発情期が終わらない病に罹ったアルファと、魔力相性が良いらしい【オメガバース】

運命のアルファと魔力相性が良いらしい
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この作品にはオメガバース要素が含まれます。

 

◇1

 魔術師である友人が父を訪ねてきたのは、よく晴れた春初の朝だった。

 魔術師の名はフィーア。魔術学校で知り合ったオメガの友人で、成績も良く、とにかく実技寄りな俺と違って学問にも向いていた。卒業後は高位の貴族……ヴィリディ家に仕えることになり、順風満帆な道を歩んでいたはずだった。

 フィーアと父の間の話が終わり、二人がいるはずの部屋に呼び出されたのは午後になってからだ。

 午前中に領民の魔術的な相談に乗るはずだったのに、全て潰され、暇すぎて仮眠を取ってしまった。

 鏡の前に立って、くしゃくしゃに絡まりやすい髪を整える。灰褐色の髪と、藍色の瞳は春の光を浴びてもどこか薄暗く、鮮やかとはいえない。

 見知った二人相手だ、と程々の所で切り上げ、自室を出た。古めかしい廊下を抜けて目的の部屋に向かう。

 修繕費用が捻出できない屋敷の中でも、領主の部屋は他の部屋に比べればまだ調度品なども高価な品が並んでいる。

 部屋に招かれ、来客者向けの椅子に座っているフィーアの表情を見ると、造りは悪くないはずの顔立ちが憂いに満ちていた。

 フィーアに挨拶をして父に勧められた椅子に腰掛け、話を聞く体勢を取る。

「セルド。お前に縁談がある」

 父が放った言葉に、目を瞠る。

「急な話だな」

「ああ、私にとっても急な話だ。少し前に、国内の貴族の中で、神殿に雷管石を預けて『いない』適齢期の子息がいないか調査が入ったのを覚えているか?」

 俺の性別と呼べるものには、男、と同じ並びで、オメガ、という性がつく。

 アルファ、ベータ、オメガの三種の中で、アルファとオメガについては特殊な性質を持っており、国家の運営の中でも例外的な扱いを多く受ける。

 オメガは生命を産む性質から魔力を多く有すが、魔術師として成功しても力や体格は育ちづらい。番ができることはオメガの保護にも繋がるため、神殿がアルファとオメガを取り持つ役目も担っていた。

 神が雷によって産む石は雷管石と呼ばれ、魔力を漏らさずに内部に保持する性質を持つ。その雷管石に魔力を込めて神殿に預ければ、所属の鑑定士が預けられた雷管石を基に、番として適している相手を紹介してくれるのだ。

「少し前に急に魔力を込めろ、って言われたやつだっけ? でもあの後、特に何も言われなかったような……」

 神殿に雷管石を預けるかどうかは、貴族にとっても民にとっても自由だが、雷管石に頼らずに家同士の関係性だけで番を作る者もいる。

 俺はまた別、領主付きの魔術師の役目を兼ねている俺がいなくなっては困る、という理由で先送りされていた。

 魔術学校の卒業後、定年退職した魔術師の代わりに屋敷や領民の魔術装置を直して回っていたところ、こんな田舎の貧乏貴族では新しい魔術師を雇えず、俺の代役が見付からないまま結構な年数が過ぎてしまったのだ。

 一応、領主の息子ではあるのだが、上の兄弟もいるため領地運営はせず、普段は貴族付きの魔術師のような生活をしている。そんな生活の中では結婚、が必要とされることもなかった。

 父が言ったような調査でも入らなければ、またずるずると雷管石を預ける時期は延びていただろう。

「実は、預けた雷管石を基に、魔力の相性がいい相手が見付かったんだ」

 父は友人のフィーアに視線を向ける。父の言葉を引き継ぐように、フィーアが黙っていた口を開いた。

「相手は……私が仕えている主人、オルキス・ヴィリディ様だ」

 その名前は、流石に貧乏貴族の俺でも聞いたことがある名だった。王族とも婚姻するような高位の貴族であるヴィリディ家、その中でも当主の息子の名である。

 次に屋敷を継ぐのはオルキス・ヴィリディの兄の筈だが、領地運営の役目を免除されている俺と違って、広大な領地を持つヴィリディ家の領地運営に深く携わっている筈の人だった。

 俺がげっと表情を歪ませたのを見て、父が視線で睨め付ける。

「悪い。……でも、ヴィリディの家も、俺が相手だって分かったら握り潰したりしなかったのか?」

「先代の領主ならそういった事もあったかもしれないが、現当主は会わせてみるくらいはするだろう。確かに家同士の差がありすぎるという話は挙がったようだが、それよりも急いでオルキス様の番を見つけなくてはならなくて」

 そう言って、フィーアは父にすみません、と深々と頭を下げているが、父もまあまあ、と言葉を許している。

 流石にうちの家……冬になると溜め息をつきながら資金繰りをするような貧乏貴族であるクラウル家と、王族とも親類で多くの豊かな領地を持つヴィリディ家では家の差は歴然としている。

 フィーアは顔を上げ、出されていた茶を口に含んだ。

「他言無用でお願いしたいんだが、オルキス様の発情期がずっと終わらないんだ。彼はアルファだが、屋敷にいたオメガのフェロモンに干渉される形で発情期に入り、数ヶ月が過ぎてもずっと収まらない。まだ番を得ていないから、オメガ相手に発散もできていなくてな」

「災難だな。性的に手練れの者を宛がうとかは……?」

「元々、御本人は潔癖なほうだが、発情期で悪化してな。一度そうしようとしたら暴れられた上に自傷されて断念した」

 げっと表情を歪ませたが、今度は父も似たような表情だった。フィーアの憂いも当時を思い出したのか深くなり、三人で暗い顔を突き合わせる。

 フィーアは手を組み、頭を垂れる。

「神殿に石を預けてみても長年、オルキス様の該当者はいなかった。慌てて国中の貴族の子息に石を差し出させて、見付かったのがセルド、君だ」

「……有力な番候補が見付かったのは嬉しい、のかもだけど。そんな猛獣のとこに俺、放り込まれんの」

 批難するつもりはなかったが、人に酷なことを言っていることに気づいているのか試した。フィーアは両膝に手を置き、深々と頭を下げる。

「当主も私も非常に申し訳なく思っている。が、元々オルキス様は魔力が非常に強い方で、発情期が終わらない症状も、魔力の振れ幅が強すぎて原因が探れない。番くらいの対策がなければ、長続きするのは目に見えている」

「フィーアは、そうしてでも助けたいと?」

 彼とは学を競った昔馴染みでもあり、魔術を語り合った仲である。

 主人の非であれ、こうやって几帳面に頭を下げるような男だ。そんな男が救いたいと頭を下げている相手が、病に苦しんでいる。

 下げた頭の下で、彼は苦しげに声を絞り出した。

「普段は落ち着きがあって優しい方なんだ。魔術師への理解もあって、常に学ぶことを怠らない。そんな方が狂ったように呻いて、そしてもう、思考も纏まらずに長いこと本も読めない。そんな姿を見るのが苦しくて……」

「顔を上げろよ。フィーアが頭を下げることじゃないだろ」

 当主を連れてこい、と言いたいところだが、大領主がこんな田舎を訪れることに対しても邪推されそうだし、フィーアが自ら来たがったのだろう。

 がしがしと柔らかく絡まる髪を乱して、視線を上げたフィーアに向き合う。

「対価はあるんだろうな?」

「結納金の大幅な上乗せと、優秀な魔術師を派遣することだ」

「迷惑料としては十分か。相手もうちと縁続きになるんだしな」

 父に視線を向けると、笑みと共に頷かれる。フィーア……ヴィリディ家と父の間では調整が付いたのなら、あとは俺が頷くだけなのだろう。

 番に夢見た時期もあったが、こうも急に決まると趣がない。顔も分からない相手と番になることを、俺は頷いて承諾した。

「いいよ。相手が嫌がったら番にはなれないが、行くだけは行ってやる。発情期明けに振られたら、金だけ貰って忘れるさ」

 こんな答えでいいか、と首を傾げると、フィーアは泣き出しそうになりながらまた深々と頭を下げた。

 主人の為に頭を下げることないのに、と彼のお人好しさをからかうが、それに絆された俺も同じくお人好しなのかもしれない。

 

 

◇2

 ろくな準備もしないまま、身ひとつで構わないと俺はフィーアと共に屋敷を出た。入れ代わりにヴィリディ家が手配した魔術師がうちの屋敷で働くことになるらしい。

 必要になったら荷物を届けて貰うことにして、俺は馬車と転移魔術式を使ってあちらの家まで移動する。ほぼ国内で使える最高速度、といえる速度で移動した俺たちは夕方頃にはヴィリディ家の屋敷に辿り着いていた。

 到着して直ぐ、当主と顔を合わせる事となった。

 多忙なのだろう、短い時間ではあった。だが、年齢相応の深みをもつ美丈夫であるヴィリディ家当主は、息子の人柄を話し、使用人のいない部屋で俺に頭を下げた。

「頭を上げてください。俺はあまり失うものを持っていないので、御当主が頭を下げるようなことではないんです」

 隣で話を聞いていたフィーアがさっと顔に陰を作ったが、言及する間もなく嵐のように対面の時間は過ぎ去った。

 手の込んだ食事を取らせてもらった後で、疲れているでしょうし湯浴みを、と風呂に放り込まれている間も、帰った方がいいのだろうかと迷いはあった。気持ちの整理もろくに終わらず、今でもこの選択が正しかったのか躊躇いはある。

 ただ、気に入らない人間を連れてくれば自傷するような相手だ。俺が行っても同じ結果になることは十分考えられる。悩むのは、会った後でもいい。

 白を基調として綺麗に磨き上げられた浴室で、用意された瓶を使って身体を洗い上げる。匂いの少ない洗髪剤は、匂いに拘るアルファの好みを考えてのことだろう。

 指先で泡立てて髪を洗い、大量のお湯を使って丁寧に流す。身体の表面を洗い終えると、はあ、と溜め息と共に指先で魔術を綴っていった。魔力を込めた指を動かす度、光の軌跡が付き従い、空中に呪文を記す。

 アルファと繋がる準備のための魔術、初めて形作るそれは物慣れずに、指先の震えを反映していびつな文字になった。

 続けて、アルファの精が胎に届かないように魔術を書いていく。魔術学校で教えられた時には使うことになることを想像もしなかったが、機会というものはこうも突然来るものなのか。

 身体の準備が整うと、俺は少しだけ湯船に浸かって、すぐに浴室を出た。使用人を断って自分で水滴を拭い、魔術を使って髪を乾かす。

 準備された下着や室内着らしき服も上質なもので、急いで用意された割には身体にぴったりと沿ったものだった。使用人の優秀さを実感しながら、風呂が終わったと告げるために脱衣所を出る。

