
※R18描写あり※
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▽1
両親が経営している店に珍しい来訪者が現れたのは、春も近づいた日の事だった。
男の名は、クランツ・カフマー。
カフマー商会長の末息子で、本人も父を手伝い、商売のために遠方まで飛び回っていると聞く。今日もかっちりとした上着を身に纏っており、動きやすそうな上質の靴には磨かれた革の艶があった。
外見は人好きのする整った顔をしており、誰からも好青年と称される容姿だ。柔らかい金髪はふんわりと跳ね、銅色の目を細め、くしゃりと笑う表情がよく似合う。
以前、両親と共に出席した酒の場で軽く口説かれたことはあるが、いちど断ってから先は、ただの知人として接していた。
両親と話すクランツを横目に掃除を続けていると、父に呼ばれた。父は私の背を軽く押し、客との距離を詰める。
「サザンカ。クランツさんがお前に依頼したい仕事があるそうだ。奥の応接室を使っていいから、少し話を聞いてみてはどうかな?」
「仕事?」
問い返すと、彼はゆるりと唇をひらく。
男の背後から、店の窓越しに光が差す。柔らかい金髪に、天の輪が浮かび上がった。
「少し、魔術師に手を貸してほしい案件があってね」
私は魔術師としての腕は良くないが、こんな田舎の商店街では魔術師であるだけでも仕事がある。
普段は魔術絡みの困りごとの相談、魔術装置の魔術的な修理。依頼がない時には父母の経営している文具の製造販売の生業を手伝っていた。
だが、最近は店の経営が上手くいっていないらしい。
大口の取引先が解散し、倉庫には出荷できなかった商品が溜まっている。新しい取引先を探そうと、最近は両親が店にいる事も減っていた。
カフマー商会は、この周辺でも随一といっていいほど大きな組織である。
新しい取引先を紹介してくれるか、こんな小さな店と商会そのものが取引をしてくれるかもしれない。
普段よりも慎重に相手の顔色を窺う父を見て、私も余所行きの表情を作った。
「では、奥へどうぞ。喉は渇いていませんか?」
「頂けるなら有難いな」
「さっきまで製作をしていて父の手が汚れていますので、私が淹れますね」
クランツを応接室へ案内して椅子に座るよう勧め、部屋を離れて台所へ入る。パチン、と指を鳴らし、魔術で汲んだ湯を沸かした。
少し良い茶葉の缶を引っ張り出し、中身をポットへ入れる。茶器を温め、ポットにも湯を注ぎ入れた。
冷蔵の為にある魔術装置の蓋を開くと、今朝方に作ったばかりの焼き菓子があった。早足で応接室まで駆けていき、軽く叩いた後で扉を開ける。
扉の先には、見慣れた応接室の風景が広がっている。
主に両親が客と話をする時に使う部屋で、広くはないが使い心地が良く、落ち着いた色味の家具ばかりを置いていた。
部屋の中は商談に使う大きな机と、座り心地のいい、ふっかりとした椅子が大部分を占めている。
「失礼。今、お腹は空いていますか?」
午後のお茶会に相応しく、軽い空腹を覚えても自然な時間帯だ。椅子に腰掛け、応接室の雑誌を開いていたクランツは、顔を上げるとぱっと微笑んだ。
「ちょうど何か摘まみたいと思っていたところだよ」
「甘いものはお得意ですか?」
「大得意」
ひょうきんに平たい腹部を叩いてみせる様を見て、くすりと笑う。用意してきますね、と言い置いて、扉を閉めた。
台所にとって返して冷えていた焼き菓子を温め、皿へ多めに盛った。出来上がったそれらを盆に載せると、ゆっくりと廊下を歩く。
ふと横を見ると、窓にローブを着た魔術師の姿が映っていた。
豊かな大地色の髪をゆるく編み、多数から美しいと言われる薄紅色の瞳がぱちりと長い睫を持ち上げる。
昔から美しい母似だった私は、口説かれることも多かった。貴族から、愛人に、と誘われたこともある。
「…………忌々しい顔」
クランツに口説かれた時も同じだ、彼は顔を褒める言葉を吐いた。また『その手の』人間なのだとがっかりした。
生まれた時から真面目ばかりが取り柄の両親の元で育った私は、その言葉を今までと同じように受け入れられず、やんわりと次の誘いを断ったのだ。
彼が綺麗だと褒めた顔は、災難ばかりしか呼んでこない。
ふい、と窓から視線を逸らし、また歩き始める。応接室の前でノックをしようとお盆を抱え直していると、カチャリと扉が引かれた。
「あ、当たった」
「…………手が塞がっていたので助かります」
「お礼を言うのはこっちでしょ」
自然な動作で手を差し出され、その両手に盆を預けてしまった。気づいた時には彼は机に食べ物を載せており、カップにお茶を注ぎ始めている。
お客様に、と慌てて歩み寄っても、いいから、と制された。貴族のような優雅な所作ではなかったが、無駄がなく、てきぱきと目的を完了させる。
普段から動作が速くない私は、お客様にお茶を出され、椅子を引かれ、席に座らされてしまった。
用意した温かい濡れ布巾を渡され、はっと我に返る。
「あの、自宅にお菓子の買い置きがなくて。手作りなんですが……」
「えっ」
視線を上げた瞳はきらきらと輝いている。私が言葉を続けるより先に、あちらが口を開いた。
「いいの……!?」
「は? い、いですけど……美味しくなかったら、残して……」
「嬉しいよ。いただきます」
彼は手を拭いフォークを手に取ると、円形の菓子を半分に割る。手早く一口大に切り分けると、ぱくんと躊躇いなく口に運んだ。
落ち着いた色であるはずの瞳は、興味深いものを見るとくるくるとよく動く。今もまた、何よりも感情を表に出していた。
口説いてきた面倒な相手ではあるものの、悪い人ではないんだろうなぁ、と彼を邪険に扱えないのはこういう気質からだ。
「美味しい! 普段は出来合いのものばかり貰ってしまうから。いいなぁ、温かくて味も優しくて」
「そう、ですか?」
「ぺろりといけちゃう。ごめん、温かい内がきっと美味しいし、話の前に食べ終えるよ」
宣言通り、彼はぺろりと菓子を平らげ、自ら注いだ茶を啜る。うん、と満足げに頷くと、カップをソーサーに置き、姿勢を正して話し始めた。
「────依頼したい事、っていうのは、うちの別荘にある倉庫についてなんだ」
「倉庫?」
「うん。特殊な倉庫で、父が商会長という立場もあって、断り切れずに貰ったものを詰め込んでいるんだけど、最近、俺がその別荘を貰い受けることになってね」
「へえ。倉庫の片付けに人手が必要、とかですか?」
相槌がてら言ってはみたものの、力仕事も得意ではない魔術師をわざわざ呼ぶ理由としては弱い。
案の定、彼は首を横に振った。
「実は、その倉庫、断り切れずに貰った『曰く付き』の品物ばかりが集まっていてね」
声音から、曰く付き、の正体を何となく察する。
「つまり、呪いの、と冠を戴くような品ばかり、という事ですか?」
「大正解」
ぱちぱちと拍手されても、あまり嬉しくない正答だった。
私の姿勢が引き気味になったのを悟ったのか、彼は慌てて手を動かす。
「気持ちは分かるよ! 話を聞いたどの魔術師も嫌そうにしてて……。けど、報酬は多めに出すし! お父上に話を聞いたんだけど、この店の過剰在庫についても、うちの商会で引き受けてもいい!」
「え」
提案だけを挙げれば、願ってもない報酬だった。向こうも他の魔術師に断られ、引き受けてくれる人間を探したのかもしれない。
彼が言うように、うちの店は在庫が捌けずに困っている。息子である私は、両親や兄弟たちの為にも依頼を請けずにはいられないのだ。
カップの中身で唇を湿らせ、こくんと唾ごと飲み込んだ。
「だけど、私は解呪についての専門じゃありませんよ?」
「分かってる。最終的に呪いの専門家に頼むかもしれないけど、それにしても状況を詳しく知りたい。俺だけで見るよりも、サザンカが同行してくれた方が心強い、と思うんだけど……だめかな?」
机に手を突き、心から困っている、という様子を見せられると、無下に断ることもできない。
それに、倉庫を圧迫している在庫が消えてくれるのは、心理的にも経済的にも助かることだ。
しかし、ただの仕事、のはずなのに、何だか胸騒ぎがする。
「分かりました。品物を見て、どの程度の腕を持った魔術師に依頼すればいいか、助言するくらいだったら……」
「本当!? 助かるよ! ここ最近ほんとうに憂鬱で────」
緊張の糸が解けたのか、これまでの経緯を怒濤のように語り出したクランツの話を大人しく聞いていると、手元の菓子がなくなった。
切り分けていなかった分がまだあったな、と思い、話の合間に口を開く。
「お菓子、まだありますけど、お腹空いてますか?」
「欲しいです!」
はい、と手を挙げて主張する様子に、くすりと笑って立ち上がった。台所から切り分け、温めた焼き菓子と淹れ直したポットを運ぶ。
今度は私が辿り着く前に、応接室の扉は開いていた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
今度は私が机に新しいカップを置き、先程とは違う茶葉のお茶を注ぐ。彼は一口含むと、見事に葉の名前と大体の産地を言い当てた。
質の悪いものを出せば直ぐに言い当てられるだろうに、その割には素人の菓子をうれしそうに頬張っている。お世辞にしてはいい食べっぷりだった。
「そういえば、お仕事をする別荘、って遠いんですか?」
「ああ、場所はね」
彼が説明した別荘の場所は、馬車だけを使うには向かないほど離れた土地だった。途中までは転移魔術を使って移動するのだという。
明らかに、日帰りとは思えない日程だ。
「泊まり掛けになりますか?」
「うん。休暇も兼ねて二週間程度で考えてるんだけど、どうかな? 掛かる費用はこちらで持つし、食事も用意するし、別荘の部屋も貸すつもりだよ」
心配しているのは費用のことではないのだが、私はいつも通りに笑みで取り繕う。
自分を口説いたことのある人間と長期の旅行、は危うい気もするのだが、相手にそんなつもりは無さそうだし、部屋に結界を張って眠ることもできる。
「あと、口説けてないのに手を出したりはしないから、安心して」
「はい……。え?」
「合意なく何かしたりはしません、ってこと。商売人は信用第一だし、俺も長いこと業界にいるから、君に何かしたら、失うものは多い筈だよ」
つい、瞬きを繰り返してしまった。確かに、彼が酷い遊びを繰り返している、というような話は聞いたことがない。
きゅ、と手を握り込み、おずおずと口を開く。
「じゃあ、別荘ではあくまで仕事、と思っていていいんですね?」
「機会があればゆっくり口説きたいところだけど、倉庫の中身次第かな」
「はぁ…………」
とはいえ、今日も菓子をぱくぱくと食べていて、執拗に触れたりはしてこない。何となく、彼の言い分は信じられそうな気がした。
クランツに武術を嗜んでいる様子はなく、私も護身用の魔術は習得している。
「分かりました。…………けど。私、色恋沙汰には疎いので、口説かれても戸惑うだけだと思います」
「そういう所をいいなぁって思ってるんだし、望むところだよ。……まあ、ちゃんと困ってたら退くからさ」
こくん、と頷くと、彼は皿の上の菓子に視線を戻す。以前も、戸惑っていたら引いてくれた、言葉だけで、執拗に触られたりもしていない。
未だに口説こうとしているのは問題だが、休暇中に何も起きなければ彼も諦めるだろう。
「倉庫が早く片付いたら、周辺観光しよっか」
「…………それは、仕事ですか?」
「任意だよ」
その場で断るべきか迷い、曖昧な表情を作る。クランツはくすくすと笑うと、別荘行きにあたっての細かな話を始めた。
私は近くから帳面を持ち出すと、彼の話を書き留める。彼とふたりきりで、初めて長く話をしたが、思ったよりも居心地は悪くなかった。
▽2
クランツは有言実行、とばかりに、翌日に両親の店の倉庫から納品できなかった大量の商品を引き上げていった。
しかも、代金は引き換えに一括で置いていってくれ、今後も継続的な取引をする話が進んでいるらしい。
商品もほぼ言い値が通ったそうで、両親からは不思議そうにクランツの事を尋ねられた。
二人には、クランツから口説かれたことは話していない。念のため身の回りには気をつけるように、というような注意をされるに留まった。
解呪について勉強し、荷造りや仕事の調整をしていると、あっという間に約束していた出発の日がやってきた。
二人きりで馬車に乗り、転移魔術式を使用して馬車ごと目的地近くまで跳ぶ。昼過ぎには目的の別荘に辿り着いていた。
別荘はさすが大商会の持ち物だけあって広く、見事な建物だった。建物に入ると、長い廊下を抜けた先へと案内される。
「部屋はここを使って。客室の中では広い方だと思うよ」
「掃除も済んでいるんですね」
「少し前に清掃人を入れたからね」
私には、客人に宛がうにしては眺めのいい部屋が割り当てられた。寝台は二人でも余裕で眠れるほどの広さがあり、使用頻度は少なく見えるものの、最小限の家具は揃っている。
部屋の中は暖かい色味で纏められ、壁には小振りの絵画が飾られている。寝台はぴんとシーツが張られており、白く真新しい。
屋敷で私たちを出迎えたジョンと名乗る青年は、運んできた私の鞄を置くと、クランツへと事務的な会話をする。
ジョンさんはこの地方に住む別荘の管理人で、滞在中、一日に数時間だけ屋敷に来ては食事や清掃などの世話をしてくれるそうだ。
短く刈った髪と、日焼けした健康的な体から想像するに、普段は農業で生計を立てているのだろう。
「サザンカ。ジョンがまず昼食でもどうかって」
「はい。いただきます」
ジョンさんは田舎料理だと謙遜していたものの、山菜なども使った料理は目新しく、美味しかった。
管理人はずっと居る訳ではないが、料理も作り置きしておいてくれるらしい。貯蔵装置から出して私が魔術で温めるだけでいい、とのことで、楽なものだ。
食事を終えると、腹ごなしがてら、倉庫を軽く見に行くことになった。
ジョンさんはその予定を聞くと顔を曇らせ、お気をつけて、と言うばかりだ。付いてくるつもりはないらしい。別荘の管理人に怯えるような態度を取られてしまうと、不安にもなる。
「ちなみに、ジョンさんは呪い、に心当たりはありますか?」
「言いつけの通り、立ち入り禁止にはしてあるのですが、定期的に清掃だけは入れているんです。その時……数年前でしたが、不用意に倉庫に足を踏み入れてしまったことがあります」
