勃たなくなったアルファと魔力相性が良いらしいが、その方が僕には都合がいい【オメガバース】

運命のアルファと魔力相性が良いらしい
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この作品にはオメガバース要素が含まれます。

▽1

 国立病院の隅も隅。患者が森林浴に使うための庭の中に、僕の住居兼、仕事場はある。

 昔は院内にある医療魔術師が集まる課に籍を置いていたが、当時、上司と気が合わずに辞職のための届を出した。

 そのまま国外の大病院にでも職場を移そうかと思っていたが、僕が構築した医療魔術式を手放したくない、という思惑があった国の意向が僕を留めた。

 国からの指示で病院の片隅にあった小屋が改修され、僕だけの一人部署が作られた。

『これまで僕が構築した魔術式を病院で使用させること。そして、定期的に新しい医療魔術式を構築し、病院に提供さえすれば従来どおり給料を払う』

 僕は提示された条件を飲み、使う時間も少なかった住居すらそちらに移したのだった。

 木造の小屋は、一人で住むには十分であるはずの広さだ。だが、部屋の中には荷物が多すぎる。

 模型、書籍、実験器具に薬の材料。他人が立ち入るのならもっと片付けるが、一人で全てが完結する以上、本の横に干した動物の骨が転がっているほうが効率的だ。骨の使い方は隣に置いてある本に書かれている。

 天井と壁は木目の落ち着いた色味だが、部屋の中は様々な色で溢れかえっている。模型の中には来訪者に怖がられるような代物も多く、雑多な印象は否めなかった。

「…………眠い」

 だが、その日は例外だった。

 朝早くに毛布の塊から顔を出し、通い慣れた飛び石を踏むように部屋を突っ切る。実験場と化している台所で、まだ黴が見えないパンを咥えた。そのまま部屋に戻り、おそらくソファを置いていたであろう場所の本を魔術で浮かし始めた。

 今日は、病院の同僚が挨拶に来る予定だ。

 彼女は子どもが生まれることを理由に病院を休職中である。子も大きくなり復職予定だが、その前に挨拶に来たい、と連絡をくれた。院内で関係の深かった相手の打診には、人避けしているとはいえ直ぐに承諾した。

 そして、こうやって彼女が座る場所を確保している。

 ソファが顔を見せ始めると、舞った埃を逃がすために窓を開け放つ。ついでにぱたぱたとはたきを掛け、玄関からこの部屋までの通路を確保した。部屋が汚いのはいいが、埃は良くない。

「どれくらいの風を起こしたものか……」

 下手すると書類が吹き飛びかねない。まずは浮きやすい物を避難させてから、風を起こす魔術を使った。部屋中の埃が窓の外に運ばれていき、すう、と吸った空気に透明感が戻る。

 ふむ、と顎に手を当てた。

「もう少し磨き上げるか」

 埃が吹き飛んだとしても、吹き飛ばない微小な存在たちはいる。

 まだ新しい布地を取り出し、水で湿らせて机とソファを拭き上げた。更に水の中に薬品を落とし、固く絞って同じ場所を拭く。

 一度やり始めるとつい夢中になってしまって、客人が通るかもしれない部屋を次々と拭き清めていった。まだ上がっていなかった日が視界に入るようになり、昼らしく日差しも強くなる。

 途中で鏡の前を通る。

 髪は、他者に提供するために伸ばし続けている。くすんだ草色の髪は、結う暇もなく背に広がっていた。同僚から貰った髪留めを鏡近くに挟んでいたのに気づき、首あたりで軽く留める。

 日差しと同じ色の瞳と視線が合うが、時間に追われてさっと逸らした。

 真っ黒になった雑巾を洗い終わり、客に出すものが何も無いことに気づいた瞬間、呼び鈴が鳴った。

 清潔な水以上に人を選ばない飲み物はない。そう言い聞かせながら、玄関で同僚を出迎える。

 病院内での陽だまりのような同僚は、今日は見慣れぬ華やかな色の私服を身に纏っていた。ただでさえ明るい日差しを、惜しみなく振りまくように挨拶をする。

「久しぶり! ニッセ。……相変わらずみたいね。肌が毛羽立ってるし隈も酷いわ。ねえ、ちゃんと食事取ってる?」

「久しぶりだな、ミィヤ。君の素晴らしい観察眼が曇っていなくて良かった」

「間違いであって欲しかったわ。貴方が健康に暮らしてるって事だもの」

 差し出された手土産を受け取り、靴箱の奥から引き出した室内履きを差し出す。僕は手土産を持ち上げ、彼女に尋ねた。

「茶菓子がないんだ。今からこれを食べないか?」

「だと思った。どうせ茶葉も無いんでしょう、わたしはお湯も好きよ」

 すまん、と手短に謝罪をする。彼女は苦笑して室内履きに足を通した。

 磨き上げた廊下を抜け、洗面台を貸して手を洗う彼女を見守った。それから居間へと向かう。ミィヤは部屋が片付いていることに驚いていた。だが、軽く片付いていない部屋の扉を開けてみせると、懐かしそうに声を上げた。

 僕は台所に入り、洗っておいたカップに沸かした湯を注ぐ。ソファの前にあるテーブルにカップを置き、彼女からの手土産を開封して並べた。中身は小分けされた焼き菓子だ。

「美味そうだ」

「でしょう」

 彼女をソファに座らせ、僕は向かいに持ってきた古い椅子に腰掛ける。ミィヤはお湯を一口啜り、美味しい、と皮肉った。

 僕が窓に視線を逃がすと、けらけらと笑う。

「相変わらず忙しそうね」

「あぁ。だが仕事だしな。ミィヤも……女の子だったか、家族が増えてから生活は落ち着いたか?」

「ぜんぜん落ち着かないわね。でも、仕事を再開する目処は立ったかなって所かしら」

「ああ、悪い。そういった事に疎くて」

 彼女の前に貰った焼き菓子を包装ごと積み上げると、ミィヤは指先でその塔を崩した。

 転がり落ちた包みを拾い上げて中身を取り出し、口に含む。ふわふわとした生地が歯でほろりと崩れた。

「いいの、忙しさを愚痴りたかっただけ。……復帰は来月からになりそうなの。また頼ることもあると思うわ、よろしくね」

「ああ。復帰後、部署は変わらないのか?」

「異動になるわよ。意図してはいなかったけど、子どもが生まれてから接しているうちに、あの年齢の魔力の傾向が掴めてきたのよね。だから、折角だしそっちの部署に異動することにしたの」

 医療魔術師である彼女は、口から喉、そして体内では呼吸に関わる範囲が担当だったはずだ。異動後は、子ども特有の病を担当する部署に移るらしい。

 僕には担当というものはないが、子ども特有の病と、その際に魔力の波がどう変化するかにはあまりにも疎い。これまで構築してきた魔術にも、その分野のものはなかった。

 口から菓子を離し、包み紙の上に置く。

「羨ましいな。子どもの魔力はぶれが大きく、身体への影響も固有のものがある。体内の育ち方だって違うし、接触が少なければ実用の経験が積みにくい」

「そうね。わたしにとっても、思いがけないところで知識が得られたというか。波にもぶれが大きい上に、身体が小さくて魔力が与える影響も大きい。魔術を使うのも一苦労なのよ」

 彼女は僕と同じくオメガだが、彼女の娘もまた魔力が多いらしい。言葉で子ども特有の事情について説明してくれるのだが、感覚的なものを差し引いても真新しい情報ばかりだった。

 顎を撫でながら、ミィヤの話に聞き入る。

「羨ましい。小児への縁がなくてなぁ……、実家に帰れば甥姪には会えるんだろうが」

「ニッセは帰る暇もないでしょうね」

 それだけが理由でもないのだが、話す理由もない。建前上、彼女の言葉に同意する。

「仕事に時間を使うのを否定はしないけれど、仕事から離れるのも悪くはなかったわよ」

 ミィヤはさらりと言い切り、自分の手土産の包みを開いた。柔らかく手元で生地を割り、口に運ぶ。

 チチチ、と窓の外で鳥が鳴く。

 カーテンを開けた光の届く部屋で、のんびりと菓子を食べているのが不思議な気分だった。仕事を終えれば次の仕事を用意する。こうやって誰かとただ話すだけの時間を作るのは久しぶりのことだ。

「ニッセは。最近、変わったことはあった?」

 彼女が首を傾げると、綺麗に梳かれた髪が耳から落ちる。仕事の話をすれば引っぱたかれかねない、と数少ない私事を引っ張り出した。

「あー……。親戚から連絡が来て、魔力を込めた雷管石を神殿に持ってこいと言われた」

「え? そんなことがあるの?」

「母は、元は貴族の出なんだ。父が古くからある商人の家だったから結婚自体は問題なかったが。……それで、貴族である母方の親族経由で、『位の高い貴族が厄介な病に罹って、至急、番を探さなければいけなくなった』と。だから『雷管石を神殿に提出していない者は差し出すように』と言われた」

 自国の中で、アルファ、そしてオメガについては特別な扱いを受ける。

 オメガは命さえも産み出す生命力を転じることで魔力を多く有し、魔術師への適性がある。アルファは体格や力、知性に優れ、国の中枢を担っている。そしてこの両者が番となることでの益が大きいため、神殿がアルファとオメガを積極的に取り持つのだ。

 神が雷を落とせばその場には雷管石が生じ、石は魔力の波形を吸収して保持できる。雷管石に魔力を込め、神殿に預ける。そうすると所属している鑑定士が、番として相性のよい人を込められた魔力から読み取り、紹介してくれるのだ。

「位が高い貴族の番を見付けるために、雷管石を神殿に集める、ねぇ……。そんな事ができるものなのね」

 ああ、と頷いて連絡があった頃を思い出す。

 もし、番として相性がいいアルファが見付かっても正直なところ面倒だ。だが、母方の関係者からの連絡であることが、断ることを許さなかった。仕方なく魔力を込めた雷管石を神殿へと預けたのだが、取り返したい気持ちでいっぱいだ。

 僕は腕を組み、長く息を吐く。

「実際、もうその貴族の番は見付かったらしいんだ。だから僕はお役御免なのに、神殿は雷管石を返してくれなくて」

「そりゃ返さないでしょ……」

 引いたように声量を落とすミィヤからみても、神殿に石を返せ、と言う事は有り得ない感覚なようだ。番が見付かることは良い事とされているし、そもそも僕が預けたのだろう、と言われれば、首は縦にしか振れない。

「番が見付かってしまったら、仕事の調整をしなくてはならない。人命が懸かっているから、病院も国もあれが欲しいこれが欲しい、といくら魔術式を作っても次を要求する。忙しいままでいたら、相手と一緒に食事をしているあいだ頭の中で魔術式を作りかねないぞ」

「流石にそれは仕事の方を調整してあげなさいよ……。番ができたんなら国だって病院だって黙るでしょ。皮肉として言うけど、貴方の才能を継いだ次代だって欲しいはずよ」

「別に皮肉じゃなく事実だろう。僕の魔力量は珍しいから、僕自身も魔力の質が良いアルファを捕まえてみたい、という好奇心はある」

 目の前でミィヤがげっと口を歪める。彼女らしくない、反射的に出てしまった表情だった。

「分かってると思うけど。それを理由に番を選ぶんじゃないわよ」

「第一希望は、番はいらない、だ。選ばざるを得ないなら……。────自分の身体は他人を巻き込まない優秀な実験材料だ、と僕は常々思っている」

 唇を持ち上げてみせると、ミィヤは笑い返したりはしなかった。太腿の上に肘を突いて、手のひらに顎を預ける。

「……実体験から言うけど、もし相性の良い相手が見付かったら、その実験は捨てることになると思うわ」

 彼女は静かにそう言う。番を持つオメガとしての声色は、示唆に富んでいた。

 二人の間に静寂が横たわり、葉が擦れる音さえも届く。気まずさではなく、僕は彼女の言葉を受け止め、自分が発した言葉を反芻していた。

 あ、と、何事かを思い出したようにミィヤが手を叩く。彼女はごそごそと鞄を開くと、中から数枚の封筒を取りだした。

 机に広げた封筒の宛名には、僕の名前がある。

「これ。病院に寄った時に預かってきたの、ニッセへの手紙」

「……ああ。…………────あれ、これは神殿の」

 神殿からの手紙を裏返すと、神殿に属する鑑定士の名前がある。

『ドワーズ』

 たしか、僕の石を受け取った鑑定士の名だったはずだ。

 封筒を見下ろして、ミィヤは目をぱちぱちと瞬かせる。

「何だろ。雷管石を返してくれるのかしらね?」

「そうだと良いがな」

「…………開けないの?」

「仕方ないな」

 封筒を開き、中の紙を取り出して開いた。ざり、と皮膚と紙が擦れて濁った音が立つ。

『────同じ時期に多数に連絡する都合から、お手紙にて失礼します。先日お預かりした雷管石を元に、魔力相性の良い相手が見付かりました。なるべく早くご紹介したく思っています。つきましては────』

