魔術師さんは囲われ気味な高位貴族の愛人になりたくない

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▽1

 窓から差す光で目を覚ます。

 もぞもぞとシーツの波を掻き分け、身を起こした。夏の暑さは鳴りを潜め、やがて訪れる秋を予感させる。薄い寝間着では寒く、室内履きを挟んで冷えた床を踏みしめた。

 くあ、と欠伸をしながら、長い髪を持ち上げる。洗面台に向かうと、慣れた手つきで結い紐を解いた。うねりのある髪質が解き放たれる。

 一仕事が控えている憂鬱さと共に、顔を洗った。

 丁寧に櫛を使って髪を梳き、枝毛になった部分を切り落とす。表面がかさついている場所には油を塗り込んだ。髪の嵩が減ったところで、丁寧に後頭部のあたりで結い直す。すぐ広がるため、結った上で三つの束に分けた髪を背で編み込んだ。

 白に近い金髪と、光が差せばうっすら青が覗く黒の瞳。後援者が、吸い込まれそう、と言う瞳は、いまは深海の色をしていた。

 長い睫と白くしみ一つ無い肌。薄紅色の唇と、上気したように肌の下の色を伝える頬。神殿に仕えればどんなに、と残念がられる容姿は、有名な大神官との共通点を挙げられるほど整っているらしい。

 やれ花だ、やれ人形だ、やれ小鳥だ。浴びせかけられる美辞麗句には事欠かない。

「ふぁ……」

 大きく口を開けて欠伸をすると、鏡の前から離れる。寝間着からローブ姿へと着替え、そのまま居間、兼、実験室へと向かった。

 この小さな家は貸し与えられているもので、後援者である貴族の屋敷、その一角にある。

 馬車を走らせれば王都の中央部にも行きやすく、周囲が静かで暮らしやすい土地だ。俺のように支援を受けている芸術家も、それぞれ家を与えられては創作に励んでいる。

 与えられた家の色彩には木目と白しかなく、良く言えばこざっぱりとしていた。悪く言えば人が住むには殺風景な家だ。だが、研究器具などを運び込む上では都合が良い。住み始めてどれくらい経ったのか忘れてしまったが、それくらい俺にとって居心地のいい家となっていた。

 まず炉に近づいて炭を入れ、第一声、と朝の真新しい空気を吸い込む。

「炉は新たな炉へ。燃え盛る炎は光沢もつものを橙へと導き、その姿さえも変えんと呑み込む」

 ぼっ、と舐めるように炎が伝い、黒い炭を覆い尽くす。追うように炭を放り込み、暑すぎる熱を結界で遮断する。

 家の中でも涼しい位置に設けた倉庫の棚は満杯で、廊下にはみ出している荷物も多くあった。そこから幾らかの金属片を持ってくる。そして、水銀の保管容器も密閉された状態のまま持ち出した。

 記録用の紙と筆記具。そして色とりどりの金属を机に並べ、きのう書き残した文面に視線を投げる。

「朝起きて、ぜんぶ金に変わってりゃなぁ……」

 俺の主な研究対象は錬金だ。

 身近で使われている鉄や鉛。そして水銀に硫黄。ありとあらゆる材料を組み合わせ、安価に金を生成させることを研究目標としている。

 昔は魔術師として働きに出ていたが、どうにも仕事が長続きしなかった。俺の外見の美しさは色事にまつわる騒動を呼びやすく、自身も面倒ごとを堪え忍べる性格をしていない。大体は喧嘩別れのように仕事を辞めることが多かった。

 仕事を始めようと器具を準備していると、玄関先で靴音がする。聞き慣れた音の間隔で、来訪者はすぐに分かった。研究は放り出し、玄関に向けて歩き始める。

 俺の声を待たず、かちゃり、と鍵が開いた。

「おはよう、ラディ。まだ寝ているかと思ったよ」

「おはよノックス。寝ている、と思ったのなら呼び鈴くらい鳴らせ」

 俺の言葉を聞き流し、ノックスは手を広げる。げ、と分かりやすく顔を歪めてみせた。だが、当人は意に介した様子もない。

 大人しく腕の中に収まると、彼は満足したように俺の頭を撫でた。

 ノックス・グラウ。

 彼が俺を敷地に住まわせ、衣食住すべての金と研究費を与えてくれている後援者だ。

 貴族であり、まだ若い研究者や芸術家などを支援しては大成させ、事業に活かしている。その眼は正確で、支援のために大金をつぎ込んでも家が傾く様子はない。

 薄紅の髪を清潔感のある長さに整え、普段はきっちりと固めていることが多い。黄色みがかった灰色の目は、色が薄いためか視線の先が読み取りづらく。飄々とした当人の言動も相俟って浮世離れした空気があった。

 俺とは十ほど年が離れているが、年齢よりも若々しく美形だ。

 彼は数年前に親の紹介で結婚をしていたが、俺と出会うより前に妻の不貞を理由に離婚している。妻との間に子はおらず、いまは弟の次男坊に対して跡継ぎ教育をしているようだ。

「朝食は?」

「まだ」

「良かった。屋敷の朝食に招待しようと思ってね」

 ちゅ、と頬に唇が触れた。眉を歪め、袖で雑に頬を拭う。俺の行動にもノックスは気にした様子はない。後援者に対しての精一杯の譲歩、ということは分かっているようだ。

 彼は出会った時からこうだ。どうやら長いこと浮名を流してきたらしい。結婚して落ち着いたと思ったらすぐ離婚。という結果にだって、だろうな、と感想を言う使用人が多かった。彼が結婚期間中に大人しくしていた事の方が意外に思われている。

 もぞもぞと腕から抜け出し、片腕を抱き込んだ。連れていけ、と顎をしゃくる。

「君が食につられるような性格で助かっているよ。動かす手段が増える」

「どうせ食事はもう用意してるんだろ。残飯にするのが惜しいだけだ」

 抱き込んでいた腕は扉を閉める時に引き抜かれ、鍵を掛けると腰を抱かれる。

 彼の体温は落ち着かなくて苦手だ。避けるために媚を売るような腕組みまでしたのに、こうやって容易く腕の中に入れられる。

 俺に色目を使った輩がこんなことをしようものなら、下手したら殴り合いだ。だが、衣食住を全て担い、他よりは見目も良く頭もいい男に絡め取られれば、溜め息と共に諦めるしかない。

「いい天気だね」

「あんたがいなきゃ、もっと清々しかっただろうにな」

「気の持ちようだよ」

「…………はあ」

 屋敷の敷地は庭師が手入れするものだが、グラウ家の庭はなかなか個性的だ。芸術家の作品公開の場にもなっており、ぱっと見、なんだか呪われているのか、と言いたくなるような像もある。

 花の色を絵の具に、土を画布にしようとする庭師だっている。天才達は他人を気にしない。個性がぶつかり合いすぎて、この庭園は余りにも賑やかだ。

「また像が増えたか?」

「そうだね。でも、減ってもいるよ」

 視線の方向を見ると、以前あった『眼窩が落ち窪んだ男の像』が消えていた。

「よく売れたな。あんな悪夢に出そうな像」

「世の中には、好みがまったく同じ人間はいないからね」

「千人中、一人しか好きにならない絵はあるだろうがな」

 乾いた笑い声を上げる。窘めるように腰に掛かった腕に力が籠もった。視線を上げると、光が差して色を変えた瞳とかち合う。

「じゃあ、あの像は『二人』だ。私も好きだったよ」

 無言の間が長引く。性格も育ちもまったく違う、この男のこういう所がきらいだ。

「……悪かったよ。怖いと思うのは、俺の感覚だもんな」

「いいよ。君、意外と怖がりだものね」

「身長の高い男が苦手なだけだ」

 ふい、と勢いよく視線を逸らす。

 身長が高い男に殴られていたのは自業自得だ。北の孤児院に入るまで、俺は孤児たちのまとめ役をしていた。物乞いもした、無断での残飯漁りだって何度もやった。何度追い返されても、お前らが捨てた物だろう、と何度も漁った。面倒を見ていた中には、何度止めても盗みを働く子もいた。身体が大きくて丈夫だったから代わりに殴られた。

 結局、領主の部下に見つかって、みんな纏めて孤児院に入った。孤児院は、楽園みたいなところだった。

「────私は?」

 ふ、と男の目に妙な光が灯り、唇が笑みのかたちに歪んだ。

 囲い込んで甘やかして、その上でふいに言葉で額を押さえつけられる。俺が撥ね除けるのを待っているように、時おり言葉を仕掛ける。

「苦手だよ。他の男よりずっと」

 吐き捨てて、肩に寄り添った。息を吐く音がして、いっそう強く腰を抱かれる。石畳を歩く間、靴音だけが煩かった。

 屋敷の玄関に立つと、待機していた使用人が扉を開ける。

「おはようございます、ラディ様」

「おはよう。その格好は暑くないか? 昼間はもっと気温が上がるぞ」

「生地が涼しいので大丈夫ですよ。外を動くので、日焼けするのも困りもので」

「ああ、そっか」

 指先を動かして魔術式を綴る。冷気が相手に向かって降り注ぎ、一瞬だけ雪降る地のように冷たくなった。隣でノックスが目を瞠る。

「はは、冷たい。ありがとうございます」

「後でもっかいやりにくるよ」

 光溢れる室内に、高い天井。上品で清潔感がありながらも、屋敷の端々には庭先で見たような前衛的な作が品よく座っている。

 他の貴族の屋敷よりも鮮やかな室内は、彼の支援に対する芸術家からの見返りだ。名の知れた芸術家が無名だった頃から才能を信じて金を注ぎ込む。すると、出世した芸術家たちは『ぜひ作品を贈らせてほしい』と言う。

 屋敷を訪れた貴族が作品を気に入ると、ノックスはさり気なく芸術家へと繋ぐ。彼が手を回して、新たな主を得た者も多い。

 この屋敷が、才ある者たちが最初に恩を受けた場所だ。色とりどりの色彩は、恩返しの感情に溢れている。眩しさに目を細めた。

「今日の朝食は料理人が遊びたいそうだ。楽しみにしていてね」

「ははーん、だから俺なんだな。腹が丈夫だから」

「いや。君を呼んだのは、真っ正直にしか意見を言わないからだよ」

 分からない、と首を傾げてみせると、ノックスは眉を上げた。

「そもそも、君が身体を壊すような料理を私が許すとでも?」

「あんたの良心は信じてるけど、偶に嗜虐心が漏れてる」

「────そう?」

「そう」

 危機察知をしなければ満足に生きてはいけなかった。幼い頃に覚えた感覚は、未だに身体に染み付いている。

 案内された部屋の机には綺麗に卓布が掛けられ、向かい合って椅子が置かれていた。屋敷にしてはこぢんまりとした部屋は、ノックスが静かに食事をしたい時に使う場所だ。

 俺との食事は、彼の『そういう時』の恒例だった。

「どうぞ」

「どうも」

 主みずから椅子を引かれ、腰掛ける。この部屋には、使用人も料理を運ぶ以外には入ってこない。

 普通の給仕がそうではないことは流石に知っている。俺との時間は、出来うる限り人払いをされているらしい。俺の作法が悪いのか、俺を苛めている様を見せたくないのか、それを彼に問うたことはないのだが。

 主人の招きで、目の前に皿が並べられた。色鮮やかなスープは、生地を焼いたものを円にした中に注がれ、鳥の巣のような形状に見える。パンは中に捏ねた肉の塊を入れ、甘辛く味付けして焼き上げたもののようだ。つやつやとした照りが見える。野菜は色鮮やかな生のまま細長く切られ、ソースが何種類も用意されていた。

「うわ、遊んでるなぁ」

「私は好きだよ」

「俺も好き」

 貴族の食事、というよりも市街の料理店で好まれているような品ばかりだ。とはいえ、ノックスはそれらを好む質で、運ばれている料理を追う瞳は絶え間なく動いていた。

 手のひらを拭い、食事が始まった。

 パンを手づかみで割り、口に運ぶ。肉汁がパンまで滴り落ち、まだ温かいソースが舌を甘やかす。丁寧に、かつ素早く胃に収める。

「う、まい。焼きたてだ」

「本当に美味しい。子どもの頃は食べられなかった味だな」

「……あぁ、貴族家では好かれなさそうだな。この殴ってくるような味付け」

「貴族とはいえ味覚はそれぞれだし、それこそ君が昔いたところの領主様なんかは食べていたと思うよ」

 手を止める。俺が昔いたところの領主。思い当たる名前を挙げる。

「イニアック・モーリッツ様? あぁ、あの人は色んな所に出向くし、孤児院でも食事をしていたから。確かに食べているものは幅広いだろうな」

「孤児院で食事、か。……確かに、環境を確認する上ではいい方法だね。私も食べに行こうかな」

「イニアック様はご自身で解毒魔術の展開ができる御仁だからいいけど、あんたじゃ毒味係が必要になるだろ」

「解毒魔術なら君が得意でしょう、ラディ。君を連れていくよ」

 錬金術に多様な材料を使う都合から、毒についての知識も他の魔術師より多い。解毒魔術も、目の前の後援者を守り切れると胸を張れるくらいには多く知っていた。

 この人は屋敷に仕えている魔術師ではなく、俺を使うことがある。屋敷仕えの魔術師は家に仕えているが、俺はノックスへの恩で動くからだ。

 孤児院へ行く日程を決め、スープの具を囲む生地を崩し始めた時、ようやく話が本題に辿り着いた。

「────それで、君を朝食に招待した理由なんだけれど」

「おう」

「近々、君の後援を打ち切ろうと思っていてね」

 がしゃん、と落ちた食器がスープに浸かった。ぽかん、と口を開けても、ノックスは冗談とは言わない。

 今まで、彼の事業に貢献する成果は提供してきたつもりだった。だが、別の金属から金を作る、という最終目標を達成している訳ではない。

 長年、誰も達成してこなかった分野だったからこそ、こんなに早く後援が打ち切られるとは思っていなかった。

「打ち切った後は家からも出てもらう。それを避けたいなら、安い金属から金を作るか。……それか、私の愛人にでもなるかい?」

「は?」

「そうしたら、屋敷にずっと居ても構わないよ。今より広い実験室も用意してあげる」

 握り込んだ指が震えた。この男は、俺の研究に理解を示していたはずだ。研究結果を渡した時も、彼の事業でどう活かすかまでわざわざ語ってくれた。

 そんな人物が、急に後援を打ち切って、あまつさえ愛人への提案をしてくる事に強烈な違和感があった。俺がそういった関係を嫌っている事は、彼もよく知っている筈だ。

 怒りは湧かない。あまりにも意図が見えなさすぎて戸惑っている。

「あんた。そんなこと言う奴だったか?」

「現にいま言っているでしょう」

 笑みは仮面だ。彼が外面として作る表情をそのまま貼り付けている。前髪がはらりとこぼれ落ちても、ぴたりと貼り付いた面は崩れない。

 俺が何かを仕掛けられていることは分かる。けれど、何を目的にそうしているか全く想像が付かなかった。

「…………成果物を用意する期限は?」

「ひと月。それ以前に愛人になることを決めたのなら、申し出てくれればいいよ」

 回答自体が既に試されている。間違った方を選べば、ひと月待たずに放り出される気がした。

 目の前のひとが笑っているのに、氷を皮膚に押し付けられているようだ。心細さに胸がぎゅうっと締まった。

 彼に世話になり始めてからは、生活も安定して研究を続けられてきた。今までの安寧の中では、抱いたことのない感情だった。

「わかった」

 取っ手は無事な食器を引き上げ、少し冷えたスープを口に運ぶ。ざくざくとした生地の食感と、季節の野菜が舌に刺激を与えるのに、感じるべき頭が働かなかった。

 世間話のようなものが振られるが、何と返したのかは覚えていない。心ここにあらず、といった状態のまま、美味しいはずの料理を食べ終える。

 飲み終えたカップを置いて、視線で合図をして席を立った。

「美味かった」

「『美味かった』ような顔じゃないね」

「誰のせいだ」

 立ち上がった俺が前に歩き出そうとすると、ノックスが進路を塞いだ。相手の顔を見上げると、伸びた腕が俺を抱き込む。

 朝のそれとは、受け止める感情が違いすぎた。腕の中で藻掻いても、上手く制される。

「なん……!」

「あと、これから『期限』までは君とこうやって触れ合うことにするよ。いずれ愛人になるかもしれないしね」

 指が顎に掛かり、くい、と持ち上げられる。目を見開いた瞬間に、唇が重なった。

 

