宰相閣下と結婚することになった魔術師さん4

宰相閣下と結婚することになった魔術師さん
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◇1

 ぽちゃん、と視界の端で滴が水面を叩いた。

 隣にいるガウナーは疲れを溶かすように、身体を湯船に沈めている。俺は伴侶が黙っているのをいい事に、頭の中で魔術式を組んでいた。

 テ、ト、ト、ト、ト。湯の出口から水が漏れているようで、術式の波に良き相槌となる時は良かったが、時おり調子外れで肩が滑る。

 少し長い沈黙だった。風呂に誘われた割に今日は色気のある空気にはならず、珍しくこのまま寝るだろうか、と当たりを付けている。

 風呂に誘われたのならそういうことか、と思ったのだが、何というか、普段そういうことをしたい時のようにがつがつして来ない。俺を食らおうとするときの伴侶は、魔力からも滲み出るものがあるし、目はじっとりとこちらを捉えるものだ。

 髪の色は塗れて濃く、端正な顔立ちの横顔を水が雨垂れのように伝い滑った。俺が視線を向けたことに気づいたのが、その瞳と食い合う。

「さっきまで、私以外のことを考えていただろう」

「……ばれるか」

「まあ、お互い様だ」

 おや、と肩を擦り合わせる。間に湯を挟み、しっとりとした肌が触れた。促す気配を察したのか、一拍置かずに言葉が続く。

「そろそろ、君の実家への挨拶について、都合がつきそうなんだが」

「少し前に言ってた日程? うちは問題無さそうだって回答に変わりは無いな」

「有り難い。私の方も問題なく旅に出られそうだ」

 少し前に提示された日程は、旅にしては随分と強行軍だ。俺の実家にいられる期間は短く、それ以外はほぼ移動で、その割に、ちゃっかり孤児院への視察の予定が組まれていたはずだった。

 勲章授与式典で再会した元教え子……ミイミルからの手紙に返事を出してから、伴侶ともども交流が続いている。

 その中で話題に上がる彼の人生の拠点である孤児院に、ガウナーは興味を抱いているようだった。王都の孤児院と比較しても、父が手掛けている領地の孤児院は変わった運営をしているらしい。

 実際のところ、立っている者は遠い親戚であろうと使え、という方針の下、親戚が教壇に立つ機会が多い所為で、地域の学術拠点として名が挙げられる変わった施設ではある。

 その上、教え子であったミイミルのような尖った適性を持つ子どもを見つけると、親戚の誰かが嬉々として指導に訪れる。その成果なのか、特定の分野で大成する子も現れている。

 育った子ども達が教師として孤児院を訪れている姿を見れば、鬱陶しい教師がよく訪れる場所とはいえ、子どもたちに嫌われている訳ではないのだろう。……と思いたいところだ。

 ぱちゃりと水面を軽く叩き、指先に返る圧を楽しむ。

「護衛をしてくれるニコは連れていくとして、見知った人間が護衛の方がいいと思ってな。土地勘があって、予定が空いている人物が今回は見つかったんだ」

 ニコの見た目は犬である。

 だが、本質はいずれ何処かの国を護ることになる幼い神だ。この時代の存在ではなく、未来にクロノ神から生み出される神見習い。その子は、俺に訪れる何かに干渉するため、時を確定させるために未来から俺に向かって跳んで来た。

 今後、俺に起こる大きな出来事は結婚式なのだろう、と当たりは付けている。しかし何にニコが必要なのかは、まだ分かっていない。

「あの辺りに土地勘があるってことは……シャクト隊長?」

「やはり君は気づくか」

「偶に出る言葉の訛りから、実家近くの領地の出かなって。いや、普通の人が気づかないくらい直してるんだよ。だけど俺たち魔術師はどうしても、微妙な波の特性を拾いやすくてさ」

 ほう、とガウナーは短く声を上げる。

「過去に護衛任務の経験も豊富だった。頻繁に実戦に出ていないことを心配していたが、そこは思わぬ横槍……槍でもないんだが……」

 僅かに言い淀む様子に、目を瞬かせる。青い瞳の先が水面を緩く泳ぐ。しばしそうして、彼を見つめる俺と、水面との間で浮気を続けた。埒が明かないと腕に指先を伸ばすと、ようやく視線がこちらに定まる。

「サーシ課長が、同行しても良いと」

「は!?」

 思わず声を上げてしまい、ぱしゃんと水音が追随した。サーシ課長は、魔術式構築課の課長代理である俺の上にいる人物だ。驚いた理由は一線を退いた、と言っていたこともそうだが、上二人が不在、という課内の都合もあった。

 だが、何よりも安楽椅子に好んで座る人物、としての姿勢を崩さない彼が、旅に出ようとするのが意外だった。

「実戦不足、且つ元相棒もいない、よりも、多少の不自由はあっても自分がいる方が幾分か良いのでは、何なら盾にでもしてくれ、だそうだ。課長と課長代理、魔術式構築課の上長二人が一時不在ということになるんだが、彼は『問題ないでしょう』の一点張りでな」

「サーシ課長は、ええと何だ……? 問題があっても、問題ない、って言い続ければ問題なかったことになる、って人だぞ?」

「上手い。……まあ、言いたいことは分かる。だが、シャクト隊長も賛成して」

 防衛課第二小隊のシャクト隊長と、魔術式構築課のサーシ課長の二人は、防衛課では第一小隊で背中を預け合っていた仲だ。そして、おそらくその承諾に関してのみ言えば、シャクト隊長が、ただただサーシ課長と旅行がしたい、ことから生まれたもののはずだ。

「あの人がサーシ課長と合法的に旅行できるのに、賛成しない訳がないだろが」

 あのなあ、と俺が詰め寄ると、ううむ、とガウナーは腕組みする。つまり、今回の言い分としては防衛課の元相棒であった、あの二人の希望は合致しているらしい。

「魔構だって、王宮の近衛の機能を一部担っている。本業である王宮の魔術の保守もそうだ。上二人が丸っと不在なんて前例のない……前例はないけど……。駄目かって言われると、前に行ったミャザ旅行の日数よりは短いしな……」

 ぶつぶつと呟いて悩み始めた俺の頭にぽん、と手が置かれた。

「君と会ってから、君の周りでは前例がないことばかりだが……」

「何だ? 嫌味か?」

「闇の中を歩くと、心躍ることを教えてくれたのもまた君だ」

 髪を掻き上げられ、額に唇が落ちる。んふふ、とくすぐったさに笑うと、その笑いは伝播した。伝う水滴の冷たささえ温めるように、熱が籠もる。

「サウレはいいんじゃないか、と笑っていたよ。ルーカスも、ニコがいれば大丈夫でしょう、と。何が起きたとしても、それが時の流れに他ならないと」

 サウレとルーカス……国王と大神官とはいえ、ガウナーの友人だけあって肝が据わっている。

「そりゃあそうなんだけども、結婚式に何かあるって言われてる側としては複雑な気分だよ」

「君と同じことを私もルーカスに述べたのだが、それもまた流れと定型文であしらわれてしまった」

 はー、と息を吐きながら肩に頭を預ける。足掻いて藻掻いて勝ち取った地位も、すべては神の御心のまま。大神官であるルーカスは、その言葉に無力感を覚えることはないのだろうか。

 それでも神託から齎された伴侶と、犬の姿をした幼い神……ニコの屋敷への居候が、生活を彩っていることには違いない。それら全てが、自分の力ゆえと言えるほど出来た人間と思えもしないのだ。

「物語にさ、穴を潜ったら少し前の世界で、年若くして死んだ恋人を救う、なんて話があるけどさ」

「ああ」

「あれ、本来のクロノ神やニコみたいな神様の言い分からすると、不可能なんだな」

 時は大河であり、支流が別たれることはなく、全ての道筋は一つ。流れが折り返すことは有り得ない。

 クロノ神の賜り物として挙げられる農耕への恵みは本質ではなく、有り様は時そのものであり、ニコの時渡りもまた想定された流れである。

 確か、ルーカスはそのようなことを言っていたはずだ。

「ああ、君はそう思うのか。私はその救うことも織り込み済みの流れなのだと思うが。ニコの存在は、恋人を救いに来た主人公とも言える」

「最終的に落ち着く形を、ルーカスは流れって表現してるってことか?」

「神にどう告げられたとしても、人間は多種多様に受け取る。私はルーカスの言う流れは結果だと捉えている。だから時の流れの話を聞いたとしても、私の生活は変わらない」

「まあ、この世に神がいなくても、俺たちの生活は変わらないか。神を自称する犬と、神官を自称する人間がいるだけだな」

 将来、クロノ神と出会うことがあったとしても、彼が本質的に神であるのか、俺の幻覚であるのか、は死んでも分かることはない。ニコが神でもそうでなくとも、ただ可愛らしく、その毛はふかふかだ。

「ニコ……自分が神だって自称する犬な……。さっきは涎を垂らして寝ていたがな」

「この前は食べ物に向けて走って床ですっ転んでた。アカシャが床の素材を見直すってさ」

 くくく、と喉から漏れた笑い声が浴室に響いた。

「ああ、聞いた。預かっている子で来年にはもういないだろうから、元に戻す必要があるかも考えておくように言っておいた」

 その声が平然と発されていても、別れを怯える心があることは分かってしまう。時が分かたれないこと、が目的であるなら、目的を果たせばその先には同居人との別れがあるはずだ。

「……来年も俺はいるぞ?」

「来年に君がいなかったら、私は心が潰れてしまう」

 唐突に、ん、とあからさまなキスを強請った。軽くついばむように触れた唇を合図に、首筋に縋り付いて二度吸い付いた。少し態とらしい気もしたが、どうせ意図は察してしまうんだろう。

 こんな似合わない事をしても、いずれ抉られることに怯える疵を埋めたいのだ。

「……なあ、ロア」

「いや? 待てまて」

 ぞぞ、と漏れた魔力を察した俺が身を引こうとすると、がしりと太い腕が腰に手を回した。大きな手のひらが胸元に吸い寄せられ、水分をいいことにいやらしく滑らせる。今日は違う、と思っていたのに、迂闊に藁めがけて火花を飛ばしてしまった。

「今日はさ、やらしいことしない空気だっただろ」

「さっきまでは、色々と考えることも多くてな」

 顔を背けて避けようとしても、口の端に吸い付かれる。戯れだと知っている、あえて戯れだと受け取ろうとしている伴侶もまた、容赦なく胸を弄った。

「……俺まだそういう空気じゃないし」

「じゃあ、頑張って誘うとするかな」

「そうして」

 重なった唇を開いて、舌先を迎え入れる。食らおうとする圧も、漏れる魔力も、段々と頭を痺れさせていく。相性のいい、躰の快楽だけでも相当だ。それなのに魔力に敏感で選り好む人間が、好みの魔力を降らされてただで済むはずがないのだ。

 そういう空気、が満ちたのはその後すぐのことで、悩みの晴れたらしいガウナーはその日は一段と執拗だった。

 

 

 

◇2

 浅い眠りの日には、水面に浮上しては夢を見る。

 幼い日はまだ良かったが、学生時代から働き始めるようになると、追いかけられるような夢が多くなった。伴侶が隣に寝るようになってからは、夢の内容も様変わりしつつある。登場人物として、伴侶はよく夢にいるのだ。

 その日の夢は、初めから全てが可笑しかった。

 まるで目が覚めでもしたかのように感覚が肌を刺すのに、隣には伴侶がいない。僅かにぼんやりと残る違和感だけが、この領域が夢であると告げていた。身を起こすと、手のひらを草の柔らかい感触が擽る。

 草原のようなその場所は、ある一定の場所から先が霧に覆われており、右手側には滾々と泉が湧いていた。透明な水には魚の一匹もおらず、底にある白い砂利の隙間から、こぽりこぽりと青色の泡を送り出し続けている。

『おお、眠ったか』

 夜に渦巻く波のような不思議な声を追って、視線を向ける。眠ったか、とは奇妙なことを言うものだった。

 そこにいたのは男だった。

 浅黒い肌と艶のある黒髪を持ち、一際目立つ金眼が目を刺すように鮮やかだ。闇の中、満月が浮かぶ様でも見ているようだった。

 身に纏う服は簡素で、布を組み合わせたような古めかしいそれではあったが、必要十分だけ纏う筋肉を隠す必要があるかと言わんばかりに、上半身を隠す布はない。

 美しい男だった。

 自分が思う美しい顔、というものを掻き集めたらこうなるのだろう。吊り上がった目元は鋭く、この男の光には目を貫かれる。

 彼はこちらに向けてひらり、と手を振る。やけに気安い仕草だった。

「眠った……?」

『そう、眠らねば会えぬからなぁ』

 男は俺の隣に腰掛け、大きな腕をこちらに回してきた。身を引こうとするが、男の力の方が強く、肩が抱かれる。

 おい、と慌てた声を上げるが、男は悠々と俺の抵抗をいなした。

『久方ぶりの邂逅だ。肩を抱くくらい好いであろう』

「そもそも誰だ。俺はお前を知らない……!」

 肩から腕を外すと、両腕で囲むようにぎゅう、と男の腕に囚われた。伴侶よりも大きな体と、違う匂いがした。

 花の香りと、打ち消しきれない獣臭。強烈な違和感と、その既視感に、嫌悪よりも先に戸惑いが呼び起こされる。

 魔術で引き剥がすか、と口を開こうとすると、唇に指を押し当てられた。

『どうせ効かぬ。魔力は生命から生まれるものであるが、眠りは死である。眠っている、と言ったであろう?』

「……眠っている、のは分かる。だが、見知らぬ人間に抱きつかれる趣味は無い」

 そして、伴侶以外と親密な接触を持つ気もまたない。今の様子をガウナーが見たのなら、おそらく傷つくのだろう。

「俺には伴侶がいる。俺が自分以外の人間と、しかも上半身が裸の男と抱き合っていたら好い気持ちはしないはずだ。離してほしい」

 くつりと喉だけで笑い、男は俺を解放した。ほっと息を吐き、距離を取る。

 金色の瞳は面白そうに俺を観察し、唇の端がつり上がった。赤い唇の隙間から、白い牙が覗く。その白は、俺に突き立たんばかりに煌めいた。

『ああ、そうか。そうだった。そういう人間だったな……ロア』

 名前を呼ばれた途端、皮膚が引かれたような、びりりとした感覚が全身を襲う。捕らえられたのだ、と思った。名前を手繰って、本質を掴まれたような感覚に、全身の毛が逆立つ。

『そうだ。お前に会えるということはルーカスとて、まだ友人を……ガウナーとサウレを失ってはいないのだ。輝かしい時であるなあ?』

 はは、と男は笑っている。唇を吊り上げ、目を細め、口からは笑い声が漏れる。それでも、その違和感は人ならば誰であれ感じるものだろう。

 皮一枚を隔てた臓腑が、冷えきっているかのようだ。皮で笑ったとしても、その冷たさは膜で隠れて消えはしない。

「ルーカスが老いずに、いずれ、『ガウナーや国王陛下のほうが先に死ぬこと』が、面白いことか?」

 怒りが伝わったのかもしれない。男は俺を宥めるように頭に手を伸ばしてくる。その手を払い落とした。

 それが何を齎すかなど考えることもなく、思考が頭に届く前に手が動いた。

『そう。皮肉だとも。どれだけ大事にしたところで、数十年も一緒にいられれば良い方。昔馴染みがいて、国も安定し、花咲く春をあれはいずれ失って慟哭する。お前にも見せてやりたかった。いずれ幸せに死んでいくお前に』

 何か、噛みついてやりたくなったのかもしれない。

「幸せに死んでいく? そんなことはあり得ない」

 拳を握り、その肩に叩きつけた。男が何故、ルーカスの秘密とも言うべきそれを知っているのか。何故、訳知り顔で笑うのか。聞きたいことはいくつもあるのに、頭が暴走して機能しない。一気に酒が回り、酩酊したかのようだった。

 酒が喉を焼き、それでも尚絞り出す時のように声が掠れる。

「俺が先に死ねばガウナーは泣く、後追いだってするかもしれない。それは哀しい。ガウナーが先に死ぬなら、俺は後を追わずにそのまま生きられるか、自問自答しなきゃならない。それだって哀しいんだ。寿命で死ぬとして、それを他人が幸せな死だと決められるものか」

 叩きつける手首が、男の手に包み込まれる。

『怒らせてしまったか』

「怒ってなんかない。俺だって、ルーカスを羨む気持ちがない訳じゃない。だから、動揺しただけだ」

『…………、ああ。そうだった、ロア。お前は、世界の全てを知りたいんだったな』

 声が、甘い響きを纏った。

 耳元に唇を寄せ、身体を擦り付け、甘い毒を身体に染み込ませていく。その時の俺は、男を振り解けず、されるがままになっていた。くたりと脱力し、その胸元に頬を預ける。

 男がまた笑った。今度は、本当に笑ったかのように、皮の上に温度の伝わる笑いだった。

『なあロア、叶えてやろうか? ────……、─────』

 男のそれは、非常に甘ったるい提案だったように思う。だが、目が覚めたときには男との会話を、ぼんやりとしか思い出せなくなっていた。それでも、自分の身にあの男のでたらめな臭いが染みついているような心地がして、朝から身体を執拗に洗い、布で拭い続けた。

 伴侶の前に立つ時も、消えたはずの臭いを指摘されることに怯えた。

 ────あれは、夢であるはずなのに。

 

 

 

◇3

 結局サーシ課長のごり押しが通る結果となり、俺とガウナー、シャクト隊長にサーシ課長、そしてニコと、親戚のサフィア・モーリッツが同行することになった。

 怪奇現象の研究家であるサフィアの実家は、俺の実家の領地と隣接しており、ケルテ国との国境周辺を治めている。既存の転移魔術の位置が彼の実家寄りにあり、帰省の途中に通過することになる土地だ。