 文字に素早く目を通して、便箋ごと目の前の机に放り投げる。拾い上げてもいいのか、ちらちらと視線を向けているミィヤに、好きにしろ、と呟いて目元を手で覆った。

 彼女はそっと便箋を拾い上げ、丁寧に中身を読み進める。窓から差す光が角度を変え、便箋の裏に影を作った。

「…………あら。噂なんてするものじゃないわね」

「全くだ」

 しばらく頭を抱えて動かなくなった僕に、ミィヤは手元にある菓子の包みを二つばかし僕の側に寄せる。

 頬袋よろしく両頬に菓子を詰め込むと、彼女は愉快そうに笑いを堪えていた。

 

 

 神殿と連絡を取り、魔力相性の良い相手、とやらを紹介してもらうことにした。逃げられるものなら逃げたかったが、相手からも断られる様子はなく、頷く他ない。僕にだって罪悪感はあるのだ。

 相手は、数年前から雷管石を神殿に預けていたようだ。僕が石を預けなかったから、こうやって会う時期が延びてしまった。

 朝から長く伸びた髪を後ろに流し、丁寧に梳る。思考を纏める間に指先を動かして耳の上で編み上げ、背後で纏めた。髪を手入れする時間は、思考に適している。辿り着いた結論が、会ってみて考えよう、という逃げだとしても。

「服か……」

 手持ちの中で、顔色がましに見える服を選んで身に付ける。母から贈られた品は生地が上質で、選ばれた装飾は小振りの花のように適度に慎ましい。鏡の前に立つと、普段の自分よりは幾分かましに見えた。

 よそ行き用の靴は埃を被っていた。破れがないことにほっと胸をなでおろし、足を通す。

 小屋の結界を念入りに閉じ、慣れない靴で固めた土の上を歩いた。病院の敷地を抜け、街中に出る。叩く地面が石畳へと変わり、靴底との間で聞き慣れない音を立てた。

 たくさんの不安と、奥にある高揚。コトン、コトン、と等間隔に思えるも、僅かに整いきれない音が耳に届く。

「ゆっくり街を歩くのも。久しぶりだな……」

 呼び込みの声を躱し、広い道を選んで神殿へ向かう。受付のような場所で受け取った手紙を元に話すと、話が通っていたようで個室へと案内された。

 部屋は小さいが、窓からの光が届く清潔感のある部屋だ。話をするのに使われる部屋らしく、机と椅子以外には目立った家具もない。

 椅子に腰掛けていた青年は、僕の顔を見ると立ち上がる。以前、世話になった鑑定士のドワーズだった。

 服は白を基調としており、ゆったりとした所作、纏う空気も神官に似ている。

「お久しぶりです。結果が出るのが遅れてすみません。普段ならその場で結果をお伝えするのですが、なにぶん一気に雷管石が届き、神殿も手間取っておりまして……」

 謝罪の言葉に、いや、と気にしないよう伝える。もっと遅くてもいいくらいだ。

「それで、相性がいいと言われたお相手の方は……」

「まだいらっしゃっていないようです。掛けてお待ちください」

 勧められた椅子に腰を下ろす。向かいに腰掛けたドワーズに、興味本位で問い掛けた。

「雷管石が一気に届いた、というのはやはり僕と同じく……」

「ええ、ヴィリディ家から出た通達の影響ですね。我々もここまで雷管石が皆様の手元にあったとは思いもせず、人員配置が追いつかなくて」

「あぁ……。僕も何と言うか、時期を逃した、とでも言いましょうか」

 僕が気まずげに言うと、ドワーズはいえ、と穏やかに言葉を返した。

「それぞれに事情がおありでしょうから。神殿を訪れた時が、来るべき時だった、と思いますよ」

「そう、いうものですか……?」

「ええ。……でもこれ、まるっきり神官の受け売りなんですが」

 茶目っ気のある声音にほっと表情を和らげたところで、部屋の外から扉を叩く音がした。ドワーズが返事をする。

 扉から顔を出したのは、この部屋に案内してくれた職員だった。

「失礼します。面会の予定だった──……」

 僕の視線は、その人物の背後にいる人物に釘付けだった。

 長身で身体を動かすことに慣れた体格。短く切った髪は金髪よりも橙に近い色味で、視線が合った瞳は晴天を映した色をしていた。

 前髪が短い所為か、長い睫もぱっちりとした瞳も見えやすい。その瞳が見開かれたのもすぐに分かった。

 引継ぎが終わり、進み出た男が僕に手を差し伸べる。躊躇いをおくびにも出さず、その手を取って名乗った。

「初めまして、ニッセといいます」

「レナードです、どうぞよろしく」

 快活に笑う男は、手をきゅっと握り締めた。オメガ相手に気を遣っているのだろう、力はやんわりとしたものだ。

 腕は太く、重たいものを持ち慣れている事が分かる。掌の皮は分厚い。そして、指先には火傷の痕が残っていた。

「鋳金、にしては範囲が狭い。……料理、をする仕事…………?」

 ふと、考えが口に出てしまった。僕の言葉に彼は驚いたように目を丸くして、こくこくと頷いた。

「そう! よく分かったね。食いしんぼうなのが顔に出てたかな」

「いや、髪型と手でそう思った。……だが、言われてみれば、その口は食べるのが好きそうだ」

 とと、と言い過ぎた気がして口元を押さえるが、気分を害した様子はない。

 自己紹介を終え、絡んだ視線を解くと、レナードは思い出したように紙袋をドワーズに差し出した。鑑定士は礼を言いながら受け取っている。

「ニッセ。君には店のお菓子じゃなく、俺に作らせてね」

「…………どうも」

 胸に手を当てて言う彼に、押されるように礼を返した。

 ドワーズは、僕とレナードに雷管石の入った小箱を返却する。神殿はこの後は関知しない、とのことだが、部屋は話をするのに使ってもいいそうだ。

 レナードとの間で事務連絡と少しの雑談をして、ドワーズは退室していった。

「少し、話をしてもいいかな?」

 明るさの中に僅かな緊張を感じて、背筋を伸ばす。

 彼はドワーズが座っていた椅子に腰掛けると、僕に微笑みかけた。アルファにしては、攻撃的なところがない。

「俺は、近くの通りで店をやっているんだ。生まれはもっと南のほうで、地元で何年か修行して、こっちで店を始めた。一度、ニッセにも食べに来て欲しいな」

 南国の空が焼き付いたような瞳だ、とひとり納得した。

「ああ、そうだな。僕は国立病院で医療魔術師をしている。住んでいるのも病院の敷地内だ。だから、店まではそう遠くない」

「そうなんだ。俺の家も店の近くだよ、よければ家にも来ない?」

 僕は言葉を溜め、彼を見つめ返した。にこにこと上機嫌な彼に、下心は欠片も見えない。表面上は、ただ僕に菓子を振る舞いたいというだけの料理人だ。

 僕は机の上に両手を差し出す。

「レナード。もう一度、手を借りてもいいか?」

「どうぞ、喜んで」

 彼は大きな手を差し出し、僕のそれと向かい合わせに握った。意識して魔力の境を崩し、相手の魔力を受け容れる。魔力にとげとげしいものはなく、ただ暖かく揺蕩うような魔力だった。けれど、探っていくと僅かに妙な波がある。

 彼の掌を手繰って、腕にぺたぺたと指を這わせる。

「生死に関わる訳ではない、が、身体に困ったところはないか……?」

 彼の精神は崩れていないが、不安が見え隠れする。僕の言葉に、ほう、とレナードは息を吐く。

「伝えようと思っていたんだけど、ほんとうに医療魔術師を相手に隠し事はできないんだね」

 彼は目を伏せ、僕の手のひらを両手で包み込んだ。隠していた不安の波が、表に出てくる。

「実は、勃たないんだ」

「…………ああ。勃起不全か」

「伝わって嬉しいよ」

 レナードは一年ほど前に、入院するほどの事故に遭ったらしい。

 近くを通っていた馬車が泥道に蛇行し、巻き込まれた形だった。全身の骨があちこち折れ、復帰までには数ヶ月かかったそうだ。料理ができる位に身体は戻ったが、それを機に人を管理する立場へと仕事も転換することにした。

「復帰した直後は、仕事の立て直しに忙しすぎて気づかなくて。『何処かの打ち所が悪かった』んだろう。めっきり勃たなくなっていた。身体はもう元通りの筈だから、精神的なものかもしれない、と。定期的に通院をして、原因を探っているところだよ」

「うちの病院か?」

「そうだね。ニッセにも見覚えがあるよ」

 だから、ああも驚いていたのだろうか。

 続けて魔力を流してみるが、身体の構造に問題はなさそうだ。機能が回復した後で、身体が戻ったことを認識できていないような気がする。

 真剣に探っている僕に、レナードは申し訳なさそうに言葉を続けた。

「神殿にはもう石を預けてしまっていたから、事故の後で回収しようと思っていたんだけど、身体はいずれ治るのでは、と断られてしまってね。……もし、君と番いたくとも、俺は、発情期に入れないかもしれない」

「いや。発情期に入っても勃たない。……だろう……から。治してから発情期には入った方がいいな」

「そうか。……君は俺を探しに神殿に来てくれたのに、こんな時期に会うことになるなんて」

 しょんぼりと肩を落とす彼は、先程の快活さとは打って変わって厭な波が身体を支配している。精神が身体に負荷を掛けているとき特有の形状は、続けていたら治るものも治らない、医療魔術師が嫌がる波だった。

 力がなくなってしまった手を、逆に握り締める。

「僕も忙しくて、レナードとしっかり時間が取れるか不安に思っていた。それに、僕にとっても初めての事で、ゆっくり関係を進めていけるなら好都合だ。身体だってまだ若い、神殿が言うように、いずれ治るさ」

 ぽん、と手の甲を叩くと、厭な波が和らぐ。

 折角だから、と僕の魔力を流し込んだ。相性がいい、と言うだけあって、上手く受け容れて変化していく。いっそ変化した波で魔力を上書きする方が、刺激になって回復に繋がるかもしれない。

 僕にとって、彼は都合が良い相手、だった。これから付き合いをしなければならないとしたら、何もかもが理想の相手だ。

「ニッセが許してくれるなら。これからも時々、会ってくれる?」

「ああ、構わない」

 レナードは、僕の手のひらを愛おしげに擦った。彼の魔力は触れていても嫌悪感がない。鑑定士の見立てというのは、正確なようだ。

「今日、これから家に招待してもいいかな? 俺は、その。君をどうこうしたりはできないし、何なら玄関を開けっぱなしにしても、ずっと離れた場所にいてもいい。……少しでも、いいところを見せたくて」

 彼は甘い笑みとともに、とっておきの口説き文句を口に出した。

「甘いもの、好き?」

 同僚が大量に入った菓子を選んで持ってくるほど、僕は甘いものには目がない。というか、自分で作ることができない分、手作りの料理に魅力を感じる質だ。

 口の中に唾が湧いて、ごくり、とそれを飲み干す。

「…………好きだ」

「良かった。市場に果物を選びに行かない? 好きなもので料理するよ」

 こくん、と頷き、彼と視線を合わせる。あまりにも見つめてくるものだから、気恥ずかしくて視線を落とした。

 ずっと繋ぎっぱなしだった手が目に入る。僕が見つめていることに気づいて、そっとレナードは指先を離した。

 離れていく魔力に抱いた感情は見知らぬもので、指を見つめて握り込んだ。ふわふわと空の上にでも浮かんでいるような、妙な心地だった。

 

 

▽2

 神殿を出て、事務室にいたドワーズに挨拶をしてから市場へと向かった。

 昼近くの市場は朝の喧噪が落ち着き、適度なざわめきに満ちている。高く上がった日差しが果物に反射し、色とりどりの果皮を照らしていた。

 朝を過ぎて売れた分は隙間が空いており、その場所の値札は既に下げられていた。レナードには顔見知りも多いようで、時おり声を掛けられながら果物を見て回る。

 ふと、ひときわ値段の張る赤い果実が目に入った。むかし見慣れていた形状は、身体の弱い母が好んで食べていたものだった筈だ。父が気遣って使用人に買い求めさせ、僕もお零れに預かっていた。

 あまりにも長く見つめすぎていたのか、レナードがひとかご持ち上げる。

「これ好き?」

 好きか嫌いかで言えば好きだが、果物の中で特別好きという訳ではなかった。だが、僕は面倒臭くならないように頷く。

 彼はかごを置くと、赤く熟した果実のかごをいくつかじっと見比べた。そのうち一つを持ち上げ、店主に預けた。

「作ってもらうんだから、材料費だけでも……」

 財布を取り出そうとする腕は、笑顔と掌でそっと制される。あっと言う間に支払いが終わり、彼は袋に入った果実を受け取った。

「お菓子が美味しかったら、こんど何か奢ってね」

 耳元で囁かれた言葉に、思わず頷き返す。ああ、また約束が増えてしまった。適度に引いて、関係を延ばさなければならないのに。

「……分かった」

 こっち、と自宅の方向を差す指と、先導する背を追って市場を出る。道の途中で休みの札が掛かっている彼の店を通りかかった。大型店、という訳ではないが、彼ひとりで回せそうにないほど客が入る広さだ。