▽2

 初めてのキスを奪われたその瞬間、俺はノックスの頬を引っぱたいた。ついでに蹴りも入れた。

 だが、本人に懲りた様子はない。翌日にも捕まって、額に頬にとちゅっちゅとやられた。今まで受けてきた接触よりも格段に濃く触れ合ってこようとする男に、わななきながら張り飛ばし続ける。

 そして、研究も一気に進めなければならなくなった。今まで様々な可能性の枝について探っていたが、剪定しなければひと月では成果が出ない。

 相談のために連絡した昔の知り合いと会うことになったのは、ノックスの宣言から数日後のことだった。

 会って相談したいと通信魔術越しに言ったら、相手が個室のある店を用意してくれた。店内は裏通りの隅にあり、大きな店では無い。だが、出迎えた店員の仕草は貴族を相手にすることへの慣れを感じさせた。

 店内は上品な色味で統一されていた。そして更に、個室へ向かう廊下に足を踏み入れると、一気に調度品の質が上がった。表は誰でも受け入れているが、個室は紹介制、といったところだろうか。

 先に辿り着いた俺は、広めに設けられた席でそわそわと彼を待った。

「ラディ。お前やつれたか? 大丈夫か」

 目の前に座ったその人は、何でも好きなものを頼めよ、と言い置いた。彼と食事を取る時、俺が金を出したことはない。地元の孤児院によく訪れていた人物であり、魔術学校の先輩でもある人物。

「平気です。ロア兄も忙しいでしょう?」

「まあまあだよ。こういう所に来る余裕くらいはある」

 ロア・ハッセ。宰相の伴侶であり、結婚式を控えている人だ。

 普通なら、俺との人生に接点なんてないような人だった。前より伸びた暗褐色の髪は丁寧に纏められ、以前に会った時よりも落ち着いて見える。

 俺が放り込まれた孤児院は、ロア兄の父……イニアック領主様が運営している孤児院だった。経営を領主一族がよく手伝っており、ロア兄もまた、魔力の授業であったり、魔力の多い子どもに対して扱い方を教えていた。

 小さい頃は反抗していたし、魔術すら使って喧嘩を仕掛けにいった。だが、今では王宮で役職持ち、という力の強い魔術師である。当時も見事に反撃をくらい、その度に『危ないから、もうするな』と言い含められた。

 するな、と言われても俺自身が、勝てない、と納得できるまで仕掛けにいった。だが、諦めが出てくるともう惰性で、ロア兄も俺の魔術の上達を喜んでいた節があった。

「────で。金もらってた貴族から追い出されそう、って話だっけ」

 頼んでいた飲み物と菓子から緑色の瞳を上げ、ロア兄はそう切り出した。俺は慌てて掬い上げていた生地を口に放り込む。もぐもぐと急いで咀嚼して、一気に飲み込んだ。

「金もらってた。……まあ、そうですけど。研究費と生活費を出して貰ってたんですけど、急に『一ヶ月後までに成果物を出すか、愛人になるか、しなければ手を引いて追い出す』って言われちゃって」

「お前が囲われてたの、ってグラウ家の長男だよな。後援してた人物に対して非道なことをするような評判は聞かないが。寧ろ、芽が出るまでしっかり面倒を見る印象だ」

「『囲われて』ないです。……俺もそう思ってたんですけどね。本人にそう言われるまでは」

 ロア兄から見たノックスの印象も、急に後援を打ち切るような人物には思えないらしい。彼はそういう人の筈だよなあ、と一気に褪せて見える皿を見つめた。

 俺の声音も上向きにはならない。大人に頼らなければ生きていけなかった昔みたいだ。

「あと、愛人だっけ? それも意外っていうか」

「そうですか? ノックス、昔は派手に遊んでたみたいですけど」

「うん。それは知ってるけど、離婚した例の相手とは、家同士の結婚とはいえ添い遂げるつもりだった、って聞いてる」

「え。……詳しく、聞いてもいいですか?」

 ロア兄は言ってもいいものか悩むように、視線を空へと投げる。ぱちりぱちりと瞬きをして、黙っているのを諦めたかのように息を吐いた。

 フォークを持ち上げ、甘く味付けされた黒い生地を丁寧に割る。

「双方ともに昔からの知り合いで、恋ではないが情はあったと思う。結婚後はノックス・グラウも落ち着いて、浮気なんていう話はなかった。本人から話を聞いた人もいたそうだが、真面目に良い夫になろう、と意識していたようだ。結婚前に両親と揉めたそうで、その課程で心境の変化があったんだろう、って話してくれた人は言っていたかな」

「でも、別れたんだから愛人でもなんでも、って思うもんなんじゃ…………」

 うぅん、とロア兄は唸るような声を漏らす。俺の言葉に同意しきれないようだ。

「離婚した後も、ぱったり遊ばなくなったままなんだと。別れ方もあんまり良くなかったし、傷付いているんじゃ、って思わないか?」

「はぁ……」

「だから、結婚を機に心を入れ替え、不貞を働かれて傷付くような真面目なところのある人が、愛人関係を提案するかな、ってのが不思議でなぁ……」

「でも、からかってる時の態度じゃないんです。いつもなら、もっと分かりやすいし、種明かしも早い」

 ロア兄も俺と同じく、ノックスの態度に違和感を覚えながらも、決め手に欠ける、という印象のようだ。しばらく黙って菓子をつつくが、お互いにもやもやしたものを言い合うだけで、結論は出なかった。

「──ラディはさ、研究の成果物を期限内に出せるか?」

「まず無理です。どれくらい前から錬金術があると思ってるんですか」

「じゃあ、愛人になる?」

「絶対に嫌です」

 ロア兄はカップを傾け、底の見えない珈琲を口に運ぶ。丁寧に手挽きされた豆から立ち上る香りは、ふんわりと俺の鼻先にまで届いた。

「……これ言ったら怒ると思うけど。お前が、研究に後援者が付いた、って話してくれた時、黙ってるけど実は恋人なのか、って思ってたんだよ」

「な……! なんで!?」

「お前から伝え聞く相手の態度が、友人にしては甘かったから。そのノックスとやらも、いずれ恋愛関係になりたいから囲ってるのかな、って思ってた」

「……無いでしょ。俺をからかってるだけです、いつも」

 目の前の人に恋人だと誤解されていたのは衝撃だが、ノックスの触れ合いは友人にしてはべったりとしたもので、そのまま口にすれば誤解されるか、と今になって反省した。

 口の中が乾き、飲み物で潤す。

「なあ、興味本位なんだけど。恋人になって、って提案だったら、頷いてた?」

「………………」

 つい太腿まで視線を落としてしまう。

 咄嗟のことに、言葉が出なかった。友人よりも触れ合いの深いあの男が、恋人以外の全てを持っているであろうあの男が、俺を恋人に望む。

 愛人、と言われたのなら咄嗟に言えた、『嫌』を口ごもった。

「……考えたこともない、です」

 顔を上げると、目の前の年上はにまにまと口元を緩めていた。知人の甘酸っぱい恋を見守るような表情だ。

 むすり、と頬を膨らませる。だが、負けてばかりの年上には効きもしない。

「正式に恋人扱いしてくれたらいいのになあ。相手にはもう養子がいるし、お前は顔の良さと負けん気だけはあるし。案外、上手いこと結婚までいったりして」

「あり得ません。大きな商家なんかであればいいですけど、俺、自分の家すら覚えてないのに」

「出自が問題になるなら、どっかの貴族にいちど養子にして貰えば、貴族社会は有耶無耶に取り扱うよ。何ならモーリッツ家に養子に来たら?」

 いや、いや、とあまりにも荒唐無稽な提案に首を横に振るのだが、ロア兄はそれが普通であるかのように提案を口にする。孤児院を出た人間が、貴族の養子に入って、そしてまた別の貴族と結婚する。それらは、俺にとって雲の上の出来事でしかない。

「恋愛結婚の通し方だってあるってことだよ。グラウ家なら突飛なことしても、『ああ、あの家か』で済みそうだしなぁ……」

「そうなんですか?」

「あそこ、普通の貴族家なら拾わないような研究家や芸術家を拾うんだ。でも、元々が手広く商いをしているから、どんな人を拾っても形にしてしまう。一族に文化人も多くて、世間的に言う変人も多いから、貴族から淘汰されそうなものなのに、金の力でみんな黙る」

「あぁ……。なんか、金はいっぱいありそうですね」

 俺みたいな今まで結果を薄くしか出せないような人間であっても、買いたい材料や器具を申し出て断られたことはなかった。食事や服を揃えるための生活費も、平均より少し多く出してもらっている。

 余裕があるから生まれるものもある、たしか彼はそう言った。

「俺は好きな家風なんだよな。もう金持ちなのに稼ごうと努力するとこ」

「まあ、俺もノックスが、何に対しても学ぼうとする姿勢は尊敬してますけど」

「けど?」

「俺に『金を作り出すか愛人になれ』って言うんですよねえ……」

 元々の課題がまた持ち上がってしまい、口からは溜め息が復活した。ロア兄は向かい側でけらけらと笑っている。腹は立たない。疑問が多すぎて、俺もいっそ笑ってしまいたかった。

「で、相談したかったのは成果物を出す方もなんですよ」

「え? やるつもりはあるんだな」

「大きな成果を出して、それを元に『金は作れなかったけど、これで勘弁してくれ』って言うつもりなんです。それで、金を作るために使う別の金属を一つに決め打ちしようと思ってます」

「へえ、どれにするんだ」

「王道ではありますが、水銀にします。硫黄と水銀の比率を突き詰める研究も多かったんですが、俺は、水銀単体をどうにか加工して金にできないか、って考えていて、その成果物を何らか用意して、ノックスに判断を仰ぐつもりです」

 俺は続けて、他の金属についての説明と、水銀を選んだ理由を語る。話している間、ロア兄は静かに聞いていた。途中で質問を挟むが、言葉の端々から否定を感じ取ることはない。

 途中で、珈琲が二杯目になった。

「────と、考えていて、水銀の加工用の魔術式をですね……」

 がさがさと鞄から魔術式を書き綴った紙を取り出す。机の空いた空間に広げると、ロア兄は手早く視線を走らせた。

「水銀は、ごく小さい粒で構成されています。特定の魔術式でこの粒を追加して、崩壊させ、構成を変換すれば金に辿り着くんじゃないかと。変換させるために俺が考えている魔術式が……」

 変換には特殊な場と大きな力が必要で、魔術式はかなり大規模なものになる。起動させるための魔力も大量に必要だ。紙は机の上を覆い尽くすほど広く、ロア兄は指先を伝わせながら内容を読んでいく。

 何をしたいかという質問を挟みつつ、俺から筆記具を受け取った優秀な魔術師は、魔術式に訂正を入れていく。錬金には詳しくないと言うが、魔術式については俺よりも二歩も三歩も先を行く人だ。正確に意図を伝えれば、術式だけを見て効率化を施してくれた。

 ロア兄は顎に手を当てる。

「もっと改良できたらなぁ。部下にこういった物質を変化させる魔術式、得意な奴がいるんだが、繋ごうか?」

「本当ですか!」

「ああ、たまに窓を吹っ飛ばすような奴だけどいいか」

「…………? 実験をしていたら、窓を吹き飛ばすことくらいありますよね」

 彼は口元をひん曲げると、腕組みをして唸った。しばし考え、頭を抱え始める。何か嫌な思い出でも蘇ったのだろうか。

 きょとん、と兄貴分を見つめていると、大丈夫、と目の前で手が振られた。

「…………研究じゃなく、恋愛を選んだところも見たかったなぁ」

「恋人じゃなく、あっちが望んでいるのは愛人です!」

「そうかなぁ……?」

 俺が言い含めても、ロア兄は納得のいかない様子でしばらく粘っていた。久しぶりの会合は楽しく、やいやい言っているとすぐに時間は過ぎ去った。

 

▽3

 朝起きたら、隣で美形が俺を見つめていた。つい自分の服を見下ろしてしまうのも無理はない。服は寝間着のまま、崩れた様子もなかった。

 ほっと息を吐き、にこにこと枕に頭を乗せる人に視線をやった。陽光を浴び、生来の美形が絵画かと言わんばかりの輝かしさを纏っている。まだ固めていない髪は、さらりと崩れて頬を滑り落ちた。

