赤狐七化け□□は九化け

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【人物】
瓜生 和泉(うりゅう いずみ)
小崎 晴雨(おざき せいう)

小崎 早依(おざき さよ)

キナコ


▽1

「あ」

 ゴミ箱の一番上に、捨てられた文庫本を見つけた。

 埃を払い、カバンの中に仕舞った。

 

 

 

 綺麗に巻いた茶髪、ふわふわとした白のスカート。淡い色のコートを羽織って、夕方の駅に立つ。

 帰り道のビジネスマン、そのスーツやネクタイを見る。そこそこのスーツを着崩している、そして薬指に指輪がない男を見つけ、携帯電話を片手に近寄った。

「すみません────」

 にっこりと笑いながら男を見上げ、手元の携帯電話に映る地図を見せる。平凡な男の目が、瞠られるのが見えた。

「この辺、詳しくなくって。行きたいカフェがあるんですけど、道を教えていただけませんか……?」

「ああ。はい……」

 断られなければ、こちらのものだ。男の腕に擦り寄り、携帯の画面を見せる。柔らかさのある身体を押し付けつつ、行きたくもないカフェの道筋を詳しく尋ねた。

 あえて、分からない振りをする。だらだらと話を引き延ばし、こう男に言わせるのだ。

「じゃあ、案内しますよ」

 心の中でにたりと嘲笑って、胸の前で手を合わせる。ぱあっと唇を持ち上げ、本当に嬉しい、というように目を細めた。

「ありがとうございます……! 本当に困ってて────」

 ぺこぺこと大げさに礼を言い、物慣れない風を装う。

 男が案内のために歩き出すと、不自然なほど近く、隣を歩く。見下ろしてくる視線を受け止めては首を傾げ、ふふ、と表情をつくった。

 ビジネス街にある駅を出て、表の通りを歩く。

 指定していた店はもう閉店している。それはそうだ。この街に働く人向けの店ならば、ランチと午後の短い時間だけの営業で事足りる。

 世間話を交わしつつ、案内された店へと辿り着く。『CLOSE』の看板を見て、大げさなほど落胆してみせた。

「ごめんなさい……! 営業時間を調べてなくて」

 男は怒りもせずに、慰めの言葉を放つ。聞き慣れた言葉を受け止めて、本当に申し訳なさそうにしてみせた。

 あ、じゃあ。思いついたようにまた手を合わせ、相手を見上げる。

「お詫びに……来る途中にあった店でなにかご馳走したいんですが、お時間いかがですか?」

 夕食には早い時間なので軽いものでも、と言い足すと、男は易々と承諾した。やった、と感情に任せて男の腕に触れたように装う。

 では、と予め目星を付けておいたチェーン店に案内する。長居しても問題なく、軽い食事がある程度揃っている店だ。軽めの食事と飲み物を頼み、他愛のない会話を交わす。

 ふと、思い出したかのようにカバンを開く。大きめの書類が入るように作られているその中から、クリアファイルに挟まれた書類を取りだした。

「実は、この近くには仕事でお邪魔したんです。自社で不動産を扱っていて────」

 近辺の不動産の資料を、折角なので、とクリアファイルに綴じて手渡す。

 市場価格と比べると、割高な物件らしい。彼が不動産屋に連絡を入れ、購入に至れば俺にマージンが入る。

 彼は書かれた電話番号が、俺に繋がると思っているかもしれない。実際は、もうここでお役御免だ。電話が俺に取り次がれることはない。

「長々とありがとうございました」

 それからの話は、お忙しいですよね、と簡潔に切り上げる。餌を撒き終えて、もうこの男と話す必要もない。

 切り上げる空気になり、財布から代金を支払おうとすると、男が先に伝票を取った。席を立って支払いにいく男に、そんなつもりは、と焦ってみせる。

 男が料金を支払い終えると、大袈裟に礼を言った。

 駅に戻ろうとする男に対し、こっちなので、と逆方向を指す。ありがとうございました、とぺこぺことお辞儀をして、美味しかったです、と言い添える。

 男が駅に向かっていく背中を慎重に見送って、はあ、と息を吐いて踵を返した。

「疲れた……」

 別の駅まで歩き、自宅に向かう電車に乗り込む。

 イライラしながら人の波に揉まれ、繁華街近くにある駅で降りると、明るい道を通って自宅へと向かう。カツン、カツン、とパンプスの底を鳴らしながら金属の階段を上り、木造アパートにある自室の扉を開けた。

 ぱちん、と黄ばんだスイッチを押すと、狭い室内が浮かび上がった。どかどかと褪せた床を踏みならしながら部屋に入り、女性物の服を脱ぐ。

 いくつか電球が切れて薄暗い部屋の中に、数年前は美女と持て囃された女がひとり。鏡の前に立つと、変化を解いた。

 肩に付かない程度に伸びて跳ねた茶髪と薄い色の瞳。三十を過ぎたばかりの、うだつが上がらない男の姿がそこにはあった。

 鏡のある洗面台に近づき、瞼の上に手を当てる。端を転がし、ぺりぺりと二重まぶたを目立たせるための接着剤を外した。くっきりとした二重が細まると、つり目がちな印象が強くなる。

 メイク落としを顔にぶちまけ、似合わない仮面を外した。

 うっすらと覚えている記憶によると、先祖は狐に魂を分け与えられた存在らしい。

 人と狐。両方の姿を取ることができる俺達は、加えて人の姿をいくつか持つことができた。仕事に使っている女性の姿もそうだ。

 腰に食い込んだ女性物の下着を脱ぎ落とし、伸びたボクサーパンツを履く。ジャージの上下を身につけると、顔色が悪く、年齢よりも更に上に見えた。

「腹いっぱいだ。助かった……」

 あの男が不動産を買ってくれればいいが、最近では飯を奢られるだけでも御の字だ。若く見えない初対面の女に対し、気前よく奢ってくれない相手に当たる確率も上がってきた。

 下手すると、俺の歳でも水商売なら雇い止めになる。加齢が反映されつつある女性としての姿は、顔で食っていくのに厳しさを増している。

 端に寄せていた布団を広げ、ごろん、と横になる。

「この仕事、もうやだなぁ」

 いくら不動産会社に繋ぐだけ、犯罪ではない、といっても。俺にマージンを払っても利益が出るような物件を売りつけ、客にローンを組ませるこの仕事は嫌いだ。だが、水商売で男に触れることはもっと嫌いだ。