 廊下には使用人とフィーアが控えていて、俺に気づくと使用人は一礼して去っていく。

「準備はいいか?」

「おう。性行為の時に使う魔術をさ、一応使ったけど慣れねえなありゃ」

 俺の言葉に、生真面目なフィーアはかっと顔を赤くする。彼もまた奔放な質ではなかったはずで、可哀想なことをしたと肩を叩く。

「お前も使うことになったら、丁寧に教えてやるからな」

「要らん。覚えてる」

 肩に置いた手を払い除ける姿は、学舎時代の彼に戻ったかのようだった。こほん、と気を取り直したように咳払いをして、こちらへ、と先に歩み始める。

 フィーアが困ったら助けてやろうと思うくらいには恩がある相手だが、受け入れた自分は大博打だな、と他人事のように思う。相手と相性が合わずに嫌われて撥ね除けられたり、発情期を過ぎて体よく振られたら散々だが、それもまた結果ってやつなんだろう。

 波も刺激も少ない人生の中で、神殿が選んだ相性という博打に乗ってみたくなった。

「本当に、いいのか? オルキス様は悪い人ではないが、ヴィリディは力のある家だ。お前が……セルドが必要なくなったら放り出せる」

 廊下から庭に出た、周囲に誰もいない場所で、ぽつりとフィーアは切り出した。当主の真意を読むこともできなければ、家の格差は如何ともしがたい。利用されるだけ利用されて、ぽいっと捨てるなんて簡単なことだ。

 不安そうに瞳を揺らす友人に、昔に怒られた何も考えていないような笑みを作る。

「はは、貸しにしとくよ。上手くいくことを祈ってな」

「お前のその好奇心は、いずれ身を滅ぼすぞ」

 フィーアには、友人への恩よりも彼の主人に対しての好奇心で俺が動いているように見えるらしい。確かにそういう気質だったな、と友人に言われて思い至った。

 そうか、わくわくしているのか、と胸に手を当てて、普段よりも早い鼓動を自覚する。

 振り返って別棟に歩き始めた友人の後を追って、少し軽くなった脚を持ち上げた。踏みしめる芝は柔らかく、靴底を跳ね上げる。

 門の外から見ても贅を尽くしたことが分かる豪華な屋敷とは違って、別棟は来客用に設えてあるのか装飾が上品ではあるが大人しい。フィーアの手によって別棟用の鍵が差し込まれ、捻られると、暗い廊下が目の前に広がっていた。

「どうする? 寝室の前まで付いていっても構わないが」

「いや、しばらく玄関前で待っていてくれないか。恙なく済みそうなら、そうだな……光を放つ魔術を、長く三回打つ。それ以降は帰ってくれていい。意識があれば通信魔術が使えるからさ」

「分かった。オルキス様が怪我をしたとしても、セルドに罰は与えられない。不都合があれば、容赦なく魔術で叩きのめすといい」

 幸運を。友人はそう言って、そっと扉を閉めた。

 扉から少し離れた音を聞き取り、こっそりと内側から鍵を掛けた。俺が怖がって友人に助けを求めてしまうかもしれない。入ってこられない方が、彼の主人は守られるだろう。

 手酷くいたぶられるかもしれないが、死ぬことはないはずだ。

 照明を灯し、光が入った廊下をそろそろと進む。屋敷と違って廊下の隅には埃が溜まっていて、少人数しかこの棟には入れないことが分かった。

 廊下の途中で、荒い呼吸音と、低い呻き声が聞こえてくる。届く声は何かを求めて、尚叶えられない苦痛に満ちていた。

 オルキス。彼と俺を隔てる扉の前まで来ると、足音に気づいたのか声が止む。

「────誰」

 掠れた声から、背を壁に押し付けられたような圧力を感じる。じわりじわりと扉越しに届くフェロモンに気づき、反射的に口元を覆った。

 普通ならオメガのフェロモンで発情期が始まるものだが、魔力の相性が良い相手が発情期に入っていれば、逆も起こり得る。

「セルド・クラウルといいます。フィーアの昔の友人で……」

 駄目だ、と理性が警鐘を鳴らす。鼻に届くフェロモンは俺の匂いに気づいたのか、忍び寄るように段々と匂いを濃くしていた。

 手を伸ばされ、絡め取られているような感覚だ。

「神殿の鑑定士が言うには、貴方と俺は、魔力の相性が良いらしい。長い間、貴方が発情期が終わらずに苦しんでいると聞いて、此処に来ました」

 俺が言い終わった後、扉の向こうは無言だった。帰れ、と突き返されればすぐに戻るのだが、返事がない以上、動くこともできなかった。

 それなのに、フェロモンは段々と濃くなる一方だ。どくどくと心臓が喧しく、鼓動が自覚できるようになる。

 とっ、と床に足をつく音がした。ゆっくりとこちらに歩み寄る音が重なる。

 向こうで、扉の表面を布が擦った音がした。

「セル、ド……」

 俺の名を呼ぶ声は、低くとも甘ったるい響きに満ちていた。口の中にどろりと蜜でも垂らされたように、耳をくすぐられる。

「君が、……僕の、つがい?」

「それは、俺には分かりません」

 じゃあ、と扉の向こうから蜜が流れ込む。

「試してみよう」

 キイ、と動き慣れていなかったのか音を立てて扉が開くと、長身の男が立っていた。濃い黒髪と、銀朱色の瞳は濡れたように色を濃くしている。美しい顔立ちは平常時なら静かな美形なのだろうに、少しやつれ、凄みのある色気を放っている。

 寝衣のはずの服はだらしなく着崩され、部屋からは汗の匂いに淫らな臭いが混ざっていた。息を止めようとするが、フェロモンだって匂いだって、容赦なく鼻先を覆っていく。

「初め、まして。僕は……オルキス・ヴィリディ……」

 すう、と呼吸を整えると、目の前の男は自らの唇を舐めた。

「いい匂いだ……、抱かせてくれ」

 強い力で腕を引かれ、室内に引き摺り込まれる。たたらを踏んで体勢を整えている間に、背後の扉がバン、と音を立てて閉ざされた。

 

 

◇3

 背筋が寒くなり歩こうとしない俺に痺れを切らしたのか、しゃがみ込んだ上で身体ごと抱え上げられる。

「……ちょっと待て! もう少し話を……!」

「悪い。頭が働かない」

 出来ているじゃないか、と暴れて男の背を叩くのだが、オルキスはしれっと声を無視した挙げ句、俺を寝台に放り投げる。

 衝撃が過ぎた後で身を起こそうとするが、その時には太腿の上に大きな身体がのし掛かっていた。口を開こうと息を吸って、フェロモンの所為で脳が揺さぶられる。

 先程よりも格段に濃いそれは、目の前の男が意図して操っているのだろうと容易に予想できた。

「はぁ……。疲れてるんだから、あんま動かさないで」

「おい。フェロモン、使った、な……」

 むずむずと半身が痺れ、刺激を求めた身体が疼く。

「当然……、でしょ」

 男は俺の服に手を掛けると、釦を千切らんばかりに雑に剥ぎ取ろうとする。彼の意識が服に向かっている間に、俺は光を放つ魔術を指先で綴ってこっそりと発動した。

 オルキスは光には気づいたようだったが、それが何の効果も齎さないことに気づいたらしく、釦の外れた服を開く。高い鼻筋がそっと首筋に埋まった。

「あぁ……! やはり、いい匂いだ」

「ひっ……」

 べろり、とオルキスの舌が首筋を舐めた。すり、と鼻先を擦り付けては、首筋にキスを落として自身のにおいを擦り付けていく。

 大きな掌が腹に触れ、皮膚を伝って胸へと向かった。

「おい。ほんと、やめ……んう」

「やめてよ大声。しんど……」

 声を上げていると、男の唇に塞がれた。喋り掛けていた口は開いており、易々と舌の侵入を許す。

「ん……ふ、ぁく……んっ、う…………」

 ぬるりと忍び込んだ厚い舌が、唇の裏を舐める。歯を伝い、舌を絡め取られた。呼吸で精一杯の俺を翻弄するように、ぴちゃぴちゃと舐めては唇を重ねる。

 指先は胸元を撫で、尖りを摘まみ上げた。捏ねては押し潰す動きを批難するように声を上げようとも、覆った唇に押し殺される。

「や、あふ、……ッぁ」

 混ざった唾液すら飲み込まれ、唇が離れた隙にはくはくと呼吸をする。胸を離れた手は腹を伝って、下の服に手を掛けた。

「待て……!」

 オルキスも犬ではない。力いっぱい服が引き下ろされ、下着ごと剥ぎ取られた。足の先に絡んだ服を好都合とばかりに放置し、脚を持ち上げる。

 秘部を晒すような格好になった俺が脚をばたつかせるも、上手いこと男に丸め込まれる。男は俺の股の間をじっくりと眺め、その唇は弧を描いた。

 ぽすん、とおもむろに俺の脚を解放したオルキスに、きょとんと寝台に手を突いたまま惚ける。諦めてくれたのだろうか、と彼を見つめたまま動かない俺を尻目に、オルキスは寝台を降りると、近くに放り投げられていた鞄らしき山に手を突っ込む。

 はっと我に返った俺が寝台を降りようとすると、早足で戻ってきた脚にまた太腿を踏まれる。

「……抱かせてくれる、……筈だよね?」

「承諾した覚えはないが」

 ふ、とオルキスは笑って、手に持った瓶の蓋をシーツの上に落とした。瓶の中身で掌を濡らすと、素早い動作で脚を左右に開く。

 閉じようと脚を動かすが、隙があったのか身体を割り入れられてしまった。伸びた指先が、尻の表面を撫でる。

「ひっ…………!」

 ぬるりとした指が表面を撫でただけで怖気が走った。逃れようと脚を動かす獲物を押さえ込み、彼は手の甲を俺の喉に押し付ける。

「可哀想だとは思うけど、大人しくして」

 声の圧に恐ろしくなった訳ではないのに、俺の身体はぴたりと動きを止めた。目の前にいるアルファが絶対で、その王者に逆らうことを身体が知らないようですらあった。

 目の前の男は満足げに喉を鳴らすと、開いたままの脚の間に指を伸ばす。アルファと繋がる時に使うであろう腔に、溝を伝った指が辿り着いた。

「────っ!」

 衝撃に喉がひくんと反応し、脚がびくりと揺れた。指先は襞を掻き分けるように動きながら、細径を辿っていく。身体の中に他人の指が侵りこむ感覚は、僅かな快楽と共に恐怖を染みわたらせていった。

 そうされて尚、俺は抵抗する動きを取れなくなっている。あの声にアルファ特有の何かが込められていたのだろうが、分からずに混乱したまま身体を拓かれた。

「……ぁあっ!」

 指先が、その場所を見つけ出した。

 ゆったりと撫でられる度に、未知の快楽が与えられる。いっそう裏返った声は、その場所を弄られることを強請るような響きを纏っていた。

 フェロモンは逃がさぬようあたりに檻のように広がっており、息を吸う度に体温を上げていく。酒酔いのように頭はぐらぐらと痺れ、気持ちよさだけを追うことしか出来なくなっていった。

「……ひ、ぁう。ン、っあ……ぁあ」

 くち、と秘処から濡れた音が立つ。目の前のアルファと繋がるために拡げられていると理解しても、躰は快楽ばかりを拾いたがる。オルキスの腕が支えずとも脚を広げ、腰は浮かんばかりに揺れていた。