 彼の地元での料理を主に出すらしく、目立つ看板は橙色で店名が書かれていた。料理店らしく白を基調とした清潔感のある店構えだが、窓辺にある置物や、軒先に掛かった布製の庇には鮮やかな色が使われている。

 重厚な色味の扉から察するに、高級店だと分かる店構えだった。僕が食事をするとしたら、誰かの記念日に選ぶような店だ。

「良い店だ。店主の腕がいいんだろうな」

「はは。いまは教える側だから、そうでもないよ」

「……レナードは若いよな? その歳でもう店を回すのが普通なのか」

「父も複数の店を束ねるような経営者だったんだ。父は料理は上手くなかったけど、俺は作る方も好きだった。いずれは経営側に移らないといけないと思っていたから、若い内から父の店に出入りさせて貰っていたんだよ」

 経営側に軸足を移したことを残念がりながら、レナードは語った。アルファとしては彼の父のほうが多数派なのだろうが、彼は単純に料理が好きらしい。

「だから、味が美味いかというと、修行期間は短いかもね。店を経営する方は、昔から教え込まれたからそこそこ知識はあるけれど」

 休日にわざわざ誰かに料理を振る舞いたい、と思うほど作るのが好きなら、僕の舌にとっては美味しいものが出てくるような気がした。

 履き慣れない靴が地面を叩く音に、別の靴音が重なった。こつ、こつ、と軽快に鳴る。

「……────ここだよ」

 レナードの自宅は集合住宅の一室ではなく、一軒家だった。一人で住むには広い家は、店と同じような色味が使われている。店のあの色使いは、彼の好みが反映されているのだろう。

 玄関扉を開き、僕は招かれて身を滑り込ませた。レナードは玄関横から室内履きを取り出し、僕の前に置いた。履き替えると、季節に合った素材で通気性がいい。

 彼を追って廊下を抜け、居間に入る。部屋に入った途端、換気していたらしい窓からざっと風が通った。部屋は澄んだ空気の匂いで満たされており、片付けられた部屋は広々と開放感がある。

 物は多いが、床に散っているものはない。納まるべき場所が設けられ、彼の定めた規則通りに仕舞い込まれていた。

 部屋を眺めている僕をそっと置いて、家の主人は台所に入った。水の流れる音がすると、僕も、と近寄って横から水を手のひらで受ける。見慣れない色の石鹸は皮膚に優しい類のもので、洗い上がりがしっとりとしていた。

「ありがとう」

「どういたしまして。ソファに座っているといいよ、しばらく暇だろうからお茶いれる」

 レナードはお茶を淹れると、本棚から持ってきた雑誌と共に僕の前に置いた。熱々のカップを持ち上げて口を付けると、茶葉の香りが鼻を抜ける。

 広々とした部屋、風が髪を揺らしていく感覚、足腰をしっかりと支える僕よりも大きなソファと、そして鼻先に届くにおい。他人の部屋だという意識はあるのに、一気に彼の懐に入ってしまった気がした。

「いい匂いがする」

「匂いの好みが近くて嬉しいよ。茶葉はね────……」

 名前や産地を語る間も、レナードの手元は動き続けていた。コン、コン、と彼の手が篩を叩けば、追って粉が落ちる音がする。会話の間に入る調理の音を、僕の耳は興味深く追っていた。

 カシカシと何かを混ぜる音、調理のための装置を操作して立つ金属音、ジジ、と何かが焼けていく音。ふわりと立ち上る香ばしい匂いは、ふわふわの生地を口に含んでいるような気さえしてくる。

 雑誌をぱらぱらと流し読みしても、意識は彼との会話や、料理の音に向いている。彼と向かい合って、眺めさせて貰えばよかった。

 無意識に背はずるずるとソファを滑り、身体からは力が抜けきっていた。会話が途切れれば、午睡の波に飲まれそうだ。

「ニッセ。そろそろ出来上がるよ」

 料理人が宣言すると、僕は立ち上がって台所を覗きに向かった。手元ではケーキが形を作っており、ナイフで切り分けるところだ。固く焼いた生地の上に種類の違うクリームを重ね、その上に買い求めた赤い果実が盛り付けてある。

 三角に切り分けた一切れを皿に移すと、彼は最後に粉状の砂糖を上から篩った。

「絶対に美味い」

 ぽつりと僕が呟くと、レナードは上機嫌に息を吐いた。フォークを添えた皿を両手で持たされ、僕はソファの前にある机に運んでいく。

 自分の皿を作り上げると、仕事を終えた彼は調理用の前掛けを外して椅子の背に置いた。 僕は一緒に食べる相手を待つ間、皿の上をじっと見つめていた。

 きらきらと輝く果実には表面に何かつやつやしたものが塗られ、その上に雪のようにふんわりと粉砂糖を被っている。皿は一般的な真白いものではなく、青黒くごつごつとした皿だ。雪が映える地面のようで、一皿が絵画に見えた。

「食べたら……崩れてしまうな」

 僕の言葉に、ふっと彼は笑みを漏らす。

「食べたら無くなってしまうのが好いんだ。お腹いっぱい食べてね」

 彼は紅茶のポットを持ってくると、僕のカップを差し替えた。また熱が戻ったカップに、新しい中身が注がれる。

「いただき、ます」

 気持ちが急いた言葉を出し、フォークを持ち上げる。先端で生地を割ると、押し固められた形状がほろほろと崩れた。

 上に載せて口に運ぶと、一噛み目には果実の甘酸っぱさが、そしてふた噛み目にはクリームの甘さが届く。食感も層によって違うのが楽しく、ずっと咀嚼してしまう。飲み込んでしまうのが勿体なかった。

 既製品は冷えたものを口にすることが多いのだが、まだ生地も温かさが残っている。

「美味い」

「でしょう。この果実はジャムも美味しいよ。今度、パンを焼いて、できたてのジャムを掛けて食べてみたくない?」

「食べたい……!」

 想像するだけで涎が零れてきそうだ。食いつく瞳の輝きに気づかれてしまったのか、レナードは次々と美味しそうな調理法を口に出す。

 またおいで、と言われると、すぐに頷いてしまった。

「たくさん食べていってよ。忙しいんだよね、おうちでは料理は作る?」

「いや、台所は実験器具の置き場になっている」

「じゃあ、普段は何を食べるの?」

「パンや干し肉は調理が要らないからよく食べ……」

 言いかけたところで、目の前にいる料理人の瞳が見開かれたのが分かった。あ、と失言に気づいて黙るものの、吐き出しかけた言葉は飲めない。

 フォークの先を揺らし、彼の言葉を待つ。

「ごはん食べに来たら、って言いたいんだけど、俺も仕事終わりは遅いからなぁ……。そうか。だからこんなに細いんだ」

「魔術の試し撃ちに魔力をたくさん使う。だから、大量に食べてもあまり太れない。逆に食べないとすぐ身体に跳ね返ってきて面倒だ」

「……これまで、倒れたことは?」

 言葉の裏に、静かな圧を感じる。

 僕が指先を折っていると、途中で彼の手が行動を制した。

「何か対策を考えておくよ。今日、日持ちする料理を渡すね」

 有言実行、と菓子を食べ終えた彼は立ち上がり、また台所で僕に持たせるための料理を始めた。僕は余っている菓子をもう一切れもらって食べ続ける。

 もう少し、ゆっくり話していたかった。僕の食事事情だなんてどうでもいい事じゃなく、彼の事をもっと。それと同時に、話を切り上げるほど心配させてしまった自分の不摂生を残念に思う。

 口に運んだ果実は表面はただ甘く、中は甘酸っぱい。母が好きだった果物、という認識だったその赤い果実は、僕に取っても印象深いものになりそうだ。

 

 

▽3

 レナードが数日前に渡してくれた作り置きの料理は、美味しくて翌日には無くなってしまった。容器は慎重に洗って、食べ終わった日の翌日には彼の家の玄関扉に掛けて返した。

 カードに感想でも書いて添えようかと思ったが、相手が不快に思わない褒め方が分からなかった。ありきたりな礼の言葉だけを書き添えておく。

 それから、またいつも通りの数日が過ぎていく。

 仕事と、実験と、たまに病院に呼ばれての魔術の行使。これまで通りの日々なのに、乾いたパンも干し肉も、美味しく思えないほど舌が肥えてしまって困った。彼の存在に慣れるということは、僕にとっては悪影響なのかもしれない。

 その日も昼近くに目を覚まして、食事を面倒がりながら床に広げた魔術式を読み耽っていた。ミィヤの来訪に伴って片付いたはずの家は、また元通りの惨状へと成り果てている。

 唐突に、通信魔術が飛んでくる。相手を確認すると、病院の事務職員からだった。

『こんにちは、ニッセさん。レナードさんという患者さんが、世話になったニッセさんに渡したいものがある、とのことで品物をお持ちなんですが、事務室で受け取っておきましょうか? できるのなら、そちらの仕事場にお邪魔したいそうなんですが……』

 レナード、という名前にどくりと胸が跳ねる。そういえば、彼は定期的に通院していると言っていた。

 少し乾いた喉を開く。

「あぁ。来てもらって構わない。すまないが、場所だけ案内してもらえるか?」

『分かりました。お伝えしておきます』

 礼を言って、通信魔術を終える。周囲を見渡せば、おおよそ人を招くような部屋ではない。玄関で受け取るだけで済ませるべきだろう。

 はあ、と長く息を吐いて、玄関を軽く片付ける。流石に玄関まで物が散乱している訳ではなかったが、一歩でも足を踏み入れれば樹海だ。

 一通り片付いたころ、すぐ近くで呼び鈴が鳴った。わざと時間をおいて、気持ちゆっくりと扉を開く。

「こんにち、……は……」

 レナードの声は、言葉が続くごとに萎んでいった。彼の瞳は驚いたように僕のつむじから爪先までを見下ろしている。

 髪だけは梳かしていたが、隈の浮いた目元と、何年も着古したローブ。彼と会った時はまだ小綺麗な格好をしていたのに、今の僕はまったくの素だった。

「すまない。仕事中で、人を迎えるような格好ではなくて」

「……ああ、違うよ。驚いたのは体調が悪そうに見えて…………」

 そっと彼の指が僕の頬に触れ、目の下をなぞった。太い指先は水仕事も多いのか、かさついている。

「ちゃんと寝てる?」

「さっき起きたところで。しっかり寝てはいるんだが、隈が消えないんだよな」

「そうか……。やっぱり、もっと食べさせたいな」

 レナードは思い出したように、手元の袋を持ち上げた。このあいだ受け取ったものと同じように、日持ちのする料理が詰められている。

 だが、彼にとっては大量に詰めてくれているのだろうが、僕にとっては一日で消えてしまう気がした。

「ありがとう。この前もらった料理も美味しくて、すぐ食べ終わってしまった」

「そう。作ったお菓子もほとんど食べ切っていたし、たくさん食べるんだね」

 彼は困ったように眉を下げ、僕が受け取った袋を見下ろしている。おそらく、レナードとしては食生活が改善するくらいの量を食べさせたいのだろうが、互いにそこまで無理はできない。

 僕は料理を受け取って終わりにするつもりだったが、彼は来訪をなかなか切り上げなかった。

「……ずっと考えていたんだ。俺は仕事を終えると夜になってしまって、君に家に来て貰って食事を振る舞えない」

「ああ。でも、こうやって食事を用意して貰えるのだって嬉しいが……」

 僕はそう言って今の距離を肯定しようとしたが、相手が望んでいるのはこの言葉ではないようだった。

「提案なんだけど、ニッセの仕事終わりに俺の家に来て、俺が帰るまで食事を待っていてくれないかな?」

 口調も早く、強い語気に気圧される。

「……はぁ。ええと、僕も夕食は遅いし構わないが」

「食事を終えたら送っていくし。……それか、そのまま泊まって、翌日の朝ご飯を食べて帰ったら?」

「それは……。僕はいいが、レナードが負担だと思う」

 貰った袋を胸元で握り締め、顔を見上げる。顰められた眉からは心配、という感情が漏れ出ていた。

 彼にとっては、僕が目の届かない場所にいるほうが心配であるらしい。自身の手間が増えようとも、心労が祟る、と言われそうだ。

「しばらくの間だよ。その顔色の悪さが戻るまで」

「そう、か。それなら」

 おずおずと頷くと、彼は歓声を上げて僕を抱き込んだ。目を白黒させていると、レナードは我に返ったように僕を離す。

「じゃあ、夕方。明るいうちに家に来て。着替えなんかは貸すから、寝るまでに仕事をするのなら道具は持ってくるといい」

「いや。仕事は片付けてくる」

 招待してくれるのなら、生活の時間を夜更かししないよう戻せばいい。今日は店休日だから食事も早そうだが、話を聞く限りでは普段の夕食の時間とちょうど合いそうだ。

 レナードは僕の頭に手を伸ばすと、そろり、と撫でた。

「じゃあ、また夕方にね」

 去っていった彼の肩は、一仕事やり遂げたかのように緊張が抜けて丸まっていた。渡された袋から食事を取り出すと、どれもこれも保存容器の中で色鮮やかに纏まっている。

 机の上を片付け、新品に近い皿を並べる。容器から中身の料理を移し、なんとなく綺麗に見えるように形を整えた。

 食事を温める魔術を紡ぐと、窓から吹いた風がカーテンを揺らす。皿に光が差し込んで、食事を誘うように彩度を上げる。

「やっぱり、美味しそう」

 煮込み料理らしき品を掬い上げて口に含むと、十分に加熱された肉がほろほろと崩れた。噛み締めるとぎゅっと肉の旨みが溢れてくる。ごろごろとした野菜もしっかりと火が通り、次々と口の中の味を変えていく。

