守った狸は愛でるよう

動物の魂を持つ一族の話
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【人物】
立貫 絹太(たてぬき きぬた)
大高 壱矢(おおたか いちや)

龍屋(たつや)
花苗(かなえ)
戌澄(いぬずみ)
瓜生(うりゅう)

▽1

 その日は、朝から天気がいい一日だった。

 昼食を外で食べようと思いついた僕は、パンを買った袋を提げ、キャンパス内の隅っこにあるベンチに腰を下ろした。

 日差しは少し熱いくらいだったが、人目がなく、ゆっくりと食事ができるここは良い場所かもしれない。

 この行動は、人となりを陰と陽で例えるなら、確実に陰と言える。自分に溜息を吐きながら、パンの袋を取り出した。

「ん……?」

 視界の端、小さな茂みの奥で、がさがさと動くものが見える。僕がじっと見つめていると、茂みの端から曲がった胴体が姿を現した。

 蛇。

 その形状を認識した時には、狸の本能が竦み上がっていた。

「ヒッ────!」

 ようやく立ち上がり、食べ物を抱えてその場から逃げようとする。だが、足が縺れてその場に転がった。

 頬を地面に擦り、砂を掻きながらなんとか身を起こす。振り返った視線の先には、さっきより近づいた蛇の姿が見えた。

「大丈夫か……!?」

 横から声がかけられると共に、僕と蛇との間に大きな鞄が投げ入れられる。

 蛇は落下音に反応したのか、反転して茂みのほうへと逃げ去っていった。

 僕はぽかんと、鞄を投げてくれた人を見上げる。

「どこか打った? 起きられる?」

 手を差し出したその人は、日差しをそのまま映したような金髪と、茶に他の色が幾らか混ざったような色の瞳を持っていた。

 顔も目鼻立ちがはっきりとしており、大人しい造りの僕とは大違いだ。

「ありがと……う、ございます…………」

 ほっと息を吐いて、その人の手を取る。

 一瞬で落ち着いた所為か、気が緩んでしまっていたのかもしれない。瞬きの間に、僕の手のひらは一瞬だけ触れた彼の掌から零れ落ちていた。

 頭の上から、ばさばさと服が降ってくる。何事か分からなかったのは、僕も。そして、彼も同じだったようだ。

「狸……?」

 服の下から顔を出した僕と、視線を合わせた彼は呆然とそう呟く。

 やらかした。

 他人の前で『狸』の姿に化けてしまうという失態を犯した僕は、さあ、と血の気が引いていくのを感じていた。

 

 

 

 僕たちの一族は、動物と、人の魂を両方持っている。

 そして、僕が持つのは動物の中でも『狸』の魂だ。僕は人の姿と同じく、狸の姿を持っている。

 僕はこの姿を転じる……化けるのがあまり得意ではない。努力を重ねて、人の社会に紛れ込めるようになった筈だったのに、今日は幼い頃のような失敗をしてしまった。

 服を着替えてトイレの個室を出ると、そこには先ほど助けてくれた男が立っていた。

「ありがとう、ございました」

 深々と頭を下げる。

 この男は僕を鞄の中に入れ、服と共にトイレの個室まで運んでくれたのだ。お陰で人に戻ることもでき、服を身に纏うことができた。

「えっと。……立貫くんだっけ?」

「はい。立貫絹太です」

「そっかそっか、絹太くん。俺は大高壱矢」

「知って、ます」

 パニックから落ち着けば、彼の容姿には見覚えがある。色素の薄い人種の血を引いているらしい彼は、大学内でも目立つ人物だ。

 同じ講義を受けることもあるが、染めていないらしい艶やかな金髪と、珍しい色の瞳には時おり視線を奪われる。

 そんな彼だが、人を集めて中心に立つというより、一人でふらりと姿を現しては、場を盛り上げて去って行くような不思議な空気があった。

「それは良かった。絹太くん、頭に葉っぱ付いてるよ?」

「えっ!?」

 鏡を指差され、素直にそちらを向く。

 彼が指摘した通り、茶髪には細長い葉、というか草が絡んでいた。指で取り去り、ついでに髪型を直した。

 生まれつきの茶髪と、いつも困ったような眉。瞳は大きく見える、と褒められるが、そのほかの顔立ちに目立つところはない。

 僕が鏡と向き合っていると、靴音がして、隣に長身であるその人が立った。髪を縛っていたゴムを外し、纏めて縛り直す。

「あの。……本当に、お世話に…………」

 彼は蛇口を捻り、手を洗い始める。何となく僕もそれに倣った。泡立った手を洗い流し、ハンカチで手を拭う。

「絹太くん。お昼、食べそびれたんじゃない?」

「はい。……えと、まだ」

「じゃさ。俺とお昼、食べなおそ」

 肩に掛けていた二人分の荷物の中から、僕のカバンを差し出してくれる。

 呆気に取られながら受け取り、背を叩かれて促されるままにトイレを出た。

 彼のような人種の、何も知らない初対面の相手と交流を持ってしまう性質は、僕には異星人のように思えてしまう。

 先を歩く広い背を追いかけ、声を掛けた。

「あ、あの……! 大高、くん……!」

「今度は、蛇が出ない位置のベンチに行こっか」

 大高くんはそう言い、学内でも外と面している大廊下に置かれたベンチへと向かった。途中、飲み物を調達するためか、自販機に立ち寄る。

 彼が小銭を出す前に、僕が割って入った。

「お礼、に! 僕に出させて、くださ…………」

 目を丸くした彼の様子に怯え、言葉は尻すぼみになる。顔を合わせられないでいる僕に対し、大高くんは明るい声を掛けた。

「ありがと。じゃ、コーヒーのブラック。冷たいやつ」

「どれでもいい、ですか……?」

 ブラックコーヒーのコールドにも、複数の種類がある。僕の指先がボタンの間で躊躇っているのを、彼は面白そうに見ていた。

「どれがいいと思う? 押してみて」

「え……?」

 いちばん高級そうな外観の缶を選び、ボタンを押す。ガコン、と下から缶が出てきたのを、取り出して両手で差し出す。

「ど、……どう。ですか?」

 僕とは違う。大きな手が、長い指が、缶を持ち上げる。顔を上げた時に見た大高くんは、にんまりと笑っていた。

「当たりー」

 どうも、と更に言葉を添え、彼はまた歩き出した。

 本当に当たりだったのか。それとも、気を遣って当たったことにしてくれたのか。表情から読めない人物を相手にする難しさに、心中で息を吐く。

 中学も、高校も。人と狸の姿を上手く保てない所為で、休みがちだった。ほどよく距離が保てる大学なら上手く過ごせる気がしていたのだが、それも前途多難だ。

「ここにしよっか」

 ベンチのうち一つを選び、二人して腰掛ける。

 僕が先に座ると、然程あいだを空けずに大高くんが隣に座った。

 ようやく封を切ることができたジャムパンを袋から取り出し、齧り付く。パンに噛み付きながら隣を見ると、大きな口が卵サンドを囓りとった所だった。

 あの量が口の中に入ってしまったら、パンなんて直ぐ無くなってしまうのではないだろうか。心配しながら様子を見ていると、視線が合う。

「絹太くんさ。あれでしょ、動物の魂を持つ一族なんでしょ?」

 僕は咄嗟に周囲を見渡してしまう。仕草を見て意図を察したのか、大高くんは、誰もいないよ、と言った。

 僕はパンを膝に置き、こくん、と頷く。

「なんで、大高くんは……そのこと」

「俺ね。親族の伝手で、動物が所属するプロダクションでアルバイトしてるの。うちの一族は動物の魂を持つ、とかじゃないんだけど。とある神様の守りが強くて。……ほら、絹太くん達の魂って、神様が分けてくれたもの、な訳でしょ」

「そう、です。狸の神様が、始祖様に魂を分けてくれて。それで、子孫である僕達は、狸の姿も持つようになりました」

「聞いてた通りだ。そういう人たちって、格が違う……っていうのかなぁ。上も下もないけど、純粋な人とは違う訳じゃん。だから、動物の魂を持つ一族とか、神様の守りがあるような人間とかで集まる方が、いろいろと揉めないんだよ。ウマも合うし」

 大高くんの一族は、代々そういった事情で動物の魂を持つ一族と交流があったそうで、今も動物プロダクションには、純粋な魂を持つ動物たちと、僕のような人間も集まっているらしい。

 そんな彼にとって、僕のような存在は珍しくないそうだ。缶コーヒーのプルタブを引くと、口に当て、ごくごくと中身を呑み込んだ。

「絹太くんって、そういう繋がりあんまりない? 同じような奴ら、大学内にもいるけど」

「え、……っと。何となく、そうかな、みたいな人は見かけたんですけど。怖くて……」

「あー……。だいたい誰を見たのか分かった。猫と犬?」

 猫と犬、とは、文字通りの猫と犬、ではなく、猫神の魂と、狗神の魂を持つ人間、ということだ。

 おそらくその二人であろう姿を思い浮かべ、こくこくと頷いた。

「別に、言いふらしたりするつもりは無いけど。絹太くんって、ソロ行動多いよね?」

「あの、……ぼっちだって言ってもらっても……」

 水筒の蓋を開き、中の麦茶を注ぐ。キン、と頭ごと凍らせるような中身を口に含んで、はあ、と息を吐いた。

「あはは。同じ悩みが話せる友達、欲しくない?」

「それは、欲しいですけど……相手にも、選ぶ自由が……」

 ぼそぼそと言う僕を、彼は珍しいものを見たかのように眺める。

 ぱくん、ぱくん、と大きな口が手元の卵サンドを囓ると、すぐに一個が腹の中に消えていった。次は洒落た鞄から焼きそばパンが出てくる。

「選ばれるかどうかも、会ってみなきゃ分かんないんじゃない?」

「そう……ですね。そうなんですけど……」

 僕は黙り込み、ジャムパンを噛む。

 普段は好物のはずなのだが、緊張しすぎて砂でも噛んでいるようだった。

 外からは鳥の鳴き声が響き、適度な屋外として心地よい空間のはずなのだが、僕の頭は余計なことばかりを考える。

「てことでさ。絹太くん、アルバイトしてみたくない?」

「…………前提が、飲み込めていません」

「じゃあ。お金、ほしくない?」

「自由に使えるお金は、ほしい、ですけど」

 実家住みでお金に困っている訳ではないのだが、この性格を変えたくもあり、ちょっと高価な服飾品を買ってみたいという希望もあった。

 だが、今まで特に、アルバイト、というものに飛び込めた試しはない。

「動物プロダクションでモデル、どう?」

「えっと。僕、犬とか猫じゃなく、狸ですけど……」

「うち、狐もいるよ」

「えっ」

 話を聞くと、犬や猫以外にも多様な動物たちがプロダクションに所属しているらしい。

 動物タレントとしての所属の他に、保護施設と提携して、と外部には説明しているらしいのだが、純粋な動物たちに、長時間であったり、細かな指示が必要な撮影は厳しいものがある。

