変人な同僚と一夜を過ごしてしまった魔術師さん

魔術師さんたちの恋模様
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◇1

 朝起きたら、同僚が横で寝ていた。

 あまり良くはないが、それ自体はいいのだ。問題は、この身体に残る違和感だった。

 涙の名残がこびり付いた瞼、身体のあちこちに残る赤い痕、やたらとすっきりした爽快感と、相反して尻に残る拭いようのない腫れぼったさ。

 そっと身体を起こして鏡の前に立つと、服は自分のものではない大きな寝間着を身に纏っていた。胸元にもいくらかの痕が視認できる。束縛の強い恋人があえてするような痕跡に見えた。

 大問題なのは、おそらくそれを残したであろう相手が、同僚である点だ。俺は見慣れぬ寝台に歩み寄ると、眠っている端正な顔立ちを見下ろす。

 アルヴァ・トレーゼ。

 同僚の中でも魔力に優れて術に秀で、そして癖が強い男だ。

 王宮付の魔術師たちの中でも特に優秀な割に、実験を繰り返しては職場のあちこちを破壊して回ることで昇進を逃している。というのが専らの噂で、事実でもあった。

 東の大国にある魔術部署とも繋がりがあり、我が国よりも進んだ魔術を自身の研究協力と引き換えに持ち帰ることがある。

 それでも実験と称しては窓を吹き飛ばした上でけろりとしているので、上司もその功績を相殺する他なかった。

 つい『職場で実験するのは止めたらどうか』と助言してしまったが、『自宅が吹き飛べば実験が止まるだろう。自宅では実験しないようにしている』と淡々と述べられ、あまりにも堂々と言われたことにより、一瞬だけ丸め込まれてしまった。

 そんな癖のある男が、俺にありとあらゆる情事の痕跡を残した挙げ句、すやすやと寝台で眠っているのだ。

 彼に恋人がいるという話は聞いたことがなかった。

 魔力の好みが激しい魔術師の中でも、アルヴァのような魔力の強い人間は更に選り好みをする。俺を始めとした職場の面子と一緒に仕事はできるのだが、嫌だろうなと積極的に触れないように気を付けていた。

 それでいて性格も『ああ』だ。

 適齢期の人間がいても、どれだけアルヴァが優秀であっても、美形であったとしても。そもそも恋人目的で、人が寄り付かないのが彼という人間の筈だった。

 そんな彼が、おそらく俺と寝たのだ。

 拳を握り込み魔力を流してみれば、見知った魔力が身体を巡っていた。俺とは真反対にいるはずの魔力は、上手く絡み合って新しい流れを作っている。その流れの強弱は、身体にえも言われぬ心地よさを齎した。

 その事を心から意外に思った。

 仕事に困りながら残業をしていると絶対に手を差し伸べるようなところは、ほんの少しだけいいよなあ、と思っていたのは確かだ。そして、見慣れていても尚、美しい顔立ちには惚れ惚れする。

 だが、彼はあのアルヴァ・トレーゼなのである。俺の魔力と噛み合うとは思わなかった。

「…………ん」

 低い声が寝台の上で揺蕩い、もぞりと毛布が皺を作る。

 毛布の合間で、実験の副作用で色を失ったという白い髪が揺れた。普段は背のあたりで一括りにしている髪は、今はあちこちに散らばって見える。

 頭はずきずきと痛み、魔力酔いの症状に似ていた。昨日、俺の残業にアルヴァが付き合ってくれたことまでは覚えているが、それ以降の記憶はない。

 俺は混乱の中にありながら、うろうろと部屋を歩き回り、やがて寝台の端に腰掛ける。そうして、アルヴァが目を覚ますのを待った。

 彼が目を覚ましたのは、休日とはいえ、あまりにものんびりとした時間だった。

 唐突にぱちりと目を開け、ばさりと毛布を撥ね除けつつ起き上がる。ゆらり、と茅色の瞳が開かれ、こちらを視認した。

「おはよう、ディノ」

「…………おは、よう」

 長い髪を掻き上げ、名を呼ばれた挨拶の言葉に戸惑いながら返事をする。アルヴァは自分の置かれた状況を認識しているのか、寝台から起き上がって呑気に伸びをした。

 このままだと立ち去ってしまいかねない、と声を掛けて引き留める。

「…………あの。俺……なん、でここに?」

 こちらを向いた瞳が、僅かに見開かれる。

 意外、という表情を浮かべるということは、記憶を失っているのは俺だけらしい。肩を落とし、引き結んだ視線に追い縋る。

「昨日の夜のことは、覚えていないのか?」

「仕事の後のことは、全く」

「……そうか」

 アルヴァは腕を組み、視線を空中に投げる。困った問題が起きたときに彼がよくする仕草だった。

 何かに思い至ったのか、アルヴァは俺の方に歩み寄る。

「手を貸してくれるか?」

「あ、……うん」

 言われたとおりに腕を差し出すと、その手が取られる。触れた場所から魔力の境界が消え、強い魔力が大量に流れ込んできた。その魔力は俺の魔力を絡め取り、そわりと背中を引っ掻いた。

 わ、と声を上げ、思わず手を振り払ってしまう。

「な、……なんっ、何した!?」

「魔力を流し込んでみただけだが……ふむ。やはりか」

 アルヴァは手を開閉し、指先に視線を落としている。そして、その視線は俺の方を向く。落ち着いた色の瞳が、煌めいたように見えた。

 ぱちり、ぱちりと色を失った睫が動き、その奥で強い瞳が自分だけを捉える。

「正直に答えてほしい。ディノは、俺と君の魔力相性をどう思った?」

「あぁ。えと、相性いい、よな……?」

「………………」

 アルヴァは無言になり、俺の頭から爪先までを見下ろす。あまりにもじろじろと見つめられ、間違ったことを言ったか、と唾を飲んだ。

 引き結ばれていた唇は、やがて開かれる。

「結婚しよう」

「…………………………………………はあ」

「それは承諾か?」

「困惑だよ馬鹿」

 魔術に秀でたアルヴァを馬鹿、と罵る日が来るなんて思いもしなかった。口が開かれた結果がこれとは、雄弁は銀どころか鉄屑もいいところだ。

 アルヴァはぼすりと寝台に腰を下ろす。

「責任を取りたいと思っていたし、魔力の相性も良いなら丁度いいと思ったんだが」

「そもそも俺ら……寝たの?」

「性行為か? したぞ」

 綺麗な形の唇から、昨日の夜の顛末が語られる。

 仕事終わりに食事がてらアルヴァの家に立ち寄ったところ、作りかけの飴状の魔術薬を俺が口に入れてしまい、薬の効果と触れた時の魔力酔いが重なって二人して寝台に縺れ込んだという。最後までいっていなければまだ……、と救いを求めてみたが、彼はさらりと『数回は挿れたな』と言った。

 うわあ、と頭を抱える俺を、アルヴァは平然と眺めている。

「アルヴァは正気だったんだろ? なんで抵抗しない」

「薬の効果か確かめようと抵抗せずにいたら、相性の良い魔力を一気に流し込まれてな。ディノと同じように、そこからは魔力酔いと欲求不満が重なって、ずぶずぶと」

 彼にとっては据え膳もいいところだったらしい。最近は仕事も重なっていたし、確かに時期は悪かった。切っ掛けを作ったのも俺だというのなら、彼に対して怒りを向けることもできやしない。

 尻を気持ちよく支える、質のいい寝台が恨めしかった。

「…………他人事じゃないが、よく抱けたな」

「顔立ちも性格も好ましくは思っていたし、魔力の相性がいいのなら性格も合うんだろう。それに加えて職場の顔しか知らない相手がぐずぐずに蕩けているというのは、なかなかクるな」

「本人の前でよく言えるもんだよ」

「色っぽい、と褒めているつもりだが。言葉が難しいな」

 俺がうんうんと唸っていると、アルヴァはすっと立ち上がった。ふわりと寝台が持ち上がり、体勢が揺らぐ。

「食事にしよう。空腹で悩んでも良い答えは出ない」

「お、……おう」

 歩き出したアルヴァの後を追って立ち上がると、ふらり、と足元が揺れた。歩くことはできるのだが、身体の違和感が酷い。ゆっくりと後を追う俺を、振り返ったアルヴァが目で捉えた。

 戻ってきて、伸びた腕が身体を支える。

 振り払おうと見上げると、心配そうな瞳にかち合って動揺した。大丈夫、と告げて逃れようとしたが、彼の腕は離れなかった。

「心配だ。しばらく補助させてほしい」

 ぱちぱちと目を瞬かせ、その整った顔立ちを見上げる。職場にいる時よりも、ころころと感情がよく動く。今まで見たことのない表情ばかりだった。

 珍しいこともあるものだ、と思いながら、返事を失って導かれるままに歩く。アルヴァの自宅は広く、寝室を出て廊下を少し歩き、台所のある部屋に辿り着いた。

 座っているように言われ、食卓にある椅子に腰掛ける。普段は椅子が二脚もないようで、アルヴァが座るであろう位置には木箱が椅子代わりに置かれていた。

 台所に立ったアルヴァは買い置きしてあったらしいパンを取り出すと、魔術で上手に切り分け、卵もまた魔術で起こした炎で焼いていく。

 朝っぱらから魔力を使えば仕事が不安になるところだが、触れた時に流れ込んだ魔力量を思えば、彼にとっては問題ない量なのだろう。

 出された皿には、焼いたパンと焼いた卵が二つずつ、申し訳程度にちぎった葉物が添えられていた。傍らでは、沸かした湯で珈琲を落としていく。ぽたり、ぽたりと出来上がっていく珈琲が溜まると、ゆっくりとカップに注ぎ入れた。

 砂糖は、と問われて一杯だけ入れると、アルヴァは返ってきたスプーンでどかどかと砂糖を珈琲に流し入れた。

「いただき……ます?」

「いただきます」

 何故、一夜を共にした相手に求婚され、朝ご飯まで囲んでいるのだろう。今更ながら逃げた方が良かった気がしてくる。

 だが、出された飯に罪はなく、腹も減っていた。瓶から牛酪を持ち上げ、パンに塗りつける。そのまま持ち上げ、がり、と囓った。

 ざくざくと口の中で香ばしい匂いが跳ね、追って塩分とほのかな甘味が訪れる。珈琲に口を付けると、更に甘さが味を包み込んだ。

「美味い。……けど、何の話してたか忘れそうになるな」

「それで忘れるなら、忘れていい話だろう」

「結婚するしないは忘れていい話じゃないんだよ」

 そう口に出してみて、またパンを囓る。ざく、ざく、ざく。咀嚼がのんびりとしたものになり、その度に口に出す言葉は入れ替わっていく。

「俺は責任取ってほしいとは思ってないんだよ。そもそも忘れてるし。だから単純に求婚されて困惑してる、って話な訳な?」

「俺は、元々好ましく思っていて身体と魔力の相性がいい相手と、このまま関係を続けられないかと……唆し……いや、口説いているんだろうな。これは」

 アルヴァは迷いながら、目玉焼きの黄身を割った。流れ出たそれを掬い、口の中に放り込む。

 口説かれていたのか、その言葉の衝撃に手が止まった。

「でも、それって俺のこと好きって訳じゃないんじゃ……」

「結婚したいくらい好き、というのは好きではないのか?」

「お前の場合、実利のことしか頭にないだろ」

 分からない、というように首を傾げられれば、俺も正しいことを言えているのか不安になってくる。

 珈琲を揺らせば、黒々とした表面が波打った。右に、左に、揺れては一度たりともその場に留まらない。

「魔力の相性が良くて気持ちいい、欲求不満が解消できる、って理由だろ。そんな率直に言いすぎたら誰も頷かない」

「魔力の相性というのは、大きいと思うんだが」

「そう思ってても言い方ってもんがあるだろ。身体の相性がいいから結婚しよう、ってそれ下心じゃねえから。どっこも隠れてねえの」

 ず、と黒い液体を啜ると、甘味の後には苦みが残った。目の前の男は、やはり分からない、というように眉を顰めている。

 恋愛に関わる心の機微なんて、この男には最も遠いものだろう。

「つまり、利己的であったとしても、表面上うまく言えば結婚も叶うということか?」

 途端に咽せ、ごほげほと咳き込む。今まさにその率直さの弊害を語ったばかりだというのに、どこを学んだというのだろう。

「……うまく言って、相手が納得したらな」

 喉から絞り出した声はざらざらで、砂糖など一粒たりとも混ざっていないかのように苦みばかりの音がした。

「それならば、相手を納得させるために行動も必要だな」

「…………そうだ、ね」

 力をなくした俺の言葉は、大海に漂う小舟のようだった。

「ディノは好きなものはあるか?」

「だからさぁ……」

 文句を言いかけ、口籠もる。

 手段が真っ直ぐすぎるだけで、彼に全く悪気はないのだろう。怒った上で放り出すのは、あまりにも器が小さいように思えた。

 目の前の男を見つめ、口を開く。

「朝ご飯に、果物があったら朝から気分が上がるかもな。今度……」

「買ってくる」

 この男には刹那と直球しかないのだろうか、あんまりだ。

 途端に立ち上がって果物を買いに行こうとした相手を押し留め、物の例えだと説明が済むまで、必死にその服の裾を掴み続ける羽目になった。

 