 帰省の話をしていると自分も途中まで同行し、行き掛けに彼自身の実家付近で降ろし、帰りにまた合流できるだろうか、と問われた。たまには里帰りがしたいのだそうだ。

 転移魔術も準備には手間がかかるものだし、もし馬車に余裕があるなら構わないだろうか、とガウナーに聞いてみたところ、少し迷いながらもガウナーは同行を許可した。

 実家は国の北にあり、王都よりも寒さが厳しい土地だ。執事のアカシャは防寒具を買い揃え、荷造りを進めた。ニコは寒いだろうか、と獣医に相談したところ、ちょうど冬毛が生え揃っており、追加の防寒具は嫌がりそうだ、と言われた。

 神に換毛期とは、と思ったものだが、確かに心なしかふっさりとした毛に生え変わっている。

 そうやってばたばたと準備……特に上長二人が揃っていなくなる準備をすることになった魔術式構築課は、新婚旅行以来の慌てっぷりだった……をしていると、すぐに当日が訪れた。

 前日まで駆け回っていた俺もガウナーも体力が回復しきっておらず、しかし肩の荷が下りたこともあり、流れる空気は晴れやかだ。王宮に揃った面々は、土地勘のあるシャクト隊長とサフィアは勿論、防寒の為の荷物は十分そうだ。

「宰相閣下。親戚とはいえ、里帰りついでに乗せてもらってすみません。普段なら魔術で恩返しをするところですが、この面子では俺の出る幕も無さそうです」

「まあ、ニコの相手を頼む」

 喜んで、とサフィアはガウナーの前で言い、頭を下げた。頭を下げるサフィアを見るガウナーは、顎に手を当てる。何事か考えているようだったが、やがて視線を逸らした。

 荷物の横で、俺に手を振る二人を視界に入れる。うわ、と口から声が漏れた。

「サーシ課長。それ、現役時代の制服ですか?」

「勿論。最後の出動で服もぼろぼろになっちゃったけれど、勲章と同時に新品を貰ったものだよ。今でも動くなら慣れもあるし、この服かな」

 灰色の髪は普段よりも緩く整えられており、随分と若く見えた。防衛課所属の時は、さほど髪型に頓着しなかったのかもしれない。ローブを捲る様子に中に視線を向けると、胸元にはいくつかの襟章が光っていた。

 にこにこと俺を見る青の瞳は普段と変わらないが、この人は、この襟章を掲げるひとなのだった。

 くすんだ緑の服が、山林に紛れるための色であることは容易に予想できた。魔術師特有の裾の短いローブを羽織っており、中の服はシャクト隊長と揃いのものだ。魔術師でない隊員は、ローブ代わりに防寒用コートを羽織ることもあるそうだが、シャクト隊長は素の制服姿だった。

 こちらも赤茶色の髪は普段よりも跳ねており、野性味を増している。橙色の瞳はサーシ課長の服の乱れを目敏く捉え、大きな手がローブの襟元を整えた。

「お前に防衛課に戻ってほしい訳では全くないが、……とても似合って、いる」

「ふふ。凝りもしない拙い誉め言葉をありがとう。次はもう少し変わった褒め方をして欲しいものだね」

 そっと襟元に伸びた手を覆うサーシ課長の指は細く、荒事に向いているようには見えなかった。

 自分の服装を見下ろす。

 俺とガウナーは揃って余所行きを着ている。お互いにある程度動きやすい服装で、尚且つ汚しても破いても家計に響かない服装だ。

 流石に俺の実家に近づいた後で、着替えるつもりではいる。身分を明かした上で誰かと会っても不審ではないが、立場にしてはこざっぱりした印象は否めないだろう。

「宰相閣下も、ロア代理も、動きやすい服を選んで頂いたのでしょう。ありがとうございます、我々も、動ける護衛対象の方が勿論守りやすい」

 シャクト隊長の言葉に、俺とガウナーは視線を合わせる。

「護衛してもらうのはこちらの方だ」

「そうそう、頼りにしてる。……でもサーシ課長は、ほんっとに、怪我しないでくださいね!」

「いやだなあ。隠居しても元防衛課なんだけどなあ」

 ねえニコ、と突然声を掛けるサーシ課長にも、ニコはサフィアの腕から律儀に顔を上げ、こちらを見て尻尾を振った。

 随分気の抜けた集合だったが、服装からこれだけ用意しているのだから、ガウナーと、シャクト隊長から見ても安全なだけの旅になりそうに無いのだろう。

 いくらゴーレムが優れていたとしても、まだ発展途上の技術である。そのゴーレムではなく、この面子以上にはならないだろう、という二人が付き従うのだから、きっとこの旅程に二人が憂慮している何かがあるのだ。

 元々、国土の中でも北側の土地は情勢が落ち着かないケルテ国も含めた二国と接している。北寄りの土地は作物の育成にも気を配る必要があった。

 そんな土地では農業のみでやっていけるほど甘くもなく、各分野の産業を育てる必要がある。知識こそが全て、と先祖が言い始めたのも当然のような気がした。農業で物が食えないのだから、知識で外貨を得て食物を買い、食っていくしかないのだった。

 性格的に学術以外の国の要職に一族が興味を示すことはなく、俺がガウナーと結婚しても、モーリッツ家から次代、そして次々代の宰相はとても出ないだろう、というのが公然の見解だ。

 貴族家としての権力も大きくはなく、こんな辺境の土地に追いやられている父を不憫に思うこともある。だが、冬が長ければ読書が捗る、と一族と通話魔術越しに語らい、厳しい冬を越した春のために知識を蓄える父が、悲観的な姿を見せたことはなかった。

 もっと肥沃で、人の多い土地の領主だったら、父はもっと評価されたのだろうか。

「さあロア、行こう」

 差し出される手をぼんやりと取った。これから転移魔術のある場所まで向かって、転移魔術で更に跳ぶことになる。転移魔術の位置はナーキアと呼ばれる小さな地区にある。

 そろそろ出発、といった所で、背後で静かな足音がした。

「おはようございます。いやあ、置いていかれるところでした」

「おはよ……う? うん?」

 立っていたのは、目深にフードを被った人物だった。茶色の髪と緑の瞳、それらを黒地の布が覆っている。僅かに小首を傾げると、艶やかな髪が肩に滑り落ちた。背には小さな荷物が背負われており、彼の素性を知らなければ旅支度と思うことだろう。

「ルーカス……大神官……? ですよね。あの、何を?」

 呆然と呟いたのはサフィアだった。

 そう、顔自体はルーカスのそれなのだった。けれど、普段は白髪と赤の瞳という目立つ容姿が、俺やサフィアと同じ目の色、髪色になっている。

 咄嗟に魔術式が頭を巡った。自身の体色を変える魔術、は他者に施すなら、やはり医療魔術に長けた人物でなければ難しい。

 ニコは恋人の元に駆けていくようにルーカスの足元へ向かい、ぐるぐると周囲を回っている。俺はすかさずガウナーの顔を見るが、視線を送られた本人はこちらを見ながら重い首を振る。

 全員が目を見開いている状況に、誰もが何も知らなかったことを明確に悟った。

「折角の機会ですし、クロノ神にも縁深いナーキアに私も行こうかなと思いまして」

 何で言わなかった。全員が声に出さずとも同じ言葉を発したように感じるほど、その無言は雄弁だった。

「……私は知らん」

 俺に手を引かれ、視線を向けられたガウナーは、手早く否定した。

「言ってませんもの」

「それで……私が素直に連れていくとでも?」

「別に貴方が連れていかなくとも関係なく行くまでです、が。関係なく一人でナーキアに行き、暴漢に襲われれば、私の細い腕ではねじ伏せられてしまうかもしれません」

「お前の『ねじ伏せられてしまうかもしれません』は『おそらく反撃して叩きのめせるのでしょうが、万が一ねじ伏せられる可能性がない訳でもありません』だ! 私も大人になったものだな。考えなしの昔馴染みに、蹴りを入れず耐えているのだから」

 二人とも打てば響くように言葉を発し、外野は二人を交互に見ながら閉口した。ばちばちと二人の間では稲光が走るようで、ガウナーが空いている手を伸ばそうとしているのを見て割って入る。

 自然に任せていたら、美麗な大神官の頬を、この考えなし、と抓り上げかねない。

「予定はしてなかったけど、ルーカスも同行したい……ってことか? 流石に、予定とかあるだろうし、神殿の護衛は……?」

「何を言った訳でもありませんが、予定の無い日は私は自室に籠もり、神に祈りを捧げている、と神官達は思っているでしょう。祈りの最中は、外からの声に言葉を返せないこともあります。部屋にいるはずの私は、もちろん護衛に付いてきて貰えもしませんね」

「ええと、ナーキアは途中に立ち寄りはするけど、目的地は俺の実家で……」

「存じておりますよ。ですから私はナーキアを視察したら引き返すつもりです。明日には神殿に戻ります」

 俺とルーカスの会話を耳にして、ガウナーの口から大きな息が漏れた。

「神殿の護衛がいないなど、ばれたら大目玉どころの話じゃないぞ……」

「こんな想定外、いつものことだったでしょうに」

「国が不安定な時は日常茶飯事だったが、今は地も固まっている。大神官をこんな少ない護衛で、情勢が不安定な国の近くに行かせるわけにはいかない」

 眉を顰め、ルーカスの希望を撥ね除けようとするガウナーに、睨まれている本人は表情を崩しもしない。にこり、と赤く潤んだ唇を持ち上げ、昔馴染みと視線を合わせる。

「誰よりも、神がそうお望みです」

「嘘を……という訳ではないか」

「ええ、私は神に愛される身ですから、授かるものも多いのです。私の行動は、神の御意志ですよ」

 笑いかけられてしまえば、ガウナーは口を噤んだ。厄介なことに、クロノ神は嘘を嫌うという前提があり、ルーカスがどれだけそれを破っても咎められないか……は聞けもしないのだが……おそらく、この言葉は嘘ではないのだった。

「シャクト隊長、なんとかなりませんか?」

 俺は問いかけるが、シャクト隊長は珍しく肩を更に丸めた。隣にいるサーシ課長が口を開く。

「だめだよ。この人ほら、ナーキアの出でしょう。クロノ神に縁深い聖地を守っている一族の価値観が強くてね。それこそ大神官の言葉にこそ従いたいはず。違う?」

「……そういうことだ」

 その言葉にも頷くばかりだ。誰もルーカスに逆らう気のある者はいないようで、反対していたガウナーですら丸め込まれてしまった。ルーカスの足元で甘えているニコなど以ての外だ。

「大丈夫。責任を取らされるなら私だろう、いつものことだ」

「死にはしないだろうが……、投獄されたら俺も一緒に牢に入るからな」

 指先に軽く力を込めながら言うと、ガウナーの眉間の皺が緩んだ。ルーカスはやれやれと荷物を背負い直す。

「その茶色の髪色と、緑の目は神術でしょうか? 自身を変化? それとも他者の視界を弄る形で?」

 サフィアは聞きたくて堪らなかったのか、ルーカスの会話が落ち着いた途端、尋ねに近寄っていった。

「私が自身を変化させることは神がお喜びになりませんので、他者の視界に干渉するものですよ。神術は医療に縁深いので、他者への干渉も、魔術より進んでいる分野があります。とはいえ、細かな容姿の修正はそのぶん手間が掛かりますが」

 逆に言うならば、長時間、髪や目の色を変える程度なら、大神官であれば可能ということだ。

「魔術と神術が複合して作用すれば、その辺りの力の容量問題は解決するものかね。まあ、顔立ちはフードもあるし、他人のそら似だと言えば通るか」

 俺が言うと、サフィアはぱっと表情を崩した。端整な顔立ちに幼い少年のような、嬉しさを隠しきれない色が見える。

「人には必ず魔力がある。神術を使う際には、魔力の減少は発生しないと聞いている。力の源が別だからだ。ならば、複合次第ではもっと便利な術も出来るかもしれないな。魔術の課題である魔力の総量の制限を、超えられる何かが生まれるかもしれない」

「確かに。はは、楽しそうで何よりだ」

 サフィアは早口だった自身の発言に対し、気恥ずかしそうに視線を逸らす。視界の端でただでさえ遅れている行動を急かすように、サーシ課長が手を挙げた。想定外はあるものの、このまま帰省は続行されるようだ。

 各々の荷物を馬車に積み込み、転移術式を運用している施設まで移動する。所員の案内で術式の発動位置まで移動し、式の上に馬車を乗せた。

 ガウナーとシャクト隊長は先に馬車内に乗り込む。サーシ課長が辺りを見回しながらサフィアの裾を引き、殿となって乗り込んでから馬車の扉を閉めた。

 ルーカスが馬車に入らないことに視線を向けて問うが、にこりと覗く口元だけで笑みを返された。ニコはその足元に座り込む。

 所員が転移発動の為の詠唱を始める。その詠唱を聞きながら、干渉しないように記述式で結界の術式を綴った。転移中の攻撃を防ぐためのものだ。おそらく馬車内では二重にサーシ課長が結界を展開しているはずだった。

「宰相の伴侶が一番外で結界を張る、というのはいただけないでしょう。……所員に聞かれたくないのですが、遮音はできますか?」

 更に指先を滑らせ、光の軌跡を描く。結界に遮音の効果を付与すると、ルーカスは口を開いた。

「クロノ。私は貴方の導きに従い、貴方の降り立った地に向かうつもりです。この道行きにはここにいる誰が欠けても困ることでしょう。ここにある結界は薄く、脆く、人の身によるもの。間違っても────が転移魔術を弾いて干渉しないよう。そして私が傷つかないよう、貴方の力で囲ってほしいのです」

 ただ、語りかけるだけの言葉だった。魔術のように特定の言葉を使うわけでは無かったし、発声による音の波に拘るわけでもない。ただ、愛しい人に語りかけるような、柔らかな口調ではあった。

 その言葉に応えるように、結界の周囲をぐるりと神術の流れが取り囲んだ。上手く読み取れはしなかったが、おそらく神術的な結界が展開されたのだろう。

「ニコの名前、を言ったのか? 途中聞き取れなかったな」

「『あちら』の方なら愛称にも慣れているのでしょうが、私が頼れるのは『こちら』の方ですから、愛称で呼ぶと混乱するかと」

 大げさに首を傾げると、美しい笑みで誤魔化された。聞いても答えないという念押し、神殿でもよくこうやっているに違いない。

「以前、神殿で見た濾過装置には、式とも言うべき定型の言葉が読み取れたが、あれに意味はないのか?」

「あの方が好む言葉はありますので、歴代の神官達がそれらを集約した結果でしょう。意味は勿論ありますよ。私の神術と同じく、方向性としては色仕掛けですので」

「…………可愛くおねだりする感じか」

「貴方がいないと困っちゃう、なんていうのも好い感じですね」

 ふふ、とルーカスは笑うと、新しく展開された結界に視線を巡らせた。出来映えに問題はなさそうで、足元のニコと戯れ始める。

 ようやく待機、と肩の力を抜いた。周囲の空間が切り離され、転移魔術が動作し、位置が移り変わっていく。引かれるような感覚はあれど、ゆるやかな転移だった。

 俺も、とルーカスとニコに近寄り、もふもふとニコの腹を撫でる。

 二人に撫でられていると、どちらに愛を振りまくべきか悩むようで、首がぐるぐると行き来する。ニコの優先順位の中で、創造主に縁のあるルーカスと並んでいるというのは、くすぐったい気分だ。

 しばらくの間、ゆったりと時が過ぎていった。何事も無く到着する、いつも通りなら、そうなる筈だった。

 

 

 

◇4

 突如、転移魔術にぶれが生じる。滞りなく流れていたそれが、歪んだような印象を覚えた。

「…………サーシ課長!」

 滅多に無い大声を上げたことに、自分で驚く。

 反射的に両手を振り上げ、追いつかない頭を僅かに振り、指先を動かす。術式に生じた歪みの無理矢理さから、転移魔術自体の失敗とはまた違うような気がした。意識を向けていなかったが、真っ先に考えたのは他者からの妨害だった。

 周囲の状態確認を目的とした魔術を起動させる。何事も無ければ杞憂だ。

「西から魔術の着弾! 転移術式に損傷は?」

 魔術の着弾があったことは初耳だった。攻撃魔術の探知に関して俺よりもサーシ課長の方が馴染みがある分、その違和感に先に気づいたようだった。

「あ……ります!」

 ばたん、と大きな音を立てて馬車の扉が開かれた。馬車に張られた結界は解いたようで、蹴破る勢いでサーシ課長が車外に転がり降りる。

 かつん、と彼の杖が地を叩き、それを合図に視線が交わった。

 損傷箇所の特定は済んでいる。ただ、修正のための魔術式を組み上げるには、頭が混乱しすぎていた。損傷箇所をどう伝えて、彼に何を委ねれば最速なのか、それを冷静に伝えるには内容がまとまらない。

 さっきまで、それこそ以前の旅行のような、いつも通りの旅だったはずだ。

「ロア! 損傷箇所の説明! 細切れでもいいから」

 言いなさい。歩み寄り、背を強く叩かれた。

 サーシ課長の目は細められているものの、その中に焦りは見えなかった。この人はいつも通りだ。彼は指示を出すつもりでいる。それなら、俺が混乱して黙っていることこそが、この場では害悪だろう。

 状況を報告するのは、いつも通りの仕事の流れ。そう思えた途端、肩の力が抜けた。

「まず、転移術式に対して張られた結界が全壊。術式の損壊箇所は、移動速度の調整、到着位置の固定、到着時の衝撃緩和。合わせて三カ所です」

 口から留まることなく滑り出た言葉に驚いたほど、変化は劇的だった。

「追撃で更に損壊が広がるのが怖い。まず術式への結界を張り直して。衝撃緩和の式の修正はこっちでやる。終わったら移動速度を修正。到着位置は変わってもいい。最悪、間に合わなくてもいいよ」

