君とは番になれない気がします

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この作品にはオメガバース、男性妊娠要素が含まれます。

 

 【人物】
 明月 志陽(めいげつ しよう)
 鵜来 克己(うらい かつみ)

 暮見 圭次(くれみ けいじ)
 須賀 優征(すが ゆうせい)

 鵜来 克矩(うらい かつのり)

 明月 志乃(めいげつ しの)

 

 小さい頃は無邪気だった。それこそ片想いの相手にプロポーズを率直にかませるくらいには無邪気だった。

「僕、あの、……克己と結婚したい!」
「駄目です」

 にっこり笑顔で綺麗にお辞儀をしながらお断りされた瞬間、僕は差し出した手を引っ込めた。

 

 

 

 アルファの母様とオメガの母さんふたりの間に僕が産まれ、その後僕を産んだ母さんの病気の影響で二人目は望めなかったと聞く。

 兄弟で遊んでいる姿が見たかったな、と寂しそうにする母さんに、僕は決まって母さんを独り占めできなくなるから嫌だ、と言っては、柔らかな腕でぎゅっと抱き締めてもらった。

 母さんを長年ひとり占めできたことは良かったのだが、大きな会社の跡継ぎの立場にいる僕は育つにつれてどうも母さんそっくりに育ってしまった。

 僕はオメガと記載された書類をくしゃりと握り潰し、アルファに産まれたかった、とひとり泣いた。

 母様は、跡継ぎ候補はお前だけじゃないよ、と役員の名前を挙げ、跡を継ぎたいなら相応の努力をすること、と望む教育はすべて受けさせてもらった。

 母様が連れて行ってくれると言えばどんな付き合いにも付いて行って笑顔を振り撒いた。

 ふんわりと母さんに似た笑みを浮かべる僕を敵対する者は少なく、懐に入るのも口を滑らせるのも豪勢な美女である母様より容易い。
 
 母様の跡継ぎとして選ばれなくとも、母様がここまで大きくした会社を、僕がずっと支えたかった。

 その日のパーティも、回れる取引先のところへはすべて回り、役員の代替わりやら取引の変更についての釘刺しから危なそうな会社の情報までくるりくるり回っては無邪気に会話して回った。

 一段落すると胸元から携帯を取り出し、覚えている間にメモを書き付け、ふう、と壁に寄り掛かる。

 壁の花になった僕が珍しい人物に話しかけられたのは、その時だった。

「どうも」

 落ち着いた低音が、耳に心地いい。

「こんばんは。須賀」

 須賀の家も手広いグループ経営で、うちの中の金融部門とも取引がある。

 借り入れ後の返済も悪くないらしく、須賀に貸すのは金利を貰うだけの商売になって楽だと母様が軽口を叩いていた。

 先週婚約したのは聞いていた。ふた言目にその祝いの言葉を述べる。

「聞き飽きるほど聞いても嬉しいもんだな。……最近は一緒に住んでる、向こうの家と半々で」
「わ、惚気だ」

 僕がくすくすと笑ってグラスを取ると、須賀もグラスを傾けた。

 かつん、とグラスを鳴らせて、僕はようやくひと心地つく。

 須賀とも、婚約相手の暮見とも僕は付き合いがある。

 須賀とは使用人同士が親戚同士というツテで、暮見とは同じクラスと同じ委員会繋がりだ。

 僕は勝手に暮見がオメガなのは察していたので、勝手な親近感を抱いてはちょくちょく絡んでいた。

「手出すなよ」

 手を出そうにもオメガなのでそこまで警戒しなくてもいいのだが、と思ったところで僕はある可能性に思い至った。

 跡継ぎとして駆け回っていることも、付け焼き刃のリーダーシップを駆使していることも合わせて、確かにアルファと思い込まれることはある。

 からん、とグラスを揺らしながら僕は目を細めた。

「あれ、須賀は僕がアルファだとか思うの?」

 須賀の動作が止まり、ああ、アルファだと思われてたか、と僕はひとり納得する。

 たまに攻撃するような視線が飛んでいたのはきっとその所為だ。僕はこそりと須賀の耳元でオメガだよ、と囁く。

 須賀は珍しく口元を押さえ、動揺した気配を見せた。

「それに、僕十年以上前から片想いの相手居るしさ」

 言葉を続けたのは、ひとえにこれからのお付き合いを考慮して、だ。

 会社に関わる一個人としても、番を愛してますということを隠しもしない好感のもてる友人としても、須賀の懐には入っておきたかった。

 須賀の婚約者を寝取る立場にありませんよ、と肩を竦めてアピールする。

「誰」
「鵜来克己」

 ぽんと短く返すと、須賀はああ、と納得したように頷き返す。

「甥の鵜来か」

 須賀家と明月家には、共に鵜来家が仕えているのだが、この鵜来家は使用人のプロフェッショナルとでも言うのか、色んな家に鵜来の家の者が使用人として散っている。

 叔父の方のは須賀家を長年取り仕切るナイスミドルで、甥の鵜来克己は幼い頃から明月家に仕えている。克己は、同級生であり、使用人でもある。

 鵜来克己は鵜来の中でも異色な立場で、ベータが多い鵜来の中で彼はアルファとして産まれた。

 恵まれた体格と端正な容姿と、目を引く言動。

 幼い頃は明月家に長男がいるということしか知らない客が、克己のほうをおぼっちゃまだと思っていた数は両手の指で数えても足りない。

 そして僕は、そんなどこからも引く手数多な相手にうっかり小さな頃から優しくしてもらって、うっかり恋に落ちてしまった。

「鵜来だったら告白すれば一発だろ」
「それがもう何回告白したことやら……」

 両手を軽く挙げて全然、とアピールすると、須賀は意外そうに目を見開いた。

「発情期のフェロモン当てたか?」
「当てた当てた。『どなたにもお会いになりませんよう。食事は志乃様にお願いしましょう。学校には連絡を入れておきます』、で、終わった」

 一言一句違えずに、言葉を復唱する。

 僕に吐かれたそれらの言葉は僕を打ちのめすのには十分だったし、十年を超えてしまった初恋をばっきばきに砕いてしまうのにも十分だった。

 すげえな、と須賀は感心したように呟き、視線は僕に向けたまま、左手に寄せてあったチキンを取り上げ、がぶりと齧り付いた。

 下品なのかもしれないが、暖かいチキンはその食べ方が一番美味い。ぺろりと油を舐め取るとうーん、と須賀は何かを思い返すように言葉を選ぶ。

「発情期っつーのは、好きな相手近くにいたら絶対押し倒すと思うんだがな。脈ないのか?」
「執事としては完璧なんだけどね」

 僕はフライドポテトを摘むと、ぽいっと口に放り込む。

 手持ち無沙汰に噛んだそれは冷えきってしまっていて、噛み砕くと口の中の水分を奪いきってしまった。

 僕は吐くでもなく飲むでもなく、律儀に咀嚼しながらやっぱり脈無いか、と息を吐いた。

 