 

◇2

 朝食後に帰宅する、と席を立てば、意外そうにこちらを見る瞳とぶつかった。

 もっと居てくれても、と引き留めようとする図体のでかい男を振り切って、自室に帰って飽きるまで寝た。ふらついていた足元は、不思議と翌日には回復していた。

 アルヴァと混ざった魔力はといえば、よほど彼の魔力が好ましかったのか、彼の要素を銜え込んで変化している。

 長い間、身体を重ねなければ元の質に戻るのだろうが、彼の魔力が濃すぎるのか相性が抜群に良いのか、週末の間に元に戻ることはなかった。

 そうなると、気がかりなのは職場である。

 並以上の腕を持った魔術師が集まる王宮で、魔力の質の変化を気取られない筈がない。そして、変化を齎したのが同僚ということもまた然りである。

 洗面台に立ち、どんよりと影が落ちる顔を鏡越しに叩く。

 アルヴァとは違って肩に付かない長さの濃紺の髪と灰色の瞳は、あまりにも地味で雑踏に紛れやすく、明るいばかりのアルヴァの色とは対照的だ。顔を洗い、歯を磨いて髪型を整えても尚、その憂いを拭い去ることはできなかった。

 朝食を抜き、ローブに着替えてから家を出る。

 王宮までは歩けばかなりの時間が必要で、初めて知ったアルヴァの家の立地を羨ましく思った。職場から近く、俺一人が転がり込んでも問題ない広さだったはずだ。

「……て、何考えてるんだか」

 アルヴァと付き合うことにでもなれば、あの暴れ馬に振り回されることは目に見えている。

 添い遂げるなんて、あまりにも無謀だ。

 かつかつと靴が石畳を叩き、不揃いなその音で思考も散らかっていく。広がった欠片を拾うこともできず、ただ歩みを進めて考えを跳ね散らかした。

 長い時間歩いていた筈なのに、辿り着くのは一瞬だった。王宮の使用人のための廊下を通り、職場の扉を開ける。

「おはようございまー……」

 途端に、職場にいる全員の視線が魔術機から持ち上がり、こちらに集まった。え、とそれぞれに視線を一巡させ、自らの席に向かって歩く。

 アルヴァも自席に座っているが、何か仕事をしているのか、視線がこちらに向くことはない。

「ディノ。あの、ちょっといい?」

 同僚のメルクが声を掛けてくる。ああ、と返事をして席に荷物を置き、彼が導くままに部屋の外に付いていった。

 扉を閉め、少し離れた所に辿り着いたメルクは、がし、と俺の両肩を掴んだ。

「何が起きたの!?」

「え……っと、何が……」

「アルヴァにディノの魔力が混ざってたの。本人は何も喋ろうとしないし、そもそも『あの』アルヴァ相手に聞けないし。そしたらディノからもアルヴァの魔力を感じるし! アルヴァの実験の副作用かも、とも考えたけど……」

「あー……。いや、実験の副作用ではない……けど」

 そう言うと、メルクの表情が困惑したものになる。視線をうろうろと彷徨わせ、心配そうに口を開いた。

「そっか、でもアルヴァ相手だと大変じゃない……? 無理に聞かないけど、何かあったら相談してね」

 ぽんぽんと肩を叩かれ、俺は一夜の関係だと伝える機会を完全に失った。どう言い繕おうとも、俺とアルヴァが身体を重ねたのは事実である。

「あ、あぁ……」

 嘘もつけず、取り繕う言葉も持たず、俺はただ黙ることしか選べなかった。俺とメルクが職場に戻ると、同僚たちの視線は魔術機へと戻っていた。

 深く突っつかれることがないのは有り難いが、物分かりが良すぎるのも気味が悪い。

 自分も席に座り、魔術機に手を掛ける。週末まで書いていた魔術式を開いていると、横からカップが差し出された。

 誰だ、と視線を上げると、アルヴァだった。

 いつも通りの彼は、髪も辛うじて括られているが、縛り方は雑なものだ。

「へ? なに?」

「何って……珈琲だが」

「あ、あぁ……。ありがと」

 カップを両手で受け止めると、周囲から生温かい視線が注がれていた。そもそもアルヴァは普段こうやって他人に飲み物を差し入れたりはしない。

 特別に優しくされている、というのは嫌でも伝わった。カップはまだ熱く、側面を握り締めるには危ないくらいの温度だ。

「週末に書いてた魔術式、上手くいきそうか?」

「あ。いや、この風を起こすとこさ……」

 魔術機を指差して教えを請うと、アルヴァは自分のカップを持ち替えて指を伸ばした。魔術機の釦をぽちぽちと迷いなく叩き、式を綴っていく。先程まで悩んでいた箇所が鮮やかに解決されていく様を、食い入るように見入った。

「うっわ天才。そっか、魔術基礎式を継承して新しく手続き化するのが早いんだ」

「他にも案は出せるが、俺はこの方法がいいと思う」

「俺もこれいいと思う。ありがと」

 問題を解決すると、指先はさらりと釦から離れていった。ず、と熱いカップの中身を啜る音がする。

 問題が解決した高揚感から、つい口が滑る。

「貸しひとつな」

「…………じゃあ、今日の昼飯を奢ってくれ」

「おう、任せろ」

 そう返すと、アルヴァは満足そうに笑って離れていった。はた、と返事を間違ったことに気づいたのは、魔術式の続きを書き始めた頃だった。

 気のせいかもしれないが、あれは約束を取り付けられたことに対しての満足げな笑みだった気がする。求婚された上で保留中の相手に、気軽に考えすぎもいいところだった。

 少し冷えた珈琲を口に流し込むと、先日の朝食の場で加えた砂糖と同じ甘さだった。

 アルヴァの手助けもあり、それからの魔術式の構築は恙なく進んだ。昼食の少し前にちょうど区切りのいい場面が訪れ、昼休憩の鐘を合図に席を立つ。

 声を掛けるかどうか迷ったが、あまり意識しすぎるのも違うかと唇を開く。

「調子どう?」

「ああ。もう少しだ」

 魔術式の最後に句点が置かれ、目の前で一つの魔術式ができあがった。ほお、と声を上げると、得意げに口の端が上を向く。

 手ぶらで立ち上がったアルヴァは、俺の背を押して外へ促した。

 これまでは魔力が混ざったら、だとか気にして身体の接触は最低限だったが、もう自分たちの間柄では、それを躊躇うこともないのだ。

 職場を出て少し歩き、周囲に誰もいないことを確認してから、ようやく口を開く。

「なあ。職場のみんなに、お前と魔力が混ざったことばれてたぞ」

「ああ。皆の様子がおかしいから、そうだろうなと思っていた。ディノの魔力が心地いいのか、波が形を覚えきって戻らない」

「俺も。一日もあれば元に戻るかと思ってたんだけど、魔力が変質してそのままだ」

 アルヴァが首を傾げるので、俺も同じ動作で返事をした。

 隣で歩くアルヴァが、手の甲を俺のそれに添わせてくる。自身の魔力が喜んで手を伸ばし、僅かに彼の魔力を吸い取った。

 また、アルヴァの口元が柔らかくなる。彼はこんなに感情豊かだっただろうか。

「手を繋ぎたくなった」

 ただ望むだけ、強制することのない言葉がその場にぽんと置かれた。そして、省みることのないように、早足になった身体が半分だけ前を歩き始める。

 僅かに頬が熱くなった気がしたが、気の所為だと風に流した。

 王宮の門の前には広場があり、その広場には出店のように昼食を売りに人が集まる。パンに焼いた具材を挟んでくれる店の前で、アルヴァが立ち止まった。

「これがいいの?」

「これがいい」

 店主に四つください、と伝えて代金を支払う。

 店主はその場で肉を焼き始め、同じように焼き目のついたパンに挟んで味付けを加える。できあがった品物は紙で包まれ、アルヴァに手渡された。

 俺は礼と共にその場を離れ、同じように飲み物を調達する。

「日差しが強いから、木陰に行くか」

「ああ」

 大木の陰に移動し、芝生の上に座り込む。持っていた飲み物を置き、アルヴァが持っていた包みを半分受け取った。

 躊躇いなく齧り付けば、唇を肉汁が伝う。ぺろりと舐めてから、もごもごと咀嚼した。

「ずっと、ディノとどうやったら結婚できるか考えているんだが」

 咀嚼中に聞いていたら口の中が事故を起こしていたはずで、言葉が欠片を飲み込んだ後で助かったと息を吐く。

 呼吸を整え、はあ、と中途半端な声を漏らした。

「下心を取り繕って伝える以外に、何かできることはあるだろうか?」

「うーん……。俺、結婚したいって思うまでの好意は無いからなぁ……」

 俺の言葉にアルヴァは寂しそうな顔をして、それでも尚、食らいついてくる。

「どうやったら好意が生まれる? ディノはどういう人が好きで、俺には何が足りないんだろうか」

「難しいことばっか聞くじゃん……」

 飲み物を手に取り、喉に流し込む。かつん、と唇に氷が当たって、そこだけがひんやりと冷たかった。

「まず付き合うほど俺ら、一緒に過ごしてないじゃん。俺あまりにもアルヴァが分からない。好きな人は俺、たぶん一緒に過ごして楽な人だから」

 アルヴァと同じように、俺にもまた個人主義的なところがある。友人関係も、その距離感を保てずに遠のくこともあるし、恋人なら尚更だ。

 がらがらと飲み物の容器を揺らし、氷をぶつけて音を立てる。

「アルヴァの足りないとこ……。実験で物壊しすぎて心配になる。あと、率直なのはいいことだけど、俺がまだそれに慣れないからさ。慣れたらいいとこいくんじゃない?」

 彼は俺の言葉を静かに聞いて、しばらく押し黙っていた。視線は俺と絡んだまま動かず、聞き取った言葉たちを咀嚼しているのが伝わる。

 沈黙が気まずくて、ついパンに齧り付いた。

「実験での破損については、対策を考えてみる。ディノが俺に慣れないことに対しては、付き合いを増やしていくしかない気がするが」

「だろう……なあ」

「それについては、付き合ってくれるのか?」

 すこし上擦った声に、彼が押し殺そうとしている緊張が滲み出ている。緊張して、そわそわして、僅かな諦めが入り交じった声は、初めて聞く色をしていた。

 首を傾げてみせると、さっと顔に影が入る。

「うそ。いいよ、友達から始めよ、って事でしょ」

「そうだ。結婚を前提に」

「……前提が重いんだよなあ」

 風が木の葉を揺らし、漏れた光が模様のように淡く広がる。風に合わせてちかちかと光っては消えていくそれを眺めながら、のんびりと会話を交わしながら食事をした。

 二人だけの食事、というものを彼としたことはあまりなかったが、今日のこれは居心地がいい。先日の朝食も皿の上がこざっぱりして面食らったところはあるが、不味く感じることもなかった。

 魔力の相性がいい、とはこういうことなのだろうか。

 やがて包みの中身が無くなり、飲み物を片手に昼休憩の消化に入る。

「……この前さ。俺ら、寝たじゃん」

「ああ」

 アルヴァの答えはあまりにもあっさりと、そして堂々としていて、気恥ずかしがっているのは問うている俺だけだった。

「全く覚えてないから他人事みたいに思えるんだけど、ほんとに最後まで、したの」

「それはもう。というか、粘膜で触れて体液を通じて魔力が行き来しているからこそ、翌日を過ぎても尚魔力が残っているんだろう」

「だよなぁ……。でも、あれからも俺ぜんぜん思い出せなくて……」

 一日経っても記憶は欠片も戻らず、一夜の過ちを覚えているのはアルヴァだけだ。

 身体に残る痕跡は確実に彼と繋がったのだと示しているのに、俺の気持ちが追いつかない。だからこそこうやって彼と平気で話せているのだろうが、夢幻の類とでも言われた方がまだ納得する。

「ディノが覚えていなくとも、俺は君から大切な物を奪ったと思っている。責任を取る、という訳ではないが、俺にとってはあの一夜はそれくらい重い」

「結婚を申し出るほど?」

「思い出したら分かる。俺の魔力は、もう変質して戻らないかもしれない。それほどずっと、あの夜は君の魔力に浸かっていた」

 指先を伸ばして、魔力を流した。

 よく見知ったアルヴァの型に填まらない魔力が、元々持っていた波を乱している。けれど、その波はそれでいて心地いい。今まで知らなかった新しい形、新しいうねり、その波に揺らされていたい、と感じてしまう。