 順位付けが人の手で終わり、軽快に飛ぶ指示が心地よい。横でルーカスが手を挙げる。

「術式に対しての結界はこちらで張り直します。…………『きっとあの方なら私の望むことなど全てお見通しでしょうから』」

 発せられた言葉の後半は、やけに甘ったるい響きを纏っている。おねだり、そう表現されていた言葉だとすぐに分かった。先ほど自分たちを取り囲んだ結界と同じものが、転移術式の周囲にも展開される。

 視線で合図し、次に指示された移動速度の術式の修正に取りかかった。指先の震えは戻り、普段通りに魔術式を綴っていく。状況はどうあれ、やっていることは時間制限のある仕事と同じだ。

 しかし、元々、魔術基礎式が王宮のそれと違うこともあり、その箇所は手間取ってしまった。

「何だこれ。魔術基礎式くらい国内で統一しな!?」

 間に合うはずだ。その前提の元に、張り詰められていた糸が緩みを求めていた。指先は滞ること無く動き続けている。

「旅行先のミャザだって統一しなかったんでしょう? あとそれ大体モーリッツ一族の所為だから! 衝撃緩和の修正終わり!」

 サーシ課長の指先が、軽口と共に円を描く。これでどこに不時着したとしても、大事には至るまい。

 自身の指先も次々と術式を生み出し、光を纏った筆跡が空に躍る。途切れた文字を塞ぐように線を繋ぎ、元はあったであろう式を記す。組み直すと多少短くなる箇所もあったが、その部分は無駄な式で埋めた。

「うちの一族の所為なのは分かりますが! 移動速度の式、修正しました! 一時的な書き換えで速度も遅めてます!」

「よし、間に合う。到着位置の修正は始めたよ」

「はい!」

 シャクト隊長に向けて指先で丸を作ってみせると、はあ、と向けられた面々の口から大きく息が漏れた。魔術式の修正としては時間的な厳しさはあるが、難易度としては然程でもない。転移術式は各地にあり、その修繕も入れ替わり立ち替わり、大人数の魔術師が手掛けることを想定されている。故に王宮ほど凝った仕様ではないのだ。

 俺が勝手に慌てていただけで、サーシ課長は間に合うと確信していたのだろう。歩み寄ってきたガウナーの前で、自然と視線が地に落ちる。

「……狙い撃ちされたか?」

「そうとも、そうでないとも言えません。ただ、この旅程はかなり限られた人間のみで共有されていた情報です。この件は帰還後、調査し直した方が良いでしょう」

 ガウナーの問いに、背後に控えていたシャクト隊長が答える。声音は普段に比べれば強く、発声も淀みない。

「そうだな。サーシ課長、追撃は?」

「ルーカス大神官の結界が発動してから、術式が損傷する様子は無い。到着までは無事でしょう。ただ、転移術式に魔術を叩き込める魔術師を擁している。なら、無事に戻れることを祈るばかりですね」

 サーシ課長は微笑し、到着位置に関する術式の修正を終える。ぱんぱんと手を打ち鳴らし、魔力の流れを整えてから、ひとつ息を吐いた。

「我が国は落ち着いているとはいえ、他はまだまだ渇いた火薬庫です。既に牙の抜かれた自国内の反国王勢力ではなく、他国の混乱に巻き込まれたものと推測します」

「我々に帰って欲しかったか。我々を殺そうとしたのか。我々以外でも良かったのか。いずれかでまた推測は変わってくるが、私も現状では、反国王勢力からの攻撃という可能性は薄いと考えている。引き続き警戒を頼む」

「承知しました」

 ガウナーは馬車に戻ることなく、全員固まっておいた方がいいだろう、と外に立ったままだ。シャクト隊長やサーシ課長と短く言葉を交わし合い、いくつかの可能性について考察している。

 今の俺は、その輪の中に入れはしなかった。

「ロア。魔力は十分ですか?」

 ぽん、と細い指が両肩に乗る。羽毛のような重さの指から、じわりと温かい熱が肩を伝った。

 きょとんと振り返ると、ルーカスが笑いかけている。ぎこちなく同じ表情を作った。

「平気。神術……は、こう、何か減るか?」

「いいえ。あの方が心を向けてくださらなければ、術は発動しないでしょう。ですが、その心が私を向いている限り、泉が枯れることはありません」

 その言葉を聞いた時、おそらく愕然としたのだろう。術の発動が他人に委ねられる、それは恐怖でしかなかった。身を守るために術を唱えても、自分がその時点で見放されてしまえば、何にも護られずに身に刃を受けるのだ。

「……自分の力量が足りずに。明日見放されたら、って思うことはあるか?」

 言葉を発して、失言だったとすぐ後悔した。呪いのような言葉だと思った。ルーカスが言葉を受けて、その時を恐れ始めたら、誰よりも先に俺の心が折れてしまうだろう。

 けれど、目の前のその人は微笑み続けていた。

「見放されて私が死ぬ時があれば、私は真実ひとに戻れるのかもしれません。けれど、私は嘘が言えませんので、こう言いますね」

 その瞳は緑色の筈なのに、見慣れた色に幻視する。あの血の色。身体の色を全て失い、巡る血の色が浮かび上がる。あの色だ。

「きっと、そんな時は来ませんよ。死人は生き返ることはありませんから」

 クゥ……、と切なげにニコが鳴いた。その頬をルーカスの足元に擦り付け、何度もその周囲を巡る。ぴたりと身体を擦り付け、全身から熱を伝わせようとしていた。ニコはクロノ神から創られた、子とも呼べる存在だ。ルーカスがこれから永く生き続けるのなら、きっと彼らはまた出会う。

 その光景を眺めながら、口を開いた。

「俺は、本を開くたびに数百年前の著者と対話している。言葉を交わせるのに、死んでいるとは思わない。お前だってそうだよ。俺にとっては未だ、いま目の前で話している相手だ」

 きっと、こんな小手先の言葉では、その壁を貫くことはないのだろう。ルーカスの絶望は察して余りある。それでも、檻から出たいのなら、食器の先ででも地を削らなければ欠片とて光は見えない。

「勝手に死ぬなよ。寂しいだろ」

 その肩に軽く握った拳を置くと、白く血の気の失った指がそっと添えられた。彼の唇が綻ぶ。確かに、その指に熱が伝わることを彼の神以外に祈った。

「……あんまり私と仲良くすると、ガウナーが妬きますよ」

「そうかもなー」

 添えられた指を握り返し、そのまま手を捕まえて隣に並び立つ。やがて、彼との境界は熱を帯びていった。

 

 

 

◇5

 目的地への到着音がした。そろそろ肩の力を抜きたいところだが、到着地の状況次第というところだろう。

 到着地点に立っていたのは所員らしき男女二名で、俺たちの姿を見るなり慌て、混乱したような表情をしていた。

「み、皆様……! よくご無事で!」

「ああ、こちらは大丈夫だ。一体何が? 事情を聞いてもいいだろうか」

 所員たちは顔を見合わせ、男性が口を開く。

「『今日から明日にかけて、この土地……ナーキアへ転移する者は撃ち落とす』と、ケルテ国に抗する反国家組織より、当施設に通達が流れました。古よりナーキアに住む一族……古き一族との間で、明日、交渉が行われるそうです。交渉が終わるまで大人しくしていれば手出しはしない、そういった内容でした」

 咄嗟にシャクト隊長が口を開こうとするのを、隣にいたサーシ課長が杖で小突いて制した。俺はその様子に疑問を覚えたが、男性の説明が続いたため口を噤む。

「我々も、王都の転移施設に人を転移させないよう、すぐに連絡を入れたかったんです。ですが、反国家組織の妨害魔術での干渉が酷く、叶いませんでした」

「……ケルテ国との国交は正常なものだ。が……ケルテ国家に対抗している、反国家組織はまた別だ。我々がここに辿り着いてしまったことは問題になるな」

 ガウナーの言葉に、所員二人は顔を見合わせた。二人は少しの間、魔術的な専門用語を交えて言葉を交わし、認識を同じくしたようで、また男性が口を開く。

「いいえ。皆様がどう対処したのかは、我々には分かりません。ですが、皆様がおそらく反国家組織からの魔術攻撃を受けた瞬間から、皆様を魔術的に感知できなくなったのです。我々は楽観的に考えても……別の場所に不時着したものだと思っておりました」

 神術による結界を張った影響だろうか。ルーカスに視線を向けると、にこりと頷き返された。

 サーシ課長が所員の話に割って入る。普段のそれよりも、早口ではっきりとした発音だった。

「君たちの監視した結果、我々は死んでいたかも、と思った?」

「……そう考えておりました」

「それなら、僕たちがここにいると思われている可能性は薄いかな」

 サーシ課長の指先が持ち上がり、通信魔術であろうそれを展開しようとする。しかし、発動した魔術文字は崩れ、空に光の粒が舞うばかりだ。さらさらと崩れる光の奥に、苦々しげな上司の口元が覗き見えた。

「駄目そうだ。早めに王都に連絡を取りたいね。王都の転移施設からも僕たちの行程は監視されていたはずだ。下手すると僕たちは死人扱いされるし、後からまた追って転移してこようとする人も出るかもしれない」

 うわぁ……、と俺が情けない声を上げると、全員が気持ちは分かるというように俺に視線を向けた。はは、と愛想笑いを返しつつ、何か持っていなかったかと服に手を突っ込む。

「あ」

 指先に触れる物があった。『今日は夕食一緒にどうですか発信機』と呼ばれることが多い、変わった通信魔術が埋め込まれた装置だ。これまで、この通信魔術に対しての妨害を受けたことはない。

 装置を取り出して、掌に載せる。

「これ……。普段はガウナーにしか内容が送られないように、送り先の識別番号の管理もされてるんだ。だけど、送り先の番号を書き換えれば俺の部下に連絡が入れられるかも。普段、こんな時間に食事の連絡なんてしないだろうから、何か察してくれるんじゃないか」

「通信妨害は、この地域以外への連絡限定かな?」

 サーシ課長の問いかけに、所員は首を振った。

「現在、ナーキア内であっても魔術的な通信ができません。逆に言えば、いま通信ができる装置であれば、妨害魔術が効いていないということです。外部と連絡が取れる可能性はあります。妨害できない魔術方式は、相手からの探知も難しいかと」

 俺が装置を起動させると、ガウナーの手元にある対の装置から通知音が流れ始める。魔術師でもあるサフィアがぎょっとしたように、情けない声を漏らす。

「いや待て……。この辺りに展開された通信妨害魔術は、ある程度の通信方式は弾くようになっているぞ。なんだその通信方式」

「新しい通信方式なんだ。魔力消費も少ないし、対抗魔術もまだ出ていない」

 あとは埋め込まれた魔術式の中で、相手先の識別番号の部分を書き換えてしまえばいい。おそらく魔装技師で制作者でもあるトールが使っているものが、試作機の一番古いものだろうか。小さい番号から割り当ててみることにした。

 トールが整備する時に操作している管理者機能を呼び出し、機能を切り替え、それから識別番号を釦の回数で設定する。カチ、カチカチカチ、カチ……、全員が黙り込むものだから、俺が発信機を操作する音だけが響いていた。

「王都とナーキアほど距離があっても……?」

「術式も改造されていて、飛距離も伸びてる。多、分……。大丈夫だったような」

 ほう、とガウナーは俺の返答に面白そうな声を上げた。国の運営に活用する案でも浮かんだのだろう。

 俺は夕飯を『食べる』という通信を送る。誘ってもいないのに夕飯を『食べる』なのだから、送られた側は不思議に思うはずだ。

「向こうの状況……どうなってんのかな。ちょっと別の番号に変えて色んな人に通信送ってみよ」

 識別番号を増やしつつ手当たり次第に通信を送り、途中でガウナーの装置が着信した番号に送信先を戻した。制作者であるトールに話が付けば、俺への連絡も可能だろう。後は向こうからの返事を待つばかりである。

 サフィアは俺の手元を覗き込み、俺が操作を終えると、ここぞとばかりに食いついてきた。

「その術式の話を……」

「魔術馬鹿って似るの? そんなことを言っている場合じゃないことは分かるね。他に連絡を取れないか検討しよう」

 サーシ課長が割って入り、確かにその通り、とサフィアも申し訳なさそうに引く。
 立ち話もなんですから、と部屋の隅にある机に案内された。椅子がある数の分……宰相であるガウナーと、大神官のルーカスを椅子に座らせた。

 立ったままでいようかと思っていたのだが、シャクト隊長とサーシ課長が荷物の中から野外用の敷物を広げ、遠慮無くその上に腰を下ろし始めるものだから、俺やサフィアもお零れに預かる。ニコも俺にすり寄りつつ、敷物の隅に尻を落ち着けた。

 所員の男性は机の上に置かれていた紙を持ち上げると、ガウナーに向けて差し出す。

「私が慌てて書き付けたものですから、字が汚いのはご容赦ください。転移施設への連絡は以下の通りです。『今日と明日、ナーキアに転移魔術を使って転移をする者は撃ち落とす』『外部と連絡を取るな』そして『古き一族と連絡を取るな』『古き一族、反国家組織の拠点には近づくな』」

 書き付けられた紙には、反国家組織からの要望ばかりが並べられてあった。所員の立場からすれば、明日まで外部と接触しないことを守れば無事は保障される。

「ここからは噂程度の話なのですが、古き一族の子ども達が、彼らの……反国家組織の拠点に捕らえられたという話を聞きました。子ども達の身柄は向こうにあるそうで、今回の件に関係しているかもしれません」

「古き一族がそれでよく組織に襲撃を仕掛けないものだ。一応、欠片くらいは、国家に属しているという意識があるのかもしれないな」

 所員の言葉を受けてその言葉を口に出したのは、シャクト隊長だった。サーシ課長が成程、と頷いているものだから、背後からつついて言葉を促す。
 サーシ課長は青の目を細め、昔の相棒の腕を指で叩いた。

「古き一族の人間は血の気が多いんだよね、シャクトみたいに」

「……俺はまだ、控えめな方だ」

 一族の出なんですか? と確認すると、その言葉にシャクト隊長は頷き返した。

「『ナーキア』……この地は元はどの国にも所属しない中立地域だった。自衛のための戦力があった事と、聖域を管理していた優位性から、どこの国家にも属しない地域として成立していた。我が国がクロノ神を奉っていること。両者の間で良い関係を築いていたことから、編入、という形で国に属すことになった経緯がある」

 その後、ナーキアには外から人が流入し、昔から高い戦力を持って聖域を守ってきた一族を『古き一族』と呼ぶようになる。シャクト隊長の話はそう続いた。

「古き一族に話を聞きたいね。今日中に」

「同意だ。王都への連絡と並行して……」

 シャクト隊長の言葉の合間に、俺の手元の装置が音を立てた。装置を持ち上げると、その音は途切れることなく何度も何度も鳴る。明らかに向こうでも、何かを察したと思われる動作だった。

 俺は即座に釦を押し返す。しばらく間が空き、向こうから短い通知音が間隔を空けながら何度も鳴り始めた。返事を押し返すか迷っていると、横からサーシ課長が装置を掠め取った。

 口元に人差し指を当て、黙っているよう言葉を制する。

「先輩。ぶ、じ、で……す、か? ああ、『代理、無事ですか?』かな。 ………………『生きているなら、二度、釦を押してください』」

 カチ、カチ、とサーシ課長の指が二度の返事を打つ。その後、一定間隔で釦を何度も押し始める。

「ああ。光の長短で言葉を伝える通信方式ですか?」

「そうだね。防衛課の学術訓練で習ったくらい古い連絡手段だし、僕が言語への変換を忘れて無くて良かったね。どうせシャクトは覚えてない」

 サーシ課長の腕が、ぽん、と相棒の腕を叩く。

「……面目ない」

 否定の言葉はなく、隊長とはいえ本当に覚えていなかったようだ。サーシ課長は得意げな笑みを浮かべた。

 しばらくの間、サーシ課長は発信機を操作しながら、王都と会話を続ける。向こうに自分たちは無事であること、そして簡単な経緯を伝え、人を転移させないよう伝えたようだ。

「ロアくん。君の父君のところの防衛課を動かそうという話になりつつあるらしいよ。一先ずはこっそり、小隊を近くまで移動させるところまで、という事だけれど」

「サフィアの両親が管理する隊じゃなくてですか? 父が管理するフィッカの領地から動かすとしたら、そちらのほうが到着に時間が掛かりますよ」

 サフィアの両親の管理している土地……サフィアの目的地であった地に駐留する隊を近づけた方が、距離も近いだろう。俺の言葉に、サーシ課長は首を横に振る。

「いや。今回は事態に魔術師の関与が大きい。他国にだって睨みを利かせられる数の魔術師を擁している、フィッカの隊を寄越してくれた方がいいんじゃないかな。魔術師が多いぶん対抗手段もあれば、小回りも利くしね」

「…………隊の活動として小競り合いの仲裁や支援活動が主な位のんびりした田舎だし、うちの父親の管理している隊なので、その、あんまり期待されても……と……」

 自然と、言葉が尻すぼみになる。サーシ課長は手元で会話を続けながら、俺を不思議そうに見つめた。

「僕は、フィッカの領主は防衛面でも評価しているよ。あの土地の防衛課は、魔術小隊の練度が非常に高い。教育が行き届いていて、魔術の改良もよく行われているようだし、魔術師の人数も豊富だ」

「魔術小隊以外の隊員も、特に山岳地の模擬演習は良い成績だった。寒く、生命が生きていくのに厳しい土地というのも、その隊員の練度に関わっているのかもしれないな」

 シャクト隊長も言葉を続け、俺はぽかんとしたように二人を見返した。
 寒い土地、冬を耐え忍ぶ人々、変わり者の領主。多くの金は持たず、知識を貪欲に漁り続け、それを領民に撒き散らしていく。

 もっといい領主なら、領民ももっと楽ができたのだろうか。ずっとそう思いながらも、かといって父は領民から嫌われている様子はなかった。

『本好きで仕方の無いお人』

 領民はいつも笑いながら、それでもずっと父を領主としてくれた。

「ロアは父君を評価する言葉を躊躇うが、隣接する国を抑えるという大任ある領主で、各地に散った魔術名門の一族の長でもある。王都から遠い地ほど、我々は信頼できる領主を置かなければならないものだよ」