 空腹に美味は劇薬だった。次々と夢中で眺め、匂いを嗅ぎ、口に入れる。慎重に噛み締めて味を覚え、また次の料理に涎が湧いた。

「…………美味しかった」

 もっと長持ちさせたかったのに、保存容器の中身はかなり減ってしまった。蓋をして片付け、これまで使うことのなかった冷蔵装置に魔力を込めて仕舞い込む。

 栄養を一気に摂取しすぎたのか、頭は回るし魔力も溢れそうだ。

 午後から予定していた魔術の試験項目を翌日分まで機械的に回し、気がついた頃には日が落ち始めていた。時計もあるのだが、熱中していると目には入らない。夜に太陽光が消えるとはなんて優れた仕組みなのだろう、思考を散らしながら仕事道具を片付けた。

 服を着替えようかと思ったが、のんびりしていては日が暮れてしまう。急いで家を出て、まだ明るさが残っている道を通って彼の家に向かった。

「いらっしゃい、遅かったね」

 僕を出迎えたレナードは料理中だったようだ。部屋の奥からは何かを煮込んでいる匂いがする。

「今度は、もうちょっと早く来る」

 彼は腕を広げ、僕を軽く抱きしめる。身体も、腕もなにもかもが大きい。胸元に納められれば、視界は相手の服だけでいっぱいになった。

「……手土産を持ってこようと思ったんだが、どれを買ったってレナードの方が美味しいものを作りそうで、買えなかった」

「深く考えなくていいよ。他の人が作った料理はそれだけで好きだし、学びもある」

 どうぞ、と促され、家に上がり込む。玄関先で埃を落とし、また手を洗っていると、料理に戻ったレナードが不思議そうに見つめていた。

 視線を合わせて首を傾げると、調理器具を持ったまま彼は口を開く。

「目元には隈、服も贈りたくなるような服なのに、特定の事だけはきちんとやるんだなって」

 家に入るとき、埃を落として、手を洗う動作を指しているようだ。

「……服は薬品の調合で汚れるから、買い替えても同じだ」

 そう言いつつ、急いでいたとはいえ仕事着で来てしまったのは不本意だ。繕えていた鍍金はばりばりと剥がれるばかりで、相手が僕を保護対象以上に思っているのかは謎だった。

 唯一どうにかできる、解れた髪が気になった。料理を待っている間は時間があるだろう、と指先で絡まった髪を解いて編み直し始める。

 レナードがなにか話しかけてくるかと思ったが、僕が勘だけで指先を動かしているのを黙って見ていた。

「髪を結うところは面白いか?」

「俺、料理するから髪を長くしたことがないんだ。編み物みたいにくるくる指が動くから、物珍しくて」

 ふぅん、と同意を返して、わざとゆっくりと髪を編んだ。絡み付いてくる視線は不快ではないが、なんだがそわそわと背を擽るような感覚だった。

「今日は、店は休みなのか?」

「そうだよ。でも、店が休みじゃなくても、当番外で休みの日もあるかな」

「じゃあ、厨房での仕事も多いんだな」

「時間による。店では何でも屋なんだ」

 以前は厨房にいることが多かったそうだが、今では柔軟に動いているそうだ。事故からの復帰直後は仕事量も減らしていたが、今では店長、という立場で仕事量もほぼ元通りらしい。

「────復帰まで数ヶ月かかるような怪我は……途方もないな」

「まあね。けど、あの時期は今の副店長が本当に頑張ってくれた。それに、近くを歩いてた俺より小さい身体の人にぶつかっていたら、その人はもっと酷い怪我になっていたと思うよ。俺のほうは日頃からしっかり食べて身体も丈夫だったし、今はもう本調子……」

 自信満々に言い切ろうとして、そうではないことに彼自身も気づいたらしい。ああ、と僕が思い出したように声を上げる。

「『そっち』は僕が治療した方が早いのかもしれないが、通院しているなら魔力での処置も行われている筈なんだ。薬に別の薬を重ねるように、別の魔術を強く干渉させるのは怖い」

「あぁ、確かに。塩味に塩味、になりかねないしね」

 料理というのは調薬に通じるような概念も多く、彼の察しは早かった。

「そういうことだ。だから、医療魔術師としてじゃなく知人として協力する方がいいだろうな。ただ魔力を流したり、あとは身体の面で刺激を与えてみたり」

「……刺激? 温めてみるとか?」

「いや? 局部を触ったりとか」

 顔を上げると、上の棚を開けていた腕がすっぽ抜けたのが見えた。扉が勢い良く跳ね、彼の額に気持ちいいくらい見事に当たる。

 濁った声と共にしゃがみ込んだ様子に駆け寄ると、呆然としたように額に手を当てるレナードがいた。

「大丈夫か? レナード」

「うん…………」

 打った位置を確認すると、赤みはあるが音の大きさほど酷い傷ではない。それよりも、呆然と肩を落としている姿を見れば、原因は精神的なものらしい。

 心配して肩に手を添えるのだが、手のひらをやんわりと持ち上げられて傍らに置かれた。

「あの」

「何だ?」

「俺の……男性器をニッセが触るって話をした?」

「そうだが」

 きっぱりと答えると、更に難解な問いでも与えられたかのように彼は唸った。よろよろと立ち上がり、煮ていた鍋の火を止めてまた戻ってくる。力なくしゃがみ込む彼は、僕の服の裾を掴んだ。

 軽くしか掴めない指先は、なんとも頼りない。

「ニッセ、は、性的に奔放かな……?」

「遊びでそんな事をする体力があったら、仕事に使いたい」

「普段、仕事でそういう事を……?」

「身体を見られたくない患者に配慮して、魔術は何かを経由しても掛けられるように設計されている」

「じゃあ、なんでそんな事を言うんだ……」

 頭を抱え込んでしまった彼の反応を見るに、アルファとオメガの間で提案するには軽率すぎる発言だったようだ。髪を編むのに意識を向けていた所為か、普段なら口に出さない、線を踏み越えた発言だったかもしれない。

「ああ、悪い。レナードなら触ってくれる相手くらいいるか」

「いない。神殿に石を預けた上で遊ぶようなアルファじゃないよ」

「…………? いや、望まれるのなら触るのも吝かではないと思ったんだが、一般的には見られたくない場所か」

 レナードは、僕と距離を詰めないまま言葉を絞り出す。

「……ニッセ。俺たち、神殿で相性がいいって言われたの覚えてる?」

「流石に忘れない」

「俺達は、番候補、だってことだよ」

 言われてようやく、意識が薄かったことに気づいた。現状、僕たちの間では発情期は過ごせない。その前提ゆえか、新しくできた友人、という感覚になってしまっていた。

 だが、目の前で困惑しているレナードは、そうではないらしい。

「友人のように、……思っていたかもしれない」

「その認識を咎めたくはないけど、ニッセが油断していたら俺はあわよくば、って思っちゃうから。そういう意識はして」

 目の前にいる僕の唇に、彼の指先が当たる。ふに、と弾力を楽しんで、目の前のアルファはそっと感触の違う指を離した。

「それに、勃たなくたって、キスくらいはできちゃうしね」

 すっと立ち上がると、レナードは料理に戻った。触れていった指先が、胸を引っ掻いて過ぎていく。じくじくと傷を付けられた部分が疼いて仕方なかった。

 ゆっくりと立ち上がって、歩み寄った広い背中に額を当てる。

「……もうすこし、考えてみる」

 相手は、数年前から雷管石を神殿に預けて、相手を待ち望んでいたような人間の筈だ。柔らかく接してくれるから、覆って隠して整えてくれるから、だから僕は見誤った。

 肩を丸めてソファに戻り、脚を抱きかかえる。

 雑誌に目を通す気にもなれなくて、換気をしている窓辺を眺めていると、近くの机にそっと皿が置かれる。

「お詫び。そういう顔をさせたい訳じゃなかったからね」

 くしゃくしゃと髪を撫でると、彼は台所に戻っていく。添えられたフォークを持ち上げると、甘く煮付けられた果肉を突き刺して口に運ぶ。じゅわ、と甘い味が一気に舌に届く。

「あま……! 美味い」

 ぽつり、と呟くと、料理の合間に笑い声がした。一瞬だけ彼の本心が見えたはずだったのに、また綺麗に隠されてしまった気がする。

 すっと息は吸いやすくなったのに、求めていたのはこの結果だったのかと自問した。

 

 

▽4

 皿が並んだ食卓は文句なしに美味しく、レナードが途中から追加で作り足し始めるくらいお腹いっぱい食べた。いちど沈んでしまった空気は元通りで、料理に関して博識な人間へ直接ものを問えるのも、好奇心が満たされる。

 二人で食器を洗い終えると、珍しく膨らんだ腹をさすりながら大きな背もたれのあるソファに沈み込む。

「そうだ。帰るなら送っていくよ」

 拭き終えた調理器具を片付けているレナードが、そう声を掛けた。僕は返事に迷い、素直に口に出す。

「明日、も一緒に過ごせたら嬉しいか……?」

 萎んでいく声に反して、答えははっきりとしていた。

「勿論。どれだけ時間があっても足りないよ」

 用具が仕舞われる金属音がして、彼はぱたん、と扉を閉じた。凭れている生地の感触は、ただ、ふかふかとしている。

「じゃあ、明日までいる」

「本当!?」

 予想外の答えだったようで、彼の声は跳ねていた。風呂を沸かしてくれると言い、部屋を出て行くと包みを持って戻ってくる。

 とある店名が入った包みは、柔らかく僕の膝上に置かれた。

「着替え」

「……これ、新品だろ」

「オメガは、違う匂いが付いていたら嫌かなと思って」

 気遣いとはいえ買い物までするレナードに目を丸くしながら、包みを開ける。落ち着いた色味の寝間着が折り畳まれて入っていた。

 あとこれも、と別の紙袋を渡されると、そちらには一泊に必要な生活用品が入っている。

「忙しいかと思って、こっちで勝手に揃えたよ。泊まる機会が増えたら、ちゃんとしたものを買いに行こう」

「ありがとう。でも……」

 何故こんなに親切に、と問う前に気づいた。問いの答えは、既に貰っている。

「いや。気に入った、大事に使わせてもらう」

 レナードを手招きすると、彼は何も疑わずに近寄ってくる。腕を出すように伝え、その上に貰った寝間着を置いた。

「…………うん? 選んだときに展示品を触ったけど、いい生地だよね」

「ああ」

 不思議そうに返ってきた品を受け取り、抱きかかえる。ほんの少しだけ、彼のにおいがした。

 風呂が沸いたからと入浴を勧められ、交互に風呂に入った。水気を拭き取った髪を魔術で乾かしていると、面白そうにこちらを見つめてくる。短い彼の髪にも魔術で風を吹かせると、心地よさそうに目を閉じていた。

 一頻り騒いで普段より早い眠気にうとうとしていると、レナードが寝室に案内すると言う。開けられた部屋は基本的には落ち着いた配色ながら、大きな寝台の横には細々とした鮮やかな置物が並べられ、分かりやすい趣味は家主の持ち物に見えた。

 彼は換気のために開いていた窓を閉めると、僕の顔を覗き込む。

「匂いはあらかた消したと思うんだけど、ふだん俺が使っている部屋だから、残っていたらごめんね」

「ああ。気を遣ってくれてありがとう」

 だが、レナードがずっと僕が彼の匂いを避けたいと思っているかのように、気遣っているのが気になった。

 部屋を出て行こうとする服の裾を引いて、こちらを見る目と視線を合わせる。

「大したことではないが、僕はレナードの匂いが嫌いだと言っただろうか?」

「まだ知り合ったばかりだから、アルファの匂いは避けたいかと思ったんだけど……」

 くい、と裾を一度だけ引いて、離した。

「別に気にしない。だから、次からは気を遣わずに普通に私物を貸してくれ」

「分かった。じゃあ、俺は居間にいるから、困ったことがあったら声を掛けてね」

 部屋を出て行く背を見送って、寝台に倒れ込む。シーツも替えられていたのか、彼の匂いは僅かにしか残っていない。

 いちばん強く匂いのする毛布を引き寄せて、鼻先に当てた。

「嫌な匂いじゃない……のに」

 毛布に包まると、温かさも相俟って眠気がどっと襲ってくる。照明を消して、遠くで彼が動いている音を微睡みの中で聞いていた。

 発情期のオメガは、アルファの私物を身の回りに集めることがあるという。守られている安心感から行われるその行為を、昨日までの僕は文面でしか知らなかった。

 息を吸うと、アルファの匂いがする。

「……隣で寝たら、もっと…………」

 毛布を握り締めて寝る理由が分からないまま、僕は穏やかに眠りに落ちた。翌朝、あまりにも起きてこず、心配した家主に起こされたのは言うまでもない。

 

