同人誌:魔法使いと養い子と暁空に咲く花

同人誌情報
この文章はだいたい32700文字くらい、約55分で読めます
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内容について

全書き下ろし、もきちさんとの合同本です。人物設定、世界観、表紙および巻末設定イラストをもきちさんにお願いしました。

文体は純文学よりもライトノベル寄り、全体的に「辛い、悲しい」ではなく「甘々、ほのぼの」した話です。

異世界ファンタジー。受視点、養い子×養い親、青年×魔法使い、年下×年上、世話焼き系わんこ属性攻め(21歳)×ぼんやり無自覚朴念仁受け(300歳くらい)の固定CPです。

※赤ん坊の頃から一緒に暮らす二人なので、その辺りや上記が地雷を踏みそうな方はご注意ください。

また、事前に必ずサンプルをご一読いただきますようお願いします

書き下ろし

「魔法使いと養い子と暁空に咲く花」(約6万字)(R18)
「魔法使いと養い子と蒼玉溶ける海」(約1万字)
「あとがき」
「巻末設定画集」(5ページ)
※本文中に挿絵は含まれません、巻末ページのみとなります。

A6サイズ172ページ

通販について

紙版→https://ec.toranoana.jp/joshi_r/ec/item/040030903022/

電子書籍版(楽天Kobo電子書籍)→https://books.rakuten.co.jp/rk/cf7b51f7c9e23274aac167d71ea0955c/

電子書籍版(BOOK☆WALKER)→https://r18.bookwalker.jp/de2261a281-e1ba-4b50-9c9b-45bd1d4b018b/

電子書籍版(BOOTH)→https://sakamichi31.booth.pm/items/2882248

電子書籍版(メロンブックス)→https://www.melonbooks.co.jp/fromagee/detail/detail.php?product_id=1682009

※BOOSTについては電子だとお礼のペーパー同封したりもできないので、基本的に支援のお気持ちだけで十分です。
頂いた分は普段の小説執筆のための事務用品やソフト代、参考書籍代などに有難く使わせていただきます。

 

 

 

「魔法使いと養い子と暁空に咲く花」サンプル

 夢と現の境界から、現に手を引く声がする。低く、強く発声された声は、聞き慣れたものだった。柔らかな波を掻き分け、もぞりもぞりと毛布の中で身じろぎする。

 声は段々と近付いてきていた。

 起きるよう掛けられた声に返事をせねばと思うのに、睡魔がまだ身体の上にのし掛かっている。ついに部屋の扉が開き、自身に向けて腕が伸ばされたのを視界の端で捉えた。

「リィガ。流石に起きる時間だぞ」

 背と寝台との間に差し込まれた腕はそのまま身体を持ち上げ、もう片方の手が毛布を剥ぎ取る。私を持ち上げられるようになって以来、こうやって力ずくで起こされることが増えた。

 昔はずっとか細かった、彼が赤子だった頃から知っている腕だった。

 目を開くと、真っ先に目に入ったのは柔らかな金髪だ。私と視線を合わせるべく傾げた顔につられて、耳元の紫水晶のピアスが揺れる。覗き込む瞳は窓からの陽光を受け、いっそう朝焼けに近い鮮やかさを増した。

 アレイズ。まだ赤ん坊の頃から面倒を見ている、養い子の姿だった。

「……アリー…………、まだ眠い」

「あんた、満足するまで寝かせたら頭痛で苦しみ始めるだろ? 」

 仕方ない、と身体が両腕で持ち上げられ、開かれたままの扉から無理矢理連れ出された。歩く度に温められた乳の匂いが鼻先に届き、睡魔を剥ぎ取っていく。

 アリー……アレイズの厚い胸にもたれ掛かり、すんすんと鼻を動かすと、くすりと上から笑う声がした。

 廊下を過ぎ、居間へ入る。床に敷かれた毛皮の上に座らされ、肩掛けを羽織らされた。柔らかい布地を反射的に握り締める。

 その場を離れたアレイズは、鍋から器に山羊の乳を注ぐ。普通の器が二つと、少し小さな器がひとつ。

 最後の器に乳が注がれ始めると、家具の裏からちょろちょろと影が数名、アレイズの足元に駆け寄ってくる。それらの影は服の裾を引いてみたり、足先から脛へよじ登ってみたり、周囲を駆け回ったりと大層喜んでいる様子だ。

「妖精くん。アリーが食器を落としてしまうといけない。こちらへおいで」

『おとしてしまうと、やぎのちちがへるのではないか』

『なくなってしまうやもしれぬ』

『それはよくない。まほうつかいのところでまとう』

 魔法使い、それは自身を指す上で一番良く聞く呼び名だった。魔力を持つ者の中でも、長年の修行を終えた者を指す名。普段は薬師の真似事もするが、魔法使いの作る物には魔が宿る。

 言葉と抑揚、魔力の波、それらを以て世界に干渉する術を魔法という。魔法使いと称されようと、世界に干渉する術を持たない儀式専門のような者もいるが、私は彼らとは随分毛色が違った。

 東の魔法使い、と呼ばれることがある。西南北に当たる者たちもまた、同様の呼び名を持つが、呼び名を持つ我々に共通しているのは、世俗と一定の距離を取り、高度な魔法を行使することだ。

「うん。こっちへおいで」

 手招きすると、妖精たちは顔を見合わせ、とことこと毛皮の近くに歩み寄ってくる。毛皮の端でちいさな室内履きを脱ぐと、よじよじと机の脚を登り、そして座った。

 人の子と似たような姿ではあるが、随分小さな身長と、細かな仕事が得意な腕。上手に繕った跡のある服は、彼らの一張羅だ。

 つぶらな瞳は、器に注がれた乳を期待して煌めいている。

「朝から山羊の乳を貰いに行ってくれたの? うれしいな」

「誰かさんが朝からよく目覚めるようにな。熱いから気をつけて」

 私の前に置かれた器には、なみなみと白い液体が注がれており、表面からは湯気が立ち昇った。アリーの器には半分ほどしか注がれておらず、妖精たちにと用意された器にもまた、溢れんばかりに注がれていた。

 アレイズは私の隣にどかりと腰を下ろす。

 それを合図に器を両手で持ち、口元でふう、と息を吹きかける。唇で少し触れると、多く含むにはまだ熱そうだった。

『あち』

 机の上で、妖精のひとりから情けない声があがった。口元を押さえ、はふはふと冷やしている。ふ、と堪えきれない笑いがアレイズの口元から零れた。

「お前ら。気をつけろって言ったろ」

 アレイズの瞳は妖精の姿を追ってはいない。ただ机の上の器を映し、おそらくいるであろう空間を捉えているだけだ。彼には妖精の姿が見えない。声もまた、紫水晶のピアス……魔道具のおかげで聞こえているだけだ。

『ありーは、まほうつかいにいったんだ』

『ようせいには、いっていない』

『ようせいはいわれていないから、きをつけられない』

「そりゃあ悪かったな。熱いから気をつけろよ、妖精」

『『『そうする』』』

 いつも通りの茶番に、唇を緩める。アレイズはくくく、と分かりやすく笑うと、ぱたぱたと妖精の器の上に手で風を送った。妖精たちは大人しく器の前で待っている。

 いいんじゃないか、とアレイズが風を送るのを止めると、妖精たちは器に殺到した。私もまた山羊乳を啜る。獣臭さに慣れてしまえば、癖のない甘い味は只々柔らかい。

「美味しいよ。アリーが温めてくれたからかな」

「んー? 混ぜただけだけど……、あ、でも、愛は籠もってるかな」

 そろり、と伸びた指先が私の唇の上あたりを拭った。泡でも付いていたのだろう。礼を言うと、アレイズはぐい、と器を干した。彼自身も唇の上に泡が付いてしまっていたが、ぺろりと舌で舐め取っている。

「そうかもね。何だかアリーの料理は、いつも味付けが柔らかくて」

「あんたの好みもあるけど……、まあいいや。そう、愛があるから美味いんだ。リィガ」

 言い捨てるようにすっと立ち上がると、棚から櫛を持って戻ってくる。私の背後に回り込み、髪を梳かし始めた。魔法使いの髪は魔道具の材料を始め、魔力を宿す媒体として使われる。

 髪質を保つ努力を私は苦手としているのだが、養い子は私の代わりに髪を丁寧に乾かし、梳いて纏め、枝分かれすれば切り落とす。今も絡んだ髪を丁寧に解いては、櫛を通している。

「いくら魔道具の材料とはいえ、あまり手間を掛けなくとも……」

「俺が綺麗にしたいだけだから」

 私の右側に座ると、艶やかにまとまった髪を編み始める。背後でまとめてもいいと言うのだが、手前にないと直しづらいだろう、とわざわざ面倒でも右肩に垂れるように編んでくれるのだ。

 節くれ立った、農具や武器を使うことに慣れた指だが、細かな作業も器用にこなしてしまう。指先に髪を絡め、纏めては痛くない程度にゆるりと結っていく。

 ちびり、ちびりと飲み物を含みながら、その様子を見守った。

「今日も稽古だったよね? 」

「ああ、弓の練習がてら鳥を落としてくる。駄目だったら魚を釣ってくるから」

 アレイズは、近くの村でとある老爺から武術の指南を受けている。彼が『師匠』と呼ぶ人物だ。

 村の多くを占める部族に属さない私たちだが、その人物もまた、都帰りで部族には属していない。ただし、都では戦士の将としての地位を得ていたというその老人とその妻……コナとレナは、村でも一目置かれた夫婦だった。

 村とは距離を置いていた私が、アレイズを抱えてまず頼ったのもその二人だった。養い子にとっては師でありながら、祖父母のような存在だろう。私のような頼りない親がいては、尚更頼りになる二人だった。

