※R18描写あり※
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この作品にはオメガバース要素が含まれます。
◇1
「────官舎の建て替えがあるそうで、魔術装置の回収に──……そうですね」
同僚であるヴィナスの声に、僕は反射的に振り返る。言葉は僕に向けたものではなかったが、その手には一枚の紙が握られていた。
官舎の建て替えについて思い当たることはなく、詳細を聞くため上司と話を終えた彼に近づく。
「悪い。官舎の建て替えの話、僕は書類を貰ってなくてさ。見せてもらえないか?」
「いいよ。俺もう書き写したから、これやるよ」
「ありがと、助かる」
ヴィナスは書類を僕に渡し、官舎住みの人には郵便受けに通達が入っていたのだと言う。郵便受けはまめに確認しているがやはり心当たりがなく、首を傾げながら同僚から書類を受け取った。
目を通すと『官舎の柱に大きな罅が見つかった』そうで、建て替えのために指定の日付までには退去してほしいとの事だった。転居先として別の官舎も用意はしてあるが、複数人で同居している者が優先、一人暮らしの者は手当を出すので別に家を借りてほしい、と書かれてある。
手当や日取りなども書かれていたが、もう時間がない。すぐに家を探さなければ間に合わないし、僕以外にも家を探す人が大勢いることを考えると、家も見つかりづらい事が予想された。
特に僕はオメガで、治安が悪い立地に家を借りれば害も多い。手当を差し引いても、家賃が上がるのを覚悟しなければならないのが憂鬱だった。
「ネーベルは家の当てある?」
「いや、全く無いな。どうしようかと思っているとこ」
「大変だな。その書類、結構前には届いてたらしいんだよ。オメガだと家も見付かりづらいし……」
ヴィナスはしばし考えると、あ、と思い付いたように声を上げる。
「ネーベルは変なとこ真面目だから嫌うかもしれないけど。俺の友達で官舎にいるやつ、これを機に番のとこ転がり込むんだって」
「僕に番はいないけど……」
同じ魔術師で同じオメガであっても、同僚は番持ちだが僕はそうではない。そう伝えると、ヴィナスは知っている、というように態度を変えなかった。
「いや。そいつさ、まず神殿の鑑定士に石を見てもらいに行ったんだよ」
神殿の鑑定士。その言葉には心当たりがあった。
人の性別には、男女に加えて、アルファとベータ、そしてオメガの三種類がある。そして、特にアルファとオメガについては、その特異性から国を挙げて保護されていた。
アルファは身体も強く、国の主要人物となりやすい傾向がある。そしてオメガは魔力を多く有す傾向にあり、魔術師として大成しやすい。だが、発情期がある都合から、保護しなければ事件に巻き込まれやすいという事情もあった。
アルファとオメガが番になれば、基本的には双方とも安定する。だが、アルファもオメガも魔力の選り好みが激しく、番選びに苦労するのもまた事実だ。
そのため、番の間を取り持つことを目的に、神殿では雷管石を預かる役目を請け負っている。
国の中心に位置する山には、雷がよく落ちる。
雷は神が落としているものとされ、落ちた下にたまに透明の石が生まれることがあった。その石は雷管石と呼ばれ、魔力をほぼ永久的に内部に保持することができる。
「じゃあ、相性がいい人が見付かったのか」
「そうそう。それで、同居しようって話になった訳」
アルファかオメガが雷管石に魔力を込めて神殿に預ければ、神殿付の鑑定士がその石を見て、魔力的に相性の良い石を見つけ出してくれる。
もちろん上手くいかない番もいるのだが、普通に相手を探すよりも、かなりの確率で番として成立しやすい。特に遊びの恋愛が難しいオメガは、その方法で番を探す傾向にあった。
「雷管石は持ってるんだけど、まだ鑑定士に見せたことはなくてさ。考えてみるよ」
「うん。番と同居なら官舎より安全だしさ、考えてみて」
ヴィナスはにこにこと屈託なく笑っていて、この朗らかさと親切さなら番も選り取りみどりだろうな、と納得した。再度、礼を言って同僚から離れる。
雷管石は高価なため成人祝いとして両親から贈られることが多く、その大きさは家の財力を示す。僕に贈られたそれも庶民の家庭としては頑張った大きさだが、それこそ貴族家で用意された石と比べれば小さかった。
魔術師として安定して仕事ができるようになり、そろそろ神殿に石を預けねばと思っていたところだ。家を探しに行くついでに、神殿に立ち寄るのもいいかもしれない。
「番か…………」
魔術師は特に魔力の選り好みが激しく、僕もまたその例に漏れない。合わない相手なんて触れるのも嫌だし、もちろん深い付き合いができもしない。その所為で、まともな恋人というものがこの歳まで出来たことはなかった。
相性がいいアルファなら、触れたくなるのだろうか。それとも、相性のいいアルファでも、僕は近付くのを躊躇ってしまうのだろうか。
一抹の不安を抱えながら、週末に神殿に行くことを決めた。
まず家を探してみたのだが、紹介所ではあまり良い物件が残っておらず、家賃も高く治安も良くない物件の書類を持って帰ることになってしまった。
これまで避けていた神殿へ行こうと思うには十分な、残念な結果だ。
神殿には何度も来たことがあるが、鑑定士に会うのは初めてだった。神殿に行き、鑑定士に会いたいのだと伝えると、空きがあったようですぐに個室に通される。
部屋では一人の青年が椅子に腰掛けており、こちらを見て立ち上がった。外見の年齢にそぐわず、ゆったりとした所作だ。
「鑑定士のドワーズと申します」
「初めまして、ネーベルといいます」
「どうぞお掛けください」
背を伸ばし、椅子に腰掛ける。続けて、雷管石はお持ちですか? と尋ねられ、両親から贈られた石を机の上に置いた。
鑑定士……ドワーズは石の入った硝子箱を持ち上げると、視線を走らせる。
「ええ、本物の雷管石です。まだ魔力を込めていないようですが、いま込めていただいてもよろしいですか?」
「あ、はい」
魔力を込めて持っていけばいいのか、その場で魔力を込めるのか分からずにそのまま持ってきてしまったが、前者でも良かったらしい。
箱から石を取り出し、両手で包み込む。魔術師という仕事柄、魔力を込めるのには慣れている。いつもの要領で魔力を注ぎ込むと、開いた手の隙間から白い光が漏れた。
光が落ち着いた後に残った石は、魔力を込める以前と変わらない。
「綺麗な石になりましたね」
「……僕には変化したように見えないのですが」
「我々の眼には神の加護が宿っているので、貴方とは違う石に見えています。きちんと変化はしていますよ」
ドワーズの言葉に、へえ、と言葉が漏れる。手袋を填めた掌にその石を預けると、石は色を変えずに布の上に転がった。
彼は近くから拡大鏡を引き寄せると、じっと石を覗き込む。無言で見ている間、僕もまたその石を観察していた。あの石には間違いなく僕の魔力が宿っているのだろうが、やはり魔力を込める前と変化があるようには見えなかった。
続いてドワーズは近くからくたびれた手帳を引き寄せると、ぺらぺらと頁を捲る。
「少し、お待ちくださいね」
何かを見つけたようで、ドワーズは立ち上がって部屋から出て行った。もし、鑑定士が相手を見つけられなければ石は神殿預かりになり、相性の良い人間が見付かれば連絡が来ることになっている。
だが、今回はそうではなく、おそらく相性の良い石に心当たりがあるのだろう。
「そんなにすぐ見付かるもの……なんだな……」
胸を押さえ、ふう、と息を吐く。
もっと敷居の高いものかと思っていたし、恋愛相談のようなそれに抵抗感があったことは否めない。だが、番になれなくとも相性の良い人とならいい友人になれるかもしれない、そう思うくらいには気持ちも上向いていた。
戻ってきたドワーズの手には、小さくて簡素な箱が握られている。僕の前に箱を置き、蓋を開けた。
柔らかな布の上、そこには小さな雷管石がひとつ鎮座している。石の大きさから見て、庶民が貰う程度の大きさの雷管石に見えた。
「とあるアルファの男性が魔力を込めた石です。きっと、貴方の魔力と合うと思うのですが」
「はぁ……。あの、でも僕には石を見ても何も分からないので、どう、すればいいんでしょう?」
僕が困惑していると、ドワーズは申し訳なさそうに頭を掻いた。場を和らげるように口元には笑みが浮かび、僕もつられて顔を綻ばせる。
ドワーズは石を持ち上げると僕の手のひらを引き寄せ、その上に石を置いた。
「あ……」
石に宿る魔力が、僕の皮膚を引っ掻く。
それは挨拶のようでもあったが、それにしては強い感覚だった。まず自身を示し、僕の魔力へと向かってくる。そして、強く触れ合わせたと思えば、近くにぴたりと寄り添って離れない。
僕は慌てて、その石をドワーズへと返した。
「いかがでしょうか」
「なんか……押し売りするような感じ?」
「ああ。その魔力を込めた方は確かに、アルファらしい方でしたね」
僕の悪口をやんわりと絹に包まれ、はぁ、と返事をする。この石の持ち主と相性がいいという事実には、不安が残った。
黙り込んだ僕に、ドワーズは優しく声を掛ける。
「持ち主と会ってみたいですか?」
「……それは。そのために、来た訳ですし」
ドワーズは相手の石を箱に仕舞い直した。ぱたん、と蓋を閉じる音だけが静かな室内に響く。
「良かった。では石の持ち主に連絡を入れますので、お待ちいただけますか」
「連絡を入れたら、どうなりますか?」
「大抵の方は、連絡を受けて直ぐこちらに来られます。鑑定士は死別を除けば、多くの石を仲介しようとはしませんから」
僕の石と相性が良い石は、あの石以外には数がないということだ。
だが、あの強い感触を残す魔力の持ち主なら、本人も似たような気質を持つのだろう。そして、アルファなのだ。転居先を探していただけだというのに、何とも面倒なことになったものだった。
ドワーズはしばらくして戻ってくると、案の定、相手がこちらに来るらしい、と伝えられた。
