宰相閣下と結婚することになった魔術師さん5

宰相閣下と結婚することになった魔術師さん
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◇1

 その日、いつもと違ったのはサウレ国王陛下から呼び出しがあったことだった。

 基本的に、陛下がゴーレムに用がある時はこちらに押し掛けてくる。わざわざ使いを寄越して、俺と上司であるサーシ課長、そして連れてこられるなら飼い犬の……と呼んでいいのか不明だが……ニコも、という呼び出し方をするのは、国家絡みの理由があるのだろう。

 準備を整えているサーシ課長に声を掛ける。

「すみません、窓から姿が見えないのでニコ探してきます」

「ああ。それなら僕は先に行ってそれを説明しておくよ。捕まえ次第おいで」

 先に出ていったサーシ課長を見送り、魔術式構築課を出て周囲を見渡すがニコはどこにもいない。

 魔装かな、と王宮に入って、使用人が主に使う廊下を辿る。空が曇りの所為か、光を取り入れるための大きな窓があって尚、廊下は薄暗く感じるほどだった。

 魔術装備課に向かっていると、途中で雪車の荷台に本を積んだニコに出会う。

「あ、いた。……ニコ、王様から呼び出し。でもまず、それ届けるか」

 わっふ、と元気のいい返事があって、ニコと並んで王宮の床を歩く。

 ニコは使用人がよく使う通路を選んで、目的地らしき書庫まで山積みになった本を運んでいく。途中で本が傾ぎそうな時は念のため手を添えたが、落下を防ぐように上手く体重を移動させて歩いていた。

 書庫に辿り着くと、『テウ爺』と呼ばれる古参の職員が出迎えて本を受け取ってくれる。テウ爺は両手でニコを撫で回すと、こっち、と本の置き場を指した。流石にニコに咥えさせる訳にも、と俺が積み荷を下ろす。

 書庫は、つい長居してしまうような紙の匂いに満ちていた。

 魔術式構築課や魔装課を始め、多くの人々が世話になっている場所だ。

 半円状に広がる木組みの天井は高く、窓は少ないが、随所にある小さな照明群から十分な光が届く造りになっている。上方向への広さゆえ棚も高く、高所にある本は梯子を掛けて登っていかなければ届かない。

 テウ爺は慣れたものでひょいひょいと梯子を登っていくのだが、俺たち使用者の側からすれば冷や汗ものだ。

「これ、どうしたんですか?」

「魔装が借りて、返却期限ぎりぎりか切れたものじゃな」

 魔装もなかなか忙しく、犬の手を借りてでも本を運ぶ羽目になっていたようだ。

 ニコの胴輪には紙が括り付けられており、次に借りたい本の一覧が書かれていた。

 魔装のトールに通話を繋ぎ、持ち帰りは遅くなると告げておく。そして、雪車は書庫にて預かってもらうことにした。テウ爺が一覧の本を荷台に積んでおいてくれるらしい。

「このちまっこいのと仕事かね?」

 ニコを指しての言葉に頷く。本人も自分のことを指しているのが分かったのか、自信満々に大きく息を漏らした。

 それにしても、身体が大きいニコにちまっこいの、とは、この人には一体どう見えているのだろうか。

「はい。ちょっとした呼び出しで」

「この図体を必要とするとは、不穏じゃの」

 曇った俺の顔を吹き飛ばすように、からからとテウ爺は笑う。相手を待たせているのでは、と促され、礼を言ってその場を後にした。

 俺の横で並んで歩くニコを見下ろし、はあ、と息を吐く。

 ナーキアでの一件を経て、ニコは防衛課での模擬戦によく顔を出すようになった。それ自体が悪いことではないし、自分だってこの神だか犬だか判断のつかない存在を利用していないと言えば嘘になる。

 だからといって、幼い子を巻き込みたい訳ではないのだ。

「お前を実験に使うとか言い出したら、ガウナーと三人で逃げような?」

 訳が分からないだろうに短く返事をする声があった。すり、と歩き様に身体を擦り寄せ、自らのにおいを俺に擦りつける。

 毛はふかふかとしていて、人とは違う体温はあたたかかった。こんな幼い存在にまで慰められているとは情けない。

「ありがと」

 長い廊下を抜け、身体検査を受けてから王宮の中枢へと足を踏み入れる。指定された場所はガウナーのいる政策企画課だったが、サウレ国王陛下も同席、との補足があった。

 来るのには慣れた場所だが、いつもよりも足取りは重い。重厚な扉の前で息を吸い、こんこん、と手の甲を打ち付ける。

「魔術式構築課のロアです。遅れて申し訳ありません」

「入れ」

 その声は、国王陛下のものだった。ごくりと息を呑み、ニコに目で合図をしてから開かれた扉の先に足を踏み入れる。

 見慣れた課の一室は、国王を据えるには狭く見える。書類が積み上がった机が並んでいる横に、打ち合わせの為に用意されている一角はあった。

 机の一番奥にはサウレ国王が腰掛けており、隣にガウナーが控えている。

 そしてテップ近衛魔術師長と、同じく近衛課のニンギの姿もあった。最近では魔術を卸す機会も多く、気軽に話ができる仲ではあるのだが、今日のニンギはやや表情が硬い。

 国王陛下の姿には、気安く話しかけてくれてもどこか気圧される。俺は国王に礼を執り、自分に用意された席に腰掛けた。

 付いてくる様子のないニコを見ると、一度その場に丁寧に座り、そして立ち上がって俺の隣にまた腰を下ろす。伏せて恭順を示すことまではしなかったが、ゆったりとした所作には敬意と友好の意図が見て取れた。

 ほう、とサウレ国王の面白そうな声が上がる。

「ガウナー、お前の預かり子は頭がいいようだ。誰に似たんだか」

「ロアじゃないか。私でないことは確かだな」

 普段の軽口であればその後におそらく『私にはお前にそこまでの敬意はない』などと続くのだろうが、今日は近衛もいる所為か口が大人しい。俺は自分に似たらしい預かり子と視線を合わせ、目の前に用意されていく飲み物とお菓子を見つめた。

 食べつつ聞いてくれ、と念押しされ、おずおずと食器に手を掛ける。

「ケルテ国の王子が、しばらく吾が国に滞在することとなった」

 かしゃん、と食器を取り落とし、皿に金属がぶつかった。えぇ……、と途端に暗い顔をした俺の顔があからさまだったのか、国王陛下は口元に笑みを浮かべる。

 ニコはぴくん、と耳を立て、俺とガウナーを交互に見やった。音の並びに覚えがあるのだろう。

 ケルテ国は、ナーキア地区で対立した反国家組織が最も激しく活動し、そして拠点としている国だ。

「昔の学友でな。リベリオ・ローサという。ケルテ国の第三王子で、父親とは折り合いが悪い。覇道を征くには人を陥れられない性格が難だが、第三王子としていずれ玉座に就く兄を支えると決めているようで、そちらは適材適所だと当時から言われていたな」

 その名には聞き覚えがあった。

「リベリオ王子は俺たちの結婚式に出席する予定だった……と思いますが。なぜ急に滞在って話に……」

 リベリオ。その名前をもつガウナーの旧友は、結婚式の参加者のひとりだ。

 だが、結婚式のための滞在というのなら時期が早すぎる。その他にも理由があって滞在することになった、というのは流石に察するところだ。

 サウレ国王は脚の上で両手を組んだ。

「元々、結婚式の後に我が国の神殿の仕組みを知るため、大使として短期滞在する予定だったのだ」

「リベリオは特に、クロノ神に興味があるようでな」

 横からガウナーが慣れたように補足を挟む。王子が他国の神に興味を、というのは珍しく感じたが、そういえばケルテには国教がないのだと思い出した。

「その折にナーキアのあの一件だ。あの後も反国家組織の活動は続き、王宮も静かに荒れている。そこで次期国王から内密に、遊学という建前で第三王子をそちらで保護してくれないかと懇願を受けた」

「懇願……?」

「ああ。次期国王は弟が随分と可愛いらしい」

 初めて聞く話だったが、そういうことなら現国王が王座を降りたほうがケルテ国はいっそ盤石なのかもしれない。兄弟仲がいい、というのは珍しく感じる話だった。

「旅行を兼ねて訪問を前倒し、滞在中は神殿に関して学ぶ。そういった言い訳がしやすいと吾が国が選ばれたらしい。若干、面倒な話でもあるが」

 国王陛下の組んだ手が解かれ、持ち上げたカップに口を付けた。後は頼む、とでも言うようにガウナーに視線が送られ、言葉が引き継がれた。

「では、私から。こちらとしても次期国王に貸しを作るのはいいことだ、と引き受ける事になった。訪問日程は前倒しして、王都内にある屋敷に滞在して貰うつもりだ」

「それで、俺とサーシ課長、と。ニコはなんで?」

「事前に滞在予定の屋敷に、魔術的な侵入者対策をしてほしい。ニンギにも相談したんだが、結界なら君の所のフナトがいいと言うし、その他に探知系の魔術を仕込むにしろ、魔術式構築課の協力を仰ぐべきだ、と」

 視線を受け、隣で聞いていたニンギが口を開く。

「近衛でもお手伝いはしますが、特に結界は魔術式構築課のものを、と思いまして」

「課っていうより個人だな。フナトの結界がいい」

「はい。彼以上の適任はいないかと」

 サーシ課長に視線をやると、にこにこと微笑みながらうんうんと頷いている。何も考えていないように見えるが、正直、結界を誰に任せるかについては何も考えずフナトに任せるのが最善だ。

 いや、フナト以外も全員連れて行って、結界も相談しながら張り、使えそうな魔術をありったけ仕込むのがいい気がする。

「ちなみに、ニコは何の為に呼んだんだ?」

「ああ。リベリオ──、失礼。リベリオ王子は主に屋敷と王宮に滞在する。王宮にいる間は、気兼ねなく学習するために目立ちすぎず、そして安全に過ごせる場所にいて貰いたい。そうなると、リベリオの王宮での席は、ニコが控える魔術式構築課に置いた方がいいのでは、という話になってな」

「………………絶対むこうの国に怒られるって。狭いぞ」

 魔術式構築課の職場は小屋に毛が生えたようなものだし、家具も本にばかり金を掛ける所為で古めかしいか安っぽいかの二択だ。国賓を招くとして、十人に聞いて十人に失礼だと言われるのがあの場所だった。

「それは、……私にも分かっているが。ニコ以外にも結界の質やシャルロッテ……ゴーレムも含めると、王座とどっちが安全なのか怪しいくらいだ、と言われてな。書庫にすら行きづらくなる王座の近くは、本人も好まないだろうし」

「それは近衛に失礼だろ」

「いや、近衛から言いました」

 俺の言葉にニンギがそう返し、えぇ……、と今度こそ声を漏らした俺に、ニンギは情けなさそうに頭を掻いた。

 大人しく聞いていたテップ近衛魔術師長が、ほほ、と明朗な笑い声を上げる。

「そういうことで、これからも連携が増えるじゃろう。屋敷に魔構が行くときに、ニンギも一緒に連れていって指導してやってくれんかの。近衛だからこそ、結界術に優れていて悪いことはあるまいて」

 続けて言うテップ翁の言葉に、そういうことなら、と俺も頷く。

 魔術式構築課の横繋がりはあって困るものでもないし、ここで近衛でも若いニンギと繋がりを深められるのはいいことのように思えた。

 よろしく、と声を掛けると、ぱっと明るい笑みと共に、はい、と元気な返事があった。

「魔術的、物理的な攻撃や毒、色々とこちらが懸念している事例は書類に纏めておいた。それ以外にも、魔構の判断で仕込んだ方がいい魔術があれば追加していってほしい。期限が十数日しかないから、数日後にいちど下見に行こうと思うのだが」

「予定を調整します」

 ガウナーの言葉に、サーシ課長が請け負った。

 それからも少しばかり話は続いたが、俺が首を突っ込む部分は少なく、豪華な菓子を興味深そうに見つめるニコをいなしながら、美味しいものに舌鼓を打った。

 

 

 

◇2

 折角なので、と魔術式構築課の全員、魔装のトールとウルカ、近衛のニンギと、ガウナーとニコという大所帯で屋敷に向かうことになった。

 大型の馬車を二台という贅沢な送迎を受け、第三王子……リベリオが滞在する予定の、王都にある屋敷に到着する。持ち帰りの案件はあるだろうが、掛けられる魔術はその場で掛けていくつもりであり、弁当を持参しての一日がかりの下見である。

 馬車の扉が開いた途端、若者達はどやどやと屋敷に駆け込んでいく。そんな元気もない面子は彼らの後ろを歩いていった。

 屋敷は関係の深い国の大使が滞在する時に使ってきた物件だそうで、家族で滞在する前提で一人で住むには広い。うちの屋敷に比べると装飾は華美で、外壁にも鮮やかな色が随所に使われていた。