「私もおばあさんに湿布を渡したいんだ。付いていってもいい? 」

「俺が届けてもいいが、貼ってみて様子見が必要か? 」

「そうなんだよ。初めて使う薬草だったから、肌を痛めないか心配で」

 では一緒に、と話が落ち着いたところで私の器は空になり、髪が結い終わった。温めた湯で濡らした布で顔を拭われ、うん、と満足げに頷かれる。

「今日も綺麗だよ。リィガ」

「褒めすぎだよ、アリー」

 つむじにそっと唇が落ちる。

 机でごろごろしていた妖精たちがむくりと起き上がり、それぞれに器と拭い終わった布を抱えてぴょんぴょんと机から飛び降りる。勢いよく水場に物を持っていく姿は、先程の礼だとでも言わんばかりだった。

「よろしくなー」

『まかせろー』

 今日の家は、帰ってきたら埃一つ無くなっているに違いない。いつの間にか姿を消したアレイズを待っていると、私の部屋から服を抱えて戻ってきた。そうか、と立ち上がり、紐を解き、寝間着を床に滑り落とす。

 じ、と視線が私の身体を伝うが、数百年変化のない身体を見て面白いだろうか。畳んでいた布を広げ、纏わせる動作に従って腕を通す。日に焼けると赤く腫れる体質も相俟って、肌を晒さない服装を基本としている。

 数枚の服を重ねたそれは、王城に勤めていた頃と同じような服装だ。随分……二百年ほど前の話だが。

「動きづらくはないか? 」

 アレイズは肩、腰、と触れては、服の弛みを直していく。

 他者の前で威厳を与えなくてもよいのだが、私は村の信仰対象である大烏と同じ、灰の髪色を持っている。村では一定数の村人が、信仰に近い態度で私に接してくる。それ故か、私の外見を気にしているのは、私よりも養い子のほうだ。

「大丈夫だよ」

「良かった。そうだ、まだ陽が昇ってない頃に、西の魔法使いから、使い魔経由で薬草の融通をしてくれって言伝があったんだ。薬草は使い魔に渡してあるんだが、一応内容を伝えておくな」

 アレイズは言葉を切り、再度口を開いた。

「『ご機嫌いかが? 無愛想で朴念仁の東の魔法使い』。……リィガ、眉を動かすくらいなら言葉で反応してくれ」

「別に怒ってはいないよ」

「……続けるな。『あンの忌々しい王が死んで何代経ったかしら。でもまーだ王の一族に対してのあたしの呪いは健在、ざまぁみろ、よ。いくらあたしの住処が人里離れた山奥だからといって、一度の謝罪にも来ないのだから、すっかり忘れ去られちゃったのかしら。雪解けはきっと遠いのね』」

 どうやら使い魔の言葉の抑揚まで正確に覚え、伝えようとしているらしく、彼の喋り方は使い魔が毎度伝えてくる西の魔法使いの言葉そっくりだった。

「『本題よ、麓の村で少し困った病に罹った人がいるわ。こちらの地方にはない薬草が必要なの、使い魔に持たせてくれないかしら。お代は貸しにしておいて頂戴。貴方には借りてばかりだから返済が怖いけれど、その時が来たら何なりと返させていただくわ。草の種類は……』」

 養い子が挙げた草は、自宅の薬棚にあるものばかりで、おそらく在庫も豊富にあったはずだ。

「薬棚から向こうが言った分を渡しても、採取まではもつだろうから、使い魔に括り付けてすぐ帰って貰った。西の魔法使いに渡した草で、今日採れる分は摘んでこようか? 」

「急ぎだろうし、早めに渡せて良かったよ。ありがとう。採取もついでにお願いしようかな」

「ああ、任せろ」

 途中、薬棚から渡すつもりの湿布を回収しつつ廊下を歩く。辿り着いた玄関で差し出された外靴を履き、外に出て馬小屋に近付いた。中に居る雌馬もまた、アレイズの師匠である老爺……コナから譲り受けた馬だ。妖精たちが馬小屋をちょろちょろ掃除しているのを目で追っている節があり、彼女もまた妖精が見えるのだろう。

「おはよう、マハ。今日も鬣が綺麗だな、妖精たちがやったのか? 」

 雌馬……嬉しそうに鳴き声を上げるマハに挨拶をして、一頻り撫でくり回した養い子は、布と鞍を着け、腹帯を巻いていく。背負った武器袋を重そうにする素振りもない。

 身長はすくすくと伸び、いつの間にか彼を見上げるようになった。朝からの支度は全て彼に委ねられているし、家の仕事以外にも村の仕事を手伝い、自警団に所属しては度々見回りもしている。

 幼い頃までは子育てに四苦八苦していたが、元々物分かりの良い子で、おそらく他の子に比べれば手の掛からない子だったのだろう。これからはリィガに恩返しをするのだ、と彼は言うが、毎日こう甲斐甲斐しく世話されては、返さねばならない恩はどれだけ残っているのだか。

 ふと、彼と初めて会った日を思い出す。天気の荒れた夜、一人の女性が我が家を訪れたのが事の発端だった。

 

 

 

 その夜は嵐だった。

 雨だけでなく、風までもが戸を叩き、妖精たちは、ぴいぴい言いながら私の周りに集まっていた。魔道具の明かりが室内を照らしていたが、風が吹く度に木の枝が撓る音が耳に届いた。

 寒さも酷い中、ふと、家の戸を叩く音がした、ような気がした。偶然かと疑い、また戸が叩かれるのを待つ。

 やがて再度、戸が叩かれた。

 私は急いで立ち上がると、反撃用の魔法を編み上げつつ玄関へと向かった。迅速に、そして慎重に。この嵐に困っている人物か、もしくは夜盗の類だろうか。

 それよりも、この辺りを覆う結界は、何故この来訪者を通したのだろうか。

「……何かご用ですか? 」

 そろりと声を掛けると、戸の向こうからは消え入りそうな声が届いた。

「夜分遅くにすみません。この嵐で立ち往生してしまい……、納屋でも構いませんので、雨宿りをさせていただけませんか」

 戸の隙間から覗くと、立っていたのは女性。

 背負っている荷物は少なく、手におくるみに包まれた赤子を抱いている。布からちらりと覗く髪は元は輝くような金髪なのだろうが、雨に降られたためか彩を落としていた。

 赤子の存在に突き動かされるように、私は扉に手を掛け、ぶつからないようゆっくりと開いた。女性は私を見て驚いたように目を見開くと、その場で、急にすみません、と絞り出すように言う。

「冷えているでしょうが、まず拭くものを持ってきます。少しここで待っていてください」

 早足で目当ての棚へ向かい、綺麗な浴巾を取り出して引き返す。妖精がきちんと乾かしたであろうそれは、濡れた女性の水分を拭き取るのには十分だろう。

 赤子の存在を見た時に、結界の、おそらくはこの嵐による綻びを、彼らが通り抜けた理由を察した。幼い赤子は妖精と近しく、妖精を弾くことは難しい。

「これで身体を拭いてください。お子さんはお預かりします。……とはいえ、抱き方を知りませんので、教えてくださいますか? 」

 私が頼りなさげに眉を下げると、女性は緊張の糸が解けたように、くすりと笑った。指示されるがままに肘を曲げ、赤子を受け取る。軽く、小さく、首が据わっていると告げられても尚、頼りない。

 私が赤子を預かると、彼女は真っ先に赤子の濡れた髪を拭った。ほっとしたように息を吐き、赤子を拭い終えてから、ようやく濡れ鼠になった自身の身体を布で覆った。赤子は抱き抱える腕が変わったことに動じもせず、私に手を伸ばしている。

 寝る前で結いもしていなかった髪が、真っ先に犠牲になった。小さな手で握り締められ、抵抗もできぬままに引かれる。髪が犠牲になるくらい、と女性が身体を拭く間、好きにさせていた。

 自身の暗い色の髪を拭き終えた彼女は、少し湿った浴巾を肩に掛け、私の髪を握っている小さな指を解く。そうして、赤子は女性の腕に戻っていった。

 玄関近くにある棚の奥から室内履きを引き当て、彼女の足元に差し出す。

「どうぞ、中へ」

 彼女は申し訳なさそうに身を縮めながら、室内履きに足を通した。

 廊下を抜ける間に、物置の魔法関係の棚へ釣られるように視線を向け、無礼であったとばかりに素早く視線を逸らす様を見た。魔法使いを見知っているのであれば、特徴的な紋様や魔法陣から私の職業に察しは付くかもしれない。

 奇妙な行動をする訳でもない彼女に、少し力を抜きつつ居間に案内する。敷布の上を勧めると、彼女は少ない荷物を下ろし、遠慮がちに座った。

「お茶を持って来ます。狭い家ですが雨が止むまで、ゆっくりしていってください」

「ありがとうございます」

 彼女は赤子に指先を伸ばし、あやすような仕草を見せた。

 私は台所に向かい、普段は使わない火打金と鉱石、藁を引っ張り出す。相手の素性が分からない以上、彼女の前で魔法を使って、自身の技量を明かしてしまうのは躊躇われた。

 竈に近付き、かつん、かつんと打ち鳴らした。鉱石は思うように炎を灯さず、私は火打金を眺める。魔法が使えれば一発なのに、何とも面倒だ。

 そうやっていると、竈の裏から妖精がとことこと歩いてくる。私は女性に見えない位置で、妖精に手持ちの石を渡した。もう一人には火打金を。息の合った連携で、火打金と鉱石がカチン、カチンと音を立てる。鉱石は炎を孕み、藁に押し当てれば容易く移った。

