてほしいという欲望を喚起させる。

「私のような人間は、遊び人が報いを受けた、そう言われて当然だよ。けれど、君は見捨てなかった。与えられた責務を果たそうとしてくれた。もし呪いが解けずに終わっても、きっとこの嬉しさは残る。それが私にとっては、とても嬉しいよ」

 彼が言い終えた後、飲み物の補充に来た管理人が、僕たちが話しているのを見て戻ろうとするのを引き留める。

 ポットを取り替えた管理人は、フロードの様子を見て眦を下げた。

「呪いに掛かったと聞いたときには、フロード様もたいそう落ち込んでいるだろうと心配しておりましたが、杞憂だったようで」

「はは。私には、腕のいい魔術師もついている。『いずれ呪いも解ける』さ」

 彼は僕に向け、片目をつぶってみせた。

 師匠の言葉の受け売りだと察して、くすりと笑う。

「うん。きっと解けるよ」

 僕もまた、言霊とも呼べるような言葉を返した。

 

 

 

 それからは、半分遊んで、半分調査して、夜に浜辺へ出る日々を過ごした。領地よりも温暖ながらからっとした気候は過ごしやすく、海鮮はあまりにも美味だ。

 初日に調べた情報を超える話は出てこなかったが、二人して船に乗ったり、海で遊んだりと思い出だけは積み上がっていく。

 フロードに悲観した様子はなかった。その事に安堵するも、他に触れる人がいないのか、僕と積極的に触れ合おうとしてくる彼の様子には少し戸惑っている。

 彼にとっては解呪のための魔術師でしかない僕も、いちおうオメガの端くれである。なぜ僕だけ心臓が痛む呪いは発動しない……好意が育たないのかと、胸に宿った焦りは次第に大きくなっていく。