 庭には手入れが少なく済む樹木が選ばれてはいたが、全て綺麗に剪定されている。

「代理ー! 鍵開いてないんですが!」

「いや当たり前だろ」

 部下であるシフの大声にそう呟く。

 早足で進み出たニンギが鍵を開けると、大きな扉が左右に開いた。一度、屋敷の清掃を入れているようで、持参した室内履きに履き替えて屋敷に上がり込む。

 玄関に足を踏み入れると壁は明るい色をしており、天井までが大きな吹き抜けになっていた。うわぁ、と歓声を上げて見上げていると、横でフナトが天井を指差す。

「ニンギさん。警備をするとして、上まであがれたらこまりますよね?」

「ああ、そうですね」

「張るなら階の境かなー。天井のそうじをするときは上から……」

 ぶつぶつとフナトはそう言うと、脚を開き、地を踏みしめた。艶やかな唇が開かれ、結界の詠唱が始まる。

「我が護るべき地を区切る、四隅は邪眼により固められる。この境を超える術は我以外になく。永くその場にあるように」

 音の間は均一で、そして淀みない。問題なく結界は展開され、階の境目から上には跳ね上がっても吹き抜けを通って行くことはできなくなった。

 横から、新しい詠唱の声が聞こえる。

「風は春を告げるが如く、背を抱く。人の身よ、地に傷つくことなかれ」

 シフはそのまま脚を曲げて跳ね上がる。

 すると、ちょうど境のあたりで彼が伸ばした腕がなにかにぶつかって鈍い音を立てた。痛、と情けない声が上がり、ぼとりとシフが落下する。魔装から同席していたトールが滑り込んで受け止め、そのまま二人して床に転がった。

 フナトが駆け寄ると、シフはけろりと起き上がって服の埃を払う。

「フナト。結界いい出来、固くてめちゃくちゃ痛かった」

「絶対! に、それを確かめるべつの方法あったよ」

 シフが掌を差し出すと、フナトが自らの手と打ち鳴らした。床から起き上がったトールはやれやれと肩を竦めている。一番の被害者は間違いなく彼な気がした。

 フナトはぱたぱたと同じく魔装から来たウルカの元に駆けていき、両手を掴んだ。見慣れない面子がぎょっとしているが、二人の間では魔力の供給が行われていく。以前よりもやり取りが上手くなっている気がするのだが、気の所為だろうか。

 そろりと俺に近寄ったサーシ課長が、ぼそりと呟く。

「うちの課、最近爛れてるよねえ」

「まあ、課長の魔力がまずこうですもんね」

 言い返すと、思い当たる節があったのか珍しく黙った。以前に供給を受けた彼の魔力とはまた別の気配を感じたのだが、どうやら合っていたようだ。

 そう言う俺も人のことは言えないので、これ以上深追いする気もない。

 廊下を抜け、居間に入る。扉一枚を隔てた先は台所になっており、境にある扉を開け放った。

 サーシ課長は青の瞳を屋敷に向けながら、探知魔術を展開する。指先で結果を拾い、俺に向かって口を開いた。

「魔術師が侵入した痕跡はないね。鍵は掛かっていたし、まだ此処のことは割れてないみたいだよ」

「……怖いこと言わないでくださいよ」

「防衛課にいた頃の僕なら、狙ってる王子の滞在先にさっさと探りを入れて、情報収集する魔術でも仕込むけどね」

「まあ、俺もそうですね。結界の情報とか、家を使う時間とか……」

 近くで話を聞きながらぎょっとするニンギに、サーシ課長は探知魔術の結果を詳細に伝える。人の出入りは近衛が記録している時期から先には無いようで、ほっとする姿があった。

「助言ありがとうございます。サーシ課長は、元防衛課でしたね」

「すっかり勘は薄れているけどね」

 そう言いつつ、サーシ課長は窓の位置を熱心に見てはフナトと話をしている。ナーキアで拠点に侵入した時も、同じく防衛課のシャクト隊長が出入り口の位置をよく見ていたことを思い出した。

 ニコは台所の床を熱心に嗅ぎまわり、かしかしと前脚で床を掻く。ガウナーが屈み込んで様子を見守っているが、本人は諦めようとはしなかった。

 ガウナーが、ニコが掻いている位置の床に触れる。掌を広げて押すと、僅かに床が沈み込んだ。

「収納か?」

「ああ、図面上は食材用の収納庫になっていますね。宰相閣下。こちらで確認します」

 ニンギが近付いてその床を調べると、ある位置の床が反転し、取っ手が現れた。取っ手をゆっくりと引くと、ずず、と重い扉が動いた。覗き込むと、床下は食材の収納場所になっている。

 サーシ課長は躊躇いなく階段を降りていき、壁を叩いて反響音を聞いた。

「地中との境にある壁が薄いのがやだな。収納庫は要る? 閉鎖してもいいんじゃないかな?」

「大使一人に食材の収納庫は不要でしょうね。塞げるならそうしましょう」

 ニンギに魔装組が呼ばれ、意見が聞き取られた。吹き抜けといい、収納庫といい、大人数で確認すれば色々と懸念点が出てくるものだ。

「お水、も不安ですね……」

 フナトは水が通る経路を確認したいとニンギに言い、図面を指で辿る。

 地面に管が埋まっており、管に沿って範囲の小さな結界を繋げるように式を設計することもできるという。解毒も要素として加えるのなら、考えるだけで手間の掛かる魔術に思えるが、本人はやる気らしい。

「探知魔術で管の位置を探せるから……」

「んー。探知、と結界をわけずに、同じ式にうめ込んだほうがずれないです」

「新しい式組むの?」

「くみます」

 答えがすぐ返ってくるあたり、目星は付いているようだ。真剣に取り組む姿に思わず頭を撫でてしまうと、フナトは幼げに頬を膨らませた。

 ニンギを連れて外に出て行くフナトを見送り、先に上の階に行くか、とぞろぞろと階段を上る。上っている途中で、シフが声を上げた。

「天窓、って、さっきの話からすると良くないんじゃ……」

 全員が上を見上げ、思いおもいの声を上げた。

 普通だったら天窓があれば日当たりが良く、と喜ぶものだが、窓の位置云々の会話を思い出し、皆の顔は苦々しげになる。その場であの窓は、お洒落な天窓、ではなく、厄介な侵入口、という認識で一致した。

「でも、天窓を閉じたら暗くなりますよね。結界で対応した方がいいのかな」

 シフの言葉に、俺は首を傾げて唸る。

「魔術だって万能じゃない。窓がなければ割られないし、壁があるならあったほうがいいんだよ。光の具合を見たいな、ちょっと塞いでみるか」

「外から窓にローブでも被せてみましょうか。何枚か貸してください」

 わらわらと魔術式構築課から脱がれたローブが集まり、絶対こんなに要らねえ、とシフは元気よく叫びつつ外に出て行った。

 少し待っていると、天窓の外から屋根に上がったシフが手を振る。そうして、彼が天窓をローブですっかり覆い尽くすと、辺りが少し暗くなった。

「さっきよりは暗いけど、玄関から光は入るし、あの天窓がなくとも問題ないな」

 シフ、フナトと一緒に戻ってきたニンギに、天窓を塞がないか、と相談すると、彼も先程の自分たちのように天窓を見て渋い顔をした。

 結界で対応するのも勿論だが、収納庫と同じく物理で塞ぐ方向で検討するとのことだ。図面に書き込んでいるニンギの手元を、サーシ課長が覗き込む。

「ついでに窓とか各部屋に鍵を増設したら? リベリオ王子だって狙われている立場だし、部屋にだって鍵があった方が安心して眠れるんじゃないかな」

「確かに、ここの寝室の扉には鍵が無いな」

 ガウナーが図面に書いておいてくれ、とニンギに言い、鍵を取り付けられそうな位置に印が書き足されていく。

 自分が反国王派を敵に回していた時には、ゴーレムや魔術といった身を守る術がすぐに用意され、不安無く過ごしていた。命を狙われる生活、というのを想像することもできないが、そんな中で眠らなければいけないというのは、どんな気持ちなのだろう。

 背が冷えるような気がして、シフが抱えている山から自分のローブを抜き取って羽織った。シフは残ったローブを配って回り、俺の近くに戻ってくる。

 ニンギの書き込み待ちに気づいたのか、部下はぼんやりとそちらを眺めながら口を開いた。

「おれ、命を狙われたことは無いですけど。狙われていたら、明るい天窓より、少し暗くたって天井があった方が嬉しいです」

「だな。せっかく逃げてくるんだし、こっちではのんびり暮らしてもらいたいよな」

 フナトが何時になく一生懸命に、屋敷を駆け回っていた理由が分かった気がした。

 彼は、自分を傷付ける魔術から身を守る術として結界術を極めた。そんな彼だからこそリベリオ王子に対しての同情は深くなったのだろう。

「フナト。そういや魔力足りてる? 俺のやろうか?」

「代理……はいやです。結婚相手の前では、うわきですー」

 助けになろうとしただけなのだが、あっさりと部下には振られ、ガウナーに浮気とは、と問い詰められ。釈明しながら次の部屋に移動する羽目になった。

 

 

 

◇3

 リベリオ王子が滞在する屋敷の工事は予定通り終わったようで、話題に上がった天窓と収納庫は塞がれたようだ。

 魔術式構築課もリベリオ王子が滞在する際の拠点として正式に決定したが、全く机が入らずに建物が増設されることになった。その際に壁が薄すぎたようで少し厚めの壁を重ね張りされ、強化された小屋が古い家くらいの寒さに改善した。

 工事中は壁をぶち抜かれた所為で寒すぎて結界を張りながら仕事をしたものだが、出来上がってみると、以前よりも快適な職場に様変わりしたのだった。

 『暑さや寒さを魔術でどうにかしてまで魔術書を買わないでくれ』とは、工事前の壁の薄さについて報告を受けた宰相閣下による苦言である。

 王子との顔合わせは、本人が到着して歓迎式典が開かれた午後に行われることになった。

 今日から王子が来ることになる魔術式構築課は、前日まで積み上がっていた書類や本の片付けに追われ、混乱したシフが『王子要らなくないですか?』と呟く有様だった。要らなくても来る、と片付けの順序を指示したが、要るんだろうか、と俺自身も混乱していた。

 職場の入り口の扉が開くと、いつも通りの軽快な音楽が流れる。おお、と驚きながらも機嫌のいい声が続いた。

「初めまして、リベリオ・ローサだ。しばらくの間、世話になるよ」

 明朗な声音は王子、と呼ばれるのに相応しく、群衆の中にあってもはっきりと、そしてよく通る声だった。

 灰茶色の髪に珊瑚色の瞳、長身だが体付きはガウナーよりも筋肉質だ。出歩くことが多いのか、肌は健康的な色をしており、笑う口元からは白い歯が覗いた。

 ぱっちりした目元と通った鼻筋、口元は綺麗に弧を描き、伴侶とは対照的な動の美を形作っている。彼自身に攻撃的な空気はないが、服の構造上、帯剣できる造りになっていた。

 一見、人当たりが良さそうで、命を狙われている悲壮感はその表情からは窺えない。

 迎えに行ったサーシ課長はリベリオ王子の隣で控えており、自己紹介は済んでいる様子だ。俺は進み出て口を開く。

「初めまして、ロア・ハッセと申します。リベリオ王子がいらっしゃるのを楽しみにしておりました」

 王子は手を差し出し、俺はその手を取る。掌には育った剣だこがあり、やはり剣が使える人なのだな、と疑問を確信に変えた。

 只の無能ではなく、周囲の状況に合わせて対策をしてはいるようだ。

「初めまして、ロア。俺はガウナーとは昔からの友人でね。彼は人を選ぶから、伴侶はどんな人だろうと思っていたけれど。想像通り、素敵な人だ」

「ありが、と。……って!?」

 加わった衝撃で眼鏡が浮く。

 目の前で腕が広げられ、胸元に引き寄せられていた。嗅ぎ慣れない異国の香水の匂いが鼻先に届き、大きな手が背を叩く。

 腕の中でかちこちに固まってしまった俺を見て、リベリオ王子は意識の違いを悟ったらしい。

 身体を離して目の前でにこりと笑う。軟派男と例えるには上品すぎる笑みと共に、手を取られて甲に形の良い唇が触れた。

「こういう時は、力いっぱい抱き返してくれると嬉しいんだけれどね」

「……旦那以外にはあまり、そういったことはしないもので」

「そうかい? まあ、一途なのはいいことだ」

 リベリオ王子は俺の背後にいる部下達にも同じように抱き付こうとしては、俺と同じように怯えられていた。シフやヘルメスはまだいいが、フナトやツクモは悲鳴と共に部屋の隅に逃げ込む勢いである。

