崖下で謎の美形アルファを拾ってしまった魔術師オメガさん

この文章はだいたい49500文字くらい、約83分で読めます
Loading「お気に入り」へ追加

※R18描写あり※
18歳未満、高校生以下の方はこのページを閲覧せず移動してください。
性描写が存在するキャラクターは全て成人済みです。
この作品にはオメガバース要素が含まれます。

 

▽1

 その日、崖の下で男を拾ってしまった。
 
 

 深夜とも言える時間に目覚めてしまったのは、妙な違和感を覚えたからだ。寝台から身体を持ち上げると、その違和感をはっきりと理解した。

 結界が壊れている。

 意識した瞬間、布団を跳ね上げるように起き上がった。寝間着の上にローブを羽織り、縺れる脚を正しながら廊下を駆け、玄関へと辿り着く。

 昨日は雨も風も酷かった。

 今は小雨が降っている程度に落ち着いているが、地面は泥濘んでいることだろう。靴を履き、魔術で光球を点しながら外に出る。

 足を踏み出すと、ぐちゃりと柔らかい泥で靴底が汚れた。

「妖精。人の気配はあるか?」

 尋ねると、ひょい、と肩に何かが乗っかる気配があった。ローブの懐に仕舞い込んでいた眼鏡……魔術装置を着用すると、ぼんやりと像を結ぶ。

 ちんまりとした胴体、丸い頭。二等身の人形のような形状の存在が、肩に座っていた。

『たいかは?』

「飴を四つ」

 小さな手が持ち上がり、北方を指す。

『あっちだ』

 人ではない妙な響きが耳を揺らした。指された方向へと駆けていくと、早々に息が切れる。

 呼吸を整え、口を開いた。

「我が脚は雷光を運ぶが如く、この一時翼を持つ」

 魔力が足元に絡みつき、纏うように収束する。脚を動かすと、異様に軽く浮いた。

 身体強化の魔術。俺はこういった魔術を連発できる程度の魔力を持ち、魔術の知識もあった。人からは、魔術師、と呼ばれる。

 月明かりもない夜道を、フードを被ったままただ駆ける。結界が悪意ある人間の手によって破られていたのなら、追い返さねば実験小屋が危うい。

 木々が密集している場所を抜けると、崖に辿り着く。おっと、と脚を止め、肩に乗る妖精に視線をやった。

 ちいさな指先は、崖下を指している。

「下か?」

『そうだ』

 その場で軽く跳び、脚の感触を確認してから崖下を覗き込む。暗く、底は見えそうになかった。

 雨に濡れた頬に、強く風が吹き付ける。記憶にある限り、この崖は無策に飛び降りれば死にうる高さだ。

 あーあ、と息を吐いて、その場から身を躍らせる。

「風よ跳ねろ!」

 詠唱した魔術が起動し、ふわりと身体を浮かせる。魔力を持続させて着地すると、地面に倒れ伏す男の姿があった。

 結界を破壊した侵入者、という予想は外れだったらしい。先に壊れた結界を修復し、そろそろと男に歩み寄る。

 男の近くには、数カ所、焦げ跡があった。

「落雷……? 雷の当たり所が悪くて魔術結界を壊したのか? でも、落雷ごときで壊れるような結界じゃないんだが……」

 こつり、と靴のつま先が何かに当たる。拾い上げると、大きく透明な石だった。雷管石、と呼ばれる、神が落とした雷によって生まれる石だ。

 成程、と石を握り込む。

「神の手による雷が落ち、神術に近い効果を発揮したのか。魔術は神には通らないとされているが、逆ならば干渉することも容易いのかもしれない。力の痕跡を追って結界を張り直────」

『おい。たおれているにんげんは、いいのか?』

 ぺし、と妖精の手で頬をはたかれる。

 倒れている人間を忘れ、神の力の一端に興奮している姿は、妖精から見れば人でなしに見えただろうか。やれやれ、と呟いてフードを下ろす。

 零れ出た暗褐色の髪は闇に解け、暗い中で点る灯りに緑の目が浮かび上がる。もし俺以外がいれば、不気味に思う光景であろう。

 倒れている男は、武器を身につけてはいないように見える。そろそろと近寄り、身体に触れるが、確かに無防備なものだった。

「体温が低い。頭に傷、脚は折れてるかもなこりゃ……。死にかけじゃねえの。面倒だし見捨てていいか」

『ひとでなしが』

「妖精に言われちゃ世話ないな。……助けるべきか?」

 うーん、と頭を傾け、眼鏡に付いた水滴を拭う。ぴくり、と男の手が動き、俺の腕を掴んだ。

 ぎりぎり、と一瞬だけ痛いほど握り締められるが、次第に力は緩む。

「…………たす、け……」

 喉の奥から振り絞るような、僅かな声量だけが雨音を掻き消した。

 俺は肩を落とし、頬に張り付いていた髪を払い落とす。

 医療魔術を通すために魔力を流すなら、皮膚に触れる方がやりやすい。粘膜なら、尚のこと良い。

 相手が拒絶したくなるような魔力を持っていない事だけを願った。

「────王子様でなくて悪いね」

 覆い被さるように、唇を重ねる。魔力の境界を溶かし、自らの魔力を注ぎ込む。

 一番悪いのは頭の傷だ。相手の身体を自分のものとして、魔力を通して圧を掛けた。手早く治せる傷を、魔力を吹き込んで修復していく。

 長いキスの後、唇を離すと、体温が上がり、相手の呼吸が僅かに穏やかになった。はあ、と息を吐き出す。

「これで死ぬこたねえだろうが。今からこいつ抱えて帰るのか……」

『おひめさまだっこをせねばな』

「うるせ」

 相手の腕を肩に回し、よろよろと立ち上がる。おそらく、この男はアルファだ。

 魔術で強化した身体においても、体格差のある相手を移動させるのは骨が折れる。背負い、ずりずりと長い脚を引き摺るようにしながら、実験小屋へと歩を進めた。

 

 

 暖炉に薪をくべ、乾いた服へ着替えさせた男を暖める。頭には包帯を巻き、脚は添え木で固定しておいた。

 生命維持に必要な分だけ見様見真似の魔術で治したが、自然治癒に頼るに越したことはない。

 ちらり、と男の顔を見る。

 印象的なのは、泥水を拭った下にあった鮮やかな赤毛だ。髪質は良く、肌の状態を加味しても悪い暮らしはしていないように思う。

 服は布地も薄く、庶民が手に入れやすい安価な素材だ。だが、アルファであろうという予想と、顔立ちが非常に整っている事実を加味すれば、服が素性を示すかは怪しい。

 持ち物に身分を示すような品はなかったが、かえって違和感があった。この周辺に住む人間が山に立ち入ったと想定するなら、あまりに山を軽く見過ぎ……持ち物が少なすぎるのだ。

 疑問ばかりが提示されて、答えがない。男が目を覚ますのが待ち遠しかった。

「起きねえなぁ……」

『しにかけのにんげんに、むりをいうな』

 俺が男を見つめて呟くと、頭のてっぺんを、ぎゅむ、と押された。妖精を引っ掴んで暖炉に近づけると、器用に擦り抜けて手の甲を引っぱたかれる。

 無言の攻防の間にも、ぱちぱちと火の爆ぜる音が響いていた。

「なあ。妖精、こいつアルファだよな」

『たいかは?』

「毎度毎度、けちくせえ」

 近くのテーブルに置いてあった瓶を引っ掴み、蓋を開ける。カラン、と瓶が涼やかな音を立てた。

『あめよっつ、もまだだ』

「ほんと、貰う方は忘れないよな」

『はたらくほうも、わすれはせぬ』

 ひとつかみの飴を妖精に降らせてやると、全てを見事な動きで受け止められた。

 大きな飴玉を頬張るほっぺが丸く膨らむ。

『もごごもごもご』

「待て待て。いま報酬を払うな、聞き取れん」

 妖精はしばらく頬を動かすと、ごくん、と飲み込んだ。

『にんげんのことばでいう、あるふぁ、だ』

「だよなあ、面倒。回復の間は面倒を見てやりたいが、性的に事故りたくねえし」

 放り投げてあった手帳を書類の山から引っ張り出すと、紙が崩れた。妖精はぴゃっと驚いて俺の肩に乗る。

 山中の一軒家……実験小屋の居間に当たる場所は、暖炉と机、男が寝ている長椅子でいっぱいになるほどの狭さだ。その狭い居住空間を、紙と本が更に圧迫している。

 俺が雷管石への魔力的な干渉を研究したくて山に入ってから、もう一年は経っただろうか。

 稀に神の雷が落ちることがある。この山は、そんな珍しい土地だ。

 モーリッツ一族は、末席とはいえ貴族として名が知れている。この山も、別荘として建てられた実験小屋も一族の所有物で、借り受けることは容易かった。

『おまえがか?』

「事故るよ。オメガだし」

 妖精の顔に、暖炉の火の色が移った。瞳は興味深そうに揺れる炎を眺めている。

 この小さい存在は、元から実験小屋に棲み着いていたらしい。

 小さい頃から妖精の声を聞き取れた俺が言葉を返すと、面白がって付き纏うようになった。姿が見えないと悪戯をされまくる所為で、姿を見るために眼鏡型をした魔術装置を作る羽目にもなった。

 名を呼んでやりたかったが、どうやら名前は無いそうだ。妖精は個が全であり、妖精は妖精でしかないのだと言う。

『あいてにも、えらぶじゆうがあるわけで』

「お前は人間じゃないから分かりにくいんだろうが、発情期はそういうもんじゃねえの。こんなことなら、適当に番を作っておくんだったかなぁ」

 この世の中には、男女という性の他にアルファ、ベータ、そしてオメガという性がある。この男のようにアルファは体格に優れ、知性も高い個体が多い。

 オメガは生命を産む性であり、生命力、転じては魔力量にも優れている。俺と同じように、魔術師の適性を示す者も多く存在する。

 アルファとオメガの間には、番という関係が存在する。オメガは、発情期と呼ばれる時期、フェロモンで人を誘おうとしてしまう。やたらめったらに人を誘えば社会の混乱を生む。

 だが、この発情期も番関係が成立してしまえば大人しいものだ。オメガは番しか誘えなくなり、アルファも喜んで番とまぐわおうとするだけで済む。

「そういや。さっき、雷管石を拾ったんだっけ」

『くれ』

「やだ。そこら辺で拾った石とはいえ雷管石なんだから、魔力を込めて神殿に預けたら、運命の相手を探してくれるんだぞ」

 国自体も、アルファとオメガの番関係を推奨していた。

 その最たる制度に『神殿へ雷管石に魔力を込めて預ければ、神殿に所属する鑑定士が魔力的に相性のいい相手を教えてくれる』というものが存在する。

 神の雷によって生まれた石は、内部に魔力を永久的に保持する。鑑定士は神の加護を受け、魔力を目で視て、調和する魔力を探せるらしい。

 机に転がしていた雷管石を持ち上げると、透き通った存在の先に炎が揺れた。

「よし。さっさと治して、追い出そう」

『おー』

 横から髪が引っ張られた。指先で弾こうとすると、肩の上をちょろころ動き回られて困る。

 その日は眠たくなるまで、炎の立てる音を聞き、男の整った顔立ちを眺めて過ごした。

 

 

▽2

 早朝に、窓から入る光で目を覚ます。流石に人を入れるには散らかりすぎか、と居間を僅かに片付けて朝を過ごした。

 日が昇っても男は目覚めることはなく、朝食だと喚く妖精に従ってパンを焼き、干し肉を囓る。

 妖精は朝食の間も、やれ果物をよこせ菓子をよこせ、と五月蠅かった。

「起きないな」

 妖精は男の頬をぺち、と叩く。頭を動かすな、と慌てて小さな服を摘まみ上げ、距離を取った。

『おひめさまは、くちづけでおきる』

「昨日から何だ、流行りか?」

 とはいえ、長いこと意識が戻らないのも良い事ではない。長椅子の近くに屈み込み、手を握った。

 魔力を流すと、頭の辺りに滞っている流れを感じ取る。ううむ、と唸りつつ魔力を調整し、少しずつ流していった。

 ぴくりと指先が動いたのは、その時だった。

「お」

 瞼が震え、眩しそうにしながらもゆっくりと持ち上がる。

 僅かに開いた場所に置かれた瞳が、日差しを受けて煌めく。晴れ渡る空ではなく、深い淵の色。此処からは遠い海のような、青色があった。

 男は俺の姿を見ると、ぱちり、ぱちりとゆっくり瞬きをする。緩慢に腕を持ち上げ、頭の傷に触れた。

「…………あれ、僕、は」

「おはよう。あんた、崖の下に落ちてたんだ。なんで山に入った?」

「崖……、山?」

 男は起き上がろうとして、脚の痛みに呻く。脚を痛めている、と指摘してやると、添え木を見て眉を寄せた。

 頭の傷、身体中の擦り傷。片足は打ち付けて腫れ、文字通りの満身創痍だ。

 彼は起き上がることを諦め、僅かに首だけを動かす。

「ごめん。…………説明をしたい気持ちはあるんだけど、思い出そうとしても、何も浮かんでこなくて……」

 困ったような表情からは、騙そうとしてくる人間の悪意を感じない。魔力の流れも生来のものは穏やかで、悪人には無い傾向の波形だった。

 助け船を出すように、口を開く。

「頭を打ったんだ。記憶障害の症状が出ているのかもしれないな。覚えていることは?」

「…………暗い夜に、雷の音がして。倒れたんだと思う……それくらい?」

 おそらく、彼が倒れた瞬間の光景だろう。だが、名乗ろうとしない事に違和感を抱いた。

「あんた、名前は? どこから来た?」

「名前……」

 彼は思い出そうと視線を巡らせ、そして眉を下げる。思い出そうとして思い出せなかった事が、言葉に出さずとも伝わってしまう。

 男は長椅子に置かれた枕に頭を預け、ほんの僅かに顔を揺らした。

「思い出せない。……ごめんなさい」

 すんなりと謝罪の言葉が出てくるあたり、やはり悪事を目的に山へ入った訳でもなさそうだ。

 持ち物の中にも、密猟したと思われるような品はなかった。

「なぁ。もし、あんたが俺に危害を加えないなら、しばらく家に置いてやる」

「本当に?」

「ただし変な真似をしたら、その脚、本当に動けなくなるまで叩きのめす。いいか?」

「…………うん。思い出したら必ずお礼をするよ。……お世話に、なります」

 悩みを挟みつつ、答えが返ってくる。本当に盗みや傷つけることを目的とするような気質なら、こうやって礼の約束だってしない筈だ。

 俺は彼の着ていた服を差し出し、持ち物などがなかった事を伝える。全く何も、財布すらもなかった事に本人も驚いていた。

 痛む頭を枕に預け、彼は天井を眺める。

「僕は、何者だったんだろう……?」

「それは俺の方が聞きたいよ」

『ようせいも、ききたいぞ』

 男はその瞬間、不思議そうにこちらを見る。動かない頭に苦労しながら視線だけを巡らせ、何かを探しているような素振りをした。

 俺が男の様子を見守っていると、ようやくこちらに視線が向く。

「あの、君以外に子どもはいないの?」

「子ども?」

「いま『ようせいも』……、『妖精も聞きたい』かな。そんな言葉が聞こえてきて」

『めずらしいな。ようせいのこえが、きこえるようだ』

 妖精が喋ると、男はほら、というように言葉の発された方を指差す。少し方向はずれていたが、間違いなく声を拾っていることが分かった。

 妖精の声が聞こえる人間、というものは珍しい。大人になって尚、聞こえる人間は更に珍しい。

 先天的に素質がある血筋か、昔から妖精に親しい生活をしてきたか。何にせよ、実験小屋でしばらく暮らすつもりなら、説明しておくほうが面倒がないだろう。

 俺は自分の眼鏡を外すと、そっと彼の眼前に寄せた。

 眼鏡越しの妖精は男の前に歩み寄ると、よ、と小さい手を挙げる。男は目を見開くが、律儀に動かない腕を持ち上げようとした。

 俺は呆れた表情を浮かべ、まだ傷の残った腕を毛布へ押し戻した。

「この小屋には『自称』妖精が棲んでいてな。食べ物や美しい品を渡すと家事をしてくれるから、同居してもらっている。あんたの世話も頼むかもしれない、勝手に物が動いても驚かないでくれ」

