黒猫さんは病気の妹を持つ男に、生涯で一つの願いを譲りたくない筈だった

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▽1

 本に囲まれている生活が好きだ。

 普段は目を向ければ怖がられるが、本屋に入ってくるような客は本しか見ていない。

 店番をしている男が冷たい目をしていても、構いやしないのだ。

 窓に映る自らの瞳は月の色。青白い肌と黒い髪。店番をしている間だけちょんと括っている髪が、尻尾のように背後に突き出ている。

「セレくん。今日は新月で、そろそろ日没だそうよ」

 店主である年配の女性は、梯子から降りた。

 取り出した本を手に持ち、勘定場の奥にある安楽椅子に腰掛ける。

 ナデシコという名の本好きで穏やかな店主は、嬉しそうに頁を捲る。数頁捲った時、ああ、と何事か思い出したように顔を上げた。

「新しい家、見つかった?」

「いえ、今度の休日に探そうかと」

「そう。お手間を取らせちゃって御免なさいね」

「店が古くなったのは、ナデシコさんの所為ではありません」

 この書店の二階に、現在の俺の家がある。店主は別に家を持っており、書店は亡き夫の持ち物だった。

 踏みしめれば揺れる階段を始め、古くなった建物はお役所から早く取り壊しか建て替えを、と勧められていたそうだ。

 だが、店自体を続けていくにも、店主は歳を取り過ぎた、と言う。

 かといって、俺にこの書店を建て替えるような金がある筈もなかった。

「家が決まったら、お伝えします」

「ええ。まあ、今日明日壊れるようなものでもないでしょうけれど、セレくんの新しいおうちが決まったら、本を知り合いの店に移し始めないとねえ」

 自分にもっとお金があったら。そう思いながら、力が足りずに何もできることがない。頭を下げ、帰宅の準備を整えた。

 書店のある一階から二階に上がろうとした時、常連客と擦れ違う。見るからに上質な服を着た、医学書ばかり買っていく男だ。

 宛名に書く名は『ルシオラ』。緩く弧を描く薄い金髪に、黄色みがかった緑の瞳をもつ美しい人。この古びた建物には、似つかわしくない容姿をしていた。

 視線が合う。頭を下げると、彼は唇を開いた。

「こんにちは。……こんばんは、かな。セレ君」

「こんばんは、ルシオラさん。探し物ですか?」

「特定の本が欲しいわけじゃなくて、いい本がないかな、とね」

 医学書の棚には、他の書店よりも稀少な本が揃っている。彼には、廃業予定の話を伝えていただろうか。

 念のため、と、俺は珍しく会話を続けた。

「あの、うちの店。少し先にはなるんですが、廃業予定なんです」

「え!?」

 彼はあからさまに困った、というように声を上げた。ほんの少しだけ、無くなってしまう店を惜しむ人がいることに安堵する。

「なので、気になった本は、買っておいた方がいいと思います」

「教えてくれて有難う。……廃業、って店舗が古いから?」

「はい。直近で嵐が来たときに、重要な柱が痛んでしまったそうで。建て替え、するにも店主も高齢ですし……」

「けど、あれ? セレ君って家、この建物の上階にあるんじゃなかった?」

「そうなんです。だから、俺も引っ越しを予定しています」

「そうかぁ、残念だ。……今は時期が悪い気がするけど、新しい家は決まったかな?」

 丁度この時期は、家を移る人々が多い時期ではある。

 まだ部屋を探してはいないのだが、最初から部屋探しが難航するであろうことは分かっていた。

「いえ。次の休日に探しに行こうと思っています」

「じゃあ。対応の良かった店を紹介するよ」

 彼は懐から手帳を取り出すと、いくつかの店名を書き付けて頁を破り取った。

 差し出された紙片を、両手で受け取る。

「助かります。長いこと、ここの二階で暮らしていたので、店の善し悪しは分からなくて」

「良い家が見つかるといいね」

 話題も一区切りして、別れる、と思いきや、彼はまだ会話に追い縋った。

 ぱたん、と手帳を閉じ、懐に仕舞う。

「あ、急いでいたら悪いんだけど……。店の外でこうやって話ができるのは初めてで。前々から、相談したいと思っていたことがあるんだ」

「それなら、大丈夫。これから家に帰るだけです」

 その返事に、彼はほっとしたように息を吐いた。

「セレ君、知り合いに獣人はいないかな?」

 獣人は、人と獣、二つの姿を持つ種族だ。

 日が出ている間は人でいられるが、闇が深い夜には人の姿を保てない。そして、人の姿とは別に、それぞれがとある種族の、決まった獣の姿をひとつ所持している。

「ええと、…………何故、そんなことを聞くんですか?」

 はい、と返事ができないのは、獣人だけが持つ力に由来していた。

 獣人は生涯に一度だけ、心から星に願いを懸ければ叶えてもらえる。

 もともと獣人の多かった自国には、守護神がいる。この神に対し、獣人だけが願いを声に乗せ、届けられるのだ。

 勿論、世界の滅び、などの願いは許されず、世界の運行を妨げない願い、など幾つかの制約は存在するようだ。

 これらは獣人が心から願ったものしか叶えられない性質上、脅して自らの願いを聞き届けさせる、ということは出来ないが、それを理解できずに願いの強制を狙い、獣人の存在を探ろうとする人がいる。

 だから、獣人は闇の深い新月の日……獣の姿を取らざるを得ない日は、日が落ちる前に家に帰り、鍵を掛けて家に閉じ籠もるのだ。

「妹が重い病で、『星への願い』を譲ってくれる獣人を探しているんだ」

 迷いなく、はっきりと伝えられた理由に、俺の方が面食らってしまった。

「…………あ、ええと」

 獣人には、心当たりがある。

 しかも、子どもの頃に『星への願い』を消費してしまう獣人もいる中で、まだ願いを使い切っていない獣人にも、心当たりがある。

 知らない。そう言ってしまえばいい筈なのに、相手の視線に動揺する。

「勿論。生涯に一つの願いを譲ってもらう訳だ。それ相応の、謝礼はするつもりでいるよ。まあ、金銭でできる謝礼なんて、たかがしれている訳だけど」

 苦笑している彼は、頻繁に書店を訪れ、多くある医学書を端から端まで追っては買い求めていた。

 確か、心臓に関する書籍が多かったような気がする。

「………………」

 俺には、叶えたい願いがある。

 元は、田舎の村で両親と三人で暮らしていた。成人する前に、両親を崩落事故で亡くし、街に出てきた。

 両親が存命の間は、日が昇れば畑を耕し、日が落ちると家に入って三人で寝転がった。それぞれの毛皮を枕にし、身を寄せて寒さを凌いだ。

 父と母は、仲の良い番だった。俺もまた、ああなりたい。寒い夜に、身を寄せ合う相手がほしい。

 だから、そういった相手に出逢えたら、『自分を好きになってもらえるよう』願うつもりだった。

「ルシオラ、さん」

「何かな」

「ごめんなさい。俺には叶えたい願いがあります。だから、貴方にお譲りすることができません」

 黄緑の瞳が、丸く開かれたのが見えた。

 俺が身を翻すより先に、腕に肩を掴まれる。

「君は、獣人?」

 こくりと頷く。

「願いを、残している?」

 また、こくりと頷く。

 彼の瞳に、どろりと欲が湧いた。けれど、瞬きの間にそれらは消え去る。

「もし。君の願いを私が叶えたら、君の願いを譲ってはくれないか?」

「難しいと、思います」

「どうして?」

「…………ややこしい、願いなので」

 まず、俺が伴侶に相応しいと思う人を見つけて、その上で相手が自分を好きになるように願う。

 いくらこの人が頑張ったとしても、他人が他人を好きにさせるのは至難の業だ。

 けれど、そう言っても彼の視線は縋り付いてくる。

「君の願いを、教えてくれないか?」

 黙ることは、妹の病を治したいと努力をしている彼にとって、失礼なことに思える。保身よりも、その瞳の真摯さに負けた。

「……生涯の伴侶を得ることです」

 俺の答えに、彼はぽかんと口を開けた。流石に、想定外の願いだったようだ。

 申し訳なく思いつつも、縋り付く腕の所為でその場に留まる。ぐるぐると頭を巡らせているようで、その視線は様々な方向へと巡った。

 そうして、ようやく言葉が発される。

「私が伴侶になるのは、どうだろう……?」

「いや。正気ですか」

 二人して黙り込み、ただ視線を交わし合った。

 夕日が地平線に近づき、円だったものが欠けていく間に、周囲が暗くなっていった。

 俺は掴まれている肩に視線をやる。周囲に人影がなく、目の前の男以外に見られる余地はないのが救いだった。

「あの。日が沈むと────」

 次の言葉を言い終わらぬ内、妙な提案に脱力していた俺の輪郭は、朧げに解けていく。

 すとん、と着地すると、ばさばさと服が降り注いだ。暗くなった視界から抜け出ると、ぽかんとこちらを見下ろす視線がある。

 彼の瞳に映るのは、三角耳をした獣の姿。ふさりとした毛皮に包まれた真っ黒な身体。月を宿したような、と言われる瞳と、長い尻尾を持つ種族。

 服が当たって据わりが悪くなってしまった髭を、前脚で整えた。

『猫になってしまう、と言うつもりだったのですが。……遅かったようです』

 

 

 

 俺はルシオラさんに服を拾ってもらうと、書店の上階に借りている自室まで案内した。

 鍵を渡して扉を開けてもらい、とっ、と室内に着地する。

 猫の姿は外敵に対して弱いが、彼は暴力を振るおうとするような素振りはない。ただ、初めて接したのか、獣人に驚き、声を届けるたびに不思議そうにしている。

 耳で拾うのは猫の鳴き声だろうが、人としての言葉を同時に、魔力を通して届けている。その感覚は、聞き慣れないものだろう。

『お茶などは出せませんが。どうぞ、椅子を使ってください』

 店主夫妻が若い頃に住んでいた一室は丁寧に使われていたようで、年季は感じるものの、過ごす上での不便はない。

 ただ、床がふっくらとしていて、次の嵐で倒壊しない、と胸を張って言えはしなかった。

「ああ……、ありがとう」

 彼は近くにあった椅子に腰掛ける。俺の座る場所は無くなったが、猫である。床に腰を下ろし、尻尾を前脚の前に丸めた。

『あの、先程の話なのですが』

「ああ。私は、冗談を言っているつもりはなかったよ」

『お気持ちは大変ありがたいのですが、ルシオラさん自身が伴侶にならなくとも。……例えば、俺が伴侶を得る協力をする、という選択肢もあるかと思うのですが』

「もし、その伴侶が君を道半ばで捨てるような相手だったらどうするつもり? 君が『星への願い』を使えば、生涯の伴侶が得られる。君に願いを譲ってもらう対価は、確実に、君へ生涯の伴侶を与えなければならない、のではないかな」

 彼の言いたいことは理解できる。『俺が本来願うつもりだった事柄を叶えること』を対価とするなら、生涯を共にする伴侶が得られなければならない。

 困った、という気持ちが落ち着かず、前脚で顔を洗う。俺がそうしている様子を、ルシオラさんは物珍しそうに眺めていた。

「君の好みはどんな相手? 獣人でなければならないかな?」

『特に……そういうものはなくて。ただ、寄り添ってくれる相手が、欲しい……というか』

「では、私なんてどうかな。君より数歳は上だと思うけど、君に衣食住を十分に与えられる職だと思うよ」

 急に伴侶として売り込まれ、ええと、あの、と口籠もってしまう。尻尾は揺れ、無駄に顔を洗ってしまう始末だ。

『いくら妹さんの為とはいえ、生涯の伴侶に、ろくに話をしたこともない獣人を選ぶのは……』

「けれど、私は君じゃなければこんな提案はしなかった。どうかな? 私が君の信用に値するか、しばらく交流を深めてみる、というのは」

 俺が彼を伴侶に定め、妹さんに『星への願い』の内容を譲ることができるのなら、それで丸く収まる。それに、もし彼を好きになったとしたら、彼の妹の病を治すことは、心からの願いに値するだろう。

 何より家族を失っている身としては、家族のため、と食い下がる彼を突き放せはしなかった。

『妹さんの病は、そこまで余裕があるものですか?』

「症状は落ち着いているし、入院して体調管理もしてもらっている。ただ、病が治らなければ、退院、は難しいかな』

『そんな中で、俺が回答するまで、待てますか?』

 彼は俺の身体を抱き上げると、自らの太股の上に乗せた。服に毛がつくことに怯えてしまうが、相手は気にしている様子もない。

 猫の抱き方に慣れている為か、指先で撫でられると、ぐるぐると喉を鳴らしてしまう。

「もう、十数年そんな状態だからね。それに、『星への願い』を、これまで頼み込んだどの獣人も口を揃えて、重いものだ、と言ったよ。譲ってもらうことを、軽く考えたいとは思わない」

『けれど。俺の願いは、生涯の伴侶を得ること、ですよ』

 彼の大きな掌が、首から背を撫でる。

 ゆったりした撫で方は、ただ優しかった。更に盛大に喉が鳴ってしまいそうだ。

「それが君にとって、生涯の願いを懸けるに値する事なんだろう? 以前、もう両親は亡くしたと言っていたね。では、君にとって『星への願い』は、新しく家族を得られる手段な訳だ」

 太い指が、耳の裏を掻いた。

 掻いてほしい場所に指先を誘導すると、察してくれたようで皮膚を擦ってくれる。

「やっぱり、重いね。ひと一人の、現在の医学では治らない病を治すことができる願いは、とても重い」

『交流を深める話。撤回、しますか?』

「しないよ」

 奇妙な提案をしておいて、退くつもりもないらしい。

 彼の掌はまず及第点、といったところだが、交流を深めたところで、正反対とも言えそうな彼と愛を育めるのだろうか。

 悩みにこんがらがって、太股の上で転がる。

「まずは、そうだな。医学書を積んでいるだけの部屋があるから、その部屋を片付けよう」

『はぁ……』

 彼の言葉の意図が掴めずにいると、傾いだ顔がこちらを覗き込む。本当に、綺麗な顔をした男だ。

「引っ越し先、決まってよかったね」

 にっこりと笑う大きな男の圧に、小動物ではとても敵わない。逃れようと言葉を紡いでみたが、綺麗に丸め込まれ、白旗を揚げる羽目になるのだった。

 

 

▽2

「ルシオラさ…………」

 言葉をかけようとした先、男の顔が例のにっこりとした表情を浮かべる。

 しまった、と急いで訂正の言葉を発した。

「ルシオラ。部屋に置いてある棚は使ってもいいでしょうか?」

 だが、彼の笑顔は引かない。使ってはまずい棚があるのか、と思考を巡らせていると、俺が察していないことに気づいたようだ。

「敬語」

「……あぁ、それもか。部屋にある棚は、使ってもいいか?」

「構わないよ。気に入らない棚があったら、新しいものを買いに行こう」

 彼……ルシオラからは、同居にあたり、敬語も敬称も止めるよう言われた。距離を感じる、とのことで、俺もその提案に了承した。

 とはいえ、客と店員、の関係が抜けきれない俺は、未だに敬語が口をついて出る。

「気に入らない棚、は無かった」

「良かった。荷物に抜けはないかな?」

「ああ。箱に数字を振っておいた、不足はないようだ」

 新しい部屋を探しに行くはずだった休日は、引っ越し作業にあてられる事になった。手配が間に合わない、と直ぐの引っ越しに及び腰になっていると、相手にさっさと手伝いを手配されてしまった。