僕の石は箱に仕舞い直され、手元に差し出される。その箱をぎゅっと握り締めていると、指の感覚が薄くなった。
◇2
待ち時間は永遠だったのか、一瞬だったのか分からない。僕は手元の箱を開閉して、まだ見知らぬアルファを思って溜め息を吐くことを繰り返した。
その動作にも飽きて窓の外を眺めると、鏡越しに反射した薄紅色の目がこちらを見返す。髪色も幼少期は銀色と持て囃されていたが、手入れを怠った所為で光沢を失い、灰と呼ぶべき色になっていた。肩下まで伸びた髪を縛る紐も解けかけており、手早く整え直す。
キィ、と扉が音を立てて開いたのは、僕がぼんやりと窓の反射を眺めていた時だった。
視線を向けると、赤毛にほとんど黒に見えるほど暗い瞳を持つ、長身の男が立っている。男の体格はがっしりとしており、身に付けている制服にも、その目を引く容姿にも心当たりがあった。
「クレフ近衛隊長……?」
「君は…………、ネーベルか。王宮の魔術師だな」
彼が僕の名を認識しているのを意外に思った。慌てて立ち上がり、口を開く。
「初めまして、ネーベルと申します。主に魔術装置の整備を担当しています」
クレフ近衛隊長……クレフは僕の上から下までを舐めるように見回すと、僕に椅子に座るよう勧めた。その言葉に従い、素早く椅子に腰掛ける。
躊躇いもなく向かいの椅子にどかりと腰掛けたクレフは、直ぐに口を開いた。
「ネーベル。君の雷管石を見せて貰っても?」
「はい! どうぞ」
「敬語はいい。……と言いたいが、君にとっては俺の方が職場の地位が上なのか」
クレフは困ったような表情をしながら、僕から両手で箱を受け取った。その手つきは何か大切なものを受け取る所作で、僕自身が対象になっているようで心臓が跳ねる。
彼の右前には、本人の雷管石が入った箱が置かれたままだ。クレフは貴族の家柄で、それならあの大きさの雷管石というのは変な気もする。だが、時おり雷管石の大きさに頓着しない人間も存在するものだ。クレフがそうだというのは、納得できるような気もした。
蓋を開け、僕の雷管石に触れているクレフを見守る。
近衛は国王の近くで民の目に触れることが多く、家柄と見目が良い人間が集まりがちだ。クレフもその例に漏れず、きつめではあるが美形と言えるだろう。
短髪に隠れることのない鋭い目元は強く主張するし、鼻筋も綺麗に通っている。長身で体格の良い体つきも含め、ドワーズが言うように、アルファらしい容姿をしていた。
「成程。魔力には詳しくないが、相性が良いというのは分かる気がする」
「えっ……?」
「『えっ……?』」
「あ、いえ」
僕が石を持った感想は、強引、とか、押しつけがましい、だろうか。相性がいい、ということを感じ取ることもできていない。寧ろ、相性が良くないのでは、と疑っていたところだ。
とはいえ、鑑定士やクレフから見れば相性がいいということなのだから、僕が変に受け取っているだけかもしれなかった。
「俺は前向きに付き合いを持ちたいと思っているが、君はどうだ?」
「それは、僕もそうで…………っと。僕もそうだけど」
職場で地位が上の相手に向けて、敬語を外すのは難しい。僕が慌てて言葉を訂正すると、クレフの口元が緩んだ。
大きな手から雷管石が返され、手元の箱に仕舞い込む。
その間に、机の上に紙袋が置かれた。慌てていて気づかなかったが、クレフが持参してきた物のようだ。
紙袋が開かれると、そこから焼き菓子が机上に広げられる。
「……満腹だったりするか?」
そう問われるということは、僕に向けて買ってこられたものらしい。慌てて手を伸ばす。
「いや、魔術師はすぐ腹が減るから助かる」
「ああ。近衛にいる魔術師もそうだな」
ごろごろと数種類の果物が載ったパイを手に取り、口に運ぶ。噛み付けば蜜の味が口いっぱいに広がり、あとから甘酸っぱい果汁が溢れた。
「うまい」
「良かった。この店の菓子は絶品でな」
初対面の人間と話をする時、間に菓子があるのは有難い気遣いだった。
あんなにしかめっ面をして入ってきながら、それでも番候補に当たる僕に気を遣って菓子を用意するくらいには期待をしていたのだろう。
貴族の生まれで、容姿も良く、こういった気遣いができる程度には性格に問題もない。逆に魔術師以外に美点の見当たらない僕の方が、天秤の皿は浮いてしまう。
さく、さく、と菓子を咀嚼しているうちに、美味しかったはずの味が薄れていった。
「へえ。また食べたいな、この店ってどのあたり?」
「知っているかは分からないが、──────…………」
クレフが挙げた店の場所は、転居先として紹介された家の近くだった。パイから口を離す。
「今度住むかもしれない家の近くだ。家賃が高くなるから憂鬱だったんだけど、美味しい店があるなら楽しみだな」
「あぁ、ネーベルは官舎か。急に建て替えが決まって災難だったな、うちの部下も何人か家を探している」
「そう。急なことだし、みんな纏めて引っ越すから、見付かった家は家賃は高くなるわ官舎のある地区よりも治安は悪くなるわで災難というか」
やっと苦笑いとはいえ笑いが漏れ、かぷりとパイに齧り付く。こうやって食事を挟んで会話する声に堅苦しいところはなく、僕も肩の力が抜けてくる。
だが、そのようやく力が抜けたところで、クレフの眉根が寄った。
「確かに、あの地区は歓楽街の近くで治安が良いとは言えないな」
「正直な。でも、駄目そうならまた引っ越せばいいし……」
王宮勤めで薄給でもなければ、魔術書を買う以外の散財もしないから蓄えはある。心配そうな様子にそう取り繕った。
けれど、クレフの眉は寄るばかりで、何か気に障ったのかとはらはらしながら次の言葉を待った。
「────うちに部屋はあるんだが、どれくらいの広さがあればいい?」
「はい?」
流石に突然のことで、変な調子の声が漏れた。
戸惑って答えを返せずにいると、クレフは流石に僕が戸惑っていることを察したらしい。
「うちには空き部屋があるんだが」
「はぁ」
「どれくらいの広さがあれば、荷物が入るだろうか」
「荷物? 何の」
「ネーベルの引っ越しの荷物だ」
んん? と僕は声に出して首を傾げた。素直に考えれば、引っ越し先をうちにしないか? というお誘いなのだろうが、それは長い付き合いの友人相手ならまだ分かるような話だ。
僕とクレフは、今さっき出会ったばかりの筈だった。
「誤解していたら悪いんだが、今の話だと『部屋が余っているから引っ越してこないか?』という風に聞こえる」
「聞こえるも何も、そう言っている。部屋はあるから、うちに引っ越すのはどうだ?」
「僕たち、今が初対面だよな?」
「そうだが……、石の相性は良いだろう」
石の相性が良いと思っているのはクレフと鑑定士だけなのだが、それを口に出すのが不味いという空気だけは今の僕にも読めていた。ん、んん……、と言葉にならない声を漏らし、腕組みをして空中に視線をやってみる。
「……僕が、家の物を盗んだらとか…………」
「王宮勤めの魔術師が? 欲しいものがあったらやるから、盗む前に相談してくれ」
「あと、……片付けが下手かも」
「二人分くらいなら俺が請け負おう」
「あまり、喋りも上手くないというか……」
「いま意思疎通ができているのだから、問題無さそうに思えるが」
断る理由を探している僕の方が、おかしなことを言っているような気分になってくる。一緒に住みたくなるほど、僕の魔力との相性は彼にとってはいいものなのだろうか。
濁った声を漏らし、硬く組んだ腕を解く。
「発情期になったら、どうする?」
「両者の合意の元で、どうするか決めよう」
言い切られてしまえば、確かにその時に決めれば良いか、という気にもなってくる。だが、あの石に触れたときに感じた感想は、間違ってはいなかった。
巻き込んで、逃れられない嵐のような男だ。
「ちなみに、貞操観念はあるほう?」
「適度に。だが、俺はそういう付き合いも、仕事が忙しくなると面倒になってしまう方でな。一緒に住んで貰う方が、会う機会を作れずに自然消滅はしなさそうだ」
「あぁ……僕もそうかも。仕事が詰まってくると、人と会う予定を放りがちになるかな」
お互いに仕事と人付き合いの配分が下手、ということは、このまま同居をせずに仲を縮めようとしても、仕事の波に押し流されそうだ。
そもそもクレフが直ぐに身体を求めてくるような男には見えなかったし、聞いた答えも概ねその通りだ。近衛隊長という身分がある以上、僕に無体を働くこともないだろう。
「数日、泊まってみることから始めてもいいか?」
「是非。それなら、これから部屋を見に来ないか。ネーベルにとって部屋が狭かったら申し訳ない」
「そうだな」
置いてけぼりになっていたパイの残りを口に突っ込んで立ち上がる。菓子はまだずいぶん残っていたが、これもクレフの家で食べればいいだろう。
二人して、紙袋に菓子を仕舞い直す。
「ネーベル」
「ん?」
頬に無骨な指先が触れ、パイの欠片を払い落とす。ありがとう、と礼を言うと、いや、と短く返された。
ふい、と顔を背けられてしまい、見苦しかっただろうか、と肩を落とす。
神殿を出て向かったクレフの家は二人暮らしには十分な広さで、僕に宛がわれる予定の部屋は官舎よりも広かった。立地も王宮の近くで、通勤も短くなる上に帰り道の治安も悪くない。
隅っこに少ししか荷物が置かれていない物置にも案内され、実は本が沢山あって、と言うと、同居を始めたら物置にも本棚を作ろうか? と提案された。僕は手を組んで、是非、と目を輝かせる。
今週末泊まりに来ないか、という誘いにも、僕は一も二もなく乗っかった。
◇3
週末のお泊まりは、仕事帰りに落ち合うことになった。着替えを詰めた鞄を職場に持参しているが、今日は妙にそわそわする。
勤務場所の都合上、王宮でクレフと会うことはないのだが、会ったらどんな顔をすればいいんだろう。外すことに慣れた敬語を、また掛けるのにも抵抗を覚えそうだ。
退勤時間となり書類の整理をしていると、ヴィナスがばたばたと足音を響かせて駆け寄ってきた。
「ネーベル。あの……」
掌が向けられた先には、扉の隙間から顔を覗かせているクレフがいた。僕を確認すると、扉を開いて歩み寄ってくる。
