星夜を統べる神と緑の目をした大神官さんとふわふわ毛布

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※「黒猫さんは病気の妹を持つ男に、生涯で一つの願いを譲りたくない筈だった」及び「宰相閣下と結婚することになった魔術師さん6」までのネタバレを含みます。
ただし、サフィア視点であり、ガウナー、ロアは登場しません。

※世界は「黒猫さん~」時空です。

 

 

 

 麗らかな午後、新人の神官が淹れてくれた紅茶を飲みつつ書類を捲っていると、急に部屋に張っている結界が動いた。

 感覚的に言えば、空間がぐにゃりとねじ曲げられたような形だ。空いた穴から大型犬が降り立ち、とすん、と分厚い肉球が床を叩く。

 三角耳の大型の獣。黒い毛並みと、唯一つ白い手脚。

 我が神は、姿形を自由に変えられるようになって尚、その形状を好んで選んでいる。

『サフィア。毛布を洗って欲しい』

 獣の口元には茶色の毛布が咥えられており、ぺっ、とその場に吐き出す。

 俺は眉を顰め、数秒のあいだに己の苛立ちを押さえ込むと、ゆっくり立ち上がった。床に放られた毛布を纏めつつ確認すると、所々ごわついている。

「俺は小間使いじゃないんだが。それに仕事中だ」

『毛布が気持ち悪いと、夢に落ちられない。それが続けば、君の仕事にも差し障りが出ると思うけどな?』

 夢の中で行う信徒との調整を阻害すれば、急に呼び出して面倒な仕事を押しつけるぞ、とそう言いたいらしい。

 こめかみを揉んで、大きく溜息をついた。

「そろそろ、新しい毛布を買ってくれ」

『あの大層気まぐれな方の父上が、時を停めてくれたんだ。毛布は新しいままだよ』

「所々涎が固まってるだろ」

『洗い落とせば元に戻る』

 耳に入る音は犬の鳴き声であるのに、下僕を働かせようとする言葉は全く可愛らしくもない。

 仕方なく肩を竦め、踵を返して自室の扉に手を掛けた。

『手洗いで頼むね』

 振り返り、毛布の塊を大型犬に投げ付ける。

 悠々と空中で毛布を噛み受け止めた神は、てってっと歩いて俺の前に毛布をぺっと吐いた。俺は、この犬のこういう諦めの知らなさが嫌いだ。

「神術装置を使えばいいだろ」

『いやだ。汚れが落ちない』

「そんな訳があるか! 技術の進歩を馬鹿にするな!」

 見つめ合っても、目の前にある星の瞳は揺るがない。

 引かない、譲らない。絶対に諦めない。星の光の揺らぎは美しくあるのに、夜闇は何もかもを呑み込んで、只そこに在った。

「…………行ってくる」

 布団を抱え、廊下を抜けて神殿にある水場に向かった。涼しい時間に洗濯をする為か、周囲に人影はない。

 神官服の袖を捲り、肩に固定する。

 もはや使う人もいない盥を持ち出し、中に毛布を放り込む。ぬるい湯を注ぎ、日陰に運んで石鹸を泡立てた。

 毛布を擦り、水を替え、また石鹸を泡立てる。

 時を停めたと言い張る毛布は、数百年前のそのままの造りだ。現在はもっと柔らかい素材も生まれたであろうに、昔の感触だけをあの神は求める。

 布地の色は茶。元の飼い主の髪色を写したような色だった。

「疲れる……」

 はあ、と息を吐き、石鹸を替えたばかりの水の中に放り投げた。ちゃぷん、と音がして、一気に暑さが蘇ってくる。

 横から、丸い爪が床を掻く音が聞こえた。

『終わった?』

「まだだ」

『そう』

 星の犬はくるり、と俺の背後に回り込むと、まだ泡が入っていない盥に前脚を浸した。ぴっぴっ、と脚先を動かす。

 水を掬い、犬の顔に向けて放ると、器用に身体で受けた。

「当たるなよ。拭くの大変なんだぞ」

『自分で掛けておいて』

 ぶるぶると身体を震わせる犬に、悲鳴を上げながら立ち上がる。