「その時は……」
「棚が倒れてきた程度です。…………が、次はどうなるか分からないので、もう入る気にはなりません」
ジョンさんは、はは、と声に出して頭に手をやるが、顔は笑っていない。
清掃の時にも、結界を展開する魔術道具を使って短時間で作業をするのだそうだ。ただ、ジョンさんと同じような目に遭った清掃員も少なくないらしい。
今回も、倉庫に出入りするため、その魔術道具を大量に用意していた。結界を封じ込めた球状の魔術道具で、割ると発動する仕組みになっている。
「その時は、他に変わったことはありましたか?」
「ああ。……倉庫で何かある時には、大きな犬のような影を見るんです。見たのは私だけでなく、同じような事を言っている人がいました」
「大きな、犬?」
言葉を繰り返して首を傾げるクランツに、私もつられて同じような姿勢になる。
「何でしょう。犬に曰くのある品があるんでしょうか」
「犬の幽霊、だとしたら寝覚めが悪いなあ……」
しゅん、と肩を落としてしまったクランツは、ジョンさんから慰めるように肩を叩かれている。管理人と主人にしては気安い光景だが、主人が怒り出す様子もなかった。
今まで愛人に誘ってきた貴族とは違い、根が善良そうに見える。
「まあ、それを確かめるためにも行きましょうか」
「うん」
クランツは用意した魔術道具を持つと、一緒に倉庫へと向かった。
倉庫は敷地内でも屋敷からは少し離れた場所にある。市民の一軒家程度の広さがあり、窓は頑丈そうな金属で塞がれ、分厚い扉もまたぴっちりと隙間を塞いでいる。
クランツが錠前に触れると、カチン、と音がして解錠される。鍵穴は騙しで、人を登録する形態の魔術で施錠されているようだ。
魔術道具をその場で叩き付けて割ると、私たち二人に対し、魔術が発動する。いちおう魔術式を追ってみると、身を覆ったのは汎用的な耐衝撃を目的とした結界らしい。
呪い、に対するものではなく、呪い、が引き起こす攻撃を弾くためのようだ。
「物理的な結界、ですね」
「分かる? 流石に呪い自体を弾く、っていうのは難しいし、高価でさ」
凄いね、と褒められるのだが、魔術師としては知らない方がもぐり、というくらい基本的な術式だ。
いえ、と両の手のひらを広げ、疑問に思ったことを口に出す。
「ちなみに、呪いによって病に罹ったり、ということはないんですか?」
「あるかもしれないんだけど。よく起きるのが物理なんだよね。棚を倒したり、照明が落とされたり。物理以外の被害は、うちの父親なんかは食らった事があるらしいんだけど、本人が話したくないって」
「話したくない程、酷い被害だってことですか……?」
「ううん。怪我とか病気でもないし、酷い被害でもなかったけど、恥ずかしいんだってさ」
私が、分からない、という意思を首の角度で示すと、だよねえ、とクランツも頷いた。彼も倉庫に来る前に再度問うては見たのだが、結局話してはくれなかったという。
頭を巡らせていると、目の前で扉に手が掛けられる。こくん、と唾を飲み込んだ。
「行くよ…………」
ギイ、と軋んだ音を立て、扉は押し開かれた。差し込んだ光の先に埃が舞い、ふわふわと床に落ちていく。
クランツは私を振り返り、また倉庫内に視線を戻した。こつり、と彼の革靴の底が音を立て、怯える様子なく踏み入る。
私は彼の背に、隠れるように続いた。
倉庫の中は美術品が所狭しと並んでいるが、誰にも観覧されるつもりがないように、ただ均等に置かれているのが不自然だ。更には棚なども置かれておらず、床にある敷布の上にただ並んでいる。
「あの、棚とかって、倒れるから撤去された?」
「そうだよ。ジョンの事故まではあったそうなんだけど、彼の事故の時、ちょうど頭に角が当たって流血してさ」
管理人が頑なに付いてきたがらなかった理由にも納得だ。私は品物に近寄らないよう気をつけながら、周囲に魔力を張り巡らせる。
魔力由来も勿論ながら、奇妙な気配が混ざっていた。
「何でしょう。これ」
「何か分かる?」
「魔力じゃない気配がするんです。魔力じゃない、よく分からない妙な波の────」
私がそう言いかけた時、近くにあった置物が動いた。金属製の、あまりのも重たそうなそれは、ゆらゆらと浮き上がると、ヒュンとこちらに向けて飛ぶ。
私の前にはクランツが立っており、先に当たるのは彼の方だ。
「危ない……!」
クランツは私の服を掴み、抱え込むように脇に逸れる。身体を傾がせつつも、何とか二人して転がらずに済んだ。
飛んでいった物体は壁に当たり、鈍い音を響かせた。当たった場所は大きくへこんでおり、人に当たったら一溜まりもない。
ぞっと背筋が凍り、力の発生源を凝視する。
「椅子…………?」
置物を動かした力の根元には、何の変哲もない、座り心地の良さそうな古びた椅子があった。
高価な素材が使われており、貴族に好まれそうな形をしている。普通なら、こんな倉庫ではなく、人のいる空間に置かれるべきものだ。
だが、あの椅子から不思議な波が発されている。
「椅子、が何か?」
「魔力、ではないんですが、妙な気配があの椅子から」
「呪いってこと?」
「分かりません。魔力を流してみれば、あるいは……」
クランツは私を庇ったまま椅子に向けて前進する。だが、また床に落ちたはずの置物がふわりと浮き上がった。
彼の服を掴み、置物の方向を指差す。
「クランツさん! 置物が……」
「また!?」
またしても置物が飛び、二人して辛うじて避ける。何とか避けつつ椅子に近づこうとしたが、置物は攻撃の素振りを見せた。
あの椅子が原因なのは間違いなさそうだ。だが、近付くにしても危うい。庇われた状態のまま口を開く。
『地は杯より積み上がる。水は宙に満ち、林檎は地に腐り落ちる』
重力に干渉する魔術が発動すると、置物はその場にごろんと転がった。視線を向けられたクランツは、今が好機と椅子に駆け寄る。
だが、その導線上にゆらりと黒い影が立ち塞がった。靄が集まったような黒い塊は、確かに犬のような形状をしている。
その影は三度、唸り声を上げた。間を置かず顎を持ち上げ、こちらに駆け寄ろうとする。
「避けて!」
言葉を掛けても遅かった。彼は背後にいる私を気遣って、その黒い影から退かなかった。
パシン、と何かが弾けたような音がして、クランツとその影は激突する。咄嗟に目を閉じてしまって、そろそろと瞼を開けた。
目の前には、クランツ一人だけが床に転がっていた。黒い影はどこにも残っていない。
「大丈夫ですか……!?」
駆け寄って身体に触れると、例の妙な気配が纏わり付いている。だが、それも吸い込まれるように身体の中に溶けていった。
私が慌てている間に、彼は目を開く。気を失ったのは一瞬の出来事だったようだ。
「あの、痛みは……?」
「うん……、平気…………」
ぼんやりとしていて、目の焦点が定まっていない。背を支えて上半身を抱え起こすと、肩を貸し、その場に立ち上がる。
追撃の様子はないが、まずは倉庫から出なければ安心できない。よろよろと重たい身体を支えて歩き、ようやく扉から外に出る。
ひと一人を支えながら苦労して扉を閉め、クランツの手を借りて施錠する。扉の先はしんと静まりかえり、先ほどの一件は何だったのかと思うほどだった。
しばらく近くの芝生の上に座り込んで休むと、徐々に彼の目の焦点が定まってくる。
「サザンカ……」
「意識、はっきりしてきましたか?」
「うん……。なんで俺、ここに……?」
ぎょっとしてしゃがみ込み、彼の肩を掴む。
「あの、私たちがここに来た理由は……」
「覚えているよ」
そう言うと、彼は私の手を両手で包み込んだ。一度、口説かれた時もこんなに濃い接触はしていない。
だが、今の彼はそれが当然であるかのように、両手をにぎにぎと嬉しそうに動かしている。
「恋人になった記念に、二人でゆっくり旅行をしようって言ったんだよね」
「はァ!?」
明らかな与太話に、素っ頓狂な声を上げてしまう。私の返事を聞いたクランツは、こてんと首を傾げる。
「え? もうちょっと予定を詰めた方が良かった?」
「いや! そうではなくて……。恋人って……」
「サザンカの事だけど」
「…………私たち、倉庫の調査のた────、え?」
説明をしようとした途端、喉に食らいつかれたのかというほど、強い圧がかかる。キュ、と一気に締め上げられるような感覚に言葉を止めると、圧は解かれた。
げほげほと咳き込むと、心配そうに彼はこちらを覗き込んでくる。私の背は抱かれ、顔は触れそうなほど近い。
「なん、で……」
「どうしたの?」
「私たち、恋人で────」
『恋人ではない』と言おうとした途端、また首が絞まった。咳き込んで息を整える。
言葉の共通点は、私たちの関係について真実を話そうとした、ことだ。そして、続ければ続けるほど喉に掛かる圧は強まっていく。
本当に真実を説明しようとすれば、窒息死するか首の骨が折れてしまうかもしれない。ぞっと背を震わせ、倉庫の扉を見る。
「倉庫がどうかした?」
「……いえ、何でもない、です。…………一旦、別荘で休みませんか? クランツさんも一度気を失った訳ですし」
「そうだね。……あのさ。何でさっきから他人行儀なの?」
彼は手を持ち上げ、私の頬に触れて離した。唇は緩んでおり、愛しいものを見つめる瞳をしている。
「恋人になって。やっと敬語も外れて、呼び捨てしてくれるようになったのに」
「はぁ……。…………いや。クランツ、だったっけ。ごめんね、混乱してて」
喉に軽く掛かった圧は、私が彼の言葉に従うと消えていった。クランツの様子はおかしく、この喉への圧も加味すると、彼の言動は倉庫の中にいる存在によって歪められたものなのだろう。
認識阻害の魔術に似ているが、それにしては余りにも高度だ。彼の中で、記憶と言動に矛盾は生じていない。更には、私が矛盾を解消しようと発言すれば、喉が絞まる。
自分の喉に指で触れると、恐怖が込み上げてくる。獣の牙に掛かったかのような感触だった。
「そうだよ、サザンカ」
クランツは首を傾けると、私の顎に手を掛けた。持ち上がった視線の先には、近づいてくる彼の顔がある。
この時ほど、自分の反射神経の悪さを呪ったことはない。柔らかいものが唇に触れた瞬間、私は目を瞠る事しかできなかった。
▽3
「ひりひりする…………」
「ごめん、って謝ったでしょう……!」
突然キスをされた私が渾身の力で張ったクランツの頬は、今は赤く色づいている。張られた本人はへらへらとしたもので、子猫に甘噛みされた程度だ。
私は管理人であるジョンさんにこっそりと事情を説明しようとしたのだが、やはり都合の悪いことは口に出せない。
管理人として、客人の筈だった私を恋人扱いしだした主人に不思議そうにはしていたが、どうやら気恥ずかしくて今まで言えなかったとでも捉えたようだ。ジョンさんからは微笑ましい視線が送られている。
あの倉庫の。いや、あの椅子の呪いを解かなければ、なし崩しに恋人扱いされてしまう。ただの依頼だったはずが、妙な緊張感を孕む。
「あの。お茶でもしながら、あの倉庫の事、聞かせてくれない?」
「そんなに気になるの?」
クランツの中では、恋人である私が旅行に来たら何故か倉庫を気にしている、とでも認識しているようだ。
ジョンさんがお茶の用意を調えてくれ、別荘の中で眺めが良く、日当たりのいい一室に配膳してくれた。
私たちは中央にある丸机に向かい合わせに椅子を並べ、それぞれ腰掛ける。机も椅子も年代は感じさせるが綺麗で、室内も清潔に保たれていた。
窓辺から差し込む日差しが、皿の上の砂糖菓子を照らす。温かいうちに、とお茶を飲み、気持ちを落ち着けるために甘味を頬張った。
「それでですね。……じゃなくて、それでね」
「ああ。倉庫だっけ」
「あの、倉庫にある『──』のこと、が……」
椅子について言葉を発しようとした途端、キュッと喉が締まった。私とクランツが恋人でないことの齟齬に加え、椅子についても話すな、ということらしい。
こくん、と唾を飲み込む。
あの犬のような黒い影、あれは私たちを椅子に関わらせたくないようだ。
「ごめん。お菓子の欠片が喉に引っ掛かって。それで、あの倉庫、曰く付きの物を集めてる、って聞いたけど、詳しい経緯を聞いてなかったなぁって」
「はは。そういうのが気になるとこ、やっぱり魔術師だね。……俺の数代前に、最初の品物が持ち込まれたんだよ。倉庫の奥にあった椅子、覚えてる?」
「…………うん」
一言を発するのにも気を遣う。喉はからからに渇いていたが、お茶を含む余裕すらなかった。
対して、クランツは私の様子を不思議そうに眺めつつも、特に異変は見当たらない。認識阻害した結果の世界そのものが、彼にとっては自然なことなのだろう。
「あれが最初の品物。貴族の家にあった物を貰って、当時の屋敷と合わなかったんだったかな、別荘の倉庫に移されたって聞いてる。経緯は不明だけど、その代の商会長の所には次々と置物だとか、人形だとかも集まったんだったかな。呪い、が最初に起きたのも、その代だ」
「じゃあ。『──』……、えっと。その代に持ち込んだものが、呪いの品が集まるようになった原因なんじゃない?」
「そうかもね。ただ、持ち出して捨てたとしてもっと悪い事が起きるかもしれないし、誰かに譲ったところで、譲った先に影響があるかもしれない。特定したとして、意味がないというか」
「そんな事ないよ。呪いっていうのは、つまり呪いの根本になった存在に不満があることが多いから」
言葉を切ったが、向こうから相槌以上の反応はない。コン、と咳払いをして、言葉を続けた。
「つまりね。呪いたいと思うほどの不満を晴らすために、何かを呪うんだよ。だから、解呪の方法は色々あるけど、呪いの原因となった感情の解消が最善だって言われてる。魔術で呪いを打ち払っても、感情がそこにある限り、再発するから」
話している間、喉に影響はなかったが、そろそろと具合を確かめながら言葉を続ける。
クランツは、ふむ、と声を出すと、軽く腕を組んだ。
「つまり、呪いの根本を特定して、その感情の原因を解消させてあげれば、あの倉庫は普通に使えるようになる……?」
「そう、だね」
「それは助かるなぁ。実は、あの倉庫の中身って、呪いさえなければ価値ある品が多いんだ。ほら、物を使わずに眠らせておくの、勿体ないじゃない?」
商人であるクランツらしい思考だった。ちなみにお幾らほど、と尋ねてみると、どれもこれも両親が年で稼ぐ程度の値段がする品ばかりだそうだ。