 机の上から、余っていた堅焼きのケーキを千切り取り、こっそりと妖精の手に持たせる。妖精たちと入れ代わり息を吹きかけていると、炎は勢いを上げた。

 鍋に水を入れ、火に掛ける。沸騰した湯を葉を入れたポットに注ぎ、カップに注ぎ入れた。横で妖精たちが、おろおろと視線を私の手元に向けている。おそらく蒸らしの時間だとか、食器を温めるべきだとか、そういったことを言いたいのだろう。

 申し訳なく思いつつも、女性の元に出来上がった茶を運んだ。空腹か尋ねると、少し、と返事があった。先ほど指が触れた部分を切り落とし、ケーキも添えることにする。

「お嫌いでなかったら」

「いいえ。喜んでいただきます」

 手元の赤子に視線が向いた。私は近くの机へ手元の品を置くと、彼女に向けて手を差し出す。礼と共に、柔らかな重みが腕にずっしりと伸し掛かった。母親が食事をしている間、少しくらいは快適に過ごしてもらいたいものだ。

 私はゆっくりと赤子を揺らし、また髪を握り締められるがままになった。

「改めて、名乗りもせずに失礼をいたしました。私はシャノンと申します。この子はアレイズ、息子です」

「これはご丁寧に。ですが、私はこうやって森の奥で暮らしておりますので、告げる名前を持ち合わせていないのですよ」

 女性はカップを片手に少し迷うと、口を開く。

「では、『恩人さん』とお呼びしますわ」

 スカートの裾を摘まもうと、指先が僅かに動いた。貴族の出か、そういった屋敷で働いていたかのどちらかだ。そっと腕の中の赤子に視線を落とす。

 朝焼けのような紅色、光として差す淡い色の金髪。ふと、記憶の底に沈む人物が浮上した。私はそれらを口に出さず、赤子……アレイズに向けて笑ってみせる。

「アリー」

 釣られるように、幼いアレイズはきゃっと声を上げて笑った。赤子相手ならもっと泣かれるかと思ったが、アレイズにそういった素振りはない。ただ執拗に私の髪を掴んでは、にぎにぎと手で咀嚼を繰り返している。

 瞳がこちらを向いた。紅色のそれに、私の姿が映った。

 くすんだ灰色の髪と、唯一の色味を持つ海色の瞳。未来を示すような明るい色を持つアレイズとは、正反対の色の筈だ。この背が伸びることはなく、この皺が増えることはない。いずれ、彼は私を追い抜いていく。

「……恩人さんは、魔法使いなのですか? 」

「はい。田舎の、山奥で細々と暮らしている程度の腕ですが」

「そんな。魔法使いというだけで、尊敬いたしますわ。儀式や、星読みに治癒。魔法使いがいなければ、村の生活は苦しいものとなります」

 女性……シャノンは部屋を見渡し、更に口を開いた。

「家も綺麗に整えられていますし、……お気を悪くしないでほしいのですが、こう、魔法使いの家というものは、おどろおどろしいものかと思っていたんです」 

「よく言われます」

「そうでしょう? 」

 シャノンはくすくすと笑うと、ケーキに齧り付く。少し待っているように伝え、アレイズを抱いたまま立ち上がった。腕の中の存在は泣き出すこともなかった。自室に戻り、新しめの服をアレイズの上に載せるように抱えて取って返す。

 座っているシャノンの横に、服を置いた。

「私の物しかありませんが、まだ新しい服を用意しました。少し席を外しますので、ここで着替えては? 」

「助かります。では、着替えたら声を掛けますね」

「ええ」

 またアレイズの様子を窺いながら部屋を出て、廊下に立つ。ふと玩具になるようなものは無かっただろうかと物置に入り、小さめの擂り粉木を持ち上げる。洗ったものであることを確認し、アレイズに持たせようと差し出してみた。

 けれど、アレイズは擂り粉木に興味を持たず、私の髪を握って離さない。面白く思えるように緩急を付けて振ってみるが、一瞬見て、ふい、と視線を逸らしてまた髪をにぎにぎとやり始める。

「アリー。ほら、おもちゃだよ」

 私とは顔を合わせてにっこりとするのだが、髪以外を握ろうとはしない。棚から次々に玩具になりそうなものを持ち上げてみるが、アレイズは頑なに髪を離そうとはしなかった。

 やがて、私が疲れてきた頃に、シャノンから着替え終わったと声が掛かる。彼女は脱いだ服を手に抱えていた。

「このあたりに掛けておいたらどうですか? 明日には乾くでしょうから」

「ええ」

 シャノンは私が指した場所に服を掛け、丁寧に広げた。彼女のそれらの動作はやけに手慣れており、侍女であったのだろうな、と背景に思いを馳せる。

 手が空いたシャノンが、私に向けて両手を差し出す。アレイズを差し出そうとすると、当の本人は私の髪を、一層強く掴んだ。

「アレイズ。恩人さんにご迷惑を掛けないの」

 シャノンはアレイズの指を解こうとするが、本人はぐずり、私の服に顔を押し付ける。指は必死に離さないようしがみついた。

「はは、珍しがってでもいるんでしょうか。まあ、しばらくお預かりしますよ。まだケーキが残っています。腹にまだ空きがあるのなら、食べ終わるくらいまで」

「ええ」

 シャノンは僅かに眉を下げ、再度机に向き直った。空腹でもあったようで、ケーキをぱくぱくと口に入れる。その間、アレイズはじっと私を見ていた。

 髪を握るのも疎かになっていたため、顔の前で振ってやると、またぎゅっと握る。きゃっきゃっと大きな笑い声が上がった。

「アレイズ、楽しそう。あまり笑わない子だと思っていたのに……」

 つい口から零れたような言葉に、はっとシャノンは口を噤む。

「初めて会った者と触れ合うのは面白いもの。私も、貴方とアリーに会えて、数年分の春が一気に訪れたようです」

 にこりと口元に笑みを浮かべると、シャノンは取り繕った表情を返した。赤子と二人で旅をしていたのなら、赤子も見知らぬ土地に緊張していたのだろう。そして、笑いが少なくなった我が子に、シャノンが気に病むことも多かっただろう。

 彼女の所為である訳がなかった。

「そういえば、目的地はあとどれくらい遠いのですか? 少し食料をお分けしようと思うのですが、必要であれば路銀も」

「目的地は、ええと、少し離れた場所まで。路銀は……」

 黙り込んだ彼女に視線を投げ、失礼、とその場を後にする。自室の棚の奥から古びた箱を取り出し、軋んだ音と共に蓋を開けた。目当てのものはすぐに見つかり、すっと抜き取る。

 動けずにいるシャノンの元に戻り、掌の中のもの……青い宝石の付いた指輪を差し出した。

「これを、……そうですね、お貸しします。いずれ返して貰っても構いませんが、私には不要なものです。貴方がどう扱おうと、気にはしません」

 垂れ下がった彼女の手に、指輪を握り込ませる。返そうとして、躊躇って、それでも、シャノンはその指輪を私に返すことはできなかった。不思議と、アレイズの口角が上がって、嬉しそうな表情をしたような気がした。

 高価すぎて捨てきれなかったが、あの指輪は川にでも流してしまうべきものだった。人の助けになるなら、その方がいい。

「………………お預かり、します」

「食料も、日持ちのするものがありますから、用意しておきますね」

 シャノンが食事を終え、乳を含ませる間は席を外した。彼女の小さな荷物の中に、詰められるだけ日持ちのする食料を詰め、その後、眠ろうとしないアレイズを預かる。

 夜も遅いのに、赤子は盛んに腕を動かしていた。

「先に眠ってしまったらどうですか? 私は薬草の調合に夜更かしをすることも慣れていますし、アリーが眠ったら、貴方の横に寝かせることにしましょう」

 彼女には、シーツを張り直した寝台を貸すことで合意していた。私が床で眠ることを理由に最初は断られたが、アレイズのことを伝えると、シャノンも渋々頷いてくれた。

 最初はアレイズが眠るまでと起きていた彼女の瞼も、ゆらりゆらりと微睡みに移っては、理性と共に目覚めることを繰り返す。疲労を自覚させて寝台で横になることを勧め、私は自室の椅子に座って、アレイズと会話にならない言葉を交わし合う。

 やがて、シャノンが堪えきれなくなって眠りに落ち、遊び疲れたアレイズもまた、髪を握ったまま寝てしまった。やんわりと抵抗のなくなった指を解く。

 そしてシャノンの横に毛布を赤子が眠りやすいように丸め、その中心にそっと寝かせた。

『世界は創られた時より、大きな杯に満たされて其処に在る。しかし地は杯より崩れ、舞い上がる炎は無であった宙に満ちる。美しき女神への果実は、その形を崩さぬまま、我が手の内に留まるように』

 声量を落とした詠唱が、空気を揺らす。肌に触れる揺らぎが正しき干渉となるよう調整し、魔力の流れを操作する。アレイズを魔力の綿でゆるりと包み、寝台から落ちることがないように浮かせて固定した。

『ははおやの、おくにねかせれば、よかったのでは? 』

「そうだった。何でも魔法に頼ろうとするのは良くない。火もまともに灯すことができなくなるからね」

 そうだそうだ、と妖精たちが言うのを宥め、足音を消して自室を後にする。明日起きたら、朝食は何にすべきか、早めに起きて、妖精たちに補助を頼むべきか、私はそんなことを考えながら工房の隅で眠りに落ちた。