 遵法意識が吹っ飛んだのは、金がなくなってからだろうか。

 好奇心に負けて、大抵のギャンブルには手を出した。若い女性に化けられていた頃はまだ実入りが良かったが、つまらなくなったギャンブルを乗り換えていく内に金も若さも消えていった。

 大きな借金をした時、一時的な補填と引き換えに実家からは縁を切られた。稼いでも実家への返済に金が減り、どんどん仕事が黒く近づいていく。

 最初は駄目だと思っていた良心も、繰り返す内に塗り潰されていく。

「……まぁいいや。今日は、本が拾えた」

 カバンの中から取り出した本は、『人間失格』とタイトルが付けられていた。表紙に貼られていた古本屋の値札を、丁寧に剥がす。

 このタイトルだけは知っている。中身は読んだことがない。わくわくと端が黄ばんだページを捲った。

 財布の中には金がない。通帳の残額は零だ。実家への返済も待ってもらっているし、公共料金だって家賃だって、何ヶ月前から滞納していることだろう。

 けれど、ページを捲る間だけは、それらを全て忘れた。

 

 

 

 溜まっていた家賃を理由に家を出ることになったのは、数ヶ月後のことだ。

 どうやって金を作ろうとしても、タイミングが合わずに現金にならなかった。残っていた家電家具を売り払い、手荷物だけを背負って家を出る。

 一週間ほどなら、ネットカフェでも過ごせるだろう。できるだけ屋外で過ごし、仮眠を取りたい時間だけネットカフェに入った。漫画が大量にあるのが有り難く、時間いっぱいまで読みふける。数百円で過ごす時間が、最大限の贅沢に思えた。

 その日は、シャワーばかりの日々の中、何となく風呂に入りたくなった。

 残金を数え直し、何度か記帳をしに行ったが、銀行口座の数字は変わらない。風呂を諦めようかと悩んだが、途中で何もかもがどうでも良くなった。

「まあ、いいか」

 金が無くなったら無くなったなりに、自分はその境遇に順応して生きていくだろう。

 リュックひとつの荷物を背負って、近くで一番安い銭湯へと歩き出した。

 銭湯までの道は、古くとも手入れされた日本家屋が並んでいる。銭湯も古かったな、とパソコンのモニタに映った景色を思い出しながら、道を歩く。途中で面白くなって、あちこち寄り道をした。

 昔ながらの駄菓子屋を見つけた時には心躍った。手持ちの金はないはずなのに、単価の低い駄菓子屋なら何か買っても許される気がした。

「こんにちは」

 ごちゃごちゃして小さな店に、身を屈めながら入る。ただ、狭い店内にこれだけ品数が多い割には、手入れが行き届いていて埃はなかった。

「はいはい。いらっしゃいませ」

 店主らしき女性が店に出てくる。

 身なりはきちんとしていて、丁寧に洗濯された割烹着が似合っていた。頭には白いものが混じり、パーマを当てている。

 待たせているのも申し訳なく、ビニールに飲み物が詰まった菓子を手に取った。その隣の煎餅も。合わせても缶ジュース一本も買えないだけの硬貨を、申し訳なく思いながら支払う。

 店を出ると、ぱらぱらと雨が降っていた。晴天だったはず、と空を見つめるが、相変わらず見慣れた水色だ。

「天気雨か」

 突っ切っていくにも雨量が多い。急ぐ理由もない。仕方なく、軒下に設けられたベンチに座った。

 ビニール袋を開け、パッケージの先端を口に含む。歯を立てると、やけに甘ったるい味わいが喉に絡み付いた。

 毛ばたきを持った店主が、俺を追うように外に出てきた。雨が降っている様子を見て、嬉しげに目を細める。

 そうして、俺に視線を向けた。

「お兄さん、どこからいらっしゃったの?」

「以前は『──』の辺りに住んでいて、今は……友人の家を転々としています」

 はは、と笑って誤魔化す。ネットカフェで最低限の時間だけ寝ています、とは流石に言えなかった。

 店主は頬に手を当てると、眉を下げた。善良そうな顔立ちに、心配そうな表情が浮かぶ。

「あら。泊まるところがなくなったら、うちにいらっしゃいね」

「ははは。ありがとう────……?」

 ふっ、と俺の背後から影が差した。背が高い誰か、と意識する前に、低い声が覆い被さる。

「キナコさんとこは人が多くて大変でしょう。うちに来るといいですよ」

 目の前の店主……キナコさんは俺の背後に向けてちょこちょこと手を振る。

 その姿を見るべく振り返ると、上品な色味のダッフルコートと、ジーンズを合わせた美形の男が立っていた。彼は雨に打たれないよう、軒下に入る。

 染めたことの無いような黒髪はすっきり整えられ、垂れがちな目元を薄い色のサングラスが覆っている。肌艶はいいが色は白く、あまり外に出歩くことのない職業だと分かった。

 靴に目が留まる。高価な国内ブランドの靴だ。つられてコートに視線を這わせると、布地は分厚い。ジーンズもシンプルな形ながら、味のある風合いだった。

 極めつけは手持ちの鞄だ。彼は俺より若いだろうが、俺が汗水垂らして半年働いたとして、あの鞄を買えるか分からない。

 仕事上の『餌』にするとしても、収入がありすぎて困る人種だ。これくらい金を持っている人物は、不動産の買い方をよく知っている。

 彼は頭に乗った雨粒を払った。

「……あ、ははは。……えーと、こんにちは」

「こんにちは。住むところに困っているんですか?」

 尋ねられ、まあ、と言葉を濁す。

 その男はキナコさんに、いつものヤツを買いにきました、と言う。はいはい、と店主は店の中に入り、菓子を束にして袋に入れて持ってきた。男は鞄から紙幣を取り出し、お釣りは取っておいてください、と言う。

