君の番になろうとは思わないので

きみつが
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※R18描写あり※
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この作品にはオメガバース、男性妊娠要素が含まれます。

 

 

【人物】
 水芳 世津(みずよし せつ)
 鹿生 隆(かのう りゅう)

 

 

 カラン、と氷を揺らし、甘い酒を喉に流し込む。店の扉が開くたびにちらり、ちらり、と視線を向け、そのたびに嘆息し続けた。

「どれもこれも、顔がイマイチなんだよなあ……」

 ぽつん、と呟いた言葉に、目の前のマスターは苦笑を返した。てめえが言うな、といったところだろうか。平々凡々な顔立ちをしながら、その口で『顔がイマイチ』とほざくのだから、マスターの気持ちは手に取るように分かる。

 今日も不発か、と更に溜息を重ねる。

 性格なんてなんでもいい、金だってなくていい。ただ、そうだ。単純に美男、もしくは美女、なアルファと会いたい。それで、出会いの場としても有名らしいバーを先週から訪れている。

 マスターにはやんわりと事情を話し、お金は払うが長居してすまない、とは伝えた。それからマスターは、暇な時には世間話でもして間を持たせてくれる。

 そろそろ年齢は三十の台に乗ろうとして、これまで勉学と仕事に追われて碌な趣味もない。少ない休日には、読書と音楽と絵画鑑賞、というような当たり障りのない、外出できずに済む娯楽を繰り返し、体を休めることを兼ねる。

 当然のように交友関係も少なく、番も得ずにこの年齢まで歳を重ねてしまった。

 俺本人はこのまま子どもを持たず死んでいくのだろう、とぼんやり思っていたが、それを困る、と言い出したのは両親だった。病院の院長夫妻である二人は、俺が見合いもせず、番も持たず、このまま死んでいこうとする様子に苦言を呈した。

 曰く、『医者にならないことも、俺にとっての従兄弟が次の院長に内定したことにも文句は言わなかった。ただ、従兄弟の次の院長を孫に、とも考えている。相手には文句は言わないが、一人息子の子どもの顔は見たい』

 酔い混じりの言葉ではあったが、同じく酔い混じりだった俺はその言葉にぶっつんと切れた。

『そう、子どもだけいりゃいいのか。分かった』

 ばん、と立ち上がってコートを羽織り、訪れていた実家を出たのは先々週のことだった。

 オメガに産まれたことも、学力が足りずに医者を目指さなかったことも。この歳まで結婚や子どもについてだって、消極的なまま歳を重ねたのは申し訳なく思っていた。

 それでも、俺が幸せになるということや未来の伴侶より、孫がどうこう、と言われたのには腹が立って仕方がなかった。

 でも、それと共に考えることもあった。そう、『子どもだけいりゃいいのか』ということである。番のハードルは高いが、子どもだけを得ることはまだ考える余地があるんじゃないだろうか、と沸騰した頭にろくでもない考えが浮かんだ。

 仕事も持っている、貯金はそこそこある。それならとびっきり顔がいい子どもが欲しい。平々凡々な顔ではあるが身長もそこそこ。医者にはなれなかったが、平均よりも頭は良かった。

 あとは、体格と美しい顔立ちが欲しかった。子どもに苦労せずに人生を送らせることを目標とするのなら、あとは顔と身長のあるアルファを捕まえて発情期に引き込んでしまえ。うっかりと、ついうっかりと悪事を企てた。

 俺は家をがさごそと漁って、家中の通帳を引き出した。まとまった金額として一千万、一週間、発情期に付き合ってくれるならその金額を渡す、と交渉すればこんな普通の男でも抱く気になるアルファがいるかもしれない。

『伴侶がいて、家庭を築いて幸せになることなんて望めない。……けど、どうせ子どもをこんな茶番に付き合わせるのなら、子どもの資質くらい、いい方が……』

 苦いものを噛み潰したような、最悪な気持ちだった。自身がもっと魅力的で、番がいたらこんな想いも、両親からあんな言葉を与えられることもなかった。通帳を握りしめてぐっと唇を噛んで、それでも計画を止める気にならなかった。

 ごろりと転がったフローリングの床の上で、俺は限りなく打算的に子どもを作ることに決めた。

 

 

 

 マスターにおかわり、とグラスを差し出し、お気に入りのカクテルを注いでもらう。

 俺は足をぶらりと揺らしながら、次に扉が開くのを耳で待った。カランカラン、と氷がグラスに転がり落ちる音。会話する声。

 雑多な音の中で、ガチャ、と扉が開く新しい音が届く。

 俺は視線を向けるのに疲れ、もう一人くらい来たらまとめて顔を確認しよう、と新しいカクテルに舌鼓を打っていた。

 マスターがいらっしゃいませ、と声を掛け、よろしければ、とカウンターへ案内する。

「ありがとう」

 ちょうど良い、と視線を向け、俺は目を見開いた。

 歳は同じくらいか少し上、長身に、適度に筋肉の付いた身体をジャケットが覆っている。会社員にしてみれば長めの髪型が邪魔にならないほど顔立ちも整っていて、垂れ目がちの目元と、高い鼻梁から口元にかけてのラインを視線で追った。ここまで完璧、と心の中で一人ごちる。

 口元を覆っていたマスクを外した男は、ジャケットを脱いで椅子に掛けた。口は顰められることもなく、とっつきやすそうだ。先程よりも観察しやすくなった体型と、口元も含めた顔立ちを観察して、パーフェクト、と心の中で大喝采を送った。

 減点対象があるとすれば、身につけた衣服のどれもが生地がしっかりした上物、時計にしても洒落たものでありながら値が張りそうで、金銭につられて寝てくれるほど金に困っていそうにない事くらいだった。

 顔としては上等でアルファらしき男に、いちおう声くらいは掛けてみようという気にはなるが、俺のような中の下がいいところなオメガに引っかかるか、といえば微妙だろう。

 マスターがちらちらと視線を送ってくる。美男か美女を探してます、と伝えていて条件に合致するような男が現れたのだから、行け、と言わんばかりな視線も頷ける。

 俺は必死で最初の一言を考える。いい天気ですね、という時間でもない。どうも、とでも挨拶して、まず会話の取っ掛かりから得れば良いのだろうか。

 ぐるぐると悩みながら両手でグラスを握りしめていた俺に、涼しげな声が掛かる。

「こんばんは。お酒、美味しそうだね」

 びくりと身体を震わせた俺は、上擦りそうになる声を押さえつけて挨拶を返す。

 男性は多数に好かれそうな、甘ったるい笑顔を向けてきた。初対面の、こんな普通の男に声を掛けてくるあたり、かなり人馴れしている様子だ。

「これ、マスターのオススメなんですよ。甘めの……が好きで」

 満面の笑顔とはとても言えない歪な笑顔を向け、グラスを傾けてみせる。男はマスターに同じものを、とスマートに頼み、椅子を俺の隣に座り直す。

 出会いで有名なバーに来て、隣に座られて、同じドリンクを頼む。展開に俺は疑問符を浮かべながら、ついて行けずに無音で唸った。

 隣に座られるという事がそもそも慣れない。一気に上がった体温が伝わってしまうのではないか、と恐れすら抱いている。

「鹿生といいます。少し飲みたくなって、ふらっと寄ってしまって」

「あ、俺も。……いや、俺はさいきん常連っていうか……水芳っていいます」

 どうも、とちいさく頭を下げる。

 顔のいいアルファを漁りに通っています、とはとても言えず、常連と言葉をぼかして伝える。鹿生、と名乗った男は、マスターからグラスを受け取ってこちらに寄せてくる。

 おろおろしていると、男は笑って乾杯、と小さく言った。

 俺は素早くグラスを持ち上げ、グラスを合わせた。乾杯、と返す声も震えていたのかもしれない。酒の味がわからない。周囲にいる親戚以外のアルファといえば、歳を重ねた仕事の関係者くらいで、会話自体も稀だ。

 見ることすら珍しいアルファを眺める。酒に口を付け、ほう、と息を吐く姿でさえもいちいち整っていて、酒を抱え込む俺と比べることが烏滸がましい気がする。

「口に合いますか?」

「うん。甘い酒は避けていたんだけれど、偶には悪くないね」

 たら、と背を冷や汗が伝った。

 よくある甘いものが苦手とか、そういういい男にありがちな味覚だったらしい。俺だったら、好感度がめきめき下がる。

「ちなみに、つまみのおすすめは?」

「ショコラ……。いや、え、……っと! 枝豆とか燻製とかどうです?」

 数日前に食べて美味しかったデザートを挙げようとしてしまい、慌てて言い直す。とはいえ枝豆なんか、何処で食べても一緒だ。垂れた汗をひんやりと風が伝う。

 鹿生と名乗った男は、俺が視線を逸らした様子にも、言い掛けた言葉にも何かを察したようだ。薄く笑みを刷いた。

「ショコラ、美味しかったのかな? でもごめん、甘すぎるものは得意じゃなくてね」

「だ、と思ってたんですが、……失礼しました。つい美味しかったので」

 くすくすとマスターが蛇口を捻りながら笑い、ぺろっと完食されて……、と言葉を続ける。俺はぶんぶんと手を振りつつ、お腹空いて、だとかなんとかもごもごと言葉を濁した。

 男は緩めた口元のまま、酒を流し込む。

「枝豆と燻製が美味しかったのかな……。マスター、そうなのかい?」

「店としては、アヒージョやパスタ類のほうが推しですけどね。水芳様はあまり油っこいものはお好きでないようで」

「はは。じゃあ店の推しと、枝豆でも貰おうかな」

 マスターと男が会話するのをいちいち首を動かしながら聞いていると、マスターも鹿生さんもこちらを見て同時に笑った。

 酒を干し、料理の準備を始めようとするマスターに割り込み、グラスを差し入れる。

 グレードが上の相手を落とした経験なんてものはない。望み薄なら、すこぶる容姿の良い相手を眺めながら酔い潰れる週末も悪くはない気がした。

 ちらり、と隣の鹿生さんに視線をやる。

「ちなみに、お酒のオススメはありますか?」

 俺の言葉に意図を察したらしい鹿生さんは、うーんと機嫌が良さそうに宙を見つつ、考える様子を見せる。そして、マスターに言葉を差し出した。

 さっと顔には陰りが差したように感じたが、持ち上がった口元は相反して、バーに相応しくないほど朗らかだ。

「ルシアン。甘めで美味しいよ」

 聞いたことのない名前にことんと首を倒す。だが、なんだかお洒落なカクテル名だ。ふんわりして甘めで、食事に合いそうなカクテル、と当たりを付けてわくわくと待つ。

 マスターはしばし逡巡したが、少々お待ちください、とグラスに手を掛けた。

 