 

▽5

「おかえり、レナード」

「ただいま」

 最初に泊まった日の翌日に、僕は彼の家の合鍵を受け取った。暗くならないうちに家に来てほしいが、彼が仕事を終えるのは夜だ。だから、僕が合鍵を持っていないと来訪が成立しない、そう言っていた。

 毎日迎えに来てもらうのも良くないか、と僕は鍵を受け取った。それからは、ほぼ毎日のように家を訪れている。

 頻繁に訪れていればすぐに顔色の改善を指摘されて、この習慣は終わると思っていた。だが、レナードはなにも言わない。僕が訪れると嬉しそうに受け入れ、料理を振る舞っている。

 だが、今日の料理人はレナードだけではなかった。彼は肩に掛けていた鞄を下ろし、台所に並んだ食材を見る。

「それで足りるか?」

「大丈夫。挽肉を捏ねて丸めて、野菜と一緒に煮ようと思っているんだ」

 料理を作ってもらってばかりだから、偶には僕が作る、と提案したのだった。全く料理経験がない僕に、彼は料理の提案をして、僕は言われたとおりに食材を買い揃えた。

 料理の準備を整えると、並んで台所に立つ。

「はい、これ」

 皮剥き用の器具を手渡され、もう片方の手には洗った芋を手渡される。誰でもできるような皮剥きを、おっかなびっくりで始める。

 いちいちレナードに確認を取りながら、ようやく一個を剥き終わった。

「料理って、大変なんだな……」

「楽になるこつもあるし、手間を楽しむこともできるよ。はい、もう一個」

 横ではナイフで皮剥きをしている料理人の姿がある。手渡された芋に取りかかると、無言で皮を剥いた。

 僕が二個の芋を剥き終える間に、その他の野菜は皮を剥かれ、切り終わっている。

「交代」

 手元のナイフを渡され、剥き終えた芋で半分の位置を確認する。利き手と反対の手が危ない、と指摘を受け、指先が刃先に近付かないよう丸めた。まずは半分に切り、更に半分に切り進めていく。

 平行に刃を当て、上から手のひらで力を込めるのだが、レナードはもう少し自然に切り落とせた気がする。相手を見て首を傾げると、交代、とお手本が始まった。相手の刃先の動きを見ていると、垂直に押したのが悪かったらしい。

 再度ナイフを受け取って、今度は力を掛けずに切り分けることができた。ほっとしてナイフを置く。

「できた!」

「おめでとう」

 傍らでは湯を沸かし始めており、切られた野菜は沸騰した鍋に放り込まれる。挽肉に野菜と香辛料を加えて捏ねたり整形したり、焼いて更に煮て、と手順は多かったが、導かれるままに工程を踏めば料理は出来上がっていく。

 あとは煮込むだけになった鍋に蓋をすると、休憩、と台所から僕の背を押して出ていった。

「疲れた?」

 珍しく二人並んでソファに腰掛けて、問い掛けられた言葉に首を振る。

「あっという間に終わってしまった」

「そう。じゃあ、また美味しいものを作ろうね」

 こくん、と頷き返し、緊張で強張った名残がある指先を曲げ伸ばした。ことり、ことり、と沸騰している音が細く届き、僕たちが休んでいる間にも何かが変化していく。

 隣に投げ出されている掌に視線をやると、以前にも気になった火傷の痕があった。指を伸ばしてその場所に触ると、こちらに視線だけをやったレナードが、あぁ、と気の抜けた声を上げる。

「引き攣った部分は残るかもしれないけど、いずれ薄くなるよ。気になる?」

「ああ、どうしたのかと思って」

「躓いて、湯だった鍋に思いきり押し付けた」

「聞くだけで痛い」

 顔を歪めると、彼はくつくつと喉だけで笑った。ニッセも気を付けて、と言われ、返事をする。

「そういう時、料理が嫌になることはあるか」

「下準備も片付けもある。だから、いつでもそうだよ。それでも、いつも美味しいものができると上書きされる。ニッセはそういうことはない?」

 魔術式を作ること、魔術式を試すこと、魔術式を起動すること。これらの中に、僕は何かを見出していただろうか。

 僕は答えを求めようとして、呆然としてしまった。

「……僕が魔術師になったのは、魔力が多かったからだな」

「適性があったから、ってこと?」

「ああ。人命に関わる魔術式を作る課程には、途方もない試行が要る。だから、魔力を多く持っているのは都合がいい」

 膝の上で指先を組んだ。僕の述べた理由、にレナードは煮え切らないように唸った。

「魔術式を作るのは好き?」

「……好きか嫌いよりも、それがやるべきこと、だから」

「それは、人命が懸かっているから?」

 問いかけは静かだったが、低い声音を僕は恐れた。察しが悪い訳ではないから、あえてそう声を作っているに違いない。

 暴かれたくない部分を、掘り起こそうとする声だ。

「…………そうだ。でも、それは根本的な理由ではない」

 彼は言うだけいって黙りこくった。これから先は僕が言わなければ意味がない、とでも言いたげだ。

 巧妙に逃げ道を防がれたことに気づいていながら、僕は捕らえられることを是とした。

「母は、僕を産むときに体内の多くを傷付けた。覚えている最も古い記憶の母は、ずっと寝台で過ごしていた。僕が学校に通うくらいの歳には段々と起き上がれるようになったが、それは医療技術の発展に伴う幸運に過ぎない」

 何かの歯車を掛け違えれば、母はもうこの世にいなかった。だから、僕は母方の関係者には頭が上がらない。神殿に雷管石を持っていくなんて面倒なこと、他の誰から要求されても断っていた。

「適性もあった。だが、一番の理由は償いだと思う。好き、も、嫌い、も持ちたくない、どちらも失った時に、やりたくなくなってしまうから。僕は、装置や機構のように、使える時間の精一杯まで、この仕事がしたい」

 誰かに、ここまで深い話をしただろうか、と思った。隣にいるアルファは、僕の話を黙って聞いている。

 大きさの違う掌が伸びてきて、手が捕まった。

「俺が家に誘ったのは、迷惑だった?」

 答えを間違えたら、関係を壊すだろうな、と思った。だから、黙り込んで言葉を選ぶ。

「……普段の僕なら、そうだったと思う。でも、何だか。分からなくて」

「分からない?」

「料理が美味しいことも、居心地がいいことも、よく眠れることも。そんなもの、僕の身体が持つのなら放っておくべきなんだ。償いたいと思うのなら、自分の……幸せだと感じることは、選ぶべきではない、のに、僕はずっとそればかり選んでしまって……」

 縋るように、繋いだ手を握り返した。立ち止まっている場所から、手を引かれてでも抜け出したかった。

「…………迷いながら、明日もまた僕はここに来るんだと思う」

 はっきりと、静かな室内に声が響いた。彼の手が、繋いだ手を持ち上げた。ぶらり、と二人の間で揺れる指を見つめる。

「いま、君をすごく抱きしめたいんだけど。飛び込んで来てくれる?」

「それは……、たぶん駄目だ」

「俺が嫌いだから?」

「……居心地がいいところ、だから」

 くく、とレナードは笑って、僕との距離を詰めた。強い力で肩を抱かれ、腰を持ち上げられて、彼の胸元に飛び込む形になる。

 満足そうに喉を鳴らす音に、僕は諦めて力を抜いた。

「ニッセは、俺が困っている、と言った症状を治そうとするよね?」

「ああ」

「同じだよ。俺は君にも、何事もなくあってほしい」

 美味しい料理を食べて、居心地がいい場所で過ごして、よく眠ってほしい。僕が選ぶべきではないことを、彼は選んでくれ、と言う。

「君が償いたい、と思う気持ちは尊重したい。けれど、君が少しでも俺を大切だと思ってくれるのなら、俺が守りたいものも守ってね」

 抱きしめられ、ただ僕の頭を撫でるだけだ。胸がぎゅう、と引き絞られて、ずっと煩い。毛布を経由した匂いじゃなく、間近に彼の匂いがある。

 抱き返せもせず、ただ近くにある服だけを握り締めた。鼓動を隠すには、あまりにも周囲が静かすぎる。

「────そろそろ、鍋を見てくるね」

「……あ。……うん、よろしく頼む」

 鍋から漏れる匂いが変わったのか、時間を意識していたのか。彼は身体を離して立ち上がった。

 料理の出来は良かったらしく、深い皿に盛り付けてくれる。自分の中から雑味が消えていったような心地で、自分で切った芋も、捏ねた肉も文句なく美味しかった。

 交代で身体を洗い、貰った寝間着を身に付ける。

 編まない所為で広がる髪を櫛で丁寧に解かしていると、背に流れた分はレナードが梳いて軽く纏めてくれた。

 そろそろ寝ようか、という時間になった頃、僕は考えていた提案を切り出す。

「今日は僕がソファで寝る」

「え? いや、俺の方が頑丈だよ」

「いつもソファで寝ていたら、身体だって強張る。それに、肉体仕事なのはレナードのほうだ」

 譲らない、と言うようにソファに沈み込むと、彼は困ったように頭を掻いた。すぐに諦めるだろうと思ったが、我慢比べのようにどちらも引かない。

「俺が大切にしているものを守って、ってお願いしたばかりだよ」

「だったら、僕が大事にしてるものだって守ってくれ。同じことだ」

 互いが互いを思い遣っているが故の平行線だった。

 初めて喧嘩のように意見が対立したのだが、それにしては内容は平和だ。視線を合わせられても、ぜんぜん怖くない。向けられた瞳を同じだけ見つめ返した。

 はあ、と諦めたのはレナードだった。

「分かった。床を掃除して布団を広げるから、端っこと端っこで寝よう」

「はしっことはしっこで寝るのなら、別に同じ寝台で良くないか」

 ぴたり、と彼の動きが止まり、視線が僕から逸らされる。

「布団を下ろして、寝るときの距離を離そうと努力したところで、何が変わるとも思えない」

 僕が言い募ると、その言葉は刺さったようだ。諦めたように息が吐き出された。

「俺は、君を番候補だと思ってるアルファだよ」

「家に招く時に、僕に手を出せないから安全だ、という体で招いておいて、そう言うのは矛盾している」

「…………ニッセに口で勝てる気がしない」

 これまで散々丸め込んできたのだから、お互い様だ。立ち上がり、行くぞ、と腕を引くと、項垂れた図体のでかい男がとぼとぼと付いてきた。

 慣れた手順で照明を操作して、もう何日も泊まった寝台に潜り込む。後を追うようにいつも嗅いでいた匂いの主が毛布を持ち上げた。

 隣に寝転がると、思った通り匂いが強い。彼のほうの寝間着を捕まえると、ぎょっとしたように身を引かれた。

「別に、男性器を触ったりしないが」

「触ったら俺は悲鳴を上げるよ!」

 おずおずと近付くことを許す姿勢に、どちらがアルファか分かったものではないな、と目を丸くした。けれど、それからは僕が近寄っても極端な反応をすることもない。

 首筋に鼻先を寄せて、息を吸った。

「触ったら、勃つかもしれないのに?」

「そうでも駄目。ニッセが一緒に寝たいのなら尚更だよ」

 レナードが憂えていることを取り除きたい。出来ることを試したいのに、目の前の男は頑なだ。

 そっと足先を伸ばして、彼の脚の間に挟み込んだ。そのままするりと太腿を擦り付ける。

「…………ニッセ」

「脚もだめか」

「動揺したし、この変化が良い効果を齎すかもしれないけれど、もう……許して」

 萎んでいった声に、悪いことをしたなと眉を下げる。ごめん、と呟きながら抱き付いて、もぞもぞと毛布の中で彼の背に手を回した。ぎゅう、と抱き付くと互いの鼓動すらも聞こえそうだ。

「あのね……」

「抱き付くのもだめか」

 背から手を離すと、互いの隙間を作って寝転がる。番候補だとか言ったのは向こうなのに、意見が揺れるのがもどかしい。

 隣から手が伸びて、僕の手を握った。互いの指を絡め、簡単には離れないようにする。

「手を繋ぐのはいいのか」

「そうだね」

 ゆるりと境を解いて、彼の魔力に己のそれを混ぜる。上手くやらないと気づかれてしまうし、相性が悪ければ体調を崩しかねない。けれど、疲れていたのか、隣からはさほど経たずに寝息が聞こえてきた。

 相手が寝ているのをいいことに、繋いだ掌を手繰って身体を寄せる。ぴったりとくっつけば、容易く体温は移ってしまった。

 

 