 

 

 パーティの疲れを捨てきれないまま朝起きると克己が控えていて、まず一通りの身支度を整えられる。

 片想いの相手に服を脱がせられるも着せられるのも毎日だが、そのビジネスという姿勢を崩さない真顔の克己のおかげで、性的なものは全く感じない。

 僕は寝ぼけまなこを叩き起こしながら、克己に導かれて食堂に入る。

 つい歩みが遅れてしまって、エスコートするように背を押されるのはご愛嬌だ。

「ごめん、……ぼーっと歩いてた」
「よろしいですよ。昨日は遅く帰って来られましたし、お疲れでしょう」

 今日もいつもどおり優しく言葉を掛けられ、これじゃ惚れても仕方ないよなあと他人事のように納得する。

 食堂に行く間に克己が僕からあんまり食べられない、という気分を聞いて、その日も朝食の量だとかメニューだとかを調整して配膳してくれた。

「克己、あの、克己これ美味しいよ。食べてみない?」
「先程志陽様が起きる前に頂きましたよ。美味しかったです」

 そうか、と僕はやけに美味しく感じた葡萄を引っ込める。

 僕はこうやって調子に乗っては、主人としての一線を踏み越えてそっと遠慮されるのだ。

 テーブルの向こうで母さんがくすくす笑ってほんとうに美味しいね、と言ってくれなければ居た堪れなかった。

 克己は母様と株式の話を新聞片手に一頻り繰り広げるが、二人の会話は僕の学んだ領域ではまだ届かない位置にある。

 話していることは理解できるのに、克己からの返しには毎回はっとさせられる。

 母様も毎朝のこの新聞談義を楽しみにしている。仕事にも活かせる面があると聞いた時には、混ざれない悔しさに経済書を読み明かして克己の知識レベルとの差に惨敗した。

 僕は小さな頃から母様に付いて学ばせて貰っていたが、連れ出されるのは接待やパーティが多い。

 それに比べて、克己が母様に付く時には社長室だとか他社での会議だとか、母様の仕事について詳しいのは僕よりも克己かもしれなかった。

「克己、今日は学校行く?」
「行きますよ」

 登校の車が一緒だと、移動時間中ずっと二人きりか運転手を交えて会話をすることができる。

 僕はあからさまに顔色を変えて声音を弾ませた。

「良かった! じゃあ一緒に……」
「すみません、でも午前の二時間だけ本社の会議にお邪魔するんです。遅刻する予定ですよ」

 そして、出鼻をくじかれた僕はしょんぼりと運転手に送られて登校するのだった。

 克己は結局昼前に登校したので、僕は克己が来ていない間のノートを普段以上に気合を入れて付箋も付けてコピーして克己に押し付けておいた。

 昼食は料理人が作ったお弁当を学食に持ち込んで毎日克己と食べる。
 
 学校では敬語を使うのを禁止しているので、家にいる使用人ではなく、ただの同級生らしい会話ができるその新鮮さを毎日楽しみにしている。

 ただ、その日だけは僕は克己に一緒に食べることを断った。克己は虚を突かれたように一瞬言葉を失い、言葉を発する間が心苦しい。

「どうかしまし……いや、どうかしたか?」

 うっかり気を抜いて敬語に戻りそうになっているのも、彼の動揺を窺わせて僕は心中でごめんと手を合わせた。

 なにぶん急なことで、克己を振り回してしまった。

「僕、今日暮見と食べるからごめん。ちょっと二人だけで話したいことがあってさ」
「……ああ、分かった」

 克己は僕にお弁当と水筒を持たせると、自分は食堂を出て行った。

 外ででも食べるのだろう彼の後ろ姿に残念に思いながらも、頼まれごとは断れないんだよなあ、と一人ごちる。

 僕は踵を返して、律儀に待っているであろう暮見の元に向かった。

「わー! ほんとに明月と一緒に食えんの? レアだー」

 嬉しがる暮見を前に、首を傾げる。

 須賀から、良ければ自分が休みの時には構ってやってくれ、と言われたのでとりあえず速攻で食事に誘った。

 レアだー、と子どものように喜んでいる暮見を見れば悪い気はしないが、レアと言わずとも声を掛けられれば応えたはずだ。

「レア?」
「いっつも鵜来がひっついてるから間に入れないじゃん」

 暮見は弁当の包みを開き、蓋を開けて表情を輝かせた。

 赤、緑、黄色、色鮮やかに細やかに、須賀の家の料理人が技能をそれこそめいっぱい込めたそれは、明月家の料理人が作った弁当箱に負けずとも劣らない。

「べったべただよね。番候補なの?」
「違うけど」

 暮見は箸を握って動きを止めた。

 暮見は克己が僕を構っている姿を番になりたいからだ、と思っていたらしいが、こちらも須賀と同様に誤解を解いておかなければなるまい。

 僕は自分のお弁当を開くと、箸を手にとっていただきます、と手を合わせる。

「気に掛けてくれてるだけ、克己は使用人以上ではないです」
「……そんなもんかー」

 暮見は飾り切りされたきゅうりを摘み上げると、ぽりぽりと噛み砕く。

 いい音、と思いながら僕はおにぎりを持ち上げて噛み付いた。いい明太子が手に入ったので炙っておきました、と朝から律儀に教えてくれた料理長の声を思い出す。

「そういや、明月が発情期っぽく休んだ時に鵜来はたまに学校来てたっけ……。でも、なんか視線とか空気とかさー、須賀に似て……なんか」
「ていうか、僕はその話をしたかったんだよ」

 僕が改まったように姿勢を正すと、暮見もぴんと背筋を伸ばした。

 克己を遠ざけて暮見に問いただしたいのは、つまりはどうやったら克己を落とせるかということだ。

 暮見はあの須賀をこれ以上もないほど完璧に落としたのだから、何らか学ぶものがあるんじゃないかと僕はこうやって須賀の提案に乗った訳である。

「克己には何度も告白はした、断られました。プロポーズもした、こっちも断られました。ついでに発情期の時これだ! と思いつつふらついたように見せかけて抱きついてみたりもしましたが、克己は冷静に引き剥がして平然としてました」
「うわぁ……」

