弱小貴族のオメガは神に祟られたアルファと番いたい

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▽1

 あの時の事は、今でもよく覚えている。

 身体の小さな私をからかい、神像を壊せと持ちかけたいじめっ子、間に入った高位貴族である『アルファの幼馴染み』。止める間もなく、私を庇った幼馴染みの力で像は砕け散った。

 その『かみさま』は、優しい方だと聞かされていた。けれど、神様は幼馴染みを許さなかった。

 像を砕いたその瞬間、首をきゅっと絞められるような、厭な感覚があったのを覚えている。

 アルファとオメガの間には、番という名の関係性が存在する。一対一であり唯一無二、運命だと自他共に認める関係性は、神によって引き合わされる。

 神が落とした雷によって生まれた雷管石。

 石に魔力を込めれば、波は永久的に保持される。神殿はその雷管石を受け取り、鑑定士が番として相性の良いアルファとオメガを引き合わせる。

 けれど、成長した幼馴染みが魔力を込めた石は、その瞬間に砕け散った。二度、三度と繰り返しても同じだった。彼は、相性の良いオメガと巡り会う手段を失ったのだ。

 彼の家にも不運が続き、高位貴族であったはずの家は、名ばかりだと噂されるようになった。

 幼馴染みの父……当主も、彼を許さなかった。

 幼馴染みを勘当すると言い出した当主に対し、間に入ったのは私の父だった。父は私との婚約を取り纏め、彼を自らの跡継ぎにすると伝えた。

 祟りはきっと私の家に移る。そう言われていたが、そもそも弱小で貧乏貴族の我が家には、失うものも然程ない。

 彼は婚約を受け入れ、私を庇って祟られた幼馴染みは、伴侶になった。

 

 

 

 広い寝台の上で、遠い体温を名残惜しく思いながら身を起こす。

 目元を擦り、隣を揺らさないよう慣れた動きで寝台を降りる。幼馴染みであり、現在の伴侶は寝台の上で目頭の皺を深く寄せていた。

 彼が安らかに眠っている時間は、いつも酷く短い。つい昔のように指先を伸ばしかけ、拳で握り込んだ。

「…………おはよう」

 音にならない程度の声量で呟いて、音を立てないよう部屋を出た。途中で衣装室に入って、外套を羽織る。

 外はまだ僅かに明るい程度で、屋敷で起きているのは厨房だけだ。明かりの漏れている場所に顔を出すと、料理長が狭い厨房を歩き回っていた。

「おはよう」

「おや、ティリア様。おはようございます」

 こん、と喉を鳴らす。短く吸った空気は乾いていた。

「少し喉が痒くて。お湯を貰ってもいい?」

「それは大変だ。朝食に出す柑橘が余っていますので、搾りましょう」

 料理長が持ち上げたのは、太陽の色をした果実だ。果皮が美味しそうに照り返しているのを見て、思わず頷いた。

 料理の片手間に湯を沸かし、果汁を搾って砂糖を加える。まかない用のカップに注がれたそれを、ゆっくりと両手で受け取った。

 厨房の隅にある休憩用の椅子に腰掛け、中身を啜る。酸っぱくて甘い、初恋に例えるにふさわしい味だった。

「今日もまた、神祠へ?」

 自らのカップにも湯を入れ、余った果汁を搾って料理長はカップを口元に当てる。壮年のその人は、物心ついた頃からの顔見知りだ。

 一人部屋を与えられてすぐ、眠れない夜には牛の乳を温めてくれた。

「うん。アーキズを祟らないでください、って」

「百の日、途切れることなく願い続ければ叶う、でしたか。そろそろ百に届くのでは?」

 私は視線を下げ、首を横に振った。目の前を湯気が覆い、白く曇る。

「まだだよ。発情期が来ちゃうと途切れてしまうし、早く終わらせたいな」

 沈んでいく声を支えるように、料理長は少し声を張った。

「そうなった時は、私めが代わりに参ってきましょう。薄汚れた料理人が代理で申し訳ないことですが」

「ううん。その時はちゃんとやり直すよ。でもありがとう、嬉しい」

 時折、神祠の祭壇にまだ新しい果物が置かれている事がある。この屋敷で食材を管理するのは、目の前の男だけだ。

 温かい飲み物で喉を潤し、カップを返した。

「なんで、神様は私を祟ってくれなかったんだろう」

 しょんぼりと肩を落とす私の前で、料理長は手早くカップを濯ぐ。

「神像を壊したのは、紛れもなくアーキズ様ですから。人の社会でも、唆しただけの者は重い罪にはなり辛いでしょう」

「けど、人の社会でも共犯はあるよ。私が神像を壊せと言われたのに、庇うように壊した人だけが祟られてしまった」

 雷管石に魔力を込めると砕け散るようになった彼とは違い、私は何事もなく魔力を石に込めることができる。

 貧乏貴族なれど、祟られた幼馴染み……アーキズの家ほどの影響を受けた様子もない。

 私だけが、逃れられてしまった。

「ティリア様が、アーキズ様が神像を壊せと苛められている姿を見ていたら、どうしましたか?」

「…………お父様を呼びに行った、かな。私は、昔から力がないから」

「やはり、貴方は祟られない。神話に綴られた神々は、大抵、自らを害することを躊躇う者を祟ったりはしませんからな」

 キュ、と蛇口を捻る音がする。水が止まり、余韻でぽたりと落ちた。

 視線は雫を無意識に追って、ふらりと外れた。

「ごめん、長話して。今日のお願いに行ってくる」

「いってらっしゃいませ。……そうだ、朝食の卵はどうしましょう?」

 焼き加減のことだ。私はふっと頬を持ち上げた。

「ふわふわで!」

「かしこまりました」

 厨房を出ると、廊下を通り、玄関へと辿り着く。外靴に足を通し、扉を開けて冷たい空気を全身に浴びた。

 肌を刺すような冷気は、外套の隙間から滑り込んでくる。

「…………ん?」

 視線を感じたような気がして、きょろきょろと周囲を見渡す。

 屋敷の窓辺に動きはなく、自分が出てきた寝室のカーテンだけが少し開いていた。

 気のせいだったか、と思い直し、足を踏み出す。

 凍りかけの地面は、少し経つと音を響かせ始めるだろう。寄り添う番のいない冬が、ひたひたと躙り寄っていた。

 神祠、と呼ばれる場所は、屋敷の敷地内にある。白石造りの小さな建物で、神様の分身が宿ると言われている場所だ。

 古びた扉を押し開けると、外よりもほんの少しだけ暖かい。

「おはようございます。ニュクスさま」

 アーキズを祟った神がもっと苛烈な隣国の神だったら、逆に憎めてせいせいしたかもしれない。

 けれど、自国に坐します神は、多くの神話において『寛容』であり、人を救い上げる『温和』な神であると言い伝えられる存在だ。

 そんな神を怒らせた所為で、なおさら社会はアーキズは許さなくなった。

「お水、取り替えますね」

 供えていた水を植物に与え、蛇口から銀の杯へと新しい水を注ぐ。

 水面に映る薄紅色の柔らかく纏まりづらい髪は跳ね散らかっており、薄い金色の目は綺麗な水を通してさえ疲れて濁っていた。

 神祠へ戻り、杯を捧げる。続けて掃除用具で埃を丁寧に払い、最後に祭壇の前に立った。

 定められた所作を行い、指先を離して姿勢を低くする。

「アーキズの番が、無事見つかりますように」

 呟いた声は、小さな室内にうわんと響く。

 自分の祈りを、自分の罪を、身に叩き込まれているかのようだった。身を起こすと、背後に人の気配がある。

 うっすらと開いていた扉が押し開けられた。光と共に入ってきたのは、見慣れた長身の姿だ。

「また祈っているのか」

「……うん。おはよう、アーキズ」

 幼馴染みは苦々しげに頭を掻くと、放り投げるように扉を押し遣った。

 大股で踏み込んでくると、皺の刻み込まれた眉間の谷をさらに深くする。それでも、彼は私と同じ所作で祈りを済ませた。

 寝間着に外套だけを羽織った姿は、私のそれと同じだ。無意識に自分の跳ねた髪に手を伸ばし、こそこそと整えた。

 アーキズ・オーク。幼馴染みであり、結婚制度上の、私の伴侶でもあった。

 腕っ節の強い彼は、黒髪を戦闘に邪魔にならない長さに整えている。凜々しい顔立ちの中で、夕焼け色の瞳は柔らかくて好きだ。

「祈るのは好きにすればいいが。何も寒い時間に行かなくとも……」

「今日は視察の出発日だから。早めに、と思って」

 アーキズは手元に抱えていた羽織を、私の外套へと重ねた。更に寒さが遠くなる。

 白くなった指先を羽織に重ね、少し高い身長を見上げる。

「ありがとう。あったかい」

 昔は笑い返してくれたのに、今の幼馴染みは直ぐに視線を逸らしてしまう。

 向けられた背を追って、無言のまま屋敷へ帰った。

 朝食の為に食堂へと向かうと、父は既に椅子に座り、カップを傾けていた。

「おはよう。アーキズ、ティリア」

 私に似た、ほわほわとした顔立ちは、屋敷内では緩みっぱなしだ。

 アーキズの父……高位貴族の当主と渡り合い、幼馴染みを引き込んだ時の剣幕は何処へやら、である。

「おはようございます。義父上」

「おはよう、お父様」

 母様は昨日の視察で疲れたようで、まだ眠っているそうだ。父は柔らかく微笑んで、給仕が運んできた朝食に向き直った。

 いちばん早起きな料理長が用意した食事は、地元の安価な食材を使いながらも、今日も見映えのする出来だ。

 手を清め、食事に感謝を述べてから食器を手に取った。冷えない内に、と暫くは食事に集中する。

「────そういえば、ティリア。今日から二人に行ってもらう視察だが」

 昨日は父母ともに帰りが遅く、今日の説明を受けてはいなかった。

 食事の手を止め、名残惜しくも顔を上げる。

「新しくできた道の件だよね。山の付近を通る道が、賊への対応が難しいから、見晴らしのいい地形に新しい道を引いた。道は神殿が大事にしているナーキア地区へ続く道だから、参拝で使う神官さんが途中で泊まれるように、道沿いに何カ所か宿も用意する、って」

 ナーキア地区は自領に近い土地ではあるものの、隣国の領地である。隣国が祀っている、クロノ神に縁のある地だ。

 アーキズを祟り、自国で祀られるニュクス神から見れば、クロノ神は父神にあたる。よって、我が国の神殿も縁のある神としてナーキア地区を大事に扱っている。

 最近、問題になっているのがナーキア地区へと続く道中での、賊の襲撃だ。人を遣って警戒させても、山道では地形を上手く使って金品をせしめてしまう。

 特に被害に遭っていたのが、自国からナーキアへ参拝に訪れる信心深い人々や神官達だった。

 人々が安心して通れる道にするため、警備がしやすい見晴らしのいい土地に、広い道路を引くことになったのだ。

 私の言葉を父は嬉しそうに聞き、言葉を継いだ。

「数日かけて、その新しくできた道を辿る形で道と宿の視察を行ってもらう。話しそびれていたのは、同行者についてだ」

「同行者?」

 問い返したのは、アーキズだった。

 泊まり掛けになる、と概要だけを聞き、使用人に荷造りを頼んではいるが、幼馴染み以外の同行者については初耳だ。

「ああ。道ができたことを神殿に報告したところ。大神官様が新しい道に対して祝福を与えてくださる、と。急な話だが、今回の視察にも同行されることになった」

 私とアーキズは、無意識に視線を合わせていた。

 幼馴染みは、神に祟られた人物だ。神祠はともかく、これまで大神官のいる神殿にはあまり近づこうとはしなかった。

 二人の間で、スープの湯気がぼんやりと揺れる。

「勿論、アーキズが同行してもいいかは尋ねてある。大神官様は『構わない』と」

 私は、味のしない唾液を飲み込んだ。

 神像は神殿の管理物であり、壊したことについて好い気はしないはずだ。けれど、道を作るのは、参拝にナーキアを訪れる神官の為にもなる。

 今回の視察については、大目に見てくれるという事だろうか。

「数百年代替わりをしていない、他に類を見ない大神官様だ。彼が国を出て行けば、ニュクス神の加護も国から離れてしまうだろう。くれぐれも、失礼のないようにな」

「私が生まれた時から同じ姿をしているような人に、失礼なんてできる筈ないよ」

 神の代弁者、とも扱われる大神官は、少なくとも私が生まれてから姿を変えていない。ずっと青年、と呼べる年齢のままだ。

 数百年前の絵姿もまた、同じ顔をしている。強大な神術を行使する彼を、国民は、信徒は、人間だと扱わない。神話に描かれる、神使のような存在と観ている。

「アーキズ。大神官様とは私がたくさんお話しするね。神殿で学ぶような事、少し囓ってたし、祟りが鎮まる方法がないか、探ってみるよ」

 一時期、どうにかアーキズに関する祟りを鎮められないかと、神殿で扱う教習本を取り寄せ、神話などにも多く目を通した。

 結果には繋がらなかったが、大神官との話題くらいにはなるだろう。

 私を見て、伴侶であるはずのその人は、未だ熱いカップを揺らす。

「……ああ。俺は、あまり口を開かないようにする」

 一緒に、神話にあった恋物語の頁を捲った日を思い出す。あの時、私は物語越しに、彼の横顔を盗み見ていた。

 今、少し不安げに縮んだ肩を支えたくとも、指先は凍り付いている。

 