 風に揺れる度に、木漏れ日は生まれては消えていく。

 ある場所が光っては消え、消えていた場所に光が灯る。風が吹かなければ変わらずにいられたのに、けれど、光の瞬きは風がなければ生まれることもない。

 光を受けたアルヴァの長い髪は、あちこちが銀糸のように輝いていた。

「触って」

 掌を開いて、彼に伸ばした。

 二人の身体の間で、その手が迷いなく取られる。ぶわ、と意図を持って流れ込んできた魔力は、強い風に違いなかった。

「……俺も、もう元の魔力に戻れないかもな」

 けらけらと笑って、その言葉に悲観しない自分に驚いた。生まれ持った魔力が変わってしまったとしても、その変化を受け入れるつもりでいる。

 もう少しの間、この男と関わってみたい。

 飲みかけだった飲み物の氷は溶けきって、ずいぶんと味が薄くなってしまっていた。それも変化、と思いたかったが、こればかりは変化前のほうが好ましかった。

 

 

◇3

 アルヴァと関わってみよう、と決めて数日。

 二人の間での会話が増え、食事に誘われれば全部受けた。彼との空気感にも慣れ始め、このままいい関係が築けるかも、と思った矢先だった。

「研修旅行……?」

 今日はアルヴァはいないのか、と目で追っていると、同僚のメルクが近寄ってきて旅行だったよね、と告げたのだった。

 俺はぽかんと口を開き、明らかに知らなかった、と顔に出してしまう。

「あれ。聞いてなかった? 東の大国に技術交流に行くって。数日で帰ってくるとは言ってたけど」

「聞いてなかった。……いや、仕事で聞きたいことあったんだけど。ごめん、ありがと」

 取り繕ってメルクに礼を言い、椅子に躓きつつ自分の席に座る。同僚も知っていたということは、ある程度は根回しをしての旅行だったはずだ。

 けれど、俺は何も聞いてはいなかった。

 東の大国には、アルヴァの親族がいると聞いたことがある。

 うちの国よりも、向こうの方が知り合いも多いのかもしれない。旅行のことすら知らせて貰えない、俺なんかよりもずっと仲がいい相手が、向こうの国にいるのかもしれない。

 つい苛立って、そんな自分に困惑した。魔力を変質させておいて、自分は好きな相手と過ごすのか、と八つ当たりも似た感情を抱く。

 俺が怒りと困惑を行き来していると、横からメルクが菓子の包みを差し出してきた。のし、と背後から肩に手を置き、頭の上に顎を乗せる。

「彼氏が浮気したら、飲みに付き合うね?」

「だから彼氏じゃねえの。飲みじゃなくて飯に行こう」

 二度目の過ちの種は蒔きたくなくて、そう提案した。

 包みを開いて、砂糖の塗された焼き菓子を口に入れる。メルクはことりと小首を傾げ、両側から頬を押してきた。

 触れた場所から、魔力が流れ込んでくることはない。お互いに魔力を制御しており、おそらくだが、アルヴァほどの絶対的な相性の良さが無いのだ。

 メルクは誰とでも気が合うような朗らかな性格で、俺相手でも相性が悪くはならない。それでもアルヴァとの間で起きるような魔力の交換は、メルクとは起き得ないのだった。

 納得がいかない、と美味しい菓子をしかめっ面で咀嚼する。

「驚いた。ディノってやきもち妬くタイプだったんだ」

「妬いてない。連絡なしにいなくなる程度の関係ですよね、ってだけ」

「でもアルヴァって、こう、って決めたら連絡なしに飛びだしてく性格だしさ。大目に見てあげなよ。僕が知ってるのも課長から聞いただけだしね」

 妬かないの、とぎゅうぎゅうと背後から柔らかく抱きしめられるのは、悪い気はしなかった。ただ、俺の中の何かが、メルク以外の体温を欲しがるだけだ。

 魔力はアルヴァがいなければ元に戻るのだろうが、それすらも腹立たしく思えてきた。

「メルクー。俺甘いもん食いたい」

「えーいいよー。お昼に食べにいこ」

 メルクは快く承諾し、ころころと笑いながら自分の席に戻っていった。

 元々、アルヴァよりメルクとの付き合いの方が深かった気がする。それでも、メルクとの間柄は友人を踏み越えない気がした。

 直感というのか、本能というのか。俺は始業の鐘が鳴るまで、魔術機の画面を心ここにあらずのまま見つめていた。

 心が無くとも手は動く。アルヴァがいなくなったことで補佐に入ることもあったが、その日も何事も無く過ぎていった。彼が物を破壊する報告も入らないので、平和なものである。

 窓の外には鳥の鳴き声が響き、それすらも耳に届く余裕があった。

 昼の少し前に仕事に区切りを付け、昼休憩の鐘が鳴ると同時に立ち上がった。メルクも同様で、鞄を持って一緒に職場を出る。

 アルヴァとは違って距離感を保ったまま、やや早足で並んで歩く。

「あのさ。アルヴァに旅行のこと、欠片も聞いてなかったの?」

「本当に何も。てか、まあ。言わなきゃいけないような関係じゃないし」

 メルクの視線がじっとこちらに注がれ、俺は失言を悟った。

「恋人じゃない、って言ってるみたいに聞こえる。けど、ディノって貞操観念しっかりしてるよね。恋愛自体も好きそうじゃないし」

「…………恋人じゃない」

 声を落として、ひそりと告げたそれに、メルクは悲鳴混じりの声を上げた。俺が歩みを早めると、小走りになりながらも付いてくる。

「だって! あんなに魔力が混ざってて、何もしてないってある!?」

「何もしてない訳じゃないの。恋人じゃないだけ」

 俺はアルヴァの家での経緯を掻い摘まんで話した。メルクはとと、と廊下を足の裏で叩きながら、俺の言葉ひとつひとつに声を上げて反応する。

 ちらりと表情を窺うと視線がぐるぐると彷徨っていて、あまりにも動揺しすぎて可哀想に見えた。

「────そういうことで。恋人じゃないけど寝ちゃったみたい」

「ディノさあ。覚えてないとはいえ、自分と寝た相手とよくそんなに普通にしてられるね。ここ数日、すごく仲良かったように見えたよ」

「だって、覚えてないし。仲良かったのは、アルヴァが俺と『結婚したい』って言うから、その検討中だからだし」

「はぁ!?」

「魔力の相性がもの凄くいいんだってさ。俺ら」

 メルクはとうとう歩きながら頭を抱えてしまった。それもそうだよなあ、と他人事のように思う。

 事故で一夜を共にした相手に、翌日になってそれはそれとして、と求婚する男が何処にいるのだろう。

 もうすこしアルヴァが俺を突き放したら、俺はもっと落ち込んでいたのかもしれない。だが、アルヴァがあまりにも押してくる所為で、ぽかんと惚けたまま渦に巻き込まれている感覚だ。

「アルヴァって正気なの? 事故で寝た相手に求婚、普通する?」

「でも、その言葉は昨日までずっと一貫してた。その割に旅行のこと話さずに旅立つから俺もう何がなんだか」

「それは。僕も何がなんだかだなあ……」

 そうだよなあ、と言うと、こくこくと同意が返ってきた。

 メルクと話していて安心したのは、アルヴァのあの性格がやはり規格外だという共通認識が持てたことだ。自分かアルヴァしかいないと、自分がおかしいのかと思えてくる。

 戸惑ってばかりの自分を肯定してもらえて、地に足が着いた気分だった。

 打てば響くように会話を交わしながら店まで歩いていき、さっさと席を決めて食事とケーキを頼む。

 メルクも俺もケーキは二つずつにして、全てを半分ずつ分け合った。

 大食らいになりがちな魔術師が二人集まればこんなもんだ。メルクも小柄な方だが、魔力も強くてよく食べる。

 食事を早々に食べ終えてケーキをつつくメルクは、アルヴァの文句とケーキの感想を行き来する俺に、思い出したように話題を変える。

「アルヴァって魔術の研究のために、割と何でもするじゃない? 髪の色が無くなったのも、大ごとに思えるのに本人は気にしてなさそうだし」

「ああ。今だって綺麗な色だとは思うけど、やっぱ、俺なら思い悩むな」

「それで東の大国にも居られなくなったしね」

 東の大国にある神殿の大神官は、同じく若くして髪の色を失っている。けれど、それは神の加護によるもので、決して魔術の副作用ではない。

 若いながらも自然に反して色を失った彼の存在は、神に対する冒涜。魔術に秀でた彼に、逆恨みのようにそう言う者もいたそうだ。

 それ以外でも外見が衆目を集めがちだったようで、アルヴァはかの国に居づらくなり、魔術の腕を買われて隣国……我が国の宮殿付となった経緯がある。

 ただ、当の本人は魔術の研究さえできればいい、と髪の色を失った理由も平然と教えてくれる。もし魔術の失敗が原因で命を失ったとしても、死に際にけろりと残念だった、とのたまって死にそうだ。

「僕はディノに幸せになってほしい立場だからさ。アルヴァがディノに求婚するの。相性がいい魔力と混ざったらどうなるか、っていう実験目的も含んでるんじゃない、って穿った見方しちゃうわけ」

「いや、俺もそう思うよ」

 何せ、興味があるものしか追い求めない男だ。

 研究に邪魔な欲求が満たされて、相性の良い魔力と混ざることによる研究が進めやすくなり、自分を縛るような相手じゃない。アルヴァにとって俺は目の前に降って湧いたような、おあつらえ向きの相手になるだろう。

 だから取り繕って、恋をさせるくらいの努力をしろ、と言ったのだ。

 口の中は甘ったるく、脳をびしびしと叩いてくる。糖で腹を満たしていくのは心地よく、二人してぽろぽろと言葉が口をついて出た。

「アルヴァにとって、恋って何なんだろうね」

「だよな。俺もさ、恋してみたいんだけどなー」

「アルヴァに?」

「………………それは。できたらいいねえ」

 残っていた最後の一切れをフォークに刺すと、メルクの口から文句が零れた。笑いながら相手の口元に差し出し、お気に入りだったらしいそれを譲る。

 もぐもぐしつつ、にんまりと満足そうなメルクを見ていると、こちらの口元まで綻んだ。

 休憩時間が終わる間際までお茶を片手に居座り、そろそろかと席を立つ。半分、と財布を出しているのを断り、店員に代金を手渡した。

「ありがと。どういう風の吹き回し?」

「アルヴァ以外の意見が聞けてよかったな、と」

「まあ、あの人と一対一で過ごしてたら、自分の価値観、揺らぐよね」

「逆に言えば、アルヴァは絶対的に揺らがない、ってこと。それ自体はいいことなんだけどな」

 つい擁護してしまって、にたにたと笑みを浮かべているメルクの髪を乱す。

 友人は高い笑い声を上げながら、暑い石畳を小走りに駆ける。靴が立てる音は軽快で、軽くなった肩と、重くなった腹を抱えながら帰路に就いた。

 

 

◇4

 今日も無事に仕事から帰り、食事を終えて寛いでいたところだった。

 アルヴァは明日から職場復帰、という日程で、俺はここ最近の波が嘘だったかのように平穏な生活を送っている。もう帰ってこなければいい、という訳ではないが、やはりあの男は嵐だったのだな、と実感した。

 ティーポットに茶を淹れ、魔術で温めつつカップに注ぐ。ぺらり、ぺらりと魔術書を捲り、参考文献を横に並べて魔術を読み解いた。

 東の大国における著名な魔術師……ロア・モーリッツの書いた文献の集まりは、モーリッツ一族に関する魔術を読み解く時の教本だ。しかも公的に出版されることはなく、俺が持っているこれも、親族から譲り受けたアルヴァが持っていた文献の写本である。

 これがある、とない、では彼の一族に関する魔術の理解に差が出る。

 正式に本として纏め、学舎の図書室に置いてくれ、とこの文献の存在を知っている者たちは望み続けているのだが、そもそも存在を知らない者が多い上に、読んだことのない者にはこの価値が分からない。

 アルヴァも天才型であるためか、この文献の価値をあまり理解しておらず、俺が写本を作り終えるまで長く貸してくれた。だが、アルヴァのような一を知って十理解するような人間以外にとって、この文献はお守りのようなものなのだ。

 天才の考えることは分からない。

 この文献を読みながら、俺はアルヴァという人間を理解することの難しさに打ち拉がれた。一の次は二であって、十ではないのだ。ただ、彼の中では有か無しかなく、一の次は十なのかもしれない。

 カップを鼻先に近づけると、甘味のある茶葉のいい匂いがした。

「今んとこ、アルヴァの良いとこ魔力の相性しかないしなぁ……」

 その先に破綻しか見えないような気がして、はあ、と息を吐いた。もうちょっと扱いやすい相手だったら、こんなに悩むこともなかっただろう。

 身体から力が抜けた瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。顔を上げ、そろりと立ち上がって玄関に近付く。