それだけの品が、全く使われずに倉庫に眠っているのは物寂しさがある。
「おそらく、それぞれの品自体もそれぞれに曰くがあって、呪いの、と冠がつくような品だとは思うよ。ただ、それが一気にあの倉庫に集まった経緯は、……どの品物かが原因になっている気がする」
あの椅子、と口に出したかったが、言っても防がれるであろう言葉を口に出す気にはなれなかった。
私はおそらくやんわりと誘導して、クランツを正解に導かなくてはならない。その上で、あれが『呪いの椅子』となった原因を探るべきだ。
そうでなくては、彼と恋人のまま。真実を語ろうとすれば絞め殺される。
「私は価値ある品があの倉庫に置かれたままになっているの、寂しそうに見えたよ。だから、なんとかならないかなって」
「そっかあ、サザンカは優しいね。じゃあ、滞在ついでに調べてみようか」
「…………うん!」
望んだ方針を示してくれたことに、つい勢いよく返事をしてしまう。ほう、と息を吐いて、これだ、と胸の内で拳を握り締める。
ようやく温くなったお茶を含む気になった。カップを持ち上げ、唇と喉を湿らせる。
「確か、父は倉庫の経緯を調べていた時、別荘の書庫にある先代の手記を読み込んだって言ってたなぁ。俺や父には分からなくとも、もしかしたら、魔術師が読んだらぴんと来る記述があるかも」
「私が、入ってもいい?」
「勿論だよ。恋人で、未来の俺の伴侶なんだから」
「──────」
つい、頭を抱えてしまいたくなる。彼の中での私は、将来の結婚を前提にするほど大事な恋人らしかった。
あはは、と作り物の笑みを浮かべつつも、背筋には冷たいものが伝う。急がなければキスだけでは済まない。
お茶の時間を終え、さっそく二人で書庫へと移動した。広い部屋ではなかったが、窓は設けられておらず、静かな空間に詰め込めるだけの本がある。
倉庫はじめじめとした厭な気配すらあったが、こちらは長く居たくなるような心地よさがあった。
「ええと、父が読んでいたのは……」
クランツは梯子を持ってくると、取りづらい位置にある手記を下ろしてくれた。梯子から着地し、はい、と私に手渡す。
書庫内には机と椅子も設けられており、腰掛けてその場で読むことにした。クランツはまた梯子を登り、いくらかの本を持ち出してくる。
本、というより帳面、と言った方が正しいのだろうか。紙束を纏めて綴じただけの冊子もある。
「そっちは?」
「倉庫ができた代以外の商会長の手記。ほかにも記述がないかなと思ってさ」
「じゃあ、関係ありそうな記述があったら教えて」
「了解」
二人で向かい合わせに座り、手記を読み込んでいく。
クランツは読むのが速く、ぺらぺらと頁を捲っては、関係のありそうな記述を読み上げる。私はその記述を精査し、関係のありそうな事項だけを文に残した。
「昔から、呪いが発生する場に犬の影があった、って記述が共通してるね」
口に出せば首が絞まるかと思ったが、呪いの主からすれば問題ない言葉だったようだ。こっそりと息を吐き出す。
「犬。人を呪うような犬、…………かぁ。昔、うちの別荘ににいたのかな? でも、先代は犬を飼っている、っていうような記述はなかったよね?」
「今のところ、そんな気配はないみたい。というか、犬が怖い、みたいな心的外傷になっていて、いっそ苦手に思っている気配すらある」
「だよねえ。俺もちょっと怖いもん。じゃあ、有名な犬の幽霊、とか」
クランツは立ち上がると、民話や神話が集まった本を持って帰ってきた。二人で手分けして目次を確認し、関係のある記述を読み込んでいく。
柔らかい照明の光の中、二人で静かに読書をする。彼がこんなにも黙っている様を初めて見た。
真剣に書物を眺めている顔立ちは、生来の端正さも相まって鋭く、様になる。
「共通しているのは、何かを守るために存在する、ってことかな。妖精たちの領域や、墓守、地下への門。犬を造形とした存在は、そういった場所に配置されることが多い」
「人との関わり方としては、番犬、が印象深いもんね。当然のことなんだけど、犬の主人はカフマー家じゃない」
「うん。うちじゃない。でも、何かを守ってる?」
椅子、と口に出そうとして、きゅっと口を噤んだ。あの犬の影は、あの椅子を守っている。
「倉庫ができた代で集まった品の中に、その守る対象があるってことかな?」
「そう! …………かもしれないね。その代で集まったもの、精査してみようか」
クランツの勘の良さに心中で喝采する。絶対に椅子、とは思ったものの、自然に、誘導して、と自分を宥める。
意味のない行為……その代で集めた品物を列挙し、帳面に書き付けた。
「まあ、いちばん自然なのは最初に集まった、椅子、かなぁ…………?」
私の心の中は、もう大拍手である。元々、頭がいい上によく回る、と思っていたが、私が持って行きたい方向を示せば簡単に察してくれる。
犬の影に首を絞められ続ける私にとって、彼の聡さは涙ぐみそうになるほど嬉しかった。
「椅子に関して、詳しく手記を見てみようか。俺も他の代の記述、読んでみる」
「うん!」
「…………ふふ。今日のサザンカ、すごく一生懸命だね。うちの家のことなのに。嬉しいな」
伸びてきた腕が、私の頭をゆっくりと撫でた。大きな掌は優しく、その行為だけを捉えるなら心地がいい。
恋人、と思っている私に向けられる視線は、以前、愛人に誘ってきた貴族とは質の違うものだ。愛しい、可愛い。そんな正の感情だけが突き刺さるように届く。
気恥ずかしさに視線を下げ、逃げ出すように本に視線を戻した。文字を追っていると、次第に内容に没頭し始める。
「────ここ、譲ってくれた貴族の名前があるよ。王家と繋がりが深い家柄みたい」
手記を寄せつつそう告げると、クランツは文字に視線を落とす。
椅子を譲った貴族は、トリアン家というらしい。私には聞き覚えのない姓だが、彼は覚えがあるように目を瞠った。
「最近、付き合いが出来た貴族の家だと思ってたけど……昔にも縁があったんだなぁ。この方の別荘、うちの別荘から遠くないよ。半日、までは掛からない」
「お話、聞きに行けたりするかも…………ってこと?」
「急だから普通なら断られそうなものだけど、今、トリアン家で別荘に滞在していそうなのは、ご隠居、と呼ばれる方でね。その方ならもしかしたら、商談ついでにお話ができるかも」
少し待っていてね、とクランツは席を外すと、おそらく荷物の中から一枚の厚紙を持ち出してきた。
通信魔術の宛先が刻み込まれたそれは、魔力を込めれば通信ができる効果を持つ。一旦廊下に出ると、話を終えて戻ってくる。
「連絡が取れたよ。ご隠居、案の定別荘にいるって、明日来てもいいって言ってくれた」
「行く!」
「…………って言うと思って、行きます、って答えておいたよ。ご隠居の家の近くは、花の栽培が盛んな土地なんだ。観光ついでに見て帰ろうか」
「へえ。楽しみ」
自然と本音が引き出されてしまい、唇を綻ばせる。私の答えに彼は眉を下げると、近づいてきて、座ったままの私に軽く抱きついた。
ぽんぽんと背を叩かれ、さっと離れてしまう。嫌な感じはしなかったな、と思って、自身の手のひらを見つめる。
魔術師は、魔力の波に対して敏い。気に入らない波に対しては、拒絶反応を示す魔術師も多くいる。
けれど私は、クランツに対して、嫌悪感を抱いたことはない。キスをされた時も、ただ、混乱しただけだ。
あれ、と思考が巡る。
もしも彼が恋人として相応しい人ならば、果たして認識阻害は解くべきなのだろうか。そのままの方が、都合がいいのではないか。
そう一瞬だけ頭を過って、馬鹿げている、と振り払った。
▽4
夕食は、ジョンさんが地元の山魚を使った料理をこしらえてくれた。
この地域は日が落ちる時間が早く、管理人は早々に帰宅してしまう。結果、一度は冷えた料理を二人で温めて食べることになる。
普段よりも接触は多く、深いものの、あれからキスをされることもなく、私たちは平穏に夕食を終えた。
「お風呂入る?」
「うん。あ、私、魔術装置に魔力込めるね」
浴室へ行き、自宅のそれよりも何倍も大きな装置に触れて魔力を込める。魔術師にとっては過大な魔力を吸われる訳もない筈なのに、どっと疲れが襲った。
理由もなく装置を見下ろしていると、背後に気配がある。
「サザンカが最初に入っていいよ」
「いえ。私は客人の身で、す……だし」
「ふふ。今日、ずっと言葉がへんてこだね」
私はあたふたと、疲れている、だとか言い訳をしながら浴室から出る。脱衣所から彼をすり抜けて外に出ようとしたが、腕が伸びて遮られた。
ついでとばかりに、きゅっと抱き込まれもする。
「じゃあ、一緒に入る?」
「はぁ!?」
「恋人になってから少し経ったし。俺、そろそろ次の段階に進みたいな」
つっと指先が背を伝い、腰を抱く。
意味深な行為に、その意図が嫌でも分かった。次の段階、キスの次に進みたい、ということだ。
かぁっと頬が熱くなり、じたばたと腕の中で藻掻く。だが、そんな私の足掻きを、彼は器用にも水面下に沈めてしまう。
「サザンカはキスより先、興味ない?」
「ある訳────」
咄嗟に、迂闊にも、二人の関係を否定するような言葉を吐いた私の喉がきゅっと絞まった。
もう何度目かのそれに慣れが入り、咳き込まずには済んだが、言葉は紡げない。
「ほら。サザンカって照れ屋だから、ちょっとずつ慣れたほうがいいと思うんだよね。まずはお互いの裸を見ても平気になるところから」
「…………あ。い、やじゃないんだ……けど」
どう言えば断りつつ、喉も絞まらないか悩んでいると、私を抱えるクランツがくすくすと笑い出した。
彼を見上げる私の顔は、呆然としていただろう。
「嘘。気持ちが追いつかない内に結ばれても意味がないしね。けど、いつかは一緒にお風呂、入ってよ」
「…………うん」
返事は自然と、口からこぼれ落ちたものだった。気恥ずかしさに口元を押さえると、またぎゅっと抱かれ、額に口付けられる。
クランツは私の入浴が先、という主張を譲らず、私は先に綺麗な湯に浸かることになった。
広い湯船で手足を伸ばして温まり、ほこほこになって脱衣所に出ると、用意していた寝間着を身につける。
「お湯、替えたほうがいいかな……。でも、あんなに広くて勿体ないし」
悩みながら魔術で髪を乾かし、髪を結い直してから、居間で寛いでいるクランツの元へと歩いていく。彼はソファに腰掛け、低い机に手記を積み上げて読み耽っていた。
私の気配に気づくと、振り返って手を振る。
「読んでたの?」
「うん。ちょっとでも手掛かりがあったほうが、いい質問ができるんじゃないかと思って」
「じゃあ、交代だね。お風呂、お湯を替えておこうかと思ったんだけど、広いし水が勿体ないって庶民の感覚が……」
「はは。俺も水が勿体ないっていう商人の感覚があるから、そのままでいいよ。ここの湯船、広いしね」
クランツは手記に付箋を挟み、私の頭を撫でてから風呂に出て行ってしまった。恋人、と言う割には、紳士的な態度だ。
一緒にお風呂、も長く付き合っているのに手を出せず、旅行を口実に、と考えていたとしたら、段階を踏んで、という言い分は間違っていないように思える。
『恋人だと認識している彼』に対して、今日の私は随分な態度を取ってしまっていた。
「嫌われちゃった、かな……。でも、恥ずかしいし」
両頬を押さえて蹲っていると、背後から足音がする。駆け寄ってきたらしいその気配は、ぎゅう、と背後から私を抱き竦めた。
続けて、笑い声が響く。
「ひゃっ!?」
「ほんと、かーわい! お風呂を一緒に入らない事くらいで嫌いになりません!」
ぎゅむぎゅむとクランツは私を腕の中で揉みくちゃにして、忘れ物しちゃったんだ、と呟き、また改めて風呂場に向かっていった。
呟きを聞かれていた事に加え、濃い接触をしてしまい、私の頬はお風呂の熱だけではなく茹で上がっていた。
「あぁあああ…………」
しゃがみ込んだまま真っ赤な顔を押さえつける私が、気を取り直して手記を読もうと思うまでには、相当な時間を要した。
ふらふらと倒れ込むようにソファに腰掛け、頭に入らないまま頁を捲る。途中で疲れに限界を感じて、本を閉じてしまった。
ぼうっと窓から田舎の星空を眺めていると、風呂上がりのクランツが戻ってくる。
「髪、魔術で乾かそうか?」
「嬉しい。けど、疲れてない? ほら、魔術を使うと魔術師って疲れるんでしょう?」
「もう寝るだけだから」
そう言うと、クランツは私の隣に腰掛けて身を屈める。そのままでも出来るのだが、と思いつつも、熱風を送る魔術を使った。
面白そうに声を上げながら、彼は大人しく髪を乾かされる。
「楽しいね、魔術」
「そう?」
「それに、サザンカに触ってもらえるの、嬉しいなぁ」
手櫛で軽く整えていただけなのだが、それを嬉しがられると照れてしまう。
先程よりものろのろと柔らかい髪を整え、水分が抜けきると魔術を止める。
「ありがと。本当ならもっとお喋りしたいけど、今日はもう疲れたでしょう? 寝る準備をしようか」
別荘の主人に気を遣うのなら、彼の話に付き合うべきなのだろうが、それより何よりも眠気が勝った。こくん、と頷き、机の上を片付ける。
居間を出て階段を上がり、案内された先は、主寝室、と呼ばれる部屋だった。扉の前まで案内された所で、私に割り当てられた客室とは別の部屋であると分かる。
「あれ、私が寝るのは客間じゃ……?」
「え? 客間は荷物置きに使うんでしょ」
「あ。…………あ、あぁ。そう、だったっけ」
認識阻害された彼の認識では、私は二人で寝室に泊まり、客間は荷物置きのためだけに宛がわれているようだった。
この齟齬を指摘しようとすると、おそらく喉が絞まる。
「あの。ベッド、は、寝るだけ、だよね?」
「ふふ。お風呂も我慢したからね。ちゃんと合意が取れるまで待てるよ、俺は」
扉を開け、中に入ると、当然ながら客間よりも格段に広かった。部屋の中央に鎮座する天蓋付きの寝台も、二人以上で寝てもまだ余る広さだ。
私はそろそろと部屋を歩き、寝台に腰掛ける。彼は平然と寝る準備を整えているが、恋人があんまりにもその気がなさ過ぎるのも傷つくだろうか。
こちらに歩み寄ってくるクランツを見上げる。
「あの、ね」
「なに?」
「クランツとお風呂も、……身体を重ねるのも、嫌、って訳じゃなくて。私、が気持ち、追いつかないだけだから」
「うん、分かってるよ」