▽2

 荷物を積み、馬車に乗って、新しくできた道路の起点へと移動する。

 馬車の中は静かで、御者とアーキズが経路の話をする声が時おり響いていた。私は水筒から飲み物を口にし、ほう、と息を吐く。

 彼が祟られてしまってから、会話は酷く拙くなった。視線も合わなくなって、仲の良い演技をする時には態とらしさに心が痛む。

 車輪が大きな石を踏んだ。揺れて傾いだ身体を、隣で腕が受け止める。

「あ、……ありがとう」

 微笑みかけるが、姿勢を正せば用はない、とばかりに、あっさりと腕が離れた。

 世間話がしたい、と常々思ってはいるのだが、彼に私を寄せ付ける空気はない。

 屋敷から道路の起点までは遠くなく、私たちが辿り着いた時には明らかに葬儀用の馬車が停まっていた。

 何かあったのでは、と慌てる私を大きな掌が宥め、二人で馬車を降りる。視線の先には、神官服を着た人物が二名立っていた。

「おはようございます。大神官様」

 その内の一人が、声に反応するようにフードを下ろす。零れ出た髪は白く、陽光を受けて銀に煌めいた。

 体色の中で、目立つのは瞳だ。まばゆい夏と共に在る、濃い緑だった。

「おはよう、フィリス家の……」

 ちら、と投げられた視線は鋭く、気候も相俟って身を震わせたくなってしまった。

 アーキズが答える前に、私が一歩先へ出る。

「初めまして。当主の息子、ティリアといいます。こちらが私の伴侶のアーキズ」

「ああ。例の」

 大神官の名は『サフィア』というが、民は畏れ多い、と彼を名で呼ぶことはない。名は知っているだろう、とばかりに、相手が名乗り返す様子はなかった。

 代わりに大神官は、背後に控えていたもう一人を押し出しすように身を引く。

 アーキズと同じく黒髪で長身ではあるが、ゆるりとした空気に武人の色はない。だが、布地の多い神官服の下は、ある程度動ける体躯であることが窺えた。

 その人は私に向け、手を差し出す。

 闇のような瞳を緩ませて浮かべた笑顔は、初対面の相手としては完璧だったが、どこか作り物めいていた。

「初めまして。神官のガウナーと申します。大神官の身の回りの世話をするため、同行することになりました」

「そうなんですね。よろしくお願いします」

 ガウナーと名乗ったその人は、アーキズ相手にも朗らかに手を差し出していた。

 神官、と呼ぶには典型的な容姿と態度で、いっそ、大神官のそっけなさの方が神殿に属する人物としては異様だった。それなのに、何となく胸がざわつく。

「あの、馬車はなぜ葬儀用なんですか?」

 私が尋ねると、青年神官は苦笑を浮かべる。

「新しい道を祝福する道中で、賊に遭っても困りますので。流石に、金も物資も積まない葬儀用の馬車は狙われ辛いですからね」

「ああ。そういうことでしたか」

「ご安心ください。死人が出ても我々が送りますよ」

 はは、と笑うガウナーに対し、アーキズははっきりと眉を寄せた。

 くい、とこっそり服の裾を引いて、表情を改めさせる。体裁上の伴侶は、はっとして表情を作り替えた。

 葬儀用の馬車は二人を置いて帰っていった。二人もまた、屋敷の馬車を使って移動することになる。

「まずは一つめ、だな」

 大神官は懐から石を取り出す。日の光を跳ね返す輝きに、目を瞠った。

 彼が持っていたのは、大粒の雷管石だ。

「そういえば、あんたが祟られてるんだっけ」

 大神官はアーキズの前に歩み出ると、もう一つ取り出したものを握り込ませた。

 幼馴染みの掌にあったのは、小さな雷管石だ。それに掌が触れた途端、ぴしぴしと罅が入り始める。

 パキン、と音を立て、石は砕けてしまった。

「すみません。いつも、触るとこうなるので……」

「いや。大丈夫だ。実際に見たくて握らせた」

 ふむ、と大神官は顎に手を当てる。

 驚いたのは、全く怒っている様子がないことだった。アーキズを見る目は、新しい研究対象を見つけた時のように、興味深く瞬きをする。

 大神官の指が、被験者の指に触れた。

「想像していたより根が深いな」

「……わかるんですか?」

 思わず、横から問い返してしまった。

 だが、大神官は気を悪くした様子もなく、こくりと頷く。

「像を壊した、だったか。当時の記録を当たったが、金銭的な補償は済んでいる。しかも、もう十年ほど前の事だった。俺に解けるものなら解いてやろうと思っていたんだが、昔、我が神が衝動的に祟った力は、長い期間を経て変質してしまっている」

 二人の指が離れた。

 大神官は痺れでもしたかのように、指先を軽く振る。続けて、困った、といった様子で頭を掻いた。

「大神官様は、……アーキズのこと、許してくださるんですか?」

「そもそも、子ども相手に持続する怒りなんかない。だが、忙しさにかまけて放っておいたのは悪かった。視察ついでに、何とかならないか探ってみよう」

「あ、ありがとうございます!」

 つい、叫ぶような調子になってしまった。口元に手を当て、そろそろと緑の目を見ると、鋭かった筈の目元が少し緩んでいた。

 大神官が砕けていない方の雷管石を握り込むと、魔力とは違う流れが渦を巻く。

 力は石に向かって収束し、彼が手のひらを開くと、地面に落ちた。石は地を転がることなく、地中にずぶずぶと潜り込む。

 祝福、という話だったが、確かに空気の流れ方というか、力の方向性が変わった気がする。

「祝福、とは。神術、というものですか?」

「そうだな。神術を使って祝福を為す、と言う方が正しいかもしれない」

 大神官、というよりは研究者のような口ぶりに、魔術学校時代を思い出す。私はオメガとしては魔力が多く、領地運営に役立つように、と医療魔術を専門に学んだのだ。

 ただ、寮生活をしていた魔術学校時代はアーキズとも疎遠となり、更に喋りづらくなってしまった。

「雷管石に私たちは魔力を込めますが。神の力もまた、雷管石の中に留まる?」

「やり方次第ではな」

「祝福、の効能は?」

「精神の安定だ。…………なんだ、やけに興味があるみたいだな。魔術師か?」

 私はこくんと頷いた。緑の目が、まぶたの裏に何度も隠れる。

「けれど。魔術学校を出て、今は主に領地運営に携わっているので、魔術師、と名乗るのも烏滸がましいような人間です」

「専門は?」

「医療魔術です。けど、精神の安定、の術式のようには読めません」

「そりゃそうだ。そもそも神術は形態が違う────」

 つらつらと神術というものについて語り始めた大神官に対し、私は相槌と質問を挟みながら知識を引き出す。

 放っておけば何時間もそうしていられたのだが、大神官の背後から伸びた腕によって話は遮られた。

「んぐ!」

 もごもごと濁った音が漏れるが、口を塞いだ掌は外れない。

「大神官様。祝福を捧げる地点は一カ所ではありません、移動しましょう」

 ガウナーは大神官の肩を抱くと、私たちが乗ってきた馬車へと誘導する。

 私もまたアーキズと視線を交わし、彼らの後に続いた。言い合っている様子を見るに、世話係、という割に上下関係は薄いようだ。

 気安い態度を羨ましく思いながら、ちらちらと隣にいる幼馴染みを見る。

「ごめんね。長話になっちゃって」

「いや。大神官から直々に講義を受ける機会も珍しいだろう」

「そう、かな」

「ああ。特にティリアは魔術学校を出てから、働きっぱなしだったし……」

 今日は珍しく、会話が続いているような気がする。私は跳ねる鼓動を抑え、表情を変えないように努めながら歩く。

 視察の数日間は、馬車内でも、宿でも一緒だ。もし、万が一でも祟りが鎮まったら、彼の番が見つかるのかもしれない。

 最終的に選ばれるのが私でなくても、彼の番が見つかるのは喜ばしいことだ。その筈だ。

 彼に番が見つかる前に、せめて幼馴染みの関係を取り戻したい。昔のように、気軽に会話を続けたい。

 水面に上がって息を吸って、また未来を思って水底に沈む。今はほんの少しだけ、呼吸が楽だった。

 

 

 

 馬車内の空気は、アーキズと二人のものよりも賑やかだ。ガウナーと名乗った青年神官は車窓の景色を興味深そうに見ては、私に話を振ってくる。

 私達が会話を続けていると、時おり大神官も会話に加わる。神官二人の空気は長い付き合いのそれで、初対面の他者を交えて尚、くるくると話題が回った。

 今日は、こんなに喋ったのは久しぶりだ、と思うほど口を動かしている。

 昼前には二カ所めの祝福を終え、昼食のために飲食店へと立ち寄ることになった。

「お二人は、食べられない物はありますか?」

「いや。好き嫌いも、教義上も特に気にしなくていい」

「右に同じく」

 通信魔術を起動し、立ち寄る予定にしていた食事処に人数を伝えていると、大神官はともかく、ガウナーは嬉しそうに微笑んでいた。

 初対面で一瞬感じた、あのそわりとした空気は、今はなりを潜めている。二人をちらちらと見ていると、アーキズが隣で手帳を開く。

 向かいにいる二人には見えない位置で、真っ白な頁に彼はペン先を走らせた。

『あの二人がどうかしたか?』

 明らかに、私に対する問いかけだった。頁を覗き込み、思い出したかのように自分の手帳を鞄から取り出す。

「ごめん。もういっかい予定見せて」

 彼の予定を書き写すふりをしながら、答えを綴る。

『ガウナーさん、ただの小間使いじゃないかも』

 アーキズは筆記具を私の手帳に向けると、白い箇所に文字を綴る。

『俺もそう思ってた。歩き方や身体の使い方を見るに、武術の心得がある』

 私は武人に見えない、と思った。けれど、腕っ節の強い幼馴染みが、武術の心得がある、と感じている。

 手練れながら、それを隠すことができる技術を持っているということだ。

『護衛を兼ねてる、ってこと?』

 今度は私がアーキズの手帳へ筆記具を走らせる。出鱈目な日付を読み上げ、あくまで予定入れをしているように装う。

『それならいいが、妙に技量の隠し方が上手い』

 幼馴染みは、ぴたり、と筆記具を動かす手を止める。

 視線の先には、顔を上げたガウナーの姿があった。視線が交わり、ぞわ、と背が粟立つ。

『護衛は威圧の為、ある程度の武力は詳らかにする。こんな隠し方をするのは、暗殺者のような、身分を偽る者だけだ』

 素早く書き綴ると、彼はぱたんと手帳を閉じる。

 刹那、向けられていた視線が逸れ、窓へと向かっていった。

「………………」

 アーキズが言うとおり、あの青年神官が何かを偽って大神官の傍にいるというのなら、視察の間は目を光らせておくべきだろう。大神官に万が一のことがあったら、自国から神の加護は失われる。

 数百年前、このケルテ国は荒れ、貧しい国であったらしい。神の加護を当然としている人々は、喪われることを畏れる。

 アーキズの祟りを鎮めるためにも、大神官を守るのは絶対だ。手帳をそっと閉じ、手元に置く。

「なんか、予定でいっぱいだね。少しくらい、アーキズにもお休みをあげたいんだけど」

 普段なら黙るところだし、喋っても相手から返事がない言葉を選択した。

 けれど、ガウナーに対して誤魔化す為なのか、返ってくる言葉がある。

「それを言うのなら、ティリアだって同じだ。義父上が、長期で旅行に行っては、と話をしてくれた」

「旅行?」

 今回のような数日間ならまだ良いが、長期、ともなれば会話が続かないだろう。

 疑問に思って問い返すと、彼は困ったように目の下を染める。

「新婚旅行が、まだだろう」

「そう…………、だったね。行き先、決めなきゃなぁ」

 あはは、と笑ってみせるが、新婚旅行が彼の頭にあった事に驚いている。

 結婚式だけは体面上、完璧にこなしてみせたが、新婚旅行は正直、忙しいとでも何とでも言えるものだ。

「へえ。お二人は、新婚旅行まだなんですか」

 向かい側から、ガウナーが話し掛けてくる。

 はい、と肯定して、これまで通りの声音で言葉を返した。

「延び延びになってしまっていて。ガウナーさんは、ご旅行には行かれますか?」

「いえ。神官の身分ですので、あまり神殿以外の場所には出歩きませんね。行き先も神に縁のある地になるので、数カ所に固定されてしまって」

 彼の語る言葉には真実味がある。長年、神殿に仕えているというのは確かなようだ。

 となると、武術の技量を隠す理由は何なのだろう。護衛も兼ねているというのなら、情報を共有しておいたほうが良い筈だ。

「ちなみに、ご出身は?」

「生まれは遠い土地ですが、キルシュ国の王都で幼少期を過ごしました」

 キルシュ国は、これから行くナーキアを領地とする国。自国であるケルテからすれば隣国にあたる土地だ。

 確かに、彼の名の響きは隣国で使われている音だった。

「どうしてわざわざ、ケルテへ?」

「キルシュ国の神殿は大きく、神官の人数も足りています。あちらの神殿は組織として、課題というものが少ないんですよ。だから、正直やることがなくて。こちらに移りました」

 またしても、自分の認識と齟齬のない回答だった。例え暗殺者だとしても、長いこと神殿に属する中で、知識を持っているのは確かなようだ。

 隣国の話をしている間に、食事処へと辿り着く。ガウナーは率先して荷物を持ち、大神官の降車を助けている。

 だが、その補助を受ける大神官は、ずっと落ち着かない様子だ。

 私はそっとアーキズに身を寄せ、囁きかける。

「どう思う?」

「神殿に長く在籍していたのは確かなようだ。そんな人物がこの数日の間に事を起こすとは考えづらいが、念のため、様子見は続けよう」

「分かった。大神官様は気安い感じだし、アルファではなさそうだから、私が近くで見ておくね」

「頼む。あの神官は……ベータか、アルファかもしれない。俺が近くにいるようにしよう」

 顔を上げると、思ったよりも近くに幼馴染みの端正な顔立ちがある。

 どくり、と胸が騒いで、手のひらの内にある彼の服を握り込む。平穏な視察にはならなそうだが、こうやって近くに居られる事が純粋にうれしかった。

 