 急な来訪者に私も疲れていたのか、さほど経たないうちに眠ってしまったようだ。

 朝起きたとき、赤子の泣き声だけが響いていた。

 シャノンもいるのだから、といつものように自室まで歩き、少し扉が開いていることを怪訝に思いながら声を掛ける。

 室内から、返事はなかった。慌てて扉を開くと、寝台は、赤子だけを残してもぬけの殻になっていた。アレイズを抱き上げ、宥めながら私は玄関まで歩く。

 扉を開き、あたりを見回しても、シャノンの姿はなかった。居間へ戻ると、彼女の荷物は無かった。すとん、と脚から力が抜けるように、その場にへたり込んだ。

「……いや。数百歳にもなって、こんなことになるとは…………」

 私の指先に、かさりと紙が触れる。妖精たちが運んできたらしい紙は、慌てたような筆致で書かれていた。

 『予想もしていなかった妊娠であったこと』、『赤子が父親に瓜二つであったこと』、『父親が地位のある人物であったため、知られるのを恐れて実家にも長く居られなかったこと』、『旅の間、この子を育てられないのではという意識に囚われ続けたこと』。そして最後に、『ずっと笑わなかった息子が、貴方の前では笑ったこと』。

 手紙の後半は、殆どが謝罪で埋まっていた。そうしてアレイズは、私と暮らすようになった。

 

 

 

 助けを求めた村の夫婦の力もあり、アレイズはすくすくと育っていった。いくら彼らが協力してくれたとはいえ、一人で育てる限界に突き当たることもあった。それでもアレイズは人並み外れて賢く、健やかで、私によく懐いた。

 育てるのに慣れた頃にアレイズを養子に、という声もあったが、養子に出してしまえば、シャノンが迎えに来た時、養父母は彼を手放すだろうか。私が育てていれば、アレイズは彼女の元に帰ることができる。当時はそう考え、養子の話は断った。

 物心つく頃には、彼自身が私を選ぶようになった。村の人に、うちの子になる? と聞かれれば彼は、リィガと一緒に暮らす、と頑なに私の裾を掴んで離さなかった。自分が本当の親ではないことは、彼が言葉が分かるようになってから、早い内に話した。

 アレイズは、いずれ迎えが来るとしても、私と一緒に暮らしたいと言うようになった。私は、その時はまた皆で考えようね、と答えを先送りにした。

 とある暖かい日のことだった。

 私たちが出会った日を、私は誕生日と呼んでいる。そのアレイズの誕生日が近く、私は贈り物を考えていた。いつも通り彼は私の腕に収まって、村の子ども達と遊んだ話をしてくれていた。

「リィガ。……ぼくの話聞いてる? また考えこんで」

「ごめん。アリーの誕生日の贈り物は何がいいかな、って考えていてね」

 アレイズはその言葉に、待っていた、とでも言うように私に齧り付いた。首に手を回し、胸元にふわふわな金糸の髪を押し付ける。

「あのね、リィガのピアスが一つほしい」

「これ? 」

 耳元のピアスを摘まんで見せると、アレイズはこくんと頷いた。ピアスにしては縦長の石は、それ自体は軽い。ただし、形状としては垂れ下がるような形をしており、このままでは彼のような活発な子どもにとっては邪魔だろう。金具の部分だけでも、少し短くしたほうがいい。

「そう……。じゃあ、少し加工してからあげようね」

 約束、とアレイズと言葉を交わし、左耳のピアスを外して掌に載せた。左は凶いに通じる。そちら側の護りが手厚いほうが良いだろう。

 金属を操ることには慣れている。薬草も、金属も、加工し、時には創造するのが私たち魔法使いの本来の仕事だ。決して、効果を齎さない儀式の進行役などではない。

 まだ寝ないとぐずるアレイズを寝かせつけ、近くの机に外したピアスを置いた。物置から持ち出した工具類を横に広げ、席に着く。

 外したピアスの金具を一旦切断し、角を丸め、ねじ曲げて再度短く繋げる。宝石はまだ小さい彼には大きい筈だが、周りの子ども達に比べれば体格が良く、よく食べる。きっと大きく育つだろう。育った彼なら、きっと似合いのピアスになる。

「イヤリングにしたら……落とすだろうなあ」

 朝から夕までよく駆け回り、よく眠る。きちんと固定しない装飾具は、そのうちに落として無くしてしまうような気がした。小さな子の身体に穴を開けるのは忍びないが、痛みは魔法で消すことができる。

 あとは、迎えに来たシャノンに怒られたら、私が謝って穴を塞げばいいだけの話だ。アレイズとの生活は穏やかに過ぎているが、もう彼も随分大きくなった。

「……このままだと、私がアリーを貰ってしまうよ」

 独り呟く声に返事として届くのは、幼い子どもの呼吸音だけだった。そっと立ち上がり、寝台に腰掛ける。

 ふくふくとした頬を指の背で撫で、むずむずと身じろぐ様子を口元を綻ばせつつ見やる。手に持っていたピアスを小さい耳に当てると、やはり、体格の小ささからかピアスは際立って見えた。

 紫水晶は両親がまだ存命だった頃に貰った石だった。家も継がず、王城に働きに出て、そして王城を出奔した私は、彼らのそれからを知らない。彼らがこの石をどうしてほしいと願っていたのか、幼い子に渡してもいいものかも知り得ない。

 疾うに忘れたと思っていたのに、まだ僅かに、胸を引っ掻かれた。

『ありーは、よくねる。ひるに、ずっとかけまわっているからな』

 小さな影が寝台の端から、シーツを手繰り寄せ、よじよじと寝台の上へ登っていく。短い足でアレイズの周囲を取り囲むと、ひそりひそりと聞こえもしないのに小声で会話を続ける。

 アレイズが一緒に暮らし始めても、妖精たちが家を出ていくことはなかった。奇妙なことに、新たに増えた幼子は守るべきものとして共存関係を築いている。アレイズが出歩いている間、妖精たちのうちの数名は付いて見守っているようなのだ。

『でもきょうは、あぶなかった。あのみずうみは、きたのはしはふかいのだ』

 ぞっと背筋が凍えるような気がした。アレイズの行動にはできるだけ口を挟まないつもりだったが、子どもが遊ぶには危ない場所もある。

『けれど、さけんでも、こえはとどかない。こどもがようせいのことばをきくのは、こどもがようせいにかえれるうちだけ』

『ありーは、まほうつかいがいるから、ようせいにはかえれない』

『『『こまった』』』

 私がいるから妖精にかえれない、という言葉は気になったが、私はピアスを持ち上げた。魔法の力は何も篭もっていないそれを振り、ゆらりと揺らす。

 宝石は魔法の材料になり易い。魔法の触媒としても良い、砕いて飲み薬にするにしても魔力を込めやすい。指先でピン、と弾くと照明の光を反射してきらりと光った。

「このピアスを魔道具へ変えよう。宝石に魔法を込めて、金属を経由して彼の耳から魔力を流す。私の魔力だ、きっと妖精くん達の声を拾えるようになるだろう」

『ひがしのまほうつかいは、いつでもようせいにかえれるからな』

『ひとのよでくらすのに、なんぎなものだ』

 妖精にかえれること、かえれないこと。妖精たちの間では、自分たちの声を聞き姿を捉えられる私と、声も聞こえなくなり姿も見ることができないアレイズの違いははっきりしているようだった。

 私はピアスを握り締め、口を開く。

『森が拓かれて尚、古き隣人は傍にいる。隣人が踏み入れぬなら柵など倒してしまえ。隣人の声が届かぬなら扉など砕いてしまえ。耳を塞ぎ、そして第三の瞼を開く。声ではない波で、我々は互いに感応する』

 指を開くと、ぼう、とピアスの宝石が一度明滅した。ゆるやかに魔力が流れ込み、宝石の中に留まるのが分かる。宝石は妖精の波を中継し、アレイズの耳に聞き取れる波へと書き換える。きっと、ピアスを着けた幼子は妖精たちの波を意味ある言葉として拾うだろう。

 魔法を行使した高揚からか、眠ることはできず、アレイズの傍らで諳んじた呪文を口に出す。魔力を流さないそれらはただ音として流れるだけだが、気がつけば妖精たちは膝の上に乗り、ゆらりゆらりと小さな身体を揺らしていた。

 はたと言葉を止めると、つぶらな瞳で見上げてくる。

『さすが、せいらいのねいろよ。みごとであるなあ』

『もっとうたってくれ』

 要望に応えるように、また口を開く。魔力の乗らない静かな詠唱に、妖精たちは身体を揺らしてみたり、跳ね回ってみたり、言葉を加えてみたりしている。彼らが付け加える言葉は、つまりは彼らにとっての最適解だ。

 修正された言葉を、頭に叩き込む。機嫌が良くなければ、彼らはこうやって神秘を明かしてはくれない。それらは意地悪ではなく、以て人と付き合う均衡としているのだろう。

 長い呪文が終わる頃には、陽が昇りはじめていた。朝焼けの色、アレイズの瞳の色は、生命に満ちている。光に反応したのか、瞼がむずむずと動き、やがて同じ色の瞳が覗いた。

 力の篭もらない小さな指が、私の服を掴む。

「りぃが……、おはよう」

「うん、おはようアリー。よく眠れたようだね」

 アレイズは服を伝って起き上がり、私の胸元に縋り付いてくる。髪を撫で、背を支え、ゆったりと抱擁した。すりすりと顔を首筋に擦り付けるので、くすぐったさに笑みが零れる。

 ふわふわの髪に指先を埋めると、陽の光が当たったためか温かかった。

「ピアスができたよ」

 目の前で揺らしてみせると、朝焼けの光は紫を追った。両手で包み込むようにして受け取ると、そろりと開いて覗き込む。

「ぼくのピアス! 」

 きゃっと喜んでみせる様子に、ほっと息を吐く。

「誕生日に付けてあげようね」

「それまで、持っていてもいい? 」

 いいよ、と頷くと、幼子はじっと手のひらの中を眺めていた。食事をしても上の空で、横に置いて穴が開くほど見つめているものだから、食事に集中しないと魔法で隠してしまうよ、と脅す。

 そうすると、今度は部屋の隅でこっそり眺めるようになった。

 

 

 