「夜分遅くにすまない。少し渡したい物があって」

 扉の奥から聞こえたのは、アルヴァの声だった。

 慌てて扉に近寄り、鍵を開ける。扉を開いた先にいたのは、息を白くする彼の姿だった。縛っている髪もあちこちが跳ねていて、朝から一度も縛り直す余裕がなかったことが分かる。

 驚きすぎて、慌ててぎこちなく笑みを作った。

「いらっしゃい。えっと、外寒いしちょっと暖まってく?」

「あ……あぁ、じゃあ少しお邪魔させてもらう」

 アルヴァの手には小さな袋が提げられており、その中には箱が入っているのが見えた。ソファに座らせ、ティーポットの茶を淹れ直す。

 新しいカップに茶を注ぎ入れて渡すと、アルヴァは両手で受け取って指先を暖めていた。昼間は日差しで暖かいが、夜に出歩くのは少し肌寒い。

 そんな気候の中、わざわざ俺の家を訪ねてくれたのを意外に思いつつ、隣に腰掛けた。

「旅行だったんだっけ。お土産とか?」

 言葉に悩んでいる様子のアルヴァに、そう差し向ける。

「ああ。結界術について尋ねたいことがあって、研修にな。これ、お土産だ」

「うぁ……、ありがと」

 声が上擦ってしまい、慌てて声音を整えた。差し出された手提げを両手で受け取り、慎重に中身の箱を取り出す。

 包装紙を丁寧に剥がして箱を開けると、中には花の形をした硝子のブローチが入っていた。ブローチの花は薄紅色をした丁寧な造りだったのだが、台座の部分に見知った魔力を感じる。

 つい裏返して台座を見ると、細かく円形の魔術式が彫り込まれていた。持ち主を過度の衝撃から護るための術のようで、彼が口にした結界術の一種だ。

 魔術式を読み込み始めた俺の前で、軽やかな笑い声がする。

「聞いてくれたら教えるのにな……。強い衝撃が起きたときに、自動的に保護するように魔術が展開される式だ」

「いま読み解いてたのにー」

「悪かった」

 想像通り結界術の一種だったようで、有り難く受け取った。

 アルヴァの魔力で彫り込まれた式は、まだアルヴァのかたちを覚えている俺の魔力と感応して効力を強める。

 薄紅の花は、東の大国で有名な国花だったはずだ。

 可愛らしい造形を身に付けるのに照れはあるが、東の大国の関係者から贈られたのだとしたら名誉なことでもある。この花に纏わるものを贈るのは、心の美しさを褒め称える目的があるからだ。

 寝間着の胸元に取り付けて、服の裾を引っ張る。

「なあ、似合う?」

「あぁ。君はもう少し、鮮やかな色を身に纏ってもいいと思っていた」

 濃紺の髪も、灰色の瞳も、どちらも色味としては落ち着いた色だ。確かに薄紅くらい、はっきりした色が胸元にあれば映える。

「明日、職場で渡してくれてもよかったのに」

「職場には別に菓子箱を買ってある。……それに、君がどういう反応をするのか知りたくて」

「……あ。面白い反応じゃなかったな」

「いや、喜んでくれて嬉しかった」

 少し冷えたカップから飲み物を口に含む姿を見守り、体裁だけでも取り繕え、と言った意味があったのかと驚いた。

 旅行に黙って行ったことは減点だが、お土産の選び方も、その上で魔術を仕込んだことも及第点を超えて釣りが出る。

 他人に興味がない男だと思っていたが、頭がいいからだろうか、付き合いが下手な印象が薄れてきていた。

「でも、なんで急に結界術を? あんまり興味がある種類の術じゃないだろ」

「それは……ディノが実験で物を壊すのが心配だ、と言ったから。強い結界で保護した上で実験を行えば、少しは見直して貰えるかと……」

 申し訳なさそうに言う姿はしゅんとして見えて、怒られた時の子どものようだった。彼なりに改善しようとしている姿勢は微笑ましい。

 つい笑いが込み上げて、隠す間もなく口元が緩んだ。

「それ自体はいいんだけど、連絡なしに旅立たれて寂しかったかな」

 当てつけのように本心を口に出すと、目の前の表情が途端に慌てたものになる。あぁ、と悲壮感の混じる声が漏れ、口元を押さえる姿があった。

「君のために、遠出してまで術を学びに行く、というのを言い出しづらくて……」

「俺、メルクに知らなかったの? って言われちゃってさ。求婚までされてるのに、その割に旅行することすら教えてもらえない関係なんだーって」

「…………それは、すまなかった」

 完全にしょんぼりと肩を落としてしまった様子が、なんだか可愛らしく思える。この一件は、お互いに空回ってしまっていたようだ。

 ただ、次に黙ってアルヴァに旅立たれても、俺は帰ってくるまで動揺せずに待てるだろう。軽んじられていなかった、その安堵が胸を暖めた。

「まあ、俺の言葉を真に受けて改善しようとしてくれたのも、お土産も嬉しかったから。もういいよ」

「許しを貰えるか?」

「うん。もともと拗ねただけで怒ってないし」

 視線を上げると、ほっとしたように垂れた目元が視界に入った。

 ふわりと肩に腕が掛かり、そのまま引き寄せられる。突き飛ばさず、大人しくその胸に納まった。

 服越しに触れる指先からは、魔力が混ざりきれずにもどかしい。懐かしい微かな波が、指に伝わってくるくらいだ。

「もう、君から俺の波が僅かしか感じられなくなってしまった」

「そりゃ、あれだけ長く旅行してたらな」

 普段通りに会話しようとしても、舌がもたついて焦ってしまう。

「魔力を混ぜたい」

 少し離れると、アルヴァは掌を服越しの俺の胸に当てた。脈打っている音は伝わってしまうと分かっていながら、引かれるようにその掌に指を重ねる。

「…………っ、あ」

 触れた瞬間、それを待ち望んでいたかのように魔力が彼を向いた。境界は容易く崩れ、別の魔力の侵入を許す。

 全く別種の魔力であるはずなのに、元々そうであったと言わんばかりに求め合い、混ざり合う。

 鼓動が高く鳴り、快楽にも似た心地よさがびりびりと皮膚を引っ掻いた。

「……ほんと、相性いいんだな。俺ら」

「ああ。落ち着かなかったところがすっかり消えてしまった」

 重ねた手を離すと、ぎゅう、とまた両腕で抱き付かれた。

 頬を擦り寄せ、じわりと彼の魔力に浸る。動物の匂い付けにも似た仕草に身を捩るが、少しある体格差と力の強さで敵わない。

 アルヴァの方が魔力を使い尽くしていたのか、俺の魔力がそれを埋めるように相手に流れ込んでいった。

「魔力、吸い取られてるんだけど……!」

「もう寝るだけなんだし、少しくらい許してくれ」

 押しつけのようにアルヴァの魔力が流れ込んでくるが、快楽に近い感覚が同時に訪れる所為でむずむずとして戸惑う。

 上機嫌になったアルヴァは、いいことを思い付いた、というように明るい声を上げた。

「一緒に寝たら、もっと落ち着くんじゃないだろうか」

「……勘弁してくれ」

 ベッドへの誘いではなく、単純にくっついて寝れば魔力がもっと混ざる、という提案だったが、この逃げ場のない感覚が続くなんて耐えられなかった。

 腕の中で首を振るが、腕は離れず、擦り寄る肌からは魔力が途切れない。

「なあ、ディノ」

 彼らしくない甘えた声も、上機嫌な表情も目新しく、それらが心を許した相手にしか見せないものだと分かってしまう。

 ばくばくと跳ね回る、胸の音が煩い。

「泊めてくれないか?」

「断る」

 何度もそう言い続けてアルヴァはようやく帰って行ったが、それから先も家に招く度に泊まりたがるし、自分の家に招いて帰したがらなくなる。

 一緒に過ごす時間が増えればもっと魔力が混ざる、と気づいたらしい彼が更に付き合いを増やそうとするのは当然の成り行きで、しばらく経つと彼と付き合っていないことを確認してはメルクが妙な顔をするようになった。

 

 

◇5

 アルヴァの魔術研究による破壊がなくなった。

 王宮付の魔術師たちの間ではそれは刺激的な噂のようで、口から口に波となって伝わっていく。その噂には彼に恋人ができた、という情報が付随し、『恋人ができたから落ち着いたのか』というのが専らの談である。

 メルクが噂を聞く度に俺に伝えてくるのを、むずむずした表情をしながら聞く日々だ。

 課長と二人で仕事をした時にも、アルヴァが強い結界を張った上で実験をしている話になった。

 実験の内容が決まる度に、その実験に耐えうる強度の結界を張れるように術式の改良をしている。俺がそう話すと、課長が実は、とアルヴァをもっと上の役職に就かせたいのだとを話してくれた。

 東の大国との仲は良好で、魔術の練度が高い大国との技術交流が起きうる人材を上にあげたい、という希望が国家としてもあるらしい。

 アルヴァはその点でうってつけの人材なのだが、なにぶん物を壊しすぎていた。その度に反省のない反省文、では評価しようにも難しい。

 魔術の実力は王宮で最上位。歯に衣着せぬ物言いはするが彼に嘘はなく、俺以外への面倒見も悪くない。

 課長も恋人ができたことを切っ掛けに器物破損を改善しようとしているなら喜ばしく、やんわりと俺と上手くいってほしい、というようなことを言われた。

 はあ、と歯切れの悪い返事をしたが、そもそもまだアルヴァとは付き合っていないのだ。上手くいくも何も、まだ始まってすらいない。

 何を以て恋人と言えば良いのか計りかねている、というのが現状だった。

「ディノ。実験をするから結界を頼む」

「おう。術式どれ?」

「これだ」

 ぺらり、と紙一枚を手渡され、それを読み込む。

 先日に張った結界よりも、瞬間的な衝撃に対する強度が上がっているようだった。

 アルヴァと付き合いを続ける中で、昔から東の大国の魔術式を大量に読まされている俺は、趣味の範囲でもかなりの雑多な式を読んでいる。

 発動さえできれば安定した魔術を構成できる性質と、読み込みの速さを知られた結果、実験の度に呼びつけられては結界を張らされていた。

「大丈夫、いける。今からやんの?」

「今からだ」

 実験室に連れ立って向かうことにして、二人揃って廊下を歩く。

 結界の修正箇所の話を振ると、流暢に答えが返ってきた。最近ではずっと結界の話をしている所為で、やたらと少数派なはずの結界術に詳しくなってしまっている。

「ディノもあちらの魔術式構築課に一緒に行かないか? 結界術を極めている魔術師があちらにいてな。君が改良に加わってくれたら、どんな実験でも窓が吹き飛ばずに済む」

「あー……、あの魔術書に名前がよく出てくる人な。行くのはいいけど、俺、飲み込みには時間かかるぞ」

「その割に、俺が渡した魔術式の飲み込みは早い気がするが」

「お前、癖のある例の一族由来の式、理解できるからって容赦なく使うだろ。アルヴァと仕事したての頃、話してる内容が分からなすぎてこっそり勉強したんだよ」

 普通の魔術式を習得する速度は平均より遅い。そう言い切り、あんまり期待してくれるなと言外に告げる。

 アルヴァはよく分からない、といったように首を傾げた。

「君が言う『理解』は俺が言う『理解』と同じだ。凡庸な魔術師が言う理解とは違う。君の『理解』の速度は、俺が仕事をする上ではじゅうぶん速い」

「…………ふぅん。あんたと付き合うようになると、褒められてるのが言葉じゃなく表情で分かるんだな」

「言葉では通じなかったか?」

「うん。全然」

 けれど、言っているアルヴァの口元がゆるゆるなので、きっと褒めているのだろうと表情が伝染った。彼のような変人と親交を深める、というのはこういうことなのだ。

 実験室に入り、渡された術式を展開する。

「我が護るべき者とを隔てる、四隅は全ての矛を許さず。力は鏡映しに内にのみ向けられるべし。この境を超える術は我ら以外になく。許しを与える者が現るまでその場にあるように」

 結界が展開され、じゃ、と腕を上げてその場を去ろうとする。その手が空中で捕らわれた。

 アルヴァは身を寄せ、首元に擦り寄ってくる。

「今日、家に行ってもいいか?」

「ん。食事、用意してあげよっか?」

「有難い。甘いものでも買っていく」

 魔力を混ぜたいがために触れ合いを求められるのだと分かっても、触れる場所から心臓の鼓動が高まる。

 自然に振る舞っているように見えて、内心でじたばたしている様は、魔力経由で伝わってしまうのだろうか。背をぽんぽんと叩いて、身を離した。

「幸運を」

「ああ。きっと成功する」

 実験室を出て、両手に顔を埋める。

 頼られれば応えてしまうし、懐に入ってくる彼を拒めない。延々と魔術の話ばかりしていても途切れることはないし、家でのアルヴァは仕事場よりも大人しいのだ。

 その上で、二人で過ごすことに慣れ始めると、差し入れをしてみたり家事を担うようになった。お泊まりの希望に対しても、そろそろ受け入れても構わないか、と気持ちが傾きかけている。