 

▽3

 一日目の視察は順調に終わり、予定していた宿へと辿り着く。用意されていた部屋は、二人部屋が二つだった。

 とはいえ、結婚相手と離れて大神官と一緒の部屋がいい、と主張するには根拠が弱く、自然と神官ふたりを同室にせざるを得なくなる。

 鍵を受け取って部屋に移動し、荷物を置いて息を吐き出す。

「アーキズ……。あっちの二人、同室で良かったのかなぁ」

「といってもな。俺たちが分かれるのは不自然だ」

 幼馴染みが外套を脱ぐのに合わせて手を差し出す。彼は少し躊躇いつつも、脱いだ服を渡してくれた。

 皺を伸ばし、洋服棚へと引っ掛ける。

「改めて説明していい? 私があの、ガウナーさん、って人。変だなと思ったの、表情がおかしくて」

「表情?」

 アーキズは筋肉の使い方のみを根拠にあの青年神官を怪しんでいたようで、私の言葉をそのまま反復する。

 うん、と頷いて、長椅子へと移動した。ぼすん、と身体を放るように腰掛ける。

「笑ってるのにね。こう、無駄に綺麗なの。舞台役者みたいな、嬉しいから笑ってるんじゃなくて、誰かに見せるために笑ってるみたい」

「成程。普通、人は隙があるのが自然だが、あの男にはそれがない。俺も、その点を不自然だと思ったのかもしれないな」

 幼馴染みは大股で歩み寄ると、私の向かいに腰を下ろす。

 シャツの首元は緩められており、整えていた髪も散っていて若々しさを増していた。

「アーキズは、あのガウナーさんって人が、武術の心得があって、隠してる、と思ったんだよね」

「ああ。しかも、隠し方が上手い。ティリアはあの男が武芸者とは思わなかっただろう?」

「思わなかった! 典型的な神官さんだなって。読書とか好きそうな」

「そうか。俺は、あの男と組み合ったら、どちらが勝つか測れない」

 アーキズは小さい頃から力が強く、武芸に才を示していた。

 豊かな家柄だったこともあり、家庭教師なども付け、剣や弓、護身術を習っていた筈だ。私の家が貧乏なのもあるのだが、二人で視察をするにも護衛を必要としないのは、この幼馴染みの腕っ節の強さと、私に魔術の心得がある故だ。

 手帳を開いて、今日、会話に使った頁を破り取った。向かいのアーキズも同じようにして、頁を手渡してくる。

「炉は新たな炉へ。炎は分かたれ続け、竈は永久に灯る」

 両手に掲げた紙は、ぼうっと炎を纏って空中で焼き消えた。炭の欠片すらも残らない。

 この部屋にも、既に結界を展開してあった。

「アーキズから見て勝てるか分からない。ってことは、大方……勝てないよね」

「そうだな」

 私の指摘を、彼は気を悪くした様子もなく肯定する。

 相手の力量が測れない、という時点で概ね負けているのと同じことだ。こちらは、無闇に戦を仕掛けることができない。

 相手の黒々とした瞳を思い出す。闇であり呑むような色をしていた。

「私たち。気にしすぎ、だと思う?」

「……長く神殿にいたことは間違いないだろう。その上で、人として怪しすぎようとも何もしないのなら、監視に留めておくしか出来ることはない」

「だよねえ」

 声にならない音を漏らしながら、椅子の背に身を預ける。

 本当に今日は、よく喋る日だ。神官二人もそうだが、アーキズがずっと返事をしてくれる。

 嬉しい、嬉しい、と気持ちばかりが溢れて、妙な言葉を走らせようとする。

「そうだ。アーキズの祟りのこと。…………ええと、長いこと放置してたから、力が変質してた? だっけ。どうにかなるかな」

 向かい側で彼は掌を組み、視線を間に置かれた机に落とす。

「力を読み取った結果としては、それで正しいかもしれない。だが、神の祟りを鎮める事が、神官にできるのかというと、疑問はあるな」

「あー……。確かに神官って、基本的には仲介、がお仕事だもんね」

「俺は大神官であれ、どうにもならないような気がしている」

 アーキズは、そう言うと口を引き結んだ。

 誰よりも祟りを鎮めたいと思っていたのは彼の筈で、それでいて尚、鎮まることはない、と明言するのだ。

 ふつり、と腹の内に炎が燃え上がる。

「あの、私も魔術師の端くれだし、力の流れ、読ませてもらうことはできないかな?」

「構わないが。……大神官にもどうにもならないものが、魔術でどうにかなるのか」

「わ、分からないよ……! 難しい病の特効薬が、身近な植物から生成されたりするんだから!」

 拳を握りしめて熱弁すると、アーキズの空気がふっと緩む。

 その一瞬、彼が私を守ってくれたあの時に戻ったような気がした。

「そっち、行ってもいい?」

「ああ」

 ぽん、と隣を叩かれ、私は席を立つ。ほんの一人分だけ空いていた隣の席に腰掛け、彼の手を借りる。

 両手できゅっと握り込むと、二つの手で包み込もうとしても、やっぱり大きかった。訓練で剣を握る掌の皮は厚く、日頃の鍛錬が窺える。

 そういえば、あの青年神官はこんな手をしていなかった。筆記具しか握ったことのないような、綺麗な手だったのを思い出す。

 境界を崩すと、魔力の波が触れる。ずっと隣にいたいと、手を繋いでいたいと思うほど、昔から魔力相性は悪くなかった。

「どうだ?」

「……魔力同士は触れ合えるから、障壁、のような形状ではないみたい。けど、偶に厭な波がある」

「厭な波、っていうのは」

「アーキズと私の魔力って、昔からの付き合いもあるだろうけど、そこまで相性、悪くないんだ。でも、昔と違って今は、偶にちくちくする」

 皮膚同士が擦れ合って、包み込むうちに体温が移る。

 ずっと、こうやって触れ合いたかった。何の理由もなく、ただ触れたくなったから、と手を伸ばしたかった。

「魔力の波が強く触れている、ということか? その棘のような、という感覚は、雷管石を砕くほどの何かがある?」

「うん。このとげとげした波が異質だし、鋭い。でも昔は、こんな波じゃなかったよ。魔力の波形は性格に由来することが多いけど、アーキズの性格、昔とすごく変わったわけじゃないし……」

 喋りが得意、と言うほどずっと会話しているような質ではなかったから、彼の基本的な性格はそのままだ。

 私が寒い朝に出歩いていたら、服を持ってきてくれるような人。怪しい人物がいたら、警戒を促してくれる人。体面上の結婚相手に文句も言わず、弱小貴族の領地運営を一緒に担ってくれる人。

 昔から、一緒にいて必ず守ってくれる人だ。

「なだらかな筈の魔力の波が、棘が被さっているような形で神力の影響を受けてしまってる。それが祟りの質、とか、特徴みたいなもの、なのかな」

「その棘の部分だけ、外せないのか」

「魔力を変質させる、って事だよね。それだと────」

 ふと思いついた案に、ぼっと顔に血が上る。

「どうした?」

「あ、いや…………」

 魔術師でなくとも、魔力を変質させるのは、境界を溶かして他者の魔力を大量に受け入れた時だ。

 その影響の間隔が狭くなるほど、長期的に影響を受け続けるほど、人の魔力は波を変える。試してみる価値はあるように思えた、が、境界を触れさせるには肉体的な接触が不可避だ。

 動揺を抑え込み、無理やり唇を動かす。

「私は魔力の境界を崩せるから、触ればお互いの魔力を混ぜられる、よ」

 性行為が一番手軽かつ効果的な手段、だとは黙っておいた。

「…………。人はそれぞれが別の形の波を持つから、混ぜれば波の形が変わる、ということか?」

「そう、だね。形が変われば、棘も丸くなるかもしれないな、って思って」

 されるがままだった彼の手が動き、私の手を握り返す。

 逃がさないように絡みついた指先は、痛みはなくとも引き剥がしづらい。どくどくと胸が鳴って、体温が上がる。

 思い合えなくとも、意中の相手の匂いと魔力が身体を引っ掻く。

「手を握るだけでいいのか」

「『だけ』?」

「もっと広い範囲で触れた方がいいのかと思って」

 隠すこともできないほど、頬に血が上っていくのが分かる。

 思わず手を離して、頬を隠そうとしてしまった。慌てて上擦った声を漏らし、ようやく言葉になる。

「それは……。その方がいいけど」

「だったら視察の間、意識して触れるよう協力してくれないか。過剰に思うもしれないが、俺も結婚相手として適切だと思う程度には、接触を持つようにするから」

 妙な空気に、気圧されて頷く。

 彼の身体が私との距離を詰め、広げられた腕が身体を抱き込んだ。

「…………ひぇ、え!?」

 つい声が裏返ってしまい、隣で不機嫌そうに喉が鳴った。

 いつもより高い声が、私の身体を揺らす。

「昔はこれくらい平気でしてただろ!」

「今は今だよ!」

 きゃんきゃんと抱き込まれたまま言い合って、しばらくして疲れて黙った。

 どくどくと鳴る音は、私のそれなのか。もしくは、相手のそれであるのか。

「………………」

 抱き返そうか延々と迷って空中で泳ぐ指は、陸に辿り着くことはなかった。

 

 

▽4

 結局、昨日は寝台でも一緒で、まったく眠れなかった。隈の浮いた部分を揉んでいると、朝食の場で向かいに座った人物が口を開く。

「ティリアさん。寝不足ですか?」

 問いかけてきたガウナーは皿に朝食を綺麗に盛り付け、口に運んでいた。昨日の朝食もそうだが、体格の割に量は食べない質のようだ。

 大神官はといえば、水しか口にしていない。

「旅行みたいでそわそわしてしまって。大神官様は、お食事は……」

「ああ。心配いらない、ちょっと気分が悪くてな」

 ガウナーは、スープ皿を大神官の前に押し遣る。

 押し付けられた当人は有り難がる様子もなく、受け取ってのろのろと口に含んだ。

「アーキズさんは、気持ちのいい食べっぷりですね」

「習慣で早朝から剣を振っていたので、腹が減ってしまって」

 昨夜の幼馴染みは私と違って、早々に深い呼吸へと移り、眠ってしまったようだ。

 しかも早朝に目を覚まし、剣の訓練を終えた後、体調がいい、と言いながら今は大量の食事を腹に入れている。

「ガウナーさんも、食べる方だと思ったんですが……。そこまで多くは召し上がらないんですね」

 アーキズが問い返す言葉に、あはは、とガウナーは苦笑する。

「体格はいいんですが、食に興味が薄くて」

 確かに、体格には見合わない食事量だった。表情の作り方といい、武芸の技量といい、違和感ばかりが降り積もっていく。人間として、色んなものがあべこべだ。

 だが、私たちは追求する術を持たないまま、朝食を終えた。

 

 

 

 その日は昼過ぎで、祝福を予定していた箇所を回り終えてしまった。予定を早めることができたとしても、宿は確保してある。

 予定の宿へ荷物を運び、午後は観光でも、という話になった。

「────四人で観光を?」

「はい。アーキズさんは腕っ節が強そうですし、一緒に来ていただけると助かります」

 ガウナーからの提案に、私たちは訝しみつつも頷いた。

 幼馴染みが勝てないだろうと踏んでいる相手だ。自分で守ればいいのに、私たちを動かそうとするのが疑問だった。

 しかも言葉の端々から、腕に自信がない、という主張が窺える。

「行ってみたい場所はありますか?」

 アーキズが問うと、ガウナーはぱっと顔を輝かせた。馬車の中で車窓を見ていた時のような表情だった。

 観光冊子を捲った青年神官は、展望塔、と図示された場所を指差す。

「ここに行ってみたいんです」

「宿からだと、……乗合馬車で行きましょうか」

 大神官はうんざり、といった表情だが、反論することはない。

 私は彼に近づくと、そっと尋ねる。

「あの。朝もあまり召し上がっていないようでしたし、気分が悪ければ宿で休まれては?」

「平気だ。飲まず食わずも慣れている」

 大神官は長々と息を吐き出すと、真白い髪を掻き上げた。

 彼が指で触れた場所から、髪色が暗褐色に染まっていく。真白い髪では市街に紛れることは難しいが、今のありふれた髪色なら只の神官に見える。

「それも神術ですか?」

「ああ。乗り合い馬車の中で、大神官がどうの、と騒がれても面倒だろう?」

 ナーキアが近いだけあって、この街では神官の姿を見掛けることがある。今の姿なら、観光のあいだ街に紛れることも容易いだろう。

 四人で乗り合い馬車の発着場へと移動し、馬車に乗り込んだ。予想していた通り、誰もこちらを注視してはいない。

 ガウナーはまた楽しそうに、車窓からの風景を眺めていた。

「ガウナーさんは、高いところがお好きなんですか?」

「はい。自然が作り出す高所も、人工物としての高所もどちらも好きです」

「そう、ですか。神殿の方だと、ほら、天は神の所有物ですし。人工物で高所に辿り着こう、というのは、不遜、とお考えになりませんか」

 私が尋ねると、ガウナーは更に嬉しそうな顔になった。言葉の音が跳ねる。

「よくお分かりですね」

「えっ」

 当たってしまった、と口元に手を当てる。私の様子を見て青年神官は愉快そうに笑うと、コンコンと手の甲にある骨で窓を小突いた。

「まことに不遜ですよ。だから愛おしい。自然を切り開き、街を作り、それでも飽き足らず神の領地へ人工物でずかずかと踏み込んでいく。そう創られた場所を見るのが、とても愉しいんです」