今日も制服がびしりと整っており、まだ仕事中なのかと錯覚しそうになった。
「あれ? 裏門に集合じゃなかったっけ」
自然と敬語が外れてしまっている僕の横で、ヴィナスがぎょっとしたように目を剥く。だが、続けてクレフが口を開いてしまい、僕は言い訳をする機会を失った。
「荷物があるかと思って顔を出したんだが」
「いや、着替えと本くらいだけど。持ってくれるのか?」
「ああ。…………っと、仕事中じゃないな?」
「待ち合わせの時間より早かったから、時間潰してたとこ。そっちも仕事終わりなら行こっか」
荷物の詰まった鞄を持ち上げ、クレフの腕に渡す。僕が両手で持っていたそれが、軽々と抱え上げられた。彼は鞄を上下すると、まじまじと僕の方を見る。
「本にしては重すぎないか?」
「だって魔術書だし」
そういうものか、とクレフは鞄を持ち直す。
「ありがと」
「いや、助けになれて光栄だ」
堅苦しい返事にも思えたが、目の奥は真剣で茶化すのも躊躇われた。手ぶらでクレフの後を追う前に、ヴィナスに声を掛ける。
「クレフを案内してくれてありがとう。最近ちょっと知り合ってさ」
「…………まさか。神殿?」
「あー……。そのまさか」
「はあ、ふーん。へえ……、お幸せに」
途端ににまにまとした笑みを浮かべた同僚を小突いて、そして手を振る。ヴィナスは表情を変えないまま、手を振り返した。
仕事場を出て、広い廊下を並んで歩く。近衛隊長であるクレフの顔は王宮でも知られており、僕と連れ立って歩いていることに視線を向けてくる人もいた。クレフはそれらの視線を意に介さず、大股で歩いていく。
僕は歩幅の都合で、ちょこちょこ早足で付いていくことになった。そういえば、彼の家に行く道中もこうだったんだよなあ、と察してもらうのは諦めることにする。
「クレフ。あの」
「何だ?」
「ゆっくり歩いてくれてるんだろうけど、それでも速い」
ぴたり、とクレフは廊下の真ん中で立ち止まった。眉は下がっており、やってしまった、という愕然とした気持ちがありありと顔に出ている。
つい笑ってしまい、咳払いをして口元に手を当てる。
「悪い。一応、気をつけているつもりではいたんだ」
「うん、だろうなと思ってた。でも、体格差もあるし、僕も遅い方なんだよ」
隣に並んで、クレフの腕を掴む。そうして、僕が腕を引いたまましばらく歩いた。僕の歩く速度に合わせてみると、これまでの半分近い速さになる。これくらい、と言うと、神妙な顔で頷かれた。
腕から手を離すと、彼の視線が離れた指を追いかける。
「じゃあ、行こっか」
それからは、僕は普段通りの速度で歩くことができるようになった。隣を見ると、かなり注意して速度を揃えているようで、歩みの緩急が酷い。腕でも組んで歩いた方が楽そうだったが、馴れ馴れしすぎるかと提案は飲み込んだ。
途中で食事と菓子を買い込み、歩いてクレフの家に辿り着いた。部屋はこのあいだ来た時よりも更に片付いており、床の埃も払われている。
「おじゃまします」
「お邪魔されます、か……?」
返す言葉に迷う背をぽんぽんと叩き、そのまま上がり込んだ。手を洗って、食卓の上に買い込んだ食事を並べる。体力勝負の近衛と、魔力消費の激しい魔術師とで食事をするものだから、食事量も二人分のそれではない。
机は色とりどりの食事でいっぱいになり、僕はその眺めに歓声を上げた。
「酒は飲めるか?」
「いいの!?」
答えから酒好きだということは察して貰えたようで、数本の酒瓶とグラスが彩りを添える。冷めた料理を温めたり、水を貰って魔術でぱきぱきと凍らせていると、慣れていないのか随分と驚かれた。
「乾杯!」
「乾杯」
お互いに好きな酒を注いで、グラスを打ち鳴らす。喉を焼かないよう、ちびりちびりと口を付けた。酒に満足すると、串焼きを持ち上げて小皿に取り分ける。揚げ串が届かずに空中で手を振っていると、大きな手が串を中継してくれた。
かぷ、と横から噛み付くと、だらだらと肉汁が零れる。小皿で受け止めながら、もぐもぐと咀嚼した。
「うわ、美味い」
「ああ。脂が多くて塩気があって、酒に合う」
ぐい、と酒を干す喉が、目の前で気持ちがいいほどに波打った。つい口元を綻ばせながら、自分もグラスを引き寄せる。
僕が選ぶには強めの酒だったが、この家にある酒は総じて強いものばかりだった。それすらもクレフはごくごくと飲み干し、手酌で杯も進めている。
僕の酒の強さは平均程度のはずだ。舌が味を感じられなくなる前に、と繊細な味わいの料理を口に運ぶ。しばらくの間、ぽつぽつと仕事の話をしながら食を進めた。
その話題になったのは、神殿の話をしていた時だ。
「────クレフが僕の雷管石に触った時、どんな感じがした?」
僕とは違い、彼は石の魔力に触れて相性がいい、と言った。自分には良いとは思えなかった相性を、彼は良いと感じている。何を以てそう判断したのか、あの時は困惑して聞けなかったそれを聞いてみたい気がした。
クレフは手元のグラスを揺らし、大きめに割った氷を溶かす。
「羽根箒、のような……」
「部屋が綺麗そうってこと?」
茶化すような声音で言うと、違う違う、と目の前で手が振られる。もう片方のグラスの端がカラン、と揺れて音を立てた。
ふふふ、と笑うと、言葉の先を促す。
「ぶれない芯があるのに、その回りをふわふわの羽根で覆われてるから触れていて心地いい、そんな気がした」
「ふぅん。それで、どの辺が『相性がいい』んだ?」
「俺は岩のようだと言われるから、ふわふわしたものが間にあることはいいのかな、と」
「はは、なるほど」
岩か、僕はグラスの中にそびえ立っている氷を見下ろした。まだ溶けきっていないそれは、酒の中央に鋭く居座っている。でもそれより、と自分が触れた石の感想を思い出す。
「僕は、嵐みたいだって思った。岩よりもっと柔軟で、絡め取られるような……」
「含みがあるようにも聞こえるが」
「若干?」
真に受けてしょんぼりとした顔になるクレフに、慌てて言葉を続けた。
「岩ってほど他を傷付ける感じではなかったし、強い風だって上手く乗れば飛べるだろ。僕はクレフをそう思ったってだけ。上手く風に乗れるかは、これからの付き合い次第だと思うよ」
「そうか……」
気分が浮上したらしい様子に、ほっと胸を撫で下ろす。
仕事では部下と普通に会話をしているんだろうし、こうやって冗談を振り続ければそのうち慣れるのだろう。
お互いがお互いの魔力を表現した物同士の組み合わせが悪くないのだから、最初に石に触れたときのあれは、初めてまともにアルファの魔力に触れたことによる過剰反応かもしれない。
氷が溶けた酒に口を付けると、濃い味が薄まってちょうど良い塩梅になっている。気持ちよく喉に流し込むと、軽く喉が焼けた。
気分の良くなった僕は、クレフへいくらか質問を投げかけた。身体を鍛えることが趣味で、美味い食事と酒が好きで、家具などは自作することを楽しみ、部下には堅いとよく軽口を叩かれる。
岩だのと表現するのも、部下の言葉を真に受けた結果なのだろう。ただ、上司に対してその軽口を叩けるということは、逆に懐かれているのではないだろうか。部下を語るクレフの口ぶりも好きなものを語るそれで、関係が悪いようには思えなかった。
机の上の食事が概ね空になっても、だらだらと酒を酌み交わす。買い置きの食材にまで手を出し、氷を作り直してちびちびとやった。
家の外が暗闇に染まり、真夜中にどっぷりと浸った頃、ようやく寝ようか、という空気になる。
歯だけ磨かせてもらい、風呂は明日の朝にしよう、という提案に乗った。酒を飲む前に身体を洗えば良かったのだろうが、お互いにそこまで頭が回っていなかったのだ。ただ目の前に出された酒瓶が輝いて見えた。
運んでもらった鞄から寝間着を取り出し、ローブを脱ぎ落とす。髪の結い紐を解き、シャツの釦を外していると、どたどたと慌てた足音が遠ざかった。そこまで気にしなくても、とは思うのだが、確かに僕よりも貞操観念はあるようだ。
僕が着替え終わってしばらく経ってから、クレフは声を掛けてきた。着替え終わった、と答えると、ほっとしたように向こうも着替え終えた姿で顔を覗かせる。
「着替えくらい、見ても気にしないのに」
「俺は気にする。から、逃げる時間が欲しい」
がくりと肩を落とす姿を見ると、悪いことをしている気分になる。だが、いくら着替えを別にしたとしても寝台は一緒だろうに、ちぐはぐなことをするものだ。
クレフの先導で寝室に入ると、扉が開いた瞬間に匂いに満たされた。部屋の主が窓辺に近寄っていって開けるまで、鼻腔が好みの匂いに満たされる。外の空気が入ってきて、匂いが薄れていくのを惜しく思った。
僕は床をぺたぺたと歩いて、寝台に腰掛ける。対して、クレフは扉へ向けて身体を反転させた。
「じゃあ。おやすみ」
「おやすみ……?」
部屋を出ていく空気を察して、寝間着の裾を掴む。居間には大きなソファがあり、おそらく家主の方があちらで寝るつもりなのだろう。
クレフは目を丸くして、僕の手を見下ろす。
「いや。客が布団を貰うなんて駄目だろ、それなら僕がソファに行くよ」
「いや。客に椅子で寝かせるなんて、それこそ駄目だ」
相反した意見がぶつかり、目を細める。だが、お互いを思い遣った結果で喧嘩するのは本意ではなかった。
裾を掴んだ指で、くい、と引く。
「僕は一緒に寝るものだと思ってたんだけど」
「はあ!?」
彼にとっては想定外の言葉だったらしい。目を剥いて、言葉にならない声を発して、そして意味の咀嚼のために黙り込む。
僕は掴んだ裾を離さず、じっと答えを待った。
「番候補と同衾というのは…………、外聞が悪いと思うんだが」
「でもそれ、僕が黙ってたら外聞も何も無いんじゃないか?」
クレフはまた黙り込んだ。その様子を眺めていると、酔った頭でも明日までこのアルファが僕になにもしないであろうことが分かる。
くいくい、と裾を引くと、彼は諦めたように僕の隣に座った。
「俺たちは、魔力の相性がいいんだ。事故が起きてしまったら……」
「起きないよ」