 店主も慣れているのか、こんど差し入れに行くわね、と言って紙幣をポケットに仕舞った。そのまま店内に戻って、はたき掛けを始める。

 束になって袋に入っているのは、きなこがまぶされた菓子だ。

 男は静かにベンチに腰掛けた。男二人が腰掛けると、古いベンチだ。ぎしりと軋む。

「どうぞ」

 差し出された棒を受け取る。軽く指の先が触れた。

 それを合図にするように、パラパラパラ、と雨がトタン屋根を叩く。

「……どうも」

 きなこ棒、という名前だったような気のする菓子を受け取り、口に運ぶ。噛み締めると柔らかく歯に当たった。噛み締めて飲み込むと、ほのかに甘い。

 これまで食べたおやつの中でも、飛び抜けて美味しく感じた。夢中で口に運び、全てを胃に収めてしまう。

「美味しかったです」

「良かった。それで、今日は泊まるとこ決まってる?」

「…………。いや、まだ。ネットカフェにでも行こうかなって」

 心配しなくてもいい、と微笑みを向ける。男は自分もきなこ棒を取り出し、口に含んだ。白い歯で齧り取って、棒の先を眺めている。

「うち、部屋は余ってるよ」

「…………俺が泥棒とかだったらどうすんの?」

 呆れたように言うのだが、男はくすくすと笑うだけだ。

「泥棒だったら、泥棒だって言わないよ」

「もっと人を疑った方がいい」

「僕、眼は良いんだよ。……家は広いよ? 風呂にもゆっくり浸かれるし、絵と骨董と本はたくさんある」

 ぴくり、と狐耳が動いたような心地がした。耳が、その言葉をはっきりと拾う。

「本?」

「本、好き? 古い本が多いけど、数はあるよ」

 心の中を、本、という言葉だけが占めていた。ネットカフェには漫画しか置いておらず、泊まっている間、雑誌の短編小説を探して読んでいたが、すぐに尽きた。

 一泊する間、寝なければ何冊の本が読めるのだろう。通帳の数字を溶かしてきた好奇心が、むくむくと鎌首をもたげた。

「泊まらせて貰えるなら、頼みがあるんだが……」

「なに?」

「貴重品を金庫とかに入れて、俺が絶対に触れないようにしてほしい。あんまり、金があるわけじゃないんだ。魔が差しても困る。……あんた、鞄を見る限り、金には困ってなさそうだからさ」

 あぁ……、と丸くなった彼の目を見て苦笑する。

「今の話を聞いて、泊めたくなくなっただろ? 気持ちだけで十分だよ。きなこ棒も、ありがとな」

 棒を折って飲み終えたパッケージと共にポケットに入れ、立ち上がる。ギッ、と木が軋む音がした。

 折角の本を読める機会を棒に振った。あーあ、と自分の言動にがっかりしつつ、脚を動かす。不審者は、雨の中を走って退散すべきだ。

「待って。────いいよ、貴重品はぜんぶ金庫に仕舞う」

「本気か?」

「本気」

 男は立ち上がると、離れた場所で掃除をしているキナコさんに向かって大きな声で、今日は帰るね、と叫んだ。そして手を振る。店主もまた、こちらに手を振り返す。

 男は呆然としている俺と向かい合う。近くに立って初めて、彼の方が少し背が高いことに気付いた。

「改めて、始めまして。僕は小崎……小崎晴雨」

「ああ。瓜生和泉だ」

 差し出された掌を取る。繋がった手をしげしげと眺めていると、くす、と目の前の男が笑みを零した。

「それ、本名だよね」

「そうだけど…………?」

 首を傾げると、男……小崎晴雨は、けたけたと勢いよく笑った。

「やっぱり、悪い人は本名を名乗ったりしないよ」

「…………本名だってのが嘘で、実は偽名だったらどうするんだ」

 あまりにも笑われるのでそう言ったのだが、泊めてもらうのに疑念を抱かれてもな、と思い直した。懐から財布を取り出し、身分証を差し出す。

 彼は、身分証と俺を交互に見た。

「なにこれ?」

「本名だと言うことを示そうと……」

 そう言うと、彼は、ごっ、と息を吐き出した。

 ひいひいと叫ばんばかりに笑い続ける。サングラスといい、髪型といい、感情が薄い質なのかと想像していたが、思ったよりも人間味のある性格のようだ。

 むしろ、人間から外れているのは、金が尽きて住居を失っている俺の方だろう。

「えっと、瓜生さん? 和泉さん?」

 彼は目元を拭うためにサングラスを外した。瞳の色は薄く、美貌の制限が外れたかのように、いっそう眩しく映る。

「名前だと助かる」

「そっか、いい名前だもんね。僕も、名前で呼んでくれると嬉しいな」

 実家を勘当されているから姓を名乗りづらい、とも言えず、あいまいな肯定を返す。

 晴雨は自分も、と身分証を差し出してきた。律儀なひとだ。告げられた名前を漢字にした時の意外さはあれど、音に間違いは無かった。

「『晴雨』さん、よろしくな」

 今の天気にぴったりだ、と外に視線を向けると、いつの間にか雨は止んでいた。

 俺に合わせてくれた事に感謝しつつ、軽く頭を下げる。誰かの姓でなく、名前を呼んだのは久しぶりだった。

 

 