「何か今日は、妖精たち喧しかったな。いつものことだけど」

 アレイズの耳元で、馬上の揺れに合わせてピアスが煌めく。彼に抱え込まれるようにして、私は鞍を跨いでいた。アレイズほど乗馬に慣れてはいないため、私には鞍が必要であるし、勿論、揺れの少ない側に乗せられる。

 手綱はアレイズが握っている。乗馬は私が教えたのではなく、彼の師匠が教えた術だ。

「何だかんだと、食べ物にはよく釣られている。可愛らしいね」

「まあ、可愛いんだろうけど、なぁ……」

 言葉を溜めたアレイズにもたれ掛かり、視線でその先を促すと、揺れながら重い口が開かれる。

「底知れなさが怖い、って感じなんだろうな……。たまに忠告を受けるんだが、淡々と喋るもんだから、奴らを前に背筋が凍ることがある」

 鞍が大きく揺れた。アレイズは軽く手綱を引き、体勢を整える。乗馬中の視線は完全に私を向くことはなく、視線は忙しなく動いている。腕の広さも含め、守られている感覚を特に強く感じる時間だ。

「種族はどうしても違うからね。彼らと接するときは、どれだけ砕けた関係だとしても、芯の部分に誠意を忘れてはいけないよ」

「……人の価値観での誠意が、どこまで伝わるもんだかね」

「人として誠意を示そうともしなければ、別の種族に誠意として受け止められるはずもないだろう? 」

「はいはい、分かってますとも。誠意を以て努力して、あっちの価値観でそっぽ向かれるのは理不尽だと思うだけだよ」

 遠目に村が見えてくる。身体が家の周りを囲む結界を通り抜けた。

 目くらましと遮断、それらの結界によって、望まぬ者が家に辿り着くことはない。シャノンが迷い込んで以降は、彼女を再度招き入れるため結界を修正したこともあって、誰かが迷い込むことはなかった。

 家から村へはそこそこの距離がある。この距離感は今では有難いが、アレイズが小さい頃は、助けを求めるのに苦労したものだ。

 村に入ると、あちこちからアレイズに声が掛かり、そして私にも挨拶の声が持ち上がる。声を掛けられる度に返事をするが、気安く雑談を加えているアレイズとの会話と違い、私に対しては皆恭しい。

 この村で祀られている神の化身は大烏。明るい羽を持ち、未来を告げると言われている。その烏と私の髪色に共通点を見いだした彼らの中には、老いを見せない私を神に通じる存在だと考える者もいる。それを除いたとしても、村にはない技術を持つ私に恩があると感じている者も多い。

「東の魔法使い様、おはようございます」

 国の東、深い森の奥に住む私を、西の魔法使いと同じように彼らはそう呼ぶ。私たちは本来の名を人々に告げることはしない。また、私を本来の名ではないとしても、愛称で呼ぶのもアレイズくらいのものだ。

 私が名で呼ぶことも、私が名を呼ぶことも、魔力を持つ限り、多かれ少なかれ相手に魅了の効果が及んでしまう。名を教えるのは、伴侶や家族くらいだ。

「おはようございます」

 村人とアレイズが会話をしているのをただ待つ。声を掛けてきたのは若い女性で、アレイズは手早く切り上げようとしていたが、女性の方が会話を引き延ばそうと努力しているように思えた。

 別れ際に、お菓子を作ったから、と包みを手渡されている。女性が離れていくと、アレイズはお裾分けの包みを仕舞い、息を吐く。

「先生と食べるか」

 先生……アレイズの料理の師匠である彼女ならば、よほど食べづらいお菓子でなければ美味しく頂くだろう。

「そうだね。おばあさん、喜ぶと思うよ」

 アレイズはそう答えた私を見下ろすと、一度渋面を作り、そして手綱を握り直した。何か言いたげだったが、口元は引き結ばれている。私は一度指先に髪を巻き付け、くるりと指を回して離した。

「……何か、気分を害したかな? 」

「んー? 別に。今度はリィガに何のお菓子を作ろうかなと思って」

「ふむ……、焼き菓子がいいな」

「作業しながら食べられるから、って言うだろうから却下。俺とお茶しながら食べるんだよ」

 仕方ない、といくつか食べたい果物を挙げると、アレイズは先生に相談する、と返答した。その様子に、くすくすと笑い声を漏らす。

「アリーとのお茶の時間なら、私は作業時間よりも優先するよ」

 ね、と腕に手を添えるが、返事までには随分と時間がかかった。後ろを振り返ろうとするが、器用に肩で押されて戻される。たまにこうやって妙な態度を取られることがあるが、その度に少し寂しくもなる。

「そうだな。何よりも優先してくれたら嬉しいかな」

「……しているよ? 」

 その言葉に、返事はなかった。魔法の研究に熱中すると周りが見えなくなる質ではあるが、養い子にこうも念押しされるとは、余程なのだろう。少し馬を歩かせていると、老夫婦……コナとレナの家まで辿り着いた。

 馬から降り、家を見上げる。娘息子が独立した後、都から移住した老夫婦二人だけの家は、魔法のための物に溢れた自家の手入れのお手本だ。家の周囲は花に溢れ、家の前には小さな焼き物の人形が可愛らしく飾られている。

「あの薄紅の花、きれいだね」

「リィガは花好きだな。今度、育て方聞いておくよ」

 花があるのは自家もそうだが、老夫婦の家は花の色味の組み合わせにも品があり、気候に合わせて色味を選んでいるそうだ。最近では、アレイズがそれらを取り入れており、自宅の庭も先生には敵わないが、見栄えが良くなってきている。

 アレイズは馬から降りないまま、声を張る。

「師匠! 朝練に来ました」

「おはようございます。おじいさん」

 馬小屋から老爺……コナが顔を覗かせる。

「魔法使いさん、おはようございます。……あと弟子、待っとる間に老衰で死ぬかと思ったわ。さっさと行くぞ」

 短髪と整えられた口髭を蓄えたその人は、武器袋を背負い、馬小屋から馬を引いてくる。体格はしっかりしており、外での仕事が多いためか服は所々が擦り切れ、繕われている。玄関近くまで来ると、軽々と馬に跨がった。年齢を感じさせない動きだが、本人に言わせれば全盛期に比べて随分衰えているそうだ。

 とはいえ、アレイズがまだまだ敵わないと師事している人物である。体力は衰えたとしても、技は年々磨かれていくばかりだ。

「はいはい、お待たせしましたね師匠。今日は弓も持って来ました」

「まあ、今日は弓持ってくるだろうなと思って、弓も持って来たわ。昨日、川の近くに鳥が群れておったからなあ」

「訓練の後、狩りましょう」

 ふとアレイズの背後を見ると、ちょこんと妖精が一人、馬の尻に腰掛けていた。私が気づいたのを見ると、ひらひらと小さい手を振ってくる。アレイズと話しているコナに気づかれぬようにこっそり手を振り返す。

 妖精たちは気づけばそこに居て、気づけばそこには居ない。そういった存在の中では、規律を守れば付き合いやすい部類の相手である。有無を言わさず水中に引き摺り込んだりはしない。

「アリー。鳥は食べる分だけ、ね。いってらっしゃい」

「心得ているとも。行って来ます」

 私は身体を反転させると、老婆……レナが居るであろう家の前で声を張り上げようと口を開く。と同時に扉が開いた。

「おばあさん。おはようございます」

「おはようございます。ふふ、アリーくんの元気な声が聞こえましてねえ。そうしたら魔法使いさんの声も聞こえたわ」

 どうぞお入りになって、と促されるまま、差し出される室内履きに履き替える。薬師の家だけあって、魔法使いの家と同様に埃などには気を遣うのだ。元来きれい好きな彼女の気質も相俟って、室内は外と同様に整理と掃除が行き届いている。

 玄関で少し服を叩いて埃を落とし、ようやく室内に足を踏み入れた。

「新しい湿布をお持ちしたんですが、少し皮膚に負担があるかもしれないんです。試しに貼って、肌の様子を見せて貰えればと」

「あらあらそれはご丁寧に。もう肌も弱くなってしまったから助かるわあ、こちらでも作れそうなら、配合も教えていただけるかしら? 」

「ええ、問題なさそうなら今日お伝えして帰ります」

 その間お茶でも、と促され、いつものようにレナに続いて台所に入る。習慣のように竈の前に立つと、口を開いた。

『創めは炎は彼のものであった。炉は新たな炉へ炎は分かたれ、新たな炉にも彼のものは宿った。光は何処かで灯れば新たに消えゆき、消える度に何処かに灯る。故にこの地より炎は消えることなく、光は永久に灯り続ける』

 ぼっと薪を炎が嘗め、色は橙色に落ち着いた。しばらくは盛んに燃え続けるであろう炎の上に水の入った鍋を置き、その場で見守る。やがて、ぐつぐつと沸騰が始まり、レナと位置を入れ替わる。

 手慣れた動作でお茶を淹れるレナの横で、指示されたカップを盆に置いていく。載せられたそれが琥珀色で満たされると、盆を持ち上げた。机に運び、思いおもいに腰を下ろす。

「じゃあ、腰ですよね。服を捲りますね」

「はぁい」

 レナの返事を待って、彼女の服の裾を捲る。手元で湿布を広げ、粘着質の部分を腰に貼り付けた。手のひらでぽんぽんと軽く叩いて押し付け、服を元に戻す。

 振り返ったレナに問いかける。

「変な感じはしませんか? 」

「いいえ。痛んだりはしないわ。とても効きそう」

 うふふ、と嬉しそうに笑うレナにほっと息を吐き、机に向き直る。最近のレナが手掛ける患者について健康状態を聞き、助言が与えられるものについては、薬に加えるべき原料の名を挙げる。