 

 

 ぐあんぐあんと頭が揺れ始めたのは二杯目からだ。三杯目からの記憶は薄い。オメガだから、と警戒して泥酔した記憶もない俺は、それほど酒には強くない質だったようだ。

 最初は様子を探っていた鹿生さんにも、途中から質問攻めにしてみたり、絡み酒をしてみたり、一気飲みをねだってみたり。と、散々暴走した上で、ただいま肩を借りている真っ最中だ。

 鹿生さんはよろける俺の肩を抱いては軌道修正させ、タクシーを拾って見知らぬ住所を告げた。車を降りてからは、俺の所為で緩い歩みながら、マンションらしき高い建物の前に立つ。

「鹿生さん、……どこ?」

「おれの家だよ」

 そっか、と納得して、俺はこてんと鹿生さんの肩に頭を預ける。磨かれた床はこつこつと音を立て、二人分の不規則な音を響かせる。エレベーターは見たことのない階数があって、そのボタンの中で、鹿生さんは慣れた手つきで最上階をタップした。

 ふらりと揺れるような感覚に鹿生さんから転げ落ちかけたが、鹿生さんは両肩を掴んで自身の胸に押し付け、難なくバランスを取る。

 なんとなく、その感覚が慣れないものでむず痒い。

 鹿生さんは俺を押しながら、エレベーターから外へ出る。ほら歩いて、と誘導されて真っ直ぐ歩くと、鹿生さんは背後から揺れる俺を傾けては、とある扉に向けて方向を整えた。

 なんだか楽しくなって言われた通りに歩く。やがて、重そうな色の扉の前に辿り着いた。

 俺を支えたままキーを認証した鹿生さんは、どうぞ、と耳元で囁きながら扉を引く。

 玄関は汚れなく保たれ、靴は大きな収納に仕舞われているようだった。二人分の靴で、反射する床が隠れる。

 廊下も同様に綺麗で、奥の扉の先が気になってうずうずしてしまう。自ら歩き、承諾を得る前に奥の扉を開いてしまった。

 鹿生さんは怒ることもせず、背後で俺を見守っているだけだ。

「ひえ……。お金持ちなんだ」

 五人くらい掛けられそうなソファ、ふかふかと毛が流れるラグ。二人で抱えきれないほど広く重厚なテーブルが中央に鎮座していた。

 部屋にはテレビは見当たらないが、部屋の隅にはプロジェクタと音響機器が備え付けられており、スクリーンらしきものも見つける。

 ごちゃごちゃした色は、この部屋にはない。全体の色は鹿生さんらしく上品で、かといって暗すぎないほどに適度に、明るい色が配置されていた。

「さあ、どうだろう。水でも飲む?」

「うん」

 座って、と革張りのソファに腰掛けさせられる。彼はソファに埋もれた俺の位置を確認して頷き、キッチンらしき場所に歩いて行った。

 俺は更に深くソファの背に身を埋めた。ひんやりと頬に当たる革の感触は、酔って火照った肌に心地よい。

 ぎゅっと掌を握りしめていると、やはり感覚が薄い。思考もさっきからぼやぼやとしていて、何か気にしなければいけないことだとか、もう少し考えなければいけないことがあるのでは、とは感じている。

 だが、思考に靄が掛かっていて、やがて考えるのをやめた。

「待たせたかな? はい、お水」

 グラスを差し出してきた鹿生さんに礼を返し、グラスを受け取る。冷えた水を喉に流し込むと、身体に感覚が戻ってきた。

 ぷは、と息をついて、行儀悪く服の袖で口元を拭う。

「ありがと、う。ございました」

「いいよ。それで、酔いは覚めたかい?」

「まだちょっと、ふわっとしてて……」

 額にぺたりとグラスを当てると、冷えていて気持ちいい。

 そう、と声を返した鹿生さんは俺からグラスを取り上げ、テーブルの上に置く。そうして、自身もすとん、と俺の隣に腰掛けた。

 余りに近い距離にバーで慣れきってしまった俺は、自分のパーソナルスペースが極端に狭まっていることに気付かない。肩を抱かれることにも慣れてしまって、回される腕にどうこう思うこともない。

「バーには、相手を探しに?」

 率直な問いで、責めるような口調ではなかった。こくん、と俺は素直に頷く。

「発情期、に一緒にいる相手を探したくて」

「いつから?」

「ん、と。たぶん明日、とか明後日くらいにはもうちょっと匂いがきつくなる、かな」

 今日だって、朝に抑制剤の服用を迷うほどの体調ではあった。けれど、まあそれも好都合だと思った。今日明日、誰か見つかってしまえば流れで発情期に持ち込んでしまえると算段を立てたのだ。

 鹿生さんの掌がすり、と肩を撫でた。

「相手の条件とか、希望は?」

「顔」

 気が抜けて即答してしまった俺に、鹿生さんは目を丸くした。俺は口元を押さえる。

 何と言い訳したものか、と頭を捻った。だが、そもそもの目的をようやく探り当て、ふわふわの頭で考えなしを言葉にして乗せる。

「運が良ければ、子どもが欲しかったんで。顔が良かったら、なんていうか……。いいじゃないですか、見てて楽しい」

「子ども? 随分飛躍しているね、番を探してたんじゃなくて?」

 俺は首を振る。番が欲しいんじゃなく、子どもが欲しい。

「番はいいです。俺には高望みみたい。……子どもはなんか。そうだな、他の人には求められてるから」

 いらない、んじゃなく欲しいと思うことに足踏みするのだ。発情期に寝るだけならできる。だが、子どもができても、相手に捨てられて番にはならない、なんて話はいくらでもある。

 俺は鹿生さんの肩に頬を当て、ふふ、と笑う。

 この人は、俺が肩に寄り掛かってもびくともしない。遮ることもしない、距離が近いのに不快にならない。

「鹿生さんの顔が好きです」

 あの笑顔と、柔らかく何かを見つめる瞳がひどく魅力的に映った。あの瞳で見上げられるのなら、毎日あの瞳で見つめられるのなら、子育ても楽しくなりそうだ。

 びくりと鹿生さんの肩が震えた。無理もない話だ、と心のなかで舌を出す。

「お金払うんで。躰を売ってくれません? 俺、貴方の顔が好き」

 そうだ、と思い出してごそごそと鞄を探る。目につく所に入れていた封筒を持ち上げると、そのまま鹿生さんに差し出した。

 鹿生さんは戸惑った表情のまま、その封筒を受け取り、中身を掌に取り出す。

 キャッシュカードと通帳。ぎょっとしたような空気に、俺はへらりと表情を緩める。

「暗証番号は0219で、一千万ありますけど。足りないなら、まだ、頑張るので」

「へえ……本当だ」

 ぺらり、ぺらり、と通帳を捲っていた鹿生さんは、その通帳とキャッシュカードを机に放り出した。

 はあ、と息を吐いたその横顔は、何かを躊躇うように机の上を彷徨っている。次に口を開いた時には霧散したのだが、鹿生さんには似合わないような苦味を含んだ表情だった。

「いいよ。面白そうな事は好きだ」

 大きな掌が、顎を捉えて持ち上がる。長い髪が頭に落ちて、かさついた唇が唇を撫で擦った。

 ぱくんと食らいつくようなそれは、唇をこじ開けて別の味を舌に伝える。は、と息を吐いて、ジャケットに縋り付く。長い腕が背を持ち上げるように抱き、広い掌が頭を拘束した。

 息の音と唾液が絡む音。静かな空間に響くのはそんな前戯じみた音だけだ。

「……水芳くん、名前は?」

「世津。……鹿生さんのも。……ンう」

 間近で見ると、その容姿の良さが更に鋭く突き付けられる。

 一千万があったとはいえ、よくもこの男が子種だけください、という碌でもない要求に乗ったものだ。

「鹿生隆」

「りゅう、……さん」

「明日になっても覚えていて。……忘れさせるつもりはないけれど」

 子どもには父親の名前なんて伝えるつもりはないのだが、俺が初めての男を覚えているくらいはいいだろう。俺は目を閉じて口を開き、伸ばされる舌を受け入れた。

 

 

 

 鹿生さんは丹念に酔っ払った俺を洗い上げ、ふんわりとしたバスタオルで包んだ。服を着せられることはなく、大きなガウンを引っ掛けられる。バスタオルで水分を拭き取り、寝室に誘われた。

 ようやく明瞭さを取り戻し始めた頭は、本当に大丈夫だろうか、と。止めるなら今だ、と伝えていたが、俺は引くのさえ恐れて踏みとどまった。

 寝室はリビングに比べれば小ぢんまりとしていて、控えめな照明が寝るためだけの部屋であることを突きつけてくる。

 一人用にしては広いベッドは威圧感を持って部屋に鎮座し、自宅のベッドと比べると寝心地は雲泥の差だろう。

「普段ここに人を入れない所為で、ゴムなんかもないけど、大丈夫?」

「大丈夫、って……」

「妙に気分が盛り上がってしまって、制止されてもやめられそうにないんだ」

 此処が、と指差された先に、つられるままに手を伸ばしてそっと触れる。僅かに持ち上がっているのだろうか。もっと、と感触を確かめようとすると、さすがにそれは押し留められた。

 困ったような笑みの中に、熱が見える。瞳を合わせ、唇にちょんと触れた。

「近くに寄ると分かるね、いい匂いだ」

 なんとなく、迎え入れて欲しいのかな、と察して顔を寄せた。瞼を伏せると、どうやら予想は合っていたようで覆うように吸い付かれる。

「わかんな、……ん…………」

 息継ぎのタイミングがわからない。口を開けることだけは辛うじて覚え、主導権を委ねる。ぴちゃぴちゃと音を立てながら口の中を舐められて、含みきれずに唾液が垂れた。

 キスが好きなのか、鹿生さんは俺を洗いながらも、戯れのように唇を身体の各所に触れさせていた。よく会ってすぐの相手に、金銭と引き換えにでもここまでできるな、と俺は密かに感心した。

 あたかも恋人同士のように、今さっき番であることが分かった相手のように。導く腕も支える肩も、触れる唇もなにもかもが優しい。バーで会ったばかりの俺と仲良く飲めるような人だ、誰にでも、こんなことができる人なんだろう。