 汚れた水ではないものの、神官服の表面に水滴が吸い込まれた。あーあ、と呟きながら、服を叩く。

 星の犬は、水に沈んだ毛布を静かに見つめていた。

「そもそも自分で洗えよ」

『人型は動きが馴染まない。疲れる』

「俺だって疲れる」

『きみ。僕の神官じゃないか』

「神官は小間使いじゃないんだっての」

 また水を掬って放ると、今度は完璧に避けられた。

 くる、と回った大きな犬は、この暑い中で俺に寄り添う。

『仕方ない。もう、我が儘を言えるのも、それを叶えてくれるのも、君くらいしか残ってない』

 その言葉に、いくつもの記憶が蘇る。

 一気に通り過ぎていった思い出は、もう過ぎた昔のことだ。もう、この世界には誰もいない。

 隣にいるのは、この毛皮の主くらいだ。

「暑い……」

 たらり、と頬を汗が伝った。

 神官服の中は暑く、面倒がって神術を使おうとしなかった所為で熱が籠もっている。隣の毛皮も、冬に寄り添う夜は有り難いが、夏の昼には堪えた。

 とはいえ、なんだが感傷的になっている主を引き剥がせないまま、石鹸を泡立てて毛布を擦った。

 額に浮いた汗を手の甲で拭う。もし、いま不老を望むかと聞かれたら、なんと答えるだろう。

「………………」

 最後の濯ぎを終え、盥の中の水を捨てる。

 湿った毛布を洗濯物干しの綱に掛け、落ちないように固定した。あとは乾くのを待つばかりだ。

 そう安心した瞬間、くらりと体が傾ぐ。

 長いこと、水分も取らずに毛布を洗っていた俺が悪かったのだが、この身体も、この暑さの中で長時間動いていれば異常を来すらしい。

「────っ!」

 地面に後頭部をぶつけることを覚悟した刹那、背中が広い腕に受け止められる。

 視線を上げると、呆れたような表情をした青年と視線が合った。

 ずるずると腕を滑ろうとした身体を彼は器用に立て直すと、そのまま膝裏に手を回して抱き上げる。

「自分の身体のことも分からない癖に。よく一国の神殿なんてものを纏めているものだね」

 視界は高く、彼が歩く度にぐらぐらと揺れる。

 この神が人型を模す時は面倒ごとを避けるため神官服を纏うが、皮肉にも落ち着いた顔立ちには良く似合っていた。

 身体の周囲を、冷たい空気が包んでいる。自分が起こしたものではない神気は、気を遣って与えられたものに違いない。

 自室に戻され、寝台の上に落とされる。枕に頭を預けると、少し楽になった。

「水」

 鼻先に水の入ったコップを近づけられ、受け取る。だが、身体を起こすのが億劫で、眉を寄せた。

「……一旦、返す」

「口移しでもしようか?」

 唇に指を当て、俺に向かって指先を動かす。気障ったらしい仕草は、いったい誰から覚えたのだろう。

「要らん」

 目の前の青年はコップを取り上げると、俺の上半身を持ち上げた。起き上がった身体に、改めてコップが渡される。

 こくん、と中身を口に含んだ。冷たい水は、あまりにも美味しい。

「もっと」

 お代わりを要求すると、新しい水がコップの中に湧いた。彼の力の主も水をうまく使うが、この存在もまた水と親しい。

 身体の中が潤されていく度に、指先が動くようになっていく。

「もう要らない」

「じゃあ、大人しく寝ていて。干した毛布はあとで回収しておくよ」

 寝台に横たわらされ、頭を撫でられた。

 広い掌は、あまり馴染まない感触を伝えてくる。大神官の身に、触れてくる人間は少ない。

 夢に引き摺り込まれながら、瞼を閉じる。

「────ニコ。もう少し、撫でていてくれ」

 小さな返事は聞き取れなかったが、起きた時、俺の髪の毛はぐちゃぐちゃだった。

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