▽2

 晴雨はそのまま道を先導し、家へと招いてくれた。

 辿り着いたのは新築、とは言えないが品のある住宅だ。広い、と自称していただけあって敷地も家族で住める程度はある。つい、他の家族の姿を探してしまった。

 家主は、俺の視線の理由を察したらしい。

「独り暮らしだよ。どうぞ」

 ひとが二人分くらいの幅しかない門を開けると、数は少ないが手入れされた草木が出迎える。庭の隅には雑草が生えている場所もあるが、人が通る周辺は綺麗に整えられていた。

 敷石の上を歩き、玄関に辿り着く。玄関扉を開けると、フローリングの廊下が広がっていた。

「あれ? 外観より新しく見えるな」

「ああ。ここに引っ越す時に、内装だけリフォームをしたんだよ。外装はあと何年後かに手を入れるつもり」

 はあ、とぼんやりした声を漏らしてしまった。引っ越すからリフォーム、外装の手入れを予定する、とは、賃貸物件すら追い出された者からしたら縁遠い話だ。

 落ち着いた色の玄関床は綺麗に掃除されており、入る前に靴底の砂を落とした。

「お邪魔します」

「そんなに緊張した声しなくても。どうぞ、寛いでいってね」

 背後で鍵が閉まる。音に驚いて、びくん、と背を跳ねさせた。

 靴を脱ぐと、端っこに揃える。ちら、と晴雨を窺うと、こちらを気にする様子もなく、自らの靴を脱いでいた。ほっとして、廊下へと足を着ける。

 やけに廊下が綺麗だ、と思っていると、廊下の端にロボット式の小型掃除機が動き回っているのが見えた。

「お茶でも淹れよっか。こっち」

 広いリビングへ招かれ、ソファへ腰掛けるよう勧められた。

 大人しく座るのだが、自宅にソファが無かった所為で落ち着かない。適度に弾力のある座面は心地よく、背の部分に身体を沈めると浮き上がれなくなりそうだ。

 広いリビングは白が多めに使われており、薄い色のフローリングも相俟って、部屋だけなら無機質な印象を受けるかもしれない。

 ただ、この部屋は家具に濃くて落ち着いた色が選ばれ、いいアクセントになっている。いま座っているソファも見ていて落ち着く色味だ。

 座り心地に対して静かに感動していると、お茶の載った盆を持った晴雨が近づいてきた。

「お待たせ」

「……早いな」

「お湯はケトルで沸かしたから」

 黒地にところどころ青が浮いたマグカップには温かい緑茶が注がれていたが、一つしかなかった。俺は取っ手に指を引っ掛け、持ち上げながら問いかける。

「晴雨さんの分は、いいのか?」

「ああ、食器に拘りすぎる所為でカップが一つしかなくて。いつでも飲める家主の事は気にしなくて良いよ」

 小皿にきなこ棒が二つ載せられ、差し出される。

 先程食べた分に物足りなさを感じていた胃が、欲しいほしいと鳴いた。

 素早く棒を摘まみ、口へと運ぶ。緑茶を挟むと、更に美味しかった。夢中で二本とも食べ終わり、お茶を口に運んで息を吐く。

 無意識に、目元に涙が滲んでいた。

「…………お腹空いてた?」

 隣に腰掛けた晴雨が尋ねる。こく、と頷く。多分、それだけではないのだが、俺の口はそれ以上、説明する言葉を持たなかった。

 目元を指で拭い、必死で込み上げる熱を落ち着ける。

「すぐ作れる物、野菜炒めくらいだけど。それでもいいかな?」

「……え? 俺、あんまりお礼できる事も…………」

 いいよ、と晴雨は俺の言葉を遮った。

「────それは少し置いておいて。酷く、疲れてるみたいだ。まず、ご飯を食べて、お風呂もどうかな。そして、しっかり寝て。……余裕ができたら、本でも読んだらいい」

 彼はすっと立ち上がり、台所へと入っていった。

 座っていると、そわそわと落ち着かない。目の前と、台所の方向を交互に見て、動き回っている背中に焦燥感を募らせる。

「晴雨さん、俺も手伝う…………」

「お客さんは休んでて。暇ならテーブルの上の雑誌でも読んでたら?」

 浮かせた腰を落ち着け、ローテーブルの上から雑誌を持ち上げる。

 芸術品の写真を取り上げた雑誌は、見たことのないジャンルのものだった。ぱらぱらと捲ると、芸術品と作家の生い立ち、そして作品の説明が書かれている。

 作家の生い立ちは、一つの話だ。

 写真に見入り、生い立ちを読み、作品の説明を読み込む。分からない単語があっても、携帯電話の契約はもう切れている。辞書を貸してほしい、と思った。

 リュックの中から、ノートとペンを取り出す。分からなかった単語をメモして、横に置いた。読んでは書き、書いては読んだ。

「────お待たせ。ご飯ができたよ」

 晴雨は俺のノートを見ると、僅かに目を瞠った。唇を持ち上げると、それ、一旦退かして、と指示をされる。雑誌とノートを重ねて挟み込み、テーブルの端に寄せた。

 お盆の上に載っていたのは、鶏肉の野菜炒めと湯気の立ったご飯、そして麩の浮いた味噌汁と沢庵だった。あまりにも良い食事すぎて、夢の中にも思えてくる。

 ぼうっと料理を眺めていると、向かい側にしゃがみ込んだ晴雨が首を傾げる。

「苦手な物、あった?」

「え、あ。あまりにも美味しそうで感動してた……」

 手を合わせ、箸を持ち上げた。甘辛い野菜炒めを口に入れ、まだ熱いご飯を慎重に頬張る。

 おそらく、ここ二週間ほどはまったく口にしていない類の、本当に料理、と呼べるものだった。

 ふっと目元に熱いものが込み上げる。ぼろぼろと涙を零し始めた俺を見て、晴雨は立ち上がって歩き去っていった。

 見苦しかったか、と肩を落としていると、横から目元に柔らかい物が押し付けられる。

 受け止めてみると、真っ白いハンドタオルだった。差し出した人の笑みを視界に入れ、また、ぼとぼとと涙を落とす。

 受け取ったタオルを目元に押し付けると、しゃくり上げながら言葉を漏らした。

「……お金、あんまない……って、嘘、で…………」

「うん」

「ほんとは全然……ッ、なくて。……家も、家賃、払えなくて……出なきゃいけなくて」

 料理が冷えてしまう、と思って、会話の合間に口に入れる。どこを食べても温かくて、美味しかった。

 狐の魂を持つ一族であることは伏せて、ギャンブルに入れ込んで金を溶かしたこと。人を騙す結果になる仕事を続けてきたこと。仕事が上手くいかなくなって家を追い出されたことを話した。