 多情なあたりは、父親としてマイナスかもしれない。

 いったん離れたのをいいことに、苛立ち混じりにぐいぐいと口元を拭う。様子を見られていたのか、肩を押されて寝台に倒れ込んだ。

 与えられたガウンも紐なんて絡めたくらいのものだ。容易く、はらりとシーツの上に落ちる。

「今度、きっちり着込んでるところから、服を脱がせたいな」

 ちゅう、と首筋に吸い付かれ、ぞわりと緊張が駆け上がる。誤魔化すように鹿生さんのガウンに手を掛けて、脱いで、と小さく呟いた。

 躊躇うこともなく服を脱ぎ捨てた先には、鍛えられた躯があった。手を伸ばし、二の腕に触る。

「別にいいけど、それくらい……」

 明日にでも、着てきた服を着こむところから始めればいいんだろうか。

 二の腕からつーっと手のひらを滑らせ、腹部から彼の雄までを指先に覚えこませた。そっと触れてゆるりと先端を撫で回すと、口の端を吊り上げた鹿生さんは、胸元を貪る動作を再開する。

 ちゅう、と吸われ、舌先で転がされるのに焦って声を上げた。ん、と鼻を抜けるような、普段よりも高いトーンの声が、戯れに沿って音を立てる。

 胸先の快感に気を取られている間に、彼の指先は俺の中心を捉えた。

「鹿生さん背が高いから……ァ、ん。俺、触れないじゃ……」

「あはは。初心っぽいのに自分から触ってくるね、君。いいよ、初心者はリードに任せて身体を預けて。悪いようにはしないから」

 身体の中心を上下されると、浮かれた頭は気持ちいい、と騒ぎ始めて靄を掛ける。

 積極的な訳じゃなく、俺はただ怖いだけだ。俺みたいなものに鹿生さんが勃てられるはずがないと高を括っていて、せめて刺激だけでも与えたいだけだ。

 そこ好き、気持ちいい、と啼いて告げる俺を、鹿生さんは余裕たっぷりに見つめ返す。彼のこれまでの経験と、慣れがどうしても目についた。

 もやっとしたものが育つと同時に、安堵を感じた。彼の中で、俺は毛色の変わったベッドの相手の一人だ。

 無個性に埋没することを安心とする小心者には、それでいい。

「いかせなくていいから……なんか、いれられても感じなくなりそう、で」

「そうだね。お尻も触っておかないと、君には負担かな」

 ちら、と鹿生さんのそれに視線をやり、うん、と神妙に返すと笑われた。脚が持ち上がって広げられ、局部が全て鹿生さんの視線に晒される。

 少し酒が残っている所為で、今日が初対面の相手に股を開いている羞恥心は鳴りを潜めていた。

 クリーム状のものがべっとりと窄まりに塗りつけられ、指先が縁に引っ掛かる。初心者には力を抜いていることで精一杯で、風呂で洗われたことを思い出しながら、手慣れた動作に任せた。

 ぐちゅぐちゅと音を立てるそこは、指を食んでいるのが視線をやらずとも分かる。前とタイミングを合わせ、擦りながら拡げる動作に脚を揺らした。

「いい所はあるかな?」

「前のほう、かな。まだ、分からな……。ひ、まって、寸止めはずるい……」

 俺自身が育ちきる様子が伝わってしまったのか、鹿生さんは後ろだけを触ることにしたようだ。けれど、焦らされたまま後腔の感覚だけが伝わるのは物慣れず、ぎゅっと目をつぶった。

 遊ぶように乳首に歯を立てたり、腹を舐めたりと上半身も可愛がりながら、鹿生さんは自分が突き入る手筈を整えていく。

 茎に繋がる箇所を撫で回しながらその先を前後させ、長い指先が届くぎりぎりまでを慣らした。

「そう、上手。ゆっくり力を抜いてたら悦いからね」

「ん。なんかちょっと……、良くなってきたかも……」

 指先が引き抜かれて、彼の掌が腹の上に置かれる。片腕は脚を引き寄せ、ずり、と膝立ちした太腿が前に寄った。

「おれもだよ。さっきからお預けばっかりだから」

 ふー、と吐き出す息に篭もる熱が、近くに落ちた。

 持ち上がった脚に剛直が当たって、その間に様子を目に捉えてしまう。

 お互いのモノを見せ合ったのなんて学生以来だから平均はよく分からないが、色味でなんとなく使い込まれているのかな、とまた過去を想った。

 あの長さが入ってくると、どこまで届いてしまうんだろう。痛みへの恐怖よりも好奇心が勝った。えらが張ったこれが奥を塞いで、子種を飲み込ませるのは、どれだけ、悦いんだろう。

「鹿生さん……俺」

「ん? 怖いかな、まあ、そういうもの……」

 鹿生さんは俺を宥めるように掌を伸ばし、俺は頬を擦り付ける。

「そのかっこいいの、で。俺、気持ちよくなりたい」

 ふふ、と手を重ね、平気だと伝える。すると、俺よりも余裕がなかったらしい鹿生さんは、先端をさっきまで指先で蕩けさせた場所に宛てがった。

 ぬるん、と表面で滑るそれが肌をくすぐり、あ、と声を上げる。竿を支えたまま、再度ぐい、と押された。

「ん、ン……。────あ、あっ。うあ、あ」

「口だけは達者だね。こんな、……慣れてな…………割。に!」

 声に合わせて伸し掛かるように、体重を掛けられた。ずり、と指先で届かなかった部分まで熱が挿入ってくる。声を上げようとして、纏まらずに息を吐いた。

 ひ、と嬌声というより、悲鳴に近い掠れた声が、喉の奥でくぐもる。

「ゴムは無いから、ちょっと漏れちゃってるかもね? もう、止めても間に合わないな」

 体格差を目一杯使い、腰を掴んでず、ず、と離されては引き寄せられる。

 寝台に押し付けるようにグラインドを繰り返されている内に、ぴたりと尻たぶに鹿生さんの腰が当たった。圧迫感で、腰から下の感覚が別物になってしまったようだ。

「どう?」

 脚を肩に掛けたまま顔を、ぐい、と寄せられる。

 手短に最高、と返した。その返事に鹿生さんは一瞬むっとしたように眉を寄せ、すぐ嗤う。

「かのう、さん、で。……お腹膨れ……あン……うう──、俺そのぐりぐりされんのや」

「ぐりぐりすると絞ってきてイイ、ん。だよ、ね」

「あ、ひ。ちが、……ひど…………」

 単に抽送だけじゃなく、ぐるり、と円を描いてみたり、奥に押し付けて体重を掛けてみたり、と翻弄される。

 俺は鹿生さんに手を伸ばし、その腕に縋った。揺れる髪も、限界が近いのか顰められた顔立ちも、身体つきも人間のひとりとしてやっぱり『きれい』だと思う。

 この顔を見ていたくて子どもを作りたいと思ったけれど、俺が見たいこの顔は、この男のものなのだった。子どもができたとして、彼自身ではないのだ。

 絶頂を迎える間にようやく考えついたそれは、何だか虚しい感覚を残した。

「いちばん……奥で出すよ。君が子どもが欲しい、と言ったんだから」

 鹿生さんに微笑みを返す。右手だけでも繋いで欲しいと手を伸ばすと、その手はやわらかく受け止められた。

 瞬間、ごり、と先ほど見つけられた箇所を抉られて目を見開く。

 あ、あ、と声を漏らすと、ピストンは激しい物に変わった。塗り広げた潤滑のためのそれがぶちゅぶちゅと音を立て、肌を打つ音と混ざる。

 耳から犯されるようで、俺は息を荒らげた。

「おれ、も。出ちゃ……あぁ、……──っ」

「────イッちゃったら、おれも出す。君の中で」

 目を見開く。自分の中の齟齬に気づいて、虚しさに思い当たって、それなのにもう引き返せないところに来てしまった。

 俺がその恐ろしさから逃れようと引いた腰を、鹿生さんは掴んで引き寄せて、奥まで押し付ける。だめ、と呟く身体は正直に快感を解放させた。

「…………や。……ァ、あ。うあ、……ぁあああぁあああ────!」

 肚の奥に叩きつけられるものを感じながら、俺は瞬きできずに乾いた目を晒した。ぎりぎりまで近づいて、最後まで押し込んで、生ぬるい子種が奥まで染み込んでいく。

 お互いに荒く息を吐く。は、は、と言葉を交わすことなく呼吸を整え、俺は余韻に揺らされた。

 鹿生さんはまだ俺の中にいるものを抜かずに、最後まで吐き出し切るつもりらしい。先程よりもゆっくり腰を前後させながら、彼のものが零れないよう蓋をする。

「いや?」

「や、じゃなかった、で。ごめんなさ……」

 ぱた、と手の甲を寝台に落とす。

 本当は、子どもができても彼ではないのなら、それは素直に喜べない、と思ってしまったのだった。だから、止めてくれ、と言おうとしたのだ。

 鹿生さんと本当に気持ちの入らないビジネスのような間柄だったら、こんなふうには思わなかったのかもしれない。けれど、酒を飲んで、話をして、風呂に入って、寝台を共にした、あたりで、何かが変わってしまっている。

「しばらくこのままでいようかな。……そのあと、二回目」

「は、い……」

 こんなふうに慣れさせてしまったら、一週間の内にどれくらい鹿生さんは俺の中に居座るようになるんだろう。

 ぬるりとした感覚が、澱みのように体内に残った。

 

 

 

 朝になって、べとべとになった身体も、体内も含めて洗い流そうと二人で風呂に入った。

 彼の出した白濁を掻き出せるだけ掻き出して、その場でまた男根を含まされる。お風呂の縁に掴まりながらまた俺の中で熱を吐き出し、今度は掻き出さなかった。

 午前中にして、午後にまたお風呂、と彼は言った。

 鹿生さんが言うには間違いなく、発情期真っ只中だそうだ。俺がこうやって嫌がらないのも、鹿生さんが挿れようとするのに応じるのも、発情期中の変化でもあるんじゃないか、と意地悪く言っていた。