「は、ぁ……。神官にしては、珍しい感性をお持ちなんですね」

「よく言われます」

 自然に近くなった距離に割り入るように、アーキズの腕が伸びた。私の腰が抱かれ、幼馴染みの方へと引き寄せられる。

 自然とガウナーとの間に、距離を作ることになってしまった。

「どうしたの? アーキズ」

「いや。…………建物の間に、花壇が見える」

 取って付けたような理由だったが、特に追求したりもしなかった。彼が指さした方向へと視線を向ける。

「アーキズ、最近は花の育成に力を入れているものね」

「ああ。生産物としてもそうだが、観光資源としても使いたいと思っていてな」

 会話の間も力は強く、手は腰に回ったままだ。その方が楽なような気がして、彼の肩にもたれ掛かった。

 びく、と相手の肩が揺れる。

「…………重かった?」

 食事量には気をつけているが、と恐るおそる尋ねる。

「いや。軽い」

「そう? しばらく、肩、借りてもいい?」

「いい」

 大きな身体は馬車の揺れを受け止め、ついつい眠くなってしまう。うとうとと微睡みを彷徨う私を、アーキズはずっと支え続けてくれた。

 馬車が目的地に辿り着くと、ゆっくりと揺らされ、起こされる。

「行くぞ」

 自然に掌は私の背に回り、四人で乗り合い馬車を降りた。

 展望塔まではもう少し距離があり、街並みを眺めながら歩き出す。観光冊子を持ち、先を進んでいく神官組の背を眺めながら歩いていると、隣を歩いていた幼馴染みの手が掠める。

 不自然に、何度も手が触れた。

「────?」

 隣を見上げると、アーキズの目元は染まっていた。伸びてきた手が、私の手を取る。

 きゅ、と握り込まれると、冬の気温の中でも温かかった。

 ほんの少しだけ意識をして、魔力の境界を崩す。相手の魔力が流れ込んでくるのを、胸をときめかせながら受け入れた。

 展望塔に辿り着くと、さほど待つこともなく内部へと案内される。塔の中央には大型の魔術装置があり、人を入れた箱ごと昇降するような仕組みだった。

 四人で乗り込むと、ぐん、と上向きの力が掛かった。魔術で強化された硝子越しに、街が下に降りていく。

 足がそわそわするような感覚に、つい隣にいたアーキズの腕を抱え込んだ。

「怖いか?」

「うん……」

 きゅ、と服を握り締めると、彼は空いた手でぽんぽんと私の腕を叩く。

 ガウナーは馬車の車窓よりも興味深そうに街を見下ろしており、大神官はそんな世話係の姿を見て苦笑している。

 そういえば、世話係と言う割には大神官は身の回りのことは自分で行っている。更に世話係が同行する意味が分からなくなった。

 魔術装置を降りると、一気に最上階に辿り着いていた。係員から案内を受け、硝子張りの展望室へと入る。

「う、わぁ…………!」

 今まで見上げていた建物が、遙か下にある。硝子に近寄り、ぺたぺたと手で触れる。

 硝子の内側と外側には術式が埋め込まれており、衝撃を加えても割れないよう構成されていた。

 私の隣では、ガウナーが同じように硝子に触れている。彼はやっぱり楽しそうに、眼下にある街を眺めていた。

 背後を振り返ると、こちらを眺める大神官の姿がある。むしろ、大神官の方が世話係、と言われた方がまだ頷けた。

 展望室を一周すると、端のほうには飲食のできる休憩区画が設けられ、机と椅子もあった。

 複数の果汁を混ぜた飲み物を全員分頼み、運ばれてきたカップを受け取る。乗合馬車を降りて歩いたからか、しばらく休憩したい気分だった。

 皆、そうだったのだろう。誰からともなく会話が持ち上がる。

「ティリア。アーキズが祟られた経緯の、神像を壊した一件についてなんだが、経緯を聞かせて貰えないか? 神殿の書類にも補償金額の記載に箇条書きにされている程度で、詳しくは知らないんだ」

「そう、なんですか」

 アーキズに話してもいいか視線を投げると、頷き返される。

 私はカップを傾けて喉を湿らせ、口を開いた。

 

 

 

 私がまだ魔術学校に入る前、齢は十を数える頃だっただろうか。貴族家の子息だけを集め、夏の間だけ一緒に過ごす催しのようなものがあった。

 寮ではアーキズと、幼馴染みよりも位の低い貴族の息子二人と同室になった。

 その頃から、私はオメガではないかと疑われるほど背が低く、肉付きも悪かった。貧乏貴族であることも相俟って、当然のように辛く当たられるようになった。

 その度にアーキズが庇ってくれたが、陰口は止まず、一瞬でも幼馴染みが離れようものなら集中砲火のように小突かれた。

 その日は、神殿へ学習のために訪れていた。

 神官が神話を読み聞かせ、講義のようなものを行ってくれ、神殿を見て回るための自由時間が与えられた。

『ティリア。一緒に行こう』

『うん!』

 幼馴染みと二人の時間を楽しみにしていたが、それを引率をしていた人物に止められた。ばらばらで動くと集める時に手間だから、と寮の部屋単位で動くよう指示された。

 楽しいはずの見学は、一気につまらなくなった。

 事あるごとにからかいの言葉を投げかけられ、その度にアーキズが応戦する。言われっぱなしの自分が情けなく、幼馴染みに頼り切っている事が心苦しかった。

 神殿の内部を見終えて、庭園へと移動する。

 私を苛めている二人は付いてくる私たちを気にすることなく、ずかずかと植物を掻き分けて進んでいく。

 その時、ふと、開けた場所に出た。

 植物で隠されていたかのようなその区画には、ひっそりと、小さな神像が置かれていた。人の背丈ほどのそれは、想像上の神を模したらしい、精巧な彫刻であった。

『何これ、ぼろぼろだな』

『汚ねえの』

 先導していた二人は、私に向けるような罵倒の言葉を像へと投げかける。隣で幼馴染みのむっとした表情を浮かべたのが、やけに印象的だった。

 二人のうち、体格の大きな一人が、近くにあった岩を拾い上げる。ぼとぼとと泥を振って落としながら、にたりと笑みを浮かべてこちらに歩み寄った。

『なあ、フィロス。この汚い像を壊したらさ。俺ら、寮の部屋、別の部屋に移ってやるよ』

『え……?』

 押しつけられた土汚れのある岩を受け取ってしまったのは、彼の提案が魅力的に映ったからだ。

 もう、酷い言葉を投げかけられる事もない。大好きな幼馴染みと平穏に過ごせる日々は、腐った甘い果実のように濁った匂いを漂わせた。

 その時、隣から腕が伸びた。

 私が持っていた岩が奪い取られ、幼馴染みは岩を持ったままずかずかと神像へと近寄っていく。

 大きく振りかぶられた腕を、止めるには遅かった。

『アーキズ……!!』

 大きな音を立て、腕の部分が砕け落ちる。二度、三度と叩き付けられていく内に、神像は粉々に砕けていった。

 ぜい、ぜい、と真っ赤になった幼馴染みが荒い息を零す。その剣幕に、持ちかけた側が気圧されていた。

『何だよ。…………冗談じゃん』

『冗談?』

 ぎろり、と彼らしくない鋭い視線が、いじめっ子の顔を射貫いた。

 その時だった。黒い雲が空を覆い、ぱらぱらと雨が降る。全員が天を見た、その時に、稲光が注ぎ落ちた。

『いゃぁああぁぁ……ッ!』

 閃光は近くの樹木へ直撃し、周囲が白に満ちた。

 砕け、倒れた木が傾くのを見るや否や、幼馴染みは岩を捨て、私へと覆い被さる。

 病院で目を覚ました時、全く無事だったのは私だけだった。

 同じ場所にいた三人はそれぞれに傷を受け、事態を引き起こした二人は、数年の間、後遺症に悩まされたそうだ。

 そして幼馴染みは雷管石へ力を込めることが叶わなくなり、番を得られなくなった彼の事を、周囲は『ニュクス神に祟られた』人間だと語るようになった。

 

 

 

 話を聞き終えた神官二人は、しばらく無言で視線を交換する。

 神殿の書類には、ここまでの細かな事情は書かれていなかっただろう。アーキズが悪く思われないよう、言葉を選んで語ったつもりだ。

 視線を宙に投げながら、大神官はカップを傾ける。

「んー……?」

「どうかしましたか?」

「いや。ニュクス神って、そういう事情があって像を壊した、ような人相手に祟るような性質をしてないんだよ」

「はぁ」

「しかも、神像、って言ってたけど、あれ、像の造形の元になったのは俺なんだ。ニュクス神じゃない」

 え、と私とアーキズは口を揃えた。思い返してみれば、あの像はニュクス神にしては体型が細く、神官服に似た服を纏っていたように思う。

 まじまじと大神官を眺めれば、確かに面影があった。

「だから更に妙な気がしてな。さっきから事情を聞こうとしてるんだけど、答えがない」

「事情を聞く?」

「魔術師で例えるなら、俺は神様との間に、常時、通信魔術が起動しているような状態なんだよ」

 通信魔術とは、遠くにいる人物と会話を交わすために用いる魔術のことだ。

 常時、通信魔術が起動しているという事は、普段は頭の中で語りかければ返事がある、ということだろう。

「まあ、ニュクス神も、神にしてはまだ若い。衝動に駆られることもあるんでしょう」

 ガウナーの方はといえば、話が面白かったようで、機嫌が良くなったように思える。

 だが、大神官は眉根を寄せ、肩に力が入りっぱなしだ。

「でもなぁ。解決の手掛かりを掴まないと。……俺には分からないが、貴族としては、雷管石を使って神殿が相性良しと認めた相手、ってのはやっぱり特別に扱われるものなんじゃないか? 結婚相手を見つけていて安心はしたが、それでも、ティリアは解決したいよな。この件」

 大神官の態度は、初対面の時よりも軟化している。出会った時から心配されている様子ではあったが、今は尚のこと表情に出ていた。

 自分の像を壊されても腹を立てないあたり、思っていたよりも優しい人なのかもしれない。

「そう、ですね。私は結婚相手ではありますが、父が勘当されたアーキズを助けるために纏めた縁談上での、結婚相手なんです。だから、私を庇ってくれた大切な幼馴染みに、ふさわしい番が見つかってほしい。…………です」

 角が立たないよう言ったつもりだったが、その場がしんと静まり返った。遠くで、魔術装置の動作音が響いている。

 アーキズは青ざめ、大神官は苦い顔をし、ガウナーの顔には喜色が浮いている。

 三者三様の反応を気まずく思いながら、首を傾げる。

「ど、どうかしましたか……?」

「え。……ええ、っと…………」

 大神官は私とアーキズを交互に見ると、アーキズに向かって自らを指差し、ぱくぱくと口の動きで何事か伝えている。

 幼馴染みは顔色を落としたまま、ゆっくりと左右に首を振った。二人のやりとりを、ガウナーは面白そうに眺めている。

「あのさ。ちなみに、だけど」

「はい」

「アーキズに相応しい番が見つかったら、二人は離婚するのか?」

「勿論です」

 私の答えに、隣でごん、と小気味よい音がする。

 幼馴染みの額は机の平面に口づけており、彼の両手はずるずると机の表面を張った。ガウナーは我慢できない、といった様子で、何故か腹を抱えてけたけたと笑っている。

 大神官の顔は、苦い野菜を口いっぱいに突っ込まれたようだ。

「運命の番は、それほど重いものです。……なのに私が、アーキズから、大事な幼馴染みから、その機会を奪ってしまった。ずっと、申し訳なく思っています」

「…………そこまで、気にしなくてもいい」

「そんなこと、できない。だってアーキズだったら、うちみたいな貧乏な家じゃなくて、私みたいな見窄らしい相手じゃなくて。もっと良い番と出会えたはずだよ」

 ぽつん、と声を落とす。消え入りそうな声だったが、静かなその場所ではやけに良く響いた。

「ごめんね。私が、……像を壊せばよかった」

 幼馴染みの大きな手が、ぽたぽたと水滴の落ちる私の手を包み込む。

 彼は祟られて尚、私を恨んだりはしなかった。与えられた運命を、ただ受け入れていた。

「俺は、後悔していない。祟りがこのままでも構わない」

「でも……!」

「いいんだ。あの時、お前を守ってやりたかった。神への畏れよりも、その気持ちが勝った。何かを守るための代償なら、甘んじて受ける」

 見返しても、彼の瞳は揺らがない。また涙が浮いて、頬を伝っていった。

 彼は懐から四角布を取り出し、私の目元に当てた。昔から変わらない、優しい仕草だった。

 絶対に、彼の祟りが静まったら、彼に相応しい番ができたら、笑って見送ろう。きっと、全力で祝福しよう。

 私は何度も謝罪を繰り返し、落ち着いてからようやく宿に帰ることができた。

 

 

 