 案件や撮影量によって、純粋な動物と、一族の転じた姿である動物と、で合っている方をキャスティングしているそうだ。

「最近、狐の一族から所属してくれる人がいてさ。普通、狐の一族の人間って、ほら」

「狐の一族は、……我が強い上に騙るのが得意なので、組織に所属したり、プロダクションで真面目に仕事、は難しいでしょうね」

 あくまで、『言い伝えられる狐』としての気質の問題だ。例外は存在するだろうが、それでも種族特性は性格に強い影響を与える。

「そうらしいね。だから、真面目に働いてくれる人が来て、今までいなかった所属タレントってことで、珍しさで仕事が増えたんだよ」

「はぁ……。それで、なんで僕に」

「二匹目のどじょうを狙ってて、プロダクション内で事情を知ってる職員にお達しが出たんだ。珍しい種族の一族がいたら、モデルとして連れてくるように、だってさ」

「狸は珍しくありませんけど……」

「でも狸はそもそも、気が弱くて人前に出たがらない。臆病だし、警戒心も強くてモデルとして働こ、て誘っても首を横に振るでしょ」

「まあ……。そんな気はします」

 同じ狸の一族の気質は、よく知っていた。

 僕のような人間は、人間だけの社会であれば珍しいが、一族の中であれば同類で埋もれる。

「撮影に慣れてない、っていうなら練習に付き合うからさ。真面目に仕事をしたい、って思ってくれるだけでいい。どう?」

 ちゃぷん、と持っていた水筒の蓋の中で水面が揺れた。

 働きたいとも思っていた、お金が欲しいとも思っていた、体力を使う仕事ではないようだし、モデルといっても狸姿だけだ。

「拘束時間に対しての給料は多い方だと思うよ?」

 大高くんからの一押しに、僕は視線を彷徨わせる。それでも決めきれずに黙っていると、彼は鞄に手を突っ込み、新しいパンの袋を取り出した。

「絹太くん。照り焼きサンド好き?」

「鶏肉? …………ですか」

「鶏肉」

「好き、です」

「これあげるから、一回、事務所を見学に来ない? 狸の性格は聞いてる、無理強いはしないから、ね」

 目の前で袋を開くと、肉厚の照り焼きが挟まったサンドイッチがその場に鎮座していた。僕が食い入るように見つめていると、大高くんは袋ごとこちらに差し出してくる。

 そろそろと両手を広げると、ポン、とサンドイッチが置かれた。

「契約成立」

「………………あ」

「まあまあ。それ、美味しいから食べてよ」

 きつね色に焦げたパンと肉厚の鶏肉、シャキシャキのレタスに、たっぷりのマヨネーズ。僕はおいしそうな断面を見て、つい条件も忘れて齧り付く。

 甘辛い味付けも好みで、弾力のある鶏肉は夢中で咀嚼してしまう。はぐはぐと丸々一個を食べ終え、はっと我に返って視線を上げる。

 にまにまと笑う大高くんは、すこし悪い顔をしていた。

▽2

 一緒の昼食の後で、半ば無理矢理、連絡先を交換させられた。その日の夜には連絡が入り、翌日にはまた一緒に昼を食べることになった。

 大高くんと僕とでは、あまりにも不釣り合いというか、僕が見てもどこで知り合ったのか疑問に思うほどだ。だが、彼は僕となぜか連絡を取りたがる。

 結果、その週の休み、待ち合わせての事務所訪問と相成った訳である。

「絹太くん。お待たせー」

「ま、待ってないです……!」

 駅前に集まった僕たちは、大高くんの到着で無事に落ち合う。

 僕は久しぶりに友人と休日に出歩くことにそわそわしてしまい、一時間前には駅に到着していた。コーヒースタンドで時間を潰し、あたかも来たばかりのように振る舞う。

 けれど、僕のその様子さえ見透かしたかのように、大高くんはコーヒースタンドを指差す。

「コーヒーでも奢ろっか?」

「喉、乾いてないので……」

「あの店のコーヒー美味しかった?」

「美味しかっ………………です」

「そっかぁ。遅くなってごめん、後で埋め合わせするね」

 大高くんだって、集合の十五分前には到着している。僕があまりにも早く来すぎただけなのだ。

 埋め合わせは不要だ、と主張するが、はいはい、といなされてしまった。

 彼はベージュのジャケットに、白のシャツ、濃い色のジーンズを合わせている。首元にもシルバーのネックレスが光っていた。

 全体の色味に派手なところはないが、最も華やかなのは彼の金髪だ。いっそ、落ち着いた色味の服の方が映えるかもしれない。

 対して、頭髪がそこまで華やかな色味という訳ではないのに、春物にしては黒と白で纏めすぎてしまったのが僕のファッションだ。

 隣に並ぶ姿がガラスに映ると、気分が沈みそうになる。

「じゃ、行こ」

「は、はい……!」

 大高くんの先導に従い、駅から歩き出す。

 プロダクションの事務所は駅から遠くはなく、普段は降りない駅の街並みを興味深く眺めつつ付いていった。

 事務所はそこそこの大きさがある建物で、玄関にはプロダクションの名前が書かれている。

「ここが事務室。────おはようございまーす!」

 仕事仲間らしいスタッフに挨拶をしながら、大高くんは事務所を歩く。まず案内されたのは、スタッフが事務仕事をしている部屋だった。

 スタッフは皆それぞれ仕事をしていたが、その中の一人に大高くんが近づく。

「おはよ、龍屋ー。撮影ルーム、どこでもいいから鍵貸して」

「ああ、おはよう。何に使うんだ?」

 その人物の対応は冷たい感じではないのだが、僕にとってはどことなく怖かった。嫌い、と取り乱すほどではないが、ざわざわと背が騒ぐ。

「事務所見学」

 声をかけられた人物は、パソコンをカチカチと操作しながら問いかける。使用登録のようなカレンダーの画面を開くと、何かを入力して立ち上がった。

 鍵の収まっているボックスを操作して開けると、その中の鍵を一つ手渡す。手渡し様に大高くんの肩を掴むと、何事かを囁く。

 囁かれた方も、同じように肩を掴んで何事かを小声で伝えている。

 会話が終わると、二人は離れ、大高くんは僕の元に戻ってきた。

「お待たせ。撮影ルームに案内するよ」

 廊下を歩き始め、人がいなくなったところで問いかける。

「さっきの人と、何を話してたんですか?」

「ああ。あいつ、恋人が猫神の一族だから。絹太くんが同類だって話してた」

「…………花苗くん、ですか?」

 大学構内で見かけていた、猫の魂を持つ人物の名前を挙げると、大高くんは驚いたように目を見開いて、脚を止めた。

「そうそう。やっぱ、分かるもんだな」

「花苗くんは、分かりやすいので」

「犬も分かる?」

「戌澄くん、ですよね。名字も種族名ですし」

 正解、と呟いて、彼はまた歩き出す。

 狐に巧妙に隠されるなどすれば、気配では分からないかもしれない。だが、二人は同族に対して、出自を隠すつもりはないようだった。

 脚の長さが違う彼と、脚を目一杯のばして歩幅を揃える。

「そこまで分かってるなら、話しかければいいのに。そういう、一族特有の悩みとか、純粋な人には話せないでしょ?」

「……僕、同じような種族の人と会うの、大学が初めてで…………。僕がこう、だから、嫌がられないかな、と」

「こう、とは?」

「…………引っ込み思案で陰気」

「言うねえ」

 大高くんはけらけらと笑い、途中、休憩スペースやロッカー、会議室などの案内を挟む。

 室内はどこも新しい。また、綺麗に使われているようだった。

 途中、ゲージに入った犬と擦れ違う。その柴犬は人慣れしているようで、軽快に挨拶をしてきた。

「『おはようございます』」

 そう返すと、ケージを抱えていたスタッフに挨拶を返される。だが、柴犬にも通じたようで、オン、と鳴いて嬉しそうに尻尾を振っていた。

 その様子を見ていた大高くんは、二人がいなくなった後、不思議そうに言う。

「いまの、犬の方に挨拶してた?」

「なんで分かったんですか?」

「一瞬、声がぼやぁって響く感じがした」

 僕たちの特殊な声の使い方を言い当てた大高くんに、別の神の加護がある、というのは嘘ではないようだ。

 魂を分けた訳ではないものの、特定の神から加護を受けている人間はいくらか存在する。そういった人間の特徴はいくつかあるが、人ならざる気配に聡い、という特徴はよく見られる。

「大高くんを守っている神様は、そういう加護を与えてくれるんですか?」

「うーん。普段は耳じゃなく、目かな。単純な視力もいいけど、危険に結びつくようなものはよく視える」

 氏神に由来した名字や、名字の読みを頂くような名字は数多くある。特に、僕たちのような存在は、その力にあやかる為、と、一族の形成の為にそういった名字を選んだらしい。

 彼を守っているのは、大鷹なのだろうか。では、先ほど会った『龍屋』というスタッフにも、龍、に纏わる何かの加護があるのかもしれない。川や滝、もしくは蛇だろうか。

 本能的に怖いと感じた理由が、何となくわかった。僕はまだ蛇に怯えているらしい。

「じゃあ、僕を助けてくれたのも、見えたから、ですか?」

「うん。危なそうだな、って感じがして近づいたら案の定でさぁ、慌てて鞄投げた」

「そう、だったんですか。助かりました」

 あんな人気のない場所にタイミングよく彼が現れたことは不思議だったが、彼を守る神様に、僕は助け船を出されてしまったらしい。

 顎に手を当て、彼に尋ねる。

「鷹の神様は、何が好物ですか?」

「大きい肉とか、かなぁ」

「今度、御礼に大きい肉をご馳走したいです」

「俺に?」

「はい。代理で」

「あはは、いいよ。俺も肉好き」

 今度行こっか、と自然に誘われ、つい頷いてしまう。また、彼と約束が出来てしまった。

 寄り道を挟みつつ、撮影ルームに到着する。

 窓からの日差しも明るい室内は、個室、と呼ぶには広く区切られていた。

 天井からも照明が綺麗に当てられるよう、設備が整えられているのが分かる。また、窓辺には厚いカーテンも備え付けられており、締め切って照明だけにしても、十分な光量が担保されそうだ。