「…………妖精って、伝説の存在じゃなかったんだ」

『みえぬからといって、でんせつにするでないわ』

 男は頭に乗っかった妖精から、傷のない箇所を引っぱたかれている。

 俺は眼鏡を回収すると、自らの目元に戻した。男の視線が眼鏡に移る。

「その眼鏡、お手製なの?」

「いや。既存の眼鏡に術式を埋め込んでいるだけだ」

「へえ。予備とかって……」

「意外と厚かましいな。……いいけど。ちょっと待ってろ」

 居間から廊下に出ると、倉庫に移動して棚を漁る。何とか昔に実験用具として使っていたもう一つの眼鏡を取り出すと、記録しておいた術式を埋め込む。

 居間へ戻ると、見えないのをいいことに男の髪は妖精の悪戯でぐちゃぐちゃになっていた。

「やめてやれよ」

 そう言い、しゃがみ込んで男の目に眼鏡を掛けてやる。妖精の姿が見えるようになった男は、掌で攻撃を防げるようになった。

 妖精を押し遣りながら、彼は俺へと視線を向ける。

「ありがとう。そういえば、君の名前を聞いていなかった。教えてもらえるかな?」

「ああ。そうだったな。コノシェという、コノシェ・モーリッツ」

「『モーリッツ』?」

 男は顎に手を当てると、何かを考えるように視線を持ち上げる。だが、思い出せなかったのか、悲しげに目を伏せた。

「なんだろう。姓の響きに覚えがあるような気がしたのに……やっぱり思い出せないや」

「まあ、気楽にやろうや。腹は減ってないか?」

 男は腹部に手を当てると、こくんと頷く。昨日の夜から怪我をして食事をとっていないのだ、そろそろ限界に近い頃合いだろう。

 とはいえ、身体も起こせないのでは食べ物も限られそうだ。

「パンは食えそうか?」

「食べられると思うよ」

「じゃあ、果物も切ってくる」

 朝に焼いたパンを温め直し、果物を剥いて小さく切る。干し肉もあったが、消化に悪そうだと避けることにした。

 出来上がった食事をテーブルに置くと、俺も長椅子の端に腰掛ける。食べさせようと思っていると、きゅぽん、と机の上に置いていて飴の入った瓶の蓋が開いた。

 中身が数粒持ち上げられ、妖精の口へと消える。

「盗み食いかよ」

『たいかの、まえばらいだ』

 妖精はパンを持ち上げると、小さく千切る。

 用意していた牛酪とジャムを、パンにぺたぺたとスプーンで塗り広げ、こってりとした甘い物体を男の口元へと運んだ。

 男は若干口元を引きつらせつつ、差し出されたパンを咀嚼する。

「あっまい……」

 栄養分としては申し分ないだろうが、パンの味わいなどあってないようなものだろう。妖精は続けて果物を持ち上げると、砂糖を大量に振る。

 そしてまた、男の口へと運んだ。

「やっぱりあっまい……」

 そろそろ可哀想になってきた所で、妖精は飽きたように男の頭へと移動する。俺は預かったパンを千切ると、薄く牛酪を伸ばした。

「あいつら、甘いもの好きなんだよ」

「そうなんだ。……好意、なんだね」

 はい、と相手の口元にパンを運ぶと、今度は引くことなく口に入った。もぐもぐと咀嚼し、ほう、と笑顔を浮かべる。

「美味しい」

 改めて眺めると、やはり寝顔でも思ったように顔立ちは整っている。赤毛には泥がこびりついているが、拭った顔は日差しを受け、輝きを増していた。

 目鼻立ちはくっきりとしているが、目元は優しげだ。時折アルファから伝わってくる攻撃性も、彼からは感じなかった。

 手元からはパンが面白いように消えていく。

「よく食うなぁ。お前」

「うん。……よく分からないけれど、お腹がとても減っているみたいで」

「そっか。たんまり食わしてやりてえが、回復直後は腹に悪いからさ。様子見で一人前くらいにしとくな」

「そうだね。僕もその方がいいと思う」

 食事を終えると、男は満足げに息を吐く。体調の悪化も見られず、面倒を見ると言い張った人間としては心中ほっとした。

 俺は食器を片付け終えると、長椅子で身体を休める男に近寄る。

「体温も戻ったし、もう暖炉の前にいなくてもいいだろ。頭に泥がこびりついていてな。寝台に身体を移す前に洗ってやりたいんだが、いいか?」

「……お世話になります」

「おう。家の中も案内するよ」

 俺は男に肩を貸し、家の中を案内がてら厠へと連れて行く。中で補助は必要か、と尋ねると、慌てて固辞された。

 廊下の扉から離れた場所で待ち、男の声に合わせてまた迎えに行く。

 今は実験小屋として使っているこの建物は、俺と同じ人嫌いの親族が別荘として作ったものだ。建てた本人の希望で広くはないが、内部は綺麗で、先進的な魔術装置も揃っている。

 風呂場を暖める箱形の魔術装置に手を当てると、魔力を吸い取られて動作を始める。男はじっと、肩を貸す俺と装置を眺めていた。

「物珍しいか?」

「…………いや。コノシェさんは」

「呼び捨てでいいぞ」

「コノシェは、魔力が多いの?」

「そりゃ魔術師だし」

「それはローブ姿でなんとなく分かってはいたけど……そうじゃなくて」

 歯切れが悪い男に、黙って見つめ、続きを促す。俺の視線に負けたのか、彼は申し訳なさそうに言葉を紡いだ。

「オメガなのか、確認したくて」

「ああ。でも、魔術師には珍しくないだろ」

「それで、……その、僕。はっきりとアルファの特徴を持ってる。おそらく、既にアルファと診断されていて、今は忘れてるだけなんじゃないか、と思うんだけど」

 こいつは善人なのだろう、という印象が更に強くなった。

 家に置いてやる、と言った事だって、自分がアルファであることを知らずに提案した、とでも思っていそうだ。

「その記憶も含めて忘れてる、か。確かに、あんたがアルファだろうって事は何となく分かる」

「そう……。決して、君に何かするつもりはないけれど。アルファと同居は不安じゃないかな」

 尻すぼみになっていく男の声に、支えていた腕を叩いてやる。

「別にお前ひとりくらい伸してみせるさ。何にもするつもりがないのなら、堂々としてろ」

「うん。……もし、フェロモンを感じ取ったらすぐに逃げるよ」

「家から出たら山中で迷うぞ。僅かな匂いくらいなら、どうこうする前に余裕もあるだろ、まず俺に言え」

 男はしゅんとして、そうする、と呟いた。

 はあ、と息を吐くと、相手を壁に押しつけ、服を脱がせ始める。彼はじたばたと藻掻こうとして、脚を痛めて呻いた。

 咎めるように怪我していない位置を叩く。妖精もそれに続き、同じ位置に二撃めも決まった。

「怪我してる部位を動かすな」

「ごめん! でも、オメガに服を脱がせてもらうなんて……」

「看病の一環だ」

 困惑する男を放って、力任せに下着を引き下ろす。ぼろんと一物が転がり出て、ちょうど屈んでいた眼前に位置してしまった。

 まじまじと見つめていると、男の掌で覆い隠される。

「ちょ、ほん、と。……恥ずかしい、ので」

「すげ。でけえな」

『でっけえな』

「煽らないで……! …………くだ、さい」

 視線を交わし合う俺と妖精に男はしおしおになり、全裸のまま壁に身体を預ける。俺はさめざめと嘆く男へ謝罪しつつ、ローブを脱ぐ。

 シャツの襟元を寛げ、ぽんぽんと身につけた衣服を放った。男の声はいつの間にか小さくなり、消えていた。

「あの、コノシェ……」

「なんだ」

「なんで、君まで裸に?」

「濡れるだろうが。ほら、風呂行くぞ」

 肩を貸そうとすると、男は首を横に振る。脱衣所の壁に手を付き、壁伝いに風呂場まで移動を始めた。

 何故、と疑問に思いながらも、転ばないよう後に続く。

 浴室は、白い石をふんだんに使った贅沢な造りの一室だ。清潔感もあり、一日の労を流すのに相応しい景色が広がっている。

 男を洗い場に誘導すると、風呂用の低い椅子に座ってもらう。石鹸を泡立てて頭にぶちまけ、こびりついた泥を擦った。

 湯で流すと、髪質がいい事に気づく。俺の髪より綺麗かもしれない。今度は泡で慎重に地肌まで洗い、湯で泡を落とした。

「ありがとう。さっぱりしたよ」

「やっぱり泥塗れは気持ち悪かったよな。じゃあ次は身体で」

 背中を泡まみれにし、傷跡を避けて肩、胸元、と手洗いしていく。洗っている間じゅう、男は変に大人しかった。

 流石に股間は、と辞退され、自分の手で洗っていく。だが、手にも切り傷が多く、痛みに顔を顰めていた。

「俺がちんちん洗ってやろうか?」

「要らないよ!」

『あらわせてやったらどうだ?』

「厚意でもほんと勘弁して! ……ください」

 大小あれど同じものが股間にあるのだし、そこまで気にすることでもないのだが、追求すると男が更に慌てるので本人に任せた。

 俺も隣で身体を洗い、妖精は桶の中でちゃぽちゃぽと全身浴を楽しみ、三人して身体が綺麗になると相手の掌を引いて風呂場を出る。

「数日は様子を見ようと思うが、打った頭に異常が出なければ、ゆっくり風呂にも入っていってくれ」

「是非。綺麗な浴槽だし、ゆっくり浸かりたいな」

 男は何故か気疲れした様子だった。病み上がりだし怪我も多く、身体を洗うのもしんどかったのかもしれない。

 服を着せ、髪を魔術で乾かしてやると、物珍しそうに眺めていた。

 脱衣所を出て、別荘らしく客用の寝室に案内しようと思っていたのだが、廊下を歩いている途中で使用していないが故に埃まみれであろう事に気づいた。

 方針を変更して、まだ綺麗な自室へと案内する。

「悪い。客室もあるんだが、片付けが済んでいないんだ。俺の寝室で寝てくれないか」

「僕は構わないよ」

 男を連れて寝室まで移動し、扉を開ける。相手を寝台に座らせ、窓を開けて換気をした。

 寝室は結界が壊れた事に気づいて出てきた時のまま、乱れていた寝台を手早く片付ける。男を寝かせ布団を掛けると、満腹になって身体を温めたのが効いたのか、うとうとと瞼を揺らし始める。

 寝台に座って世間話をしていると、次第に静かになった。

「寝ちまったか」

『ねちまったな』

「俺ら、風呂入っちゃうか?」

『はいっちゃおう』

 こそこそと算段してカーテンを引き、寝室を暗くする。澄んだ空気の中で眠る綺麗な男は絵画の中の一風景のようだ。

 パタン、と額縁が閉じられ、静かな足音が寝室から遠ざかっていった。

 

 

▽3

 数日後には、男は痛めた脚こそ時間がかかるものの、頭を打ったことによる後遺症は記憶障害以外にはなさそうだと判断した。

 杖を工作して与えると、次第に家の中の活動範囲も増えていく。

 男は室内が片付いていないのが気になったようで、頭を動かさないよう気をつけつつ、家の中を片付けて回るようになった。

「なあ、『青いの』俺がここに置いていた本どこやった?」

「本棚の三段目」

「おう。ありがと」

 男のことは便宜上、彼の目の色を取って『青いの』と呼ぶことに決まった。

 彼は片付けた品を逐一把握している。だから、好き勝手掃除をさせ、物の位置が分からなくなったら尋ねる方が楽だった。歩いている最中、突然なにかに躓かなくなった事は便利でもある。

 俺は、教えてもらった場所にある本を拾い上げる。

 医学の参考書のような本で、記憶喪失を改善する方法について書かれたものだった。どかりと長椅子に腰掛け、本を広げる。

 男はまだ、記憶を取り戻す様子はない。

「頭痛はその後どうだ?」

「少し。けど、拾ってもらった直後より随分いいよ」

「じゃあ、痛み止めの配合を変えるか」

 いま男に処方している痛み止めは、痛みを取る作用が強い代わりに内臓に負担を掛ける。

薬効が軽くなる代わりに副作用も減るよう、頭の中で配合を考えた。

 本当なら病院に連れて行きたいのだが、実験小屋から近い崖から運んだだけでも、体力と強化魔術を保たせる為の魔力が多く削られてしまった。

 下手すると、山中で二人揃って行き倒れ、という事態も有り得ない話ではなく、調子が良さそうなので家で様子見することに決めたのだった。

「昼飯なに食う?」

「がっつり肉が食べたい」

「健康そうで何より。冷凍保管してる肉がまだあった筈だから、それにするか」

 実験小屋の立地では、食材の調達だけでも家を長時間空けることになる。床下に設置してある魔術装置は中のものを凍らせて保存でき、その中に肉類の備蓄もあった。

 男は嬉しそうに声を上げた。体調を慮って負担のかかる食事は避けてきたが、そろそろ解禁してもいい頃合いだろう。

「じゃあ、外で肉を焼くか。室内だと煙たいしな」

「賛成」

 男は長椅子に腰掛けている俺に背後から近寄り、首に腕を回す。ぎゅ、と軽く抱擁されて離れた。

 彼は俺から近づくと慌てるが、自分の方は接触が多い質であるらしい。正直、人嫌いを自称している人間としては恥ずかしいのだが、黙って頬を掻いて思考を散らした。

『とりがないておるな』

「鳥はいつでも鳴くだろ」

 妖精はやれやれ、と小さい肩を竦めると、掃除をしている男へ手伝いの押し売りをしに向かっていった。

 足元をぴょんぴょん飛び跳ねて邪魔をし、手伝いを求めるなら飴玉を寄越せ、と恫喝している。

 困り果てている男に、近くにあった瓶を差し出す。妖精がこうやって対価を要求する所為で、倉庫内には飴の袋が大量に眠っているのだ。

「じゃあ、お願いするよ」

『よかろう』

 男から飴を受け取った妖精は懇願されたかのような空気を醸し出しているが、どうせ飴ほしさ故の行動だ。やれやれ、と平和な日常へ肩を竦める。

 数時間、読書をしているうちに男が片付けていた場所は随分と綺麗になっていた。床が顔を見せ、艶やかに磨き上げられてすらいる。

 掃除の動きは怪我を抱えてゆっくりながら無駄はなく、痛む脚に障りそうな動作は妖精が器用に補助していた。

「そろそろ昼飯にしようか」

 提案すると、二人ともぱあっと顔を輝かせた。空腹のまま掃除をさせてしまった事に罪悪感を抱きながら厨房へと入る。

 冷凍していた肉を溶かしている間に野菜を切り、鉄串で刺す。解凍された肉を切り、野菜と交互になるように配置をして、大皿に準備をしていった。

「僕、火起こしをしておこうか?」

「脚、平気か?」

「妖精くんが手伝ってくれるって」

『てつだってあげるって』

「対価目当てか。食ってばっかりいると、ぷくぷく妖精になっちまうぞ」

 妖精はごろごろと口に飴を頬張り、炭が保管してある物置へと男を誘導していった。俺は串を作り終え、焼いたら美味い果実と共に外へ持参する。

 男は庭に椅子を置き、座った状態で火を育てている所だった。

「いけそうか?」

「うん。思ったより炎が育つのが早かったんだ」

 石で組み上げられた台座の上に金網が乗り、炎はゆらゆらと炭を舐めている。俺は近くにあった外用の椅子を金網の近くに寄せ、近くに用意してあった机の上に運んできた盆を載せる。