 フナトは素早く指先で呪文を綴っているが、普段の彼が使わない類のものであることが一目で分かった。

「え、やだ……! 代理、このひと吹きとばしても!?」

「いいわけないだろ。王子もフナトも止まれ!」

 追いかける王子の首根っこを引っ掴み、フナトから引き剥がして宛がわれた席に座らせる。リベリオは、はは、と笑いながらフナトに向けて謝罪を述べた。

「いやあ。自国には小柄で愛らしい子は少ないけれど、俺はこういった子が好みでね。つい気分が盛り上がってしまった。ああ、危害は加えないから怯えないでくれ。お土産もある」

 ケルテ名産の菓子に、先程まで混乱していた場がぴたりと落ち着き、菓子の包みを開いてさくさくと囓り始めた。おやつを与えられた小動物の群れそのものだ。

 ようやくいつもの空気に戻った室内で、王子を連れてきたサーシ課長がのんびりと来賓を見つめる。

「彼、ニコ相手だと気が合いそうだよ」

「人間大好きな犬と同じ扱いですか」

 不敬だということも忘れて溜め息を吐き、リベリオに近寄る。

 椅子に座って脚を組んだ様子を見る限り王子に違いないのだが、初対面でのあの距離感が近すぎる態度に敬意は生まれ辛かった。

 向かいに椅子を持ってきて腰掛け、改めて彼と向き合う。

「そういえば、嬉しくて言うのを忘れていた。結婚おめでとう、ロア。大好きな友人が、君と巡り会えたことを嬉しく思うよ」

「ありがとうございます。結婚式にも参加していただけるとのことで……」

「敬語はいいよ。伴侶の友人だろう? 国自体の規模の差と、君が国に与えた功績から考えたって、俺に敬称を付ける必要もないと思うけれどね」

 口元は笑っていたが、秀麗な顔立ちを傾げる様には何となく含みがあった。

 ケルテと自国では規模としてはこちらが大きく、相手は王子だが、俺だって宰相の権力が強い国においての宰相の伴侶である。

 国に与えた功績、とはサウレ国王を庇ったということになっている、あの噂のことを指しているのだろう。噂は思ったより広がっており、妙に国民の人気を得ているのだ。

 リベリオは俺に、それらを総合して互いに差を付けるのは良くないのでは、と提案しているようだ。

「────確かにそのあたり微妙だな。友人だから砕けた話し方をしている、ということにしておくか」

「ああ、それはいいね。国同士の親交の深さにもなり得る」

 よろしく、と再度手を差し出され、今度は軽く手を取った。握手をしているくらいが、この男とは安心して付き合っていられる。

 差し出してくるケルテ国土産を受け取り、フナトに声を掛けた。

「フナト、悪い。遮音結界を頼めるか?」

「はぁい」

 質のいい遮音結界が展開され、俺は土産の菓子を追加でフナトに配分した。さて、とリベリオに向き直って口を開く。

「ナーキアの件は当事者なんでな。ちょっと詳しく話を聞きたいんだが」

「ああ、いいよ。反国家組織に金を流している貴族の話、はそちらでは出回っているよね?」

「出回ってはいないが、把握はしている」

 リベリオは自分でも土産の包みを開けると、血色の良い唇を開いて咥えた。

 ぱきり、と歯で折った菓子は魚を模した形をしている。ケルテは海がある国だと知ってはいるが、彼の国で何故これがお土産として名産なのかは謎に思った。

「その貴族は元、王の側近で力もあった。けれど、元々地下に潜った犯罪者組織とも繋がっては上手く使う……要は暗殺を繰り返していた人物でもあった。なんとか表舞台からは追い落とせたが、復権を狙って反国家組織に犯罪者集団から人員をやって育てるわ、暗殺は激化するわ。もっと表で綺麗に働けと言いたくなるほど暗躍が酷い。何とか理由を付けて牢に入れる方法を考えているところだ」

「証拠を押さえられてないのか?」

「押さえられない。おそらく何代も地下社会との繋がりがあったんだと思う。個人にしては質の良い魔術師も飼っていてね。ナーキアでも魔術で通信が遮断されただろう? やっぱりまだ繋がっては人員を流している気がするよ」

 シフが近付いてきて、俺たちの前に珈琲の入ったカップを置く。

 解毒魔術も考えたが、面倒がって俺はリベリオ王子のカップを持ち上げた。一口飲み、どうする、と視線を送ると、飲み物を渡すよう指先が振られる。

 持ち上がった掌にカップを渡すと、他人の口が付いた飲み物を気にする様子もなく口元に運ぶ。やたら美味そうに飲む様子に、喉でも渇いていたのだろうかと疑問が湧いた。

「伴侶に毒味をさせたと分かったら、ガウナーに刺されそうだね」

「いや。間接とはいえ口が付いたものを渡したことの方に嫉妬すると思う」

「はは。本命相手にはそうなるのか、恋に狂った男は面倒だなぁ」

 リベリオは余った土産を包装ごと机の上にぶちまけ、遠慮無く食べ始める。

 もっと追い詰められたような空気の男を想像していたが、表面上、明るくて親しみやすい王族、の仮面が剥がれることはない。その仮面が本質であるならば杞憂だが、素顔があるのなら気の毒だ。

「率直に聞く。俺たちの結婚式は。めでたい場であり、警備が制限される式は。……あんたにとって、危険な場になるんじゃないか?」

 ニコが俺を追って来た理由の一つは、このリベリオ王子に起因すると考えるのが妥当だ。だから『ニコがいる場の近くにリベリオがいる』状況をガウナーは作った。

 国家間での火種をこの魔術式構築課に押し込め、その対策の為に跳んできたニコを宛がう。クロノ神の筋書きを読んで場を整えるなら、おそらくこの状況が起だ。

 リベリオは目を細めて、唇を閉じた。態とらしく持ち上がっていた口角が元の位置に戻ると、ただ怜悧で刃物のような温度の美に様変わりする。

「俺には選択肢は二つしか無かった。旧友の『結婚式まで自国に居て危険に身を晒し続ける』か、『結婚式まで安寧に過ごして危険と思われる当日を甘んじて待つ』か」

 表情が凍ってしまう気がして、まだ熱いカップの中身を喉に流し込む。喉はかっと熱を持つのに、臓腑は冷え切っているようで腹に手を当てた。

 代わりに、目の前の男の表情が熱を持つ。ああ、仮面を貼り付けられた。俺はぼうっと変化を視線で追いながら、口に出すことはなかった。

「それなら僅かな間でも、平穏に暮らしてみたくなったんだよ。重い帯刀をせずに街を歩き、温かい食事を食べ、窓から怯えずに外を眺める。そういう暮らしが懐かしくなった」

「その貴族の暗躍は、長いのか」

「年数を数えるのも忘れるくらいかな」

 ふと視線をやったリベリオのカップは空になっていた。

 何の変哲もなく、高級であるはずのない飲み物だ。シフの淹れ方が上手いとか、喜んで飲み干すような代物ではない。

 屋敷の料理長のイワは、温度も調味料の一種だ、と言う。イワは俺が料理を魔術で温められる事を知り、主人が温かいままの料理を食べられるようになったことを喜んでいた。

 そして彼にとっては、温かい飲み物は珍しいものなのかもしれない。

「そういや、飯はどうするんだ? これから」

「ああ。頼めばサウレ……国王陛下の給仕が食事を届けてくれるそうなんだが、そう手間でもないし、自分で用意するつもりだよ」

「料理人を雇うつもりはないのか?」

「こちらの国で、信頼の置ける料理人を雇う伝手がなくてね」

 ふむ、と考えて、見知った料理人の顔が浮かんだ。

 彼はうちだけでなく色んな店を掛け持ちしていると言うし、長年、ハッセ家に大事にされてきた料理人でもある。そして、彼は脅されて主人に毒を盛るくらいなら、自分に刃を向ける類の人間だ。

 彼は料理人として芽が出る前からハッセ家に恩を受けた、と言っていた。受けた恩は働きで返す、俺が知る中で、彼以上に信頼の置ける料理人はいなかった。

「うちの料理人に、仕事を増やす余裕がないか聞いてみるよ。色々と落ち着いたら、あんたの元で働いていた事は良い箔になるだろう」

「助かる……けれど、あまり無理はしないように言っておいてほしい。命と仕事を天秤に掛けて、命を選ぶことは善いことだ」

 カップの中身が空になったことを知ったシフが、珈琲のポットごとこちらに近寄ってくる。毒味をどうしよう、と悩んでいる部下にリベリオはカップを差し出し、注がれたそれを俺に預けることなく口を付けた。

 視界の端で、ほっとしている部下の姿が見える。

「大丈夫。魔術式構築課、という組織は信用しても良いと言われているよ。俺がここに来るにあたって……済まないが、重ねて各人について調べが入ったそうだ」

 リベリオの言葉に、サーシ課長があ、と声を上げた。

「尾行けられてたの、それだったんだ」

「……あんた尾行も分かるんですね」

「宰相閣下に言っておいて。探知魔術についての対策が雑だよ、って」

 なんだ、と安心したように呟いている上司は、怒りもなく、謎が解決してほっとした様子だ。他の面子もそうだったんだ、と各々の心当たりを思い浮かべているが、怒っているだとか気分を悪くしている様子はない。

 密かな偵察に気づかなかったことを技量的に残念がってはいるが、それまでだ。

 俺という前例がいる以上、リベリオの立場についても理解している。皆であれだけ念入りに屋敷に対策をしたことも含め、同情も協力も惜しんではいない。

 ニコだけを理由に魔構を選んだにしても、確かに居心地良く過ごすのに、ここ以上の場所は王宮には無かった。俺個人ではなく、魔術式構築課という集団がリベリオに対しての砦になり得るはずだ。

「────ガウナーが魔術式構築課に、と言った時には、そんなに伴侶のことを信頼しているのか、と驚いたものだけど。君たちの国の宰相閣下が信頼しているのは、この課なんだろうね」

 リベリオは君たちのことを教えてほしい、と言った。

 最初の一撃を理由に怯えていた面子も、呼ばれて会話を交わしていくごとにリベリオに馴染んでいく。

 輪の中心で、一段と和らいだリベリオの表情が果たして仮面であるのか、話を続けているうちに俺には分からなくなった。

 

 

 

◇4

 リベリオ王子と初めて会って、気を張っていたのだろう。その日は寝付きが良く、布団の中で慣れた体温に包まれればすぐに眠りに就く。

 きっと夢なんて見ない、深い眠りは安寧だった。夢を見ること、クロノ神に遭うことを恐れるようになった俺には、疲れ切って布団に入る日が救いでしかない。

 けれど、神の救いは必ずしも人の救いにはならない事は知っていたはずだった。

 ぱちり、と目を覚ました時、目の前に広がっていたのは見慣れた天井ではなかった。鼻先には濃い花の匂いが漂い、ちゃぷり、と水に浸かる音がしたかと思えば水中に沈む。

 反射的に呼吸をしようと水を飲み込んでしまったが、息苦しさはなかった。身長の倍ほどの距離にある水面まで水を掻き、浮かび上がって水中から顔を出す。

 岸まで泳ぎ着くと、必死に這い上がった。は、と反射的に息を吐き出し、濡れていない身体を確かめる。眠る前には寝間着だったはずなのに、今の自分はナーキアで着た夜闇に紛れるための服を着ていた。

『偶には水浴びも良いであろう?』

 けたけたと嗤う声に、眉を跳ね上げる。

 視線を上げた先には、何度見ても見慣れない完璧な美が草の上にどかりと腰を下ろしていた。

 国を産み、国土を耕す助けをし、そして国を挙げて奉られることになった神。何故か夢を渡って俺の夢に居座り、そして、俺に不老不死を唆す存在。

「クロノ」

『敬称という言葉を知っておるか』

「……もう忘れた」

『まあ良い。甘やかさぬと、情は生まれんからな』

 手招きする仕草に、ふい、と顔を背ける。だが、ぱちり、と指が鳴る音がすればふらふらと脚が勝手に動いた。

 浅黒い腕が広がれば、招かれるままに俺はその腕に納まる。不貞を働いているような嫌悪感と、元いた場所に還った安堵が相反して渦巻いた。

「………………離せ」

『褥での嫌、は駆け引きと言うがな』

 首筋に添えられた指先に、言葉の意味に、ぞわりと寒気が駆け上がる。腕の中で藻掻いていると、流石にそれ以上は触ってこなくなった。

 ただ、腕が解かれることはない。耳元からでたらめな波をもつ声が流し込まれる。

『答えは決まったか?』

「──……っ、それ、は」

 断ればもうこの神とも遭うことはない。分かっていて尚、不老の選択肢を選べなくなることを恐れた。

 答えなければ可能性を持ち続けられるなら、ただ持っていれば良いじゃないか。誘惑が鎌首をもたげる。いずれ噛み付かれるやも知れないのに、俺は腕の中で迷い続けていた。

 沈黙が揺蕩う前に、その場を支配する声で満たされる。

『そうだ。リベリオは元気にしていたか?』

「なんであんたが、他国の王子を案じる」

 彼に対する疑わしさが声音に漏れ出ていた。

 男は俺の肩に顔を預け、ぽすぽすと後頭部を撫でた。彼らしいと思えない優しげな仕草に驚く。

 人の頭を撫でる仕草を、この神が真似られるのか。

『あれは我に関心があるようで、声が届く。──ケルテと呼ばれる地は、長らく神が根付かぬ土地だった。その地に生まれ育った子が、神に興味を持っている。救いに飢えているのやもしれんな』