 熱い頬を冷まして、その場から離れるべく脚を動かす。

 早足で職場に戻ると、にたにたと意味ありげな表情をしているメルクが待っていた。

「ディノって結界術が得意なの? それとも二人っきりになる建前?」

「アルヴァは壊すのは得意だけど、精密に、正確にってのは苦手なんだってさ。結界術は守りたいって意志を元に魔力を均すほうが安定するから、あいつの性格的にも向いてないだろ」

「あー。豊富な知識と大量の魔力で押し切るの、得意だもんねえ。今まで色々なものを壊して平然としてたから、破壊向きなのは分かるかも」

 結界術の式を見せて、と手を差し出され、机の上に置きっぱなしだった紙を手渡す。メルクは楽しそうに紙を見下ろすが、少し読んだところで、うわ、と口に出す。

「これ、あの本ばっか読んでる珍妙な一族由来の式じゃない? 僕これ苦手」

「結界術で有名なフナト・イブヤが作った式が元だけど、イブヤがいる課の次長がモーリッツ一族の当主筋だな」

 納得、というようにメルクは眉を上げ、紙に視線を戻した。苦手、と言いながらも読み込む気はあるらしい。

 説明しろ、とばかりに裾を引かれ、アルヴァの式の癖についても説明させられる羽目になった。癖がある式に、まあまあ癖があるアルヴァの改良が加わっている所為で、メルクにとっては難解なものになっているらしい。

 説明を聞いてようやく術式の理解ができたようで、ぱっと顔を輝かせた。

「ありがと、分かった!」

「そりゃ良かった」

 すると他の課員もわらわらと集まってきて、式の解説を求められる。

 白紙を取り出し、術式の癖にあたる部分を中心に説明を加えた。課員の大多数はしばらく読み込んで理解できたようで、まだ首を傾げている者に説明をし始める。

 同僚の一人が、ぽつりと呟いた。

「正門の結界、張り直した方がいいかなあ……」

 正門の結界を思い出したが、ずいぶん古めかしい式だったはずだ。そうやって考えると、芋づる式に直したい結界が浮かんでくる。

「正門だけじゃないな。古い魔術式の結界を洗い出して、アルヴァにも意見を聞きながら張り直すのは有りな気がする」

 俺がそう言うと、メルクも同意する。

「ね。せっかく新しい技術を使った結界式を理解できたんだし、アルヴァにこの前の旅行での研修内容、講義してもらっちゃおっか? それで、王宮の古い結界の張り直し。ついでに同じ位置に便利そうな魔術も仕込んじゃおうよ」

 その言葉を引き金に結界の案だとか、一緒に仕込みたい生活用の魔術案だとかが、てんでばらばらに案出しされる。俺は同僚たちを宥め、後日に打ち合わせの場を設けることにした。

 アルヴァの講義、そして打ち合わせもいっぺんに行ってしまえばいい。

「結界だけでもこれだけ違うって事は、僕ら、もうちょっと積極的にあちらと交流した方がいいかもね」

「だな。何か研修の機会があったら人数ねじ込もう」

 メルクと意見を合わせ、実験を終えて戻ってきたアルヴァに結界術の講義を頼むと、望むところだ、と快諾してくれた。

 個別に尋ねられれば快く答えるアルヴァだが、説明がいっぺんに済むならそれに越したことはない、という思いはあったようだ。王宮の結界の張り直しについても、目を見開きながら、確かに張り直した方がいい、と同意する。

 その時、ふ、と表情が柔らかくなり、声音が二人の時と同じような抜けたものになった。

「俺は、学ぶのは得意だと自負しているが、活かすことには苦手意識がある。結界術だって、自分の実験の為だけでなく王宮の為にも、と柔軟に考えることも出来たはずなのに、俺にはできなかった。だから、こうやって魔術を活かす機会を得られるのを嬉しく思う」

 俺とメルクはぽかんと顔を見合わせ、そして、二人で両側から彼の腕を優しく叩いた。

「うちの課はアルヴァ一人だけじゃないだろ。技術を取ってきて広げてくれる人がいたら、誰かが活かし方は拾えるからさ」

「そうだよ。組織って、一人じゃないの」

 メルクはそれでさ、と先ほどの術式についてアルヴァに説明を求めに行き、課員の数人にも同じように捕まっていた。

 その様子はこれまでよりも随分と気安いものだ。魔術において自分の数歩先を行くアルヴァの苦手意識の吐露は、親近感という感情を呼び起こしたらしい。

 その場から離れて魔術機に向き直り、課長の言葉を思い出す。アルヴァにもっと上の役職をやりたい、その希望は思ったよりも早く叶うかもしれない。

 

 

◇6

 結界についての盛り上がりはともかく、その日も仕事は途切れることなく続く。終業際に始まった案件は急いだものの修理に手間取り、課に戻ったときにはアルヴァ以外の誰もいなかった。

「アルヴァ、みんな帰ったの?」

「……ああ。課長が伸びた時間を記録しておいてくれ、と言っていた」

「はーい」

 結界の改善の余波で皆が浮き足立ち、火が点いた結果、終業の鐘と共に早々と帰って行ったらしい。帰ってすぐ魔術書が読みたい、つい帰宅が早足になる理由が伝わってくるようだ。

 仕事道具を仕舞って規定の場所に時間を書き入れ、アルヴァを振り返る。

「アルヴァもまだ仕事?」

「いや。もう切り上げる」

 そう言った割には、すぐに魔術機を消してしまった。時間を記録する箇所には、終業の時間が既に書き入れてある。

 帰り支度をしているアルヴァに近寄って、顔を見上げた。

「今日、うち来ない?」

「いいのか?」

「うん。明日休みだしさ、飲もうよ」

 泊まってもいいよ、と言えるように予防線を張った。控えめに飲んで、酔って口を滑らせた体で頷くことならできるはずだ。

 急いで鞄に持ち帰る荷物を詰め、待っているアルヴァの元に駆けていく。職場の扉に結界を張り、魔術的な鍵を掛けた。

 二人で並んで王宮を抜け、門番に挨拶をして帰路に就く。

 帰り道の中で飲み屋が多い道を通り、近くにある酒屋で酒とつまみを仕入れた。食事は簡単なものを用意することにして、そのまま帰り道に戻る。

 俺の家の方が遠いが、だらだらと酒の話をしながら歩いているとすぐに家に着いた。鍵を開け、暗い部屋の照明を灯す。

「ただいま」

 冗談のような響きを持った言葉が聞こえたが、響きは悪くなかった。笑った口の形が分かる声音で、言葉を返す。

「おかえり」

 堪えきれなくなってけらけらと笑いながら台所に入り、夕食の準備に取りかかった。アルヴァも近付いてきたので、手を洗わせて野菜の皮むきを押し付けた。

 彼は文句も言わず、作業に取りかかる。最終的には綺麗にできあがるのだが、両手を使ってばりばりと皮を大胆に剥いていく。

 アルヴァの手伝いもあってすぐに料理はできあがり、つまみと酒と共にテーブルに並べた。彼が訪れるようになって増やした椅子に腰掛け、グラスを持ち上げる。

「乾杯」

 お互いに好きな酒を入れたグラスを打ち鳴らし、口に含む。できあがった料理を皿に取り分けると、アルヴァは大口で食べ始めた。

 テーブルの上には隙間なく色とりどりの皿が並んでおり、用意しすぎたかと思っていたが、流石に大量の魔力を持つだけあって彼も大食らいだ。実験もあった所為か、酒もほどほどに食事ばかりが口に消えていく。

「見ていて気持ちいい食べっぷりだなぁ」

「そうか? 自分で作ると見映えは気にしないから、こうやって鮮やかな盛り付けの食事が美味しそうに見えてしまって」

 鮮やか、と彼は言うが、ソースの色味を気にしてみたりとか、乾燥させた香草をちぎって載せたりだとか、ちょっと付け合わせの野菜を切って盛っているだけだ。

 確かにアルヴァの作る朝食はこざっぱりしている。栄養を取ることが彼の食事の目的であることが伝わってくる皿だ。

 俺はゆったりと食事を進め、持ち上げたグラスの酒を明かりに透かす。

「はは。そりゃありがとう。鮮やかに盛り付けるよう気にしてるっていうより、自分がなんでこの色の組み合わせを綺麗に思うんだろ、って試行錯誤しちゃうだけなんだけどな」

「なんで、綺麗だと思う、か……」

 俺の言葉を反復し、アルヴァは皿の上にじっと見入った。素直に考えているらしい彼の様子が面白く、黙って酒のつまみにした。

 流石に料理が冷えると思ったのか、諦めてまた食べ始めたが、それでも何か考えているようである。

「……色の組み合わせもそうなんだろうが。俺は、ディノが熱心に作っていたから、綺麗なものがもっと輝いて見えたし、口に入れるのが勿体なく思えてくる」

「一遍とんでもない食事を作ってやろうか?」

「俺はどこまで美味しいといえるんだろうな」

 作らないよ、と冗談を訂正するが、アルヴァは逆に試してほしいようでもあった。二人して食べていると食事の皿はあらかた片付き、つまみを片手に酒を嗜む。

 つい魔術の話になってしまうと、居間から魔術書をテーブルに積み上げ、酒と話だけで時間が面白いように進む。酔っている筈なのに、反射のようにアルヴァの口は流暢に魔術を語った。

 それでも、頭の働きがにぶいのか、ちょくちょく細かな式を忘れては首を傾げている。

「アルヴァは、飲んでもあんまり変わらないなぁ」

 そこそこ飲んでるはずなのに顔色に変化はなく、眺めていても酔っているのか分からない。へらり、と笑いながら言うと、アルヴァは意外そうに声を漏らした。

「そうか? 自分ではずいぶん酔っていると思うんだが」

「んー。分かんないや」

 つまみの皿を差し出すと、指先で摘まんで大人しく口に運ぶ。魔術の話ができなくなるくらい頭に酔いが回り始めると、俺はつまみの好き嫌いだけを話すようになった。

 とりとめのない、明日になれば忘れているような話にも、アルヴァは真面目に相槌を打つ。酔ってもその面倒見の良さに変化はないようだった。

 境界を越えたのは、かなり酒が進んだ頃だった。

 俺はくたりとテーブルに頬を付け、もういらない、と中身が残ったグラスをアルヴァに押しやる。アルヴァはグラスを持ち上げ、喉に流し込んだ。

 グラスがテーブルに置かれると、彼が立ち上がった音がした。頬と木肌の間に掌が差し込まれ、肩を抱かれて身体を起こされる。

「風呂に入りたいか?」

「…………んー。歯だけ磨く」

 そう言うとアルヴァは俺を支えたまま洗面台に向かった。彼も歯を磨きたいだろう、と棚から新品の歯刷子を差し出すと、礼と共に受け取って隣で磨き始めた。

 口をすすぎ、ついでに顔も洗って一息つく。その瞬間、頭がぐらりと傾いだ。今日は風呂は止めておいた方が良さそうだ。

「アルヴァ……風呂に入りたいなら沸かそうか?」

「いや。俺もそこそこ飲んだから、明日になったら入るつもりだ」

「そか。じゃベッド行こ」

 俺の言葉に、アルヴァは目を見開く。酒でも染まらなかった肌が染まったように見えて、ぱちぱちと瞬きをした。

 彼はいちど目を閉じると、やれやれ、と言いたげに俺の肩を抱く。

「そんなこと言っていると、また事故を起こすぞ」

「また……?」

 首を傾げるついでにもたれ掛かりつつ見上げると、ふい、とアルヴァに顔を逸らされた。覗き込むように身体を傾けるが、抱き寄せられて寝室に誘導される。

 部屋に入ると俺をベッドに座らせ、換気をしに窓辺に歩いていった。窓から入る風は冷たく、部屋の空気が入れ替わるとアルヴァは窓を閉めてしまう。

 俺は戸棚に近付き、寝間着を持ち上げた。ローブを脱ぎ、シャツの釦を外そうと手を掛ける。だが、力の入らない指はもつれ、ゆったりと指先が絡まった。

 部屋の中央で立ち尽くすアルヴァに声を掛ける。

「なあ。脱がせ……」

 がた、と酔いのためか、アルヴァが脚を縺れさせて床で音を立てた。俺が寝間着に着替えたいんだと服を振ると、慌てて近寄ってくる。

 釦が、と言うと、俺よりも正確に動く指が釦を外してくれて、シャツを脱ぐのも手伝ってくれた。ついでに腕を上げてみると、寝間着の袖を通してくれる。流石に下は自分で履いたが、寝る体勢は整った。