 金網に油を塗り、鉄串に刺さった具材を載せると、じわじわと焼け始めた。調味料を忘れたことに気づき、厨房に戻って容器を持ち、取って返す。

 俺が調味料を抱えて戻ると、男は瓶を受け取り、具材に味を加えた。

「そろそろ焼けたか」

「だね。食べよう」

『たべる』

 俺が妖精をじっと見つめると、火起こしの対価は飴では足りなかった、と主張を始める。串から外した具材を小皿に取り分けてやると、はぐはぐと食らいついた。

 人間たちも各々串を持ち、肉汁が垂れる側面へと噛み付く。

「美味い!」

「美味しいね。天気もいいし」

 男は大きな口で勢い良く、肉に齧り付いている。横顔を眺めていると、唇の端から犬歯が覗いた。

 オメガを番にする時に、アルファの牙は項に突き立てられる。今は番持ちではなさそうだが、あの牙はいずれ相手を貫くものだ。

 背筋に寒いものが伝って、俺はその感覚を誤魔化すように食事へと戻った。

 

 

 日が過ぎ、家を片付け終えると、男は庭へ出るようになった。脚の腫れも段々と落ち着き、杖なしで歩く時間も増えていく。

 男について、一緒に暮らしていて分かったことがいくつかある。

 まず一つは、肉体労働するような立場にはなかったらしい事だ。身体の傷で分かりづらかったが、掌にはペンだこが存在している。

 普段、書類仕事をする習慣があった、という事だ。

 二つめは、礼儀作法が身体に染みついているらしいという事。背筋が伸びていることは早々に気づいていたが、食事の所作が異様に綺麗だ。幼い頃から、記憶を無くして身体に染みつくほど、徹底的に仕込まれたのだと分かる。

 三つめ、刃物の扱いに慣れている。これは倉庫に眠っていた護身用の短剣を持たせて気づいたのだが、折角だから手入れを、という話になった時、手入れ道具を慣れた手つきで使い始めた。

 短剣を持たせて振らせてみると、力の入れ具合も慣れた者のそれだった。ただ、人を傷つけるというよりも、道具として使うことが多かったように見えた。

「────ってえと。これらから導き出される『青いの』の人物像は……」

「コノシェ。朝ご飯ができたよ」

 男は寝台の上でぼうっとしている俺に手を差し伸べると、くい、と引いて起こした。くあ、と欠伸をし、手を引かれたまま移動をする。

 歩きはゆっくりしたものだが、痛みに顔を顰める様子もない。

 脚の痛みが無くなってから先、朝食を作るのは男の仕事だ。料理器具の記憶は無さそうだったが、飲み込みは早く、簡単な料理ならすぐ拵えられるようになった。

 起きてすぐの腹に、凝った料理は必要ない。そして彼は朝に強かった。

「青いの、朝飯なに?」

「卵と牛乳と砂糖を混ぜたものにパンをひたひたに浸して、焼いてみたよ」

「それはもう美味いじゃん……」

 寝起きの俺の妄言にも男は丁寧に対応し、慎重に背を支えつつ食卓へと導いた。椅子を引き、俺を座らせてから目の前に皿が置かれる。手を拭われ、フォークを握らされた。

 数日前までは怪我人だったのに、既に世話をされているのは俺の方だ。

 切り分けて口に含んだその焼きパンは香ばしく、ほんわりと甘い、上品な味わいだった。

「うっま」

「良かった。蜂蜜を合わせても美味しいと思うよ」

「うん。想像だけで美味い」

 机の端には小さな敷布が用意され、妖精もちゃっかりとお零れを貰っていた。俺がじっと見つめていると、小さな背に焼きパンを隠される。

『くいしんぼうめ。とるな』

「どの口が言ってんだてめえ」

「喧嘩しないで。足りなかったらまた焼くから」

 男は立ち上がると、湯を沸かし、お茶を淹れてくれる。近くで採れた薬草を干したものだが、高級な紅茶かと思うような丁寧な行程でカップに注がれた。

 甘味が続く合間に飲むと、舌がさっぱりする。

「悪い。今日もお前が記憶を取り戻す実験を進めるべきなんだろうが、最近、魔力の調子がいいんだ。今日なんか抜群でさ。それで、本業の研究を進めたくて……」

「気にしなくていいよ。ほら、何が切っ掛けで記憶が戻るか分からないし、時間が必要かもしれない。僕だって、居候の身で家主の生活を圧迫するのは気が引けるからさ」

「…………ああ、のんびりやろうや」

「そうだね。本業の方も、手伝えることがあったら言って」

 何かあったら呼ぶわ、と答え、焼きパンを食べ進めていると、皿は早々に空になった。食器は回収され、朝食という報酬を貰った妖精も含めた三人で並んでざぶざぶと洗う。

 片付けが終わると、俺は実験室へと移動する。

 この部屋は日光が入らない部屋で、元は物置として使われていた。部屋自体も狭く、中央に置かれた机と数個の棚で、身体を横にして通らなければならないほど空間がない。

 俺は机の上に雷管石を載せ、外観を紙に写す。

「こんなところか」

 なぜ雷管石は魔力を吸収する性質があるのか。なぜ吸収された魔力の波形は永久とも言えるほど長く保持されるのか。

 果たして石に込められた魔力は、本当の意味で永久に波形を失わないのか。

 石の端を削り取り、紙の上に粉状の欠片を広げる。ほんの少しの粉であれど、魔力を流すと内部に保持された。

「燃えない限界の高温。極限の低温。それから…………」

 魔力で再現できる非日常の環境にその欠片を晒してみても、内部の波形は変わらない。その日は同様の実験をずっと繰り返していた。

 途中、昼食は、と声を掛けられたが、辞退して研究にのめり込んでしまった。我に返った頃には空腹で、魔力も尽きかけている。

「潮時か」

 簡単に器具を片付け、実験室を出るといい匂いが鼻先に届く。匂いを追って厨房へと向かうと、男が大鍋に煮込み料理を拵えている所だった。

 近くの机の上には料理本が広げられている。見覚えはないが、片付けの最中に見つけたのかもしれない。

「コノシェ。良かった、ちょうど料理が出来上がったんだ。研究は一区切りつきそう?」

「ああ。魔力も尽きた」

「ははは。それはもう切り上げて食べないとね」

 牛乳に野菜と肉を煮込み、複合調味料で味付けをした料理を男は深皿に盛ってくれた。手早くパンを焼いてくれ、隣に添える。

 俺は果汁飲料の瓶を取り出すと、机の上で蓋を外す。

「僕も飲んでいい?」

「おう」

『ようせいものんでいい?』

「後で働けよ?」

 いつの間にか机に乗っていた妖精は、男に料理をねだり、身長相応の皿に配膳してもらっている。

 男は妖精にも優しく、妖精の食器すらも木を彫って手作りする始末だ。俺がいない間は読書と工作に励んでいたようで、今の机には作りかけの木細工が置かれていた。

 わいわいと和やかに食事は終わり、後片付けを済ませると、俺は居間の長椅子で身体を休める。少しの間、男は席を外していた。

 廊下から足音が聞こえ、見慣れてきた姿が居間へと戻ってくる。

「コノシェ。今日は湯船にお湯を張っていい? 僕の魔力を使うから」

「あー。まあ、もういいんじゃないか。俺も一緒に入るわ」

「やった。綺麗な湯船だし、広いし、浸かってみたかったんだよね」

『ようせいも、つかってみたかったんだよね』

「お前は毎日ちゃぱちゃぱやってんだろ」

 気に障ったのか満腹になった腹の上で跳ね回る妖精をむんずと掴み、頭の下に敷く。わーわー喚く抗議は無視した。

 俺たちが攻防している間に男は魔術装置の操作を終えたようで、居間へと戻ってきた。俺の頭に敷かれている妖精を救出し、撫でてやっている。

 むっすりと頬を膨らませ、その様子を眺める。

「なに、コノシェ。不満?」

「お前は俺に優しくない。妖精の味方ばっかりだな」

「そんなことない。コノシェは命の恩人だもの」

 彼は俺の頭の先……長椅子の空いた場所へと腰掛ける。妖精は長椅子の腕置きへと下ろしてもらい、椅子の背を走り始めた。

 元気かよ、と呟くと、隣からくすくすと笑い声がする。

「ねえ。僕はコノシェに優しくできてない?」

「できてない」

「そっか。何してほしい?」

 そう言われると、困ってしまった。食事は作ってもらい、部屋の掃除もしてもらい、眠い時には手を引いて廊下を歩いてくれる。

 身の回りのことを殆ど任せて、それでいて俺は何故不満なのだろう。

「何だ……。撫でる、か?」

「何それ。じゃあ撫でよ」

 男は腕を伸ばし、俺の頭に手を乗せる。長い指が、俺の柔らかくて絡みやすい髪を梳いた。

 黙って放っておくと、丁寧に頭が撫でられる。からかうような動作ではなく、本当に、優しげに指先が動いた。

 ほんの少し、相手のアルファとしての匂いを感じ取る。

「なぁ。お前は俺の匂い、分かるか?」

「分かるよ」

「アルファって選り好みがあるんじゃないのか? 嫌じゃないか」

 こちらを見下ろしている瞳が、驚いたように見開かれる。暖炉にはちりちりとほんの少しの炎が残っており、青の瞳に色を足した。

 頭に触れていた掌が、俺の頬に添えられる。

「とっても、いい匂いだと思うよ」

「………………そうか」

 しばらく微睡んでいたが、湯が溜まったらしく風呂に移動をする。

 彼は服を脱ぐに当たり、やっぱり身体を隠そうとした。あまり見つめるのも悪いか、と俺もさっさと自分の服を脱ぐ。

 妖精は自分用の桶を引き摺って風呂へ入っていく。眼鏡を外すと、桶だけが動いている、妙な光景だった。

 洗い場に歩いて行くと、男はさっさと自分の身体を洗い始めた。近づくと、びくんと背を震わせる。

「身体は任せるけど、背中くらいは流してやるよ」

「背中くらいなら……」

 背中すらも渋々、といった様子に、初回にからかいすぎたかと反省した。

 身体を洗い終えた俺たちは、たっぷりのお湯が張られた湯船に歩み寄り、足を入れる。

 男はまだ傷口が染みる箇所があるようだったが、我慢の範囲内、と肩まで浸かった。

「あー……。気持ちいいー……」

「ずっと身体洗うだけだったもんな」

 俺も少し離れた位置に足を入れ、全身を沈める。疲労が溶け消えていくような、何とも不思議な感覚だ。

 湯船の縁に背中を預け、腕を伸ばす。

「コノシェは、アルファであろう男と一緒に風呂、って警戒しないの?」

「怪我人を一人で風呂に入らせられるかよ」

「律儀だなぁ。でも、怖くない?」

「べつに。お前の魔力ってぜんぜん攻撃的じゃねえもん。人を手籠めにするような柄じゃないだろ」

 手を伸ばして相手の掌を掴むと、見知った魔力が僅かに伝った。普段よりも時おり跳ねる、緊張しているかのような流れだった。

 捕らえていた手を解放する。

「なーんか、お前のほうが緊張してないか?」

「うーん……。まだほら、僕ら出会ってからは長くないしね」

「まあな」

 並んで風呂の縁に背中を預け、大きく景色を切り取った窓辺から見える星明かりを眺める。ちかちかと光るそれらに視線を向けながら、意識は隣の男を追っていた。

 妖精以外で、初めてできた同居人。俺は、彼に対して浮かれすぎているような気がしてならない。

「僕はいいけど、僕以外のアルファを信用しないでね」

「俺の性格を変えられると思うな。警戒したきゃお前がしろ」

「あはは。コノシェだなぁ……。じゃあ、ずっと離れないようにしないと」

 カコン、と妖精が使っている桶が動く音がする。眺める視線の先、濃紺だけが広がる夜空に、一筋の星が流れる。

 あ、と声を揃えて、願い事のひとつも言えなかった鈍さを笑い合った。

 

 

▽4

 脚の痛みがすっかり無くなると、男は失った体力を戻すべく身体を鍛えるようになった。いつの間にか、家事分担はほぼ向こうである。

 記憶を失った事については進捗なし。会話にて様々な話題を振ってはみるのだが、最近は俺も研究に打ち込む時間が増えてきた。

 三人になった実験小屋は以前よりも騒がしく、時おり声が止むと、かえって周囲を寂しくさせるのだった。

「青いの。今日、外を歩いてみないか?」

 相手に用意してもらった朝食の場で、俺はそう提案した。今朝はパンと半熟卵、早朝から煮込まれてくたくたになったスープが用意されている。

 男の料理の腕は、めきめきと上がるばかりだ。

「この家の敷地外、ってこと?」

「そうだ。……とはいえ、急に長時間歩くのも脚を痛めそうだし、近くにある原っぱまで」

「お弁当とか持ってこうか? 僕、準備するよ」

「あー。じゃあ昼前に出るようにするか」

 男は嬉しそうに承諾し、朝食が終わると早速、仕込みを始めていた。俺はいったん実験室に戻り、短時間で終わる試験だけを進める。

 昼近くになると、扉の奥から声が掛かった。

「コノシェ。お弁当できたよ」

「おう、行く」

 実験器具を停め、軽く片付けをして部屋を出た。男は俺の姿を見ると、ぱっと嬉しげな表情を浮かべる。

 向こうは準備を終えており、俺は追加で準備する必要もない。玄関で靴を履いていると、ぴょん、と肩に妖精が乗った。

「妖精も来るのか?」

『べんとうをふたりじめはよくない』

 眼鏡を掛けて見ると、その頬はつまみ食いで汚れている。弁当を用意している人間に纏わり付いてお零れをせしめたのだろう。

 指を伸ばして小さい頬を拭ってやり、ぴん、とその額を弾いた。

「青いの。こいつを甘やかしたら碌なことにならねえぞ」

「うーん。小さい子に強請られると弱いんだよね」

「お前は誰に強請られても同じだろ」

 靴の具合を確認し、山歩き用の鞄を背負う。男は拾った日に傷ついていた靴を洗って補修しており、問題なさそうに履いていた。

 実験小屋の敷地を出ると、結界を閉じて他者が入れないようにする。

 丘までの道は山道とはいえ木が少なく、足元も踏み固められている。道順も分かりやすく、山中での遭難も避けられる絶好のお散歩道だ。

 自然の音を聞きながら、意識してゆっくりと歩く。ちらちらと男を見るが、辛そうな様子はなかった。

 逆に、興味深そうに木々を眺めている。

「木が珍しいのか?」

「何だろう。珍しい、っていうより、好き、かも」

 木々が好き、という意見を聞くと、人の多い街も見せてみたくなる。もう少し経ったら、山を下り、人気のある土地へ行ってみるべきだろうか。

 道が途切れ、小さな小川に丸太で掛かった橋へと辿り着く。飛び越せば辿り着く程度の川幅、足首ほどの深さしかないが、男は律儀に丸太を通っていた。

 俺は助走を付け、反対側まで飛び移る。

「なんか、こう。これも楽しい、って感じ」

「あんた、歩き回るの好きだったのかもな」

「かもね」

 男は話をそこで打ち切り、鳥の鳴き声について問いかけてくる。そういえば時折、こうやって素性を探ろうとする言葉を切り上げられることがある。

 悪意を持ってそうしている、ようには見えないが、単純に意図が読めなかった。

 軽く息が上がる程度の運動をして、二人で丘に辿り着く。座るのに適した草原と、中央あたりに大きな黒い石が鎮座している。

 男は石を見つけると、興味を持ったのかすぐに歩み寄る。

「あの石。なに?」

「自国の守護神が降り立ったことのある場所なんだと」

「え? そんな重要な場所なの!?」

「うん。つっても基本的にはただの原っぱで、偶に神の雷が近辺に落ちる、って事があるくらいだな。あと、神殿との間で、あの石を不用意に動かすな、って覚書が残ってる」

 男は石を眺め、何やら祈りを捧げている。仕草は慣れた者のそれで、記憶を失って尚、身体に染み付いているほど信心深い質であったことが窺えた。

 土地を管理しているとはいえ、神をいてもいなくてもいい、と考えている俺のような人間とは大違いだった。

 祈りを終えると、石から少し離れた場所で食事にしようと提案される。木陰を選び、持参した敷布を広げた。

 二人で布の上に座ると、妖精も肩から飛び降り、円になるように卓を囲む。

「お弁当は色々作ってみたんだ。こっちのパンは鶏肉を揚げて挟んだやつで、こっちは燻製肉と卵焼き。こっちは────」

 色とりどりの弁当の中身を説明してくれるのだが、あまりにも美味しそうで言葉は入ってこなかった。妖精も同様に、料理ばかりを見つめていた。

 男は持参した木椀に水筒からスープを注ぎ、俺に手渡してくれる。

「食べよっか」

「おう。美味そう」

 お弁当だけあってどの品も食べやすいように作られており、普段よりものんびりとした食事になった。

 妖精もたくさん食べたいと主張し、男の手ずからパンを割ってもらっている。

「どっちが居候なんだか……」

「コノシェもこれ食べる?」

 男は手に持っていた調理パンを二つに割ると、俺の口元に差し出してくる。アルファはもうちょっと人に対して好き嫌いの感覚が強い印象だったが、この男に関しては博愛に見えてくるほどだ。