 暮見にはドン引きされた。

 引くがいい、と僕は心の中で自嘲する。延々と片想いとモーションを掛け続けてきた結果、精神は随分と鍛えられた。

「暮見。いえ、先輩にお伺いしたいわけです。どうやったらあんな性欲が存在してるのかすら分からないアルファを落とせるのか、ご教授頂きたく!」

 テーブルに両手を突いて頭を若干下げる僕を、周囲がぎょっと見返す。

 二度見されたあたりでちょっと仰々しすぎたかと反省するが、気分的には頭でも下げたくなる心持ちであるのは間違いない。

 僕の必死さに矛を向けられた暮見自身も、どう反応すべきか考えあぐねている様子だ。

「いや……。えー、と。俺、別に落としてねえもんなあ……」

 うーん、と暮見は困ったように頬を掻くと、自分の時は落とすまでもなく落とされたのだと切々と語る。

 その鮮やかな手腕には須賀に拍手を贈りたくはなるが、こちとらオメガで若干の身長差と如何ともし難い体格差持ちである。

 鮮やかに掻っ攫ってベッドで既成事実を作るのはどうやっても無理があった。

「だからさ、ええと。助言ねえ……、明月は鵜来に何度も告白してるんだろ? だったら向こうもさ、それに胡座をかいてるっていうか。愛されることに慣れちゃってるのかも」

 暮見はそういえば逃げに逃げて逃げて、ようやく捕まったのだった。

 つまりは追いかけるより追いかけられる人間を目指すほうが話は早いかもしれないと、今まで追いかけ続けてきた人間からすれば目から鱗だった。

 休日は克己が空いてそうな空気を見せていたら映画だの美術館だの買い物だのと誘い続けてきたし、選択教科も完璧に揃えた。

 毎日隙あらば雑談をしようと話題を集めているのだから、なんというか、冷静に考えると克己に構い過ぎだった。

「しばらく距離を置いてみよっか。昼ご飯は俺、須賀がいないときだったら捕まると思うし一緒に食べようぜ。あとは追いかけたくなるような人間にってことだけど……」

 暮見は追いかけたくなる人間、追いかけたくなる人間、と繰り返し、何かに思い当たったかのように軽やかに手を叩く。

「うちの鵜来さんに甥の鵜来の好みのタイプ聞こう」

 須賀家をうち、と言い張る暮見はほんとうに昔から須賀家に入り浸りで、最近は更に泊まりこみで入り浸りだ。

 暮見はコロッケをぽんと口に含み、美味しかったらしくぱあっと顔を輝かせる。

「あー、須賀家にいるほうの叔父さんか」

 ベータである克己の叔父さんは須賀家に仕えていて、克己を柔らかくして丸くしたらこんな感じか、というようなタイプだ。

 克己が明月家の使用人を引っ張るリーダー気質を持っている一方、須賀家の鵜来さんはそれぞれの使用人の力を借りながらやんわり纏めている。

 経験と年の功は克己よりも上の上で、甥である克己のこともよく知っているだろう。

 善は急げとばかりに暮見はもぐもぐ咀嚼しながら携帯を取り出すと、数タッチで鵜来克矩の名前を呼び出す。僕が止める間もなく暮見はさっさと通話ボタンを押してしまった。

「あ、鵜来さん。俺です、暮見ですー。カニクリームコロッケ美味いです! ……え? いやそうじゃなくってあの、友達と話ししてたら、甥の克己くんってどんなタイプが好みなのかって話になって、克己くんの好きなタイプ聞けたらなって」

 はい、はい、と暮見と鵜来さんの間で会話が繰り広げられ、その度に暮見の表情が曇っていく。

 おや、と僕が手を止めて暮見の様子を窺っていると、暮見はでも、と言い募る。

 僕は完全に蚊帳の外で冷えたおにぎりの咀嚼を再開するが、暮見の様子がおかしいのが電話を終えるまでずっと気掛かりだった。

「……はい、はい。分かりました、ありがとうございました」

 暮見は通話を切り、しばらくその液晶画面に視線をやったまま固まっていた。僕が暮見、と声をかけるとはっとこちらを見る。

 暮見の指が液晶画面の上でする、と力なく滑る。

 僕は言ってよ、と促した。あまり僕にとっていい情報じゃなかったのは分かる、でもそれを知らないのは僕のためにもならないことも分かった。

 暮見は散々言葉を伝えるか迷ったようだったが、結局は僕の押しに折れた形で口を開く。

「…………。聞いたんだ。好きなタイプ、聞いたら『あの子は婚約者が一番好きなので、好きなタイプとかいう考えは無いと思いますよ』。………って」
「………………まあ、鵜来もいい家だからねぇ」

 そうか、と僕はそっとお弁当の蓋におにぎりを置いて口元を押さえる。

 これ以上何かを食べる気には到底ならない。

「婚約者、いたのかぁ……」

 婚約おめでとう、と言った時の須賀の笑みを思い出す。

 あの他人なんか蹴散らしていく須賀にしては珍しく、大切な番がいるのが誇らしいようで、照れの混じった笑みだった。

 僕には到底、浮かべることのできない笑みだった。そんな相手がいるのに、他に何を言われようが騒音でしかなかったに違いない。

「暮見、ありがとう。すっきりしたかも」

 無理矢理笑ってみせるが、暮見はそんな僕をぼーっと見つめると、唐突にぼろぼろと涙を零した。

 僕の滲んだ涙は引っ込み、ぎょっとハンカチを暮見の目元に当てる。

「ちょっ……、待って、泣くとこ!?」
「…………うえ」

 冗談でも縁起でもなくガチ泣きを始めた暮見の肩を抱いて立たせると、視線を彷徨わせる。

 食堂から中庭に続く扉が目に入った。

 そっと背を押して扉まで誘導し、食堂から中庭への扉を開ける。足元の段差を指示して、中庭のベンチにでも行こうと方向を口で伝えた。

 ひっく、えっぐ、と泣く暮見はそのまま溶けてしまいそうで、肩を支えていなければ地面と一体化でもしてしまいそうだった。

 いくら軽いとはいえ、容赦なく掛けられる体重を支えて目的の場所に連れて行くのは一苦労だ。

「ごめ、……なんか泣けて」

 ぽつん、と暮見が言葉を漏らす。

「泣きたいのはこっちだって……ねえ、まさかとは思うんだけど最近体調おかしかったりしない?」
「……えっ。なんで分かんの! なんか匂う?」
「いや、そういうことじゃなくて。……まあいいや、須賀に言っとく」
「だからなんで須賀!?」

 ようやくベンチにたどり着くと僕はそっと暮見を座らせ、ハンカチを握らせた。僕は飲み物でもと視線を巡らせ、自販機行ってくる、と暮見に伝えて自販機まで駆けた。

 婚約を急いだあたり、子ども絡みだろうなとは思っていたが、それにしても手が早くていいことだ。

 僕はこぶしを水のペットボトルのボタンに叩きつけ、ガコンと出て来たそれを引っ掴んで踵を返す。ベンチに戻った時にもまだ暮見は涙が止まらないらしく、ぐしぐしと瞼を擦った。

「はいおみずだよー、のめるかなー?」
「子ども扱いすんなよ同級生」

 暮見はペットボトルを受け取ると、両手で握りしめる。僕は落ち着いた様子にほっと息をつくと、暮見の横にすとんと腰掛けた。

 日差しが気持ちよくて昼寝日和なこの空間で、何が悲しくて失恋話をしなければならないのだろう。

「あー振られたー! いやずっと振られてたけどこれ完全に脈無いな」
「……おう、ごめん。なんかそれ自分だったらつっらいわ。んで泣けた」
「まあ、ありがとう? 心遣いだけ貰っとく」