「おはよう」

「おはよ、う……?」

 さらりと挨拶をされ、毛布をたぐり寄せる。困惑を隠しもせず、もぞもぞと身を引く。逃れようとした身体が、伸びてきた腕に捕まって相手側へと滑った。

 相手の胸へ手を当て、押しのけようとするが、異様に強い力の所為で叶わない。文化人風の見目をしているが、手のひらで触れた胸には筋肉の弾力があった。

「何だよ! 朝から……!」

 寝起きで力の入らない状態のまま、ふにゃふにゃな言葉で抵抗する言葉を吐く。俺の文句を一頻り黙って聞くと、ノックスは、ふふ、と小動物でも見るような笑みを浮かべる。

「お出掛けしようよ」

「は?」

「知人の個人美術館に招待されたんだ。魔術的な護衛を兼ねて君を連れていこうと思ってね」

 寝起きの頭に突飛な情報を流し込まれ、目を瞬かせる。俺の混乱をいいことに、ノックスは動きの止まった身体を抱き込んで頭を撫で始めた。辛うじてその掌をぺちぺちとやる。叩いていた手のひらが握られ、相手の口元に運ばれた。

 ちゅ、と音が鳴った。

「ラディ。頑なに断るのなら、私は『ひと月』を『今日』にしても構わないよ」

「…………行きます」

 愛人、と提案された反抗心から撥ね除けても良かったのに、長いこと主従をやっていた感覚が染み付いてしまっていた。するりと捕まった腕を引き抜き、シーツで触れた部分を拭う。

「……あんまり冷たくされると、悲しくなってしまうな」

「自分がしてること自覚してるか?」

 言い返すと、自覚はあるように掌が空中に浮いた。腕はまた動きだし、俺の頬に伸びる。

「だからこそ、仲を深めようと思ってね。今までの私たちじゃ、愛人という選択肢は薄いでしょう」

「はぁ。…………でも、俺は可能性が薄いままで構わないんだけど」

「私は構うよ。ほら、起きて」

 腰を抱き上げようとする手を払い、身を起こす。手を引かれながら何故か外に出ると、執事が待ち構えていた。二人がかりでとっ捕まり、前後を封じられながらノックスの屋敷に連れ込まれる。

 まず軽い食事を与えられ、続いて運ばれた部屋には、屋敷仕えの裁縫師が待ち構えていた。

「さぁ、ラディ様。今日こそはその美貌、磨かせて頂きますよ!」

「え。いやだ」

「はい、座ってー」

 まずは顔を拭われ、ぺたぺたと匂いのいい何かを塗って肌の調子を整えられ、同時に髪が丁寧に梳かれた。ぱさついている部分にはまた別の何かを塗り込まれ、櫛を通すとさらりと指を滑る。

 頬には軽く粉を叩き、紅色を足された。髪は耳上で丁寧に編み込まれ、髪飾りを付けられる。上品な色味の服は、貴族がよく身につけているであろう品だ。袖口の飾りが腕を華やかに見せ、むずむずと手首をくすぐった。

「毎度毎度、こんなに飾り立てなくてもさぁ……」

 姿見の前に立ち、細かな部分を調整される。すると、扉の外からノックスが入ってきた。本人も髪型をきっちりと整え、俺が着ている服とおそらく作り手が同じであろう服を身に纏っている。

 長い足で歩み寄ってきた美形は、俺の隣に立つ。互いに持ち前の色味が派手で、服の色味は大人しい。隣に並ぶと、認めたくはないがしっくりと馴染んでいた。

「ノックス様とラディ様が並んでいるのを見ると、生きてて良かった、って気持ちになりますねぇ……」

 裁縫師は泣き出さんばかりに顔を歪めながら、てきぱきと俺の服を微調整する。隣にいるノックスは、姿見に収まるように位置を整えた。

「私も、生きていて良かった、って感じがするよ」

「……言葉の意味が食い違ってるんだよなぁ」

 隣を見上げると、ばっちりと視線が合う。気恥ずかしくて、軽く視線を逸らした。

「綺麗だよ。ラディ」

「当たり前だろ。……あんたも、今日は服が落ち着いていていいな」

「ありがとう。顔見知りの屋敷だから、動きやすさを優先してみたよ」

 裾の長い服だろうと彼は綺麗に捌いて魅せるのだが、大変そうだ、という感想は常に抱いていた。今日の訪問先は、彼のたくさんいる知人の中では、気を遣わずに済む間柄らしい。

 俺を連れていく、と判断したあたりで予想はしていたが、個人美術館、とやらにも気楽に訪問できそうで助かった。

 支度を調え終わると、当然のように腰を抱かれた。護衛の魔術師ではなく愛人相手のような振る舞いに眉根を寄せる。

 蹴り飛ばそうと思ったが、服が破れることを恐れて手が出せなかった。

「大人しいね」

「蹴ったら服が台無しになるぞ。破られたいか?」

「勘弁してよ。一点物だから高価いんだ」

「なんで俺に着せたんだよ……」

「贈り物をしたくて」

 そう言う彼の唇は緩んでいて、端が持ち上がっていた。ひとに服を贈って嬉しがるとは理解できない感情だが、あまりにも喜ばれてすぎて気恥ずかしい。

 袖の釦は、光に透かせば端の方がわずかに青い。似た色の瞳に、小さな気遣いを映した。紛れもなく、俺のために用意された服だ。

「愛人を希望されてなきゃ、喜んでやったかもしれないのに」

「嬉しくない?」

「服は嬉しい。服だけな」

 玄関まで歩き、待たせてあった馬車に乗り込む。俺達が乗り込んだ後、荷台の部分に大きな包みが積み込まれた。

 疑問に思いながらも屋敷を出るまでに結界を組み終え、周囲へと展開する。

 グラウ家も高位貴族だから、とロア兄が質の良い結界術を横流ししてくれるのだが、この術式も消費魔力が少なくて良い。

 妙な提案をされていようと、これまで世話になった恩は変わらない。彼が危険な目に遭えば、庇わなくてはならないという意識はまだあった。

 ふう、と力を抜き、身体を背もたれに預ける。すかさずノックスが寄りかかってきた。

「邪魔」

「じゃあ、……これくらい?」

 僅かに離れた距離は、一言でいえば無意味だ。ちまちまと距離を測ってまで近くにいようとする涙ぐましい努力に、隣で諦めの息を吐く。

「勝手にしてろ」

「そう? ……じゃあ」

「肩を抱くな」

「好きにしていいって言ったのにー」

 あまりにも近づけば服に化粧粉がつく。気遣いつつ抱き寄せられる俺の葛藤に気づかぬまま、ノックスはただ近くに寄りたいと駄々をこねた。

 騒動が落ち着いた頃、外の景色を眺めながらふと思い出す。

「────積み込んだ荷物。あれ、なんだ?」

「ああ、大きめの絵画だよ」

「温度や環境なんかは大丈夫なのか?」

「魔術で温度、湿度は包みが開くまで調整してくれるみたいだよ。耐衝撃も施されてるって」

 屋敷の魔術師が、事前に包みの中の環境は整えているらしい。さっきから僅かずつだが揺れており、心配になったところだった。

 それなら大丈夫か、と包みから視線を外す。

「この前も庭の像が売れてたな。最近よく客に声を掛けてるのか?」

「『客』じゃなくて『知り合い』だよ。少し……心境の変化というか、資産の整理をしようと思ってね」

 ふぅん、と曖昧に返事をして、理由に思い当たらずに口を閉じた。問いかけるべきだろうか、それとも。むむ、と眉を寄せていた俺に、隣から視線が降り注いだ。

 はっと顔を上げると、にこりと笑われる。

「理由、聞きたい?」

「俺が知る必要はない」

 くすくすと小さな笑いが立った。伸びてきた掌が、自分の手に重なる。払いのけなかったのは、それすらも忘れていたからだ。

 撥ね除けないまま、じわじわと体温が伝わってしまう。相手の体温が皮膚から伝う度に、妙な離れがたさを味わった。

「宰相閣下が結婚すること、知ってる?」

 一拍遅れて、ああ、と声に出す。その宰相の結婚相手にあんたとのことを相談してきた、と言うわけにもいかず、黙って先を促す。

「私は一度、離婚した訳だけど。二度目がないと決まったわけじゃないな、と思ってね」

「じゃあ、次の結婚相手に渡すために資産整理、ってとこか?」

「そうだね。荷物があるだろうから、部屋も広く空けてあげたいし」

 甘い声音は、初めて聞く類のものだった。耳朶を擽る波に、背がぞわぞわと粟立つ。ひとを愛人に誘いながら、手をそっと握りながら、見知らぬ結婚相手への愛を囁く。

 そんなんじゃ次の結婚も上手くいかない、と言ってやりたい。ずくん、と疼いた胸の痛みは、見知らぬものだった。

 

▽4

 個人美術館へ辿り着くと、知人らしき明るい男が出迎えた。荷物に歓声を上げる様子に、大事にしてもらえそうだ、と元の持ち主が微笑む。

 個人美術館を一通り案内すると、あとは自由に、と言い置いて立ち去っていった。グラウ家の美術品を集めればこの個人美術館よりも当然のように多くなるだろうが、他の貴族と比較しても素晴らしい所蔵数だ。

 高い天井。光の抑えられた室内は、他に誰もいない。静かに絵を鑑賞し、こつりこつりと靴音を響かせると、また立ち止まって絵を見る。

 隣にノックスがいると、作者の話を付け加えてくれる。作者の人生を下敷きに作品を観る経験は、彼から教えてもらった。

 生きてきた中で、美術品を見ることのできるほど余裕のある時期は今が初めてだ。もし屋敷を出ることになったら、また俺は忙しなく生きていくのだろう。今の平穏は彼から与えられたものだ。

 いくら無茶ぶりをされたとしても、恩は変わらない。思っていたより、俺は彼に牙を抜かれ、飼い慣らされていたようだ。

 コツン、と音がして、目の前の男が立ち止まった。

「ラディ。この絵は結婚式の様子なんだけれどね」

 絵に描かれているのは、先ほど会った貴族の親族の結婚式らしい。嬉しそうな新郎……の隣にも新郎がいる。下の服もすっきりとしており、髪も短い。参列者たちの嬉しそうな姿に見入っていると、その間、隣からは呼吸音しか聞こえなかった。

 ちら、と一度、隣を見て、また絵に視線を戻す。

「これ、新郎と新郎、だよな。貴族って、こんな大々的に結婚式するんだ」

「勿論。馬車で話した宰相閣下の結婚式は大きなものになるだろうし、貴族間の結婚も大々的にやるよ。昔は、ひっそり式を挙げたりもしたそうだけどね」

「この二人、は家同士の繋がりが必要だったのか?」

 俺に向けられる瞳は細められ、ゆっくりと首が横に振られた。俺は呑まれるように、じっと彼を見つめる。

「いまは恋愛結婚、多いよ。この二人は家の繋がりもあるだろうけど、愛し合っての結婚じゃないかな」

「……そっか、悪いこと言ったな」

 そろり、と、あたかもそれが自然であるかのように掌が腰に伸びてきた。隣に並んだ身体から、頭の上に体重が乗る。俺の頭に頬を擦り付けるその人は、猫が喉を鳴らすようにご機嫌に呼吸をしている。

 馬車の中でもそうだったが、撥ね除けずに触れていると、彼の魔力の波が心地よく感じる。彼を無下に扱うのは恒例だったが、そのやりとりだって球をお互いに打ち返すような空気感があった。

 彼と俺の魔力は、相性がいいらしい。自覚してみれば、馴染んでしまったそれが変に皮膚を引っ掻いた。

「なぁ、俺とあんたが魔力相性いいの、知ってた?」

 腰を抱く手に、指を重ねる。波が砂浜に打ちつけるように、触れた場所から高揚が伝わる。こんな感情を抱くひとなんだ、意外に思って目を見開いた。

 彼は至極当然、というように呟く。

「知ってたよ。ずっと、────出会ったときから」

 

 

 

 彼と出会ったのは、酒場だ。

 何度目かの仕事を辞めた翌日、俺は服屋に飛び込み、自分をめいっぱい着飾る服を買った。そこそこ高価で、派手めの服を身に纏い、貴族も出入りするような高級な酒場へと足を踏み入れる。酒場には招待が必要だったが、ロア兄の親戚が、無茶をしないように、という忠告と共に口を利いてくれた。

 その時は、数度目の離職にやけっぱちになっていた。顔の良さでも何でも使って、研究の金を出してくれて囲ってくれる相手、を探すことにしたのだ。

 酒場に入った途端、人が少ないことが見てとれた。来る日を間違えたらしい。

 照明は柔らかく、色とりどりの酒瓶が並んだ棚が天井まで伸びている。棚の前には、酒を提供するであろう上品な姿の男性が立ち、その前には飴色に磨かれた一枚板が横長く伸びている。濃い赤色をした椅子の生地が、ゆったりと人が腰を沈み込ませるのを待っていた。

 視線を巡らせると、奥の方に派手な髪色で、ぐったりと顔を垂らした男が座っていた。耳は赤く染まっており、既にかなりの深酒をしていることが分かる。不用心だ、と思い、心配になって彼の隣の椅子に腰掛けた。

 隣の男に視線をやる。

 俺が腰掛けたことすらも気づいていない様子で、まるで何もかもを失ったかのように唇にグラスを押し当て続けていた。

 肩に手を添えて、軽く揺らす。顔を上げた瞳に光が入った。そこらでは見ない、上品さが顔に出るような美形だった。高級とは言え酒場に出入りして、深酒していることが似合わないような男だと思った。