▽6

 僕の体調の改善は劇的だったようで、病院に仕事で訪れる度、復帰したミィヤを含めた仕事仲間から指摘されるようになった。

 その度に魔力相性がいい人が見付かって一緒に食事をしている、と話すと、覚えのある人たちは自分の番の話を始める。いつもなら興味の持てなかった話も、立場変われば、なのか、ついつい耳を傾けてしまった。

 レナードは発情期を一緒に過ごせないことに思うところがあるようだが、僕はゆっくり関係を深めたい、と言って聞かなかった。彼以外のアルファがすぐに番える、と言ったって、別に魅力的には見えないのだ。

 近付いてきた次の発情期も、変わらずに一人で過ごすつもりでいる。

 番候補がいるのに、と感傷的になることはなく、今まで通り薬の力を借りてやり過ごすつもりだ。ただ、発情期が近付いていることは、レナードには伝えなかった。

「来週から、しばらく仕事が忙しくなるからこっちには来ない。落ち着いたら連絡する」

 気にするかもしれない彼には何も伝えず、忙しくなる愚痴をそれらしく語った。レナードはただ労りの言葉を述べ、日が近付いてきたらまた作り置きを持たせてくれると言う。

「たまに、料理を渡しにいってもいい?」

「いや。忙しいと気が立ってしまうから、気にしないでほしい。食事は気を付ける」

 忙しいことは日常でしかない。彼相手に八つ当たりしたりもしないのだが、嘘ではないことが分からないよう、普段通りの声音になるよう努める。しばらく会えないことを寂しそうにはしていたが、それ以上突っ込んで聞かれることはなかった。

 レナードの家を訪ねることもなくなり、いつもとは違った買い置きを揃えて引きこもりがちになっていた。そんなある日、病院から魔術を使いに来てほしいと要望があった。発情期が近いことを伝えたのだが、患者の症状も芳しくないようで何とかならないか、と食い下がられる。

 薬を服用し、誰か番持ちを付けてくれ、と言うとミィヤが付き添ってくれる事になった。普段は使わない香水を振り、首には防護用の頚飾を填めて髪を下ろす。

 急ぎだったのか、ミィヤはすぐに小屋を訪れた。

「ごめんね急に。こんな時期のニッセを引っ張り出したくなかったんだけど、代わりができそうな人が全員不在で……」

「いや。もともと僕のフェロモンは強くないし、人を選ぶ匂いだからまだいい。魔力相性がいい相手じゃなければ、発情期に引き込むこともないはずだ」

 近くにレナードさえいなければ、僕自身も匂いを振りまいたりはしないだろう。

 彼女と一緒に家を出ると、特殊な患者用の裏口を通って院内に入り、人が通らない通路を選んで処置室へと向かった。僕を出迎えた医師は、ミィヤと患者以外はいない部屋で病状と患部の説明をする。

 身体の中央付近で、血の流れる管が詰まりかけているらしい。位置の把握に慣れていないと、適切な場所を拡張した上で術を固定できない。人を選ぶ魔術であることは確かだった。

 眠っている患者の手に、そっと指を添える。違和感を覚えないよう、ゆるやかに魔力を込めていく。

 運良く口頭で指示された場所付近に詰まりを見つけ、魔力で捉えた。静かに詠唱を始めると、室内は僕の声だけになる。

「込める魔力量を決めたい。どれくらいの期間、持たせればいい?」

「とりあえず盛夏くらいまでかな。それ以降の維持が必要ならまた処置に来てもらうから、別の魔術師でも魔力の補給ができるよう、目印を付けておいて」

 問いに医師が答える。あとは薬品を投与し、経過を見ながらどれくらい魔術の補助を続けるかを決めるそうだ。あえて魔力を探りやすくする式を埋め込んでおけば、他の魔術師にも容易く維持魔力を供給できる。

 一通りの魔術を行使し、僕は患者の腕から手を離した。医師は体内を診る装置を動かし、魔術の結果を確認する。

「お見事。ニッセが院内にいなくなって、新しい魔術が頻繁に増えるようになったのはいいけれど、呼ぶのに時間が掛かるのが難だね。例の上司もいなくなったことだし、院内に戻ってこないかい?」

「今の一人部署も気に入っている。僕がいなければ、が無いに越したことはないしな」

 医師は確かに、と手短かに同意し、次の処置に移った。

 解放された僕たちは、部屋を出て、使った魔術の記録をするために事務室へ向かう。事務室は受付に近く、行き来が多い所為か扉も開け放たれている。僕たちも扉を閉めることもなく、筆記具と用紙が置かれている台に近付いた。

 普段どおり与えられた書式を埋めていると、暇になったのかミィヤは口を開く。

「そういえば、神殿で会ったお相手には発情期の話はした?」

 僕は魔術を埋め込んだ位置を記載し、細かく魔術式の仕様を書き添えた。位置を辿れなくなったら手間だろうな、と図示も始める。

「ちょっと、事情があってな。仕事が忙しいことにしてある」

「そう。必要なものがあったら昼休みにでも買ってきてあげるから、通信魔術でも飛ばしなさいね」

「ああ、そうだな。頼む」

 普段から、彼女には細々と頼み事をしていた。今まではお互い様だったのだが、これからは頼りっきりになってしまうのだろうか。

 コン、と筆記具の背で机を叩く。鈍い音が跳ね返った。

「……別に、上手くいってない訳じゃないのよね?」

「そういう訳じゃない」

「安心した。他の貴族の都合だかで雷管石を預ける羽目になったんだから、悪い相手じゃなくて良かったわよ」

 ふと、見知った匂いがした気がして振り返る。

 視線を向けた先、当然のようにそこに探している顔はいない。出入りが多い院内では匂いの元も多く、気のせいだったかと首を傾げた。

 僕が見つめた方を見て、ミィヤが問うてくる。

「どうしたの?」

「……いや。この時期は匂いに敏感になるな」

 求めているのはレナードの匂いなのだろうが、幻覚を見るようになってしまうほど、懐に入りすぎたのかもしれない。

 必要事項を記載し終わり、別の職員から確認を受けて病院を出た。裏口は暗く、職員しか使わない扉は端が錆びている。ぎぃ、と濁った音を響かせる扉を押して、外に出た。

 ミィヤに送られて小屋に戻り、また、と手を振り合う。

「今度、相手の人に会わせてくれない?」

「……考えておく」

「その返事で、予定が決まった試しがないんだけど」

 ミィヤとレナードの間で何があるとも思わなかったが、何となく避けてしまった。

 扉を閉めて部屋に戻り、魔術式を書き付けていた紙を拾い上げた。これからの体調の変化でまともに構築できる気はしないが、できる限り進めておくつもりだ。

 レナードから体調を気にするよう言われて、決まった休み時間を作るようになった。仕事のことを考えている時間は格段に減っているのだが、別に構築の速度は落ちなかった。

 なんだ、と肩すかしを食らった気分だ。僕はもっと、好き勝手に生きても良かったらしい。

 容器から実験に使う乾燥した葉を取り出すと、変わった匂いがする。そっと鼻先に当てて、すう、と息を吸い込む。

「嫌いな匂いじゃないかもな」

 ただ身の回りにあっただけの何か、が、そうではなくなっていく。開けるようになった窓から、風が抜けていって髪を揺らした。

 呼び鈴が鳴ったのは、その時だ。

 ミィヤが何か届けに来たのだろうか、玄関まで近付いて、匂いが違うことに気づく。なんでいるのだ、と動揺しながら、声を掛ける。

「……はい」

「急にごめん」

 扉の先から聞こえたのは、レナードの声だった。ひゅっと息を呑み、鼓動が高くなった。だが、まだ頚飾も身に付けたままで、匂いも香水の匂いが残っている筈だ。

 大丈夫、と胸に手を当てて自身を落ち着かせる。

「急に、どうしたんだ?」

 彼の声は、暗く沈んでいた。

「ごめん。訪ねるつもりはなくて、本当は、来ない方がいいかなって思ったんだけど……」

 不思議に思ったのは、レナードが扉を開けるよう言わなかったことだ。僕の事情さえも知っているかのように、扉の前で話し続ける。

 たかが扉一枚が、何故だか遠かった。沈黙も長かった。

「────他の貴族の都合、で神殿に雷管石を預けることになった、のは、本当?」

「……なんで、それを」

「受付の近くにいたら、ニッセの匂いがした。話しかけようと思って近付いたら……」

 僕がミィヤと話していた時に感じた残り香は、やっぱりレナードのものだったのだ。受付から事務室に近付いたところで、僕たちが話している場に出くわしてしまったらしい。

 彼はごめん、と謝罪して、僕は黙って聞いた。

「神殿に預ける切っ掛けになったのは、本当のことだ」

「じゃあ、……ニッセは別に番が欲しかった訳じゃないんだね」

 自嘲が含まれた響きに、ぞっと背が冷えた。怒っているわけではないのに、ただ闇が広がっているように昏い声音だ。

「俺が来て、がっかりした? それとも、そっちの方が、都合がよかった?」

 都合、は『今の彼と番になれないこと』を指している気がした。否定する言葉を躊躇った。ゆっくり関係を深められるほうがいい、と言い出したのは僕の方だ。

 指を握り込んで、扉の先に神経を研ぎ澄ます。

「いや。こんな、責めるようなことを言いたい訳じゃないのに。…………発情期すら、正直に相談できないような相手でごめん」

 扉に額を預ける。体温が伝わらないことが分かっていて、そっと冷たい板に指を添えた。コトン、と何か音がして、足音が遠ざかっていった。

 扉を開ければ追える距離にいるはずなのに、僕の脚は竦んで動かない。強張りが解けたのは、彼がかなり遠くに行ったであろう時間が過ぎてからだった。

 扉の鍵を開け、万が一を期待して視線を向ける。見つめる先には、誰の姿もない。その代わり、振り返った扉の引き手には紙袋が掛かっていた。ゆっくりと開くと、すぐに食べられる日持ちのする食品が、袋一杯に詰め込まれていた。

 会えない、と言ったから、品だけでも置いて帰るつもりだったんだろう。袋を玄関に引き込んで、鍵を掛け、ずるずると扉にもたれ掛かる。

「…………あれ。なんで」

 視線の先、玄関の床がまだらに濃く濡れる。頬に手を当てると、べったりと湿っていた。ごしごしと服で目元を拭うが、また、ぽたりぽたりと雫は落ちていく。

 はぁ、と細切れに息を吐いて、静かに泣き崩れた。

 

 

▽7(完)

 一頻り泣きじゃくって落ち着くと、気落ちしていても手は動く。その日は予定通りに仕事を片付けた。

 貰った食品を腹に詰め込み、普段よりも早い時間に気絶するように眠り込んだ。

 翌日は、泣き疲れたのか、昼過ぎに目を覚ました。

 明らかに寝坊だ。その日の予定も達成できるものではなく、もういい、と術式の書かれた紙を机に放り投げた。荷物を床に投げ落としたソファの上で、丸まって視線を部屋の隅に向ける。

 彼になんと言えばいいのかも分からなかったし、元に戻れるかどうか、先が見えなかった。謝るのは経緯を黙っていた僕であるべきだし、全ての切っ掛けを作ったのだって僕だ。

 ごろり、と寝返りを打ち、少しずつ変化しているであろう匂いを吸い込む。

「謝りに行くのだって、この時期に行くべきじゃ……」

 もし彼を発情期に引き込んでしまったら、互いに泥沼だ。打つ手がない。全ての道が塞がれて、僕はただ寝転がるしかなかった。

 窓の外は明るく、鳥の囀りは美しいままなのに、僕はそれらの全てから取り残されている。

「…………お腹空いた」

 起き上がり、昨日届けられた紙袋を開いた。

 普段買わないようなパン、ごろりとした果物、少し高くて買おうとしない菓子。目に付いた物を開いて、口に放り込んだ。甘ったるい味がどっと襲ってくる。

 次から次に口に放り込むが、そこまで食べ進めないうちにお腹がいっぱいになった。熱量がたんまり詰め込まれた生地は、僕の脆弱な腹には重たすぎたらしい。

 くく、と声が漏れ、なんにも面白くないのにけらけらと泣き笑いの声を上げた。

「甘くて美味い。…………────謝りに行くか」

 好き勝手に生きていい、と背中を押したのはあの男だ。方針を変えた後の道筋を、一緒に歩んで貰わねば割に合わなかった。

 昨日と同じように準備を整え、ローブから埃を払った。日持ちしない食材は保管庫に放り込んでおく。髪をゆるく編むときに、首筋を撫でた。誰も歯を立てたことのない滑らかな肌は、譲り渡してしまうつもりだ。

 院内の事務には休みに入ると伝え、発情期の休暇に入る形にしてもらった。これからは連絡は受けられないかも、と言い添えておく。

 病院の前に馬車を呼んで、人のいない道を通って馬車を待った。僕たちのようなオメガ相手に商売をしている馬車は気密性の高い造りで、番持ちの御者が扉を開く。

 場所を告げ、金を払うと、馬車はくるくると車輪を回し始めた。速度はゆっくりと上がり、カタン、カタン、と軽快に道を駆けていく。視線を窓辺から外に投げる。明るい陽光はまだ僕にとって眩しすぎるが、いずれ変わっていくんだろう。