 真実を知って、追い出されても仕方ない。それよりも、こんな自分に温かい食事を出してくれた人を騙すような真似をしたら、俺がとうとう駄目になってしまう気がした。

 晴雨は隣に座って、時おり俺の肩を撫でた。出て行け、とは言わなかった。ただ、眉を下げてこう言う。

「やっぱり、和泉さん。ご飯を食べて、お風呂に入って、寝た方が良いよ」

「だから、俺、……金が無くて。……魔が差して、盗んだり……とか…………」

 もう、ここまで身を持ち崩した自分自身が信じられなかった。小さなタオルはぐしょぐしょになって、目元の水分を吸い取ろうとしても拭えなくなってしまう。

「だから金庫に入れる、……んだよね。それで、金庫の番号は君に教えないから」

「部屋…………鍵も、ッ……掛けて……」

「鍵ないからそれは難しいな。そんなに心配なら、君の持ち物まとめて金庫に入れちゃう?」

「…………それがいい……」

 妥協案を見いだした俺は、ようやく嗚咽を落ち着かせて食事を始めた。

 少し冷えた飯を掻き込み、美味しさに涙を浮かべる。お茶が減る度に家主が注ぎ足すものだから、食事を終えた頃には腹がたぷたぷになっていた。

 食器は自分で下げ、流し台を借りて洗った。手を拭うと、自分の持ち物を晴雨の所に持っていく。

「これで持ち物は……全部だ」

 リュックを開け、中身をずらりと並べてみせる。

 最低限の衣料品とタオルにティッシュ、財布とノートとペン。そして契約の切れた携帯電話と充電器。

 俺が持ち物、と言ったものを見て、晴雨は眉根を寄せた。俺の視線に気付くと、さっと表情を元に戻す。

「金目のもの、財布くらいしかないね。じゃあ、財布だけ預かって金庫に入れておくから、必要な時は言ってね」

「分かった」

 これで、俺が何かする時の抑止力になり得る。

 財布を持って出ていった背中を見送って、全身から力を抜いた。何もかもを失った段階で、俺は、俺自身を信じられなくなってしまったらしい。

 残った涙をタオルに吸い取らせて、はあ、と息を吐いた。目は擦りすぎて痛かったが、訳の分からない晴れやかさがあった。

 窓の外はまだ明るい。それもそうだ、まだ、世間的にはティータイムの時間である。

 財布を見知らぬ他人に預けるような出来事が、起きるに相応しい時間ではない。庭を眺める、という珍しい時間を過ごしていると、足音が近づいてくる。

「和泉さん、これからどうする? 満腹だとあんまり良くないけど、お風呂入っちゃう?」

「いいのか?」

 風呂に入りたい、と思った時の、身体の気持ち悪さがぶり返した。

「いいよ。少し待ってね」

 晴雨は席を外すと、ふかふかとしたバスタオルと、着替え一式を持ってきた。パンツは新品だ。

「少し丈が余るかもしれないけど、新しくてふかふかのパジャマだから、着心地が良いと思うよ」

「でも、悪いだろ……」

「着心地のいいものを着ないと、よく眠れないよ」

 押し付けられた衣類を慎重に抱き、脱衣所へ入る。汗で臭う服を脱ぎ落とし、床に纏めた。

 浴室に入ると、見たことのないメーカーのボディソープがある。少し拝借して、身体全体をいちど洗った。

 ゆっくりと風呂に浸かると、またぼろぼろと涙が浮かんでくる。ばしゃばしゃとお湯で顔を洗い、肩まで湯船に沈める。

 息を吐いて、自分は風呂に入りたかった訳じゃないのだ、と思い知った。ただ、温かい湯に浸かって、安堵したかった。

「気持ちよかった……」

 脱衣所に置いておいたバスタオルで身体を包むと、あまりの触り心地の良さ驚いてしまう。水分がなくなった肌に下着を身に付け、パジャマを纏うが、今まで自分が着ていた服と比べて愕然とするほど着心地が良かった。

 薄黄色のパジャマは、造り自体はシンプルだ。鏡の前に立って髪を拭う。洗ったおかげで肌のくすみも落ちたようで、数日前に見たときよりも若々しく見える。

 ドライヤーを借りて髪を乾かすと、普段は奔放に跳ね回る髪が少し大人しくなった。

「晴雨さん。お風呂のお湯、どうする?」

「和泉さんが気になるなら流してしまっても良いよ」

「じゃあ、そうするよ」

 風呂に戻って、溜まっていた湯を流した。近くにあった風呂ブラシで汚れを擦り、シャワーで軽く流す。

 足先をマットで拭って、脱衣所を出た。晴雨のいた場所まで戻る。

「お湯、抜いてきた」

「ありがとう。眠い? ソファならあるけど」

 飯を食べ、風呂に入り、そして寝る。

 言われてみると一気に眠気が襲ってきた。じゃあ、とソファへ横になる。晴雨は用意しておいたらしいブランケットを俺の身体に掛けた。

 ソファといっても、ネットカフェの脚が伸ばせないスペースとは段違いだ。伸びをしてもまだ余る。

 ごろごろしていると頭が持ち上げられ、下にふっかりとした枕が挟み込まれた。更に居心地が良くなってしまった。

「俺、年上なのに悪いな」

「え? 和泉さんっていくつ?」

 年齢を告げると、案の定、晴雨の方が年下だった。なんと、まだ二十代後半なのだそうだ。人間としての違いにくらくらしそうだった。

「じゃあ、和泉さんの方は『さん付け』なんてしなくていいじゃない」

「それは、世話になってるから駄目だ」

「ややこしいなあ。そのうち外してね」

 晴雨は諦めると、近くのスツールに座って雑誌を読み始めた。目を閉じると、かさり、かさり、と紙を捲る音だけが耳に届く。

 やけに親しげに接してくれる所為か、人が近くにいるのに緊張感がない。

 眠りに落ちる前、おやすみ、と告げる低い声が聞こえたような気がした。

 

 

 

