
※当作品は前作に引き続き、攻め視点です。
『じゃあ、うちに引っ越してきてください』
立羽さんの言葉を冗談だと受け止めていた俺は、相手が行動力の化身であることを忘れていた。
何度も、それこそ何度も。俺が引っ越し先に迷っている話をするたび、彼の家へ引っ越すよう唆してくる。
俺が寝るのにちょうど良い部屋を掃除して空けたのだ、と上目づかいで告げられた時、降参する以外の道は残されてはいなかった。
一人暮らしで多くの荷物はなく、引っ越し業者の搬入も昼前に終わった。俺の手持ちの家電が新しいものは、入れ替えて立羽さんの家の古い家電が回収される。
仮想装置はいちおう運び入れてあるのだが、いつまで使うかは疑わしい。
宅配業者に代金を支払い、玄関先で離れていくトラックを見送る。俺の隣には当然のように作務衣姿の立羽さんがいて、車が消えると、埃の入った玄関を掃き始める。
最近は涼しい日も増え、庭の木々の中には落葉している姿もある。一人暮らしの、庭のない生活に、急に季節が色を描き始める。
「午後には、役所に行きましょうか」
「ああ。いや、ネットワークの接続をしたら、引っ越し手続きは家で出来る」
「えっ」
立羽さんは驚いた様子だったが、引っ越しの行政手続きくらいは自宅でできるご時世だ。彼のような人間相手に役所の窓口は存在するが、きっと閑古鳥が鳴いているに違いない。
彼はそそ、と近寄ってくると、整ったかんばせを綻ばせ、俺の視界いっぱいに映す。
「手続きが終わったらゆっくりできるんですか?」
「できる、が」
「じゃあ。片付けが終わったら、お菓子、焼きましょうよ」
パイ生地を買って冷凍してあるのだそうで、買い置きのリンゴにカスタードを添えてくれるらしい。
焼きたてのパイ、なんてものを家で食べたことはない。オーブンの製菓機能は俺の手のうちにあっては腐っていた。
彼と一緒に玄関に入ると、ほっそりとした手が扉を閉じる。
「賛成。俺も手伝えることがあればいいが」
「心木さんは手先が器用だから、直ぐに上手になりますよ」
玄関先に草履を揃え、彼は磨かれた式台を踏む。俺もその後に続き、静かになった家へと上がり込んだ。
これから自宅になるというのに、建屋はまだ他人の顔をしている。しばらくは、少し長いお泊まりの気分だった。
芯のある、けれど小さな背中を眺めながら廊下を歩く。
彼から香るのは、時おり感じる洗髪料のにおいくらいだ。周囲を包み込む木の匂いの方が強く存在を主張している。
居間に入ると、余所者の風貌をした段ボールが隅に積み上がっていた。俺が持ち込んだ、リビングで使っていた物品たちだ。
俺たちは引っ越しの休憩がてら、一服することにした。
「こんなこともあろうかと、芋ようかんを買いました!」
じゃん、と小さなパッケージを見せつけてくる立羽さんは、今日は普段よりもご機嫌だ。美味しそうだ、と伝えて、なぜだか幼げに見える頭を撫でる。
指先が触れた途端、長い睫がてふてふと揺れた。
「……芋ようかんの後で、アップルパイは重いでしょうか」
「これから片付けで動くから大丈夫じゃないか?」
「そう、ですよね……!」
ふふ、と立羽さんは笑って台所へと入っていった。俺が引っ越すと伝えてから、彼はずっとあんな調子だった。
浮かれている。
短い付き合いの筈の俺でも分かるような、地に足が着いていない気配がある。
彼は、家族を失ってからずっと一人暮らしだった。ひとり、を心地よく思っていた俺と違って、人恋しいのかもしれない。
とはいえ、片思いの相手がああ易々と近づいてくるのは心臓に悪い。
「お待たせしました」
「ああ。悪い、ぼうっとしていて手伝えなかった」
せめてお茶だけでも、とお盆を受け取って食卓へと載せる。切り分けられた芋ようかんの表面はつるんとしていて、昼の日差しを照り返していた。
添えられていたのは緑茶で、縁の厚い湯呑みは俺のために買い求められたものだ。
「いただきます」
「いただき、ます」
妙に背筋をピンと伸ばしたまま、立羽さんは芋ようかんを割る。ほんのちょっぴり切り分けたそれを口に運んで、ぱあっと顔を輝かせていた。