 目の前のアルファは愉しそうだ。

 少し伸びた黒髪は首筋に張り付き、自らも荒い息を漏らしながら俺を翻弄する。美麗な顔立ちと目が合えば、どくりと胸は慣れない跳ね方をした。

「僕の番。……君の髪は柔らかくて気持ちがいい、肌は艶やかでずっと触っていたい。すこし吊り目がちなのかな、蕩けているのがよく分かる」

「……初めましての相手、にする、ことかよ。…………うア、……んっ、ぁく……ぁ」

「だって……、はは。仲を深めたくとも、治まらないんだもの」

 ここが、と脚に擦り付けられた彼の半身は、もう膨れて勃ちあがっていた。下着を身に付けていないのか、かたい感触が近く、布の表面に染みを作っていた。

 擦り付けられる表面は、やや冷たく濡れそぼっている。

「もう、ね。……扱くだけだから粘膜が痛くて。こんな柔らかいとこ突っ込めるなんて夢みたいだ……」

「……いっ、……ぁ、だから、……ぁあ、っ。突っ込む、の、ゆるして……な、ァ」

 ふぅん、と呟いた彼の指先が、径の奥でくっと曲がる。その度に腹の奥からにぶくて重い快楽が届き、触れられていないはずの前はとろとろと雫を零し始めていた。

 太く感じていたはずの指も体内を踏みしめられているうちに慣れ、また新しい快楽を求めるように食い締める。

 目の前にある銀朱色の瞳が細められた。少し暗い部屋の中では、濡れて照明を反射するその色が炎の揺らめきにも思える。

「許しは得ているよ。発情期だと知って……いて、君がここに来た。今の言葉は……、褥の中での駆け引きだ」

 怯えてずりあがった躰を、脚を引いて元の位置に戻される。近くにある瞳の奥、揺れる炎の中心は、ぎらぎらと巻き込まんばかりに熱をもっていた。

 彼の手が脚から離れ、自身の下の服にかかる。引き下ろした服の先から、ぼろりと勃ちあがって湯気を立てんばかりの熱棒がこぼれ落ちた。

 太く赤黒いそれが表面を濡らし、突き入る隙を窺っている。別の生き物のようにさえ思える雄が、自身の身体に入ってくることに怯えた。

 脚が逃れたのをいいことに躰を反転させ、逃げようとシーツの波を掻く。けれど、いちど圧を与えられた身体の動きは鈍く、あっさりと足首を掴んで引き戻された。

「あ…………」

「大丈夫、……ッ、ちゃんと呑み込める。きっと気持ちがいいよ」

 尻たぶに膨らんだものが押し当てられ、ぬるついた表面で皮膚を辿られる。直ぐに窪みは探り当てられ、肉縁に先端が引っ掛かった。

 腰に手が掛かり、強く背後に引かれる。ぬぷ、と引っ掛かっていた先端が輪を潜った。

「────……ァ、ぁあああっ!」

 耳の横で、ごくんと喉が動いた。

 みちみちと縁を拡げ、巨大なそれが身体を割り拓いていく。見知らぬ質量を味わわされる内壁がうねり、みしりと重い楔に纏わり付いた。

 力の加減が分からずに、食い縛っては身を捩る。

「……い、ッあ。……うそ、はいっ、て……や」

 爪の先をシーツに埋め込んでも、滑らかな表面に滑るばかりだ。ずりずりと這ったとしても、がしりと掴まれた腰は相手との距離を縮める方向にしか動かない。

 寝台の上での抵抗を窘めるように、背にオルキスの額が押し付けられた。皮膚にぼたぼたと彼の汗が垂れる。

「まだ……っ、入るよ。受け入れてね」

「こ……ンの。……ぁ、っひ。……あっく、ふ、ぁ」

 ぐりり、と指で教えられた弱点を捏ねられる。上方から体重を使って押し付けられるそれは、指先よりも更に重い刺激を与えてきた。腹の底からずぐずぐと這い上がるような知らない感覚に、戸惑った脳を麻痺させる。

 動きによる水音が強くなった。もう身体の中では彼の半身がだらだらと涎を零し、薄い子種は流れ込んでしまっているだろう。

 魔術で鍵を掛けていなければ、番になる前に子を宿してしまうところだった。

「…………あれ? なん、か。遮られてる……?」

 こつん、と剛直の先端が魔術による壁を捉えた。こつ、こつ、と叩くそれの感触を味わい、あぁ、とオルキスは声を漏らした。

「子種が胎に届かなくする、魔術か」

「あんま、……っ、触るな。俺との間に子どもができた、ら。あんただって困る────ッ!」

 引いた腰が、その壁に叩き付けられる。

 魔術による壁がそれを押し返すのだが、軌道がぶれた肉棒は周囲の弱い場所を巻き込んで苛む。背後では隠しもしない舌打ちが漏れた。

 広がった掌が腰に押し当てられる。

「これ、外して? 精を染み込ませない、と……番になれない」

「だから……! 外したら……。ぁ、っあ……────え?」

 胎の外に仕込んでいた魔術が、何かの魔力干渉を受けてびくんと動く。腰に当てられた指先が熱い。そこから魔力を流し込まれていることを、教えられずとも察した。

 魔術の素養はないはずの彼が、完成した魔術を解こうと魔力を動かしている。素人がやること、と一笑に付すことはできなかった。

 魔力の相性の良さを使って、俺の魔力を動かして魔術を解除させようとしてくる。

「おい……。っァ、う、っそだろ……」

 防ごうと繋がった魔力を手繰っている刹那、相手の魔力の齟齬が分かった。たったの一箇所、彼の魔力波の繰り返しの中で決定的に狂っている部分がある。体内から魔力を過剰に生成させ、暴走状態になっていることが見て取れた。

 夢中になって魔力を追ってしまった、のがいけなかった。かちり、と歯車を正せたと思った瞬間、同時に胎への魔術が解かれたのが分かる。

「────あ、はは……。外れた」

 嬉しそうな声が上がった瞬間、ずりり、と男根が許していなかった場所へと滑り込む。腰がぴたりとくっつき、尻の表面を茂りが柔らかく掻いた。

「あ────。う、あ、……ひ。とどい、ちゃ……!」

 腹に手を回し、抱き込んで奥だけで揺らされた。重たい刺激が神経に直接触れるように、鋭い快楽を断続的に与えられる。

 長いものは抜かれず、漏れている液を染み込ませるように奥に居座ったままだ。

「ぁ、発情期、明け……ッ、て、こま、るのは……っく、ぁ、お前だぞ──!」

「ふ、っく……。僕は、困らない──よ!」

 無防備に晒された首筋に、オルキスの牙が当たった。ぞくぞくと恐怖心は湧いているのだろうが、跳ねる心臓は好奇心と混ざって変に昂ぶってしまっている。

 学舎を出て、田舎で暮らしている間は、好奇心を満たす手段は魔術だけだった。人との付き合いが、刺激になることなんてあるはずもなかった。

 それなのに俺は、さっき出会った相手と繋がって、男の胤を宿すのを許そうとしている。大きすぎる賭けに違いないのに、もう賭け金は置いた後だ。

「……ン、ぁ、噛んだ、──ァら、責任、とれ……ぁ、あぁ、く」

「うん。そうしよう、ね。────僕の番」

 開いた口が首筋を舐め、整った歯が皮膚に食い込んだ。首筋を捉えて、大振りに引いた腰が奥深くまで一気に突き入れられる。

「────ひっ、ぁあぁ、……ぁあああああぁあ!」

 どくり、と膨れたものが細い筒を押し拡げて暴発する。く、と唇を噛んで、流れ込んでくる子種を胎で受け止めた。いちばん濃い魔力の流れが、びりびりと神経を焼き切っていく。

 熱いのか、心地いいのか、感覚をすべて押し流すように熱を含まされた。尿道に残った残滓まで押し出すように腰を押し付けて、息をしている間、無言で抱き合っていた。

「……ふしぎ。まだ、発情期は終わってない……のに、頭が晴れてきた」

「そりゃ……よかった……、な。……っァ!?」

 びくり、と腹の中の雄がまた硬さを持ち始め、謝るように頬にキスが落ちる。他のオメガなら絆されたのだろうが、俺は肘を振り上げて男の腹に当てた。

 ぐっと呻くも、強く絡んだ腕は解けることはない。

「はなれ……ろ、こンの……! ぁあ、ん……ァあ、あ」

 身体で押さえつけるよりも快楽に引き摺り込んだほうが早い、と判断したらしいアルファは腰を動かし始めた。悪夢の方がまだましだ、悪態をつきながら寝台に押さえ込まれる。

 結局、寝台を出たのが何日後だったのか、俺には知る由もない。

 

 

◇4

 ぱちり、と起きた先の天井は、見知らぬ色だった。

 長いこと過ごしたのであろう、別棟ともまた違う天井だ。身を起こそうとして腰のだるさを自覚し、起き上がらないまま布団を握って窓に目を向ける。

 陽は高く上がっていて、昼近くであろうことが分かった。薄暗かった別棟とは違い、光が存分に届く室内に目を細める。

 部屋は俺が暮らしていた田舎の屋敷での部屋よりも格段に広く、調度品は落ち着きある色味ながら、一目見て高価であろう事を察する物が並んでいた。配色の組み合わせの上手さは、部屋の主の素質ありきだろうか。

 慎重に身を起こし、そろりと床に足を着ける。近付いてくる足音が響いたのは、すぐ後のことだった。

「セルド。目が覚めたのかい?」

 扉を開けて覗かせたのは、もう見慣れたオルキスの顔だった。さっぱりと身体を洗い清め、髪も整えた姿は、美しさも相俟って王子様然としていた。

 肩に付かないくらい、長すぎることのない黒髪は夜のように深く、光を受けた肌は白い。ぱちりぱちりと瞬きをするたび、目立つ色の長い睫が動いた。銀朱色の瞳は、陽の光を浴びて生命力を主張する色へと印象を変えている。

 身に付けた服の布地は厚く上質で、無駄な肉のない身体にぴったりと添っていた。

「あ、あぁ……」

 彼に対しての印象は、寝台で無体を働かれた記憶ばかりだ。返事に迷って声をくぐもらせると、大股で部屋を突っ切ったオルキスが、隣に腰掛けてくる。

 急な詰め方につい距離を取ろうとしてしまうが、彼はそれを許さぬように腰に手を回した。

「痛いところはないかな? 普段ならもっと優しくしてあげられるのに、あんな対面の仕方だったから……申し訳なく思っているよ」

 しゅんと眉を下げる姿は自然で、演技という訳でもないようだ。発情期だからこその態度だったのか、と気づいてしまえば怒ることもできず、いや、と曖昧な返事しかすることができなかった。

