朝方から吐いた息が白く曇るような一日の始まりに、そっと目の前を曇らせる。
寝台で隣にいたはずの温度はもう失われていて、床から立ち上る冷気の強さに足先が竦んだ。
逡巡していると、廊下から足音が聞こえてくる。つい唇が緩んでしまう、現金な自分にはがっかりだ。
「────おはよう、リィガ。上着持ってきた」
「アリー、おはよう。待ってた」
ふわふわの上着を着せられ、分厚い靴下と室内履きを与えられる。近づいてきた恋人の背に手を回すと、耳元で満足げに喉が鳴った。
寝室と廊下は冷たかったが、食卓は竈の火で暖められていた。机の上には食事が並べられており、妖精がひとりだけもぐもぐとお零れを貰っていた。
頭の帽子には煤がついており、朝食を手伝ったことが窺える。
「あれ、今日は妖精くん。少ないんだね」
『いそがしい、じきゆえな』
忙しい時期。彼らの言葉に、去年の今頃を思い出す。
秋の過ごしやすい気候から、急に寒くなった日。同じように突然、食卓にいる妖精たちの姿が減っていた。
「アリー。今日は薬草を摘みに行こうか」
「構わないが、どうした?」
私の手元にスープを運んだアレイズは、先程の私と同じように空中に視線を向ける。
去年の今頃を振り返っているであろう仕草に、答えを告げるのを待った。あ、と声が漏れる。
「そうか。俺の身体が強すぎて気づかなかった。風邪が増えてるのか」
「正解。薬草を持って、おばあさんの家に行こう」
去年もこうやって気候が一気に変わったとある日、妖精たちが一気に家から消えたことがあった。
村を訪れ、大忙しの薬師……レナに薬草の提供を依頼され、出来上がった薬を配っていると、家々に妖精たちの姿があったのだ。
食卓にひとりだけ残った妖精の頬から、パンくずを落としてやる。
「妖精くん達、村の人たちの所に行ったんだ?」
『そうだ。やぎのちちをあまくしたり、はらをこすってすこしだけあたためてやったり、おおいそがしだ』
「風邪を治してやる訳じゃないんだな」
アレイズはようやく食事の準備を終えたようで、私の隣に座った。
お湯で濡らした布で手を拭われ、感謝を述べて食器を手に取る。
焼きたてのパン、スープと柔らかく焼いた卵。体調を崩しようもないのだが、身体を温めるための食事は美味しい。
『ようせいはひとではない。ようせいはせかいである。せかいは、ひとのやまいをなおさぬ』
「山羊の乳が甘く感じたり、腹がいつもより温かいな、って程度の『気のせい』の範疇に留めるのが人と妖精の均衡だ、ってことか?」
アレイズはその均衡を破り、妖精の手元に果物を与える。妖精は返事をする前に果実に齧り付いた。
小さな口の端に果汁が零れ、布で拭ってもらっている。
『せかいには、ようせいがいて、ひとがいて、せかいである』
「その割にはリィガには甘いよな」
『ひとだって、みうちにはあまいであろう』
つぶらな瞳で見つめられると、何故か懐かしい気分になる。
遠くに、もしくは自らの魔力の流れに沿う、波の音があった。
大量の薬草を抱えてレナの家に行くと、たいそう驚かれた。部屋中に薬を調合するための器具が置かれ、コナまでもが乳鉢で草をすり潰している有様だった。
いいところに来た、とばかりに捕まって、二人して部屋を駆け回る。薬ができあがると、アレイズはマハに乗って届けに向かった。
昼過ぎには年配の患者分を届け終え、ようやく少し遅い昼食を提案される。
「先生、俺も手伝います」
「ありがとう。お願いするわ」
レナとアレイズが厨房に入り、残ったコナと私は、出されたお茶を飲みながら薬草をむしる。
しばらく無心で作業をしていると、美味しそうな匂いが漂ってきた。
「お待たせ」
アレイズが大鍋に運んできたのは、大きな野菜をまるごと一個、味付けをして煮込んだものだった。
中身を掻き混ぜている様を横目に、手を洗う。
「うわぁ。こんな沢山、食べきれますかね」
「いいのよ。今日はきっとね、大勢のお客様がいらっしゃるから」
レナの言葉と同時に動いた扉へ目をやると、少し開いた隙間からくたびれた妖精たちがのそのそと入ってくる。
アレイズも彼らの存在に気づいたようで、四人分より多く皿を用意し始めた。レナは鮮やかながら小さな布を食卓に置くと、その前に皿を移動させる。
「風邪が流行った日。いつも、食卓からたくさん食事が消えるのよ。きっとお疲れなのね」
「おばあさんは、いつもこうやって食事を?」
「あんまりねえ。大っぴらに差し上げると怒られるそうだから。こういう日だけ席を用意させていただいているわ」
レナが敷いた布の上に、妖精たちが腰掛ける。そうして、何かごにょごにょとやって、皿の上の料理を食べ始めた。
私たちも同じ食卓を囲み、くたくたになるまで煮込んだ野菜を口に運ぶ。薬草が混ざったそれは、強く身体を温めた。
鍋の中身は、瞬く間に消えてしまう。
「食後のおやつも出しましょうね」
レナはびっしりと砂糖で包み込んだ焼き菓子を取り出すと、ナイフで丁寧に切り分ける。まず妖精の皿が満たされ、続けて、人間たちの皿に一切れずつ置かれた。
淹れられたお茶と共に頂くお菓子は、休息にふさわしい味わいだった。
「甘い。美味い」
短く言葉を漏らしつつ皿を空にすると、アレイズはおかわりを貰っている。
横からアレイズに飛びつき、妖精たちもおかわりを強請っている。先程の、のっそりとした姿が嘘のような俊敏さだった。
あの身体のどこに入るのかというほど、大量の食べ物がものの見事に消えていく。
「今日は、また随分と減りが早いのねえ」
「朝食もあまり食べずに出て行ったみたいで、お腹が空いていたのかもしれません」
「あらあら。そうね。今日は例年より、患者さんが多かったかもしれないわ」
結局、妖精たちは作り置きだったはずのお菓子を食べ尽くし、アレイズに『夕食にも菓子を出せ』と要求してから、レナの家を出て行った。
まだ午後にも仕事があるのだそうだ。頭をちょっと冷たく感じさせたり、生けられた花の寿命を延ばして目を楽しませたりする予定らしい。
ほんのちょっとだけ助けて、気のせいだな、と人には気づかれず、彼らはそれでも同じ世界に存在し続ける。
「お粗末様でした。綺麗に食べてくれてうれしいわ」
彼女の言葉は、私たちだけに向けたものではないのだろう。何もいなくなった空間を、細められた目が追っていた。
「美味しかったです、おばあさん。午後もしっかり働きますね」
「俺も配達を頑張ります、先生」
外は寒く、一度流行りだした風邪はしばらくは続く。何日も、何年も。それらを繰り返して、また私たちは春を迎える。
レナは妖精たちが座っていた布を丁寧に畳むと、しばらくのあいだ眺め、そうっと棚へ仕舞った。