 元々レナは、都の薬屋で長く勤めた後に村にやって来た。知識量も十分で、そこらの町の薬屋や、腕のない医者よりもよほど頼りになる。町医者に駆け込む時間も無い場合、鋏で患部を切り落としたり、針と専用の糸で皮膚を繕えるほどには手当慣れしている人物でもあった。

 村人と広く交流を持ち、その言葉は精神を落ち着かせることに定評がある。心の病に対しての対応は特に、私には敵う気がしない。

「アリーがさっき、村のお嬢さんからお菓子を頂いていて、『先生と食べる』と言っていたので、後からお邪魔するかもしれません」

 レナは今日は沢山お茶ができる日ね、と呟き、手元のカップを持ち上げた。

「アリーくん格好いいから、お嬢さん達は集まっては差し入れの話をしているわ」

「ええ。優しいし、聡いし、育ての親から見ても、……よくああ育ったなと」

「そうねえ、魔法使いさんは偶に抜けているところがあるけれど、アリーくんは、あまりそういうところがないものね」

 アレイズに足りない部分を、彼は自覚しては直そうと努力している。私のように出来る技量があるのに偶に出来ないことがある、ようなことがなく、安定しているようにも見える。

 村とは少し距離を置いているらしいが、自警団では一定の役割をこなしているようだし、村人との交流も私よりずっと多い。いずれアリーが家を出たら、村で暮らすのではないだろうか。

 ただ、私にべったりの養い子は、未だに家を出るつもりはないらしい。私としても、彼に家を出なくていいのか、と尋ねるのは、彼が要らない子だと取られてしまうのでは、と避けている。

 個人的な希望を言えば、いつまで居てくれてもいいのだ。ただ、村の社会で暮らす方が、彼の未来にとっては喜ばしいのでは、と考えている。

 つい話し込んでしまい、カップの存在を忘れていた。指先を沿わせると、ぬるくなってしまっている。

「私は、将来アリーはこちらの村で暮らした方がいいのでは、と思っています。勿論、決めるのは本人ですが」

 カップを口元に当て、流し込む。一息でたくさん含めてしまうほどに、熱は失われていた。

「アリーくんなら引く手数多だろうけど、そうね。魔法使いさんは、アリーくんと離れても平気なのかしら? 」

 レナの瞳と視線が衝突した。私は口元に笑みを刷いて、熱の篭もった息を吐き出した。

「平気な訳がありません。けれど、昔は独りでしたから、いくら心が張り裂けようとも、いずれ慣れるのでしょう」

 そう願う他なかった。自分の年齢に比べたらほんの一欠片ほどしか一緒にいなかったはずの養い子は、容易く身体に根を張り、自分にとっての平常となり得た。彼がいなくなった家の夜は、とても静かだろう。

「……悪いことを言っちゃったわ、ごめんなさいね」

 いいえ、と口に出す。彼女は、養い子のために希望を押し殺そうとしている私を、案じただけだ。

「でも、もしアリーくんが貴方の傍で一生を過ごすことを選ぼうとしたら、それを受け入れるどうかは、沢山悩んで欲しいわ」

「一生、ですか。……おじいさんとおばあさんでもあるまいし」

 はは、と私は笑いで誤魔化そうとしたのだが、レナの静かな瞳は、ひたりと私をその場に縫い止めた。笑い声は喉の奥に消え、私はつり上げようとした口の端を、元の位置に収める。

「あら、わたし達が一緒にいるのは、そう決めたから。それだけよ」

「そう、……ですか」

 もし、アレイズが家を出ず、一生あの家で暮らすと言ったら、私はきっと、ほっとするだろう。そして、未来を不安に思うことだろう。

 私は、ある一定の歳から老いることがなくなった。

 人としての機能は、人並み以上にはならなかった。けれど、私はレナを彼女がまだ村に越してきた頃から知っている。そして、それから先、アレイズを得て、彼が青年になってもまだ、私の姿形が変わることはない。

 同じように姿形が変わらない魔法使いに、『西の魔法使い』がいる。但し、彼、……女は私よりも年上だが、いくつかの魔法を多重展開して、その若さを保っていると聞いた。その美貌も、張りのある肌も、すべてが魔法由来のもので、何も努力をせずに姿に変化がない私に大層驚いていたのを覚えている。

 私が得意とするのは治癒魔法で、魔法使いの間に出回っている治癒魔法は勿論だが、私にしかできない大掛かりな治癒魔法が一つある。

 相手と自分を魔法的に繋げ、そこから治癒魔法を最大限まで流し込む方法。相手が自身であると定義することで、患部も探りやすく魔力も流し込みやすい。大きな病も、大きな怪我も治すことができる。ただし、この方法は一度相手を自身として取り込んでしまう為、切り離したとしても、結果的に私の魔力が過度に流れ込んでしまう。

 生来、老いの止まった身体を持つ人間の魔力……生命力とも言うべきそれが流れ込むと、多かれ少なかれ、平凡な人間であるはずの相手に老化の軽減という効果を齎すのだ。私がこの奥の手とも呼ぶべき方法を使った相手は、必ず人としての長寿を得る。

 私はこの方法を、アレイズに使ったことはない。ただし、望めばあの方法を応用して、アレイズをこちら側に引き込むことはできる。養い子を、人の道から外させて、だ。

「私はアリーに、一生を共にしてほしいとは思いません。私の生涯は、人のものとはかなり、外れたものになるのでしょうから」

 レナのカップから、残っていた湯気が一筋立ち昇ったように錯覚した。

「そう、わたしは難しいことは分からないけれど。魔法使いさんだって同じ道の上に立つ、ただの人に見えるわ」

 彼女の言葉はただ優しく、けれど、私はその言葉を呑み込む術を持たなかった。

 

 

 

 レナの仕事を手伝っていると、やがてアレイズと師匠のコナが連れ立って帰って来た。二人とも汗だくで、それでいて師匠の方は、昼から村の見回りに出るつもりのようだ。今日の獲物について語った後、コナは私に向けて口を開いた。

「猟場の境で近くの町の自警団と話をしたんですが、最近、その町に滞在している、身分の高い人物がおるようなんです」

「はあ」

 私が気の抜けた返事をすると、コナの肩によじよじと登ってくる者がいた。先程馬の尻に乗って同行した妖精だ。コナは妖精にしがみつかれている感触はあるのだろうが、よくあること、と受け流している様子だった。

『きんぱつで、うつくしいじんぶつらしい』

 細く届く声に、アレイズが軽く目を見開き、声が聞こえた場所を見る。妖精はその場に居合わせたようで、コナの言葉を補足していた。

 私は王城で勤めていたことはあるが、かなり昔の話で、当時を知る人物は魔法使い以外は生き残ってはいない。おそらくその『身分が高い人物』も見知らぬ他人だろう。

「リィガ、その身分が高い人物に心当たりはあるか? 」

「特にはないけれど」

 その返事を聞いたアレイズは渋面を作った。どうしたのか、と異様な養い子に問いかける前に、コナが言葉を引き継ぐ。

「どうやら、その人物は町に滞在しながら『東の魔法使い』を探しておるらしいのです」

『もう、すうじつまえからだそうだ』

 しばし動きを止め、ゆっくりと腕組みする。心当たりを探られるような視線をアレイズから浴びせられ、再度確かめるように首を振った。妖精が、コナの肩でその仕草を真似る。こんな緊張感のある場面でも、彼らに関係はないようだ。

「……余程、治したい病があるんだろうね」

 昔、王城に勤めていた頃は、頼まれれば際限なく病を治していた頃もあった。それでも、自分の魔力が他者の寿命に影響すると知り、王と決別して王城から離れてからは、その方法は取らなくなった。

 長い寿命が果たして救いであるのか、アレイズを育て始めてからは特に考えることが多くなった。

「軽い病なら助けたいけれど、ここまで探しに来るということは生死に関わるものなんだろう。では、私に出来ることはないね」

『ああ、みすてるのがけんめいだろう』

 妖精は、何を考えているか分からない瞳で私を見る。彼らの瞳は宙の奥すらも映すようだ。

「ええ、そうだろうと思いました。向こうの町でも、うちの村から薬を融通している恩がある、と、口を噤むよう長から指示が出ておるとのことです。すぐに居場所が漏れることもないでしょう。……何事もなければ」

 いくら辺境の地ほど町の結束が強いとはいえ、おそらく限界はあるだろう。もしかしたら、私の居場所を嗅ぎ当てるかもしれない。暫くの間、結界を越えない方がいいだろう。私はそうコナに伝え、彼もまたその考えに同意した。

「アリーの行動まで縛るつもりはないけれど、結界を超えるときは、周囲に人がいないことを確認するようにね」

「分かった」

 短く答えを返す声音は低く、アレイズとしても今回のこの事態を重く考えていることを窺い知る。指先を伸ばし、彼の頭を撫でる。後頭部から肩に指先を滑らせて、その頭ごと抱え込んだ。耳元で紫色の宝石が光を受けて揺れる。

「大丈夫。アリーだけは守るからね」

「……それはこっちの台詞だ」

 抱きしめられやすいように身を屈め、むすりと拗ねたように言うアレイズに、くすくす笑いながら背を叩く。しばらくそうしていると、横でコナが居心地悪そうに視線を逸らす。

 そろりと手を離し、アレイズの変に寄った服を整えてやる。

「……レナさんとも、人前でこうはせんぞ」

「しても構いませんのに」

 コナはレナから切り返され、いや、と言葉を濁している。コナの肩で妖精がその表情を真似て苦い顔を作った。ちょこちょこと小さな手足で、行動を真似てすらいる。

 ふ、とアレイズに隠れるようにして笑うと、私の様子を見たアレイズは妖精が何かしているのだろうな、と察したようだった。

「昼からも稽古の続きをしたかったんですが、俺もリィガの傍に出来るだけいるようにします。師匠」

「自主鍛錬を怠るんじゃないぞ」

「はい、勿論です」

 アレイズは貰った菓子の包みを、全てレナに渡してしまった。代わりのように野菜などを貰い、馬の右に積む。左には仕留められた鳥が網に入ってぶら下がっていた。妖精はコナの肩から飛び降り、また馬の脚を伝って荷物の上に陣取った。