 ただそれを言っている間、ソファで挑まれていたので、俺はその合間に挟まれた発情期についてのあれこれは聞き逃してしまった。

「いい匂い。もっと寄って」

「でも、寄ったらまた突っ込む……」

「しばらく休むから、ね」

 鹿生さんは俺にガウンを着せ、すっぽりと包み込むように抱き寄せた。

 セックスよりも、このように抱き締められたり頭を撫でられたりする動作にこそ、どぎまぎする。俺は気づかれないよう、染めた頬を逸らした。

 鹿生さんの家の一室は映像作品の宝庫ともいえるほど、いっぱいの映像媒体が棚に並んでいた。リビングのホームシアターの存在も頷ける。

 俺の趣味は音楽と読書だが、基本的に子どもの頃からテレビを禁止されていた生活が染み付いてしまっていて、映像にはとことん疎い。勿論、家にテレビもない。

 俺は鹿生さんが見たいと持ち出してきた映画を一緒に見ることにした。王道なラブストーリーだ。

 男優も女優も知らない、脇役も知らない、監督も知らないままだったが、一般的にヒットした作品なのだろう、つい目で追ってしまう。

 鹿生さんはシアターに釘付けな俺に対して、毛布を用意したり飲み物を用意したり、とキッチンとリビングを往復した。そして、周囲の準備が整ったらまた俺を膝の間に座らせる。

 ぎゅう、と長い腕を腹に伸ばされ、ゆったりと凭れかかった。

「この中だと、どの顔が好み?」

 俺は助演女優を指差した。主人公の恋人を寝取る役柄で、酷薄な笑みを主人公に対して浮かべるシーンがお気に入りだ。この顔が好きだ、と伝える。

「じゃあ、おれとあの顔どっちがいい?」

「鹿生さん」

 間髪入れずに答えを返した俺に、鹿生さんは満足そうに頭にキスをした。

 正直、心臓が飛び出すかと思った。昨日は酔っていてそれが自然であるかのように振る舞っていたが、こんな顔のいい同世代の男とべったりとくっつき、あまつさえキスを交わす経験なんてものはない。

 鹿生さんは俺と恋人繋ぎをしてみたり、髪を持ち上げてみたり、ぴったりとくっついてみたり、飲み物を補充したり、と映画中ずっと動き回っている。おそらく、当然のように鹿生さんはこの映画を見たことがあるんだろう、と悟った。

 俺が退屈しないであろう映画を選んで付き合ってくれるあたり、面倒見がいい。

「鹿生さんは何の映画好き?」

「推理ものかな。海外のも見るよ」

「俺も好き。……『────』とか、ある?」

「数が多いなあ。字幕だけのものまで含めるとそれこそ沢山、見きれるかな」

 そっかあ、と俺は残念そうに眉を下げる。読書ならばそこそこ数をこなしている、原作を知っていればもう少し話すことも増えるかと考えたのだが、思った通りにはいかない。

 戸惑いを感じ取ったのか、鹿生さんは腹に回した手を組み変える。

「映画見てたらきみ、おれと寝ようとしてくれないだろう?」

「するよ。……さっきキスされて、ちょっと勃った」

「本当?」

 嬉しそうに鹿生さんは耳を食む。ぺちゃ、ぴちゃ、と水音が直接流し込まれ、合間にハーフパンツの中に手が突っ込まれた。

 俺はその手を引き抜いて叩くと、くるりと体勢を反転させる。きょとんとした普段よりも幼い鹿生さんの表情が可笑しくて、表情を綻ばせながらすとんと床に膝を付けた。

 鹿生さんの中心に手を掛けて、部屋着なのかゆったりとしたそのズボンを引き下ろす。

 ちらりと確認した鹿生さんは、やれるものならやってみろ、と言わんばかりで、余裕たっぷりに俺の好きにさせている。

「さっきソファでしたから、元気ないね」

 ぺちぺちと側面を叩くと、ぴくりと反応するあたり、その性は現金だ。

「ふふ、元気にさせてくれる?」

 面白そうに口元を緩めている鹿生さんを見ると、このひとは本気で面白いから、という理由で俺に付き合っていそうな気さえしてくる。俺が突拍子もないことをする度に笑い、自分の予想を越えていくと嬉しそうに頭を撫でる。

 甘い顔立ちに、快楽主義的な。なんとなく、伴侶にするには大変そうな人だ。こんなひとは、子どもの父親くらいの、一度きりの付き合いが丁度いいのかもしれない。番だの伴侶だの、と言おうものなら、君は面白くないから、とすっぱり切り捨てられそうな予感さえする。

 俺は口を開いて鹿生さんを迎え入れる。喉の奥ぎりぎりまで飲み込んでも、呑み込みきれない。手を添えて口内をぐるんと回し、先端を吸った。

 口から零れ落ちる頃には、芯を持っている。俺はよくできました、と、彼の分身にちゅ、ちゅ、とキスと吸い付きを繰り返す。丸い部分をくるくると掌で転がして、ぬるつくものを吸いながらまた育てた。

「鹿生さんの、正直でかわいい」

「はは。感情が顔に出るんだよなぁ、面目ない」

 ぱくんと咥えなおして、喉奥までじゅぷじゅぷと往復させる。溢れ出ているものはぢゅっと飲み込んで、飲み込むと同時に引き絞る奥に先端を当てた。

 反応してもらえて嬉しい、のだと思い当たった鼓動の理由を、確定させるのは避けた。

「もうちょっと吸われると出ちゃうよ。いいの?」

 『何が』いいの? なのかしばし考えて、俺は慌てて立ち上がった。そのままソファに座っている鹿生さんに乗り上がると、さっきしたばかりだから大丈夫か、とそのまま腰を落とそうと肩に掴まる。

 体勢が決まらなくてあたふたしている俺を、鹿生さんはキスをしてみたり揺らしてみたりとからかい、その後で腰を支えてくれた。

 ぬるりと唾液を含んだものを窄まりにあてがおうとしてみても、場所が分からない。持ち上がったそれも、ゆるりと動いて思った通りにならなかった。

「かの、……さん。俺が下手なのこれ?」

「さあね。……そのまま腰を落としてごらん?」

「…………ンっ」

 加減がわからなくて、ずぷ、と思ったよりも填まってしまった。思わず声が漏れる。自分でやろうとした癖に、泣きを見た。

 衝撃が落ち着くと、ゆっくりと腰を前後させ、膨れたそれを飲み込んでいく。鹿生さんの腰に座り込んだ時には、圧迫感が向こうが上の時の比ではなかった。

 落ち着くまで待とうとしていた俺に対して、鹿生さんは腰を浮かせては摩擦を加える。当たる場所が違うことに俺のナカは驚いて、そして悦んだ。

「ほら、動いてごらん」

「ん。こ、う……」

 腰を浮かせて、そして落とす。スパンを長くして、もっと、もっと、と何度も往復する。

「貪欲で向上心のあるいい子だ。一日でこれかぁ、……いやあ楽しみだね」

「ン。かの、さ……当たんない……ッ!」

「少し後ろに身体を倒してごらん、……そう」

 俺の上下に合わせ、時たまに鹿生さんが腰を浮かせては俺を跳ねさせる。俺は夢中で腰を振って、雄を締め付けた。鹿生さんは俺自身を右手で擦り、じっくりと俺の様子を眺め続ける。

 耳には映画の台詞にぐちゃぐちゃと似合わない音が混ざって、俺は荒く息を吐きながら、ちらりとスクリーンに視線をやる。

「だめだよ、おれにも構って、ね?」

「揺らしちゃ…………──ン、あっ、あ」

「あとでもう一回見せてあげるから、ね。まずはこっち」

 結局ずっと鹿生さんはスクリーンで映画を一本通しては見せてくれなくて、映画に集中していると拗ねる。

 俺は鹿生さんのご機嫌を取りながら映画に集中しようとするが、そうやって映画に熱を上げる俺を、彼は、何しに来たの、と言いつつソファに押さえ付けた。

 そうやって過ごす日々が、抑制剤の副作用に苦しむことのない初めての発情期だった。

 

 

 

 お互いに朝起きて、お互いの体調を慮れるようになったのが、発情期の終わりだった。

「あと一週間? ここに?」

「うん。おれも、もうちょっと休みがあるから付き合って欲しいなって」

 俺は、うーん、と首を傾げつつフライパンをくるんと回す。

 俺も鹿生さんも綺麗さっぱり発情期の衝動は消え失せ、繋がりまくった所為か、俺は鹿生さんにどきっとはしてもムラっとはし難くなった。

 今日は目を覚ましたら昼で、昼飯くらい作って食べてからバイバイでもいいか、と思いつつ飯を炒め始めたところでの、彼の言葉、だった。

 仕事は余裕を持って、一ヶ月スケジュールを空けてある。予定が狂ったら早く単発の仕事でも受けようか、と考えていたところだった。予定を空けろと言われれば、空けるのも吝かではない。だが、深入りすると後が辛い、ような気もしている。

 鹿生さんについて、俺はまったく不満がない。

 互いが互いに音楽だとか本だとか映画だとか、そういうものについて語るのが大好きで、それを聞くのも好きな訳だ。趣味も合う上に、ホラーだとかグロテスクなんかのタブーもない。

 映画の趣味の良さについては、顔が良くてアルファでさえなかったら、一生の友達でも申し込みたいくらいの逸材だった。

「まあ、休みはあるんだけど……」

「久しぶりの休みなのに、平日に予定が合う人なんてあんまりいないし。だめかな?」

 お願い、と好みの顔に両手を合わせて小首を傾げられると、俺はもう駄目だ。何かに矢を受けたように、思わず首を縦に振ってしまう。

 まずい、と思いつつ動揺を誤魔化すように大皿に炒飯を盛り、ごん、と食卓の中央に置く。

「レンゲある?」

「あるよ。どうぞ」

 お互いに小皿に炒飯を盛って、もそもそと咀嚼する。食事も疎かに致していたためか、二合ほど炊いた飯が、すぐに腹の中に消えた。

 鹿生さんは姿勢も良く、猫背にならない。大口で食べるのも早いが、ぽろぽろとご飯粒を零すこともなく口元に運ぶ様には、どこか気品すら感じる。

 炒飯についてのこだわりを語り合いながら、大皿に積み上がったそれを消化した。

「世津は、何処か行きたい所はある?」

 時刻は昼。一日出掛けるには遅い時間だ。

「俺どこにでも行くよ。美術館とか図書館とか、演劇もクラシックもジャズバーにでも」

「……文系が喜びそうな所か。もう昼だし、いい絵を置いてるカフェにでも行こうか。スフレが美味しいらしい」

 俺は思わず行く、と答えてしまった。

 と同時に、服の胸元を引っ張る。此処に来た時に着ていた服は最初に風呂に入った時に預けて、洗い上がりが部屋の隅に掛けてある。そして、この家にいる間は鹿生さんの服が必要に応じて貸し出されていた。