引っ越す前に泊まらせてもらった日もあるが、時々彼はこうやって抜けた表情を見せる。きっと、失う前の家族に見せていた顔なのだろう。
そう、実感するたび胸がずきりと痛む。彼に対して片思いをして、下心を抱いているのが罪であるような、重たい感覚が胸の内にあった。
「美味しく、なかったですか……?」
考え込んでしまったのが悪かったのか、そう誤解させてしまった。いや、と手を振って、残った芋ようかんを真っ二つに割る。
「あまりにも滑らかだったから、どうやって作っているんだろう、と気になっただけだ」
「そうでしたか。私も、甘さがちょうどよくて、また食べたい、と思っていたところです」
「店は近いのか?」
「はい。ご近所さんですよ」
「今度は、俺も連れて行ってくれ」
立羽さんは弾んだ声音で了承すると、残りの芋ようかんを早々に食べきった。緑茶を啜り、息を吐く。
一緒に暮らす、ということは、この甘ったるい表情をした彼と四六時中いっしょに過ごす、ということだ。口の中が甘さで溶けそうで、ぬるくなった緑茶を含んだ。
「足りましたか?」
「十分だ」
ご馳走様、と休憩を終え、食器を流し台に運ぶ。水で軽く汚れを落として積み上げていると、気づかない間に立羽さんが隣にいる。
視線を向けると、にっこりと微笑まれた。気恥ずかしくなってしまって、つい視線を皿へ向ける。
「この間」
「え?」
「この間、忘れ物を会社に届けに行ったとき、部下の方を呼び捨てされていたでしょう」
つい、先日のことだった。立羽さんの家に傘を忘れて帰った翌日、夕方に雨が降った。
傘がないと困るだろう、と彼はわざわざ会社まで傘を届けてくれた。姿を見られた部下には、恋人ですか、と何度も問いかけられたものだ。
ぽちゃん、と蛇口から水滴が落ちる。
「しているが……それが」
「私は?」
「『立羽さん』は?」
「私は、呼び捨てにしてくれないんですか」
零れていた水滴を止めるべく、蛇口を強く捻る。
俺が首を傾げると、立羽『さん』も同じ動作をした。
「呼び捨て?」
「仲が良い人には、呼び捨てにするんでしょう?」
「……仲が良い、というか…………」
部下は仕事上の付き合いが長く、呼ぶ頻度が多くなって、さん付けが面倒になってしまった。
だが、立羽さんにとっては仲良くないから呼び捨てしてくれない、という感覚らしい。別に呼び方に拘りはないのだから、彼の望むとおりにしてあげたほうがいいのだろう。
なのに、この腹がもぞもぞする感覚は何だ。
「た、『立羽』?」
「…………はい!」
ほんの一言、敬称を外しただけなのに、花が咲くような笑顔を見せてくれる。彼の額が俺の肩に触れ、きゅ、と捕まる。
物慣れない響きは、どうにも気恥ずかしくて仕方がない。
「その方がいいなら、努力する。が…………」
「その方がいいです」
「はぁ」
以前は、こうやって率直に希望を伝えてくることもなかった。ただ、最近は正直にこうしてほしい、というお願いを言うようになった気がする。
頼ってもいい人間、という位置に置かれているんだろうか。
「俺は、呼び捨てにしないのか?」
「うぅん。私は……、こっちの方が慣れているので」
「そうか。まあ、面倒になったら呼び捨てにしたらいい」
「そうします」
食器の片付けが落ち着くと、二人で居間に戻り、段ボールを開けて要不要の整理整頓を始める。
細かく重複しているものを仕分け、不要となった品は分けて置いておいた。立羽の家にはもともと電子機器が少なく、俺の品が持ち込まれる形になる。
居間の段ボールを片付け終えると、俺に割り当てられた部屋に運び込んだ私物の仕分けのために移動する。
当然のように付いてくる立羽に何も言わず、部屋に入ることを許した。見られて困るような品は既に捨ててある。
「心木さん。あんまり荷物がないんですね」
つまらない、というような響きに、つい笑いを零す。
「引っ越しを機に整理したら、要らない品も多くてな」
「あぁ……。分かる気がします。場所があると捨てないんですよねえ」
段ボールの蓋を開け、中身を収納棚やケースへと仕分けていく。立羽はてきぱきと作業を進め、どんどん段ボールが折り畳まれていった。