 俺の部屋の荷物は多くなく、朝から始まって荷物は新居に運び終えている。

「広い部屋だな」

「あぁ。家くらい寛ぎたかったし、妹の病に無闇に金銭を注ぎ込むのも、医者という職業柄、流石に、と思い留まってね」

 彼が住んでいるのは一軒家だった。

 勤め先に近いらしく、俺の勤務先である書店にも徒歩で通える距離にある。建物自体は新しく、踏みしめて揺れない床が逆に慣れない。

 室内は全体的に木造の色味を生かすような家具が置かれており、布地の色彩は目に優しいものばかりだ。

「……というと?」

「法外な値段をする薬は数あれど、これがどうも、きりがない」

 高い薬、更に高い薬、と上を見ていけば、金などいくらでも飛んでいく。その限界を、一度見たということだろうか。

 とはいえ、この家のある場所は極端に地価の高い土地でもなく、部屋の中に大量に物が溢れている訳でもない。彼の収入に対してみれば、質素な暮らしにも思える。

「そういえば。ルシオラの、ご両親は?」

「両親と、上に兄がいる。どちらも存命だよ。妹の治療費についても協力してくれている」

 返事を聞いて、ほっとした。部屋へ引っ越すに当たって、家賃も家に関わる費用も要らない、と言われている。

 それなのに、新月に近い日には夜になれば俺は猫になってしまい、家事も担えない。同居人としては役に立たない存在だった。

「あまり、負担にならないよう努力する」

「可愛らしい子猫ちゃんひとり、どうってことないよ。今日は夜に、猫になってしまうかな?」

 その子猫ちゃんは彼ほどではないが身長もあるし、可愛らしい、と称するには表情の動きが鈍い気がする。

 褒め言葉にむず痒さを感じながら、ゆっくりと言葉を返した。

「いや。新月の日から数日経っているから、気を抜かなければ人のまま保てる」

「猫のほうが楽なら、そっちの姿でいて構わないよ」

 少しの間、思案して首を横に振った。

「猫の姿だと、飼い主と猫、のようで。検討する関係とは違うから」

「それもそうか。でも、疲れたら猫の姿に戻るようにね」

 箱を抱えたルシオラは、俺が配置した本棚に持ち込んだ本を並べていく。その途中で、ふと手が止まった。

 片付けようとした本を持ち上げ、こちらに表紙を見せる。

「私もこの本好きだよ。でも、被ったね」

「そういえば。ルシオラの本棚も凄かったな」

 彼の本棚は居間に置かれていて、天井近くまである棚にはびっしりと医学書とその他の本が並んでいた。

 ルシオラはまだ並んでいない本を見下ろし、その場に立ち上がった。

「本棚、居間に置くのはどうかな? 私は、本の選択肢が増えると嬉しいけれど」

「確かに」

 同意すると、彼はさっさと本を退けた棚を抱えて居間へ向かってしまった。

 体格差、というのか、無愛想でひょろりとした俺よりも、人当たりが柔らかい印象のルシオラの方が腕が分厚い。

 ただ、攻撃性は感じず、あれは人を支えるための腕だと分かる。

「ありがとう。運んでくれて」

「いえいえ」

 居間へ向かうと、大きな本棚の隣に、ちょこんと少し小さな本棚が並んでいた。元々置かれていた本棚は側面が白く塗られているが、俺に与えられた本棚は黒だ。

 居間、という広い空間にひとつ、色味が増えた。

「登って寝たら、気持ちよさそう……」

 本棚を見上げ、ぽつりと呟いた俺に、ルシオラは目を丸くする。

「あ。……いや、本に毛が付くからしないが」

「気にしないから、してもいいけど。そういうとこ、獣人の感覚だなぁ」

 彼はまた俺の部屋に戻り、本を抱えて戻ってくる。置かれた本棚に、本を並べ始めた。

 著者名の昇順。隣に並んだ本棚と同じ基準で並べられていく本を見送りながら、物珍しく思う。

 書店の上階に住んでいた時は、下階に本棚があるおかげで、家に本棚を置く必要もなかった。

 本を買うより先に身の回りに使う金銭が必要で、ぱらぱらと新書の内容把握のために読む本以外の読書は逆に縁遠い。

 持ち込んだ本も、店主が読み終わってくれたものや、売り物として傷付いてしまったものが多分に含まれていた。

「書店が無くなったら、寂しくなるね」

「ああ。俺も仕事が無くなって困る」

「ははは。いくらでも家でごろごろしていなよ。働きたい所が見つかったら、働けばいい」

 どうやら、俺が無職になったとしても、この男は笑って家に置き続けるつもりのようだ。まだ伴侶でも何でもないのだが、そんな中で破格の待遇に思える。

 家族に対しての情が深く、本を買い漁るほど研究熱心で、それでいて人当たりはこうやって柔らかい。顔だって獣人から見ても、整った顔立ちだ。

 これだけ揃っていながら、願い事を譲ってもらいたいが為だけに、こんな毛並みの悪い黒猫を伴侶にしようとする。

 その一点だけは、彼にとって欠点と言えるかもしれない。

「両親を亡くして、街に出て、それから働き通しだったんだ。少しくらい休暇を味わってみなよ」

「…………優しいな」

「そう? 普段は人の皮膚や内臓を切ったり縫ったりする仕事をしている所為か、そんなことは言われないな」

 俺の眉が寄ったのが分かったのか、彼は笑みを深めて立ち上がる。指先を伸ばし、俺の喉へ触れた。

「健康でいてくれたら、別に何もしないよ」

「……心しておく」

 二人で荷物を片付けると、量が少ない所為もあり、日が高くなる前に作業を終えた。俺は終日休みをもらっているが、彼は午後から仕事に行くそうだ。

 元々、書店に立ち寄る時間も不規則で、その多忙さは察するものがあった。

「────夕食の用意はいるか?」

 彼は慣れた動作で服を着替え、鞄に荷物を詰めていく。準備中に申し訳なく思いつつ、横から声を掛けた。

「時間の保証ができないから、先に食べていてほしい。けど、多めに作って私の分も残してくれたら、心から感謝するよ」

 朝からの作業の合間に見た台所は綺麗なままで、保存食やパンが棚に並んでいた。生鮮食品はほぼ置かれておらず、食品温度を保つための魔術装置に魔力は点っていない。

 明らかに、使われていない、という事が分かる台所だった。

「それは構わない。田舎料理というか、洒落たものはできないが……」

「え。芋とか根菜とか、煮てくれる……?」

「煮てほしいなら、煮るが。それでいいのか」

「それがいい」

 ぱたん、と彼の鞄の蓋が閉まる。彼は鞄を掴むと、長い脚で廊下を突っ切っていった。俺は小走りにその背を追う。

 玄関で追いつくと、彼はもう外靴に足を通していた。

「じゃあ、いってきます」

「ああ。いってらっしゃい」

 彼は両手を広げると、近くにいた俺を軽く抱き寄せ、放した。気づいた時には、ぱたん、と扉が閉じる音がする。

 家を出ていく時に接触を持とうとするなんて、生きていた頃の父母のようだ。

「……………………」

 夕方になったら、食事の買い出しに向かおう。そう決めつつも、少し空いた時間に寛ぐべく、脱衣所で服を脱ぐ。

 しゅるりと形を変えた身体で廊下を歩くと、広すぎて肉球で駆けだしてしまった。爪が引っかからないよう扉の取っ手に縋り付くと、くい、と引いて体重を掛ける。

 開いた扉から入り込んだ居間は、寝場所に迷うくらい広さがあった。広い長椅子が目に入り、今日の寝床が決まった。

 毛が付くのは嫌だろう。自室として宛がわれた部屋に戻り、棚からお昼寝用の小ぶりな毛布を咥えて落とす。

 ずりずりと廊下を引き摺って、居間へ持ち込んだ。長椅子の上に小さな毛布を広げ、その上で伸びをする。

『広い……』

 そう呟き、くあ、と小さな口をいっぱいに広げる。身体を丸め、目を閉じると、果たして新居における現状が、現実か分からなくなってくる。

 ふわり、と自分ではない匂いがする。妙に落ち着く匂いだ。夢も現も、上も下も分からない中、この寝床の心地よさは間違いなく現実だった。

 

 

 

▽3

 猫の腹時計は優秀だ。夕方には昼寝から目を覚まし、買い出しに向かった。生活圏が変わらないため、買い出しの店も見知った顔ぶれだ。

 いつもより少し豪華な夕食の買い出しを済ませ、両手いっぱいに食材を抱えて帰宅した。知らない魔術装置のある台所におっかなびっくりしつつも、野菜を甘じょっぱく煮ると、魚を捌いて香草と共に焼いた。

 買い足しておいたパンも、表面を焼こうと切り分ける。

「そういえば、先に食べておけって言われてたな」

 焼くのは後にしておこう、と作業場所の隅っこに避けておいた。

 魚料理に添えるソースを作り、小皿に取り分けて食卓へ運ぶ。出来上がった煮込み料理も、焼き上がった魚料理も皿に盛って運んだ。

 一人暮らしが合流したのだから、もう少し大きな皿があってもいいかもしれない。食卓を彩った料理を見下ろし、最後にパンを焼きに台所へ戻る。

 まだ、夕方であって夜ではない時間だ。家主の帰りはもう少し後、と思っていたその時、玄関から音がする。

「セレ君! ただいま」

 玄関に駆けていくと、少し疲れた笑みを浮かべる家主がいた。

 もっと遅い帰りを予想していただけに驚きながらも、意識して表情を緩める。

「おかえり」

 帰ってきた家主は腕を広げ、また俺を軽く抱擁した。

 上着からは、外の匂いがする。

「いい匂いがするね」

「ちょうど良かった。あんたが帰ってきたのなら、今からパンを焼く」

「パンも焼いてくれるんだ!?」

 俺はきょとんと彼を見返す。ルシオラは夕食が楽しみなようで、匂いからあれこれと想像しては外していた。

 家主は自室に戻って上着を脱いで鞄を置き、台所に来ると、手を洗い始める。俺はその間、程よく焼けたパンを皿に盛った。

「今日は、遅くはなかったな」

「ああ。同居人ができたって話をしたら、雑務を引き受けてもらえてね」

 彼は捲ったシャツの袖もそのまま、食卓に向かって歩き始める。並んだ料理を見て、唇から歓声が漏れた。

「すごいなぁ……。私も全くできない訳ではないけど、疲れて出来合いの料理に頼ってしまう」

「俺は出来合いの品を買う金がなく、作る時間はあっただけだ。……あ、忘れていた。スープもある」

「パン以外に三品もある食事……。大丈夫? セレ君。無理はしていない?」

「無理はしていないが、同居初日だし、張り切ってしまったかもしれない」

 深い器に飴色のスープを注ぎ、取っ手を彼の手に渡す。

 自分のぶんは注いでそのまま運んだ。席に座った俺を見て、ルシオラはくすりと笑う。

「料理を張り切るくらいには、嫌がられていないようで安心したよ」

「まぁ……。嫌がってはいない。でも、まだ困惑はしている」

「それは何となく分かる」

 あはは、と彼は笑い、食事が始まった。

 どの料理に対しても口に含むたび、いちいち賞賛の言葉が投げかけられる。本当に自宅で料理をする習慣がないのだろう。

「帰宅してすぐ出来たてのご飯、夢のようだな。私は何もしていないのに……」

「だけど。俺も新月近くは役立たずになるから、その時にはいろいろと頼む」

「そうか。じゃあ、その時に頑張るよ」

 彼の所作は綺麗で、育ちの良さを感じさせる。

 重い病を、それこそ『星への願い』を使わなければ治らないような病を患った妹を、この歳まで支えられるくらいには裕福な家庭の育ちである。

 ただ、そんな彼が望む願いが金では買えない、というのが皮肉めいていた。

「ルシオラは、帰宅はいつもはもっと遅いのか?」

「遅いよ。あと、泊まりの当番がある日は帰ってこない」

「そうか。俺自身は、食事の時間を遅らせても構わないと思っているが……」

「うぅん……。待たせる時は本当に際限ないから。待たないで欲しいかな」

「そう、いうものか」

 食事は揃って皆で食べるもので、こうやって向かい合って食事を摂りたい。彼の好きな食べ物だって分からないし、自分の料理のどの味付けが気に入られているかも知らない。

 自然と、肩が丸くなる。

「じゃあ。帰ってきたら、……猫の姿で寝ているかもしれないが、起こしてくれないか。向かいで座っていたい、から」

「…………ああ。悪いことを言ってしまったかな。もしかして、ご家族では夕食は一緒だった?」

「その、俺こそ……。誰かと囲む食卓は、俺。たぶん、好き、なんだ」

 木匙をスープ器の端に寄せ、そのまま指先を軽く離す。

 沈み込んだ先端は、飴色の煌めきの中にとぷりと浸かった。

「ルシオラの食の好みを知りたい。それに、誰かが食事をしている間に寝ているのは、残念な気分になる」

「驚いた。君のこと、もっと冷淡なのかと思っていたよ。軽い気持ちで言った料理だってこんなに時間を掛けた品を仕上げてくれて、出迎えにも来てくれた」

「表情が薄いとは、よく言われる」

「いや。動かない氷は僅かに動くだけで鋭く煌めく。それがセレ君の表情だと思うよ」

 視界の端で、氷を入れたグラスが汗を掻いていた。

 中央に浮かぶ煌めきは、冷気を纏うからこそ多様な色を持つ。

「前の家で会った時の、黒い毛並みのようだね。光が当たると、色が浮かび上がる」

 彼がそれを、美しいもの、の一つに入れていることが、むず痒い。俺の存在を褒めてくれるのは、今までは老齢の店主くらいだった。

「沢山の色の絵の具を混ぜると、黒に近づくと言う」

「そう考えると贅沢な色だよね、黒。元々、うちの国では守護神に通じる色として好まれる色彩ではあるけれど」

 自らの色を、ここまで真正面から褒められるのは珍しい。

 彼はナイフで魚を切り分ける。ほくりと崩れた身をソースに絡めて口に運び、頬を緩める。

「私の提案を受け入れたのも、妹のため、と動く人間を見捨てられなかった?」

「大部分は、引っ越し先に困っていたからだ。だが、……否定はしない。俺は家族を亡くしている。それはもう、取り返しがつかないことだ。妹さんの病状は安定しているそうだが、ルシオラが『星への願い』を求めているということは、悪化の余地があるんだろう」

「…………まあ、少しは、ね」

 浮かべる笑みには力がなかった。もう十年単位で家族の病と付き合っている人の心情を、俺は知らない。

 きっと、常に揺さぶられ続けているような心地なんだろう。

「俺が生涯の伴侶を諦めれば、一人の未来が救われる。……けれど、すまない。この願いがあれば、書店を建て替えることだってできる。将来、俺が何か大病を患った時の為にだって使える。元々、求めていた伴侶を得ることもだ。だから、今は頷けない」

「直ぐに、頷こうとしなくていい。私が君に与えられるのは、人の身で出来ることだけなんだ。それと引き換えにしてくれるほど、君の中で私の存在が重くなるべく、入り込もうとしている。…………悪い人間だよ」

 会話の合間に、彼は食べ物を口に運ぶ。空腹だったのか、がっつくような速さだった。

 俺は焼いたばかりのパンを持ち上げ、鼻先に当てる。香ばしい匂いがふわりと届いた。

「俺は、妹を助けたいと願う人間を、悪い人間だとは思えない」

 ざくり、と牛酪を絡めた表面に齧り付く。

「そう? セレ君は人がいいね」

 多めに用意したはずだったのに、ルシオラはひょいひょいと皿に取り分けては、体格相応に大きな口に入れていく。

 苦い食材、辛い食材、甘い食材。それぞれを口に運ぶ手に、躊躇う様子はない。好き嫌いは少ないようだ。

「どの料理が好き、とか。あるか?」

「これかなぁ。野菜を食べる珍しさもあって、美味しく感じるよ」

 彼が指したのは、俺が生まれ故郷で覚えた、野菜を甘じょっぱく煮た料理だった。

 遅い時間に帰宅し、くたくたになりながらパン等を囓っていた、そうで、野菜の味わいを物珍しく感じるのも理解できた。

「じゃあ、また作る」

「ありがとう。楽しみにしているよ」

 彼が好きといった料理の残りを譲ると、大袈裟なほど感謝される。本当に好きなのだな、と目を瞬かせた。

 更に途中、パンをもう一個食べる、とルシオラはおかわりを焼きに立ち上がった。

「よく食べるんだな」

「ああ、今日は仕事が立て込んでね。いつもより酷いかもしれない」

 焼き上がったパンを皿に載せ、自席に座ってからまた囓り始めた。

 飲み物を口にしている俺に向かって、何事かを思い出したように顔を上げる。

「出勤後に妹の所に行って、セレ君の話をしたんだけど。怒られてね」

 彼の勤務先と、妹の入院先は同じ病院のようだ。確か、この周辺では最も大きな施設だったはずだ。

「……当然だと思う。俺も、家族がそんなことをし始めたら怒る」

「そうなのか……」

 よほどの妹馬鹿か、目的の為には手段を選ばない質なのかもしれない。普段の空気は柔らかいのだが、舵はあまりにも急だ。

 部屋の本は多く、知識を入れることは得意そうに見えるのだが、どことなく、抜けている、と言うのだろうか。

 それとも、なにかが溢れているのか。

「妹は『星への願い』を重く捉えているようだ。私を悪人だと罵り、セレ君を解放しろ、と言われた」

「あんたの妹は、俺の味方をするんだな」

「私が君の願いを消費する形になっているのが、公平じゃないように見えるらしい。まあ、言い分はもっともなんだけれど」

 確かに彼女からしてみれば、兄が俺をたぶらかして己の願いを叶えさせる、構図とも言えるのだが、たぶらかすルシオラにも事情はある。

 目の前の悪人は頭を抱え、妹の言葉を思い返している様子だ。

「今の所は、君を居候させているだけ。でも、……そうだ。セレ君が願い事を譲ってくれる気になったら、私と結婚しようか」

「飛躍が凄まじいぞ。どういう経路を辿った?」

 彼の突拍子もない提案にも慣れ始めてきた。この男と兄妹をやってきた彼女に、ほんの少し同情する。

「将来の私が、君を裏切らない為の枷が欲しくなった」

 枷。俺と彼の関係の中で愛が生まれても、結婚という行為は彼にとっては枷なのだ。

 結婚の一側面を示す言葉として、そう使うこと自体は否定しない。だが、黒い毛皮を寄り添わせて、暖炉の前に丸くなる両親の関係は、そういうもの、ではなかったと言いたくなる。