▽5

 宿の部屋に戻ってから顔を洗い、目元を濡らした布で冷やす。

 赤みを落ち着けてから幼馴染みのいる場所まで戻ると、苦笑とともに出迎えられた。彼は、両手を軽く開く。

「なに?」

「旅行中は、接触を持つんだろ?」

 そうだった、と思いつつ、そろそろと広げられた腕の間に入る。

 昔はこんな接触もしていたが、成長した今では気恥ずかしい。広げられた相手の両脚の間に腰掛ける形で落ち着くと、腹の前に腕が絡みつく。

 混ざっていく魔力の相性は悪くないのに、いずれ彼はもっと相応しい番を得る。

「……ティリアは、俺が別の番を得てもいいのか」

「うちの家のこと? アーキズが来てから人手が増えて沢山新しい取り組みができているし、お父様も喜んでいるけど。でも、うちみたいな貧しくて小さい領地を、アーキズが統べるなんて勿体ないよ」

 彼の生家であるオーク家は、高位貴族の家柄だった。今は祟りの影響で傾いてはいるが、彼の弟もいる。いずれ力を取り戻すんだろう。

 あちらの領地と比べると、私の家は何十分の一、という規模でしかない。新しい道の開通といい、豊かになる兆しが見えているのは有難いが、それでも比較するには遠いのだ。

「俺は、数ヶ月この地で暮らしてきて、愛着を持っている。昔から、よく訪れていた土地だったしな」

「気持ちは、嬉しいよ」

 肩の上に、彼の顔が乗った。ぽそり、と私にしか聞こえない声で、低く呟く。

「…………ずっとこのままじゃ、駄目か」

 番になれなくとも、傍に置いてくれることが嬉しかった。その気持ちを閉じ込めて、首を横に振る。

 今度は泣かないと決めた。涙を引っ込めて、笑みを作る。

「私は。アーキズを、幼馴染みを、『神に祟られた人』のままにしたくないな」

「ティリアは、強いな」

 はは、と何かを吹っ切ったような笑い声が響いた。

 ぎゅう、と強く抱き込まれ、跳ねた波が身体を満たす。伝えられなくとも分かる、これは喜び、だ。

 私は彼に向かって、口を開こうとした。

「────こんばんは」

 コンコン、と扉を叩く音と共に、外から声が掛けられる。

 私は絡んでいた腕を外すと、その場に立ち上がった。アーキズの腕が私を庇うように割って入り、先に扉に近づく。

「なんの用だ?」

 外から聞こえた声は、ガウナーのものだった。彼の視線が、置いたばかりの剣を確認する。

 相反して、外から聞こえる声は、朗らかなものだった。

「いい酒を手に入れたんですが、ご一緒しませんか」

「…………」

 アーキズは黙って、私に視線を送った。こくん、と頷き返す。

 まだ、今までの材料ではっきりと叩き出すには、時期尚早に思える。

 幼馴染みの手で扉が開かれると、確かにそこには、片腕に酒瓶を抱えたガウナーが立っていた。

「宿屋の厨房からグラスも借りてきました」

 彼の手には、グラスが二つ握られている。

 アーキズは酒瓶を預かると、扉を大きく開いて相手を迎え入れる。

 二人は長椅子に向かい合うように腰掛ける。一歩出遅れた私は、そろそろと幼馴染みの隣に座った。

 注がれたのは、濃い赤色の液体だった。いっそ、黒に見えるほど濃い色をしている。

「乾杯」

「…………乾杯」

 二人の間でグラスが打ち鳴らされた。ガウナーは中身を勢いよく飲み干し、手酌で中身を注ぎ足す。

 アーキズもまた、グラスを口に運んだ。私のグラスは用意されていないが、強い方ではない。助かった、と二人を眺める。

 口火を切ったのは、青年神官のほうだった。

「実は、私は神官ではないんですよ。……分かっていらしたでしょう」

 あっさりと明かした事に目を瞠りつつも、アーキズはグラスを机に置く。

 私は無意識に、視線を幼馴染みの剣に向ける。位置は遠く、振るう為にはまず移動する必要があった。

「武芸の心得がある人間の動きをしていたのに、それを明かさないから疑ってはいた」

「ああ。そうらしいですね。実は、息子の真似をしていたんですが、そっくり真似たら、こういう動きになってしまって」

 にっこり、と浮かべる笑顔は、初対面で見た表情と似ている。

 誰かに見せるための笑顔。心から浮かぶ、という感情を知らない存在が浮かべる、作り物めいた動きをしていた。

 腹の底から寒気が這い上がって、長椅子の表面に爪を立てる。

「大神官も協力者か?」

「『大神官様』は嫌々従っているだけですよ。自分が従属する神よりも、私の方が力を持っているから。従わざるを得ない」

 目の前の人物は、人ですらないようだった。

 そして、大神官が従属する神はニュクス神の筈だ。自国の守護神よりも力を持つ存在、必死に頭を巡らせる。

 アーキズが何かに思い当たったかのように、唇を噛んだ。

「何が目的だ?」

「実は、息子と賭けをしましてね。十年ほど前に、力の使い方を誤って祟ってしまったものを、放っておいたらあまりにも変質してしまって戻せない、と。そう情けないことを言うものですから────」

 私の隣で、幼馴染みの身体が傾いだ。

 胸を掻き毟りながら息を吐いたアーキズの口から、飲み込んだ筈の赤い液体が滴り落ちる。

 赤い水滴は床を汚し、彼の体も続けて転がった。

「賭けに勝ったら、私が祟りを消してやろう、と言いました」

「アーキズ!」

 縋り付こうとした私を、強い衝撃が突き飛ばす。

 弾け飛んだ格好になり、数秒宙に浮いて床に転がった。痛む腕を庇いながら視線を上げると、意識を失ったアーキズを、男が抱え上げたところだった。

「賭けって、なに!?」

「『明日。日が一番高く昇る時刻までに、神の泉へ辿り着くこと』できなければ、私は力を貸しません。加えて…………」

 あはは、と笑う声は、心底楽しそうに響いた。

 窓が開け放たれ、神官の姿をしていた筈の輪郭が揺らぐ。四つ脚で顕現したのは、黒い色をした大狼だ。

 顎がアーキズの服を噛む。

『報酬として人ひとりを、貰い受ける』

 高層階だったはずの窓から、狼は身を躍らせる。慌てて身体を起こし、窓の外を見ると、二人の姿はどこにもなかった。

 

 

 

▽6

 唇を噛み、慌てて扉を開けて部屋を出る。廊下の途中、神官部屋との中間地点で、走ってくる大神官と鉢合わせた。

「何があった!?」

「あ、あの。アーキズが! 大きな狼に、攫われて……!」

 必死で説明を続けると、段々と大神官の顔色が悪くなっていく。

 あぁ……、と唇からか細い声が漏れた。床に膝をついたその人を支えるように、腕を回す。

「成程な。賭け、か」

「あの。何が起きているんですか?」

「説明する。が、クロノ神が姿を消したなら、十中八九、代わりにあいつが来るはずなんだが……」

 そう大神官が言った途端、遠くから犬の情けない鳴き声が響いてくる。ほっとしたように、大神官は立ち上がった。

 鳴き声の元は、先ほどアーキズを連れて行かれた開け放しの窓からだ。大神官が部屋に飛び込むと、黒い毛玉が突っ込んでくる。

『サフィア! 神の泉が見つからないよー!』

「そんな事言ってる場合か! 今までなにしてたんだ、このぼんくら!」

 サフィア……そう呼ばれた大神官は、両手のひらで黒い毛玉の顔を挟み込む。

 先ほど見た大狼に似ているが、こちらは少し小柄で耳が丸く、目の色も違っている。足の先だけが白かった。

 身体は大きく見えるが、間違いなく犬だ。犬なのに、喋っている言葉が分かる。

「一体、なにが……?」

「ティリア。この犬が『ニュクス神の仮の姿』だ」

「仮の姿?」

 ニュクス神は自国を守護する偉大な神であり、アーキズを祟った存在だ。決して、このかわいらしい大型犬ではない。

 ない、はず、と思いながら、首を傾げる。

「力を奪われてるな。この姿のまま変化できなくなってる」

「はぁ。神使としての姿に、固定されてしまったようなものですか?」

「そんな感じだ」

 そもそも、これが神です、とひゃんひゃんと鳴いている大型犬を指さされても困る。

 今まで祈っていたのは、何だったのだろうか。私が呆然としていると、目の前に申し訳なさげに尻尾を垂らした犬が歩いてくる。

『申し訳ない。百日の祈りが届いたから、祟りを鎮めなくちゃ、って思ったんだ。けれど、その際、父上に相談したら面白がられてしまって』

 百日の祈り、とは神祠で毎日捧げていた祈りのことだろう。

 届いていたのか、という感動と、それを知っている目の前の存在が確かに神であることの動揺に、気が遠くなってくる。

「ち、父上、とは……?」

「隣国、キルシュ国を守護するクロノ神のことだ」

「……ああ。ナーキア地区に縁のある方、ですね」

 クロノ神。その名で呼ばれる隣国を守護する神の伝説には、いくつか目を通した。

 岩を割って水を湧かせた、というような民に寄り添う逸話も数多いが、他の神と比べて異色なのが、騒動の起点となる逸話だ。

 善にも悪にも寄らず、ただ混乱を面白がる。遊び好きの性質が、その性質が招いた騒乱が、現在進行形で増えている。

 恋話もお好みのようで、『二人が結ばれる』というような神託が多いのも、クロノ神の特徴とされていた。

「ええ、と。つまり、ニュクス神は、私の祈りを聞き届けて、アーキズへの祟りを鎮めようとしたけれど。出来ず」

 そこまで言ったところで、犬の頭が更に下がった。尻尾も地べたに沈んだ。

 つい手を伸ばし、頭を撫でてしまう。

「父神であるクロノ神に相談したところ、『叶えてほしくば明日の昼までに神の泉に辿り着け』そう言われた、と」

『でも、ずっと探してるのに父上が泉を隠して、探させないようにしてるんだよ……。力も奪われちゃったし……』

 ニュクス神はその場に伏せ、またひゃんひゃんと鳴き始めた。

 隣に屈み込んだサフィア大神官は、べしり、と犬の頭をはたく。

「しかもアーキズって奴、人質に取られたぞ。『賭けに勝ったら貰う』そうだ」

『えぇ……』

 犬は情けない声を上げ、床を転がっている。

 端から見れば可愛らしい光景だが、あの犬の中身は自国の神である。こんなに心中複雑な気分になることもそうあるまい。

 サフィアは私たちに少し待つように言うと、自室から紙の束を持って戻ってきた。

「これは神の泉があるとされる、山の地図だ。ニコ、今までどういう経路で泉を探っていたのか教えてくれ」

「『ニコ』?」

 尋ねると、黒犬は得意げに鼻先を持ち上げた。

『愛称だよ』

「ニュクス神、だから?」

『そう。呼びやすいでしょう』

 君もそう呼んでもいいよ、と言い置いて、犬は地図に近づいていく。

 ぺたり、ぺたりと汚れた肉球を置きながら、辿った経路を示していく。それらを書き記していたサフィアは、突然困ったような声を上げる。

 私も地図を覗き込む。道として図示されている場所は、既に通った、と赤い印が全て書き込まれていた。

「殆どの道は通ってるし、虱潰しに歩けてはいるな」

『二日間、探すのに歩き通しだったからね』

 誇らしげに胸を張る犬の頭を、サフィアはぐりぐりと撫でたくる。

 つまり、物理的には調べ終えたのだが、神の泉はどこにも見つからない、という状況だ。

 二人の横で、私はそっと手を上げる。

「神の泉、というのはあの伝説にある泉ですよね。この世のものとは思えないほど、綺麗な水が湧き出す場所。けれど、泉のある土地には、招かれなければ入ることはできない」

「そうだ。賭けとしては最悪の内容だよ。なんで受けた?」

 犬は、今度は耳を垂らした。

 話を聞く限り全てが後手後手なのは間違いないのだが、追求されてしょんぼりしている姿を見ると、こちらが悪いことをしている気分になってくる。

『承諾した後で、賭けの内容を言われたんだ……』

「勉強になったな。お前の父上、割と性格悪いぞ」

『それは、身に沁みた』

 はぁ、と息を吐くニュクス神……と呼ぶには可愛らしい存在を撫でると、サフィアは地図を持ち上げる。

 漏れがないか確認している様子だが、赤で塗りつぶされた地図に、白は見当たらなかった。

「取り敢えず、現地へ行きませんか? 歩いていたら、うっかり見つかるかもしれないし」

「そうだな。クロノ神がいなくなって、行動の縛りはなくなった」

 その場に立ち上がり、服を着替えると、鞄を抱えて部屋を出る。先に出ていた二人を追って部屋に行くと、こちらも準備は整っていた。

 サフィアは鞄を持ち上げ、犬に取っ手を咥えさせる。

「……そういえば、大神官様は、なんでその。クロノ神に従っていたんですか?」

「従わされてた、って感じだな。ニコも押さえられてたし、妙なこと喋ろうとしたら喉が絞まってた。悪かったな」

「いえ。協力してくれるのは、有難いです」

 彼は、私たちを包み込むように指先で円を描く。

 だが、指先で引こうとした線は途中で掻き消えてしまう。

「あ」

「あ?」

「転移術を使おうと思ったんだが、ニコの力の大部分が封じられてるんじゃ、大きな術は使えないな。移動、どうするか……」

 顎に手を当てて考え込んだサフィアに対し、大型犬は鼻先を擦りつける。

 遠慮なく押し退けられ、再度ひゃん、と鳴くと、犬は口を開く。

『雪車を出してくれたら、僕が引いていくよ』

「まあ、それくらいなら今の力でも出せるが……。ナーキアは遠いぞ」

『全力疾走すれば、朝までには着く』

 サフィアは今度は細い線を引き、両手を広げた大きさに収まるほどの円を描く。

 円の中心からは雪国で使われる雪車と、引く動物に取り付けるための胴輪が出てくる。かなり古いもののようで、壊れては継ぎ接ぎして使い続けられていることが窺えた。

 犬はうきうきした気持ちを隠さないまま胴輪を取り付けられ、車体の部分を私たちに向ける。

「え……? あの、外に運んでから乗った方が……」

 犬の形状をした自国の守護神が朝まで走り続けるつもりである事にも、若干引いていたが、それよりも室内で雪車に乗ろうとしている事にも理解が追いつかない。

 私の言葉に、サフィアは納得したように頷く。

「確かに、窓開けないとな」

 広い窓を開け放つと、外から冷たい風が吹き込んでくる。

 サフィアは私に構うことなく、荷台の部分に乗り込んだ。室内で出発準備を整えている犬と、荷台の後ろ半分を残して乗り込んでいる大神官。

 笑いたいのに笑えない私が、心底可哀想だった。

 視線で圧を掛けられ、荷台に乗り込む。

『出発!』

「進行」

 二人が声を揃えた途端、ふわりと雪車が空中に浮き上がる。二人して身を屈めて窓を通り抜けると、サフィアは手慣れた様子で外から窓を閉める。

 何もない空中にあたかも道があるように、犬は四つ脚を動かす。雪車は、前進を始めた。

「ティリアは、高いところは平気か?」

「大丈夫です。……なんですかこれ?」

「足の裏に神の力を纏わせて浮く、って方法で浮いてる。昔、信徒が少なくて、神様として力がまだ弱かった時、よく使ってた技だな。だから、力の大部分を奪われても作動する」