 その日は遅めに起床すると、管理人が朝食を用意してくれる。朝食が出来上がる頃、フロードも目を覚ましたようで居間へと姿を見せた。

「よく寝た……」

 ふあ、と欠伸をする様子は、気が抜けきっていた。普段なら整っている髪も、ちらほら癖が付いている。

「おはよう、フロード。朝のお魚、揚げ物だって」

「おはようシュカ。……それは楽しみだけど、私より君の方がずっと嬉しそうだ」

 立ち上がって出迎えると、彼は僕の身体を自分の両腕に収めた。

 ぎゅ、ぎゅ、と抱擁し、ぐい、と体重を掛けられる。僕はその背を叩き返し、腕から逃れた。

「もう。半分寝てるでしょ。顔洗ってきたら?」

「……もう顔は洗ったよ。髪は後で整える」

 残念そうに両手を見下ろしたフロードは、飲み物の容器を手に取り、露壇に置かれた机へ向かって歩いていく。

 日陰の下のその席は海風も届くいい場所で、よく朝食をそこで摂っていた。

 僕も飲み物を持ち、彼の座った机の向かいに腰掛ける。彼はずっと海を視線で追っていた。こちらに気づくと、くしゃりと幼く表情を崩す。

「ずっと、こうやっていたいね」

「うん。ここに来た目的、ぜんぶ忘れて遊んじゃいたい」

 僕の返事に満足そうに唇を動かすと、彼は飲み物を口に含んだ。持ち運びやすい野外用の容器に入れられたそれは、絞った果汁を他の材料で薄めたものだった。

 こくりと飲み干すと、甘酸っぱい味がする。

「そうだ。今日、食事のあとでシュカに手伝ってもらいたい事があるんだけど」

「いいよ。何?」

 本の解読か、遊びへの誘いか。

 そう当たりを付けて問いかけると、彼は嬉しそうに唇を持ち上げる。

「私に触ってみてほしいんだ」

「え?」

「呪いがどういった条件で発動しているのか、少し確認したいことがあって」

 詳細について問い返したかったが、途中、管理人が食事を運んできたことによって中断する。

 根菜の冷製スープも、焼きたてのパンも、からっと揚げた魚も、添えられた野菜の味付けも抜群に美味しく、僕はその間だけ、彼の頼みを忘れた。

「美味しかった……」

 食事を終えて長椅子で休んでいると、隣にフロードが腰掛けた。

 僕は膨れたお腹を触っていた手を下ろすと、彼に視線を向ける。

「はい」

 かるく両手を広げた彼に面食らう。僕がその両手をどうすべきか戸惑っていると、相手は首を傾げた。

「触ってくれる、って約束だったでしょう」

「言ってたね。でも、なんで?」

 僕がそう問うと、彼はいったん手を下ろした。

「最近、旅行先で人と触れることもあったんだけど、本当に何ともなくて。だけど、シュカは呪いはそのままだ、って言うよね」

 僕は手のひらを彼に向ける。彼は、掌を重ねた。

 魔力を伝わせてみるが、心臓に絡みつく魔力にも術式にも、まったく変化はなかった。

「そのままだよ」

 フロードは二人の間で掌を上下する。重ねられた僕の手もその場で跳ねた。手遊びのようなそれは、考えついでの無意識の動作らしい。

「確かに、誰かと接しても恋愛関係の選択肢が浮かばなくなったのはそうなんだけど。でも、それくらいで……?」

 ううん、と悩んでいるらしい彼に、仕方がないかとも思う。

 胸の痛みは人間を生死の狭間へと揺さぶるもので、恐怖感もひとしおだ。それが心情の変化ひとつで起きなくなった、という事が疑問なのだろう。

 そして僕も、ひとつ考えていたことがあった。

 もっと深く触れ合ったら、ほんの少しでも彼の胸に痛みを灯せるだろうか。

「…………取り敢えず、触るだけ触ってみる……?」

 おずおずと切り出した提案は、彼のためではなく僕のためだ。

 フロードは何も知らないまま、喜んで両手を広げる。少し腰を持ち上げ、彼の方に近づいた。

 長い腕が腰へ伸び、彼の膝上へと引き寄せられる。

「うぁ……」

 体勢を整えられ、気づけば彼の太股に腰掛ける形になっていた。腰には腕が絡みつき、立ち上がれば引き戻されそうだ。

 ちらりと視線を向けると、触れているフロードの表情に変化はない。今でさえ、こんなに触れてさえ、痛みはないのだ。

「ほら、触って」

 僕の手が持ち上げられ、彼の頬へと当てられる。咄嗟に動いた指先の下には、滑らかな肌があった。

 美しい顔立ちは、少し身体を持ち上げれば触れそうなほど近くにある。近くで見れば更に凄みがあり、彼を恋人にしたいと思う人が多いのも頷けた。

「……肌、綺麗だね」

「シュカの肌には敵わないよ」

 僕の手を握った指先が、肌の上を滑った。

 お互いの手を重ねて、息が掛かるほど近くで触れ合っても、僕たちは番同士ではない。そのことに胸が引き絞られる感情、これは哀しみに違いなかった。

 依頼に託けて仕舞い込んでいた恋情が、すとんと腹の奥に落ち着く。

「頬にキスしたら怒る?」

 そう問いかけておいて、持ち上げた僕の手の甲を己の唇に当てる。

 手の甲には柔らかい感触がした。

「…………ほっぺ以上は、怒る」

 気持ちを悟られてしまうかと怯えたが、彼は黙って僕の頬へと唇を寄せた。

 ほんのすこし触れるだけ、柔らかいものが薄い皮膚に当たって離れていく。自然と頬に血が上り、触れられた場所を押さえて俯く。

 視線を合わせられないでいる僕を、フロードは抱き込んだ。

「ほんっと。可愛いなぁ……」

「協力しようと思ったのに……!」

 腕の中で暴れるが、それよりも上手く押さえ込まれる。

 力も、身体の大きさも、何もかもが違うアルファ。彼が望めば、僕なんてどうにでもなってしまう存在だ。

 でも、どうしようもなく『どうにもなりようがない』のだった。

「胸、痛まなかったよね。大丈夫?」

「うん。本当に、この呪い、どういう条件で発動しているんだろう」

 フロードはまだ、不思議そうにしている。最初に術式に触れた時に反撃を受けてから、僕は術式を読めていない。

 不思議には思うのだが、僕には発動しない事に変わりはないのだし、解呪を優先したい気持ちの方が強かった。

「解いちゃえば一緒だよ」

 絡みつく彼の腕をぺしぺしと叩いて、解放してくれ、と主張する。

 フロードはぱちぱちと大きな瞬きを繰り返し、僕を抱き込んだまま長椅子に倒れ込んだ。

 そのまま起き上がらず、彼は目を閉じる。

「え、寝る気?」

 最近は、夜に浜辺へ出歩いている。眠りの量は増えているが、時間が不規則なのには違いなかった。

「ちょっとだけ」

 間近で、彼が目を開いた。薄青色の瞳が、僕を見返す。

 僕よりも人魚らしい彼の瞳は、困惑するオメガの姿を映し続けていた。

 

 