「体調は大丈夫か? 水を頼もうか」

 ぱちり、ぱちりと長い睫に灰色の瞳が現れては消えた。何かに撃たれたかのように、はらりと柔らかい髪が落ちる。

 あまりにも目を瞠るものだから、どこか停まってしまったのではと焦った。目の前の男性に水を頼み、届いたグラスを渡す。

 彼が震える指で受け取ろうとしたが、危ない、と俺が持ったまま唇に当てる。喉が隆起し、水を飲み込んでいった。

 背をさすってやると、荒れていた呼吸が大人しくなる。

「────私は酔って、神様でも見えてしまったのかな?」

「は? 本当に大丈夫か?」

 追加で水を頼み、同じように飲ませてやる。時間を置くと、ぐるぐると回っていた男の瞳が大人しくなった。

 口元を手持ちの布で拭ってやると、彼は恐縮するように身を縮こまらせる。

「世話になったね。一気に酒を煽ってしまったようで……」

「耳が真っ赤で驚いた。次は軽い果実酒にしたらどうだ?」

「ああ、そうしようかな」

 二杯分の果実酒を頼み、ちびちびと水を飲む男に視線を戻す。睫が長く、鼻筋も高い。顔の造りは綺麗、かつ髪色も目立つ色をしている。

 俺の視線に気づいた男は、にこり、と微笑んだ。

「初めまして。私はノックス・グラウというんだ。君は?」

「どうもご丁寧に。名前はラディ、姓はない。ここには、幼い頃に世話になった貴族の紹介で来たんだ」

 姓がない、というのは余程の田舎に住んでいるか、孤児であったか、のどちらかだ。そのような人物がこの店に出入りしていることを訝しがられないよう、言葉を添えた。

 事情は察しただろうに、ノックスは表情には出さなかった。彼に悪い印象を抱けずにいるのは、この時の態度が目に焼き付いているからかもしれない。

「連れ、はいないんだよね? わざわざどうして?」

 瞬間、彼の姿を頭からつま先まで辿って値踏みした。厚い布地で綺麗に仕立てられた服、身につけた装飾品の宝石の大きさ。聞き覚えのあるような家名。位が高い貴族であろうと踏んだ。

「俺は、錬金術を研究している魔術師なんだ」

「錬金、というと、金を作る?」

「そう」

 錬金術を極めたいと思ったのは、単純に金が欲しかったからだ。幼い頃、親に金が無かったから捨てられた。金が無かったから殴られなければならなかった。金が無かったから、働きたくも無い職場を転々としなければならない。

 金、金、金。生きていくのに何時までも付き纏う怪物。怯えて、執着して、縋らなければ生きていけないもの。安い金属を金に変えられたら、永遠にその呪縛から逃れられる気がした。

「いま無職でさ。研究資金を捻出できそうにないから、資金援助をしてくれる後援者を探してる。それで、貴族が出入りするこの店に来た」

「そう…………」

 瞳に理性が戻った。きらり、と奥を光らせた目が、今度は入れ替わりに俺を値踏みする。他の人から向けられるような、粘つくようないやらしさは無かった。単純に、ノックスは俺自身が価値を提供できるか考えている。

 無言の間を埋めるように、注文していた酒が届いた。まずは、とグラスを持ち上げる。

「素敵な出会いに」

「…………、まあいいか。乾杯」

 硝子の重なる音を、二人の間で打ち鳴らす。こくり、と口に含むと甘酸っぱい匂いが鼻を過ぎていった。

 軽い酒の筈なのに、体温が上がって仕方ない。胸がとくとくと鳴って、隣にいる男からの答えを待ちわびていた。

「君をここに紹介してくれた貴族は、君の後援者にはならないのかな?」

「ああ。……頼んでもいいんだろうけど。実は、紹介者、モーリッツの一員なんだ。俺よりも魔術の腕が良い相手に後援を頼むのも気が引けてさ」

「あの魔術一族か。確かに、彼らなら自前でやってのけそうだね」

 納得したように、彼は指先を顎に当てた。ただの会話のようでいて、互いに互いを審査している。自然と背筋が伸び、口元には笑みを刷いた。

 媚びるつもりはないが、印象は大事だ。

「モーリッツ一族に伝手があるということは、出身はフィッカだね? 当主のお膝元の」

「そうだよ。そこの孤児院に拾ってもらって、魔術学校を出させてもらったんだ。まあ、それもあって、あの一族にはこれ以上頼りづらいのもあるのかな」

「分かる気がするよ。あの一族なら、お気に入りを大事にはするだろうけどね」

 お気に入り、という言葉はよく分からなかったが、そう、と頷いておいた。ノックスが頼んでくれた料理をつまみながら、育った地であるフィッカの話をする。モーリッツ一族とも関わったことがあるようで、彼の口からは見知った名前がちらほらと現れた。

 話題が研究内容へと移る。現在の進捗と、今後の展望について語った。予想外にノックスは飲み込みが早く、俺のしようとしていることの方向性を掴んだようだった。

 回答を棚上げしたまま、二人で互いのことを語り合う。ノックスは深酒に逃げることなく、寧ろ喋るのに邪魔だとばかりにグラスを脇に追いやっていた。

 夜中を回った頃、そろそろ、と会話を切り上げる。思ったより長く話しすぎてしまった。懐具合を気にしていると、さらりと向こうがすべて支払った。

 俺も会話を楽しんだ自覚があるだけに、申し訳なく感じてしまう。

「ノックス。あの……」

「馬車を呼んであるから。ラディの家まで送るよ」

「……っと、助かる」

 暗闇の中でも洒落ていることが分かる馬車が、酒場の前に走ってくる。どうぞ、と御者が扉を開け、ノックスもまた先に乗るよう視線で促した。

 車内には華美な装飾が至る所に施され、ふかふかとした座席はずっと撫でていたくなる触り心地の良さだ。これだけ多様な装飾がありながら、抑えているところが抑えられている所為で下品には感じない。

 自然に隣に座ってくる男に、飛び退くのも失礼か、とその場に留まる。

「提案があるんだけど」

 顔を上げると、瞳の奥に悪戯っ子特有の煌めきが見えた。

「私と、一晩『寝てくれたら』後援者になる、って言ったらどうする?」

 文字通りに受け取れるほど、安穏と生きてきた訳ではなかった。はあ、とあからさまに溜め息を吐く。

「悪いけど、俺の身体は高価いんだ。────まっさらなもんで」

 べしり、と相手の頬に軽く手のひらを当てる。本気じゃないことは分かっていたから、強化魔術込みでぶん殴りはしなかった。ノックスは俺の手のひらに自身の掌を添えると、くすり、と笑う。

 やっぱり。今この男は素面に近いし、本気で俺を抱くつもりはない。意中になりようがない、と宣言されたようで腹は立つが、唇は閉じたままにしておく。

「明日。いや、今日か。朝から予定はあるかい?」

「特にはないが……」

「屋敷に招待するよ。敷地内に、後援している人に貸し与えている家がいくつかある。そのうち一つを、君に貸す」

 こくん、と唾を飲んだ。おそらく、俺は賭けに勝ったのだ。

「じゃあ……」

「研究資金と生活費、だっけ。他にも必要なものがあれば言って。これから、私が面倒を見るよ」

 広い掌が差し出される。そろり、と指先を沿わせ、握り込んだ。心臓が高鳴って、耳から聞こえそうなほど喧しい。

 この時、俺は後援者を掴み取った。

 

▽5

 個人美術館を長いこと見て、昼食をご馳走になった。実践した経験の少ない作法を精いっぱい披露していると、訪問先の貴族にも温かい視線を向けられた。料理が美味しかったことを素直に伝えて礼を言うと、またいらっしゃい、と柔らかい言葉を貰う。

 美術館という場所も、食事の相手としても印象のよい相手で、ノックスが俺を連れて訪問するならこれ以上はない、という人選だったように思う。もし次があるとしても、この経験は活きる気がした。

 もし、俺が愛人になることにしたら、の話だが。

 帰りの馬車の中で、作法で分からなかった部分を伝える。俺の手が止まっていた場面を彼は把握していたようで、作法の歴史から解説を加えてくれた。こういった経緯で出来た作法である、と成り立ちから説明してくれるので、魔術師が聞いて呑み込みやすい説明になっている。

 話が終わると、自然と近くに座っているノックスとの距離が近いことに気づく。熱中して話していた所為で、意識していなかった。

 彼の近くにいることに、段々と慣れてしまう。

「────それで、急になんで俺に作法の実践授業をしようと思ったわけ?」

「………………」

 視線がわずかに浮き、俺のほうへと戻ってきた。僅かに引き攣った筋肉には、動揺が垣間見える。

 服を掴んで、ゆらゆらと揺らす。はぐらかすな、という意思表示のつもりだった。

「……これから、ラディと出かける回数を増やしたくて。完全な付き合いの場に君を連れていくつもりはないけれど、ああやって美術品を見に行くのが私は好きだから。君と一緒に過ごせたら、と思っているよ」

 顔が傾き、形の良い顔立ちが近づいてきた。ぎゅっと目を閉じると、ちゅ、と頬の当たりで音が立つ。ほんの僅かな接触だった。

 頬に手を当て、ぼんやりと気恥ずかしげな男を見つめる。俺が手を離すと、伸びてきた指が入れ替わりに触れた場所を撫でた。

「ラディには、私より魔力相性がいい相手がいるの?」

 低く忍び寄るような声に、ぞっとした。暗い嫉妬が纏わり付くような、彼には似合わない声音だった。

「…………いない。そもそも、他人とあんまり触れることもない」

「そう。じゃあ、私が一番か」

 打って変わって元に戻った声に、こっそりと力を抜く。鼓動の音は、恐怖から解放された時と似た音を立てていた。

 美術品についての会話を続け、屋敷に辿り着こうとした頃、ゆったりと馬車が減速した。御者は何事かに気づいたように馬を停め、御者台から降りていく。

 外からは御者の声と、女性の声が聞こえてくる。

「ノックス様」

 掛けられた声と共に、扉から御者が顔を覗かせる。浮かない表情に、歓迎されている訪問者ではないことを悟る。

「ロジータ様が書類をお渡しにいらっしゃって、来るのもこれっきりにしたいから中を確認してほしい、との事ですが……」

「あぁ。……じゃあ、降りて確認するよ。ラディ、少しゆっくりしていて」

 ああ、と返事をするが、さり気なく窓から外を覗き見る。ノックスの隣に立っていたのは、ロジータ、という女性だった。彼女は、ノックスの元妻だ。

 貴族としてグラウ家と関係の深い家に生まれ、見合いのような形で結婚した人物。そして、不貞が発覚して離婚することになった人物。

 赤い巻き毛を大人しく見えるほどきっちりと結い、薄黄色のドレスを身に纏っている。並び立つと似合いの二人だ。彼らに夫婦であった時期があることが、自然に思える容姿をしていた。

 彼らは会話を交わし、ロジータの視線がこちらを向いた。何事かをノックスに言い、二人はふわりと笑い合う。離婚した、以上の話を聞いたことは無かったが、今も仲が悪い訳ではないらしい。

 彼女から小さな包みを受け取ったノックスは、中の書類に目を通しはじめた。

 問題は無かったようで、短く彼女に言葉を発すると、女性は身を翻す。勢いよく振り返った所為か、軽いレースの裾がふわりと浮き上がった。

 彼女は自らが乗ってきた馬車に乗り込むと、こちらを見る。窓越しに、視線が合った気がした。遠目だったが、彼女は表情を変えずに窓から目を逸らした。

 ロジータの乗った馬車が走り出すと、御者がノックスと共に戻ってくる。馬車を動かし、門の前に停め直した。

 馬車から降り、また屋敷へと招かれた。

 服を着替え直すまでノックスが近くにいた気がしたが、何を話したのかは覚えていない。私服を着て、家に戻った途端、力が抜けて床にへたり込んだ。

 ぺたりと触れた床は冷たい。

「資産の整理、は、あの人とするんだ……」

 受け取った書類は、彼の言う『資産の整理』に関係するものだと容易に想像が付いた。再婚、という言葉がちらついて、思い出す度に胸が、ぎゅう、と締まって苦しい。

 俺に対して愛人、と提案したのも納得だった。結婚相手が決まっているのなら、俺の立場は愛人にしかなれない。

 愛人という言葉に、俺は拒絶感を抱いている。

『恋人になって、って提案だったら、頷いてた?』

 ロア兄から問いかけられた言葉が蘇った。彼は、俺が愛人という関係を嫌っていることに気づいていたようだ。確かに、恋人を提案されていたのなら、こんなにも絶望はしなかっただろう。

 提案された時にこの気持ちを知っていればよかった。そうしたら、あの綺麗な頬をぶん殴ってやれたのに。

 

 

 

 数日、研究に身が入らなかった。

 このまま研究が破綻して、愛人も選べずに彼の元を去る方がいいような気がしていた。もし研究結果を評価されたとしても、再婚して幸せそうな彼らと同じ敷地には居られない。

 何のために金を欲していたんだったか。熱を傾けていた理由すらも分からなくなっていた。

 目の前で水銀が爆ぜる。結界のおかげで大事には至らなかったが、魔力を調整するための集中が切れていることは明白だった。吸えばどうなるか分からない気体を、魔術で固めて隔離する。

 ノックスと離れたほうがいい事は分かっているが、成果を出せないことは腹立たしい。

「あぁ…………、もう!」

 散らばった器材を片付け、床に落ちた破片を掃く。普段なら魔術で掃除をしているところだが、今の俺にまともな結果がでるはずもなかった。実験室が片付いた頃には、ぐったりと疲れ切っていた。

 立ったまま飲み物を口に含んでいると、玄関付近で音がする。

「ラディ。こんにちは」

「…………おう」

 いつも通り鍵を開けて入ってきた男に、覇気の無い返事をする。ノックスはすたすたとこちらに歩み寄ると、俺の手元からカップを取り上げた。

 中身を口に含み、嫌そうに表情をゆがめる。

「こんな甘ったるいもの。身体に悪いよ。……顔色もよくないね」

 カップは返してもらえず、ばしゃ、と勢いよく流しに中身を捨てられた。蛇口を捻り、捨てられた液体が水に流されていく。

「しばらく屋敷に来なよ。顔色が戻るまでね」

「…………いらない」

「約束の日まであと何日だっけ。私は覚えてないから、もう『明日』にしてもいいんだけどね」

 言葉は皮肉めいているのに、声には俺を心配する響きが現れていた。

 手を取って家を出ると、そのまま庭を突っ切っていく。俺がのろのろと歩いていると、振り返ったノックスは脚を止めた。

 ゆっくり顔を見下ろすと、腕を俺の腰に回す。

「ひっ……!」

「暴れないで、落とすよ」

 これまで体格差を意識したことはなかったが、ノックスは軽々と俺を抱き上げた。

 咄嗟に動いた腕を絡め取るように抱き直される。彼は俺を横抱きにしたまま、玄関まで長い脚を動かした。

 使用人が扉を開けてくれるが、視線が合ってしまい、気まずくて仕方ない。

「なっ、なんで屋敷に……」

「君をひとりにして、体調が悪化しても困るからね」

 口調は柔らかいが、顔が笑っていなかった。連れてこられた部屋は、まったく知らない部屋だった。ノックスの寝室よりも広く、明らかに寝台が二人用だ。

 ロジータと夫婦だった時に使っていた部屋だろうか。いくら手元で静養させたいからといっても、あまりにも配慮のない選択だった。

 暴れようとしても、愕然とした頭ではちからが入らない。

「ここ。結婚してた時に使った部屋じゃ……」

 ぼすん、と寝台の上に落とされる。そして、ぺしり、と額をはたかれた。痛くはない。ただ、窘めるような動作だった。

 呆然とノックスを見上げると、瞳の奥には寂しげな色が見えた。

「違うよ。この部屋は最近、二部屋だった部屋の壁を外して一部屋にしてもらったんだ。ちなみに、結婚していた時に使っていた部屋は、今は壁で区切って別の用途に使っているよ」