 室内には適度にインテリアも置かれ、洒落たローテーブルやソファもあった。部屋の隅には植物も置かれているが、明らかにフェイクグリーンだ。

 本物の緑は食べるものな、と動物たちの妙な食欲を思う。

「主に所属タレントの宣材写真を撮ったり、プロダクション宣伝用の写真撮ったりする部屋だよ」

 大高くんは大きな鞄をテーブルの上に置くと、窓辺に近寄って光の差す位置を確認している。

 僕が頭に疑問符を浮かべていると、彼は鞄の中から黒いケースを取り出す。大きな手がケースを開けると、中からは黒い機械が出てくる。

「カメラ……、ですか?」

「そう。今日、試しに絹太くんを撮らせてもらって、こういうもの、って感覚を掴んでもらおうかな、と。どう?」

 おそらく一眼レフ、と呼ばれるような、カメラの中ではごつい形状の機体を取り出すと、顔の横に持ち上げてみせる。

 僕は両手の指を腹の前で絡め、視線を落とす。

「僕、普通の狸なんですけど」

「普通の狸は人の姿を持ってないよ」

「じゃあ、ええと…………」

 断る言葉を探し続ける僕の足下に、陽が差し込む。

「俺、狸だった絹太くんのこと一瞬しか見てないけどさ。ふわふわで小さくて可愛くて、日向が似合うなって思った。だから、……撮らせてくれない?」

 顔を上げると、柔らかい眼差しとかち合った。

 写真を撮られるということは、あの目がずっと僕を見るのだ。考えるだけで恥ずかしくて、それでも、言葉には争いがたい甘さがあった。

「少し、だけ……。なら」

「本当!? じゃあ…………」

 ロッカールームへ案内され、空いているロッカーを貸してもらう。服を緩めて狸へと転じると、大高くんが服を拾い上げて仕舞ってくれた。

 床で待つ僕を、大きな手が抱き上げる。ぐん、と高い位置へと上がる感覚は、子どもの頃以来だった。

 抱かれたまま撮影ルームへ戻るが、広い腕は安定感があり、ずっとそのままで居たいような気もした。

「じゃあ、まずは。座ってみて」

 ソファの上に運んでもらい、指示に従って座る。大高くんはカメラを構えると、姿勢を低くしてシャッターを切り始めた。

 数枚、試しに撮った画像を、狸である僕の前に見せてくれる。

「どう?」

『……光が当たっているから、ふわふわに見えます』

 僕が返事をすると、彼は耳を押さえ、僅かに目を丸くした。掌が、僕の頭を撫でる。

「絹太くんは、おしゃべりしてくれるんだ」

『と、いうと?』

 問い返すと、彼は眉を下げて笑う。

「動物の一族の人たちさ。お気に入りの相手以外とは、その姿で会話してくれないから」

『相性も、ある、と思います。この姿での会話は厳密には空気を震わせる音を使っていないので、合わない人に、言葉を届けるのは難しいです』

「そっか。嫌われてるのかと思ってた」

 目立つ顔立ちの人当たりのいい男が、嫌われてるのかと思ってた、とは意外な言葉だった。僕が思っているよりも、図太い人間ではないのかもしれない。

 彼は撮影した画像の中で、良いと思うものを指差してくれる。僕が日の光を浴び、ほんの少し眦を緩めた表情だった。

 間抜けな顔にも思えるが、大高くんにとってはこの画がいいらしい。

「次は、寝っ転がってくれる?」

『こ、こう……?』

 その場に横になる。が、カメラが向けられている事に緊張してしまう。

 前脚は強ばり、ぷるぷると震えていた。

 大高くんはカメラを下げ、一旦、首へと掛ける。彼はかちこちのまま寝転がった僕に近寄ると、そろり、と低い鼻先に指を近づけてきた。

 近づいてきた指先から、彼の匂いがわかる。大学で近づいた時にした香水のにおいは、その指先からは感じない。

『石鹸の匂い』

「ああ、ごめん。匂いは嫌かと思って、香水は避けたんだけどさ」

『厭な臭いではない、です』

 指の背で僕の頬を撫で、それから耳の後ろを掻く。右手だけだったのが、やがて両手になり、全身を撫でた。

 大きな手が、覆い被さってくる。心地よい場所に目を細めると、その場所は丹念に撫でられた。

『耳の後ろ、好きです』

「────。じゃあ、もっと触っちゃお」

 マッサージでもするように僕を溶かすと、好みだと伝えた場所を次々と撫でてくれる。次第にとろりと目が溶けた。

 ソファの座面にぺったりと身体を預け、掌に身体を任せる。眠たくなってきた頃、上からシャッターの音がした。

 僕はぴくぴくと耳を動かす。

「ごめんごめん。いい顔だったから」

『……僕、寝ちゃいそうです』

「ほんと? 寝顔も撮りたいなあ」

 流石に眠りこけたりはしなかったが、僕の身体から力が抜け、彼が望んだような寛ぐ狸が写真に収まった。

 次、と言われるかと思ったが、ある程度の写真を撮り終えると、彼は隣に座って、僕を膝の上に乗せる。

 太股の間に挟まれる形になった僕は、むにむにと頬を揉まれながら、目的を忘れてうつらうつら船を漕ぐのだった。

▽3

 プロダクションに見学に行った翌日のことだ。僕が大学の廊下を歩いていると、突然、背後から肩を抱かれた。

「おはよ」

「大高くん……! おはようございます」

「美味い肉を出す店。朝コンビニ寄ったら雑誌あったからさ、これ見よう」

 彼の手元の袋には、グルメ雑誌の上部が見える。

 一緒に食事に行く、という約束を、彼は完遂させてくれるつもりらしい。今日、最初の講義の予定を尋ねると、同じだと分かった。

「じゃあ、一緒に行こっか」

「え? あ、他のお友達、とか……」

「いいのいいの。彼氏とか彼女とかとイチャイチャして、俺には構ってくんないもん」

 端からは、大高くんの方が構おうとする腕を躱しているように見える。

 肩に乗っている腕をどうしたものかと眺めると、彼は大人しく手を放した。

 二人で講義室へ向かうと、扉を開けた途端、視線がいくらか向けられるのが分かる。心臓が竦み上がった。

「絹太くん。あっちの席でいい?」

「は、はい……!」

 普段は後ろの座席は座りたい人に譲っているのだが、誘われるのなら断る理由もない。二人並んだ席に荷物を下ろして座った。

 大高くんは二人の間に、買い求めた雑誌を広げる。

「今日、もう昼飯買った?」

「まだです。けど」

「一緒に学食いかない?」

「………………どうして、ですか?」

「え? 一緒にご飯食べて、お喋りしたいからだけど」

 何で聞かれるんだろう、と不思議そうに言葉を返される。

 僕は僕で、一緒にご飯を食べてお喋りしたい、という理由込みで食事に誘われたことがなく、自然と視線が落ちた。

「学食、行ったことないです」

「そっか。苦手?」

「苦手なのは、……みんな複数人で食べる場所で、一人で食べることですかね」

 あはは、と苦笑するが、大高くんはからかうように笑い返したりはしなかった。

「じゃあ、俺と二人なら。行けそう?」

「使い方、教えてくれます、……か?」

「いいよ。鶏肉が好きなんだっけ、唐揚げ定食とかオススメ」

 へえ、と思わず嬉しげな声が漏れてしまった。

 それから、二人でグルメ雑誌を広げて店を見繕う。食べ物の好き嫌いを話していると、二人の間では肉料理の店を選べば丸そうだと分かった。

 いくつかの店に目星を付け、ページに折り目を入れていると、そのうち講義が始まる。ソロで受けない講義が初めてで、誰かの気配に最初の方は緊張してしまった。

 だが、ちらりと様子を窺う大高くんは、外見に似合わず静かに講義を受けている。ノートの取り方も見やすく整っていた。

 講義が終わると、次の予定を確認する。次の講義は別だ。学食で落ち合うことにした。

「じゃあ、また後で」

 手を振って別れ、僕は自分の講義へと向かった。

 次の講義室では前の方で受けたが、学食の予定にそわそわしてしまって、ノートを取る手が何度も遅れる。

 終わり間際に荒い字で書き終え、ほっとしながらノートを閉じた。

 講義室を出て渡り廊下を抜け、学食へと向かう。学食のある建物の入り口では、目立つ金髪の姿があった。

「お、大高、……くん!」

「あ。絹太くん、早かったなー」

 ひらりと手を振った大高くんへ、駆け足で近寄る。外は過ごしやすい気候だ、風が頬を撫で、過ぎていった。

「どうぞ」

 大きな手が扉を開け、僕が入り終えると、彼も中に身を滑り込ませた。

 講義後に早めに移動したおかげか、まだ席は埋まっていない。急いで食券機の前に並ぶ。

「あ。日替わり肉定食、チキン南蛮らしいよ」

「えっ、唐揚げ定食にしようと思ってた。ん、ですが……美味しそう。日替わり、かな」

 お金を入れる手を止め、画面を眺める。

 じゃあ、と大高くんは僕の両肩に手を置いた。

「俺が唐揚げ定食を押して、一個あげよう」

「……いい、ん、ですか? 他に食べたいもの、なかったですか?」

「うん。食べたいのは唐揚げ」

 僕より先に小銭を入れ、彼は唐揚げ定食を買ってしまった。

 僕は続けて、日替わり肉定食を選ぶ。日替わりだけあって、品数も多いし安かった。

 大高くんの様子を真似て食事を受け取り、外が見える位置に座席を選ぶ。

 学食は光が入る設計の広い空間で、壁面は清潔感のある色味で整えられていた。テーブルがずらりと並ぶ中、学生がわいわいやっている様子は、今までの僕からすれば別世界に思える。

「いただき、ます……!」

「いただきます」

 二人で向かい合って、食事を囲む。

 大高くんは唐揚げ定食の唐揚げを一個、僕の皿の端っこに積み上げる。

「あの、チキン南蛮、一ついかがですか?」

「いいの? じゃあ貰おうかな」

 大高くんの皿の端に、大きめの一切れを選んで置く。

 出来たてのそれは、からりと揚げられた衣に、甘酸っぱいソースとタルタルが絡んでいる。持ち上げて囓ると、じわりとまだ熱い肉汁が溢れ出した。

「美味しい!」

「あ、美味い!」

 大高くんも一口めをチキン南蛮にしたようで、少し遅れて同じトーンの声が返ってくる。ご飯を僕は普通盛りにしたが、彼は大盛りだ。膨らんだ頂点からがっつりと湯気の立つ白米を掬い取り、大きな口で頬張る。

 卵サンドの時といい、彼の食べっぷりは豪快だ。

 僕はちらちらと彼を見ながら、ちまちまとご飯を口に含んだ。噛みしめると甘い白米が、甘酸っぱいソースとよく合う。

「唐揚げ、肉汁凄いな」

「ですね。下味が効いてておいひい……」

 熱々の肉汁と格闘しながら唐揚げを頬張っていると、やがて近くの席が埋まってきた。だが、目立つ大高くんの近くだからか、僕たちの周囲は空いている。

 そんな彼の背後に、長身の影が立つ。顔を上げると、プロダクションで会った『龍屋』と呼ばれた人が立っていた。

「悪い、大高。席、隣いいか?」

「んー。絹太くん、平気?」

「僕は、平気ですよ」

 龍屋、と呼ばれた人の背後には二人おり、席が取りづらいのだろうと分かった。上手くない笑顔を浮かべながら、内心、僕は焦っていた。

 背後にいる二人は、犬と猫だ。

「あ」

 相手も、僕の事に気づいたらしい。机にお盆を置くと、『猫』のほうが近寄ってくる。

「『狸』?」

 正確に言い当てられ、目を見開く。あまり隠すのは上手くないとはいえ、狸の本分は化かすことだ。

 複数の、狐と両方を挙げられるかと思いきや、この人は悩みもしなかった。

「は、はい。よろしくお願いします」

「そうなんだ、僕は『猫』。で、あっちが『犬』」

 僕には聞き取れたが、猫、と、犬、を言う時だけ、彼は声を使わなかった。

「あの、何となく、知ってました……」

「そうだよね。見られてる気はしてたんだ、よろしく」

 猫の人は僕の肩をポンと叩き、席に戻っていった。

 外見も可愛らしく、ふんわりといい匂いがするような空気を纏っている。犬の人の方は、体格は大きくないが、身体を動かすのに慣れた空気が外見からでも分かった。

 二人とも、僕なんかよりもずっと、人に好かれる容姿をしている。

「こっちは立貫くん、昨日、プロダクションに見学に来てもらったんだ」

「え。そうなんだ、所属するの?」

 猫の人に問いかけられ、両手を胸の前で振る。

「いえ、まだ。悩んで……て」

「そうなんだー。所属することになったら、一緒に写真撮ろうね」

 猫と狸が写真を撮ることになったら、なんかこう、狩猟目前、という感じにならないだろうか。

 相手の猫姿が想像できず、僕はあいまいに笑って答えた。

「俺は龍屋」

「花苗だよ」

「戌澄だ」

 龍屋、と名乗った人物だけが純粋な人だ。猫の人が花苗さん、犬の人が戌澄さん。よろしくお願いします、と頭を下げた。

 大高くんは僕を見つつ話す。

「絹太くん、大学で学年違う知り合いが少ないらしいからさ。いろいろ相談に乗ってあげて」

「……皆さん、年上、ですよね?」

「うん」

「なんで大高くん。龍屋さんのこと呼び捨てなんですか?」

「友達だもん。でも、面倒な人の前ではさん付けしたりするよ」

 ね、と大高くんが声を掛けると、龍屋さんは平然と頷く。

「別に。俺も気にしないしな」

「デートの時、龍屋のバイトの予定代わったりしてるんだ。俺」

 堅そうな龍屋さんと、一見チャラそうな見た目の大高くんでは水と油に見えるが、本人たちの空気は柔らかい。

 講義中の大高くんの様子を見ていれば、外見から来る印象は当てにならない、というのも実感している所だ。

「立貫くんも呼び捨てにしていいよ?」

 日替わり魚定食をぱくついていた花苗さんが、僕にそう言って微笑む。

「あの、いえ。僕は、……呼び捨てではない方が、慣れているので」

「そっかぁ。……あのさ、立貫くんって鶏好き?」

「好きです」

「うちの事務所に、瓜生さん、って人がいてね」

 花苗さんは箸を持っていないほうの手で、親指、中指、薬指を重ね、人差し指と小指をぴんと立てた。

 長い鼻と、三角耳の獣を影絵で作る時に模るやり方だ。『瓜生さん』は狐らしい。

「その人も鶏肉が大好物なんだよ。似てるのかな?」

 狸と狐は、共に化かすという点でひとくくりにされがちで、狐狸、という言葉がある位だ。

 ちなみに、狐は七種類に化けられて、狸は八種類に化けられる。なんてことわざがある位、狸も化けるのは上手いはずなのだが、僕は個体として化けるのが下手である。

「種族的には、似てると思います。けど、伝承とか、そういう意味での話で。動物としては、……イヌ科が共通点ってくらいですか」

「お。じゃあ犬とも近いな」

 戌澄さんはチキン南蛮を持ち上げながらにんまり笑い、花苗さんは、むう、と眉を寄せた。

「狐はネコ目だもん!」

「それを言ったら、犬も猫も狸も狐も同じ祖先に辿り着くだろ」

「うーん……。じゃあ、みんな仲間でいっかぁ」

 花苗さんはなんとか丸め込まれたようだが、戌澄さんの理屈でいうとライオンも狼も熊でさえ、みんな仲間、である。

 釈然としないものを感じつつも、平和的解決、とこの話題に口を挟むのは止める。

「花苗さんは、魚が好きですよね?」

「鶏肉も好きだよ」

「えっと、僕たちが持つイメージと、割と同じ?」

「そうかも。鰹節とか大好きだし」

 僕は、戌澄さんに視線を向ける。視線の意図に察したらしく、彼は、ああ、と考え込む。

「流石に人間の歯じゃ、骨は食わないぞ」

「…………僕。戌澄さんに、骨食べそうですね、って言うように見えましたか?」

「じゃあ何が好きだと思う?」

「肉ですか」

「正解。ちなみに甘いものも好きだ」

 年上の筈の人たちは、垣根を感じさせないほど自然に、僕を輪の中に入れてくれる。

 食事を終えて別れた時には、賑やかさが消え、物寂しささえ感じたほどだ。

 数日後、僕は大高くんや先輩たちとの縁を切りたくない、というだけの理由で、プロダクションへ加入することを決めた。

▽4

 プロダクションへ加入するための事務手続きは終わり、こちらが希望をすれば仕事を探せる状態になった。

 だが、しばらくの間、写真に撮られる練習をしたい、と正式な仕事は少し待って貰っている。

「週末、写真に撮られる練習しない?」

 大高くんがそう言い出したのは、金曜日の午後の講義が終わった後だった。これから休日、という解放感と少しの寂しさを感じていた所に、そう提案される。

 普段だったら、そこまで優しくして貰わなくても、と断るのだが、プロダクションのスタッフである彼なら、実利を目的としているかもしれない。

 少し悩んで、承諾した。

「また、プロダクションに行きますか?」

「いや。面倒だしさ、俺の家おいでよ」

 その提案に面食らい、瞬きを繰り返す。

「お家の方は……?」

「俺、大学に入るときに一人暮らし始めたんだ」

「えっと。お邪魔、ではないですか……?」

「邪魔だと思って誘う人いないでしょ。来てほしいな」

「……じゃあ、お伺いします」

 一緒にお肉を食べに行く予定も立っているのに、その前に自宅訪問が挟まってしまった。同じ人と予定を積み上げていく経験が薄く、目眩がする。

 大高くんと僕は、端から見れば友達、なんだろうか。

「ていうか、泊まりに来る?」

「えっ……?」

「写真慣れする時間は長い方がいいし」

「あ、と。僕、人の家にお泊まりしていいか、両親に聞いたことない。ので、……なんて言われるか」

 数秒のあいだ停止して、やがて大高くんはくすりと笑った。

「そうだよね。じゃあさ、泊まるなら必要な荷物もあるでしょ。俺、絹太くんのおうちついて行っていい?」

「それで、何を……?」

「挨拶して、泊まっていいですか? って一緒に聞くから。駄目だって言われたら絹太くんのおうちだけ見て帰るよ」

 それなら、少しは気持ちも軽いかもしれない。僕が携帯電話越しの両親に家にいるか尋ねると、ちょうど僕たちが帰る頃には家にいるようだ。

 友達が家に寄りたいと言っている、とメッセージを送ると、二人とも驚いているらしい返事がある。

「挨拶だけなのでお菓子とかお茶とかはいいです、って言っておいて」

 僕が連絡しているのを見ながら、大高くんが言う。僕は言葉をそのまま二人に送った。

 弟妹には連絡すべきか悩んだが、からかわれそうで止めておく。

「えと。じゃあ、……まずは僕の家に、行きましょうか」

「お邪魔しまーす」

「まだ家に着いてないですよ」

 二人で連れ立って大学を出た。

 大高くんと過ごす日常が増えていくほど、人の視線も減っていくし、慣れてくる。最近ではタイプの違う年上たちとも交流が増え、僕の周りの風景が描き変わってしまったみたいだ。