▽8

 日によって、浜辺へと行く時間を変えている。今日は深夜、と呼べる時間だ。

 角灯を持ち、中に光を灯す。ぼう、と光が浮かび上がると、別荘を離れた。

 昼間は人通りの多い通りも、この時間には人の姿は見えない。二人で揃って歩く足音だけが、思ったよりも浮き上がって聞こえる。

 波の音は夜でも絶え間なく、水面は夜の黒を映して、どっしりと構えている。水妖だろうが、巨大生物だろうが、全ての命が存在しうるような黒だった。

 浜辺に立つと、ゆっくりと歩き出す。周囲に人影はなく、今日も外れだった、と息を吐いた。

「今日もいないね」

 呟く声は、そこまで落胆するような響きではない。

 僕も同意して、どちらからともなく散歩を始めた。流れ着いた木、瓶。それらに角灯で色をともしながら、波打ち際を歩く。

 ふと、視界の端に光が揺れた。そちらを向くと、見覚えのある二人連れの姿があった。彼らは僕たちに気づくと、ゆっくりと浜辺に降りてくる。

 さく、さく。お互いが近づくための足音は、ただ静かだった。

「こんばんは。こんな夜遅くに、散歩ですか?」

 フロードがにこやかに声を掛けるのだが、それと同時に、彼は護身用の短剣のある位置に手を近づけていた。

 不思議に思いながら相手を観察すると、金髪で長身の男の腰に、僅かに膨らみが見える。相手が帯刀しているからか、と同行者の様子に納得した。

 対して、金髪の男はゆったりと両手を挙げてみせる。

「刀は護身用だ。切り付けたりはしないから、殺気を仕舞ってくれ」

 フロードは息を吐き、だらりと腕を下ろした。

「ああ。済まなかった」

 金髪の男は動くことに慣れた体付きをしており、しなやかさはあるが、空気は武人のそれに近い。無闇に争いたくない相手だった。

 角灯を持ち上げると、その男はにかりと笑う。

「ここに来たのは、散歩のためだ。────?」

 さく、さく、さく。金髪の男を通り越して、ローブ姿の青年が僕の前に進み出る。

 黙って握手を求める形に差し出された手に、疑問に思いながらも手を握り返した。

 ゆったりと、相手の魔力が皮膚を伝う。

 静かな波のような魔力は海そのものでありながら、底知れない強さは夜の海を感じさせた。

 ほう、とその人物は息を吐き、フードを下ろす。

「こんばんは。君は、自分の出自を知っているのかな?」

 凄絶な、と頭に付けたくなるような美人だった。編まれた長い髪が、布の隙間から零れる。

 その人の瞳は、昼の海のような青だ。何を問いたがっているかは、容姿と、魔力の特性から察した。

 僕と、この人の魔力は似ている。

「はい。水妖に類似した存在の血を引いている、らしい、です。何代も過ぎて、薄まってはいますが」

「薄まってる? 君、先祖返りなのかな。その割に、力自体はうまく使えていないみたいだけれど」

 ふ、とその人は唇を持ち上げると、急に魔力を流した。

 どくん、と心臓が跳ね上がり、魔力が引き出されるような感覚を味わう。水の底から、一気に引き上げられたような気分だった。

「何、を……?」

 僕の言葉を聞いてフロードが止めに入ろうとするのを、金髪の男が制する。

「おいで」

 僕の手を引いて、その人は波打ち際へと歩いていく。

 彼が見つめる視線の先、その方向を見ると、ちらほらと波が立っているのが分かる。しかも自然のものではない、魚が跳ねた時のような波だった。

 目元を擦るが、その場所には何もいない。

「人が多くて、恥ずかしいようだね」

「何が、ですか?」

「君たちが水妖と呼ぶ存在」

 咄嗟に海に入っていこうとする僕を、彼は手を引いて止める。

 彼の視線の先に、僕はなんの像も結ぶことができない。けれど、水妖は唯一、フロードの呪いを解く手掛かりだ。

「あ、あの。僕、呪いを解かなきゃいけなくて……! だから、水妖に協力してもらえたら、呪いが解けるかも────」

「呪い?」

 その佳人は周囲を見渡すと、フロードの方を見る。その瞳が丸くなり、僕との間に繋いでいた手を放した。

 ざくざくざく、と早足で近寄ると、面食らっている呪いの被害者の手を取る。

「西の魔法使い、の式か……」

「えっ?」

 魔術師の言葉に、隣にいた金髪の男が声を上げる。

 二人とも、古い言葉でいえば『西の魔法使い』……西の魔女を知っているようだった。

 僕は三人に近づき、口を開く。

「その人、フロードが……ええと、何人もの人と同時に付き合ったりしてて。おそらく、その中の一人が、西の魔……法使いに依頼をしたと思うんです。まず、依頼主に謝りに行くのがいいと思って、心当たりのある人に謝って回ったんですが、呪いに変化はなく。それで、以前、西の魔法使いの呪いを解いた東の……」

 僕の言葉に、魔術師はぴくりと肩を跳ねさせる。

 ああ、と声を上げたくなるのを堪える。何となく、彼の正体が分かってしまった。

「東の魔術師のことを調べて。水妖との共通点から、その魔術師が水妖の力を借りて解呪した可能性を考えました。それで、今回の呪いも、水妖に頼めば解けるんじゃないか、と、こうやって会いに来た次第です」

「成程、なあ……」

 『東の魔術師』は面食らったように、長く息を吐き出した。

 ううん、と人間臭く首を傾げ、こめかみを揉む。

「…………色々、説明してあげたい気持ちはあるんだけど、君は妖精と気質が近いみたいで。突っつくと、こちら側に寄ってしまうと思うんだ。君は人の間で生きると思うから、答えは黙っておく。けれど、一つくらいは、手助けをしてあげようね」

 東の魔術師は、す、と息を吸う。

 あ、あ、と声音を調整し、詠唱を始めた。

『─────、─────────』

 詠唱式は聞き取れない、読み取れない。古い言葉を使っているようだった。

 詠唱の途中、波打ち際に白く不自然な泡が立つ。ぱしゃん、と水をはね散らかす音がして、詠唱に歌が乗った。

 水妖は喜びを歌う。最近ではそう言い伝えられているが、昔は死んだ男を悼んで、愛を歌い続けていたそうだ。

 魔力の高まりと共に、空間に裂け目ができる。光り輝くその断面を割るように現れたのは、炎を人にしたような女性だった。

 豊満ながら括れのある体つき、長い髪を高い位置に結い上げ、ぽってりとした唇が印象的な美女。

 名乗られる前に、誰であるかはっきりと分かった。

「あら、『東の』の呼び出しに応じてみれば、……ちょうど良かった!」

 西の魔女は、高いヒールで砂浜の上をざくざく踏みしめると、フロードの前に立った。にっっこり、とでも表現できそうな、圧の強い笑顔を浮かべている。

 彼女は腕を振り上げると、ばんばんと呪いの被害者の肩を叩く。

「探してたのよォ?」

 僕は咄嗟に二人の間に割って入ると、記述式の術を途中まで綴った。手元に溜め、ぎり、と西の魔女を睨め付ける。

 視線を受けた彼女は平然と、僕を見下ろす。そして、東の魔術師を見て、また僕に視線を下ろした。

「あたしはこれ以上、何かするつもりもないわよ。その物騒な魔術は解除しなさい」

 僕が術式を解かずにいると、西の魔女は長く息を吐いた。

「…………苛め過ぎちゃったかしら」

「西の魔法使い。依頼主は何と?」

 向かい合う僕たちを宥めるように、二人の間に東の魔術師が立つ。対極の美が揃っている様は、こんな状況でなければ素晴らしい眺めだった。

「そうなの。この人の呪いの依頼主から連絡があって、誠実な謝罪があったからもう呪いは解いていい、って」

「だったら、早く────」

「でも、その呪い。掛けた側が解くの面倒なのよねェ」

「「はぁ!?」」

 声を裏返らせたのは、僕と東の魔術師だった。

 西の魔女はけらけらと笑い、ぱんぱんと手を打ち鳴らした。怒りたいのだが、相手の空気に呑まれて呆気に取られるばかりだ。

「平気平気。ゆがんだ恋の呪いには、絶対的な解呪が存在するのよ。『真実の愛を捧げられれば解ける』ってね」

 彼女は僕にちらりと視線を向けると、にま、と嫌な笑いを浮かべた。

 僕の両肩をぽんぽんと叩くと、何かを言いたげに頷く。

「────ということで、後のことはよろしく!」

 じゃ、と西の魔女は片手を挙げ、自分で空間を割って帰って行ってしまった。

 炎の残像が消えると、周囲には闇が戻ってくる。

 唖然とする僕たちは、微妙な表情で視線を交わし合った。

「ええと、情報を纏めると、この呪いは西の魔法使いでも解くのが面倒な呪いで、解きたくないので、そっちで解いてくれ、と」

「呪いが解ける条件は、真実の愛を得ることだ、と」

 東の魔術師は難しい顔をしていたが、金髪の男はその魔術師の方に手を置くと、とんとん、と叩いた。

「なら、すぐ解けるんじゃないか。あとの事は二人に任せた方がいいだろ」

「え?」

 東の魔術師は何も分からない、というような顔をしていたが、金髪の男はそれを空気で押し切る。

「こちらも、それでいいよ」

「フロード!?」

「西の魔……魔法使い、だったか。が、そうしろ、と言うなら従った方が、後腐れなく解除できそうだしね」

 彼の言葉は、呪いの性質からしても間違ってはいなかった。依頼主は謝罪されて呪いへの執着はなくなったようだし、術者である西の魔女も解くことを容認していた。

 あとは、彼が『真実の愛』を受けて呪いが解ければ、解呪としては完璧といえる。

「お二人は、水妖に会いに来たのかな? それなら、私たちはお邪魔だね」

 フロードは僕の手を引くと、二人に手を振って歩き始める。

 僕は手を引く人物と二人の間を交互に見つめながら、困惑の中で声を絞り出した。

「あ、あの! 西の魔法使いに会わせていただいて、ありがとうございました!」

「いいえ。また、縁があれば」

「じゃあな」

 二人は僕に手を振り終えると、方向を変えて波打ち際まで歩いて行く。

 僕たちは足早に浜辺を立ち去ると、振り返らないようにして海から離れた。波の近くから漂う気配は人ではない、大いなるもののそれで、気を抜けば飲み込まれてしまいそうだった。