▽3

 俺が目を覚ましたのは、同日の深夜だった。布団を撥ね除けながら起きると、ソファの空きスペースに座ったまま眠りこけている家主がいた。

 翌日になったら出て行こうと思っていたのだが、礼もせずに出て行くのか、と家事を任されることになった。食事をする度にそう言われ、恩返しの為にせいいっぱい家事をした。

 そうやっていると、数日が経ってしまった。

 流石にもう出て行くべきだろう、と思いはじめた一週間後。

 リビングで海外古典の名著を借り読書していると、晴雨は住所を書き付けた紙を手渡してくる。そして、すとん、と隣に腰を下ろした。

「お金がなくなった理由、ギャンブルだったよね。ここの医者、知り合いだから、いちど診察を受けてみない?」

「え?」

「精神だけじゃなくて、身体的な事が起因していることもあるから。できたら一度、調べてみてほしくて」

 診察、とは考えたこともなかった。俺は呆然と住所の書かれた紙を受け取る。

 それと、と彼は俺の所持品のリュックを指差す。

「携帯電話がないと不便だから、それも。チャージ式で契約し直そうか」

「あの。なんで……」

「一週間、一緒に暮らして確信したんだけど。和泉さん、『狐』だよね?」

 びく、と指先が跳ねた。指の間から、住所の書かれた紙が落ちる。

 俺の反応を見て、彼の予想は確信に変わったらしい。

 落ちた紙を拾い上げて机に載せ、唇を戦慄かせている俺を平然と見る。薄い色の瞳は、全く揺れてはいなかった。

「僕、収集品が多いって言ったでしょう。その中に、人に化ける狐の事が載った古書があってね。本当に詳しく書かれていたんだ。狐の魂を持つ人の話」

「……なん、で。それが俺だって」

「僕、眼がいいって話もしたよね。人じゃないものが視えるんだ。出会ったときから和泉さんの後ろに狐がちらちらしてたんだけど、一緒に暮らしていたらはっきり視えるようになった。狐の魂を持ち、人と狐の姿を持つ一族────だよね?」

 にっこり、と念押しされてしまえば、がくりと肩を落とすしかない。

 きらりと光る瞳は、一つの事柄を要求していた。こくん、と唾を飲む。

 しゅる、と輪郭を解き、魂へと転じて身体を作り直す。ぱさり、ぱさり、と服の落ちた下、晴雨の視線の先には一匹の狐が座っている筈だ。

 黒色の混じった耳と脚。黄色の毛、と、白の毛、は上下に分かたれている。狐、と言われれば真っ先に思い浮かべるであろう典型の、俺の狐としての姿だ。

 そろり、と腕が伸びてくる。指が鼻先に寄せられた。すん、と匂いを確認すると、頭へと掌が伸ばされた。ゆったりと撫でられる。

「想像していたよりずっと、かわいこちゃんだ」

『うるさいんだよ』

 頭から背、そして胸元の毛を撫でようとする手を大人しく受け入れた。

 動物に化けている間は狐としての感覚に切り替わる。だから恥ずかしさは薄いのだが、狐としてじっくりと撫でられるのは、子どものころ以来のことだ。

 懐かしい感覚に、目を閉じてソファに転がる。首筋から大きな掌が腹に下り、わしわしと撫でた。気持ちがいい。

『あんたは、動物の魂がある奴が分かるのか?』

「視える時だけはね。……それで、僕。昔から君たちみたいな存在の生態に興味があったんだ」

『はぁ……』

「特に、化ける仕組みとか、身体の構造とかね。だから、こういうのはどうかな? 君が家に滞在して僕に調べられてくれるなら、その間、生活費はこちらで持つよ」

 こくん、と今度は狐の構造の喉が鳴った。

 用意して貰ったふかふかの布団、着心地のいい服、美味しい食事に広い風呂。それに加えて、ギャンブルへの度の過ぎた好奇心を治すことにも協力してくれると言う。

 こんなに美味い話があっていいのか。そう自問して、この家の豊かさを思い浮かべる。服に美術品、本に食器。どれを取っても、収入に余裕が無ければ持てない品々ばかりだった。

 狐の魂を持つ一族を調べるためだけに生活費を負担する、その酔狂を実行できるほど、この男は金を持っているように見える。

『……本当に、いいのか』

「まあ、一週間暮らしてみたけど。君、家を失ったことで痛い目を見た所為か、今のところ、しっかり倹約をする意識があるじゃない? お使いを頼んでも、しっかり一番安い品を買ってくるし」

 一番安いみりんを買ってきたつもりが、みりん風調味料だった事を指摘されたのは記憶に新しい。それでも、晴雨は怒らずに金額を比べた事を褒めてくれた。

『でも、またギャンブルをするかもしれない』

「うん。君はそれを治さなきゃ、また路頭に迷うことになるよ。だから僕がしばらく金銭は管理する。住むところまで無くしたの、トラウマだったんでしょう? お金を使う事を怖がってるもんね」

『………………』

 言われた通り、おつかいに行くにしても、決まった金銭だけを手渡される方が気が楽だった。

 生活費について気にすることなく暮らせて、時おり彼の調査とやらに付き合いつつ浪費癖を治す。完全に治らなくてもいいのだ。彼が飽きるまで、衣食住が保証されるだけでも有り難い。