 最寄りの駅まで歩き、そこから電車に乗り込んだ。学生ばかりで混んでおり、立ったまま扉の近くに寄る。

「絹太くん、大丈夫?」

「平気、です」

 目の前に大きな身体がある所為で、僕の方に人波は押し寄せてこない。同じ電車に乗る時は、自然と庇う位置に立ってくれる。

 車体が大きく揺れても、彼はさほど揺らがなかった。

「────着きました」

 大高くんの服の裾を引き、開いた扉から外に出る。

 多くの人が流れていく中、僕たちは寄り添って駅の出口を目指した。途中、大きな手が僕の腕を掴む。

 僕も何も言わず、彼を引いて歩いた。

「へえ、落ち着いてて、いい駅前だね」

「はい。いつも、こんな感じですよ」

 いつもの道のりを、いつもとは違う人と歩く。

 普段は使わない駅だからか、大高くんの視線はあちこちを彷徨い、興味深そうに僕に質問をする。

 住み慣れた町に驚きもない、と思っていたのだが、別の視線を通した街並みは、小さなものが突然浮かび上がる。

「マンホールの模様かっこいいなー」

「へえ。気にしたことなかったです」

「え、面白くない? 結構、変わったやつあってさ」

 隣に立つ大高くんは背が高くて、足の長さも違う。けれど、一緒に歩くうちに歩幅は揃うようになった。

 相手が、少しずつ懐に入ってくる。胸がもぞもぞするが、嫌な気はしなかった。

「────ここです」

 自宅の前に辿り着くと、家の明かりはもう点いていた。

 門を開け、庭に入る。ぱっとセンサーライトが灯り、父母が手入れをしている庭が浮かび上がった。

 敷かれた砂利と、葉の長さが切りそろえられた木。そして落ち着いた色味の花壇。庭自体も広く、子どもの頃から遊ぶのには困らなかった。

「お庭いいね。日本庭園って感じで」

「ありがとうございます。縁側から見える部分は、特に気を遣ってるらしいです。七輪とか持ち出して、庭でご飯食べるの楽しいですよ」

「えー、いいなー。焼く時は俺も呼んで」

 上手い社交辞令なのかもしれないが、本当に呼んだら来そうな気配もあった。

 あはは、と曖昧に笑いながら、玄関までの敷石を踏む。

 僕が歩く後から、誰かの足音がするのが不思議な気分だ。

「ただいま」

 鍵を開け、家の中に入る。

 僕たちの帰宅を待ち侘びていたように、早足で父母がリビングから出てきた。二人は大高くんを見ると、揃って驚いたように目を丸くする。

「初めまして、大高壱矢です。髪の色で驚かれるかもしれないんですが、母からの遺伝で、地毛です。絹太くんに悪いことを教えるつもりはないので、ご安心ください」

 にっこりと笑ってみせる表情は、好青年のそれだった。

 けれど、父母が驚いたのは、大高くんの髪色に、ではなく、僕が友達を連れてきた、という点のはずだ。

 案の定、母は、違うのよ、と彼の誤解をとく。

「────それに、別に染めていてもいいじゃない。素敵な色ね」

「ありがとうございます」

 言葉遣いと表情が違うだけで、ここまで別の空気を纏えるのだ。普段とは違う彼に、僕の方が戸惑ってしまう。

「大高くんは、例のアルバイトに誘ってくれたお友達だったよね?」

 父の問いに、僕が頷く。

 父も母も、社会経験、という意味でアルバイトをする事を賛成してくれていた。僕が大学と自宅を往復していたのが気がかりだったらしい。

「今日、大高くんの家で写真撮影の練習をしようって話してて。それで、折角だから、泊まりでどうか、って話を、して……」

 ええと、と言葉を選んでいると、僕の肩に大きな手が乗る。そして、言葉を引き継いだ。

「急に決まったので、着替えなんかも必要だし。折角なら、取りに行くついでに俺も顔見せしておいたほうが、ご両親も安心じゃないかと思って。それでお邪魔しました」

「ご丁寧にありがとうね。でも、大高くんのお家の方は急に泊まりなんて、ご迷惑じゃないかしら?」

「大学に入学する時に、一人暮らしを始めたんです。広すぎて寂しいくらいなので、来てくれるのは嬉しいです」

 父母は顔を見合わせて笑う。特に悪い印象も持たなかったようで、口からは想像通りの返事があった。

「泊まり自体は、別に構わないよ。あまり、はしゃぎ過ぎないようにね」

「絹太、お菓子持ってく?」

「持ってく!」

 僕は靴を脱ぐと、着替えの準備をしてくる、と言い置いて自室へと駆け込む。背後で大高くんがリビングへと誘われている声が聞こえた。

 僕はリュックに最低限の着替えと道具を詰め、肩に掛けてリビングへ戻る。

「おかえり」

 駆け込んだ先には、大高くんが父母と談笑している姿があった。

 母から、お菓子がたくさん詰まった買い物袋を渡される。

「大高くん。庭を眺めながら七輪でサンマを焼きたいんですって」

「いつでもおいで。サンマも茸も何でも焼こう」

「本当ですか? やったー」

 父は大高くんの肩を叩き、庭について語っている。僕は二人に近寄り、割って入った。

「お父さん。もう行くから」

「そうかい? 大高くん。今度、うちにも泊まりにおいで」

「是非、お邪魔します」

 弟妹が部活から帰ってこないうちに、僕は大高くんの服を引いて玄関へと向かう。

 両親ともに笑いながら、見送りに出てくれた。さり気なく引き留めようとする二人を躱し、ようやく外に出る。

「じゃあ、行ってくるね」

「「いってらっしゃい」」

 玄関の扉を閉めると、ようやく騒がしさも落ち着いた。

 はあ、と息を吐くと、隣から僕の荷物が持ち上げられる。リュックを肩に掛けてしまった大高くんに、慌てて手を伸ばす。

「お、重いよ……!?」

「いいって」

「でも……!」

 僕がいくら受け取ろうとしても、彼はリュックを返してはくれない。

 やがて、諦めて隣を歩き出した。空はずいぶん暗くなり、街灯があちこちで灯っているのが見える。

「絹太くんさ。家では、敬語じゃないんだね」

「そりゃ、敬語じゃないよ。……ん、と。敬語じゃない、です」

「あはは。俺にもさ、ご家族と同じように話してほしいんだけど、難しそう?」

 沈黙が落ち、ざっ、ざっ、と靴底がアスファルトを蹴る音だけが響く。

 外で敬語を崩さないようにしているのは、人の形を保つ条件付けも兼ねている。家と外、狸に転じてもいい場所と、いけない場所だ。

 彼と話す時に敬語を外してしまったら、外と内が分からなくなったら。僕はまた、以前と同じように、狸になってしまう失敗をしそうだ。

 だから、断りたかった。断ろうと思った。

「………………」

 チカ、チカ、と通りかかった街灯の光が瞬く。

 前を向く、大高くんの眉は僅かに寄っている。視線はあちこちを彷徨い、瞼が忙しなく上下した。

 僕が、敬語を外さない、と言うことに対して、不安を抱いている、んだろうか。

「僕。家の外でだけ、敬語を使うようにしているんだけど」

「…………うん」

 少し間を置いて、返事があった。無視されない事にほっとする。

「敬語を使っていると、緊張があるっていうか、背筋が伸びる感じがする、んだよね。ほら、僕って気を抜いて、狸になっちゃったでしょう。普通なら、動物の姿と人の姿、行き来するのって力を使うんだけど、僕、その境が薄いみたいなんだ」

 ちら、と彼の方を見る。

 ふと立ち止まると、同じように、彼の足も止まった。二人の影は重なって、そこに境など無くなってしまっている。

「敬語を使うことで、人でいなきゃ、って気を張っていられる。だから、本当は大高くんとも、普通におしゃべりしたいよ。したい、…………けど。狸になったら、迷惑を掛けちゃうから」

「迷惑なんて事、……ないよ」

 そうっと、掌が伸びてくる。

 僕の頬に触れた親指が、血が上って火照っているであろう頬を撫でた。

「おうちでの絹太くん。びくびくしてないし、肩の力も抜けてて、いいなぁって思った。羨ましいなぁ、って。……もし、良ければ。二人の時だけでも、お互いに気が抜けるような関係になりたい」

 指は、余韻だけを残して離れる。

 二人の間を浮くその掌を、空中で掴み取った。

「じゃあ、最初は、……二人の時だけ。様子を見ながら、外ではどうするか決める、のでいい?」

「うん、いいよ。…………じゃないな、喜んで」

 今度は掴んでいたはずの僕の手が、大きな両手で包まれる。

 大高くんはにっと笑うと、僕の手を引いて歩き出した。

「絹太くん、俺の名前覚えてる?」

「…………壱矢くん」

 その振りが、何を意味しているかは鈍い僕でも分かる。

 街灯が照らす道を、光から光へと乗り継ぐ。暗い夜道の中で、手を引くひとりだけが鮮明に浮かび上がった。

 勇気を振り絞って、その名を呼ぶ。

「────壱矢くん。晩ご飯、何が食べたい?」

▽5

 案内されて辿り着いた壱矢くんの自宅は、そこそこの高層階まであるマンションだった。エントランスまでにもセキュリティがあり、更にそこからエレベーターを使って階を上がる。

 自宅のある階まで辿り着くと、隣の扉と距離があることにも気付く。大学生の一人暮らしには、過剰に見えるような設備だ。

 口には出さず、案内されるがまま、玄関の扉から中に入った。

「壱矢くんの部屋、広いね」

 外靴を揃えて上がらせてもらい、廊下を抜けた先にはキッチンがあった。一人暮らし用、というよりも、うちの自宅にあるような、家族の食事を作るのに十分な広さのキッチンだ。

 ファミリータイプの冷蔵庫に焼き肉の具材を仕舞いながら、壱矢くんが答える。

「元々は、家族で住んでたから」

 言葉が浮かんで、ぐっと堪えて、黙って眉根を寄せる。

 僕の表情の変化に気づいたらしい彼は、こちらを見て苦笑した。ゴトン、と飲み物のペットボトルが扉の裏側へと仕舞われる。

「うち。高校卒業後に親が離婚して、このマンションを置いて二人とも出て行っちゃったんだ」

「……………………」

 迂闊に、返事をすることは躊躇われた。

 特に、彼と違って円満な両親を持つ僕の言葉は、きっと容易く棘になる。

「高校に入ったくらいから、ずっとそういう話はしてたんだ。だけど、高校卒業までには何とかなるかな、なんて思ってたな。でも、何ともならない物はあるもんだね」

 ゴトン、ゴトン。ただ食材を置いているはずの音が、おもたく響く。

 指先の感覚が遠のき、唇は更に凍り付いた。

 ただ、突っ立っているだけの僕を、壱矢くんは憐れむように見る。彼の唇は、弧を描いたままだ。

「平気だよ。両親はもう、それぞれ相手がいるんだ。幸せに暮らしてるみたい。俺もこうやって自由にやらせてもらってるし」

 彼は冷蔵庫の下段を開け、屈み込んで中に食材を移していく。

 けれど、彼は幸せだ、とは言わないのだ。丸くなって、小さく見える背中に歩み寄り、その背中に縋り付く。

「また、泊まりに来るよ」

 一緒に過ごす度に、一つ、ひとつ、約束が増えていく。

 彼が約束を作ろうとするのは、別離を知っているからかもしれない。約束を増やして、それまで、を少しずつ引き延ばしていく。

 いずれ切れるかもしれない生地を、ほんの少しずつ、更に細い糸へ押し広げるのだ。

「いつでも来てよ。待ってる」

 ぽんぽん、と手が叩かれて、それを合図に身体を起こす。

 振り返った壱矢くんは、両手を広げて僕の身体を抱き竦めた。

「…………っ」

「ありがと!」

 吐き出すように言うと、彼は直ぐに手を放した。

 高い位置にある棚を開けると、中からホットプレートを両手で下ろす。テーブルに運んで、と指示されるがまま、魂が抜けたように機械を抱えて歩いた。

 抱きしめられた背が、じんじんと痺れている。

「絹太くんさ。野菜の切り方に拘りある?」

「ないよ!」

「じゃあ、適当に切るか」

 食事を作るのに慣れているのか、彼は手早く野菜の下拵えを始めた。

 僕はホットプレートを拭い、皿の用意を手伝う。こっそり覗き見た野菜を切り分ける手つきに危なげなものはなく、大学入学より前からの経験を窺わせた。

「はい野菜」

 大皿に載った野菜を渡され、両手でテーブルまで運んだ。

 ふと、隅っこに二つ重ねられていた椅子に気づく。椅子を一つ抱え、二つの席が向かい合うようにする。

 キッ、と椅子の接合面が擦れる音が、耳を叩いた。

「そしてお肉!」

 肉の載った皿は、彼が手ずから運んできた。

 茶碗にはご飯が盛られ、ペットボトルのお茶が添えられる。細々とした物を揃え終えて、僕たちは席についた。

「いただきまーす」

「いただきます」

 そう言い、脂を落としたプレートに、肉を一切れずつ置いていく。

 油が熱で溶け、じゅわ、と音を立てる。沈んでいた気分が、ぱちぱちと弾ける油の音に少しずつ押し上げられていく。

「美味しそう…………」

 スーパーへ行った時間が遅かったためか、見切れ品の肉が安く買えたのだ。

 プレートに一面並べた肉を食べ終えても、まだまだ肉がある。

 端の方に時間のかかる鶏肉と、野菜を並べた。二人でお肉を裏返していると、薄めの分はすぐに焼き色がつく。

「ほら絹太くん、今」

「あ、わ。いただきます!」

 肉をタレに付け、口に運ぶ。

 噛み締めると、じゅわ、とまだ熱い肉汁が口の中に溢れた。肉を飲み込んで、味が消えないうちにご飯を口に運ぶ。

「あ、美味」

 前方でもはふはふと壱矢くんが肉をがっついていた。

 茶碗に盛られたご飯は大盛りで、箸で上手に大量のご飯を掬っては口に放り込む。あまりにも気持ちの良い食べっぷりだった。

 負けじと肉を焼き、口へ放り込む。

「鶏肉まだかな……」

 僕が言うと、彼は口元に手の甲を当て、ふっと笑った。

「……もうちょっとだよ」

「鶏肉さ。薄いとすぐ焼けるけど、分厚い方が美味しいんだよね」

「分かる」

 ようやく焼けた鶏肉の肉汁に頬が綻ぶ。カリカリに焼けた皮を噛み締め、次の肉へトングの先を伸ばした。

 肉は買いすぎかと思っていたが、壱矢くんの食欲を甘く見ていた僕が肉の量を渋った所為か、最後には焼きおにぎりを焼く羽目になった。

 あち、と指先を浮かせつつ、焼きおにぎりを頬張る。

「どうだった? 焼肉」

「美味しかった! でも、壱矢くんの胃袋舐めてたかも」

「ごめん。なんか楽しくて箸が進んじゃった」

 戯れに軽い文句を言うが、この後のデザートまで考えると、適量と言えるかもしれない。

 壱矢くんはコーヒー……よりカフェオレがいいと言うとカフェオレを用意してくれ、買ってきたデザートを隣に並べた。

 スーパーの隣にあったケーキ屋で、僕はフルーツタルトを、彼はガトーショコラを選んだ。

 スプーンで救って口に運ぶと、甘いフルーツの果汁に顔が蕩ける。

「美味しい……」

「久しぶりかも。ちゃんとしたケーキ食べるの」

 しみじみと呟かれた言葉に、こくこくと頷いて同意する。

 近くに置いていたカフェオレを口に含むと、ケーキに合わせてか砂糖は入っていなかった。

 コーヒーと牛乳が混ざった、中間の色を見つめる。液体同士は混ざり合って、境目は無くなっている。

「あ、砂糖いる?」

「ううん。あの、…………今日、うちにご挨拶に来てくれた時。いやな気持ちじゃなかった?」

 目の前で、ガトーショコラを割る手が止まる。

 何故、と言いたげに瞬きを繰り返す表情に、僕の方が困惑してしまった。

「ごめんね。うちのお母さん、他意はなくて。いつも僕が他の家の親御さんにお世話になると、ちゃんと挨拶したがる人なんだ。だから、壱矢くんの親御さんのことを気にした時も、悪気はなかったと……」

