宰相閣下と魔術師さんと『お散歩いこ!』

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 耳元で、声が聞こえる。

 窓から差し込む光は眩しく、もぞもぞと毛布の表面を掻いた。

 身体が揺れている、揺らされている。その感触に、やがて覚醒へと辿り着いた。

「おはよう、ロア」

「アォ」

 伴侶の声に、合いの手が混ざっている。奇妙に思いながら瞼を押し上げた。

「…………はよ」

 掠れた声を自覚しながら、のろのろと相手の身体を伝って身を起こす。

 視界の端には、ぶんぶんと動く尻尾がある。俺が眉を寄せて伴侶を見ると、こちらは少し眉を下げていた。

「お散歩に行きたいそうだ」

「……今日は、あんたが先に起こされたのか」

「君の寝起きが、あまりにも悪かったらしい」

 そう言うと、伴侶は俺を促しながら寝台から降りた。

 腫れぼったい目元を擦り、ふあ、と欠伸をする。寝起きが悪かったのは夜更かしをした所為だ。

 寝室を出て、服を着替える。その間も、足下をちょろちょろと黒い影が付きまとっていた。

「今日、ニコの散歩欲すごくないか?」

「朝方に雨が降ったようだ。気温が涼しいから歩きたいんだろう」

「だからか。涼しいといっぱい歩けるもんな」

 ガウナーにしては軽装なその姿は、一国の宰相にはとても思えない。どこぞの顔のいい金持ちがお忍びで散策でもしているようだ。

 伴侶は楽しみすぎて背後から飛び掛かっていくニコにつんのめりながら、廊下を抜けて玄関へと向かった。

 靴を履き、玄関扉を押し開ける。涼しい風が頬を撫でた。風に誘われるように、毛玉が俺の隣を駆け抜けていく。

「……子どもは元気だなぁ」

「はは。ほら歩く」

 両肩を掴まれ、玄関から押し出された。鍵も掛けられてしまい、散歩に行くしかなくなる。

 結婚前にふっくらしていた腹も、いつの間にか健康的に真っ平らだ。筋肉が豊かな犬の運動に毎度毎度付き合うのだから、太る余地もない。

 地面は湿っているが、大雨の後のような生温いにおいは無かった。樹木の葉から滴り落ちる雫は、向こう側を見透かせるほど透明だ。

「いい朝だ」

 隣から、伴侶の低い声が静かに伝った。

 ああ、と同意して、その掌を掬い上げる。繋いだ手を離さないまま、屋敷の門を出た。

 しばらく楽しそうに歩いていたニコは、途中で俺たちの手に視線を向ける。鼻先を近づけ、うろうろと俺たちの周囲を歩いて回った。

 しゅんと息を吐くと、俺の脚に身体を擦り付ける。続いてガウナーの脚にも同じようにした。

「なんか。手を繋ぎたい感じ、出してないか?」

「ワゥ」

 俺がそう言うと、今度は前脚を持ち上げ、二本脚で歩こうとして断念する動作を繰り返す。

 隣で伴侶がやわらかく笑った。

「確かに。私たちだけ手を繋いでずるい、とでも言いたそうだ」

「でもニコの手、泥々だしなぁ。家に帰って脚洗ったら手を繋ごうな」

 それからもニコは何か言いたげだったが、やがて諦めたように周囲の風景に視線を向け始める。

 結婚式から先、感情表現と主張が激しくなってきたのは気のせいだろうか。俺たちの間への入りたがりが増した気がする。

「あのさあ。変なこと言うけど」

「何だ?」

「ニコがさ、四つ脚で歩いてるから手を繋げない、って考えたら、二本足で歩くようになるかな」

 ガウナーは虚空に視線を向けると、長く濁った声を漏らした。

 頭は傾ぎ、答えのない問いを考えている時のように見える。

「結婚式より前に、ルーカスに何故ニコは犬なんだ、と聞いたんだが……」

「へえ。何て?」

「そう在ろうとしているから、と言っていた。神に貌は無く、形を持たず。すべては見るものの思考によって多種多様に定まる、というような」

「俺たちが犬だと思ってるから、犬?」

「そうだな。結婚式の日に聞いた、狼と犬、という話に由来してもいるだろう。ただ、私たちが、ニコが二本足で歩く、と見るようになったら、また別の貌を持つかもしれないな」

 道沿いの草むらに顔を突っ込む、ニコの様子を眺める。

 地面に動物の住処らしき穴を見つけたようで、鼻先を出入り口に近づけてはくるくると周囲を回っていた。

 動作はどこからどう見ても犬である。

「…………手を繋ぐには、先が長そうだな」

「確かに」

 俺の言葉に伴侶は同意すると、手を引いてニコに近づき、程々に、と宥める。

 穴が、住処が崩れてしまっては中の動物も困るだろう。

「壊しては気の毒だ。ニコだって屋敷が崩れたら嫌だろう」

「ウ……?」

 ニコはぴたりと動きを止めると、興味を失ったかのように穴から離れた。

 言葉を交換したいと俺たちが願ったから言葉を覚えて。離れたくないと願ったからこの時空に留まって。それなら、俺が愛したいと願ったから、この犬はこの愛らしい姿をしているんだろうか。

 いくつもの神話で、神は人の祈りを叶える。そういうものとして定義される。

 人がすべて消え果てたら、神はそこに在るのだろうか。もし消え失せるのなら、その存在はそもそも神と呼ばれるべきだったのだろうか。

 考えれば考えるほど、渦に埋もれるような心地になる。その度に俺はニコに犬の毛皮を被せ、日常へと戻るのだ。

 そうしてまた、重い足を進める。

「ガウナーはさ」

「ああ」

「ニコに、二本足で歩いてほしい?」

 伴侶は目を丸くして、足下をくるくると回る存在を見下ろす。

 自分の話をしているのだろうか、と期待のこもった眼差しが向けられていた。空いた手で、そのひたむきな頭を撫でる。

「それを、ニコが望むなら」

「…………まぁ、俺もそうかも」

 くい、と繋いでいた手が引かれる。俺の横に回り込んだ毛皮が脚を撫でる。

 その日はニコがはしゃいで遠くまで歩き回り、前脚を洗った後は延々と握手をさせられ、仕事中はずっと筋肉痛に悩まされた。

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