 匂いとか体格差にときめき、ジーンズを穿いた時に裾を折り曲げざるを得なかった事にはひっそり肩を落とした。

 鹿生さんの持ち物の服はどれも生地がしっかりしていて、部屋着は触り心地もいいものが多い。こっそりタグを見て、こっそり名前で調べると見事に値の張る洋服店の店名だった。

 確信したのは、この人は特に一千万なんて必要もないだろう、ということだ。

「スフレ、鹿生さん苦手じゃない?」

「多くは要らないけど、少しは食べるよ。世津が食べる分の端っこをくれたらいい」

「でも、そうしたら、鹿生さんが楽しくないんじゃない。……かなって」

「彼処のコーヒーが好きでね。久しぶりに飲みたいと思っていたんだ」

 俺は、返す言葉もなく炒飯を頬張る。あたかもご飯をもぐつきたい気分だったんです、といった体で返す言葉を探したが、やはり言葉が見つからずに麦茶のグラスを持ち上げた。

 俺を眺めていたらしい鹿生さんは立ち上がると、無くなった麦茶を、いる? と尋ね、制止しない俺を見ながら注いだ。

「俺じゃなくて、鹿生さんの行きたい所に行こうよ。久しぶりの休みなんでしょ」

「世津は久しぶりの休みじゃない?」

「久しぶりだけど……、俺に合わせてもらうのは悪いじゃん。只でさえ発情期の間こっちの都合で拘束しちゃって……」

 俺がもごもごと言葉を萎ませると、鹿生さんはくしゃくしゃと俺の頭を撫でる。口元は気分を害した様子もなく、へこんでいる子どもを慰めるように、安心させるように表情は柔らかい。

「おれ、世津を抱き潰した自覚はあるな。大変だったでしょう、こんな体格の男が一週間ずっと揺さぶってくるのは」

「や、それは別に俺も良かったんで……。じゃあ、夕飯は鹿生さんの行きたい所に」

 鹿生さんはうん、と頷くと、さらりと俺の皿を回収して流しに運んでしまう。

 ずっとこうだ、風呂にも運ばれる、ソファに座っていると膝に乗せられる。飲み物は運ばれる。飯を作ろう、と言うと食材の場所から何までさらっと用意しては、フライパンと格闘している俺の横で後片付けを始めていた。

 鹿生さんは皿をざっと流して水に浸け置くと、俺を振り返る。

「甘いものが美味しい所か。フレンチとイタリアンあたりでどうかな?」

「だからー、鹿生さんが好きな所ってー俺は言ってるんですけどー…………」

 はあ、と溜息を吐いた俺に鹿生さんは店名を挙げ、嫌いなものは無いかと問うた。俺はその答えを返しつつ立ち上がり、部屋の隅に掛けてあった元の洋服に手を伸ばした。

 その瞬間に待った、と声が掛かる。

 手を拭った鹿生さんは大股で俺に近付くと、ふむ、と俺と服を見比べた。

「服、買いに行こう」

「は?」

「体格に合っていないのが気になってたんだよね。一先ずそれ着て。適当に店連れて行くよ」

 いい、必要ない、と俺は断ろうとしたのだが、鹿生さんはのらりくらりとそれを躱してとっとと自分も着替えてしまう。

 バーにいた時よりもラフに、ネイビーのデニムと明るいジャケットを手早く選んでしまうと、遊び用の時計を視線もやらずに取り付ける。

 思わず手首を辿ったのは、時計という習慣がなかったからだ。鹿生さんは部屋にいる間は時計をしなかったが、バーにいた時も、シルバーのそれが太い手首を飾っていた。

 時計が似合う人を見ると、付けたくなるもんだな、と他人事のように考えながら適当に服を着る。この服だってそこそこの店で……まあ、店員に話しかけることもないかとざっと選んでしまったかもしれないが……選んだもので、それでも体格に合っていない。更に言葉には出さないが、彼の好みとも外れているんだろう。

 鹿生さんが濃い色の時計を選んだことだって、よくよく考えて見れば差し色なのか、と思いつくくらい、服のセンスには疎い自覚はある。

 鹿生さんは自然に俺の襟元と裾を直すと、腰に手を回して車まで案内した。

 一週間ぶりの外に対して太陽が黄色いという感想はなかったが、空気の清々しさが感慨深い。セキュリティのしっかりしたマンションを地下まで降り、並んだ車の中から高価そうな黒い車の前に立った。

 うへえ、と声に出さずに微妙そうな顔をした俺に、マンションに連れて来た時の反応を思い出したらしい。営業が安くしてくれたからそこまでもないんだけど、と言い訳めいたことを口にしながら、俺を助手席に押し込んだ。

 運転する事を考えて、こんなに鼻の長い車は勘弁だと思ってしまうのだが、鹿生さんにとっては慣れた愛車の感覚らしい。戸惑うことなく車を走らせはじめる。

 俺は高性能のナビと会話してみたり、車内設備にいちいちリアクションを返したり、後の方では慣れてきてシートをちょうどいい位置に倒そうとしてみたり、と遊び倒して過ごした。

 俺が心地よさにうとうとする前に、車は少し郊外寄りの店の駐車場に滑りこむ。

 落ち着いた店内は華美すぎず、値札さえ見なければ、勇気を出せば入れるような店だ。

 鹿生さんは俺をエスコートしつつ、奥に進んだ。店員は顔を見た瞬間に、鹿生様、と言う。どうやら馴染みの店のようで、俺だけが気まずいまま案内された。

「お目当ての品はありますか?」

「この子。……水芳くんっていうんだけど、彼の上から下まで揃えたくてね。適当に持ってきてくれるかな? 派手すぎなければ、どんなものでも構わない」

 ソファのある部屋は個室で、部屋の隅が着替えられるよう区切られている。部屋に通されたあたりで俺はもうそわそわしてしまって、持って来られる服の値札は全部確認しないと、と戦々恐々としてしまっていた。

 しかし、持って来られた服にはすべて、値札がなかった。俺は内心びくびくしながら与えられる服に袖を通す。部屋の隅に区切られたスペースもあったのだが、店員さえいなければ特に鹿生さんに隠すようなものもない。

 全裸よりも奥を見られたのだから、下着姿に恥じらう訳もなく、効率重視とばかりに脱いでは着替えた。

 鹿生さんは俺が脱ごうとする度にそれを手伝い、にこにこと服を組み合わせていく。

 最後には髪型まで若干いじられて、俺は鏡の前に立った。

「似合う?」

「うん、とても。素敵だ、脱がせたいよ」

 ちゅ、とつむじにキスを贈られた。脱がせたい、とはなんというか。まあ、むらっと来たと言うのなら、ある意味では大成功と言えるのだろうか。

 すっきりと身体に沿ったニット、スキニーパンツに洒落たブーツ。ぴったりとした服はあまり好んではいなかったが、鹿生さんがああでもないこうでもない、と言い続けただけあって、俺でさえ数割増しによく見える。

 店員を呼び、服が決まった、と伝えると、選ばれなかった服は回収されていく。

 番かと言わんばかりの距離の近さに、俺は店員さんもいるんだけど、と脇腹を小突く。だが、鹿生さんはいけしゃあしゃあと肩を抱いた。

「あら、やっぱり鹿生さんの恋人なんじゃないですか」

「格好良いでしょう? 手始めに服をプレゼントしたくて」

「鹿生さん、ほんと恥ずかしい!」

 鹿生さんと店員さんに揃ってにやにやと視線を送られ、俺はぱっぱ、と髪型を直した。

 鹿生さんは脇で店員さんとやり取りをしている。金額は見えなかったが、袖を撫でる感触からしても、布地の厚みからしても安くはない。

 一千万を受け取らせるのだから気にすることも無いのだろうが、もやもやしたものが残った。後で金額を聞いて、別に返そうか。

 店員にも恋人だ、とその場の誤魔化しをしてしまって。新しい恋人を連れて来る時に気まずくなっても知らない、と心の中で愚痴る。

 彼と会わなくなったら、服はクローゼットの奥に仕舞ってしまうのだろう。それでも、この服もまた、鹿生さんが俺に残すものだ。

「鹿生さん、最近お仕事続きだったでしょう? 水芳さんに癒やされているようで良かったですね」

「ええ。それはもう癒やされていて、絶好調なんですよ」

 俺の元の服を袋に入れてもらい、鹿生さんがそれを受け取る。持つよ、と俺が手を差し出すと渡してくれるが、基本的には身の回りの品でちょっとでも重そうなものがあればうっかり受け取られそうになる。全て頼り切ってしまいそうで、気が抜けない。

 寄越せと言えば寄越すあたり、意志を尊重してくれているようで安心はするのだが、この世話焼き加減だと、無闇に頑張ろうとしないのが得策だろう。

 車までの間にも、俺は服の裾を引いてみたり、ブレスレットを必要もないのに動かしてみたり、と落ち着かないまま鹿生さんの隣を歩いた。

「アクセサリーまで……。俺あんまりこういうの着けないから、緊張する」

「でも、すごくいい。ぴったりしたパンツも上から擦ってあげるともどかしくって啼いちゃうだろうなあ、楽しみだよ」

「…………脱がせること前提。へぇ。まあ。結構なこって」

 俺のげんなりした声に、鹿生さんは気にする様子もない。右手でハンドルを切りながら、俺の髪をすっと持ち上げて払った。

「最上級に整えたものをおれの手で崩す時が、いちばん楽しい。料理を食べる時、整えた髪を崩す時、積み木は解体する時。そして君の服は脱がす時」

「はあ、趣味悪いんですね」

「うん。君をどうぐちゃぐちゃにしようか考えながら着飾らせるんだから、趣味悪いよ」

 楽しい、というのが鹿生さんにとっては大きな判断基準だ。自分の予想を裏切ってくる人、驚きを与える人、着飾って予想以上に目を見張る変化をする人。そういうものを愛すひとなのだろう。