「そう……、だろうな。リベリオは、救われたいはずだ」

 落ちた肩を支える仕草は、父から受けた慰めに似ていた。掌は大きく、伸びた爪が皮膚に触れないよう指の腹で撫でる。

 絶対的な味方に支えられているような安堵感さえあった。目の前の身体に体重を預けると、ほう、と口から息が漏れ出る。

『お前が身体の時を喪えば、何度だって誰かの盾になれる。リベリオだって救いやすくなるんじゃないか』

 ぐっと息を呑んだ。唐突に漏れ出す嗚咽のように、呼吸が苦しくなる。

 撫でていた掌が、後頭部から腰に下がった。つう、と態とらしくゆったりとなぞる仕草は、伴侶にしか許したことのないものだ。

 燃え上がるように腕に力が篭もり、目の前の男を全身で突き飛ばした。

 突き飛ばされた相手はその場に踏みとどまるが、僅かに目を瞠る。彼本来の仕草であるのか、それもまた何かを見て模したものかは不明だが、彼らしくもなく人間めいていた。

「…………そういうのは、許してない……!」

 ぎろりと睨め付ける表情が、彼に対して効くと思ってはいなかった。想像通り、クロノは良く通る声で笑い声を上げると、その場に座り直す。

 気分を害した様子もなく、俺の反応を愉しげに受け取ったようだった。

『何度突き飛ばされたところで、我は何度でも逢いに来る。神は夢を渡るが、人は他の夢へ渡らぬ。此処には伴侶は来ない。我と、お前だけの場だ』

「いやだ。触るな」

『不老が羨ましいのであろう? 望む心を捨てきれぬのだろう? だってお前は智を愛しているのだものな。伴侶が現れるまでは、全知こそがお前の夢だった筈だ』

 伸びた手を払っても、払っても。また指先は伸びてくる。何度かそれを繰り返して、浅黒い指先に頬が捕まった。

 添えられる指が拭って初めて、涙していることを知る。

『ロア。神託が下されなければ、お前はきっと迷うことなく老いぬ枝を選んでいたはずだ。幼い頃に感じた、自身の無力さを慰める道であるからな』

 目の前の男が恐ろしかった。嗤っているのに、その底には先も知れぬ黒々とした闇が渦巻いている。

 この存在が神託を与えた意図を、俺は今ようやく知る。声音は、口の端を持ち上げた存在から発せられる音だった。

『だから我は、神託によって枝を二股に育てたのだ。お前がいずれ折る枝を用意してやった。そうしたらどうだ、お前は見事に迷っている』

 この苦悩こそが、彼の用意した舞台で俺が求められた役どころだった。

 ぼたぼたと垂れる涙を拭うこともできず、俺は地に腕を突いた。力が抜ければ、そのまま倒れ込んでしまいそうだった。

 両肩を支えるように腕が伸びる。けれど、その腕は見知った腕でも、心地のよい腕でも、求めている腕でもなかった。

 広い胸元に倒れ込んで尚、俺はひたすらに孤独だった。

『────答えはいつでも構わない。また逢いに来る』

「もう……」

 来ないでくれ、とはっきりと口に出せず、悔しさに唇を噛む。その様子に気づいたのか、滲んだ血を指先が撫で、美麗な顔立ちが近付いてくるのが見えた。

 ふっと途切れた意識の先で、その顔を撥ね除けられたのか。結果は神しか知らない。

 

 

 

◇5

 目を覚ました時に視界に入った天井は、見慣れたものだった。ほっと息を吐き、額に浮かんだ汗を拭う。

 ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返し、ぼやけた視界こそが正しいものであることを確認する。眼鏡なしでも鮮明に見える夢は、瞳越しに見えている景色ではないのだろう。

 何度も執拗に景色を切り替えて、寝室であることを確認しないと落ち着かなかった。

「ロア?」

 見知った声が隣から聞こえた。その時に感じた安堵感を言葉に出すことができないまま、俺は伴侶に腕を伸ばした。

 急に抱き付いてきた俺に息を呑みつつ、ガウナーは背を抱き返してくれた。腕が腰に回ったとしても、肌が粟立つことはない。

 胸元に顔を寄せ、匂いの違いを実感して涙ぐみそうになった。

「ごめ、……怖い夢、見ちゃって」

 腕の中で震える俺を、優しい指先が撫でる。面倒がらずに真摯に応対してくれる相手に、胸に満ちていた心細さが和らいだ。

 落ち着いた声が、耳元から心地よく届く。

「ロアが怖がる夢なら、相当なんだろうな。夢の中でもこうやって寄り添えたらいいんだが」

「夢の中でもガウナーに頼りっきり、は。やだな」

「私は、夢の中でも君に頼られたいがな」

 くすくすと漏れる声は、木の葉が擦れる音に似ていた。誰かを傷付けることのない、俺を慈しむためだけの音だ。

 目に浮いた涙を、悟られないように相手の服に押し付ける。ぴったりとくっついて離れようとしない俺に、ガウナーはゆったりと姿勢を動かす。

 毛布を引き寄せて肩まですっぽりと包まれれば、朝の寒さも遠ざかった。

「くち、欲しい」

 毛布の内側で強請ると、ゆるりと口元が近付いてくる。

 瞳を閉じて、その唇を受け入れた。起きたばかりでかさついた唇を舐め、もういちど重ねる。至近距離で触れる吐息が熱かった。

 腰を引き寄せられると、身体が重なって距離を無くす。

「…………ふ、ぁ……。もっ、と」

 身体を擦り寄せ、舌を絡めれば熱が灯るには十分だ。

 ちらりと相手の仕事の予定が浮かんだが、昼までは空いていたような気がするし、撥ね除けられるまで押すことにした。

 口の中を刺激する舌を受け入れては乱し、相手の服の下に掌を差し入れて肌を撫でる。

「君にしては、積極的な誘いだな」

「ふふ」

 毛布の中に潜り込んで、相手の下の服に手を掛けた。ぐい、と引き下ろすと、僅かに反応を示している彼自身がまろび出る。

 頭上で動揺するような声が上がったが、無視してその剛直にしゃぶりついた。

「……ん、く。……ん、ぁふ…………」

 ぢゅ、と啜り、口を離してかぷりと竿を食む。直接的な刺激を避け、唇で側面を撫で、挟み込んで熱を育てる。気温が低い所為で、粘膜越しの熱が強く伝った。

 舌を出してざりざりと裏皮を引っ掻くと、漏れるような低い声が聞こえる。

「……っく。ロア、きみ」

 言葉を遮るように口を開け、砲身を喉奥まで迎え入れる。毛布の中では動きづらく、ゆっくりと前後して喉の裏に亀頭を押し付ける。

 こぷりと先走りが漏れ、口の中に溜まった唾液以外の味が混じった。こくん、こくんと飲み込む動きに先端を巻き込んだ。

 じゅぷじゅぷと立つ音は毛布より外に漏れることなく、朝の穏やかな陽ざしからも隠してくれる。もぞり、と動く度に頬を柔らかい起毛が撫で、褒められているような感触に包まれた。

 腰にしがみつき、茂りに鼻先を埋める。

「も、……ッ、あんまり夢中……に、なると。出てしまう……、が」

 ずろ、と口から長物を引き抜き、べ、と舌を出す。頭の上に掛かった毛布を軽く払って、見上げると、前髪越しに視線が合った。

 にた、と俺の唇が弧を描く。

「もっかい勃てればいいじゃん」

 そう言うと、また毛布の波下に潜って彼自身にかぶりつく。先端を吸い上げつつ前後すると男根は膨らみ、やがて先端からびゅう、と白濁を撒き散らした。

 独特の味が口の中に広がるのを余すことなく受け止め、口元に手を当てる。唇の端を溢れた体液が垂れ、指先で口元に運んだ。ちゅぷ、と指先から唇を離し、まとめてごくりと飲み込む。

 俺の喉が動いたのを見て、ガウナーは慌てたように身を起こした。

「ロア。無理は」

「……もう慣れた。キスしたいけど、唾液で流すから待って」

 もごもごと口を動かし、内側にこびり付くそれを舌先で洗って嚥下する。

 ぺろり、と唇を舐め取り、こくん、こくん、と何度かに分けて喉を鳴らした。しばらくそうしていると、口内が唾液の味だけになる。

 口からも魔力は混ざるようで、身体は更に昂ぶっている。

「たぶん、もう綺麗になったと思う──」

 首筋が引き寄せられ、唇に食らいつかれた。

 何が火を点けたのかは分からなかったが、大きな掌が服の釦を引き千切らんばかりに外していく。

 縺れ合いながらなんとか褥の中で魔術を掛け、前戯もそこそこに繋がった。楔が打ち込まれるのが心地よく、安堵感と共に腰を揺らす。

 けれど、あの夢がなかったらこうやって褥を共にしたのだろうか。彼を誘ったのは、後ろめたさ故ではないのか。

 ただ幸せな時間であるはずなのに、そればかりが胸の底に暗く淀んだ。

 

 

 

◇6

 意外なほどすんなりと、リベリオは魔術式構築課に馴染んでいる。

 普段は喧しいかと思いきや、静と動の時間がはっきり分かれており、学習をしている時間は美しい置物のようだ。

 神についての書籍を机に積み上げ、読んでは文書にまとめたり、絵として描き写したりしている。俺たちに物を尋ねる時と、菓子を配っての雑談以外では物音を立てない。

 初対面の空気ですわ軟派男かと警戒していた面々も、この様子を見せられれば真面目な一面を察しもする。ガウナーが訪ねてくれば一転、騒がしいほど声を張って場の中心に居座るが、どっちが彼の本質であるか今では疑わしく思っている。

 そんなリベリオが朝から書庫に行きたい、と切り出した時、俺もちょうど借りたい本があったのを思い出した。ニコが居なくなる危険もあることだし、二人して護りを連れて書庫に向かうことにした。

 外に出ると、ニコは見慣れた色を持つ青年に構って貰っている所だった。青年の斜め後ろには門番が控えており、疑問に思いながら声を掛ける。

「サフィア?」

「おはよう、ロア」

 見慣れた白衣を身に纏い、サフィアはニコの頭から指を浮かせた。

 肩に掛かった鞄には大量の本が詰まっており、全てに王宮書庫の本に貼られる印がある。彼がニコに会うために王宮に出入りするときは、書庫の使用許可を使っていたはずだ。

 俺が門番に視線を向けると、彼は一礼して進み出る。

「おはようございます、ロア代理。この度、書庫の使用許可者に関して、王宮内を歩く際には人が付くことになりました」

「そりゃ大変だな。まあ、書庫の使用許可は出づらいとはいえ、今までが緩すぎたか」

「ええ。部署に増員がありましたので、仕事量が増えたということもありません。こちらにお邪魔することも増えるかもしれませんが、よろしくお願いします」

「そっか。ニコ撫でてく?」

 門番である彼は顔見知りだが、ニコに触れるときに自然と表情が綻ぶ様子から、かなりの犬好きなのだろうと感じていた。

 いえ、と門番は首を振る。

「仕事終わりにお邪魔します」

 門番はそう言うと、後ろに下がる。視線はサフィアを向いていて、書庫の使用許可者が害されるよりも、害す方を警戒していることが見て取れた。

 サフィアはふかふかの毛に指先を埋めると、耳の後ろを撫でている。ニコは嬉しそうに受け止めており、二人の様子は平穏そのものだった。

 俺は意図的に進み出て、念のためリベリオの前に立つ。

「サフィアは最近、研究の調子はどう?」

 彼は言葉に応えるように振り返ると、ニコの頭から指を離して立ち上がった。

「まあまあ、といったところだな。ナーキアで伝承を聞けたのは興味深かったし、大神官にも色々と尋ねることができたとはいえ、のらりくらりとはぐらかされている部分も多い」