「ああ。そういうこと? 全然。怒ったり、悲しくもなかったよ。……ちょっと、羨ましかったけど」

 僕は、カップの端に口をつけて啜る。

 貸し出されたカップは明らかにテーマパークの土産物で、新品……普段は使われていないものに見えた。

「俺が挨拶に行ったとき、ご両親、二人とも揃ってたでしょ。もし俺がさ、絹太くんを連れてくるよ、ってうちの両親に言ったって、きっと帰って待ってはくれなかったよ」

「…………それは、うちは二人とも、偶然のんびりした仕事だからだよ。お仕事が忙しいんだったら、余裕も無くなっちゃうんじゃないかな」

 うん、と頷いて、彼は自分のマグカップを口元に寄せた。

 彼が持つには幼く見えるキャラクターもののマグカップは、端の方のプリントが剥げている。サイズも大きくはなく、彼の掌に比べれば小さく見えた。

 彼だけが、家族の思い出を追っている。

「そうだよなぁ……。俺やっぱ、子どもだわ」

 はは、と苦笑する壱矢くんの表情は大人びているのに、声の震えは誤魔化せやしない。

 彼は近くのキャビネットから、一冊の雑誌を持ってくる。折り目がつけられた場所を開くと、写真コンテストの募集要項が載っていた。

「動物の写真……?」

「今日、俺さ。絹太くんにこのコンテストに協力してもらえないか、頼むつもりだったんだ」

「狸の僕を被写体にする、ってこと?」

「そう。昔から、こういうコンテストにちょくちょく応募してて」

 壱矢くんは雑誌を見下ろすと、ページに指先を添わせた。指に力が篭もり、くしゃり、と角がひしゃげる。

「小さい頃、まぐれで入賞したことがあったんだけど、その時、家族で揃って食事に行ったんだ。それから、賞を貰ろうと躍起になってる。ただ、褒めてもらいたいが為に」

 でもなあ、と彼は息を吐き出す。

 肩は丸まって、眉は不安げに下がっていた。

「無駄だよなぁ。……やっば」

 僕は彼の手元にあった雑誌を持ち上げる。壱矢くんが作った皺を、丁寧に指先で伸ばした。

「もし、入賞できたら、僕は嬉しいと思うよ。あと、僕の両親と、弟と、弟と、妹は喜ぶと思う」

「…………え。家族六人もいるの!?」

「え。反応するとこ、そこ?」

 僕と彼は、同時に吹き出した。

 差し出した雑誌は、両手で受け取られる。

「撮ってみようかな。入賞したら、絹太くんが褒めて」

「任せて。全力で褒めるよ」

 大きく割ったガトーショコラを、大きな口に入れる。

 あっという間に消えてしまった欠片を飲み込むと、彼はにかりと笑った。

▽6



 それから、僕は壱矢くんの家に呼ばれては写真を撮られるようになった。

 できれば屋外での写真を撮りたいようだが、場所のイメージが付かない、と狸の僕を室内で撫で回しては写真に収める。

 コンテストには使わない写真ばかりが積み上がっていくが、壱矢くん自身は気にしていないようだった。

「絹太くん。こう、ばんさーいってして」

『はぁい』

 言われるがまま、両手を挙げる。

 彼はカメラを下ろし、僕の前脚を摘まんだ。ぷにぷにと肉球を押す。

「丸っこくて可愛い」

『梅の花に似てる、って言われることがあるよ』

「似てるかも。あー、梅の季節に撮りたかったなぁ……」

『僕、木登り下手だよ』

 そっかぁ、と彼は呟き、室内狸のつやつやの肉球を撫でたくる。

 写真を撮るのが目的なのか、毛を撫でるのが目的なのか。最近はどちらか分からないところがある。

 僕が家に来るようになったのをいい事に、撫でて撫でて、ちょっと撮り、を繰り返す。最近の僕はシャッター音に慣れ、モデルの仕事も少しずつこなしている。

「気持ちいい……」

 ただ、困るのが壱矢くんのこれである。

 整った顔立ちで頬擦りし、毛で覆われているのをいい事に、際どいところも触るのだ。ひどい時には彼の指を甘噛みして離れるのだが、箍が外れてしまったのか、人に戻ってもべたべたするようになった。

 距離が近すぎる。僕以外にこんな事をしたら、好意を持たれていると誤解されても可笑しくない。

『────壱矢くん、お腹すいた』

「人に戻る?」

『戻るよ』

 彼は諦めたように僕を放し、脱衣所までの扉を全部開けてくれた。飛びついてよじ登れば開けられない事はないのだが、人様のおうちに爪で傷を付けるのは頂けない。

 脱衣所で服を着て戻ると、壱矢くんはピザのチラシを持っていた。

「なに頼む?」

「んー。……照り焼きチキン」

「じゃあ、俺は焼き肉カルビ」

 片方はマルゲリータに、と譲り合う事もなく、お互いに好きなものを頼んだ。街中のマンションだからか、配達は直ぐだ。

 提供してもらったコーラをガラスのコップに注ぎ、無駄に乾杯をする。二人ともがつがつとピザを頬張り、数切れずつ交換をして味変を楽しむ。

「絹太くん。デザート、お腹に入る?」

「無理、かも」

 そう呟くと、彼はピザとデザートの箱を冷蔵庫に仕舞いに行った。食べられないのは僕だけなんだろうが、彼も付き合ってくれるらしい。

 飲み物を貰って、リビングのソファに移動する。僕がソファに身体を預けると、隣から雑誌を持った壱矢くんが寄り掛かってくる。

 ばくん、と心臓が跳ねた。果たして、この距離感は友人に相応しいそれ、なんだろうか。

「絹太くんの一族ってさ。狸、っていう割には一緒にピザとか食べるし、人と変わらないように見えるんだけど。魔法みたいなの使えたりする?」

「うぅん……。一族で固まって住んでる地域の狸とか、古くからの血筋の狸なら化かしたり、化けたりって上手なんだけど。僕の家は都会に住んでて、教わる機会がなかったかな」

