フィナンシェ
今日も姉弟は元気だ。というか、姉に今日も弟は振り回されている。
俺は長姉の魔女ごっこに付き合わされている弟の准也を見つつ、カレー鍋を掻き回した。先程から准也は本人にしては一生懸命シンデレラを演じている。
舌っ足らずの高い声が耳に届く。
「『まあ、なんてきれー、きれ、な』んー……? んー?」
准也はとてとてとテレビに近づき、リモコンを持って来て里沙に渡している。里沙は仕方ないなあ、とリモコンを操作し、シンデレラのアニメの再生を始めた。
里沙はぎゅっと准也を抱き竦めると、二人してシンデレラを見始める。准也にとっては難しいセリフも多いので、シンデレラ役は前途多難だろう。俺は微笑ましい姉弟を横目にレタスをちぎる。
カレー鍋がいい匂いを漂わせ始めた頃、玄関から鍵の開く音がした。俺は慌てて鍋の温めを止め、玄関に駆ける。
「ただいま、いい匂いだね」
靴を揃えた番は、今日も変わらず眩しい。朝早くから出ていったので少しお疲れのようだが、俺を見てぱっと微笑んでくれるのが嬉しくて足を速める。
「おかえりなさい!」
手を広げた隆さんの腕に飛び込むと、額に唇が当てられた。
コートの表面は冬のはじまりを示すように冷たく、今日は冬物のコートを持って行ってくれていて良かったと安堵する。
隆さんの胸に埋まった俺が手元に視線を向けると、その手には紙袋が握られていた。
「お土産?」
「通り掛かったお店がハロウィンに合わせてお菓子を売っていたものだからつい、ね。里沙と准也はご飯はまだなんだろう? あとで食べよう」
俺の背後から、小さな足音がふたつ近づいてくる。その弾丸たちはその勢いのまま、俺の両側から隆さんの足にしがみついた。
「パパおかえり!」
「……おかし?」
しっかり隆さんにおかえりと言う里沙に対し、准也の視線はお菓子の紙袋に注がれている。夕ご飯のあとで食べるんだよ、と隆さんが紙袋を握らせると、准也はこくんと頷き、大事そうにそれをぎゅっと抱いた。
どうやら、シンデレラは王子様よりもお城のデザートのほうがお好みらしい。
「おかしは、なーに?」
「フィナンシェだよ。言えるかな?」
「ぴ、なんしぇ」
隆さんはゆったりと微笑んで、よくできました、と准也の頭を撫でる。
ぴなんしぇはなーに、と尋ねる准也と里沙を両手に抱き上げた隆さんは、ええとね、とリビングに歩きつつ、二人の質問に付き合う。
料理の仕上げを控えた俺は二人をパパにお任せし、台所に戻った。料理を仕上げて、皿に盛り付けていると、わいわいとシンデレラを見ながら喋る三人の声が聞こえてくる。
「え? 准也がシンデレラ?」
「准也のほうがかわいいでしょ」
ねえ、と准也に同意を求める里沙に、准也は首を傾げる。その視線はちらちらと紙袋に注がれており、ほとんど意識はお菓子に向いているのが窺える。
こんなシンデレラじゃ、王子が来ても見向きもしないかもしれない。
「……准也じゃあ、すぐに王子様に攫われてしまいそうだよ」
「や」
隆さんがさらう、なんて言葉を使うものだから、准也は隆さんの腕を引いていやいやと首を振る。ごめん、と准也を宥める隆さんは、頭を撫でながら息を吐いた。
「まともな王子だといいなあ……」
遠い目をする隆さんに、俺はくすりと笑みを零して、ご飯できたよ、と声を掛けた。
マドレーヌ
円は、よくお菓子を買ってくる。
子どもじゃないんだからお菓子になんて釣られたりしない、と言って聞かせているのに、はいはい分かったわかった、とあしらってはまたお菓子を買ってくる。
今日もシチューを作っていた僕の横から、小さな包みが差し出された。くるりと視線を向けると、円はにこにこと笑って綺麗に包まれたそれを差し出し続けている。
「んー、クッキー?」
「惜しい。マドレーヌ」
どこが惜しいのだろうと首を傾げると、小麦粉、とざっくりした解答と共に頭を撫でられた。
円ならきっと、きなこ餅であっても色が同じで惜しい、と言いそうだ。僕が釈然としない表情をしていると、僕の胸にマドレーヌの包みが押し付けられる。
パパも父さんによくこうやってお土産、と買い込んできては、また買ってきてー、と父さんを困らせていたが、こういうのって遺伝とでも言うのだろうか。
顔は似ていないけれど、芝居馬鹿の加減とかはそっくりだなあ、と僕は包みを大事にテーブルへ載せた。
着替えに去っていった円と別れ、台所に立つ。
別茹でしたブロッコリーは鮮やかで、にんじんだって型抜きして可愛い。絶対に円なら反応を返してくれるだろう、とにまにましながら型抜きを買ったのだ。
思った通り、戻って来て鍋を覗き込んだ円は型抜きした人参に気づくと、おたまで掬い上げて眺めた。ふむ、と食器棚に向かった円はいつもより大きなお皿を持ってきた。