「俺、……あんたの番になったのか?」

「そうだよ。僕はもう、君のフェロモンしか分からない」

 残り香のようなオルキスのフェロモンは分かるのだが、俺も同じように彼以外の匂いを拾うことはできなくなっているだろう。

 するりと近付いてきた整った鼻先が、首筋を辿って匂いを味わう。まだ彼に対しての恐怖心が残っているのか、なにも出来ずに動きが凍ってしまった。

「発情期が終わらない症状を止めてくれたのも君、なんだよね。魔力を繋げた時、君の力が僕の掛け違いを治してくれた」

「ああ、なんか……変な箇所があって」

 魔術の素養のないオルキスに対して、詳細な説明を加えるのは控える。

 べたべたと触れてくる彼はもう俺のことを完全に番だと認識しているようだが、俺としてはまず人助け、くらいの気持ちだった。

 病で苦しんでいる時に番候補が身を挺して助けたのだから、そういったベールが掛かるのも当然なのだろう。だが、俺から見れば彼は、高位貴族で相手も選び放題な美形だ。言い寄られることに今更ながらびくついてしまう。

「あの一瞬が決め手だった。恋に落ちるとはこのことなんだって、きっと、君を遣わせてくれたのは運命なんだって気づいたんだ。僕は、発情期が終わったって、君と番うつもりだよ」

 王子様のような彼は、思い込みも激しい質らしい。色々終わった上で放り出されなかったのは幸いだったが、逆にこう言い寄られるのも困ったものだ。

「まあ、それ自体は保留にするとして……。症状も落ち着いたんなら俺は一旦、説明も兼ねて家に帰ろうかと思うんだが……」

 目の前のオルキスの瞳がぱちぱちと瞬く。何を言っているんだろう、と疑問に思っているような表情に、疑問を抱くのはこちらの方だ。

「しばらくは、長時間の馬車は控えた方がいいんじゃないかな。……君だけの身体じゃないんだし」

「は…………?」

 オルキスの長い指が、俺の腹に添えられる。いくら魔術を解かれて子種を受けたとはいえ、発情期たった一度で実を結ぶとは思えなかった。

 だが、すり、と腹を撫でる表情は真剣そのものだ。

「子どもができた、って言いたいのか?」

「だって、僕でも君でもない魔力がいる」

 慌てて魔力を手繰ると、ちいさくだが、彼が言うように別の魔力が灯っていた。ふら、と倒れかけた俺を、しっかりと腕が支える。

 魔力の相性とは、こんなにも影響を与えるものなのだろうか。

「え……っと。いる、……な」

「うん。魔力を扱える医師に診せたら、分かるかもしれないね。だから、しばらく実家に帰らずに、こちらに滞在して貰いたいんだけど」

「ああ。……分かっ、た」

 愕然と頷くことしかできずにいる俺を、オルキスは抱き寄せて頭を撫でる。擦り寄るにおいは発情期の間に嗅いだもので、慣れた匂いに自然と落ち着いてしまった。

「君は僕を助けてくれたのに、急な変化を強いてしまってごめんね。君が僕を好きになってくれるまでには時間がかかるだろうけど、これからの君の人生を精一杯支えさせてほしい。僕を都合よく使ってくれて構わないから、子どもは……」

 探るような瞳を、真っ正面から受け止める。

「……あんたが悪いようにしないと言うなら、俺も積極的にどうこうしようとはしないさ。まあ、元に戻ったあんたと接するのも初めてのことだし、しばらくあんたも含めて様子見ってことでいいか」

「もちろん!」

 抱き付いてくる声音は嬉しそうだ。大型犬のようであるのに、包み込む指先は柔らかかった。

 やがて身体を離すと、オルキスに食事を取るか問われた。空腹に頷き返すと、隣室に食事を用意すると言われ、腰を支えられながら移動した。

 給仕によって大きなテーブルに並べられていく料理はどれも長く咀嚼せず食べられる食事ばかりで、かといって色味や盛り付けまで凝られたものだった。

 悪口を言うわけではなく事実なのだが、実家ではとても出てこないような食事だ。

「うまそ……!」

 涎を垂らさんばかりの俺に、給仕はほっとしたような微笑みを浮かべて椅子を引いてくれる。てきぱきと食事の準備を整えられ、そこまで世話をせずとも……と恐縮するのだが、オルキスは当然だとばかりに俺に言う。

「君は僕の恩人だよ。もう少し威張っても、大きな要求をしてもいい。あとでゆっくり聞くから、考えておいてね」

「いや…………。うん」

 要求したいのはこの家所蔵の魔術書くらいのものだが、他に欲しいものはあったかな、と考えつつ保留にしておいた。貧乏貴族の家に生まれた人間にとっては、要求と言われても願う金額は高が知れている。

 補助をされながら、焼きたてのパンに濃厚なジャム。鮮やかなサラダに卵料理、丁寧に濾したスープ、と料理を次々と腹に入れた。魔力消費が激しくて普段よりも食べてしまったが、通常の食べる量も成人した男性よりは多めだ。

 呆れられるかな、と思ったが、オルキスは俺がぱくぱくと口に入れる度に嬉しそうに目を細めていた。自分の分も俺に与えようとして、俺はそれに一度は遠慮しながら、これも贖罪のつもりなのかな、と受け入れる。

 食事が終わって給仕に声を掛け、感想と好きな食材を伝えると、そのまま料理人にも伝えてくれるという。

「セルドは料理人に好かれる性格だろうね」

 オルキスの言葉に、首を傾げる。

「そか? でもヴィリディ家は食材も潤沢で、料理人も優秀だな。うちの料理人も優秀だけどいっつも予算の心配ばっかりさせて迷惑掛けててさ」

 それから実家の懐事情を少し話すと、軽く目を見開いたオルキスが部屋に戻りつつ話を深掘りし始めた。

 元の部屋に戻ってソファに隣どうし腰掛け、彼から降ってくる質問に答えていくと、答える度にオルキスの眉間の皺が深くなる。

「こちらでしばらくはお預かりするとしても、もう少し落ち着いたら僕だけでご挨拶に行ってくるね。その時に、料理人が予算に困らないように、くらい、領地の収益が上がるようにお互い協力できないか話してみるよ」

 結納金という直近の援助はあるとしても、今後ずっと続くわけではない。金策に走り回っていた父や兄たちが領地運営にもっと力を入れられるのはいいことだ。

 お互いに協力、と彼は表現したが、ヴィリディ家に大部分を頼ることになるのだろう。けれど、それを協力、と表現してくれた気遣いは有難かった。

 発情期のあの暴君っぷりは何処へやら、といった様子で、フィーアが頭を下げてまで守りたがった主人、がこの男であるのも頷ける。

 それからクラウル家の領地の話を聞き取られたが、ずいぶん細かい所まで気にしており、問うとオルキスもまた実際にいくつか担当領を持っているそうだ。

「何とかなりそうか?」

「うん。今はお金がなくて回らない部分も、貸与して大きなお金が一時的にでも入れば改善する部分も多いと思う。縁続きになったんだから、何とでも言ってお金は回せる。色々と提案してみるよ。君のご両親が心労少なく領地を回せるようになれば、君も心安らかに過ごせるだろうしね」

 心配でしょう? と問われ、正直に頷いた。金のない貴族相手で、結納金の話がなかったら、俺が頷いたかは疑わしい。やっぱり、蓄えの少ない実家の現状は気がかりだったのだ。

「クラウル家は人が善すぎるんだよね。税負担も少ないし、何かあればすぐ領主がお金を出そうとする。移住してくる人数はそこそこいるんだから、いい方向に車輪が回れば、きっとすぐ良くなるよ」

「あ……、ありがと」

 実家を褒められるのは、素直に嬉しかった。ふわりと口元を綻ばせると、目の前のオルキスも同じ顔になった。

 寄り添う体温が自然に思えてくる感覚が物慣れず、回してくる手を同じように返せない。もう少し時間が経てば違うんだろうか、戸惑いながら、しばらく隣で言葉を交わし合った。

 

 

◇5

 オルキスの屋敷に来る前は領地を駆け回っていたが、こちらの屋敷では蝶で花かとばかりにもてなされる。

 厳しいとの噂を聞いたヴィリディ家当主……オルキスの父であるその人ですら、俺に対してはその美しい顔立ちを緩ませるのだ。

 何故こんなにも態度が柔らかいのか不思議に思ったものだが、あまり表に出ることのないオルキスのもう一人の父……生みの親であるオメガの父は、庭好きで穏やかな人だった。オルキスの人当たりが柔らかい部分はこちらに似たのだろう、と分かるその人と接していると、俺とも魔力の質が近いことが分かる。

 つまり、オルキスの父が番に対して甘いがために、息子の番である俺にもその甘さの一部が適用されているようなのだ。

 結果、屋敷の中をぶらついていると、使用人なりオルキスの両親や兄弟なりに厚意をもって話しかけられる。最初の頃は、会話に緊張して部屋に戻っていたが、仕事がない生活にも飽きてしまった。

 屋敷に出ないと仕事が貰えない、と気づいた俺は、屋敷中の魔術装置を調べ回って、調子が悪いものを見つけると、『直してもいいか』尋ねるようになった。

 重要なものではなく『いいよ』と言われると期限を聞いて装置を外して持って帰り、自分が考え得る中で最高の質の魔術式に更新して期限内に仕込む。

 そういう事を繰り返していると、流石に当主にもオルキスにもばれた。

「ずっと魔術式を書いてるから何かと思えば……」

 オルキスは動き回っていないと落ち着かない俺に驚いた様子だったが、激甘な番である。友人であるフィーアをお目付役として、医師に相談しつつ無理のない範囲で、という約束で許可された。

 屋敷を歩き回る所為で屋敷の人々と話すことにも慣れ、過ごしやすさは増している。

 オルキスは復帰直後は溜まっていた仕事に追われていたが、俺が屋敷での立ち位置を確保する頃には、それも落ち着いていた。

「セルド。僕、今日はお休みなんだよ」

 唐突にそう言われたのは、天気の良い日の朝食の場だった。暑くもなく寒くもなく、暮らしやすい日のうちの一日だ。

 体調にも変化はなく、質の良い料理が盛られた皿を丁寧かつ迅速に空にしていく。今日は何をしようか、と考えていた時のことであった。

「良かったな。部屋でゆっくりするのか?」

「朝方はそうするけど、昼になったら屋敷の庭を散策しない? お弁当を外で食べるのは楽しいと思うんだ」

「あ、行きたい!」

 前のめりに返事をすると、オルキスは嬉しそうに頷く。

 せっかく久しぶりの休みだというのに、安全な場所で俺を楽しませようと考えてくれていたのか。そういえば、昨日も急ぎの仕事を引き受けていないか、尋ねられていたように思う。

 根菜をすり潰して味を調えたスープを口に入れると、ほっこりと優しい味わいが広がった。

「なんか、気を遣わせてごめんな。あんまり俺が暴れるのは怖いし」

「うん、僕も。お互いに魔力が強い所為で、育ちが早いのは予想外だったね」

 腹の子は魔術に心得のある医師に定期的に診てもらっているのだが、平均よりも早く育っているとの事だった。両親ともに魔力が多いためか、栄養と魔力を糧に身体を育てている様子が分かるらしい。