 あ、と口を開け、美味しそうな料理を口に突っ込んでもらう。

「うんまい。……どんどん料理上手くなっていくな。最初の頃は調理器具をおっかなびっくり握ってたのに」

「うん。何だろ。本当に経験がなかったと思うんだけど……やってみたら出来るものだね」

 ペンだこはある、料理の経験はない。これだけ見れば裕福な家庭の出のように思えるが、拾った時に着ていた服は、高価なものには見えなかった。

 男は空を見上げ、風にその艶やかな赤毛を靡かせる。こちらを見ると、その綺麗な顔立ちで微笑まれた。

「誰にでもそんな顔すんなよ。妙な輩が寄ってくるぞ」

「…………顔?」

「綺麗な顔をしてるんだから、愛嬌を振りまく相手は選べって話」

「うーん。僕はコノシェに愛嬌を振りまきたいよ?」

 顔を近づけられ、綺麗な圧が掛けられる。無意識に背が逃げを打った。

「俺に振りまいてどうすんの」

「……ふふ。コノシェは番候補っているの? お見合い相手とかさ」

「別に、……いない。いたらこんな山中に籠もるなんて許されねえよ」

 男は不思議そうに、俺の顔を見下ろす。

 身長はオメガにしてはある方なのだが、長身のアルファを相手にすれば身長差も体格差も歴然としている。

 相手の指が伸び、俺の頬を撫でて離れた。

「────世の中のアルファは、君を見つけられなかったんだね」

 浮かんだ笑みは、日差しの中とは真反対に昏かった。同時に放たれた圧が、じっとりと厭な汗を浮かせる。

 終始、和やかなお出かけだった。筈なのだが、妙にその言葉が印象に残った。

 

 

 風呂上がり、もう寝るばかりといった時間のことだ。居間で娯楽小説を捲っていると、廊下から足音が響き、『青いの』が部屋に入ってくる。

 彼は眉を下げ、俺に対して手招きをした。

「ちょっと、相談してもいい?」

「なんだ」

 導かれたのは、相手が使っている客間だった。布団類が下ろされており、木造りの寝台は素のままになっている。

 男が指さした場所には、大きく亀裂が走っていた。

「寝る準備をしていた時、腰掛けたらミシ、って音がして……」

「これ、もっと体重をかけたらぽっきりいきそうだな」

「やっぱりそうだよね。使わないでおくよ」

 男も同じ考えだったようだ。せっかく生命の危機から脱したのに寝台が割れて頭を打てば元も子もない。

「明日から補修するか。手頃な木を切ってきて」

「そうだね。今日は居間で寝ようかな」

 毛布を運ぼうとする男に、俺はつい口を開いてしまう。

「俺の部屋くる? 二人くらい寝られると思うけど」

「ああ。あの寝心地のいい寝台かぁ……」

 男は毛布を抱えたまま廊下に出ると、俺の寝室へ向かい始める。どうやら初日の寝心地が良かったようだ。

 言ってくれれば客間の古い寝台と交換したのに、悪いことをしてしまった。寝室に辿り着くと、彼は扉を開け、持ち込んだ毛布を寝台へと載せる。

「俺もそろそろ寝るかな。暖炉の火を落としてくる」

 いちど席を外し、居間の本を軽く片付け、暖炉の火を消してから寝室へと戻った。男は他人の寝室で居心地が悪いのか、寝台に腰掛けたまま脚を揺らしている。

 俺は寝台に近づいて乗り上がり、相手を追い越して奥へ移動する。

「寝ねえの?」

「寝るよ」

 眼鏡は外しているが、周囲から妖精の声はしない。俺が布団を被ると、男も中に入ってきた。

 照明を落とし、部屋を真っ暗にする。カーテンは開いているが、窓辺からは星の煌めきしか届いていなかった。

 木々に囲まれた、夜の実験小屋は静かだ。

「…………なぁ」

「なに?」

「俺に聞いたろ。見合い相手とか、番候補はいたかって。あんたは?」

「記憶喪失の人間に聞く?」

「予想でいいからさ」

 男は仰向けになり、視線を窓辺に投げる。静かになると、相手の匂いが強く分かるようになる。

 こうやって匂いを感じ取れるということは、まだこの男に番がいないという事だ。まだ彼が誰のものでもないことに、ほんの僅かに安堵を覚える。

 俺もまた、新しい居候との生活を気に入っているんだろうか。

「僕、もしかしたら裕福な家の生まれかも、って思うんだよね」

「だよな。俺もそう思った。教養がしっかりしてる割には、使用人ができるような仕事ができない」

「そっか。だから、かな。見合い相手くらいはいるかもね。神殿に雷管石を預けて、相手が見つかっていないんだろう、と思うけど」

 俺が予想していた彼の素性と同じく、妥当な想像に思えた。

 雷管石。魔力を保有するだけの性質のはずが、番を探すための道具として成立するようになった物体。番を探すには、相手が石を神殿に預けることを待つ他ない。

 静かな寝室に、相手の匂いだけが満ちている。誘惑されていると錯覚しそうになるほど、彼と俺だけの空間だった。

「俺、神殿に石預けてねえや」

「…………え!?」

 ばたん、と相手の脚が動き、毛布が跳ね上がる。わずかな光源で捉える彼は、口元を震わせ、ぶんとこっちに顔を向けていた。

「あ、預けた方がいいよ……!?」

「別に、番とか欲しくないしな」

 ふっ、と厭な記憶が蘇る。

 雷管石に込められた、明らかに違う人間の魔力。謝罪する人の声、言い訳する人の言葉。一瞬、思い出しただけで、胸に黒いものが纏わり付いた。

「でも、発情期に他人を巻き込んだら……!?」

「こんな山奥にぃ……?」

 布団の中で手のひらが捕まる。男の両手は俺の手をはっしと握り締め、懇願するような声が夜の空気を震わせた。

「ご一考をお願いします……!」

「なんで敬語なんだよ。まあ、考えてはみるけど……」

 男を家に置くにあたっても、俺が番持ちだったら相手に心配を掛ける必要もなかった。相手に恋情を抱けるかはどうあれ、番以外に迷惑が掛からない、という実利ははっきりしている。

 答えのあと、男は俺の手を握ったままだ。軽く手を振ってみるが、放す様子はない。

「なんだよ?」

「ううん。手の大きさ、違うなぁって」

「まあ、オメガだしな。昔から魔力消費が激しくて、身体に栄養が回ってないとは言われてた」

 相手の掌は俺の手を逃がしたが、その代わり、背後に腕が回る。腰に絡みついてきた腕が、身体ごと彼の方へと引き上げる。

 胸板がぶつかり、視線をあげると間近に美形がいる。

「うわ。思ったより軽い。今度、持ち上げさせてよ」

「最近はちゃんと食わされてるから重いんだっての」

 戯れのように触れられるだけなのに、感情を揺らしてしまうのは相手がアルファだからなんだろうか。表情に出ないよう努めつつ、手を引き剥がそうとするが、するりと逃げられた。

 抱き枕のように抱え込まれた俺だったが、男の匂いは悪くなく、治療をするときに気づいたが、俺と相手の魔力はよく馴染む。

「おやすみ」

「…………おい」

 放せ、と主張してみるが、絡み付いた腕は解けなかった。人肌は思ったよりも心地よく、やんわりと拘束されているのに、うとうとしてしまう。

 翌日に寝台を直そうと思ったのだが、今の寝台のほうが寝心地がいい、と謎の主張をする男によって日取りは延びてしまった。

 

 

▽5

「おっもい……」

 目を覚まして腕を振ると、また男の抱き枕と化していた。こいつが一緒に眠ると、だいたい朝にはこうなっている。

 温かいことはいいのだが、これから気温も上昇していくのに先行きが不安だった。

 顔だけを後ろに向けると、健やかに眠っている顔がある。最初は整っている、と好印象だった顔も見慣れてきた。

 腕を外し、気持ちよさそうに眠っている男の腹に乗り上がる。

「おら。起きな」

 ぺし、と額を叩いても反応は薄い。体重を掛けている筈なのに、やせっぽちで軽すぎるのが悪いんだろうか。

 胸ぐらを掴んで揺すっていると、ようやく瞼が開く。

「おはよ」

「…………え。何。ゆめ?」

「現実世界へようこそ」

 また寝ようとする男を、飯、と言って叩き起こす。彼は渋々といった体で起き上がると、俺を引っ張って寝室を出た。

 よほどいい夢を見ていたのか、眠たそうにしている。くあ、と欠伸をして、のそのそと廊下を歩く。

「ああいうの止めてよ。朝から」

「重かったか?」

「重くないけど。…………んー、……びっくりするよ」

「そっか。じゃあまたやる」

 本当にさぁ、と男は俺を振り返って吐き捨て、居間に入って椅子に座らせた。

 当人は朝食を作るべく厨房へと入っていく。空腹を理由に叩き起こした事を責める言葉はなかった。

 俺は労働を免除されたのを良いことに娯楽小説を読み耽り、きりのいい所で食卓へ呼ばれた。

 本を閉じて机に置くと、題名を見た男は不思議そうに目を見開く。

「コノシェって恋愛小説、好きなの?」

「好きで悪いのかよ」

 昔から恋愛小説は細々と読み続けている。今さら似合わないから止めろ、と言われても改めるつもりはなかった。

「そうじゃなくて。今度、僕にも読ませてよ」

「……それなら、面白いやつ用意しとく」

 うん、と表情を明るくした男と共に食卓へ移動する。

 机には、先客の気配があった。

「おはよ妖精」

『はよ』

 妖精が短く挨拶をすると、小さい皿が空中に浮かんだ。最近では俺よりも男と一緒にいる時間が長いかもしれない。

 妖精は元々、この建物の元になった木に住んでいた。

 住処が形を変えた物の内部を散らかす俺よりも、丁寧に片付けてくれる『青いの』を気に入るのは、自然な流れだった。

「今日は簡単なものでごめんね」

 焼きたてパンに茹でた卵。生野菜を千切ったものに手作りのソースが掛かっている。丁寧に淹れたばかりのお茶を添えられ、俺は首を傾げた。

「いや。ぜんぜん簡単じゃないが」

「そう? よかった」

 こいつが来る前の食事を見せてやりたかった。料理という仕事が他人の手に渡ってから、肌艶はいいし、食材の管理に失敗して腹を痛めることもなくなった。

 記憶さえ戻らなければ、ずっと居候してくれてもいい。寝る時は少しばかり暑苦しいが、男との生活に苦はなかった。

 茹で卵は中身が半熟になっており、野菜に絡めて食べる。妖精はうまうまと食べ進めているようで、小さい皿の上で卵が少しずつ囓り取られていた。

 食事が落ち着くと、街に出ようと考えていた事を思い出す。今日は天気もよく、市街地を散策するにもいい気候だ。

「今日。食料の調達も兼ねて、街に出てみないか?」

「うーん…………。まあ、行く」

 男は何故か渋々、といった様子で頷く。まただ、時折こうやって記憶を戻したくないような意図を感じるようになった。

 自分の素性に対し、嫌な想像でもしているんだろうか。

「服は俺のを貸してやるよ。丈が長すぎて着てないやつあるから」

「ありがと」

 食事と後片付けを終えると、俺は寝室に併設された衣装室へと男を導いた。そこまでの広さはないが、俺が持ち込んでいる服自体も少ない。

 いくつか丈が長い服を宛がってみると、何とか一揃い見つかった。

「僕。外で着替えてくるね」

「一緒に風呂に入る仲だろ?」

「怪我がなかったら入らなかったよ」

 男は慌ててそう言うと、衣装室を出て行ってしまった。無理やり服を脱がせて一物を眺めてしまったのは悪かったが、あれはぶつの大きさが悪かったのだ。

 アルファは体格の良いものが多く、発情期のオメガが怪我をする、と褥で使うような魔術が存在するくらいだ。それに、いずれ番のものになる。

 浮かんだ感情は面白いのか、寂しいのか、綯い交ぜになって名付けられない代物に成り果てていた。

「飯を作る人がいなくなるのは、……困るな」

 服を身に纏い衣装室を出ると、男も着替えを終えていた。

 持ち込んだ服は貴族家に出入りする商人が売ってくれたもので、質はよいものばかりだ。身長もあり、美形の男が着ると、花びらが散って見えたかと思うほど煌びやかだった。

「ちょっと……、目立ちすぎるな」

「そう?」

「魔術師のローブ貸してやるから、羽織っておけ」

 鼠色のローブを着せると、その身の内から溢れる輝きも灰に隠れる。これならいいか、と納得して、俺も同じようにローブを羽織った。

 折角のお出掛けに魔術師然ふたり、というのは雰囲気がないが、どうせ目的は買い出しである。

 男はローブ姿になった俺に、すこし肩を落としている。

「なんだ?」

「いつもと違う服だったのに、いつもの服に戻っちゃった……」

「買い出しなんだから別にいいだろ」

「折角のお出かけだったのにー」

 駄々を捏ね始めた男の背を押し、部屋を出る。街歩き用の鞄を持つと、外靴を履いた。

 隣に立つ男は買い物籠を持っており、ローブ姿とは不似合いの生活感に溢れている。

「なに買うか決めてんの?」

「うん。任せて」

 実験小屋から最寄りの市街地までは、山を下って数時間、とかなりの距離がある。

 強化魔術を使わなければ一日掛かりになるだろうが、今日は『青いの』にゆっくり街を見せてやりたかった。

 実験小屋を結界で閉じると、身体強化魔術を詠唱する。光の軌跡が俺だけでなく、相手の脚に纏わり付いた。

「運動能力を強化する魔術を掛けた。どうだ、脚は?」

 男は自らの脚を持ち上げると、面白そうにその場で足踏みする。

「軽い!」

「上手くいったみたいだな。街まで走ってくから、体力の消費が激しくなったら教えてくれ」

 魔力相性のいい相手には、魔術の掛かりがいい。俺の魔力は選り好みが激しく、相手の魔力に合わせられない傾向がある。

 ただ、この男には馴染んで流れている。

 魔力が馴染む相手というのは、性格的に一緒にいて楽な相手が多い。山にわざわざ住む変人に合わせられる男なら選り取り見取りだろうな、と乾いた笑いを浮かべたくなった。

 男はしばらく脚の感覚に慣れないようだったが、次第に要領よく走るようになる。

「脚が痛んだら教えるんだぞ!」

「うん。これ、面白いね!」

 笑みすら浮かべながら、木々の合間を抜けていく。本来ならば乗り物に頼るべき長さの道程を、俺たちは強化魔術を使った脚で駆け抜けていった。

 山を下りると、近くの街道と合流する。乗合馬車の発着地点まで脚で移動し、馬車へと乗り継いだ。

 馬車に乗れば街までは直ぐだ。田舎の中での中心地、と呼ぶべき低い建物群が俺たちを出迎える。

 馬車から降りた男は、街並みを眺め、顎に手を当てる。

「見覚え、ある」

「だろうな。山の周囲で買い物ができる場所、つったらこの街くらいだ」

 ローブを着ているのは魔術師、という意識が先行するのか、街の人々は俺たちに長く視線を向けてくることはない。

 男が整った顔立ちをしていようと、視線が届くことはないのだ。

「何か見たいもんはあるか」

「掃除用具?」

「一気に所帯じみちまったなぁ……」

 掃除用具も取り扱っている雑貨店へと案内すると、物珍しそうに店内を眺め始める。

 店主である老人に挨拶をすると、返事の後で俺たちをちらりと見て掃除に戻った。どうやら、『青いの』に見覚えはないようだ。

 田舎にとって中心地とはいえ、人数的に顔見知りもできる程度に狭い付き合いになる。男は街並みに見覚えがあると言い、店主にとっては見覚えがない、というのは妙な話だった。