「化けるのが上手い人、いるんだ」

「うん。ちゃんと教われば、人間体の姿だって女性とか、子どもとかになれたりするよ」

「え。そこまで?」

 僕は近くの紙を手に取ると、折って葉っぱの形を作る。

 それを手のひらの上に載せ、力を込めると一輪の梅花へと変わった。

「これ、事務所の瓜生さんに教えてもらったんだ」

「狐の人か。……へえ、つやつやしてて、本当に花みたい」

 彼が花弁を撫でると、花は瞬く間に輪郭を溶かし、元の折った葉に戻ってしまった。

 壱矢くんは唇に指先を当て、何か考え込むような様子を見せる。そして、近くにあった携帯電話を引き寄せる。

「もう一回、やってくれる?」

「いいよ。今、お腹いっぱいで力あるから」

 もう一度、今度は桜の枝へと変える。その瞬間、シャッター音が響いた。

 彼は、携帯電話の画面をまじまじと見つめる。

「撮れた……!」

「最近の怪異って、写真に写るもんね」

「そういうもの?」

「輪郭のない魂の形を定めるのは、見ている人間側だよ」

 壱矢くんは桜の写った画面を見下ろし、何事か思いついたように顔を上げた。

 携帯電話を操作し、何事かメッセージを綴っている。

「狸と梅の花、撮ろう!」

「でも、季節じゃないって…………。あ」

「瓜生さんに連絡して、梅、咲かせてもらう!」

 メッセージはすぐに返ってきたようで、ピコン、と彼の携帯電話が軽快な着信音を響かせる。

 返事に目を通した壱矢くんは、眉根を寄せた。

「一から梅の花を咲かせるのは力を使うから、梅の木が必要、……かぁ」

 力の触媒という意味と、使う力の軽減、の意図で、梅の木が必要らしい。

 彼は梅の木を用意する方法を必死に考えているようで、その様子が気の毒になって肩を叩いた。

「狸の家には、よく梅が植えられてるよ。みんな好きなんだ。肉球と同じ形だから」

「…………え? ……あ」

「撮影に協力してもらえないか、お父さんとお母さんに聞いてみる」

 連絡を取ると、快く梅の木を撮らせてくれるという。

 家の壁は高く、梅の木がある側には木が集まっていて人目に付くこともない。参加者の予定を擦り合わせると、数週間後の予定が決まった。

 コンテストの期限には、余裕のある日程だ。

「絹太くん、ありがとう!」

 彼は両手を広げると、隣に座っていた僕を抱き込んだ。

 そのまま体重を掛けられ、広いソファに倒れ込む。ぎゅうぎゅうと抱き締め、髪を撫でる様子は嬉しげで、僕まで気分が上がってしまう。

 そうっと大きな背に、手を伸ばした。ほんの少しの力を込めて抱き返す。

「いい写真にしよ……!」

「うん!」

 彼と触れ合うのは、心地がいい。友達はこんな触れ合いをするのか、とさえ思わなければ、もっと、もっと、と望んでいたかもしれない。

 沈んでいたソファから起き上がると、部屋の隅に飾られている家族写真が目に入った。

 狸の一族が使える、魔法みたいなもの、にはもう一つ心当たりがある。

 僕たちは、雌雄で生殖をしない。一族の中で数が増えることが必要になれば、指名された狸が魂を分けて、新しい狸が生まれる。

 ただ、生まれたままの純粋な魂は、殖えるのに適した魂とはいわれない。純粋な魂に、別の魂の色を付けた魂が、殖える時には選ばれる。

 僕たちは、肉体で生殖をしないのに生殖行為をする。持って生まれた魂に、別の色を付けてもらうために、そうする。

「………………」

 僕は、彼と番になれる。一族から指名を受ければ、彼の色で染めた新しい魂を生むこともできる。

 けれど、人は魂を分けたりしない。だから、彼はきっと、僕とは友達だと思っているはずだ。

 ずきりと胸が痛んで、喉の奥がざわざわと騒いだ。

 告げたとして僕たちの関係は、変わらないか、悪くなるかのどちらかだ。口をついて出ようとする言葉を封じ込んで、僕は表情を作った。

▽7

 いちど意識をすると、あとは坂道を転がり落ちるようだった。彼を目で追う眼差しに、違った熱を帯びる。

 彼は、僕を番と思う余地はあるんだろうか。部屋で一人の彼が、二人になったら寂しさは無くなるだろうか。

 思考を巡らせては、可能性のない夢ばかりをみる。

「おはよ。今日は撮影?」

 訪れていた動物プロダクションで、声と共に、背に手が当たる。

 ぶん、と勢いよく振り返ると、驚くような丸い目があった。反応が過剰だった、と慌てて表情を作る。

「違います、…………っと、間違えた」

 長年使っていた外での敬語は、偶に口をついて出る。口元を押さえ、内向きの思考へと切り替える。

「違うよ。事務書類の提出。あと、僕の宣材写真、所属するときに急いで撮ったものだから、正式な写真を撮りたい、って話をしてた」

「それ、俺が撮りたいって話してたやつ」

「聞いた聞いた。撮ってきた写真でいいやつがあったら、使ってもいいよ。だって」

 とはいえ、あまり長く引っ張るなら事務所の方で撮るよ、だそうだ。提示された期限を告げると、壱矢くんは、セーフ、とジェスチャーで示した。

「梅の花と写真を撮るやつ、宣材にしてもらおうと思ってさ」

「あれ? コンテストは?」

「そのつもりだったんだけどさ。梅の花もだし、絹太くんにも手伝ってもらって撮った写真って、ほら、不思議能力な訳じゃん? ほかの写真家には、きっと出来ない」

「そう、…………だね」

 もしかしたら、僕たちみたいな存在に協力を仰いでいる写真家がいるかもしれないが、大多数は野生の動物たちの、偶然の一枚を写真に収めているだろう。

「なんか、コンテスト、って競技の場に提出する一枚としては、フェアじゃないかな、って。だから、宣材とか、プロダクションのSNSに使ってもらうことにしたんだ」

「いいの? …………だって」

 コンテストへの参加は、彼の気持ちの昇華のためにやろうとしていた筈だ。

 それに、もし受賞者として名前が知られれば、壱矢くんの両親へ届くかもしれない。

「いいよ。元々、俺はさ。好きな画を、写真に残すことが好きだっただけだから」

 目的が歪んでいたんだ、そう言う表情は、憑きものが落ちたようだ。

 僕が知らないうちに、彼は何かを噛み砕いて、飲み下してしまっていた。大きな掌が、僕の頭をぽんぽんと撫でる。

「最近、写真を撮るのが本当に楽しいんだ。特に、絹太くんを撮るときが一番」

 細められた瞳は優しげで、きっと、その感情は友愛ゆえだ。

 胸に覚えのあるざわざわが去来して、掻き乱される。

「コンテストとは別だけど。良かったら、また写真撮らせて」

「い、いいよ? 僕で、よければ」

「ん。被写体は絹太くんがいいな」

 いつも通りに腕の中に入れられ、頭を撫でくり回されていると、背後から別の足音がする。

 その人物は僕たちの姿を見ると、目を瞠る。

「大高に用があったんだが……、仲良しだな」

 龍屋さんから向けられる視線が気になり、僕から離れた。

「邪魔するなよー。何?」

「倉庫で荷物運びの時間だ」

 壱矢くんは時計を確認すると、あ、と口を丸く開ける。

「悪い。行く行く。……絹太くん、じゃあまた」

「うん、またね」

 方向を変え、大股で歩いていく龍屋さんの背を、壱矢くんが追いかけていった。つい、ぼうっとその様子を見送ってしまう。

 僕の予定は終わっており、もう帰るだけだ。顔を振り、出入り口付近に歩いて行こうとしたところで、視界の端、足下にハンカチが落ちているのに気づいた。

「これ、壱矢くんのだ」

 狸の刺繍が入った特徴的な柄は、彼が僕に可愛いから買った、とわざわざ報告してから使い始めたものだった。

 ハンカチを拾い上げ、二人が歩き去った方向へと向かう。だが、見える範囲に二人の姿はない。

「倉庫、って言ってたっけ」

 事務所内にはいくつか倉庫があり、僕はまだ建物内の位置関係に弱い。うろうろと倉庫らしき扉の前まで行き、中からの音を聞く事を繰り返した。

 一つの扉の前まで行くと、特徴的な低い声がする。扉に近づいて、耳を押し当てた。

「────いつの間に、立貫と仲良くなったんだ?」

 突然の自分の話題に、出ていくタイミングを失う。

「意外?」

 僕といる時には出さない、落ち着いた声音に目を丸くする。

 すぐに声をかけようとした気持ちも萎んだ。

「意外に思ってるのは、立貫のほうだ。大高のようなタイプには、もうちょっと警戒心を抱くかと思った」

「はは、ひどいなー。……絹太くんは、うちの家庭環境のこと知ってるから、気にしてくれてるだけだよ」

 二人の間の音が、少しの間、止んだ。

 そっと扉から耳を離し、踵を引く。

「あんまり、立貫に寄り掛かりすぎるなよ。最近、目が怖い」

「あはは。絹太くんも、彼のご家族も眩しいんだもん。……別に、憎たらしいとかの感情はないよ。ああいう家庭が欲しいなぁって欲と、築けるのかなぁ、っていう不安はあるけど」

 乾いた笑い声が響く。龍屋は、つられて笑ったりはしない。

「家庭、なぁ…………。なあ、お前。まさか、────?」

 呟くように言った言葉の一部は、扉から耳を離した所為か、よく聞き取れなかった。

 床を滑らせるように、扉からじりじりと遠ざかる。

「────そりゃあ狙うでしょ。俺、あの子のこと、大好きだもん」

 どうやってその場を離れたのかは、よく覚えていない。

 ただ冷や汗を流しながら、靴底を床から上げないよう努めたような気がする。

 僕はぼうっと頭を曇らせたまま事務室に立ち寄ると、大高さんが落としたようだ、という言葉と共にハンカチを預ける。

 自分で渡せばいいだけのハンカチを、渡すだけの僅かな会話さえしたくなかった。事務所の建物を出て、ようやく詰めていた息を吐き出す。

「家族、かぁ…………」

 あの子、と呼んだ時の、纏わり付くような、甘ったるい声音が浮かび上がってくる。僕に対しては、聞くことのない声だった。

 彼は、僕たちの一族の特殊な殖え方を知らない。僕との間に、親と子の形態である家族が作れるとは思っていない。

 僕は端から、対象外だ。

「……変だな。もっと、取り乱すかと思ってた」

 いつかは壱矢くんに恋人ができるのだろうし、そうしたら、僕との時間は自然と減っていくのだろう。

 友達が出来たことは素敵な事だと思っていたのに、恋人を前にすれば、友達に引き留める術はないのだった。

▽8

 立ち聞きしていた事は、彼らには知られずに済んだようだ。

 僕は何事もなかったかのように大学で過ごし、ただ、コンテストの事は片付いた、と、家の手伝いを理由に相手の家に行かなくなった。

 家族は僕の落ち込みようにあっさり気づき、父母に至っては壱矢くんが原因であることにも察しているようだ。

 さり気なく自身の失恋話を聞かせてくれようとするあたり、家での僕の態度は露骨すぎたらしい。

「おはよう」

「壱矢くん、おはよう」

 だが、僕よりも変化があったのは壱矢くんの方だった。

 彼の話を立ち聞きした後から、次第に気落ちするような様子を見るようになった。元気がないことを心配すると、じゃあ家に来て慰めてよ、と茶化す。

 両親のことは教えてくれても、彼にとっての『あの子』のことは僕には教えてくれないらしい。

 今日も、僕と落ち合った後、廊下を歩く間は口数少なかった。会話の間が長くなっても気まずくなったりはしない仲だが、無言と共に湿っぽい空気が滲み出ている。

「………………」

 しっかり問い掛けるべきか、踏み込むべきか迷って、僕は口を閉じた。朝からの講義は別で、部屋の前で別れる。

 僕が離れた途端、一人の女性が壱矢くんに駆け寄っていく。

 挨拶と、何事か会話をしながら二人は遠ざかっていった。華やかな服と、巻いた髪が目の奥に焼き付く。

 何故か、彼は僕の方を振り返ったように見えた。視線を逸らして、室内に入る。

 講義室では前方の席に座って、ノートを開いた。まだ講義までには時間があり、携帯電話を開く。

 花苗さんからメッセージが届いていた。

『おはよう。さっき会って話して気になったんだけど。最近なんだか大高くん元気ないよね。でも成海に相談したら、放っておけ、って言われた。立貫くんから見てどう?』

 可愛らしい文面は、猫の絵文字付きだった。

 成海、は確か龍屋さんの下の名前のはずで、恋人同士の彼らは名前で呼び合っている。

 今日、僕と壱矢くんが会う前に、どうやら花苗さんと会っていたらしい。それで、あの様子を見て気になったようだ。

『僕も気になってはいるんですが、あんまり事情は聞けてなくて』

『やっぱり元気ないよねー……。今度、甘いもの奢っておくね』

『ありがとうございます。僕も機会ができたら、話を聞いてみます』

 返信をして、ふう、と息を吐く。

 話を聞ければ壱矢くんの心配事は解消するかもしれないが、僕は取り乱さずに聞ける自信がなかった。

 午前中の講義を受け終わり、届いていた昼食の相談をするメッセージへ返信する。

『そういえば。今日、パン屋さん来るんだって』

『俺もパン食べたい』

 気落ちしているらしい壱矢くんだが、昼食を一緒に、という恒例を崩そうとはしない。今日は外のベンチで食べよう、と誘われた。

「お待たせ」

 待ち合わせ場所で落ち合い、大学前に出店している移動パン屋の車両に近づく。彼はホットドッグとカレーパン、僕は照り焼きサンドと、ジャムパンを買った。

 蛇の出ないベンチの方へと行き、近くの自販機の前に立つ。彼が小銭を出す前に、僕が財布からお金を入れる。

「奢るよ。何がいい?」

 不自然に聞こえないよう、慎重に声を作ったつもりだった。

「え。俺、何かしたっけ?」

 尋ねられても、化かすのが苦手な狸は言い訳を思いつけない。

「…………元気ないから。甘いものでもどうかなって」

 彼は虚を衝かれたように、すこし黙る。

「そっか。じゃあ、ココアにしよ」

 ボタンが押され、ココアの缶が出てきた。

 僕も同じボタンを押す。二つ続けて、同じパッケージの缶が出てくる。

「絹太くんも、元気ない?」

「そう、……だね」

 力なく笑って、二本のうち片方を渡す。

 ベンチに歩み寄り、腰掛けた。二人の間には、どっしりとパンの袋が置かれる。

 見上げた空は曇りだ。気温はちょうどいいが、空模様を見て気分がいい、とは言いがたい。

「元気が、ないのはさ」

 彼の手元で、プルタブが引かれる。カシ、と言う音が小さく揺蕩う。

「俺……、絹太くんに、何かしたんじゃないか、と思ってる。自分で、原因に気づきたくて、ずっと考えてたんだけど。分からなくて」

 低い声が、引き攣ったように掠れる。

 缶が口元に運ばれ、ぐい、と大部分が喉に消えた。

「だから、もう話してしまおうと思った。謝って許されるんなら。元に戻れるんなら、そうしたいし」

 言葉に迷って、プルタブに指を引っかける。

 爪が上手く入り込めなくて、指の腹が痛むだけだった。時間稼ぎを諦めて、口を開く。

「なんで、僕に何かした、って思ったの?」

「触ろうとする時、びくついてるように見えた。それに、家にも来なくなったしさ」

 怪しまれる、と避けないよう努めていたのだが、妙に力が入ってしまっていたらしい。

 彼の指が、僕の缶をこつこつと叩き、掌が開かれた。その手に缶を預けると、プルタブは簡単に引かれる。

 口が開いた缶を渡され、礼と共に中身を飲んだ。

「壱矢くんが悪いわけじゃない。僕、一族の事で、伝えてなかったことがあったんだ」

「…………うん」

 目の前から吹いてくる風で、目が痛む。口の中はやけに甘ったるくて、胸焼けがしそうだ。

 気持ちを打ち明けるのには、あまりにも悪いコンディションだった。

「僕の親は、お父さんとお母さんだけど。番になるのに。子どもを作るのに。僕たちは身体じゃなく、魂を使うんだ」

 隣から、聞こえてくる声はない。

 無音が促されているように感じて、話を続ける。

「片方が、一族じゃなくてもいい。一族の人間が持ってる魂の色を、番の色で塗ってもらう。そうして変化した魂は、一族の中から選ばれた時に分かつことができる。分かたれた魂は、新しい狸になる」

 やけに甘く、喉が渇く。

 ココアは失敗だったな、と苦笑しながら、缶を脇に置いた。

「僕たちの恋愛対象だって、一族でも、一族じゃなくても。雌雄も、何でもいいんだ。この魂はどんな色でも受け入れるから」

 胸に手を添え、言い終えると、落としていた視線を怖々と持ち上げる。

 視線を合わせると、彼は僅かに目を瞠っていた。

「僕のこと、お友達だと思ってくれる、……のは、嬉しいけど。最近、僕、…………壱矢くん、を。変な目で、見ちゃうようになってて。だから、泊まるのは避けようと……」

「ちょ、っと。待って……」

 彼は、慌てて口元に手を当てる。

 けれど、半分だけ隠せていない頬の下は、一気に朱へ染まっていった。反応の奇妙さに、僕の方も目を瞬かせる。

「…………ごめん、知ってる」

「え」

「プロダクションを紹介してくれた親戚が、あんまり一族の人間に不用意に触れるな、って。そのこと、教えてくれてた」

 知っていながら、あれだけ好んで撫でくり回したとは思わなかった。結果的には僕がただ、自分の気持ちを吐露してしまった格好だ。

 掌が伸びてくる。彼の手は、僕の手を取った。

「だから……。絹太くんに触ってたら、少しでもその、色? が混ざるかなって」

「え…………?」

「よく家に呼んだりしたのは、それが理由」

 増える瞬きの間に、必死で思考する。

 前提が崩れ去った中で、僕は考えをまとめきれない。言葉を失って、ただ固まっていた。

「変な目って。恋愛対象として見てくれてたってこと?」

「…………うん。そう、だよ」

 繋いだ手を、きゅっと握り返す。

 二人して見つめ合う様は、間抜けにすら見える。おそらく、僕たちは訳がわからないうちに、完全に擦れ違っていたらしい。

 壱矢くんの視線はふらついて、目尻もまだ染まったままだ。

「────すごく、嬉しい」

 ぽつんと呟いて、彼はまた黙った。僕もまた、胸も頭もいっぱいで、言葉を選べずにいる。

 繋いだ手の腹を、相手の指が撫でた。

「たくさん、触りたい。……けど、ここは人が来るからさ」

 そっと顔が近づいて、耳元に唇を寄せられる。

 ぽそり、と低い声が囁いた。

「…………午後の授業のあと、俺の家に来ない?」

 気温は心地いいくらいなのに、次から次へと熱が上がってくる。

 ただ顔を真っ赤にして、頷くのが精一杯だった。

▽9(完)