彼は私の隣に腰掛ける。寝台が軽く沈んで、視界が揺れた。
隣にいる、私を恋人と思い込んでいるその人は、恋人に様々なことを拒否されて尚、嫌な顔ひとつしない。
「少しずつ、俺に慣れてね」
肩を抱かれ、彼の胸元に押しつけられた。クランツに見えない位置で、ぎゅっと眉を寄せる。
なんだか、善良な人を騙しているような心地だ。大人しくなった私の身体はしばし、彼の腕の中にあった。
「じゃあ、布団に入ろうか。照明を消すよ」
シーツは白く清潔で、布団の中に入ると直ぐに照明が落とされた。周囲が暗いからか、カーテンは開け放たれており、視線を向けると窓の外に星が見える。
私が夢中で星が瞬く様を眺めていると、隣に入り込んできたクランツがくすりと笑った。
「星、綺麗でしょう。眺めていたくなって、窓の外が見えるようにカーテンを開けたまま寝ちゃうんだよね」
「ん。ほんと、綺麗……」
二人でうとうとしながら星を繋ぎ、ぽそぽそと話しているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
朝日に目覚めた瞬間、他人に抱き竦められているという今までにない経験をした。
▽5
翌日、朝から『ご隠居』に会いに馬車に乗り込み、移動を開始した。
車内では朝食が美味しくて食べ過ぎた所為でうとうとしてしまったが、隣に座っていたクランツが律儀に支えてくれて事なきを得る。
トリアン家の別荘は覚悟していたよりも近くにあった。手を借りて馬車を下りると、執事らしき男性が出迎えてくれる。
「こんにちは。カフマー商会のクランツです」
今日のクランツは商談を兼ねているからか、依頼を持ち込んだときのような仕事服を着ている。白いシャツの上に羽織った柔らかい色味の上着も、皺になりづらい素材を使ったものだ。
私は魔術師の正装、を言い訳にローブを纏っている。正直、こちらには服としての優劣があまり分からないのが有難いところだ。
「ようこそいらっしゃいました。お話は伺っております。馬車はこちらに」
執事の指示で馬車は移動され、私たちは大きな門を通って屋敷へ向かうことになった。想像よりも立派な別荘に、つい歩き方もぎこちなくなってしまう。
クランツは慣れた様子で、庭の植物について説明をしてくれた。
「よく来るの?」
「ううん。でも、ご隠居はお話が好きだから、庭の事はだいたい話してくれたよ」
長い石畳を歩き、玄関の前に立つ。建物は異質なほどに白かった。木材を使っている箇所も、上から白く塗りつぶされている。
多い緑の中に白が浮かび上がるようで、景観としては素敵だった。だが、あまりにも、それこそ神殿を思わせるような白への拘りようだった。
執事の案内に従い、屋敷の中に入る。室内は外観とは打って変わって、暖かみのある色合いが多用されている。内と外の印象があまりにも違いすぎた。
長い廊下を歩く途中、執事へと尋ねる。
「あの、外装は何故あれほど白に拘っているんですか?」
「ああ。この家には黒い犬の言い伝えがあるんです。おそらく出所は…………」
執事はクランツに視線を向ける。向けられた方は、意外、とでも言いたげに自身を指差した。
執事はその動作を見て、頷き返す。
「おそらく、カフマー家の倉庫からでしょう。ですから、黒い犬避け、とでもいいますか、魔除けの意味で外壁を白く塗っているんです」
「へえ……。それほど長く、あの犬は存在しているんですね」
廊下の突き当たりに案内された部屋はあった。高い扉を開くと、中は日差しが差し込む温室だ。
置かれている魔術装置の所為か中は適温で、置かれている机も白を基調とした洒落た形状をしている。
椅子に腰掛けていた老人はこちらを見ると、軽快に手を挙げ、振ってみせる。
「よう来たのう。クランツ」
「お久しぶりです。ご隠居」
「元気そうで何よりじゃ。……そちらの方は、魔術師かの?」
クランツは私の背に手を添えると、柔らかい眼差しを向ける。
「今、俺がお付き合いをしているサザンカといいます。仰る通り彼は魔術師で、今日は呪いについて専門的な話ができるよう付き添ってもらいました」
「初めまして。サザンカ・リルックといいます」
「これはこれは。目出度い話もあったものよ」
ご隠居から座るよう促され、言われるがまま椅子に腰掛ける。執事は直ぐに茶器を用意し、机の上には普段なら食べられないような菓子が並んだ。
本題に入る前に、温かい内に食べるよう勧められ口をつけたが、どれもこれも上質な食材と、腕のいい料理人によって作られたものであると分かる。
庶民の私が聞いたことのある家柄だ。私が想像するよりも、高位の貴族なのかもしれない。
その割には、ご隠居は朗らかだ。明日来てもいいですか、と相談ができるような人柄であることが伝わってくる。
クランツとご隠居はお茶会がてら軽い商談を行い、その場で買い物が決められていく。品は今度運んでくる、ということで話が済み、私も食が一段落したころ、クランツが本題を切り出した。
「────それで、通信魔術越しにもご相談させていただいたんですが、うちの倉庫のことでお聞きしたいことがあって」
「ああ。椅子の事じゃったな。記憶があやふやなもんで、書庫から該当の日記を持ってこさせた。目は通してあるから、把握しているだけ、軽く話だけはしておこうかの。現物は持って帰るといい」
執事が運んできた日記は、クランツに手渡される。かなりの分厚さがあり、トリアン家の当時の所有者が筆まめだったことが窺える。
ご隠居は軽く唇を湿らせると、淀みのない口調で話し始める。
「椅子は隣国の、今でも大貴族であるハッセ家から譲り受けたものじゃった。だが、譲り受けた当初から屋敷内で妙な出来事が増え、当時、出入りしていたカフマー家に押しつける形になったようじゃな。まあ、隣国の大貴族に、妙な出来事が起きたので貰った椅子もう要りませんわ、とは突っ返せなかったんじゃろ」
「実は、その椅子を犬の影みたいなものが守っているようなんですが、そういった記載はありましたか?」
「ああ、把握しとる。当時の当主も情報を集めてはいたみたいでの。どうやら、椅子が作られた当時の主が、黒犬を飼っていたそうなんじゃ。まあ、分かったところでどうすることも出来なかったようじゃが」
「じゃあ、その犬は…………主人の大事な品を、今も守っているんですね」
私は呟いて、膝の上で拳を握り締めた。
もう犬が生きているはずもないほど昔の話だ。死んだ後、主人が大事にしていた椅子くらいは守ろうと、今も尚、幽霊となって存在し続けているのだろうか。
姿形は恐ろしかったし、クランツへ認識阻害が為されているのも、真実を語る事を遮られるのも困っている。けれど、犬の事情を考えると、とても責められはしなかった。
「おそらくは、そうじゃろうな。当時はここまでの事情は追えていたものの、対策らしい対策は取られていない。被害がまだ少なかったのも要因だったんじゃろ。そうしている内に、あの倉庫に呪いの品が増えていき、最近では総合的に手に余るようになってきた、といった所か」
ご隠居、というだけあって先代当主ではあるのだろうが、現役を退いて尚、思考能力の衰えを感じさせなかった。
日記には付箋が挟まれており、どういった記述から内容を読み取ったのか説明を加えてくれる。
該当の頁はかなり広範囲に散っており、わざわざ読み込んでくれた礼を言うと、暇だったからの、と笑い飛ばされた。
「まあ、もし呪いが解けたならば、倉庫の中身を一部、引き取らせてもらえんかの。うちの家が預けっぱなしなのが元凶だった訳だしのう。これでも、責任は感じておる」
「いえ。色々と世話になっている部分もありますし。……ただ、ご隠居が気に入るような品があれば、その時にはよろしくお願いします」
話を終えると、クランツは、借りた日記を鞄に仕舞い込んだ。
それから当時の状況を尋ねたのだが、この屋敷内でも物が浮かんだり飛んだり、といった同じような事象が起きていたのだという。
別荘では倉庫で収まっているが、屋敷で起きたらと思うと気が滅入る。一体、何枚の窓硝子が犠牲になったのだろう。
机の上の菓子をすっかり平らげると、軽く庭を案内してもらい、その場はお開きとなった。
ご隠居は親切にも見送りに出てくれ、手を振りながら別れる。
またゆっくりと訪ねたいものだ、と考えて、呪いによる認識阻害が解ければ、私がこの別荘を訪れる理由はなくなることに気づく。
胸元を押さえて、息を吐く。なんだか、締められてもいない筈の胸が苦しかった。
ご隠居の別荘の帰り道、近くの花畑を眺め、昼過ぎには屋敷に帰り着いた。それからは、私は借りた日記に首っ引きになる。日記は一冊しかないため、クランツは書庫で当時の隣国の情報を集めていた。
だが、ご隠居が話した以上の有力な情報は出てこず、隣国の情報も古すぎてあまり残ってはいなかった。
ハッセ家、という家柄はこちらも代々王家に仕える家柄で、現在も実権を握っている高位の貴族らしい。
話を聞きに行きたいところだが、カフマー家では立場が違いすぎて、とても会ってもらえないだろう、というのがクランツの見解だった。
情報は集まったものの、解呪の方法は未だに藪の中だ。
犬はあの椅子を守っている。椅子を壊せばあるいは、とも思うのだが、犬の影が消えなければ、更に深い憎悪が撒き散らされるだろう。
それに、数百年の時を経て、主人の椅子を守ろうとする犬から椅子を奪う、というのは良心が咎める。
私は日記を置き、椅子を揺らし、長々と伸びをした。
「何とか、壊すとかじゃなく、無事なままで解決したいんだけど」
「うん、俺も。数百年経っても飼い主との思い出の品を守ってるなんて、忠犬じゃない? なんか、そう考えるとね」
彼が同じ考えであることにほっとすると、途端に空腹を思い出す。時間を確認するともう夕方で、食卓へ行くとジョンさんが作った料理が残されていた。
書き置きには『集中しているようだったので、料理だけ置いておきます』と記されていた。二人して無言で本ばかり読んでしまったことに反省して、ちらりとクランツを見上げる。
彼は、恋人である私と旅行に来たつもりだったはずだ。
「あの、クランツ。ごめんね」
「なにかあった?」
「旅行のつもりだったのに、ずっと倉庫の調査ばかりで……」
彼は唇ににっと笑みを刷くと、首を横に振った。
「サザンカがこんなに一生懸命になっているのって、俺のためなんでしょう? だから、すごく嬉しいんだよ。全力で手伝いたくなっちゃうくらい」
肩を抱かれ、引き寄せられて頬に唇が触れる。目元は染まってしまっているであろうが、初日のように叩くことはしない。
随分と彼からの接触に、流れ込んでくる魔力の波に慣らされてしまった。トクトクと五月蠅い胸は、またきゅう、と締め付けられる。
呪いが解けてしまったら、私と彼は恋人同士ではなく、ただの雇用主と魔術師に戻る。こうやって優しく触れられることは、もう無いのだった。
別荘で私を口説く、というのは冗談なのか尋ねたくとも、元のクランツはここにはいない。
「キス、やだった?」
「……ううん。すこし、びっくりしただけ」
私がそう答えると、また顔を捕らえられ、キスを繰り返される。彼の意識の中での私は、こうやっていつもキスを繰り返していたんだろうか。
ぼうっと受け入れていると、最後にぎゅっと抱き締められ、離れた。
「好きだよ」
「え?」
「いや、機会がなくて言えてなかったなって」
以前口説かれた時にも、こんなに直接的な愛の言葉を貰ってはいない。彼にとっては数度目なのだろう言葉は、初めて私が受け取る告白だった。
嫌だな、と視線が下がってしまう。このままでいたいような気がしても、今の彼はあくまで歪められた存在なのだ。
もしかしたら本来の彼が、別の人を見初めている可能性だってある。
「私は……まだちょっと恥ずかしいから、旅行の後半で言うね」
「まあ、それもいいかな。待ってる」
告白をするほうが自然だったのかもしれないが、どうしてもその言葉を告げることはできなかった。
食卓に向かう彼を見送り、喉を押さえる。今の自分は何故か、あの首を絞められる感触を待ち侘びているような気がした。
▽6
それから数日は膠着状態だった。新しい情報もなく、全頁くまなく読み込んだ日記は、印象的な言葉を暗唱できる程になっている。
焦燥感ばかりが募って、それがクランツにも伝わってしまったのか、彼の接触はずいぶん控えめになってしまっていた。それを寂しく感じてしまう自分もまた苛立たしい。
朝食を終え、また書庫に向かおうとした私を、クランツが引き留める。
「今日は倉庫に行こうと思うんだ。サザンカにも協力してほしい」
「協力?」
私が問い返すと、クランツとジョンさんは顔を見合わせて頷いた。
「魔術師は結界が張れるでしょう? それを窓に張ってほしい。その上で、窓を覆っている鉄板のうち、一番椅子に近い鉄板を、俺とジョンで外そうと思う」
「ええと、攻撃を受けないように結界で覆った上で、鉄板を外す…………それで?」
「椅子を観察しようと思う。ほら、俺が倉庫で気を失ってから、俺たちは倉庫には入っていないでしょう。椅子の様子もしっかり見ていない。何か、情報があるかもしれない」
「そう…………だね。どっちにしろ行き詰まってたから、やってみたい」
三人で工具を用意し、倉庫へと移動する。私たちはまだいいが、ジョンさんは明らかに緊張している様子だった。
椅子に最も近い窓へ移動すると、私がまず結界を張る魔術を使った。その上で、二人が工具で螺子を外していく。
鉄板は重く、二人がかりでよろよろと外し終えた。鉄板の奥に窓硝子はなく、透明な結界を超えて、室内の様子が見える。
背伸びをして椅子を眺めていると、脚の部分に文字が刻まれているのが見えた。魔術の術式ではないが、別の形態の術式に思える。
「あの刻み込まれた術式────」
そう言い掛けた瞬間、窓がバン、と叩かれる。いや、窓硝子はなく、結界に内部から衝撃が加えられているのだった。
二度、三度と殴打音は続く。大きな生物が、身を叩き付けでもしているようだった。
次第にピシピシと結界に罅が入っていく。
「クランツ、ジョンさん! 鉄板を戻して! 結界が破れる!」
二人は大慌てで鉄板を持ち上げ、私は結界を重ね掛けして時間を稼ぐ。なんとか全ての結界が同時に破られる前に、鉄板の上から螺子を締め直すことができた。
とはいえ、間一髪だった。鉄板が固定された瞬間、中から響く音が、鉄板を叩く音に変わったからだ。