「枷がなきゃ裏切るような男には、俺は惚れない」

 心の中に止めておくべき言葉が、口から零れ出る。

 相手の目が丸くなり、その反応に気まずくなって、ぬるいスープを口に運んだ。

「…………そうか。心しておくよ」

「あー……。悪い。つい」

「構わない。本音のほうが嬉しいし、気分を悪くさせてすまなかったね」

「別に気分は、悪くしてない」

 なくなったスープを注ぎ足そうとしたが、小鍋の中には残りがなかった。

 人に対して、こうやって言葉の爪を立てることは珍しい。受け止められて安心したが、口が緩くなっているようだ。

「そうだ、忘れてた。妹がセレ君に会いたがっていたよ」

「会うのは構わないが……、どうしてだ?」

「予想だけど、私との同居をやめるよう言いたいんだと思う」

「あぁ……。まあ、妹さんの言い分もあるだろうし、聞くよ」

 会ってみて、願いを掛ける必要もないほど醜悪な人間であれば諦めもつくのだろうが。兎も角、相手を知らなければ始まらない。

「じゃあ、明日行く?」

「急だな」

「妹は病室にいることが多いし、明日の午後なら私も時間を取れるから。セレ君も明日は終日、休みだったよね」

「ああ。まあ……妹さんがいいならそれで」

 彼の妹は使っている魔術装置が大型な所為で、あまり病室を離れられないらしい。暇をしていることが多いようで、兄が病室をよく訪れる理由にもなっているそうだ。

 妹のことを語る彼の表情には、いつもより少し複雑な色がある。

「妹さん、差し入れとかって何がいい?」

「本。要らない本をあげるか。それか、普段は読まない本を貸してくれたら、私が数日後に取り戻してくるよ」

「へえ。本の好みって分かるか?」

「病院の外のことが載ってるなら何でも。画集とか、地域の情報誌とか、幻想的な小説とかも好きらしいよ」

 彼の挙げた内容には心当たりがあった。明日までに纏めておく、と告げ、食後に纏めることに決めた。

 食事を終えると、食器を洗う作業はルシオラが請け負ってくれた。

 その間に風呂に入り、身体を洗う。今日は身体を使うことが多かった所為か、入浴は心地よかった。

 ほこほこになった身体を拭き上げ、寝間着を纏って居間へと戻る。食器は洗い終えたようで、彼は長椅子で医学書に目を通している所だった。

 表紙には、心臓を簡易化した絵が載っている。

「お待たせ。風呂が空いたぞ」

「ん? ……ああ、セレ君。足音が静かだね」

「猫だから」

 彼は本を机に置き、俺に手を振りつつ風呂へ向かっていった。

 俺は普段は使わない鞄を取り出し、本棚の前に座って、妹さんに貸し出す本を選び始める。

 とはいえ、普段、本を薦める仕事をしている。早々に選び終え、暇になってしまった。

 彼の置いていった医学書にも興味はあるが、栞が挟まれていて手を出せない。

「猫、戻っていいかな」

 寝間着を纏ってはみたものの、今日は猫の姿で寛ぎたい気分だ。それに、戻ってきたルシオラが猫を見たら驚くだろう。

 悪戯心が疼いて、自室へ戻って猫へと転じる。お昼寝用の毛布を銜えると、廊下を引きずって居間へと戻ろうとする。

「セレ君?」

『見つかった』

 その途中で、風呂上がりの家主に遭遇してしまった。彼は俺の身体を抱き上げると、毛布を持って廊下を歩く。

 自分で歩くよりも楽で、腕に凭れてしまった。

『戻ってきた時、驚かせようと思ったのに』

 毛布が俺の上に置かれ、彼は空いた手で居間への扉を開く。

「そういうとこ猫だなぁ。あ、あの鞄の中身。妹へ貸してくれる本?」

『そう。多いか?』

「いや、大丈夫。一日か二日で読み終えると思うよ」

 割と鞄いっぱいに詰めたと思ったのだが、確かに一日中本を読める環境なら読み終えてしまうかもしれない。

 彼は鞄の中身を確認し、一冊だけ既読の本があったようで取り出し、本棚に戻した。

 その間、俺は腕の中に仕舞われたままだった。

「セレ君、このまま抱っこしていてもいい?」

『構わないが』

 家主は俺を抱き上げたまま、長椅子へ座った。彼は医学書に手を伸ばすことなく、俺の前脚を摘まんで持ち上げる。

 肉球が柔らかかったようで、指先で押された。太い指を肉球で押し返す。

「猫の身体の構造、じっくり見たことないな。眺めさせてもらっていい?」

『面白い構造はしてないぞ。あと、恥ずかしいから股の間は見ないでくれ』

「そう言われると、興味が湧いてきたな」

『湧くな』

 言葉は冗談だったようで、まずは、と指先が耳を摘まんだ。裏返してみたり、内側にある毛をなぞられる。

『もしょもしょする』

「はは、くすぐったい?」

『くすぐったい』

 詫びのように耳の後ろを掻かれ、うっとりと目を細める。指先は喉に向かい、撫でられるたびにごろごろと音が零れた。彼は音を拾おうと、耳を喉に近づける。

 綺麗な顔立ちが間近にある。どくん、と胸が跳ねた。

「お腹までは触ってもいい?」

『別にいいけど』

 無防備に晒された腹を、彼は掌全体で撫でた。腹の毛はふわふわと柔らかく、指先に絡む。

 相手にとっても心地よかったのか、もぞもぞと腹の上を指が這った。

「セレ君。この、脇腹のあたりにある印って」

「ああ。それが、『星への願い』がまだ残されてる印だ」

 星を中央に据えた意匠は、願いを使っていないものだけが皮膚の上に、毛の下に、隠し持つ印だ。

 使えば消えてしまうが、俺のそれは脇腹にまだ残されている。

 いくつもの感情を秘めた視線は印を眺め、やがて撫で上げた毛の下に隠された。また違う場所が搔き分けられる。

「ん? これ、乳首?」

 相手にとっては興味本位だったのだろうが、びくんと起き上がり、その指に対して反射的に牙を剥く。

 ルシオラは両手を挙げ、申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめん。……配慮を興味が上回ってしまった」

『やめろ。感覚はあるんだ』

「数えていい?」

『八個だ』

「ちょっと毛を掻き分けて眺めても……?」

『…………それは。ああ、もう。好きにしろ』

 また太股の上に身体を投げ出すと、彼の指が毛を撫でる。

 腹を触りながら何か見ていたようだが、しばらくすると眠くなってしまって、長時間の観察を許してしまった。

 

 

▽4

 昼までは、怠惰に眠って過ごした。朝ご飯をルシオラは勝手に食べていったようで、病院に行ってからどうすればいいか書き置きが残されていた。

 俺は昼過ぎに余所行きの服へ着替えると、書き置きを持って家を出る。肩に掛けた鞄はずっしりと重く、やっぱり冊数を減らしておけば、と少し後悔した。

 自宅から病院までもかなり近く、大通りまで移動し、中心の道路を抜けて歩いた先にその建物はあった。

 王都の中でも大病院、と呼べるほどの規模があり、周辺地域のみならず、国内から優秀な人材が集まる場所である。

 外壁は白く、均一に病室の窓が並んでいる。清潔、を保つ場所に相応しい面構えだ。

 書き置きに記されていた出入り口から中に入り、受付へ書き残された通り、見舞いの件を伝える。

 提示された書類を書き終えると、事務室の奥の扉から白衣姿のルシオラが出てきた。家にいるときはもう少し気の抜けた様子だが、服の所為か、腕の良さそうな医者然としている。

 こちらに向けて手を挙げ、大股で表に出てくる。

「病室は別棟にあるんだ。案内するよ」

「ああ……。ありがとう」

 先導する背中に続いて歩くと、先ほどよりも少し規模が小さく、渡り廊下で繋がる別棟へと案内された。

 入り口は魔術装置を使った人物認証があり、ルシオラが解錠する。

「靴はこっちに。消毒をするから、まず手を洗って、この装置の前に立ってね」

 指示された靴箱に外靴を仕舞い、与えられた室内履きに足を通す。

 設けられた洗面台で手を洗い、装置の前に立つと、身体全体に霧状の液体が噴き付けられる。

「病室は上の階なんだ」

 引き続き、その後に続いて階段を上がり、ひとつの病室の前に辿り着く。

 患者名は書かれていなかったが、ルシオラは扉を叩き、返事を聞くと部屋に入っていく。

 途中、少し待つよう掌で指示をされ、俺はそれに従い、扉の前で待った。部屋の中から話をする声が聞こえ、しばらくするとルシオラが扉から顔を出す。

「どうぞ、入って」

「あ、お邪魔します」

 部屋は個室のようで、寝台の上には成人しているかしていないか、といった年頃の女性が上半身を起こしていた。

 持つ色彩はルシオラと同じだが、長く伸びた髪を背でゆったりと結んでいる。顔立ちは似ているが、体格の所為もあり、兄が持つ柔らかさに儚さが加わっていた。

 腕は細く、裾の下から伸びた管が、寝台脇にある装置へと繋がっている。

 おそらく、装置は彼女の病状を安定させる為のものだろう。

「ああ、それ。心臓の動きをする魔術装置なんですよ。医療魔術師が、魔力の補充をしてくれます」

 俺の視線に気づいたのか、妹さんから説明される。

「あ、すみません。気になってしまって、つい」

「いえ。私も装置が取り付けられた後、ずっと眺めてましたから。……初めまして、私はリーシア。ルシオラの妹です」

「はじめまして。セレといいます」

 肩から下ろした鞄を、近くの椅子に置いて開ける。中から本を取り出すと、彼女の表情は一気に明るくなった。

「うわぁ。読んだことない本ばっかり!」

「本を貸したら、ルシオラが持って帰ってくれるそうなので、お貸しします。汚れなどは気にしないし、俺も汚している頁があるかもしれませんが……」

「ありがとうございます……!」

 彼女は本を受け取ると、寝台横に積み上げる。俺のことなど眼中にないかのように、視線は背表紙に書かれた題名だけを追っていた。

 こほん、とルシオラが咳払いをする。

「リーシア。私は必要かな?」

「ううん、要らない。二人で話したいし」

「セレ君。そういう事だから、後は任せていいかな。私は建物の入り口横に休憩所があるから、そこで待っているよ」

 説明された位置に、思い当たる扉があったことを思い出す。頷いて、個室を出て行く背中を見送る。

 俺は近くにあった椅子を引き寄せ、腰掛けた。

「セレさん。書店の店員さん、でしたよね」

 彼女は寝台に腰掛け、俺と向かい合う。

「そうです。とはいえ、もう少しで勤め先は廃業なんですが」

「え!? 書店ってあの────」

 彼女が挙げた名前は、確かに俺の勤務先の書店名だった。話を聞くと、兄妹が小さい頃に通っていた店なのだそうだ。

 寂しそうに眉を下げる表情に、ついルシオラとの共通点を探してしまう。

「そう、ですか。むかし、店員さんになりたい、って憧れていた店だったんです。あの、店主さんにもよろしくお伝えください」

「はい。店主も寂しがってはいますが、店を閉めてからの生活を楽しみにもしているようでした」

 彼女が知っている頃の書店は、まだ今よりも新しく、夫妻が経営していた頃のものだったようだ。

 今との違いを話していると、あっという間に時間が過ぎる。

「────っと、そうでした。兄も待っているし、本題に入らないと」

「ああ、そうでした。何故、俺をここに?」

 彼女は近くの机に手を伸ばし、一枚の畳んだ紙きれを俺に差し出してくる。

 開いた先には店名と住所が書かれていた。店名から察するに、貸し部屋を仲介している店のようだ。

 これから告げられる言葉に、なんとなく察しがついた。

「今の家を出て、居候を、解消してくれませんか? …………兄は、私のことになると目の前が見えなくなって、医者になってしまうほど真っ直ぐな人です。けど、真っ直ぐにしか走れないし、跳ね飛ばす人のことを十分に思い遣れない所がある」

「あぁ……、まあ。そう、かも」

 彼女の言葉は全て正しいとは思わないが、十のうち六、七くらいは頷ける部分がある。

 リーシアは深く息を吐く、視線は落ち、床を這った。

「兄は身内の贔屓目を差し引いても顔は良いし口は回るし、上背もあって圧迫感があるでしょう? 大抵の人は、兄が頼むと否とは言いません。だから、私の為に兄がすることは、大抵が叶ってしまう」

「いや、俺も引っ越し先は探していたし……」

「でも、荷運びを手配したのは兄だと聞きました。あの人、行動力もあるんですよね……」

 はあ、と吐かれた息は、あからさまに呆れたものになる。

 彼女は引き出しから少し厚みのある封筒を取り出し、俺の手のひらに押しつけた。

「次の引っ越しに必要な額を用意したつもりです。足りないようなら……」

「待て。これは……受け取れない」

「返されても困ります。本当なら、迷惑料も上乗せしなければいけなかった」

「いや、本当に。なんで、リーシアさんは『星への願い』を譲ってもらうことに反対するんだ?」

 彼女は、ぎゅう、と色の薄い唇に皺を作った。

 細い指先は、シーツを握りしめている。

「…………病院にいると、沢山の人に会うの。帰れる人も、帰れない人も、それから、『星への願い』を使って。使ってもらえて。帰れるようになる人も」

 俺と彼女は、同じように床を見ていた。

 二人の間に見返すような余裕はなく、ただ、相手の顔がおそろしかった。

「ああ。『星の願い』を私に使ってもらえたら。『星からの贈り物』が獣人ではない私に与えられたら、って思うこともあった」

 獣人に国の守り神から与えられるものは、『星への願い』が生涯にひとつ、そして『星からの贈り物』が与えられる可能性がひとつ、だ。

 『星への願い』が願えば一つ望みが叶うのに対し、『星からの贈り物』が与えられるかどうかは神の気まぐれだ。ただし、概ね与えられた者にとっては望ましい恩恵が齎されるらしい。

 そして、そのどちらもが、純粋な人間には与えられない。

「その度に、獣人のことを調べた。そうしたら、迫害されたり、傷つけられたり、あるいは住む場所を限られたり、って話を知ったの。獣人は願いを持つけれど、その代わりに暮らしに制限を受ける」

「今は、少し楽になった」

「そう……、でも。やっぱり『星への願い』は、持つ本人のために使われるべきだと思う。誰も、獣人としての貴方の生涯を背負えない。兄がいくら貴方の生活を保障しても、伴侶になったとしても、たった兄一人ぽっちに何ができるの?」

 兄が吐露した悩みと同じ言葉を妹は口にして、それでいて彼女は結論を付け終えている。

「それは、生涯に一つの願いを使うに値する? 貴方は優しい人だと思う。けど、優しすぎると何かを失うよ。引っ越して、兄も私のことも忘れて。いずれ使うことになる願いは、大事にして。お願い」

「リーシア、……さん、は」

「別に、どう呼んでくれても構わないけど」

「リーシアは、助かりたくないのか?」

 俺が問うた言葉に、一瞬で彼女の目が潤む。

 聞いてはいけなかった、と後悔するより先に、リーシアの唇が開いた。

「こんな管に繋がれてまで、生きようとしている人間を前にして聞くこと?」

 顔を上げると、にっこりと笑っている彼女がいた。

 リーシアの背後から、溢れんばかりの日が注ぐ。影になったその笑みは美しく、どこか凄みがあった。

 俺の頭は、また下がってしまう。

「悪かった」

「いいよ。慣れてる」

 きっと、彼女の言うままに引っ越して、何もかも忘れてしまうのが円満だ。書店が閉まってしまえば、ルシオラとの繋がりはなくなる。

 そう思うたびに、撫でられた指の感触が蘇る。記憶の中のそれに手を引かれ、彼を思い起こさせる。

「────いずれ、リーシアの言うとおり、引っ越すかもしれない。でも、結論を出すのに時間が欲しい」

「身内の言う言葉じゃないと思うけど、兄と暮らしていたら、いずれ丸め込まれるよ」

 ふ、と思わず口から笑いが零れた。妹から見る兄は、どれだけ悪人なのだろう。

 顔を上げると、心配そうにしているリーシアがいる。

 俺には、兄も妹も、悪人のようにはとても思えなかった。

「いずれ俺がルシオラに心から丸め込まれて、彼の妹の為に、って願いを使いたくなる。そういう事だって、あるかもしれないだろ」

「だーかーら! 兄は人に対してそう思わせることが得意なんだってば」

「それを心から俺が望んだら?」

「…………本っ当に! 痛い目をみるからね!」

 つん、と顔を逸らした彼女の手のひらに、封筒を置く。空になった鞄を本の横に置いて、俺は席を立った。

 リーシアは封筒を差し出そうとするのだが、それより早く身を引く。

「こっちだけは受け取っておく」

 紙片を持ち上げ、懐に仕舞い込んだ。

 病室の扉に近づき、扉に手を掛ける。

「また、来てもいいか?」

「……いいよ。暇してるから、また本を貸してくれたら嬉しい」

「ああ。分かった」

 じゃあ、と声を掛け、病室を出た。

 掃除が行き届いた階段を降り、指定された休憩室へ向かう。扉を開けて中に入ると、ルシオラが椅子に腰掛け、両手で飲み物のカップを抱えていた。

 俺に気づくと中身を飲み終え、使い捨てのそれを、彼は屑籠へと放る。

「おかえり。何か言われた?」

 嘘をつこうにも、内容が思いつかない。目の前の男ほど、俺は口が回る質ではないようだった。

「さっさと引っ越して、ルシオラのことも、リーシアのことも忘れて生きていくことを勧められた」

「…………自分の妹ながら、しっかりしすぎていて涙が出そうだ」

 彼は俺の肩に手を置くと、目元を揉む。

 こうやって触れられることも、少しずつ慣れさせられて、丸め込まれていく。

「だな。引っ越し代、ってお金も渡されかけて……。あれ、お小遣いから貯めたものだろう?」

「病室で、作業の代わりに賃金が貰える事をしているみたいだよ。試験の採点だとか、紙で花を組み立てたりだとか」

「できた妹さんだな。年上なはずの俺の方が恐縮する」

「妹相手に恐縮するのは、私も同じだよ」

 妹への褒め言葉に対しては、嬉しそうに破顔する。

 十、ほどはないだろうが、少し年の差のある兄妹だ。甘くなってしまうのは想像できる気がした。

「それで、何と返したの?」

「考える時間が欲しい、と」

「そう。あっさり頷かれなくて安心したよ」

 彼の掌が、人であるはずの俺の背に回る。

 ひょろりとした俺に比べると、彼は幅もある。軽く抱き締められると、向こう側は半分覆われてしまった。

「家賃も生活費も掛からないしな」

 照れへの誤魔化しに放った言葉にも、ゆったりと微笑まれる始末だ。

「そうそう。今度の休みには、家で使う雑貨を買ってあげる。一緒に見に行こうね」

「……自分で買うから要らない」

 絡み付いた腕を払い、休憩所の扉から逃げ出す。

 後を追ってくる足音はなぜか軽快に、綺麗に掃かれた床を鳴らしていた。

 

 