 対して、俺は淡々と平穏を愛し、人に埋もれる人、だ。没個性もいいところだった。

 ああ、と嘆息して理解する。俺は、結構このひとに肩入れしている。目で追って、一挙一動に反応し、誰かに目を向ける可能性に嫉妬している。

「そうじゃなくて、俺なんかを最上級に整えようとするなんて、って。中の中をどうやっても中の上でしょう、上物を飾ったほうが伸びしろがあるなって」

 サイドミラーに映る顔が、自身を見返す。服ばかり整って、ちょっとばかりよくなったように見えたとして、結局俺は俺でしかない。

 目元も、口元も、鼻だって毎日見慣れた俺の顔だ。鹿生さんみたいに上等でもなければ、鹿生さんと歩いていて釣り合わないと言われる『だろう』顔だ。

「中とか上とか、そういうものはどうでもいいな。おれは君を着飾りたい、って思ったんだから」

 いま、鹿生さんの表情を見たいと思った。

 けれど、なんとなく滲んでしまった涙を隠したくて、顔を逸らして外を見る。震える声を隠したくて、普段よりも声を張った。

「やっぱ、趣味悪い」

 終わらせたいな、と自嘲した。こんなにぶらぶら揺れるブランコにひたすら乗せられるような、幸福と動揺なんて体力が続かない。幸せを味わう時に、その後に続く不幸せを思い描く人間には幸せが眩しくて堪らない。

 俺はただ、鹿生さんの言葉が嬉しかった。両親にすら孫しか求められていない俺は、俺がいい、と言ってもらえることが、ただ、嬉しかったのだ。

 贅沢にも、もっとそんな言葉がほしいと、そんな言葉をくれるひとがほしい、と思ってしまった。

 

 

 

 スフレは美味しかった。絵画も風景画が主で、喫茶店の主人も鹿生さんと顔見知りらしい。料理を運んでくる時に、絵の話を聞くこともできた。

 また行きたい、と思ったし、行くことはできる距離ではある。だが、鹿生さんと会う可能性を考えると、訪れることもできないのだろう。

 ポイントカードを作っているんですよ、という喫茶店の主人の言葉に従った俺は、増えることのないスタンプをさびしく感じつつ、受け取ったカードを財布の必ず捨てない位置に仕舞い込む。

 フレンチとイタリアンは悩んだ結果フレンチにして、イタリアンもいつか行こうね、と言ってもらえたが、俺はあいまいに頷くことしかできなかった。

「疲れた?」

「いや、近場ばかりだったし、座っている時間が多かったからね。そこまでは」

 リビングに入ると同時に、俺は鹿生さんにしがみついた。この人が発情期でもないのに俺を抱けるのかどうか。すこしだけ、試してみたかった。

 爪先を伸ばして顔を寄せる。鹿生さんは動揺した様子もなく、悠然とそれを受け止めた。舌先を伸ばし、口内をひととおり辿り尽くすと、俺は、は、と息を吐く。

「する?」

 心臓がひときわ大きく音を立てた。何が、なんて返されたら誤魔化してしまいそうなほど、俺は言葉のトーンとは裏腹にたいそう動揺していた。

 脱がせてみたい、と言っていた服をきちんと着込んでいる。今なら、気分が乗らない相手であっても何とかなるかもしれない。

「……駄目だよ。一日くらいお休みしなさい、車の中で眠そうにしていただろう」

「………………あ。……そっか、……うん」

 俺はしゅんと肩を落とした。鹿生さんは発情期に浮かされさえすれば俺を抱くが、普段はそうはならない。

 ショックを受けると共に、合点がいった。アルファのオメガに釣られた発情期というのもまた、気持ちと裏腹に働いてしまうものらしい。

 服を着込んでいる所を脱がせたいのだと言った割に、発情期でなければその趣味すらも顔を出さない程度の存在なのだ。

 俺はリップサービスが苦手だけれど、鹿生さんは得意なのだろう。俺が喜んで鹿生さんに脚を開こうとする程度には、俺の気持ちは傾ききってしまっている。

 俺はコメディ映画が見たい、と言った。沈んだ気持ちを吹き飛ばすような映画を見て、笑ってさよならとしたかった。

「……『────』とか、今見ても面白いよね」

 二人で恒例のように風呂に入って、頭から爪先まで洗われて、爪が伸びていると言って爪を切られ、髪を丁寧に乾かされて。……そして俺は、そのすべてを鹿生さんにそっくりそのまま返した。

 鹿生さんは世話を焼くのには慣れているが、焼かれるのには慣れていないようだ。一生懸命、背伸びしてドライヤーを操る俺を鏡越しに微笑んで見ていた。

 大きめのパジャマを出されて身に付けるのも、これで最後だとゆっくり袖を折る。

 リビングに戻ると、鹿生さんが麦茶を差し出してきた。最後に冷たい氷をひとつひとつ舌の上で転がしていると、鹿生さんはがり、と氷を噛み砕いた。

 最初の晩に一緒に飲んだのはお酒だったのに、最後の晩に飲むのは麦茶だ。変わってしまった関係に、俺は満足して笑った。

「鹿生さんって、よくも身体だけ、とか、あわよくば子どもだけ欲しい、とかいう変な要求を呑んだよね」

 最後に聞いてみたかったのは、それだった。楽しいことは好き、な鹿生さんが頷いたのは百歩譲って理解できないこともないが、相手が相手だ、詳しく聞いてみたくもなる。

 鹿生さんは長い腕を伸ばしてグラスをテーブルに置くと、うーん、と視線を上に投げる。

「決め手は、通帳かな」

 お金については困っていなさそうな鹿生さんが、決め手はお金、と言ったのは意外だった。だが、金持ちほど使い道に煩いというのはよく聞く話だったし、そういうものかと俺は納得する。

 手の中に納まるグラスは色違いで、ペアグラスだとか言われるものだろう。これだけでも持って帰りたいな、と欲が頭をもたげる。服は貰って帰るつもりだったが、なんというか、おそろいの物がうっかり欲しくなってしまった。

「毎月定額はきっちり貯金してあって、臨時収入みたいなものがちょくちょくあって。ただ、基本的には綺麗に同じ額が、ずっと同じようにあって」

 鹿生さんが続ける言葉は、通帳の記帳履歴のことだろうか。言われる通り、あの通帳は貯蓄用のもので、貯金額のみの履歴が延々と載っている。しかも記帳回数が少ないためか、昔からの履歴が淡々と貯まり続けている通帳だ。

「この人は、ずっと一生懸命これ貯めたんだろうな、っていうのがひと目でわかる。単純に君がお金持ちって訳でもない。これはたぶん年数で積み上げられたものだ、っていうのがよくわかる。それを、おれに使ってもらえるのが、なんとなく、楽しいと思った」

「…………楽しい?」

「楽しい、ううん、違うな。嬉しい、か。君に、おれに価値があるって言ってもらえたのを嬉しく思って、頷くことにした。きっかけと言うならそれくらいかな」

 肩を抱かれ、鹿生さんに凭れ掛かる。あの通帳が切っ掛けなのだとしたら、お金で買うことにしてよかった。

 俺がただ単純に誘ったとして、このひとは頷かなかった。彼が抱きたいと思うのは俺じゃない、彼に対して価値を付けるときに高く付ける面白い人間だ。それなら、俺だけじゃないんだろう。彼に、価値を抱く人間はこの世界には数多くいるだろう。

「それに…………。あれ、眠いの?」

「すこし」

 鹿生さんは困ったように笑うと、目を閉じて寄りかかる俺の頬をそっと撫でた。

 眠たくなんかなかった、俺はこのまま鹿生さんが眠った後で家を出て行くつもりでいた。ただ、眠っているように呼吸を長くし、目を閉じて身体を預ける。

「仕方ないな。……起きたらまた話そう。ゆっくり話し合いたいこともある」

「……ん」

 俺が寝たふりを続けていると、鹿生さんも運転疲れか、ソファに凭れたまま、しばらくして寝てしまったようだ。

 俺は鹿生さんを揺らさないように隣から抜けだすと、このマンションを訪れた時に着ていた服を着て、新しく買ってもらった服を袋に詰めた。

 通帳とキャッシュカードはテーブルの上に載せて、暗証番号を書き添えて置いた。それ以上何か書き残して行こうかと考えたが、碌なことを書きそうになくて諦める。

 『鍵はポストに入れておきます』とだけ書いて、鹿生さんのキーを拝借する。子どもができたとしても、できなかったとしても、もう鹿生さんに会うことはないつもりだ。

「ありがとう、鹿生さん。俺は、貴方の番になろうとは思わないよ。……貴方に好きになってもらえるかな。って期待は、俺にはできない」

 縋り付いて告白でもできたら、幸せだったのだろうか。俺は服の袖でごしごしと目元を拭うと、荒くなった呼吸を整える。

 最後にキスでもしたかったが、端正な寝顔を見てしまうと触れてしまうのが冒涜であるように、脚が竦んだ。

 結局、手だけは振って部屋を出た。

 

 

 

 駅まで歩いて、最終の電車に乗った後で、何故か向かったのは実家だった。

 深夜に訪ねて来た俺に、両親共に驚いた様子をしていたが、俺が揉めたことを無かったかのように平然とふるまっているのを見て、何も言うことはなかった。

 母親にしばらく泊まると告げ、昔の服を引っ張りだして着込む。サイズが変わっていなかったことが幸いしてか、埃っぽかったものの着ることはできた。

 着心地の良いパジャマではない、肌をちくちく刺すような服のほうが、俺には丁度良いのかもしれない。

 昔はテレビなんてなかった居間には、いつしかテレビが鎮座している。母親に買った時の事を尋ねると、高性能さを得意げに話してくれた。あれほど、駄目だ、と言われていたのが嘘のように、時間が何かを変えていく。

 牛乳片手にだらだらとテレビを見ていても母親は咎めることはせず、隣で深夜番組のお供にせんべいでも齧っている有様だ。あれだけ厳しかった両親も、年を経るごとに変わってしまうのだ。

「お父さんがね」

 口火を切った母親は、うーん、と言葉に悩むように煎餅を咀嚼する。ぱり、ぱり、と響く音も間隔が長くなり、そして、躊躇うように勢いも落ちる。

「世津は失恋でもして帰ってきたのかって」

「…………ぐっ。げほ」

 ぐい、と口元を拭い、あー……、と言葉を濁す。

 傷ついた様子で深夜に帰ってきたからって、安直な発想だ、とでも言えばよかったのだろう。だが、実際に失恋して帰ってきている手前、動揺を隠せない。

「世津は別に見ていたくないような顔って訳でもなし、仕事も安定してるし、恋人はいるもんだとばかり思ってたのに、孫って言ったら怒られて。あれ、これは恋人はいなかったのかしら、なんて話してたのね」