 ガウナーの柔らかい言葉に、つい視線を落とす。

「そ……か」

 領地は広く、寒い。王都からも離れており、その土地を任されるのは厄介払いの意味合いとも取っていた。父は、そこまで評価されてもいないのだ。実家が今後の宰相争いに加わるほど力がないからこそ、俺が選ばれたのだ、と。

 だが、父は領主としても評価されていない訳ではなかったのだ。突出して何が出来るわけでも、領地を継ぐ訳でもない俺とは違って。

「一通りの連絡は終わりました。古の一族へ、話を聞きに行きましょう」

 サーシ課長の言葉と共に動き始める面々を、少し遠くで見守った。距離はそこまで離れていないはずなのに、事態に慌てて、報告の言葉すら見失う自分からすれば遠く見える。

 足元からか細い声が聞こえた。

 見下ろすと、俺を守るために付いてきたつもりらしい黒い毛玉が、足元に纏わり付いている。歩み出すまで寄り添うつもりらしい存在に支えられながら、先に見える背を追って脚を踏み出した。

 

 

 

◇6

 通信魔術が遮られている。何かおかしなことが起きている。

 そういった噂は静かに伝播しているらしい。所員から借り受けた空き部屋から覗く街は静かで、人気は全くなかった。曇り空はどんよりと暗く、道には暖かな光が差さない。

 古の一族の居住地はシャクト隊長が把握しているということだが、馬車を使っても少し離れた距離のようだ。そして、この状況で馬車を動かしているのは兎角目立つ。転移魔術を素で使うにも、人数の所為で魔力が持たない。

 目立たない移動手段、もしくは、この状況下で動いていても仕方ないような移動手段が必要だった。

「地下道はないんですか?」

 以前の経験から俺が尋ねると、シャクト隊長は打てば響くように首を振った。

「聖域である水源地が近く、地下水が豊かな代償に、地面を掘ったら何処から水が染み出すか分かったものじゃない土地なんだ。恵みとはいえ、善し悪しだな」

 地下が駄目なら空だが、目立つことこの上ない。身体強化で屋根伝いというのも、もう少し日が暮れなければ撃ち落とされる格好の的だった。

 全員が黙り込む中、ルーカスが口を開く。

「では、最寄りの神殿に葬儀用の馬車を借りましょう。死者が出れば、神殿の馬車が今生の見送りに向かうのはおかしな事ではありません」

「だが、手紙を届ける方法が……」

「この状況下であっても、主のいない犬が外を歩いているのは不自然には思われないでしょう。ニコに届けさせます」

 俺が視線を送ると、当人は任せたまえ、とでも言いたげに口を開け、大振りに尻尾を動かした。紙と筆記具を借りたルーカスは、流れるような筆致で、神殿の責任者に協力を求める書面を作る。

 そしてニコの首元に布を括り付け、その中に手紙を仕舞った。手紙の裏に署名された名前は、ルーカスとガウナーのものだった。

「ニコ……。大丈夫か……? 受け取ってもらえる?」

 本人はわふ! と自信ありげだが、犬が持ってきた手紙が果たして神殿の責任者まで届くのだろうか。俺以外も困惑している中、ルーカスはしゃがみ込み、真剣にニコの顔を捕らえる。

「神殿までの道と、届けるべき人の特徴を教えます。しっかりとお聞きなさいね」

 言い含めるようにゆっくりと言うルーカスの合間に、ニコが相槌を打つ。その間隔は気持ち良いくらい息が合っていて、二人の間の空気には信頼が満ちている。途中ニコがうーん、と首を傾げると、つられるようにルーカスの首が傾いだ。

 ニコが、ルーカスと同じ側に首を傾け直す。目の前の人物が傾く方向が変わる度、同じ向きに首を倒す。ふ、と麗人の口元から笑いが零れた。

 ほら、と両手で首を元に戻され、また説明が始まる。

「ロアくん。ルーカス大神官って、真面目にニコに話をしているんだよね?」

「ええ、と……。はい」

「言われた本人に伝わってる?」

「…………おそらく」

「どのくらいは伝わる?」

「子どもが分かる事なら」

 サーシ課長の眉が跳ね、興味深そうにニコを見つめる。もの言いたげな視線に、俺は言葉を続けるべきか迷い、結局黙り込んだ。それ以上の言葉は続くことなく、サーシ課長の視線は俺を通り過ぎた。

 説明を終えて外に出ていくニコは、初めてのおつかいとでも言うのか、脚は高く上がり、頭は忙しなく動いている。

 ふと思いついてガウナーに視線をやると、あからさまではないが、心配そうにしていた。親戚の息子だか娘だかを預かっているような態度で、律儀に読書中寄り添ってくれる存在を喜んでいるような伴侶だ。

 はっきりと止めに入らないのは、ルーカスの案に一定の信頼を置いているか、突飛な案に止める思考すら吹っ飛んでいるか、のどちらかのはずだ。

「……大丈夫だろうか」

 ぽつりと呟く声が物寂しく、そっと寄り添って腰を抱いた。大丈夫、と頭を擦り寄せ、そして何かを言われる前に離れる。

 軽く食事を、と荷物の中から保存食が出され、施設の設備を借り受けて湯も沸かした。食べ物を腹に入れて、ようやく一息つく。出発から数時間だというのに、時間の密度が高くなる日は急に訪れるものだ。

 全員ある程度食べたが、唯一サフィアだけ食が細かった。俺がじっと見ていると、手元の果実を握りしめ、頭を落とす。

「何というか、折角の帰省がこんな事になってしまって、すみません。うちの父……この地一帯を管理している領主がしっかりしていれば、こんなことには……」

「いいや。領主が管理できていないのなら、領主たちを取り纏めている我々も責められて然るべきだ」

 サフィアの言葉を、ガウナーはすっぱりと切って捨てる。表情はいつも通りなのだが、肌がひりつくような重い空気は、この状況の重さを示しているかのようだ。こういう時、自分の伴侶の背負うものの重さに目眩がする。

「ケルテ国は、自国の反国家組織が、別国家に干渉するほど荒れてるのか?」

「国民生活への影響は、然程でもない。ただ、あの反国家組織は活動が盛んなようだ。金を流している貴族の中に、元々あちらの王の側近だった者がいてな」

「あー……。あの貴族、黒い噂が多かったな。裏社会との伝手とか」

 俺の言葉に、ガウナーは片眉を上げる。直接的に肯定はしないが、様子を見る限り認識は正しいようだ。

「荒れすぎてないなら良かった。今度の式でケルテからの来賓予定もあったし、国内がそんな場合じゃない時に誘ってもなー、って」

「祝われる側が、そんなこと気にしなくてもいいの」

 ぺし、と頭を軽くはたかれ、サーシ課長の手からお茶が注ぎ足される。はは、と笑いながらお茶に口を付けるが、ガウナーの表情が陰ったのに気づかないほど鈍くもなかった。お互いに、全てを語り合えないことは承知している。貴族とはそういう生き物だ。

 しばらくした後、神殿の位置関係からすれば有り得ないほど早く、ニコが戻ってきた。走り書きで『すぐに参ります』と書かれたものを預かっており、神殿の最も高い位らしい人物の署名があった。

 食事の後片付けをし、荷物を再度纏める。王都からは父の領地であるフィッカより、連隊がこちらに向かい始めたとのことだった。到着後は即座にナーキアに突入はしないものの、ぎりぎり気づかれない位置で待機するそうだ。

 馬車の到着は思ったよりも早く、夕方になりかけの時間だった。葬儀専用らしいその馬車は、外装もほぼ黒塗りで目立つものの、用途は外から見ても分かりやすい。

 馬車と共に、使いの神官が服の入った鞄を取り出す。馬車と揃いの色……葬儀用の神官服で、全員が着ても余るほどあった。ルーカスにしっくり来るのは勿論だったが、ガウナーの顔立ちにも、つい祈りたくなってしまうほど良く似合う。

「モーリッツが神殿にいるはずない、って先入観もあるのかな。ロアくんは物静かではないし、とっても似合わないねえ」

「サーシ課長は神官にしては邪悪ですね。部屋に招かれてふしだらな事に誘われそうな感じがしますよ」

「は? もっかい言いなよ」

「喧嘩売ったの自分でしょうが!?」

 ああだこうだと手を出しつつじゃれ合っていると、シャクト隊長から温かい視線が送られ、流石に気恥ずかしくて切り上げる。

 葬儀用の馬車が組織に見つかるか、そして相手が止めてくるのかは運次第だが、一応の言い訳は容易だ。御者と使いの神官は、ここに来るまでは止められることはなかったそうだ。また、医師を始めとした住民の生存に関わる者の地区内の移動についても、妨げられてはいないようだった。

 先にルーカスとガウナーを座らせ、俺もその隣に腰を下ろす。使いの神官は元々の席に、サフィアはサーシ課長に押されながら席を決め、シャクト隊長が乗り口付近を守るように扉を閉めた。

 馬車が走り出すと、車輪が地を蹴る音だけが耳に届く。時折、王都と連絡を交わすくらいで、全員が旅行とはほど遠い空気だった。

 ニコもまた神殿まで全速力で駆けた為か、ルーカスの膝にくたりと頭を預けて撫でられている。足先の汚れを払っている麗人の瞳は柔らかく、ガウナーに向ける挑発的な子どものような視線とは別種のものだ。

 俺たちの旅行は毎回呪われてるなあ、なんて軽口を叩こうとして、その言葉さえも重く捉える伴侶を思って口を閉じる。

「すみません。右の脇道に入って」

 鋭いサーシ課長の言葉に、御者がその通りに馬を操る。

「ルーカス大神官。ニコに西の方角を見てきてもらうようお願いしたら、結果は『分かりますか?』」

「……ええ。難しいことや、細かいことは分からないと思いますが、この子なりに見たままを教えてくれるでしょう」

 お願いできますか、とルーカスがニコに視線を送り、ニコはまたしても任せたまえ、と言いたげに馬車から出て行った。途端に不安げになった伴侶に、きゅ、と手を握りしめる。

 しばらくして無事に戻ってきたニコは、ルーカスに向けて『きゅう』『くん』『わふ』を多用しつつ長々と鳴き続ける。途中でルーカスの相槌が挟まっている所を見るに、問題なく伝わっているようだ。

「『向こうの堀の先に家が集まっている一帯があって、ここから続く道との間には橋が架かっている。ただし、その橋の前に明らかに武装した人物が数人いる。古の一族ではない』そうです」

「古の一族ではない? 何故それを」

 シャクト隊長の問いにニコは戸惑うことなく、声を発する。

「『────への信仰を感じなかった』」

 ルーカスが告げる、神の名を指しているのであろうその言葉は、全く異なった文化から生まれた音のように、耳慣れなく響いた。 

「…………クロノ神への信仰、ですか」

「そうですね、そういうことを言っています。ケルテ国には国教がない。神への信仰に心を守られたことがない。彼らの信じるものは神ではなく、あの国では全能の何かを信じる習慣がない。そういう人間は、分かりやすいのです。我々には」

 指先を握りしめ、唾を飲んだ。ああ、線を引かれたのだと思った。ルーカスと、ニコと、俺たちの、今の言葉が境界線だった。

 ルーカスがふと俺の方を見て、微笑みかける。

「どうしました?」

「俺も、神を信じているかと言われると……、怪しいなと思ってさ」

 正直にそう告げると、その言葉に対して表情は変わらず、責められることはなかった。

「善と悪は人の世に於いて決まるもの。だからロア、貴方にとって神を信じないことを、私は悪だと言えはしません。私個人は、貴方たちが自らの足で立っているのを、嬉しく思っていますよ」

「う…………、いや。出来過ぎな伴侶で、その件は、感謝してるよ」

「貴方にとってそれが悪でないのなら、良かった」

 もごもごと口ごもる俺を見て、ルーカスはただ、にこりと笑っているだけだ。遠いと感じる俺自身が線を引いている。彼と俺だって、俺と伴侶だって、等しく変わらず誰もが違うはずなのに、だ。

「危ないところへ、ありがとうございました。内容も理解できました。とても助かりました」

 シャクト隊長がニコの前に片膝を突いた。その瞳は揺れていて、感謝に震えている。

 それから身を低くしようとするが、その前に大きな舌が頬を舐めた。きょとんと目を丸くし、頬に手を触れるシャクト隊長に、ニコは飛びかかってべろべろと勢い良く舐めたくる。

 ちょ、と、ま、あ、と言葉は次々に途切れつつ、黒い毛の小山に埋もれるシャクト隊長を見て、サーシ課長はけらけら笑いながら腹を押さえる。他の面々はぽかんとして、止めるでもなく一連の流れを見守った。

 最終的には自力で逃れたシャクト隊長は、先ほどの態度は嘘だったかのように息を吐きながらニコを見る。

「とても丁寧に礼を言われたので、気にするなと言いたいようですよ」

 ルーカスがニコを引き寄せ、二度目がないよう押さえる。

「通訳ありがとうございます。もう言いません……」

 ははは、と全力で笑いながら、サーシ課長は顔を拭うものを投げつける。肌の表面が光るほど涎でべとべとだった。

「古の一族が山に行くときに使う、裏門へ回りましょう。道案内しますので、そちらに」

 シャクト隊長の指示で馬車は方向を変え、細い道を使いながら緑の多く、舗装が行き届いていない道を通る。大きな山側に、裏門はひっそりと用意されているらしい。

 家が集まっている一帯は、確かに大きな堀でナーキアの中心地と区切られており、堀にはなみなみと水が湛えられている。

 底が見えるほど澄んだ水は、生活用水に使えるほど淀みなく、小魚が集まっては離れていく。水のせせらぎはこの状況には不似合いながら、ささくれ立った部分を僅かに落ち着けていく。

 馬車から降りたシャクト隊長がサーシ課長に目配せすると、寒さに色を奪われつつある唇から音が零れた。

「我が脚には翼が宿る。其れは雷光を運ぶ翼である」

 軽く跳ね、脚の具合を確認したシャクト隊長は、サーシ課長の頬を撫でる。

「いい魔術だ」

 ぼそりと呟かれた言葉を、贈られた本人は掴まずに風に流した。

 目を細めたシャクト隊長は堀の近くから助走を始め、跳ね上がって反対側まで飛び移った。確かに魔術の補助がなければ、届かずに水に落ちるだろう。

 そして塀の出っ張りに手を掛け、閉じられている裏門の装置を操作する。巧妙に隠されていた門は、静かにこちら側に倒れた。門であったらしいそれは、橋の形状となり、俺たちの前に道を拓く。

「生活用に使っている跳ね橋です。念のため、一人ずつどうぞ」

 神殿の馬車には必要になったら連絡を入れる旨を伝え、その場で引き返して貰うことにした。馬車から荷物を背負い、一人ずつ静かに跳ね橋を渡っていく。全員が渡り終えると、シャクト隊長は素早く跳ね橋を元に戻した。

「さて。これから何処に……」

 殺気を感じて振り返り、指先で結界を紡ごうとする。しかし、その指先は白い手のひらで覆われ、下に降ろされた。

「私の方が早いですから。魔力は温存を」

 言うや否や、周囲に神術による結界が展開される。

 武器を持った集団に取り囲まれた。古の一族の中で、集落の護衛に当たっている者たちだろう。傷つけるわけにもいかない。拘束するか、とルーカスに目配せするが、首を横に振られた。

 彼が頭を覆っていた巾を外し、長い髪が顕わになると共に、白い髪が靡いた。瞳の赤い光は、取り囲んだ人物たちをその場に縫い止める。

 彼の色を変えていた神術の気配は、身体から消え去っていた。

「ルーカスと申します。────族長の元に、案内していただきたいのです」

 武器を下げたのは、果たして誰が一番先だったのだろう。跪こうとする者さえいて、ルーカスに手で制された。神術による結界は解かれ、集団の中で年長の者が先頭に立つ。

「失礼いたしました。ご案内します」

 俺たちは恐るおそるルーカスの後に続く。武器を降ろした人達から意識は外さないようにしているが、もう刃を向ける気はないようだ。視線が合うと、申し訳なさそうに頭を下げられる。

 侵入してきたのはこちらの方なので、お気になさらず、と手を振っておいた。

「おや。レーベルさんとこの」

 そのうちの一人は、シャクト隊長の旧い知人であったようだ。シャクト隊長は口元に笑みを浮かべた。

「お久しぶりです。今回は帰省ではなく、国家絡みの用件で伺いました」

「裏門を開けたのあんたか……、なら大声でそう言えよ。あんた頻繁に帰省する人間じゃないだろう。裏口からの侵入者として切り捨てるとこだった」

「……ああ、普段なら何発か食らっていたところですが、襲いかかるのを躊躇われたようで」

「確かに。まぁちょっと、……揉めていてな。どこまで話していいか判断が付かねえから、族長に聞いてくれ」

 はい、とシャクト隊長は頷き、視線を周囲への警戒へと戻した。ニコがそれを真似るように、周囲をきょろきょろと窺っている。あれは、きっと何に警戒したらいいのか分かっていないに違いない。

 集落の奥、他の家よりも立派な造りのあの家が族長の家であるらしい。先頭に立った人物が家に入っていき、話を付けて戻ってくる。

「族長も話がしたいそうです」

「では…………」

 ルーカスが家に向かおうとしたところで、ガウナーとサーシ課長の視線が絡んだ。何の指示だ、と思った瞬間にサーシ課長が手を挙げる。

「僕は警護のために出入り口付近で待機します。この事態に関係の薄そうな……サフィアくんと、ニコもこの場に残ってくれるかな?」

 サフィアは何か言いたげに口を開いたが、諦めて頷き、ニコは得意げに顎を逸らした。

「では、我々からも何名か残って警護します」

「助かります」

 集団の中で数人は元の警護に戻り、数人はこの場に残るよう指示が飛ぶ。俺たちは族長に会うため、案内に従って家に入った。

 