 別荘に近づいて、ようやく安堵の息を吐く。

「あの、魔術師の人。『東の魔術師』だったかな」

「だと思う。なんか、僕と魔力の波が似てた」

 僕は妖精の血を引いている。東の魔術師から言わせれば先祖返り、といえるほど力はあるものの、上手く力を引き出せてはいないようだ。

 だが、東の魔術師はすべてを僕に知らせようとはしなかった。知ることで僕が揺れて妖精側へ近づいてしまうと、人から外れる、おそらく長命を得てしまうらしい。

 あの場にいた佳人は、古い時代の、それこそ何百年も前から言い伝えられる東の魔術師その人なのだろうか。

 聞かない方がいいのだろうな、と、疑問を僕は胸の内に収めた。

「シュカ。真実の愛、についてなんだけど」

「うん……」

「少し、話をしようか」

 フロードは屋敷の露壇へ上がると、朝食の時に使っていた椅子を引いてくれた。

 僕はおとなしく、椅子に腰掛ける。

 顔を上げると、頭上には星が煌めいていた。街と違って夜に明かりの少ないこの地域では、大量の星がぶつかって降りそうな程ひしめき合っている。

 隣の椅子が、軋む音がした。

「フロード、大丈夫なの? だって、好意を抱いた人に触ると痛みが出るんだよ。それで、どうやって真実の愛を得るの……?」

「多分、痛みが出る条件に、ひとつだけ例外があると思うんだ」

 僕が彼の方を見ると、立てた人差し指が僕を差していた。

「シュカ。君が触れたときは、痛まない」

「え……? それは、好意を抱いた人、の条件を……」

 彼は口元に拳を当て、くすくすと笑った。

 呪いを受けて出会った時とは別人のようだ。静かながら、声音は晴れている。

「私、けっこう分かりやすくしていたつもりだけどな」

 僕が分からない、という表情をしていると、彼は微笑ましげに目元を緩める。

 その瞬間、なんとなく彼の言いたいことがわかったような気がした。

「好意、持ってるよ。シュカには、ずっと」

「でも、そうしたら。呪い、は……」

「この呪いを解くのは、真実の愛だ。歪んだ恋、呪いは利己。そして真実の愛、祈りは利他。前者は呪いに勢いを与え、後者は呪いの効果を削ぎ、例外として条件すらもすり抜ける。…………そういうことなんじゃないかな」

 手を伸ばされ、二人の間で受け取る。

 握った手から魔力を流し込み、胸に宿る術式を辿った。もう、西の魔女が反撃してくることはないだろう。

 確かに、式の中にすべての発動をくぐり抜ける条件が一つ存在していた。

 息を吐く僕を、見つめる瞳は穏やかで優しい。

「シュカは、私の呪いを解こうと献身してくれた。解ける、と祈りを告げてくれた。私の思う中で、君がいちばん、真実の愛に近しい存在だと思うよ」

「でも。僕、は…………」

 呪いが発動してくれない事に焦っていた。彼の胸に痛みが宿ればいいと願ってしまった、彼が言うほど、愛ばかりでもない。

 肩を丸め、暗闇の中で、星の光を頼りに言葉を探る。

「僕は。僕にだけ、呪いが発動しないのが……、嫌、だった。僕はフロードにとって、どうでもいい存在で……」

 そう言い掛けた瞬間、ぎゅっと繋いだ手が握られる。

 顔を上げると、彼は首を横に振った。

「腹が立って、嫌な気持ちになって。……こんなの、真実の愛なんかじゃないよ」

 いっそ、呪いみたいだと自嘲した。

 繋いでいた手が、もう片方の手に包み込まれる。祈りでも捧げるように、彼は自らの手を重ね合わせた。

「けれど、シュカがいなかったらセイウ師匠に情報を尋ねることも、謝りに行こうと決断することも、港町に行こうと決めることも、東の魔術師と西の魔女に会って、解呪の方法を問うこともできなかったよ。ぜんぶ、君がいたからだ。君が、諦めずに祈りとともに助けてくれたからだ」

 視線が上げられないまま、彼の言葉だけを流し込まれる。

 彼ほど、僕は自身を評価できない。僕に光を当ててくれるのは、彼のほうだ。

「────私は、それを愛と呼びたい。私に向けられた、尊い感情だと信じたいんだよ」

 醜く、歪んだとしか思えない感情でも、送って、受け取る先で変化する。それは、僕と彼が二人だからだ。

 彼は、僕の感情に愛という名前をつけてくれる。

「シュカ。君がよければ、明日からも、私に愛を向けていてほしい。そうしたらきっと、呪いは、いつか解けるよ」

 ぽたり、と頬から滴が伝った。こくこく、と必死に頷いて、流れ落ちるものを拭う。

 包まれた掌を、きゅっと握り返した。

「僕、の感情。……きっと、フロードのこと、好き、ってことだと思う。…………それでも、いい?」

「私も、きっと同じだ。好きだよ、シュカ」

 示し合わせることもなく立ち上がって、そっと身を寄せた。

 彼の腕は僕の背に回り、ぎゅっと身体を抱く。苦しくなった呼吸から抜け出すように顔を上げると、彼の顔が近づいてくる。

 ────翌日、呪いは綺麗に消え去っていた。

 

 

 

▽9(完)

