何だか、今日の部下はにこにことして嬉しそうだ。
普通なら、そう、例えばにこにこしているのが苦労性のシフであるなら、良いことがあったのだな、と微笑ましくもなるのだが、笑っているのは実験狂いのヘルメスだ。
魔術式構築課は普段どおりに始業しながらも、どこかどんよりと空気が淀んでいた。朝は駆け込んできたヘルメス自身も時間が無かったのだろうが、昼休憩に入ろうものなら始動するのが目に見えている。
サーシ課長なんか、絶対に必要の無い防衛課との打ち合わせと称して出ていった。昼を過ぎてからしか帰ってこないに違いない。俺は昼休憩に入った途端、職場を出て行けるように仕事を進めていた。
昼休憩の鐘が鳴る。反射的に魔術機を落とし、立ち上がった。
「ロア代理、少しお話があるのですが」
「はい……」
思わず机に突っ伏しそうになった俺に、周囲から可哀想なものを見るような視線が向けられた。標的を外れた課員達は、自身の弁当を打ち合わせ机に運んでいる。
顔を上げ、やっぱり朗らかなヘルメスを見上げる。
「試していただきたい薬がありまして」
目の前に小袋が差し出される。受け取って開けると、見慣れた形状の飴が入っていた。
「はぁ」
「前回、失敗した薬の改良版なのですが」
「はぁ、あの。薬な」
前回失敗した薬、とはあの媚薬のことに違いない。あの媚薬もどきの被害者は俺だけに留まらず、ヘルメスの親戚であるアルヴァの恋人にまで被害を広げている。
しかも、なまじ効果があるだけに質が悪い。
相槌を打ちつつ、断る言葉を全速力で組み上げる。
「あの、申し訳ないけど、ガウナーも忙しいし、体調が悪くなると都合が……」
「いえ、今度は大丈夫です。色々と改良を行いましたので」
ヘルメスの改良、の結果、窓を吹き飛ばしたり机を破壊したのを忘れたのだろうか。伴侶は替えが効かない人物の筆頭だ。部下の薬を飲ませてぶっ倒れて休暇、ともなれば国政が滞る。
なら俺が飲めばいいか、と言われると、率直に飲みたくない。ただ、伴侶に飲ませるよりも俺が飲んでぶっ倒れる方が幾分かましだった。
目の前で指を組んで、額をその上に乗せる。声はゆらゆらと揺れ、演技しようもなく、嫌だ、という気持ちが滲み出ていた。
「ちなみに、他に誰か……」
「既婚者で、魔術薬を試して副作用が大きくならないよう咄嗟に対処できる魔術師が近くにいる被験者、という方がなかなか見つからず」
「副作用が起きそうなものを飲ませるな」
「何を言うんです。我々は制御できる毒を薬と呼んでいるに過ぎません。一定の効果を身体に与えるのですから、玉突きで色んな箇所に影響が出るのは当然です」
「研究者は副作用の軽減に苦慮してるんだぞ……」
無言で、もう話すのやだ、と机に頬を付けた。
反面、これだけ押せ押せとばかりに研究対象を捕まえようとする熱意だけは褒めたい。彼の研究が進めば、付随して色々な研究結果が付いてくる。
目的地が何処かなんて、辿り着くかなんてどうでもいい。経路の途中で次の畑を作るために大量の土を掘り起こしていくことがこの部下の美点だ。
「他の奴にやらせるくらいなら、……俺が…………」
受け入れかけた時、魔術式構築課の扉が開いた。
入ってきたのは先ほど出ていった筈のサーシ課長で、机から財布を持ち上げ、どんよりと向き合っている俺達の横を通る。
こちらに視線を向け、流石にそのまま退室するような薄情な真似はしなかった。
「今度はなんの薬だったの?」
「媚薬です……」
俺が呟くと、視界の端で部下たちがざわめいたのが聞こえた。目の前のヘルメスは平然としており、周囲の動揺を何とも思っていないことが分かる。
ふうん、とサーシ課長は薬を見下ろす。
「ロアくんに実験の依頼をしていた感じかな?」
「はい……。以前も、……いや、伴侶が忙しいので、どうしようかな、と」
薬を見下ろした上司は、ヘルメスに中身の成分を聞いた。部下は淀みなくつらつらと中に入れた植物を挙げる。
サーシ課長は、飴状の魔術薬を持ち上げた。
「食べて、効果の報告をすればいいんだね?」
「はい」
「じゃあ、僕が貰っていくよ」
ヘルメス以外の全員が、ぎょっと目を剥いた。止めに入りたい、でも、止めると自分が生け贄にされかねない。無言の読み合いが場を支配する。
無言の間に、課長は包みを懐に仕舞った。
「あの、大丈夫なんですか……?」
「平気。僕が『飲まなきゃいい』んだから」
誰に飲ませるつもりなんですか、とは尋ねられず、俺は伴侶のために口を噤んだ。
休み明けの上司が気怠げに見えたのは気のせいだろうし、ヘルメスとサーシ課長が楽しそうに話しているように見えるのも気のせいだろう。
俺は部下の改良欲がもう媚薬に向かないことを、ただ祈るばかりだった。