ある程度の確信を持って言うのだが、クレフは首を振った。両手に顔を埋め、がくりと背を前に倒す。
「──────……、さっきから、ずっといい匂いがするんだ」
「え? 僕から?」
「おそらく」
もぞもぞと彼の脚は何かを隠すように動いており、その中心に無意識に目をやると、やんわりと持ち上がっているのが見えた。視線の先を察したのだろう、クレフは毛布を引き寄せると、自分の脚の上に被せた。
「俺は深くオメガと関わったことがない上に、君とは魔力も合う。君に性的な魅力を感じるし、鼻がずっと匂いを追うんだ」
おそらく、いま僕が酔っていなかったら、素直にその言葉を受け入れて離れていただろう。
けれど、酔った頭ではその言葉に対しても、なんで一緒に寝てくれないのだ、という思いしか浮かばない。寝室に満ちていたあの匂いも窓から逃れてしまって、目の前のアルファに近寄らなければ匂いがしない。だというのに、このアルファは寝室から出ていこうとするのだ。
彼は僕から、あの匂いを取り上げようとする。
「だから?」
「君に、手を出してしまうかもしれないぞ……?」
おずおずと出た言葉に、説得力などなかった。僕はへえ、と半眼になると、立ち上がり、クレフに向かい合う。
踏み込むように、助走をつけてその胸に飛び込んだ。流石の近衛隊長でさえも、そのまま寝台に倒れ込む。すん、と鼻から息を吸うと、あの匂いでいっぱいになった。支えるように掴まれた腕から、びりびりと魔力が流れ込んでくる。
魔力は僕を絡め取ろうとするのに、最後の一線だけは守っていた。そこから先には、侵入してこようとはしないのだ。
「手なんて出さないよ。クレフは」
ほう、と息を吐き、そのまま目を閉じた。酔っているとき特有の眠気が、とろとろと瞼の境界を溶かす。
このまま眠ってしまいたい、と欠伸をして、腕を絡めたまま微睡んだ。
「ネーベル……、もしかして、このまま寝たりは……」
悲壮感さえ伝わる声が上の方でした。けれど、僕はずいぶんと眠たくて、その低い声を無視する。ぎゅ、と力を込め、このまま動くな、と身体を繋ぎ止めた。
しばらくして、大きな溜め息が聞こえる。
僕の全身を寝台に持ち上げると、布団が被せられる。その覆いの中の身体が逃げることはなく、毛布越しに好ましく思った匂いに包まれながら眠りに落ちた。
◇4
鳥の声と共に目を覚ますと、目の前には渋面を作った美しい顔立ちがあった。
ぱちぱちと重い瞼を持ち上げては閉じ、それが現実であることを認識する。重い頭を押さえながら、その顔を見つめた。
「おはようございます?」
「おはよう。…………昨日は散々だったぞ」
「んー……。勃ってたの治まった?」
「…………一応な」
両手で顔を掴まれ、額同士をぐりぐりと押し付けられる。鈍い頭にそれをされ、一気に覚醒へと近付いた。容赦がなくなったのは、僕が昨日、無体を働いた所為だろうか。
酔っていたとはいえ、あんなことをされれば遠慮も失せるだろう、加害者ながら相手が気の毒に思った。
「あの……、ごめん」
「まあ、俺も美味しい思いをしたから、今日のところはもういい」
何が美味しかったの? と尋ねてみるが、逆側に寝返りを打たれた。背にくっついて答えを促すが、応じる気は無さそうだった。
あまりにも二人してごろごろしていたら、お互いに二度寝をしそうになる。示し合わせて起き上がり、食卓に向かった。
だが、昨日買った食事も買い置きの食材も、昨日の自分達にあらかた食い尽くされていた。ごそごそと棚を漁っていたクレフも、諦めて扉を閉める。
「食材の買い出しもしたいし、朝市で食事にしないか?」
「いいな。行く」
身支度の前にまず風呂に入ろうということになったのだが、一緒に入るか一応聞いてみても黙って首を振られた。その反応に満足して浴室に向かう。
服を脱ぎ、身体を洗って湯に浸かった。浴槽は家主の身体が大きい所為か、今の官舎よりも広いものだ。
存分に広い湯船を堪能し、ほこほこになった髪を拭いながらクレフを呼びに行く。
「クレフ。お風呂どうぞ」
「ああ」
「お湯、張り替えてないけど気にする?」
「気にはしない。…………君以外なら」
横をすり抜けていく姿を見送り、言葉を噛み砕く。意味を察したときには、もうその大きな身体は浴室に消えていた。
今からでも湯を抜きに行くべきか、迷って面倒だと諦めた。結い紐を取りに行き、魔術で乾かした髪を丁寧に梳いて結う。髪もそろそろ切るつもりでいたが、クレフの好きな髪型にするのもいいかもしれない。
服を整えていると、すぐに着替えたクレフが現れた。髪が少し湿っていたので、魔術を綴って起動すると、短い髪はすぐに乾いた。
「魔術か、助かる。もう出られるか?」
「ん。行こっか」
連れ立って家を出て、玄関の前で伸びをする。飲酒翌日の倦怠感はあれど、寝心地が良かったためか身体の調子は悪くない。クレフの身体が納まる寝台なら、僕が一緒でも寝られるものだ。
並んで見上げるクレフの服の色味は落ち着いているが、彼自身の赤毛が鮮やかなために丁度よく見える。僕も落ち着いた色の服を選びがちだが、傷んだ髪に輝きがないため素直に地味だ。服もそうだが、まず髪質の改善を図るべきだろう。
隣で歩いて、番だと誤解されるくらいには整えたいものだった。
「ネーベル、こっち」
朝市は人が多く、まっすぐ歩くのが難しい。押し流されそうになって、道を戻ったクレフに確保される。ちらちらとこちらを見て歩幅も合わせてくれようとしているのだが、目の前の人にぶつからないよう視線を向ける必要もあり、忙しなかった。
僕は腕を伸ばし、長身の服の裾を掴む。このまま歩いてくれ、と目配せするが、クレフは指先を見下ろして、それを掴んで一旦外した。
僕が目を丸くしていると、指先に相手の指が絡んだ。彼にしては珍しい行動だと思ったが、その直後に押し流されかけ、腕を引かれれば納得もする。この人並みを縫うためには手を繋いだ方が良さそうだ。
「何を食べようか?」
「昨日の串焼きある? 食べたい」
クレフが店を指差し、腕が引かれて屋台まで案内された。一つずつ渡されたそれを、屋台の近くで囓る。
「熱いから気をつけ……」
「あっづい!」
僕とクレフの言葉はほぼ同時で、言わんこっちゃない、とクレフの眉が下がった。はふはふ、と冷ましながら飲み込み、じんわりとした痛みに目を細める。
「平気か?」
「うん……、大丈夫」
まだ焼きたてのそれを、冷ましつつ肉汁を落とさないように口に運んだ。食べ終えると、店主が串を預かってくれる。両手が空くと、またクレフがこちらに手を差し出してきた。その手を、深く考えることなく取る。
ふと思い付いて、少し魔力を流してみた。見上げた先の肩が震え、こちらを見返してくる。
「何をしたんだ?」
「魔力をちょっと流してみた。クレフの雷管石に触った時よりいい感じかも」
混ざり始める魔力が、嵐よりもゆるやかな風に思えるようになっていた。魔力の質は性格由来なところがあるが、どちらかが変化しているということだろうか。
ちょくちょく食事を取りながら、日用品などの売り物も見て回る。途中、調製した髪用の油を取り扱っている露店があり、手を引いて立ち止まった。
店主は試用の瓶の蓋を開け、僕の手に中身を落としてくれる。髪の先に塗り込むと、表面がさらりと滑らかになり、指の上を過ぎていった。鼻先に指を近づけても匂いは感じられない。
「クレフ、これ匂う?」
指先を近づけると、高い鼻筋が近寄った。
「いや。匂いはしないが」
「そっか、良かった」
アルファは匂いに敏感な人も多く、それらが多くいる王宮では香りを纏わないようにしている。ちょうど髪質を整えたかったし買ってしまおうか、そう思って店主に差し出しかけると、横から品物が掠め取られた。
「これを一つ」
「ありがとうございます」
わたわたしている間に店主とクレフの間でお金と品物がやり取りされ、袋に入った品物が僕の手に返ってきた。
品物を握り締め、贈り主の顔を見上げる。
「ありがと。大事に使うよ」
勢いよく視線が逸らされ、不思議に思いながら顔を覗き込む。身長差がある所為で、避けられてしまえば表情は窺えなかった。
僕が品物を鞄に仕舞い込むと、また改めて手が取られる。けれど、触れる場所から流れてくる魔力の波はこれまでよりも大きな高低差で波打っていて、感情が揺れているのが伝わってきた。
「照れてる?」
「………………いや」
くい、と戯れに手を引っぱると、からかうなと言うように強く手を引き返された。それから先も品物をいくつか見て回ったのだが、ぜんぶ買い与えようとするので、流石に次からは辞退することにした。
そうやって朝市を楽しみ、反対側の端に近付きかけた時、横から声が掛かる。
「あ、隊長! おはようございます!」
「おはよう。ウィクトーは今日は昼番だったな。朝食の買い出しか?」
「そうっす! …………ね……」
ウィクトーと呼ばれた、これまた美形の青年には王宮で見覚えがあった。彼らの会話からしても、近衛での上司と部下といったところだろう。
ウィクトーは僕とクレフの間で繋がれた手に気づき、言葉を失っている。手を離した方がいいだろうか、とクレフを窺うが、手が離れる気配はなかった。
「隊長と、ネーベルさんはどんなご関係で?」
名前を知られていたことに僅かに目を見開き、またクレフに視線をやる。これからも部下と付き合いが続くのは彼のほうなのだから、都合のいいように言ってもらって構わなかった。
視線を受けたクレフは、平然と包み隠さず述べる。
「神殿の鑑定士に紹介を受けてな」
「てことは、番候補なんですね……?」
「あくまで友人だがな。今は」
今は、の言葉に力が篭もっていたような気がしたが、言及する場面ではないと口を閉じる。ウィクトーは不躾なほど丁寧に僕を上から下まで眺めると、力の抜けた声で言った。
「勿体ないなあ……。まあ、好みは人それぞれですしね」
「は?」
クレフの低音が地の底を這った。
「怒らないでくださいよ! お邪魔しましたね、ちゃんと仕事してきます!」
ウィクトーはそう言い捨てると、では、と早足でその場を去って行った。