 アルヴァの服を見た俺は戸棚によろよろと近づき、彼でも着られそうな古い服を取り出す。はい、と手渡すと、きょとんとした視線が服に落ちた。

「服、皺になるから着替えたら?」

「………………いや、その」

「もう。俺ねむいから、早く着替えて」

「わ、分かった」

 アルヴァはローブを脱ぎ、俺が脱ぎ捨てた服と共に畳んで置くと、渡した服に着替えた。結い紐を解いた髪が肩を滑って広がる。手足の長さが違う所為で裾が足りていないが、寝るのには十分だろう。

 俺は満足して頷き、まだ戸惑っているアルヴァの腕を引いて布団に入った。二人で入った布団は徐々に暖かくなっていく。

 布団の中で相手の腕に触れると、見知った魔力との境界が崩れる。

「ディノ、魔力が……」

「へへ。混ざっちゃうなあ」

 魔力が混ざること自体は心地よかったが、どこか物足りない。本能に、もっと深く混ざった時の記憶が刻みつけられているようだった。

 口元に甘ったるい蜜でも垂らされたかのように唾液が溢れ、ごくり、と飲み込んだ。

 皮膚を触れ合わせてこれだけ心地いいのなら、粘膜同士が触れたあの夜は、どれだけ濃密に混ざったんだろう。

 その胸に潜り込んで、首筋に擦り寄った。少しだけでも触れる場所を増やせるように、皮膚を重ねた。

 訪れる眠気と共に、物足りなさが胸を掻く。

 そっと背に回る腕が、服の上から優しく重なるのに苛立った。この腕が服を剥いでくれなければ、身体を重ねることはできない。

「……………………」

 あれから、一度も抱こうとしてくれない。一度もキスしてくれない。最近は、結婚しよう、とも言わなくなった。

 過ちを犯した一夜が熱だったのなら、その熱はいずれ冷める。彼が興味を失ったなら、俺はどうやって引き留めればいいのだ。

 まだ俺のことを抱きたいか、なんて聞けるはずもなく、自棄になって眠気に身を委ねた。

 

 

◇7

 一度お泊まりを許したら、帰るのが面倒になると互いの家に泊まるようになった。俺の家には少し裾の長い寝間着が増え、彼が泊まりに来るとそれを渡す。

 そうやって過ごしていれば一度の間違いくらい起こりそうなものだが、数度泊まってもアルヴァは俺に手を出してきたりはしなかった。

 酔った、と服を着せてもらったりしたが、ついでに触れようともしてこない。彼と過ごす時間は重なるごとに過ごしやすくなっていくが、俺の気持ちが重くなるのに対して、アルヴァには少し距離を置かれている気がするのだ。

 結界の改修については、希望者を集めて研修に行ったアルヴァからの説明があり、全員で改修箇所を挙げた。

 話し合いで警備的に重要な場所の術式が決まり、俺と魔力の多いメルクが手分けをして王宮に結界を張りに散っている。術式の取り纏めはアルヴァがしているため、結界を張る時には彼が必ず同席していた。

 そうなると、自然とアルヴァとメルクの会話が増えてくる。

「あ、ねえアルヴァ。明日張る結界についてなんだけど、今いい?」

「ああ、何だ?」

 今日も気軽にメルクがアルヴァに声を掛け、彼もそれを受けている。

 二人はいつも気兼ねなく会話をしており、時おりアルヴァの口元に笑みが浮かんでいるのも見掛けた。

 俺と過ごしてくれるのは嬉しいが、たまに上の空になるし、その割にはメルクと楽しそうにしている。始まってすらいないのにもう駄目かも、と溜め息をつきたくもなるのだ。

 身体を重ねてみないか、と誘って、きっぱり断られたら諦めもつくだろうか。妙な考えが浮かんでは、同僚という関係性が押し留めた。

 メルクと話を終えたアルヴァは、そのまま俺の元に近寄ってくる。

「ディノ、そろそろ結界を張り直しに行くか」

「行く。ちょっと待って」

 アルヴァの声にはっと我に返る。荷物を鞄に詰め、展開する術式を書いた紙を持ち上げた。

 魔術だけは失敗したくないのだが、最近は気持ちがとっちらかっている所為か、メルクと結界の失敗数が変わらないくらいにまで落ちている。メルクが結界を張る人員に選ばれたのは魔力が大きい為で、失敗しても張り直せる、ことを期待されてのことだ。

 それなのに魔力も少なく、張り直せる回数の少ない俺がメルクと同じだけ失敗しているのだから、アルヴァにも気にされているようだった。

 今回の張り直す箇所は、王宮の中枢と大廊下を繋ぐ扉の結界だ。

 着くなりアルヴァが既存の結界を手際良く解除していく。その背を見守りながら、今から展開する術式を読み込んだ。

 術式は魔力を込め、扉に埋め込むことになっている。結界が解かれた扉の前に立ち、指先に魔力を灯して慎重に書き付ける。

 魔術だけに専念しようと無理に頭を埋めたが、背後にアルヴァがいる為にそれも叶わない。指先の魔力がぶれ、ばちん、と術式に跳ね返された。

「…………っ、痛! ……あ……。ごめん」

 書き込んでいた術式が途切れる。跳ね返された指先が痺れ、庇うように握り込む。駆け寄ってきたアルヴァは、握った拳を両手で掴んだ。

「大丈夫か!?」

 触れた部分から、魔力が伝うのを感じる。

 嫌な感じはせず、彼が自分の身体のように俺の身体を魔術で探れているのを意外に思った。自分の身体と違って、他人の身体を魔術的に探る行為は医療魔術の範疇で、専門外のはずだ。

「……皮膚の下に傷は付いてはいないようだから、少し様子をみるか」

「なんで、俺の身体への探知魔術、上手くいくの?」

 茫然と尋ねた俺の言葉に、アルヴァが苦い顔になった。眉を顰め、その反応はなんだと顔を覗き込む。

 うう、と濁った声を漏らす彼を促すと、ようやく答えが返ってきた。

「君を、……抱いた時に、怪我をしないように色々と魔術を使って……。どうやら、俺は君相手なら、治癒魔術のようなことも出来るらしい」

「え……っと、そうなんだ……」

 確かに初めてのことをした割に、怪我はなかった。魔術的な補助までしてもらっていたのは初耳だが、今回のことといい、手間を掛けたのだなと肩を落とす。

 失敗して魔力も減ってしまっているし、指先の痺れで正確に結界が張り直せる自信もない。

 指を摘まんで動かしてみたが、痺れた感覚は消えなかった。

「アルヴァ。指先が治るまで、待ってもらえるか?」

「ああ、いや。今日の予定ならメルクに張り直してもらって、他を調整する。彼を呼んできてくれ」

「……ああ。分かった」

 当然なはずの選択に失望した。一度だけこっそりと唇を噛むと、逃げるように足早にその場を去り、職場に戻ってメルクを呼ぶ。

 彼は俺が魔術を失敗したことに眉を動かすが、結界の張り直しにはすぐ付き合ってくれることになった。

 二人で並んで廊下を歩いている間、つい俺が早足になってしまって、メルクに文句を言われた。ローブの裾を引かれ、端のほうで立ち止まる。

 気遣いのない俺に怒っているのかと、慌てて謝罪の言葉を口にした。

「ごめん。失敗したから、早く張り直ししなきゃって……」

「アルヴァが守っているんなら、一日だって結界なしでも大丈夫。それよりさ、ディノ。魔術の調子悪いよね? 自覚ある?」

「……それは。勿論ある」

 しゅんと項垂れると、背伸びしたメルクがわしわしと頭を撫でた。怒ってないよ、と言う声音は優しくて、更に頭が下がった。

 アルヴァが手を出さないことに焦っているのも、メルクとの仲を妬いているのも、ただ俺がひとりでから回っているだけだ。

「ディノの魔術がいつもは安定しているのは、心理的に落ち着いているからだよ。自分の有り様を落ち着けさせるのが上手いの。魔術に躓いたら必死で勉強するし、アルヴァがどれだけ出来る人だって、嫉妬しないで素直に尋ねられる」

 自分よりも小さな肩に顔を預けて、力不足に項垂れる。支える腕はちいさいけれど力強くて、話しながらずっと撫でてくれた。

「でも、恋ってどんな人だって揺れるんだよね。そりゃ、そんな中でも知識を使って上手く魔術を使える人はいるけどさ。ディノは違うよね。魔術を織る技術の根底が心に由来しているから、心が揺れたらぜんぜん上手くいかなくなっちゃう」

 そうかも、とがさがさの声で小さく同意した。メルクはそれを知っていて、心の方を落ち着かせようとしてくれている。

 彼に嫉妬していた自分が恥ずかしくて、消え入りたくなった。

 それでも、言葉に出さなければこのまま駄目になってしまう気がして、必死で口を開く。

「……アルヴァ、を、恋人にしたい、と。俺、思ってると思うんだけど」

「あはは、変な言葉。……つづけて?」

「でも、最近あんまり触ってくれなくなったから。あ、飽きられたかなって」

「別に、飽きられてないでしょ」

 目尻に涙が浮かんでしまうのを、メルクは裾を伸ばして拭ってくれる。視線が合う度に笑ってくれるのが心強かった。

 でも、とぐずぐずと最近のことを話すと、メルクは納得したように声を上げた。俺には見えていないものが、彼には見えているようだ。

「そもそも一晩寝たとして、ちゃんと付き合いたい、って言いながら次からもすぐベッドに誘ってくる男。ディノは信用しないでしょ」

「それは、嫌かも……」

「いま距離をはかってるのは、アルヴァなりの気遣いだよ。距離詰めたいんならはっきり言って、自分から詰めな。じれったいことばっかしてるんだから」

 優しく涙が拭われ、赤みが落ち着くとメルクは俺の背を押して結界の場所まで案内させた。

 道中で術式の説明をして、場所が近付いてくるとメルクから職場に追い返される。

「仕事あるから帰らせたって言っておくから。目元、見せたくないでしょ」

「ありが……とう」

 手を振って別れ、時間を掛けて職場に戻った。

 それでもまだ目元は熱をもっており、職場に入るなり目ざとく見つけたらしい課長に、喉が渇いた、と給湯室に誘われた。時間を掛けて珈琲を淹れさせられ、その場で立ったまま二人で飲んだ。

 結界に失敗しちゃって、と誤魔化すと、失敗しすぎて慣れるほど試行するように、と知ってか知らずか助言を受けた。課長は魔術の事を言ったのだろうが、確かに気持ちを伝えて失敗するくらい、話をしなければ恋愛関係なんて作れない。

 目の腫れが元に戻って課長と職場に帰ると、無事に結界を張り終えた二人から報告を受けた。

「ディノ。ついでに今日のぶん、全部終わらせてきたよ!」

「メルクは失敗はあるが、魔力が多いのは羨ましいな」

「褒めるのか貶すのかどっちかにして」

「……魔力が多くて羨ましいな」

 アルヴァであってもメルクの勢いには敵わないようで、口で打ち負かされてすごすごと机に逃げ帰っていく。その様子に笑いながら、俺も自分の席に戻った。

 帳面の端を破り取り、『今日うちに来てほしい』と書き付ける。資料を取りに席を立つついでに、アルヴァの机に紙片を滑り込ませた。

 残した視線の先で、アルヴァの指が紙片を摘まむ。

 それから先の仕事は安定して、魔術の失敗をすることはなかった。終業の鐘が鳴った時、何もかもから解放されたような清々しささえあった。

 アルヴァが終業後の片付けを始めたのを視界の端に留め、俺も同じくらいの速度で荷物を纏める。

「お疲れ様でした」

 挨拶をすると、てんでばらばらに返事があった。

 職場を出て、職場の出入り口が見える位置で近くの壁に凭れた。職場の扉から、すぐに長身の見知った顔が出てくる。

 手を挙げて合図を送ると、相手も俺を見つけて手を振った。中間地点で合流して、そのまま王宮の廊下を歩く。

「今日、ごめんな。魔術失敗して」

「失敗くらいで謝る必要はない。俺は何枚窓を割ったと思う?」

「説得力あるなあ」

 王宮を出た外はもう既に寒く、指先はすぐに冷えた。やだな、と思いながら、同じく寒そうな掌に視線を向ける。

 手を繋ぎたいな、と思って、でも付き合ってもいないしな、と自嘲してこっそり笑った。

 息を吐けば、目の前で炎のように白く揺らめく。寒さが強くなったように思えて、和らげるべく足を速めた。

「寒いし、俺の家のほうに行かないか?」

 ぽつり、と振り返ったアルヴァが言う。別にどちらの家でも良くて、自分の家に誘う方が誘いやすかっただけだ。

「アルヴァがいいんならいいよ。じゃ、そっち行こ」

 身体の向きを変えると、彼の手が俺の手を掴んだ。くい、と引かれ指先に熱が籠もる。

 アルヴァは何も言わなかったし、俺もそれを指摘しなかった。

 でも、いずれ承諾だとか何もかも抜きにして、ただ繋ぎたい時に手が取れる間柄になりたかった。

 