 本来、ニュクス神としての力はもっと強大なものだそうだが、誓約をしてしまった所為で担保として父神……クロノ神に力を握られてしまっているらしい。

 雪車で空中を駆けながら、実はもっと力のある神で、と説明されるのだが、犬に言われても納得しかねるのが正直なところだった。

 寒い中で空中を駆ければ冷たいはずなのだが、周囲には熱が保たれている。力の出所は、大神官からのようだ。

「もし、昼までに神の泉に辿り着けなかったら、クロノ神はアーキズをどうするんですか?」

「あちらの神殿から出られないようにされて、小間使いとして使われる、とかかな」

「大目に見てくれることは……?」

「まあ、数年働いたら飽きてくれるかもしれない」

 数年、とは私にとっても、彼にとっても長い期間だった。結婚の適齢期である彼を、その時期が過ぎるまで神殿に閉じ込めることになるのは、あまりにも心苦しい。

 どうすれば神の泉に辿り着けるのだろう。必死で神話の記述を思い出す。

「昔、神の泉に通じる井戸が存在する、という話を読んだのですが……」

「ああ、あれ。当時の国境を跨いでたから埋めた」

「埋めたんですか!? 神の井戸を?」

「知らずに子どもが遊びに使ってて、割と大事になってさ」

 ううん、と頭を抱え、細かい記述を思い返す。

 悩んでいる私を見かねてか、ぽんぽん、と肩が叩かれた。

「飴食べる?」

「大神官様。なんでちょっと場慣れしてる感あるんですか?」

「場慣れしてるんだよ。あの方と数百年渡り合ってるからな」

 確かに自分の信仰する神が力を封じられ、その父神に脅されながらも、割と平然と仕事をこなしていたように思う。

 はぁ、と飴を受け取り、口の中に転がした。果汁にはない甘みが口の中を満たす。

「……アーキズが隣国の神殿に入るなら、私も入ろうかなぁ」

「お、いいぞ。その意気だ。大体のことは、何とかなるもんだからな」

 しばらく黙って飴を転がしていると、上方には満天の星が見える。

 ニュクス神は、星空を統べる神だ。一条の流れ星のように、雪車は冬空を滑空する。

「なあ」

「なんですか」

「アーキズのこと好きなの?」

 つい飴を詰まらせそうになって、ごほごほと咳き込む。

 原因を作った大神官様は丁寧に、私の背を撫でた。

「……もうずっと、片思いです」

「だろうなと思った。まあ、いい男だよな。自分の身を顧みず、誰かを守れる」

「あの。でも、ニュクス神には悪いことを……」

 そう言いかけると、ぴん、と立っていた犬の耳が萎れた。

「ニコ。謝らなくていいのか?」

『……いやだ』

「お前な」

『いくらサフィアでも、あの像を大切に思っていた僕の心を蔑ろにすることは許さない』

「だったら、ティリアを守りたかったアーキズの感情だって大切にしろ」

 犬はぎり、と牙を噛みしめると、ふい、と顔を逸らした。

 祟った事でアーキズに起きた不都合を解消してくれるつもりはあるが、当時の怒りはまだ収まっていないようだ。

 幼馴染みが壊した像は、サフィアを模したものだと言っていた。

 本人は許しても、他人が許さない事はままある。本人の自己愛よりも重い愛を、その人に抱く人物が、この世には存在するからだ。

「ニュクス神」

『なにかな?』

「当時、お怒りだった気持ちは、私には動かしようがないものです。けれど、アーキズも十年、とても苦しみ、私は、その姿を近くで見てきました」

 指先を、祈りの形に合わせる。

 百日まで、あと何日だっただろうか。未だ届いていないのに、神は声を聞き届けてくれた。

「彼に下さった慈悲に、感謝しています。いま、共に神の泉へ駆けてくれることも」

 ぴくり、ぴくりと黒い耳が揺れた。

 前脚が強く空を蹴り、ぐん、と雪車は速度を上げる。風が頬を撫で、過ぎった。

 はは、と隣で大神官が笑う。

「この神様。純粋な祈りに弱いんだ。困ったときは願うといい、聞いてはくれるからさ」

『サフィア、後で覚えてな、よ!』

 また、ぐん、と速度が増す。犬の口は開き、ハアハアと息を零す。

 力を封じられながらも、時間を惜しんでくれているのが分かった。車体を掴んだまま、ただ駆ける。

 見据える先には、闇が広がっていた。

 

 

 

▽7

 朝までには着く、と言っていたが、ナーキア地区に辿り着いたのはまだ深夜と呼べる時間だった。

 山の麓に降り立ち、雪車を片付ける。山道では車輪は躓くばかり、ここからは徒歩での移動になる。

「ティリア。自分に身体強化魔術は使えるか?」

「勿論です。大神官様は?」

「俺は自分で出来る」

 身体強化の魔術を詠唱し、その場で軽く跳び上がる。疲労感はどこかに消えていた。

「先ずは頂上まで登ってみるか。麓で神の泉を見つけた報告は少ない」

「はい」

 山に踏み入り、整備された山道を駆けていく。身体強化を使っているおかげで速度は十分だが、暗い闇の中では距離感もよく分からない。

 ふと背後に視線をやっても、樹木に覆われてどれだけ登ってきたか分からなかった。

 長いこと走り通して、ようやく頂上へと辿り着く。街を見下ろすと、水平線から日が昇るのが見えた。

「朝になってしまいました、ね」

「ああ。少し、頂上付近を歩いてみるか」

 手分けして見て回ったが、泉が湧いている地を見つける事はできなかった。

 登ってきた経路、頂上から見て東側はなだらかな斜面になっているが、逆に西側には切り立った崖がある。下を見るも、岩場が広がっており、泉がある余地はなさそうだ。

 三人で集まり、地図を広げる。過去、神の泉があった、と記された場所は固定の位置ではなく、山中に散っている。

「『日が一番高く昇る時刻までに、神の泉へ辿り着くこと』が、賭けに勝つ条件、でしたよね」

「ああ。そして、神の泉は、神が望んだ者しか招かれることはない」

「ニュクス神が招いてくれたら行けませんか?」

『泉は父上の領分だからなぁ』

 犬は草の上に腰を下ろし、尻尾を揺らしている。

 ううん、と口元に手を当てる。こうやっている間にも段々と気温が上がっていた。

「日が高く昇らなければいい。ってことで、夜にする、とか」

「ニュクス神様が力を持ったままなら可能性はあったんだろうが。今は犬だしな」

『ひどい悪口を言われてる気がする』

 頭でぐりぐりとやられている青年と頭突きをしている犬が、我が国の大神官様と守護神様である。

 明日から、神祠でどんな気持ちで祈ればいいのだろう。

「じゃあ。やっぱり正攻法で、クロノ神に招いてもらうしかない、ですよね」

「なにか策でもあるのか?」

「何となく、相手も完全試合は望んでいない気がするんです」

 サフィアの頭が傾ぎ、隣にいる大型犬の頭も傾いだ。

 喜劇の一場面のような動作に、くすりと場違いな笑いを零す。

「クロノ神は、騒動の元凶です。作り上げた舞台装置が面白ければ面白いほどいい。きっと、私たちが苦しむほど、喜ぶ」

「そうだな!」

『ひどい悪口を言われてる気がする』

 犬は不満げだが、私はそれを放って言葉を続ける。

「それでいて、恋愛話はお好みのようでした」

「ああ。昔から、そういう傾向はあったな」

 サフィアが持ち込んだ鞄に視線を向ける。祝福に使うために、彼は大量の雷管石を持ち込んでいた。

「あの、雷管石をひとつ。頂けますか?」

「ああ。予備はあるから構わないが」

 そう言うと、大神官は持ち込んだ雷管石が仕舞われた小箱を取り出す。

 好きなものを、と言われ、いちばん形の整った一粒を摘まみ上げる。魔力を込めると、内部に波が保持された。

 力の篭もった雷管石を、サフィアの手に預ける。

「これ、一応。形見です」

「は?」

「少し、危ないことを。クロノ神と我慢比べをしようと思います」

 きっと聞いているだろう、と想像しながら、声を張り上げる。

「私、今から西にある崖から飛び降ります。助ける気になったら、助けてください」

 死ぬつもりはなかった。自分の手には魔術があり、風の毛布くらいなら飛び降りながらでも唱えられる。

 だが、唱えるのは、地面に叩き付けられる直前だ。

「誰かが告白して、振られるような悲恋だって、紛れもなく恋の話。そういうお話だって、お好きですよね? ────見届けたくば、私を神の泉に招いてください」

 強化魔術が掛かったままの脚は、西側にある崖まで容易く駆け抜ける。

 虚を衝かれた二人が追いつけなかった事にほっとしながら、切り立った崖から身を投げた。

 

 

 

 落ちていく中で、蘇ってくる記憶があった。像を壊すよりもほんの少し前、寮生活を提案されて、受け入れた日のことだ。

 彼の屋敷の温室。芝生の上で、身を寄せ合いながら緑を眺める。まだ春の日差しは温かくて、自然と重なった指先は熱を分け合っていた。

『アーキズ。私、お父様にオメガかもしれない、って言われちゃった』

『オメガは嫌か?』

『あんまり、大きくなれない事が多いんだって。今もアーキズに庇ってもらってばっかりなのに、ずっと、そのままになっちゃう』

 こてん、と彼の肩に頭を預け、未来への不安を告げる。重なった指が、強い力で握り込まれた。

 幼馴染みは、私よりもずっと大きくて、力が強い。

『父上は、力だけが守り方じゃない、って言ってた』

『どういうこと?』

『誰かが辛い気持ちにならないよう、笑っていることも。誰かを守ってる、ってことなんだって。俺は、ティリアが笑ってくれるから、色々、がんばれる』

 そわそわとした幼馴染みの様子はなんだか妙で、それでも隣で待っていると、小さく声がした。

『俺が、もしアルファだったら。ティリアの雷管石をすぐ神殿に預けてくれないか?』

『どうなるの?』

『そうしたら。神殿で、運命の相手を探してくれるんだって』

 ううん、と小さな私は首を傾げる。

 幼馴染みの手は汗をかいていて、耳まで真っ赤になっていた。

『アーキズは、そうして欲しいの?』

『そう、だな』

『よく分からないけど、いいよ。預けてみるね』

 結局、アーキズは雷管石に魔力を込めることができなくて、私たちはただ結婚だけをしてしまって、幼い頃の約束は未だ宙に浮いたまま。

 

 けれど、この時に見た幼馴染みの笑顔は、どの顔よりも鮮やかに映った。

 

 

 

▽8(完)

『全く、無茶をする』

「…………あれ?」

 ぱちり、と目を開けると、私を覗き込む、今にも泣きだしそうな幼馴染みの顔があった。

 そろそろと身を起こすと、伸びてきた腕に抱き込まれる。私も彼も、服がずぶ濡れになっていた。

「アーキズ……? 私…………」

「無茶も大概にしろ! 落下の途中で気絶したんだぞ!!」

「え……?」

 続けて発せられた、あまり言葉にならない彼の声を繋ぎ合わせてみると、私は崖から飛び降りた瞬間、空中にいるその最中に気絶をし、地面すれすれで魔術を使う、という手札をあっさりと失ったらしい。