作業が一段落したところで、喉の渇きを覚える。
「立羽、喉は渇いてないか?」
「渇きました」
「適当に持ってきていいなら、俺が取ってくるが……」
「はい。じゃあ、お願いします」
冷蔵庫に麦茶があるはず、と言われ、台所に移動すると、ピッチャーに入った作り置きの麦茶が見つかった。グラスを二つ、お盆に載せて部屋へ戻る。
開いていた扉に身体をねじ込むと、中には誰もいない。
「あれ? 立羽?」
呼んだ途端、ひと一人が入れる仮想装置の中から、どたどたと暴れるような音がする。蓋を開けて出てきたのは、紛れもなく立羽だった。
何故か顔が真っ赤で、額に汗まで掻いている。開いた蓋の奥からは、妙に艶っぽい声が漏れ続けていた。
「あ!」
お盆を床に置くと、慌てて仮想装置に近寄り、蓋の裏で投影されている映像を確認する。紛れもなく、夜のおかず用のアダルトコンテンツだった。
どうやら、俺がいない間に興味を持って入って、適当に操作した結果、エロ映像を引き当ててしまったようだ。
気まずい俺と同様に、立羽もしょんぼりと肩を落としている。
「心木さん…………って」
幻滅した、とかそういう事を言われてしまうんだろうか。性に対して淡泊そうな立羽を見ていると、俺が見ているコンテンツなど、信じられない代物だろう。
何を言われても仕方がない、と覚悟を決めると、彼はそろそろと言葉を発する。
「こういう方が好みなんですか?」
「…………は?」
「金髪で、くびれがあって、胸が大きくて、派手な女性がお好みなんですか?」
「…………。はぁ!?」
じとりと不満そうな視線を向けてくる立羽に、こちらが混乱してしまう。俺は一体、ナニを責められているんだろう。
彼は俺の服の襟首を掴み、逃げないように身を寄せてくる。明確な答えを求められている、と悟り、諦めが躙り寄った。
「……好み、のタイプの一つ。ではある、が……?」
答えを聞いた途端、立羽の目にじわりと涙が浮く。予想もしていなかった反応に、指先が固まった。
「……ああいう方が、お付き合いしてほしいと迫ってきたら、頷くんですか?」
冗談にしては湿っぽい声音に、言葉を失ってしまう。指を伸ばし、細い手を包み込むと、白い指から力が抜けていった。
羽根のような体がすべてを預けるように倒れ込み、くすん、と音で泣く。
「付き合う相手の理想は、もうちょっと違うかな」
ほっそりした肩が揺れる。背に翼でもあるように、倒れ込んでくるのに重くもない。
「……違う、ものなんですか?」
「まあ、ああいうのはワンナイト的な」
「ワン、ナイト……」
「いや。ワンナイトもしないけどな?」
相手の背中をぽんぽんと撫で、落ち着けるようにリズムを作る。開いた窓から吹き付けてくる風は、もう涼しさを纏っていた。
相手が何に哀しんでいるかは分からないが、会話はするべきだと思った。
「お付き合いはもうちょっと、気楽に過ごせる相手がいいかな」
「気楽に……?」
「家に帰って、喋ったら安心するような」
胸元に押しつけられていた顔が持ち上がる。瞳の端はわずかに濡れていて、光に照り返してなまめかしく映る。
自分の本能が起き上がらないうちに、指を伸ばして水分を拭い取った。
「……しばらくは、心木さんが帰ってきたとき、私がお出迎えするんですが」
「うん」
「落ち着き、……ますか?」
囁くような、心細げな問いに、表情だけで笑ってみせる。同居を決めた時に、腐るほど悩んで決めた。
「落ち着くよ。立羽と過ごす時間は、居心地がいい」
「そう、ですか…………」
彼は照れくさそうに目の下を染めると、俺の肩にもたれ掛かる。伸びてきた腕が、俺の背に回った。
きゅ、と背中の服を掴む指先に、あり得ない褥の中の光景を幻視する。強くまぶたを閉じて、ただ数字をかぞえた。
ワンナイトを重ねた永いお付き合いをするなら、今の自分の理想はたったひとりだ。その一人は、何故だか機嫌が良さそうに俺の腕に収まっている。
仮想装置は結局、年式が新しいことを理由に売却することになった。
俺が立羽に売却を告げたとき、彼がやけにほっとした顔をしていたのを、印象深く覚えている。