「…………はぁ」
この別荘に来てから、こんな事ばかりだ。二人を伴ってその場を離れ、別荘に戻ってから、覚えた術式を書き出してみる。
私やクランツはその術式に見覚えはなかったが、意外にもジョンさんには見覚えがあったらしい。
「それ、神殿の装置に書き込まれている文字に似ています」
彼は信心深いたちのようで、彼が住んでいる土地から王都まではかなり遠いのだが、王都の神殿に定期的に通っているのだそうだ。
王都の神殿にある装置、ならば魔術ではなく、神術で動いているはずだ。魔術とは違う、神術の体系で書かれた術式、と見て間違いないだろう。
書き起こした紙を持ち上げ、ちいさく唸る。
「これ、王都の神殿に行けばどんな術式か聞けるかな?」
「遠いけど、隣国の大貴族よりは近いね。話も聞いてくれるだろうし。まあ、ここまで来たら、遠いけど行ってみる?」
「うん!」
勢いよく頷いた私の頭を撫で、クランツは馬車を手配してくる、と言って部屋を出て行く。廊下から僅かに話し声が漏れ聞こえ、話が終わるのを黙って待とうとした。
「あの、サザンカさん。少し、いいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
話を切り出したのはジョンさんだった。彼は立ったまま、私に向けて話し始める。
「少し思い出したことがあったので、お話ししておきますね。神話では、岩を割って水を湧かせた四つ脚の獣の記述が何度も出てきます。その存在は神の使いであるとされ、信仰の対象として多くの画の主体となってきました」
「へえ。そんなことが……」
「そして、我が国の守護神であり、私たちが信仰の対象としているニュクス神の使いも、四つ脚の獣であった、と言われています。記述には共通して、こう書かれているんです。『黒い犬』のようであった、と」
「………………」
ぐるぐると思考が巡って、彼が言いたいことを察する。人は呪うが、神は祟る。今、私たちが相対している存在は、幽霊なのだろうか。あるいは、神の使いなのだろうか。
思わず握り締めた手のひらに、爪が食い込んだ。
「あの存在が何かは分かりません。ただ、幽霊や魔ならば祓えても、神を祓うことはできない。あの存在に対しては、幽霊であれ、神の使いであれ、誠実さをもって相対すべき、と思います」
「…………そう、ですね。気をつけます」
僅かな間の沈黙の後で、手配を終えたクランツが戻ってくる。出発は明日の朝に決めたそうで、今日のところはゆっくり別荘で過ごそう、と提案された。
朝から強烈な攻撃を受け、魔術を連発したため気疲れしている。彼の提案を受け入れ、調査は終日、休止することにした。
「サザンカ。近くにある観光客向けの市まで行ってみない?」
「行ってみたい。でも、馬車は……」
「さっき。神殿行きついでに頼んでおいたんだ。もう少し経ったら来るから、準備しようか」
こくこくと頷き、荷物置き場に宛がわれた客室へと向かった。魔術師のローブではなく、余所行きの私服を身に纏う。
客間の姿見の前に立ち、手早く髪を結い直した。色合いが地味な気はするが、手持ちの中では上質なものだ。
部屋を出ると、廊下でクランツとはち合った。動きやすい格好をした彼は、市中に紛れるためか、ご隠居との商談の時に着ていたほど高価な服は着ていなかった。
並んで歩いていても、強烈な違和感はないだろう。ほっと胸を撫で下ろす。
「よく似合ってるよ」
「ありがとう。クランツも、いつもよりもかっちりしてなくて、それはそれで……素敵、だね」
「褒めてくれて嬉しい。実は俺だって、商談さえなければこういう服を着たいんだよ」
馬車は然程待たないうちに到着し、私たちはほんの僅かな荷物を持って出発する。馬車の中では寝ていていい、と言われ、私は軽く睡眠を取った。
到着して起こされた私は、ふわ、と気の抜けた欠伸をする。じっと見つめられている視線を感じ、送り主を見た。
「ごめん。今日はふわふわしてるなって」
「んん……、朝から魔術を使ったから。久しぶりにあんなに結界魔術を連発したよ」
「おかげでジョン共々怪我もなく、助かったよ」
行こう、と導かれて馬車を降り、二人で市へ向かった。屋台や、路面店の店主が店の前に品物を並べた区画もあり、人も多く賑やかだ。
朝食から時間も経っており、軽く空腹を覚える。
「サザンカはお肉好き?」
「好き!」
「じゃあ、肉串食べない?」
「食べる!」
格好の提案に語尾が跳ねてしまい、クランツにはくすくすと笑われてしまう。
家族の間では気も抜けてこういう態度を取ってしまうのだが、彼にはあまり見せていない一面だった。
「普段は子兎みたいだけど、今日は子猫ちゃんだね」
「子、猫……?」
どこが、と首をかしげている内に、さっさと彼は肉串を買いに行ってしまった。持ってきた串はその場で囓ることになる。
まだ熱く、表面からだらだらと肉汁が落ちるそれを囓ると、ぴりりと胡椒の味が効いていた。
「おいひい」
「あ。唇の周り、汚れちゃってるよ」
「どこ?」
教えてくれるかと思いきや、伸びてきた指がおそらく汚れていたであろう箇所を拭った。クランツは自然な動作で拭った指をぺろりと舐める。
世話を焼かれてしまった私が真っ赤になっていると、彼は顔を近づけ、にまにまと笑う。
「今の、すっごく恋人同士っぽかったね」
「恥ずかしいから!」
空いた手で相手の腕に縋り付いて文句を言うと、やっぱりクランツは嬉しげだった。店の窓硝子に、二人の姿が映っている。
私の心情を置き去りにした、恋人たちがじゃれ合っているような、そんな幸せな光景だった。
少し冷えた肉を囓り、頬を膨らませる。
「ねえ。機嫌直してよ。甘いの食べたくない?」
「…………食べたい」
「奢るから許してくれる?」
「…………奢りだったら、いいよ」
クランツは私の手にあった串を回収すると、果物飴の屋台に近づいていき、二つ違う色の飴を買い求めた。
食べ終えた串を用意された屑籠に捨てつつ戻ってくる。
「どっちがいい?」
赤い果実を使ったそれを選ぶと、はい、と手渡してくれる。表面に薄く貼られた飴を囓ると、下から甘酸っぱい果汁が溢れ出してくる。
慎重に無言で食べ進めていると、やっぱりじっと見られていた。
「また見てる」
「ごめん。ほら、サザンカとゆっくり過ごすことが珍しくて」
「そう、だっけ?」
彼の中で認識が阻害されて生まれた、私と付き合ってからの経緯を、今の私は知らない。あくまで私相手のことであるのに、自分相手に嫉妬したくなるような、奇妙な感覚だった。
「もっと一緒にいたいなぁ。ねえ、やっぱり一緒に住もうよ」
「はぁ!?」
「だって俺の家からサザンカのおうちまで距離があるし。遠距離の仕事終わりに会いたいけど時間がない事ばっかりで……」
しゅんと肩を落としてしまった姿を、ぽかんとしたまま見つめる。確かに付き合うことにでもなれば同様の問題が発生するのだろうが、彼が同居を希望するほど思い入れを抱いていることが意外だった。
さくり、さくりと甘酸っぱい味を噛み締める。
「クランツは、なんで、私のこと口説いたの?」
「最初は断然顔が好みで……」
「それは最初に口説かれた時に聞いた。でも、私、中身はこうだよ?」
軽く手を広げて見せるが、彼は私の言葉に同意を示さなかった。
「こう、って?」
「何事も硬く真面目に考えすぎ。融通が利かない。面白くない」
「はは。酷い言いよう」
ただ笑い飛ばし、空いた手で頭が撫でられる。この動作にも慣らされてしまった。
「でも、大事なもののために一生懸命になれる人だよ。だから、俺を愛して欲しくなっちゃった」
「………………」
彼に好きと言われて、私は返事をしていない。告げるつもりもない。
不誠実な事をしているような気分になったとしても、偽りの記憶の中で愛を囁くことは私にはできなかった。
甘いもので腹を満たすと、二人でぶらりと近くを見て回った。
食べ物、本、雑貨、そして装飾品。最近は両親の店の在庫問題で、仕事で得たお金をほとんど家に入れていた。身の回りの品も、直近で買い直した記憶がない。
かといって、未だに落ち着いたとはいえない店の状態を思えば、散財するのも憚られた。
「サザンカ。髪留め、使う?」
一つの露店の前で、彼は歩みを止めた。
「うん。髪、長いからいつも結ってる」
「じゃあ、一つ贈らせて。どれにしようか」
クランツはしゃがみ込んで選び始めてしまい、私は置いていくことができなくなった。仕方なく近くに身を屈め、一緒に品を見ることになる。
店主はのんびりと新聞に目を通しており、私たちを見ると軽く挨拶をする。そうしてまた新聞に視線を戻した。
「これかな?」
彼は持ち上げた髪留めを、私の耳の上に添える。ううん、と首を傾げて戻してしまった。どうやら何かが違ったようだ。
いくつか品を選んでは、私の近くに掲げて首を振る。
「薄紅色で、お花の髪飾りが似合うんだけどなぁ……」
「そうかな」
「そうなの」
クランツがうんうんと唸っていると、店主が新聞を畳んだ。近くの鞄を開くと、中から一つの箱を取り出す。
「薄紅の花、なら、こんな品もありますよ」
蓋が開かれた下にあったのは、小振りの花を集めたような、薄紅色をした髪留めだった。クランツは両手を挙げてその品を受け取ると、さっきまでと同じように私の髪の近くに寄せる。
「これ! すごく似合う!」
「じゃあ、これにしよう。……かな」
「それがいいよ! これはいい品だ」
彼は満面の笑みを浮かべ、店主に支払いを済ませてしまった。露天の品にしては値が張る品物だが、土台の造りは頑丈にできている。
話を聞くと、店主は普段、装飾品店を営んでいるようだ。
「カフマー商会のクランツといいます。今度、お店にも伺わせてください」
「これはこれはご丁寧に、お待ちしていますよ」
引き結ばれていた店主の唇が緩み、クランツが差し出した手を握り返す。
ぱあっと笑い、並んだ装飾品を褒めちぎる様を見ていると、ご隠居といい、付き合いが増えていく理由も分かる気がした。
二人が話している間に、私は今着けている髪飾りと、貰った髪飾りを入れ替える。話し終えて立ち上がったクランツは、私を見ると何度も目を瞬かせた。
「うわぁ。ほんと、似合うよ……! 俺の目に狂いはなかった……!」
店主の目の前で抱き竦められ、腕の中でじたばたと暴れる。髪飾りに向けられていた褒め言葉は今度は私に向けられ、思う存分撫でられた。
ようやく引き剥がした後で店主を見ると、まだ新聞は折りたたまれたまま、こらえきれない口元が笑いにひくついている。
「お、……お世話になりました」
「また来ます」
「ありがとうございました。ご贔屓に」
クランツが腕をぶんぶんと振ると、店主も軽く手を振り返した。
街を歩いていると、硝子に映る自分の姿が見える。私の瞳と同じ色の花が、豊かな土の色をした髪の上で華やかに咲き誇っていた。
▽7
朝、目が覚めるとクランツの寝顔が近くにある。そんなささやかな幸せも、少しずつそれが日常になっていく。
もぞり、と布団の中で身動ぎすると、にょきりと伸びてきた腕に捕まった。
「もう……!」
「あはは。おーはよ」
朝食の後、出掛ける準備を整え終えた頃、神殿へ行くための馬車が到着した。
今日のクランツは商談用の服を着ており、私は鼠色のローブ姿だ。馬車で転移魔術式の施設まで移動し、転移魔術式を使って王都まで一気に移動をする。
車内では、これまで読み続けてきた日記の記述を確認する時間に充てる。犬の素性らしきものが分かってから、二人とも倉庫の活用よりも、あの犬を何とかしてやりたいという気持ちが勝っていた。
長い移動の後、ようやく神殿に辿り着く。馬車が停まり、私たちは揃って扉から外に出た。
「神殿、来るの久しぶりだな。魔術師って、なんかこう、真っ白い神殿には特有の入りづらさがあるんだよね」
「俺もずっと来る時間がなくて……」
ぼそぼそと会話していると、神殿の門の前に一人の人物が立っているのが見えた。
深くフードを被っていたが、神官服を身に纏っているのが分かる。その人は私たちを見つけると、フードを持ち上げて落とした。
ふわりと吹く風が、彼の白銀に見える髪を舞い上げる。開いた瞳は緑色。我が国の大神官……神殿の最も高い位を持つ人物の色彩だった。
彼は私たちの傍まで歩み寄ると、淡々と言葉を発する。
「待っていた。クランツ・カフマー、そしてサザンカ・リルック。椅子の話は中で聞く。ついてくるといい」
その人は端的にそう述べると、長い神官服の裾を手慣れた動作で捌き、歩き出した。
私たちは顔を見合わせ、早足でその背に続く。
神殿は白を基調として作られており、天井は垂直に見上げたくなるほど高い。色味はご隠居の別荘を思わせるが、規模感は雲泥の差だ。
長い廊下を歩いている途中、私は目の前を黙ったまま歩くその人に問いかけた。
「私たちが来ること、ご存じだったんですか?」
「今朝方、我が神から神託を受けた。安心してほしい。椅子のことは、解決しなければいけないと思っている」
案内されたのは、机と椅子しかない小部屋だった。普段は神官が信者から相談を受ける時に使う部屋だそうだ。
私たちが椅子に腰掛けようとした瞬間、扉が開く。
「…………うわっ!?」
突然、クランツが叫んだ。
彼の視線の先を見ると、足下に大きな犬が纏わり付いている。扉を開けたのも、入ってきたのもこの犬だったようだ。
犬の体毛は黒ではあったが、足元だけが白い、特徴的な色味をしている。
「び、……っくりした。あの、犬の影のほうかと…………」
「ああ。そっか、この子は本当の犬みたいだよ」
私が屈み込んで頭を撫でると、人なつっこく頭を擦り付けてくる。身体は大きいが、人慣れしていて甘えたがりだ。
一瞬、怖がっていたクランツも一緒に頭を撫で始めた。
「この子、神殿で飼われているんですか?」
「…………勝手に住み着いているだけだ。そいつは根が甘ったれで、いちど甘えさせるときりがない。適度に放っておけ」
犬は手を離そうとするとやだやだと駄々をこねるが、私たちが椅子に腰掛けると、諦めたように床に丸くなった。
私は背筋を伸ばし、クランツに視線をやった。彼はこくんと頷き返す。
「あの、どこまでお話しすれば……?」
「特に説明は不要だ。椅子に刻まれた術式が気になって、話を聞きに来たんだろう?」
「あ、はい。この術式なのですが……」