 その代わりに俺は以前とは比べものにならないくらい食べてしまうのだが、体重が増えることもなく、見事に魔力に転化されている。

「もう最近、食べても食べても腹が減るんだよ。実家にいたら食費のこと考えなきゃいけなかったから、ほんと助かる」

 そう言い、パンを千切って頬張る。オルキスは困ったように笑っていた。

「過剰に食べることもしなくていいらしいけど、セルドの体調だけを考えて。食費は本当に気にしないでね」

「はいはい、せいぜい腹いっぱい食べるよ。お前の子だもんな」

 魔力量が多い所為か、オルキスもそこそこ食べる質らしい。朝食としてテーブルいっぱいに並んだ食事が、たった二人によって片っ端から消えていくのは壮観ですらある。

 俺の言葉に、オルキスはぱっと顔を輝かせ、何だか、うんうん、と一人で納得していた。

 しばらく同じ部屋で過ごしているが、オルキスの恋は醒める様子を見せない。すぐに飽きた、と放り出されることも考えてはいたが、毎日律儀に愛を囁いては、俺の助けになろうと心を砕いている。

 料理の載った皿がなくなると、二人して長かった食事を終えた。

 給仕に食事量の相談をして、美味しくなく感じるようになった食材もまた伝えた。

 体調の変化が大きく、数日前には好きだった味が今日には受け付けなくなったりする。栄養を摂れないのが一番困ること、と料理人には細かく現状を伝えることにしていた。

 給仕も熱心に詳細を問い返してくれるので、親切心をこそばゆく感じながら話を終えた。

「悪い。暇だっただろ」

 俺と給仕が話しているのを聞くばかりになっていたオルキスに声を掛けると、彼は立ち上がって近寄り、俺の腰を抱く。

「ううん。僕も知っておいた方が良いことだよ」

「…………そう、か……?」

 首を傾げる額にキスをされ、一緒にオルキスの自室に戻った。

 俺が調理に使う攪拌機の魔術式を直そうと紙を取り出すと、オルキスは隣で娯楽小説の本を積み上げた。

 しばらくはお互いに別のことをしていたが、飽きた俺が娯楽小説に目をやりはじめると、遊戯盤を持ち出して対戦に誘ってくる。駒を特定の規則に従って進めていく陣取りの遊びで、覚えることは少ないはずなのに、初回はあっさりと負けた。

 面白がってもう一回、と何度も挑めば何となく流れが分かってくる。少年のようにけらけらと笑い声を上げ、互いの駒を跳ね散らかしていった。

 ふと腕に触れる時、何の気負いもなしに触れていることに気づく。ぺたぺたと腕に触れさせると、上の方でオルキスが不思議そうに目を瞠った。

「また魔力がおかしくなってる?」

 発情期が終わらなかった時に、俺が魔力をいじって治した時のことを指しているのだろう。いや、とその言葉に首を振る。

「触っても、嫌な感じしないなって」

 オルキスはぽかんとして、むずむずと口元を閉じて、少し考えた後で俺を抱き込んだ。いつものこと、とされるがままになっていると、そっと髪が撫でられた。

 灰褐色の髪の柔らかさは彼によく褒められるが、最近では丁寧に手入れされるので絡まりやすさも改善している。オルキスは髪を掻き分けて耳に掛け、指先の感触で楽しんでから、鼻先から口元を埋めて息を吸い込む。

 もぞもぞとする感覚も、続けられていれば慣れるのが不思議だ。

「君から離れたらまた僕は病んでしまいそうだから、面倒だろうけど、こうやって触らせてね」

「別に、嫌じゃないからいいよ。邪魔されてる訳でなし」

「セルドのそういうとこ、大好き」

「知ってる」

 くっついたオルキスは、遊戯に戻りたがらなくなった。髪を撫で、肌に触れ、ぽつりぽつりと断続的な会話を楽しむ。俺は彼の膝の間に座らされ、やんわりと魔力を馴染ませた。

 神殿の鑑定士の腕は良いようで、俺もオルキスも、互いの魔力相性はいいのだろうと納得している。相性の悪い魔力は触れているだけで苛々したり、体調が悪くなったりと影響を及ぼすが、俺たちはたぶん放っておけば何時間でも触れ合っていられる。

 最たるものが発情期の期間だっただろう。あの時期、魔力の境界は失っているに等しかった。

「僕ね。ずっと前から神殿に雷管石を預けてたんだけど、相手が見付からなくて。もう結婚の適齢期だから、っていくらか番候補……口約束程度にそういった人を父も見繕いはじめていて。だから、運命には会えないのかなあ、って思っていたんだ」

「ほんと……それに関してはごめんな。代わりの魔術師を雇えなくて……」

 初めてその事情を話した時、オルキスは目をまん丸にしていた。

 それもそうだろう、彼が運命に会えない、と気を揉んでいた理由が、まさか番の実家が貧乏だったから、とは彼も思うまい。

「ううん。僕はそういった事情を想定してなかった。長い間会えなかったのは寂しかったけど、でも、そういう事情がある人、のことを僕が考えるいい機会になったよ。これも、君からの贈り物なのかなって」

 それにね、と耳元で、宝物を打ち明けるようにオルキスは言葉を続ける。

「もう、会いたかった君に逢えたから。なんでもいいんだ。全部、笑い話なんだよ」

 オルキスからの恋情は、疑うべくもない。こんな言葉を演技で紡げるのなら、たいした役者だ。

 ふふ、と伝えられたことに満足そうに笑うオルキスは、背後から回した腕にやんわりと力を込める。腕に手を添え、背後に寄り掛かっても、彼の体躯はびくともしなかった。

 のんびりとしている時間、いい機会だとオルキスの手ずから髪を梳られ、爪を整えてやすりを掛けられ、今度、装飾品を贈りたいのだと打ち明けられた。

「貰ってばっかだと返す時に困るんだが……」

「違うよ。病から救ってもらって、番も子も与えられて、一生掛かったって返しきれないんだよ」

 上機嫌な声音は、聞き入れるような響きを持たない。これがアルファってやつなんだろう、と思ったが、実害がないので放っておいた。

 財を使い果たす勢いで贈ってくるならその時に止めるが、金持ちの散財は他の者の懐も同時に暖める。適度に俺が放っておけば、助かる者もいるだろう。

 番として文句の付けようもない。最近の困りごとと言えば、そんな贅沢な悩みだった。

「そろそろ庭に行こうか」

 使用人から弁当が届けられ、庭で弁当を広げた後、手入れをされた庭を解説を受けながら散策する。

 思ったよりも広かった敷地は半日がかりでも周りきれず、次の約束を交わしてその日を終えるのだった。

 

 

◇6

 屋敷の滞在が長くなってくると、実家からは追加で荷物を送ろうかと打診された。

 長期的に滞在をするのなら受け取りたいものもあったが、徹底的な破綻がすぐにない、とまだ言い切れずにいる。両親にはこちらの家での保管場所の相談が終わり次第、と返事をして、一旦、保留とすることにした。

 オルキスの自室で文机を借り、返事の手紙を書き終えると、封をせずに使用人を経由してオルキスへと回してもらった。彼からの手紙があれば同封されるのかもしれない。

 まだお客さんとしての立場を意識している俺は、通信魔術を使うことを控えていた。俺の体調が落ち着いたら、と対外的に公表している訳でもないし、俺の行動がヴィリディ家の監視下に置かれるように行動をしている。

 彼らのためでもあるが、俺の身を守るためでもあった。

 もうちょっと気楽に生きたいもんだ、と息を吐き、つい癖で腹を撫でる。少し丸みを帯びてきたであろうその場所は、この国にとっては俺の命よりも重い。

「お前がいなかったら。俺、こうやって番でいられたのかな」

 オルキスを縛ってしまったようで、澱のようなものが溜まっていく。

 胎に対しての魔術を解いたのはオルキス自身だが、長い発情期で精神を崩していた彼と、普段、接している彼とでは印象がまるで違う。

 俺がいる限り、あの病の後遺症を背負わせてしまうような感覚もあった。

 やめやめ、と憂いを払い、新しく引き受けた魔術装置へ埋め込む魔術式の設計書を取り出した。魔術機持ちの連中には手書きを驚かれるが、実家ではあんな高価なものはとても買えなかったのだ。

 細かな文字を重ねて魔術式を組んでいると、屋敷全体で管理している結界のうち、オルキスの自室の扉に仕掛けられたそれが一時的に解除される。

 姿を現したのは、今では仕事仲間であるフィーアだった。魔術師のローブを纏った彼の憂いは晴れ、日々貴族付きの魔術師としてオルキスに付き従っている。

「おはよ。どした?」

「思ったより元気そうでなにより。来客があるそうでな、鉢合わせるとまずいかと予定を聞いておいた」

「うわ、助かる。まだ俺がここに滞在してるってこと、身内しか知らないしな」

 フィーアは口の端を上げると、ローブの内側から手帳を取り出して頁を捲る。

「来るのはルピオ家のキィジーヌ様とスリーフ様、双子の姉弟だ。二人は……」

 友人は言葉の途中で、あからさまに悩むように口籠もった。俺はまあ座れ、とフィーアの手を引いてソファに腰掛けさせ、がしりと態とらしく肩を組む。

 この几帳面な友人は、嘘も誤魔化しも下手だ。

「この二人が、オルキスと何かあんだな?」

「その野生の勘を、上手いこと発動させるのは止めてくれないか」

「好奇心と勘でここまで上手く生きてこられてんだから、使わない手はないだろ」

 にんまりと絡んで笑うと、フィーアは諦めたように息を吐く。

「……二人のうち、オメガであるキィジーヌ様は、オルキス様の番に、と話に挙がっていた人物だ。勿論、話は進まなかったが、お互いに家柄が釣り合って、雷管石を預けていても神殿から答えがないアルファとオメガ同士だった」

 ルピオ家もまた古くから続く家柄だ。建国の祖に縁があり、家柄としてはこれ以上は望めないほどの立場にある。

 とはいえ、昨今では領地が縮小ぎみで、うちの実家ほどではないにしろ金に困っているのでは、と噂されていた。実家も金はなく、そういった話が回ってきやすかったのだ。

「ルピオ家も金に困っている感じだったな。横から俺が掠め取った形になる訳か」

「まあ、悪く言えばそう言えなくもないが、正式な話にまで挙がっていた訳でなし。神殿のお墨付きがある運命の番は何よりも重い。ルピオ家が困窮していたとしても、セルドが気にすることではない」

「文字通り余計なお世話か。どう言い繕っても、家の格はあちらのほうが上だしな」

 じゃあ出歩かない方がいいな、と納得し、二人が来訪する時間を細かく教えてもらった。窓からは屋敷の門が観察できる、ちょくちょく眺めて馬車が去ったら出歩くとしよう。

 しっかりと書き留めてくれたフィーアに礼を言う。

「いや、セルドが心穏やかに過ごせるならそれ以上はない。そういえば、御子はどうだ?」

「誰に似たんだか、とんでもない大食らいだな」

「お前だろう。健やかならいいんだ」

 組んでいた腕を解くと、フィーアは仕事だとソファから立ち上がった。机の上の魔術式に視線をやり、間違っている箇所を訂正すると、部屋を出て行く。

 俺は間違っていた箇所を書き留めると、ぽすんとソファに背を預けた。

「……婚約者みたいな人、くらいいるよな」

 自分にはとてもそんな相手はいなかったのだが、単純に貧乏だからだ。普通の貴族なら、運命の番を求めつつも、得られない時のための婚約者がいる事は咎められることではない。