「ルーカスが?」

 反射的に意外に思ってしまった。だが、俺相手にも嘘は言わないがそのものずばりも言ってくれないか、と思い直す。

 サフィアは俺と会話をしている間、じっとリベリオを見ている。普通なら初対面の人物については紹介をするところだが、リベリオの滞在が国民にどこまで伝わっているのか尋ねるのを忘れていた。

 さらりと流しておこう、と決めて、話を切り上げる言葉を口に乗せる。

「神殿は秘匿情報の本拠地みたいなものだからな。頑張って」

「ああ、仕事中に済まなかった。では」

 サフィアは俺の言葉に素直に従い、門番に合図をして書庫に向かっていく。これから書庫に行くつもりだったが、彼が行くのならまた鉢合わせることになる。

 彼らが遠ざかったところでリベリオを振り返った。彼は顎に手を当て、サフィアの後ろ姿を興味深そうに眺めている。

「彼は、ロアの親族かい?」

「ああ、サフィア・モーリッツ。俺の親戚で────」

 学者で怪奇現象を主に研究していること、神術に興味を持つ人物であることを伝える。リベリオは説明を大人しく聞き、口を開いた。

「彼も、神に興味があるんだね」

「ああ。魔術で説明できないからこそ気になるらしい」

 ふうん、とリベリオはあいまいな答えを返した。

 視線はニコに移り、反応した当人が足元に近寄ってくるのを受け止める。サフィアが撫でていたのを見て学んだのか、同じ位置を撫でてやっている。

「聞き覚えがある名だと思っていたけど、ナーキアを擁する領主の息子だろう?」

「ああ、そうか。ケルテ国とも隣接しているものな」

 友好国とはいえ、隣接領地の長とその家族の名前くらいは把握しているようだ。俺が感心したように声を上げると、リベリオは、当然のことだろう、と目を丸くした。

「その、サフィア・モーリッツの父……領主はナーキアの一件の後はどうしてるのかな? 内々で別の領主に代わるらしい、とまでは聞いているけど」

「んー……、俺と直接交流がある訳ではないけど。まあ、その線で動いてる」

 ひとつの地区が他国の裏組織に乗っ取られ掛けた、という事実は重く、領主の責任問題になっている。表向きは『何も無かった』のだから、すぐに領主の座から引き摺り下ろして、とまではいかないが、長期的にまったく別の領主との交代か、後継者が育ちつつある父が兼任という案が上がっていた。

「こちら側としては、イニアック氏がフィッカ領と兼任してくれると有難いかな。隣国に睨みを利かせている領主がケルテの国境も担当するとなれば、反国家組織に加担している貴族もやりづらそうだ」

「そっちはそうだろうなあ。ただ父が斃れると困ったことになるし、名前だけ別の貴族を領主に立てるか、反国家組織を潰した後で父が兼任とか」

「父君がケルテ国境兼任となっては、反国家組織は手を出したくないだろうね」

 リベリオの言葉に首を傾げると、彼は両手でニコに構いつつ答える。綺麗な指先がべろべろと舐めたくられても、気にしてもいないようだ。

「モーリッツ一族の屋敷は魔術要塞だからね。侵入して捕まるとその国固有の魔術まで抜かれると専らの噂だよ」

「いや、捕まえたらそりゃ使ってる魔術くらい抜くだろ。裏社会で流行ってる魔術は表に出てこないんだ」

 素で言う俺の言葉にリベリオはけらけらと笑い、遠くに駆け出すとニコがその背を追っていった。すぐに書庫に向かうつもりはないようだ。

 俺がシャルロッテの近くに置いてある雪車を取り出すと、ニコは様子に気づいたのか全力で駆け寄ってきた。胴輪を持ち上げると、慣れたように顎を上げて胴に通す。乗るのがリベリオなら、と負荷軽減のために埋め込んだ魔術式を発動させておいた。

 装着が終わると、からからと雪車を引いてリベリオに近寄っていく。リベリオは意図に気づいたのか、台車に乗って片膝立ちになる。

 体勢が整ったことを確認すると、どっと速度を増した雪車がものすごい勢いで遠ざかっていった。よく通る笑い声が響き、同様に小さくなっていく。

「平和だなあ……」

 ふと視線を感じて王宮の窓を見上げると、見知った金髪の立ち姿があった。思わぬ幸運を嬉しく思いながら大きく手を振ると、ゆったりと振り返される。

 屋敷での伴侶の姿は見慣れているが、王宮で働く姿はまた別の趣きがあった。本来は、これくらい遠い人の筈だ。もし俺が不老になるとしても、この距離に、元に戻るだけだった。

 ぼんやりと距離を見ていると、からからと車輪が回る音が近付いてきた。

「ロア!」

 叫び声の方を向くと、大きな体躯が覆い被さってくる。リベリオは大きく笑い声を上げており、笑いすぎたのか、途中で荒く息を漏らしていた。

 ぎゅうぎゅうと力一杯抱きしめられると、流石に苦しい。背をぽんぽんと叩いて腕を緩めて貰うと、背後から前脚を上げてのし掛かってきたニコの体重でまた胸元に倒れ込んだ。

「おい。ニコまで……!」

「なんだいあの乗り物は! 俺の体重は軽くないのに、馬車よりも断然速く走る!」

 リベリオの腕が脇の下に潜り込み、そのままぐい、と空中に持ち上げる。ふわりと身体が浮き、唐突な浮遊感に脈が跳ねた。その一瞬、空でも飛んでいるような心地だった。

 俺はぎょっとしながら彼の頭に手を伸ばし、掴まりながら地に足を着く。

「君が作ったのかいロア!? 素晴らしい。君は天才だ!」

 大きく広げた腕が抱き付いてくるのに驚いて、胸の中で縮こまった。リベリオは雪車の出来に興奮しており、ニコも同じく俺に両側から抱き付いてくるのだが、長身の男と大きい犬とに挟まれると俺は埋もれて見えなくなった。

「お、おう。楽しかったんなら良かったよ……」

「ああ! もう一度乗ってもいいかな!?」

「いいよ。好きなだけ乗ってこい」

 ニコが胴輪に近寄っていくと、リベリオが構造を調べながらまた胴に取り付ける。台車に乗るなり、ニコは勢いよく走り出していった。

 俺は楽しそうな様子を見守りながら息を吐く。

 友人のそれと分かる容赦の無い抱擁は、伴侶から受けるものとも、神から受けるものともまた違う。三者の中では心臓に優しい方だな、とぼんやり思いつつ、ふと思い出して王宮の窓を見上げる。

 伴侶がいたはずの窓から、人影は姿を消していた。

 

 

 

◇7

 何となく、伴侶から見られているな、と思う事が増えた。

 俺に対しての態度に変化はなく、普段どおりの彼であるのだが、そう、神託が下りた直後のような印象だ。仮面を被られているような間を感じる。俺が苦手としている彼が戻ってきてしまったようだった。

 とりとめの無い不安を払拭しようと彼に近付き、触れようとしてみるのだが、やんわりと躱されている気もする。

 俺がガウナーを追い掛けるというのが初めての事で、上手く接触を持とうと試行錯誤しても、慣れないことに空回りした。忙しい時期の伴侶に話をする時間を作ってくれ、とも強く言えずに心細い日々が続く。

 普段とは違う俺の様子に気づいたのか、シフやリベリオが普段よりも話しかけてくれるのも情けなさを加速させていた。

「どうせ代理が悪いと思うので、初手謝ってみるのはどうですか?」

 変わりない職場での昼食の時間は、こういった相談事にうってつけだ。

 部下は平然とそう言い、昼休みになって屋台で買ってきた肉巻きに食いついている。自然に昼食を囲んでいるリベリオは、俺が持ってきた弁当に手を伸ばした。

 料理長のイワはガウナー経由で提案してもらった新しい勤め先を快く受け入れ、リベリオと相談しながら滞在中の屋敷に通ってもらっている。昼食は人数が増えるだけなので、量を増やした包みを俺が持っていくようになった。

 天気の良い外から、窓越しに明るい陽が差す。理想的な昼食の風景だが、悩みの当人である俺の曇りは晴れないままだ。

「謝って解決するならそうするけど、なにが悪いか分かってない奴の謝罪って悪手じゃないか?」

「ほんとに心当たり無いんですか」

 知られるはずのない夢の中を除けば、心当たりになりそうなものは見当たらなかった。夢が影響した現実から何かを悟られていたとしても、普通の人間には想像しえない内容のはずだ。

 俺はパンを持ち上げ、悩みと共に千切る。断面は不揃いででこぼことしていた。

「ないけど。何にもしてない自信もない」

「俺も聞いてみたけれど、ガウナーは何でもない、と言うばかりだったな」

 リベリオもそう言い、首を傾げた。妙に場に馴染み始めたリベリオは、弁当の料理が手掴みであろうと気にもせず、日々、料理人を褒めている。

「そっか……」

 予想外だったのは、身体を重ねなくなるほど魔力が不調になることだった。

 俺が無意識で形作っている魔力が、定期的な伴侶の魔力を受けることを前提として波形を作っている。行為がなくなった魔力はがたがたで、変に穴が空いたり盛り上がっていたり、扱いづらい代物に成り果てていた。

 魔術師が恋人にのめり込むほど魔力を沿わせ始め、形を変えた魔力は恋人なしでの生活を苦痛にさせる。その痛みは、離れてみなければ分からないのも質が悪かった。

「時間取って仲直りしてくださいよ。魔力の調子まだ悪いんじゃないですか」

「まだ悪い、っていうか、悪くなる一方だぞ。昼からの仕事も任せたい案件いっぱいある」

「あー、あー。やりますけど……。代理にとって繊細な魔力調整が必要な案件って、おれだってそうですからね」

 近くで話を聞いていたサーシ課長が、食事の合間に口を開く。

 手元の弁当は彼のものにしては鮮やかで、普段の食事量からすると大盛りにしてあった。本人が作ったものではないことは明らかだ。

「仲違いしたままじゃ良くはならないよ。馴染んじゃった魔力って、離れたら落ち着くかっていうとそうでもない、扱いづらいものなんだよね」

「サーシ課長、なんかいい方法ないんですか?」

「あったら僕だって腐れ縁をもっと上手く切れているよ」

 俺とガウナー以上に長年の付き合いであろう、隊長との関係を示唆した言葉は重い。俺がずるずるとこの状況を続けていても、ガウナーと離れるだけ身に跳ね返ってきそうだ。

 うーん、と唸りながら、経験者に縋り付く。

「じゃあ、仲直りするにはどうしたらいいですか?」

 サーシ課長は浮いた手のひらをぶらりと揺らした。

「僕の場合は、相手が付き纏い続けるから何時もなあなあに解決する。酷い喧嘩の時は殴り合いになるけどね」

「殴り返されないの知っててやってるでしょ。程々にしてあげてくださいよ」

「殴り返されなくても制圧はされるんだよ?」

「さすが防衛課」

 子ども相手に飴を渡し慣れていたあの隊長がサーシ課長を殴り返すなんて有り得ないはずで、その手加減に甘えきっているのも一種の信頼なのかもしれない。

 他に何か、と更に案を求めると、目の前の上司は首を傾けた。

「……あ。僕の機嫌を取りたい時、大概、美味しいものが用意されてる」

「あ、今までの話で唯一参考になりそうです。ありがとうございます」

「はは。唯一が余計だな」

 幼げに赤い唇を尖らせる上司を尻目に、俺はガウナーの好物を思い起こす。食事は料理長が用意するだろうから、甘味を買って帰ろう。

 帰り道の予定を決め、少し浮かれた気分で食事に戻った。

 昼からの仕事も部下の助けがあれば山はなく、規定の終業時間が過ぎるとみな帰宅を始める。俺も残りそうな部下に声を掛け、目処が付いたところで鞄に荷物を仕舞った。

 『今日は夕食一緒にどうですか発信機』と呼ばれている装置を取り出すと、まだガウナーからの連絡が来ていないことを確認する。夕食を食べるか尋ねたかったが、魔術で連絡を取るのも気が引けた。