私が書き写した術式を机の上に載せると、大神官は視線を落とした。長く確認することなく、深く溜め息をつく。
術式に見覚えがあるかのような態度だった。
「この術式は、昔、俺が書いたものだ」
「え!? でもこの椅子、数百年前の…………」
そう言いかけて、目の前にいるのが大神官であると意識する。我が国の大神官は、若いまま老いることはなく、数百年、同じ位にいる。
きつく見えた目元が、ほんのりと和らぐ。白い睫がゆっくりと動いた。
「術式の効果は、椅子への護り。もう、座っていた人間はいなくなってしまったが、まだ残っていたんだな」
「あの、この椅子、犬のような影が守っていて……」
私がそう言うと、床に伏せていた犬が上半身を持ち上げる。ぴくり、ぴくりと耳が動いた。
大神官は犬の様子を気にすることもなく、ああ、と頷く。
「その影がいたんじゃ、椅子を物として活用できないな」
「はい。加えて、その椅子があることで他にも呪いの品が集まってしまって、困っているんです」
犬は起き上がると、ゆるり、と大神官の足に身を擦り付けた。大神官は足で軽く犬を押しのけると、私たちに視線を向ける。
「では、解決しに行くか」
「ご協力いただけるんですか?」
「ああ。ただし、条件がある。すべてが片付いたら、椅子は神殿に譲ってくれ」
言葉を向けられたクランツは、迷う様子もなく頷く。
「元々、商人の家には過ぎた品だったのかもしれません。呪いが解ければ、椅子は差し上げます」
「商談成立だな」
人間味のない色合いで、人間味のある表情をした大神官は、そう言ってくすりと笑った。
私たちは部屋を出ると、乗ってきた馬車のある所まで移動する。また馬車に乗って移動、と考えていたが、それより先に大神官が口を開いた。
「馬車の近くに集まってくれ。転移する」
私たちは、慌てて馬車の近くに駆け寄る。その時、先ほどまで足元をちょろちょろとしていた犬も一緒に来てしまった。
二人して追いやろうとするが、神術の発動の方が早い。瞬きをした次の瞬間、景色は朝までいた別荘の前へと移り変わっていた。
神術の不可思議さは一旦横に置いておいて、私たちは倉庫へと移動する。大神官はともかく、ついてきてしまった犬も一緒だ。
別荘に避難させようとしたのだが、やだやだと足元で転がり回られてはどうしようもなかった。
「大丈夫だ。神殿暮らしが長い所為か、この犬も加護を受けている。生半可な攻撃は効かない」
「本当ですね……? じゃあ、…………開けますよ」
クランツはそう宣言すると、扉にある錠前に触れる。カチン、と解錠音が響くと、私たちは中へと踏み入った。
内部は、以前来た時よりも荒れている。全員が倉庫に入った瞬間、扉がぱたんと音を立てて閉じた。
「え!?」
ふわり、と置物が浮き上がり、こちら目掛けて飛んでくる。私が魔術を発動するよりも先に、足を踏み出した大神官が手を翳した。
置物は、彼の掌の前で失速し、床へと落ちる。
「来た…………!」
ゆらり、と形作ったのは今まで何度も相対した犬の影だった。その影を見るや否や、神殿から付いてきた犬が影へと躍り掛かる。
犬と犬。影の犬と実体のある犬は、もつれ合うように床を滑り、倉庫の隅へと転がる。埃が舞い上がり、日差しにぎらぎらと反射した。
「攻撃は俺が防ぐ! 二人は椅子の裏を開けてくれ!」
「裏!?」
問い返したかったが、二撃、三撃、と呪いの品が持ち上がっては飛んでくる。大神官は攻撃を防ぐことに集中しているのか、それ以上、言葉を加えることはなかった。
椅子に走り寄ったのは、クランツが先だった。大きな椅子だ。私も歩み寄り、二人で椅子の脚を持ち上げ、倒す。
犬の影はこちらの行動に気づくと、身を起こして駆け寄ろうとする。その横から実体のある犬が影に飛び掛かり、食らい付いた。衝撃音が壁を叩く。
椅子の裏側には、何らかの留め具が存在していた。縺れる指先で留め具を外すと、板が外れ、中から一冊の本が転がり出る。
表紙の文字は掠れて読めなかったが、『ハッセ』という部分だけは辛うじて読み取れた。この椅子の、最初の所有者の日記のようだ。
『……ァ、オ。ウォ…………ン────!!』
犬同士の攻防は、実体のある犬が制したようだった。首筋に食らいつき、床に縫い止められた犬の影を、大神官の術が拘束する。
両の手足をそれぞれ纏められたような格好で、犬の影は床に転がった。
「もういいぞ」
大神官の指示で犬の影から離れた実体のある犬は、くるくると大神官の足元を駆け回り、わふ、と鳴いた。
転がり回って毛はぼさぼさだが、屈み込んだ大神官に撫でられ、嬉しそうにしている。
「あの、椅子の裏、日記があったんですが……」
クランツが日記を差し出すと、大神官は犬を放り出して日記を受け取る。ぱらぱらと中身を捲って、ふわりと口元を綻ばせた。
「前の持ち主の日記だな。これが、呪いの主体だ」
「え? 椅子じゃなくて?」
「いいや。椅子に掛けられていた術式は、椅子への守りでしかない。この呪いの……この『まじない』の主体はこの日記のほうだ。犬と幸せに暮らした、主人の日記。永く共にありたいという願いが、『まじない』と成った」
大神官は床に転がる犬の影に近寄ると、その身体を抱え上げる。ゆっくりと歩を進め、彼は陽の下へと出た。
そのまま、芝生の上へどすりと腰を下ろす。私たちは困惑しながらも、彼の近くに歩み寄った。
「サザンカ。頼みがある」
「何でしょうか?」
「日記を読み上げてくれないか。あんたの髪色は、その椅子の、この犬の主人だった人間に似ている。同じように魔術師だったんだ、この影の主人も」
今の大神官には、人間めいた色があった。瞳の奥は、寂しげに揺れている。
「椅子の、元の主をご存じなんですか?」
「よく知っているよ。善い魔術師だった」
私はそっと日記を受け取ると、中身を口に出して読み上げ始める。
日記の内容は、他愛もないものだった。朝食が美味しかった、犬と遊んだ、伴侶とゆっくりと遊戯盤で遊んだ。ただの日常風景が、細かく綴られている。
事務文章のような書き方だったが、さっぱりとした簡潔さが、かえって余韻を残す。
「……────」
大神官の目元は、気づけば薄らと濡れていた。私も、胸の内が温かさと悲しみに満ちていく。もうこの光景は、遠い昔の出来事だ。
大神官の腕の中で、犬の影はゆっくりと力を抜いていた。時おり大神官に甘えるように顔を擦り付けては、私の言葉へぴくぴくと耳を向ける。
長い、長い時間だった。犬の影は少しずつ輪郭を朧気にしていき、やがて空気に溶け、消えていった。
「…………もういい。喉も疲れただろう、ありがとうな」
「いえ。呪いは……、いえ、まじないは、消えてしまったんですか」
あれほど解きたいと思ってきた呪いだったのに、綺麗な水に落ちた泥一滴のように、本当に正しかったのかと問いかけてくる。
大神官は目を細めると、首を横に振る。
「愛していた犬の影を歪んだ形で現世に留めておくのは、飼い主も望むところじゃないだろう。昇華した、と思っておくといい」
「………………」
私は両の拳を膝の上に置き、ぽろり、と目元から涙を零した。神殿から来た犬は、私に歩み寄ると、頬をべろべろと舐める。
あまりにも勢いが良すぎて、一気に涙も引っ込んでしまった。
「もう、なにこの子……! 泣かない、もう泣かないってば……!」
犬は、わふ、と勢いよく鳴くと、同じくしんみりとしていたクランツの元に駆けていった。またべろべろと舐めたくる犬に、自然と複数の笑いが起きる。
犬が上半身を持ち上げ、座っていた彼の肩に両前脚を置く。
その瞬間、急にばったりとクランツが倒れた。私も大神官も慌てて彼に近寄り、実体のある犬は心配そうにきゅんきゅんと鳴く。
どうやって起こそうか考えるより先に、彼はよろよろと自分で身を起こした。
視点が定まらないその様子には覚えがあった。ぞっと背筋が凍る。
「サザンカ……!? あれ、え?」
「…………大丈夫?」
「俺、倉庫を調べに行ったら……犬の影がぶつかって…………」
嗚呼、と泣き出したい気持ちになって、胸の前で手を握り込む。
彼の記憶は、呪いの影響で歪められたものだった。いずれ記憶は訂正される、失われるものだと理解はしていた。
「クランツ『さん』、倉庫を見に行ったときに呪いを受け、その影響で記憶を失ってしまったんです。今、大神官様がご協力くださって、呪いが解けたところなんですよ」
「そう…………なの……?」
大神官は疑わしげな視線を私に向けてきたが、言及するような事はしなかった。
私は彼に頭を打ったことを理由に別荘で休むことを勧め、ジョンを呼んできて家の中に連れ帰ってもらった。
私と大神官が倉庫に戻ると、説明を要求された。私が認識阻害の内容を話すと、大神官は過剰なほどの動作で頭を抱える。
「…………あの犬の形状をした影が、倉庫に来ないよう記憶を弄ったら、変な形に作用したのか」
「かも、しれません。認識阻害を受けたクランツは、恋人である私と観光のために別荘に来たと思っていた。促さなければ、倉庫を調べるつもりもなかったようでした」
「そりゃ。…………悪いことをしたな、あんたにも」
大神官は、肩を落とす私の感情に気づいたようだった。神殿からついてきた黒犬もまた、私の足元を心配そうに歩き回っている。
身を屈めて撫でると、盛んに尻尾を振られた。大神官は犬の後頭部をはし、と小突く。
「おそらく、認識阻害も呪いと一緒に消えて、別荘に滞在していた間の記憶を失ったんだと思います」
「歪められていたものが元に戻ったら、そうなるな。クランツには話すのか?」
「いえ、忘れていて貰います。思い出すことで、別の影響を齎すのも怖いですし」
はは、と苦笑をすると、伸びてきた手のひらに頭をわしわしと撫でられた。
国民の前で話すときはもっと、魔術装置のような人だと思っていた。だが、別荘までついてきて解決まで導いてくれたあたり、彼の言う『善い魔術師』と似た気質を持っているのだろう。
私の気分が浮上するのを待って、大神官はこう切り出した。
「ちなみに、歪んだものに集まってきた品については、これから祓っていいか?」
「できるんですか!?」
「ああ。残りはあまり強い念じゃない。一度祓えば、それ以上はもう無いだろう」
大神官は窓に打ち付けていた鉄板を力任せに引き剥がし、日差しが倉庫内に入るようにした上で、ぶつぶつと何事かを唱え始めた。
魔術の詠唱よりも、人と対話するような波のある言葉だと思った。しばらくすると、倉庫の中はしんと静まり返り、綺麗な風が吹き抜けていく。
ワォン、という犬の軽快な鳴き声が、澄んだ倉庫内を突き抜けていった。
「何だか……空気が綺麗になったような気がします。助かりました」
「そうだ、椅子は勝手に持って帰っていいのか?」
「いいと思います。クランツ……さんには、そういう約束だったと説明しておきますね」
じゃあ、と大神官と犬は椅子と日記を抱え、手を振りながら神殿に帰っていった。思ったよりも話の通じる相手で助かった、と胸を撫で下ろし、別荘へと戻る。
クランツは居間のソファに腰掛けて休んでいる所だった。近くにいたジョンも交え、倉庫の中を祓ってもらったこと、椅子は対価として大神官が持って行った事を話す。
案の定、椅子が無くなったことについては、二人ともかえってほっとしている様子だった。
「椅子、だけで良かったのかな……? 今度、お礼の品でも持って行こうかな」
「その時は、私も同行す…………、させてください。本当は私の仕事だった筈なのに、殆ど大神官様のお力でなんとかなってしまいました」
「まあ、大神官様だからねぇ……。国の長は国王ってことになってるけど、反乱を起こせば国くらい分捕れるでしょ、あの人」
詠唱なしに神術を行使していた大神官の姿を思い起こせば、クランツの言い分にも頷ける。
窓の鉄板を大神官が外してしまった事も話すと、ジョンは硝子を填めに行ってくる、と言って席を外した。
後には、私たち二人が残される。
「────サザンカ。俺、直近の記憶がどうしても戻らないんだけど。……解決してくれたんだね、助かったよ」
「いえ。私だけの功績ではありません。クランツ……さんも頑張っていました」
「どうだろう? 俺なしでも大丈夫だったんじゃないかな」
あはは、と昔のように笑う表情を見ると、胸が苦しくなる。もう、恋人であることを否定しようとして、首が絞まることはないのだ。
これから先の滞在は観光を楽しもう、そう提案するクランツに、唇を持ち上げる。
「はい。面白くない魔術師が一緒でもよければ、同行します」
「もう。俺、サザンカと一緒に行きたいんだよ……!」
近くの観光地を挙げ始めるクランツにしばらく付き合い、倉庫内で走り回った所為で汚れた服を着替えてくる、と席を外す。
客間に保管する、と言っていた荷物も、いくらか主寝室に置きっぱなしになっていた。私物だけを回収し、客間に戻り、服を着替える。
一人の部屋は、限りなく広く見える。ぽたりと涙が滴ると、もう止まらなかった。着替えにしては長い時間、私は部屋の中で泣き崩れていた。
▽8
翌朝、見慣れない天井で目を覚ます。私はずっとクランツと一緒に眠っており、客間で眠ったのは今日が初めてだった。
ふあ、と欠伸をして身を起こそうとすると、ぐらりと景色が傾いた。ふらふらとした、酩酊感のようなものが襲って、ぽすんと背後に倒れ込む。
あれ、と枕に頭を当てながら、魔力の流れを辿っていく。普段よりも波が振れていて、安定していない様子だった。
原因は、なんとなく分かっている。私はクランツと恋人同士ではなくなって、悲しくて魔力すらも乱してしまっているのだ。
よろりと起き上がると、居間まで歩いて行き、掃除をしていたジョンに体調不良なので寝ておく事を伝える。
前日の騒動を把握していた管理人は、ゆっくりするよう告げ、軽く食べられるようなものを腹に入れさせてくれた。
空腹が解消され、少し気分が良くなったような気がする。客間に戻り、ベッドに横になった。
しばらくは睡眠と覚醒の間を行き来していたが、コンコンと扉が叩かれて身を起こす。
「喉、渇いてない? 水を持ってきたよ」
声はクランツのものだった。ふらりと起き上がって扉を開けると、水の入った硝子瓶と、コップを持った元恋人が立っていた。
部屋に招き入れ、有り難く貰った水を口に含む。冷たい水は、すう、と喉を潤していった。残った水はベッド脇の机に置き、私は寝台へと戻る。
クランツはすぐ帰るかと思いきや、ベッドの端へと腰掛けた。