「はぁ。うーん。……へー」

 両親の時代とは違い、仕事が安定しているからって、さっさと相手が見つかるような時代でもないのだ。

 そもそも見合い結婚の両親は、そのあたりもハードル低めに考えがちなのかもしれないが、俺の市場での価値はそこまで高くもない。

「だったら、悪いこと言っちゃったね、って。二人で反省して、その日はおそうめんだったわ」

「うん? なんでそうめんなんだよ」

「貰い物の高級和牛コロッケを横目にね、おそうめんを食べたの。反省して」

 両親からすれば息子に恋人がいるのは決定事項だったらしい。そしてその上で孫だのと言い始めた訳で、まあ、いつ結婚するんだといった体で、悪気は、なかったといえばなかったのだろう。

 すっかりぬるくなってしまった牛乳のグラスを手のひらであたためて、俺は、はあ、と息を吐く。

「別にもういいよ。でも付き合ってる人もいないの。そもそも失恋もしてない。だから、孫なんてもっと先、縁があれば、って話だよ」

「お隣さんもお嫁さんに孫の話して、息子さんに雷落とされたって。……ごめんね。お母さんだって、お祖母ちゃんに孫はまだかー、って言われるの、やな気分だったのに」

「うん。まぁ……でも、そういう話する機会ができたのは、良かったのかも」

 俺は久しぶりに純粋に笑顔を浮かべて、露骨にテレビの話を振った。しばらく会わない間に母はテレビが大好きになっていて、今クールのドラマの話を延々とし始めた。

 対してテレビを見る習慣が無くなってしまった俺は、俳優の名前だとかを振られる度にどんな俳優か、と尋ねるところから始まってしまう。

 結局、今クールドラマをひたすら見せられた俺は、明け方近くまでかかりながら母親とドラマ談義を繰り広げた。

 その勢いは鹿生さんと一緒に語りまくったそれを彷彿とさせるもので、やっぱりこれは遺伝だ、と実感する。朝に物好きな二人を起こした父親は、たいそう苦い表情をしていた。

 おはよう、と筋を伸ばして背伸びをする。休みの残りはまだある。発情期明けで疲れきった身体を癒すのに使うのがいいだろう。

「なんで父さんは休みなの」

「偶にはいいだろう。お前もいるし母さんも休みなんだし、偶には買い物にでも行って、美味いものでも食おう」

 父親は、照れたように言葉を詰まらせながら言う。父らしくないながらも、俺に対しての罪滅ぼしなのは手に取るように分かった。まあいいか、と俺は笑って頷く。

 特別な余所行きなら、と着るつもりもなかった鹿生さんからのプレゼントを着こむと、父親も母親も驚いたように俺の姿を見ていた。

「馬子にも衣装ってこういうことかしら?」

「お前の若いころに似てるな。……偶にはお前も新しい物を買いなさい、勿体無いって買おうとしない」

「やだお父さんったら、もう私はおばさんですよ」

「そういう事は、おばさんを着飾りたいおじさんに言うもんじゃない」

 ああ、と俺は納得したように自分の姿を見下ろす。

 鹿生さんが買ってくれた服は、両親の目から見ても馬子にも衣装、が実現するくらいには似合っているものらしい。

 俺は、俺に似合う服、なんてものはわからないけれど、鹿生さんが見てくれるのなら、鹿生さんには分かる。

 勿体無かったな、と俺がひらひらと服を揺らしていると、玄関のチャイムが鳴った。

 母親が、はいはーい、と出ていき、父親がインターホンの意味は……、と呆れているのを、まあまあ、と宥める。荷物でも届いたのか、と待っていると、息を切らせた母親が駆け込んできた。

「な、ねえなんか来てる!?」

「はぁ?」

 落ち着いて、と俺が母親を宥め、父親が代わりに玄関へ出て行く。俺は母親に詳しく話を聞こうとしたのだが、母親の話は全く要領を得ないものだった。

 誰かが来てる。誰かって何。あの、あのええと。と、母親が落ち着かないために話が先に進まない。

 その間に父親が戻ってきた。何があったか尋ねると、父親も困惑しきった表情を隠せないように言葉を選ぶ。

「……あの、名前何だったか。あのひとが来てる」

「はあ、知り合い?」

 父親もこれか、と呆れて問うと、父親はぶんぶんと首を横に振る。

「知り合いだなんてとんでもない。何だ、ドッキリか何かか」

「とりあえず、怪しい人じゃないにしろ、話聞かないと」

 ああもう、と役に立たない両親を置いて俺はパタパタと玄関に駆ける。いくらなんでも、客をこんなに待たせた上に顔を見れば帰っていく、というのは失礼極まりない。

 俺は、はいはーい、と玄関へ出て、来訪者の顔を見て固まった。

「なんというか、ご両親? 顔を見るなり慌てて帰って行かれて……おれ、そんなに悪人顔してる?」

 玄関に立つ鹿生さんは、居心地が悪そうに首を傾げた。

 鹿生さんらしくなく髪は一部跳ねていて、よおく見ればボタンだって掛け違えている。手首には時計もなくて、普段の習慣すらも忘れる程度には、慌てて家を出て来たのが見て取れた。

「…………。鹿生さん……なんで」

 ここに、と言葉を続けて二人して沈黙した。鹿生さんに対して話したことがあるのは苗字と名前、それくらいだ。

 住所が分かるようなことは話していないし、更に言えばこちらは実家で、現在一人暮らしをしている家よりも居場所を突き止めるのは難しいだろう。

 しかも家を出たのは昨日の深夜だったから、鹿生さんは朝起きてすぐに俺がいないことに気づいて、訪ねて来たことになる。

「…………なんで、住所知ってるの?」

「バーで支払おうとして君、免許証落としただろう。仕事柄、暗記は得意で、覚えてしまった」

 ああ、と俺は納得して声を上げる。

 免許証に載っている俺の現住所は裏書きだ。元住所であり実家は表、で鹿生さんが見た免許証の表は実家の住所のままだった。

 バーでの支払いということはあの泥酔していた時間ということで、さっぱり記憶にはなかった。

 ただ、鹿生さんが今ここにいるのだから、俺は悪人かも分からない鹿生さんに対し、免許証を落とす、という失態をやらかしたのは間違いなかった。

 相手が鹿生さんでつくづく良かった。いや、そう、良くもなかった。

「何も言わず出て行かれるということは、自覚はなかったけれど……おれが何かしたんだろうね」

「……いや、そんな訳じゃ…………」

 また逃げるんじゃないか、と恐れてでもいるのか、鹿生さんは俺の服の裾をやんわりと、しかし離す様子もなく捉える。俺はそれを振りほどくことができず、視線を彷徨わせて眉を下げた。

「君が、子どもさえいれば父親は要らないのかなっていうのは、察していたつもりだけれど。それでも、おれは…………」

「「子ども!?」」

 思わぬ横槍が入った。俺はぶん、と振り返る。柱の影からそっと見守る二対の瞳は、興味深そうにこちらを窺っていた。

「ああもう……! ちょっと、鹿生さんここ騒がしいんで二階上がってもらえます? 父さんと母さんはリビングにいて!」

 まだ物言いたげな両親をリビングに戻し、俺は靴を脱いだ鹿生さんの手を引いて階段を上がる。階段を上がっている途中、手を引くのを気まずく思ってしまったが後の祭りだった。

 俺は肩を落としつつ、鹿生さんの手を引いて俺の部屋に入れた。

 空気が古くなっている部屋の窓を開けて風を入れ、カーテンを端で括る。俺がそうやって部屋をぱたぱたと駆け回っている間、鹿生さんは無言で待っていた。

 どうぞ、と勧めるとようやくソファに腰掛けたが、鹿生さんの家のソファのあの座り心地を知っている者としては勧めづらいものだ。

「…………。あの、鹿生さんは何もしてないです。何も悪いところは無くて」

「でも君は出て行った。急用ではないよね、暗証番号と鍵、戻ってくる気はなさそうだった」

 隣に腰掛けるのは憚られた。立ち尽くしたまま、激高した様子も、責める様子もない、ただの事実確認の言葉を受け容れた。鹿生さんが言った通り、戻るつもりは欠片もなかった。

「一週間が終わったのに、俺がいたら寛げないでしょう。貴方の一週間ごと買ったんですよ、俺は」

 鹿生さんは首を振る。

「敬語。嫌いだ」

 俺は口元を押さえる。ぎゅっと瞼を閉じて、自身の言葉を鹿生さんが受け入れてくれないことに苛立つ。

 この人がこのまま帰れば、納まる所に納まるのだと分かっていて、なぜ放っておいてくれないのだろう。

 そもそもなんで追いかけて来たのだ、と。綺麗に思い出として昇華させてくれないのか、と唇を噛んだ。

「君は俺が嫌い?」

「嫌い…………、だったら寝ません。寝られません。俺、そこまで身体の関係を軽く考えては、いないので」

 貴方が初めてです、と言葉が漏れた。全然軽くなんかなかった。服を脱いで裸になるだけだって、顔から火が出るほど恥ずかしい。

 思い起こせば失態だらけで、あんなことを誰とでもできるはずがなく、他の誰にも身体を預けられるはずがない。あれだけ直ぐに懐いてしまったから、きっと酔った俺は鹿生さんにしようと思えたのだ。

「帰った理由は?」

「一週間が終わったのにいるなんて、烏滸がましいでしょう」

「その、烏滸がましい、という言葉が理解できない。おれが望んで君に近くにいてほしいと言った。君は受け入れた。それで一週間うちにいることになった。そうだろう、なんで急にいなくなるかな?」

 鹿生さんの言葉はすべて正しい。言葉上ならば鹿生さんが求めて、俺が受け入れて。俺が一週の間に、連絡もなく鹿生さんの元を去ることは約束を違えている。

 けれど、結局それは言葉上のことだ。言葉に俺の気持ちが乗るのなら、俺はきっと鹿生さんにとっても正しいであろうことをしている、とさっきまでは考えていた。

「だから!」

「敬語もだけれど、苗字でさん付けも気に入らない。一々びくびくしているのも、与えられるのに慣れていないのも、全部。……徐々に慣れればいい、と思ったけれど、いきなりいなくなられるんじゃ堪らない」

 鹿生さんが腕を伸ばして、手を取る。

 ぐい、と引かれて、座って、と言葉でも促される。俺はよろめきながらソファに座らされた。言葉の端々から滲む怒りを感じる。

 さっき家を訪れていた時には感情に怒りは見えなかった。けれど今、目の前にいる鹿生さんは怒っている。

「おれは君がいい。世津がいい。一週間ではなくて、……あのまま済し崩しに住んでしまえばいい。子どもが欲しいんだったらいくらでも君を抱くし、発情期に他の所には行かないでほしい。言っている意味が、分かるかい?」