 ニコを連れて職場を出ると、適度なざわめきを持つ街に足を踏み入れる。

 夕暮れの街にはちらほらと寄り添う人たちが歩いていて、街灯が光り出すと足元の影が濃くなった。冬の街は日が落ちるのが早く、躙り寄る寒さに首を縮め、鈍い脚を踏み出す。

 人混みをすり抜けて歩く俺の膝裏に、ぽすんと柔らかい感触が当たる。俺が振り返ると、ニコは口角を上げてまた、ぽすん、と膝にぶつかってきた。

「なんだよ」

 子どもにすら気を遣われるとは、情けなさに眉を下げながらニコの頭をひと撫でした。

 目的地は行き慣れた菓子店で、伝手があるミャザの果物を使った菓子がよく並んでいる場所だ。

 派手な色で塗られた扉を開け、店主に挨拶をしながら店に入った。店自体は大きくないが、内装は温かみを感じる色と可愛らしい小物で構成されている。

 季節の花が飾られている一角から視線を外し、色鮮やかに並んでいる菓子に目を通す。

「今日、ミャザ産の果物を使った菓子はあるかな?」

「ありますよ。こちらは──」

 勧められた菓子に使われている果物は、旅行中にガウナーが使った果物とは季節違いで別のものだったが、縁がある場所だし、とその菓子を二つ買い求める。

 そうだ、と店主が家の前で待っているニコに、硝子越しに視線をやる。

「こちら、犬が食べてもいい食材だけを使ったお菓子でして。ニコちゃんにいかがですか?」

「わ、商売が上手くてびっくりした。一緒に貰うよ」

「はは。最近ではロア様以外にもお連れの方がいらっしゃいまして、試験的に売ってみることにしたんです」

 代金を支払うと、店主は選んだ菓子を袋に入れ、手渡してくれる。受け取った薄茶色の紙袋は不思議と冷たさを感じなかった。

 袋を手に外に出ると、待っていたニコが脚に擦り寄ってくる。狭い店内だし、少しの時間だからと思ったが、寒かっただろうか。空いている手で強めに撫でると、遊びだと勘違いして妙にはしゃいでいた。

 帰り道を白い息を吐きながら歩き、人混みを抜けると、脚の周りを無駄に回りながら併走するニコに付き合う。

 きっとガウナーだけの家だったら、仲が上手くいかなくなった途端に俺はもっと萎れていたんだろう。だが、三人だとそれも和らぐ。

 家に辿り着き、お湯で湿らせた布で肉球を拭ってやると、礼代わりか顔をべろべろとやられた。感情より先に笑みが零れ、顔を擦り寄せる。

「一緒に暮らしてるからこそ、きっと離れるのが寂しいんだよなぁ」

 零れた言葉に後を引かせず、ニコを促して廊下を歩いた。食卓には書き置きと料理が並んでおり、鮮やかな食卓に胸が軽くなる。

 隅っこの空いた場所に、買ってきた菓子を皿に載せて並べた。いっそう色の増えた食卓を満足げに眺め、上着を置くために衣装部屋へ向かった。

 上着を脱いでいると、発信機が転がり出た。夕食をどうするかの返事はなく、俺は動かないその装置を長いこと眺める。ぽつんと立ち尽くす部屋に、音はなかった。

 俺が戻ってこないのを不思議に思ったらしいニコが駆けてくる音が聞こえると、俺は慌てて発信機を仕舞い込み、一緒に居間に戻った。

 菓子まで買ってきておいて、先に食べた、と言うのもばつが悪い。

 長期戦も覚悟の上で、大量に積み上がった本の上から一冊目を手に取る。家主が寛ぎ始める様子を見て取ったニコは、口元に金糸雀色の毛布を咥えてこちらに歩み寄り、ぼふ、と俺の膝上に塊ごと放った。

「うわ」

 俺が両手で本を持ち上げ、目を丸くしていると、毛布の端を軽く噛み膝を覆うように広げる。皺くちゃのまま毛布が広がると、俺の隣に大きな身体が腰を下ろした。

 いい子、と頭を撫でながら本を広げ直すが、思い直して別の本を手に取る。ガウナーがたまに好んで眺めている画集で、こちらなら隣に座っている子どもでも面白く読めるだろう。

 俺がぺらりぺらりと頁を捲ると、星空が浮かぶ瞳を瞬かせながら絵を追う。動物に風景、人に建造物、絵が流れていく様を二人で見送った。頁を捲るのが早すぎると、素早く差し込まれた前脚で止められる。

「人ばっかり見るんだな」

 クゥ……、と戸惑いを含んだ声が漏れる。俺よりもじっくりと絵に目をやる様子は、興味で溢れていた。

 本を読み終わると、新しく同じような画集を持ってきては頁を捲る。毛布の端をニコの身体にも巻き付けてやると、更にべったりと肩に頭を預けた。

 画集が何冊か積み上がった頃、ニコの耳がぴくりと動く。察した俺が立ち上がると、そっと毛布から抜け出て後を追ってきた。

 廊下を通って玄関に向かうと、やはり帰ってきたのはガウナーだった。

 駆け寄ってきた俺に目を瞠り、飛び込んでいくと慌てて手を広げる。ぐぐ、と体重を掛けると、反応の鈍い腕がようやく背に回った。

「おかえり!」

 何も知らない婚約者であった頃のように、声を跳ねさせる。近くで唾を飲む音がした。

「……ただいま」

 上着と鞄を受け取って魔術で片付けてしまい、食卓へと促す。廊下を抜け、食卓を視界に入れたガウナーの瞳は大きく見開かれた。

「待っていてくれたのか?」

「本に夢中になってて」

 あれ、と指差した先に積み上がった本に、ガウナーは納得したように声を漏らした。食卓につく準備をして椅子に腰掛けると、並んだ料理の隅にある菓子に視線が辿り着く。

「…………悪かったな。連絡も入れずに遅くなってしまって」

 眉の端が萎びてしまって、いや、と気まずく思いながら声を上げる。

「俺も気にさせてごめん。せっかく買ったから、二人で食べたくて」

 誤魔化すように指先を動かし、料理に温度を灯す。目の前のガウナーに笑いかけると、それを合図に食事が始まった。

 普段なら食事の間も歩き回っているであろうニコが、今日はガウナーの足元に寝そべった。椅子の脚を囲むように巨体が横たわれば、動こうにも動けない。

 温かい料理を口に入れたが、美味しいはずの味が遠かった。もごもごと咀嚼しつつ、話を切り出す機会を探る。

「────あの、ガウナー」

「ああ。……いや、流石に分かる。菓子を買ってまで私との仲を繕おうとしたのなら、やはり最近の私の態度は悪かったんだな」

 毒が落ちたように、あっさりと認めるガウナーは、息を吐いてパンを囓った。パンが口内で水分を吸って膨れ、嚥下しても彼はなかなか口を開こうとはしない。

 手元でまだパンに掛かった指先が躊躇うように動き、何かが決まったのか、指先のほうが止まった。

「正しいことを確認するつもりで聞くが」

「ああ」

 料理に手を付ける気にもならず、食器を一旦置く。

「リベリオに恋情はないよな」

「………………はぁ? 無いよ。でも、そんなのガウナーだって分かってるだろ」

「分かっている。分かっているのに嫉妬して、羨んで。そんな自分を嫌悪する」

 はあ、と聞こえるほどの溜め息が零れ、気を取り直して食器を持ち上げる様子は億劫そうですらあった。

 彼らしくない、と言うのは簡単だが、自身の仕事が詰まっている上で俺の周辺が大きく変化したことは、ガウナーにも精神的に負荷を与えてしまっていたようだ。

 冷たい銀食器にまた手を伸ばそうとして、金属の冷たさに怯える。

「そか。俺はいま、原因が分かって嬉しいのと、細かく吐き出させてやれなかったのを悔やんでる」

「ロアが悪い訳では……」

「俺とガウナーのことだろ? 俺も悪いよ。だから、早く気づけてよかった」

 浮かべた笑みはぎこちなかったけれど、返ってくる微笑みがあった。ほっとして、これまで感じなかった空腹を自覚する。

「自分が忙しい時に、俺がリベリオと仲良くしだしたから……、って理由。でいいのか?」

「ああ。私は君の職場に毎日は通えないし、リベリオは君も含めて身体に触れることを躊躇わない。だから、あいつが君に友愛をもって接しているのは分かっても、……羨ましくもなる」

「でも、リベリオのあの過度な接触って。処世術だろ?」

「…………だから、自己嫌悪するんだろうな」

 言葉はいっそう暗く、スープの底に沈めた銀色は光を返さない。これは友人の方の肩を持ったことになるのか、と立ち位置の難しさにたたらを踏んだ。

「ああ、そりゃ知ってるか。ごめん、もうそうやって自分を責めるのは無しで。俺が悲しくなる」

「すまない。最近、癖になってしまって」

 目の前にいる彼は、見慣れない雑味の混じった表情をしていた。

 自分が結婚式に向けての仕事に忙殺されている間に、旧友が自分の伴侶と仲良くして、尚且つ自分が座りたい席に座っている。けど、その嫉妬心は八つ当たりでしかなく、ガウナーにしては珍しく、上手く処理できなかったのだろう。

 やっぱり、対処すべきは俺の方だ。こうやって謝り合っていても埒があかない。

「なあ、食事のあと。菓子はソファの方で食べない?」

「構わないが。どうして」

「俺が取り分けて、食べさせたげる。そういうのってリベリオにはしないだろ。そういうことが、たぶん必要なんだろうな」

 全く意識していないだろうが、彼の口元が綻んだのが見えた。視線が彷徨って、動揺している様子も見て取れる。

 同じだけの重さを返したくても、やっぱり彼の愛情は更に深いのだった。

「ガウナーが表面上なにごともなく接してくれる気遣いは嬉しいんだけど、俺たち折角こうなれたんだし。お互いが嫌なことだって言い合いたいよ」

「それは、……私もそうだ。君に失望されるのは怖いが、私が抱える面倒な部分ごと受け取ってほしいとも思ってしまう」

 足元ではニコがぐりぐりと頭をガウナーの脛に擦り付けている。少し垂れてしまった頭がかなしくて、手を伸ばしたくても届かないのがもどかしかった。

「面倒だとは思わないよ。預けてほしい」

 食事が再開され、普段どおりに仕事場での話を交換する。言葉の端々に普段は聞けない弱音が漏れるが、言葉を選んだそれはただ微笑ましかった。

 お互いに我慢していたものを取り戻すように、食事も会話も忙しない。ただ、溜め込んでいたものがあった事は恐ろしく、これは今日で全て片付くようなものでもないのだ。

 食卓の上の皿が空になり、食器を片付けると皿に盛った菓子と共にソファに移動する。近くの小机に皿を置くと、ガウナーと並んで腰掛けた。

 普段ならうろちょろとしているニコが珍しく付いてきて、ソファに上がると俺の隣に座る。大きいのと大きいのに挟まれた形になり、つい視線が彷徨った。

「ニコの分もあるから、ちょっと待っててな」

 双方から寄り掛かられる所為で動きづらい。くすくすと笑い声を上げながら、菓子用のフォークで柔らかい生地を切り分ける。

 果物が練り込まれた菓子は、割ると中に黄色い果肉の色が見える。そっと掬い上げ、口元に運んだ。

「はい。あーん」

 目元がさっと染まり、こほん、と咳払いをした上で形の良い唇が開かれる。そっと口に欠片を放り込み、咀嚼を見守る。

 本や演劇で見る熱愛中の恋人たちのようであり、俺がそうすることに価値を見いだせずに、避けてしまう行動でもあった。

 口の中のものを飲み込むと、彼はぽつりと美味しい、と言った。

「美味しかったんなら良かった」

 更に切り分けて差し出すと、今度は自分から口を開く。表に出る感情が最近では珍しく、目元が、唇が、吐息が嬉しいと告げていた。

 フォークを皿に置いて、近付く肩に寄り添う。離れがたく思っていると、太腿の上を前脚が掻いた。

 ニコの視線は机の上の他とは違う菓子に向いており、それが自分のものだと分かっているかのようだった。

「ああそうだ。自分のも欲しいよな」

「じゃあ、ニコには私からあげよう」

 ガウナーが皿ごと菓子を持つと、ニコは俺の上に身を乗り出して菓子をねだった。ガウナーが皿を差し出すや否や、ばくんと大きな口の中に菓子が消える。文字通りの一口だった。