 服を取りに家に帰ろうとすると、久しぶりに壱矢くんも付いてくる。自宅には父母が揃っており、彼は僕が荷物をまとめている間、縁側で両親とお煎餅を囓っていた。

 別れ際に、また父からお菓子を渡される。

「何泊するんだっけ? 足りなかったら、取りにおいで」

「え、何泊だろ」

「あんまり、長くならないようにします」

 僕が壱矢くんへ丸投げすると、苦笑しながらそう言う。

「うちへの泊まりも待ってるわね。狭いし騒がしいけど」

 母が指さした方には、階段の上からこちらを見下ろす兄弟たちの姿があった。壱矢くんが手を振ると、三つの手が盛んに手を振り返される。

「じゃあ、長々とお邪魔しました」

「いってきます」

「「いってらっしゃい」」

 家の敷地を出て道を歩き始めると、壱矢くんは困ったように頬を掻く。

 長い息が、その唇から吐き出された。

「もしかして絹太くんのお父さんとお母さん、俺たちの仲、察してたりする?」

「……分からないけど。僕が壱矢くんの事で悩んでた時、ずっと自分たちの馴れ初め話してたよ」

「あー……。それは、気づかれてたかぁ」

 彼は情けない声を漏らし、肩を丸める。僕が背中を叩くと、ぐい、と寄り掛かられた。

 周囲はもう暗く、人通りも少ない。僕たちを見ている人は誰もいなかった。

「何の話してたの?」

「引っ込み思案だけど、兄弟の面倒をよく見てくれる優しい子だよ。……とか、自分から悩み事を話そうとしないから聞き出してあげてね、とか」

「悩み事については、確かにそうかもなぁ」

「それでさ。急に一族が魂で殖える話をし始めて、知ってます、って話したら。狸は番を変えない種だから、大事にしてあげてね、って」

「あぁ……」

 やっぱり察してたんだなぁ、と僕が遠い目をすると、隣から手が繋がれる。

「こうやって手を繋いでたら、混ざるんだっけ」

「……あ。そういえば、壱矢くん。殖え方は聞いたとおりだけど、魂の色の混ぜ方、間違ってるよ」

「え」

「別に、手を繋いだくらいじゃ、魂の色が染まるほど影響しないから」

「じゃ、じゃあ。染めるのには、どうしたら……?」

 立ち止まり、視線を合わせる。

 前提が覆されて戸惑っているところ悪いが、僕も説明するのには気が引ける内容だ。

 彼が僕の両親から詳細に聞かずに済んで良かったが、自分で説明するのは、それはそれで恥ずかしいものがある。

「あの、えっと。ベッド、で…………」

 もごもごと口籠もると、彼は何かを察したようだった。

 目を丸くして、僕の手が痛いほど握られる。

「絹太くん」

「…………なに?」

「魂が染まるようなこと、したい」

 歩み寄られ、手を繋いだまま肩が触れる。

 周囲の温度は下がって、触れた部分だけが熱を持っていた。

「僕、上手くできないと思うんだけど……。いい?」

「俺はもっと上手くできないと思う」

 ふふ、と、どちらからともなく照れ笑いをする。

 肩が離れると、彼は少しずつ歩き出した。手を引かれて、僕も足を動かす。

「途中、店に寄っていい?」

「どこ?」

「ドラッグストア」

 そういう事をするのだ、と返事に生々しいものを感じ、僅かに視線が下がる。

 頬の熱は、引く余地もない。

「でも、あの」

「何?」

「ゴム、ないほう…………が、染まる、よ?」

 壱矢くんは電柱にぶつかりかけ、すんでの所で避ける。見上げた耳は、先まで真っ赤になっていた。

「ローション、とかは。無いと、怪我するから……!」

「そっか」

 妙に口数が少なくなってしまった彼に、申し訳なくなりながら手を引かれる。

 しばらく歩くと、店の建ち並ぶ通りに出た。手を放すかと思いきや、特に変わらずに並んで歩く。

 流石にドラッグストアの前では、僕だけ店の前で待った。買い物を提げた壱矢くんが戻ってくる。

「飯、唐揚げでいいなら買い出しいらないけど、どうする?」

「好き」

 ほんの数秒の相談で夕食は決定した。彼のマンションまで歩き、家に入る。

 玄関で靴を脱いでいると、横から狸のマスコット付きの鍵が差し出された。受け取って眺めていると、壱矢くんは気恥ずかしそうにしている。

「それ、うちの合鍵だから」

「えっ。でも、付き合ったばっかり、だし……」

「俺のこと捨てるつもりなの?」

 わっと泣き真似をする壱矢くんに、慌てて手を振る。

「捨てないよ! ……じゃあ、貰うね」

「うん」

 けろりと機嫌を元に戻すと、彼は廊下を通ってキッチンに向かった。狸なのに騙された気がする。僕は諦めて、合鍵を鞄に仕舞う。

 彼はてきぱきと材料を出すと、下拵えをして揚げはじめる。手伝いを申し出たが、油を使っているから危ない、と断られた。

 待っている間、遠くから油の跳ねる音がして、お腹がきゅうきゅうと反応した。

「麦茶とコーラあるけど」

「え。コーラ」

「いいよなー。コーラ」

 小さなペットボトルを出し、二人で中身を分け合う。自宅の味ではない唐揚げは、新鮮で美味しかった。

 セックスしよう、と約束していた空気も、夢だったのかと考えてしまいそうになる。

「絹太くん。お腹が落ち着いたら、お風呂どうぞ」

 僕が食後にリビングのソファに身を埋めていると、そう声を掛けられる。いつの間にかいなくなっていたと思ったら、お風呂の用意をしていたようだ。

 今日はないのかな、だとか思いつつ、のんびりしていた僕とは違い、彼は着々と下拵えをこなしていく。揚げられる前の鶏肉にでもなった気分だ。

「入る……」

 脱衣所に入り、服を脱ぐと、湯船をたっぷりのお湯が満たしていた。

 身体を流し、全身に泡を纏わせる。普段は気にしないような場所まで丁寧に塗り広げ、お湯で流した。

 全身を洗い終えると、ようやく落ち着いて湯船に浸かる。普段ならのんびりとしている所だが、待たせている相手が気になる。

 長風呂にならない程度に入浴を切り上げ、パジャマを身に纏った。

「もういいの?」

「いい」

 髪を乾かして出ると、食事の後片付けをしていたらしい壱矢くんは、すれ違い様にアイスの袋を渡してくれる。

 有難く受け取り、またソファに腰掛けた。アイスの袋を破り、チューブ状の口を開けて中身を吸う。

 のんびりするような気持ちにはなれず、ソファの背に身体が付いたり、付かなかったりを繰り返した。

「アイス、美味しかった?」

「美味しかった」

 パジャマ姿の壱矢くんは、普段は縛っている髪を下ろしている。パジャマの釦も一番上は開いており、胸筋が覗いていた。

 風呂上がりで体温が上がったらしい皮膚の色と、服の崩れ方にどぎまぎしてしまう。

「寝室、誘っていい?」

「ん」

 こくん、と頷いて、差し伸べられた手を取った。

 立ち上がると、腰に手が回る。傾いできた頭が近づいて、唇が軽く触れた。

「好きだよ。絹太くんは、一生懸命、俺と歩こうとしてくれる。ずっと、寄り添ってくれる」

「僕も、…………その、好き、です。壱矢くんが、家族の話したとき、妬いちゃうくらい。好き」

「妬く?」

「僕以外のひとと、家族を作るの、やだなぁ、……って」

 こつん、と額を合わせると、彼はうれしそうに笑った。

 二人で身体を触れ合わせながら、寝室に向かう。いつも泊まる時はベッドの端と端で寝ていたが、今日は距離が近い。

 ベッドに腰掛けると、彼も隣に座った。

「絹太くん」

 広げられた腕の中に飛び込むと、ぎゅう、と抱き竦められる。

 力を込めても、彼を背後に倒せない程にはしっかりした身体だった。

「抱きしめてみると。絹太くん、可憐だなぁ」

「か、可憐……!?」

 狸の姿も、人の姿も知っているはずで、僕に対しての評価としては程遠い言葉だった。

「でも。た、狸だよ……?」

「口も手もちっちゃいし。肉球は丸っこい梅の花でしょ。人の絹太くんも、何でも受けとめてくれるし、抱き締めやすくていいなぁ……」

 頬ずりをし、満面の笑みで腰を抱く。

 普段のスキンシップの延長のような行為の中に、身体を撫でる動きが混じる。友人ではなく、恋人として触れられている。

「ちゅう、しよ」

「…………うん」

 そろそろと目を閉じると、ゆっくりと唇が触れる。

 押しつけられた唇の隙間から、舌が僕を舐めた。戸惑っていると、顎に手を当てられ、唇を開かされた。

 僅かに開いた歯の間から、知らない感触が滑り込んでくる。

「んん……!」

 入り込んできた舌は、縮こまっていた舌裏を持ち上げ、擽った。

 そろりと触れると、一気に絡め取られる。

「…………ン。ふ……ぁ、っ……!」

 唾液が混ざっていくごとに、酔うような感覚が強くなる。

 貪られるように呼吸を奪われ、ちゅくちゅくと吸い付かれる。控えめに舌先で応じると、嬉しげに絡み付く。

 放っておけばいつまでも触れ続けているであろう相手を、やっとの思いで引き離した。

「もっとしたい……」

 ぺろりと唇を舐める壱矢くんは、何度しても吸い付いてきそうだ。

「他のこと、しなくていいの……?」

 下から彼の顔を見上げると、その視線は僕の胸元を這う。

 黒目が動く。視られている、のだと分かった。

「……したい、です」

「ふふ。じゃあ、服。…………えと、脱ぐ?」

「い、あ。……いや、俺が」

 顔が傾ぎ、首筋に唇が吸い付く。

 彼は服の胸元に指を引っ掛けると、楽しそうにボタンを外した。日差しに当たることの少ない白い肌が、次々と露わになる。

「すけべ」

「あ、イイ。もっと言って」

「…………えぇ……」

「だって。絹太くん育ちが優しいから、いつもは俺のこと罵ったりしないじゃん」

 軽い言葉も、強ばっていた身体を解すためなんだろうか。気づかないうちに、パジャマのボタンは全て外されていた。

 指が布を捲り、胸へ触れる。

「あっ……」

 皮膚の上を滑ると、指は柔らかい胸の肉を挟んだ。

 感触を楽しむように肉に指を埋め、最終的には突起を摘まむ。

「……ん、ぁ……や、っァ…………」

 指先で転がされるたび、じんじんと痺れるようなものが湧き上がってくる。

 無意識に身体を引こうとしたが、気づいた捕食者に唇を塞がれた。まだ幼い快楽を引き出し、漏れる声を舌先で奪い取る。

「ん……、んん…………!」

 相手の肩に手を当てても、押し退けることはできない。胸の先端は指先に弄ばれ、色と形を変えていた。

 突然、唇が放れる。

「…………っ! や」

 服の前が横に開かれ、腰が持ち上げられる。露わになった突起に唇がしゃぶりついた。

 相手の唇は周辺の肉ごと食み、中心を吸い上げる。

「ァ、…………ん、あ」

 舌先の柔らかい部分が、下からねっとりと粘膜を舐め上げた。

 そして唇を窄め、芯を立たせる。人に与えられなければ知らなかった快楽は、弱火で炙られているかのようだ。

 唇を閉じ、太股を擦り合わせる。

「ふぁ、……あ、ンや、ァ」

 軽く歯が当てられると、背筋に波が走った。

 片方が反応して持ち上がったかと思えば、もう片方も舐めしゃぶられる。彼の金髪に指を埋めると、さり、と指先を撫でて過ぎた。

「も、……い。ァ、ッ…………!」

 次第に焦らされているように感じ、頭を引き剥がす。

 壱矢くんはつまらなさそうに顔を上げると、唇を舐めた。白い歯が覗く。

「普段は絹太くんの胸なんて触れないのに……」

「触っただけじゃなかったよね!?」

 戯けて首を傾げてみせる様子に、おでこを指で弾く。

 大学生の一人暮らしには、過剰に見えるような設備だ。痛くもなく、効く訳もないそれも、また戯れだ。

 彼の手が、胸から腹へと伝い下りる。

「気持ちいいお腹」

「お肉つままないで」

「摘まめるほどないって、けど柔らかい」

 腰の感触を楽しむ手は、次第にいやらしさを増していく。

 丁寧に腰骨を撫でられると、ぞわぞわしてしまった。

「パンツ履いてる?」

「履いてる……けど」

 僕の返事に目がきらめいた、ような気がした。

 パジャマの下に両手が掛かり、脚から引き抜く。つい腰を浮かせて助けてしまったが、脱ぎ捨てられた後を見て後悔する。

「なんで、パ、パンツ。見……!」

「見たかったから。泊まりに来ても服のガード堅かったし」

「もう……!」

 手のひらで股の間を隠そうとしたが、相手の腕で持ち上げられる。

 履いているのは、何の変哲もないボクサータイプのパンツだ。しげしげと見下ろされるようなものではない。

「もう、いいでしょ……! 脱がせて、ょ……」

 僕の声は、最後の言葉を言っているうちに萎んでいく。

 自分から、脱がせて、などと言ってしまった。かあ、と頬が一気に染まる。

「分かった。脱がせるね」

「そういう時だけ物分かりがいいの、なんなの……?」

 うきうきと壱矢くんの両手が下着に掛かり、そのまま引き下ろした。

 中から出てきたものに、彼は目を丸くする。

「あの」

「言いたいことは分かるけど……」

「修学旅行とかどうしたの?」

「そっち!? 大浴場を使わなかったよ」

「良かった……。でさ、この肌の滑らかさ。生えてない、ん、だよね?」

 視線を逸らして、こくん、と頷いた。

 他の毛も薄いのだが、股間のこの部分の毛は何故か生えなかった。おそらく人間の形を形成する際に、なにか間違っているのだろうが、思春期を超えてしまうと正しようもない。

 あるはずの茂みに隠されることなく、僕の半身は視線に縮こまっていた。

「ずっと、生えない、から。これからも、ずっと……」

「ごめん。絹太くんにとっては悩みの種なんだろうって分かってて言うけど、ぐっと来た」