 

◇8(完)

 アルヴァの家は王宮から近く、ぼうっと手を繋いでいるうちに着いてしまう。鍵を開け、玄関の照明を付けたアルヴァが振り返って俺を見る。

 何かを待っているような仕草に、少し考えて、口を開いた。

「ただいま……?」

「おかえり」

 俺の言葉は合っていたようで、アルヴァの口元は満足げだ。室内履きに履き替えて家に上がり、促されるまま居間に向かう。

 アルヴァは俺をソファに座らせ、魔術書を数冊渡して台所に入っていった。渡されたそれを開いていると、目の前の机に湯気の立ったカップが置かれる。

「料理は俺が作るから、ゆっくり待っていてくれ」

「う、嬉しいけど……なんで……?」

 アルヴァは照れたように頬を掻く。

「結界を張ろうとした後、気落ちしていたように見えてな。誤解ならいいんだが」

 彼が自分の家に誘ったのも、こうやって元気づけようとしたからだろうか。カップを持ち上げて中身を啜ると、淹れられたお茶は温かかった。

 緊張して喉が渇いていたのか、飲むのに熱中してしまう。大半を飲み干してカップを机に置き、アルヴァを見上げた。

「あの、……さ」

 彼は鞄の整理をしていたようだが、話をしたがっている俺の様子に気づいたのか近寄ってくる。ソファの端に寄り、その裾を掴んだ。座って、と裾を引いて場所を空けると、アルヴァも隣に腰掛けた。

 その手を取って、両手で包み込む。

「アルヴァって、今でも俺、……を抱きたいって思う……?」

 見開かれた目が瞬きしない間、ずっと視線を絡め合っていた。眉が下がり、困ったような顔に変化していく。

 やっぱりもう、と諦めを抱いた時、目の前の乾いた唇が開かれる。

「うまく言え、と君に言われたのに。うまく言えない」

「…………は?」

「取り繕えない。俺は……ずっと」

 握った指先から、魔力が溢れて雪崩れ込んでくる。その流れは圧倒的で、俺の魔力を絡め取って組み伏せて、上書きする。

 目の前の男は手すら握り返しては来ないのに、魔力の流れは正直だった。

「うまく言いさえすれば君が恋人になるんなら、俺はどれだけでも我慢できると思っていた。……でも、最近の君はこうやって触れてくるようになるし、魅力的に見えるばかりで……」

「魅力的に見える……なぁ……」

 もしかして、もう一押しすれば彼は堕ちるのだろうか。

 握っていた掌を持ち変え、その胸元に身体を寄せた。大きな胸元に頬を預け、指先に魔力を灯す。

 手招きするように、ゆらりと波を揺らした。

「俺、正直な人も好きなんだよ。そういうのはどう?」

「…………今でも、以前よりもずっと。君を抱きたくて仕方ない」

 観念したような言葉に、俺は満足して喉を鳴らす。

 指先を開いて、相手の指の股に滑り込ませた。掌がぴったりとくっついて、そのままぎゅう、と握り込む。

「なあ、まだ結婚したい?」

「ああ。────ディノ、俺と結婚しよう」

 力強い腕が腰に回り、望んだ言葉に笑みが零れた。付き合おう、を平然と通り越してくる言葉に、この男の重さを知る。

 結局、最初に寝た夜から、アルヴァの言葉は変わることのないままだった。変わったのは、俺だけだ。

「そうだな、いずれ結婚しよっか。……でもまずは、恋人からかな」

「あぁ……。恋人になら、今からなれるのか」

 アルヴァは言葉を切って、俺の顔を覗き込んだ。

「ディノの事を愛している。結婚を前提に、恋人になってくれないか?」

「うん。俺もすぐにでも恋人になりたい。アルヴァが好きだよ」

 腕を伸ばして首筋に縋り付く。下から持ち上げるように、両腕が背中に回った。

 唇を近づけると、慣れた様子で柔らかいものが重なる。手慣れた所作に疑問を覚えるも、再度重なる唇に覆われる。

 閉じていると焦れたように唇に歯を当てられ、おずおずと口を開く。滑り込んできた舌が、口の中をなぞった。

「ん。……っぁ、ふ」

 ぬるりとしたものが口を撫で、慣れない接触に呼吸すら図れない。伸ばした指先から力が抜け、必死で追い縋ろうとするのに、背に回った指先は意図をもって這う。

 する、と服の上から背を指が滑り、くぐもった声を漏らしながら身を捩った。

「…………っ、なんで、慣れてんの」

 嫉妬で沸騰し、声が漏れ出ていた。アルヴァは目を丸くし、やがて何かに思い至ったのか唇を解いた。

「君は覚えていないが、二度目だ。キスは……何回したかな」

 ぱちり、と瞬きをして、かっと頬が染まった。顔を下げて首筋に埋まると、相手の顔が擦り寄ってくる。

 触れる度、大きな魔力が肌を擦った。くすくすと笑いながら、その居心地の良さに魔力の相性を主張された理由が分かった気がした。

 背を撫でていた腕はローブの裾を引き、肩から脱ぎ下ろそうとする。その誘いに乗り、服を床に落とした。

「そういや。腹へらない? 大丈夫?」

「食欲より性欲のほうが先に来てる」

「ふは。そりゃ良かった」

 シャツの釦に手を掛けると、遮るように掌が覆い被さる。やんわりと押し留められ、代わりに彼の指が、釦を穴から抜いていく。

 胸元が開けば、素肌が目の前に晒される。気恥ずかしくて、ソファの背に視線を逸らした。

「二度目なら、珍しくもないだろ」

「いや。あの時は泥酔みたいなものだったから、じっくり見る余裕もなかった」

 指先が首から胸元を伝い、くすぐったさに身じろぎする。二度目の余裕を感じると共に、一度目が記憶にないのが惜しく思えた。

 彼は、もっと拙く俺を抱いたんだろうか。

「ディノ」

 名を呼ばれて、唇を寄せる。触れたところから、少しだけ強く魔力を流し込まれた。くらりと頭が痺れ、これを酔いと表現した彼の言葉が正しいと分かる。

「ほんとだ、酒の酔い方に似てる」

「思考能力の低下は確かに同じだな。……親戚が媚薬だと持ってきた薬が、魔力の振れを内側から暴走状態にするものだった。自分で制御できないから、身体の至る所をやんわり乱して、頭にまで至れば快楽と感じるらしい」

「……何の話?」

「一回目に君が食べた、飴状の魔術薬についての話だ」

 しれっと言った言葉を頭で咀嚼し、反射的に言葉が口をついて出る。

「つまり、その媚薬を参考に作った薬を俺に飲ませたってこと……?」

「説明しづらくて媚薬について誤魔化しはしたが、俺はいちおう止めたんだぞ。飴を口に入れて噛み砕き、媚薬として覿面に効いた上で俺を巻き込んだのは君で……。申し訳ないとは思っているが、両成敗として許してくれないか」

「…………うん、……んー、まあ……そうだよな……。魔力の相性よくなかったら不幸な事故は起きてないけど……」

 相性が悪ければただの病人のように相手をできたはずで、アルヴァが乗っかることになったのは魔力酔いの一種でもあったのだろう。

 でも、と俺は言葉を続ける。

「魔力酔いくらいで、抱きたくなるもの……?」

「……それは、まあ。君が据え膳に見えるくらいは、好意があったというか……下心があったというか……」

「へえ、それは初耳。そうだよな、俺を抱けたんだもんな」

 シャツの襟を持ち上げて、片胸を晒す。変わったところもない、ただの薄っぺらい男の身体だった。

 けれど、その瞬間に魔力がぞわりとするほどせり上がった。彼の瞳の奥に火を点けてしまったらしい。

「……勃てられそう、だな?」

「あまり煽るな。暴発しても知らないぞ」

 首筋に寄ってくる獣を、腕を開いて受け入れる。首筋に吸い付かれるとちりりと痛み、その場所に鈍い感触を残した。

 唇は首筋、胸元、と口づけを落とし、晒した突起に食らいつく。

「……く。──っん」

 漏らした声に、目の前の男は嬉しそうに唇を歪めた。

 切れ長の目元は、射貫かれて魔術式の脆弱性でも指摘されれば凍り付きたくもなる。その瞳が、愉悦を孕んでこちらを見ている。

 無表情だと思っていた男は、いちど寝てみれば感情豊かな男へ様変わりした。

 俺の何が面白いのか聞くのも恐ろしいが、俺と付き合いを持つアルヴァは、たぶん楽しそうなのだ。

 興味深くて、面白くて、俺を追うのが楽しいのだ。彼の興味があるものにのめり込む性質は、俺にも適用されるらしい。

「……う、ぁ、……ひ、っく…………」

 舌で先端を舐め取り、歯を立ててしゃぶりつく。初めてではない筈の愛撫は、俺がその場所で快楽を拾えることを知っている動きだった。

 指先で捏ねられ、反応したそれを口で嬲られる。勝手知ったる動きは、初心者には酷だ。

「……、俺、そんなとこ……っふ、感じな……」

 胸元で、アルヴァは舌を出した。ぺろ、と大振りに乳首を舐める。くすくすと近くで笑われると、息が掛かった。

「覚えてないのに、身体は二回目なんだな」

 指先で粒を跳ね、かぷりと甘噛みする。ぞくぞくとしたものが背を駆け上がり、目を閉じて力を込めた。

 触れる度に、魔力がねじ込まれ、妙な振れを送り込んでくる。魔力酔いに似ているけれど、意図を感じるほど繊細な波形だった。揺らされる度に、芯が甘く疼く。

 俺の身体を探れて媚薬の原理を理解しているのなら、同じ効果を齎すよう魔力を弄ることもできるのかもしれない。

 だとしたら、俺は本当に媚薬だけに狂わされたんだろうか。

「────なあ、アルヴァ。一度目のあの夜……」

 何かを誤魔化すように、開いた唇は男のそれで塞がれた。息を漏らし、流し込まれる唾液を飲み込む。

「ディノ」

 傾いた唇に、自分から吸い付く。口付けを続けている間に、男の腕が下の服にかかった。前釦を外し、閉じていた場所を下着ごと寛げる。

 すり、と掌で腹ごと撫でられる間も、言葉は封じられていた。

 まろび出た俺自身に、長い指が掛かる。湿った部分を指先でくじられると、こぷりと先走りが溢れた。

「……な、ん……ッ────く、ん……」

 解放された口で制止の声を出そうとすれば、また深く被さってくる。入ってきた舌で唾液を撹拌する音と、指先で高められている物の水音が重なった。

 口の端がすう、と乾いていく感触すら、悦さの弦を揺らす。竿に掛かった指先が、ずち、と音を立てながら擦り落ちた。

「っあ、……っく、ン……ぁあ……」

 頭がぼうっとして、声を漏らしながら唇がだらしなく緩む。

「一度目も、君はすぐ気持ちよさそうに身を委ねた」

「……っ、ん。……それ、嘘、じゃ……く、ンぁ、……ぁあ」

「嘘はない。まあ……、────」

 持ち上がった唇が、綺麗に弧を描いた。反応を示す俺を楽しそうに眺めては、魔力を操作する。

 弱点を教えたことなどない筈なのに、指先は性急に解放を促していた。

「さぁ、ディノ。こっちだ」

 身体が少し持ち上がり、膝立ちになって相手の肩に体重を掛ける。膝の下でソファの生地が沈んだ。

 アルヴァが手早く呪文を詠唱すると、後腔を見知らぬ感触が襲う。ぞわぞわと反射的に背が粟立ち、歯を食いしばった。

「……な、っに!? なん、の……」

「色々と準備をな」

 続いて完成した呪文に応じ、アルヴァの手に見知らぬ瓶が握られる。くるりと蓋が回されると、中からふわりと甘い香りが漂った。

 好きな香りの筈なのに、混乱した頭ではその香りを堪能する余裕もない。

 瓶が傾くと、とろみのある液体が掌に広がる。中身がまだ残った瓶はテーブルの上に置かれた。

 腕が背後に回ると、一度目を覚えていなくとも意図を察する。

「…………さ、触る……よな?」

「慣らさないとお互いに痛いと思うが……」

「そ……だよな……、ごめ、なんか混乱して」

 ふわりと落ち着けるように、相手の唇が頬に触れる。身体を委ねるように、首筋を抱き込んだ。

「負担を掛けて悪いな」

「……いいよ。でも、できるだけ優しくしてくれ」

 ふ、と耳元で笑い声が漏れた。梢が揺れる音のような、この男にしては珍しい柔らかな声音だった。

「難しいことを言う」

 指先が谷間に潜り込み、すぐに窪みに付き当たる。ぬるりとした指先がその場所に潜り込むと、堪えきれない声が漏れた。

 自分の身体の内側を、別の指で暴かれている。柔らかい部分を他人に委ねているのが心細くて、目の前の身体に縋り付いた。

「……──ひ、ぁ。ぁあああッ」

 彼の指が、その場処に辿り着く。

 指先でなぞられた場所から、未知の悦さがこみ上げた。まるで何度も押し潰され慣れたように、奥のその部分は過剰な快楽を届ける。

 記憶で覚えていなくとも躰は勝手に刺激を拾い、頭の芯を溶かしていく。

「……や、ぁ。そこ、……わか、な……ぁあン、ぁ……」

「覚えていないのが残念だな。ここで……」

 アルヴァが指を僅かに引き抜くと、逃がすまいとばかりに肉輪が指の胴を締め付ける。

「何度も吸い付いて、しゃぶって、気持ちよさそうに啼いていた」

「あ、ン……、ぁ、ぁあ、い……っく……」

 締め付けが緩んだ瞬間に、内壁を掻きながら突き上げる。撫でていた場所を押し上げられ、余裕のない濁った声が漏れた。

 は、と息を漏らせば、呼吸ごと揺さぶられる。

 前をなぞられた時より、その刺激は長くて重たかった。一生味わえないかもしれない場所で刺激を拾って、痛みでも不感でもなく、気持ちよさに身を捩っているのが、これが二度目だという何よりの証拠だった。