 暮見が僕が悲しいから悲しい、と素直に口に出しあまつさえ泣き出すような殊勝な性格だとは思わないが、そこは体調不良の所為ということにして素直に受け取っておく。

 はあ、と頭を抱える僕がこくこくと水を飲む暮見を見つめると、どちらからともなくくすりと笑った。

「世の中にはまだまだいい人いっぱいいるよな」
「当たり前だろー」
「次だ次。顔とかどうでもいいけど僕を……」

 好きだよ、と言って私もいいご主人だと思っています、と返さない人がいい。結婚して、と言って駄目です、と返さない人がいい。

 発情期に、たったひとりで冷たい部屋に残したりなんかしない人がいい、婚約者なんていない人がいい。克己じゃない人を、ずっと好きになりたいと思ってきた。

「……僕を、好きになってくれる人がいいなあ」

 とん、とペットボトルをベンチに転がす音がする。
 
 真横から肩を抱かれて、頭を抱え込まれた。僕と同じオメガらしい細い腕だった。止んだはずの涙が肩にぽたぽたと落ちる。

 頬が冷たい。けれど、僕を抱き込もうとする細い腕の所為で、触れている部分だけがやけにあたたかかった。

 

 

 

 泣きつかれた僕が家に帰りたくない、と零すと暮見は平然とうちに来れば、と言った。

 うちって須賀家だろと思ったのだが、そのうち結婚するのだろうし確かにうち、で間違いないのかと思い直す。

 僕は納得いかないと首を傾げながら、お兄さんぶる暮見に手を引かれて久しぶりに須賀家の門をくぐった。

 おかえりなさいませ、の声の中に見知ったトーンが混ざる。僕はそのトーンを耳で追って、白髪交じりの撫で付けられた頭を探して視線を巡らせた。

「鵜来さん、お邪魔します」

 目当ての人を見つけて、真っ先に頭を下げる。

「おや、珍しい。明月のぼっちゃまがいらっしゃるとは……うちの甥っ子はどちらに?」
「僕が帰る前に母様が連れて行ったんだって。お仕事に付き合わされてるんじゃないかな」

 使用人の風上にも置けない、と鵜来さんは甥に手厳しいが、俺はうちの母様が無理言っているんだよ、と宥めた。

 僕はおやつおやつ、と声をぴょんぴょん跳ねさせる暮見に手を引かれて食堂に入る。

 お手伝いさん達が手を繋ぐ僕達に動揺して、きょろきょろと視線を彷徨わせており、僕は心の中で全然浮気とかじゃないです、と弁解した。

「仲がよろしいのですね」
「今日仲良くなったんだよ! いいだろイケメンだぞ」
「ええ、明月のぼっちゃまは昔からお美しく」

 にこにこと笑う暮見に僕は慌ててそれはないです、と手を振る。

 結局午後のあいだ授業なんてサボり倒した。

 暮見が知っているアルファでどの人が性格が良さそうかでずっと盛り上がり、その合間合間にそれぞれの家庭環境だとかオメガで困ることだとか抑制剤の話だかを話し倒したあたりで、なんだこいついいヤツだわ、という意識が沸いた。

「ぼっちゃまが嫉妬されますね」
「暮見は須賀とも知り合いだしオメガだよ」

「存じておりますよ。ですが性別がどうであっても浮気は浮気です」

 鵜来さんはぴしりと暮見を制すると、椅子を引いて僕に座ることを促す。

 お手伝いさんがお盆に載せて持ってきたのはお団子の皿がふたつと急須で、僕も暮見も揃って目を輝かせ、早速いただきますと手を合わせる。

 僕らが団子にがっついている間に、鵜来さんが急須から湯呑みにお茶を注いでくれる。小豆かなんかかなあ、と僕は香りを楽しみながら美味しいお茶を含んだ。

 続いてお団子の串を取り上げみたらし大好き、と無意識に上がる口角を抑えて噛み付く。
 
 とろりと溶ける甘さが口いっぱいに広がって、お茶を含むと更に幸せだった。

「美味しい?」

 頬を押さえて微睡む。

「しあわせ」

 僕がにへら、とだらしなく笑ってみせると、暮見はいい顔、と笑い返した。二人であんこがどうみたらしがどうと、語り合いながら思う存分須賀家の和菓子を堪能する。

「失恋なんて食べて忘れよ、俺のも食べろ食べろ!」
「よしきた食べて忘れる!」

 僕は暮見から差し出された串に噛み付いて、口いっぱい頬張ってじわりと広がる甘さを噛みしめる。

「………鵜来さん?」

 給仕の手を止めた鵜来さんに、暮見が不思議そうに名を呼ぶ。鵜来さんはいえ、と弁解したもののどこか上の空だった。

 僕は空になった湯呑みを鵜来さんに差し出し、お茶を追加してもらう。

「……お相手をお伺いしたいのですが」
「嫌です」
「そこをなんとか」

 鵜来さんが口が固いのは知っているし、すべて明かしてしまったほうがこれから気を回してもらうのもやりやすいかもしれない。

 僕はうーんと最後まで迷ったものの、珍しく食いついてくる鵜来さんに根負けした形で口を開く。

「相手言いますから、克己には黙っておいてください。あと僕を好きになりそうな物好きのアルファがいたら紹介してくれると超助かります」
「……ええ、はい。心当たりがございます」

 神妙に頷く鵜来さんを僕は物珍しく眺め、彼の甥の名前を告げる。

「克己です」
「はい?」

「僕、克己をずっと好きだったんですけど振られ続けたので、そろそろ、諦めることにしたんです」

 はあ、とぽかんと呆ける鵜来さんを見るのは初めてのことで、僕は鵜来さんの様子を見てはずず、とお茶を啜った。
 
 聡い鵜来さんには知ってました、とか言われるのを想像していたが、ここまでぽかんとされると逆に居た堪れない。

「……振られた?」
「好きですって言ったらいい主人だと思います、とか好感がもてます、と返されて、結婚して下さいって言ったら駄目ですって言われました、けど」

 僕がどのように振られたのかを切々と語ると、鵜来さんは僕の言葉に振られた、ということを納得したようだった。

「ええ、確かに……言葉上は、振られておりますね」
「鵜来さん傷口抉らないであげてよ。こいつ、今日はじめて婚約者のこと知ったんだって」
「そうそう、婚約者の事知ってたら告白なんてしませんって」