「……ぜんぜん、分かんない。ですってば…………! 俺なんかに」

 抱きしめようと引き寄せられるのが自分である理由も、求められる理由も。与えられる理由もなにもかもが分からないのだった。

 努力することを周囲に求められるのには慣れている。けれど、鹿生さんはぜんぶ与えようとするから、俺はどうしていいかわからない。

「君が好きだよ。君が隣にいる時間が心地良くて、君にもそうであって欲しい……わからないなら、わかるまで言うから。それまでは逃げないで欲しい、世津」

 大きな掌が頬を包んで、擦り寄せるように唇が触れる。そこでようやく言葉が言葉としてではなく、実感として心の中に落ちた。

「……変でしょう。なんで俺」

「君がいい」

 嘘だ、と反射的に返そうとした言葉を飲み込む。一千万渡されて、それで終わりにはしなかった。俺がいなくなったことを知って、朝早くから準備もそこそこに家を出て、それから俺の家を訪ねて、こうやって俺を好きだと告げてくれている。

 もう、期待と諦めを行き来することはない、のなら、俺はこの手を取ってもいいのか。

「…………発情期じゃなくても、寝るのは、俺だけにしてくれますか?」

「なんで、君以外と寝るの」

 鹿生さんは笑って言って、そうだ、と言ってポケットから封筒を取り出した。

「これは返すよ」

 封筒をひっくり返し、ぼとぼとと落ちてきたのは通帳とキャッシュカードだった。

 俺は返さなくていいです、と押し返したが、いらない、と言って鹿生さんは俺に返した。暫し押し合いをして、お互いに引く気がさらさらないことを悟る。

「これは。でも、鹿生さんの労働の対価です」

 何度返しても俺が頑として受け取らないことに、鹿生さんはハァ、と息を吐く。

「……口座を一緒にすればぜんぶ一緒くたか。そうだ、それがいい」

「いーりーまーせーん! 言ってる意味もわかりませんー!」

「一緒に住んだら口座が分かれてるなんて面倒だろう」

「…………きっと吊橋効果だから。俺なんかがどうこうって、だから思い直し」

「俺は君の顔も性格も好きだよ、吊り橋かどうか、ね……。そうだ、付き合ってみれば分かるんじゃないかな。それがいいよ」

 鹿生さんは笑って、一先ず恋人になろう、と言った。

 それから考えればいい、と、そういうものかと首を傾げたが、鹿生さんが自信満々にそう言うものだから、ひとまず流されてみることにした。

 その様子とは裏腹に、頬に触れる掌が震えていたのは、気づかないふりをした。

 深入りしそうだから逃げたくらいに本気になっていた俺が、結局付き合ってみればどうなるかなんて火を見るより明らかだった。けれど、恥ずかしくてその場では告げることはできなかった。

 ただ、明日も鹿生さんに会えるのなら、いつか、が来るのなら、それまで機会を窺うのは悪くないと思えた。

 

 

 

 発情期から数ヶ月経って、俺は結局なし崩しに鹿生さんと同居『させられて』いる。

 吊り橋効果なのか、本当に性格的にも相性が良いのか。発情期ではない期間のほうが多い人生だ、お互いに恋人と位置づけながら、身体を重ねずに暫く暮らしてみることにした。

 どうせ次の発情期が来たら寝ずにはいられないのだから、とまず手を繋ぐことに照れる関係から始めていくのは新鮮で、それでいて互いの熱を知っているだけにもどかしい。

 キスが馴染むまで一ヶ月かかった。なんとなく、お互い慎重になった結果だった。

「仕事、終わりそう?」

「もうちょいー……」

「とかいいつつ二徹目かな。もう止めておきなさい、睡眠が必要だよ」

 仕事の確認作業を進める俺を、鹿生さんは隣で本を流し見ながら、主に俺を見守っている。

 両親がドッキリだの、なんか来てる、だのと言っていた理由は、鹿生さんの謎だった職業が『俳優業をしている鹿生さん……もとい叶さん』だったことが原因だった。芸名の方は、『叶隆生』というらしい。

 出てる作品を全部見たい、と言ったら子役時代からの芸歴の長さの所為で、未だに消化しきれていない。

 鹿生さんは本気で俺が知らなかった、とは思っていなかったようで、俺が気づいているのに知らない風を装っている、と勘違いしていたらしい。そういえば見たことあったかも、いやないかも、と頭を捻った俺に、今からファンになってよ、と笑ってくれた。

 画面の中の鹿生さんはやっぱり格好良くて、俺は鹿生さんの映画ばかりを見るようになった。

 年齢を重ねてからの鹿生さんは、刑事ものに出ることが増えて、俺は原作を抱き込みながら映画を見て、時には食い入るように画面にしがみついては『画面の中の叶さん』もまた好きになっていく。

 両親は鹿生さんが結婚を前提に、だとか挨拶を済ませたこと。鹿生さんが定期的に足を運んでくれることもあり、俺よりもしっかり鹿生さんの俳優業を追っかけている。

 それでも、俺が鹿生さんと付き合っていることは伝えているのに、一言も孫がどうとは言わない。

 俺と鹿生さんの話だけに徹するあたり、前回で懲りたのか、鹿生さんに夢中かのどちらかだろう。

 最近の俺がご飯を食べるのをさぼっていたり、洗濯をさぼっていたりしているのを見ていた仕事オフの鹿生さんは、俺が食べられる食事を用意したり洗濯を丸ごとクリーニングに投げたりしてくれる。そして、これからの仕事の原作本を読み込んでは、俺の隣に戻ってくるのだった。

「世話やき過ぎ……。これプリントアウトして送ったらしばらく休むからー……」

 この仕事のスケジュールが予想外にきつかっただけで、その後の仕事の予定は空白だ。

 空白にしなければ体力が持たないことは分かっていて、最後の仕事だと短期の仕事を受けたら、想定外の追加が出た割に納期は短期だった。

「よろしい。企画展でいいのがあったから明日は美術館……、の前に少し寝てもらって病院かな。熱はなさそうだけど」

 俺のおでこに手を伸ばしては、ちょっとの不調でも重病のように上げ膳据え膳、動かないと良くないから、と言わなければ歩くのさえ遮られそうな勢いだ。

 鹿生さんは何か察するものがあるのか、俺が妊娠していたら薬を飲むのは良くない、と病院を勧めてくる。

 先週まで俺は、えーいいよー大げさ、と、のらりくらり躱していた。

「明日まで様子見て、良くなってたら心配ないから。昨日、頭使いすぎたのかも」

「…………うん。だけど、ちょっとでも治らなかったら言うんだよ」

 過保護だって振られたことあるでしょう、と言ってみたところ苦い顔をしていた鹿生さんは、世話のやき過ぎという自覚はあるようだ。

 俺は、風邪は寝てれば治る、と親の忠告を無視して爆睡しているような子どもだったから、鹿生さんは冷や汗ものであるらしい。

 そして俺と暮らす鹿生さんは、飲み会や付き合いでの食事はあるものの、俺以外の男女の影はない。あんなに遊び人っぽい顔をして、初めての夜なんかはこの人には愛人が五人くらいいそうだ、と思っていたのだが、喜ぶべきか悲しむべきか、いつ見てもいいと放り投げられる携帯の使用履歴には順調にマネージャーさんと俺の名前が並んでいる。

 愛人を侍らせそうないい男ながら、面倒見が良すぎる、というのが最近の俺の鹿生さんへの評価だ。

「次の役ってどんなの?」

「ああ。ヒューマンドラマで、父親役をね」

 へえ、と俺は声を漏らした。

 鹿生さんの年齢故か、そろそろそんな役が来る頃だ。だが、これまでは鹿生さんの顔がこう、どうあっても家庭に収まっている父親っぽくない甘い顔立ちだからか、そんな役が来ることはなかった。

 しかし、最近は行動や仕草が慈しむようなそれであるから、元々の顔立ちよりも雰囲気を構成するにあたって、表情のほうが印象として勝つようになってきた。

 自宅で俺の行動を逐一視界の端に入れて、僅かな変化でも捉えようとしているのだからまあ、俺相手に子育てをしているようなものなのかもしれない。

 俺はそろり、と腹を撫でる。

「すごく、不安でね」

「え?」

「父親役」

 鹿生さんは本を脇に置いて、俺との距離を詰めた。肩を抱かれて、こつん、と頭を添わせる。

「君が体調が悪い時に、おれはそわそわして、不安で、倒れたらどうしようとばかり思っている。風邪なら薬だとか点滴だとか、治す方法はたくさんある。けれど、君が子どもを授かっていたのなら、きっとおれには君を見守ることしかできない」

 ああ、と悲壮感漂う声を漏らした鹿生さんは、心配だ、と口癖を繰り返す。俺が鹿生さんの重度な世話好きを拒絶しないことを、いちばん喜んだのは鹿生さん本人だった。

 ともすれば行動すべてを請け負おうとするほどの鹿生さんを頼りつつ、適度に堕落せず、そして、鹿生さんを鬱陶しがらず好きでいる人間は稀有らしい。

「こんな風に、君を大切だ、としか思えない俺が、父親になんてなれるのかって」

 どうせ産まれてみたら子どもを視界の端に入れて、何かやろうものなら駆け寄って行きそうな鹿生さんであっても悩みは尽きない。俺はくすっと笑って、添わせた頭ごと抱きしめた。

「鹿生さん前に、『一先ず恋人になろう、それから考えればいい』って言ったよね。俺が、何かをするまえに考え込んで悩みがちだって」

 鹿生さんの肩をとんとんと叩いて、大丈夫、と言い含める。

「まず父親になって、考えてみたらどう?」

「……そう、だね。はは、極論だけれども、いっそそれもいいかもしれない」

「…………」

 ああ、これはだめだ。察せていない。というか、俺の言葉もたいがい回りくどかったのだろう。そろそろだんまりなのも、潮時ということだ。

 口元を鹿生さんの耳に持って行き、囁くように秘密を打ち明けた。

 

 

 鹿生さんはぽかんと呆けて、俺に、本当に? と何度も確かめると、真っ赤になった俺を抱き締めてただ一言、『嬉しい』と言った。

 

 

 

きみつが
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坂みち // さか【傘路さか】
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