「体調、悪いんだって?」
「う、……はい。昨日、色んなことがあったので、疲れてしまったのかもしれません」
「そう。医者は呼ばなくて平気?」
「重たい症状ではないので、身体を休めれば治ると思います」
会話が終わっても、クランツが立ち上がる様子はなかった。何事か話したいことがあるように、その場に留まる。
しばらく床に視線を向けていたが、意を決したように顔を上げた。
「俺、記憶がなくなってる期間、サザンカに何かしちゃったんじゃない?」
ひゅ、と喉が鳴って、咄嗟に否定する言葉も浮かばなかった。指先は無意識にシーツを握りしめ、白い水面に波紋を作る。
私の表情を見て、彼は想像を確信に変えたらしい。
「どうして……?」
「俺の部屋のベッドに、サザンカと同じ色の、長い髪が落ちてたんだ。何本も。俺、…………まさか君を、…………手籠めに」
「してない! してないから!」
慌てて大声で否定すると、クランツはほっとしたように息を吐く。
私も急に声を上げた所為で疲れ、息を整える。寝乱れた髪を手櫛で整え、背筋を正した。
「一緒に寝てはいた、けど。そういう事はしてないです、本当に」
「でも、何で一緒に寝たの?」
「それは…………」
顔を傾けると、髪が頬を滑り落ちていく。果たしてどう説明するのが一番面倒がないのか考えたが、上手い言い訳は浮かんでこなかった。
全てを諦め、淡々と事実を語り始める。
「呪いの主が、椅子に干渉しないよう、クランツさんの認識を歪めていたみたいなんです。結果、貴方は私と恋人同士で、休暇に普通に別荘へ遊びに来ただけ、と思い込んでいました。そこをなんとか倉庫を調べるよう仕向けて、昨日、やっと呪いが解けたんです」
「でも、それなら一緒に寝ないで、恋人じゃない、って言ったら良かったんじゃない?」
「呪いの主は、そうしてほしくなくて、私の喉にも干渉していました。真実を話そうとしたり、恋人であることを否定しようとすると、こう、喉がキュッと絞まるようになってしまって……なので、私も恋人のように振る舞っていました」
「そ、……っかぁ。じゃあ、俺が忘れてる期間、サザンカは恋人ってことになって…………」
クランツの声はしおしおと萎れていった。その場で頭を抱え込むと、地の底から響くような唸り声を上げる。
私が肩に手を添えようとすると、それより先に身を起こす。
「なんで俺、覚えてないんだろ……」
「覚えていなくて良かったんですよ。あの時のクランツさんの言動は、認識阻害の結果でした」
「でも、サザンカが恋人の振り、してくれてたんだよね? 俺が恋人です、って態度取ったら、そうだね、って態度でいてくれてたってことだよね?」
妙な方向に行き始めた会話に、ん、と声を上げる。だが、私が制止しようとしても尚、彼は言葉を続けた。
「覚えて、…………おきたかったなぁ」
ぽつんと呟かれた言葉は、床に硝子玉でも転がしたような響きを持っていた。ころり、ころり、と回転して、静かに止まる。
クランツは寝台から立ち上がると、あ、と思い出したように振り返る。
「俺、サザンカに手を出してないよね!?」
「出してない。…………で、す?」
「なんで疑問形!?」
彼は寝台に膝を乗り上げると、私の両肩を掴んだ。揺さぶらんばかりの勢いで、軽く叫ばれる。
あまりの圧に、ぽろりと口から言葉が零れた。
「いや、キス……されて。でも、それだけですから」
「………………」
かくん、と彼の頭がその場に下がった。あぁああ、と奇妙な声が響き、きゅっと口を引き結んだ顔が持ち上がる。
「なんで、俺が言うまで、このこと教えてくれなかったの?」
「…………忘れているなら、その方がいいと思っていました」
「本当に?」
問いかける視線は鋭く、つい逸らしてしまう。だが、顎を掴まれ、鼻先が触れるほど近くに顔を寄せられた。
彼の瞳の煌めきは、怒り故なのだろうか、それとも哀しみ故なのだろうか。
「私…………貴方が記憶を歪めている間、ずっとこのままだったら、って思ってしまいました」
「え?」
「恋人である貴方は優しくて、私と、一緒に色んなところを駆け回ってくれた。それでいて、恋人関係に踏み込めない私とも、笑って一緒にいてくれました。そうされるたび、私は、何度も貴方を呪いました。このまま、恋人のままで、一緒にいてくれたら、って」
つっと目の下を滴が伝った。二滴、三滴、と増えていく滴は、やがて線となってシーツを濡らしていく。
恋は最上級の呪いだ。相手を自分の意のままに動かそうとしてしまう、醜く汚れた願いだ。
「呪いは、いずれ解かれるべきです。このまま、忘れてください。私も、…………直ぐには難しいですけど、また普通の知人に戻れるよう、努力します」
彼の掌に手を添え、ほんの少しだけ装った言葉を告げる。いつか、この人をただの知人だと思える日が来たら、また笑って一緒に過ごしたい気持ちがある。
涙はしばらく止まらず、伸びてきた指先が滴を拭った。
「サザンカ。ねえ、教えて。君は、…………俺と、望んで恋人でいてくれたの?」
唇を震わせ、ようやくこくんと首肯する。返事を目にしたクランツは、また長く息を吐き出した。
伸びてきた腕が、私を胸元に抱え込む。ぎゅう、と痛いくらいの力で抱き竦められた。
「クランツ……」
「恋人同士、って思い込み。本当にしちゃ、だめかな?」
強く抱かれたまま、耳元で囁かれながら目を瞠る。私の背を掻き抱く指先は震えていて、彼が本気でそう言っている事が伝わってくる。
彼の服を握り締め、何度も瞬きを繰り返した。
「好きなんだ、サザンカ。もう呪いで君を恋人と思い込んでる男じゃないけど、呪われる前から、ずっと君が好きだった」
腕が背から離れ、二人の間に空間ができる。伸ばした手のひらを彼の胸元に添え、自ら望んで顔を上げる。
視線の先には、呪われていた時と変わらない顔をしたクランツがいる。
「私、恋人のように振る舞われて、ようやく意識したような鈍い人間だけど。でも、クランツを元に戻したくて沢山努力するくらい。…………クランツが、好────」
言い終わる前に腕が伸び、私をまた抱き竦めた。頬をすり寄せられ、近くから嬉しそうな声が響いてくる。
腕の中で藻掻くと、ようやく少しだけ力が緩まった。
「最後まで言わせてよ……!」
「うん。言って」
じっと顔を見つめられ、かあっと顔に血が上る。しばらく視線を彷徨かせ、ようやく口を開く。
「…………好き」
「俺も好き!」
わぁい、と叫んだクランツに体重を掛けられ、二人して狭い寝台へと転がる。布団を跳ね上げながら、互いの身体を強く抱きしめた。
その日、私は主寝室へと連れて行かれ、ずっと彼に看病される羽目になる。
▽9(完)
私の体調不良は原因の解消も重なり、一日の休養ですっかり良くなった。翌日からはクランツと二人で周辺観光を楽しみ、別荘周辺の地理が少しずつ分かってきた所だ。
休暇自体はあと二日あるが、長かったこの滞在を考えると、僅かずつ寂寥感に襲われる。夕食を終え、満腹具合が落ち着いてくると、私はいつものようにお風呂を沸かしにいった。
魔術装置に魔力を込めて顔を上げたとき、恋人だと思い込んでいた頃のクランツに言われた言葉を思い出す。
「一緒にお風呂入りたい、って、言ってたっけ……」
絶対に嫌、という程でもないのだが、何となく私からは誘いづらくて個別に入っている。それに、彼はその先にも進みたいようだった。
身体を重ねる、という行為に臆病な気持ちはあるのだが、長期休暇のこの好機を逃せば、ずるずると私は逃げ回ってしまいそうだ。
私は居間に戻り、ソファで読書をしているクランツの隣に腰掛けた。
「お風呂ありがとう。今日はサザンカが先に入ったら?」
「うん…………」
ちら、と彼を見るが、視線は本に向いたままだ。ほんの少し、座る位置を変え、二人の隙間を埋めた。
僅かな移動に気づいたのか、視線が私を向く。
「どうかした?」
どうしよう、と迷い、混乱する。顔が赤くなっていくのが分かった。
「…………お風呂、一緒にはいる……?」
回り道もできず、本当にただ提案を告げてしまった。クランツはぽかんと口を開け、何かを考えているように瞳孔が動く。
「もしかして、記憶を失っていた頃の俺、一緒にお風呂入ろう、って言った?」
「うん、言われた。その先、…………したいから、お風呂で慣らそう、って」
「その先……」
呟いて、数秒後には彼も言いたいことが分かったようだった。同じように顔を真っ赤にし、口元を押さえる。
私は気まずくなって、その場から腰を浮かす。
「大丈夫。あの、先に入るね」
立ち上がった私の腕は、がっしりと捕まった。おいで、と招かれ、彼の膝の上に乗せられる。
腰を抱かれ、逃げられないように固定された上で、彼は私にしがみつく。
「そりゃ、その先もしたいけど…………」
「あの、クランツの気持ちの準備ができてないなら、別に」
「気持ちの準備はできてないけど! 準備しないと、絶対にこのまま帰ったら、次の機会がえらく延びる気がする…………」
私の胸に顔を埋め、ぶつぶつと何事かを呟いている。主に記憶を失っている期間の自分に対する怨嗟のようだった。
未だにクランツの記憶は戻らず、当時の自分に対しては複雑な思いがあるようだ。
「しよう。したい。気持ちの準備はしながらする」
「お風呂は?」
「入るに決まってるでしょ。準備するよ」
クランツは、うあああ、とやけっぱちになりながら叫び、私を下ろして立ち上がった。部屋から着替えを持ってくると、宣言通りに二人で脱衣所に入る。
こういうことになるなら、もっとましな下着を用意するんだった。少しずつ服を脱いでいると、視線が身体に突き刺さる。
「見てる?」
「いや、恋人の身体は、見たいよ」
「……いいけど。私も見るからね」
「どうぞ」
クランツは勢いよく上着を脱ぎ捨てた。
毎日いろんな場所を飛び回っているからか、脚を中心に筋肉がついている。腹回りも平べったく、うっすらと筋肉が浮いていた。
対して、私の身体は白く細い。肋骨が浮き上がるような身体で、なんとも頼りない造形だった。
「どう?」
「いい身体だなあ、って思う」
「ありがと。ベッドではいっぱい触って」
そう言うと、彼は私を残して浴室に入ってしまった。私も残った服を脱ぎ、彼に続く。
二人並んで身体を洗っていると、隣にいたクランツから提案を受けた。
「裸を見合うのに慣れた方がいいなら。俺、サザンカの身体洗おうか?」
「…………分か、った」
どうぞ、と腕を下げると、伸びてきた腕に泡まみれにされる。指先は少しのいやらしさを纏いながら泡を広げ、素肌に触られる感覚を覚え込まされた。
頭からお湯を被り、泡を落とす。
「触ってみて、どうだった?」
「柔らかくて最高だった」
「…………よかったね」
それから自分も洗ってくれ、と主張するクランツをただ事務的に洗い、一気に頭からお湯を被せて泡を落とす。
二人で少しだけ湯船に浸かって、呪いに掛かっていた頃の出来事を少しずつ共有した。
「まあ、覚えてないけど。…………俺だなぁ」
「記憶にないの?」
「うぅん……。こうやってサザンカと話をしていると、ぼんやり過る光景がある。全く忘れている訳じゃなさそうだけどね」
歪められていた頃の記憶は、いずれ取り戻していくのかもしれない。逆上せないうちに話を切り上げて浴室を出た。
服を着た後で、彼の髪を魔術で乾かしてやると、あれ、というような顔をしている。二度目か尋ねられ、こくこくと頷く。
「なんで嬉しそうなの?」
「忘れられたの、ちょっと寂しかったから」
くすくすと笑い、強めた温風で髪をもみくちゃにする。呪われていた時と同じように、彼は笑っていた。
二人以外には誰もいない別荘で、足音を立てながら寝室に入る。私が迷いなく寝台に腰掛けるのを見て、クランツは頭を押さえていた。嗚呼、と声が上がる。
「やっぱり覚えてる。俺、この光景を見たことがある。…………あるんだなぁ」
彼は鞄の中から小瓶を持ち出すと、寝台横の机にことりと置いた。中身はたっぷりと詰まっており、たぷんと揺れる。
「液体?」
「まぁ。そういう時に使う液体」
やんわりと言われたが、いくら鈍い私でも察するものがあった。そういえば、と思い出して自分の腹に手を当てる。
「魔術、使っておくね」
「魔術?」
「こういう時に使う魔術、あるんだ。お腹の中を傷つけないように」
学生時代に吹き込まれたそれを、記憶を辿りながら紡ぎ上げる。なんとか魔術が発動すると、ほっと息を吐いた。
クランツは興味深そうにこちらを見ながら、寝台に腰掛ける。
「俺、抱いていいんだ?」
「その方が、けが、しないと思うけど」
「じゃあ、遠慮なく」
彼が身を寄せてくるのに合わせ、瞼を閉じる。唇に柔らかいものが触れ、二度、三度と啄んだ。
最後に深く口付けられ、唇を押し広げられる。触れてくる柔らかいものに慌てているうち、口の中が舐め回された。
「…………ン、ふ。ぁ、…………ふぁ」
ちゅくちゅくと音を立てながら唾液を交換すると、びりびりとした波が押し込まれていく。触れられるたび、うっすらと感じていた彼の魔力だった。
相性のいい魔力との接触は、特に選り好みの激しい魔術師にとっては快楽となり得る。もっと、と舌先を伸ばし、過剰なほどに触れては波を享受した。
「キス、好き?」
唇を離したクランツに問いかけられる。こくんと頷くと、また軽く啄まれた。
相手の首筋に手を回し、でも、と囁く。
「忘れてる間の事だけど、最初にキスされたとき、クランツのほっぺ叩いちゃった」
「え!?」
「急にされて、びっくりしちゃって」
「それは俺でも叩くよ。拳で殴って良かったのに」
くすりと笑ってしまう。自分相手なのに、随分な言いようだった。
何度か口付け合って、視線を交わす。相手の掌が、私の首を撫でた。柔らかい唇が首筋に触れ、ちゅう、と吸い上げる。
痕を残し、満足そうに彼は口の端を持ち上げた。
「私も、したい」
「喜んで。どうぞ」
彼に首筋を寄せてもらい、見よう見まねでやってみたが、薄ぼんやりと赤く色づくだけに留まった。
接触が増えるたび、じわじわと相手の魔力が身のうちを巡っていく。
「服、脱がすよ」
「ん」
服の釦に指がかかり、ゆっくりと一つずつ外されていく。勿体ぶったような動作に、自分で服を脱ぎ捨ててしまいたくなった。
服の下から肌が見えると、その部分に相手の視線が突き刺さる。彼は、じっと物を見る癖がある。同じように、私のこともよく見つめてくる。