 暮見がそう付け加えると、鵜来さんは再度考え込むように急須を置き、白手袋を取り外す。

 失礼、と懐から携帯を取り出した鵜来さんは、部屋から出て行くかと思いきやそのまま何かしら操作を始める。

 僕は脇で暮見と猫舌かどうかの話をした、暮見は割と熱いのがだめらしかった。

「ああ、克己。こんにちは、お仕事中失礼します。……はい、先ほど須賀家に明月のぼっちゃまがいらっしゃいまして、こちらでおやつを召し上がられたので夕食は調整して頂きたいと、ええ、そのご連絡をと思いまして。
 
 ……はは、お元気ですよ。『失恋した!』って騒がれている以外は。では、失礼します」

 あっ、と僕は声を上げる。しれっと落ち着いた声に騙されている間に、こうやってぎゃーぎゃー騒いでいる内容が克己に筒抜けになってしまった。

「内緒だって言ったのにー!」
「相手は喋っていませんよ」

 鵜来さんの言葉にぐ、と黙りこむ。

 確かに相手は黙っていて欲しいとは言ったが、失恋したことを黙っていて欲しいとは明言していなかった。

 グレーの部分をいいように使われてしまって、鵜来さんの掌の上だ。

「なんか聞かれたら須賀でも好きだったとかにしとけば? 俺と婚約したから失恋した、とか言えばいいじゃん」
「暮見って、たまに悪知恵思いつくよね」

 そうしよ! と手を打ち鳴らす僕と暮見を鵜来さんは眩しいものを見るように目を細めて眺める。

「……小細工は止めておいたほうがいいと思いますが。まあ、そのうち克己が迎えに来るでしょうから、暫くごゆっくりお過ごしください」

 暮見の顔見知りとはいえ須賀の家にそこまでしてもらうのは、と僕が自分で帰ると言い出す前に、暮見はさっさと次の予定を言い出してしまった。

「トランプやろっか」
「すごろくなんかもありますよ」

 二人がこちらを見て僕の希望をそわそわと窺っている。これで断るわけにもいくまいと溜息を吐くと、仕方ないと提案をふたつとも合わせて呑んだ。

「うーん、両方やろ」

 それだ、と二人で笑い合う暮見と鵜来さんに、僕は仕方ないとトランプに付き合うことにした。

 鵜来さんが奥から古めかしいトランプを持って来ると、暮見が控えているお手伝いさんにちょいちょいと手招きをする。お手伝いさんたちは良いんですか、とうきうきした様子だ。

 ずっと部屋の隅で控えているよりこっちのほうが楽しく、責任者の鵜来さん公認であるのだから否があるはずもない。

「鵜来さん表情読めない!」
「油断するな、笑顔でババ持つぞあの人!」

 ババ抜きしてすごろくをしていると奥様が帰宅していいわねえと参戦して、旦那様が帰宅して混ぜろと参戦して、食事やらスイーツやらを料理長を交えて懸けつつ繰り返して結局、鵜来さんが圧勝した。

 手加減しろよー鵜来、と旦那様がぼやく中、鵜来さんはにこにこと旦那様秘蔵の大吟醸をせしめた。

「………、ええ、と父さんも母さんも、圭次もなんでか明月までいながら、なんでこんなカード類でぐっちゃぐちゃなんだ?」

 途中で合流したらしい須賀と克己が帰宅した頃には、僕たちは最早二次会の様相を呈していて、皆であの戦術はよかっただとか名シーンのハイライトを熱く語っていたところだった。

 溜息をつく須賀の言葉にお手伝いさんたちがうふふ忘れていましたわ、だとかのたまって残念そうにカードを片付け始める。

 僕はいつものように克己に駆け寄ろうとし、振られたばっかりだった、と慌てて近寄るに留める。

 普段であれば近寄った上であわよくば腕をとって帰ろうと促すくらいは無意識にしていたが、振られて相手が婚約者持ちということは、違うオメガの匂いがつくのは相手に申し訳ない。

「ごめんね克己、わざわざ迎えに来てもらっちゃって」

 克己は僕が距離を取ったことに気づいたらしく、いえ、と答える間が普段よりも開いた。僕は更に二三歩下がって絶対に克己の腕を取れない位置を確保する。

「ご飯食べていかないのかい?」
「うちのごはんも美味しいのだけどね」

 旦那様も奥様も須賀家の料理人の味を是非とゲーム中にも言ってはくださったのだが、朝出掛けに夕食のメニューを聞いて楽しみです、と言った手前うちの料理人に申し訳なく、丁重にお断りした。