▽5

 休日が終わると、嫌でも日常が始まってしまう。朝から目を覚ますと、見慣れない真新しい天井があった。

 身体を起こし、くあ、と欠伸をする。とっ、と寝台から下りると、人の形を取る。落ちていた服を拾い集め、身に纏った。

 扉を開け、廊下を歩く間、物音はしない。外の明るさを見るに、まだ早い時間だ。

 家主を起こさないよう気をつけて歩を進め、台所に入った。

「朝飯できてたら、驚くかな」

 休日は存分に寝かせてもらったが、仕事のある日は流石に決まった時間に起きる。

 燻製肉を刻み、根菜も刻み、鍋に入れて炒めた後に水を入れる。固形の複合調味料を放り込み、後は放っておく。

 続いて卵を割り、底の深い皿で泡立てる。

 刻んだ野菜を入れて更にかき混ぜると、温めた片手鍋に油を引き、流し入れる。じゅわ、と生地の端が泡立ち、ふつふつと半球ができては消えていく。

 片手間にパンを切り分け、焦げ目を付けるべく鉄板の上に載せた。

「起こすか」

 卵焼きが出来上がり、皿に盛った後、台所を離れる。

 廊下を早足で突っ切った。家主の部屋はまだ静かで、眠っているであろうことが分かる。

「ルシオラ。ルシオラ、朝飯! 温かいうちに食べるなら今!」

 扉を鳴らしつつ言うと、ごそごそと布が動く音がする。

 やがて足音が響き始め、扉が開いた。くしゃりと崩れた髪は、柔らかい髪質ゆえに酷い有様だった。

 爪先を伸ばし、跳ねている毛に手を伸ばす。軽く撫でても、また跳ね上がってしまった。

「ふわふわ卵にスープ、焼きたてパン。珈琲も用意するか?」

「…………ほしい」

 まだ頭が起きていないようで、俺が彼の背を押すと、のろのろと廊下を歩いていく。欠伸をする声が耳に届いた。

 席に座らせて手を拭いてやり、焼き上がったパンに珈琲を添えた。彼が手を伸ばして食べ始めたのを確認すると、卵焼きとスープも食卓に並べる。

 もぐもぐとやっていたルシオラだが、流石に咀嚼中に次第に覚醒していく。咀嚼の間隔が狭くなり、ぽつり、と声が漏れ聞こえた。

「美味しい……!」

「よかった。おはよう」

「おはよう。砂糖、近くにある?」

「ある。持って行くよ」

 砂糖の瓶を持って席に着くと、彼は礼を言い、砂糖を珈琲に溶かした。俺は温めた牛乳を入れた器を持ち上げる。

 口に含むと、ほんのりと甘い。

「セレ君、朝強いの?」

「寝るのが好きだから強くない。けど、仕事に遅刻するのは嫌だ」

「獣人由来の傾向より、個人の性格が勝つのか……。真面目だもんね」

「同じことはよく言われるが、自分ではそうは思わない」

「じゃあ、やっぱり真面目だよ」

 昨日のうちに、買ってきた果実を砂糖で煮て瓶詰めにしておいた。小瓶をルシオラの手元に差し出すと、うきうきとパンに塗り始める。

 目を覚ましてから食卓を見る瞳は、宝物でも見るようだ。

「セレ君。甘いものも手作りできるんだなぁ」

「田舎は、作らないと菓子屋なんてないんだ。だから、母が……」

 故人の話を出してしまったことに、はっと気づいて向かいの表情を窺う。彼は話を続けないのか、と尋ねるように、促すように首を傾げる。

 目の前にある口元は笑んでいて、まだ生きている母のことを聞く姿勢にすら思えた。

 食卓を囲む誰かの相槌が、ひどく懐かしい。

「よく台所に立っているのを後ろから追いかけては、作り方を教えてもらった」

「そっか。じゃあ、セレ君のお母さんの味だ。市場に売られているものより甘みが控えめで、食事の邪魔をしないね」

 やっぱり、誰かと囲む食卓が好きだ。

 朝の光が溢れるこの場所を失い難く感じてしまって、誤魔化すようにカップを口に運ぶ。

「セレ君、あんまり食が進んでない?」

「味見に少し摘まんでた。あんたの体格由来の食事量と比べるな」

「まだ卵焼きが残っているよ? 食べるよ?」

「はは。食べな」

 譲る、と表明すると、宣言された卵焼きは早々に完食された。

 残ったスープを木匙で掻き回し、掬った具材を口に運ぶ。

「あー、温かい朝ご飯。いいな……」

「嫌いなものはあったか?」

「なかったよ」

 何を食べさせても美味しいと言うこの男に、嫌いなものを尋ねるのが面倒になってくる。

 好きなもの、の傾向も、自然な味付けの、温かい料理を好むことが分かってきた。いくらか定番料理を回して、あとは表情を見ていけばいいだろう。

「お皿を洗ってくるよ」

 食べ終えた皿を持ち上げ、彼は台所へ向かった。俺も料理を食べ終えるとその後を追い、隣で洗い終えた皿を拭き上げる。

 二人で通勤着に着替えて居間に戻ると、まだ出勤までには時間が余った。ルシオラに尋ねると、彼もまだ余裕があるらしい。

 長椅子に腰掛けていると、隣にルシオラが座った。

「そうだ、セレ君。よければ、店主さんに書店の建て替え費用を聞いてきてくれないかな」

「え。書店は建て替えない、って言ってたけど……」

 聞いていなかったのだろうか、と思いそう言うと、彼は首を横に振った。

「そうじゃなくて、建て替えるか、廃業するか、って判断するとき、建て替えの費用がいくらか、って調べた筈だろう?」

「ああ、そういうことか。でも、何でそんな事を聞くんだ?」

「昔から通っていた書店だし、残せる余地はないかな、と思ったんだ。家族の伝手で工事費を安くできないかな、とか考えて」

「うぅん……。でも、店主さんも高齢で、体力的にもずっと続けるのは、という話だったし……」

「あぁ、そっちも理由なのか。まぁ、その問題は別に考えるから、いちおう費用の方は聞いておいてくれる?」

 彼の提案に頷き、話が終わると、手近にあった医学書を拾い上げる。

 ぱらぱらと捲ると、症例についての記載がある。よく開かれていた痕のある頁には、リーシアの隣に置かれていた装置の図もあった。

「医学書も読むの?」

「文字が並んでるなら」

 ルシオラは俺に寄り掛かり、一緒に医学書を眺める。分からない箇所を尋ねると、隣からぽそぽそと低い声で補足が加えられる。

 鼓動の速度、の項を見ながら胸に手のひらを当てると、いつもよりも速く鳴っているように思った。

 触れている自分ではない体温も、頬に触れる他人の髪も、何もかもが目新しい。

「────そろそろ行かないと」

 読書を切り上げようとすると、彼は机の端にあった栞を拾い上げ、開いていた頁に挟んだ。

 閉じた本の上から、にょきりと厚紙が生える。

「今日も、早く帰りたいなぁ」

 ぱたぱたと二人で移動した玄関で外靴に足を通しながら、彼は言う。

 先に扉を開けた俺は、閉じないように支えながら振り返った。

「待ってる」

 反応が怖くて視線を下げると、伸びてきた手が頭を撫でた。

 外に出て、鍵を掛ける。見慣れなかった扉にも、少しだけ慣れてきた。

 

 

 

 書店に出勤すると、棚から少しだけ本が減っていた。少しずつ、少しずつ、店主の知り合いの書店に在庫を引き取って貰っている。

 本が無くなった時が、この書店との別れの日だ。

 田舎から出てきて職と寝床に困っていた俺を、役所経由で引き取ってくれたのがこの店だ。ただ、寂しさだけがある。

「────そう、引っ越しも無事に終わって良かったわ」

「住んでいた部屋は空にして、いちおう掃除もしました。鍵、お返しします」

 ナデシコさんは鍵を受け取り、ゆっくりとした所作で懐に仕舞い込んだ。

 朝からの仕事の指示を受け、別れようとした時、ルシオラから頼まれていた事を思い出す。

「あの、ナデシコさん。お尋ねしたいことが」

「あら、何かしら」

「この書店を建て替えするか判断したとき、金額って調べましたか?」

「ええ。最終的に二つくらい、案を貰ったかしら」

「金額、とかって……教えてもらうことはできますか?」

 店主は不思議そうに俺を見る。

「構わないけれど、どうして?」

「ルシオラ、さんから、書店をどうにか存続できないかと、相談を受けまして」

「あら。…………そうねぇ。軽く話してはいたと思うけれど、建て替えの費用もそうだけれど、新しい店主も必要なの。人とお金を引っ張ってきてくれるのなら、閉店、じゃなく、開店、でも構わないわよ」

 店主は本気にしていない様子で、笑いながら近くの棚から書類を引っ張り出してくる。見せてもらった金額を手早く手帳に書き写し、ぱたんと閉じた。

 想像はしていたが、家を一軒建てる、どころではない費用が掛かる。

「周辺環境も悪くないし、正直、この金額の融資を受ける上で問題なのが、店主の年齢だったのよねえ。もしルシオラさんが銀行から融資を受けるのなら、銀行は大喜びだろうけれど」

「ああ、たくさん稼ぐお医者さんですもんね」

「そうそう。けれど、お医者さんじゃ、とても店主業は無理でしょうし」

 有り難い提案なんだけれど、と、ナデシコさんは頬に手を当てて頭を傾けた。

 複雑そうな表情からも、なんとか店を存続させられたら、という意思を感じ取る。

「まあ。どちらにしろ一旦店は壊さなければならないし。在庫だって運んだ先に頼めば、建て替え後に元に戻すこともできるでしょうから。ルシオラさんに、いい人がいたら教えてちょうだい、って伝えてくださいな」

「はい。話をしてみます」

 預かった書類を返すと、彼女はそれを棚に仕舞い込んだ。

 一旦別れ、それぞれの仕事に取り掛かる。棚にはたき掛けをしながら、店主の言葉を思い起こす。

 もし、ルシオラがお金を調達してくれて、俺が実務を担う、と役割を分担できたら、書店の存続は叶うだろうか。

 けれど、そうしたら彼と離れる未来は更に描けなくなる。

「リーシアさんの言うとおりになっているな……」

 とんでもない男に、首根っこを引っ掴まれてしまったのかもしれない。

 その日は冊数は減っていたものの客の数は変わらず、まだ店主も、常連から少しずつ廃業の話を広めている所のようだった。

 常連からは惜しむような声が上がり、近くに他の書店がないことも話される。

 この建物も小さくはあるが、棚が高く、一覧を提示しての取り寄せも細かく対応していた。もし、建て替えともなれば、上階も含めて改装して、売り場も広げることができるだろう。