 コナとレナに手を挙げつつ別れ、帰路に就く。馬上の景色は行きと変わりなく、多少気を張っているが、怪しい人物は見当たらない。きょろきょろしている私に気づいたのか、アレイズが声を掛けてくる。

「索敵なら俺が片手間にやっておくから、ゆっくり身体を預けてくれ」

 コナに鍛えられている筈の弟子に言われ、浮かせた尻を落ち着ける。傍らに視線を向けると、アレイズを真似るように妖精も盛んに周囲を見回している。

「妖精くん、敵はいるかい? 」

『いないようだな』

「妖精も警備してくれてるのか、ありがとうな」

『うむ。ひとがいるのはわかる。だが、ひとをみわけるのはむずかしいからな』

 妖精はそう言うと、警備に戻った。そう言いつつ、私やアレイズの元にはこうやって顔を出すのだから、私たちをその難しい見分けができるほど見慣れたということなのだろうか。

 僅かな違和感を散らし、前に視線を戻す。

「……アレイズ、これから護衛をしてくれるのはありがたいけれど、程々で構わないよ。私も、魔法使いなのだし、村にも行きたいだろう? 」

「いや? 師匠の稽古を受けられないのは残念だけど、庭の手入れとか、家の細かい修繕でもするかと思ってるところだ」

 妖精から、ちいさく歓声が上がった。彼らは家が好きで、綺麗にしてくれるのは望むところなのだろう。

「でも、村で過ごすことも増えたし……。頻度を増やして、村で長く……滞在したかったりはしないかい? 」

「俺は今の家が好きだ。リィガが出ていけって言うなら考えるけど」

 きっぱりと言われ、こちらのほうがたじろいでしまう。馬の揺れに身体が傾ぎ、アレイズの腕で優しく立て直された。

「君に出ていってほしいと思ったことは、一度もないよ」

「じゃあ、出ていかない」

 その一言は、滝が石を打つ音だった。言葉に曲がりも濁りもなく、私は彼が心を決めてしまっていることを感じざるを得なかった。ずっとアレイズが出ていかないと言ったら、私はアレイズが老いるのをただ見守るのだろうか。それとも、自身の立ち位置に引き込むのだろうか。

 知らず知らずの内に喉が鳴った。いずれ問いかけてみたいと思っている問いが、喉の奥からせり上がってくる。

『もし自分と一緒で、老いない身体になるとしたら、どうする? 』

 ぐっと言葉を留め、無理をした気持ち悪さと共に嚥下する。

「邪魔だとは、思っていない……ん、だよな? 」

 心細さを含んだ声に、慌てて振り返る。咄嗟に、叫ぶように言葉を放った。

「一度も、邪魔だと思ったことなんかない! 」

 彼の目は一度見開かれ、そして細められる。握り直された手綱が操られると、馬の速度は一気に増した。慌てる私の身体を、悠々と腕が支える。

 背後から笑い声が聞こえた。風が耳元を駆け去っていく音が、それに混じる。何が面白かったのか、何度私がそれを叫ぶように問うても、笑うばかりのアレイズは答えを返すことはなかった。

 

 

 

 家に帰り、ゆっくりと夕食の支度をした。とはいえ、料理を得意とするアレイズに任せきりで、私の仕事は、補佐をしようとする妖精たちとアレイズとの橋渡しくらいなものだった。

 それでも、出来上がった料理を前に私の分担に対して礼を言い、教えたとおりの上品な仕草で食事を口に運ぶ。元は王城で勤めていた頃に覚えた作法で、最近のそれと比べると古めかしいものになるのだろう。

 けれど、その古めかしい作法を体現するのがアレイズともなれば、古めかしい、は褒め言葉になるのだから不思議なものだ。伸びた背筋も、器用に動く指先も見ていて不快にはならなかった。

 アレイズの母……シャノンは、アレイズの父を身分ある人物だと言っていた。おそらく、アレイズの外見は父親譲りでもあるのだろう。僅かに、可能性として考えている人物もいるのだが、荒唐無稽な気がして、確かめることはせずにいる。

 腹を満たして、自然の恵みに感謝を述べつつ食事を終えた。先に身体を洗うと言い始めたアレイズに順番を譲り、私はアレイズが摘んできてくれた薬草の選別を始める。水で綺麗に洗い、不要な部分を落として、扱いやすいよう縛って薬草棚に仕舞った。

 一息ついていると、ちょうど着替え終わったアレイズが探しに来た。

「交代」

 着替えの服を一式手渡され、礼を言いつつ廊下に出る。なにから何まで頼りっぱなしで、本当に数年前とは立場が逆転してしまった。彼が幼かったからこそ、世話をする必要があっただけで、彼の方が細かく世話する仕事は得意な気質なのだろう。

 そう考え、かといって武術、料理、建物の修繕、庭造りと彼に敵う事があるのかといくつか挙げるも、自分には魔法くらいしかないことに思い至る。

「要らないのは。私の方なんじゃ、ないのかなあ……」

 脱衣所で呟きながら服を脱ぎ落とし、装飾品を外す。汚れさえ落ちればいい、と手早く身体を清めてから新しい服を身に纏った。丁寧に洗われ、乾かされたそれは、さらりと肌の上を滑る。髪はまだしっとりと湿っていた。

『空は均衡に満たされている。均衡があればこそ、その場で動くものはない。我は指し示す位置の気を圧……』

「リィガ。髪の手入れするから乾かす前に出てきてくれるか? 」

 扉の隙間から顔を覗かせたアレイズは、一揃いの手入れ道具を持っていた。私は詠唱を止め、放たれ始めていた魔力を収める。床に垂れない程度に水分を拭き取り、脱衣所を出ると、こっち、と腰を押されて誘導されるがままに歩く。

 促されたのは私の寝室で、寝台に腰掛けるよう促される。私が言われるままにすると、アレイズもまた背後に腰掛けた。巾を広げ、丁寧に髪の水分を落とすことから初めていく。

 髪は強く引かず、芸術品のように布の表面は髪を撫で、過ぎていった。

「魔力が宿るとはいえ、そこまで気にしなくても……」

「いつかこの髪が役立つかもしれないし、手入れするの好きだからさ」

 指を取られ、ついでのように指に膏薬を塗りつけられる。外出の時に引っ掻きでもしたのだろうか。線を引くように赤い筋が残っていた。手の甲を擦って仕上げられ、僅かに執拗さを感じて手を引く。

 はっと見返すとアレイズが半眼になり、私の両肩を掴んで自身に引き寄せ、頭を擦り付ける。

「なんで俺から逃げるかな? 」

「なんか、くすぐったくて……」

「もうくすぐったくしないから」

 腕が身体に絡み付いた。腕ごと抱きしめられ、払い除ける方法さえ封じられる。こういう時に、いつの間にか人を制する術を身に着けているのだと実感する。幼かった子が獲物を持って帰るようになり、当然のように自警団で役割を見つけ、村に溶け込んでいく。

 頑なに私と離れようとはしないが、いずれ捨てられるのは私の方ではないか。

「……綺麗な指。心地いいから触っていたくなる」

「昔に比べたら、きっと荒れてしまっているよ」

「見た目も性格も全然変わらないけどなぁ。ずっと綺麗なままだ」

「そういうの、誰にでも言うんでしょう」

「…………。リィガと先生くらいだよ。偶に師匠の技にもそう言うかな」

 頬を膨らませてみせると、回った腕が更に強く締め付ける。背中に縋り付いていた小さな子は、いつしか身長を追い抜き、覆い被さればこちらが隠れてしまうようになった。今や私の方が小さい。

『とりがいる。せきをはずさなければな』

『ああ、つつかれてしまうな』

 部屋の隅を妖精たちが駆け去っていく。元々寝室にいたのだろうが、急いだためか途中で躓き、廊下にまろび出ていった。こんな夜に、と首を傾げる私とは対照的に、ピアスを外してしまっている養い子は声を拾えていないようだ。

 髪の手入れを放り投げてしまったアレイズは、私の肩に顎を乗せ、前傾して背に体重を掛けた。

「なあ、今日一緒に寝よう」

「甘えたい年頃なの? 構わないけれど」

「んーん。歳とか関係なく、ずっと甘えたいの」

 回された手の甲に指先を引っ掛け、軽く握った。剣を振り、弓を引くその手は所々瘡蓋ができていて、皮膚が硬くなっている箇所もある。つい指先で撫でると、くすぐったいと言うように軽く笑い声が立つ。

 いずれ、アレイズは私の姿の歳を追い越していく。私がこの姿のままでいたとしても、年老いていく彼の歳は止まらない。レナも、コナも、アレイズの世話で頼ったときはまだ子が独立して少し経ったくらいの頃だった。それからアレイズが育つと共に、彼らの顔立ちは変わっていった。

 アレイズが手を離し、髪の手入れに戻ろうとするのをつい制してしまう。手を握って、しばらくの間、離さなかった。

「……髪の手入れは、明日にするか」

 毛布を持ち上げる動作に、こくりと頷く。早口で呪文を詠唱し、残った水分を吹き飛ばした。一度立ち上がり、先に寝台に入る。

 一人用の寝台は狭く、二人で入ってしまえば絶対にどちらか溢れる。それでも、手足を寄せて、身体を縮めてでも体温を恋しがる日があった。それにしても、久しぶりに一緒に眠ると言い出したように感じる。