 慌てたのはクロノ神のほうで、意識が失ったことを察した瞬間にこの泉へ落としてくれたそうだ。

 泉に軟禁されたまま私が崖から落ちる様、泉に沈んでいく様を見届けたアーキズは泉に飛び込み、私を岸まで運んだらしい。

 幼馴染みの肩は震え、目元からは真水ではない水滴が滴っている。申し訳なさに背を撫でていると、見知った声がした。

「良かった。無事だったか」

 突然現れた二人連れの片方は、見知った顔……サフィアだ。だが、片割れの顔立ちは、クロノ神が化けていた青年神官の姿によく似ているが、やや優しげだった。

 私をみてぱあっと輝かせる表情も自然で、心の底から何かを思う仕組みを知っている様子だ。

 クロノ神はというと、大狼の姿のまま、つまらなさそうに伏せている。

「ええと、サフィア、と……」

「はは。この姿では初めまして、守護神様です」

「胸を張るな。ぼんくら」

「……え、ニュクス神!?」

 あの青年神官の姿は、ニュクス神が神官に紛れる時に使っていた人間としての容姿を、クロノ神が真似たものだったそうだ。

 だが、中身が違うだけでこうも変わるのか、というほど、人として自然な振る舞いに見える。

 無事を確認されている会話の間、あまりにも人らしくて違和感を覚えてしまった。

「それで、アーキズがぐずぐずのとこ悪いんだが。クロノ神、この拗れた祟り、解いてくれるか?」

 サフィアが声をかけると、大狼は仕方なさそうに起き上がる。

 私を抱き込んだままのアーキズに歩み寄ると、その後頭部に、ぺし、と前脚の肉球を押し当てた。

 大きな脚先で押され、頭が傾ぐ。

『こんなものか。試してみるといい』

 サフィアは鞄の中から雷管石の入った箱を取り出すと、目を腫らし、顔を上げたアーキズへと握らせる。

 私が補助をして魔力を込めさせると、なだらかになった魔力は石を砕くことなく、内部に留まった。

 ほう、と詰めていた息を吐き出す。また涙を滲ませたアーキズの頭を抱き込み、指先で撫でる。

「これで一件落着か。あ、クロノ神。ついでに新しい道の祝福の残作業、頼めるか?」

『我は小間使いではないと言うに』

 狼が不満げに一吠えすると、周囲を包んでいた霧が晴れ始める。

 二度、三度、と瞬きをしている最中、急に景色が平地へと切り替わった。

 狼がいた場所に、その姿は既にない。

「クロノ神、帰られました?」

「うん。父上にしては、予想してなかった展開だったみたいで、落ち込んでたし。早く帰りたかったんだろうね」

 息子はけらけらと笑っている。やはり毒気のない表情をするな、と興味深く見つめてしまった。

「私、気分を害してしまいましたか?」

「いや? 楽しんでいたと思うけど。脚本から逸れると、面白くともね、反省するものらしい」

「はぁ……?」

 分からなくていいよ、ともう一柱の神は言うと、周囲を見渡す。

 私たちが座り込んでいるのは草原だが、近くに道らしきものが見える。光景には覚えがあった。最初に皆で集まった、新しくできた道の始点だ。

「本来なら今日まで祝福して回る予定だったが、神様を小間使いにできて一日空いたな。屋敷から馬車を呼んで、帰ってゆっくり休んだらどうだ?」

 大神官からの提案に、一も二もなく頷く。

 気疲れしているのもそうだが、消沈しているアーキズが心配だった。

 通信魔術を起動しようとした時、遠くから二台馬車が走ってくるのが見える。驚きと共に待っていると、確かにフィロス家と、神殿の馬車だった。

 降りてきた御者に話を聞くと、神殿経由で連絡があったという。

「クロノ神。悪い方ではない、ようですね?」

「善い方でもないけどな」

 そう言い、サフィアは神殿から来た馬車に荷物を積み込む。

 宿に置いてきてしまった荷物は別送してもらう事に決め、握っていた鞄を御者に預けた。

 最後に挨拶を、と二人と向かい合う。

「ああ、そうだ」

 大神官は、小さな箱を取り出す。

 私たちの目の前で蓋が開けられると、中には二つの雷管石が並んでいた。私が魔力を込めたものと、アーキズが魔力を込めた二つだ。

「神殿では、俺が鑑定士の仕事をすることもある。二つの雷管石の魔力相性を見分ける目を持っているんだ」

「「え」」

 僅かに回復した様子のアーキズと、声が揃う。

 サフィアは綺麗に微笑むと、蓋を閉じてしまった。小箱は、私たちに差し出される。

「これは、もう神殿に預ける必要はない。この二つを神殿に持ち込んだら、そのままお持ち帰りください、って言われるだろうな」

「それは、どういう……?」

 私とは違い、アーキズは何かを察したように目を見開く。

 こくん、と頷き、大神官は幼馴染みの想像を肯定した。

「幼い頃から共に過ごし、番関係なく結婚した相手が運命、ってのは浪漫がある話だな。────お幸せに」

 大きく手を振ると、二人は神殿が用意した馬車に乗って立ち去ってしまった。

 ぼうっと見送った後で、私たちも魂が抜けたように馬車に乗り込む。ただ、受け取った小箱だけは、しっかりと握り締めていた。

 

 

 

 屋敷に向かうまでの馬車の中は、視察に出た日のように静かだった。ただ、二人の間で固く結んだ手は解かれず、番になって結婚したかのように錯覚してしまう。

 普段使っている寝室へと向かうと思っていたが、アーキズが私を導いたのは、屋敷の中でも発情期の時に使う別棟だった。

 玄関扉を開け、中に入ると、内部は思ったよりも整えられている。小箱を机に置き、柔らかな布地が張られた長椅子に腰掛けた。

 家具の中には古いものも多いが、使用頻度が高いであろう品が、知らないうちに新しい品へと改められている。

「アーキズ。この別棟、手入れしてくれてたの?」

 発情期になったら逃げ込む場所、としか思っていなかった私に、家具を入れ替えるという発想はなかった。

 幼馴染みは気まずげに椅子へ腰を下ろし、肯定する。

「いずれ、使うなら、と」

「…………私と?」

 そっと、自信なく小さくつぶやいた声は、目の前のアルファの顔を縦に動かす。

 目元は腫れ、頬は赤らみ、視線は私ばかりを追っている。彼を見つめられなかったのは、私の方だ。

「そっち、行ってもいい?」

 向かいに座るのは、今までの私たちの癖だった。

 呆けたように頷く彼を見て立ち上がり、魔力が混ざるほど近くに、隣に腰掛ける。

 指を伸ばして、彼の手に触れた。

「……アーキズは、私との結婚、いやだった?」

「そんな筈ないだろう……!」

 咄嗟に大きくなった声に、ふ、と笑いを零す。くすくすと声を上げて、彼の肩に額を当てた。

「よかった」

 外の寒さは遠く、身を寄せ合う冬は相手の匂いが近い。

 強い風が吹き、窓枠を揺らした。静かな室内には、呼吸音さえ届きそうだ。

「ティリア、の方が……」

「私?」

「俺に、別の番を作るように言った」

 むすり、と引き結ばれた口元を見るに、私が彼の為だと伝えた言葉は不服だったようだ。

 あの時は、私が身を引く方が正しいと信じていた。

「アーキズは素敵な人だから、私なんかより、ずっと相応しい人がいるって思ってた」

「俺は、昔から。ティリアを────」

 宙に身を投げ出したとき蘇った記憶でも、幼馴染みは真っ赤になりながら私へ求愛していた。

 彼の番への憧れには、私と、が前提にある。その事実を知って、今までの不可思議な態度がすべて線を結んだ。

 指先を絡めて、顔を近づける。そっ、と寄せた唇が触れた。

「ティリア。『ずっと』好きだった」

 言葉が重たくって、つい唇に笑みを刷いてしまう。

「ほんとに、ずっと、だね」

「…………茶化すなよ」

 また、むすりとしてしまった幼馴染みの頬に、唇で触れる。

 境界が崩れて伝わってくる魔力は、懐かしい波をしていた。

「ずっと好きだよ、アーキズ。だから、貴方に最高の番をあげたかった」

「これ以上、良くなってどうするんだ」

 背に回された腕に引き寄せられ、彼の胸元に飛び込む。

 広い背中を抱き返すと、嬉しそうな声が漏れる。昔に戻ったような、普段よりも気安い声音だ。

「発情期が来たら、一緒に過ごしてくれる?」

「勿論だ。……ただ、その事なんだが」

 アーキズは鼻先を私の首筋へと近づける。すん、と息が吸い込まれた。

「明日から、発情期が始まったりしないか?」

「へ? そんな周期じゃないよ。もっと先だもの」

 慌てて手帳を開くが、書き記して計算した予定は、半月以上も先の日付が書かれている。

 だからこそ、泊まりで視察へ出掛けたのだ。

 アーキズは手帳を見るが、やはり首を傾げる。

「周期も絶対ではないだろうし、しばらくこちらで過ごさないか? 義父上には俺から説明をしておく」

「……別に、構わないけど。私、あんまり周期がずれるほうじゃないよ」

「念のため、だ。俺も、屋敷で事故を起こしたくない」

 魔力相性の良い相手は、匂いの上でも相性が良いことが多い。うっかり匂いで引っ掛けてしまったら、父母の前で醜態を晒しかねない。

 尤もだ、と頷いた。普段使いする品は旅行鞄に詰めて持ち出している。このままこちらに置いておく事に決めた。

 手帳を閉じようとした時、最後の頁に何か書かれている事に気づく。

『祝福を』

 短く書かれた筆跡は、私のものとも、アーキズのものとも違う。インクはまだ新しく、おそらく、旅行の間に書かれたものであろう事が想像できた。

 書いた人物は、おそらく。

「アーキズ」

「ん?」

「言ったの、当たりかも」

「何がだ?」

 頁を見せると、彼もまた何かを察したようで苦い顔になる。

 はは、と二人の間で、乾いた笑いが室内に響いた。

 

 

 