上半身から落ちた服が、ぱさり、と寝台の上に揺蕩った。
「綺麗な身体だね。俺、本当にサザンカの顔、好きなんだ」
「顔だけ?」
「全部です。知ってるくせに」
首筋、胸元、とキスが落とされ、もぞりと身じろぎする。掌が胸元に伸びると、胸全体が捏ねられ、突起が指先に捕まった。
指の腹で押し潰されるように擦り上げられると、むずむずとした感覚が湧き上がってくる。
「…………なん、か。……ァ、うあ」
二本の指で摘まみ上げられ、軽く引かれる。伸びて形を変えた胸の先端は、元に戻るとじんと疼いた。
両胸を揉みしだかれ、更に突起を弄られる。最初は薄かった刺激も、段々と快楽として拾えるよう育っていく。
「サザンカ。俺の頭、ぎゅってして」
「…………? こう?」
膝を立て、腰を持ち上げると、彼の頭を上から抱え込むような体勢になる。胸を彼の顔に押し付けるような位置になると、クランツは目の前にある熟れた果実にしゃぶり付いた。
ぬるりとした舌の感触が、敏感になったそこを伝っていく。
「…………ひぁ、あ。…………やァ、……あ……」
びくん、びくん、と身体を震わせ、縋り付くように彼の頭を掻き抱く。ちゅぷ、と水音がして、突起の側面にやんわりと歯を押しつけられた。
ぢゅっと吸い上げる感触は、魔力の交換も伴って、強烈な刺激を残した。
窓の外は暗く、周囲は静かだ。二人で立てている褥の物音だけが、天蓋に遮られた空間に満ちている。
「気持ちいい?」
「すご…………イぃ、けど。駄目……」
「何が、だめ?」
「下、触られてない、のに。びくびくする……」
彼の掌は、不埒な手付きで私の股間へと触れる。服越しに軽く擦り上げられ、直接的な快楽に身悶えた。
眉を寄せ、自分だけきちんと着ている彼の服に手を掛ける。
「私だけ、脱いでてやだ」
「じゃあ、脱がせて?」
眉の間の皺は、きっと更に深くなったことだろう。のろのろとした手つきで、彼の服の釦を外していく。
焦らす余裕なんて欠片もなく、ただ指先は慣れない動作にもたついていた。ようやく服を剥ぎ取り、寝台に落とす。
彼の胸元に触れると、手の下で鼓動が鳴っていた。
「満足した?」
「うん」
きゅ、と軽く抱きつくと、肌同士が触れ合う。服を隔てない接触は、性感よりも安堵が先にあった。
昔から口説かれることが多く、相手に警戒心を抱くようになった。けれど、彼の近くにいる事は、こんなにも落ち着ける。
「じゃ、そろそろ下の準備、しよっか」
私の身体が寝台に倒される。ぽすん、と仰向きに倒れ込んだ私に、クランツの大きな身体が覆い被さる。
彼の手は下の服に掛かり、一気に引き下ろされる。咄嗟に掴もうとしてしまったが、それよりも先に脚から服が引き抜かれた。
髪も結っていなければ、一糸纏わぬ姿にもされてしまった。ぼっと顔に血が上り、気恥ずかしさに股を擦り合わせる。
クランツは用意してあった小瓶を持ち上げると、中身をくっつけていた股の間に垂らす。
「ぬるぬる、する」
「滑りを良くして、怪我しないようにするための液体だから」
瓶に蓋をして机に戻すと、彼の手は私の太股へと触れた。肉付きのいい部分を揉み、くっつけていた太股の間に指先を潜り込ませる。
ぬるりと滑った指は、茂みを分け入り、中から屹立を探り当てる。
「ふぁ…………ぁ。あっ、や……あ」
自分のそれとは違う、太くて長い指先が半身を弄ぶ。ぬるぬると粘着質な液体を塗り広げられ、湿地帯になったそこがぐちゃぐちゃに跳ね散らかされる。
視線を向けると、照明の光を反射していやらしく光っていた。
「あ…………ンう。ひっ……、あぁ、あ」
「ここ、気持ちいいよね」
こくこくと必死に頷くと、反応が良かった部分を扱き上げられた。達しない程度に加減しつつ刺激されると、時間の感覚が分からなくなってくる。
ひいひいと息を吐き、やがてくたりと手脚は寝台に投げ出されていた。
彼の手がその場所から離れる。長く与えられた刺激が無くなったことで、ふっと視線を向けた。
「終わり…………?」
「これから」
彼の腕は私の脚を持ち上げると、両側に開く。咄嗟に脚を暴れさせてしまうが、器用に押さえ込まれた。
軽く腰が持ち上げられ、彼の視線の下にその場所が晒される。前に垂らした液体が伝い落ち、その場所もぐずぐずに湿っている。
太い指が、閉ざされた肉輪をとんとんと小突く。そして、粘液の助けを借り、少しずつ押し入っていった。
「ひ、う…………」
くぷ、と挿りこんだ指は、内壁を辿りながら奥へと進んでいく。ぴくん、ぴくん、と脚を揺らすが、身のうちを暴く動きは止まらなかった。
奥へ、そして更に奥へ。指が通るほどに拡げ、畝を作り上げていく。
「もう少し、力抜ける?」
「分か、な…………ァ」
泣き言を漏らしながら、なんとか身体の力を抜こうと努力する。少しずつ指は奥へと進み、指の大部分が埋まっていく。
何かを探っていた指がぴたりと止まり、意図的な動きを持って内側を押し上げる。その瞬間、全身を知らない刺激が襲った。
「……ァ、あ────!?」
空気を震わせる波が、全身を駆け抜けていくようだった。前を触られた時とは質の違う刺激は、あまりにも大振りに身を突き抜けていく。
ぶるぶると身体を揺らし、唇を噛み締めて快楽をやり過ごす。だが、二度、三度と撫で回されるうち、閉ざしていた唇は開かれていった。
「ア、あ。…………ひ、うぁ……ぁ、あ」
「ここ弄られると悦いって聞いた。本当?」
「う、ん。……イ、い。……っひ、ふぁ」
「そっか。じゃあ、もっと触っちゃお」
指の腹が、ぐぐ、と押し込まれる。波を痛みとの境まで突き上げられ、長く尾を引く刺激へと移り変わっていく。
身体を他人に明け渡さなければ得られない快楽は、あまりにも暴力的だった。強く弄られても躰はただ悦び、息を漏らし、嬌声を上げる。
指が増やされていることにも気づかないまま、後腔は侵入者をやわく食い絞めた。
「そろそろ達っちゃうかな」
指が引かれ、ずるりと抜かれる。ふ、と詰めていた息を吐き出すと、埋まっていたものを失ったそこが疼いた。
クランツは自分の服に手を掛け、その場で脱ぎ落とす。服の拘束が解かれた逸物は、ぐんとその場に持ち上がり、じんわりと湿っていた。
自分のそれとは形状の違うそれに、つい視線が向いてしまう。
「どうかした?」
「…………や。私のと、違うなぁ、って」
彼は肉棒を勃たせたまま近寄ると、私のそれに近付ける。軽く身を起こして手を伸ばすと、ずっしりとした質量に触れた。
両手で軽く包み込むと、手の内側でびくびくと動く。
「ふ……、軽くね。じゃないと、暴発しちゃうから」
「ん」
彼は小瓶の中身を傾け、液体を自身へと垂らす。濡れ光る欲望は、さっきよりも凶悪に変化していた。
えらの張った先端と、太さのある竿。腹に近づけてみると、随分な場所まで届いてしまいそうだと分かる。
「挿れたら。お腹、いっぱいになっちゃいそ……だね」
ゆっくりと頭を撫でていると、そこは素直に反応し、先端からこぷりと液体を零した。クランツの喉から息が漏れ、何かを堪えるように眉が寄る。
私が両手で丹念に可愛がっていると、途中で制止が入った。
「────も、無理。達く」
「一回、出しちゃう?」
「ううん。最初は、好きな子のナカがいいよ」
手が離れると、彼は私の腰を抱え直した。持ち上がった尻の狭間に一物を擦り付け、窪みに先端を押し当てる。
ちゅぽん、と粘着質な音を立てながら、何度も軽く押し込む。そうして、何度目かの逢瀬の後、膨らんだ部分が一気に押し込まれた。
「ひ、う──────」
咄嗟にきゅう、と締め付けてしまうが、それすらも刺激となって身を苛む。は、と息を吐いたところで、また軽く突き入られた。
ず、ず、と短い挿入を繰り返し、長い砲身を押し込んでいく。魔術がなかったら、潤滑のための液体がなかったら、容易には結合できない程みっちりと肉は内壁を押し上げていた。
下半身の感覚は薄く、されるがままに身体を揺らす。指先で覚え込まされた刺激は、今はずっと続いている。
「もうちょっと奥、入れる?」
「ん、ァ。がんば、る…………」
ふっと彼の唇が緩み、力を抜いた場所を膨らんだ瘤が押し拡げていく。指先で届いていた場所の更に奥へ、この塊は届いてしまう。
先端が何度も位置を変え、奥を探る。くっ、と腰を押しつけられると、さっきまでとは違う場所に、張ったえらが潜り込む。
「──────!」
喉の奥、叫び声を堪える。ひらいてしまった場所はひどく敏感で、重たい質量に触れているだけで永続的な悦さが与えられる。
縮こまっていた私の半身はぴんと持ち上がり、液体を噴き上げた。
他人に許してはいけない場所だったのかもしれない。そう気づいたときにはもう遅かった。ぐっぽりと填まった男根を、少しずつ揺らされる。
「あ、うあ。あッ…………ヒ、ぐ。あ。あ」
柔らかく、敏感なそこは、刺激を受けるたびに亀頭をやわく揉む。内側から広がる快楽は、何度も軽い絶頂を齎した。
くぽん、くぽん、と引っかかりを利用して捏ね回される。嬌声は次第に啜り泣きに近い音に変わっていた。
「や。い、く…………うあ……なが。ひ、ィ────!」
身体が逃げを打っても、腰を掴まれ、窘めるように突き上げる。やがて躰は受け入れるように揺れ始めた。
喉の奥がからからと乾いている。口を開け、上からも下からもだらだらと涎を垂らしながら、私たちは寝台の上でひとつの獣に成り果てていた。
彼の唇から、呻き声が漏れる。限界が近いのだ、と分かった。腰を、脚を抱く腕に力が籠もる。
彼の精が身のうちで吐き出されたら。そう考えて、ぞっと背筋を寒いものが走る。
「や、だめ。…………魔力、まざっちゃ……!」
「ッ…………。もう、遅いよ」
何度も、何度も、みっちりと膨らんだ雄がその細い径を往復する。最後に一番長く引いたかと思うと、ずるる、と一気に駆け上がった。
ごつん、と奥に膨らみがぶつかり、ぎゅうぎゅうと私のそこは男自身を喰い締めた。
「ふ、……っく。う」
「ア、あ…………。ひ、うぁ、────ぁあ、あああぁぁぁああッ!」
屹立はぶるりと震え、白濁を内側に勢いよく吐き出した。滲み出る魔力が私の波に襲いかかり、食らいついて塗り替える。
あ、あ、と途切れ途切れの声を残しながら、私は絶頂していた。他人の魔力が身を染めていくことを、悦んでいた。
彼の半身は力を失っても抜かれることはなく。長く息を吐く身体が、繋がったまま倒れ込んでくる。
「ッ…………抜かない、の……?」
「抜いてほしい?」
「挿ってると、ぞくぞく、……続く、から」
魔力を含んだ精を擦りつけられ、まだ快楽は続いている。動きもしていないのに、びく、びく、と身を震わせる私を見て、彼は満足そうに嗤った。
やがて、身のうちにあるまま、雄は形を変え始める。静かな夜、たった二人の部屋の中に、また嬌声が響き始めるのはそう遠いことではなかった。
別荘から帰ってしばらくして、私たちは家を借りて同居を始めることになった。
気になっていた実家の経済状況は、カフマー商会の傘下に入ることで劇的に改善した。クランツに言わせると、物はいいが売るのが下手、という典型的な店だったようで、商売っ気を商会で補うことにより、売上が伸びているそうだ。
倉庫の品々は呪いが解ければ価値あるものばかりで、不思議なことに譲り受けたい、という希望者が適度に現れているらしい。
『黒い犬が倉庫に品物を貰いに行けと言った』
というのが希望者の共通した言い分で、これまた不思議なことに倉庫に来ると望みの品が見つかるのだった。
倉庫の中身は徐々に減っており、いずれは殆どの品物が新しい居場所を得そうだった。
私たちが借りた小さな家にも、一つだけ倉庫から品物を持ち込んだ。最初に倉庫へと入ったときに飛んできた、あの置物である。
じっくり見てみると、置物は犬を象り、黒い材質で作られていた。なんとなくあの犬を彷彿とさせ、倉庫に置いておけなかったのだ。
「サザンカ。ただいま! 犬もただいま」
玄関扉が開くと、クランツは迎えに出た私を抱きしめ、犬の置物の頭を撫でる。この動作は、帰宅時の恒例になっていた。
定期的に磨かれるようになった置物は、以前とは違った色味をもって、見る人を楽しませている。
「おかえり、クランツ」
ぎゅう、とその背を抱き返すと、背に回る力も強くなる。
ちゅ、ちゅ、と顔中にキスを繰り返す動作に何度か返事をし、二人の家に迎え入れる。彼は上着と鞄を仕舞いに行くと、食堂へと戻ってきた。
「そういえば、今日、商談で神殿にお邪魔したんだけどさ」
「え? 神殿と繋がりができたの?」
「うん。大神官様が声を掛けてくれて、纏めて調達したい品があるってことで、うちの商会経由で納品させてもらうことになったんだけど」
彼は食卓に並ぶ料理に歓声を上げると、手を洗って椅子を引き、腰掛ける。私もその向かいに座った。
クランツは、帰宅時からずっと機嫌が良く、今も嬉しそうに目を細めている。
「あの椅子。犬の寝床になってるんだって」
「ああ。あの神殿の子?」
黒い毛並みの、犬の影と激闘を繰り広げた頼もしい、そして人懐っこい姿を思い出す。また、ただ会いに行きたいものだった。
「そう。椅子を持って帰ったら、たいそう気に入っちゃったんだって。大神官様もたまには座ろうと思ってるんだけど、ずっと犬が寝てる、ってぼやいてたよ」
「あはは。気に入ってくれたなら良かったね」
犬が守ってきた椅子は、結局『犬』の持ち物になったようだ。けれど、あのじめじめした倉庫で眠っているよりずっといい。
クランツの認識阻害を解消したくて駆け回っていたが、その結果、助かった存在がいたのなら僥倖だ。
冷えないうちにと食事を始め、軽く腹を満たしたところで、ふと思い出す。
「────そういえば、ジョンさんが、犬の話してたな」
「犬の話?」
「うん。我が国の守護神であるニュクス神の使いにも、黒い犬がいるって話」
クランツは私の言いたいことを汲み取ったようで、ええ、と声を上げる。
「あの犬が神の使い? それはないんじゃない。あの犬、神の使いにしては、人に対して甘えたが過ぎる感じだったし……威厳みたいなもの、何処にもなかったよ」
「…………ふふ。そうかも」
二人して舐めたくられた行動を思い出し、くすくすと笑い合ってしまった。今や暢気な犬の下敷きになっている椅子には、きっと、呪いなど欠片も残っていないことだろう。
残ったまじないは、私が彼を恋人に望んだ、その事実だけである。