 終日、書店を残すなら、という提案が思考を埋めてしまい、新刊の情報収集もろくに終わらなかった。

「ナデシコさん、お疲れ様でした」

「お疲れ様。また明日ね」

 俺は夕方の早い時間に上がらせて貰うことが多く、それからナデシコさんが少しだけ店を開け、閉店作業をするのだ。

 書店を出て、日が陰る街並みを歩く。

 あんなにも明るかった陽はあっさりと沈み、黒猫が紛れやすい色に満たされる。

 猫の姿へ手招きするような力が渦巻き、振り払うように足を動かす。新月から暫くはこうだ。

 逃げるように明るい店へ飛び込み、夕食の買い出しを済ませた。今日は鶏肉が安売りされており、少しだけ多めに購入する。

 野菜と追加で香辛料も買い、ルシオラから渡されている財布で支払った。同居してから先、自分の金を使う余地がない。

「頑張って稼いで払うから、書店を残したい、って。……有りか? 無しか」

 ちいさく息を吐き、買い物袋を持ち上げる。

 店を出て、のんびりと帰宅の途についた。ルシオラの家は元々住んでいた家よりも住宅街寄りの位置にある。

 階段を上がれば自宅だった頃と比べれば勤務先からは遠くなったが、静かで読書環境が良くなったのが嬉しかった。

 帰宅した家は暗く、照明を点すと見慣れはじめた家が出迎える。

「なに作るかなぁ……」

 鶏肉は野菜と共に煮込みにして、手早く作れる副菜を二品用意した。

 パンを切り分けて焼き、一人分を取り分けて食卓へと向かう。家主が早く帰ってくれば一緒に食べられるだろうが、今日は流石に難しいだろう。

 椅子に座り、まだ温かい料理に口を付けた。

「早く帰ってくる宣言されたら、その日は絶対に揚げ物にしよう」

 仕事帰りの空腹の勢いで直ぐに食べ終え、食器を片付ける。

 先に風呂に入り、寝間着に着替えた上で居間に戻った。長椅子に座り、相手の本棚から抜き取った本を読む。

 真ん中まで読み終えたくらいで、玄関から音がする。本を机の上に置いて、出迎えるべく廊下を歩いた。

「ただいま……」

「ぐったりだな。お疲れ様」

 彼にとっては平均的な帰宅時間なのだろうが、俺からしてみれば長時間労働だ。

 金に困ってはいなさそうだが、余暇時間にも妹の病のことを気にかけているのだろうし、使う余裕がないのも考えものだった。

「何か預かるか?」

「自分でやるから平気だよ。ありがとう」

「今日は鶏肉と野菜の煮込み」

「ほんの少しだけど、匂いがする……」

 彼はぱたぱたと廊下を早足で駆けていくと、上着を脱ぎ、荷物を置いて戻ってきた。

 台所で手を洗いつつ、料理を温めている俺の手元を覗き込む。皿に盛った料理を持たせてやると、大事そうに食卓へと運んでいった。

 俺は作り置きしておいた果実の砂糖煮をグラスに沈め、上から炭酸水を注いで後を追った。

 向かい合って食卓を囲み、俺を待っていたらしいルシオラにさっさと食べるよう促す。

「美味しい……」

 最初に鶏肉を口に運んだようで、好ましい反応が返ってきた。

 甘酸っぱく味付けた副菜も好みだったようで、俺が同伴用に取り分けた皿からも分け与える。

「────それでさ、ナデシコさんに建て替えの費用の件、聞いてきた。金額は後で見せるけど、本人も引退するから、新しい店長はやっぱり必要だ、って」

「まあ、そうだろうなぁ。私がお金を引っ張ってくるから、セレ君が店長やらない?」

 あはは、と笑っている様子は冗談半分のようだが、考えていた事ずばりを伝えられて目を瞠る。

「そんなことしても、『星への願い』を譲ると確約はできないぞ」

「あぁ。そっちを譲ってくれたら、もう店ごとあげちゃうかもしれないな」

「えぇ…………」

「店も、お金も。これからの人生も全部あげる」

 笑い混じりの言葉だったが、何故か、その言葉に苛立つ。

 彼の人生は、誰かの為だけに生きるものではないはずだ。リーシアが俺に願いを使わないことを望んだように、俺は、彼が自分の為に生きてくれることを望んでいる。

 利他が過ぎる。その心を芯として俺を愛されても、それは一生を通して続きようがないのに。

「妹を大切にしたい気持ちは分かるが、その感情を基に俺を大事にされても、困るだけだ」

 相手の言葉は止み、手元から食器が放れた。

 突き放すような言葉を発したことを後悔しつつ、飲み物を口元に運ぶ。美味しくできたはずの甘さが、一瞬で味を失った。

「…………不思議だなぁ。いつもはそういう言葉、別れ際に言われるのに」

「はぁ?」

「セレ君は、別に出て行くつもりは無いんだよね?」

「まだ、……無いけど」

「そっか、誤解させていたらごめん。私は君が想像するよりずっと、セレ君のことを気に入っていると思うよ」

 食事を再開する姿を、ぽかんと見返す。

 両手で握り込んでいたグラスは汗をかき、手のひらに滴を滴らせる。空気に触れた部分から、すう、と熱を取り去っていった。

「飯が美味いから?」

「……はは、それはね。客観的に見てとても素晴らしい点だと思うけれど、私が気に入っているのはこうやって、見捨てずに近くに寄り添ってくれる所のほうかな」

「はぁ……。……俺も、ルシオラが努力家なところとか、行動力があるところは羨ましく思う。自分では、出来ないことだから」

「ありがとう。ただ周囲にはよく、止まれ、って襟首を掴まれているよ」

 言葉は比喩なのだろうが、確かにリーシアも同じようなことを言っていた。俺が言葉に困って眉を寄せる姿を見ると、彼は笑いながら水の入ったグラスを手に取る。

「あ。セレ君だけ美味しそうな物を飲んでいるね」

「食べ終わったら作ってやるよ」

 そう言うと、彼は真面目に食事を始めた。

 食卓はさほど間を置かずに空になり、俺は皿を下げるついでにルシオラの要望した飲み物を作る。

 差し出すと、ぱあっと表情が明るくなった。大型犬に肉でも差し出した時みたいだ。

「癒やされるなぁ……」

 彼はしゅわしゅわとした感覚ごと、勢いよく喉へ流し込んでいる。

 ちまちま飲んでいた俺より先に飲み干してしまいそうだ。

「そういえば、セレ君は猫の姿で使う、愛用のブラシはある?」

「いや、自分の舌でやるから」

 べっと舌を出してみせるが、今はざらざらした所のない人間の舌だ。

「良かった。帰り道に買ってきたんだよ。後で手入れしてもいいかな?」

「また乳首を触ったら家出する」

「人聞きが悪いよ。あれはちょっと指が掠めただけっていうか……」

 毛の手入れ自体は了承する。確かに、二人暮らしなら手入れしてくれる人がいるのだ。

 綺麗に整えているつもりではあるが、舌で届かない場所もある。

「俺は風呂に入ったから、ルシオラの風呂上がりにやるか」

「いいよ。じゃあ、居間で待っていてね」

 二人で飲み物を干し、食器を洗った。今日も隣で皿を拭いていると、ぜんぶ任せてくれてもいいのに、と笑われる。

 食器が片付くと、彼は風呂に向かった。

「今のうち、猫の姿になっておこう」

 自室に戻り、服を脱いで畳む。輪郭を綻ばせて猫へ転じると、扉の取っ手に飛び付いて開け、居間へ戻った。

 長椅子のうち敷布が置かれたお昼寝場所へ腰掛け、ころり、と横になる。腹も満たされ、美味しい物も飲んで、あとは寝るだけの、なんと心地いいことか。

 楽しくなり、ころんころんとやっていると、やがて髪の湿ったルシオラが戻ってくる。

 髪は水分で肌に貼り付き、寝間着姿も相まって色っぽい。

「あ。もう猫だ」

『そう、猫だ』

 彼は俺に近づき、隣に腰掛けた。

 机の上に置いてあったブラシを引き寄せると、そっと俺と敷布の間に掌を差し込む。持ち上げられ、太股の上に乗せられた。

「じゃあ、ブラシ掛けていくよ」

『たのむ』

 ぺしゃり、と身体を伸ばし、面積を広げる。そろり、とブラシの毛が背を撫でていった。

 手つきは悪くない。ふわり、と毛が舞うと、器用な指がそれを集めて纏める。

「セレ君、猫の時は気を抜いてくれてるよね」

『人の時は抜けてないか?』

「抜けてないよ」

 毛を梳かれるたび、前脚がくたりと落ちる。戯れのように喉を撫でられると、ごろごろと音で返した。

 向けられたブラシをぱしぱしと叩いていると、遊びにも付き合ってくれる。

「私、猫好きになっちゃいそうだなぁ」

『そうか。……肉球触っていいぞ』

「ふふ。有難き幸せ」

 相手の指と押し合いをすると、小動物には流石に負けてくれる。

 両手でわしゃわしゃ撫でてくる掌と闘っていると、夜は次第に深くなっていった。

「────セレ君。ずいぶん毛並みも綺麗になったし、そろそろ人に戻る?」

 戻った方がいいのか、そう問い返そうと思ったが、瞳にそれを望まれているような気がして、大人しく自室に向かう。

 寝間着を身に纏い、不思議に思いつつ人の姿で居間へ戻った。

「おかえり」

 彼の座っている隣の座面を叩かれ、やっぱり疑問に思いながら腰を下ろした。

 隣から頭を撫でられるのだが、ルシオラは何かが違う、とでも言うように首を傾げる。

 何事か思いついたかのように自分の太股を開くと、ぽんぽんとその間を叩いた。

「今は猫じゃないんだぞ」

「まあまあ。仲良くしようよ」

 仲良くしたいだけ、と押し切られ、しぶしぶ指示された場所へ座り直す。

 腹の前に腕が回った。ぎゅむ、と抱き付かれ、騙されたことに気づく。

「仲良くしたいだけ、って言っただろ!」

「仲良くしているよ」

 これでは、猫の姿を取っていた時と同じだ。腕の中で藻掻いても、器用な腕を引き剥がすことは容易ではなかった。

 振り返ると、にこにこと笑うルシオラがいる。

「猫じゃない君に、こんなに触れるのは初めてだなぁ」

 近すぎて、鼻先に匂いが届いてしまう。身体を洗い終え、余計な臭いは落としきった彼そのものの匂いだ。

 それでいて払い除けられないことに、傍に置くことを許してしまっていることに困惑した。

 掌が、毛皮越しでなく腕に触れる。

「手」

「手?」

 広げた手を持ち上げると、彼の指に捕まった。

 指と指の間を埋めるように絡み、きゅ、と握り込まれる。

「猫の時はあんまり緊張してないように見えたけど、今は違うね。緊張してる?」

「……そういう所に職業技能を使わないでくれるか」

「でも、セレ君の顔色が悪いときは、一番に教えてあげられるよ」

 にぎにぎとやられる、重なった掌を見つめる。

 長い指先と、きっちりと切り揃えられた丸い爪。開いたら一回り大きいであろう掌の感触は、皮膚一枚を隔てるのみだ。

「一緒に暮らし始めて、どう? 私のこと、好きになりそう?」

「嫌いでは……ないけど」

「嬉しいな」

 好きでもない、という言葉を飲み込んだのは、悟られてしまっただろうか。ぐるぐると言葉を付け足すか悩んでいる間も、俺の手は別の手によって辿られる。

「爪、手入れしてあげようか」

「俺、いま人だぞ?」

「ちょっと待ってて」

 彼は器用に長椅子から立ち上がると、近くの棚から小さな箱を持ってくる。

 蓋を開けると、爪の手入れに必要な器具が一式、入っていた。

「少し切って、まあるくしよう」

 上機嫌のルシオラは、再度、俺を背後から抱き直す。手のひらを持ち上げ、丁寧に伸びた部分を切っていった。

 そして、やすりで表面が整えられていく。最後に表面に刷毛を使って、栄養剤、と呼ばれている液体を塗られる。

 歪に尖ったところがあった爪は、草食動物のように丸みを帯びた。

「できた」

 彼は器具を置くと、俺の手を持ち上げた。

 背後に引き寄せられた手の甲に、柔らかいものが触れる。反射的に手のひらを引き寄せ、背後に向かって睨め付ける。

 かっと頬に血が上った。

「な、なに……!?」

「かーわい。私の子猫ちゃん」

「俺は、ルシオラの飼い猫じゃない……!」

 俺の言葉に彼は愉快そうに笑うと、また手入れしようね、と、盛大に頭を撫でられた。

 

 

 

▽6

 同居生活は、嘘のように順調に過ぎていく。

 ルシオラが家にいない時間も多いのだが、俺はその時間を睡眠に充てていた。代わりに、彼が家にいる間は一緒に過ごしている事が多い。

 リーシアの病室にも、定期的に通っては本を貸している。著者の好みも、好きな傾向も分かってからは、何冊か買って贈ったりもした。

 最初はお客様対応だったのだが、最近では兄への対応に近づいている。

「休みの日までお見舞い?」

 その日も、差し入れの本を渡すなりそう言われた。近くの椅子を引き寄せ、腰掛ける。

「いや。昼からルシオラと出掛ける予定なんだ、病院集合ついでに本を貸そうと思って」

「そうなんだ。お兄ちゃん、忙しいよね。休みの日もずっと医学書ばっかり読んでて」

「そうなのか……?」

 あれ、と彼女の言葉に違和感を覚える。

 確かに平日は空き時間に情報収集に励んでいるようだが、休日は俺に構っては、生涯の飼い猫になれ、と勧誘してくる。

「今は違うの?」

「俺が不健康に見えるのか、髪とか肌の手入れしてくれたり、あと凝ってるとこ揉んでくれる」

「ふぅん……。もう手を出された?」

「は!? 出されても出してもない!」

 妹は兄に似た顔でにまにまと笑い、何事かを思い出したかのように一転して眉を寄せた。

「二人が仲良くなってくれるのは嬉しいんだけど、それが『星への願い』を譲る譲らない問題に影響するのが複雑だなぁ……」

 彼女は自身の髪を摘まみ上げると、空中に放る。

 窓辺から漏れる光が反射し、星が線を引いて落ちていくように散った。

「それなんだけど、俺……。ルシオラどうこう関係なく、願い、譲ってもいいかと思い始めてる」

「はぁ!? 自分の為に使って、ってあれだけ言ったのに!」

 興奮しないでくれ、と両手を開いてみせ、彼女と近くにある魔術装置を交互に見る。

 装置の表面に表示されている数値は、正常、を示していた。

「俺、『星への願い』に使うことは決めてたけど、それって、使おう、って衝動がない上での、言うなれば空想上の願い、だったんだ。だけど、こうやってリーシアと話して、関わっていると、やっぱり治ってほしいと思う」

「…………私が、セレさんの優しさに甘えたから」

「違う。リーシアが、自分の希望よりも、他人の人生を尊重したいと思う人間だからだ。そうじゃなきゃ、関わりを持とうとは思わなかった」

 シーツを握りしめる、彼女の指先は震えている。

 立ち上がって、その肩に手のひらを置く。兄も、妹も、自分じゃなく他人のことばかりだ。

 だから、人生の中で一度くらい、誰かが彼らの為に動く事があってもいい、と思ってしまう。

「────願うとしたら、神殿で日程を押さえないとな。単純な願いじゃないから、神様と調整できるほうがいいだろうし」

「神様と、調整?」

「神殿に頼むと、祭壇のある部屋へ通してくれる。その祭壇で『星への願い』を行使すると、曖昧な願いの時に、たまに神様が問い返すんだと。希望を正しく伝えられるか不安な時には、そうする方がいいって言われてる」

「ニュクス神は神官を経由せず民と話をする。って、稀な御方だと知ってはいたけれど。そういう話を聞くと尚のこと不思議だよねぇ……」

 リーシアは顎に手を当て、窓辺に視線を向けた。

 今はまだ昼、神の本領である夜からは遠い。だが、いちど夜になってしまえば、神の力は星の光と共に届く。

 特に新月の晩は、月が消え、星が夜空を支配する。星夜はニュクス神そのものとされている。

 だから獣人は、新月に近いほど、彼の神が好んで取る獣の姿へ引き寄せられるのだ。

 第二建国の祖を助け、守護神としてケルテ国を見守り続ける神。獣人に、願いの権利を与えてくれる御方。

 遠い筈の存在に思考を向けると、夜のように穏やかな気分になる。

「象徴するのが夜だけあって、優しそうな声らしい。聞ける人は、限られているらしいがな」

「いいなー。私も人間だけれど、こうやって安穏としていられるのは守護神様がいてくれるおかげだし。お声、聞いてみたい」

「っても、獣人にすら話し掛けてくれる事は稀だって話だぞ」

「そーれーでーも!」

 二人でわいわいやっていると、病室の外から聞き慣れた足音が響いた。

 俺が振り返ると、すぐに扉を叩く音がする。リーシアが返事をすると、彼女の兄が扉を開けて入ってきた。

「セレ君を迎えに来ましたー」

 妹はさっと俺の腕を両手で掴む。

「えー。もうちょっとお話したーい」

「今からセレ君が家で使う物を買いに行くんだよ。ほんと慎ましやかが過ぎて物がないんだから。流石に揃えさせて」

 その言葉にリーシアは息を吐くと、俺の手をぽんと叩いた。

 視線を向けると、寂しさを上手く塗り潰して綺麗に微笑む。

「いってらっしゃい。お土産待ってるね」

「分かったよ。じゃあセレ君、行こうか」

 促されるままに立ち上がり、鞄を持ち上げた。

 開いた病室の扉から、二人して出る。俺たちが出て行く間、彼女は手を振り続けていた。

 こうやって帰る度に、次がないかもしれない、という事を考えずにはいられない。

「仕事はもういいのか?」

 彼は既に白衣は着ておらず、直ぐにでも街に繰り出せる服装をしている。

 今日は前髪も左右に分かれており、端整な顔立ちが嫌でも目に入った。

「うん。切ったり縫ったりしてきたよ」

「そりゃ、疲れてないか」

 先を歩く身体がこちらを振り返る。

 掌が伸びると、俺の手を取った。

「セレ君に触れていると、元気が出るよ」

「……その根拠は?」

「好意を持つ人と触れ合うと、特定の活性物質が分泌されてね────」

 知らない事をつらつらと語られる中で、掌は放れない。結局、逃れる機会を失い、手を繋がれたままになってしまった。

 病院の敷地を出て、店の並ぶ大通りへと向かう。

「まずは軽いものから」

 連れて行かれたのは、通りから細い路地に入った先にある服屋だった。年季の入った店に入ると、壮年の店主が出迎える。

 ルシオラは俺の服が欲しい、と店主に伝える。常々服が少ないことを指摘されていたが、服まで揃えられるとは思わなかった。

 二人の間で交わされる言葉を、何も分からないまま聞き流す。

「では、採寸を行いますので。こちらへ」

「は、はい。お世話になります」

 ルシオラは手を振って、俺たちを見送った。

 この店は注文後に製作する類の店なようで、区切られた個室で服の作成に使うであろう身体の大きさを測り、店に戻される。

 続いて店主とルシオラの間で話が進み、その間、俺は近くの椅子に腰掛けて待った。

「お待たせ。出来たら取りに来よう」

「分かった」

 店主に見送られながら、大通りへと戻る。

 店が見えなくなると、俺はルシオラに近付いた。

「なぁ。俺、店で服を作ってもらったこと無いんだけど。ああいうのが普通、なのか?」

「出来合いのものを買うこともあるよ。けど、私の家は商家だから、質の悪いものを持つ事は喜ばしくない、みたいな価値観が染み付いてて……」

「え。ルシオラの家って、医師の家系じゃないのか?」

「医者なのは私だけだよ。兄は商いの方を担ってくれていて、好き勝手させて貰ってる分、妹のことは私が良くみているような形かな」

 話しぶりからするに、商い、というのも小さくはないのだろう。その話を聞いてようやく、書店を建て替えできないか、と彼が言い出した理由が分かった。

 実家の支援を受ければ、金銭的な事、横の繋がりに関する事を解決する余地があるからだ。

「そうだ。書店の建て替えの件、お金を引っ張れそうだよ」

「え?」

「兄から、書店の所有者になってもいい、と返事があったんだ。兄なりに周辺環境なんかを調べて、現店主とも話をしたらしい」

「店主は……ナデシコさんは、それでいいって?」

「喜ばれていたそうだよ。あとは、新しい店主が見つかるか次第だけれどね」

 新しい店主が見つかれば、俺は今まで通り、お気に入りの書店で働き続けることができる。

 ただ所有者が彼の兄、になったことは少し残念に思ってしまった。俺が願いを叶えた後、彼と繋ぐ線が一本、失われてしまった。

 願いを叶えたとして、それは俺の自己満足でしかない。彼に、生涯の伴侶、という役目を背負わせるつもりにはなれなかった。

 むしろ、ルシオラが約束を果たし続けようとする事こそが怖い。彼の笑顔の奥に、偽りを探しながら生涯を過ごしてしまう気がした。

「兄が、セレ君が店長をやるつもりがあるなら連絡が欲しい、って。商いの事は経験者でもある兄が頼りになるだろうし。何かあれば、私も力になる。少し、考えてみてくれないかな?」

「…………分かった」

 離れてしまった手を、俺から繋ぎ直すことができない。店主を引き受けることだって、脚を踏み出す勇気がない。

 昼過ぎの日差しは黒猫には酷で、ぎらぎらと皮膚を灼いていた。

「次は、猫姿の時に使ってる毛布の買い換えかなぁ」

「食器は?」

「重いから最後だよ」

 俺が持ち込んだ毛布は、彼にとってはぼろぼろもいいところらしい。運ぶ際に口で咥えてしまうためか、牙によって穴があちこちに空いてしまっている。

 時おり、爪が痒くてばりばりとやってしまうから、ところどころ糸も解れていた。

 二人して雑貨店へ向かい、店内に入る。

 木目を生かした建築に、店内は雑貨が品良く配置されている。店を歩き回り、小ぶりな毛布のある一角に辿り着いた。

「今からの季節だと、この素材が涼しげでいいんじゃないかな?」

「うん。気持ちいい」

 ルシオラが手に取った毛布は色の取り扱いが豊富で、どの色を買おうか目移りした。

「黄色とかは? セレ君の瞳の色だよね」

 そう提案する、彼の髪がさらりと動いた。

 俺の瞳の色でもあるが、ルシオラの髪色でもある色だ。つい手が伸び、薦められた色を持ち上げてしまった。

「これにする」

 そう言うと、向かいにあった掌が毛布を取り上げてしまう。

 俺が不思議そうに彼を見返しても、相手は笑うばかりだ。

「ここ、猫用の布玩具も置いてるんだよ」

 連れて行かれた先には、手作りらしい猫用の玩具が並んでいた。

 どれも色鮮やかで、床の上を転がって遊び回りたいものばかりだ。目を見開き、あれこれと手に取る。

 最終的に、魚の形の音が出る玩具を手元に残した。

「これ?」

「うん。決めた」

 返事をするなり、また彼の掌に持ち去られてしまう。

 それからあちこち店内を見て回り、リーシアへの土産と、部屋に置くための品をいくつか二人で選んだ。

 ルシオラの腕は品物でいっぱいになり、途中で買い物籠に頼ることになる。

「────こんなものかな。じゃあ、買ってくるね」

 財布を取り出す暇も与えず、彼は会計に向かってしまった。

 二人暮らしを始めてから、自分の金を使う余地がない。住処を与えられ、食事を買ってもらい、身の回りの品を用意される。

 本当に、彼の飼い猫になってしまったみたいだ。

「……それを、嫌だと思わないのが大問題なんだよな」

 手入れを受ける髪も、肌も、爪も、以前と比べてずいぶん小綺麗になった。

 野良から、家を得た後の猫の姿だ。だが、外の世界を、彼の手から放れた先を考えずにはいられない。

 商品を詰めた袋を抱え、ルシオラが帰ってくる。

「荷物、持とうか?」

「軽いから持っておくよ」

 足並みを揃えて店を出ると、彼は周囲を見渡す。

「焼き菓子が美味しい喫茶店が近いんだ。行く?」

 採寸の時も立ちっぱなし、雑貨店でも長いこと歩いていた脚は休みを欲しがっていた。

「行く」

 休憩に同意をして、ルシオラの先導に続いた。案内されたのは小さな喫茶店で、絵本の中から抜け出たような煉瓦作りの外装をしていた。

 入り口近くにはちんまりと鉢植えの植物が並べられ、興味深く眺めながら敷石の上を歩く。

 外から見る店内は、満席だ。少し待つだろうか、と思いつつ入り口の扉を通り抜けた。

「いらっしゃいませ。……ルシオラさん、珍しいですね。お二人ですか?」

「ああ。けれど、表は満席みたいだね」

「ええ、有り難いことです。今日は奥の席が空いておりますので、そちらで宜しいですか?」

「構わないよ。ありがとう」

 他の店員とは服装が違うその人は、店内の中でも一つ扉を越した先、奥の席へと俺たちを案内した。座席は広く、窓辺からは緑豊かな中庭が見える。

 席に腰掛けると、ルシオラがお品書きを広げてくれる。

「悩むな。すっきりした冷たい飲み物はあるか?」

「ああ。じゃあこれと……、お菓子は?」

「それも悩む。この店では何が美味いんだろう」

「じゃあ、店のおすすめを幾つか持ってきてもらおうか」

 ルシオラは店員に合図をすると、決めた飲み物と、会話の中で薦められた菓子を注文した。

 ふう、と息を吐き、窓辺を眺める。

「この席、って普段は開けてないんだろ? いいのか?」

「ああ。この店は兄の持ち物なんだけど、この席は身内の商談用とか、知り合いが来たときに貸しているみたいだよ」

「へえ。客を入れたら売り上げが増えそうなもんだけど」

「いや……。それが兄の趣味で、椅子とか机とか、近くに置いている置物や雑貨がとんでもなく値が張るものなんだよね。だから、壊されても諦めが付く人しか席を使わせない、って徹底しているみたい」