 後日、ふたりで僕の雷管石を神殿に持ち込んだ。

 元々、フロードの石は預けられていたのだが、二つの石を視た鑑定士は、僕の石が持ち込まれていたらフロードの石を持ってきただろう、と言った。

 神殿を仲介せずに相性のよい相手に出会ってしまうこともあるそうで、そのまま僕たちは互いに石を持ち帰った。

 双方の両親の間でも話し合いが持たれて、正式に婚約が決まり、彼からは次の発情期には一緒に過ごしたい、と熱望されている。

 暑さも和らいできた頃、定期的に訪れる体調の変化に気づいた。

 フロードにどこで過ごそうか、とやんわり相談すると、彼が所有している別荘のうち、程よく市街地に近い立地の建物を提案された。

 各地に別荘を持つ大貴族特有の規模感に驚いているうち、父からも滞在の許可が下りている。

 彼がこうと決めたときの速度感に我に返った時には、既に別荘でのんびり過ごす日々が始まっていた。

 周囲の散策や、持ち込まれた魔術書に目を通していると、一日一日と体調は変化していく。

 その日の僕は、朝から妙に果物ばかりを食べたがり、食べた後は熱っぽい身体に動く気にもなれず、寝椅子に転がっていた。

「シュカ。今日は一段と匂いが違うね」

「そう……? かな」

 ぱたぱたと服を持ち上げ、体温を下げようと試みる。

 頭がぼうっとして、それなのにフロードの匂いだけがやけに鼻につく。僕は彼の顔を見上げ、ごくんと唾を飲んだ。

 誰かを狙うような発情期を、僕は過ごしたことがない。

「眠いなら、寝台に運ぼうか?」

「…………眠い、じゃなくて」

 ぼうっとするのに、狭い範囲の感覚だけが研ぎ澄まされていた。

 説明するのを面倒がって、両手を持ち上げた。背と膝裏に手が回され、そのまま抱え上げられる。

 彼は廊下を抜けて宛がわれた寝室へと向かい、僕を広い寝台に下ろす。匂いを閉ざすためか、直ぐに彼は部屋の扉を閉めた。

 戻ってくると、ちゅ、と額にキスが落とされる。

「何か食べたいもの、ある?」

「ん……」

 彼の首に腕を回し、その唇に吸い付いた。

 舌先を絡め、口に含んだ唾液の味を咀嚼して飲み込む。ぺろ、と無意識に唇を舐めると、目の前のアルファは呆気に取られた顔をしていた。

 へへ、と照れ笑いを浮かべる。

「発情期みたいなことしたい、かも」

 腕を放し、背後に倒れ込むと、僕の視界に縋るように彼も移動する。

 両腕が顔の横に置かれ、屈み込んだ顔が近づく。

 齧り付くような口づけの間、ぶわりとアルファのにおいが立ち上った。

「……ん、ふ……っぁ、ン…………」

 呼吸の間に、ひとつ、ふたつと声が零れる。

 身体には他人の体重がのし掛かり、息を吸うたびにアルファの匂いが体内に入ってくる。こんなに含まされたら、熱が上がってしまう。

 引き入れたのは僕、留めたのは彼。触れては離れる動きの度に、ぴちゃり、ぴちゃりと水音が立った。

 唇が離れると、口寂しく感じてしまう。

「……すこし、待って、ね」

 そう言うと、彼は身を起こす。

 指先で魔術式を綴り、腹部に手を当てた。

 体格差があることが多いアルファとオメガの間で、オメガの体内を守るための魔術。ひっそりと伝え聞いたそれを、自分の身体の中に展開する。

 指先から魔力の光を消すまで、彼は物珍しそうに様子を眺めていた。

「シュカの魔術は温かいね」

「そう、かな」

 寝台の上で身を起こし、おずおずと自らの服に手を掛ける。

 がばっと脱いだ方がいいのか、と首を傾けていると、相手の掌が重なった。

「私が脱がせても嫌じゃない?」

「うん。なんか、どう脱ぐのがいいか分からなくて……困ってた、かも」

 フロードの唇がこめかみに触れる。

「あんまり煽ると、悪いことをしちゃいそうだ」

「気を付けてね。僕が呪いを解くのが得意ってことは、呪いを掛ける方法にだって精通してるってことだよ?」

 僕の言葉に、ぴたりと彼の手が止まる。あまりにも良い反応に、ふふ、と笑みが零れた。

「うそ、大丈夫だよ。僕、きっと浮気されても泣いて実家に帰るだけだから」

「君は……確かにそんな感じがする。けれど君を泣かせたいわけじゃないし。痛い目を見るのはもう十分だよ」

 彼の手は僕の服へと掛かり、ぽつり、ぽつりと釦を外していく。

 器用にそうしていく所作からは、慣れを感じさせる。ただ、それが彼にとって良い思い出だったとは言い切れず、言い及ぶのは避けた。

 肌が露わになる度、追う視線の熱が上がっていく。部屋を閉め切っている所為か、お互いの匂いは強くなるばかりだ。

「シュカは、いつもこんなに急に匂いが強くなるの?」

 脱がされた服が、寝台へと落ちる。素肌に空気が纏わり付くと、そわそわしてしまう。

 腕を動かして上半身を隠そうとするのも、フロードの手が掴んで下ろされてしまった。かあ、と頬が熱くなって、視線は彷徨うばかりだ。

「いつもは、一人で過ごす、から。分からないよ……」

「そう。何となく、噛んだら番えそうなほどの匂いだなって。後でやり直す羽目になるかもしれないけど、試してもいい?」

 首を噛む時には、番を定めるために相手の男根を躰に挿れる。

 頷くということは、体を重ねることを了承する、ということだ。覚悟はあった筈なのに、怯えが湧き上がる。

 ゆっくりと顔を縦に動かした。とても、言葉は思いつかなかった。

「ありがとう。これで、私は君以外を求めなくて済むようになるんだね」

 ああ、と彼が僕との番関係を求めた理由を、もう一つ思い至った。

 番になると、番以外の匂いには極端に鈍感になる。オメガの発情期に巻き込まれた彼が、そのことを望むのは当然だった。

 彼の腕が僕の腰を抱き、膝を持ち上げるように誘導される。近づいた首筋を、傾いだ顔が捉えた。

「っ…………!」

 唇が薄い皮膚に触れ、つい、と辿るように動く。唇で食んで、窄めて吸い上げ、ちりりとした痛みと共に跡を残す。

 彼の歯並びの中で、ひときわ目立つ尖った犬歯が、皮膚に食い込んだ。その瞬間、何ともいえない、ぞわぞわとした感覚が駆け上がる。