彼が言うように、基本的にはクレフのほうが番としては引っ張りだこなんだろう。僕と魔力の相性がいいことに執着しているきらいはあるが、正直、魔力の相性が合う人間が一人いたら、もう一人くらいは同じような魔力の人間がいるはずだ。
「あいつの言うことは気にしなくていい」
「あはは、もう忘れちゃったよ」
途端に、鞄の中の贈り物がずしりと重くなった。好意を与えられるのは、本当に僕で良かったのだろうか。
同居をするとしたら、この好意を日常的に受けることになるのだ。もし、彼と釣り合う別の誰かのほうを向かれたら、僕は彼を手放して平気でいられるのだろうか。
自身の好意が重たくなってきつつあることを自覚して、その不安を笑みに隠した。
◇5
それから、二人の予定が合えば泊まりに行き、一緒に出掛けたりもするようになった。面倒な時にはクレフの家から出勤することもあったが、裏門で別れ、王宮で一緒に歩くのは避けている。
彼から誘われれば、僕は断らない。だが、たまに一緒に出掛けたいなと思う催しがあっても、自分からは声を掛けられなかった。
クレフはこのまま一緒に住むことになるだろう、と思っているようだ。二人で出掛けた時も、泊まるなら、と言って生活用品を買い揃えている。けれど、僕はそれらを最低限に済ませ、以前に紹介された物件についても手付金を払っている。
官舎の自室は片付けが済み、引っ越し屋に頼めば引っ越せる準備は整いつつあるのだが、まだ僕はクレフと共に住むのか決めかねていた。
好みはひとそれぞれ、そう言われるほど僕には傍目から見て難があるのだ。
魔術師ではあるが出世街道には乗っていなくて、髪の手入れすらもろくにできていない。顔が整っていないことを思い悩むなんて、初めてのことだった。
クレフと堂々と王宮を並んで歩けない。番候補だと言われれば、背が丸まって縮こまってしまいそうだった。
「────でもさ。その状態で発情期が来たら、アルファなら首を噛むと思うよ。なあなあでお泊まりを続ける前に、一度ちゃんと話した方がいいと思うけど」
「そう……だよな……」
同僚のヴィナスには色々と相談に乗ってもらっているのだが、現状を説明するとぐさりとそう刺された。僕は机に肘を突いて、頭を抱え込む。
世話焼きの同僚から見れば、ちゃんと話もせずに僕がぐるぐるしているのが悪い、とのことで、さっさと腹を割って話せ、とせっつかれている。
「いくら番は運命だって言ったって、近い人間同士のほうがのちのち幸せなのかな。……って、釣り合わない、って言われてみて考えるようになったっていうか」
「急に仲良くなったしな。まだ、時間が解決しないか」
よしよし、と頭を撫でられ、うう、と唸って項垂れる。
これはクレフは関係なく、僕自身の問題だ。きっと番になれば、こうやって相手と自分を比べることなんていくらでも出てくる。その時、僕が胸を張れなければ長い付き合いはきっと辛くなる。
少し艶を取り戻した髪を、摘まみ上げて落とした。髪の結い方だって、少しずつ増やしているのだ。いずれ、彼に釣り合える日がくるとはまだ思えないのだが。
愚痴を言ってすっきりしたところで、クレフとの待ち合わせの時間になった。ヴィナスに礼を言い、その場を離れる。
着替えもいくらかクレフの家に置くようにしたから、鞄は軽いものだ。王宮を抜けて裏門に行くと、長身の立ち姿があった。
「クレフ、お待たせ」
「ああ、ネーベル。いや、丁度いま来たところだ」
クレフはいつもそう言うので、しばらく待っていた日もあるのだと僕には分かってしまう。
いつもと違う髪型を素直に褒められ、隠しきれない笑みが漏れる。周囲に視線をやって誰もいないことを確認すると、その腕を取った。
この腕に縋る度に少しずつ魔力が混ざる、そして、触れ合う度に匂いが移る。自分を構成しているものが書き換わっていく感覚が、その変化が心地よく、いずれ失うことを思えば物悲しくもあった。
夕暮れの街は、帰り支度した人々で溢れている。
夕食を買い揃えつつ歩くと、馴染みになった店主から声が掛かった。少し世間話をして、上手く乗せられて商品を買い求め、また揃って歩く。
店主にも誤解されているが、他から見れば僕たちは番同士に見えている筈だった。僕が腹に抱えている憂慮は誰にも見えることはない。こんなに近くにいて、腕を組んでいる相手にすらもだ。
クレフの家に上がり込んで、今日も酒を開けるのだろうと先に風呂に入ることを提案した。では先に、と勧められ、いつものようにからかった。
「一緒に入るか?」
かろやかに立てた笑い声は、その返答に萎んだ。
「………………そうするか」
言い出した手前、断ることも出来ずに二人で脱衣所に入った。裸を見せるのを躊躇うのも過剰な反応のように思えて、手早く服を脱ぎ捨てる。ちら、と相手を見ると、釦を外した上着の下から、割れた腹筋が覗いていた。
横をすり抜けて、先に浴室に入る。買い直された石鹸を擦り、泡を身体に纏わせた。貧相な身体を隠したくなって、普段よりもしっかりと泡立てる。
背後の扉が開く音がして、大きな身体が滑り込んでくる。僕が身体を洗っているのを見ると、身体を流して湯船に浸かった。
「その石鹸はどうだ?」
「前のより肌が突っ張らない感じ。つるつるになったよ、ほら」
泡を流した腕を差し出すと、つい、と指の腹が素肌を滑った。肌同士が触れ合った場所から、僅かに魔力が流れ込む。一瞬のことなのに、ぞくりと肌が粟立った。
急いで髪を洗って、交代、と湯船を入れ替わる。クレフは手早く身体を洗い、髪を泡立て始めた。
「筋肉すごいな。腕、こんなに盛り上がるんだ」
「まあ、それが仕事でもあるからな」
服越しに触れて想像していたそれより、ずっと立派に見えた。腕に力を込めれば、滑らかに隆起する。
そういえば、今は裸を見るのにさえも動揺しているが、発情期にはさりげなく隠している場所さえ晒すことになるのだ。つい股間に視線をやってしまうが、以前に寝室で猛っていたそれが、今日は大人しく茂りから顔を出していた。
反射的に視線を逸らし、後ろめたさに、ざば、と顔に湯を掛ける。
「外での訓練も多いのか? 結構、日に焼けてるな」
「訓練なら広い外の方がいい。ネーベルは外での仕事は少ないんだろうな、ずいぶん白いぞ」
「運動の癖もないからなあ。今度、身体を鍛えるのに付き合ってくれよ」
「いいぞ。しごいてやろう」
「…………適度に頼む」
クレフが髪を洗い終わると、湯船へ脚を入れた。身体を寄せ、場所を空ける。ざば、と勢い良く湯が零れて流れていった。狭い、という程でもないが、思いっきり脚を伸ばそうと思えばクレフの腹に当たりそうだ。
「それにしても、ネーベルはあれだけ食べるのに細いな。筋肉も薄いが、無駄な肉もない」
「魔術師だからさ。魔力使ったら腹減るんだよなあ」
湯に浸かったクレフの視線は、僕の胸元あたりに向かっていた。慌てて隠したりはしなかったが、薄っぺらい身体を見て楽しいのだろうか。
眺めていると、上げた視線とかち合った。
「悪い。初めて風呂に一緒に入るものだからつい……」
「いいよ。体つきの違いとか、見てて面白かったりする?」
あ、いや、と彼は口籠もる。その狼狽える仕草は、寝台の上で慌てていた姿を彷彿とさせた。
「いや、その。…………見ていて欲情するというか。だから、嫌だろう」
クレフは、言葉を取り繕うことを知らないのだろうか。言葉も身体も、こちらに向ける感情はまっすぐで、隠すことをしない。きっとその気持ちが思い込みだと悟ったら、僕に向けるそれらの感情は一瞬で失せてしまうのだろうに。
その大きな手を取って、自分の胸元に導いた。ぼたぼたと髪から滴が落ち、水面に波紋を作る。
ぺたり、と胸に掌が触れた。
「別に、嫌じゃないけど?」
釣り合わない身体に、執心してくれるのが嬉しい。笑みを浮かべてみせると、目の前の顔が惚けた表情になった。そして、わなわなと震えると、腕は取り戻され、ざばりと勢い良く水飛沫が立つ。
目の前で立ち上がった男の顔は、逆上せて真っ赤になっていた。
「すまない……! 先に上がる」
手早く言うと、ざばざばと脚を湯船から抜いて浴室を出て行った。あからさまに照れた表情だったのを思い返して、ふふ、と密やかに笑い声を上げる。
彼の感情がいずれ誤解だったと言われる日が来ても、この記憶が残るのは嬉しく思った。
ゆっくりと湯船に浸かって、脱衣所に行くとクレフはもうそこにはいなかった。髪を乾かして、新しく用意した寝間着を身に纏う。贈られた瓶から髪へ油を塗り込み、軽く櫛を通した。
風呂上がりの所為か肌の血色がいい。普段よりは、まだ良く見えているだろう。
廊下を抜け、居間でソファに腰掛けていたクレフの元に向かう。ソファの背に回り込んで肘を置き、身体を倒して顔を覗き込んだ。
「おまたせ。いいお湯だったよ」
「うわ……!」
気配には気づいていただろうが、近づき方が悪かったのだろうか。ご飯を催促すると、食卓には買ってきた食事と酒が並べてあった。歓声を上げながら席に着く。
酒瓶も新しいものが増えており、手を伸ばして持ち上げた。
「新しいお酒、開けたら怒る?」
「甘そうな果実酒だったから、君が好きかと思って買ってきた」
「辛いのもそれはそれで好きだよ。ありがと」
近付いてきたクレフが栓を抜き、グラスに酒を注いでくれる。一緒に飲まないかと問えば、グラスが持ち上がった。薄紅色の酒を注ぎ、魔術で凍らせた氷を放り込む。
乾杯、とグラスを合わせ、度数の低いそれを喉に流し込んだ。果実をそのまま酒にしたように、酒特有の風味を配合で上手く消している。原料の果実も食べてみたいと思えるような果実酒だった。
新しく買った屋台の料理をつまみに、あれこれ言いながら食べ進める。
「いろいろ買ってくれるのは嬉しいけど、財布に無理はするなよ」
「とはいってもな。元々、金の掛からない趣味しかないんだ。今くらい使っている方が健全に思える」
僕はその金銭が彼の中でいずれ無駄になったら、と考えるのだが、伝えるのも憚られた。