 

 

◇7

 着色されないままの木がふんだんに使われた造りは、潤沢な山からの恵みを感じさせる。長い年数を経て尚、鼻先に木の匂いが届く気がする程だ。華美すぎるきらいはなく、一際太い柱を中心に造られた建築物は、頑丈さの方を重視しているようであった。

 客間らしき場所で椅子に腰を下ろしていたのは白髪の老人で、周囲の者よりも鮮やかな服装は、地位を示すそれに思えた。老人はルーカスを視線に捉えるや否や立ち上がり、床に平伏する。

 俺は内心慌てふためいたが、ルーカスは慣れているかのように早足で近寄り、族長が身を起こすのを助けた。

「今は、歓迎の言葉を受ける間も惜しいようです。隣国の反国家組織と何があったのか、お聞かせいただけませんか」

 族長は俺たちに椅子を勧め、自身も椅子に腰掛けた。

「ルーカス様のお名前しか伺っておりませんでした。もし自国の宰相閣下の顔に気づかなかったのなら、あやつらは先ず頭を鍛えるべきですな」

 戯けるように軽く笑む族長に、そういえば警護の集団の前ではガウナーは気配を消していたな、と思い返した。気づかれている様子がないのなら、そちらの方が早く進む、と自ら気配を殺していたのかもしれない。

「宰相閣下。大神官様。いま、古の一族の子ども達三名がケルテ国にある、反国家組織の拠点に捕らえられております。あちらの拠点に侵入したために捕らえた、というのが彼らの言い分です。我々の集落の正門には、反国家組織のうち数名が監視に付いています。我らが不審な行動を取れば、おそらく本体に連絡が行くでしょう」

 族長の口から、重く息が漏れた。

「彼らの要求は、子ども達の身柄と引き換えに、『聖地である水源の正確な場所を教える』こと。我々が抵抗したところ、答えは明日までは待つと言いましたが、通信の妨害や見張りといった圧力を、今も掛けられ続けています」

 納得したかのように、シャクト隊長の口から声が上がった。ガウナーとルーカスの二人も事情は把握したというように頷き、自分だけが細部まで事態を把握していないようだった。あの、と声を掛けると、シャクト隊長が俺の様子に気づく。

「聖地にある水源は、創めにクロノ神が岩を割り、水が湧き出した場所だ。そこに水が湧くことで、ナーキアは水源の隣接地域として成立した。普通の山なら複数ヶ所存在するはずの水源がその一ヶ所しかない。そこからしか湧かない。だが、神から与えられた豊富な水量は、その一ヶ所でさえ十分だった」

 以前、サフィアに言われたことを思い出す。神話によく登場する獣の話。『岩を壊して水を湧かせた』『クロノ神の遣い』である『黒く、大型の四足獣』の話。きっと、この話がそうだ。

「水源の水は、我が国側は勿論、山を挟んだ向こう。多くのケルテ国民の喉にすら届く。他国と自国に毒を撒く、と脅されてしまえば、ケルテ国家でさえ下手に出ざるを得ない」

 毒を撒く、の言葉に唾を飲んだ。水源の場所、という言葉に俺以外はその方法を思いついたのだ。おそらくは山頂付近、ケルテ国に届く水の源に毒を撒く。短期的に人死にが出るか、もしくは長期的に作物が殺されるのだろう。

「組織は、水源を利用したくて探したのだろう。だが、辿り着けなかった筈だ。その理由を、彼らは自分たちが場所を知らないからだと考えた」

「でも、……水源が一ヶ所で、両国に届くのなら、水源はほぼ山頂付近のはずだ。探せないはずがない」

 ぼんやりとした記憶を頼りに言うと、挟み込んだ言葉にシャクト隊長が頷いた。

「古の一族の中でも、警備のために場所を知っている者はある程度いる。ただ、その中で水源に辿り着ける者は一握りだ。場所を知らない、のではない。場所を知っていても辿り着けない、んだ。おそらく、水源に行くことができる者を選別する、何らかの仕組みがあるのだろう」

 問うような視線を受け、黙っていたルーカスが口を開く。

「仕組みを作ったのは、神殿ではありません。水源への道筋を惑わせているのは、神の力そのものでしょう。余程、お気に入りの場所なのかもしれませんね」

 神を語るときに緩むことの少ない麗人の唇が、今回は綻んだ。

「……お気に入り…………?」

 ルーカスの言葉を復唱する間、部屋の隅に茶色の毛布を広げては寝転がる、ニコの姿が思い浮かんだ。あの自堕落な姿と一緒にすれば罰でも当たりそうだが、感覚的にはああいうもの、なのだろうか。

 顎に指を当て、とんとんと皮膚を叩きつつ発言する。

「例えば、何らかの選別条件を反国家組織が満たすとしたら、人質の代わりに水源の場所を差し出すことは可能なものか?」

「ケルテ国の民は信仰を知らない。彼らの中に神はいない。ならば、否定する人々よりも我々からは縁遠く、神の認識の中にまず彼らはいない。全てを弾いて、選ばれた人々を引き入れるなら、まず認識しなければ始まりません」

 ルーカスはゆったりと椅子に腰掛け、以前に神殿を案内した時のような、教師のような落ち着いた声音で言葉を紡ぐ。この事態に動じている様子はなく、態度が浮き世離れしていた。

「…………もっと分かりやすく言わない?」

「野菜を買いたいのに、野菜が見えない状態で野菜が買えるか、って話です」

「ずいぶん分かりやすくなったな。無理か」

 分かってくださって何より、とルーカスに微笑まれる。

 神を否定する人物は、否定する以上は否定する対象を認識する必要がある。ならば、知らない人はどうか。そもそも対象を知らないのだから、肯定する人よりも、否定する人よりも、知らない人の方が対象に縁が無い。神は、そういった仕組みで俺たちに関わっている。

 はあ、とガウナーの口から長々と息が漏れ、顔が顰められる。普段は国王相手くらいにしか見せない表情に、このような事態に慣れたガウナーの立場であっても面倒な事態なのだと察した。

「人質の代わりに、差し出すものがない」

 腕組みをしてそう呟き、この事態の厄介さに頭を痛める。

「…………その通りです。我々の間でも、密かに外部に助けを求めるか、夜襲を掛けるか。そういった話を行き来するばかりで」

 族長の言葉から読み取るに、行き来した案が固まることもなかったのだろう。案は、と視線で促されたガウナーが言葉を発する。

「ロアの父君の……フィッカの防衛課は動かすことはできる。が、反国家組織とはいえ、ケルテの国民だ。おそらく、経緯から国家はこちら側に付いてくれるとは思うが、……ケルテの王家で完全に信用できるのは、王子くらいでな」

「王子はまともなんだ?」

「現国王は扱いづらい相手だな。隣国とは折り合いが悪いのが世の常とはいえ……」

 その後の対応を考えても、フィッカの防衛課を他国の領地まで動かしたくない、という思考が読み取れる。組んだ腕が解かれることもなかった。

 シャクト隊長が族長に向き直る。

「相手方の組織の拠点を、偵察はしたのでしょう?」

 その言葉に、族長は短く首を振った。

「一定距離から拠点に近づけず、おそらく魔術……の結界が張られております。一族には、魔術に才もなく学も浅い者しかおりません。破るにしろ、潜り抜けるにしろ、内部の偵察はできておりません」

「じゃあ俺が行けば、内部を探れるのか」

 そう言うと、全員の視線がこちらを向く。特に、ガウナーは目を見開き、何度か言葉を発しようと口が開いては閉じられた。隣に座っていたルーカスは無言でガウナーの肩を叩き、同情のこもった視線を浴びせる。

「サーシも候補に挙げたいところだが……、正直。攻守の天秤を釣り合わせるなら俺と、ロア代理ともう一人が偵察に行くのがいいだろう」

 シャクト隊長もそう言いながら、言葉に出したくはなかった、と言わんばかりに表情が硬い。

「守り……としての魔術師も、要るか。反国家組織の人間が門の近くにいるんだったな」

「ああ。サフィア・モーリッツの力量は正直分からない。なら無か荷物だ。サーシなら走るのは苦しいだろうが、守らせるのは上手くやる」

 シャクト隊長は、ガウナーをちらちらと窺いながら言葉を重ねる。その度に伴侶の表情は凍りつき、言い出した俺が視線を合わせるのを躊躇うほど、空気が冷え切っている。

「ちなみに、三人ってのは、子どもの数?」

 俺がシャクト隊長とガウナーの間で視線を彷徨わせていると、ガウナーががちがちに凍り付いた口を開いた。

「……偵察がてら子ども達を救う機会が発生した場合に、大人が三人いたら一人につきひとり、担ぎ上げて走ることができる。子ども達の身柄さえ確保できれば、フィッカの防衛課にこちらに来てもらい、ナーキアの護衛に回ってもらえばいい。おそらく想定の中で、一番穏便に片が付く気がする……、が」

 青い瞳は凍り付き、ぎらぎらと陽光を反射する雪原のように俺の瞳を射貫いた。ああ、怒られている、というのを俺以外でも察することができただろう。前科持ちな上に、以前と同じように危険に身を投じようとしている。

 あのときと違うのは、お互いの気持ちをある程度は知っていることだ。俺はガウナーに愛されていると知っていて、自分が危険に晒される案を述べた。

「……もう半年もすれば、君は私と式を挙げるのだがね?」

 ぐっさりと胸を刺された心地がした。それと同時に、怒ってくれる存在に対して喜んでいる事を自覚する。

「すこし、二人で話するか。廊下にでも行こう」

 緊張しながら手を差し伸べると、立ち上がったガウナーがその手を取った。

 

 

 

◇8

 へらり、と残る人たちに笑みを残して、冷えた廊下に出る。

 さむ、と口に出すと、同意の言葉も返らない。ただ独りの男の声だけが廊下に、天井に跳ね返りもせず吸い込まれた。手を繋いでいるのに、その間には確かに体温の塊があるのに、間には冷たい風だけが横たわっているようだった。

 部屋から少し離れて、屋敷の奥あたり、廊下の突き当たりで歩を止める。

「……君を危険に晒すのは一度きりだと、君自身に誓った」

「ガウナーが頑張って、反国王派はもう牙が抜かれたんだろう? じゃあ、彼らに危険に晒されることは今後ない。あの後、俺たちは十分なほど安全な立場になった。あんたが誓ったことは、守られているんだよ」

 今回は、そもそも俺が命を狙われている訳ではない。

 俺が気を遣わずに済むように、シャクト隊長やサーシ課長を選んだのも良い選択だった。ルーカスが、勝手にとはいえ付いてきたのもそうだ。難事を切り抜けてきた全てが、ガウナーに起因している。

「君がそうやって騒動に首を突っ込もうとするのは、私の立場の所為なんだろう。元々、君は貴族としての責任感が強い人物で、更に私の役に立とうと動くようになった」

 おいで、と手を広げられ、躊躇いながら腕に収まる。

「君が何の才もない無能だったら。事態を他人任せにする無為な人間だったら良かった」

「はは、それは俺を知ってるからそう言うんだ。困った人間を見過ごすようなのを、あんたは伴侶に選ばないだろ」

 無能であっても、ガウナーならそれでも良かった筈だ。けれど、子どもが大勢の大人に拘束されているのに、保身のために奪還を諦めるような人間だったら、もうとっくに結婚は破綻している。

 この人は、誰かが悲しんでいるのが苦しくて、その立場にいることを選んだ人だ。誰か、じゃなくて自分が背負おうとする人だ。伴侶がそれを同じように背負えなければ、この人はいずれ、重さに潰れて自壊する。

 だから転移魔術に対して攻撃を受け、何もできずに蚊帳の外に置かれた時、自分はひどく怯えたのだ。この人が追い詰められていくのを見ていることしかできない程、何の力もない人間であることを恐れた。

 ただ見ているだけの安全は、救いになどならなかった。

「キスして」

 自ら眼鏡を外して、顔を近づけた。背に回った腕が、力強く身体を引き寄せる。慣れた感触が唇に触れた。朝にだってそうした。きっと楽しい旅行になる、そう信じながら同じように口づけた。

 空いている指先で頬に触れ、唇を開きながら瞼を閉じる。口内の熱量は似ていて、隙間などない程に身を擦り寄せた。

 今回は運良く生き延びられても、いずれこうやって最後に口付ける日はやってくるのだ。もしかしたら、本当に唐突に、何の前兆もなく。

「愛している」

 口を離した途端、甘い言葉が降ってくる。

「……俺は、あんたに守られているから大丈夫。少し様子を見て、絶対に帰って来るから。返事は帰ってから言うよ」

 寂しそうに目を細める様子に、唇の端に口付けた。純粋な人間を誑し込む、悪人にでもなった気分だ。けれど、想いを全て言い尽くしたら、帰って来られなくなる気がした。

 手を繋いで、廊下を歩いた。

 お互いに今は、立場と恋情の妥協点を何処かに置いているに過ぎない。国王の襲撃事件で全て終わった気がしたのに、未だあちこちで火が燻る。ふたりで生きるのは自分にとって難しくて、それでもこの人の隣に拘り続けている自身を不思議に思う。

「ただいま。やっぱ俺が行くことに……」

 部屋に戻ると、サーシ課長とニコがその場にいて、ニコの背に鞍を取り付けているところだった。

 黙って眺めていると、俺に気づいたサーシ課長が服を放ってくる。確かに、葬儀用の神官服を着たまま捕らえられたら不味い。渡された紺色の服に着替えるべく、上着を脱ぐ。

「なんでニコ?」

 渡された服を被りながら問いかける。

「偵察班の三人目だよ。僕は行けない、宰相閣下と大神官様を前線には出せない。古の一族から人を借りようかとも思って相談していたんだけど、ルーカス大神官がこの子を連れて行ってはどうか? って。この子、魔術に対して強いんだって。相手側がかなり魔術を使って対策してきているようだし、鞍があれば、最悪括り付ければ人は運べるからね」

 魔術に対して強いというか、最近は意識して魔術を弾いている様子ですらある、とは口に出さず、そうかあ、と絶対に態とらしくなったであろう返事をした。簡易的な鞍を取り付けられた本人は誇らしげで、どうやら魔術を弾く気満々のようだった。

「ロアに加えて、ニコまで……」

 痛むのか胸の辺りを押さえるガウナーに、返す言葉もない。言葉を選んでいると、すす、と近寄ってきたルーカスがガウナーの肩に手を置いた。

「私はおりますよ」

「……お前が敵地に向かっても、何の心配もないというのにな」

「長年の信頼故ですね」

「そうだな。とても破れそうにない面の皮もある」

 二人の間の空気は普段通りのそれで、ガウナーの気分が僅かにだが浮上したのも感じた。ありがと、とガウナーに気づかれないよう口の動きだけで伝えると、幼げな笑顔が返ってくる。

 僅かに上がった室温の中、着替えを終える。軽く腕を動かしてみるが、特殊な裏地を使っている割に、服も軽く動きやすい。

「ロアくん」

 サーシ課長に手招きされて近寄ると、ぽすん、と抱きつかれる。抱き返すか躊躇っていると、耳元を低い声が擽った。

「触るね」

 相手の魔力が漏れ、自身の魔力に接触しようとする。触れてきた魔力におや、と目を瞠った。

 若干の予想はしていたが、俺とこの人の魔力は深く触れても反発しないようだ。好きや嫌いという好みよりも、質が噛み合って反発することがない。一概に魔力の質は性格準拠とは言えないものの、割と似た者同士が同じ性質を持つことが多い。

 飄々としていて掴み所のない上司であっても、俺と噛み合うような気質を持っていることに驚く。

「境界を崩して。僕を容れて」

 頬と頬を擦りつける接点が、ふわりと溶けた心地がした。言われたとおり、無意識に作っている境界を崩しはじめる。ただ、視界の端でこちらを見ているガウナーを意識してしまうと、羞恥で疼いた。

「うあー……。はっきり嫌、って訳ではないんですけど、なんていうか」

 背をぽんぽんと叩かれながら、魔力を流し込まれる。多少なり消費していたのか、溢れることはなかった。注いだことのない見知らぬ魔力で器が満たされていく。

「分かる。これ基本的に閨ですることだからね」

 特定の相手しかいない故の、条件付けの結果なのかもしれない。頬が火照り、伴侶以外とこうしている事に気まずさを覚える。サーシ課長は平然としているが、もしかして、と顔を向けたシャクト隊長から視線で刺されていた。

「お相手が嫉妬してますよ」

「君の所もね。……僕ら多分、閨での相性悪くないよ」

 見ていられず、シャクト隊長から視線を外した。あんたね、と背をばしばし叩くと、けらけらと笑い声で返事をされた。

「伴侶に出会う前に、過ちの一つでも犯しておけば良かったねえ」

「いや、それは……」

 別に意地悪ではなく、上司は基本的にこの調子だ。

 満たしてくる魔力はゆったりと揺蕩っていて、サーシ課長の話の速さに似ている。俺の器はかなり大きいものであるのに、余裕を持った上で満たしきるだけの魔力量もあった。

「貴方とはずっとこうやっていたいので、これまでの過ちは、なくて良かったです」

 ふうん、とつまらなさそうな、それでいて言葉尻が上がるような声が響いて、しがみついていた身体が離れた。

「まあ、いいか。これから先だって、何があるか分からないしね?」

 いってらっしゃい、と手のひらを力任せにぎゅう、と握られた。む、と同じように握り返し、お互いに相好を崩す。

 魔力の補充なら、サフィアにやってもらっても良かったはずだ。俺と親戚の彼なら、魔力的な拒絶は少なく、古の一族の集落で防衛が必要になれば主戦力になるサーシ課長の魔力は温存すべきだった。

 ただ、おそらく彼は防衛よりも、俺とシャクト隊長の魔力の相性を噛み合わせることを優先したのだった。相棒だった彼らの魔力相性は、割れ鍋に綴じ蓋だったはずだ。俺がサーシ課長の魔力の性質に近づくことで、シャクト隊長への魔術の効率は上がる。