 屋敷の中でもいちばん高い位置、採光に優れた眺めの良い部屋だ。壁紙も真新しく、手を入れたのは本当に最近であることが窺える。過去ではないなら未来。いずれ、ロジータと結婚した時に住むつもりの部屋ではないのか。

 握りしめた指につられて、シーツに皺が寄った。

「静養させてくれるつもりなら、俺、別に他の狭い部屋で……」

「私が来やすいから、ここしか認めない。お腹は空いてる?」

 有無を言わさぬ声に撃たれ、反論を封じられる。窓からは燦々と日差しが差し込むのに、相反して心は曇りきっていた。

「……あんまり。少ししか食べられなくて」

「その口ぶりだと、今日だけ、って訳でもないようだね」

 黙り込んだ俺に、肯定だと悟ったらしい。はあ、とノックスは息を吐いた。

「軽いものを用意してもらうよ。食べたら少し寝てね」

 屋敷の主が部屋を出ていくと、少し時間を置き、執事が食事を持って現れた。柔らかいパンとスープ、そして細かく切られた果物。寝台の近くにある机に配膳されたそれを、半分ほど腹に収める。

 普段なら魔術師らしく平均よりも食べる俺の萎れ具合に、執事は目を見開いた。

「ごめん。もう食べられなくて」

「本当に、体調が悪いようですね」

「うん。でも、本当にここ数日だけだし、……研究が、上手くいかなくて」

 ノックスの再婚に思い悩んでいる事が原因なのだが、目の前の執事にそれを言えるはずもなかった。彼らにとっても、屋敷の主が愛する人と結ばれる方がいいに決まっている。

 いつも通り、片付けを手伝おうとすると制された。今日の俺は、完全に客人扱いのようだ。

「あのさ。この部屋、最近、改装したって聞いたんだけど」

 俺の言葉に合わせ、執事は手を止めた。

「ええ。ノックス様が、眺めが良くて広い部屋が欲しい、とおっしゃって」

「新しい部屋に、調子が悪いからって俺を入れるのは、あんまり。その、次に使う人に悪いんじゃないかと思って……寝台も新品みたいだしさ」

 執事は少し間を置く。

 背筋を正した立ち姿は、屋敷の主に対するような姿勢だった。いくら客人だからといっても、俺にそこまでする必要はない。誰かに仕えられた経験はなく、居心地が悪かった。

「あまり、お気になされませんよう。────全て、ノックス様が選んだ事ですので」

 それだけ言い残すと、片付けた食器を引いて立ち去った。ぽつんと部屋に残された俺は、うろうろと室内に視線をやる。屋敷の主の寝室よりも広い部屋。彼が使うにしては大量に並べられた新品の棚に、屋敷の中で俺が好んで見ていた絵も移動されている。あの絵も、ロジータが毎日見ることになるんだろうか。

 見つけたソファへよろよろと歩み寄って、横になった。いずれ二人が愛を交わすであろう、あの寝台に居たくなかった。

 しばらく、眠ってしまったらしい。目を覚ますと、見知らぬ天井だった。

「────起きた?」

 身を起こすと、声が掛かった。声のした方向を見ると、ノックスがソファに腰掛けていた。近くの机には書類が散らばっている。今まで仕事をしていたらしい。

 寝台の寝心地が良くて、長く眠ってしまっていたらしい。外から届く光は、既に橙色に染まっていた。

「うん。…………あれ」

 俺は、彼が座っているほうのソファで寝ていたのではなかったか。首を傾げると、こちらの疑問を察したように、ノックスは口元に笑みを刷いた。

「なんでソファで寝るの。寝台に運んでおいたよ」

 咄嗟に、要らぬ世話、と言いかけて口を噤む。未来の夫婦の寝台を他人に貸す、とは物に思い入れのある彼らしくない行動だった。

 ソファから立ち上がったノックスは、そのまま寝台に歩み寄る。寝台に乗り上がると、そのまま布団に脚を入れてしまった。自ら、座っている俺の横に寝転がる。

 呆気に取られていると、ぽんぽん、と布団が叩かれた。

「私も仕事に疲れたからさ。少し寝ようかな」

「……そろそろ夕食だろ」

「じゃあ、夕食までごろごろする」

 ぐいぐいと俺の服の裾を引かれ、根負けして横になった。以前、家の寝台に入り込まれていた時のように、綺麗な顔立ちが近くにある。

 彼と結婚するひとは、この顔を毎日ちかくで見ることになるのだ。

 俺がぼうっと見つめていると、唇が緩んだ。伸びた腕に、ぎゅむ、と引き寄せられる。

「おい……!」

 抵抗する力がうまく掛けられない。いくら口で嫌がっても、触れた所から流れ込む魔力は正直だった。彼の魔力を伝い、絡み、そして引き込んで歓喜する。

 心が先か、魔力が先か。全身が彼を欲して、与えられる魔力を喜んで受け入れていた。じわ、と涙が滲みそうになる。

 いくら金があったとしても、彼は手に入らない。俺が錬金術を極められたとしても、手に入らない幸せが此処にあった。

 金で手に入る物は世の中には多い。だが、決定的に手に入らない物が金で買えないと知った今、未来には途方もない闇が広がっているだけだった。

「今日は大人しいね」

「…………うるさい」

 声は、震えてはいないだろうか。

 きっと、もうこうやって触れ合うのも最後かもしれない。最後にしなくてはいけない。俺は愛人になんてなれない事が、決定的に分かってしまった。

 ただ苦しい。絵画では皆が薄紅で表現する恋のはずなのに、俺のこれは闇夜に似た色をしている。

 瞳を閉じて、最後の体温をせいいっぱい受け止める。閉じた瞳の先に見る色。叶う恋と、失う恋は真反対の色をしていた。

 

▽6

 愛人にはならない。そして、屋敷を立ち去るのなら成果を見せてから立ち去りたい。失恋で絶望を抱いた事は間違いないが、逆に道は定まってしまった。

 目標が一つになったこと、ゆっくりと眠ったことで体調も少し回復した。それからは、ノックスの誘いをすべて断って研究に没頭している。また期限を明日にする、と言われるかと思ったが、俺が鬼気迫っていたのか、彼は黙ってそれを許した。

 ただ、食事の誘いを断る時には、ほんのすこしだけ寂しそうに見えた。

「あー! もう無理!」

 成果物として提出しようと思っている魔術式が、どうしても完成しない。大枠は固まった。あとは試行を繰り返すだけなのだが、馬鹿みたいに魔力を食う術式の所為ですぐに疲労してしまう。

 ロア兄にも細かく相談を続けており、何度も助け船が出されていた。

「今日は、もう魔力が」

 窓の外を見れば夕方にしては早い時間なのに、もう魔力が枯渇している。

 机に突っ伏し、指を折ってあと何日、と数えた。片手の指全ては折れるが、両手の指すべては折れない。

 期限までに完成させたい理由は、単なる意地でしかない。彼の眼は正しかったのだと、自分に賭けた事が間違っていなかったと証明したい。なのに、時間が圧倒的に足りないのだ。

「挫けそ……」

 物質を変質させる魔術は理に逆らう度合いが大きく、魔力消費の多さに繋がっている。もし、水銀を金へと変質させることが可能だとして、果たして、それは魔力消費以上の価値を持つのだろうか。

 頬を机に転がし、ぼうっと考えていたとき玄関の呼び鈴が鳴った。珍しい事もあるものだ、と思いながら扉に近づく。

「はーい」

「ラディ、いるか?」

 扉の向こうから聞こえてきた声は、見知ったものだった。近くの窓からロア兄の立ち姿を確認し、扉を開ける。

 そこには、ロア兄ともう一人、ローブ姿の男性が立っていた。そして、足元には黒い大型犬もいる。ロア兄が面倒を見ている犬だ。

 しゃがみこんで犬に向かい合うと、飛びかかって歓迎される。一頻りわしわしと遊んで、満足したように離れた。

「ロア兄。どうして……?」

「切羽詰まってる感じがしたからな。もう、期限も近いんだろ」

 自然に上がり込もうとする様子に、止める間もなく扉が閉まった。犬は、と聞くと外で待っていてくれる、という。兄貴分は躊躇いなく家に入っていき、付いてきた男性も後に続いた。

 彼らはさっさと実験室に侵入すると、広げられた魔術式を見下ろした。

「あの、ロア兄。その隣の方は……?」

 二人は自己紹介もなしに上がり込み、魔術式に見入っている。ちょっと待て、とでも言うように俺に手のひらを向け、また黙って読み込みはじめた。

 戻ってくる余地のない視線に、はぁ、と息を吐いて台所に向かった。お茶を淹れて帰ってくると、何処からか持ち出した筆記具でがりがりと魔術式が修正されている所だった。

 俺が書き付けた実験結果は付いてきた魔術師に読み込まれ、筆記具を動かすロア兄に指示を出している。

「あの、お茶…………」

「置いといて。……ヘルメス、三日前の実験結果。何が多い」

「『変化なし』」

 ヘルメス、と呼ばれた魔術師は、俺が構成している魔術式の一部を宙に書き綴り始めた。記述式の魔術。大量の魔力が込められたそれに、視線を上げたロア兄はぎょっと目を剥く。

「待て! 爆発したら物理的に危険だ! 結界!」

 ああ、とヘルメスは綴りかけの魔力を散らす。改めて結界を張り始める様子に、この人がロア兄の言っていた部下であることを悟った。

 俺は飲み物を脇に避け、二人の向かいに立つ。

「よろしくお願いします。ヘルメスさん」

「呼び捨てで構わない、敬語は非効率的だよ。ラディ」

 彼はちらりとも視線を向けず、俺と話しながらも術式を書き続ける。ロア兄も腕を動かしながら、口を開く。

「は? 俺には敬語を使うだろうが」

「代理に敬語なしだと、他が煩くてそれはそれで非効率なので」

 しれっと反論し、魔術の試行を終えると、自らも筆記具を持って逆側から修正しはじめた。ロア兄が王宮で通用するほど腕の良い魔術師なのは知っているが、ヘルメスもまた、物質に対して豊富に知識があることが窺える。疑問が出てきた時に俺の本棚から適切な書籍を持ち出してくる様子に、専門分野が似通っていることも分かった。

 目は忙しなく動き、腕は勢いよく魔術式を綴っていく。ガリガリガリガリ、と二重に筆記具を走らせる音が静かな実験室に響いていた。

 時間も忘れて没頭していると、窓の外の色が変わりきった頃に呼び鈴が鳴った。

「あ、俺が出てきます」

 顔を上げる二人に言い置いて、玄関へと向かう。扉の向こうからは執事の声がした。鍵を開け、扉を開く。

「こんばんは。お客様がお見えですか?」

「あ、うん。魔術式の改良の手伝いに来てくれてるんだ」

 玄関先で寝そべる犬も、ロア兄の家の子であることを伝える。執事は興味深そうに大人しく待っている犬を見た。しばしの静寂の間に、執事の表情がふわりと和らぐ。

「あぁ……、失礼。お客様は空腹ではないですか? 夕方頃からずっといらっしゃるので、よろしければ差し入れを、と思ったのですが」

「俺も腹減ってる。ちょっと聞いてくるな」

 実験室へ戻って二人に尋ねると、ロア兄はそろそろ帰るという。仕事帰りに俺の家に立ち寄ったが、旦那がそろそろ帰宅する時間なのだそうだ。丁度いい、と立ち上がり、荷物を抱える。

「お熱いですね」

「まあ、相手が露骨にしょんぼりするからさ。犬を苛めてる気分になるんだよ。……ヘルメスはどうする?」

「僕の方はきりが悪いので、差し入れをご馳走になって、もう少し進めて帰ろうと思います」

「ラディ。ヘルメスを置いていっても大丈夫か?」

「大丈夫です。長いこと付き合わせてすみませんでした」

「はは。そこは、ありがとう、って言え」

「はい、ありがとうございました」

 俺の頭を撫でると、ロア兄は大人しく待っていた犬を連れ、足早に帰っていった。

 執事には二人分の差し入れを頼み、実験室に戻る。しばらく待つと、手づかみで食べやすい料理が並んだ大皿が届けられた。

 術式に熱中していたヘルメスも匂いに勝てなかったようで、筆記具を滑らせながらもう片方の手で鷲掴みにしたパンを咀嚼する。以前、朝食で出てきたような、味の濃い肉団子が、半分に割ったパンの間に挟まっていた。

 ポットごと届けられた珈琲を口にすると、溜まった疲労がどっとのし掛かってきた。それなのに、目の前のヘルメスは口だけで器用にパンを固定しながら、両手で魔術試験を続けていく。