 流石の伴侶も目をぱちぱちと瞬かせ、空になった皿を見やった。ニコはぺろぺろと何度も皿を舐めるのだが、そこには欠片たりとも、何かが残っていたりはしなかった。

「ご馳走様かな」

 ガウナーがそう言って皿を机に置くと、ニコももう無いことを悟ったらしい。自分で丸呑みした癖に、気落ちしたようにぱたりと俺の太腿の上に伏せった。

 俺たちの菓子をねだろうとしないあたり、与えられていない食事を食べるつもりはないようだ。

 ガウナーは皿を持ち上げると、菓子を切り分けて俺の口元に差し出す。思いっきり口を開けて頬張ると、果実の甘味がいっぱいに広がった。

「美味い」

「こういうのは、いいな。私もまた買ってくる」

 ニコの頭を撫でながら、寄り掛かる体温ごと味わう。今なら少し、我が儘にもなれる気がした。

「……そしたらまた食べさせてくれる?」

「喜んで」

 肩を抱かれ、生地のようにふわふわなキスが降る。くすくすと笑いながら、互いに菓子を食べさせあった。

 そうやって触れていると、ガウナーの魔力の形に僅かなぶれを見つけた。俺が魔力を流し込む度にぶれが減っていくので、整えるように意識して魔力を流し続ける。

 ぺたぺたと首筋や頬、手に触れているものだから不思議に思われそうだが、ガウナーは何故か喜んで受け入れていた。

「なんだろう」

 ぽつりと呟いて、ガウナーは考え込むように手に視線を落とす。指を開いて、閉じてを繰り返し、確信したように言葉を続けた。

「君に触れていると、毒が抜けていくような気がして。もっと触ってくれるか」

 彼も無自覚なまま落ち着いている様子に、思い当たるものがあった。

「そっか。ガウナーも魔力量は少なくないから、俺と同じ症状が出るんだ」

「同じ症状?」

「ん。二人の魔力が混ざった状態を自分の魔力だと身体が誤解しちゃってるから、それが欠けると体調に変化が出ちゃう。長期的には治るんだろうけどな」

 へらり、と笑みを浮かべると、ガウナーは驚いた様子だった。

 俺の手を掬い上げ、摘まんでは離す。何かを確かめるようなその動作を、黙って受け入れた。

「つまり、君の魔力が混ざった状態を私の身体は平常だと認識して、君と触れ合ったからいまは落ち着いている、と」

「俺もいつものガウナーの魔力は知ってるから、均したりしてみたけど、どう? 体調に悪いところがあったのなら、それも治ってるかもよ」

「そういえば、最近疲れが取れなくなった気がしていたんだ。もう私も歳なのかと憂鬱に思っていたが」

「去年まであれだけ働いてた人が一年でそこまでなるってのも考えづらいし、魔力って生命力だから、分かりやすい症状だよ」

 そうか、とガウナーは深々と息を吐き、菓子を掬って口に運んだ。思い当たる節がありすぎたのか、あぁ、と低い声が漏れている。

 ふと、ぱっとその表情が輝いた。

「ということは、疲れたと感じたら意識して君に触れたらいいのか」

「そしたら他の人への嫉妬も薄くなるだろうし、魔力も混ざっていいと思う。でも、一番効くのは……」

 ガウナーの口の端に付いた欠片を、近付いた舌先で掬い取る。丸くなった目元が愛らしくて、唇が歪んだ。

 こくりと飲み込んだ欠片の甘さは、濃く舌に残る。

「────粘膜同士で触れ合うことかな。これも、あんたにしかしないこと」

 いつの間にか、太腿の上にいた筈のニコはいなくなっていて、耳を澄ませばトントンと階段を上っていく音が聞こえた。俺とガウナーばかりが話している間に、満腹で眠くなってしまったのだろうか。

 この隙に、と首筋に縋り付くと、眼鏡が都合良く抜き取られた。引き寄せて、甘い唇にかぶり付く。

「…………ン、ぁふ」

 遠くで、かしゃんと眼鏡が机に放られる音がした。

 強い力が腰に絡み、離れた瞬間に食いつかれる。仲違いをしていた間はほんの少しだった筈なのに、乾いた砂のように身体は彼の魔力を吸っていった。

 多少の接触では、魔力が混ざるようなものではないのだろうか。反射的にそう考えながら、色気がないと思考の曇を散らした。

 ガウナーの視線が、この場にいるべきではないニコの姿を探す。ふわりと笑いを零しながら、軽い口を開いた。

「眠くなって先に上の階に行ったみたい。外が寒いから寝室に行きたかったんじゃない?」

 部屋の隅からは、ニコの毛布も消えていた。器用に咥えて持っていったのであろうことが窺える。

 ガウナーは頬を擦り寄せると、耳元で言葉を紡ぐ。

「なら、寝室に行ったら鉢合わせるな」

 廊下との境にある扉は開いたままになっていた。俺はそっと立ち上がり、扉を閉めてから遮音結界を張った。

 どうせニコ相手なら破られてしまうだろうが、音は防げるし時間稼ぎくらいにはなるだろう。ナーキアの宿屋でのあの失態は、まだ頭にこびり付いていた。

 他の出入り口を確かめてから、ガウナーの膝の上に戻る。俺が呪文を紡いだことで何をしたかは分かったようだ。

「おや。今日は積極的だ」

「明日に障るから、一回だけな」

 自ら首元の釦を外し、首から胸元を露わにする。

 外しきる前に顔が首筋に埋まり、別の手に役割を奪い取られた。片手で綺麗に釦が外されていき、大きな手のひらがべったりと胸に張り付く。

 指が胸の飾りを摘まむと、快楽の火が点る。

「君の一回?」

「俺の……だとすぐ終わるけどいいの? けっこう溜まってるんだよな」

「それは私も同じだ」

 相手のシャツの釦に手を掛け、上機嫌に顔を緩ませながら外していく。服の下の肌は白く、誘われるままに首筋に吸い付いた。くすぐったいのか、目の前で喉が動く。

 首筋から鎖骨に移り、服で隠れる位置で強く吸った。慣れない赤みは、ぼんやりと薄く色付くばかりだ。

「上手く付いたか?」

「分かってる癖に」

 誤魔化すように唇を尖らせると、軽く唇を重ねられる。首元が開いた伴侶が、唇の表面を舐め取って笑う。鮮やかに色付いた唇は、火照って色を濃くしていた。

 ぞくりとするような色気のある貌は寝室でしか見せてくれず、もう俺だけのものだ。膝に乗り上がり、ソファの背に大きな身体を押し付けた。

「今日はどうしたいか希望ある?」

 普段はそう聞いたりはしないのだが、以前打ち明けられた職場のローブ姿に擽られるものがある、という話を思い出した。

 ふむ、とガウナーは考えると、思い付いた様子でこう言う。

「普段はここではしないから、君を脱がせたいかな。服を全部」

「うわ。聞かなきゃ良かった」

 後日、思い出して居間で照れることになるのは俺の方だ。

 とはいえ、提案した側が反故にするのも話が違う。かっと頬が赤らむのを自覚しながら、肩に掛かったままのシャツをソファの背に放る。

 膝立ちになって服を脱ぎ落としていくと、静かな空間に衣擦れの音だけが響く。

「……喋っててくれよ。恥ずかしい」

 視線を壁に逃がすと、伸びた腕に肩を撫でられた。素肌に伝う指先だけにもぞくぞくして、彼との接触が足りていなかったことを自覚する。

 じっと肌を視線が伝っている。喋ってくれ、と言った割には色気のある言葉のひとつも思い付かなくて、俺もまた黙って服を脱ぎ落とし続けた。

 髪から結い紐を抜き取ると、産まれたままの姿になる。久しぶりの交わりで、そわそわとしている姿が晒されるのは居たたまれなかった。

「ガウナーも脱げよ」

「私が脱いだら、ロアの恥ずかしさが薄れるからなあ」

 胸元をはだけた程度で崩れていない服を、彼は脱ぐ気は無さそうだ。自分だけが裸であるのは心細く、左腕を捉えてつい隠そうとしてしまう。けれど、悪戯な指先はそれを解くように右手を掬い取り、空中に放られてしまった。

 じとりと睨め付けると、目の前の瞳は溶けかけている。視線がくすぐったくて、その蒼の目を隠すように手で覆った。

「悪趣味だ」

「目で楽しむ趣向もいいな。……ふむ」

 何事かを思い付いたように好色な笑みを浮かべる伴侶を、手を外して不安と共に見つめる。

「ああ。そうだ『目隠しして、しゃぶってくれる』んだったか」

 うっすらと、記憶の隅にそんなことを言ったような覚えがあった。きっとあんたはそういうのが好きだろう、だとかなんとか、自分の口がほざいたような気がする。

 はあ、と息を吐いて、目隠しを探す伴侶を手で制した。

 唇を開いて、指先で瞼をなぞりながら呪文を紡ぐ。瞼を一時的に動かなくするための魔術は、決して閨のための魔術ではなく、集中力を高めるために用いる補助魔術だ。

 瞬きをしようとしても、瞼が動かないことを確認する。

「これでいいか?」

 尋ねても、目の前は何も見えない。答えがないことを不思議に思って手を伸ばすと、そっと何も無い場所から肩に触れられた。

 びくんと身体が跳ねる。

「そういうことをしていいのか? 私は何をするか分からないぞ」

「……いじわるしたら泣いてやる」

「善処しよう」

 彼の腰らしき場所に手を伸ばすと、補助をするように別の指先がベルトを抜き取った。前を寛げて指先で確かめながら、彼自身を引き出す。

 口に含むために形を指で辿っていると、上の方から微かな笑い声が上がった。

「くすぐったい」

「我慢しろ」

 ようやく先端の場所を確かめ、唾液を溜めた口に恐るおそる迎え入れる。上手く含めずに、唇の表面を丸い部分が掻いた。

 まだ帰宅してすぐの肉棒からは、普段嗅ぐことのない匂いが届いた。すり、と口蓋を擦って、喉の近くまで迎え入れる。舌先を裏筋に当て、ざりざりと掻く。

 上半身を倒し、彼の茂りに深く顔を埋める。解かれた髪が頬を滑り、面倒に思いながら掌で後ろに流した。かぷ、かぷ、と食んで味わうと、別の味が混ざり始める。

「……ふ、……っ、く。ロア」

 引き出した先端に唇を当て、ちゅう、と軽く吸う。ぴくんと動いた竿に手を添え、鈴口に指を埋める。

 かりかりと柔く掻くと、こぷりと溢れるものが指に絡んだ。

「腰が、上がっているよ」

 からかう声音に、かっと頬に熱が灯る。

 照れを誤魔化すように彼の半身にかぶりつき、口内全体を使って擦り上げた。輪を作って顔を上下すると、動く度に抽送に似た音が立つ。仕返しのようにぢゅっと強く吸うと、呻き声が追随した。