 自身よりもシャクト隊長を心配する故、なのだろうが、やり方も言動もあんまりだった。

「反国家組織の拠点までは山越えになるが、時間もない。身体強化の魔術を掛けて急ぐ。目的はあくまで偵察だが、もし子ども達の保護まで行えた場合は、光を発する魔術を長く三度。その時点でフィッカの防衛課にナーキアへ静かに突入してもらい、この集落を保護してもらう」

 『今日は夕食一緒にどうですか発信機』は偵察中も王宮との連絡に専念するため、基本的に古の一族に残る班と、偵察班である俺たちとの間で連絡は取れない。光を発する魔術は連絡手段代わりにはなるが、光の長短の意味をシャクト隊長も俺も覚えていないため、詳細な連携を取れる見込みもない。

 短い事務的な会話を終えると、荷物の入った鞄を手渡される。言われるがままにそれを背負った。

 出立を察したサーシ課長の詠唱に僅かに遅れて、俺も身体強化の詠唱を始める。

「我が脚には翼が宿る。其れは雷光を運ぶ翼である」

「我が脚は雷光を運ぶが如く、この一時翼を持つ」

 シャクト隊長は軽くなった足を動かすと、サーシ課長の頭に手を乗せ、わしわしと撫でた。俺もガウナーに飛びついて、その肩に頭を擦り付けて離れる。

 足を踏み出すと、ニコはすべてを把握しているらしく、当然のように俺の後ろに付いてきた。

「いってきます!」

 いってらっしゃい、と誰からともなく発せられた言葉を背に、手を挙げて家を出た。

 

 

 

◇9

 外はもう薄暗く、隠密行動には適した時間だ。すぐに偵察、と言い出したのも、この時間帯を狙ってのことだったのかもしれない。水源に行くためであろう山道は細く、傾斜がある上に光源があっても視界が悪かった。

 あまりにも木の枝や草で擦り傷が増えるものだから、到着前にぼろぼろになってしまうかもしれない。

 シャクト隊長は山歩きに慣れている様子、かつ夜目も利くようで、小さい枝すらもすいすいと避けている。ニコは更に澱みなく、山登りの最初から先導するように闇の中を歩いていく。強化魔術を使っている俺たちよりも速く走れるのだろうが、速度を合わせてくれているようだ。

 黒色の体は闇に紛れるかと思いきや、浮かび上がるように黒は目立ち、白い手足が道筋を示していった。

 途中、シャクト隊長も知らない道を通ることがあったが、かなり道程が簡略化されるか、安全な道であるかのどちらかだった。最初はいちいち道の正確さを確かめていたものの、次第に止めてニコ任せになってしまう。

「水源の匂いでもするのか?」

「いや……? どうなんでしょうね」

 比喩表現でも何でもなく、水源を掘り起こした神のお子さんなんです、とは流石に言えないまま、簡単に山頂付近まで登り切ることができた。不思議なことに、野生動物ともほとんど出逢うことはなかった。

 山頂付近からは水源には行かずに、そのまま山を下る道筋に向かう。すると、ニコは水源に導くように服の裾を噛んで引いた。俺が離すよう足を引いても、ぐいぐいと水源の方向へ誘導する。

「いや、今日は水源じゃなくて、子ども達を助けるための偵察に行くんだ」

 手で服の裾を優しく外すと、水源に行って欲しそうに視線を向けられる。しょんぼりした姿に良心が疼いたが、俺がシャクト隊長の先導に従って歩き出すと、渋々付いて来た。 それからの山中の移動も、行きと同様、何事もなく移動だけに終始する。

「此処を離れて随分経つが、見知らぬ山に見えるほど本当に静かだ。怯えられているのか、畏れられているのか……」

「獣がいる気はするのに、姿が見えませんね。不思議な感じがします」

 俺たちの中でその対象になるとしたらニコなのだが、本人は後を付いてくる俺たちを気にしながら、真面目に先導している。その様子は健気な飼い犬そのもので、動物たちが畏れる対象とはかけ離れた空気だった。

 俺たちが、本当に畏れるべきものを認識できていないだけかもしれないが、それすらも分からなかった。

「そろそろ麓ですね」

 身体強化の魔術による効果もあってか、然程疲れることなく、深夜に近い時間には、ほぼ相手方の拠点近くまで近づくことができた。山を下りると、拠点らしき明かりは近いが、小さな村らしき明かりはかなり離れた場所に見える。

 しばらく歩くと、特有の波を感じはじめる。もう少し歩くと、俺たちは結界に遮られてそこから先は進めなくなる筈だ。

「止まって。少し待っていてください。結界を解きます」

 俺を眺めるシャクト隊長とニコの視線を受けながら、まず結界を破壊された際に送られる通知のための魔術を停め、結界に穴を空ける。ここ通って、と指示すると、二人は従うようにその場所を潜り抜けた。

 二人に続いて空けた穴を通ると、結界と通知の魔術を元通りにする。

「また通る時には気をつけてくださいね。族長の話から考えれば、おそらく無いとは思いますが、ぶつかると術者に伝わる魔術もあります」

 ただし、その手の通知だって魔術なら魔力を食う。この場合なら、結界が壊された時に情報が来れば十分だ。それなら、通知の魔術を先に破壊すれば、結界が一瞬壊されても術者には分からない。元に戻すのは、定期的に偵察用の魔術を放つ場合もあるからだ。一瞬壊れて、それを知ることが出来ずに元に戻れば、相手は一番油断する。

 拠点らしき明かりを目指して更に歩いていくと、道中、少し開けた場所に出た。

「この空間だけぽっかり木が無い……。あれ、井戸でしょうか」

「ああ。だが古いもののようだ。水分補給には使わない方がいいだろう」

 その割には井戸の蓋は真横に置かれたままになっており、覗き込むと、中には水の揺らめきがあった。掃除のためか、側面には水面付近まで降りるための梯子が取り付けられている。ニコは井戸にすり、と身を擦り付け、俺が井戸を確認しているのを嬉しそうに見ていた。

 満ちる水からだろうか、覚えのある気配がする。ルーカスのそれというよりも、もっと近い気配を俺は知っているはずだ。だが、ぼんやりとそれは霞がかって、正解には辿り着けなかった。

 水源といい、クロノ神に縁のあるものなのだろうか。水源からの水は、地下を通って確かにこの井戸まで届くのだろう。

 それにしても、露骨なほど、ニコはこの井戸を印象付けたがっているように思えた。

「拠点は近いが、時間が惜しい。行こう」

「はい」

 小声で返事をして、ニコに目配せする。今度はニコは引き留めるようなことはせず、何度か井戸を振り返って、そして俺の後に続いた。

 組織の拠点である建物が視界に入ってくると、一旦、茂みに隠れるようにして全景を観察する。大きな建物は全部で三つ、全部が二階建ての拠点であるようだった。

「地下に牢を作る例もありますが……あ、そか」

「ああ。国境を越えてもナーキアと同じく、浸水が酷いはず。地下はないと見て良いだろう」

 シャクト隊長と同じように三棟を眺める。偵察用の魔術を送ってみると、施設と外部の間にも結界がある。拠点の筈なのに、こっそりと感づかれない程度に偵察できるくらいの出来だった。部下のフナトが作ったなら、外部からの偵察の察知くらい組み込んで寄越して来そうなものである。

 魔術師の質としては、この規模の組織にしては大金を積んで雇った人間なのであろう。それでも、ひたむきに結界という守る術を追い求め続けてきた部下を知っていると、欠点ばかりが目に付く。

「明らかに真ん中の建物の警備が厳重です。子ども達もおそらくそちらかと。棟内の何処にいるかの目星も付けたいですね」

 近くの枝を拾い、ニコに前脚でちょっかいを出されながら地面に四角を三つ描く。結界の設置位置と、効果の強度を丸と線で書き綴り、見張りの位置も書き足した。

 シャクト隊長は、少し離れるからここにいるように、と言い残すと、施設を中心にして一定の円を踏み越えない程度に動き回る。結界の位置を目測している様子で、専門外である筈なのに見事なものだ。

「すまない、待たせた。窓がない位置と見張りやすさを考えると、俺なら入り口から反対の、奥側の部屋に監禁するだろうな」

「なるほど。建物の大きさから、大人数が詰めているとも考えられません。結界から魔術師の腕を見る限り、俺の方が上手くやれます。向こうの結界を、越えてみま……すか?」

 『越えてみませんか?』そう言ってしまいそうになって、慌てて言葉を切る。ある程度の危険を想定しても、俺は前のめりに子ども達の奪還までを狙っている。けれど、それをシャクト隊長に押しつけるのは違う。

 この人はもう一線を退き、教育を主に担当している人だ。俺の希望を押しつけて、彼まで巻き込みたくはなかった。

「……ロア代理の責任感の強さを知っていながら、その問いに頷くのは、流石に俺の良心も痛む」

「あ、いえ。俺も貴族の生まれで……」

 そう言い始めておいて、違和感のある言葉だと口を閉じた。貴族の生まれであることは前提にあれど、今の俺の行動原理は、偏に伴侶に依存している。

「このまま帰って情報だけ渡したとしても、ロア代理の父君の……フィッカの防衛課は、上手く人質を奪還するだろう。その後、多少荒れはしても、国家間の駆け引きによってこの騒動は一応の収拾をみるだろう」

「…………このまま帰れば、不意の事故で子ども達が死んだとしても、俺の責任ではない、ですか?」

「そう。そしてこのまま突っ込んで死んだとしたら、それまで」

 先が真っ暗闇の、崖の上に立っているような気分だった。だが、俺を見ているシャクト隊長の顔は穏やかで、部下に指示している時よりもまだ柔らかく感じる程だ。

「シャクト隊長は、俺がいない方がいいですか?」

「いや。サーシと比べても、ロア代理が魔術で劣っているとは思えない。ただ、あまり連れていきたくはないがな」

「でも俺は……、シャクト隊長を一人にはできない人間ですよ」

「だから困っている。また、ロア代理の良心を利用する事になるからだ」 

 大きな手が伸びて、ニコと共にわしわしと頭が撫でられる。サーシ課長の魔力はまだ、残っているだろうか。こんなにびりびりとして、張り詰めた空気のシャクト隊長に、大切な人の魔力は伝わっているだろうか。

「サーシ課長だったら、迷わずに連れていきましたか?」

「ああ。あれは一緒に死んでくれる予定だった男だ」

 きっと無事に帰ってくることを願っている伴侶と上司の顔が浮かんで、迷いと共に飲み込んだ。夜闇に満ちた周囲は濃紺ばかりで、頭の中も色が混ざらず澄み切っている。

 ふと空を見上げて、星が瞬いているのに気づく。こんなに張り詰めた空気でも、絶望が躙り寄っても、星は変わらずにそこにあった。

「ニコ」

 次は何処に、と言いたげで、今にも飛び出していきそうな大きな塊が近くに寄る。これだけ冷え切った土地にありながら、毛の先以外は温かい。こっそりとシャクト隊長が指を埋もれさせて暖を取っていた。

「お前は死なないだろうから、誰も動かなくなったら古の一族の集落まで走って帰るんだぞ」

 くん、と立場を弁えているらしく、小さな返事がある。自分も撫でようと手を伸ばすと、大きな顎でかぷりと甘噛みされた。

「いた……くない。え、何?」

「後ろ向きだ、と咎められているんだろう」

 そうだ、とばかりに、かぷかぷと手のひらが噛まれた。普段より鼻息が荒く、どうやらニコも活躍する気満々らしい。行くか、と立ち上がると、少し先までたっと走って止まった。

「シャクト隊長」

 隣で歩いている人に、言葉を投げる。

「無事に帰りたいですね」

「ああ。子ども達も、皆でな」

 厄介な人を好きになったものだな、とつくづく思った。

 俺の大切な人は、国一つ分の、いや、それ以上の数の大切な人を抱えている。ひと一人には到底抱えきれない重さを、抱える人達の輪に入ろうとする。そんな重さ抱えきれっこないと思うのに、どうにか試行錯誤して、まだ立っている。

 だから、俺ひとりくらいは、彼の背を預かる人間でありたくなった。

「そうですね、皆で」

 アォ、とちいさくニコが鳴く。自分もいる、と主張する姿に、知ってる、と夜闇の中で笑い合った。

 

 

 

◇10

 施設の敷地との境界にも、やはり結界が張られていた。これまでの結界より手が込んだものではあったが、俺は結界の強化のため、結界術の第一人者に講義を受けている。早々に破壊方法の目処は付いた。

 部下は結界を創ることが得意なのだが、俺はその講義から壊し方を考えることの方が多い。結界の創造の副産物として自然と破壊を学ぶ、と部下は言うが、教えられた結界に対して、壊し方を積極的に考えてしまうのは性格の違いだろうか。

「通知を切って、壊して、察知を誤魔化して、……最後に結界に穴を空ける」

 もしもの時には蟻の一穴とするため、空けた穴は一部残しておいた。その上で、相手の魔術師からの察知を眩ますためには魔術を維持する必要があり、長期戦になればなるだけ俺の魔力が削れていく。

 手短に説明をすると、シャクト隊長は歩みを速めた。真綿が地を跳ねるように後に続くニコからは、そろりとも足音がしない。時折、視線が合うのだが、逸らされた視線はひたすらに獲物を追っている。

 乗り込む予定の棟からは、まだ窓明かりが漏れていた。組織の人員の中で、まだ起きている者がいるようだ。シャクト隊長の耳元に口を寄せ、囁く。

「止めなければ、扉の鍵を壊します」

 暗闇の中で視線が合った気がしたが、笑みと共に頷かれたのかもしれなかったし、戸惑いと共に見逃されたのかもしれなかった。

 扉に耳を当て、向こう側の音を聞くが、音は拾えない。耳のいいニコに視線をやると、しばらく間を空け、少ししてから顎をしゃくってみせた。神様の言うとおりに指先を滑らせ、空中に文字を綴り、金属を溶かして扉の境で錠を切り落とす。

 反対側で音が立たないよう、錠が落ちる前に風で浮かせた。シャクト隊長と場所を入れ替わると、彼は扉を僅かに開け、中を覗く。

「行く」

 口の動きだけで告げられた。短い決断だった。

 突入しようとするシャクト隊長の裾を引き、指先を空中に静かに舞わせる。二人分の身体強化の魔術。説明はせずとも、分かっているというように頷きが返った。

 シャクト隊長は、一度、俺の服の裾を引き、迷いなく奥の扉に向かっていく。ついて来いということだ。退路を守るべきかとも思ったが、錠も既に切り落としてしまっている。

 廊下の両側には扉が並んでおり、それらの中では話し声が聞こえた。

 靴のまま上がり込んでいるというのに、シャクト隊長の足音は妙に静かで、小さな話し声にすら紛れてしまっている。俺は声の波の間隔を拾い、大きくなる瞬間を狙って足を踏み出し続けた。

 奥の扉は他と違い、外から錠が下ろされていた。本来の扉に対して、錠前を取り付けるための木板が雑に打ち付けられている。子ども達を手元に置くことにしたのは、計画的なものでは無かったことが窺えた。

 玄関で錠を切り落としたのと同じ魔術で錠を切り落とし、手でぽすんと受け止める。どうぞ、と掌を広げてみせると、シャクト隊長は扉の隙間から中を覗き、内部に向けて唇に人差し指を当ててみせた。

 しばらく待ったが、中からの声は聞こえない。そっと扉が大きく開かれ、三人とも中に滑り込んだ。

 中には目を丸くした子ども達が座り込んでおり、シャクト隊長は重ねて黙っているように小声で言う。大人しくしていたのだろうか、手を縛られているというようなこともなく、掠り傷のような傷以外の大きな怪我はなかった。

「助けに来た。おぶされ」

 シャクト隊長が背を向けると、一番背の高い男の子が、そろりそろりと近寄り、その背に捕まった。こっちも、としゃがみ込むと、もう一人に押し出された一番小さな女の子が俺の背に乗っかる。

「わたしは?」

 最後に残った、小さな声が囁く。その女の子に向けて、ニコが背の鞍を向け、その場に伏せた。女の子はゆっくりと鞍に跨がり、慣れた手つきで取っ手を掴んだ。

 扉を開き、全員で部屋の外に出る。

 狭い廊下は全員が横並びには通れず、まず先頭にニコを行かせた。一番足音が立たず、そして最も速度が出せるのはニコだ。

 先に行くように目配せされ、俺もニコの後に続く。音を立てないよう気をつけつつも、やや急いで駆ける。同じような扉が続く廊下は、永遠に続くほど長く感じられ、ニコの脚が速いものだから更に気が急いた。

 その所為だったのだろうか、暗闇の中、廊下の脇に積んであった荷物に足が引っ掛かる。

 物音が立った、のだとそう思った。

 振り返るとシャクト隊長の目の色が変わり、急ぐよう腕が勢い良く振られる。明かりが漏れていた扉に向け、駆けてくる足音がした。

 長い脚が、振り子のように持ち上がる。

「構うな、行け!」

 開かれようとした扉に向け、シャクト隊長が回し蹴りを放った。押し開かれようとした扉は一旦勢い良く元に戻り、その間に廊下を駆け抜ける。

 『侵入者』『人質が』戸惑うような声が耳に届いた気がしたが、構っている余裕などなかった。

「玄関の扉を……!」

 心得た、というように星の瞳の端っこに俺が映った気がした。半分開いていた玄関の扉は、前脚を大きく上げたニコに叩き破られる。

 大きな音と共に、扉が跳ねた。

「子どもが乗ってるからな……!」

 あんまりにも乗り手のことを考えない動きに、つい口を出してしまう。サーシ課長を雪車に乗せた時も、前を走るニコは容赦ない走りだったことが頭を駆け巡った。

「へいき! 馬にはなれてる!」

 本人ではなく、ニコに跨がった女の子から勢いのいい返事があった。

 古の一族の戦闘民族っぷりは、土地に侵入した時に分かったつもりだったが、子ども達ですら肝が据わっている。俺の背後の少女も、しっかりと俺にしがみつき、必要以上に声を上げようとはしなかった。