 彼の手元が止まった時を見計らって声を掛ける。

「魔力、大丈夫か?」

「大丈夫だよ。いま食べた所だから、魔力に変換されてく」

 どうやら、効率のよい炉を持っているらしい。俺の腹は魔力への変換にまだ時間が掛かりそうだ。

 手分けをして魔術試験を繰り返し、結果を記録して修正箇所を探る。人数が二人になっただけなのに、数倍に感じるほどの速度で術式が書き換わっていく。

 ヘルメスが、魔力が尽きた、と言い出したのは深夜に差し掛かるくらいの時間だった。流石にもう俺も続行は無理で、今日はお開き、となる。

「ごめんな。こんな夜遅くまで付き合わせて」

 玄関まで見送ると、ヘルメスは、いや、と軽く言う。

「錬金は片手間でやっていたくらいだけど、なかなか楽しいよ。明日も来ていいかな?」

「俺は助かるけど……。高額な報酬なんか出ないぞ」

「部品として作ってる術式に目新しい式があった。あれ、ラディが作ったものだよね。いくつか王宮で使う術式として転用したいんだけど」

「構わない。……と、思うけど、一応この屋敷の主で、資金援助を受けてるのがノックス・グラウ、って貴族なんだ。その人に渡してもいいか聞いておくよ」

 王宮の役に立つのなら、と頷きそうなものだが、念のため確認しておこうと決める。ヘルメスを見送るため、外套を羽織って一緒に外に出た。

 庭の中には照明がいくつかあるが、その内の一つの下に人影があった。長身の立ち姿には見覚えがある。

「ノックス」

「こんばんは、ラディ。……お友達?」

 夜の寒さの所為か、彼の声も冷え切っているように感じる。近づいてきたノックスに頷き、ヘルメスの肩に手を置いた。

 ぴくり、と目の前にいる男の片眉が動く。

「こっちは、研究に協力してくれてるヘルメス。王宮の魔術式構築課の一員なんだ。で、こっちがさっき言ったノックス」

「よろしく」

「どうも」

 ノックスが差し出した手を、ヘルメスが取る。屋敷の主が握った手を、客は不思議そうに見下ろした。

 手が離れ、ヘルメスは一歩引く。そして、俺の肩に手を回した。

「この人が、愛人になれーって言ってる人かな?」

「お前……! なにを」

 歯に衣着せぬ物言いに、慌ててノックスから引き剥がす。ヘルメスの口元を押さえながら、小声で、言うなよ、と窘めた。無礼を働かれたのに無言のままでいる、見知った男が恐ろしかった。

 ヘルメスは満足げに頷くと、俺の服の裾を引く。

「しばらくラディの手伝いにお邪魔することになると思います。よろしくお願いします」

 それだけを言い残すと、俺の服を引いたまま屋敷の門へと歩いていく。気になって途中で振り返ると、ノックスが普段は整った髪をくしゃくしゃにかき乱しているところだった。

 いつもと違う様子に驚きながらも、ヘルメスを見送るために視線を戻す。

「いいの?」

「…………何が?」

 首を傾げると、ヘルメスは、ほう、と白い息を吐いた。

「あっちも、愛人は嫌みたいだけど」

「は?」

「ちょっと境界を崩してみたら、魔力がびりびりって」

 握手をした時、この目の前の魔術師は、自らの魔力の境界をわざと崩してみたのだそうだ。その時、攻撃的な魔力の波が襲ってきたのだという。

 だからといって、愛人が嫌、とは何のことだろうか。

「いや……まあ、向こうも愛人は冗談で、成果物に失敗して出て行け、って思ってるかもだけど」

「そうなんだ?」

「ああ、なんか。元妻とよりを戻しそうだし」

 ヘルメスは、へえ、と興味のなさそうな返事をすると、また明日、と門から出て手を振った。俺は手を振り返し、自分の家の灯りを求めて庭を歩く。

 ふと、視線を感じて屋敷を見る。窓の奥、こちらを見ていたらしいノックスが、身を翻す姿が見えた。

 

▽7

 それから、ノックスはあからさまに機嫌が悪くなった。珍しい態度に、俺も近づくのを躊躇うし、なんとなく憂鬱だ。だが、毎日のようにヘルメスが家を訪れては、研究の手伝いをして帰っていくので気晴らしにはなっていた。

 魔術式の完成は間に合いそうだが、その日はヘルメスの魔力が早々に尽き、差し入れを食べてすぐ帰ることになった。

 俺がまた見送りに屋敷の門まで歩いていくと、馬車が停まっているのが見えた。夜だからいいか、と思っていたが、裏門を使うべきだったかもしれない。

 面倒な相手でなければいいが、と思って小窓を見ると、馬車にいたのはロジータだった。

「あら」

 彼女は短く言うと、御者に扉を開けさせて出てくる。軽やかな足取りで俺の前に立つと、身長はさほど変わらなかった。

 俺に向けて、手を差し出してくる。

「はじめまして。私はロジータ・ランク、ええと……ノックスとの事、聞いているかしら?」

「はい。初めまして、ラディです」

「よかった。今、時間はあるかしら?」

 握った手は貴族らしく柔らかかった。ロジータは俺を馬車へと招く。返事に迷っていると、ヘルメスが背後から背を押した。

「はじめまして、僕はヘルメス・トレーゼ。二人っきりは良くないので、僕も同席しても構いませんか?」

「ええ、構わないわよ。でも安心して、この馬車。車内の声は御者に届くようになっているから」

 彼女が言うように、よく見れば密談には向かなそうな馬車だ。俺は促されるままに座席へと腰掛けた。続いてヘルメスが俺の隣に座る。馬車はノックスの持ち物とは違い、明るい色味で、可憐な花の装飾品や、フリルがあしらわれた小物も多かった。

 車内にある机には以前見たものと同じような、空の包みが置かれていた。尋ねると、また書類を届けに来ていたと言う。

「離婚した時に、家同士の付き合いも深いし、面倒だからそのままにしていた財産があったの。でも、なあなあにしておくのは良くないから整理したい、ってノックスが言い出して。放って置いたくらいだから、とにかく書類が大量に必要で。以前も届けたのに、一回じゃ済まなかったわ」

 彼女は座席に背を預け、ふう、と息を吐き出した。以前見たものよりも大人しいドレスと、覆うように上着を羽織っている。

 彼女は思い出したように上着を脱ぐと、御者へと預けた。

「お話ししたいと思ったのは、一応ね。私がもうノックスと関わるつもりがない、って知っておいてほしかったの」

「…………え。あ、そうなんですか?」

 再婚のつもりでは、と前提が崩れたことに混乱する。ノックスだけが再婚を望んでいる、ということだろうか。

 俺が混乱しているのが顔に出たのか、ヘルメスは俺の背を、ぽん、と叩いた。

「聞きたいことがあるなら、聞いておいたら」

「あ……、うん」

 背筋を正して、ロジータと視線を合わせる。彼女に、冗談を言っているような様子はなかった。

「ノックスが最近、資産を整理しはじめたの。ロジータ……さん、と再婚するためなんじゃないかと思っていたんですが」

「…………え?」

 ぽかんと口を開けたロジータは、一拍置いてくすくすと笑い始めた。あまりにもずっと笑っているものだから、俺もヘルメスも顔を見合わせて困惑する。

 しまいには呼吸さえ乱し、笑いすぎて涙の浮いた目元を拭っていた。

「再婚、はするかもしれないけれど、相手は私じゃないわよ」

「でも、ロジータさんの他には、あまり誰かと深く接しているのを見たことがなくて……」

 ロジータは不思議そうにヘルメスへと視線を向ける。視線を受けたヘルメスは、こくこく、と分かりやすく頷いていた。俺を置き去りに、二人の間では何らかの共通認識がなされているらしい。

 置いていかれる形になった俺は、二人に解説を促す。ロジータが先に口を開いた。

「再婚相手のことはさておき。私が浮気したの、知ってる?」

「事実だけは、……聞いてます」

 そう言うと、彼女は眉を下げた。

「結婚している間、ノックスは本当に真面目だったわ。きちんと夫としての役目を果たそうとしてくれた。むしろ、女遊びが激しかった頃の方が好みだったのに、ってあの時の私は思ってた。今よりも若かったし、遊び足りない、って感覚があったの」

 すらすらと浮いてくる言葉に相反して、彼女の表情は苦々しげだ。若かった頃の感覚を悔いている事が分かる。

 ノックスと別れた理由だけ聞いて良い印象はなかったのだが、なんとなく、完全に責めることはできなくなっていた。

「屋敷に間男を引き入れて、何度目かで見事に遭遇しちゃった。相手も遊び慣れているから、許してくれると思ってた。仮面夫婦を続けるんだろうって予想してたのに、ノックスはそうしなかったわ」

 ロジータは脚を組み替えた。

「怒られもしないし、詰られもしなかった。ただ、相手を引き込むために使った部屋は物置になったし、実家に返されて、すぐ離婚することになった。お金も何もいらないって、私と結婚し続けることはできない、って言われたの」

 愛人を提案する前のノックスは、恋愛関係への慣れを感じこそしたものの、遊びまわっている様子はなかった。ロア兄の言葉の通り、結婚に対して、彼は他の人が思うよりも真面目だったらしい。

 そんな彼が、きっちりと関係を清算しようとするのも理解できた。

「誠実に結婚してくれた人だから。再婚、はあり得ないわ。私もきちんと償うつもりだし、その手段が『必要以上に関わりを持たないこと』だって思ってる」

「ノックスが、それを望んでいても……?」

「本人に聞いて。きっと違うから」

 ちら、とヘルメスに視線をやると、うんうん、と頷いていた。二人に再婚を否定され、急に資産を整理し始めたのも、愛人か成果を出すか選べと言い出したのも、なんだったんだと更に困惑する。

「あの、なんで。それを、今……」

「ノックスには借りがあるの。再婚したくもない女と関わりがあるんだ、って思われると彼も困るだろうから。訂正しておこうと思って」

 はあ、と俺が頷くと、彼女はくすくすとまた笑った。幾分かすっきりとしたような表情だが、ロジータの心境が分からずに首を傾げる。

 他に聞きたいことはあるか、と問われ、首を横に振る。すると、御者が馬車の扉を開けた。立ち上がり、開いた扉に手を掛ける。

「あの。今は、ノックスのことは好きですか?」

「あはは、会いたくもないわ。折角また遊べる身分に戻ったんだもの。もう結婚はこりごり」

 俺とヘルメスが馬車を出ると、御者の準備が整うまで待つ。夜風が頬に吹き付けた。静かな風が吹けば、寒さよりも清々しささえあった。

 見上げると、星空が視界いっぱいに広がっている。ちかちかと瞬く光が、やけに眩しかった。

「独り言に付き合ってくれてありがとう。願わくば、もう関わることがありませんように」

 声の響きで、悪口を言われているのではないことが分かった。彼女は、それが最善だろう、と心からその言葉を告げていた。

 じゃあ、と彼女は整えられた手のひらを振る。馬が走り出し、車輪が回る。蹄が地面を掻く音に先導され、彼女は去っていった。

 

▽8

 何故かヘルメスが面白がって協力してくれた事もあり、期限内に魔術式は出来上がった。ノックスに王宮の魔術式構築課へ術式提供してもいいか尋ねたところ、不機嫌そうにしながらも承諾してくれた。

 術式が出来上がった日、仕事帰りに実験室へと立ち寄ったヘルメスは、変化した水銀を確認し、満足そうにお礼の術式を抱えて帰っていった。

 がらんとした家を見渡す。家中はすっきりと片付き、本も纏めて縛ってある。実験の待ち時間を見つけて、少しずつ引っ越しの準備を進めていた。元々、自分の物は多くなかったから、あと数日もあれば引っ越しできるだろう。

 成果物を提出して、愛人は嫌だと伝えて、でも、もう此処にはいられないと告げて出ていく。

「ここに居たのも、長かったなぁ……」

 当然のように自分の家だった空間が、別の家を見ているようで物寂しい。窓の外を見ると、そろそろ、ノックスが成果の確認に来る時間が迫っていた。

 うろうろと実験室を歩き回りながら待つと、玄関から呼び鈴が鳴った。珍しいこともあるものだ、と扉に近寄り、近くの窓から姿を確認する。

 呼び鈴を鳴らしてくれるようになって喜ばしいはずが、何故か距離を突き放されたように感じてしまう。そろそろと扉を開けると、ノックスが微妙な表情で立っていた。

「どうぞ……」

「ああ、お邪魔するよ」

 笑ってみせているはずなのだが、何処となくぎこちない。ロア兄とヘルメス、そして犬が一緒に来た日からずっとこんな感じだ。

 理由を聞くべきか悩んだが、もう、関係が切れる予定の相手だ。俺は黙って、部屋の中へと招き入れた。

 実験室に来て貰うと、机の中央には液体の水銀が入った容器が置かれている。まず机の周囲に結界を張り、変質した物質がこちらを害すことのないよう隔離した。

「そのまま、こっちに入ってくるなよ。危ないから」

「分かった。君は大丈夫?」

 愛人を提案する前のような慈しむ声の響きが、懐かしかった。こくん、と頷いて、組み上げた魔術式を指で宙へ綴っていく。魔力を込めた指の軌跡は、きらきらと光りながら式として成形する。長い長い術式を書く間、ノックスは声を掛けたりはしなかった。

 一定の魔力を、調整しながら放ち続ける。指が動く度にどくどくと血が巡り、たらりと額から汗が流れた。分割して組んだ魔術式を、一から起動用に組み上げているのだが、俺もこの規模の魔術式を展開するのは初めてだ。

 身体の至る所から汗が流れ、ぱちり、と瞬きをする度に睫毛が水分で重たくなった。ただ、何かに取り憑かれるように、何度も繰り返した文字を書き続ける。

 机の周囲が半円状の文字の群れに覆い隠された頃、ようやく終わりが訪れる。

「────よし、『起動』!」

 一気に魔力を流し込むと、浮かんだ文字が別の色へと一斉に変色する。文字は一度、膨れ上がり、そして収縮して容器を包み込む。

 流れ込む魔力の先、銀色だった物質の一部が、金の煌めきを帯びた気がした。

「………………」

 だが、その煌めきは一瞬だ。結局、魔力の多さに耐えきれず、物質は金でも水銀でもない物質に変化して崩壊した。

 はああ、と長く息を吐き、崩壊した物質を内向きの結界で包み込む。別の魔術式を綴り、危険かもしれない物質を固めると、そのまま別の廃棄容器へと移した。

 全てが片付くと、結界を解除する。

「……これが成果物。俺は、金に変化するなら水銀を元にする。そして、魔術で水銀の構成を探り、金の構成との差を埋めていく。そのために、金属が変異する空間が必要だと考えた」

 机の上を指差す。さっき、大量の式が埋め尽くしていた空間は、祭りの後、とでもいうように静寂を保っていた。

「その空間が、さっき魔術式で包み込んでいた空間だ。内向きの結界を使って、物質が変化しやすい空間と、変化のための魔力を大量に膨張させて供給する。俺は、これからこの魔術式を元に、錬金の研究を続けていこうと思ってる」

 ぽかんとした表情のノックスを見つめて、背筋を正す。あんなに大量の術式を見ることは無かっただろう。少しでも、度肝を抜けたのなら良かった。

 あの時のノックスの選択は、間違いじゃなかった。別の仕事を続けながら、こんな大量の式を生み出すのは無理だったはずだ。

 別れの言葉を笑って言いたかったが、顔はくしゃくしゃにしかならなかった。

「俺は、愛人にはならない」

 震えずに言い切った。これだけは、誤解なく伝えなければならなかった。

「成果物は見せたけど、金は作れなかった。だからもう此処にもいられない。────今までありがとう、ノックス。急に愛人だの、と言い出した事には腹が立ったけど、今まで世話になったことは間違いないから」