 首の横ですらこれなのだから、項に牙を立てられたらどうなってしまうのだろう。身体を震わせているのは期待だった。

「首、気持ちよさそうだね」

「え……? ァ、うぁ」

 ぬるりとした舌が、顎の下を伝う。くすぐったさに身を捩ると、更に感触が別の場所を這った。

 唇は鎖骨に触れ、ちゅ、とキスをする。首に触れていた掌が、する、と下に動いた。胸の周囲を揉むように指先を動かし、先端を摘まみ上げる。

「ひぁ……!? え」

 上がってしまった声を恥じるように唇を噛むと、くすりと静かに笑い声が立つ。

 指先でぴんと弾かれたそこは、つんと立ち上がって存在を主張する。捏ね回されるのに都合のよい形状になった突起を、指の腹が撫で回した。

 じわじわと、煽られるような快感が点される。

「ね。あの、くすぐったい、よ……?」

 フロードはにっこりと笑い、顔を傾け、もう片方の突起に唇を寄せる。

 制止する間もなく、先端は口の中に消えた。舌先が敏感な場所をなぞり、窄まった口が強く吸い上げる。

「あっ。あ…………、や」

 柔らかい口内は色の変わったそこを舐めしゃぶり、指先では与えられない感覚に伝わる快感も強くなる。

 制止のために回していた腕は、力なく相手の肩に絡むだけだ。

 ひ、ひ、と細かく息を吐いて、摘まみ上げる指に唇を噛む。

「フロード……。むね、やだ……」

 半泣きで駄々を捏ねると、ようやく唇は離れた。唾液が纏わり付いた唇が、てらてらと光っている。

 胸を解放した指先は、持ち上げた胸の中心に添えられる。つう、と伝った指は、腹まで辿り着いた。

「シュカの身体、柔らかいな……」

「貶してる!?」

「褒めてる」

 それからも彼は柔らかい感触を楽しむと、腰骨を撫で回した。

 性的な場所ではない筈なのに、やわい快感のようなものが走って、咄嗟に口を閉じる。

「下、脱がせるよ?」

 こくんと頷き、太ももを持ち上げる。留め具を外した指は、下着ごと服を降ろした。

 ふるりと震えた半身が、彼の視線の先に露わになる。

「とても、繊細な造りだね」

「どこのことを言って……! ひぁ!」

 太ももを下ろした途端、指先が茂りを掻き分けた。

 中で大人しくしていた中心を引き摺り出すと、すりすりと撫でる。その時、何か思い出したように寝台脇の小机へ手を伸ばす。

 だが、流石に届かないようで、僕が引き出しを開け、指示された瓶を彼に渡した。

「なに、これ」

「滑りを良くする液体」

 彼は中身を手に広げ、体温に馴染ませる。掌全体に広がると、また茂みへと手を突っ込んだ。

 今度は、ぬるっとした感触が分身を掴む。中身を絞り落とすように上から下へ、円を描いた指が移動した。

「ひン……! ぁ、あ。……ん、ふぁ。あ」

 指先はとろみのある液体を塗り広げるように動き、それから指先を上下して扱く。

 焦らすような動きに抗議すると、今度は気持ちいい場所だけを狙われた。ぐちゅぐちゅと草叢を掻き分けながら動く指に、ただ翻弄される。

 相手の肩に縋り付き、嬌声を上げた。周囲のにおいは酷いもので、僕だけでなく相手の誘うにおいが混ざって逃げ場を無くしている。

 は、は、と息を吐いて、指先の中で形を変える半身を視界の端に見ていた。

「少し、気持ちよくしすぎたかな?」

 ぐったりと寄りかかる僕を撫で、彼はそこから手を放した。

 液体を失った掌にぬめりを足し、その手が僕の背後に回される。尻たぶを掴んで持ち上げられ、べっとりと濡れた感触が広がった。

「な、ァ…………──っ!」

 指は狭間を掻き分け、窪みへと辿り着く。緊張でくっと閉じた輪を、ぬめった指がつんとつついた。

 くっと力を込められると、直ぐに侵入を許してしまう。くぷぷ、と指は輪を潜り、体の内側へと入り込んだ。

「…………拡げ、の。……ヤ。────!」

 僕の言葉を無視して、指はぐぶぐぶと中へ沈む。内壁を擦り上げ、知らない感触を与えながら、ぴたぴたと触れて探られる。

 びく、びく、とただ指が動くたび、小さく震えた。

「さて、何処かなぁ……?」

 ゆったりとした声だが、獲物を追い詰めるような昏さがある。

 引くことのない指に追い詰められながら、身の内を相手に明け渡す。恐ろしいはずなのに、なぜか僕の半身は形を変え、涎を垂らしていた。

 指の大部分が埋め込まれたと思われた時、他の場所とは明らかに違う感覚を与える場所に触れられる。

 びく、と身を震わせると、にい、と彼の唇が笑んだ。

「ヒっ────! うぁ、あ……」

 はくはくと荒い呼吸を繰り返し、目が痛くなるほど見開く。

 知らない、身のうちから突き上げられるような快楽は、自ら慰めるそれとは種類の違うものだ。

 この場所を相手のもので突き上げられたら、発情期の間、僕は色狂いになってしまうかもしれない。

 怖いはずなのに、ぞくぞくと震える躰は心を完全に裏切ってしまっている。二度、三度と撫で上げられるたび、僕は獣のような濁った声を上げた。

 突き入るために拡げられているはずなのに、逃れようとする頭が働かない。その刺激を何度も欲しい、と指先が中を撫で上げるたびに歓喜した。

 何度、それが繰り返されただろうか。永遠にも思える拡張が終わると、つぽりと指が引き抜かれる。

 肉輪は嬉しげに指先にしゃぶりつき、縁をてらてらと光らせていた。

「じゃあシュカ。これから、挿れるね」

 彼は上着を脱ぎ捨てると、下の服も躊躇いなく脱ぎ落とした。

 服の下から現れた肉の塊は禍々しく膨らみ、彼の掌で瓶の中身を垂らされると、表面をべっとりと濡らして滴を落とした。

 ぼた、ぼた、と寝台を濡らしながら、長大なそれが躙り寄ってくる。

「ほら、後ろ向きになって」

 まだ見えているなら覚悟も決まるというのに、どうされても許す、というように項ごと晒せと彼は言う。

 ひく、と妙な息の呑み方をして、僕はおずおずと腰を持ち上げた。寝台の上で体勢を変え、尻が見えるように四つん這いになる。

 獣になったみたいなその体勢を見られている羞恥に茹で上がり、ぶるぶると腕が震える。そして、背後が見えずに、いつ突き入れられてもおかしくない、というその一瞬は本当に恐怖だった。