『その、調査、っていうのは……何を……?』

「普通に僕と暮らして、たまに質問に答えたり触らせてくれればいいよ」

 日々の生活に、負担になるような内容でもなかった。

 家事をして暮らす生活は、今までよりも心がなだらかだ。新しい家事を覚え、この家で暮らしやすくするために働く。晴雨は怒らずに会話をしてくれる。褒めてもくれる。

 だから、ひどく。彼の提案が魅力的に映ってしまった。

『しばらく……、世話になってもいいか……?』

 彼は俺を抱き上げると、膝の上に乗せた。前脚の裏をまじまじと見つめる。俺の視線に気付くと、ふわりと笑った。

「よかった。和泉さんが家事を手伝ってくれるの、助かるなって思ってたんだ」

 きっと一人で何でもこなしてきた癖に、そうやって優しい言葉を吐く。言葉の余韻を味わっていると、顔を両側からもみくちゃにされた。

 やめろ、と前脚で指を剥がす。

 晴雨はつまらなさそうに手を離すと、思い出したように指を伸ばす。太い指先が、尻尾に絡み付いた。

『な、ッ────!』

 ぞわぞわとした感覚が背筋を走る。ぴょんと跳び上がり、服を部屋の外へと咥えて走り去る。部屋の外で人に変化し、手早く服を纏った。

 どかどかと音を立てながらリビングへ戻る。

「尻尾は触るな……!」

「そうなんだ? ごめんね」

 悪気なさそうに謝られてしまえば、怒気も萎れるというものだ。

「分かったならいい……」

「じゃあ、もう一回あの姿で触らせてくれる?」

「尻尾は駄目だからな」

 貸し与えられているトレーナーを脱ぎ、また狐へと転じる。服を咥えて一カ所に寄せると、そのままソファへ飛び乗った。

 ぽんぽんと太腿の上を叩いて招かれ、指示されるがままによじ登る。

「座って」

 言われるがまま、腰を下ろした。

「すごいなぁ。狐になっても知能は人くらいあるんだ」

『言われてみれば、……そうだな』

 狐の姿が持っているのは狐の頭に納まる量の脳であるはずで、人としての大きな脳をフルで使ったような会話ができているのは、言われてみれば不思議だ。

 うーん、と首を傾げると、喉の下をこしょこしょとやられた。やめろ、と前脚ではたき落とす。

「声? も変な感じなんだよね。耳を塞いでみるから喋ってみて」

 目の前で、晴雨が両耳を塞いだ。

『あかさたな』

「はまやらわ。やっぱり、はっきりと聞こえる。これ、空気を震わせる音じゃないんだな……」

 感動したように俺の両側を挟み、またもや、もみくちゃにする。彼が全力で撫でる度に、毛皮がぼさぼさになる。

 舌で舐めて整えていると、晴雨は俺の姿をまじまじと見つめた。

「その、さ。人として舌に毛が触れるのって、あんまり好ましくないと感じると思うんだけど、和泉さんはそうでもない?」

『そうでもある。けど、毛がぼさぼさのままでいる気持ち悪さが勝ってる』

 言い捨てて、またぺろぺろと毛を舐めて整えた。

 毛が乱れたら、こうやって直す、という意識の方が先に来るのだ。人としての意識が舌に毛が付くことを嫌がっても、狐としての反射に近い行動が先行する。

 ふぅん、と晴雨はつぶやき、俺の毛並みが整うまで待った。

「本体が魂で形作られているのかもね」

『…………?』

 ころり、と横になると、また骨張った指先が伸びてきた。前脚を捉え、裏へと触れる。指の先端で軽く押され、脚で押し返した。

 晴雨が掌を広げてこちらに向ける。ぱし、と前脚ではたいた。

「かわいいなあ……。和泉さん、何か食べたいものある?」

『油揚げと鶏肉』

「それは、和泉さんが好きなもの? 狐が好きなもの?」

『動物としての狐が好きかは知らない。けど、俺達の魂は神様から分け与えられたものだから、人は、狐が仕える神様に油揚げを供えるだろ? そっちに引っ張られる。鶏肉は狐由来かな』

「神話や言い伝え、伝承に好みが引き摺られる部分があるってこと?」

『たぶん、そう』

 へえ、と言いつつ、口端を指でむにむにとやられる。牙を観察され、仕方なく口をかぱりと開けた。

 牙の形状と位置を確認した晴雨は、小さな牙を指先で撫でる。

「やっぱり、魂が本体、ってことかな?」

『牙に触るな。噛むぞ』

「噛まれたら病気になったりする?」

『ならない』

 じゃあ、と掌を差し出してくる男を呆れた目で見つめ、噛み応えのある掌を甘噛みする。病気にならない、と俺は知ってはいるが、そう簡単に信じるべきではないはずだ。

 彼にとって痛くない程度に噛んで牙の痒みを取り、しがみついていた腕から離れた。

「何だろう……。調査対象の筈なのに、ずっと遊んでいたくなるな」

『真面目に調べろ』

 前脚ではたく度、彼は相好を崩す。この姿は、彼にとって庇護欲をかき立てるものであるらしい。

 狐の姿だと要求が通りやすいことに気付いた俺は、叶えて欲しい望みが出来る度に狐に転じるようになった。

 

 

▽4

 晴雨の仕事は、基本的には不動産の管理、らしい。

 といっても管理会社に任せており、大きな費用負担が発生する場合のみ連絡が入って、判断を仰がれる。金に困っていない晴雨は殆ど管理会社の言うとおりに運用しており、彼が細かな計算をすることはない。

 そんなんで大丈夫か、と尋ねたが、そもそも購入時に買い叩けるような物件しか買わない、と言っていた。管理会社も長い付き合いで、大量に物件を預けていることを理由に、費用が少なくなるよう融通を利かせてくれるそうだ。

「晴雨、ってあれか。ディレッタント、ってやつ」

 病院帰りに台所で食事を作りつつ、ソファに座っている晴雨と会話をする。

 通院を始めた先では、身体的な異常を探るための検査が終わり、医者と話をしての治療に移り変わってきている。

 今は晴雨が金を管理しているから浪費する余地はないが、いずれ俺自身が金銭を適切に管理できるようになる事が望ましい。身を持ち崩さないようにするための治療を行っていく、と医者は言っていた。

 洗ったピーマンをざるに上げ、ヘタをむしる。システムキッチン、と呼ばれる広くて新しいキッチンは使いやすい。

「他人から言えば、そうなのかもしれないな。不動産は生前分与で貰った物だし、境遇は僕の力じゃないけどね」

「そういうものか? 俺みたいに自分で稼いでも自分で溶かして路頭に迷うより、いいと思うけどな」

 種を取ったピーマンを半分に割り、細切りに分けていく。

 包丁は使い慣れず、まだゆっくりだ。指を切らないよう、反対側の指で猫を真似、刃先の位置をきちんと確認する。

 ぱさり、とページを捲る音が聞こえた。彼は会社の情報が載った分厚い冊子を捲っては、決算だかの数字を確認している。

「和泉さんって不思議なんだよね。基本的な金銭感覚があまりにも正常で。本当に怪しい投資とかギャンブルを見た時、好奇心に任せて手を出しちゃうんだろうな」

 驚くべきことに、俺を担当した医者もまた、狐に転じることができる一族のことを知っていた。

 というか、そういった人たちと深く付き合いがあり、動物の特性を加味して治療が出来る珍しい医師の一人だった。

 俺が儲からない投資やギャンブルに、と話した時にも、狐の好奇心の強さを挙げ、魂に由来する衝動をコントロールができること、を目標に加えていた。人間しか知らない医師には出来ないことだろう。