 考え込む俺を尻目に、男は新しい羽はたきが欲しいと言う。いくつかの種類の中で迷いなく一番高価なものを手に取っていた。

 彼が裕福な家の出なら、日頃は出入りの商人だけで事足りるということもままある。日用品は使用人が買いに行けばいい。

 いっそ、近くの屋敷を一つ一つ訪ね、顔見せするのが手っ取り早いだろうか。

「他になんか欲しいものは?」

「雑巾用の布」

「雑巾くらい買ってやるよ……」

 男には説明していなかったが、魔術ばかり研究している末席の貴族とはいえ、普通の家庭よりは蓄えがある。

 俺も研究結果を様々な団体に売ることで収入を得ており、高級羽はたきも文句を言わず買うことに同意した。

 羽はたきと雑巾の金を払い、店を出る。

「次は────」

 家の中を掃除している間に、生活用品として足りないものを把握したらしい男は、あの店、この店、と店を回り始める。

 回るうちに必要な品物を揃えることはできたが、どの店主も男の顔に反応を見せることはなく、彼の記憶を追うという目的についての成果はなかった。

 俺だけがこっそり気落ちしたまま、二人とも両手に荷物を抱えて帰りの馬車の乗り場に向かう。発車時刻の張り紙を見ると、次の便まで少し時間が空いていた。

「時間までどっか店にでも入るか。何か飲もうぜ」

「ほんと? じゃあ……」

 男は乗り場の近くにある、絵本から出てきたような店構えの喫茶店を指さす。疲れの滲んだ俺はその提案に同意し、店に入った。

 店員に案内された席で、飲み物と甘味を注文する。品物が届くまでの間、男はそわそわと店内を見回した。

「────あのさ。コノシェ」

「なんだ」

「ここ、恋人連れが多いね」

 言われた通り視線を向けると、店内には恋人同士で訪れたであろう人々が同じ卓を囲んでいた。

 男に視線を戻し、頷く。

「そうだな。気になるのか?」

「ううん。僕たちも恋人同士に見えるのかなぁ、って」

「………………」

 今、手元に飲み物が無いことを幸運に思った。がっくりと頭を倒し、両手を組む。

「…………はあ?」

「何もそんな。地の底から響くような声で聞き返さなくても」

「お前みたいな育ちがいい奴と、山の中で暮らしてるような人嫌いが、恋人、はねえだろ」

「有りだと思うけど。あと、山の中に住んでるの、研究の為だけじゃなかったんだ? 人、嫌いなの?」

 話せ、と言わんばかりの男の視線に、長く息を吐く。組んでいた手を解き、ふっかりとした椅子に背を預ける。

 他人に弱みを見せることは嫌いだし、人嫌いの理由を語るのも好きではない。けれど、俺が自らの胸の内を明かしてくれない、と、この男はどうせ拗ねるんだろう。

 目の前にいる人間を蔑ろにしてまで、黙っているような理由ではなかった。

「……昔、両親に仕えていた人間に『自分の娘の雷管石』と、『俺が神殿に預ける予定だった雷管石』をすり替えられた事がある。神殿に預ける前に俺が何気なく魔力の波形を読み取ったから良かったものの、もしかしたら、本来なら魔力相性なんか合うはずもない相手と、番わされていたかもしれない」

 一呼吸ついた瞬間、溜め込んでいたものが流れ出したような、ある種の爽快さを覚える。俺は、もしかしたら誰かにこの事を話したかったのかもしれない。

「相手は、何故そんなことを?」

「うちも、……両親は裕福なんだ。使用人は自分の娘に、裕福な家のオメガが番関係を結ぶようなアルファと結ばれて欲しかった、と言った。俺と使用人は仲も悪くなかった……と思っていたから、その言葉を聞いた瞬間、全てが分からなくなった。近しい人に些細なことで疑いを向けるようになって、番という関係にすら疑問を抱くようになった。山に住むようになったのは、その後だな」

 俺はそれから自分の雷管石を神殿に預けようとはしなくなったし、両親も俺に番を作ることを要求しなくなった。

「山で暮らし始めてから、少しは苛立ちも収まったけどな。あんたの事だって、今さら疑ったりなんてしないさ」

 無言で過ごしていると、早々に注文した品が運ばれてくる。カップに指を引っかけ、口元に運んだ。

 浮かび上がる湯気のように、この男といると力が抜ける。

「────俺。小さい頃から、妖精の声が聞こえるくらい夢見がちな人間でさ。こんななりをして、こんな性格でも、番には憧れがあったんだ」

「今は、そうじゃない?」

「さあなぁ。でも、もし。…………運命の番がこの人だ、って衝動が訪れたのなら。ちょっとは考えも変わるのかな」

 自分らしくないような気もしたが、言葉はすらすらと口を付いて出た。男は俺をからかうことなく、黙って言葉を受け入れる。

 青い瞳に別の色が浮かんだような気もしたが、それもまた湯気の先にある幻だったのかもしれない。

 

 

▽6

 街に出た翌日、男は客室で壊れた寝台の修理を終えた。

 お世話になりました、と毛布も持って帰られ、ちょうど季節的に冷え込んだ日に当たって寒さが身に染みた。

 俺は雷管石の実験の最中、じっと石を眺めるようになった。

 生活の合間に、男の姿がやけに目に付く。鼻先が、アルファの匂いを追う。仕舞い込んでいたオメガの自分が一気に呼び起こされ、最近は魔力の調子も悪かった。

 その日も実験は遅々として進まず、俺は放り投げるように実験室を出た。昼食はもう終えており、お茶をするのに相応しい時間帯だ。

 居間に入ると、妖精と一緒に木箱を彩色している男に遭遇する。

「何してんの?」

『おえかき』

 妖精は手のひらに絵の具を付け、木箱の側面にぺたぺたと押し当てている。男は取り外した蓋を筆で彩色している所だった。

 よく言っても前衛的、としか言えない極彩色の箱が出来上がっていく。

「休憩して甘いもん食いたくないか?」

「『たべたい』」

 二人の意見が揃った。

 くすりと笑うと、用意してくる、と言い置いて厨房へと入る。果物を切って砂糖と香辛料で煮詰め、淹れたお茶と共に居間へと運んだ。

 俺が来ると、二人ともぴたりと創作の手を止める。

「コノシェ。甘いもの作れたんだ……」

「必要に駆られてな。食っても食っても魔力使うのに、食事を疎かにしたら皮になっちまう」

 二人が片付けて机にできた空間に皿を置くと、午後のお茶会が始まった。

 甘酸っぱい果実の匂いが立ち、茶葉からの匂いと混ざって広がっていく。男はスプーンを動かし、煮てぐずぐずになった果物を掬い上げる。

「あ。美味しい!」

 最近は何も聞かずに自分の皿を差し出してくるようになった妖精は、お零れを囓り、だばだばと口の端から果汁を零している。

「研究は順調?」

「うーん。ここ数日は、魔力の調子が良くないな。しばらく休もうかと思ってる」

「体調が悪い、訳じゃないんだっけ」

 お前のせいだ、と軽口を叩いてみたくなったが、甘い果物と共に飲み下す。

「まあな。魔力って扱いづらいんだよ」

「じゃあさ。一緒にお絵かきする?」

「いや。俺、絵心には自信ないし、手持ちの研究材料の確認でもしようかな。午後は俺も居間に来ていいか」

「いいよ。一緒に作業しよう」

 のんびりと休憩を取り、研究室から研究材料……雷管石の入った箱を持ち込む。箱の中は賽の目状に区切られ、柔らかい布の中に雷管石が仕舞われている。石は削ったりする都合上、石は段々と減っていく。

 手袋をして石を持ち上げ、数を数えて帳面に書き付けていると、箱にお絵かきをしていた筈の二人が隣から覗き込んでくる。

『ようせいもほしい。くれ』

「高価えもん欲しがるなら働いてからにしろ」

 一番小さい欠片を持ち上げて握らせてやると、大事そうにぎゅっと抱きしめ、とと、と何処かへ運んでいった。

 いずれ俺の知らないうちに働き、埋め合わせをするんだろう。あれにはそういう習性がある。

「何だか。すごく……」

「え?」

「この石の輝きに見覚え、かなあ。思い入れがある、かもしれない…………」

 手袋を貸してやると、最も大きな雷管石……彼と一緒に拾った原石を持ち上げ、日の光に翳す。

 雷管石に対して、純粋な思い入れがある人間は羨ましい。長いことじっと眺めている横顔は、何かに祈るようでもあった。

「あんた、神殿に雷管石を預けて、番を……運命を探してたのかな」

「そう、なんだろうね。焦がれるような感情が湧き上がってくるもの」

 彼は番を求めている。おそらく長いこと、相手が現れるのを待っている。

 胸の奥からこみ上げてくる感情に、黒いものが混ざった。溢れてくる泥に名前を定義できないまま、俺はくっと眉を寄せる。

 男は俺を見ず、雷管石を見下ろして、呆然とした様子で声を絞り出した。

「────神殿」

「は?」

「神殿、には。僕が魔力を込めた雷管石が、存在するかもしれない……?」

 彼の視線は、俺が答えを出すことを求めていた。彼の言葉の欠片を繋げ、頭の中で星座を描く。

 あ、と声が漏れる。彼の素性を探る上で、最適解とも呼べるであろう手段が見つかった。

「神殿に所属する、番を引き合わせる鑑定士に、同じ魔力を持った雷管石を探させる……? 確かに、石に個人情報が紐付いてないと番が見つかっても連絡できない。神殿は、魔力を込めた石と、その魔力の保有者を知ってるのか……!」

「こ、ここから王都って……」

「大丈夫だ。街から割と近い位置に、王都への転移魔術式が存在する。伝手もあるし、使用許可取ってやるよ。行けるのは最短でも明日になりそうだが」

 それでいいか、と確認すると、男は躊躇って、その上で頷いた。以前は記憶を探りたくなさそうにも見えたが、今日はそうではないらしい。

 俺は両親経由で転移魔術式の使用許可を取り、保有している雷管石の中から他石と混ざってしまった質の悪い石を取り出す。

「これに魔力込めておいてくれ。鑑定士もその方が探しやすいだろうし」

「分かったよ」

 男の手によって雷管石に魔力が込められ、俺は変化した石を箱に仕舞った。明日はこの箱ごと神殿へと持って行くつもりだ。

 やがて俺は材料の整理に戻り、男も箱へのお絵描きに戻っていったのだが、お互いに何だかそわそわとした午後になった。

 

 

 神殿に行くと決めた日、普段なら寝坊してばかりの俺も、朝早いうちに目が覚めてしまった。まだ暗い廊下を歩いていると、厨房に明かりが灯っていることに気づく。

 厨房を覗き込むと、ぼうっと鍋をかき回す男の姿がある。

「『青いの』、もう起きてたのか?」

「……あぁ、おはよう。コノシェ」

 彼はこちらを振り返り、ちょいちょいと手招きをする。鍋の中身を小皿に移し、こちらに差し出してくれた。

 小皿を受け取り、口に含む。長いこと煮込まれた野菜の風味が広がった。

「旨い。でも、どうした? 眠れなかったのか?」

「…………うん」

 朝早い時間帯は、鳥も鳴かない。静かな中、僅かに彼が立てる音だけが耳に届く。

「正直。記憶を取り戻すのが怖かった」

 俺が想像する彼の素性は、幸福な半生を想像させる。だが、彼自身は時々口にする自分の記憶に対し、口籠もることがあった。

「記憶を失った僕はさ。コノシェがいて、妖精くんがいて、何不自由なく小さな家で家事をして暮らすことができる。けれど、もし思い出した僕が『犯罪者だったら?』『見合い相手と結婚を控えていたら?』『多忙で君とも会えないような立場だったら?』…………僕は、一体どうしたらいいんだろう、って」

 コトン、と音がして、彼の手から調理器具が滑り落ちた。鍋の縁を滑り、柄を汚して停止する。

 俺の方を振り向いた身体が、倒れ込むように覆い被さってくる。彼の顔が、肩に重たくのし掛かった。

「────僕は、今、どうしようもなく幸せだ。本来の自分を、捨ててもいいくらいに」

 腕を持ち上げて、抱き返すか迷った。神殿なんかに行くのは止めるか、と提案してやることもできる。

 俺は迷いに迷って、持ち上げた指で彼の耳を容赦なく引っ張った。

「いっだァ……!」

「今が幸せなら、別に進んで悪くなるこたねえだろ。別に」

「でも……」

 彼の頭を両手で捕まえ、わしわしと撫でてやる。柔らかい髪が指先に触れて、さらりと流れた。

「犯罪者なら償うべきだ。見合い相手との結婚なんていつだって止めりゃいい。多忙で会えないなら仕事捨てて会いに来い。…………お前がどんな素性の人間だろうと、俺は変わらない。それなら、今よりも幸福な人生を、貪欲に取りに行けよ」

 相手の背に手を伸ばして、ぐっと抱き返す。珍しいことをしているという自覚はあったが、そうしたくなった。

 照れ隠しに力いっぱい抱き締めていると、ぱしぱしと背中を叩き返される。

「…………苦しいって」

 顔を上げると、男は眉を下げ、こちらを見ていた。唇から息が漏れ、俺の背が抱き返される。

「分かった。僕は、……僕を取り戻してみるよ」

「そうしろ。大体、今のままじゃ俺、お前の名前すら呼べやしねえんだぞ」

 ぱちり、ぱちりと長い睫が動いて、ようやく気づいた、とでも言うように僅かに笑いが漏れる。

「そっか、そうだね。僕は、『僕の名前』を……コノシェに呼んでほしいな」

 花が咲くような表情に、彼の素性を垣間見る。きっとこの男は、昔からこうやって笑っていたに違いなかった。

 

 