 後方ではシャクト隊長が逃げつつも、発煙筒などを投げ捨て、追っ手を妨害していく。彼の背後に負ぶさっている男の子は、よく見ればシャクト隊長に外見が似ていた。隊長の背後に彼自身の力でしがみつき、妨害するための物品の受け渡しを助けている。

 結界の穴に向けて駆けていく間に、結界を叩き壊すために呪文を綴った。走りながら綴る文字は、光の軌跡を纏って後方に流れていく。

 パキパキと罅が入る音と共に、俺の魔力が穴から結界を侵食する。堅牢な壁も、内側から浸食する蔦に崩れ落ちるものだ。

「今だ、最高速!」

 ニコが速度を上げ、結界に突っ込む。

 触れた箇所から魔術が弾かれ、パキン! と硝子が割れるような音と共に、結界が砕け散った。ほっと息を吐き、後続の俺たちも結界があった場所を踏み越える。

 普段ここまで魔術を連発することはない、逃げ切るまで、補充してもらった魔力が持つことを祈るばかりだった。

 少し走って、ニコの先導で森に入る。

 滅茶苦茶に駆けているように思えたが、それらの道では、ある一定の場所ごとに見覚えのある道を通る。俺たちが通りやすい道筋から、ニコが近道になる道筋を選び、道を変えて通っているようだった。

 俺の顔や腕には何度も葉や枝が当たり、その度に傷を作った。せめて背負っている少女に少しでも傷がなければいいが、それすらも案じている余裕はない。

 背後からは明かりが俺たちを追っており、俺はニコのあの白い後ろ脚だけを追って、我武者羅に駆ける他なかった。夜闇の中で、あの脚だけが不思議と光り輝くように道を示している。三者の間に会話はなく、喋る体力さえも惜しいというように森を駆けた。それでも、勝ち筋が見えてこなかった。

 このまま駆けたところで、強化魔術はいずれ切れる。相手方の明かりがあまり突き放せていないところから見れば、あちらも同じ強化魔術を使っているのだろう。

 魔術が切れて、掛け直すことはできても、魔力量次第では追いつかれかねなかった。ニコに三人を頼んで俺とシャクト隊長で相手達と戦うべきか。三人別れて、捕まる人数を減らすべきか、案が巡っては消えた。

 夜明けが見えない。

 今はまだ目の前に白いあの脚が明かりのように見えていても、いずれ明かりが切れるかもしれない。この脚が動かなくなるのはいつだ。いつまで、魔力は持つのだ。

 あの時と全く同じだった。転移魔術に攻撃を受けて、問いへの答えを躊躇った時と、同じだ。そういえば、あの時、何を言われたのだったか。

『細切れでもいいから、言いなさい』

 あの時、サーシ課長は問題を切り分けろと言ったのだ。そして、優先順位を付けた。速度を落として、シャクト隊長と並ぶ。

「魔術、の残り、は、分かりますか!?」

 同じなら、同じ対応をすればいい。まずは強化魔術の残りを確かめるところからだ。

「魔術の馴染みがいい。森を抜け、麓付近まで、は、走れる」

 そこで一旦切れるのなら、このまま山登りまでの間に、魔術の掛け直しが発生する。俺に対しての強化魔術はまだ持ちそうだったが、俺だけしか魔術は使えない。今日は魔力を消費しすぎていて、おそらく、掛け直せる回数は両手の指には届かない。

 俺が道筋を考え始めたとき、背後からちいさく声がした。

「……井戸に」

 俺とシャクト隊長が近寄っていたため、その声は隊長に背負われている少年にも届いた。少年は、あ、と声を上げ、ニコが駆けている方向を指差す。

「あっちに井戸があるから」

 少年はニコを見ながら、同じ方向だ、と言う。おそらくニコにこのままついて行けば井戸に辿り着くだろう、と。そういえば、と行き掛けに蓋の開いた井戸があったのを思い出した。

 ニコが擦り寄っていた、あの井戸だ。

「…………そう。井戸についたら、飛びこんで!」

「「は!?」」

 小声で、かつ裏返った声を上げ、俺とシャクト隊長は男の子を見た。男の子は真剣なまなざしで、俺たちに言う。

「井戸と、神さまの泉がつながっているから! 近道なの!」

 先頭を走るニコがこちらをちらりと見て、小さく鳴いた。ふい、とまた視線を前に戻してしまうが、ニコもそれを狙っていたらしいことは伝わった。

 神さまの泉、とは、おそらく頂上付近にある水源のことを言っているはずだ。あの井戸には、おそらく泉と同じ水が満ちている。もし、選ばれた人しか辿り着けない仕組みの泉があるように、同じ力で、あの泉と井戸が繋がっていたら。

 ────ああ、だから、井戸からあんなにも見知った気配がしたのだ。

「…………飛び込み、ましょう!」

 正気か、というようにシャクト隊長が目を剥いた。

 説明する体力も惜しかったが、子ども達がこんな遠くまで、組織に捕らえられるほどまで近づいたのが、この井戸を使った為だというなら納得がいく。泉から井戸に対しても道があるのだ。

 魔術でいう転移魔術に近い仕組みがここにはある。だが、それは神術ではない。神の力そのものが、この井戸と泉を繋いでいる。

「わたしたち、この井戸をつかったの」

「飛びこんだらつながるの!」

 背にいる子ども達は口々にそう言い、俺に加勢する。シャクト隊長は勢いに押され、口を噤んだ。

 視界の先に井戸が見えた。

「待った……! 先に俺たちが試し……」

 声が届かなかったのか、先に辿り着いたニコの背から少女が飛び降り、躊躇いなく井戸に飛び込んだ。ニコもそれに続くように、頭から井戸に突っ込んでいく。

 ドボン、と大きく音が響いたが、それから先は、水の中で藻掻くような音すらも聞こえなかった。

 俺たちが井戸に辿り着いて覗き込むが、井戸の中には何の影も見当たらない。

「……シャクト隊長、俺たち、泉に招き入れて貰えると思いますか?」

「さあな。ただ、追ってくる明かりも近い。これでただ飛び込んだだけで終われば、その後は暗闇を濡れたまま逃げる他ないな」

 はは、と二人して乾いた笑いを浮かべた。こんな、理論も、経験も、何もない。こんな博打のような、ただの神頼みだなんて二度と御免だ。

 先に試しますね、と軽口を叩いて、井戸の縁から中に飛び込んだ。

 すぐに水が纏わり付くが、息苦しさは微塵もなかった。匂いなどしないはずの水の中で、あの花の香りと、獣の臭いが鼻先に届いた気がした。視界の先は暗い、その中で、ぐい、と力強い腕が手首を掴む。

 水に流されるように、身体は水中を移動した。纏わり付く気配が彼の神のものであるとするなら、あの夢で出会った、同じ気配のする男は。

 思考も水の流れに飲み込まれ、そのまま眠るように意識が落ちていった。

 

 

  

◇11

 誰かに、頭を撫でられているような気がした。

 手つきは撫で慣れた伴侶のものではなく、どこかぎこちなく、荒っぽい。長い爪は、ちくちくと頭皮を掠めた。ああ、撥ね除けなければ、と思った。

 瞼を持ち上げて、そちらを見ようとするが、異様に瞼が重い。

 開こうと力を込めても、綴られているように開かない。周囲の光景が明るいことは分かっても、細部まで捉えることはできなかった。

 耳を澄ませると、こぽり、こぽりと水が湧く音がする。

『なあロア、叶えてやろうか? 時を停めさえすれば、お前は永遠の命を得る』

 くくく、と愉しそうな低い声がした。声の波は出鱈目だ。全く違う言語を持つ存在が、自分たちの言葉を上手に真似ようとするように、不規則に違和感を覚える箇所がある。

 目を閉じていても、あの男が側にいることはすぐに分かった。あの出鱈目な、水の中で嗅いだ匂いと同じ匂いがする。

 声を出そうとしても、僅かな息しか漏れない。闇にでものし掛かられているようだった。身体が重く、ぴくりとも腕が動かない。ただ男の声を聞き、気配を全身に感じていた。

『永遠の時の中で、いくら本を読んでもよい。いくら魔術を試してもよい。そうして積み上がった知識は、やがて多くの人々を救うだろう』

 その誘いは甘美だった。

 子どもの頃に何度も考えた。時間が無限にあったのなら、自分はもっと、世の中の全てを知って、全てを救って、あの天才たちが敵わないことができる。

 同時に、この誘い文句を叶えることができる男の正体も、理解せざるを得なかった。

「クロ……ノ…………」

 喉から声を漏らすと、瞼を閉じていた指が離れるように視界が自由になる。

 目の前で、美しい男が笑っていた。

 金眼が細められ、艶やかな唇が持ち上がる。頭を撫でていた長い指先が、甘ったるく頬に移った。さらり、と耳元の髪が掬い上げられ、指の間からこぼれ落ちる。

 美麗な顔立ちが近づき、ぬるい吐息が耳にかかった。その一瞬、この男の恋人にさせられたような気分がした。

『また、夢でな』

 口元から覗く牙は、青白く光っていた。

 

 

 

 ぱち、と目を開いた先、覗き込んでいたのはニコだった。

 のし掛かった上に嬉しがるようにべろべろと頬を舐め上げられ、待った待ったと両手で押し退ける。

 そうやって少し離れても、またニコは俺に身体を寄り添わせた。べったりと近づいた部分は他よりも温かい。どうやら、体温が失われないように気を遣われている様子だった。

 着ている服は半乾きといったところで、近くでぱちぱちと焚き火の燃える音がしている。

「良かった。あまり起きないようなら、背負って下山するかと思っていたところだ」

 すぐ近くで、ほっとしたような低い声がした。

「シャクト隊長……! 全員、無事でしたか!?」

「ああ、怪我もない。だが、こちら側の到着地点が泉とはな。みな濡れ鼠だ」

 子ども達も身を寄せ合いながら、焚き火で服を乾かしている。水に浸かっていた時間は短かったようだ。火打ち石や火打ち金、簡易食料の類は無事で、食事がてら休憩をしているところのようだ。俺が眠っていたのも、ほんの少しの時間だったのだろう。

「ロア代理は大丈夫か? 気を失っていたようだが」

「はい。何というか……、神術の干渉があったみたいで。身体は何とも」

「そうか。そんな中で、魔術を使わせるのは申し訳ないな。他の光で代用してみるか」

 そういえば、子ども達の保護まで行えた場合は、光を放つ魔術を三度放つ予定だった。大丈夫ですよ、と言い置いて、想定通りの魔術を発動させる。しばらく待つと、古の一族の集落あたりから、同じ魔術で返答があった。

 しばらくすれば父親の領地であるフィッカの防衛課が、古の一族、そしてナーキア地区の保護に動くことだろう。

「ロア代理も魔術をかなり使ったし、腹は減っていないか? 麓から山頂まで、すぐ追いつかれるような距離ではないが、念のため服さえ乾けば出立するつもりだ」

「お腹空いてます! いただきます」

 少し湿った簡易食料を受け取って囓る。ぼそぼそと口内の水分を奪っていくそれに、水ありますか? と尋ねると、黙って泉を指差された。

「さっきまで浸かってた水じゃないですかー……」

「この水量ならとうに薄まって、何もかも流れただろう。つべこべ言わずに飲め」

 ははは、と笑うシャクト隊長は、随分砕けた様子だった。半乾きの前髪は額に落ち、普段よりも若々しい。本人は引退している、と言うが、速度が落ちることのなかった走力といい、まだ前線に出るには十分だろう。

 言われたとおり泉に向かって、気づくことがあった。

 この泉は、夢の中で引き込まれた場所だ。

 印象的だった泉の底にある白い砂利の隙間からは、青色の泡が浮いてきている。夢でも、現実でも、この泉は神の領域で、その場所に招かれていたのだった。

 泉の水を手で掬って飲む。ひんやりと冷たく、からからに乾いた口に染み込むようだった。口元を拭って、はあ、と息を吐く。

「……あの、俺が音を立てた所為で、すみませんでした」

「ああ、あれは夜目が利く俺が伝えなかったのが悪かった。新入りならよくある話だ。生きているならいい」

 シャクト隊長は俺を手招きして、手を出すように言う。言われたとおり両手を差し出すと、手のひらに飴玉の包み紙を転がした。視線を向けてきた子ども達にも、同じように飴を配っていく。

 ニコも欲しいと近寄っていって、犬に飴は良くない、と真面目に断られ、しょぼしょぼと帰ってきた。

「サーシ課長の代打、どうでしたか?」

 戻ってきたニコに寄りかかり、ごろごろと口の中で飴玉を転がす。口の中が甘さでいっぱいになった。訪れていた眠気も、やや遠のく。

「能力は申し分ないが、性格的にロア代理は防衛課には向かないな。そういった打診があったら断るほうがいい」

「……そうですか?」

「ロア代理は、世の中の全てに情を向けてしまう。身内以外への情は、枷だな」

 言葉を切って、シャクト隊長は目を細めた。

「宰相閣下の欠点を挙げるとすれば、俺は同じ点を挙げる。今回、ケルテ国にとって穏便に済ませること、を配慮しないのなら、まだやりようはあった。宰相閣下の結婚相手を伴って偵察した挙げ句、人質の奪還までを狙う、というのは、うちの国が危険を背負いすぎている」

 ケルテ国にとっても問題が大きくならないよう、ガウナーが配慮しているのはどうしても伝わってしまう。

 必要とあれば、あの人は他国を切り捨てはする。ただ、その後、一人であの蒼の目からぼたぼたと涙を零すのだろう。

「あぁ……。ガウナーは、情が深いというか」

「類い稀な美点なんだがな。まあ、人の性格なんて、見方によって善にも悪にもなる。直すべきと言うなら国の都合で、俺はそれを良しとはしたくない。…………だから」

 隣のニコが、興味深そうに俺たちの話を聞いていた。耳の平らな面が向かう先は間違いなく俺たちで、構ってとも言わずに、本当に大人しく言葉に聞き入っている。

 シャクト隊長は永遠とも言えるほど、ずっと言葉を選んでいた。俺は急かすことなく、彼の言葉が、気が済むまで整うのを待った。

「…………俺は、貴方たちがその美点を失わないまま、末永く共にいてくれることを願っている」

 そう言ったシャクト隊長は、恥ずかしそうに視線を逸らす。

 視線を合わせようと顔を覗き込むと、ふい、と更に逸らされた。面白がってニコと共にしばらく続けていると、流石に怒られる羽目になった。

 

 

 

◇12

 俺たちが無事に下山し終えた時には、フィッカの防衛課は到着しており、集落では子ども達の親族が勢揃いしていた。気丈に振る舞い、道中一度も泣きはしなかった子ども達が、彼らの腕に収まって静かに涙を零した。

 彼らが捕らえられた理由を道中で尋ねたが、施設に迷い込んで助けを求めようと身分を話したところ、訳の分からないままに捕らえられた、と言った。話が正しければ、助けを求めようとした大人に裏切られたことになる。

 子ども達は空腹と擦り傷以外に怪我はなかったが、捕虜となった心の傷は時間でしか癒やせない。安全な場所に辿り着いて尚、大声を上げることを躊躇う彼らに、しくりと胸が痛んだ。

「ロア! 傷だらけじゃないか!」

 道中では、魔力の消費を押さえるため治癒魔術ですら控えていた。俺に駆け寄ったガウナーは人目を気にせず俺を力一杯抱きすくめると、瞳を閉じて、何度も大きく息を吸った。

 泣き出すのを堪えている仕草に、俺の胸が引き絞られる。

「愛してるよ、ガウナー。帰ってこられて嬉しい」

 今日くらい良いか、と力一杯抱き返すと、またガウナーは目をぎゅっと瞑って、俺の肩に顔を埋めた。放っておけば、ずっとそうしかねないガウナーを引き摺って族長の家に戻り、フィッカの防衛課と情報を交わした。

 防衛課が到着した後、古の一族の前に監視に付いていた反国家組織の数名は、小隊からの警告を受け、人数を見てすぐに撤退したらしい。

 今後しばらくの間は、古の一族の集落を始めとしたナーキア地域全体、が護られる対象となる。事態が完全に落ち着くのはこれからだが、今日明日に手出しされるようなことにはならない。

 全てから解放された俺は、宿屋に移動する馬車の中で崩れるように眠りに落ちた。体力も魔力も消費していたため、夢を遠ざけるほどに眠りは深くなった。

 長く眠って目を覚ますと、寝台の近くに寄せた椅子に、ガウナーが本の頁を捲りながら腰掛けていた。擦り傷があった場所は洗われ、軟膏らしきものが塗られている。魔力の具合を確認すると、ほぼ元通りになっていた。

「おはよう」

「……はよ。でも、もう昼も過ぎてるか」

 俺が起きたのに気づくと、ガウナーは黄色い花の栞を挟み、本を閉じた。そして一度立ち上がり、本を置いて寝台に腰掛けると、そっと頬に唇が触れてくる。

 んふふ、と笑って、頬同士を擦り付けた。

「いい宿だな。寝台が気持ち良くて、よく眠れた」

 毛布を撥ね除け、ガウナーに横から抱きつく。少し上にある喉からくつくつと笑い声が漏れた。

「それは良かった。フィッカの防衛課の配置は順調に進んでいるそうだ。王都との転移魔術も復旧して、ルーカスだけは早めに戻らせた。サフィアは、今回の件の報告も含めて実家に戻るために出発した。私たちは配置が済み次第、小隊と君の実家まで向かう予定だ」

「一度、王都に戻ったりしないんだ?」

「ケルテ国とのやり取りは始まっているようだが、数日、私がその場にいなくては、というものでもないかな。完全に水面下のばた足で済んだ案件だから、私が戻るまではサウレがどうにかするそうだよ。……どうやら、また旅行に横槍が入ったのを気にしているらしい」