 レナードの家に辿り着き、馬車が遠ざからないうちに合鍵で家に上がり込む。予想通り家主は仕事中のようで、家の中は静かだった。

 彼の本棚から初心者向けの料理本を数冊持ち出し、ソファに沈み込んだ。読み込む余裕があるとは思えなかったが、家主が帰ってくるまでの数時間は途方もなく長い。

 天頂近くだった陽がやがて水平線へ向かって傾き、色味を変えていく。それまでの間、ただ僕は文字に目を滑らせながら、感情を整理していた。

 かちゃり、と玄関から音が響いてきたのは、日も落ちきって更に数時間経った頃だ。光が灯っていることを不思議に思ったのか、音は普段よりも荒い。本を閉じ、ソファから立ち上がった。

 そろそろと廊下を歩いて玄関に向かうと、扉を開けた彼と鉢合った。視線の先で、レナードの目が見開かれる。

「あ。そこで一旦止まってくれ」

「……は?」

「発情期が近いんだ。事故が起きたら辛いのはレナードだと思う」

 駆け寄らんばかりの空気が萎んだのを確認すると、僕は口元に笑みを浮かべた。

「話したいことがある。距離を空けて、付いてきてくれ」

 踵を返して廊下を戻り、さっきまで過ごしていたソファに腰掛ける。彼は律儀に僕と距離を取り、踏み台を兼ねた椅子を持ち出して向かいに腰を下ろした。

 座ってなお呆然とした表情は、僕の勢いに呑まれた時のままだ。

「……謝りに来た。神殿で会った時にレナードの誤解を正さなかったのは、紐解く手間を面倒がったからだ。申し訳なかった、と思っている」

 震える声音を堪えながらほぼ一息で言い切って、伝えたいことはこれではないと気づく。髪に指先を絡めて、息と共に解いた。

 視線を合わせ、感情が見えない瞳の奥を見つめる。

「初めて会った時、……レナードに不満はなかった。いずれ番になれたら、と思う気持ちはあるが、身体のこともある。急がせたり押し付けたいとは思わない。ただ、今までのように、会って。話がしたい」

 泣き出しそうになるのを堪えて、何度も考えた言葉を口に出す。上手く言えているかさえ分からなかったが、必死に言葉は続けた。

 指先が震えるのを握り込んで殺し、表情を押さえつける。

「レナードと会えて、僕は……幸運だった。許してくれるのなら、これからも傍に置いてくれないか」

 言葉が途切れて、沈黙が下りた。

 目の前にあった瞼が伏せられ、彼の唇が震える。掌は身体の前で組まれていた。血管が浮き、変に力が籠もっているのがわかった。

 夜も深まる時間の外は静かで、迫る闇のようにひたひたと不安が肩にのし掛かってくる。目の前の男が、僅かに口を開いた。

「……君が心を開いてくれている事は、分かっていた筈なのにね。なんで、信じ切れなかったんだろう」

 彼は椅子から立ち上がり、何もかもを放り投げるように僕の隣に腰を下ろした。回った腕に肩を引き寄せられ、そのまま抱き込まれる。

 空気に飲まれて抱かれていたが、慌てて腕の中から逃れる。

「レナード……! 発情期が近いんだって……」

「構わない。君に発情期に引き込まれて勃たないんなら、もう治らないよ」

「投薬と魔術の行使で治るに決まってるだろ……! 離せってば……」

 ばたばたと腕の中で暴れるのだが、上手いこといなして抱かれ続ける。近くでアルファの匂いを受けたら発情期は早まるに決まっているのに、腕の中から逃がそうとはしなかった。

 魔力の境界は綻んで、一日働いて魔力が減っているレナードの方へと流れていく。綻びの端を閉じようとしても、上手く扱えなくなっていた。

「何か……これ、ニッセの魔力?」

「そうだ。悪い……制御が効かなくなっていて、そっちに流れ込んでしまっている」

 ふぅん、と彼は手元を見つめると、ぎゅ、と握り込んだ。

 次第に混ざっていく魔力の中で、感じ取れていた妙な波が、僕の形に変わっているのが分かる。魔力量が多い所為で、大波がレナードの歪んだ波を押し流している形だ。

 僕は、唇に手を当てる。

「レナードは、どういうものを見たら勃起する?」

「…………は? なに、突然」

「いま、魔力がいい形で流れているんだ。ここで精神的な興奮があればと……」

「ああ、そういう話か。でも、君には言わない」

 恥ずかしがっているのは分かるのだが、ちょうど魔力の波が整っている状況なのだ。ここで元通りに勃てば、彼の場合、一度を身体が覚えて再現できるようになるはずだった。

 彼の服を握り込んで、逸らされた視線を見つめる。

「言わない、とは?」

「………………」

 無言で天を仰ぐ様子に、ぐいぐいと服を引く。話せ、と目を細めて促すと、彼は諦めたようにようやく口を開いた。

「君、……が、淫らな格好をしている、とか。体勢をしている、とか」

「ああ。なるほど、本人相手に言いづらかったと」

 そういうことなら、と上着の裾を捲り上げる。持ち上げた裾の下からは、陽光を知らない、真白い腹が覗いていた。

 固まったまま反応は返ってこない。違うのだろうか、と首を傾げ、シャツの釦を外す。鎖骨が見える位置まで外し終えたところで、制止するように指先が割って入った。

「ニッセ……!」

「興奮しないか? 下がいいか」

 下の服に手を掛けると、それも割って入られた。頭を抱えるように肩が丸まり、ぐい、と僕の身体が引き離される。

 落ちきった視線の先を辿ると、彼の股間が大きく下から持ち上がっていた。

「……頚飾も外して、紛らわすための匂いを落として、フェロモンを強めてもいいか? そうしたら、このまま発情期に引き摺り込んでしまうが」

 試すように顔を寄せると、首筋に彼の手が掛かった。ぐい、と引き寄せられて唇が重なる。噛み付くような口付けは、軽く唇に歯を立てて離れた。

 見慣れた色の筈なのに、瞳の奥にはぞっとするような欲が覗き見える。アルファが欲を吐き出す術なく薪を重ね続け、僕はその根元に火を点けたらしい。

「誘ってるの、分かってる?」

「項を噛みやすくしようとしている時点で、自覚はある」

 力の緩んだ腕から抜け出し、首元の留め具を外した。髪さえ上げてしまえば項は露わになってしまう。

 机の上に頚飾を置いて、浴室へと向かった。装置を使って湯を張りつつ、服を脱ぎ落とす。

 廊下から足音が響いてきた。近寄ってきた音は、扉の前で止まる。扉を開いて、顔を覗かせた。

「まだ身体を洗い終わっていないが?」

「……生殺しにも程があるよ」

 彼の視線は、僕の身体に向けられている。こくん、と唾を飲み込んだのが分かった。

「じゃあ、洗ってくれるか……?」

 そう言って唇を持ち上げると、情けない声が上がった。僕が手招きするように浴室へ向かうと、後を追うように脱衣所で衣擦れの音がした。

 頭から湯を被り、アルファの嗅覚に干渉する香水を擦り落とす。鼻先を擦り付けて何の匂いもしなくなったことを確認して、身体に手早く泡を纏わせた。

 バン、と叩き付けるように浴室の扉が開く。

「遅かったな。もう洗い終わってしまうぞ」

 立ち上がって彼の胸元に飛び込むと、触れた場所から泡が移った。ぼたぼたと泡の塊が床に落ち、迷う指先には白いものが纏わり付く。

 ややあって、その掌は背に回された。ぬる、と滑りを借りて撫で下ろす。

「…………ン、う」

 腰を撫でた手が、尻に回って鷲掴む。僕の中ではまだ肉感的な部位だが、やせっぽちの身体に興奮できるのだろうか。

 そう思って視線を下ろせば、形を変えた雄とかち合った。見上げると、ちゅ、と唇を盗まれる。

「……興奮してくれているな。持続できるといいんだが」

「縁起でもないこと言わないでよ」

「触ろうか?」

「後でね」

 泡を纏った指先が胸元へと這う。周囲を撫でられた感触で尖ったそこを、ぐりぐりと押し潰した。

 泡の付いた先端は、温度に色を変えている。

「…………ん、ぁ、……っふ」

 浴室に響いた声が耳に届くと、かっと頬が染まった。唇を閉じ、声が漏れぬように力を込める。

 僕の様子に気づいた男の指は、更に執拗に普段は隠れている場所を苛める。

「…………も、い……だろ」

 押し退けるように入らない力を込めると、相手は不自然なほど素直に引いた。僕の身体に湯を掛け、自らの身体にも泡を纏わせて洗い流す。

 ぽたぽたと水滴を垂らしながら、僕は慣れないことに視線を彷徨わせた。

「行こっか」

 浴室から出ると、レナードの手ずから全身の水分を拭い取られる。僕は髪を乾かすと同時に、こっそりと褥で使う魔術式を混ぜて発動しておいた。身体の奥を傷付けない程度に留め、交合を楽しむような類のものは省いておく。

 彼はいちおう寝間着を着ていたが、上は羽織る程度に留めている。

 僕も脱いだ下着をまた身に着けることは許されず、寝間着の上だけを渡された。手近にあったレナードの寝間着で、腕の裾は振り回せるほど余る。困りながら先の方を折っていると、でれ、と崩れた表情のまま見守るアルファがいた。

 頼りない指先で、彼の掌に手を伸ばす。

「僕は、……僕の本心を尊重して、僕を大事にする。その為に、レナードと、番になりたい」

「俺だって、番になりたいのは君とだけだよ」

 指先を絡め合って、縺れそうになる脚を動かしながら寝室に雪崩れ込んだ。

 扉が閉まる瞬間、腰に回った腕に身体ごと引き上げられる。大きな身体が覆い被さり、開いた唇から舌が潜り込んだ。

「……ん、ぁ……ッふ、っく」

 縮こまった舌は掬い上げられ、ちゅくちゅくと唾液を混ぜながら口づけを重ねる。皮膚で触れ合うよりも、粘膜同士の接触には境界が無い。周囲はアルファの匂いでいっぱいだ。息を吸い込む度に匂いを呑み込んだ。

 は、と唇が離れた瞬間に息を吸う。

「一気に匂いが強くなったね」

「いま噛んだら、番になれるか?」

「試してみようか」

 こくん、と頷き、導かれるままに寝台に腰掛ける。肩に掛かるばかりだった服は容易く落とされ、ただ僕だけの匂いがする身体がその場に残された。

 ちゅ、とまず頬に触れた唇が、首筋を伝うように伝い落ちる。軽く歯が当たると、そのまま項まで噛まれるようでぞくぞくした。覆い被さる身体を受け止め、後頭部を撫でる。

 唇は、さっき指先で嬲られた場所に辿り着く。まだ名残がある粒が、舌先に捕らわれた。

「────っ、ぁ!」

 輪を描くように舌が伝うと、唇を窄め、ぢゅう、と吸われる。ざりざりと舌先は粘膜を擦り、知らない刺激を与えてきた。唇が胸の肉を食み、口内で弄ばれる度に、新しい感覚に目眩がする。

「……っ、う、……っ、ぁッ…………」

 空いている側も指先で捏ね、丸い爪の先を食い込ませる。指の腹が先端を押し潰し、背を使って跳ねさせた。ふる、と余韻に揺れるそこは、見知った色形をしていない。

 怖くなって、彼の唇の前に指を差し入れる。

「……ッ、今日、……は、そのくらいで、いい……」

「……まあいいか。これも後で、ね」

 眼前でにっこりと念押しする顔立ちには、愉悦が浮かんでいた。こく、と頷くと、ようやく彼の指が乳首から離れる。

 掌は胸から腹に下りた。肉付きは薄く、摘まんで引かれても皮ばかりだ。腰から尻に掛けてだけは丸く、ここ最近食べさせられてきたこともあって柔らかさが増している。

 腹を撫でていた手は腰を経由し、股へと向かう。茂りを一房つまみ上げて、髪にするように撫で付ける。さわさわとした微細な刺激がもどかしかった。

「……すこし待って」

 寝台の横に置かれた小机の引き出しが開かれ、中から小さな瓶が出てくる。まだたっぷりと中身が残ったその瓶は、開封されて間もない。

 彼は瓶の中身を手に広げる。匂いもない液体は、ただ潤滑のためだけにあるかのようだった。

 レナードは濡れた指先で茂みに分け入る。液体に濡れた部分から蔦のように指に絡み付いた。

 中心に辿り着いた指が、それを引き上げる。

「良かった、感じているみたいだ」

 長い指は根元に伸び、すり、と指の腹で軽く擦った。

「ひッ────!」

 発情期には幾度となく自らの指で慰めてきた場所だったが、他者の違う指で触れられるのは全く違う感覚だった。ごつごつした指は浮き出た骨がよく分かり、大きな掌は覆うように広い範囲を扱く。