 だが、何だか、胸がちくちくと疼いて仕方ないのだ。

「なんか。オルキスに正式な婚約者とかいたら、もっと腹立ってた、かもな」

 自分という番がありながら、ともっと沼深くに沈んで嫉妬に染まったかもしれない。そろりと首筋に手を伸ばすと、オルキスが噛んだ歯形に凹んでいる感触が当たる。

 この痕が失われることはない。それでも、オメガはアルファに痕を残せはしないのだ。

「オルキスに、情でも湧いてきたのかねぇ……」

 他人事のように呟いてはみるのだが、そう言い始めた時点で答えは明らかだった。

 身体を重ねて、長く共に時間を過ごし、ああも開けっぴろげに愛を毎日囁かれれば、傾くものなのかもしれない。自身の変化を意外に思いながら、滑らかな生地の上に寝転がった。

 納期がまだ先の魔術式を見やって、うとうとと微睡む。魔術学校にいた頃も魔術の実験に忙しく、実家では仕事で領地を駆け回っていたものだから、人生で初めての長期休暇のようなものだった。

 少し眠ってしまったのだろう。光の眩しさに目を開けると、近くに立っていたオルキスが顔を覗き込んできた。

「起こしちゃったかな、ごめん。少し忘れ物を取りに来てね」

「…………ん? うん」

 ぽやぽやと掴み所の無い返事をすると、ころころと鈴を転がすような笑い声が上がった。オルキスの両手が起き上がった俺の頬を包み、ついでとばかりにこめかみにキスをされた。

 反応に困ってむにゃむにゃと誤魔化し、口を開く。

「ルピオ家の人ら、まだいるの?」

「父と話しているところだよ。僕は借りていた本を取りに来たのだけど、もう少しいるかな」

 まだ部屋を出られないか、と伸びをして、目元を擦る。机の近くで本を見つけ出したオルキスは、小脇に抱えた。

「フィーアから話を聞いたんだろう。セルドは、ルピオ家の人達に会ってみたい?」

「え? 興味はあるけど……、会わない方がいいだろ」

「あちらとは長い付き合いだし、問題ないとは思うけれどね。セルドが望むならそうしようか」

 オルキスは本を持って部屋を出て行った。

 家同士の付き合いが長いのなら、相手のお嬢様とやらも互いの人柄を知った上で婚約を承諾したということだ。婚約が立ち消えになったとしても揉めないくらいの間柄であるのだろう。

 逆にそれは、それだけ良い関係だったのではないか。

 窓の外を眺めると、馬車はまだ停まっていた。藍色の瞳が硝子に反射して、伏せ気味の目元が視界に突きつけられる。

「目が濁って、緑にでもなっちまいそう」

 腕を伸ばして、書きかけの魔術式に取りかかった。魔術式を組んでいる間は、雑音が入ってくることはない。興味を突き詰める手っ取り早い手段だった。

 実家では兄たちがいるために領地運営に携わることは求められず、妙に素質のあった魔術を極めることにした。魔術学校を出てからは学問としての魔術を独学で学び続け、領地を守るために力を使い続けた。

 貴族である上にオメガであれば、見合い以外の恋愛は難しい。魔術以外で、好奇心を満たす対象が、興味を深く傾ける対象が現れることは初めての事だ。

 魔術式ができあがると、試し撃ちをしたくなった。調理場で熱を加えるための装置は、誤作動を起こせば周囲に燃え広がる。屋敷の庭の中で、周囲に土しかない場所。窓から眺めて、あたりを付けた。

 そっと馬車のあった場所に視線をやると、馬車はいなくなっていた。もう少し、と言っていたからそろそろ帰っていったのだろうか。

 与えられた服に着替え、人前に出られる程度に髪型を整えてから、魔術式を書き付けた紙を持って部屋を出た。使用人がよく使っている通路を抜けて、裏口から庭へと歩く。

 庭の中で芝がなく、目星を付けていたあたりに辿り着くと、書き付けた紙の文字に魔力を流し、地面へと置いた。

 失敗しても影響のない範囲まで離れ、紙を中心に結界を張る。

「我が護るべき者とを隔て、円は全ての矛を許さず。力は内にのみ。この境を超える術は我のみ。許しを与えるまでその場にあるように」

 結界が発動したのを確認すると、魔力による導火線を手繰る。

 新しい技術を埋め込んだ魔術式は座学がよく分からないから、こうやって試し続けて完成させていく。久しぶりの高揚に、思わず口元が上がった。

 紙に書き付けた魔術式に神経が通ったのを確認すると、ぱちん、と指を鳴らした。

「発動!」

 出来あがったのが嬉しくて、勢い良く言ったのが悪かったのかもしれない。

 爆発。

 一言でいえばもの凄い音を立てた炎の塊が、結界内で一瞬で膨れ上がった。結界で熱も風も届かないが、音だけが結界で殺しきれずに周囲に響き渡る。

 遮音結界を併用すればよかった、という後悔は、濡れた靴で傘を差しているようなものだった。

「馬鹿者が! どうせお前だと思ったよ!」

 旧友……フィーアは慌てたように駆けてくると、俺の頭を昔のようにひっぱたいた。痛くもないのに、いたい、と呟いて許しを請うのもお約束である。

 学舎では学問の裏付けをせずに試して感覚で調整する姿勢を、この友人によく怒られていたものだ。

「失敗した」

「今さら短く正確に言ったところで酌量はされん。あと勝手に実験されたらお目付役の意味がないんだが」

「忙しいかと思って……」

「これから報告書やらで忙しくなるんだ! お前の所為でな!」

 とはいえ、結界内に爆風が収まっている様子を見て、フィーアは胸を撫で下ろす。吊り上がっていた目元が緩んだのを見て、俺もほっと息を吐いた。

「我々は経験上、結界を張れば危なくないことを理解している。だが、塔から風の毛布を纏った魔術師が放り投げられれば人々は肝を冷やす。それが危なくないこと、が理解し辛いからだ」

「あー……」

「爆発時、オルキス様の隣にいて顔でも見ておくべきだったな。私が説明するまで、倒れそうなほど青ざめていた」

 流石に友人は、俺に何が効くかを心得ている。

 しゅんと落とした肩に手を添え、屋敷に戻るぞ、と身体を反転させる。慌てて出てきた魔術師の仕事仲間には、結界ありきの実験だと説明を加えていた。

 実家では実験の音なんて慣れたものだったが、この屋敷はまた別物なのだ。せめて魔術師たちにはどんな実験をするのか伝えるべきだった。

 急いでいたし、出来に嬉しくなっていたとはいえ、完璧に俺の不手際だ。

「セルド!」

 さっと海を割るように人が両側に分かれた間から、早足でオルキスが歩み出る。広がった腕に抱きしめられることが分かっても、俺には逃げる術がなかった。

 抱きしめてくる指先は震えていて、必要のない心労を与えてしまったことを知る。

「ごめん。魔術式を試そうとしたら、失敗しちゃって……」

 オルキスは咄嗟に吐き出そうとした言葉を飲み込んで、深くふかく息を吸う。軽く離れて見えた瞳には、理性の光が戻っていた。

「次からは、必ずフィーアを連れていくこと。破るようなら、実験だけは他の人に頼んで貰うよ」

「…………それ、で、いいんだ」

 他に罰はないのか、窺うような眼差しに、オルキスは頷く。

「それでいいよ。驚いたことは驚いたけど、フィーアも含め、魔術師ってそういう生き物でしょう。僕だって、君を屋敷に閉じ込めている自覚も、君が大人しく受け入れてくれている認識もあるんだよ」

 たまには引かないとね、と耳元で呟き、はあ、と長く息が漏れた。腕の中で再度謝って、その背を抱き返す。

 謝罪の意味でなら抱き返せるのに、普段はそうできないことを悲しく思ってしまった。

「あら、お熱いこと」

 ふふ、と楽器でも爪弾いたかのような高音が耳に届いた。オルキスが力を緩めたのをいいことに、腕からするりと抜け出る。

 ゆったりと歩み寄ってくるのは、深い紫のドレスを身に纏った令嬢だった。おそらくルピオ家のキィジーヌ嬢であろう美しい女性は、俺の前で優雅な礼を見せる。

「初めまして、キィジーヌ・ルピオと申します。ヴィリディ家とは領地が近いこともあり、昔馴染みなの」

「セルド・クラウルと申します。上品で素敵なドレスですね。特に陽の下で見ると、光沢がはっきり分かる」

「嬉しい。オルキス様はもうこのドレスは見飽きて、いつも通りの世辞でしてよ」

 うーん、と目を閉じて首を傾げているオルキスに、キィジーヌ嬢は笑って文句を続けた。俺に対してもこの泥棒猫、といった空気はなく、友人の友人、といった柔らかな接し方だ。

「セルド様、わたくしはお二人の事情は聞かせて頂いているの。そんなに肩肘を張らずとも結構でしてよ。身体に悪いわ」

 他の人に見えない位置で腹に手を当ててみせる彼女の仕草から、一頻りの説明は済んでいることが窺える。

 俺のことを隠さなければいけない間柄でもなく、口約束の婚約だってこんなに穏やかに終わらせられるような相手なのだ。二人の間に積み重ねた年月がそうするのなら、アルファとオメガの間でその関係が築けたのを羨ましく思ってしまう。

 キィジーヌ嬢との挨拶が終わると、背後から長身の青年が進み出てくる。令嬢よりは若い印象だった。

「俺も、ついでに挨拶をして構わないでしょうか?」

「よろしくてよ」

 キィジーヌ嬢が一歩引くと、青年は剣だこのある掌を差し出してくる。オルキスよりもしっかりとした体躯は、動くのに慣れた人物特有のものだ。

 ふんわりと花を背負うような華やかさはないが、質実剛健というのか、整った顔立ちといい、感じが良く爽やかな若者だった。

「スリーフ・ルピオといいます。キィジーヌの弟です」

「よろしく……お願いします。────?」

 握手をしている間、すぐに抜けぬよう鍔のあたりを縛ってある剣が目に入った。剣の鞘は植物を意匠にしたもので、派手すぎない色味ながら彩を添えている。

「剣の鞘、綺麗だなあ」

 気が抜けたように言ってしまって口元に手を当てるが、スリーフは嬉しそうに表情をくしゃりと崩した。

「元は父の持ち物なのですが、成人祝いに頂いて気に入っているんです」

 スリーフが親切に剣の鞘を傾けると、埋め込まれた宝石が地面に反射している色味が変化する。万華鏡のようなその色彩は、普段使いというよりも装飾品といった意味合いが強いのだろう。

 歓声を上げると、スリーフは裏面まで見せてくれる。

「冗談で頂戴、って言っても真面目に断られるんだよね」

 オルキスがそう言うと、スリーフは眉根を寄せた。

「冗談でも駄目ですよ」

「ほら」

 ぽんぽんと跳ねるようなやり取りは気安く、キィジーヌ嬢も含めた三人の仲は良好そうだ。俺が差し挟めない空気感がそこにはあった。

 特にキィジーヌ嬢の立ち姿は美しく、些細な仕草も淑やかで肌に染みついたものであることを窺わせる。ドレスの着こなしといい、明らかにオルキスと並べるなら俺よりこちらが似合いだろう。