 朝から出発して神殿に到着したのは、昼前の事だった。乗合馬車から降りた俺たちは、神殿の門の前で中央にある彫像を眺める。

 ずっと眺めていれば首が痛くなりそうなほど、立派で、そして高い門だった。

 以前も訪れたことがあるが、神殿の内部は全体が白で統一されている。自国の守護神は農業神で、神殿内部の緑も豊かだ。

 人の白と神の緑。人と神を繋ぐのがこの場所だという。

 男と顔を見合わせ、敷地内へと踏み入る。長い石畳の道を抜け、建物の軒下へと入った。どう案内してもらおうかと迷っていると、こちらに歩いてくる神官服の人間がいる。

 その人物は、こちらに向けて手を振った。

「え? お前の知り合い?」

「記憶ない人間に判断無理だよ!」

「そうだったわ」

 神官服の人物は、他の神官と違い、目深にフードを被っていた。白い指が伸び、フードを払い落とす。

 こちらを見つめるのは、緑の瞳だった。顔立ちも明らかになり、俺は、あ、と声を上げる。

「……サフィア! そういや。最近、神官に転職したんだっけ」

「転職……。まあ、転職で間違いはないか。久しぶりだな、コノシェ」

「久しぶり」

 和やかに会話をしている俺たちに、男は不思議そうな視線を送った。俺は神官の隣に立つと、手のひらを相手へと向ける。

「こっちは、サフィア・モーリッツ。俺の親戚。過程は省くけど、大体魔術師しか排出しないうちの一族で、珍しく神官にならされた奇人だよ」

「そもそも一族自体に奇人しかいないだろ。……コノシェ。この男が記憶を失っている人か?」

 俺と男は、揃って目を丸くする。俺は転移魔術式の使用許可は取ったが、目的を話してはいない。

 俺が記憶を失った男を拾った事、は親戚一族の誰も知りようがない筈だった。

「何で知ってんの?」

「神官には、神託が下ることがある。人が知り得ない事実を、神から伝えられることがあるんだ」

 神官である親戚……サフィアはそう言うと、部屋へ案内する、と言って先導して歩き始めた。

 廊下は光に溢れ、白で造られた壁や床は眩しくて目が痛くなりそうだ。俺たちは妙な緊張感を抱きながら、無言で歩いた。

 案内されたのは、机と椅子くらいしかない小部屋だった。椅子は三脚、既に用意されている。

 奇妙に思いながら、俺たちは勧められるがまま椅子へと腰掛けた。

「わざわざ雷管石に魔力を込めて持ってきてくれたところ悪いが、神託でそちらに提示する石も指定されていてな。そこの『記憶を無くしている人』」

「はい!」

 あんまりな呼び名だったが、男は神官相手に緊張しているのか、指摘する様子はない。

 サフィアは小箱を開くと、こちらに向けて差し出した。

 俺が視線で促すと、男は小箱を持ち上げ、中を眺める。箱の蓋裏には、名前のような文字列が記されている。

 唇が一度震え、ゆっくりと開かれた。

「『ラピス・シュタイン』」

 読み上げた名は、男を示すものとしてしっくり来る響きだった。そして、その姓が示す家柄にも心当たりがある。

 俺は指先を組むと、長く息を吐いた。

「こいつ。シュタイン家の人間かぁ…………」

「え? 分かるの?」

 名前を読み上げただけで未だ記憶は戻っていない男……ラピスはこちらを見て驚いている。

 俺はとんでもない相手に、毎日の朝食を作らせ、家を掃除させていたようだ。

「王都から離れた広い農地を有する貴族家だ。サフィア、他に把握していることは?」

「ああ。彼はシュタイン家、現当主の三男に当たる人物だ。伝手を当たってみたところ…………何と。現在、失踪中ということになっている」

「えらいこった。大騒ぎじゃねえか」

「それはそれは大騒ぎらしい。コノシェがいま滞在している山の隣領に、シュタイン家の別荘がある。おそらくは別荘に滞在中に事故に遭い、記憶を失ったんじゃないか?」

 俺が八つ当たり気味にラピスを睨むと、彼は慌てたように手を振る。

「僕、は……覚えてないし……!」

「名前を聞いても、記憶が戻るって訳じゃないのか。まあ、何はどうあれ素性が分かってよかったよ。うちの実家経由で連絡を入れさせる」

 俺の言葉に、ラピスは眉を下げる。

 何か言いたげな様子に黙って待つと、ぽつん、と小さく言葉が漏れた。

「……僕の家、シュタイン家に連絡を入れるのは、少し待ってもらえないかな?」

「けど、お前の家の人も心配してるだろ?」

「ううん。そうなんだけど、どうせ失踪してからかなり経っているでしょう。連絡する前に、別荘にある私物を整理したいんだ」

 お願い、と切なげに告げる声に、俺は肩を下げた。

「家同士の関係もある。長くは待たないからな」

「…………うん。ありがとう」

 俺たちの話が終わると、サフィアは雷管石の入った小箱を受け取り、蓋を閉じた。そして、思い出したように口を開く。

「ちなみにコノシェ。お前は雷管石を預ける気はないのか?」

「俺、か?」

「お前だってあの山でいつ頭を打って記憶喪失になるか分からないし、神殿に来たついでに預けてもいいぞ」

「いや、でも雷管石…………」

「『持っているだろう?』」

 サフィアの声に、別の響きが混ざった。うぁん、と耳を妙に揺らす声を奇妙に思いつつも、持参した鞄に触れる。

 ラピスの魔力を込めた石を持ってくるに当たって、研究材料である雷管石の箱ごと持ってきてしまった。中には、魔力の込められていない石も存在する。

 俺は操られるように鞄を開け、箱を取り出す。蓋を開けると、隙間から石が転がり出た。

 怪我をした男を見つけた日、一緒に拾った石だった。

「ほら、持っているじゃないか。色形、共に申し分ない石だ。まだ研磨していないが、これだけ大きければ、どんな形にも加工できるだろう」

「あ。…………あぁ」

 石を見下ろして悩む。そうしたほうがいいか、と考えていた事ではあるが、ここまで舞台が整ってしまうと、飛び降りてもいいのか迷ってしまう。

 ふと顔を上げると、俺よりも深刻そうな顔をしたラピスがいた。

「あの。コノシェ」

「うん?」

「いま力を込めたら、誰もすり替える事はできないよ」

 確かに、神官が目の前にいる場、俺を陥れようとする人間がいない場では、俺が番以外と引き合わされる可能性は無に等しい。

 けれど、それでも手は固まって動かない。

「それに、コノシェは僕に貪欲に幸福を掴み取ってほしいと言った。君がむかし憧れていたものは、きっと君の未来に存在する。だから……」

 男はそれだけ言うと、黙り込んでしまった。だが、精一杯、背中を押そうという意図は分かった。

 俺は、持っていた雷管石を握り込む。魔力を通すと、波は石の中に吸収された。

 目を見開く男に、眉を上げてみせる。

「……俺の負けだな。預けてくよ、サフィア」

「とうとう観念したか」

 サフィアは神官服を着ながらも、昔のように屈託のない顔で笑い、石を受け取った。何気なく雷管石の表面を見た瞬間、その緑の瞳が見開かれる。

 次第に顔が傾き、俺とラピスを交互に見る。

「────は?」

「いや。何だよ」

「あー……。まあ、魔力相性のいい相手が見つかったら…………連絡、必要か?」

「普通は要るだろ! 何だよ不安になる反応しやがって」

 サフィアは終始よく分からない態度ながら、石を回収して部屋を出て行った。部屋の前で別れた俺たちは、帰宅するべく門まで向かうことになる。

 少し先を歩くラピスの背中を、ぼうっと眺めながら後に続く。

 あと何日、彼は居候の身分でいてくれるんだろうか。追い出さなくてはならないことは分かっているのに、別れはただ寂しかった。

 

 

▽7

 神殿から帰宅して、ラピスはずっと心ここにあらず、といった様子だった。

 名前は分かった、素性も分かった。だが、彼の記憶はまだ戻っていない。貴族の子息である、と言われても、遠い事のように思えてしまうのかもしれない。

 長時間移動で疲れた身体を風呂で癒やし、俺は寝室で研究材料である雷管石を眺めていた。そろそろ眠るべきか、と考え始めた頃、扉が軽く叩かれる。

「コノシェ。寝てる?」

「起きてるよ」

「入ってもいい?」

「……どうぞ」

 そろりと寝室の扉が開き、寝間着姿のラピスが入ってきた。

 居場所に迷うように視線を彷徨わせた彼に、寝台の端を叩いてみせる。彼はのろのろと移動すると、指示した場所へと腰を下ろす。

「ひっどい顔だな。まだ帰りたくないか?」

「ううん。ちゃんと、幸福を掴み取りたい、って思ってるから。そう、じゃなくて、……家に帰ったら、ここにはしばらく来られないだろうからさ。寂しくなっちゃって」

 彼はそれだけ言うと、無言になった。今日の気温は低く、外からの聞こえる生物の音も静かだ。

 きっと、独り寝するには寒いんだろう。

「寝てくか?」

 布団を持ち上げると、青い瞳が揺らいだ。俺が布団の中に入ると、別の体温が追い縋ってくる。

 早々の判断に、よほど寂しいんだな、と可笑しな気分になってくる。腕が伸びてきて、以前のように俺を抱き込む。

 息を吸い込むと、薄かったアルファの匂いがはっきりと分かった。俺の身体が、相手を番になり得る可能性のある存在、と認識していることもまた、分かってしまった。

 俺のような人間が、魔力に不快感を覚えない男だ。いずれ、相応しい番を見つけるんだろう。

「なぁ……、『────』」

 彼の名前を呼ぼうとして、喉の奥が詰まった。俺は彼の名を呼ぶことを諦め、彼の服を握り締める。

 隣にいるのに、見捨てられたような心地でただ苦しく息をする。

 やがて寝息の音が聞こえ始めても、俺は目を見開いたままアルファの腕の中にいた。

 

 

 荷物の整理、とはいえラピスが持ち込んだものはなく、買い出しに行ったのも一回限りだ。古い鞄を出してやると、その中に荷物は納まってしまった。

 ラピスと妖精で色づけしていた木箱は、俺にくれるそうだ。小物入れとして使われているそれは賑やかな色彩であるはずなのに、眩んだ目で見るとどこか物寂しい。

 出て行く、という宣言は、重たい罪を宣告されているようでもあった。

「────お前、出て行くのに掃除しなくていいんだよ」

 掃除くらい、と最後まで働くつもりの貴族の子息に眉を寄せるが、本人はどこか楽しそうだ。

「僕が出て行ったら、コノシェは盛大に散らかすだろうからね。今のうちに散らかりにくい家にしておくよ」

「はぁ……。じゃあ、俺も手伝うよ」

 余っていた箒を持ち、彼の近くを掃き始める。珍しい、とからかうように俺を見つめる男の尻を箒の側面ではたいた。

 ラピスはまだ綺麗なままの羽はたきで、俺の腕を擽る。

 お互いに笑い合い、ちょっかいを出し合いながら掃除を進めていった。

「重た…………。……あれ?」

 布団類を日干ししようと運んでいる途中、ふと結界に違和感を覚える。俺は無意識に布団を床に放り出すと、玄関へと駆けた。

 途中、廊下でラピスと擦れ違う。慌てて走る俺にぎょっとした顔をするが、直ぐに平静に戻って俺の腕を掴んだ。

「どうしたの!?」

「結界に干渉されてる! 侵入者かもしれない!」

「えぇ!? …………一人で行くのは危ないよ。僕も行く!」

 彼は視線を巡らせ、玄関近くにあった鉈を抱え上げる。

 手近にある中では一番攻撃力のありそうな代物で、家のほとんどの物の配置を知っているからこそ素早くできる芸当だった。

 俺たちは手早く靴を履くと、実験小屋の敷地から飛び出す。

「我が脚は雷光を運ぶが如く、この一時翼を持つ!」

 肉体強化の詠唱を行い、家を守る結界を閉じて山道を駆け出した。

 結界に干渉が起きたのは、ちょうどラピスと食事をした丘の辺りだった。行く手を阻む藪を切り開きながら前進する。

 視界の奥に、人の気配があった。俺はラピスを押し留め、彼よりも前に立つ。

「春の乙女は冥界へ。月光の────」

 詠唱を始めた瞬間、茂みの奥から叫び声がする。一部の魔術は放たれてしまったが、生成された氷の柱は相手の眼前でぱっきりと砕かれた。

 おや、と覚えのある気配に、動きが止まる。

「待て、コノシェ! 転移の影響で結界に触ってしまっただけなんだ……!」

 奥から転がり出たのは、神官服を着た見慣れた人物……サフィアだった。彼は黒犬を連れており、犬は俺に対して呑気に尻尾を振っている。

 毒気を抜かれた俺は、詠唱を止めて口を閉じる。

「転移、って。何で結界を抜けられたんだ…………」

「俺は神官だからな。転移術式として使うのは、魔術じゃなく神術だ」

 以前、神の雷に結界が部分破壊されたように、俺が構築した結界は神の力に対してはかなり弱いものであるらしい。

 サフィアは鉈を持った男にぎょっとしており、俺は鉈の刃を仕舞わせた。

「なんでわざわざ来たんだ。通信魔術でいいだろ」

「いや。俺は神官になって魔術が使えなくなった。それに、この地は神に縁のある地だから、来るのも容易いんだ」

「はぁ……。まあ、一旦、家に移動するか」

「それがいいな」

 サフィアが足元の犬に視線をやると、アォ、と短く鳴く。瞬きの合間に、周囲の光景は実験小屋の前に移り変わっていた。

 転移術式、と言っても、神術のそれは魔術と違い、詠唱や記述を必要としない事がある。神に愛された力ある神官であれば、尚更だ。

 俺たちは戸惑いながらも、彼らを家に招く。犬には布を用意してやると、自ら肉球の泥を拭っていた。

「何で犬同伴なんだ?」

「神の使い、みたいな存在なんだ。存在自体が力の塊で、転移は力を使うから念のため同行してもらった」

 わふ、と自慢げにしている犬の頭を撫で、俺たちは居間へと移動する。客人に一つだけ離れた椅子を勧め、俺たちは長椅子に隣同士で腰掛ける。

 サフィアは懐から二つの小箱を取り出し、目の前にある机に置く。一つには見覚えがあった。ラピスの雷管石を見たとき、差し出された箱だ。

「俺も魔力相性を見分けることはできるが、鑑定士ではない。だから、自分の目が疑わしく思えてな。お前たちが帰った後、複数人の鑑定士に『二つの石』を見せた。一つはこの石だ」