「まあ。悩みはあったけど、今は気にしてないし……ぐっと来てくれて、良かったかな」

 正直なところ、嫌がられない、という反応にはほっとした。ただ、妙に盛り上がってしまったようで、目の奥に燃え上がる何かが見える。

 彼の指が伸び、恥丘へと触れる。つるりとした皮膚と同じ感触を楽しむと、露わになったままの芯へ絡みついた。

「……ん、ふ……、ぁ、あっ」

 大きくて、自分とは違う造りの指が、半身を擦り上げる。

 知っているはずの快楽を、知らない感触で、触り方をされる。

 長い指はやがて、胴へと巻き付いた。悦ぶ膨らみに長い指で首輪が掛けられ、揺れる鈴口からは滴が零れる。

「……んん、ゃ、あ、……く、んッ……!」

 彼の腕に縋り付くが、そうしても触れている指は止まらない。

 裏筋を撫で、性急な快楽を与えては、引き汐とばかりに手を緩める。

 噴き上げる感覚を得てしまいそうになった時、ぱっと指が放れた。

「……ッ、意地悪だ」

「はいはい。意地悪ですよ」

 彼はベッドから手を伸ばし、ドラッグストアで買い求めていたボトルを引き寄せる。

 美容用品ではないそれは、性交時に使われるものだ。

「はーい。絹太くん、寝転がってね」

「……酷いことされそう」

 まだ前は触れられていた快楽に疼いているのに、当の本人は触ってくれようとはしない。

「酷い怪我をしないためだよ」

 パジャマの下から押し上げているモノは、体格に合わせてそれなりの大きさをしていそうだ。

 黙って寝台の中央へ、横向きに転がった。

「素直でよろしい」

 彼は露わになった僕の尻の片方を、掌に納める。

 インドアゆえ、むっちりとした肉を楽しそうに揉みしだく。

「絹太くん。どこもかしこも触り心地がいいよ」

「触られたの胸と腰と尻だけど」

「大事なトコロも触ったよ?」

 僕はふい、と顔を背け、寝台に片頬を当てる。

 彼はボトルの中身を手に広げると、片方の腕で僕の脚を抱えた。尻肉を持ち上げ、狭間へと指を伸ばす。

 ぬるつきは鞍部を伝い、虚を探り当てる。ぬるりとした感触と共に、太い指が輪をくぐった。

「……うぁ、……っく、ン」

 内部を探る指は、ひたりひたりと壁を伝いながら中へ進んでいく。

 腹の内側から押し上げる感触は物慣れない。気が変わって爪を立てられれば傷ついてしまう脆い場所を、他人の指に委ねている。

 怯えが浮かび、ちっぽけな小動物としての壊される悦びに震えた。

「うーん…………。探す手掛かり、知識だけなんだよね」

「何、が…………? ────ッ!」

 根元まで潜り込んだ指先が、最後の最後でその場所を捉えた。

 はくはくと呼吸をするばかりの僕を見て、彼の唇が持ち上がる。指先は膨らみをやんわりと撫でさすった。

 ずくん、と打ち響くような質の違う快楽が、男の指から齎される。

「あっ、……ン、う。……ぁ」

 見知らぬ感覚に戸惑い、シーツを指で引っ掻く。残り火を灯したままの前半身も、ひくついて蝋を零した。

 僕を見下ろす視線は、鋭い熱を宿したまま、真っさらな身体を射貫く。

「気持ちいいんだ?」

「ン、…………う、ん。……ァ、ひぁ、あ」

 ぬちぬちと水音が響き、その度に探り当てた場所を弄られる。

 表ではなく、奥から与えられる刺激に逃げ場はない。硬く閉じていた場所が、指よりももっと猛るモノを受け入れられるまで、中を蕩けさせられた。

 指が抜かれると、名残惜しそうに口を開ける。

「じゃあ、次はこっちで」

 壱矢くんは自らの上着を脱ぐ。続けて、下の服も一気に脱ぎ落とした。

 勢いよく下から跳ね上がってきた逸物は、僕の躰には荷が重いほど膨らみ、先端に液を滲ませている。

 彼がローションを落とすと、液体に塗れ、てらてらと光った。ぎらつくそれは、彼の身体ごと僕へと躙り寄る。

 壱矢くんの手が、僕の両足を掴み、割り広げる。

「なに……!? ひ、ぁ」

 彼の男根は、僕の恥丘へと擦りつけられる。掴まれた脚は、雄を挟んで閉じられた。

 体液とローションが混ざったものが、つるりとした皮膚の上を滑った。触れた場所は、濡れて光る。

 ゆるやかに腰を前後する動作に、前の方からの刺激が伝う。

「今日はお遊び程度にしておくけど、今度、しっかり素股させて」

「すま、た……?」

 知識にない言葉を言われ、言葉を反復する。僕の反応に無知さを悟ったらしい壱矢くんは、気まずげに視線を逸らした。

 閉じていた脚がまた開かれる。間に身体が割って入り、腰が持ち上がる。

「次、教えるよ」

「…………ん」

 膨らみが肉輪に押しつけられ、くちくちと音を立てる。

 脚が掴まれ、固定される。ぐっと腰が押し出されると、雁首まで一気に埋まった。

「────!」

 圧迫感に身体が跳ねる。反射的に食い締めた胴は、指とは比べ物にならない程の質量がある。

 力が抜けた瞬間を見計らって、ずっ、ずっ、と巨きな塊が挿入りこんでくる。

「…………うぁ。む、むり……」

「大丈夫。っ……、はいって、る、よ」

 ぐん、と腰が上がると、先ほど指で捉えた場所を突いた。

 指で撫で回されていた場所が、重たい肉で押し上げられる。ちかちかと星が瞬くような衝撃の後、喉がようやく声を思い出した。

「ひ、っ。……あ、い、……っあ、あ」

 腰を揺らすだけの、まだ手加減されていることが分かるゆったりとした突き上げだ。けれど、体格差は逃げを許さない。

 ぐりぐりと押し潰された時には、僕は言葉を失っていた。

「……や、やぁ……! ずん、って、しな……ァ、ひあ」

「ふ、う……。そう、動いたらだめ? それなら……」

 膨らみを押し上げた肉棒が、そのまま停止した。

 内壁は動かなくなった熱をきゅうきゅうと抱き締め、刺激は休憩すら許されなくなる。嬌声の合間に混ざる声に、泣きが入った。

「ぁ、ひ。…………ひど、い……ぁ、ァく、う」

「……っ。今だけだから、ね」

 位置を定め、揺らしていた腰が止まる。

 苛まれるのもここまで、と安堵したのは一瞬だけだった。まだ余っていた、入り切れていない竿が、更に奥へと躙り寄る。

「ぜんぶ、は、ァ…………むり……!」

「そう? …………でも、……ッ、ナカ、柔らかいよ」

 僕はシーツに爪を立て、首を横に振った。

 普段なら退いてくれるのに、脚は捕らえられたまま、更に力強く男の元へと引かれる。

 指で教えられていない場所に、熱杭が届く。下手に暴れることもできないまま、男の侵入を許した。

「……は……ッぁ、重い…………」

 雄の身体は次第に前のめりになり、一回りちいさな僕の体にのし掛かる。

 果たして、あとどれだけ残っているのか。じりじりと攻防を繰り返しているうちに、先端がなにかに届いた。

「絹太くん。ちから、ぬいて」

「…………っ、できな」

 こつん、こつん、と揺らされて、何度もその場所がノックされる。

 門を開けろ、と催促されているようだった。何も分からないまま、言われるがままに息を吐き、力を抜く。

 僅かに、屹立が引かれた。圧迫感が減る。ほっとした瞬間、ずぶり、と何かが埋まった。

「────ひ、う」

 神経同士を擦り合わせたような、質の違う快楽だった。

 許してはいけないはずの場所を、明け渡してしまった。鋭い刺激は一気に脳へと駆け抜け、押しつけられた雄は内側から膨らんで圧迫する。

「っはは。そっか。…………俺たち、なら、……届くんだぁ…………」

 恍惚とした表情の奥に、肉食獣の暗い欲を覗き見る。首筋に牙を突き立てて、そして、鮮血を蓄えた血管まで、切っ先を届かせたのだ。

 男は嬉しそうに、ゆるりと腰を揺らした。ほんの僅かな動きで構わなかった。躰の内側、限界まで近づいた肉杭は、ただそれだけで容赦のない刺激を与える。

「ア、ひ。ぁ……ぁ。あァッ、ぁ、ふ」

 ぬち、ぬち、と密かな水音を伴って、躰の奥を暴く。

 白く保っていたはずの画布へ、彼が持つ色を塗りたくっていく。漏れている液体で、既に魂へ影響が与えられていることが分かってしまった。

 もう、身体を重ねていない時の自分には戻れない。

「かわい、……っね。ここ、好き……?」

「きら、……ひ、あぁン! や、きらい……い、ぁ」

 首を振っても、のし掛かられた身体に逃げ場はなかった。

 埋め尽くしていた場所から少しだけ身体を引いて、また押し上げられる。二度、三度、と繰り返していくうちに、やがて抽送へと変わっていった。

「ひ、……っく。ぁ、うあ、ン……ァあ、あ、あ」

 突き入り、円を描くように押し付けて、戯れのように離れる。結合部はぐちぐちと泡立ち、水音が立っていた。

 揺らされるだけの脚は、頼りなく空中に投げ出されるばかりだ。

「…………たくさん、染まって」

 低い声が耳に流し込まれる。囁くような低い声と共に快楽を与えられたら、同じトーンで囁かれた時に、唾液を垂らして待ってしまいそうだ。

 相手の動きに合わせて、腰を揺らし、肉棒を貪った。

「ぁ、あン! …………ひう、ぁあ、あっ、あ」

「…………っ! は、ァ」

 相手にも、限界が近いのが分かった。視線に気づいたように、彼は口の端を持ち上げる。

 ずるる、と抜け出た砲身は、退くよりも早く、細径を駆け上がる。みっちりと埋め尽くし、柔らかい肉襞をこそげ落とすような勢いで、ずっぷりと男根が埋まった。

 媚びるように声が漏れる。塗り替えられる、と本能で分かった。

「ふ、う…………。────ッ!」

「ぁあ、ア。────うあ、ぁ…………ぁああああぁぁぁあッ!」

 小さな体の奥が、奔流で埋め尽くされる。迸ったものは熱く身を焼き、そしてじわじわと白い布に染み込んでしまう。

 奥が、叩かれる感触に絶頂する。

 待ちわびていた、とでも言うように、自分の身体は彼を食んで離さない。倒れ込んでくるような姿勢に、更に圧迫感が増した。

 最後の一滴まで飲み込ませ、ようやく男は動いた。ずる、と埋まっていたものが抜け出ると、ぽっかりとした喪失感があった。

 無意識に、彼の身体に足を巻き付ける。

「もっと、する?」

 茹で上がり、湯気すらも上がりそうな雄から、ぽたり、ぽたり、と液体が垂れる。こくん、と唾を飲み込んだ。

「…………ん」

「わ、素直」

 寝台に囚われ、望むまま彼を与えられる。

 図々しく強請ってしまう自らの性根は、生来のものか、彼に唆された己なのか。染められた魂が色を分かつことはなく、もう、すべては藪の中だった。

 

 

 

 庭では父が七輪を持ち出し、隣に初対面の相手……狐である瓜生さんの番らしい……が座っている。

 狸と狐はおいしそうな食べ物を七輪の網に並べては、酒を友として口に運んでいた。

「じゃあ、咲かすから」

 皆が集まっての写真撮影日。壱矢くんはカメラを構え、僕は狸の姿で待機していた。

 瓜生さんは到着した時から木について調べ、化かすには問題なさそうだ、と告げていた。

 周囲の空気が変わる。力の源は、父の隣で座っているもう一人の狐からだった。

「いま、あいつが使ったのは悪い術じゃない。視線避けだとさ」

 会話をしていないのに、瓜生さんはそう言った。

 彼は木の幹に手を触れる。閉じて、開いた瞳に、細長い瞳孔を幻視した。

「わぁ…………」

 声を上げたのは、弟妹たちだった。ぽつり、ぽつりと枝が薄紅色に色づいていく。

 父に促され、狸の姿を取った彼らが次々と庭に出てくる。

 普段なら周囲の目を気にするのだが、張られた視線避け、は結界のようなものだ。外の人間が、僕たちを気にすることはない。

「綺麗な梅…………」

 毎年、春に見る光景が、初夏とも呼べるこの日に目の前にあった。

 何度瞬きを繰り返しても、可憐な花弁は風に揺れ、その場に咲き誇っている。きゃらきゃらとはしゃぐ、高い声が庭に響く。

「はは。咲いてるように見えてるだけ、だけどな」

 仕事は終わり、と瓜生さんは七輪に歩み寄り、渡されたビールのプルタブを引いた。

 僕はたったっと木に駆け寄り、幹にしがみつく。

 うまく登れないでいると、下から弟にアシストされた。指示された枝を伝い、なんとか目的の枝まで辿り着く。

 やっぱり、僕という狸はそこまで木登りが上手くない。

『どう、かな?』

「最高!」

 壱矢くんはカメラを構え、もう撮影を始めている。

 指示があればその通りにするが、僕が自然に過ごしている様を撮りたいようで、梅の木に登ってさえくれればいい、という適当さだ。

 鼻先を梅の匂いが過ぎていく。

 花弁に鼻先を寄せると、さわさわと風が木を揺らした。僕の毛も一緒に靡く。

『気持ちいいな…………』

 見下ろした先には、僕に夢中でカメラを向ける壱矢くんがいる。

 レンズ越しの視線が嬉しくなり、僕は、とっ、と枝を蹴って飛び移った。

 

 

 

 撮影した写真は、僕が出来を全力で褒めた後に、事務所のSNSで公開されることとなった。

 普段はアクセス数の少ない場所なのだが、その写真はやけに閲覧数が多かったらしい。いくらかのメディアに載った僕の姿と、彼の名前は、想像よりも多くの人の目に触れることになった。

 それからの壱矢くんは、時おり出来のいい狸写真をプロダクションに提供しているようだ。

 

 

 カメラを僕に向ける彼の瞳は、今日もでれでれと蕩けている。

動物の魂を持つ一族の話
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坂みち // さか【傘路さか】
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