「ありがとうございます。次は是非。……須賀も暮見も、うちのおやつだって負けないくらい美味しいから今度誘うよ。いろいろご馳走様でした」
「ああ、是非」

 須賀は予定を合わせるのが難しそうだったが、暮見についてはそのうち誘うつもりだった。

 僕は鵜来さんと旦那様と奥様にお邪魔しました、と頭を下げ、その場を辞した。

 克己は慣れたように僕を玄関まで連れて歩き、玄関に付けさせて貰ったらしい送迎用の車まで導く。

「……あ、そうだ。明月、あのさ」

 見送りに出てくれた暮見が、思い出したように声を上げる。

「お前やっぱ普段と匂い変わってるから、そろそろ『来る』かもよ」

 僕は指を折って日数を数えて、ああ、と合点がいく。
 
 暮見が鋭いのか僕が駄々漏れなのかは分からないが、前回の発情期からの周期を考えるとそろそろ、今日帰りが偶然にでも車だったのは運が良かった。

 克己は僕の項に鼻先を近づけると、す、と息が動く音が耳に届く。

「……あ、そうか。ありがと暮見、気を付ける」

 僕は心臓を跳ねさせつつそっと克己を引き離すと、車に乗り込んだ。克己が続いて車に乗り込み、開いた窓から鍵しっかり閉めるんだぞー、と呑気な声が響く。

 鍵を閉めたのにまんまと頂かれた暮見が言うあたり、説得力はまったく無かった。

「克己、また母さんに食事持ってきてくれるように頼んでもらってもいいかな? あと学校の連絡も。しばらくまたお休みするよ」

 僕がふかふかのシートに沈み込みながら疲れた声音で言うと、克己は分かりました、と短く返した。

 特に振る話題もなく、車内を沈黙が満たす。しばらくエンジン音を聞いていると、携帯が着信を告げた。

 手持ち無沙汰ですぐに中身を確認し、『いい男は他にもいっぱいいるぞー。俺みたいにな!』という文面をまともに見てしまって、不覚にもくすりと笑いが漏れてしまう。

 暮見にあって、僕にないものをたくさん見た。

 きっと僕にはこれが足りない、というものを見た。何で僕じゃ駄目なんだろうと思う気持ちは萎んで、すとんと納得がいってしまった。

 僕は欲しいものを見つけたら、頑張ってしまう。頑張って頑張って、力任せにまっすぐに手に入れようと足掻いてしまう。そんな人間の隣で走り続けるのは、きっと息苦しい。

 何がいいと悪いとそういうことではなく、僕だから歩幅が合わなくて、僕だから好きになってはもらえなかっただけだ。

「……………失恋した、とお聞きしました」
「うん」

 失恋した事自体は隠すつもりはなかった。

 その上で、克己以外の人に失恋したことにしてしまえば、もう克己のことは好きではないのだと伝わるだろう。
 
 ひ、ふ、み、心の中で指を折る。

 何度好きだと言ったのか分からない、結婚してほしいのだと伝えたのか分からない、もう潮時もとっくに過ぎた頃合いだ。

「どんな方ですか?」

 誰、とは聞かないあたりがやさしい克己らしかった。僕は端的に名前で嘘を返す。

「須賀」

 須賀にしとけばいいじゃん、と暮見の声が響いた。婚約者のお墨付きで、ついでに暮見にそれが伝わっても誤魔化してくれるだろう。
 
 須賀には克己が好きだと伝えてある、冗談だと思うことだろう。

「……、でも、婚約者がいる人を横恋慕するのは……」

 相手は克己だったが、僕の気持ち自体は変わらない。相手がいる人を想い続けるのは苦しいし虚しいし、全員にとってよい形でまとまるのは難しい。

 カタカタと揺れる車内で、僕は克己から視線を逸らして冷たい窓を見る。

「婚約者がいる人は、流石に、……好きでいたくないんだ」

 もしあの後須賀の家に行かなかったら、僕は克己への好意を捨てきれなかったのかもしれない。

 けれど、婚約だとか、家族だとか、あの空気のあたたかさを見知ってしまって、克己の未来の家庭を奪う原因にはなりたくなくなった。

「自棄食いでもするのなら付き合いますよ」

 克己は笑おうとしたようだが、口元が歪んで到底笑顔とは呼べないそれだった。僕はううん、と首を振る。

「大丈夫だよ。……僕ほら、割と突っ走るし、自分で何でもやろうとするから可愛げもないんだけど」

 経済書もパソコンに溜まった資料も、会議の録音を聞き直すためのレコーダーも、見知った事象を書き記す手帳も、朝食で二人が語っていた記事について切り抜いたスクラップブックも付箋も、溜まりに溜まった電話帳の取引先のアドレスも、僕には捨てることなんてできないままだ。

「こんな可愛くないのを貰ってくれる物好きが、一人くらい居るんじゃないかな」

 克己が好きになってくれることなんてもう期待してもいないんだ、とにーっこりと克己の言葉を制すように満面の笑みを浮かべてみせる。

 克己は何事か口に出そうかとして、口元を引き結んだ後は、珍しくずっと無言だった。

 

 

 

 僕は家に着くなり食堂に駆け込んで、普段より急いで食べた後でさっさと風呂に直行した。

 パジャマを身に付けて、タオルで髪を乾かしながら忙しなく部屋に戻って一息つく。

 携帯で一応須賀にも暮見にも連絡を入れて、発情期で連絡が返せないことも伝えて、その後で部屋の窓を全部締め切った。

 相手の居ない発情期も二度目ともなれば手慣れたものだった。チェストを開け、抑制剤を取り出して規定量をぱき、と割る。

 口に入れようと粒を手に取った時に、部屋の扉がコンコンとノックされた。

「はい?」
「失礼します」

 部屋の扉にはまだ鍵を掛けてはいなかったため、克己はすっといつものように扉を開けてしまう。

 僕は一旦薬の粒を置くと、ベッドに腰掛けた。

「どうしたの? 明日仕事関係はなんにも無かったと思うけど」

 いえ、と言いよどむ克己が後ろ手に鍵を閉めるのが見えた。聞かれたくない話なのだろうかと僕は首を傾げて、克己の言葉を待つ。

「身体は、お辛くないですか?」

 僕は大丈夫、と短く返す。発情期もまだ本格的に始まったわけではなく、抑制剤を使って抑えるつもりでいる。

 克己は部屋を突っ切って僕の前に立つと、僕を跨ぐように片膝を突いた。掴まれた肩に慣れない力が加わっている所為で痛みが走る。

「志陽様、お薬は飲まれましたか?」

 へんな匂い、と僕の直感がなにかを捉える。克己から届く匂いがどこか可笑しい、普段と違う匂いが彼から鼻先に届くのだ。

「……いや? さっき飲もうとして克己が来たから……」

 よかった、と呟いた口元が笑みを形どったと思った瞬間に、唇になにかがぶつかる。

 ぬる、と舌が下唇を辿り、隙間を縫って口内に滑りこむ。体重を掛けて寝台に倒され、押し付けられて貪られる。

 克己のシャツを掴んで、ぐっと押しても単純に力負けした。ふ、と口付けの合間に必死に息を吸うが、それすらも許さないとばかりに再度押し付けられる。

「……っ、自制するのは止めることにしました」

 視線が合う。鼻先が触れそうなほどの至近距離で、昏い眼の奥がきらめいた。

「貴方は俺以外を好きになるほど、多情ではないと思っていた。貴方が他の男を好きだと言うことが、ここまで腹立たしいとは思わなかった」

 思わず脚が上がる、蹴りあげてやろうかと思ったが空を切った。手の甲で唇を拭う。罵られているのは理解できるが、勝手な言い分もいいところだ。

「振った相手が別ンとこいったら勿体なくなった?」

 大仰に首を傾げてやると、克己が言葉に詰まるのがわかった。
 
 ほらみろ、と目を眇める。

 克己が婚約者もいる上に自分に近寄った人間をキープするような性格だとは思えなかったが、酸素不足でくらくらする脳では他の考えは浮かばない。腹の奥が燃えるように怒りが沸いた。

「振ったつもりはありませんが」

 腹部に空気が入るひやりとした感覚が襲い、慌てて手を伸ばす。パジャマの裾を捲った骨張った手が、胸元まで滑り上がって突起を撫でた。

 考えたくもなかったが、フェロモンに『当てられ』でもしたのだろうと当たりは付いている。

 ぶん殴りでも蹴り倒しでもして正気に戻せば自身でもその場の過ちだったと思い返すだろう。

 右手を振り上げて頬に叩きつけようとするが、ぱしりと受け止められて歯噛みする。克己は荒れてますね、と声を漏らした。

「誰のせいだと……!」
「ではまあ、真正面からは諦めましょう」

 軽々と背を持ち上げ、これで止めてくれるのかと期待してほっと力を抜いていると、反転させられて反撃しにくい形で再度寝台に押し付けられた。

「いい根性してるよね……!」
「暴れられては本懐を遂げるのも難しくなりますので」

 背を膝で押さえ込みつつ一息ついた克己は、僕が薬を取り出したチェストを手元に引き寄せる。

 ちょっと、とシーツに埋もれながら制止の言葉を吐くが、克己はこのあたり、と呟きながら一番上の引き出しを開けた。

「避妊具は?」
「相手が居ないのに、ある訳無いだろそんなもん!」

 仕方ないですね、と傲然とため息を吐いた克己は、ハンドクリームのチューブだけをそこから取り出して片手で蓋を開けた。

「今度はきちんと良い物を用意しましょう。貴方の身体に傷が付くのは嫌いです」
「……いっ……ま、力いっぱい踏みつけといてよっくもいけしゃあしゃあと!」
「すみません。あとで土下座でも何でもしますから、昔好きだった男で我慢してください」