 小箱が開かれる。目の前にあったのは、紛れもなくラピスの力を込めた石だった。

「端的に言う。ラピス・シュタイン。お前の魔力と相性のいい相手、────番候補が見つかった」

「え……!? それって、もしかして……」

 彼の表情には期待と、僅かに嬉しそうな色が見える。くっと胸を握りつぶされるような感覚に、俺は視線を落とした。

 いずれ、この男が番を見つけるであろう、と分かっていた筈だ。それが早まっただけなのに、俺の頭はその事実を受け入れられない。

 気づくと、つっと頬を冷たいものが伝っていた。

「コノシェ……?」

「あ、悪い。なんか、感慨深くなっちまって」

 涙を止めようと力を込めても、ぼたりぼたりと次から次へ零れる。何度拭っても零れるそれを見かねてか、目に布が押し当てられる。

 顔を上げると、ラピスが心配そうにこちらを見ていた。

「あのね。多分だけど、間違ってる気がする」

「…………は?」

「神官さん。僕の番候補の名前、聞いてもいいですか?」

 反射的に耳を塞ごうとした俺の手を、ラピスの掌が包み込む。力強い手が、ぎゅっと俺の手を握り込んだ。

 逃げようと引いても、その場から動かない。逃げようとして逃げられない絶望感に襲われた瞬間、声が響いた。

「────『コノシェ・モーリッツ』。貴族家であるモーリッツ一族の一人であり…………と、これ以上は説明するまでもないか」

 開かれた箱の中には、俺が雨の日に拾った、魔力を込めたばかりの石が鎮座していた。

 双方の箱をこちらに向けて押し出し、サフィアは一仕事やりとげたかのように肩を下ろす。

「まあ、そういう訳で。もう別れを惜しむ必要もないだろう。互いの両親に連絡を入れてはどうか、と思うが」

「あ、の。……どう言っていいのか分からないんですが。合意、がまだで……」

「……あぁ。それは悪いことをしたな」

「まあ……いずれ言うことでしたので、発破を掛けてもらって助かりました」

 サフィアが、役目を終えた、とでも言うように立ち上がると、その足元に大人しくしていた犬が纏わり付く。

 ふわりと柔らかい光が放たれ、彼を包み込む。術式が発動するかというその時、俺はようやく我に返り、口を開いた。

「わざわざ悪かったな……!」

「いや。番を巡り合わせるのも、恋物語が大好きな神に仕える神殿の業だ。────どうぞお幸せに」

 俺に向かって軽く手を振ると、犬の鳴き声を合図に、急な訪問者は跡形もなく消え去っていた。

 俺たちの手は繋がれたままで、隣にいるラピスを見ても、手を離す素振りはない。あの、その、と言葉に迷っていると、ふっと小さく笑い声がした。

「僕、なんとなくこうなるかもなぁ、って思ってたよ」

「……そう、だったのか?」

「だってコノシェ。今まで出会ったことがない程、好みの匂いだったんだもん」

 手が離れ、伸びてきた腕が俺を抱き込んだ。耳元に唇が近づき、染みこませるように囁きかけてくる。

「それなのに、コノシェってば治療だから、って無防備に近づいてくるし。あの時の僕、ほんと……耐えるのに必死だった」

「なんか、……その言い方」

 俺のことをずっと、番候補として見ていたように思える。

 そう言おうとした唇は、そっと近づいてきた柔らかいものに塞がれる。ほんの一瞬の接触でも、俺を黙らせるのには十分だった。

 ふっと好みの匂いが鼻先を擽る。身の内を、馴染む魔力が伝っていく。

「僕。コノシェのこと、遠くから見てたんだ」

「遠く?」

「君は結界の内にいたけど。結界の外でも、姿だけなら見えるから」

 彼の言葉に、違和感を抱く。彼を拾ってから俺たちはずっと、結界の内側にいた。

 結界の外から俺を眺めることができるとすれば、それは、彼が記憶を失う前だけだ。

「お前……。記憶、戻って……」

「今朝から、少しずつ記憶が戻る感覚があった。概ね、取り戻せたみたいだ」

 しれっと重大な事実を告げるラピスは、悪びれもなく言葉を続ける。彼が語るのは、俺が最も知りたがっていた、彼が崖下で倒れていた経緯だった。

「────予想通りだよ。僕は両親が所有する別荘に滞在していた。服は目立ちたくなくて、別荘の管理人の服を借りたんだ。持ち物がなかったのは、すぐ帰るつもりだったから。あの日は、山歩きをしている最中にコノシェの姿を見たんだ。その時に気が抜けて転んで、軽く滑落した」

 彼はちらりと自らの脚を見る。脚の怪我は雷によるものではなく、その前に山を滑り落ちて出来た傷だと言う。

「転んだのは昼過ぎだったと思う。助けを呼ぶか迷っている間に、君の姿は無くなってしまって、どんどん周囲が暗くなっていった。いつ頃からか、雨が降り出した。木の下に逃げたけど、雨脚が強くなって、風も吹き始めると木の下でも濡れてしまった。寒くて、あそこなら雨風を凌げる、と思って崖下の空間を目指して歩きはじめたけれど、結界が張られていて、一定の場所から先には進めなくなった」

 淡々と語られる内容だったが、暗い山で一人の時に起きた出来事だとすれば想像しただけでぞっとする。

 そう、と彼の腕に手を添えると、俺を安心させるように唇が持ち上がった。

「その時、目の前に雷が落ちたんだ。結界が壊れて、僕は崖下を目指せるようになった。でも、安心して進んでいたら、今度は僕の真横に雷が落ちて────」

「倒れたお前を、俺が見つけた?」

「おそらく。そうだと思う」

 脚の怪我。頭の怪我。低体温。落雷。

 どれか一つに遭ったとしても死の危険がある出来事が、一気に彼を襲い、それなのにラピスは俺を引き寄せ、生き延びた。

 彼がいなかったかもしれない事に、呆然としてしまう。震える指先を、彼の手が覆った。

「…………よ、かった。生きてて」

 相手の胸元に顔を埋め、体温が移ることを確かめる。真実を知って動揺している俺よりも、張本人であるラピスの方が冷静だった。

 俺を落ち着けるように、肌を吐息が揺らすほど近くに寄り添っていた。

「記憶があろうが無かろうが、匂いの好みは変わらない。助けてくれた君を好きな気持ちは、記憶を取り戻してもまだ、此処にある。……コノシェ。僕は、君が好きなんだ」

 近づいてくる唇を、瞼を閉じて受け入れる。

 答えは言わずとも伝わっている気がしたが、折角の告白に答えがないのも可哀想だ。

「俺も。お前が別のオメガと番うのは嫌だった。俺の近くにいてくれるんなら、記憶を無くしたままでも構わないって思ったことすらあった。でも、……ちゃんと運命の番になるって、お前が選んだんだもんな」

 神殿に雷管石を預けたとして、魔力相性のいい相手だと判断してくれなかったかもしれない。

 それでも、ラピスは俺に石を預けるよう働きかけた。賽を振って、結果を掴み取った。これ以上ない、見事な勝ち方だった。

「…………好きだ。お前の番になりたい」

 背に回った腕が、痛いほど身体を抱き締める。

 伝え終えたことにほっとして、抱かれたまま力を抜く。たまには、こうやって精一杯胸を高鳴らせてみるのも悪くない気がした。

 相手の背後に腕を回して、その背中に縋り付く。

 

 

「コノシェ」

「何だ、…………『ラピス』」

 見上げた先にいる男は、この上なく幸せだ、と示すように、満面の笑みを浮かべている。

「────やっと、名前を呼んでくれたね」

 

 

 

▽8(完)

 対外的にラピスが発見された時、大騒ぎだったのは俺たちよりも周囲のほうだった。

 何せ、居なくなって時間が経ち、死んだかもしれないと言われていた人間がひょっこり姿を現した挙げ句、一時は記憶喪失になっており、その間に知り合った相手を番として連れてきたのだ。

 事態の収拾のために一時実家に帰った俺は、両親が叫び声を上げる姿を初めて見たし、ラピスの家なんかは本人が『いま自分が何してるか分かんない』と言い出すような大騒動だったらしい。

 とはいえ、番関係については両家とも諸手を挙げて喜んでいた。

「────俺も山中での研究は概ね終わってたしさ。正式に実家に戻ろうかなぁって思ってるとこ」

 実家である屋敷の自室で、俺はラピスと通信魔術越しに会話をすることが多くなった。それぞれの領地は遠く、別れてからは顔も見ていない。

 魔術越しに元同居人の声がするのが気になるのか、実験小屋から引っ付いてきた妖精は俺の肩の上で耳を澄ませている。

 妖精は実験小屋棲みという縛りがあると思っていたが、今は例のお絵かき小箱を家と定めているそうだ。

『じゃあ僕のとこおいでよ。両親が敷地内の建物を一つくれるらしいし。一緒に住もうよ……!』

「ほんと豪勢だなお前んとこ。でも早いだろ。そういうのは」

『ぜんぜん早くないって! 僕、毎日コノシェに会いたくて死にそうなんだよ……?』

 嘘っぱちだと分かっていながらも、一度命の危機に瀕している人間に言われると言葉に迷ってしまう。

 あー、と言葉を濁らせ、手元に広げていた手帳を見る。

「その件で、少し相談したい事があったんだが」

『なに?』

「婚約の日取り。来月って話もらってたけど、早めらんない?」

『無理すればいけるけど、なんで?』

「…………発情期、の時期。……婚約後のほうがいいかな、って、思った」

 向こうの声は完全に無音になり、言いたいことが伝わったらしいことを察する。まだ俺の項は綺麗なもので、発情期は他のアルファを誘う余地が残されている。

 つまりは、早くお前だけの存在にしてくれ、と強請っている訳だ。

『……婚約できたら。発情期、一緒に過ごしてくれるの?』

「一緒に過ごすだけでいいのか?」

『項咬ませて……! それで、番になりたいです!』

 素直な、疑いようもない言葉につい口から笑いが漏れる。肩の上でご機嫌に踊っている妖精を摘まみ上げ、机の上に逃がした。

「うん、俺も。だからさ、婚約、早めてくれない?」

『分かった!』

 別れの言葉もそこそこに通信魔術が閉じられ、どうなることやら、と両腕を伸ばす。間に合わなくても構わなかったが、つい甘えたくなってしまった。

 その後、互いの両親を最大限に巻き込むことに成功したラピスは、発情期が近づいた俺を自分の屋敷へ招くことにも、まんまと成功するのだった。

 

 

 