 ざまあみろと心中で舌を出し、曲げた舌で側面を梳る。達かせて一回だ、と言ってやろうと思ったが、その前に肩が押されて引き剥がされた。

「……ッ、もういい。君に挿れられなくなる」

 はあ、と間一髪だったらしい切羽詰まった息が漏れ、俺はつい舌打ちをする。その音に意図も伝わったようで、苦笑する声が聞こえた。

 腰を支えた上で肩が押され、ぽすんとソファに倒れ込む。太腿を掴んだ腕が、性急に脚を割り開いた。

「すぐ突っ込みたいなら、追加で魔術使ってやってもいい」

「それは、いい提案だが。────素直に使ってもくれなさそうだな」

 はは、と俺の口からは肯定の声が溢れ落ちる。今日はけっこう伴侶のお願い、に素直に応えたつもりだ。

 目の前の顔は見えなくとも、切羽詰まった空気は肌から伝わってくる。

「休みになったら、また抱いてくれ」

 今日のところは我慢する、と告げ、続けて呪文を指先に載せた。今日は慣らされてもいない場所が潤み、男根を受け入れられるように変化する。

 そっと脚を開くと、強い力で腰が引き寄せられた。急な動きに制止の声を上げる前に、ぬるりとしたものが後腔に当たる。

「──────ッ! あぁっ、……っぐ」

「ああ。約束、だ」

 ずぶり、と串刺しにした肉槍は、勃ちあがって膨れきっていた。内壁をごりごりと掻き、半ばまで埋まる。

 ふー、っと長く息を吐く音がする。視界が遮られている所為で、音と匂いが近い。

「っぁ、……く、う」

 一度引いた腰が、角度を変えて打ち付けられる。濡れているとはいえ、指先で慣らされていない場所が太いもので押し拓かれていく感覚は物慣れない。

 ずぶずぶと埋まっていく度に、脚が空を掻いた。

「今日……ッ、は、やけに食いつくじゃないか」

「……うるさい」

 縋るものがなくて、一挙一動に反応してしまう。悪口を窘めるようにずっと雄を動かされ、びくんと震えて唇を噛んだ。

 太腿に指が食い込む感触にさえ、いちいち震えては快楽に変換される。

「あんただ……っ、て、長く保たない、……ん、じゃ。────ァ、っぁあ」

「ほう」

 膝に添えられた腕が脚を両側に開くと、繋がった部分が彼の目の先に晒される。指が肉輪の縁に触れ、すり、と押してこすれさせた。

 踵で相手の背を小突くと、笑い声に似た音で喉を鳴らされる。

「……赤くなって、てらてら光って、私のにぴったりと吸い付いてくる」

「ア───ひ、ん、うぁ」

 緩く腰が引かれ、ぐり、と奥に押し付けられる。前戯なしで突っ込んだからか、視界が失われているからか、上手く力が抜けずに絡み付いては身を苛む。

 弱い場所も知られている所為で、奥だけを身体を使って揺さぶられた。

「……ぁ。ぁあ、ン……ふ、ぁ、っは、うあ」

「最初、……は、届かなかったのに。奥で呑み込むのが上手くなった」

「何回も突っ込まれりゃ、────ッ、だから、そこ、は、……だ、め、っ!」

 ぐう、と喉の奥を閉じて、絶叫を封じ込める。その様子が面白くなかったのか、親指が口に差し込まれ、歯を押し開くように右に引かれた。

 文句代わりに奥歯で甘噛みすると、唇を辿って引き抜かれる。溜まった唾液が口の端から溢れた。ぼたぼたと垂れるそれが、首を伝って神経を引っ掻く。

「……ぁ。うあ、……ぁ、っひ、ぐ。……ぁああッ」

 限界が近いのか、ずぶ、ぐぷ、と細径を剛直が行き来する。まだ後ろで咥え込むのに慣れていなかった時のように、重い質量が肉襞を割り拓いていった。

 お互いの吐く息と、結合部から立つ水音と、肌を打ち付ける音。視界が奪われている所為で、耳を滑っていく波形さえもが快楽だ。

「ぁ、あ。……ぁあ、ンぁ、あぁ、あ、あ。……い、っく……」

 持ち上がっていた自身も張りつめ、身のうちにあるものと同じように膨れ上がる。脚を相手の身体に絡め、律動に合わせて腰を揺らす。

 息をする音が近い。そこにいるのが伴侶であることに疑いようはなかった。肌に掛かった指に力が篭もり、更に強く食い込む。

「なら、これで一回、────だな!」

 大きく引かれた腰が内壁を擦りながら突き下ろされ、ようやく慣れはじめた場所を一気に押し潰す。

 こふ、と咳のように強く息を吐く間、短い沈黙があった。

「く、う。────ぁあ、ああぁああああぁッ!」

 身体の中に熱が流し込まれるのを、抱きかかえられながら受け止める。慣れた魔力の波が身体に満ちていく。心地よさに、ぎゅう、とその身体を抱き返した。

 離れようとする身体を脚で捕らえて、熱が溢れても離れなかった。

 指先が髪を撫で、やがて、離れるように声が掛かる。

「ロア。そろそろ」

「……離れたら、終わりなんだろ」

 瞼を数度指で叩く。

 ぱちり、と術が解けて視界が開かれた。目の前にいる瞳の色を確認して、更に強く縋り付く。

 ふふ、と耳元で息が漏れる。

「二回目を始めても、私は構わないがね」

「冗談か本気か分からないんだよ」

 ぱっと手を離すと、名残惜しそうに半身が引き抜かれる。ソファが汚れるのを気にしながら立ち上がり、眠気を堪えながら風呂に向かう。

 残った菓子を口に入れてのんびりと付いてくる足音を聞きながら、すっかり整った魔力で湯を沸かし始めた。調整通りに動く魔力は、やっぱりガウナーの魔力ありきで上手く滑る。

「少し、細くなったか」

 俺の腹にぺたりと指を触れさせる伴侶に、あぁ、と曖昧に返事をする。彼が言うのならそうなんだろう。俺よりも俺のことをよく見ている。

「走り回るのが近くにいると自然とな」

「あぁ……。あの子は、君と私の不和に気づいていたようだったな」

 今日はずっとガウナーの近くに寝そべっていたし、もし彼が寝室に逃げようとすれば、きっと縋り付いて止めたのであろう。どんどん人の機微に聡くなっていくのが分かる。

 そんなニコが、俺とガウナーの相愛を望んでいることは、胸に暖かな灯をともす。

「気にしてたみたいだから、明日ニコの前でいちゃついとくか」

「そうだな」

 翌日の朝に目が覚めると、朝っぱらから何度もなんどもキスをされた。流石に過剰だ、と内心思いながら、言い出した手前、付き合う羽目になる。

 けれど、自分も、と近寄ってくるニコの足取りは軽く、仲のいい俺たちを見る尻尾はふさふさと、ご機嫌に揺れるのであった。

 

 

 

◇8(完)

 その日は、雨が降っていた。

 仕事帰りに傘を差し、ニコには雨具を身に付けさせて職場を出る。王宮の庭を抜けて、門番に挨拶をしながら門を出ると、困った顔で雨を見つめる見知った姿があった。

「サフィア?」

「ああ、ロア。お疲れ様」

 彼の手元には本が握られ、そして傘はなかった。急に降り出した雨で、彼一人なら走って帰ったのだろうが、手元の本がそれを押し留めたようだ。

 俺は傘を振ってみせる。

「入ってくか?」

「遠回りだろう。……が、本を濡れさせたくなくてな。助かるよ」

 足元でニコが機嫌良く吠え、サフィアは雨具が可愛いと褒めていた。魔装の連中が作ってくれたもので、雨を弾きつつも動きやすい素材で仕立てられている。

 茶色の素材は色鮮やかではないものの、毛布といい本人も気に入っているようだった。

「今日は、また書庫か?」

「ああ。王宮の本を読める機会は貴重だからな、今のうちに」

 二人で並んで、一つの傘を共有して歩き出した。

 雨は止むこと無く、雨脚を強めている。ぱたぱたと音が鳴るのは憂鬱でしかないが、隣で水をはね散らかす音は機嫌良く響く。

 サフィアはそんな楽しそうなニコを見て、目を細めた。

「人間にとっては憂鬱な雨だというのになぁ」

「人も建物も。雨も、みんな面白いみたいだ」

 そう言うと、サフィアは納得したように頷く。俺たちの会話の間にも、無駄に周囲を走っては、跳ねる雨を面白がっている。

 人通りの少ない道は音が少なく、話し声と水の跳ねる音だけが周囲にあった。

「昔、人がいちばん神に望んだのは雨だったんだろう。水に困らなくなった国の傲慢さだな」

「ああ、そうか。ルーカスが大神官になってから、本当に雨に困ることはないからな」

 隣国では雨による地滑りなどの話も多く聞くが、この国では小規模なものばかりだ。神に愛される人間が一人いる、それだけを理由に多くの恩恵が齎されている。

 自分の結婚もまたその一つであり、そして不老と天秤に掛けるための罠でもある。ルーカスだって国に対しての恩恵がなければ、自分の立場など捨てて逃げ出すこともできたはずだ。

 神の恩寵すら、ルーカスを繋ぎ止めて尚、迷う姿を見るための手段に思えてくる。

「ああ。天候も、豊作も、そして大神官本人も若々しいしな。俺はいずれ腰を痛めながら本を読むことになるというのに、本当に羨ましい」

 隣で立った笑い声に、笑い返しつつも心中では同意はしなかった。例え話のように、ルーカスの置かれている状況を唇に載せる。

「でも、逆に同年代より若すぎて見えるのも困るんじゃないか?」

「隣で歩いてて同年代に見えないのは困るが……。俺は、若くいられる利点の方が勝つかな。歳を取って眼鏡の度が上がるたびに、俺はいつまで本を読み続けられるのかと怯える。まだあんなに本があって、知らない知識があるのに、時間は有限に過ぎていく」

 ごくり、と喉を鳴らして、怯えた感情が悟られないように少し速度を落とす。それでも、傘があって離れられないのが怖かった。

 不老を肯定する言葉を、これ以上聞きたくはなかった。甘い果実が目の前に垂らされているのに、口を開けたら味わえるのに、囓ったらもう此処には居られない。

「知識は樹木の枝葉のようだ。一つ枝を辿ったら、二つにも、三つにも、無限に増えていく。けれど、いずれ俺はそれを辿れなくなる日が来る」

「……そう、考えることもあるな」

 ぼんやりとした肯定しか返せない。口に出してしまったら、言葉に魂が吹き込まれてしまったら、もう俺は伴侶のところには戻れなくなる気がした。

 斜め前にいる男の後ろ姿を見ながら、心底怯えきりながら、俺は雨に色を失った唇を動かす。

「これ以上、歳を取らなくて済むって言われたら、どうする?」

 雨の音が強くなって、俺の言葉に覆い被さるように流れていく。傘の表面を叩く音が、自分を責めているように囲い込んだ。

 傘で雨に濡れずに済んでいる筈なのに、雨垂れに閉じ込められている気分だ。

「そりゃ。できるもんならそうしたいけどな」

「そか。……でも、家族とか」

 いるだろ、そう続ける前に、サフィアは雨粒のように跳ねる声を上げる。

「その天秤なら、俺は不老不死のほうが勝つな」

 きっぱりと言い切られた言葉に、脚がふわふわと浮く気がした。今まで、近くにいる誰もが、その選択肢を迷うか、おおよそ選ばなさそうな人ばかりだった。

 けれど、サフィアははっきりとそちらを選ぶのだ。

 それからの会話は、心が浮ついていて反射的に返した気もするが、記憶の中には残らなかった。サフィアの家の前まで送って、ちょうど帰ってきていた大家の孫である少年と鉢合わせる。

 サフィアと少年は挨拶と共に会話をし、後から食事のお裾分けをするという約束を交わしていた。彼の目は緩み、少年の頭を撫でる手はわしわしと容赦ない。

 少年はニコに一頻り挨拶をして、そして自分の家に帰っていった。

「じゃあ、俺もこれで」

「ああ、家までありがとう。今度なにか差し入れる」

 サフィアが家に入っていくのを見送って、俺も自宅に向けて踵を返した。いつも通りのはずの帰り道を、足早に歩み始める。

 彼の家から少し離れた。その時、さっと空気が色を変える。

 ニコが俺の前面に周り、ガウ、と小さく唸り声を漏らす。

 反射的に構えを取り、結界術を紡ぎながら周囲を見渡した。ニコはしばらく警戒の態勢を解かなかった。

 ────硬直した時間は、どれくらい続いただろうか。

 ニコがふっと力を抜き、周囲をきょろきょろと見回す。俺も結界をそのままに周囲を見るが、何かを捉えることはできなかった。

「……見られてた?」

 ニコはいつもの帰り道を通りたがらず、導かれるままに少し遠い道を使って屋敷に帰った。警戒も結界も解かなかったが、帰り道の間に何かを感じることはなかった。

 屋敷には、珍しく灯りがともっていた。

 雨で暗い風景の中で、浮かび上がる屋敷の色は暖かく、そこが還る場所であることが、ささくれ立った胸を撫で付ける。

 無事に玄関先まで辿り着くと、息を吐きながら傘から水を落とし、手早くニコの雨具を脱がせる。

 玄関扉を開けると、珍しく先に帰り着いたガウナーの姿があった。

「おかえり、ロア」

 手を広げる伴侶に、心細さから必死でその胸に飛び込んだ。ニコもガウナーの足元に駆け寄って背を擦り付ける。

 ガウナーは腕の中で震える俺に気づいたようで、抱き込んだまま玄関の扉を閉め、そして背を撫でてくれた。

「どうした?」

「わかんない。けど……帰り道の途中でニコが突然唸りだして、なんか、見られてる気がした」

 はっと目が見開かれ、抱き込む腕に力が篭もる。ぽろり、と目元から雨の水滴ではないものがこぼれ落ち、伴侶の服に染み込んだ。

 ぽんぽんと頭を撫で、落ち着けさせられる。靴を脱がされ、ニコは脚を拭かれ、水分を拭き取られて、居間まで移動してソファに腰掛ける。

 俺もニコも、ガウナーに縋り付いて離れようとはしなかった。ガウナーもまた、それを喜ぶ様子はなかった。

 ただ彼は、震える身体を支えて、延々と落ち着くまで声を掛け続けた。

 ようやく落ち着いて空腹を自覚したころ、そろそろとガウナーから身体を離す。伴侶は立ち上がって、小鍋に牛乳を注ぎはじめた。

 ゆっくりと温められたそれをカップに流し入れ、そっと差し出してくる。両手で受け止めて、まだ熱いそれにそっと唇を付けた。ほんのり甘くて、温かい液体が滑り込んでくる。

「少し落ち着いたら、食事にしような」

 こくりと頷いて、またカップに口を付ける。サフィアの不老不死に対しての言葉も、誰かに注がれた視線も、混乱するには十分な出来事がいっぺんに起きすぎた。

 近くにいるニコの頭を撫でると、本人はもうけろりとして、温めた牛乳は自分には貰えないのかと視線を注いでいるくらいだ。

 自分のカップに飲み物を注いでいる長身の後ろ姿を見やり、ぎゅう、と胸が引き絞られる。

『その天秤なら、俺は不老不死のほうが勝つな』

 自分の天秤は、果たしてどちらに傾くのだろう。

 力を抜いたカップが右に傾く。白色の表面はカップを傾けても影を作らず、まとまることもなく、ただゆらりゆらりと揺れるばかりだった。

 

 

 

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