 彼女が俺のことを受け入れてくれる空気を知れたのは良かったが、劣等感が育つには十分な相手だった。程度の差はあれど同じように金に困っているというのに、ヴィリディ家の選択を表面上怒りもしない。

 特に彼女は、口約束とはいえ、将来の番という保険を失ったところなのだ。それなのに、丁寧に俺に挨拶をして、笑顔を崩すことはない。多少なりとも、悲しいのではないだろうか。

 容姿も、育ちも、これまでの付き合いも、そしてこの場の胆力も。俺にはとても辿り着けない相手だ。

「気分が悪くなったりしていないかしら? ずっと立たせてごめんなさいね。屋敷に移動しましょう」

 放っておかれる形になった俺に、最初に気づいて声を掛けてくれたのも彼女だった。オルキスに対し、俺へ腕を貸すように促す仕草だって自然なものだ。

 差し出された腕に手を掛け、屋敷へ移動する。魔力を使いすぎたかな、と言って元気がないことを誤魔化したが、魔力と違って落ちた心は戻る術を知らなかった。

 

 

◇7

 ルピオ家の二人は、折角だから、と俺を交えて茶会をやり直して帰っていった。

 茶会の間は、あまりキィジーヌ嬢と喋るのに気乗りせず、弟のスリーフとの会話に逃げてしまう。

 少なくない話をしたが、キィジーヌ嬢がオルキスに相応しいのでは、という感情は晴れず、更に補強されて返ってくる有様だった。

 実験の失敗後、俺はその時の魔術式を納品し、新しい案件を探そうとはしなかった。魔術式の大規模な失敗が、魔力の変化によるものだと分かったからだ。オルキスの魔力と、腹の子がもつ魔力、両方が干渉して俺の魔力が不安定になっている。

 今日も朝からオルキスを送り出して、俺はソファにのんびりと腰掛けてはオルキスの持ち物である冒険小説を捲っていた。きりのいい所まで読み終えると、栞を挟んで本を閉じる。

「もう昼近くか」

 そろそろ昼食に呼ばれるだろう、とあたりを付け、それ以上読み進めるのは止めた。

 働かなくとも生きていける生活は楽であるし、俺に求められているのはこの生活なのだろうが、悩みを持ちつつ働けないのはあまりにも空虚だ。

 キィジーヌ嬢に会ってみれば、俺を愛人に囲ってあちらを番にできたほうが良かったとさえ思える。

「そのうち、目が覚めるかもしれないしな」

 立ち上がって窓辺に歩き、窓枠に手を掛けて庭を眺める。風が葉を揺らし、暖かい陽光が満ちる庭は、今の俺には目が痛かった。

 いずれ彼女の良さを思い直して、目が覚めてしまったら。番は一生なのに、彼が別の人を向いてしまったら、俺には何もない。

 今までは、何もなくても魔術だけはあった。今の俺には、魔術すらも残っていなかった。

「セルド」

 扉を開いて、オルキスが部屋に入ってくる。俺は彼の姿に気づくと、窓を離れて歩み寄った。

「お疲れ。昼飯に戻ってきたんだ?」

 オルキスはそれが当然のように、俺を抱きしめて頭を撫でた。髪質を気に入った彼のこの仕草が、いまでは特別なものに思える。

「うん。たくさん書類を積み上げられるから逃げてきた。お昼ご飯にしよ」

 番は、できる限り一緒に食事を取ろうとしてくれる。

 明らかに逃げてきたといった様子で、昼食が終わるのを部下が扉の前に張り付いて待っているなんてこともあった。

 彼は、律儀に俺を支えると言った言葉を守っている。

「そうだな。行こ」

 身を離すと、手を取られて隣室へ移動した。テーブルの上にはいつも真新しいクロスが掛かり、たくさんの皿が並べられる。

 けれど、その日の昼食は、あまりたくさん食べられなかった。嫌いな味があった訳ではなく、ただ食が進まない。口に運んでも、長く咀嚼をするだけで飲み込む量は遅々として増えなかった。

 あからさまに物が食べられなくなった俺を、オルキスは何も言わずにじっと見ていた。

 食事が終わり、片付けを進める給仕の横で、オルキスが話しかけてくる。

「今日、嫌いな味が多かった?」

「いや。どれも美味しく感じたけど、あんまりお腹が減ってなくて」

 今の俺にとって食べないことは不味いことだと分かっていた。けれど、詰め込んだパンを飲み込めない。

 熱量が増えるようなものを選んで食べるよう努めたが、野菜類が不足しているのも良いことではなかった。

「そう。続くようなら医師に診てもらおうか」

「うん、助かる」

 何なら、栄養剤でも出して貰う方が安心していられる。原因が心の問題であることは明らかで、改善する余地もなかった。

 食事を食べられないのは構わないが、腹の子まで巻き込みたくもない。

 給仕には味の感想だけを伝えて、量を食べられなかったことを詫びた。味がお嫌いでなければ良かった、と給仕には言われたが、気を遣わせてしまって申し訳ない。

 二人してオルキスの自室に戻ると、オルキスは午後の予定を尋ねてきた。

「食事量のこともあるし、ちょっと休もうかな」

 俺が言うと、彼はほっとしたように息を吐く。

「僕もそれを勧めようと思っていたんだ。最近めまぐるしかったし、好きなだけ休んでね」

 必要なのが休息とは思えなかったが、そういうことにしてその日はしっかりと休んだ。

 食の細さは数日続き、医師の診断の元で栄養剤を処方された。薬の服用で腹の子に影響がなくなることを安堵したのを覚えている。

 それでも、ずっとオルキスは心配そうに俺を見ていた。栄養があれば子は大丈夫なはずで、医師のお墨付きもあるのに、彼はじっと俺を見ては眉を下げる。

 何でもないことなのかもしれないが、量を食べられずに穀物を詰め込んでいるから、肌がかさつくようになった。唇を重ねればかさついた部分に触れさせてしまうのが嫌で、やんわりとキスの空気も避けるようになった。

 急なキィジーヌ嬢の来訪を告げられたのは、そんな状況が続いていた日だった。特に断る理由もなく、いいんじゃないか、と答える。

 不思議なことに、彼女は俺と会話する時間を持ちたいと言った。オルキスは断ってもいいと言ったが、俺は応じることにした。

 手詰まりのような現状が少しでも変わるなら、と思ったのだ。例え、それが悪い方向にだとしても。

 オルキスの部屋の隣室に通された彼女は、藍色のドレスを身に纏っていた。布をたっぷりと使った、少し前に仕立てられた古めかしい形状だ。首を覆うフリルの襟といい、彼女の淑やかさが何重にも引き立てられている。

「こんにちは。セルド様、突然ごめんなさいね」

「いいえ。連絡が早かったので、十分ゆったりと準備ができました。今日も素敵なドレスだ、長いこと大切に着られているようですね」

「ええ。元は母のものなのだけれど、素敵な貴方の瞳と同じ色でしょう? 目の色は自分には見えないから、たまには眺めるのもいいと思ったの」

 称美の手段すら心を尽くされたものだ。キィジーヌ嬢は付き人を下がらせると、この場を二人きりに整えた。

 出迎えに立ち上がった俺の手を取り、一度ぎゅっと握ると、彼女は手荷物の中から小さな瓶を取りだした。座りましょう、とすぐに椅子を勧めてくるのだが、細い指先で手ずから椅子を移動させ、隣に寄せた椅子に綺麗に裾を捌きながら腰掛ける。

「手を出して」

「手?」

 敬語を崩した彼女に手を差し出すと、手持ちの瓶の中からとろみのある液体を手のひらに広げる。指示されるままに擦り、手の甲に塗り付けた。

 かさついていた肌に、潤いが戻っていく。

「肌艶が良くないわ。あと、少しやつれたのかしら? 食べてる?」

「ちょっと、その。食欲が湧かなくて……」

「あら」

 瓶を仕舞い、テーブルに配膳されたカップと菓子を引き寄せると、彼女は俺に少しでも食べるように勧めてきた。

 俺の指先が躊躇うのを、形の良い眉を寄せて見守る。

「……前回会った時も、元気がないように見えたの。わたくしの所為じゃないかしら?」

 キィジーヌは早口でそう言い切ると、まだ熱いはずのカップを一気に飲み干した。ふう、と息を吐く姿に、緊張しているのだと察しもする。

 淑やかな美女で、完璧だと思えた彼女は、自分を見つめる俺に恥ずかしそうにはにかんだ。

「オルキス様と婚約の話が挙がったのは否定できないけれど、あんなの口約束だし、当てがなかったら、っていう保険みたいなものよ。オルキス様だって、わたくしだって、そういう相手は何人かいるの。番になった貴方が気にするような関係じゃない。本当よ」

 熱心に言葉を紡ぐ彼女に気圧されて、俺はじっと見つめるしかなかった。

「わたくし、貴方と争うつもりはないの。貴方と同じ体質を持つオメガで──……、貴方とも仲良くしたいのよ?」

 玉のような肌を、躊躇いなくかさついた手に添えてくれる。安心させるように微笑む顔立ちに、陰は見えない。

 完敗、と素直に白旗を挙げたくなった。

「────俺は。立ち振る舞いが綺麗な訳ではないし、番以外から美しいという世辞は貰ったこともなくて。オルキスには貴女のような人がいた、と知ったら自分に自信が無くなってしまった。いずれ彼の気が変わってしまう、って。……君が悪い訳じゃなくて、俺の問題だよ」

 深刻な話をしている間も、彼女の動きは忙しない。お茶を飲んで、菓子を俺に差し出そうとして、食欲がないと断るとぴゃっと慌てる。あのゆったりとした仕草は努力の賜物だということが嫌でも分かった。

 どんよりとした空気にはとてもなれず、何なら笑い出してしまいそうだ。

「わたくし、貴方との馴れ初めもこう……ベールを被せた上で聞かせていただいたの。貴方がオルキス様と会ったこともなくて、ただ友人の頼みと、神殿の鑑定を信じて病に苦しむ番の所に行ったのだと知ったら。わたくし、争う気にもなれなくて」

「キィジーヌ……様、が負けたって思うような要素あったか?」

「呼び捨てでもよろしくてよ。但し、そうしたらわたくしも同じようにさせてもらうわ」

 彼女は言葉を切って、丁寧に返事を選び取った。

「……いくら金銭を積まれても、わたくしならきっと怖くて踏み出せないと思ったの。顔も知らない、性格も知らない病んだ相手と、もしかしたら番ってしまうかもしれない。いくら友人が助かっても、いくら両親が助かっても。わたくしにはね、そんな賭けはできないの」

 さく、と真珠のような歯が持ち上げた菓子を噛み締める。ほろほろと崩れていく生地が立てる音が、段々と心地よく聞こえてくる。

 香ばしく焼き上がったそれは、確かとても美味しかったように覚えていた。

「いくら優れていようと、いくら劣っていようと。わたくしは選べなかったから、オルキス様の番じゃない。これからも番になることはないの。運命って、そういうものなのよ」

 部屋のカーテンが揺れて、明るい日差しが線を作る。足先にまで届いた光を眺めても、目が痛いだなんて思わなかった。

「俺はただ、考えなしだっただけだよ。キィジーヌ」

「あら。わたくしは考えなしではないもの。……そういうことよ、セルド」

 開いた窓から吹き込む風が髪を揺らしていく。いい午後だ、と心から思ったのは久しぶりだった。

 彼女にやっぱり菓子を食べたい、と伝える。揺れた髪を耳元に掻き上げながら、彼女はくしゃくしゃで、いちばん愛らしい笑みを見せた。

 