 明日、と彼は言ったが、それすらも予想を大きく外した。

 私の体調はその日のうちに急激に変化し、慌てたアーキズが発情期中の準備に走ることになってしまった。

 長椅子の上で横たわりながら、熱い息を漏らす。まだアルファは近くにいても理性を保てているが、尋ねる度に、彼が答える感想は段々と悪化していく。

 ぺたり、と額に手を当てた。病気の熱とは、質が違う。

「アーキズ。体調どう?」

「とても悪い。でも、いちおう最低限のものは揃え終えた」

 寝間着が私の上に放り投げられる。

 もぞもぞと毛布の中から抜け出ると、与えられた服を抱えた。

「…………察した。身体洗ってくる」

「補助は要るか?」

「まだ、魔術は使えると思うから。へいき」

 脱衣所に入ると、服を脱ぎ、壁に手を当てながら浴室へと移動する。

 ざば、と頭から湯を被り、身体中に泡を纏った。普段よりも丁寧に洗い終えると、腹に手を当てる。

 学生時代に、ひっそりと教えられた呪文を指先で綴り、腹部へ埋め込んだ。

 体格差のある相手と交わって内部を傷つけないよう、粘膜同士が触れ合って悪い影響がないよう、いくつもの効果が組み込まれた魔術だ。

 他にも、精を遮断するような魔術も存在する。けれど、子を望まない気持ちはなかった。

 髪を乾かし、寝間着を身に付ける。脱衣所を出ると、アーキズもまた、自分の寝間着を抱えていた。

「交代。お湯はまだ温かいよ」

「あ、ああ……」

 そわそわとした幼馴染みを見送り、今日、噛まれるのだろうかと思いを巡らせた。

 番になる条件だって、本格的な発情期でなくとも成立すると聞く。体温は熱く、やけに相手の匂いを鼻で拾ってしまっている。

「今日、するんだろうな……」

 呟いて、ぼっと顔を赤らめた。

 ぱたぱたと部屋に駆け込み、長椅子へ腰掛ける。何をする気にもならず、時計を見つめていると、脱衣所を出る物音がした。

 アーキズは濡れた髪を拭っている。隣を叩いて恋人を招き、指先で術式を綴った。

 ふわり、と温風が舞い上がり、髪の水分を奪い取る。

「助かる」

「ふふ。懐かしいね」

 あの頃は魔術をうまく使えなかったが、水遊びをした後で、こうやって髪を拭い合っていた。懐かしい髪の感触を楽しんでいるうちに、あっさりと髪は乾いてしまう。

 やることが無くなると、途端に手持ち無沙汰になった。

「あの、さ」

「なんだ?」

「…………今日、するの?」

 ぽそり、と小さな声で尋ねると、幼馴染みの顔が染まった。

 頬を掻いている様子を見るに、満更でもない様子だ。

「怖いか?」

「怖くは、ないよ。アーキズ相手だもん」

「俺は、早くティリアの項を噛んでしまいたい。もう、番として譲られるのは御免だ」

 独占欲が伝わってくることが嬉しい。ただの幼馴染みでもなく、体面上の結婚相手でもない。

 私は、番として相手に求められている。

「私も。アーキズが他の人の番になること。本当は、嫌だったよ」

 密やかに打ち明けると、その言葉を合図に、綺麗な顔が近づいてくる。

 数度、唇同士を軽く触れさせる。相手の掌が私の手を掬い上げ、寝室へと導いた。

 普段使っている寝室よりも狭いその部屋は、相手の匂いが直ぐに籠もってしまう。逃げる場所もなく、大きな寝台が存在感を主張していた。

 シーツは張り替えられたばかりのようで、真白い寝台の上にそろそろと腰掛ける。

「……アーキズ、はさ。私が、子ども、欲しがっても嫌がらない?」

「懐かしいな。昔、そういう話をしたぞ」

「えっ!?」

 つい、寝台から腰を浮かせてしまう。アーキズはいくつかの瓶を寝台横に移動させると、私の横に座った。

 くん、と座っていた寝台が沈む。

「俺も幼かったから、沢山ほしい、って何も考えずに言って。けど、ティリアはいつも通り、俺とお前の話だとは思ってなかったようだった」

「そっか。その希望、変わった?」

「今は、昔ほど強くは望んでいないな。ティリアさえいれば」

 腕を伸ばし、彼の首筋を辿る。近づいてきた唇を受け入れ、望まれるまま唇を開いた。

 ぬるりと舌が唇を割り、舌裏を擽る。二人の間で唾液が交換され、ぴちゃり、ぴちゃりと音を立てた。

 唇が離れても、匂いが近い。ぞわぞわがいっそう強くなった。

「────俺と、番になってくれますか?」

「喜んで」

 腕を相手の首筋に回し、寝台に乗り上がる。ちゅう、と彼の唇に吸い付くと、同じようにやり返された。

 お互いに触れ合ったまま、寝台に転がる。

「アーキズ。……が、好き」

 触れ合いに満足して甘えていると、彼はもぞもぞと身体を離す。

 疑問に思いながら顔を上げると、また耳まで真っ赤になっていた。普段は凜々しい印象が勝つが、こうやって動揺している様は可愛らしい。

「煽るたび、匂いが強くなるぞ」

「そう、なの?」

 相手の指が、私の服の釦を外していく。覗いた肌は、ここ十年ほどは相手に晒したことはない。

 大きな掌が皮膚の上を滑り、目の前で深く息が吐き出される。

「ふふ。くすぐったい」

 近づいてきた唇が、私の首筋に触れる。ちゅう、と吸った場所には、赤い痕が残った。

 指とは違う感触が、肌を伝っていく。鎖骨を過ぎ、胸の突起へと近づいた。

「ふっ、ぁ……。ァ」

 先端に軽く触れられるだけでも、ぞくんとしたものが駆け上がる。

 開いた唇が、尖った部分を食む。口内を舐め回した舌が、今度はざりざりと刺激を与える。

「ン、う……。うァ」

 ぢゅ、と吸い上げて唇が離れた。

 しつこく吸い付いた事に唇を尖らせると、ついでにキスをされる。

「な、ァ! 吸ってもなにもない、でしょう……!?」

「いや? ティリアが可愛い」

 額が胸元に擦り付けられ、腹部にも相手の唇が触れた。大きな手が肌を擦り、腹から腰へと伝い降りる。

 股に近づいていくほどに、快感が募っていった。

「下、脱がせていいか?」

「うん……」

 自分で、と提案する前に、彼の手が下の服を脱ぎ落とす。下着までまとめて引き抜かれ、一気に下半身が心許なくなった。

 太股を擦り合わせると、相手の視線が隙間を食い入るように見つめる。

「すけべ」

「…………。長年溜め込んでいたものがあるんだ、大目に見てくれ」

「見ない! ちょ、手、入れ……ァ!」

 彼は身を起こすと、私の脚を左右に開いた。下着もない股は、あっさりと彼の視線に晒される。

 薄い髪色と、数が少ない所為で、下の毛も半身を隠す役目を果たせていなかった。恋人は、やっぱりまじまじとその場所を目に焼き付けている。

「ありがとう」

「意味わかんない! もう、見ないでってば……」

 彼は暴れる脚を上手く押さえ込み、縮こまっていた半身を引きずり出す。

 自分ではない掌、ごつごつとした指先で擦り上げられると、一気に息が上がった。

「や、ぁ……ッ! ひン、ぁ」

 指の腹が、鈴口を性急に擦る。先端から水音が伝い始めると、手の平は裏筋を滑った。

 ぐちゃぐちゃと卑猥な音が耳を打ち、気分が高まるたび、周囲の匂いが変化していく。

 狭い室内に、匂いへの逃げ場はない。酒でも含まされているように、相手の匂いにただ酩酊していた。

「あ、は。……ァ、うあ。や、ぁ……ッ!」

 果たして、達していたのだろうか。がくん、と変な力が入って痺れた足が寝台に投げ出されるまで、そこは指先に翻弄され続けた。

 彼は指先を小さな布で拭うと、寝台脇に置いていた小瓶をひとつ持ち上げる。蓋を開けると、匂いはないのに、一気に体温が上がる。

「なに、それ……?」

「分かるか。匂うわけじゃなく、本能を引き出す物質に干渉するんだと。あとは、滑りが良くなる」

 彼は瓶の中身を、私の股の間にぶちまけた。溝を伝って、ぽたぽたとシーツの上に染みができる。

 瓶の蓋を閉めて小机へ逃がすと、彼は長い指をその液体に擦り付ける。空いた腕が脚を開き、濡れた指が尻の谷間を辿った。

 つぷん、と指が後腔を拡げる。

「こ、こわ……い」

「拡げないともっと怖い事になるぞ」

 幼馴染みは昔の口調で私を脅し、大人しくなった身体を割り拓く。

 くぷ、くぷ、と抜き差しを繰り返し、拡がったのをいいことに奥へと滑り込む。

「う、ぁ。……ふ、ぁ。いァ、あ……」

 未知の場所を触られている、シーツを握り締めながら堪えた。

 更に恐ろしいのは、仄かに快楽の灯が点っていることだ。この身体は、奥に指を突っ込まれても刺激として拾ってしまう。

 彼の服の下で、布地を押し上げているものが目に入った。体格差のある相手の巨きなものを含んで、子種を絞り上げる。それを望むのがこの身体だ。

 きゅう、と後ろを引き絞る。突き込まれている指の凸凹を、柔襞が食んだ。

「ひ。ァあ、ぁあッ……!」

 指先が、何処かに辿り着いた。強烈な快楽が脳を焼く。

 恋人の唇は笑み、何度もその場所を指の腹で擦った。だらだらと私の半身は涎を零し、触られてもいないのに汚く泣き喚いた。

 いつの間にか本数が増えていた指が、肉輪を拡げるように距離を作る。くぱりと開いた虚は、縁を濡れ光らせていた。

 ふ、と相手の唇から息が漏れ、指が抜かれる。

「ティリア。うつ伏せになれるか?」

 頷き、力の抜けた腕を使ってのろのろと身を起こす。そして、寝台に向かって肘をついた。

 自然と尻は持ち上がり、蕩けたその場所が露わになる。指の感触が、私の髪を払った。 すう、と項に風が通り、続けて、歯の感触が軽くその場所を伝う。狙いを定めるだけの動作に、絶頂してしまいそうになった。

 噛んでほしい。その願望だけが身を支配する。噛まれて、男根を突っ込まれて、身の内で子種をぶちまけられたい。

 淫猥な望みばかりが頭を占めて、本能を押し潰していた。

「アー……キズ。私……」

「ああ。なんだ?」

 言葉に迷ったのではない。その一瞬、人としての言葉を忘れたのだ。

「貴方は、いつも私を守ってくれた。……それは、本当に嬉しかったけど」

 優しくされたいのと同じように、相反する望みも抱いてしまった。目元は熱を持ち、瞳は潤み、唇は持ち上がった。

 自分はいま、ふふ、と甘ったるい声で笑っている。

「それ、突っ込まれて、……酷くされて。ぐちゃぐちゃにもされたい、んだ」

 息を呑む音がした。返事はなかった。

 だが、腕が私の肩を寝台に押さえつけ、持ち上がった尻の狭間に、濡れたものが押し当てられる。

 ぐぽん、と容赦なく、その巨大に膨れた瘤が押し込まれた。

「ア────。う、ぁ?」

 何もかもが、ひっくり返ってしまうような衝撃だった。先端と竿の一部は肉輪から奥に突き込まれ、ずず、と体内を滑っている。

 魔術で整えられた身体は、悦んで雄を迎え入れる。ちゅうちゅうと吸い付き、甘やかして、奥へと迎え入れていく。

「こ、ンの……! タチが悪い……!」

「あ、はァ……ッ! 重、けど、気持ちい……」

 ず、ず、と押し引きを繰り返しながら、質量を確実に埋め込んでいく。

 彼の両手は腰に掛かり、背後に引かれる。持ち上がった上半身は、その重みでえげつない体積を身に納める。

 指先で教え込まれた未知の快楽が、亀頭で押し潰される。二度、三度と叩き付けられ、声なく絶叫した。

「あ、ひァ。────ふ、ァ。ぁあァぁぁッ!」

 一度、寝台に崩れ落ちる。その衝撃で軽く抜けた肉棒を、容赦なく、ずぷぷ、と押し込まれた。

 奥まで突き込んで、丁寧に揺さ振られる。嬌声に悲鳴が混じって濁っても、容赦なく快楽を教えられた。

 次第に、瘤が内部を探るような動きを見せる。こつ、こつ、と道筋を探しているような動き、ぞっと身を竦ませた。

「なァ。……ちから、抜けるか?」

 その道筋は、このアルファに教えてはいけないような気がする。理性が警告するのに、身体は楔打たれて動けなかった。

 先端が、何かに引っ掛かる。背後で、息を呑む音がした。

「ァ、ひ────。な、に?」

 先端が泥濘を掻き分け、丸い部分がその場所に填まった。厭な予感がする。制止する間もなく、奥が小突かれた。

 嬌声は、もはや悲鳴に近かった。

「い、や。そこ、ヤ……! 駄目になっちゃ、……ア、ぁ」

 ぐっぽりと突き込まれた肉は存在を主張し、狙いを定め、だらだらと子種の混ざった汁を呑ませる。

 その場所は悦んで男の体液を嚥下し、もっと、と縋り付く。細かい律動が、重たい感覚を響かせる。

「ぁ、ア。あひ、ィ……! だめ、ほんと。そこ、はァ。……ぁ、ア、ア、ア」

 相手の喉は、愉しげに鳴っている。身体を繋げたまま、絶頂が上振れして固定される。

 次第に声は掠れ、口の周りは零れた涎で汚れていた。

 果てたのか。果てていないのか。シーツとの間で擦られた半身の感触も薄かった。

「ハハ。ぐちゃぐちゃになっちまったな」

「ん、う。ァ、うん……。うれし。ァ、ひィ────」

 ぐ、と瘤が腹を押し上げる。

 禁断を共有するのは、あまりにも甘美だった。痛みと快楽の薄皮一枚隔てた中央、それが快楽の絶頂値だ。

 腰が抱き直される。相手の身体が傾いで、歯の感触が首筋に当たった。

「これで、番だ」

 万感の思いを込めるように、低くつぶやいた言葉とともに、牙がうなじに食い込む。

 きっと痛い筈なのに、変化させられる感覚が愛おしかった。

 腰が引かれ、拓かれた場所へと砲身が埋まる。腹の肉を押し上げ、鈴口が狙いを定めた。

「ア──。い、ァ…………、ぁああああぁぁぁぁあッ!」

 体の奥で、白濁が噴き上がる。肉襞を染め上げんばかりに、身体の奥を熱が叩いた。

 押し当てる感触に逃げを打とうとも、首筋には牙が埋まり、後腔には楔が打ち込まれている。

 哀れな獲物のように、ただひたすら、身体が唯一のオメガとして造り替えられる様を味わわされる。

 こつん、こつん、とナカを叩き、子種を擦りつけて、ようやく肉棒が引き抜かれる。くぷん、と音を立てて抜け出た瞬間に、寝台に倒れ込んだ。

「…………気持ちよく、なれた?」

「ああ、凄かった。ティリアは?」

「ん。きもち、よかった」

 腕を伸ばすと、相手も倒れ込んでくる。体重差に押しつぶされながら、腕の下で笑い声を上げた。

 服もシーツもどろどろで、指先を動かしたくないほど疲れ切っている。それなのに、相手の中心はまた兆し始めているのだ。

 相手の掌が、私の腰を撫でる。

「二回目は、ちょっと待ってね」

「…………待てないかも」

 続きをおねだりする番から逃れようと策を講じてみるのだが、結局、私は彼の望むまま、脚を開くことになるのだった。

 

 

 

 発情期を終え、諸々が落ち着いた頃、父から興味深い話を聞いた。

 新しく作られ、祝福を与えられた道なのだが、ナーキアへ行く者が増えたのも勿論のことながら、こちらの領地への観光客もまた増えたのだそうだ。

 何でも、田舎田舎と自称していた領地において、アーキズの指示のもと生産を拡大していた花畑が、観光地としても好評だったらしい。

 田舎にのんびり観光に来て、花を眺め、都会の喧噪から離れて過ごす。

 私たちにとっては日常だが、王都に住む人々からすれば物珍しい光景であるようだ。

 観光業が一気に盛んになって忙しくなった我が家だが、アーキズが父の仕事を担うことで、何とか仕事を回している。

 その日も、朝から観光地に関する仕事の相談を終え、朝食を済ませて一段落したところだった。

 アーキズとは、朝から二人で仕事に出ることになっている。

「今日、途中で王都に寄れる経路だが、神殿に挨拶にでも行くか?」

 アーキズは好意で言ってくれたのだろうが、私は返答に困ってしまう。

 神様絡みでの騒動があまりにも大騒動すぎて、距離を置きたい気分だった。

「うーん。今度にしよう?」

 廊下を歩きつつ番の腕にしがみつくと、私に甘いその人はあっさりと同意する。

 寝室に入り、旅行鞄を用意していると、机の上に手帳が置かれていた。

 入れ忘れていた、と手帳を持ち上げると、窓辺から吹き込んだ風によってぱらぱらと頁が捲れる。

 白かったはずの頁には、またしても文章が書き込まれている。

『お菓子を用意して待っているよ』

「…………」

 その場で頭を抱えていると、アーキズが手帳を覗き込んでくる。

 文字を読み終えた番は息を吐き、ぱたんと手帳を閉じる。

「これ、どっちからのお誘いだろうな。挨拶、行くか」

「…………いいけどさぁ」

 窓辺から吹き込む風は暖かく、冬には珍しい、過ごしやすい一日になりそうだ。

 面倒の予感に、番の肩に額を押しつけ、はあ、と息を吐き出す。いつも共にある掌は、私の頭を上機嫌に撫でた。

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