 言われてみれば、革張りのやけに座り心地のいい椅子だった。

 近くの置物は猫を模しているのであろうが、あまり見ない耳が誇張された形状をしており、高いものだと言われれば頷ける。

「俺が壊したらどうする」

「私が謝って弁償するよ。兄は受け取らないだろうけどね」

 店について話を聞いていると、早々に飲み物が運ばれてきた。

 輪切りにした果実が浮いたグラスには氷がたっぷりと入れられており、運ぶ最中に既に汗をかいている。

 ルシオラは紅茶を頼んだようだ。二人とも喉が渇いており、口をつけている間は無言になった。

 続いて、菓子が運ばれてくる。一つの大きな皿に、いくつもの菓子が小さく、少しずつ載っていた。ソースで彩られた画布を見ているようだ。

「美味そう……」

「頂こうか」

 菓子を食べている間も、言葉少なになった。二人して感想を言い合い、次へ次へと口に放り込む。

 ある程度、腹が膨れて顔を上げると、俺を眺めていたらしい視線とかち合う。

「何だよ」

「幸せそうに食べるなって」

「……田舎にはこういう店、なかったからな。街に出てからはこういった娯楽にお金を使う余裕もなかったし」

 気恥ずかしく、視線は机の上を這った。

「また来ようね」

 俺を見つめる彼の目尻は下がっていて、なにか、可愛らしいものでも眺めているかのようだ。

 夜の闇に紛れるような、黒猫には相応しくない眼差しだった。

 

 

 

 風呂上がりに猫の姿で寛いでいると、何かを企んでいるような顔のルシオラが近づいてきた。

 背後に何か隠しており、俺が視線を向けると微笑みを浮かべる。

『笑みが怖い』

「怖いものじゃないよ」

 彼は、背後から銀色の小さくて細い鎖を取り出す。

 細い鎖の中央には、乳白色の小さな石が据えられていた。大きさからすると、人の手首か、少し大きいくらいの輪になるだろうか。

 彼はその銀色の煌めきを、俺の首に巻いた。留め具で固定すると、しっかりと首に留まる。

「これ、雑貨店に売っていたんだ。高いものじゃないから」

『……けど、綺麗な石だ』

「月長石、って言うんだって。鎖の部分をもう少し締めたら、人の姿の時に腕にも付けられるよ」

 首輪にしては繊細で頼りなく、それでいて美しい細工の品は、首に掛かっても重くない。

 立ち上がって鏡の前に歩くと、光を受けてきらきらと光っていた。

『綺麗だな』

「ね。本当の猫には危なくて着けられないけれど、黒には銀が似合う」

 頭が傾ぎ、俺の額に柔らかいものが触れる。

 呆然としていると抱き上げられ、ちゅ、ちゅ、と顔周りを吸われる。流石に我に返って暴れた。

 俺は彼の肩に乗り上がると、かぷり、と耳を甘噛みする。

『許すまじ!』

「ごめんごめん。喜んでくれてるみたいだったから、嬉しくてつい」

 肩から胸に抱かれ、そのまま長椅子まで運ばれた。

 ご機嫌取りのブラシ掛けに眠たくなってしまい、怒りの勢いが削がれてしまった事に気づいたのは翌日だった。

 

 

▽7

 それから俺は、リーシアに願いを託そうとしている事を、いつ伝えるか迷っていた。

 神殿へ連絡を取ったのだが、俺と同じように祭壇を使いたい、と希望する獣人は多いようで、かなり先の期日を指定されてしまった。

 いっそ、神殿など放っておいて願いを使うべきか。相談をしなければと思っているのだが、最近、急にルシオラの帰りが遅くなってしまったのだ。

 理由は、リーシアの見舞いに行ったときに知った。

 流行病の集団感染が一部病棟で起きたらしく、面会はすべてお断りしている、と事務員に告げられた。彼が忙しくしている理由を知ったのも、その時である。

 ルシオラは俺が寝ている間に帰ってきて、起きる前に家を出ているようだった。食事だけは作り置きをして、短い文を書き置きしてのやりとりはあったが、料理の感想や、日々の生活の諸連絡で埋まってしまう。

 機会を失った俺は、店主になるかどうか、という返事すらできてはいなかった。

「…………一日くらい、徹夜するか」

 思い立ったのは、そんな生活が一週間ほど続いたある日だった。

 夜遅いとはいえ、帰ってこない訳ではない。幸運にも明日は休日だ、俺が寝ずに待てば、話はできるはずだった。

 疲れて帰ってきた人に重たい話を持ちかけるのは気が引けたが、リーシアの事だって急ぐ必要があるかもしれない。

「集団感染……。リーシアは関係ない、よな……?」

 書き置きで、量が食べられない、とルシオラから食事量を減らすよう頼まれていたのが気に掛かっていた。

 忙しい事を理由に、食べなくなるような人ではなかったからだ。

 俺は夕食を食べ、彼の分の夕食を皿に移し替える。美味しくできたと思うのだが、いつもより量は控えめだ。

 以前のように、美味しい、と言いながら食べ過ぎてくれる姿が見たかった。

「────もし、願いを自分のために使えたら」

 ルシオラが俺を好きになるよう、頼んだだろうか。願いが叶って、彼が自分を好きになったら、俺は幸せになれただろうか。

 まだ穏やかに過ごしていた頃、毛並みを整えてもらった時間を思い出す。

「使わなかった、だろうな……。相手に、悪いって」

 汚れた皿を流しに運び、水で洗い落とす。

 水は次第に、指先の体温を奪っていった。

 願いを人に託して、俺自身の願いを叶えることもできず。けれど、それは間違いようもなく、自分の気質から導かれた結果だった。

 真っ白くなった皿を、布で拭う。きゅ、と小気味のよい音がして皿は元通りの位置に戻った。

 風呂に入り、寝間着に着替えて、俺は彼の本棚から適当に本を引き抜く。こうやると大体が医学書なのだが、今日はそれでもいい気がした。

 

 

 

 読み続けて、どれくらい経っただろうか。夜も深くなってきた頃、玄関から人が動く音がする。

 鍵が開き、聞き慣れた足音が玄関を踏みしめた。

「おかえり」

 起きていた俺に驚くように、彼は目を見開く。

「…………ただいま」

 声には疲れが滲んでいた。

 いつもなら自分で運ぶと言う鞄と上着も、両手を差し出すと預けてくる始末だ。俺は双方を彼の部屋に運び、台所へと戻った。

 彼が脱衣所に入ると、長い時間、洗面台で水を流す音が聞こえた。すべての服を着替え、食事室へ入ってくる。

 俺が食事の準備をしていると、彼が手招きをする。導かれるままに近づくと、その腕に閉じ込められた。

「疲れてるのか?」

「少し。……セレ君は、なんでこんな時間まで起きてたの?」

「相談したいことがあって待ってた。でも、まず飯を食おう」

 柔らかいパンと、野菜が蕩けるまで煮込んだスープ。そして、あまり重くない白身魚と鮮やかな野菜を蒸し、薄く味付けをした品だ。

 いつもならもっと形のある肉を多めに用意するが、ここ最近の書き置きを見る限り、彼の身体が受け付けないような気がした。

「美味しそうだ。私があんまり食欲がないの、気づかれてた?」

「食事を減らしてくれ、って言われたらな」

「そりゃそうか。少し、気疲れすることが多くて」

 彼は席に座ると、食事に手をつけ始めた。

 以前ほど多くの量は食べられないようだったが、全く食べられない訳でもないようで安心する。

 少なめに盛った皿は、綺麗に無くなった。

「美味しかった。いつも助かっているよ。セレ君がいなかったら、体調がもっと酷いことになってた」

 俺は彼に、牛乳を温めたものをカップに入れて差し出す。

 そろそろと伸びた手が、カップの側面に両手で触れた。

「リーシア、あんまり良くないのか?」

 明らかな鎌掛けだったが、彼の両手からカップが落ち、底がごとりと机上を叩く。

 跳ねた牛乳が指先を濡らし、俺は慌てて布を当てる。濡れてはいたが、赤くはなっていなかった。

「セレ君、知ってたの?」

「見舞いに行ったら、集団感染の対応中で面会は出来ないと言われた。それと、普通に忙しいだけなら、あんたはもっと食べる」

「…………そう、かぁ」

 彼は湯気が出るカップに口を付けない。

 俺は立ち尽くしたまま、言葉に迷う様子を見守った。

「一人の患者さんが、一時帰宅をした後に感染症を発症した。対応しているうちに、一人、二人と同じ症状の患者さんが増えていって。その中にリーシアもいたんだ。妹は、そもそも外出が難しくて、身体も弱ってる。だから、症状にどこまで耐えきれるか、という容量が、とてつもなく少ない」

「なんで、言ってくれなかったんだ?」

「リーシアに言われた。『自分は今日明日死ぬような体調じゃないはずだ。だけど、体調が悪いとセレ君が聞けば、星への願いを使おうとしてしまうから』って」

 はあ、と息を吐いた。彼の妹の強情さは、俺の想像以上だった。

 だが、兄がその意向に従ったのは意外だった。

「ルシオラ。なんであんたは言わなかったんだ。俺が願えば、妹は助かるぞ?」

 彼は、唇を引き結んだ。

 込み上げる何かを押し留めるように、両手を組む。何かに祈りを捧げているかのようだった。

 悲鳴のような声が、その喉から迸る。

「選べなかった……。妹の命だけが、大事なものだったのに。将来、セレ君が病を患ったとして、それが私が救えない病だったとしたら。もう、使ってしまった願いは残らないだろう……?」

 組んだ指先は白くなり、その瞳は潤んでいた。

 長年愛してきた妹と、そこら辺で拾った野良猫と。彼は、何度同じ問いを自分に投げかけたのだろうか。

 俺は手のひらを伸ばし、彼の頬に添える。伝った涙で、頬が濡れていた。

「────伝えそびれていて悪かった。俺は、神殿に祭壇のある部屋への入室許可を貰った。『星への願い』を使うためだ」

「セレ君……?」

「リーシアには、願いを託そうと思ってると伝えてある。神殿からは祭壇のある部屋には入室したい人が沢山申し出をしていて、時間が掛かると言われていた。前倒しできないか、尋ねてみる。できないなら、祭壇なんてなくていい。願うことは、祈ることは、如何なる場所であっても自由だ」

 俺は彼の腕を取って、立ち上がらせた。

 上着を取ってこい、と言い置いて、俺は自室に入る。そういえば、と届いたばかりの服を思い出した。

 あの時に採寸して出来上がった服は、白く薄い長袖と、下に行くにつれて広がる形状をした下衣だ。神に会いに行くには、お誂え向きだった。

 宝石箱から貰った腕輪を取り出し、手首に巻き付ける。

「よし」

 廊下に出ると、呆然としたままのルシオラが立ち尽くしていた。

 その手を取って、歩き出す。のろのろと付いてくる兄を、ただ促して歩いた。

「セレ君、いま夜だよ?」

「病人の具合が悪いからって言えば、聞いてくれるかもしれない」

「そりゃ、そうだけど……。本気で今から神殿に行くの?」

 俺は外靴に足を通す。

 背後を振り返り、目を細めた。

「行って駄目なら、明日また行く。だけど、リーシアの具合が悪くなって、今日命を落とさない保障はあるのか? 駄目元で行ったっていいだろ」

「………………」

 彼の瞳に、光が宿ったような気がした。

 手早く靴を履くと、俺を追い越して扉に手を掛ける。

「セレ君。私はこれで良かったか、まだ迷ってるけど……」

「良かったんだよ。行くぞ」

 背を叩いてやり、開いた扉から外に出た。

 外は真っ暗闇、ふと見上げると満天の星が輝いている。我が国はどの国よりも星空が綺麗だ。いつだったか、誰だったか、そんな話を聞いた。

 人は星の輝きの先に、相見えぬ神を観る。

「いい星夜だね」

 歩き出しながら、ルシオラが言う。

 思い詰めたような顔は、全く空を見てなどいなかった。

 

 

 

 神殿に近づくと、敷地はしんと静まり返っていた。入り口に近づくが、人の気配はない。

 脚を進めてはいたが、一度帰ることになるだろう、と高をくくり始めていた。その時、チカ、と光が瞬く。

「────こんばんは」

 光の……角灯の持ち主に声を掛けられる。

 白い神官服を纏った人物は、髪色さえも白かった。そして、光に浮かび上がる瞳には、宝石のような緑の煌めきがある。

 彼の顔には、見覚えがあった。

 国民への挨拶として、神殿代表で出てくる人物。数百年老いず、神殿を統べ続ける長。

「大神官様……?」

「話は聞いてる。付いてきてくれ」

 大神官は手早く言うと、正門から回り込むように移動を始める。

 光に続きながらも、俺たちは顔を見合わせた。

「あの。誰に、話を?」

 大神官が立ち止まると、ゆらり、と角灯が揺れる。

 彼は指を立て、空を指した。

「我が神に」

 俺もルシオラもぽかんとして、また離れた距離に慌てて付き従う。

 案内されたのは、裏口、とも呼べるような小さな扉だった。門番に挨拶をして、俺たちを連れたまま敷地に入る。

「これから、祭壇へ案内する。入れるのはそっちの獣人────」

「セレ、です」

「セレ、お前だけだ。人間のほうの」

「ルシオラです」

「ルシオラは少し待っていてくれ」

 神殿の敷地内は緑が濃く、細い道を抜けた先に大きな建物が見える。

 白を基調として作られた建造物は、夜闇の中でも、ぼう、と浮かび上がっていた。

 夜に見る建物の迫力に圧倒されながら、神殿内の長い廊下を歩く。いつまでも続くかと思われた移動は、急に止まった。

「ルシオラは願いを懸ける間、ここで待つように」

 白い指が、近くに置いてある椅子を指差す。ルシオラは承諾した。

 大神官はこちらに向き直ると、開いた掌を俺の脇腹へと当てる。

「確かに『星への願い』は残しているようだ」

 角灯をルシオラに預け、瞬きの間に彼の姿が転じる。

 佇んでいたのは、ふさりとした豊かな毛を持つ、大きな白犬だった。

『獣の姿を取ってくれ』

「は、はい……!」

 猫の姿に戻ると、俺が落とした服はルシオラが拾い上げる。

 猫になって見上げる大神官……白犬は大きく、態度も相俟って圧迫感があった。

 白犬は方向を変えると、俺を先導するように歩いた。相手と比べれば短い脚で、その後に続く。

『大神官様は、服、どうされているんですか?』

『呑気だな。……神術で隠してる』

 ふっ、と白犬がわずかに笑った。

 表情が無かった顔に、僅かに色が浮かび上がる。だが、その色も瞬きの間に、また白に戻った。

 動物の姿に戻った今なら分かる。彼も、気を張っているようだ。

『ここだ』

 大小様々な扉が一枚に重なったような、大きな扉の前に立つ。

 彼が前脚で扉を押すと、容易く扉は開いた。

 俺たちが扉を通り抜けると、自然に扉は閉じる。

『これが、祭壇……』

 神殿の建物自体が白を基調としているなら、この祭壇は黒だった。

 黒の天然石をふんだんに用いた造りが、高い天井まで続いている。星空の中に、投げ出されてしまったようだ。

 歩くたびに、肉球の裏が冷たい。ひた、ひた、と小さな音だけが耳を満たしていた。

『止まれ』

 ぴたり、と制止し、その場に腰を下ろす。

 白犬は俺を一瞥すると、祭壇へ向き直った。

『────願い事を述べよ』

 視線を上げ、祭壇に彫られた姿を見つめる。

 生涯で一つの願い。もしかしたら、後から願いを託してしまったことを後悔するかもしれない。

 そうなったとしても、それも含めて俺の選択だ。

 ちいさな口を開いて、神まで通るよう、大きく喉を震わせる。

『お願いです。リーシアの心臓が、健康な人と変わらないよう。また、鼓動できるようにしてください』

 言い終えると、しん、と場が静まり返った。

 長い沈黙の後、終わりだろうか、と白犬に視線を向ける。だが、白犬はゆっくりと首を横に振った。

 その時、何かの気配が、近くに降り立ったような気がした。

 なにか、大いなるもの。背筋がぞわぞわと粟立つような、普段なら相見えることのない気配だ。

 首を動かせないまま、視線だけで周囲を探る。

《少し、尋ねてもいいかい?》

 優しげな声が、人そのものの抑揚を伴って耳に届く。

 圧迫感から解放された俺は、きょろきょろと周囲を見渡した。だが、俺でも、大神官でもないその声を発している人物はいない。

 それでも、口を開いた。

『はい』

《その子は、流行病に罹っている。それは、治らなくてもいい?》

 俺は慌てて声を上げる。

『駄目です! ……心臓の機能が戻って、流行病も治ってほしいです』

《願い事をふたつに分かってはいけないよ。叶える願いは一つだ》

 窘められ、しゅん、と頭を垂れる。

 それなら、やはり心臓だけを治してもらうべきだろうか。再度、顔を上げ、願い事を選ぼうと口を開こうとして、落ち着いた声に遮られる。

《健康になるよう、願うといい。後のことは、上手くやってあげる》

 優しげな声、と皆が口を揃える理由が分かった気がした。

 願い事が二つになってしまう時、正しく願えていない時。導かれるこの声に、誰もがこうやって助け船を出されたのだろう。

『リーシアに、健康になってほしい、です』

《確かに、聞き届けた。────闇夜を纏う猫よ。次の願いは、確かに、自分のために使うように》

 ふさり、と豊かな毛皮が、身体の横を撫でていったような気がした。

 言葉の余韻を残し、遇ったはずの気配は掻き消える。

 詰めていた息を、長々と吐き出す。俺の元へ歩み寄った白犬が、労うように傍に寄り添った。

『今のが、神様、ですか?』

『ああ。今日は、自ら降りてきたらしい。言葉と願いが、乖離していたから』

『じゃあ。これから病院に行ったら、リーシアは、治っているという事ですか?』

『そうだ。夜に入れるかは分からないが、確認したいなら直ぐ向かうといい』

 白犬は俺を支えながらルシオラの元へ戻ると、瞬きの間にまた人の姿を取った。

 俺は小さな部屋を借り、受け取った服を人に戻った身に纏う。着替えている間に、大神官から経緯の説明は終えたようだ。

 ルシオラは俺の姿を見るなり、泣きそうな顔をして俺を抱き竦める。

「セレ君。本当に、ありがとう……」

「おう」

 気恥ずかしく、その背をぽんぽんと叩く。

「それより、夜遅いけど、リーシアの様子を見に行けないか?」

「私がいれば大丈夫だ。行こう」

 顔を見合わせ、歩き出そうとした俺たちを、大神官はひらりと手を振って見送る。

 急いでいたとはいえ失礼だった、と慌てて振り返り、叫ぶように声を出した。

「こんな夜遅くに、ありがとうございました!」

「礼なら、ニュクス神へ祈りとともに届けてやってくれ。人が喜ぶ姿が大好きなんだ」

「はい、約束します」

 二人とも足踏みするほど急いていて、礼もそこそこに脚を踏み出した。

 大神官は俺たちの背を眺めながら、闇夜に浮かび上がるように佇む。その唇が開かれ、走っていく二人の背後で、呟きが星夜に吸い込まれた。

「────『行く道に、星の導きがあらんことを』」

 