 ラピスの両親は本人に似て、穏やかで感じのいい二人だった。

 彼を助けたことについて、ひどく感謝され、変人の巣窟と揶揄される魔術一族の人間に対しても、構える様子なく接してくれた。

 息子と同じように魔術の心得は全くないそうで、領地内の魔術的な課題を軽く聞くことにもなった。しばらくは、研究から領地運営の補助に、興味の先が移るかもしれない。

「────この建物って。領主が住む家じゃないんだよな?」

「うん。領主はいずれ兄が継ぐから、あっちの屋敷よりは小さいよ」

「にしても、いい建物じゃないか。よくもぽんとくれたな」

「僕を助けてくれた人だし、外向きにもモーリッツ一族って魔術の名門だしね。コノシェに息子が見限られたら可哀想、って思ってるみたい」

 俺が疑わしげに眉根を寄せると、ラピスはけらけらと笑った。肩を抱かれ、頭を押しつけられる。

 荷物を運んだばかりのこの建物は、これからの俺の拠点でもある。それにしては実験小屋の広さに慣れていると、立派な造りで気が引けた。

「まあ。いい働きができるよう頑張ってみるよ、せっかく家族になるんだし」

「べつに、家出しないでくれたらいいよ」

「そっちは約束できない」

「そんなぁ……」

 俺はラピスに風呂の場所を確認し、汗を流したいと申し出る。婚約を前倒しにはしたのだが、そもそも俺の発情期まで日がなさ過ぎた。

 滑り込みには成功したものの、体調も、そろそろ相手の鼻で分かりそうな程度には変化している。

「僕、匂いを流してほしくないなぁ」

「俺が嫌なんだよ。いつお前を寝台に引っ張り込むかどうか……」

「今すぐでも大歓迎だよ……!」

 抱きつこうとしてくる顔を押しやり、脱衣所へ入る。すぐに追いかけてきた男もそれに続いた。

「コノシェ。身体洗ってあげようか?」

「いいぞ。股の間までじっくり、しっぽりな」

「………………そっちは、後でにしようか」

 ぐだぐだ何事か言っている男は身体を洗う間、指一本たりとも触れてくることはなく、身体はさっぱりしたものの焦らされているような心地だった。

 魔術で髪の水気を飛ばし、持ち込んだ薄い寝間着を纏う。

 事故が怖い、と使用人は建物へ入れないように言ってある。黙って結界も展開している。

 白い布地は肌の色が透けるような代物だったが、目の前で頬を赤らめている男以外に見る者はいなかった。

「コノシェ……それ、その。服、は」

「本来の意味での、寝る、用途に適さない服。こういうの、やらしくて気分上がんない?」

「いやらしくて凄くいい。用意してくれて嬉しいです」

「そりゃよかった」

 そわそわしている男の視線は、無意識に薄布越しの肌を這う。平然を装っているが、俺はどうやってこの男を寝台に引き込むか算段していた。

 互いの間を、妙な無言が過ぎていく。

「お腹、空いてない?」

「べつに」

 一度、居間に戻るべきだろうか。今から直ぐ寝室へ行こう、と言ったら幻滅されてしまうんだろうか。

 頭の中ではいくらでも理性が巡るのに、俺の腕は自然と持ち上がり、相手の首に縋り付いていた。

「なあ、ラピス」

「…………なに」

 持ち上げた太股を、相手の股の間に擦り付ける。温度と感触を変えたそれに、心の中でほくそ笑む。

「今すぐ、俺を番にしたくない?」

「したいに決まってるでしょ……!」

 叫ぶように言うと、腕が掴まれる。そのまま引き上げるように抱かれ、俺の脚は空中に浮いた。

「ひぇ……!?」

「暴れないでね。落としちゃうよ」

 体格差はあれど、力の差まであるとは思わなかった。俺は小動物のように抱かれ、彼はそのまま廊下を大股で移動していく。

 辿り着いた先にあったのは、一つの扉だ。抱え直して手を空け、扉が開かれると、広がっていたのは寝室だった。

 広い室内の中に、圧迫感のある寝台が鎮座している。視界に入った瞬間、ひゅっと息を呑んだ。

 長い脚が部屋を横切り、寝台へと身体が下ろされる。

「発情期って、こんなに一気に変化するものなんだね。急に誘われてびっくりしちゃった」

 両肩に手が置かれ、額に唇を寄せられる。ちゅ、と軽く触れ、離れた。

「誘ってる、か……?」

「意識してないんだ……。ほんと、よく今まで無事だったね」

 彼は寝台に腰掛けると、俺の首に腕を回す。近寄ってきた唇を、今度は目を閉じて受け入れた。

 唇を舐められ、僅かに開くと舌先で押し入られる。慣れないながら受け止めていると、楽しげに口内を舐られる。

「…………っ、く。……ふ、ぁ。……ん」

 声が漏れてしまうと、更に深く舌が押し入った。

 性急な侵入に戸惑いつつも、控えめに舌で受け止め、接触を重ねる。息苦しさを覚え始めた頃に、唇が離れていった。

 相手の手が、誘われるままに襟元へと伸びる。

「脱がす前に、ちょっと待ってな」

 ラピスの唇に指先を当て、小声で呪文を紡ぐ。発動した光は俺の身体に集束し、溶けるように消えていった。

 急なお預けを食らった男は、きょとんとその様子を見ている。

「魔術?」

「ん。身体の内部を整えて、傷つかないようにな」

「あぁ、そっか。僕も使いそうなものは用意したんだけど」

 彼は少し照れた様子でそう言うと、寝台の近くにある机に手を伸ばし、中から瓶を取り出す。中身はとろりとした液体で、軽く振ると遅れて動いた。

「いや、助かるよ。多分、これ使った方がお前も気持ちいいだろうしな」

 腕を伸ばして頭を撫でると、ラピスはこくんと頷く。

 僅かな、そして微妙な間が空いた。止まれ、と言ってしまったものだから、向こうも手を出しあぐねているのだろう。

 自らの服に手を掛け、釦をゆっくりと外していく。服が揺れるたび、隠れていた白い肌が覗いた。

 痛いほどの視線に、唇が持ち上がる。釦を外し終えた服が肩から滑り落ちた。

「見てて、面白い身体でもないだろうに」

「……触っていいの」

「どうぞ?」

 掌が持ち上がり、首筋へと触れた。

 相手の息は荒れており、落ち着けようと呼吸をする度に更に酷くなっていく。俺も同じだった、広い寝室であれど、この部屋はアルファの匂いで満ちている。

 今、フェロモンを制御できている気が全くしなかった。

「咬みたいな。……はやく」

 そう呟き、顔が傾ぐ。首の側面に唇が触れ、軽く牙が立てられる。

 刹那、感じたのは痛みではなかった。もっと深く噛み付かれたい、と溢れ出るような欲が身体を満たした。

「……っ、あ」

 歯を立てたことを詫びるように、舌先が首の皮膚を舐める。唾液越しに馴染む魔力が身体を伝い、自らの波を乱していった。

 匂いを付け、痕を残し、項以外にも牙を伝わせる。番だと覚え込まされるように、執拗に接触を繰り返す。

「首、くすぐってえよ」

 相手の肩に丸い爪を立てると、ようやく顔を起こした。つまらなさそうにしている男に向かい合うように膝を立て、肩に腕を置く。

 キスを強請ると、容易く捕まってくれた。

「────ん、なぁ。お前の匂い、すげえな。他の匂い、分かんなくなった」

「コノシェの所為でしょ……! 気を抜くと合意なく噛み付きそうで怖いくらいだよ」

 男の指が胸の突起へ伸び、つんと尖っているそこを押し潰す。

 むずむずとした馴染みのない感覚に、くっと息だけが漏れる。俺の反応を見上げたラピスは、楽しそうに口の端を持ち上げた。

「乳首も、いずれ気持ちよくなってくれるかなぁ……?」

「な……、ん、のかもしれない、けど。いまは、くすぐってぇ……」

 指先が先端を摘まみ上げ、くい、と引いて放す。じんとした感触に匂いが混ざって、身体の芯が痺れた。

 片方の胸を弄っていた指が離れると、視界の端で舌が伸ばされるのが見えた。押しのける前に、ぬるりとした感触が伝う。

「ひ、ン……うあ。……それ。や、かも…………」

 見上げてくる青の目には、愉悦の光が宿っていた。昏い光は瞳の輪郭を滲ませ、理性を溶かして漏れ出している。

 まだ舌の感触を知らなかった方にもしゃぶりつかれ、強く吸い上げられる。繰り返されたら、性の味を覚えてしまいそうだった。

 制止の方法を考えていたとき、目の前に彼の耳が覗く。体温で色を変えているそれを、かぷりと甘噛みした。

「コノ、シェ。……っ!?」

 ねろりと舌を這わせると、相手は胸から顔を持ち上げる。ちゅうちゅうとしゃぶっていると、流石に引き剥がされた。

 唇を尖らせ、相手の寝間着に手を掛ける。力尽くで引き抜こうとすると、向こうが譲って腕を抜いてくれた。

 相手の首筋から胸元へと唇を伝わせ、鎖骨の横を吸い上げる。巧く痕には残らないそれが、愛おしく指先で撫で摩った。

「…………っ」

 胸元から腹にかけて、身体を倒してキスを繰り返す。盛り上がった筋肉の感触が物珍しく、指先で辿って、唇で知った。

 時おり、びくりと相手の身体が揺れ、その度に口の端が満足げに持ち上がってしまう。

「下。触りてえ」

 布越しに一物を撫でるが、戸惑うように瞳が揺れるばかりだ。答えを聞く前に服に手を掛けると、諦めたように腰を浮かせてくれた。

 中からまろび出た物体に指先を這わせる。ひくん、と動くそれがかわいらしく思えた。

「コノシェの服も、脱いでくれる?」

「ん」

 素直に自分の下の服を脱ぎ落とし、相手の目の前に晒す。体格相応のそこに、男の視線が突き刺さった。

 あんまりにも見つめられると、流石に気恥ずかしく、太股を擦り合わせてしまう。

「僕のを触るには積極的なのに、自分の方は照れるんだね」

「そりゃそうだろ」

 相手のぶつをむんずと掴み、近くにあった小瓶の中身を垂らす。ねっとりと広がった液体を擦りつけると、呻き声と共に、相手の肩が揺れた。

 むっとしたように唇を閉ざすと、彼も自分の指に液体を擦りつける。同じように前に伸びるかと思った手が、背後に回った。

「は!? …………う、ぇえ……っ、ン」

「ごめん。あとで前は触るから」

「な、ん……ッ。後ろ……!?」

「僕、もう暴発するかも……!」

「しろよ!」

 谷間を辿った指が、一番深い窪みへと辿り着く。肉輪に指先を当て、粘り気のある液体の力を借りて滑り込んできた。

 ひ、と声が漏れる。粘膜は魔術で守られているが、感触を隔てる術はない。俺の手からは彼の肉棒が転がり出て、相手の身体に倒れ込む形になる。

「……あ、え。…………うぁ、あ」

「お尻触られるの、弱い?」

「尻触られて、平然としてる人間がいてたまるか……、ァ!」

 ぬくぬくと指は内部を暴き、奥へ奥へと進んでいく。傷つく事がない魔術の効果は実体験できたが、いっそ、癖になってしまいそうだ。

 トン、と内側から叩かれると、疼くような悦さが伝ってくる。身体を震わせ、その場所に弱いと知られてしまった。

「ここ。悦いの?」

「…………ん、う」

「そっか。気持ちよくなれちゃったね」

 指の腹でそこを撫で回されると、腹の奥からずくずくしたものがこみ上げてくる。前を触れるのとは別種の感覚に、目を白黒させて固まった。

 嬌声が混ざったような呼吸を繰り返し、アルファと繋がれるようになるまで延々と下地を整えられた。

「────っ、ふ」

 指が抜き去られると、喪失感に身体を震わせる。彼は俺を寝台に押し倒すと、顔を近づけるようにのし掛かってくる。

 息を荒らげているのはお互い様だ。余裕のない眼差しが、ぎりぎりと目の表面を焼いた。

「……項、見せて?」

 いちど許したら、この男に人生ごと番わされる。俺の鼻は、他者の匂いを拾えなくなってしまう。

 それなのに、提示される選択肢がひどく甘美に映った。

 首の裏を覆っている髪を払い、身体の向きを変えて相手へと背を向ける。ラピスの視線の先には、噛みつくべき場所が見えていることだろう。

 背に相手の体重が掛かった。項に柔らかく、濡れた感触が伝った。

「……う、あ」

 腰が掴まれ、狭間に濡れたものが押し当てられる。瓶の蓋を開ける音がして、中身が結合部へ垂らされた。

 ぬちぬちと水気のある音がして、縁に何度も膨らんだものが当たる。焦らされるような動きに、膝でシーツを掻いた。

「やっと、僕の…………!」

 くぷん、と先端が輪を潜る。圧迫感を息で逃がそうとしても、反射的にそれを食い締めてしまう。

「う、あ。…………あ、ぁ」

 太い竿が、ぬる、と縁を滑っていく。息苦しさに呼吸をするたび、相手のフェロモンに身を狂わされる。

 誘っているのは自分か相手か、最早わからなくなり果てていた。

「……ふ、う。…………ン、ぁ」

「うぁ。まだ、奥いける……?」

「き、くな……!」

 苛立ち混じりに尻を相手の腰に押しつけると、重たい質量が腹を小突く。息苦しい筈なのに、躰は男根をしゃぶり、新しい快楽に慣れ始めている。

 呆れたように背後から息が吐かれ、一度引いた膨らみが、改めて襞を掻き分ける。

「あ──! あ、ッひ…………ンぁ、あ」

「……ふっ、く。もうちょっと、で」

「────く、……っあ。だ、め。ン……あ、あぁぁッ!」

 奥の柔らかい場所へ亀頭が填まり、ゆったりと腰が揺らされる。膨らみは引き抜かれることなく、体液越しに魔力が混ざっていく。

 触られていない筈の半身すら形を変え、ぼたぼたと寝台の上に滴を零した。

「奥。さわられるの……、好き?」

「ン、あ。……ぁ、ッ。す、き。……イ、っく」

「コノシェのここ。トン、……ってすると、ぎゅってしてくれるよ」

 囁かれた言葉を裏付けるように軽く小突かれ、肉竿全体を引き絞る。ひぐ、と濁った声ばかりが漏れ、揺らされる度に啼いた。

 ずっ、と引かれ、大きく突き上げる。奥へ届いた瘤で圧迫されると、特に刺激は尾を引いた。

「……や、ァだ。……も、魔力、呑ませな、……で、くれ────!」

「ン……。でも、僕、まだ達ってない、よ……?」

 もっと濃いものが来る。純度の高い魔力を、粘膜に放たれる。

 ぞくぞくと背筋に走ったのは、ただの期待だった。人が嫌いだと逃げた筈なのに、結局は番に捕まって、相手の身体の一部を打ち込まれている。

 理性的な自分を裏切る性の欲求が、頭を空っぽに繋がって、ただ生殖がしたいと叫んでいる。緩んだ口の端から涎が落ち、清潔なシーツを汚した。

「ね。……っ、コノシェ。僕、ここで達っていいの……?」

 彼の掌が腹に押し当てられ、くっと指が腹を押す。

 雄をぜんぶ腹に埋めて、最奥まで填めて、それでいて溜め込んだ子種をぶちまける。そう予告されているのに、勃ち上がった自身は萎える様子もない。

 焦れったく息を吐き、額を寝台へと押しつける。

「…………さっさと、出せよ」

 ねだる響きを隠せるはずもなく、機嫌が良さそうにアルファの喉が鳴った。

 腰を掴んでいた腕が肉へ食い込み、ずるる、と勢いよく大部分が引き抜かれる。返しのところが肉の縁に引っかかり、攪拌した泡がはぜた。

「じゃあ。遠慮、なく……ッ!」

「あ────! ッ、は……」

 どちゅ、と勢いよく腰が叩き付けられ、ぐりんと曲がった瘤が柔らかい部分へと潜り込む。腹の中で煮えたぎったものを押さえつけるように、背後で喉が動く音がした。

 首の後ろに、息がかかる。尖った歯が皮膚に食い込み、ぷつんと膜を破った。

「う、あ────く、っうう……ぁああああっぁぁッ!」

 堪えていたものが容赦なく腹の内で吐き出され、薄い粘膜を押し上げる。純粋な魔力ごと含まされ、媚薬でも飲んだような心地だった。

 前からは体液が垂れ、皮膚ごと寝台を汚している。吐精が終わるまで繋がりは解かれず、ゆるく揺らされ、言葉にならない声を漏らす。

 絶頂と呼ぶには長い時間が過ぎた後、牙が引き抜かれた。寝台に崩れ落ち、シーツに頬を付ける

「ぎ、っつい…………」

 違う魔力が身体を巡り、身の内を塗り替えていく。鼻先の届く匂いの感覚から、雑味に近いものが排除されていた。

「……ふ、う、…………なん、匂いの感じ、違う?」

「だな。……も、番か」

 腕を伸ばし、相手の首筋を捕まえる。倒れ込むようにのし掛かってきた身体を、重い、と文句を言いながら受け止め、背に手を回す。

 濃い匂いは薄れることなく、まだ熱は引かない。

「コノシェ。もう、僕以外を拾ったら駄目だからね」

「……時と場合による」

「もう……!」

 耳元でやいのやいのと言っている番の顔を捕まえ、キスをする。

 ちゅ、ちゅ、と無駄に繰り返しているうちに相手が黙りこくったのは良かったが、直ぐに二戦目に縺れ込まされて困った。

 

 

 正式に実験小屋から私物が引き上げられ、俺と妖精はシュタイン家が用意した家に移り住むことになった。

 どうやら新しい家には先住の妖精たちがいたらしく、五月蠅いのが一から、三にも四にも五にもなって、更にかしましい家と化している。

 ラピスの妖精の声が聞こえる性質は、幼い頃から妖精と親しくしていた事を理由に育まれたのだと後に知った。

 俺はシュタイン家の領地運営を魔術で補助しながら、魔術師の少ない屋敷で、細々とした魔術の相談を受ける日々を送っている。

「コノシェ。おやつ食べよう…………」

「おう。どうした? 疲れてるな」

 執務室で書類に目を通していると、くたくたになったラピスが盆に載った菓子を運んでくる。

 使用人に任せればいいだろうに、番になってから直ぐだからか、俺と他人をあまり会わせたがらない。

 ラピスがいない時に使用人たちとは仲を深めてはいるが、番になったばかりなアルファの絶妙な面倒さを味わっているところだ。

「父上。僕が失踪してたあいだ休暇をいいことに『記憶を取り戻す努力もせず番候補といちゃいちゃしてた』って感覚みたいで、仕事どかどか降らせてくるんだよ……。ひどくない……?」

「ほぼほぼ正しいだろ」

『そうだそうだ。ずっといちゃいちゃしてたぞ』

 俺だけでなく妖精にまで父の味方をされ、ラピスは肩を落とす。俺の前に菓子類を置き、妖精にも慣れた手付きでお零れを握らせた。

 習慣的にお菓子を与えられる妖精の棲む屋敷は、今日も隅々まで綺麗に整っている。

「でもさ。記憶喪失になって拾ってくれた人が好みのオメガだったら、これは好機といちゃいちゃするでしょ……!?」

 ラピスは隣に腰掛けると、カップに紅茶を注いだ。はい、とソーサーごと目の前に置かれ、俺は礼と共に口を付ける。

 思っていたより、彼は出逢って直ぐに俺を番候補として見初めていたようだった。

「え。俺、親切心でお前を拾ったのに、お前はそんな助平心で接してたの……?」

「コノシェ。冗談か本気か分からない反応はやめてよ……」

「冗談だよ。……あんまりアルファと接してこなかったからな。オメガとして見られてる自覚なかったわ」

 さくさくと焼き菓子を囓っていると、妖精の口からもばりばりと音がする。頬に付いた欠片を取ってやると、あ、と口を開ける。

 ご所望通りに、欠片を口に放り込んだ。

「まあ。助平心はちょっとあったから……」

「あの時、正直ちんちん洗ってほしかった?」

「後からちょっとだけ……まあ」

「ふは。今日の風呂で洗ってやるよ」

 耳元に唇を寄せ、ついでに咥えよっか、と提案すると、頬が一気に真っ赤になった。可愛らしい色になった頬に唇を寄せ、軽く触れて離れる。

 やれやれ、と妖精は肩を竦め、俺の皿から焼き菓子を追加で拝借する。

『とりがないておるな』

「妖精の言う、鳥が鳴いてるな、ってやつさ。いちゃいちゃしやがって、みたいな意味か?」

『まあ。とりはつがうからな』

「遠回しな嫌味じゃねえか」

『”ちょくせつてきな”いやみだ』

 相手の手元から焼き菓子を取り返すと、指先へとぽかぽかと抗議される。

 既に囓られていた部分ごと割り、半分こにして与えると渋々納得した様子だった。食べ過ぎ妖精のぷくぷくにも限度がある、最近、膨らんだ腹回りが小さな服を押し上げているのが気になってしまうのだ。

「コノシェ。僕のぶん食べていいよ」

「ありがとな。最近、働き通しだから魔力消費も激しくて」

 有難く番の菓子をもらい、のんびりと窓の外を眺めながらお茶会の時間を過ごす。

 ラピスが記憶を取り戻し、周囲は目まぐるしく変わってしまった。だが、こういった時間が変わらずに在る事を思うと、じんわりと胸のあたりが温かくなってくる。

 隣に座っていた番も、同じような事を考えていたようだ。

「いやぁ。僕、二回も近くに雷を食らってよく生きてたよね……」

「本当にな。でも、あの雷って神の手によるものだったから。…………何ていうか、逆にあの時に雷が落ちなかったら、結界が壊れなくて俺は朝まで目を覚まさなかっただろうし、体温が下がって危なかったかもな」

 ああ、とラピスは呟き、目を見開いた。顎に指先を当て、空を指差す。

「つまり、神様が僕を助けるためにコノシェを呼んでくれた、ってこと?」

「実際、雷はお前に直撃しなかった。好意的に捉えれば、そうとも考えられるな、と思って」

 怪我はしたし、酷い目にも遭ってはいるのだが、俺はラピスを拾わなければ雷管石に魔力を込めようとは思わなかった。

 神官の言う『恋物語が好きな』神様なら、書いてくれそうな筋書きだ。

「そっか。本当に、僕たちって運命だったんだね……!」

 きらきらと瞳を輝かせる番を、夢想が過ぎる、と一蹴してやることもできる。

 ただ、今は、生涯に一度の巡り合わせを、彼と同じく運命という言葉で表してみたくなった。

「そうだな。お前が言うんなら、────運命なんじゃねえの?」

 照れ隠しにカップを持ち上げ、唇を湿らせると、ソーサーを机に戻した瞬間を見計らって隣から抱き付かれる。

 からからと気持ちのいい笑い声が木霊する、よき午後の一幕だった。

タイトルとURLをコピーしました