 ズボンがずり下がる感覚に心臓が跳ねた。

 尻にひやりと空気が触れる。あ、あ、と僕が言葉を失っている間に中心に指先が突っ込まれた。悲鳴を喉の奥で噛み殺す。

「気持ち……わる……うぅ」

 本能的に怖気立つ。相手が克己でもこれは駄目だ、無防備な場所に異物が入っていく感覚が悍ましい。

 ぶるぶるとみっともなく震える僕を、克己はどんな表情で眺めているのだろう。

「俺は気持ちいいですよ。突っ込みたくて」

 ぐり、と指が腔内で回る。

「種付けしたくて、ウズウズします」
「あっ……!」

 見つけた、と耳元に囁かれ、快感を拾った部分を指の腹で擦られる。ぬる、ぬる、と数度往復し、指を押し付けられると弱い快感が波のように広がっていく。

 弄ぶように背を唇が辿り、戯れにぬるりと舌が窪みを沿う。

「いいでしょう。ここ、叩くと」
「……よくな……ン、うぅ……」

 もう片方の手が前に伸びた。先端から皮ごと引き下ろすように上下したと思えば、チューブからとろみを足してごしごしと先端を手のひらでまるく回す。

 後ろの快感に慣れるように、見知った快感を足される。じわりと滲んだ涙がシーツに吸われた。

「……良くなりました?」

 尻に克己の膨らみが押し当てられる。フェロモンに当てられてそこはゆるく持ち上がっていて、体格に準じた大きさであることが嫌でも分かった。

 僕は唇を噛み締めて首を振る。ぶん殴って正気に戻したら、元に戻れるような気がしていた。

 ただ、どうだろう。僕に対して雄を勃たせるような男と、正気に戻ったとして元に戻れるのだろうか。

「じゃあ、もうちょっと良くなるまで続けましょうね」

 言葉に意地の悪さが見え隠れする。

 敬語を使っていようと、形だけで腹に抱えているものはどす黒い。声のトーンが高く、興奮が手に取るようにわかる。

「ゆる……ゆるし………っ、……やだぁ……」

 前後する速度が速まり、容赦なく先端を擦られた。まだ大丈夫ですよね、と後ろの粘膜を拡げて指が足される。

 指の腹で余すところ無く触れ、次に訪れるそれを嫌でも意識させるようにぐちゃぐちゃと音が耳を食んだ。

「前がイイんでしょう? 大丈夫、すぐに……後ろのほうが良くなりますよ」 

 指の間を広げると、すっと空気が通る。

「ひぅ……、ンっ、よく、良くない、どっちも……よくなんか!」

 僕を窘めるように克己が肩に噛み付く。柔らかく押し当てられる歯に背を反らすと、牙を立てた場所を舌が伝った。

 噛む、舐める、吸う、普段見慣れているはずの背に、愛おしげに唇を押し当てる感情の意図が見えない。

「もう貴方は、………志陽は、俺のものです」

 後腔に滾ったそれが突き立てられる。
 
 ひゅ、と息を吸い、内臓が抉られる圧迫感にシーツに爪を立てる。先端を飲み込ませるために、腰を掴む腕が皮膚に食い込んだ。

「あぁあああ……!」

 溶けきっていないそこは克己のそれを阻むように食い締めるのに、克己はそれらをものともせずに自身を埋める。

 ふ、ふ、と息を吐いて、揺らされるがままに扱われる。腰を掴む腕は容赦なく後ろに引かれた。
 
 腕で体重を支えきれずに胸から寝台に倒れ込む。

「ココは……俺以外に許しましたか?」

 僕が小刻みに首を振ると、克己は満足したように息をついた。
 
 最奥まで彼を許してしまった腹を手のひらで撫で、嬉しそうに喉を鳴らす。

「……でも、一度くらい、許すつもりでした、だって貴方は俺しか知らない。生まれた時から俺しか知らない」

 唇を耳に当て、食らいつくように低い声が流し込まれる。低く伝うのに、どろりと脳髄を溶かす程に熱い声音だった。

 ただ優しくて柔らかくて、日溜りのような男だと思ってきた、内側に隠していた熱を知らないままに、こうやって流れ出すまで僕は克己を知らないままでいた。

「他の子のような可愛らしい恋くらい許してあげるつもりでいました。貴方が好きだと言ったのも、結婚して欲しいと言ったのも俺が初めてのはずだ。猶予をあげて、高校生らしい恋愛を何度かは、という余裕くらいあるはずだった」

 逃げを打っても引き戻される、窘めるように往復することに慣れたそこを苛められる。

 肌を打つ音が響く度に、自分の声が遠く聞こえた。腹の形が変わってしまうと怯えるほどに、奥の奥まで克己は執拗に自身を打ち込んでくる。

「しないで、おく、ぐりぐりしないで……克己、僕、……やだ、いやだよ」
「でも、貴方が他の男に目を向けるなんて。一度たりとも許せなかった。思ったより俺は狭量みたいです」