 

◇8(完)

 俺とキィジーヌが二人で話し込んだ後半は、もはや茶会と化していた。

 菓子の減りが早いことに気づいた給仕は、料理人に頼んで簡単な菓子を追加してくれると言う。それを良いことに二人してお代わりを強請った。

 キィジーヌを見送る時のオルキスは俺の様子をちらちらと窺っていたが、笑ってみせると安堵したように眉を下げた。

「なんだか、二人とも仲良くなったみたいだね」

「同じオメガだと共通する悩みもあるよな」

「ええ、そうね。魔力量が多いからお腹が空いたり」

 茶会であれだけ食べたというのに、俺は夕食の食欲も戻り、普段に近い量まで食事量が増えていた。

 オルキスも給仕も驚いていたが、魔術師にとっては精神を病んで魔力を崩すと、生命力に大幅に跳ね返る。つまり、精神が戻ってしまえば身体の回復も早いのが利点でもあった。

 腹の子が魔力を大食らいしているのも同じ理由だ。身体を作るために魔力を使えるのが、大量の魔力を動かせる人間の特性でもある。

 食事を終えて給仕に味を伝える時、俺は満面の笑みを浮かべていた。

「全部おいしかった! 明日の朝食の量、ちょっと増やしてみてくれる?」

 茶会の菓子も食べていたことを知っている給仕は、弾んだ声音で承諾し、食器を下げた。オルキスも表情が伝染したのか、口元が緩んでいる。

 二人して立ち上がり、部屋に戻ろうと自室への扉に視線を向ける。ふと、無防備な彼の腕が目に入った。

 自室に戻るまでのちょっとした距離で、俺はオルキスの腕に手を添えてみた。腕から視線を上げるのを躊躇ったが、そろそろと顔を上げると目は見開かれている。

 腕を引き抜こうか迷ったが、ほんの少し、腕を添えるだけの仕草に勇気を振り絞った。引き抜いて逃げたら、これまでと変わりはしないのだ。

「……セルド。そんな風に振る舞ったら、僕は君と番なんだって期待しちゃうよ」

 彼との掛け違えに、ようやく気づいたのはその時だ。

 あの時、発情期が終わらずに苦しんでいたオルキスの魔力のいびつさに気づいた時と同じ感覚だった。

 ぐい、と腕を引いて、自室へと促す。脚が進まない様子ではあったが、オルキスは大人しく付いてきた。

 眉が寄り、感情を堪えている彼の表情は、いつもただ笑って、俺に愛を囁く彼とはまた違った一面を垣間見せていた。

 ソファに座るよう促すと、のろのろと緩慢な動作で腰掛ける。

「俺とお前は、番じゃないの?」

 問いをはっきりと口に出した言葉に、オルキスは唇を噛み締めた。顎には皺が寄り、彼は俯いて顔を覆うように黒髪を乱す。

 その仕草は悲壮感を纏っていて、こちらの胸も引き絞られた。

「君と番だなんて、とても言えない。……って、本当は分かってた。でも、そう言わなくちゃ酷いことをした君はここにいてくれないって分かっていたし、言っているうちに本当になってくれたら、って願ってたよ」

 両の掌で閉じきった門を、開くように頬に手を添える。

 番は、あれだけ魔力の相性がいいにも関わらず、表面上はあんなに自信満々に振る舞っていて尚、薄氷の上をただ踏みしめていたらしい。

「いずれ本当に心から番になれたら、って思っても、アルファと話す君を見て嫉妬するし、悩む君を支えられもしない。最近、僕が触れるのを避けられる度に、十月後もこうやっていられるのか考えて、目の前が真っ暗になった」

 指先は色を失って、銀朱色の瞳は涙を湛えている。こぼれ落ちそうで落ちないそのぎりぎりの縁は、俺に悟られないように保ち続けていただけだ。

「今日の君は機嫌がよくて、触れてくれただけなんだって分かっていても。僕は、その手のひらがずっと、欲しくて……」

 ほろり、とこぼれ落ちた雫を、指先で拭う。泣き虫が伝染ってしまいそうだ、と思いながら、すこしぱさついた黒髪を抱き込んだ。

 俺が悩んでいる間、彼はどうだったんだろうか。同じ食事を取りながら心配して、医者を手配して、昔馴染みに相談を送り。そうやって動き回りながら、こうやって叶わない気持ちに苦しんでいたんだろうか。

 久しぶりにしっかりと視線を合わせた彼もまた、少しやつれて見えた。

 俺が彼の愛の言葉を受けて、胸に閉じ込めるだけではきっと駄目になるのだ。俺がその言葉に絆されたように、彼にだって受け取りたい言葉がある。

「オルキス。最初の一回だから、しっかり聞いててな」

 す、と息を吐く。その言葉なんて子どもの頃から知っている筈なのに、これまでの俺には縁遠い言葉だった。

 口に出す言葉を思い浮かべると、胸が高鳴った。本当にようやく、俺はこの言葉を伝えられるのだった。

「……好きだよ。お前が望むんなら、俺はいつまでだって一緒にいたい」

 指先を重ねて、体温を分け合う。

 意志を示さないことが番に要らぬ心配を与えてしまうなら、こうやって少しずつ、触れて伝えたくなった。

 オルキスの両腕が、俺を包み込む。きゅ、と込められた力は、全力ではなくとも必死に縋るように掛かった。

「僕の方が、……ずっと好きだよ」

 溢れてしまっている目元を拭ってやると、ぐしぐしとまたくぐもった声が漏れる。頬を捕まえて額に唇を触れさせると、また泣き出すので困ってしまった。

 発情期の暴君さも、いま露出した感情も彼の一部だと思えば、これまでの彼はよくも体裁を整えられていたものだと思う。

「君、……が。いないと困るのは、ぜったい僕のほう…………」

 か細くも自信を持ってそう言われると、いずれ心変わりをする、と思っていた自分が馬鹿らしくなってきた。彼が愛を囁いているのに、俺がそれを疑ったからこうなったのだ。反省と共に背を撫でる。

 やがて啜り泣きが落ち着くと、白目まで真っ赤にして、オルキスは顔を上げた。視線を彷徨わせ、ばつが悪そうな顔をしながら、彼は恐るおそる口に出す。

「……これからも、番でいてくれる?」

「ん。当然」

 にんまりと笑ってみせると、しおしおと萎びたオルキスは黙って俺の胸元に埋まる。珍しく大人しくなってしまった番の体温を、俺は存分に楽しむのだった。

 あれから魔力はすっかり落ち着いたのだが、子が腹にいる間は魔力量が増している所為で威力が上がりすぎることが判明した。最近は、実験に頼らずに魔術式を安定させる知識をフィーアに教わっているところだ。

 今日も朝から天気が良く、伸びをしながら寝台から下りる。隣でまだ寝ているオルキスを起こし、食事のために二人して着替えを済ませた。

 来客の情報を聞くことになったのは、朝食を食べている最中だった。朝食中に離席したオルキスが戻ってくるなり、そう告げたのだ。

「キィジーヌとスリーフが? 急になんでまた」

「うーん? ルピオ家からの連絡が断片的で、とにかく着いてから話す、って……」

 オルキスもまた首を傾げていた。まあ悪い話ではないだろう、と二人して大量の食事を片付け、自室で姉弟を迎えることに決める。

 自室ではのんびり待つつもりだったが、そんな余裕すら与えられなかった。

 ばん、と淑やかさの欠片もなく扉を開け放ったキィジーヌは、今日はふわりと鈴蘭状に広がる薄紅のドレスを身に纏っている。背後に付き従うスリーフは、何故かぐったりとしていた。

 ちなみに、オルキスは俺が口付けを避けていたことを理由にスリーフへ懸想したかも、と不安がっていたそうだが、全てが終わってみればあまりにも杞憂であった。

「わたくし! 番が見付かりましたの!」

 空気をびりびりと震わせるような第一声に、面食らった俺とオルキスは気圧されてぱちぱちと拍手を始めた。

 空気に飲まれて誰も何も言い出さず、俺が恐るおそる声を掛ける。

「それで、お相手は?」

「ええ。名前は────」

 彼女が述べたのは、俺の次兄の名前であった。

 あんぐりと口を開けた俺に、歩み寄ったキィジーヌは目の前で両の手を組む。

「貴方の雷管石を神殿に預けたのを切っ掛けに、財政に少し余裕ができて。まだ兄弟の中で神殿に石を預けていなかった、セルドのお兄様の雷管石も預けていただけたみたいなの。そうしたら、わたくしの石と魔力の相性がいいことが分かったんですって! ……ねぇ、きっとこれって運命よ!」

 くるくると回り出さんばかりの彼女の頬は紅潮していて、はぁ、と俺もオルキスも押されて頷くばかりだ。

 ええと、と俺はオルキスに向かって口を開く。

「オルキス頼む。クラウル家の財政の健全化、至急何とかしてくれ。キィジーヌのドレス売らせちゃ洒落にならん」

「僕も今それを思ったとこだよ……」

 次兄も趣味を突き詰めて仕事にしている性格で、商売っ気がない。ヴィリディ家の意見なり、キィジーヌの意見なりを取り入れていかないと、改善は見込めない気がした。

 とはいえ、オルキスも、キィジーヌでさえも縁続きになるのだ。ヴィリディ家当主もかなり目を掛けてくれている。将来はそこまで暗くないように思えた。

「わたくし、ドレスを売るくらい構いませんわ。今だってお金に困ったら多少は売ることもありますし」

「あー、オルキスー……」

「うん、善処する」

 挨拶もそこそこに、これからクラウル家に向かうと言う二人を急すぎないかと目を剥きながら送り出す。

 嵐が去った室内は、打って変わったように静かになった。

 カーテンが揺れ、室内に風が通る音すらも聞こえてくる。鳥の鳴き声も伸びやかで、生命の息吹を感じさせる春特有のにおいがした。

 ソファに座り直して、ようやく思いおもいに感想を述べる。

「ほんと、運命って何なんだろ……」

 つくづく分からない、と呟く俺に、オルキスは手を添えてくる。視線を合わせようと彼の方を向くと、ちゅ、と突然、唇が盗まれた。

 一瞬面食らったが、唇を持ち上げ、同じようについばむようなキスを返す。添えられた手は、ぎゅっと掴み取った。

 離れないように力を込めると、同じだけの力で返ってくる。

「これが運命だよ」

 自信満々に言う彼と、俺の思う運命の定義は当然ながら違っているはずだ。けれど、彼は二人の関係をその言葉で表現するし、俺もまた、二人の関係をまったく同じ言葉で呼ぶ。

 少しずつずらさなければ組むことの出来ない手を重ね合わせて、俺たちは春の日差しに似た熱を交わし合った。

 

 

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