 

 

 病院に向かい、まずルシオラが妹の担当医へ話をする、と建物に入っていった。

 俺は病院の建物の外で待っていたが、やがて担当医とルシオラ、そして医療魔術師らしき三名が扉から出てきた。

 彼はこちらに向かって手招きをし、四人で足早に妹の病棟へと向かう。

「本人から連絡は来ていないが、普段なら眠っている時間だね。前回の見回りからも、少し時間が経っている」

 担当医はそう言うと、病棟の前で医療魔術師に合図をする。

 魔術師が何事か呪文を詠唱すると、俺たちの周囲を、光を纏った文字が取り囲んだ。その光は身体に収束する。

「これ、何だ?」

 ルシオラに問いかけると、彼は手慣れた様子で病棟への扉を解錠する。

「強化版の消毒と、感染防止の効果がある呪文だよ」

 開いた扉から、三人は棟へと入る。

 ルシオラは俺に向かって手招きをした。

「君は生涯に一度を使って、この結果を呼び込んだ当事者だ。見届けていきなよ」

 そろそろと足を踏み出し、明かりの点った棟内へと踏み入った。

 三人は俺を気にする様子もなく、大股で廊下から階段、と移動する。必死にその背後について行くと、静かな、見慣れた廊下に辿り着いた。

 リーシアの病室からは、音が漏れていない。

「リーシアさん、失礼します」

 担当医は躊躇いなく、病室の扉を開いた。

 部屋に入り、明かりを点けた途端、真っ先に違和感のあるものが目につく。魔術装置の管の先が、彼女の腹に繋がっていなかったのだ。

「リーシア!?」

 悲鳴に近いルシオラの声がして、三名は彼女に駆け寄っていく。

 声によって覚醒へ導かれたのか、彼女の瞼が震え、目が開いた。ふあ、と呑気な欠伸が発せられ、彼女は平然と身を起こす。

 眩しさが目を灼いたのか、のんびりと目元を擦っている。

「何。こんな夜遅く……に」

 リーシアの視線が、習慣的に管のある位置を見て、身体と繋がっていない事に気づく。

 彼女は自分の胸に手を当てると、三人の背後にいる俺と視線を合わせた。

「セレさん……! もしかして……」

 布団を撥ね除け、裸足のままで三人を押し退けると、俺の服の襟首を引っ掴む。

「『星への願い』を使ったのね!?」

「…………使った」

「もう! あれほど…………」

 彼女は力を失った拳を俺の胸に叩き付けると、服に縋り付いてわんわんと泣き出した。

 俺は細い肩を支え、血色のよくなった肌に安堵する。

「どこか、痛いところはないか?」

「…………ん。胸が、鳴って……でも、熱もなくて、どこも苦しくな……の。ひッ……うぇ…………」

 わんわんと泣くリーシアに担当医が近寄り、鼓動を確認する。脈を取ったり、顔色を確認したりしているが、ぱっと見て調べた限り健康そのもの、とのことだった。

 これから検査を、と声を掛けられる彼女を見ながら、ようやく詰めていた息が吐き出される。

「セレさん」

 車椅子を用意してくる、と病室を出て行った担当医を見送り、寝台に腰掛けたリーシアが口を開く。

 横からルシオラが体調の確認を続けていたが、彼の口から異常が告げられることはない。

「私、夢で神様に遇ったよ」

「え?」

「黒い犬の姿をしてた。夢では胸が苦しくなくて、二人で駆け回って遊んだの。とっても、優しそうな声をしてた」

 ルシオラと共に、目を瞠る。大神官が白犬の姿を持っているのとは対照的に、ニュクス神の化身として挙げられるのが、大きな黒犬の姿だ。

 彼女が挙げた夢での特徴は、俺が聞いた声とも酷似していた。

「────そっか。やっぱり神様なんだ。私、黒い毛並みの獣に、お世話になってばっかりだね」

 担当医が戻ってくると、彼女は自ら歩いて車椅子に腰掛ける。

 検査室に向かっていく姿を見送ると、ルシオラは妹がいなくなった寝台に崩れ落ちるように腰掛けた。

 そろりと近寄り、その肩を抱く。

「セレ君」

「うん?」

「私の力が及ばなくてごめん。それと、ありがとう」

「それは、さっき聞いたよ。……良かったな」

 涙声のルシオラを抱き寄せ、腹に押し付ける。

 俺に抱き付いたその人は、ただ静かに涙を流し続けていた。

 

 

▽8(完)

 色々な事が劇的に変化した日、変わったのは病院内の集団感染も同様だった。全員の熱が同じ日の晩に下がる、という奇妙な出来事が起きたのだ。

 ルシオラを含めた医師たちも何がなんだか、といった様子だったが、リーシアへの星の願いと関連付け、ニュクス神へ祈ることにしたそうだ。

 リーシアは早々に退院し、自宅療養しながら通院をしている。とはいえ、神の力によって病が治った、という事情もあり、服薬すらもないそうだ。

 そして、ニュクス神が次の願いは自分のために使え、と言っていた意味は、色々な事が落ち着いてから判明した。

 獣姿の時、俺の脇腹から消えたはずの印が、まだくっきりと残っていたのだ。神殿を訪れ、大神官に尋ねると、平然とこう言われた。

「『星への願い』は使ったが、『星からの贈り物』により印が復活したんだろう。気まぐれな方だ」

 大神官の話を聞くに、我が国の守護神は人の喜ぶ姿を見るのが好きではあるが、人を驚かせる事も大好きらしい。

 つまり、俺はもういちど、星へ願うことが叶うようだ。兄妹は大喜びで、特に妹は話を聞いて大泣きしていた。

 とはいえ、俺はもう生涯にひとつの願いを使ったのだ。どうでもいい願いを、死ぬ直前に、神に逢いたい、とでも願おうかと思っているところだ。

 『ルシオラと生涯の伴侶になりたい』

 そう願えば叶うとしても、やはり願いを使う気にはなれなかった。

 

 

 

 今日は早く帰る、と宣言したルシオラを迎えるべく、鳥をまるごと一匹、腹に香草を詰めて焼くことにした。

 彼の好きなスープと、好んで食べているパン。好きだといった果実の蜂蜜漬けも用意した。

 そして、待ちに待ったルシオラの帰宅は、本当に普段よりも早かった。玄関を開ける音が聞こえると同時に立ち上がり、玄関へと駆けていく。

「ただいま」

「おかえり!」

 冗談めかして手を広げる彼の胸に飛び込み、ぎゅう、とその背を抱き締める。

 同じように俺の背にも手が回り、二人してぎゅうぎゅうとお互いを抱く手に力を込めた。

 耳元に届く笑い声が、ただ懐かしい。

「ご馳走、用意した!」

「え!? いや、本当に偶然早く帰れるようになっただけなのに……、大変じゃなかった?」

「手間は掛かった。けど、俺がそうしたかったから」

 ルシオラは外靴を脱ぐと、食事をする準備を整え、料理の並んだ机に移動する。俺は並べ切れていなかった皿を運び、最後に冷えた炭酸水に果実の砂糖漬けを浮かべ、机の端に置く。

 ナイフを用意すると、机の中央に置いた鶏を切り分ける。刃を入れた先から、じわりと肉汁が零れた。

「セレ君にご馳走を作ってもらうと、こういうご飯が出てくるんだね。凄いな」

「流石に、鶏の丸焼きは作り方調べて作ったよ」

 焼き野菜と共に取り分け、食卓を囲んで食べ始める。

 まだ温かい鶏は、噛み締めるとちょうど良い具合に脂が落ちる。二人とも仕事終わりで腹が減っており、夢中で食べ進めてしまった。

 ルシオラは職業的に得意なのか、鶏肉を上手いことナイフで切り分けては皿に盛る。

「そういえばさ、ルシオラ。俺、店主やることにしたんだ。ナデシコさんに伝えたら喜んでくれた。これから店が建て替わるまでの間は、ナデシコさんの所と、ルシオラのお兄さんの所に通って、経営を教わるつもり」

 最近付き合いが始まったルシオラの兄は、弟を少し厳しくしたような見た目だった。

 だが、妹を愛していることには変わりないようで、俺から聞くリーシアの話を嬉しそうに聞いていた。弟の容姿を見慣れている為か、怖さはない。

「そっか。兄は変なこと言ってなかった?」

「言ってた。世話になった俺に店をあげたい、って。でも、まだ経営のことも分かってないし、正直、一定の給料が貰えれば休みが多い方が嬉しいから断った。そうしたら、元々の予定通り、あっちが所有者として建て替えを進めてくれるって」

「はは。兄もね、妹が元気になって嬉しいんだよ。セレ君のお給料を増やしてあげたら、って提案しておいたから、楽しみにしていてね」

「気が引けるなあ……。結局、俺の印は消えなかったんだし」

 鶏皮を噛みしめると、濃い油が溢れ出す。香草の匂いが肉にも移り、食べやすくなっていた。

 俺はパンに鶏肉と野菜を挟み、用意しておいたソースを掛けて頬張る。

「大神官様も、『星からの贈り物』として『星への願い』が与えられる事は稀なことだと言っていたね。セレ君を眺めるのが楽しかったんだろう、って。まあ、それはそれ、これはこれ。貢ぎ物は受け取っておきなよ」

「はぁ……。まあ、程々にしてくれ」

 ルシオラは俺の作った料理を真似、焼き色を付けたパンに挟み込んだ鶏肉を大口で囓る。

 もごもごと咀嚼すると、思い出したように顔を上げた。

「黒猫って、幸運を呼ぶって言うよね。うちの国では特にさ、守護神の化身が黒犬だから」

「幸運来たか?」

「そりゃあもう」

 くすくすと笑い合い、互いに持ち上げたグラスを打ち鳴らす。

 彼は喉仏が見えるほど勢いよく中身を飲み干すと、底で机上を叩いた。

「良かったなぁ……。本当に」

 また泣き出しそうになる彼を見ながら、目を細める。

「それ、酒じゃないぞ」

「でも美味しい。炭酸水まだ残ってる?」

「ある。ほらどうぞ」

 炭酸水を注いでやると、彼は嬉しそうにそれを受け取った。

 食欲も戻ってきたようで、多忙時に、減らしてくれ、と言われた食事量は元に戻っている。

 食卓の上の皿は、瞬く間に空になっていった。

「あのさ。セレ君、最初に同居を始めるとき、提案したことなんだけど」

 そういえば、と彼から受けた提案を思い出す。

 自分が生涯の伴侶になるから願いを譲ってくれ、彼はそう言ったのだ。ああ、と相槌を打って、視線を空中に投げた。

「それはもう、どうでもいいよ。結局、願いだって減らなかった。今だって養われてる形で金銭的に助かってるし」

「………………」

 ルシオラは、困ったように眉を下げた。

 空になったグラスから、たらりと水滴が伝い落ちる。

「……いずれ、生涯の伴侶を願うの?」

 怯えるような響きを不思議に思いながら、ゆっくりと首を横に振る。

「俺は、願いを叶えてもらった」

「セレ君が叶えてもらったのは、リーシアと、私の願いだよ。君の願いじゃない」

 リーシアに思い入れを抱いた。ルシオラの助けになりたくなった。そのどちらもが理由に違いないのに、彼は、それは俺の願いではないと言う。

 疑問を抱いた原因に、やがて辿り着く。ルシオラは、俺が彼に好意を抱いていることを知らないのだ。

「俺の願いって事にしておけよ。こんな貧相な黒猫と将来を誓うなんて────」

 馬鹿げている。

 そう続けようとして、目の前の瞳に傷ついた色を見つけた。

「私は、直近の妹の命か、未来の君の命か。その二つを天秤に掛けて迷った。前者を選ぶために君を手元に置いておきながら、懐に入る君に思い入れを抱いてしまった」

「それ、は……」

「君が願いを使って伴侶を得るなら、それは喜ばしいことだと思う。祝福すべきだということも理解している。けど、…………私は、君に願いを使ってもらえる相手が、憎らしくて堪らない」

 声の響きは、ぞっとするほど昏かった。

 絡む視線の先には、瞳の奥には、緑の炎が揺らめいている。

「安心しろよ。俺には、願いを掛けてまで生涯の伴侶にしたい人はいない」

 その返事に、彼の肩が丸くなる。

 グラスを揺らすと、カラン、と擦れて音を立てた。

「……セレ君。私が言ってる事、分かってる?」

「分かってる」

「嘘でしょう」

「本当だ。────なぁ、俺は遊びの恋愛はできないぞ。家庭というものに、思い入れがありすぎる」

 家族と寄り添った、毛皮の感触を思い出す。あの柔らかい毛皮はもう遠くに行ってしまったが、温かい皮膚ならまだ手が届く位置にいる。

 きっと彼となら、暖炉の前で寄り添えると思った。

「生涯大事にするよ。君のことが好きだ」

「そうか。……じゃあ、死ぬまで手元に置いてくれ」

 俺は輪郭を解くと、猫の姿に転じる。服の下から頭を出すと、立ち上がったルシオラが歩み寄ってくる所だった。

 俺の身体は持ち上げられ、胸に抱き込まれる。

「あの。この姿じゃ……どう抱きしめても、恋人同士の図ではないんだけど」

『食器の片付けを頼む。その間に、俺は風呂に入る』

「照れてるんだろうけど、それは卑怯だよ」

『照れてない』

 彼の腕の中で暴れ、床に着地する。

 いちど背後を振り返り、ぷい、と顔を逸らした。

『においを落としてくる、そうしたら抱っこしてもいい』

「素直じゃないなぁ」

 俺はその声から逃げ、部屋に戻って寝間着を咥える。

 ずりずりと服を引き摺りながら脱衣所に入り、扉を閉じた。人の姿に戻り、扉に背を預ける。

 口元には、笑みばかりが浮かんでいた。

 

 

 