 かたくなる、膨らむ。
 
 粘膜越しに彼のそれが限界を迎えていることを知る。避妊具なんてなかった、そんなものはこの部屋にはない。

 だれかと身体を繋げることを考えたこともなかったこの部屋に、そんなものはない。

「克己、克己! 出さないで……いやだよぉ……っ、抜いて、ぬいて……」

 ようやく思い出したように膝が寝台を蹴っても、ぴくりとも動けない。アルファの望むままに、力任せな蹂躙に身を揺さぶられ続ける。

「志陽、貴方を幸せにするのも奪うのも、俺だけでいいんです」

 性欲の欠片もない、なんて誰が言ったんだろう。彼は誰よりもアルファらしくて、結局、僕はただ猶予期間の中を彼を好きなまま終わらせただけに過ぎなかった。

「ぁああ……あ、いやぁあああッ………!」

 叩きつけられるように熱いものがお腹の裏を満たした。見開いた目が乾いて痛い。

 爪先は寝台に押さえつけすぎて体温を失っている。僕が寝台をずり上がって逃げようとするのを、彼は緩やかに抽送して押さえ込んだ。

 胎内に塗りつけるようにゆったりと熱の余韻を楽しむ動作に、僕はされるがまま寝台に転がっていた。

 子種を隙間なく呑み込ませるように、硬さを失ったそれを抜こうとする気配もない。

「……こんな……、こんなの、婚約者さ、んに、……申し訳ない………」

 嬉しくもなんとも無かった、婚約者を出し抜いて身体を繋げた喜びなんて欠片もなかった。

 ただ考えが纏まらない間に身体を暴かれてしまって、僕自身が置いてけぼりになってしまった。

 嗚咽を殺す僕を、克己は不思議そうに見やる。

「あぁ……他の鵜来家の者にでも聞きましたか? 『婚約者が居る』だとか」
「……聞いた!」

 ああ、と克己は心当たりがあるかのように上機嫌に頷いた。相手は? と問われて、聞いてないと短く返す。
 
 僕が克己の動作を睨め付けると克己は子犬や子猫でも見るように目を細め、いけしゃあしゃあと口を開く。
 
「俺は志陽以外と恋人になりたくも番になりたくも結婚したくもないので、嘘ついてました。志陽様と婚約してますって。どうせいずれ婚約するんですし」

 ぽかんと寝台に転がる僕を、克己はよいしょ、と仰向けに転がすと、膝裏を持ち上げる。

 待って、ちょっとまって、と説明を求めるが、克己はそれよりも身体を貪るのが最優先だとでも言うように言葉を進める。

「俺が振った時の貴方は、たいへん可愛らしかった。何度俺もです、と答えそうになったことか。嗜虐心が満たされて大いに満足しました」
「な……! こンの……!」

 振ったら可愛かったからずっと振っていた、と聞こえるのだが聞き間違いだろう。

 あの優しい克己が、ただ単に嗜虐心を大いに満たされるからという理由で、幼い頃から一緒に居る主人の純情を弄ぶような下衆な思考を持っているとは信じ難い。

「でも、正直失敗でした。発情期の志陽に抱きつかれたら股間が収まらなくて。一度くらいは断って、貴方が歯噛みする姿を見たいなと思っただけなんですが」
「はァ!?」
「まあ二人であれこれやるほうが気持ちいいので、次からは我慢しないことにしますね」

 もうちょっと出しとかないと確実じゃないかな、とかほざいて僕の腹を撫でる克己の頬を僕は思う存分張った。

 克己は若干びっくりしたように目を開いたが、一拍後にはにや、と笑った。僕の手首を掴むと痛みすらも感じていないかのように暴言を吐く。

「……そんなことする悪い子はお仕置きしましょうね」

 ぴた、と太腿に当てられた克己自身が硬度を保っていることに僕は目を瞠る。

 僕にとってはついさっき絶頂を迎えて満足したらしく思えていたのに、あたかも次があるかのようだ。

「なんでもう復活してんのこいつ!」
「志陽様の所為でしょう? 駄目ですよ他のアルファ誘っちゃ。須賀だってうっかり落ちたらどうするんです」

「それは……、嘘! 嘘だよ! 須賀は友達で、別になんとも思ってない!」

 慌ててしまって克己以外を好きになったことなんてないと付け加えた僕に、克己は心から嬉しそうに息を吐く。

「それは良かった。……じゃあ、なんでそんなに可愛くない嘘をついたのか、最、初っ、から聞いていいよな? 志陽」

 精を吐き出して柔らかさを増したそこに若干の復活を見せたらしいそれが突き立てられる。

 悲鳴を飲み込みながら、婚約者がいなくて番で、それなら抱きついても許されるかな、と背に手を伸ばす。

 克己は震える僕の腕を満足そうに見つめて、僕の中に押し入った。

 

 

 

 一週間後へろへろになった僕が食堂にこの世の終わりのような顔を見せた時、母さんは心配そうに見つめていたが、母様は僕を見ては机を叩いて爆笑していた。

 僕が母様、と怒ったように言うと母様はごめんごめん、と目尻に浮かんだ涙を拭う。

「随分と遅かったな。克己、うちの息子の具合はどうだった?」
「最高でした」

 しれっと答える克己にそうかそうか、と母様は驚くことなく返しているあたり、僕が知らなかった本性を母様には見せていたのだろう。

 僕はやめて、と克己の足を踏む。

「いつになったら孫の顔が見られることやらと思ってはいたが、ようやく食う気になったか」
「……『食うなら分別付くようになってから食ってやってくれ』と言ったのは奥様ですよ」

 先日、一頻り終わって起きた僕が克己をベッドから蹴り落としつつ告白を振られてどれほど泣いていたかを切々と訴えると、克己も若干の良心の呵責を覚えたらしい。

 実は単純にそれだけでもなく奥様からも口説くのは分別付くまではと止められていて、と密約をあっさりとばらしていた。

 僕がそれを聞いて母様にお土産買ってくるのしばらくやめよう、と決意したのは記憶に新しい。

「私が志乃食って一発目で孕ませたのはもっと若かったぞ?」

 あっはっは、と笑う豪傑さに隣の母さんが真っ赤になってもう! とか言っているが母様は余裕綽々で母さんの肩なんかを抱いている。

 克己の暴挙も遅いの一言で済ませる母様は、息子の恋路を意図せず妨害しておいて悪びれもなくこの様子なのだから、向こう十年くらい叶うはずがない。

「母様は、孫とか見たい?」
「いてもいなくても最愛の息子はいるからな。ただ、見られるもんなら見る」

「母さんって騒がしいのどう?」
「大歓迎だと思うけれど。三人じゃこの家ちょっと広いわよねえ」

 僕がしばらく考えてもうちょっと会社よろしく、と言うと母様はふふんと当然そうに胸を張る。

 横で目を見開いている克己にざまあみろ、一蓮托生だと心の中で舌を出した。

 結局、僕を苛めたいという理由と、母様から止められていたという理由と、どちらが勝っていたのだろう。

 まあ、取り返すように好きだ愛しているあれが好きここが好きエトセトラエトセトラと一週間耳に吹きこまれ続ければ、プラスから多少差し引いてまだ様子見してやってもいいくらいの愛情は残る。

 惚れた弱みかなあ、とまだ嫌いになれないあたりが拗らせた初恋らしい。

「そもそも私がまだ現役だしアラフォーだぞ。まだまだ働くし、その間は克己でもこき使うさ。どっちが社長として継いでも構わん。二人の息子は甲乙付け難くてな。纏まったなら良かったさ、二人で決めてくれ」

 そして私は志乃と老後をだな、と母さんの額に口付ける母様はバリバリの現役もいいところで、偶に母さんが朝食を欠席するのはあれはたぶん腰が立たないからだ。

 アルファ全体がああだというのなら克己もまたああだということで、あの歳になっても落ち着かないというのは空恐ろしい。

「……ありがとうございます。明月の姓が、ずっと欲しかったんです」

 明月の姓が欲しかった、と言うあたり昔から意識されてはいたのかもしれない。

 一生懸命押し続けるのもこうやって実ることもあるものだな、と僕はにやつく口元を抑える。

 

 

 

 普段よりもずっと機嫌がいい克己に僕がそっと手を差し出すと、克己は当然のようにぎゅっと僕の手を握り返してくれた。

きみつが
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坂みち // さか【傘路さか】
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