 頭は追いついていないのに、躰は慣れた指先に翻弄される。溶かされて、掻き回され、躰で快楽を拾っているのか、魔力で堕とされているのか分からなくなっていた。

 後ろから指が引き抜かれようとすると、また持ち主の困惑とは裏腹に指に追い縋る。ぞくぞくと身体を揺らしながら、抜かれていく指を感じていた。

 相手の腕が背を支え、ソファに横たえられる。体重を掛けて軋む音が耳元で聞こえ、ごくんと唾を飲んだ。

 アルヴァの手で服が下着ごと剥ぎ取られていくのを、消極的に助ける。相手の服にも手が掛かり、膨らんでいた服が寛げられた。

 茂りに隠れきれない、勃ち上がった肉棒が視界に入ると、少し頭が冷える。

「……ま、って。……それ、挿らない、んじゃ……」

 ずり、と身を引いて逃れようとした脚を腕が掴んだ。男が指先でそれを扱くと、先端が濡れて光る。

 てらてらとぬめる逸物が持ち上げられると、その質量にどっと不安が訪れる。けれど、アルヴァは平然と言う。

「何度か挿れた」

 ぐ、と続く言葉も消え、おずおずと脚を開く。褒めるように脚を撫でた腕が、抱え上げて腰を浮かせた。

 赤黒い砲身が凹地に当たると、ぬるりとしたものが外縁を湿らせた。塗り付けるように前後されると、男根を求めるように其処がひくつく。

 男は指先で自身を掴み、狙いを定めるように宛がった。

「不思議だな……。今のほうが二度目なのに、酔って自分から脚を開いたあの時よりも、初々しく感じる」

「……そりゃ。初めて、だし」

 睨め付けるように視線を合わせると、アルヴァの瞳に光が走った。縁に当たっているものがびくりと震え、膨れている場所とぴったりと触れ合う。

 動揺から掻いた脚も、食い込まんばかりに掴んでいる腕から逃れる術はなかった。

「────っ、あ」

 ぐぶ、と亀頭が輪を潜った。

 口の奥で声を漏らして、ただ唇を噛んだ。アルヴァは感触を楽しむように動きを止め、反射的な締め付けが止むとまた突き入る。

「……、ぁ、や。……ん、うあ……」

 腰を引かれ、ずぶずぶと剛直が埋まっていく。

 爪先を丸め、内壁を掻く刺激に声を漏らしながら身体を開く。指先よりもまだ長い竿は、指で撫で回した場所にもすぐに辿り着いた。

「────ひっ!? ──ぁ、あ……、や、まって。そこ、だめ……──!」

 腕が脚を抱え直し、少し引いた腰がその場所を狙って打ち付けられる。口を開いて喉を解き、言葉にならない長い嬌声を上げた。

 喉がからからと渇いて、触れる吐息すらも痛みなのか分からなくなる。

「もう、少し……、奥まで、挿れてくれ」

「……ん、い……、よ。………………ぁ、うあ……!」

 指で届かなかった場所まで、内壁を巻き込みながらずぶずぶと熱杭が埋まっていく。しばらくの間、男自身を受け入れていなかった部分は、久しぶりの逢瀬に悦んで纏わり付いた。

 痛みもない、身体は解れてただこの交わりを楽しんでいる。初めての感覚に戸惑って、怯えて、その上で初めての甘美を味わわされる心とは対照的だった。

「まだ、はいりきれて……っ、ア。……ぁ、あぁああっ……!」

 あと少し、で止まっていたのに、角度を変えた雄が、体重を推力にして全部埋まりきった。最奥にある塊を肚で食い縛ると、ぞくり、ぞくりと重たい痺れが鈍く、途切れなく襲う。

 アルヴァの掌が、腹の上に置かれた。

 じわりと皮膚越しに魔力が流し込まれているのが分かる。彼の唇は陶酔するように上がっていたが、俺は首裏でも噛まれているように動きを止めていた。

 びくん、と身体が跳ねる。

「……ぁる、アルヴァ。……なに、こ……れ……っひ、ぁ、や。おれ、……おかしく……──!」

「君、は……ちょっと気を許すと、魔力も身体も全部、……明け渡すんだな……!」

「ぁ、ああっ……! だめ、奥……さわ……た、ら……────!」

 アルヴァの掌が腹から離れ、にっこりと目の前の顔が微笑んだ。

 色素のない髪に相反して、瞳の色がぼうっと浮かび上がる。造りのいい顔立ちがその表情を創れば、ぞっとするほど美しく見えた。

 首筋に手を掛けられているどころではなく、この男は俺の魔力と繋げている。粘膜が触れ合っているこの状況で、俺をアルヴァ自身だと騙して、身体をひらいている。

 あの膨れきった長大な欲望を、痛みもなく、一度目から気持ちよく受け入れられたこと自体が可笑しな話だった。

 一度目もきっと、依存性のある甘い蜜だと知りながらこの雄を飲み込んだのだ。

「ぁ、……ひ、う。ぁああ、あ、あ、あ」

 引き抜いた質量が、体重を掛けて深くまで突き入る。抽送は重く、深く、撹拌する音を響かせた。

 魔術師は繋がると魔力が混ざる。境界が分からなくなって、相手に魔力を流してしまう。粘膜で繋がっている今は、なおさら自分と相手が分からなくなった。

 ぐぶ、と雄を飲み込む縁は膨らみ、太い胴をぎちぎちと締め上げる。

「……ぁあっ、ン、あ、……も、溢れ……て……」

「ああ。でも、もっと、……溢れても、受け入れてほしい」

 往復が速まり、感覚の無くなった脚を別の腕に委ねながら、ただ揺らされた。

 流れ込んでくる熱はもう身体に入りきれなくて、開いた口の端から、溢れた唾液が垂れ落ちる。

 ずっと大部分を引き抜かれた雄が、質量を増したように錯覚した。視線の先にある獣はぎらぎらと目を輝かせて、快感を食らっている。

 『ほんの僅かずつ流し込まれてきた精が、身体の中に溜まるほど注ぎ込まれたら』腹の奥がぞくぞくして、強請るように砲身を銜え込んだ。

「……っ、っく。だから君は、こうなったのに──!」

 苦々しげな声は、聞く余裕すらなかった。最奥まで大振りに突き入れられ、男の腰が強く押し付けられる。

「────あ、ぁあ。いっ……ぁあああああぁあッ!」

 持ち上がった腰を伝って、灼熱が奥まで届く。

 腹の奥を叩く感覚に、嬌声は尾を引いた。喉はひくついて、掠れた声が響く間、男の精は途切れることなく流し込まれる。

 倒れ込んできた身体を、感覚の薄くなった腕で抱き留めた。精を吐き出しきっても、擦り寄る身体をぼうっと受け止める。

 空腹の筈なのに、魔力は器の縁から零れんばかり、という理解できない感覚に腹を押さえて天井を見る。

「……へん、なの。お腹いっぱい、だ…………」

「ああ。仕事で割と使ったはずなのに、増幅、のような……? 魔力の源は生命力だと言われがちだが……、一概にそうでもないのかもな」

 ずる、と肉塊が抜け出ていく感覚に、短く声を漏らす。

 アルヴァは俺を担ぎ上げると、そのまま台所……ではなく寝室へ向かっていく。尻から垂れた液体が太腿を伝う感覚は生々しく、寒くもないのに身体が震えた。

 肩に乗せられながら、小さく尋ねる。

「なんで、寝室……?」

「さあな」

 しれっと誤魔化して寝室に入り、俺を寝台に下ろす。残っていた服は剥ぎ取られ、シーツの上に転がされた。

 覆い被さってきた身体を受け入れながら、身体を重ねて満腹になる症状がこれからも続いたらどうしよう、と不安を抱く。何かに熱中したとき、この男が一番先に削るのは食事を取る時間の筈だった。

「アル、ヴァ……俺、飯が……」

 呟いた唇が素早く塞がれる。視線を落とした先にある彼の分身は、もう起き上がり始めていた。

「ああ。満腹になってもまだ、食わせてやるからな」

 柔らかくなった場所は、簡単に男を受け入れる。

 執拗な抽送は夜中近くまで続き、魔力の多い人間は体力も多い、という事を俺は身体で思い知ることになった。

 

 

 

 アルヴァと付き合い始めて、徐々に恋人であると周囲に明かしていった。

 魔力は混ざっているものの、付き合っているかどうか話してくれない、という状況から課員も突っ込んで話を聞くことはできなかったらしく、話を聞いてみな安堵していた。

 アルヴァが言うには俺と付き合いだして『魔力の総量が増したように思える』らしく、結界を俺が張るようになったこともあり、彼の研究は加速している。

 彼が研究の話をしている横で、俺が実用化への案出しをするのだが、そうしているとまた嬉しそうに新しい研究の話を持ってくるようになった。俺がメルクに、課長に、と話を横流ししては、王宮の魔術式へと繋げている。

 アルヴァも恋人ができると変わるものだな、と本人にではなく俺に言われるようになったが、どちらかと言えば変わったのは、俺を含めた周囲の方だろう。

 風通しの良くなった職場で、今日もメルクの声が響く。

「ディノ。聞いてよ、アルヴァさあ……! 魔術式の説明してって頼んだら『その式の説明はディノの方が上手い』って丸投げするの!」

「まあ、メルク相手なら俺の方が上手いよ。式もっておいで」

「忙しそうだったからアルヴァの方に聞いたのにー!」

 そこまで忙しくないよ、と言ってメルクに式を持って来させる。アルヴァは俺の仕事量も把握しており、それでいて振っているのだから問題ない。

 式を辿りながら説明を加えていくと、メルクの顔が輝いていく。

「────ありがと。アルヴァの話を聞いても理解できないのに、ディノの話だと分かるんだよね」

「まあ、アルヴァが人にちゃんと魔術の説明するようになったの。俺に説明し始めた頃からみたいだしな」

「…………それってアルヴァ。ディノと話をする口実に魔術の説明をし出したってこと?」

 静かな室内にその声は響き渡り、課員の視線がアルヴァを向く。

 アルヴァの視線は魔術機の画面を向いていたが、流石に気まずくなったのか、こちらに向けて口を開いた。

「冤罪だ。きちんと学ぼうとする姿勢に絆されて答えただけだ」

 言葉自体は何らおかしいものではなかったが、彼らしくなく声は僅かに上擦っている。ふぅん、とメルクの声がしたが、彼以外も言わずとも同じような感想を抱いただろう。

「きちんと学ぼうとする姿勢が好ましくて、それを切っ掛けに好きになった、て言いたいんだろうけど。結局、卵と鶏だよねえ」

 強かな言葉に、アルヴァはぐっと言葉に詰まる。面白く見守っていたが、仕事中だし、と切り上げるべく助け船を出した。

「メルク。説明もういいのか?」

「……あ、まだある。待ってまって」

 一応、彼としては繋がりを持とうとしていたのだろうが、あの親切な助言に下心があったなんて、全く気づいてはいなかった。

 あの一夜がなかったら、いずれ恋人になれていたんだろうか。それくらいの関係だったから、彼はあんな切っ掛けの持ち方をしたんだろうか。

 家に帰ったら、聞いていなかった馴れ初めについて追及しよう。

 俺は降って湧いた幸せを噛み締めながら、あとは請け負うよ、とアルヴァに視線を送った。

魔術師さんたちの恋模様
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坂みち // さか【傘路さか】
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