 大きな身体が覆い被さってくる。シーツの上に影ができると、僕は身を竦ませた。

 長い指が腰に掛かった。ぬめる丸いものが尻の肉を持ち上げ、掻き分ける。

 谷間を辿られ、いっそう膨らんだ瘤が後腔へと当たる。閉じていた筈の肉輪は、ちゅうちゅうとその丸みに吸い付く。

 何度か表面を滑り、お預けの感覚を味わった。

「……こんなに吸い付いて、待ち遠しかった?」

「ひ、あ────! やぁッ」

 くぷん、と突っかかっていたはずの亀頭は、あっさりと輪をくぐり抜けてしまった。

 反射的にぎゅうぎゅうに締め付け、異物感に圧される。必死で息を整えていると、その間にもずるりと奥に潜り込む。

 シーツを掻き、反射的に逃れようとした僕の脚を、相手の脚が寝台に押さえつける。両方の腰が掴まれ、ぐぐ、と更に押し込まれた。

 耳の近くで長く息が吐かれた、音がする。

「は、あ。…………い、ひぃ。あ、ぁ。うあ」

 眼前にあった、あの肉棒が躰の中を擦っていく。

 二度、三度、細切れにしながら、途方もなく思えるほど長く挿入は続いた。

 そして、膨らみがその場所をトン、と押し上げる。

「────や。いや」

 拒絶ではなく、懇願でしかなかった。その場所に触れられたら、押し上げられたら、圧倒的に価値観が書き換わってしまう。

 彼はゆるりと腰を揺らし、僕が嫌がっているそこを先端でいやらしく撫で回した。

「そうだよね。ここ、いやだもんね」

「ん……。うん……!」

 会話の間としては異様なほど長い沈黙があった。

 耳に届いたのはただ、嗤う声だ。

「────ッ! い、ぁ? ひ……」

 どすん、と容赦のない一突きだった。

 指しか知らない柔らかい場所を、巨きく、重たい塊が押し上げる。ぶるぶると脚を震わせ、はしたなく体液を零した。

「あ、ひ……。うァ、あ…………」

「……ッ。痛く、……なかった?」

 痛みなどない。ただ、途方もない快楽を与える場所を、ぐりぐりと苛められ続けているだけだ。

 支えていたはずの上半身が崩れ、シーツの上に肩を押しつける。下半身は更に持ち上がり、秘めていた部分が相手に露わになる。

 フロードの指が結合部をなぞり、戯れのように腰が揺らされた。

「ふ、ふ。…………ぁ、ふ。くァ、ア」

 僕は自分が魔力の多い体質であったことを、これほど疎んだことはない。

 彼の膨らんだ瘤から溢れる薄い液体は、唾液よりも多く魔力を含んでいる。他人の波が自身の波を掻き乱し、波形を塗り替えていく。

 ただ、それこそが快楽そのものなのだ。肉体だけですら存分に快くされているのに、魔力さえも揺さぶられる。

 彼と相性のよい魔力は、今この場にあっては猛毒だった。

「シュカ。ここもいいけど、もっと奥もね。いいよ」

「…………ぁ。お、く?」

 彼は放ってあった瓶を持ち上げると、蓋を外して結合部に中身を垂らした。

 キュ、と短く蓋の閉まる音がする。

 やがて、彼の砲身はさらに奥へと進み始める。そこから先は、指での感触を知らない場所だ。

 耕されることを知らない土地を、ずるずると一気に雄の太さまで拡げていく。おずおずと、腹に手を当てる。

 魔術が守っているにも関わらず、押し上げられている感触が分かりそうなほどの質量がそこにあった。

「あ、…………ン、う」

 内壁を探られつつ、みちみちと肉を埋められる。

 感触を探っていたらしい先端に、何か妙な場所を小突かれる。トン、トン、と何度も押し上げると、数度目の逢瀬で、ぐぷ、と潜り込んだ。

「ね。いいでしょ、ここ」

「う、そ。そこ、な。……ヒィ────!」

 先ほど苛め抜かれた場所よりもっと深くにあるその柔らかい場所は、男の欲望をやんわりと受け止める。

 亀頭は離れることなく、淫肉に埋もれた。触れている部分から、重たい刺激が上ってくる。

 ずりずりと寝台を這っても、ぐっぽりと填まった瘤は抜けない。揺れるたびに刺激が繰り返され、次第に抵抗する気持ちは削がれていった。

 尻は持ち上がったまま、上から押しつけた肉棒を受け止めて揺らされる。

「あ、ぁ。いや、…………ほんと、駄目、な。ァ、あ、あ」

「駄目、て……言いつつ。此処、すご……! ちゅう、って吸ってる」

 揺らされるだけだった筈の動きが、次第に大きくなっていく。

 小刻みだったそれが、次第に大振りの抽送へと変化した。ぐぽん、ぐぽん、と泥濘へと何度も丁寧に填め込む。

「あ゛あ、ぁ───! ヤ、も、できな…………ひ!」

「奥、……魔術を仕込んだ、としても、……っ、ここまで届いたら。もう、当たっちゃうね」

 耳に押し込まれる低い声に震え上がって、体内にいる雄を食い締める。

 もう奥はだらだらと零れる体液に濡れていて、逃げようもなく染められていた。

 腰から手が離れ、身体に別の体重がのし掛かる。

 首に手が回され、噛みやすいように僅かに持ち上げられた。結合部はびっちりと埋まりきり、逃げ場のないことを教え込まされる。

「────これでやっと、番だ」

 宣言とともに、髪を掻き分けた項に牙が押し込まれた。

 一度ずるずると引いた腰は、ばつん、と叩き付けられる。のし掛かる体重が、僕の躰ごと寝台に縫い付ける。

 子種を溜めこんだ瘤が、膨れる様を幻視する。

「あ。……ひ、い゛────ぁ、ぁあああああぁぁぁあッ!」

 びゅう、と躰の奥に、白濁の奔流が叩き付けられる。

 目一杯おしこんで、狙いを定めた遂情に、逃げ場はなかった。思う存分、精を呑み込ませられる。

 更に中へ押し込むように、軽く往復して、また男根はそこに填まった。