 握手のために手を差し出すと、ノックスは俺の手を払った。むっとして顔を見上げると、その先に、涙を湛えた睫毛がある。

 戦慄く唇は、しばし言葉を失っていた。

「今度は、……あの男のところに行くの」

「はぁ?」

 次の家も決まっていないのに、他の男も何もない。ノックスとの事に懲りて、次の後援者を求めるつもりもなかった。

「ロア兄のことか?」

「ヘルメスと言った。……あの男だよ」

「あいつに俺を養う理由はない。何の話だ」

 ぐ、と彼は唇を噛み締める。ノックスが俺とヘルメスの関係を何か誤解しているらしいことは分かるのだが、悲しむ理由が分からない。

 ただ、決定的に齟齬があるのは分かる。それを、解決しないまま出ていくのは後味が悪かった。ああもう、とつま先立ちになり、服の袖で目元を拭ってやる。

 触れても、彼は嫌がる様子はなかった。嫌われている訳ではないようだ。手を伸ばして、彼の頭を撫でた。泣いている子にはこれが効く。

「…………ラディ」

「なんだ?」

「私は、君を愛人にしたいよ」

「まだ言うか」

 両手で頬を挟み込んで、無理矢理にでも視線を合わせる。黄の混じった瞳は涙で潤んで宝石のような輝きを湛えていた。

 むちゃくちゃなことを言いながら、ほろほろと泣く。たくさんの感情が綯い交ぜになった彼の顔は、人間らしさに溢れていた。これまで見てきたどの美術品よりも綺麗だ。

「でも、愛人にしたい訳じゃないんだ」

 二つの矛盾した言葉が、彼の中では矛盾せずに成立している。人がこうやって感情にとり殺される様を俺は知っている。ノックスの再婚を想像して、寝台の中で息を殺しながら泣いていた、あの時の俺だった。

 四角布を差し出して、溢れる目元を次々に拭う。押さえても押さえても、その透明な宝石は贅沢に零れては消えていった。

 ぽつり、と唇が動く。

「私は、元妻に裏切られた時に、もう、恋愛は無理だと思ったんだ。ロジータに対して、焦がれるような恋情は遠かったけれど、それでも愛が返ってこないのは悲しかった。幸い、生きてきて、心が張り裂けてでも欲しい人を見つけた事なんてなかったから、それでもいいと思ってた」

 頬に添えていた手のひらが捕まった。ちゅ、と指先にキスが落ちる。

「でも、君に出会ってしまった」

 目を瞠ったまま固まっていると、ノックスは俺の腰を抱いた。抱き込む身体を撥ね除ける余裕なんてない。

「本当に、手元にいてくれれば、それで満足しようと思ったんだ。でも、戯れのように触れる度、追い詰められるのは私の方だったよ」

「…………じゃあ、なんで。愛人、って」

 近くで、唾を飲む音が聞こえた。久しぶりに、彼の体温が近い。触れてくる場所から流れてくる魔力は凪よりも無風の海のようで、諦めが満ちているのが分かる。

「結婚式の絵、見たでしょう」

「個人美術館で……」

「そう。最近は特に、あの手の目出度い絵が好まれるようになった。見る機会も増えて、それが続く度にね。────なんで私は、君とああやって結ばれることができないんだろう、って思うようになった」

 ひとつ、魔力に波ができた。押し殺してきた彼の欲だ。盛り上がった波が、肌からこちらの魔力を刺激する。

「もし君を迎え入れるなら、って。君に渡す資産の整理をして、二人で暮らすための部屋を用意して。そうやって心を慰めて、でも。そうやっていても、何も満たされなかった。君はいつ出ていくか分からないし、私たちは出会ったときからずっと変わらない。私を、好きになってくれるとは、とても思えなかった」

 静かな声だった。感情を吐露するとき独特の、荒らげた声ではなかった。彼は、こうやって気持ちを殺すことに慣れている。俺が、慣れさせてしまった。

 重ねてきた時間は無駄ではなかった。俺はきっと知らぬ間にノックスへとのめり込んでいたのだし、それは彼が停滞と称した時間なしにはあり得なかった。

 背に手を回して、肩に顔を擦り付ける。

「……じゃあ、愛人だなんて言うなよ。ばか」

「ずっと、追い詰められていたんだろうね。私は」

 吐き出される息が、耳を擽った。

「愛人であっても。何でもいい。独占できるなら、って思ってしまったんだ」

 彼の両手が俺の肩に掛かり、引き剥がそうと力を掛ける。むっと唇を噛み、その胸元に飛び込んだ。ぎゅう、と力いっぱい抱き締める。

 触れた部分から、困惑の波が伝わってきた。

「あのなあ……! 恋人を提案されてたら、もっと話が早かったんだぞ!」

 きょとん、と目を丸くしながら、彼は辛うじて言葉を吐き出す。

「そう言われたら、断りやすかった、って事……?」

 ああ、と俺は諦めの声を漏らした。この男は、いちど裏切られて、人が信用できなくなっている。自分が俺を好きになったように、俺が気持ちを返すことを欠片も想像していない。

 拳を固めて、ノックスの背を叩いた。

「……俺は、愛人なんて嫌だよ。でも、恋人を望んでくれるんなら…………」

 言葉を切った。視線を上げて、分かるか、と言外の気持ちを視線にのせる。彼の目元が、ぼう、と赤く染まった。きっと、俺の頬も同じような様に違いない。

 互いに、言葉に詰まって、ちらちらと視線を合わせながら沈黙した。時間を置いて、俺の背に腕が回る。

 俺が言うか、彼が言うか。じりじりと無言で間を読んで、唇を開いたのは目の前にいる男のほうだった。

「ラディ。君が好きだ。……私と、結婚してください」

「は……?」

 目の前の男は、やっぱり違うのか、とうろたえ、俺の背から手が浮く。違う違う、と、ぎゅうっと彼の身体を拘束した。

「まず、付き合う所からだろ」

「でも私は、いずれ結婚したいと思っているんだよ」

「…………じゃあ、結婚を前提にお付き合い、でいいだろ」

 結婚を譲るつもりはないらしい様子に、諦めて妥協案を提示する。ノックスは、ぱぁっと明るい顔になると、いそいそと俺を抱き締め直した。

「ラディ。私と結婚を前提にお付き合いをしてください」

「うん。…………俺も好きだよ、ノックスのこと。愛人は嫌だな。あんたを、独占できないから」

 誤魔化そうとするとまた曲解しかねない。最短で感情を伝えて、誤解しないように身体は離さなかった。

 ぶわ、と波が何度も持ち上がった。流し込まれる俺がざぶざぶと浸かってしまいそうな波は、嬉しがっている彼の感情をつぶさに伝えてくる。

 言葉を疑う余地もない。この男はただ俺が好きで、色々と行動した挙げ句、感情が暴走して、愛人としてでも、と独占するための関係を望むに至ったらしい。振り回された俺にとっては、傍迷惑な話だった。

 だが、俺はその面倒な感情ごと受け止めるつもりでいる。

「出ていかないでくれる?」

「別に、追い出されないならいるよ」

「屋敷に、君との部屋を用意したんだ。君が体調が悪かった時に案内した部屋なんだけれど────」

 それから彼は、俺を屋敷の部屋へ引っ越させようと延々と勧誘し続ける。実験室が遠くなるからいやだ、と言ったのだが、あまりにも相手が引かないものだから、やがて根負けすることになった。

 俺も、たいがい彼には甘いのかもしれない。

 

▽9(完)

 屋敷での生活が始まり、俺はノックスと婚約の準備を進めている。

 俺の出自の件はロア兄が言っていたように、モーリッツ一族が助力してくれることになった。一族の中から選ばれた貴族が俺をいちど養子にしてくれて、その上でグラウ家を含めた婚約をする。

 一族のロア兄が宰相閣下と結婚することになり、モーリッツ家はこれから国家へ密接に関わってくること、更に力を付けることが予想されている家でもある。その一族との縁はグラウ家にとっても有り難い話のようで、ノックスは上手くいきすぎでは、と何度も言葉を漏らしていた。

 その日は、ノックスの仕事が早めに終わり、食事を早々に終えて二人で寛いでいた。俺は魔術書を読み、新しい恋人は隣で本を捲っている。付き合い始めてから、俺は彼へ、ぴたりとくっついている事が増えた。

 魔力相性が良すぎて、触れていると心地いいからなのだが、今日は何故か波がずっと荒ぶっていた。黙って本を読んでいるのに、波がずっと揺れ続けて落ち着かない。

 本人が黙りこくっているので何も聞けないでいたのだが、何かを我慢している様子に、話を聞いてみよう、という気になった。付き合う前、お互いに気持ちを明かさなかった所為で沼に填まったばかりだ。

 栞を挟んで本を閉じ、覆うように重ねた指に力を込める。

「なぁ、ノックス」

「なに? ラディ」

 顔を上げたノックスは、いつも通りに柔らかい笑みを浮かべていた。勘違いだっただろうか、と思いながらも口を開く。

「なんか、気持ちが上下してる、のを。我慢してるのか……? 魔力が変に動いてて、心配になっただけなんだけど」

 うっ、と口を噤んだ様子を見るに、心当たりはありそうだ。逃れようとした掌を掴んだまま、顔を近づけた。

「いや、気にしないで────」

「そうやって黙って我慢された所為で、愛人だなんだと訳の分からない事態になったんだぞ……! …………それに、隠し事は寂しいだろ。恋人、なのに」

 言い募る内にしょんぼりとしてしまって、顔を見られなくなってしまった。丸まった肩ごと、彼の腕の中に引き込まれる。

 頭を撫でる手は、ただ優しかった。

「ごめんね。でも、言えなかったのは、その……」

 ああ、だとか、うう、だとか、ノックスは伝える言葉に迷っている。俺が涙目のまま顔を上げると、僅かに視線を逸らされた。

「私は、君を………………。性的な目で、見ているよ」

「……はぁ」

「けど、君は、そんなこと考えたこともないだろうから。……伝わってしまってごめん。私のことは、気にしなくていいよ」

 考えたこともない、と彼は言うのだが、俺をなんだと思っているんだろうか。付き合い始めて同じ布団で寝ているのに、その先を考えない人などいるのだろうか。彼の中での俺の姿は、やけに神聖化されすぎているきらいがある。

 悪戯っこな兄貴分に身体を重ねるつもりなら、と褥で使える魔術も教わったばかりだ。いずれ、そうなるだろう、と。いずれ、そうしたい、と、俺も思っていた。

 唇を、彼の首筋に沿わせる。軽く触れて離れると、彼の身体がびくりと跳ねた。

「こういうこと、したくないのか?」

「したい。けど……」

「俺もあんたのこと、好きだ、って言っただろ。黙って我慢するのはやめろ。……俺はちゃんと、したい、んだから」

 魔力を込めた指先を、空中に滑らせる。音が外に漏れないようにする結界。それと、雄を受け入れるために身体を整える術式。後者は魔術師の中でも口伝え、そして秘められたまま受け継がれるものだ。

 術式が発動すると、腹の奥がむず痒い。

「この魔術さ。使った魔術師が身体を明け渡すと、とろとろに溶けて、突っ込む側はすごく気持ちいいんだって」

 ぽそぽそと、耳元で囁いた。ぶつん、と理性の糸が切れたのを耳にした気がする。ソファで押し倒してくる猛獣に、寝台がいい、と訴えるのが精一杯だった。

 

 

 