 最後の一文が結構な割合を占めていそうだが、確かにサウレ国王が動いてくれるというのなら、俺が口を挟むことはない。次の言葉を待っていると、ガウナーの眉が少し下がる。

「ケルテ国側の井戸については、両国の合意の上で埋める予定だ。ルーカスの話では、昔クロノ神のお出かけの為に創られて、放置されたものだろう、とのことだった。昔は、ケルテと我が国の境も曖昧だった。当時のものが残っていたのなら、国を跨いでしまうかもしれないな」

 埋める必要が出てきてしまったのは悲しむべきか、切なげに付け加えられる言葉に、目を細めた。

「そっか……。お出かけ用の散歩道の為に俺たちは…………」

 美しく笑っていたあの男の顔をぶん殴ってやりたくなったが、ここまでルーカスにニコに、とお膳立てがされていたということは、本人も悪いという意識はあったのだろうか。それとも、全て織り込み済みで舞台を創り、ただ嗤いながら鑑賞していたのだろうか。

 目の前のガウナーは、俺を元気づけるために柔らかく笑ってみせた。あの青白い光とは違う、見慣れた陽光だった。

「人死にが出なかったのだから、後はどうにかするさ」

 全てはガウナーのその一言に尽きた。取り戻せないものが、失われなくて良かった。まだ取り戻せる範囲で収まって良かった。

「じゃあ、もう少し休み?」

「ああ。防衛課と相談したんだが、お互いの休息も含め、明日の朝に出立することにした。サーシ課長も近場に結界を張って回った後は、魔力の回復に休むと部屋に引っ込んだ。ニコは君がゆっくりできるよう、シャクト隊長が一晩預かってくれるそうだ」

 ふぅん、と呟きながら、首筋に両腕を巻き付ける。ぐぐ、と体重を掛けて引き寄せると、素直に身体が傾ぐ。

 唇を軽く噛むと、口が開いて舌を迎え入れてくれた。舌を絡ませるが、反応が薄い。おや、と唇を離して、顔を覗き込んだ。

「疲れてる?」

 ぱちり、ぱちり、と青い瞳が見え隠れした。

「いや、そうではないが。……誘われているのか」

「時間あるしさ。どう?」

 乗り気にならないなら口淫あたり仕掛けるつもりだが、この手の文句は明らかに俺の方が不得手だ。ふむ、と少し考えて、更に口を開く。

「サーシ課長の魔力を、ぜんぶ上書きしてほしいなー……、みたいな」

「………………いい、が、もう一声?」

 割といい線をいったようだった。ぺろり、と唇を舐めていると、ふと、あの夢の話を思い出す。黙っているのも不貞を働いているようだし、言ってしまった方が気が楽だ。

「夢を見てさ、ガウナー以外の男に…………」

 ぐい、と体重が掛かって、全身を使って寝台に押しつけられた。上質な寝台は、柔らかく背を受け止める。

 あの男とは違う、見慣れた大好きな顔立ちが、鼻が触れるほど近くにあった。不機嫌そうに顰められた眉が、歪めば歪むほどぞくぞくする。

「…………男に?」

「自分を選べ、って囁かれる夢」

 むすり、とその顔立ちに嫉妬が顕わになると、俺の中の魔が、けたけたと笑った。浮気をするつもりは毛頭ないが、夢ごとき、と笑われなくてよかった。

「それを言われて、動揺した?」

「…………まあ。俺、あんまり口説かれたことないから……、っん」

 言葉を遮るように、唇が塞がれた。今度は滑り込んでくる舌は唇をなぞり、舌の裏へと動く。味を感じるためのそれが、ぞわぞわとした刺激を背に伝えてくる。上手く重ならず、唾液が唇にまぶされて光った。

「……夢の相手は、いい男だったのか?」

「………………」

「ロア」

 窘めるような声音に、不味い反応をした、と内心慌てる。

 とはいえ、全て分かってみれば比較対象になるあの完璧な美貌は、神のそれであった。客観的な意見として、確かに誰よりも綺麗な男ではあったのだ。

「…………いや、綺麗すぎて、怖い感じの……」

「ほう。怖いほど美形な男だったと」

 長い指が、服の下に潜り込む。薄い腹を擽るように撫で、胸まで這い上がった。指には嫉妬がこびり付いているようで、普段のそれよりも皮膚に吸い付いてくる。

「上書きしたくなった?」

「本当に、君には勝てないな」

 やった、と腕を伸ばし、ご機嫌で閨での魔術を書き始めると、いつもよりも滑らかに呪文が綴られていった。

 できた、と報告すると、首に唇が当たった。

 首の薄い皮膚は、鋭敏に唇の感触を伝えてくる。軽く歯を立てられると、犬歯が普段よりも深く皮膚を凹ませた。そこには戯れしかなく、ぞくぞくと駆け上がる性感だけが与えられる。

 服が捲り上げられ、胸元を甘噛みされた。熱い舌が尖りを舐め、追うようにぬるりとした感触が続く。つむじを見下ろしていると、視線が合った。

 ふふ、と笑って、相手の頭に指先を埋める。心地よい程度に頭皮を押し、つつ、と首筋に指を這わせた。

 顎の下を触れない程度に指でなぞると、お返しというように胸の粒に歯が当たる。

「少し、ふっくらしてきた」

 弄られ慣れた胸は、触られれば刺激を感じ、揉まれれば柔らかく膨れる。けれど、決定打は与えられない。彼がこうやって胸ばかり触るのは、大抵焦れる自分の様子を楽しみたい時だ。

 ぷっくり膨らんだ乳首は、唾液を纏って色を濃くしていた。

「ん……、っあ…………、誰の所為……」

 舌先で弄られると、触れられていない下がずくずくと熱を持つ。下も触れてほしいと言うか迷って、自分の手を服に突っ込んだ。

 擦り上げようと自身を持ったところで、そっと腕に指が添えられる。

「駄目だよロア。私の愉しみなのに」

 笑っている表情の下に、悦が隠しきれてはいない。猛獣に喉元を押さえられているかのように、ひくり、と喉が鳴った。

「…………や、ぁ、ァん、あ、んた、……今すっごく悪い、……して──っひ………!」

 自慰すらも遮られ、疼きを抱えたまま胸を弄られ続ける。性感帯は多い方がいいとばかりに、胸も、首も脇も、腹も、骨張った指先が触れる度に淫らな波を得られるようになった。

 触れる度に流れ込む魔力は身体に馴染みきって、この魔力が定期的に混ざることが俺の魔力を形作っている。別の魔力を身体に留めていたから尚更だった。この魔力が求めていたものだ、と乾いた砂が水を吸うように、貪欲に身体を開いて受け入れようとする。

 水が落ちる度に、染みる度に、この身体に慣れきっているのだと、この身体しかいないのだと覚え込まされる。彼が好みの性格をしてなくても、こんな身体の重ね方をしていたら、この人が運命だと刷り込まれてしまいかねない。

「後ろ、触って…………ふぁ、……もっと魔力、いれて、ほしくて……ッあ!」

 その金糸の髪に触れて、かき混ぜながら、縋り付くように入らない力を込める。あの触れたら傷つきそうな青白い月ではなく、柔らかい薄黄色の月に触れたかった。

 君が言うのなら、そう平然と嘘を吐きながら、唇が顔に近寄ってくる。自分から距離を寄せて、綺麗なそれに吸い付いた。

「ん、あ……ふ、…………ぅん、あ」

 ちゅ、ちゅ、と何度も唇が離れては触れる。

 僅かずつ魔力が混ざっていくのは、食事の前にお預けを食らっている気分だった。その感覚を塗り重ねるように、ガウナーは一度寝台を離れ、瓶を取って戻ってくる。

 じんと下が疼く中、ほんの少しの間すらも長く待たされた気がした。

「お待たせ」

「…………嫌味かよ」

 瓶からの液体でぬめりを帯びた指が服の下に潜り込み、俺自身に指が絡む。くちくちと立ち始める音に、堪らず横顔をシーツに埋めた。

 直接的な刺激は脳を痺れさせ、魔力の輪郭を更に朧気にしていく。魔力は生命力に結びつき、それは本能とも繋がる。理性に遮られない欲が、勝手に目の前の男を定めている。

「瓶、俺にも」

 投げ渡されたそれを受け取り、ガウナーの下の服を寛げる。指先に瓶から液体を落とし、服の下のものを掬い取った。

 指先で輪を作り、ぬめりを塗り広げるようにやんわりと扱く。少し触れただけで、いつも反応が律儀だ。縊れをなぞり、全体が濡れるように塗り広げていく。液体に違うものが混ざり始めると、弄っていた手が止められた。

「それくらいで」

 今のところは制止を素直に聞き入れてやろう、と指を離した。軽く足を開くと、服に手が掛かり、下着もろとも脱がされて放られる。

 指先が後ろの輪に引っ掛かると、くぷ、と太い指を受け入れた。

「は……っあ、い……、もっとおくに、…………っあ」

 指が陰茎の裏側に辿り着き、撫で回される。前を触られていないのに、その部分だけで快楽を拾える。重く、深く、身体の内側で拾う熱が、理性をとろとろに溶かした。

 指先が抽送を繰り返す度、柔らかくなった肉壁との間でくちくちと音を立てる。指が広がれば空気を食み、すうと通る感触に背が震える。

「……、ぁ、あ、あ…………きもち、い」

「……ふうん、じゃあ、指だけでいいかな?」

 じわ、と一瞬で涙目になった俺を見て、ガウナーは腹が真っ黒な笑みを浮かべた。あ、う、と言葉にならずに戦慄く様を、面白そうに見守っている。ちゅぷ、と指が抜かれ、その体積を惜しむように輪が窄まる。

 いじわる……、心の底から絞り出した俺の脚を、ガウナーが抱え上げた。

「欲しい?」

 すっかり硬くなったそれが谷間を伝って、窪みに先っぽが当たる。

 こくんと頷くのだが、意地悪な伴侶はくい、と亀頭を滑らせるだけで、突き入れようとはしない。熱いそれの体積に、こくりと喉が鳴った。

「…………いれて。あんたの魔力で、……上書き、されたい」

 肩に縋り付くと、仕方ない、とお許しの息が漏れた。こうやって弱味を見せるのはガウナーだけだというのに、度々こうやって俺の弱味を引き出して、執着を確かめるのだ。

 綻んでいたそこは質量を受け止め、柔らかく拡がった。肉輪は膨らんだ男根の分だけ拡がり、縁いっぱいに雄を食い締める。

 思わず口元が緩んで、熱く息を吐いた。

「……、ぁ、んあ、……っは、すき、これ、を、まってた……!」

 腰を上げて、脚を相手の背に巻き付ける。もっと奥へ、踵でその背を唆した。指よりも、もっともっと奥、重い快感がほしい。

 ふ、と上の方で息が漏れ、ずる、と大部分が一気に滑り込んだ。

「あ……、ぁああっ、うあ」

 まだ入りきらない体積は余っていて、それでも、これ以上は内臓が押し上げられる。それでも、押し入ろうとする雄を止めなかった。自身を進んで苛みながら、腹の底で笑った。

「ぁ、っく、ふぁ……。も、はいんない……かも、ガウナー……」

 腹を押さえて、後ろを引き絞った。ねえ、と視線を合わせる。

「っは……! いや。君は、いつも、……呑み、込める、……よ!」

 今日はいつもより膨れている気がするのに、平然と彼はそう宣った。腰が一度引かれ、ばつん、と叩き付けられる。門のように遮られている場所を踏み越えて、もっと奥まで熱杭が打ち込まれた。

「───────っ! ────あ、っあ、っぁあああ!」

 ぐり、と最奥まで届いた衝撃に、反射的に大きく息を吐く。余韻のように喉が引き攣った。

 じわじわと浸食するその嵩に、痙攣した内部がめちゃくちゃに纏わり付く。食い締めれば自身が快楽に痺れるだけなのに、それすらも分からずに、異物を抱き込む。

 大振りな抽送ではなく、奥だけを執拗に苛められる。体重を掛け、普段よりも奥まで、飛沫を届かせるとでも言いたげだった。

「……、ぁ、ぁあああ、うあ、ふか、……ひン……や、奥、だめ────!」

 ずりずりと僅かに引いては、奥を掻き回すように苛む。届いてはいけない場所まで届いてしまっているように、重たくて、浸されるような快楽だった。寝台にしがみつく指の先が痺れている。

 ひぐ、えぐ、そう声を上げる度に、涙声の裏に悦びが見え隠れした。

「……っ、は、でも、奥は、君が感じすぎるから、っう……控えめにしている、つもりだが、ね……!」

「…………ひ。や、嘘。ひど……ぁ、ア、ア」

 突き入る幅も大振りで、奥に届けばぐりぐりと重い塊が抉る。力を失った脚はしっかりと腕に捕まり、引いた腰はすぐに元に戻される。抱き留められる多幸感が、胸を埋めた。

 ぱん、ぱん、と腰が打ち付けられる度に、魔力が混ざっていく。表情が崩れ、開きっぱなしの口の端から、嬌声と涎が零れ落ちた。

「君が、……上書きしてほしいと言ったんだろう。───沢山、あげような」

「は、ひ……いっ、た、……けど……!」

 腰ががしりと掴まれた。抽送が速まり、内部でばらばらな場所に当たる。お互いの息の音と、嬌声だけが満ちていた。

 ふ、と一旦動きが止まり、俺の腹に開いた手のひらが添えられる。唇をゆがめたその表情は、恍惚とも呼ぶべきものだった。再度の責めが始まり、その一瞬など嵐の中の快晴だったかのように、身体ごと嵐に委ねる。

「……私だけのもの、に……、────っ!」

「──────ぁあ、あっぁ、あン、ぁああああああああっ!」

 腹の中で男根が膨れて、そして溢れんばかりに奔流が荒れ狂った。中に溢れんばかりに注がれている間、ただ、俺は満足げに笑っていた。口の端は濡れ、触れられなかった自身も濡れそぼったまま、ただ、満たされていた。

 心細かったのだ、ずっと。ずっと少し離れた位置に立って、別に行動して、ずっと一緒にいる筈だったのに。でも、今はこの人も俺だけを見ている。

 残ったものを吐き出してから、出て行こうとする躰を脚で引き留めた。

「……ね、もっかいしたい」

「構わないが、君が疲れない程度にな」

 額が撫でられ、埋まっていたものが抜かれる。ぞく、と快楽が駆け上がって、表情が蕩けた。相手の胸元に指先を這わせ、つう、と下に降ろす。

 誘い文句に、ガウナーが満更でもない表情をしていることにほっとした。求めて、求められて、俺には彼しかいないはずなのに、不老の誘惑が思い出したように鎌首をもたげる。

 もう、あの腕には戻りたくないはずなのに、甘い果実のようにあの問いを思い出してしまう。

「……ずっと、こうやっていられたらいいのになあ」

 そうしたら、あの神の戯れ言なんて、一笑に付すことができただろうに。俺の表情の曇り方を案じたガウナーに満面の笑みを返し、その恐れを喜びで塗り潰した。

 

 

 

 

 翌日、だらだらと目覚めて食堂に行くと、上司に取り敢えず座りなさい、と椅子に座らされた。食事も一旦お預けにされる。横で食事をしているシャクト隊長に視線を向けても、すす、と逸らされるだけで助けは入らない。

 そこでようやく、俺は何かやらかしたことを察した。

「君ね。結婚していてそういう事をするのに何も思うところはないんだけど、遮音結界って、使えるよね? あと魔術師って四六時中詠唱してて、平均的に声量はあるほうだから」

「あ」

 サーシ課長の言わんとするところが分かってしまって、俺はだらだらと冷や汗を流す。俺が察したことは伝わったようで、動揺している俺の様子も相まって、上司は溜め息を吐いた。

「……ちなみに、ええと」

「僕がロアくんたちの部屋の周辺に遮音結界を張りました。しかも、水を差すのも悪いから、察知されないように気を配ってね」

「全然気づきませんでした……」

「まあ、気づかれなかったのは良かったよ。仲がいいのも良いこと」

 上司からの言葉は、次からは気をつけるんだよ、という程度に留まり、嫌味もなく、特に怒られもしなかった。え? と俺の方が戸惑ってしまい、食事に戻る上司をじっと見つめる。

「…………もうちょっと、怒られるかと思ってました」

「いや、僕も昔に通った道だし、一度目くらいはね」

 もし声が漏れていたというならぞっとする話だ。基本的に屋敷でしかああいうことはしないから、遮音結界なんて考えもしなかった。

 しかし、一度通った道とは。

 俺がシャクト隊長に視線を向けると、あからさまに視線が逸らされた。サーシ課長もまた、顔を傾け、シャクト隊長に視線を向ける。今回の件については無罪であるシャクト隊長は、俺と似たような表情をしていた。

「遮音結界も張らずに、昔、大声を出すような何をしたんですか? どこで?」

「………………何で俺の方に聞くんだ」

 シャクト隊長はそれから無言になって、食事を口に入れ始めた。ああ、なるほど、と二人の様子にあらましを察してしまい、俺も食事に取りかかる。ニコを預かってもらったのも、折角二人きりになれたのに悪いことをしたようだ。

 ガウナーが到着した時には、三人とも無言でひたすら食事をするという有様で、一体何があったのかと問い掛けられたが、全員が答える術を持たなかった。

 そうして全員の食事が済むと、もうすぐフィッカの防衛課が迎えに来る、と話がある。

「防衛課もいて、また何かあるってこともないだろうし、やっと休暇だぁ……!」

 立ち上がった俺が伸びをすると、頭にぽんとガウナーの手が乗る。俺を見ているはずなのに、その目は遠くを見ているようであった。

「……そうなるといいな」

「そうするの!」

 俺が反射的にそう言うと、子どもにするように頭が撫でられる。お互いに笑い出し、ようやくの旅の仕切り直しを喜ぶのだった。

 

 

 

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