食卓の上に並んだ料理を取り分けながら、同僚からの助言を思い出す。一緒に暮らすことを躊躇っているのを、酒の力を借りて伝えるにはいい機会かもしれない。
グラスを掴んで、大きく口に含んだ。
「あのさ、クレフの家に住んだらどうかって話。あれ一旦、保留にしようかと思っててさ」
「それは……、どうしてだか聞いてもいいか?」
声は低く、怒りというよりも戸惑いが滲み出るような音だった。びくりと背を震わせて、僅かに震える手でグラスに縋る。
けれど、氷の冷気が側面まで伝って、指先を凍らせるようだった。
「僕、あんまりクレフに釣り合ってないな、って思うことがあってさ」
「そんなこと……」
「ないって言うと思ってた。クレフなら」
クレフはその言葉に黙り込んで、僕の声だけが空気を震わせる。
「別に同居しなくたって、こうして会うことはできるし。その間に僕がもうちょっと追いつけたら、そうしたら同居を……」
「それは、一体いつになるんだ?」
静かな言葉だった。咎められているという訳ではなく、ただ疑問に思って問い掛けられた言葉だった。
「俺は、ネーベルが俺と釣り合わないと思ったことはない。……違うな、君が自分より下だと思ったことはない、だ」
「クレフは、そうなんだと思うよ。けど、立場や外見に性格、他から見えるものを僕が想像する時、クレフはずっと上にいる」
指先がかたかたと震えていた。自分が下にいる、と認めて口に出すのは、とてつもなく惨めになった気分だった。自分を上に引き上げる人の前でそう言うのは、途方もなく孤独だった。
「クレフのことは好ましく思ってた。嘘がつけなくて、なんでも絶対に言葉に出してくれて。拙いところもあるけど、目標に向かって転ぶから微笑ましい。何より、ずっと僕のことを見てくれる所が好きだった」
ただ好ましくて、ただ好きだった。そう自覚してようやく、見ずに来た自分を顧みるようになったくらいは。
そして、自分がこうやって感情を曝け出せるのを意外に思った。何においても隠すことをしない人が近くにいるから、行動が伝染ったのだろうか。
「でも、本当は僕。クレフの雷管石を触った時、自分に合う魔力だって思えなかったんだ。クレフが魔力の相性がいいって言ってくれる度に、それが後ろめたくなった。知り合って時間を重ねていないことも怖くなった」
クレフは一番強い酒瓶を引っ掴むと、縁ぎりぎりまで注ぎ込む。大きな手でグラスを掴み、ぐっと飲み干した。喉が嚥下する様を、僕は黙って見守った。
「俺は、君が住もうとしていた場所に引っ越すのが不安で堪らない。自分の近くにいてくれたら守りやすいのに、とも思うが、これは俺の勝手な考えだ。君の考えは尊重したい。ただ、もし引っ越したら頻繁に遊びに行くから、それは覚悟しておいてくれ」
「………………うん」
同居してくれ、と強く言われれば流されたのだろうに、この風には翼を羽ばたかせなければ乗れはしない。先程クレフが飲んだ酒瓶を強請り、多めに注いで貰うと、一気に流し込んで喉を鳴らした。
それからも記憶に残らないような話を延々として、つまみが尽きたあたりでお開きになる。頭がぐらぐらと揺れて、悪酔いしているのが分かった。
歯磨きをする間も補助をされ、もう寝室に行くだけ、そうなった瞬間に抱え上げられる。筋肉のついた腕にもたれ掛かっても、びくりともしない。腕の中にいると匂いでいっぱいで、首筋に鼻先を擦りつけた。
寝台に入った瞬間、腕を掴んでそのひとを引き込む。躊躇いがちにだったが、追って寝台に入ってくれた。首筋に手を回し、掌で皮膚に触れる。自身の魔力の境界を崩せば、相手の魔力は容易く混ざった。
どくり、どくりと心臓が鼓動する。
混ざった魔力が身体を巡っていくと、蕩けるようなじんわりとした熱が中心から湧いた。伝わる魔力は僕を守りたがって、包み込もうとする。こっそりと、分からないように自分の魔力を彼と混ぜた。
一緒に住むことにしたら、次の発情期には首を噛んで貰えただろう。そうしたら番として、発情期は交じり合ったはずだ。この魔力も、この匂いも、全部が僕のもので、彼のものになったはずだ。
釦を掛け違えて途方に暮れるように、僕はその胸に埋まって背を丸めた。
◇6
新しい住所に引っ越しが済んだのは、それからしばらく後のことだ。結局、クレフが治安を案じていたあの部屋しか見付からず、僕はその家に住むことになった。
折衷案として僕の荷物のいくらかはクレフの家に保管されることになり、新居に運んだ荷物は限定的だ。すぐに必要ない物も多く、結構な荷物を彼の家に置かせてもらった。
クレフが新居に来ることもあったが、そもそも立地も良くない家のため、僕が彼の家に行くことが多い。けれど、招かれなければ行くことはできなかったし、日々艶やかになっていく髪を機に同居を持ちかけることもしなかった。
その日は、ふと思い出して神殿を訪れた。
鑑定士……ドワーズの予定が空いているなら話をしようと思っていたら、ちょうど空きだったようでこの間と同じ個室に通される。
椅子に座ったドワーズは、石を視てもらった時と変わりなかった。ここ最近が目まぐるしかったから長かったように思えるが、実際の月日はそれほど経っていない。
手土産を机の上に置き、中から菓子の箱を引き出す。
「こんにちは。これ、ご挨拶ついでにお礼にと思って。甘いもの、大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。そうだ、お茶を淹れますから、一緒に召し上がりませんか」
「はい、いただきます」
ドワーズは部屋の隅にある別の扉から出ていき、しばらくして盆を持って帰ってきた。あの扉が給湯室に繋がっているのだろうか。
カップには紅茶が淹れられており、持参した焼き菓子とも相性が良さそうだ。
「お礼に、といらっしゃったのですから、クレフさんとはその後も?」
「はい。いい友人として付き合いを続けています」
「友人……ですか」
ふむ、とドワーズは口元に手を当てると、やんわりと問い掛ける。
「これからする質問は、答えたくなければお答えいただかなくて結構です。────番として、クレフさんを選ぶことは今後ありえますか?」
今の悩みの真ん中を突くような質問に、ぐっと口籠もった。カップを持ち上げ、一口飲んで息を吐く。
目の前に湯気が立ち上るが、ふわりふわりと浮いては掴み所がなかった。
「僕は、選びたいと思っています。でも、僕とでは釣り合いが取れていないんじゃないかと思うことが多くて、踏ん切りが付かないというか」
「釣り合わない……とは……? あれだけ魔力の相性がいいのに、お互いが等しくなければならない、と考える方が勿体なく思いますが」
ドワーズは、その瞳で魔力の相性が見えている。彼の瞳が僕にあったら、こんなに思い悩むことはなかったはずだ。
「でも、石を触った時、僕はあんまり相性がいいようには思えなくて……」
「あぁ、そうか。魔術師の貴方は、普通の人より敏感に魔力を察知するのですね。それなら、あの時に貴方にクレフさんの雷管石を渡したのは間違いでした」
僕が首を傾げると、ドワーズは困惑を察したのか言葉を続けた。
「クレフさんの雷管石は比較的小さいものでした。あの大きさであれば、少量の魔力しか込められない。魔力に波があっても、波は石の中で平均化されます。ですが、少量の魔力は、その人が構成する魔力のうち一部分の波でしかない」
「その人の性質……性格の一部しか雷管石に込められていなかった……?」
「そうです。クレフさんの石を預かった日は…………」
ドワーズは近くの棚に近寄ると、いくつかの手帳を取り出し、机の上にぶちまけた。ぱらぱらと頁を捲っては、手帳を机に放り出す。それを繰り返して、ようやく目当ての頁に辿り着いた。
手帳をこちらに向け、その記述を指す。
「ああ。『朝番の護衛の途中で物盗りに出くわして、捕縛してから昼から神殿に来た』経験上、こういった武芸者が戦った直後は、魔力の波は上振れします。感情は興奮や怒り、そして相手を圧したいといったものでしょう。それが番への期待と混ざって、ネーベルさんにとっては相性がいいと感じられなかったのでは?」
「そういえば、クレフと直接触れた時には、あまり相性が悪い、とは感じませんでした。そっか、そっちを信じたら良かったんだ……」
自然と、口元には安堵の笑みが浮かんだ。視線を上げると、ドワーズの表情も和らいでいる。
「普通の人であれば、ここまで微細な魔力の波は感じられません。ですが、ネーベルさんは魔力の感度が高いようだ。この様子だとクレフさんに触れれば、魔力から感情すら分かってしまうのでは?」
「はい。いつも、何となく伝わっていました」
くすくすと笑うと、別の声音の同じ波が重なった。手帳を見下ろすと、クレフからドワーズが聞き取った内容が細かく書かれていた。
武術には自信があるから番を守りたいと思っていること、恋愛には慣れていなくて出会った後が不安だということ、そして、自分と相性がいい番がいるか不安に思っていること。その言葉は、番への期待で溢れていた。
「僕で、いいのかな…………」
ぽつりと零した言葉に対して、ドワーズは言い慣れているように、滑らかに返答した。
「きっと、貴方がいいんだと思いますよ」
ぼたぼたと目元から机に水滴が落ちて、それを視認して泣き出してしまったことに気づいた。ドワーズはそれを見なかったことにして、窓辺に視線を向ける。
気が済むまで泣いてそれが止まると、ドワーズは子どもにするように菓子を勧めてくる。菓子に手を伸ばしてさくさくしたそれに歯を当てると、ほろりと口の中で溶けた。
◇7(完)
恋心が居場所を見つけると、毎日でも会いたくなる。けれど、ちょうど仕事が忙しくなったのか、クレフからのお誘いはぱったりと途絶えた。
誘いが切れれば僕から声を掛けることはできず、僕は毎日ひとりの部屋に帰った。二人の空間に慣れていると、新居に心細さを感じてしまう。同僚にクレフの家に引っ越したい、と愚痴っては、今の家に引っ越したばっかりじゃん、と軽口を叩かれた。
王宮で偶然会えないかと普段歩かない場所も通ってみるのだが、偶然は頻繁に起きないから偶然なのだった。