「あ……、ゃ、……っ、ぁあッ……!」

 指先が鈴口に食い込んだ。こぷり、と溢れたものを掻き出すように促され、だらだらと涎を零す。唇は閉じることを許されず、ただ、言葉にならない声を上げ続けた。

 造りの違う手が、思いも掛けない動きで這い回る。絶頂に登り切らない位置で留められ、じわりじわりと時間が伸びるほど身体を苛んだ。

 指先が離れた時には、浮いたような感覚のまま彼を見上げる。

「物欲しげな顔……。もうすぐ、あげるからね」

 瓶の中身が股に垂らされる。腰を支えたまま肩を押され、寝台に倒れ込んだ。追う形で視界に入るレナードは、安心させるように額にキスを落とした。

 彼の手で、脚が割り開かれる。隠していられた場所が他者の視界の先に晒されている。

 溝を伝って落ちる液体に添って指は背後に回り、辿り着いた窪みの縁をなぞった。反応するようにひくりと動いたその中央に、指先が突き立てられる。

「────うぁ、あ……!」

 一気に輪を潜った違和感に、きゅ、と引き絞った。あやすように肉を捏ね、ぬめりを纏った太い指が奥へと潜る。傷付けないような慎重さはあれど、引かれる様子もなかった。

 くい、と内部で指が曲がる度、身体の中から押し上げられる。何処かを探っているだけのようだったが、意図が見えない怯えに爪先を丸めた。

「あ……ここ?」

「────え? ぁ、ひ……ぁあああッ!」

 指の腹でそこが押されると、ずぐりと響くような快楽が起きた。内部を明け渡している不安に縮こまっていた分身が形を変える。

 ぬるぬると滑る指が、僅かに膨らんだ場所を撫でさする。身体を揺らし、悦びを得ていることを示して尚、彼は拓く行動を止めない。

 男根で突き入る動きのように、滑りを使って洞を前後する。撫でていた場所をぐり、と押し込む感触は、あまりにも深く重かった。

「悦い、……ん、だろうね。涎が零れてる」

 光差す部屋では、青空のようだ、と思った瞳が僅かに光量の落とされた照明の下にある。いまは水底に似た色で、淀みがなくとも恐ろしかった。

 いくら優しくとも、寄り添えようとも。項を噛むのはあちら側だ。

「……ぁあ、あッ……、く。あっ、ぁ、あ…………!」

 それなのに、番になるために明け渡す場所はもっと奥。指で突かれる場所ごと巨きなものを受け入れることになる。

 怯えばかりであるはずなのに、胸はどくどくと高鳴っていた。怯えながら身体を差し出す行為を、この躰は嬉しがってもいる。

 ────あのアルファを、僕自身が選んだからか。

「ぁ、あ、ひぁ、……ッ、ぁあ────」

 声が濁りかけて来たころ、ようやく後腔から指が抜かれる。べっとりと濡れた場所が空気に当たり、ぞわりと背が粟立った。

 目の前で軽く羽織っていただけの服が落ち、その先に動くことに慣れた筋肉が覗く。続けて、剥ぐように下の服も脱ぎ落とした。

 ようやく長い拘束から解放されたように、その砲身はぶるりと震えて持ち上がる。ぱくぱくと鈴口は呼吸し、亀頭はびっしょりと濡れていた。

「項、見せて」

 身体を反転させ、後頭部の中央で髪を割る。髪の先を胸元に流すと、無防備な首の後ろにアルファの唇が当たった。柔らかく触れるだけの接触の後、軽く歯を立てられた。

 シーツの上に肘を突き、項ごと身体を晒す。やんわりと指が腰に絡みつき、掌全体で掴んだ。

 腰が持ち上げられ、後ろの輪に濡れたものが引っ掛かる。くち、と濡れた音が糸を引いて、招かれるままに、ちゅう、と押し付ける。

 縁は膨らんで綻び、軽く食めば嬉しげに絡み付く。啄むようなそれを何度か繰り返し、一層つよく腰が引かれた。

「────ァ! …………ひ。ぁあ」

 痛みはなかったが、圧迫感が酷かった。

 指よりも質量のあるものが、狭い孔を押し拡げていく。喉を開いて、嬌声なのか呻き声なのか自覚できないまま、呼吸を荒げて受け入れる。

「ぁ、ひ。……うぁ、あ、あ、ぁッ」

 持ち上げられている腰の感覚は次第に薄くなり、腰が押し付けられる度に視界の端で髪が揺れる。僅かに抜いて、押し込んでを繰り返しているうちに、何度繰り返されたのか分からなくなった。互いの呼吸音の合間に、結合部から立つ水音が混じる。

 ぱん、と残りを埋め込むための強い打ち付けで、ようやく尻たぶに相手の腰が当たった。指で届かなかった奥に届いてしまった先端は、膨らんだままその場所を押し上げている。

「分かる? ここ」

「……ぃ、ひッ。わか、な……────!?」

 どす、と感覚を教え込むように強く突き入られた。がくがくと身が震え、奥に居座る雄を食い締める。

「君との体格差だったら、ここ、届くかな、って思ってたんだ」

「ぁ、あ、うぁ、……ひ、ぐ」

「ここ……、やっぱり、入ったら先っぽが填まっちゃうね。で、抜くと──」

 ぐぽ、と身体の奥の弱い処が膨らんだ先端に拡げられる。

「やっ……ぁああ。ぁ、ぁは。────ぁああッ!」

「……っ、は。悦い、でしょう。発情期の間に、ここ、……もっと慣らそうね」

 もっと重い快楽がある、との予告に怯えて首を振る。拒否を聞いてなどいないかのように、はは、と態とらしい笑い声が上がった。

 奥を苛めるのに飽きたのか、限界が近付いたからなのか、彼の腕が腰を強く掴んだ。ぐっと引かれ、尻の肉を押し潰すように叩き付ける。

「────あ!」

「でも、まずは番になること、……かな」

 散々慣らして勝手を掴んだのか、抽送は最初から大振りだった。膨らみで捉えた部分を抉るように、身体の重さを使って押し上げられる。身体の中では先端から滲み出た魔力がだらだらと漏れ出ており、子種ごと含まされているのは分かっていた。

 憎たらしいほど滑りは良く、肉芯は容易く奥まで潜り込む。

「も、や……。……ぁ、あ、あ、あぁっ!」

「……っ、いや?」

「お、なか。おく、……ぐりって、……ぁ、も、イっ。ぐ、う」

 絶頂の縁で、あと少し、というところで雄が引いた。このままでは、何度も同じ寸止めが続くのだろう。

 ぐすぐすと滲み出る涙をシーツで拭って、背後を振り返る。

「く、くび……噛んで」

「噛んで。それで?」

「……おなか、なか、だして。欲し……ッ!」

 がくん、と腕から力が抜けて肩ごとシーツに倒れ込む。

 満足げに、ごくん、と唾を飲み込む音さえ聞こえるようだった。離れた首筋を追い詰め、アルファの牙が項に当たる。

 腰が抱え直され、大振りに引かれた筈の肉棒が叩き付けられる。重たい打ち付けに、こふ、と一時、息が詰まった。

「────ぁああン! ……ひっ、ぐ。ぁああぁぁぁあぁあッ!」

 がぶり、と容赦なく歯が皮膚に食い込む。痛みよりも、熱だった。強く牙が突き立てられた後で、埋まった雄から子種がぶち蒔けられる。

 狭い虚を堰き止め、奥に流し込もうとするように、腰は尻肉を潰したまま固定する。雪崩れ込んでくる魔力が止まっても尚、ぐりぐりと丹念に押し付けた。

 絶頂で引いた波が、圧迫されていることでじわりとまた動きを始める。僅かに体内の男根が動く度に、ゆるい快楽が与えられ続けた。

「……ひ、く……、……う、ぇ」

 逃げられない刺激に啜り泣いても、彼の手は僕の中心に掛かって扱く。もういい、と訴えると、ようやくレナードは言葉で返事をした。

「治ったら、今度は足りなくて」

 身体の中にあるそれは、次第に硬さを取り戻し始めている。いくら発情期といえど、あれだけ弄って貪っておいて、まだ前菜だとでも言いたげだ。

 ずるずると寝台を這って抜け出そうとしたが、後を追った身体が、どちゅ、と僅かに抜けた部分を突き上げる。嬌声を喉で殺して、シーツに倒れ込んだ。

「ぁ……ぁ、ひ、……っく」

「……だいたい一年分、かな。付き合わせちゃって悪いな」

 悪い、と思っていないような浮かれた声音で、レナードは僕の身体を抱き込んだ。溜まりに溜まったアルファの欲は、これから僕の身体に突っ込まれるらしい。

 交合の快楽によるものではない涙が、浮かんでいるのは気のせいか。

 周囲に彼の匂いしか感じなくなった身体を恨めしく思いながら、せいいっぱい身体を伸ばし、眠りから覚めたばかりの雄から逃れる。けれど、逃げる距離以上に押し付けられ、身体の中で形を変えていく感触を味わわされた。

「……ン、っく。…………ぁ、や」

「長引かないように頑張るから、ね」

 ちゅ、と彼の噛み痕が残った項にキスが落ちる。

 僕は都合のいいようにのたまうアルファの腕に捕らわれたまま、番と過ごすには長い発情期の始まりをちょっぴり憂うのだった。

 

 

 僕はそれまで通り、レナードの家に通う日々が続いている。泊まりが増えたことで仕事道具以外の荷物を色々と持ち込み始め、生活の拠点は移りつつあった。

 今日の僕の担当作業は終わり、ちょろちょろと彼の周辺をうろつきながら、出来上がっていく食事を眺める。

「────今日は帰りが早かったね。俺もだけど」

 普段よりも帰宅が早かった彼は、番が待っているなら、と副店長に帰らされたらしい。僕もまた、今日は仕事の進みが良く、切り上げる時間が早かった。

 数種類の刻んだ野菜を煮詰めた、甘酸っぱい匂いが台所中に漂っている。くん、と鼻を動かして、出来上がりへの期待を高めた。

「仕事を詰め込んでもいいんだけどな。手紙で母にも心配されてしまったし、すこし、ゆっくりしようと思っただけだ」

「そっか。一緒に過ごせる時間が増えて嬉しいよ」

 出来上がった料理を慎重に盛り付け、最後に飾り用の葉をてっぺんに添えた。できた、と宣言された料理を、両手で持ち上げ、小走りで新品の食卓に運んでいく。短い間隔で、軽快な音が床を叩いた。

 背後から付いてきたレナードは、愉快そうな声を上げながら残りの皿を両手に持ってくる。

「ニッセの顔色が戻って良かった」

 皿を食卓に置き、まだ座らずに待っている僕の頬をふに、と軽くつまむ。頬を膨らませて彼の指から逃れるのだが、今度は両手で頬を挟み込まれた。

 大きな掌に、指先を引っ掛ける。

「食べさせる誰かがいないと、すぐ悪くなると思う」

 言葉に含まれた分かりづらい愛情表現を捉え、彼はくく、と笑った。近付いてきた唇を、避けないまま受け止める。

 ちゅ、と音を立て、鼻先が掠める距離にある顔と視線を合わせた。

「じゃあ、ずっと一緒にいないとね」

「そういうことだ。…………愛してる」

 躊躇いと共に添えた言葉に、彼は眩しそうに目を細めた。だらしなく崩れきった顔立ちを、折角の男前なのに、と残念な気持ちで見返す。

「……甘いものに甘いものを足されると、こんな味になるのかなぁ」

 もう一回、と近付いてきた唇を受け止め、今度は料理が冷めない程度に長く味わった。

 

 

 番ができたことは、たくさんの人に伝えることになった。負い目を感じていた母にもだ。

 『番ができた』こと。『近いうちに紹介に行こうと思っている』こと。

 人生を振り返る中で、母が病床に伏せる原因を作ったことを『おそらく望まないだろうが』と前置いて、『ずっと謝りたかった』と綴った。手紙は、レナードの書いた便箋を同封して送った。

 父母からの返事は、彼らの使用人の手で二人分の花束と共に届けられた。

 便箋には、番ができたことを祝福する言葉と、『レナードへすぐにでも会いたい』という彼の手紙への返事。

 そして、僕の謝罪への言葉もあった。

『私はもうずっと前から、すっかり元気なのにね。

 こうやって手紙をしたためている間にも、ニッセが誰かを治している事を、貴方が携わった魔術が誰かを治している事を想うことがあります。そして貴方がいたから、助かったのであろう人たちを想像することも。

 そのたび、誰かを想う気持ちが巡っていく事は幸せなことだ、と。まだちいさかった貴方の笑顔を思い出すのです。

 だから、償いではなくて……─────』

 丁寧な字で綴られた文字はまだ続いていたが、目の前が滲んでとても読めたものではない。僕を横から抱き寄せたレナードは、黙って頭を撫で、崩れ落ちる肩を支えていた。

 よれてしまった便箋は、今は綺麗にたたみ直して保管している。

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