動きが多い役をやっているらしいので、お腹が空くのだろう。そのままシチューを盛ろうとした円に、先にこっち、とパンの袋を指差す。折角パン屋で仕入れてきたバゲットなので、少し焼きたい。
「今日は食パンじゃないのか?」
「たまにはねー」
僕が得意げにしていると、円は、やった、と呟き、バゲットをカットするべくパンの袋を手に取る。
僕がたまに鍋をかき混ぜていると、そのうち香ばしい匂いが鼻に届いた。
いい頃合いだと円が持って来た皿にシチューをこれでもかというほど盛ってみたが、円からは非難の声は上がらなかった。本当にお腹が空いているのかもしれない。
「「いただきます」」
パンを一口含むと、香ばしい香りが口いっぱいに広がった。思わずシチューを忘れ、もぐもぐと咀嚼してしまう。
円の方はシチューのほうが気になっていたらしく、スプーンを口に運んだ。
「ヒヨコかこれ?」
「食べる前に言ってよ」
「いや、べつの残してあるから」
僕は円が掬い上げた人参を前に正解、と言う。
他にも花形だとか、昔買った型抜きを引っ張り出して総動員してみたのだ。おかげで皿がごちゃごちゃしている。
僕はパンをシチューに浸して持ち上げる。ぱくりと頬張り、僕は顔を綻ばせた。
「シチューって一回作ると明日まで食べられるからいいよね」
「明日まで残ってるといいな」
しれっと言う円に、僕は口元を押さえる。
「嘘でしょ!?」
「嘘だよ。マドレーヌあるし抑えめにしとく」
そう言いながらも早々に皿が片付いてしまい、円は他の型の人参を探すべく二杯目に立ち上がった。マドレーヌという防波堤がなかったら、明日まであの鍋いっぱいのシチューを残さないつもりなのだろうか。
僕の方もパンが美味しくてシチューの進み具合は円より遅いが、二杯くらいならぺろりと食べられそうだ。
「パパもよくお菓子を買ってくるんだけど、……あれ、同居してたときは抑えめだったなあ……?」
「俺ら話し合って調整してましたから。ちゃんと。今でも美味しいお菓子の共有はしてる」
お互いお菓子を買うと、父さんがまたこんなに買って、と言うので被らないようにしたり、円の方は僕にだけ買ってきたり、と調整されていたそうだ。
なっかよしー、と僕が茶化すと、円はむっとしたように口元を引き結んだ。
「尊敬はしてる。けど、たまに遊ばれるんだよ演技も私生活でも、その度に敵わない感じがするから仲良しって言うには微妙だろ」
円の口の中に、鮮やかなブロッコリーが消える。
「ふーん、円にとっては難しいんだねパパって」
「准也の父親じゃなかったら絶対、一回くらいは喧嘩してる」
円の中で僕の父親というのは大きいらしく、遊ばれて茶化されてむっとしてもそれが抑止力になっているらしい。
いちおう僕のために我慢してくれてはいるらしいのだが、パパにとっては我慢している円が面白いのだろうなあ、と悪魔の尻尾が生えたような父親を思う。
基本パパはひとに構いたがりだ。世話焼き気質もいじめっこ気質も持ち合わせていると思うのだが、自分より弱い立場の人にいじめっこ気質の方を向けることはない。パパにとって円は、自分より弱くもなく、それでいていじめると面白い、のだ。
「この前、俺が買ってきたどら焼きを世津さんが褒めるから、って、撮影の時、無茶なアドリブを入れられたし」
「大人げない、珍しいね」
「アルファ同士だったら容赦ないぞ、あのひと」
ふうん、とシチューを掬い上げた僕は、ふと思いついて問いかけてみる。
「パパと恋人役が来たらどうするの?」
円が途端に噎せた。ふとした思いつきだったのだが、円にとっては青天の霹靂だったらしい。
げほげほと咳き込む円に、立ち上がって背を撫でる。
「断る……ことわる……。いや断れるか? ぜったいあのひと、面白がりそうだしな!」
「わかるー、パパそういうの大好きだもんね」
「気は進まないが、大丈夫だ。准也と同じ匂いがするから、たぶん、他の人よりは上手くやれる……。やれるか……?」
できるんだろうか、と仮定の未来に顔を顰める円に、僕はスプーンを口に入れ、言葉を飲み込む。
パパと円に本気でお互いを落とす演技をしてと言ったら、どっちが勝つんだろう。
「……浮気とかじゃないからな」
「円は面白くてパパの好みだと思うけど、パパずーっと父さんしか見てないから心配してないよ。安心して、そういうドラマがあったら絶対見るね」
「笑うなよ。こっちは真剣に演技できるか悩んでるんだぞ」
お互いに容赦が無くなっているということは、距離が近くなっているということなのだろう。ただし、パパも円もお互いにそれを自覚してもいないのだろう。
年の離れた友達であり、義理の親子でもある関係性が、お互いに心地よいのはいいことだ。
シチューの後のマドレーヌは甘さでいっぱいで、円に美味しい、と告げるとやっぱり番は大好きな笑顔を見せてくれた。