「ネーベル。そろそろ発情期の休暇、取らなくていい?」
予定を確認していたヴィナスに声を掛けられ、ばっと身を起こす。鞄から手帳を取り出して前回の日付を確認すると、ちょうど一周期前くらいの日付になっていた。
「うわ。明後日から取る。…………取ってもいい?」
「最近は忙しかったとはいえ、もうちょっと早く言えよ。俺は大丈夫だから上に報告だけしときな」
慌てて上司のところに駆け込み、休暇の予定を告げる。もしかしたら、と体調に合わせて休日をずらす了承も貰っておいた。
ヴィナスの所に戻り、上司に告げたのと同じ日程と礼を伝える。同僚は、はぁい、と軽く請け負ってくれた。
「発情期はクレフ近衛隊長んとこ行かないの?」
「番でもないのに、発情期に引き込むのはないだろ。向こうも仕事あるし」
「色仕掛けで落としちゃえばいいのに」
「しないよ。そもそもできない」
そう言い合って、今日の仕事場所に向かうことにした。いつもは個人で行動するのだが、発情期も近いし、とヴィナスも補佐のために同行してくれる。
装置の故障箇所は珍しく王宮の中枢に近い場所で、王族用の厨房にある冷却装置の調子が悪いとのことだった。今日こそクレフに会えるだろうか、と思ったが、最近の遭遇率を考えると期待しないに越したことはない。
厨房に着くと挨拶をして、冷却装置のある場所に潜り込む。木板に埋め込まれた術式の一部が鼠にでも囓られたのか欠けていた。欠けた部分を避けるように、途切れた術式同士を繋げて埋め込み直す。
ごそごそとその場所から這い出て、埃を払う。軽く魔術装置を起動させると、ぱきぱきと水が凍った。
「術式が欠けていたので埋め込み直しました。今後は大丈夫だと思います。あと、こちらで用意しますので、この装置の周囲に鼠避けの金網を貼りましょう」
「ああ……、囓られてましたか」
担当者は、心当たりがあるようで頷いている。
「はい。次も囓られたら、また止まってしまいますから」
ヴィナスと分担して同様の装置を調べ、数カ所に金網を設置することで合意する。厨房を出たところで、次の予定、と手帳を見ていると、ヴィナスに襟首を引っ掴まれた。
鼻先が近くに寄せられ、匂いが嗅がれる。
「質の違う食事の匂いがあったから分かったんだけど、いつもと匂いが変わってる。次からの仕事は俺に任せて、帰った方がよくない?」
早口でその提案が告げられる。嘘、と自身の手首を鼻先に寄せてみるが、僕には匂いが分からなかった。
がくりと肩を落とす。引っ越しから先は忙しなかったとはいえ、自己管理ができていないにも程があった。
「はーい、帰りまーす……」
「人がいないとこ通って帰ろっか。あっち」
人気の少ない従業員用の通路を指差され、ヴィナスの先導に従って歩く。あまり通ることのないその通路は、王宮の警備の人々がよく使う通路だった。片側が外と繋がっており、燦々と輝く床に次々と影を作る。
歩いている間に、特有の熱っぽさが身体を侵し始めた。進行の速さからすれば、ヴィナスが言うようにすぐ帰った方がいいくらいの症状だ。
「わ」
目の前で、ヴィナスの声が上がった。
視線を上げると、警備の制服の人物達がいる。その先頭に、見慣れた姿を視認した。
「…………ネーベル。こちらに用事でも?」
「うん、仕事で」
送られたヴィナスの視線が、早く切り上げるように告げていた。クレフの背後にはいつぞや会った部下のウィクトーの姿もあり、こちらを見て目を丸くしている。
「何かが壊れたのか?」
話をしようと口を開くクレフを制するように、少し早口で語気を強める。
「ごめん。ちょっと次の仕事に急いでて……」
「あぁ、そうか。────……?」
クレフの瞳が、何かに気づいたように見開かれる。その瞬間、腕が掴まれ、胸の中に引き寄せられた。腰に回った腕が身体を引き上げ、傾いだ顔が首筋に埋まる。
こくん、と息を呑む。
匂いを嗅がれている間、喉元に牙を添えられた小動物のように、僕は身を竦ませていた。
「隊長……! ちょっとあの、え!?」
突然のことに慌てている部下に対して、クレフは静かに口を開く。
「ウィクトー、俺はこれから早退する。あと以前言っていた長期休暇になるかもしれない。明日、俺が来なかったら副隊長にしばらくの案件は投げてあるから」
「…………え。……あ、そっか。分かりました!」
僕の身体は抱え上げられ、すたすたと廊下を歩き始める。ヴィナスが我に返ったように横に付いてきた。僕とクレフを交互に見ながら、口を開く。
「あの、ネーベルは発情期が始まりかけっぽくて……」
「ああ。かなり強く匂うが、これは俺だからなんだろうな。このまま家まで運んで、買い出しなんかも手伝うよ」
「えぇ……っと……」
ヴィナスの視線が窺うように僕に向けられ、その視線に頷き返した。そっか、とヴィナスはほっとしたように呟くと、一緒に職場まで歩き、僕の鞄を持ってきてくれる。
上にも確認を取ってくれて、今日から休暇に入ることになった。
「じゃあ、ごゆっくり」
同僚の言葉には含みがあるように思えたが、僕はそれを言及することなく、鞄を持ったクレフに背負われた。まだ匂いがクレフを引き込むほど強くないのだろう、彼の表情は平静そのもので、僕を背負ったまま歩き始める。
王宮を出て彼が向かおうとする方向は新居のある方向で、僕はその襟を引いた。
「どうした?」
「あっち、がいいんだけど」
指差した方向にある家を家主が知らないはずもなく、クレフはその場に立ち止まる。無言の間がしばらく続き、クレフは方向を変えた。
「連れて帰ったら、もう離してやれないぞ」
僕は俯いて、その背に顔を埋める。ゆったりとその広い背に身体を預け、ただ守りたいという感情だけが伝わる魔力の波に揺られていた。
いつもは近かった帰り道が、永遠にも思えるほど長く感じる。心の内をなかなか語れず、僕は沈黙を貫いた。
玄関の扉の前で背から下ろされ、鍵を開けて家に入る。家の中は最後に来た時のままだった。
「ネーベル。その……」
名前を呼ぶ胸の中に飛び込んで、息を吸った。大きな背に手を回す。
「僕、クレフの番になりたい」
逞しい腕が背に回って、重力に逆らって引き上げられる。屈んだ顔が隣に擦り寄った。
「ああ。俺もずっとそう言いたかった」
近付いた顔を、両手で捉えて唇を寄せる。
柔らかいものが唇に当たって、ぴったりとくっついた。唇を開いて触れたものを舐めると、僅かに相手の唇が開く。おずおずと舌を差し込めば厚い舌が絡み付いた。
ゆったりと触れ合わせて舌先で辿る。柔らかい場所を行き来する度に、背筋を甘いしびれが伝った。
相手の匂いが、強く、濃くなる。
「寝室、行かない?」
唇が離れた瞬間、つい口に出していた。唇に指先を当て、紅潮した頬を隠す。どう取り繕おうか迷っている間に、身体が浮き上がった。
膝下と、背が腕に抱え上げられる。
「っ、わ……!」
「悪い。このまま運ぶ」
見上げた顔は耳まで赤くなっている。誘いは上手くいったようで、触れている胸元から煩いほどの鼓動が聞こえてきた。
大股で部屋に入って、寝台に下ろされる。柔らかい布団が体重で沈み込んだ。一緒に乗り上がる身体に縋り付いて、また軽いキスをした。
背後に手が回り、結い紐を解く音がする。髪が重力に従って落ちる音が、囁くように耳に届いた。
服の裾に自ら手を掛けると、その手を覆うように大きな手が被さる。自分の指は裾から外され、別の指が代わりに服を持ち上げた。腕を上げると、衣擦れの音と共に上着が奪い取られる。
指先が喉を通って、胸元に落ちた。
「胸に触れても?」
「次に聞いたら嫌だってしか言わない」
苦笑と共にそう言うと、宥めるように唇が塞がれた。舌を潜り込まされ、絡めている間に胸の尖りに指先が触れる。押し潰すように触れ、捏ねては弄られた。
「…………っン! ぁ、んふ、ぁ……」
弱い刺激が重なり、波のように押し寄せる。口内の主導権は向こうにあり、離そうとしても追いかけてまた塞がれた。後ろに僅かに傾ぎながら、胸元に触れている手を受け止める。
「少し、身体を高くしてもらえるか?」
首を傾げながら膝立ちになると、胸がクレフのすぐ前に位置取る。照れに視線を逸らしていると、乳首をぬるりとした感触が伝った。
「わ、っゃ……!」
突然の刺激に慌てる背を、腕が支えてその場に制される。背ごと引き寄せられ、更に深く触れた舌は胸の粒をねぶった。喉の奥から濁った声が漏れ、ちゅう、とそこを吸う音が被さった。
唇が一旦離れた乳首はぽってりと熱を持ち、相手が吸いやすい形に変化している。息を吐く間もなく、また吸い付かれた。
「……ゃ、あ、────あ、も、やめ……」
細かな刺激が長く与えられ、触れられていない前も張り詰める。胸元に埋まる頭を掻き抱いて、その赤毛を乱した。
視線を上げた口元では、赤い唇に浮かぶように牙が覗いている。
「下も、さわって……」
「それなら、自分で脱いでくれるか?」
目の前の唇には悦が浮かんでいて、ひく、と息を呑む。ぐずぐずと言い訳を音で漏らしながら、下の服に手を掛けた。彼が見ている前で、その場所を自ら晒す。
クレフは上から下まで一頻り眺めると、嬉しそうに唾を飲む。寝台脇の小机にある引き出しを開け、中から見たことのない小瓶を取り出した。
蓋を開けても、内部から匂いはしない。だが、彼が掌にそれを広げると、とろみのある液体が何のためのものかは察しもする。蓋が閉められ、瓶がシーツの上に放られた。
ぬめりを帯びた手が茂りをひと撫ですると、触れた部分に影ができた。
ぎゅっと目を閉じて、その時を待つ。僕の中心に指がかかり、ぬめったものが擦り付けられた。
「…………ッ、あ!」
掌が竿の部分を持ち上げ、上から下に動かされる。液体の所為で、大きな掌の大部分が滑らかに粘膜を擦り上げる。皮の部分が動く度に、慣れた動作で刺激が与えられた。
相手の肩に縋り付き、快楽に声を漏らす。敏感な先端を指先がぐりぐりと苛め、鈴口に僅かに爪が埋まった。
「……ふぁ、ン、ぁあ、────ぁっ、や、うあ」