「は、あ…………」

 必死で息をして、牙が離れるのを待つ。

 焦れるほどの時間をもって、ようやく首から埋まっていた牙が抜かれた。

 周囲の匂いは全く変質しており、フロードの匂いだけがよく届く。繋がった場所からびくんびくんと揺れる躰は、彼の快楽を受けるように作り替えられていた。

 恋のように、番もまた、一生続く呪いなのかもしれない。

 後ろから肉棒が抜かれると、体液を零しながら寝台に倒れ込む。

「…………シュカ。平気?」

「たぶ……。へい、き」

 股の間はびっしょりと濡れて、もう感覚がなかった。

 倒れ込んだ僕は裏返され、彼と視線を合わせる。こつん、とぶつかった額の先に、見慣れた瞳があった。

 太股に、濡れた塊が押しつけられる。何も考えずに視線を向けると、また力を取り戻した彼の半身がそこにある。

「………………」

 僕はぱたんと手を寝台に倒し、何度も左右に首を振った。

 けれど、発情期に引き摺り込まれたアルファには知ったことではない。僕の足を持ち上げ、平然と開く。

 また突き入ろうとする動作に、脚を揺らした。

「ね、僕。少し、休む…………」

「うん。シュカは休んでいて。私はちょっと収まらなそうだから」

 ずりずりと雄同士を擦り付けるその動作の、どこに休みがあるのだろう。

 いやだ、むり、と泣き言を吐きつつ、僕は寝台に留められ続けるのだった。

 

 

 発情期が終わった後、婚約してからは婚約者としての仕事も増えてしまったが、フロードの補助もあってなんとかこなしている。

 結婚式の日取りも決まり、その日は招待状の作業をしていた。お互いに概ね出席者も決まり、招待状に丁寧に名前を記していく。

 途中まで二人とも無言で作業をしていたが、ふと、フロードが卓の数を数える。

「まるまる一卓余ってるけど、ここ、誰か呼ぼうか?」

「一卓、だと、一人とかじゃ困っちゃうよね」

 あの人は、この人は、と名前を挙げ、その卓だけがあまりにも決まらない。

 いっそ、左右非対称だが減らしてもらうか、という案が出始めた頃、フロードが、ぽん、と掌に拳を置く。

「港町でお世話になった本屋の店主は?」

「確かに恩人だよね。それなら、管理人さんと。あの港町で知り合った……」

 二人して同じ人物たちの姿が浮かんだが、あまりにも荒唐無稽でお互いに黙り込む。

 だが、取り敢えず挙げてみようか、という空気になった。せーの、で声を揃える。

「西の魔女」

「東の魔術師」

「「…………だよね」」

 声に出してはみたものの、あまりにも、あんまりな気もする。だが、本屋の店主が世話になったというのなら、その二人は更に世話になったとも言える人たちだ。

 僕たちは絶妙な表情を、お互いに向け合った。

「でも、ほら。東の魔術師も僕があんまり妖精と近づくと良くないから、って。縁があれば、みたいな言い方だったし、断られるよ。きっと」

「まあ、確かに」

 フロードはそう言いつつも、招待状の宛名に面白がって二人の名を記す。

『東の魔法使い殿』

『西の魔法使い殿』

 出来上がった二通を見て、これ記念にしよう、と愉快そうに笑った。

 じゃあ僕も、と新しい招待状に筆を走らせた。

『金髪の付き人殿』

『水妖殿』

 フロードは僕の書いた招待状に眉をひそめる。

「水妖って名前なのかな……?」

「ちがうけど。多分、僕たちじゃ発音できないし。これも記念に残しちゃお」

 僕が四通の招待状を纏めて束ねると、手のひらにぼっと炎が点った。

 魔力で点されたそれは熱くなく、四通の封筒を呑み込んで掻き消える。二人で呆然としていると、目の前の空間が割れた。

 中から姿を現したのは、豪勢な美女……西の魔女だ。

「こんにちはァ。ご招待ありがと。『東の』は行くか分かんないけど、あたしはお邪魔するわね」

「…………えぇ……」

 僕が引き気味な声を上げると、カツカツと床を叩き、西の魔女は僕に歩み寄る。

 両の手が僕の襟首を掴み、持ち上げた。鼻先が触れそうなほど近くに、美しく、強烈な印象を残す顔がある。

「もう、あたしたち。呪って、解き合った仲じゃない? これも縁よ。────祝いの宴に呼んでくれないなんて無礼を働いたら、かーるく死の呪い授けちゃう。あたし、どこぞの魔女のように百年眠るなんて逃げは与えないわよ」

 おほほ、と西の魔女は高笑いをし、僕のおでこをぴんと弾いた。

 彼女の長い爪の先から、強大な魔力が流れ込んでくる。

「あたしが参加するんだから、良い結婚式になるわ。きっとね」

 そう言い残すと、彼女はまた空間を割って去っていった。

 フロードはしばらくぽかんとして、ようやく我に返ると、残った招待状に本屋の店主と、別荘の管理人の名を書き始める。

「水妖さん、…………って、なに食べるかな」

「港町のきれいな海水を集めて、置いておこうか」

 歴史に名を残す魔術師が二人、人ではない存在がひとり。珍妙な客を招待することになった式は前途多難だが、額に残るのは温かい感触だけだ。

 僕はフロードに寄りかかって、手のひらを重ねる。

「僕たちの式、良い結婚式になるんだってさ」

「これほど頼りがいのある呪いもない、……かも?」

 二人で肩を寄せ、湧き上がる感情のまま頬を綻ばせる。番の魔力は、今日もここちよく皮膚を伝った。

 僕の額に与えられた呪いは、もう解けなくても構わない。

 

 

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