 夜は深く、目を見開いても月は影を見せない。頭の中で指を折る。丁度、今日は月のない、闇ばかりが深い夜であるようだ。紫は身を潜め、黒だけが満ちている。

 もぞりと腕が動き、片腕が腹に回った。引き寄せるような動きに身を任せる。高い体温が、やけに熱く感じた。

「リィガは今日も体温低いな……寒くないか? 」

「平気だよ。アリーが熱いくらい」

「熱いかー……。でも今日はくっつかせて貰お」

 背後の熱は離れることはなく、やがて、ぼそりぼそりと取り留めもない言葉が空に放たれる。それを偶に受け止めては、ぼそぼそと返事をした。近くに居すぎていて、話題には事欠かない。どれだけ長い間も、話だけで埋められる気がしている。

 けれど、その日の話にはどこか違和感を覚えていた。どんな話も盛り上がることなく、話を振ったアレイズ自身が生返事をする。本題を持ち出す転換点を、計りかねているようだった。

「アリー」

 話を斬るように、一段強く声を出す。背後の声が途切れ、沈黙が降りた。

「何か話したいことがあるんだよね? 言ってごらん」

 少しの間沈黙は続き、す、と息を吸う音が届いた気さえした。

「リィガは、俺がいずれ家を出ると思ってるんだろう? 」

「……自然と、そうなるかと思ってた。村に慣れたら、向こうで家庭を持つのかなって」

 彼を子として見ることは、自身が親だと名乗ることは、彼が言葉を覚え始めて早々に諦めていた。何せ彼は、私が教える前に自ら立ち、自ら学んだ。逆に私は彼から孤独を学んだ。私がしたことは衣食住を担ったくらいのものだった。

 私に恩を感じているであろう事は自覚していたが、その恩なんて、ほんの軽いものだ。

「俺、が、今のままでい続けるのは、リィガにとって、駄目なことか? 」

「駄目なことはないけれど、君も知っているとおり、私と君では、きっと、君が先に年老いてしまうよ」

 長い寿命を持つ方法があることは黙っていた。もし、彼にその可能性があることを示唆したら彼は悟ってしまうだろう。

 私が、それを望んでいることを。

「年老いるとしても、限りがあったとしても。それでも、一緒にいたいと……言ったら」

 暗闇で、背後にあって見えはしなくとも、その表情が険しいものであることはわかった。

 答えを私に託そうとすることに、胸が絞られた。私はどうしてもその答えを選び取れない気がしている。

「止められはしないけれど。私だけしかいない庭で、恋も知らずに、世界を閉じてしまうのを、勿体なく思うよ」

 昔から、アレイズは好きな子のことを話さなかった。存在はあったのかもしれない、それでも、彼はいることも、いないことも、誰であるかも、頑なに私に言うことはなかった。

 私が色恋を教えられないからだろうか、と気に病むこともあった。王城に勤めてから、辞めることになったあの一件で、私はそれらを忌み嫌っていた時期があった。

「アリー、私はね。恋とか、欲だとか、そういうものが怖いんだ。昔、王城に勤めていたと言っただろう。もう、数百年も前だ。その時、当時の王に後宮への入侍を謀られていたことがあってね」

 当時の王は、色を好んだ。西の魔法使いを魔法の依頼を建前に招集した上で入侍を迫り、断られついでに騙した報復として呪われたのだ。定期的に心の臓を握り締められ、歳を重ねるごとにその間隔は狭く、痛みは酷くなり、やがて死に至る。当時、王城で治癒の魔法が一番得意であった私は、その魔法で王を癒やした。

 けれど、呪い自体は解けなかった。当代の王は長く生きたとしても、その後の子孫は呪われたまま、数百年後の今でも、王の寿命は総じて短命だ。王が死に、摂政がしばし繋ぎ、成長した王子が国を継ぐ。そして王はまた長く経たず死ぬのだ。それを、同じように連綿と繰り返し続けている。

 私が王城に留まり続け、次の世代まで治し続ければ、それからの王も長く生きることができたかもしれない。けれど、王が病から回復した後に、物好きな王が私を後宮に入れることを望んでいる、という話を耳にした。

 その話を伝えた西の魔法使いは、使い魔越しに私の前で怒声を上げた。自身の呪いが一代とはいえ無効にされたというのに、私の技量を讃え、そして、その技量を持つ私が王に囚われるのは我慢ならないと怒り狂い、私に城を出ることを勧めたのだ。

 私は自身でも魔法で探りを入れ、臣下との会話や、新しく用意されている後宮の一室の存在を含め、このまま大人しくしていれば、確かに籠の鳥にされるであろうと判断した。そして、西の魔法使いの勧めに従った。いくら恋を知らずとも、恩人に対して立場を利用しようとする相手に仕え続ける気はとうに無かった。

 その後、王の治世は悉く上手くいかなかったという。西の魔法使いの呪いは、王が死ななかったために国にまで及んだのだと噂された。王はその中で長く生きることを余儀なくされた。西の魔法使いに詳しく尋ねることはしなかったが、力ある者の怨恨は、意図せずとも他を害すものだ。

 そうして私は村の外れに流れ着き、アレイズと出会うまでの季節を過ごした。その間に、王を治した功績のある私は、それからも少しだけ人々を癒やしながら、逃げ延びた地に因んで『東の魔法使い』と呼ばれるようになる。

 これまでの私の人生に、恋という文字はない。

「勿論、その時には逃げたけれど。最初に受けた好意がそれだったし、随分人と離れて暮らしているから、もう、そういうことが全然分からなくてね」

 服の裾を引かれ、寝返りを打つ。頭を抱え込まれ、胸に押し付けられた。

「それは、好意なんかじゃない。恋や欲は綺麗なことばかりじゃないけど、俺は……」

 語尾が萎んでいく。手を伸ばして、顔の形を辿る。僅かに震える顔は顰められているようで、筋肉は強ばっていた。震えはしばらく止まらず、泣いているのかと思った。指を頭に添え、そっと撫でる。

 ふと、昔のことを思い出した。

 私は一度言ったことは素直に聞くアレイズを、口調を荒らげてまで叱ることは少なかった。その日は彼が仲間たちと、獣が多く危ない場所に立ち入り、妖精たちの導きで遠目に彼らを視認していた後の師匠……コナに保護されたのだ。

 彼らがその場所に立ち入った理由は、仲間達のうちの一人が好きな子に美しい青の花を渡したがった為であった。その花の群生地は獣たちの縄張りであり、ある種の度胸試しのようなものだったが、彼らはその危険を十分認識できてはいなかった。

 私は声を荒らげ、獣と遭遇する危うさと子どもの非力さを、保護された彼に長々と語った。その時浮かべた表情は、いま彼が浮かべる表情に似ているのだろう。何か、彼の価値観では危険を冒してまで手に入れたかったものを、何も知らない私が非情に踏み入ってしまったような心地がした。

 何年も後に、押し花になって崩れかけている、その時の花が彼の部屋から見つかった。青かったはずの花弁は、もう随分前に色を失っていた。見つかった花を手にアレイズは『リィガは花が好きだから、あげたかったんだ』と、吹っ切ったような謝罪の言葉を、数年越しに口にした。当時、花を欲しがったのは、何も仲間だった少年だけではなかったのだ、と。

 もう大人になった顔立ちに子どものような表情を浮かべて、アレイズは唇を震わせ、言葉を口から零した。

「俺は、リィガが好きで、……ずっと、恋をしているんだ」

 聞き間違えかと言葉を反芻して、これまでの会話を頭で辿っても、彼のそれは言葉のままだった。触れている箇所から伝わる震えも変わらない。冗談と茶化すには、ひどく怯えている様子に言葉を失う。

 長い間、お互いに何かを図れずにいたように思う。彼の告白を受けて、これだけ近くにいても怖さは感じない。相手の腕は後頭部に回っており、拘束しようと思えばできるのだろう。それでも、きっとアレイズがそうしないことは分かっている。

 彼の王と、彼の感情が違うものだと、その時の私は理解していた。

「近くに私しかいなかったから……? 」

「村にも、近くの町にも沢山人がいて。俺はある程度、付き合いを持ってきたつもりだけど? 少なくともリィガよりは」

 そう言われてしまえば、返す言葉は無かった。アレイズは毛布を手繰り寄せると、私の身体を覆うよう整える。その仕草は、物心付くようになって、私がするそれを真似るようになった時のままだ。

「何か、変な感じだ。こんなことを言ったら、動揺したリィガに打たれるんじゃないかとか、すぐに追い出されるんじゃないかって……。世界が終わるような気がしていたけど、あんまり変わらないんだな」

「……びっくりは、してるよ」

「追い出す? 」

「それは、絶対にしない」

 出ていかないよう、彼の胴に腕を回す。毛布の下は熱が篭もっていて、下がる気配すらなかった。

「すぐに、じゃなくても、俺とずっと暮らすのか、俺に家から出て欲しいのか、は決めてほしい」

「出ていって欲しくなんて……」

「俺とずっと暮らすのなら、俺は恋人の関係を求めるだろう。だから、恋人になれないって返事なら出ていく。俺のためでもあるけど、リィガのためでもある。終わる思い出なら、綺麗な方がいいと思う」

 私は、出ていかないでほしい、という言葉を飲み込んだ。こいびと、心の中でその言葉を呟いて、あまりの現実感のなさに愕然とする。回した腕を離すか迷って、それでも私は、腕を放さなかった。

 あまりにも長いことそうしていたものだから、アレイズは私の腕の痺れを心配して、離すように言う。すぐに出ていったりしない、という言質の代わりに腕を離した。

 眠りは遠く、鼓動は近い。目を閉じ、かなり経ってそろそろと目を開けると、眠れていなかったらしいアレイズが目の前で苦笑していた。

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坂みち // さか【傘路さか】
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