一度、強い刺激を与えて弱い刺激で宥め、また敏感な場所が掻かれる。一定の動作を何度も何度も繰り返していると、やがて気づかぬままに高められていた。
もういっぱいいっぱいだ、と肩に雪崩れ込む。そこでようやく育てた芯から手が離れた。
彼の掌には液体が足され、腕が背に回り込む。指先は真っ直ぐに窪みの位置を探り当てる。
「や……ッ! ……な、なに!?」
「此処に入りたい」
その声はぞっとするほど低く、ごくんと唾を飲み込んだ。視線を向けた先の雄は服を押し上げていて、触れる魔力はひたひたと迫ってこちらを侵そうとする。あの時の一線を守っていたそれではなく、許可の一言があれば牙はすぐ食らいつくだろう。
返事の代わりに、軽く脚を開いた。
願いが叶って満足げな笑いが漏れ、指先は後腔に潜り込む。骨張った指先が内壁を押し拡げた。
「────ぁ、うあ、あぁ、ン、っ」
指先は探るように側面を辿りながら、慎重に柔らかい襞を掻き分ける。ゆっくりと押される度に、ぞわぞわとした波が背を伝った。
回した背に軽く爪を立てる。
肩を震わせて快楽を逃そうとする度、髪が揺れて背を撫でた。細かな感覚でさえも拾ってしまう躰は、びくりびくりと断続的に微動する。
「…………さて、何処だ」
「──────っ!」
何事かを探っていた指がその場所を捉えたとき、びくん、と大きな震えが全身を捉えた。身のうちから湧くような痺れが、そこを押し潰される度に波を起こす。
「やぁ、ぁ! そこ、や、……ッだ……、ぁああン!」
「いい反応だ」
獲物を甚振るような声音に、ぞっと冷たいものが走る。それを誤魔化すように、複数の指で纏めてそのしこりを捏ねられた。前を弄ったときとは違う、重く響くような気持ちよさに揺らされる。
前も戯れるように扱き上げられ、逃げ場のない刺激に爪先がシーツを滑った。
「ぁ、っあ。や、まだ、つづく、の…………?」
「まだ、もう少しな」
指先を動かし、肉輪の広さを確かめる。
だが、彼にとってはまだ落第点だったようで、指先はまた奥へと潜り込んだ。ぐちぐちと水音を立て、突き入っては引き抜くことを繰り返す。あの場所は届いた指先に何度も押し潰され、僕の前はゆるく勃ち上がって揺れていた。
何度目かの確認の後、突然ゆびが引き抜かれる。がくんと身体を倒し、後ろの口はあったはずの指先を求めて呼吸した。
「ネーベル。うつ伏せに」
問いかけではなく、それは指示でしかなかった。こくんと頷き、首筋を晒して寝台に膝を突く。
肘で身体を支えるように倒れ込むと、背後で何をしているか分からなくなった。髪が払われ、項に空気が通る。爪で触れられた場所には、柔らかい皮膚しかない。
腰に手がかかって、背後に引かれた。ぬるりとした丸いものが尻たぶに当たり、ぬるぬると跡を残しながら移動する。それは割れ目へと辿り着き、先端をひときわ深い洞へと押し当てる。
粘膜同士が触れ合う感覚が堪らなかった。欲しがっていた匂いが周囲には満ちていて、触れた部分から魔力が混ざる。
喰らい尽くされそうな暴力的な波は、その首元を狙いうっていた。
「──────ぁぁあッ!」
ぐぶ、と力が掛かれば先端が輪を潜った。熱杭は太く膨れていて、輪が狭い所為で容易くは通らない。それを身体を揺らし、力を込めて奥へ奥へと進めていく。
「や、ぁ、むり……! おく、いけな…………!」
「大丈夫、だ……、挿入ってる」
シーツを頼りに前進しようとしても、腰を掴んだ腕が許さない。距離が空く度に縮められ、引き寄せられては勢い良く突き入った。
ぞくぞくする快楽を握り潰し、唇を噛んでやり過ごす。永遠と思える攻防の末に、先端の膨らみが門の扉を叩いた。
「……っく、う…………」
印を付けるように強く、ごり、と押し付けられ、茂りが尻の腹を掠めた。流石にもう、と息を吐きかけたとき、次の揺れと共にまだ奥へ踏み入る。
「────っ、え?」
ずしん、と重い揺れと共に、その場所が亀頭に押し潰された。内側を持ち上げるように、塊が腹を突く。
指先の刺激なんて可愛いものだった。気持ちいいと感じてきた場所すべてにこの剛直は届ききっており、指では届かない場所さえも先端で捉えている。
「……や、え。なに、これ」
息が止まって、嬌声さえも掻き消えた。
「な、ぁ。これ、とどいちゃ……」
「ああ、届いてしまうな」
声音は愉悦を隠そうともしなかった。その場所を捉えた肉槍の大部分が、一度引き抜かれる。ずるずると抜かれたそれは救いではなく、次の訪れへの助走だった。
腰を捉えた腕に力が篭もり、引き寄せられると同時に腰を叩き付けられる。
「────────!」
僅かに残った呼吸を漏らして、喉の奥で声が掻き消えた。痛みと快楽の、ほんの少しだけ快楽に寄った位置、それを確かに貫いている。がくがくと脚が震え、肩が寝台に倒れ込んだ。
掌が僕の肩を撫で、優しげな声が掛かる。
「動かすぞ」
ばつん、ばつん、と大振りな抽送が始まった。
使うことに慣れた身体の発条を上手に利用し、長い道のりを揺さぶってくる。張り詰めているのか果てているのか分からないまま、口を開けて嬌声と涎を落とした。
「……ぁ、や、────もう、っあ、あ、あ!」
ずぶ、ぐぶ、と水音が立つ度に、身悶えては寝台に爪を立てる。背後からは鼻歌でもうたい出しそうなほど、満足げな声が漏れている。
体力差の所為か、その往復は衰えを見せない。どれだけ長い間、僕は揺さぶられることになるのだ。途方もなさに愕然としながら、感覚の薄い腰を滅茶苦茶にされる。
限界は、脚の感覚が薄くなりかけた時にようやく訪れた。
「ネーベル」
「……ぁあ、あ、あン! く、くれ、ふ……」
耳の隣で、唾を飲む音がした。身体の内にあるものが、奥を捏ねて膨れを見せる。牙が首筋を伝い、噛む位置を定めた。
次の瞬間、首の裏に鋭い痛みが走った。身に埋まる肉杭も、奥をぐりり、と捏ねる。
「……あぁ、ふ、く、っぁ……も、でちゃ、……」
本能的に逃げを打つ躰は、二つの牙によってその場に縫い止められる。男の熱は引き抜かれることなく、門に鈴口を押し当てると、直ぐに熱いものが迸った。
「くっ、……──は、あ」
「────や、ぁああああああぁああン!」
肉砲は狙いを外さず、狙いの場所に子種を注ぎ込む。息を吐き尽くした喉はひくひくと痙攣し、精一杯息を吸った。その間もゆるい抽送は途切れず、逕路に一滴も残さないというように最後まで押し付けた。
牙から身体のうちに注ぎ込まれた魔力が、自身の魔力を変化させていくのを感じる。これでもう、僕の匂いは他の誰も誘えない。変化は性急で、だからこそ甘美でもあった。
柔らかくなったそれが動きを止めた時、僕は大きく息を吐く。腕を崩し、脚も倒して寝台に倒れ込んだ。
食んでいた屹立は、そのまま引かれて身のうちに留まる。
「番、になっちゃった…………」
「ああ、もう逃がさない」
身のうちに渦巻く魔力は雷管石を経由して触れたのとも、これまでの付き合いの中で触れたものともまた違う。付き合いが続けば、魔力はまた書き換わっていくはずだ。
また一緒にいる楽しみが増えた。笑みを浮かべながら、達成感に浸る。
首筋にキスが落ちて、傷痕からにぶい痛みが伝った。その唇からも、身のうちにある彼の半身からも、まだ味わい足りない、と強い主張が伝わってくる。まだ繋がっているそれは形を変えつつあり、アルファの精力というものは底が見えなかった。
そして、僕の匂いはこれからも徐々に強くなり、更に番を誘うのだろう。
「…………ちょっとだけ、休憩……、ん、ぁ」
ゆるりと動いたことによる刺激に声を上げた。身体を揺らされ始めると、次の交わりへと引き込まれる。
平均的なアルファよりも体力のある番との発情期は、想像していたよりも体力を使う。全てが終わった後、がくがくになって立てない脚を引き摺りながら、適度に身体を鍛えようと心に誓った。
発情期が終わってほんの少しの間だけ、僕は拗ねた。
体力差などお構いなしに揺さぶられ、あんなに巨大なものを突き入れられた。いくら発情期とはいえ体力には限度がある、そう言うとクレフは反省を口にしながらも、散々おあずけを食らわせた僕も少しは悪い、と愚痴をこぼした。
肚は常に精でいっぱいで、空腹の時間はなかった。その所為で僕の身体は彼の魔力を覚えてしまい、僕がクレフと離れて暮らせない症状は更に悪化することになる。
新居はほんの少しの間に解約されることになり、僕は短い期間で二度目の引っ越しをすることになった。クレフ本人はたいへんご満悦で、別の家に帰らない僕を見る度に喜びを噛み締めている様子だ。
番であることは、王宮でも明かしている。釣り合わない、と言われても受け止めるつもりでいたが、好意的な反応以外が耳に届くことはない。
彼の部下のウィクトーにも発情期について礼を言う機会があったのだが、残念そうにこう言われた。
『隊長。俺らがネーベルさんいいよなあ、って言ってたとき黙って何度も頷いてたんで、元々、貴方は好みなんだと思いますよ。一度好きになったものは嫌いにならない頑固者なんで、甘やかさなくていいですからね』
僕が思い悩んだ発言についても、彼らが言う『岩のような上司を選ぶ僕』に対して、好みはひとそれぞれ、という感想だったそうだ。
魔術師を紹介してくれませんか、と言うので、神殿の鑑定士に会って頼んでみたら、とだけ助言しておいた。近衛にとって魔術師というのは、遠すぎて色眼鏡が掛かって見えるのかもしれない。
お互いの雷管石は、加工して耳飾りにしてから交換した。
相手の魔力が常に手元にあるというのは精神衛生上すこぶる良く、世の中の番が相手の石を大切にしている理由が理解できた。
耳元で光る石を見つめながら、今日も一緒にいる番に身体を擦り寄せる。
「今日も一緒に風呂入る?」
僕がそう言うと、クレフは口元を戦慄かせて、ようやく頷いた。あれだけ身体を抱いたのに、彼の中で一緒にお風呂、は打ち震える何かがあるようだった。
丁寧に全身を洗ってあげよ、と心に決め、腕を組みながら浴室へ向かう。あまりにもクレフを煽りすぎて、寝室で啼かされるのはしばらく後のこと。
歩く二人の耳には、透明な輝きが並んで光っていた。