 抱え上げられ、二人で寝るために用意された寝台に落とされる。ぼすん、と寝台が沈んで、俺は腕で身を支えた。

 ノックスの目元は染まりきって、呼吸は荒い。丁寧に俺を扱おうとしているのだろうが、あの震える指では難しそうだ。

「俺、脱ごうか?」

「君に任せたら、一気に全裸になる気がする」

「え、……っと、そういうのはだめなのか?」

 服に掛けた指を解かれる。傾いた顔に合わせて瞳を閉じた。柔らかく唇が触れる。ぺろ、と舐められた舌に合わせて、口を開いた。

 ねっとりと厚い舌が絡みつき、呼吸が苦しい。追い縋る舌から逃れつつ、必死で呼吸をする。覆い被さる身体を受け止めながら、望まれるままに舌を絡めた。

「……ンっ、く、ふ。……ん、ぁ…………」

 ちゅく、ちゅく、と立つ音が耳から溢れる。口の中をすべて味わい尽くして、目の前の男はようやく唇を離した。

 粘膜越しに触れた部分から、まだびりびりとした名残がある。唇に指を当てると、腫れぼったくなっていた。

「ラディ。服は、私に任せてくれるかな?」

 こくん、と頷く。

 大きな手が服に掛かり、服の釦を外しはじめた。ぷつり、ぷつりと穴から釦が抜けていく。胸元が大きく開いて、下から生白い皮膚が覗いた。

 目の前にいる男の喉が動いた。

「う……ァ」

 ノックスは頭を傾けると、首筋に吸い付く。薄い皮膚を吸われ、じんじんとした痺れが残った。

 残っていた釦も外され、服の前が全部開く。人差し指が胸の中心に当たり、そこから、つつ、と滑り降りる。

「あ……」

 腰を抱かれ、身体を持ち上げられる。下りてきた顔が、胸の尖りを捕らえた。色の薄いそこを口の中に入れ、舌が粒を弄ぶ。

 反対側の先端も空いた指に捕らえられ、ころころと転がされる。

「…………ン。……ぅ、あ……ふ」

 じわじわと高められていく見知らぬ感覚に、呼吸を乱す。胸元にしゃぶりつく男の頭を抱え、歯を当て、ぢゅうぢゅうと吸われる感触に身悶えた。

 こんなに吸ったら、形が変わってしまうんじゃないだろうか。口を離した瞬間に見た胸の先は、唾液を纏っていやらしく色を変えていた。

「へんたい……」

 呟くと、窘めるようにまた吸い付かれた。じたばたと暴れて、頭を引き剥がす。

 ノックスは懲りていないようで、自らの手で変化した乳首をぴん、と弾く。それを機に視線が逸れ、彼の手は寝台の横にある小机の引き出しを開けた。

 装飾の施された瓶は、少しでもぶつければ割れてしまいそうなほど繊細な細工だ。彼は蓋を開けると、俺を見下ろした。

「下の服を脱いで。中身を全部みせてくれる?」

「なッ……!」

 ぱくぱくと口を開けては閉じる。咄嗟に文句が口を衝いて出ようとしたが、身体を重ねるためには、恥ずかしい場所も晒さなくてはならない。

 下唇を噛んで、服に手を掛けた。指先を引っ掛け、下着ごと脱ぎ落とす。下の毛の色も頭髪と同じように薄く、茂みのなかで反応を示している自身が透けて見えた。

 寝台に生のままの尻をつけ、脚から服を引き抜く。俺が必死にそうしている様に、ノックスは意味ありげな視線を送っていた。

 瓶が股の上で傾けられ、中身がとろりと毛に纏わり付く。

「なん、か……。きもちわるい」

「素直じゃないなぁ」

 垂れた液体が、半身まで染み付く。彼は色を変えた部分を見下ろすと、瓶の蓋を閉じ、小机の上に置いた。

 濡れた部分からシーツにまでぽたぽたと染みが垂れる。拭いたいのに動けずにいると、自分のものではない指が股の間に伸びた。

 指が茎へと引っかかり、液体ごと塗り広げる。大きさの違う手は、びくびくと反応を示す物を擦り上げた。

「わ。……ア、……ひっ、ン……ぁあ、あ」

 皮膚の感触は自分の物とは違っていた。節くれ立った指先が、器用に絡んでは熱を育てる。側面を擦り、指の腹が先端を抉る。

「暴れると、怪我をするよ」

 荒れた息の合間に、粘度の高い液体がこすれる音が聞こえる。苛められた場所は、赤みを増して、腫れるように膨らんでいく。

 そのまま放出へと導かれると思っていたが、中途半端なところで指は止まった。肩を押し倒され、背をシーツへと埋める。

 顔を上げる前に、足首が掴まれて左右に開かれた。

「あぁ、可愛い処だ」

「や、……ッだ……!」

 恥ずかしさに、ぼっと頬が染まる。脚をばたつかせても力の差は歴然としていて、先ほど指で弄られた場所も、その後ろの窪みまで視線の下に晒された。

 羞恥にひくつく様まで間近で見られ、ちゅ、と持ち上がった分身の側面にキスをされた。

「沢山塗ったから、後ろまで液体が伝ってる。もうぐちゃぐちゃになって、すぐ指が挿入りそうだよ」

「や、さわるな……ァ!」

 言った途端、太い指先がぬぷりと埋まった。魔術で整えられた場所は、多少荒く扱っても傷付かない。それを知ってか知らずか、ぬめりを借り、指はずぷずぷと奥へ進んでいった。

「上手だよ」

「……うァ。……ぁ、ア」

 慣れない感触に堪えていると、指先がぴたぴたと身体の内側を触れていく。明らかに意図をもった動きだが、何をしたいのかが分からない。

 されるがまま、からだを委ねていると、深く沈んだ指先がその場所を押した。

「────っ、ひ!」

 表面を撫でるのではなく、もっと快楽を拾える場所を、指先に知られてしまった。奥から湧き上がるような快楽が、指で触れられるたびに、ずくん、ずくん、と長くひびく。

 後腔は刺激を得る度、長い指を食む。引き絞ったのをいいことに内壁を掻き分けられ、見つけた場所を使われた。

「ァ、……ぁっ。……ひ、く。……ぅう……」

「この動き、わかる?」

 言葉と共に、指先が前後にうごく。突き入るような動きは、これからの交わりを思い起こさせるものだった。

 ひっ、と喉が鳴り、きゅうと指を締め付ける。返ってきた反応に、ノックスは唇をわざとらしく持ち上げた。

「ぁ、……あ、ヒッ、ン、ぁあン!」

 脚をひらかれたまま、ぐぷ、ずぷ、と指が出入りする。暴れることを封じられたまま、肉棒を呑み込めるよう準備を整えられた。

 一番奥まで指を差し込むと、くい、と前へ持ち上げる。上手く息ができずに、喉を開けて必死で呼吸をした。

「指だけでひいひい言ってたら、ものが這入ったらどうなるんだろうね」

 ずっ、と指が勢いよく引き抜かれた。栓を抜かれた洞は、余韻に口を開閉させている。

 ぱさり、と服が脱ぎ落とされる音がした。盛り上がった胸元には汗が浮いていて、動く度に筋肉が撓る。次に、彼は下の服へと手を掛けた。躊躇いなく引きずり下ろすと、盛り上がっていた股間の一物がぶるりと震えながら顔を出す。

 茂みはもう肉砲を隠しきれず、先端は涎に濡れていた。色味の違うものが、腫れた肉輪に吸い付く。一度、二度。くっついては離れる度、ぷちゅ、くちゅ、と淫らに接吻をした。

 三度目の吸い付きで、縁がめくれ上がった。ゆるりと突き入れられる度に、男根のかたちへと可哀想なほど拡がって順応する。ずっ、ずっ、と太いものが奥へと進む度に、あの場所を思い出す。

 怯えに腰が引いた。首を横に振って、無理だと伝える。だが、男の腕は両腕でがっしりと腰を掴んだ。

「…………ごめんね」

 どちゅ、と一突きで距離を詰められた。

「────え? あ……」

 繋がった部分を見下ろす。埋まっていなかった部分が、一気に腹に埋まっていた。一拍遅れて、全身を快楽が駆け巡る。

「ぁ、ひ。────ぁ、ぁああぁあァッ!」

 指よりも広い範囲をまとめて抉られた。突き入った雄からはだらだらと精が漏れ、弱点へ染みこませるように塗り広げる。

 動揺して脚を動かすと、長い腕が伸びてその場に縫い止める。雄は俺の行動を窘めるように、その場所に狙いを定め、小刻みに腰を揺らした。

「ァ────!」

 深い快楽を、上手いこと長引かせられる。突き入れられたときの強烈な刺激とは違う、快楽の原点を押さえ込まれ、調整した上で絶頂が引き延ばされる。欲を吐き出すことは許されず、ぴったりと腰を押し付けたまま体重が掛かった。

 我に返ったときに聞こえてきたのは、自分の啜り泣きに近い声だ。ひくひくと喉を揺らし、ただひたすらに許しを請う。男が愉しんでいる間、自分に絶頂は与えられなかった。

「ここ、気持ちいいんだね。ずっと……びくびく、って、うねってる」

「……ひ、っ、う、っぐ。……ヤ、──も、やだ」

 ふ、と目の前の男が嗤った。ずるずると砲身が引き抜かれ、ちゅぷん、と久しぶりに後ろの孔が閉じた。

 彼は俺の腰を持ち上げると、脚を横に開く。腰が浮いた体勢に戸惑っている間に、無防備な窪みへと、まだ膨れ続ける欲望を押し当てた。

 ずぶずぶと一度その味を知った内壁は、悦んで男を受け入れた。上から体重を掛けられ、弱点だった場所を先端が通り過ぎる。指では届かなかった場所。さっきは見えていた肉棒が、ほとんど腹に埋まりきろうとした頃、男の亀頭がぐぷんとその場所を潜った。

 押し上げるはずのない場所に、他人の生殖器がぐっぽりと填まり込んだ。

「……っ、は。……ぁ、私も、気持ちい……なぁ……」

「────ッ! ──────!」

 開いた喉から、声にならない絶叫が迸った。見開いた目が乾いて痛い。串刺しにされた身体は動かず、押し当てられる快楽をただ受け止めることしか許されなかった。小刻みに揺らされ、いつの間にか俺の前はびっしょりと濡れていた。

 腹を押し上げる質量は、魔術で守っていても尚、暴力的なほどの欲を叩きつける。

「……ゃ、いきた、い。……も、終わらせ、ァ。……ぁああぁあッ!」

「仕方ないなぁ……」

 腰が浮き上がり、填まっていた場所から膨らみが抜け出る。解放されたというのに、胸はざわざわと騒いでいた。まだ彼の雄はかたい。みちみちと弾けんばかりに子種の詰まった袋は、腹の奥に白濁を届かせようと脈打っている。

 瘤だけを中に残して、てらてらと濡れ光る側面が股の間から姿を現す。捲れ上がった肉輪は伸びきり、みちみちと屹立に絡みついていた。

 脚を抱き直され、体勢を正される。余計なことを言った、と認識した俺が止めに入る前に、抽送が始まった。

 最初から、容赦なく大振りに突き上げられる。

「ぅ、あぁ……! あ。ぁン、あッ、ふ、……くぁ、ン、ぁああ────!」

 突き上げの度に教え込まれた場処を抉られ、男の形を覚え込まされる。ぐちゅぐちゅと撹拌する水音が大きくなった。だらだらと鈴口から液体を垂らし、味を知らない腔内へと塗り込めていく。

 繋がった場所から魔力が流れ込む。波が混ざって、彼の魔力が内側から身体を侵す。

「ン、っう……。ア、ァ、……ひ、ン────! あ、ぁあ、あ、ア!」

 揺れる袋が尻たぶを叩き、余すことなく彼自身を呑み込ませる。ぱん、ぱん、と滑らかな抽送を繰り返される度に、真っ白い腹がうねった。

 脚からは力が抜け、支える男の腕次第だ。喰らい締めた肉根がびくん、と脈動する。はやく中身を吐き出してほしい。つま先を伸ばし、男の身体を蹴った。ノックスは眉を上げ、収めていた刃をぎりぎりまで引き抜く。

「ふ……。魔術師は、吐精される時、が……気持ちいいんだってね」

「な、ん……」

 なんで、という言葉すら成立しなくなっていた。

「……本当か。試して、みよう…………?」

 ずるる、と引き抜かれた一物がまた狭道を駆け上がっていく。奥までは一瞬で、男の形を知っている場所は、容易く膨れた塊を受け容れた。

 体積が膨らんだのか、魔力の膨張を感じ取ったのか。掻き混ぜられた頭では何も分からなかった。

 膨らんだなにかから、びゅう、と腹の奥に勢いよく叩きつけられる。

「──ぁ、ア。……ンっ、ぁひ、あ。────ぁぁあああああぁアァッ!」

 奥を叩く波が、全身を揺さぶった。体感している刺激と、魔力の波が引き起こす刺激と、境が分からなくなったまま身体に襲いかかる。

 のし掛かった身体は重たく、執拗なほどぴったりとくっつけたまま離れない。藻掻いても叶わない時間は、ひたすらに長かった。

 ひぐ、と濁った音で啜り泣く。

「……や、も。……きもちい────ヤだぁ…………」

 はなして、と泣いても、男は上から退かない。男根が柔らかくなって、彼が満足してようやく、身体の中から出ていった。

 手を伸ばし、ぱくぱくと痙攣している場所を隠そうとする。だが、ノックスはあっさりと俺の手を持ち上げると、絶頂の余韻に震えている処をまじまじと観察した。

 愛人の提案をした時、俺の動揺を面白がっていたあたり、この男は意地が悪い。身体としては丁寧に扱われ、気持ちがいいだけ、なのが質が悪かった。

 それなのに、また誘われたら、俺はこの快楽を思い出して唾を飲むのだろう。魔術をぶつけてもいい筈なのに、それを選ばなかったのは俺自身だ。

「ラディ」

「…………なに」

 ノックスの手は、自身の屹立を扱き上げる。むくりと起き上がろうとしているものに、ひっと喉をひくつかせてシーツを掻いた。

 近づいてくる身体を軽く蹴る。だが、身体ごと反転させられ、寝台に押し付けられた。盛り上がった尻の肉を押しつぶすように、谷間にまだ柔らかい雄が挟み込まれる。

「もう一回しようね」

「やだよ! ……ふざけるな。やめ…………!」

 やがて芯を取り戻した肉棒は、柔らかくなった孔へと舞い戻る。やけに体力のあるノックスに一晩中振り回され、掠れた声で放つ暴言はろくな言葉にならなかった。

 

 

 

 目を覚ますと、窓の外では鳥がぴいちくぱあちくと鳴いていた。

 うるさい、ともぞもぞ布団へと戻る。肌に触れる布はすべて新しいものへと取り替えられ、あんなに染み付いていたはずの淫臭はさっぱりと拭い去られていた。

 胸元に触れて、服を着ていることに安堵する。ノックスがいないのは寂しいが、二度寝に足るほど眠たかった。

「きらい……」

 がらがらの声で恋人への文句を吐く。

 まだ足腰が掴まれているような感覚が残っている。初心者に対して、ひどい仕打ちだ。外見は柔らかそうな見た目をしている癖に、所業が猛獣だった。

 俺が眠りに落ちかけた時、部屋の扉が開いた。開いた扉の先から、水差しとグラスを持ったノックスが入ってくる。

 からからの喉を自覚して、水を寄越せ、という気持ちを込めて起き上がる。

「飲む?」

「のむ」

 水の入ったグラスが差し出され、こくこくと一気に飲み干す。グラスを突き出すと、使用人よろしく水を注いでくれた。冷えた水が滑り落ちるのが心地よかった。

 必死で水を飲む俺を、にこにこと見つめる視線がある。視線が合うと、ぼっと頬が熱くなった。

 慌ててグラスを返し、布団に潜り込む。

「あれ……? ラディ。どうしたの?」

「………………」

 身体の隅々まで見られた相手が、目の前にいる。あまりにも恥ずかしい。

 そもそも急に抱くとか言うものだから、何の用意もしていなかった。もうちょっと予告してくれていたら最高の身体に磨き上げられたのに。俺が布団の端を掴んでいると、上から両手で剥がされた。

 起き上がり、顔を隠すためのそれを取り戻そうと手を伸ばす。伸ばした手は、布団を放り投げたノックスの手に捕まった。

「恥ずかしがっているの?」

「な……!」

 言葉にならない俺の態度に、予想が合っていることが分かったらしい。くすくすと笑って、寝台に乗り上がってきたノックスに抱き込まれた。

「かわいいなぁ。私の愛しい人」

「………………」

 彼が言う全力の求愛は、心臓に悪かった。ぎゅうぎゅうと押しつぶされるようになって、どこどこと跳ね回って煩い。でも、やっぱり愛人でも良かったとは言えなくなっていた。

 相手の背に手を回す。この位置をひとり占めできるのが、恋人の特権だ。

 

 

魔術師さんたちの恋模様
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坂みち // さか【傘路さか】
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