 身体を洗って寝間着に着替えて戻ると、ルシオラが食器を洗い終えていた。残った食事は別容器に移され、蓋がされている。

 姿を見られると、手を広げた飼い主に捕まった。

「今度は逃げないでね」

「んー……。いや、ルシオラも風呂に入れよ」

「…………誘ってるの?」

「何が?」

 彼は腕を伸ばすと、掌で俺の腰を撫でた。意味ありげなゆっくりとした仕草に、流石に何を問われているのか理解する。

 かあっと風呂上がりの頬が更に赤く染まり、視線は自然と下を向く。

「俺相手に……できるのか」

「勃つのかって話?」

 こく、と頷くと、彼は俺の耳を胸元に押し付けた。皮膚越しに、激しく鼓動しているのが分かる。

 顔を上げると、ルシオラは照れたように笑っていた。

「そっか……」

 逃げを打つのは簡単だが、現実問題、じゃあ次、となった時にこの忙しい人とまた日を合わせられる気がしない。

 腕の中で頭を巡らせている俺を、ルシオラは面白そうに眺めていた。

「し……。いや。す、する?」

「どっち?」

「…………する」

 ぽつり、と呟いた俺の顎が掬われる。

 持ち上がった唇に、ちょん、と柔らかいものが触れた。目の前にあるのはいつもの笑い顔だ。

「じゃあ、身体を洗ってくる。…………と、忘れてた」

 上機嫌で風呂に向かっていく。かと思いきや、彼は一旦、自室に戻り手元に一枚の紙片のようなものを持ってきた。

 手渡されたそれを受け取ると、紙にしては柔らかい材質をしている。湿布に似ているだろうか。

「これに魔力を込めて、お腹に貼って」

「なんだ、これ」

「体内を性交に適した状態に変化させる魔術布」

 表面を見ると、びっしりと術式が埋め込まれている。

 魔力を込めることで術者を俺と指定し、体内に影響する魔術を、一度だけ発動する事ができる魔術布らしい。

「初めてで、傷ついちゃうといけないから」

「はぁ……」

 俺を置いて風呂に行ったルシオラを見送り、俺は言われた通りにその魔術布に魔力を込める。

 すると、目の前で布の色が変化した。そのまま服を捲って腹に貼り付けると、布が熱を持つ。

「これでいい……、か?」

 とても本の頁を捲る気にはならず、そわそわしながら台所を掃除する。やがて、風呂から上がったルシオラが戻ってきた。

 彼は俺の服の裾を持ち上げると、貼っておいた魔術布を剥がす。剥がしていいのか、と見守った布の下では、皮膚に紋様が浮かび上がっていた。

「へえ。こういう形になるんだ」

「消えるのか、これ」

「効果はきっかり半日、だそうだよ。買い置きもあるから安心してね」

 果たして、何が安心なのだろう。半日を超えて俺のような小動物にいやらしい事をしようとするなら、流石に爪を立てる所存である。

 長い腕が、俺の腰に巻き付いた。促されるままに歩くと、辿り着いたのは彼の寝室だ。

 特に落ち着いた色味で纏められ、物の少ない寝室である。部屋に入るなり彼の匂いでいっぱいで、懐に入ってしまったことに気づかされた。

 寝台は一人用にしては広く、寝台が狭いことを理由に逃げられそうにない。

「セレ君。視線が泳いでいるね」

「あんたは緊張しないのか?」

「しているよ。隠すのが上手いだけ」

 背を押され、寝室の中に深く踏み入る。彼を起こす為だけに来ていた場所が、全く別の表情に見えた。

 促されるまま、寝台に腰を下ろす。ルシオラは棚に近づくと、一つの箱を手にして戻ってきた。

 寝台脇の小机に箱を置き、蓋を開けると、先ほどの魔術布や小瓶が入っている。

 性行為をする時に使うものが纏められた箱。そう気づいて、赤らんでいた頬が更に染まった。

 長い指が小瓶を持ち上げ、箱の外に出す。まだ瓶自体に傷もなく、新品に思える。

「これ。用意してたのか?」

「使わない可能性もあったけどね」

 彼もまた、寝台に腰掛ける。座っていた場所が少し沈み込んで揺れ、やがて元に戻った。

 隣から、指先が伸びてくる。両頬に手が添えられ、顔が持ち上げられる。

「ン────ふぁ、……ん」

 顔が傾ぎ、近づいてきた唇が重なる。

 開かれた唇からはぬるりとしたものが這い出て、俺の唇を割る。歯茎を舐め、持ち上がった舌裏をつつく。

「ん……! む、……ッ、ぁ」

 食らいつくように噛み付かれ、押し倒さんばかりに力が掛かる。

 彼が食事をする時のような勢いに、気圧されてただ服を握り締めた。

 放れる間際にも、ぺろりと唇を舐められる。

「…………ッ。あんた……、こんなにがっつく質だったんだな」

「性欲薄そうに見えてた?」

「ああ。全然無いのかと……」

 近づいてきた唇が、こめかみに口付ける。

「へぇ。自分じゃ、分からないものだなぁ……」

 呟く声の響きからは、焦れた感情が漏れ出ている。

 首筋に、牙でも立てられているようだ。術式を仕込んだ腹の奥が、ずく、と疼いた。

「痛いことはしないから。ほら、おいで」

 寝台に乗り上がると、軽く広げられた腕の中に入った。

 懐に入った猫に、彼は褒めるように頭を撫でる。

「今度、一緒にお風呂に入ろうね」

 彼の手が、服の胸元に掛かる。一つひとつ、ゆっくり追い詰めるように釦が外されていった。

 暑さの所為で肌着を纏わずにいた服の下からは、白い肌が覗き見える。掌が首筋に当てられ、筋を伝うように鎖骨に移動した。

「猫の時は喜んでいたのに、喉」

 つい、と喉仏を指で辿られると、ぞわぞわとして軽く身を引く。

「ごめん。もう触らないから」

「……ッ、人の感覚だとくすぐったいだけだ」

 宥めるように頬に唇で触れられ、続けて唇は首に至った。

 開いた唇からかるく歯を立てられ、新しい刺激に身悶えする。

 掌は絡んでいた服を払うと、胸元に歩を進める。くっと突起を引かれ、上がる声を塞ぐように唇が重なった。

「んむ……! ん、んん…………!」

 また、ぐちゃりと厚い舌が俺の舌を引き出し、絡め取る。

 引かれてじんじんと痺れた胸元は、宥めるように柔らかく押し潰された。上手く息ができずに逃れようとする唇は、追いかけられ、覆い被さられた。

「ん……ぁ。ふ、ぅ…………ぁッ!」

 ぴん、と指の先が尖った頂点を弾く。

 縮こまっていたはずのそこは、頭を引き出されてつんと立ち上がっていた。

 ようやく唇が放れ、大きく息を吸う。口の端に滲んだ涎を拭っていると、腰が抱かれて引き上げられる。

 無防備だった胸の先端が、相手の口の中に消えていくのが見えた。

「あッ……、ん。や……ぁっ!」

 ちゅう、と吸い上げられ、指先で触れられた時のしびれが増していく。

 敏感になったそこを、舌先が転がして舐った。

 無意識に、身体の奥を絞り上げる。性交に傷つかなくなったその場所は、雄を待ち侘びているみたいだった。

 抱かれていた腰から腕が外れ、そのまま寝台に押し倒される。覆い被さってくるルシオラの瞳は影の中に浮かび上がり、妖しい色を纏っていた。

「人の姿の乳首に触れちゃった」

「…………引っ掻いていいか」

「その丸い爪じゃ大したことないよ」

 笑みを浮かべながら、下の服に手を掛けられる。

 両手で引き摺り下ろされると、下着もろとも剥ぎ取られた。太股を閉じようとしても、力のある腕で開かれる。

「へぇ、ずいぶん慎ましやかだ」

「感想を述べるな!」

 脚を閉じるより先に、相手の身体が股の間に割り込む。

 彼は箱から出してあった小瓶に手を伸ばすと、蓋を外す。にたり、と表現できそうな笑顔を浮かべ、中身を容赦なく露わになった股にぶちまけた。

 つ、と芯を液体が伝い、その感触に身震いする。

「……うぁ、……ん、く」

 長い指が茂みから枝を探り当て、ぬめりを借りながら扱いた。

 ぐちゃぐちゃと水音が響くたび、筒を作った指が上下する。

 中心はぴんと勃ち上がって、纏わされた液体を零している。悪戯っぽい指が、裏筋を伝って頭を絞り上げた。

「ふ、……く、う……うァ、ア」

 込み上げるものを絞り取るように、丸を作った指先が根元から先端へ辿る。涎を垂らす鈴口を、指の腹が撫で上げた。

 軽く達するような刺激を与えられながらも、甘く留められる。

「ぁ、遊んでる……だろ、……ひッ!」

 窘めるように、きゅっと根元が締め付けられた。

 その感触にすら、息が上がってしまう。

「普段は落ち着いているセレ君が、乱れているのが愉しいだけだよ」

「あ、んたな……! も、やめ……、ァ!」

 それからも寸止めを繰り返し、は、は、と息を繰り返す状態で解放された。

 寝台に力を失った腕を預け、天井を眺める。

 抵抗する気を無くした俺の脚が、抱え上げられる。横向きに倒され、掌が片方の尻たぶを掴んだ。

 びくん、と背を跳ねさせる。男は柔らかい感触を楽しむと、谷間に指を差し入れた。

 きゅっと窄まった場所を、指の腹が押し拓く。

「そこ、は。…………ッ」

 とろみのある液体のお陰か、魔術の効果か、丸い指がずるりと内部へ侵入する。

 痛みはなく、見知らぬ圧迫感への困惑だけがあった。

「…………っ、ひ。うあ」

 ぬぷぬぷと指先が奥を探り、力が抜けた隙を見計らって関節を埋めていく。

 じんわりと快楽のようなものが広がるが、決定的な刺激にはならない。

「痛みはない?」

「ない、け……ど。……なに、これ……っ」

 指先は中に進むだけでなく、内壁の感触から、何かを探っているようだった。

 大部分が埋まりかけたその時、指の先が腹の奥を捉える。

「ここ、かな?」

 指の腹が、その場所を擦った。

 ひ、と息を呑む。見知らぬ性感を覚えさせられてしまった。

「ァ、あ────! い、……ゃ、あ。あァ、あ」

「そっか。やっぱり気持ちいいんだ」

 内側を拡げるように指の隙間が開かれると、その場所から空気が流れ込む。

 叩き付けられている訳でもない。ただ、指の腹で優しく撫でられているだけのその場所が、ずくずくと重たい余韻を連れてくる。

「後で。私のでここ、押し上げてあげるね」

「……ぁ、ン、ひ……ッ! らな、要らな……ァ!」

 弱点に手を掛けられたまま、何度も高みへ登らされる。

 もう片方の手は戯れのように俺の中心へ手を掛け、甘やかした。寝台の上で悶えながら、両方の手に翻弄される。

 片頬はシーツに擦れ、口の端に滲んだ唾液が白い面を濡らした。

「────まぁ、こんな所かな」

 その一言と共に半身から手が放れ、後腔から指が抜かれる。

 内壁を擦る感覚にすら背をびくつかせ、横目で自分を苛め抜いた男を睨め付けた。

「子猫ちゃんに睨まれても、可愛いだけだよ」

 彼は上着の裾に手を掛けると、一気に脱ぎ捨てる。普段からよく動いているのか、室内仕事にしては厚みのある躰だった。

 そして、下の服にも手が掛かる。視線を向けた先、服の抑えから解き放たれた男根は、ぶるんと震えながら起き上がった。

 彼が己の掌で半身を扱くと、くびれが濡れ、禍々しく光る。

「その子猫ちゃんに、それ……ぶち込む気か?」

「ぶち込む気だよ。でもセレ君、身長はそこそこあるけど体が細いから。不味いかもなって思って魔術布を用意したんだよね」

「それは、…………ありがとう」

「どういたしまして」

 だが、にっこりと笑いながら構える砲身は、凶悪な代物だ。

 腰が引いている俺の脚を、彼の腕が掴んだ。脚の間に身体をねじ込まれ、腰が浮かされる。

 ぬるついた亀頭が、綻んだ縁に押し当てられる。

「んん────!」

 力が掛かると、圧迫感が身体の中を襲う。

 痛みはないが、指で拡げられたはずの縁は皺を失い、みちみちと押し広げる肉の質量に伸びきる。

「あ、……ひ、うぁ。……ぐ、う」

 は、は、と息を吐いて、躰を拓いた。

 内壁を滅茶苦茶に擦りながら、途方もなく思える長さを含まされる。

「……ッ、悪いことしてる気分だ。こんな狭いとこ……!」

「────ぁン! ……ゃ、あ。も、奥、いや…………」

 寝台の上を滑り、逃げを打つ身体を、腰に回した腕が男の股に固定する。

 ず、ず、と小刻みに引かれ、確実に奥を押し拡げた。

 結合部に目をやると、腹に浮かび上がった紋様が濡れ光っているのが分かる。雄を受け入れるたび、腹の表面がうねった。

「ここ。……だったかな?」

「ひぃ、ン……! あ、ァひ、……ぁ────」

 指先で教えられた場所を、ずん、と比較にならない質量が突き上げる。快楽は更に尾を引いて、次の刺激を待ち侘びた。

 指の先が腹の薄い皮膚に食い込む。ゆるい律動を加えられ、途切れることなく嬌声を上げた。

「もっと奥、触ってみる……?」

「ぁ……。もっと、おく…………」

 ぼうっと彼の言葉を反復すると、身体の角度が変えられた。

 突き上げていた場所の更に奥へ、瘤が侵入り込む。でこぼこした膨らみが、柔い場所を掻いていく。

 その度に身を震わせ、ちいさく啼いた。

「セレ君」

「なに? ……ン、っ」

 こつん、と先端が狭くなった場所を小突く。

 二度、三度、扉を叩くように繰り返した。

「ここ、開けて?」

 彼の掌が、紋様の上に置かれる。

 言われるがままに、力を抜いた。腰が更に浮かされ、肉棒が根元までずっぷりと銜え込まされる。

「────ァ、ア」

 悲鳴にも似た声が、自ら口を押さえ付けた手の甲の下で迸った。

 拓いた場所を欲望が埋め尽くし、直結するような鋭い刺激が齎される。肉縁を引き絞ると、目の前の男の喉から呻き声が漏れる。

 奥まで繋がったまま、彼は躰を揺らした。

 叩き付けるような打ち込みではないにも関わらず、繋がっている場所から全身を刺激が埋め尽くす。

「……ひ、ぁ。やぁ、──ぁ、あ、あ」

「────は、ッ。私の手の内で、……ただ啼くしかない君が。可哀想で、綺麗だ」

 彼の手は、小瓶の中身を結合部に垂らす。いちど腰を叩き付けると、肉縁が泡立った。

 引かれた腰が、規則的な抽送を始める。

 指で探り当てられた弱い場所も、更に奥にある泥濘みも、膨れ上がった雄がごりごりと引っ掻いていく。

「ぁ、あ、……ひィ、ッ。……うあ、ぁ、ン。あふ、あ」

「……は、ぁ。……っ、すごく悦いよ。もっと、絞って」

 内壁は勃起した肉にしゃぶりつき、その精を受けようと蠢く。

 魔術で守られた体内は、擦れる感触さえ刺激でしかない。啜り泣きながら男を受け入れ、その身体に脚を絡めた。

 倒れ込んできた体が、俺を抱き締める。根元まで埋まりきっていなかった屹立を押し込み、ぐぐ、と体重を掛ける。

 白濁が駆け上がる感触さえ、届く気がした。

「…………っ、ふ。う、あ」

「……ぁ、ひア。────く、ぁ。あああああぁあぁぁッ!」

 びゅる、と躰の内側を白い奔流が叩く。

 ずっと欲しがっていた彼の匂いが、腹の内側にこびり付いた。

 繋がったまま、放出が終わるまで腰を揺らす。迸りが落ち着いてからも、繋がったまま抱き締め合った。

 肩を叩いて、重い、と呟く。彼は名残惜しそうに、まだひくつく空洞から男根を抜き去った。

 内壁をなぞっていく感触に身震いする。

「どうだった?」

「気持ち、よかった」

 彼は俺の隣に寝転がると、肩に腕を回してくる。むぎゅ、と抱きつかれ、頬擦りされた。

 耳の隣で、髪がこすれる音がする。

「次誘ったら、付き合ってくれる?」

「……うん。いい、けど。……あんた、まだまだ余裕そうだな」

「体力には自信あるよ。少し休んだらもっかいしよう」

 ちゅ、ちゅ、と頬に触れる唇を受け止めながら、こっそり遠い目をした。

 遠慮なく揺さぶられた身体は疲れている。けれど、隣にいるこの男の瞳からはまだ欲が抜けきらず、勃てばまた突っ込まれそうだ。

「ルシオラ。俺、小さい猫だから」

「……手加減して、ってこと?」

「そう」

「分かった。出来るだけ手加減するね」

 そう約束したはずの言葉は、もうちょっと、という便利な言葉によって見事に裏切られ、また俺は丸め込まれるのだった。

 

 

 

「セレさーん! この本、健康と料理、どっちかなぁ?」

 建て変わった書店は二階建てとなり、店の一部には雑貨が置かれるなど店内の配置も一新された。

 だが、広々とした店内を俺一人で店番するには大変で、かといって、余暇を楽しむ、と宣言したナデシコさんを引っ張り出す訳にもいかず。追加で人を雇うことになった。

「健康、のほうで。多分、その本を求める人は健康の棚を見に来るから。……あ、リーシア。ついでにこの箱も持って行ってくれるか」

「はぁい。お任せあれ!」

「重い荷物には気をつけてくれ」

 へいきへいき、と豪語して本の詰まった箱を運んでいくリーシアは、健康そのものだ。

 店の所有者……恋人の兄に人を雇いたい旨を伝えたところ、身近で意外な所から立候補があった。他でもない、療養中という話だったリーシアだ。

 家族全員が彼女の健康状態について心配したのだが、働いてもいいだろうか、と相談した主治医は、数値的には全く問題ない、と太鼓判を押した。

 病は古くから大いなるもの、神の手の内とされる。その神が病を治したら、次第に回復、という順序すらもすっ飛ばされるのだった。

「まぁ、いずれ働きに出るのなら、様子見できる仕事先の方がいいか……」

 彼女の背を見送り、俺はぽつりと呟いた。また心臓が悪化するようなら、今度こそ、残った願いを使えばいい。

 店の外観、客の導線、働く人間のための手順書。やるべきことはまだ多くあるが、開店日はすぐそこだ。

 その日はずっと、棚に本を詰め、開店準備に勤しむ。ふと我に返り、窓の外を見ると、日が落ちるところだった。

「不味い……!」

 叫んでももう遅かった。神の力に引きずられ、輪郭が綻ぶ。

 ばさりと服が落ち、俺は降ってきた服の間から顔を出した。

「セレさ……。ありゃ、そっか。きょう新月だっけ」

『悪い。服を椅子の上に纏めてくれるか』

「お任せあれ」

 彼女は服を一纏めにすると、丸めて椅子の上にぼんと置いた。下着に触らせたくもないので、助かる纏め方だった。

 彼女は俺を抱き上げ、ついでとばかりにもふもふとやられる。彼女の前で猫の姿を取る機会は少なく、好機とでも言わんばかりだった。

『ルシオラー、はやく迎えに来てくれ……』

「お兄ちゃんもうちょっとだけ遅く来て……!」

 俺の願いが届いたのか、書店の入り口が開く音がする。

 そして、見知った影が姿を現した。猫に戻ってしまった俺の姿を見て目を見開くと、くすり、と笑う。

「こんばんは、セレ君。もう日が暮れたよ」

『助かる。連れて帰ってくれ』

「リーシア。預かるよ」

「えー」

 リーシアは不満そうに身体を兄から背け、俺を隠す。

 だが、手を伸ばした兄は器用に俺を取り上げてしまった。

「たまにはいいじゃんー!」

「駄目。私の恋人なので」

「私にとってもお兄ちゃんだもん!」

 兄妹の言い合いに挟まれながら、俺はその胸元に顔を擦り付ける。

 恋人の腕は広く、匂いを吸い込むと落ち着く。くたん、と力を抜いた俺を見たリーシアは矛を収めた。

「落とさないように、大事に連れ帰ってよね」

「言われなくとも」

 店の片付けをして、ルシオラに鍵を預けて施錠してもらう。

 帰り道はリーシアの家まで彼女を送ってから、自分たちの帰路につく。俺を抱き、月のない夜を見上げながら、彼はぽつりと呟いた。

「妹と仲良くしてくれるのは嬉しいけど、仲良すぎたら妬くからね」

『あのな……。リーシアを好ましく思うのは、あんたの妹だからだ』

「それでも。卵はいずれ鶏を追い越すものだからね」

 前脚を伸ばして、彼の頬に肉球を当てる。

 抗議のつもりだったが、ルシオラの顔はでれっと緩んだ。

「可愛いことしてくれるなぁ。お礼に、今日はたくさんブラシ掛けしてあげる」

 そういう意味じゃない、と言いたかったが、恋人兼飼い主が上機嫌なので放っておく。

 彼の腕に頭を預け、顔を上げる。星が瞬く夜空を、視界いっぱいに収めた。

『今日のこの夜が、善く終わりますように』

 言葉に呼応するように、一筋の星が流れた。

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坂みち // さか【傘路さか】
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