 切り分けたピーマンをお湯に通す。

 別の鍋には鶏肉がごろごろ入ったシチューがある。温まったことを確認し、火を止めた。トースターにパンを放り込み、水をセットしてつまみを捻る。

 料理は忙しない。

「医者にも将来のことを考えてるか、って聞かれたんだけど。そう言われると、あんまり考えたことがなくて反省した」

 ピーマンの色味がさっと明るくなる。清潔な布巾で水気を切って、調味料で和えた。二人分に取り分けて、小鉢に盛る。

 晴雨は本を閉じて台所に入り、皿を出しはじめた。パンが焼き上がると、皿に盛り付ける。

「一度、計算してみようか。専門的なものじゃなくて、平均寿命で死ぬとして、ざっくり…………。っていうか、和泉さんって人間の平均寿命で死ぬの?」

「個体差がある、とは聞いたことがある気がするかな。猫神の一族の始祖は、老いずに数百年生きている、と言われてるし」

「大体の自分の寿命も分からないの?」

「人間だって分からないだろ」

 そういうことじゃなくて、と食い下がる晴雨に、首を傾げる。彼は料理が冷めると判断したのか、大人しく引いた。

 二人で食卓を囲み、新しく増やした椅子に腰掛ける。食器類を磨くのが好き、食器に拘る家主の所為で、俺の皿はプラスチックのプレートだ。

 おそらく、このプラスチックが陶器に変わることはないだろう。

 時間をおいたシチューは、具材も柔らかくて美味しい。具材を切ってルゥの箱を見ながら作れば良いのも、料理初心者には有り難かった。

 香ばしい匂いのするパンにオイルを垂らす。がじ、と噛み締めると独特の匂いが混ざって立ち上った。シチューを口に運ぶ。乳製品の味わいは柔らかい。

「そういえば、もう少ししたら妹が来るって」

「そりゃまたなんで」

「こんど妹が婚約することになってね。食事会をするから、その相談に」

 両家の顔合わせ、といったところだろうか。良い家の子息なのだろうと予想していたが、案の定だ。

 晴雨はスプーンに中途半端にシチューを掬ったまま、手を止める。

「和泉さんのこと、しばらく滞在してる友人、って言っておいたから、話を合わせてくれる?」

「助かる。金のない無職を調査の対価として養ってる、って人聞きが悪いもんな」

「真実なんだけど、説明するには困るよね」

 彼にとっても、自分がしていることが他人には理解されづらい、という意識はあるようだ。向かい合って頷き合う。共犯者同士が行う相談のようである。

 パンが美味しいね、と晴雨が言った。だよな、と新しく立ち寄ったパン屋を褒め合う。

 すこし前までネットカフェのぱさついたパンを頬張っていたというのに、今齧っているパンは水分が残ってもちもちとしている。

 贅沢だ、心中だけでなく唸った。

「妹、ってどんな人?」

「僕より家族想いで、だからこそ柵から抜けようとしないね」

 言葉の含みから、思い当たることがあった。

「見合い結婚……とか?」

「よく分かったね。両親同士が昔からの付き合い、から発した話なんだよ。相手も昔から知ってる申し分ない人だけど、兄としては考える所はあるよね」

「反対なのか?」

「妹が頷いている間は、何も言わないよ」

 その兄に養われている俺は、更に何を言うこともない。見合い結婚、という言葉に何となく考えるものはあるが、大事なのは本人たちの気持ちだ。

 僅かに冷えたシチューを掻き込み、最後までパンと共に食べきる。ピーマン美味しかったよ、と褒めてもらい、心まで温まりながら二人で皿を洗った。

「妹さんにお茶出そうか?」

「そうだね。準備しておこうか」

 俺が茶筒を用意すると、晴雨は紙コップを取り出していた。妹に対しても、準備している食器はないらしい。

 妹が来ることは珍しいのだろうか。人付き合いについて無遠慮に尋ねることはできないが、気に掛かった。

 この家は、本当に晴雨だけが住むことしか考慮されていなかった。食器や日用品について、誰かが家を訪れる余地がないのだ。電気ケトルに水を入れながら、ぼうっとその事を考える。

「あ、チャイム鳴った」

 ケトルのスイッチを入れ、手招きする晴雨と共に玄関へと歩く。玄関扉を開けると、その先には晴雨に似た、美しい女性が立っていた。

 長くストレートな黒髪は艶やかで、結ぶこともなく背に流している。肌は白く、頬に乗ったチークの色が映える。長い睫毛に縁取られた目元は兄よりもきつめで、視線の強さのほうが印象深く思えた。

 くすみのある黄色のワンピースに、紺色のコートを合わせている。以前の仕事の癖でカバンの値段を推測してしまい、意図的に散らした。

「こんばんは。ええと……そちらが……」

「うん。話してた友達の和泉……瓜生和泉さん」

「初めまして、妹の小崎早依です」

 ぺこ、と頭を下げる早依さんに合わせて頭を下げる。食事中も捲ったままでいた服の袖をこっそりと直した。

「『さよ』さん……。こちらこそ、初めまして。晴雨さんにはお世話になっています」

 彼女が短いブーツを玄関に揃えて置くと、晴雨はストッキングを履いた足元にスリッパを添える。ありがと、と短い礼と共に、早依さんは脚を通した。

 ぱたぱたと耳慣れない、小刻みな足音が廊下に響く。

 リビングへ入ると、彼女はソファに腰掛ける。晴雨が先にお茶を淹れに行ってしまったため、席を外すタイミングを失って立ち尽くした。

「……あれ、和泉さんどうしたの? 座りなよ」

「いや、家族の話だからそろそろ席を外そうかと……」

 戻ってきた晴雨はお盆に三つコップを載せており、あたかも俺がいる事を想定していたかのようだ。

 早依さんはいちど目を伏せ、にこり、と俺に笑いかける。

「お兄ちゃんが三つお茶を用意してしまったし、飲んでいってください。瓜生さんが聞いてもつまらない話でしょうから、話している間は、別のことをして頂いて構いませんよ」

 じゃあ、と用意された紙コップを受け取ろうと手を伸ばす。

 だが、晴雨は元々の彼の所有物である陶器のカップを俺に押し出した。戸惑いながらも、カップを受け取り、スツールに腰を下ろした。

 客人にいちばん良い器を、ということだろうか。熱いお茶を口に入れてしまい、唇を舐めながら飲み直す。

「それで、食事会のお店なんだけど……」

「ああ」

 晴雨はソファに座り、飲み物を片手に話を始める。

 互いの家族の顔合わせ、という食事会らしいが、両親同士は昔からの知り合いらしいし、晴雨も婚約者とは面識がある。

 彼女は食事のパンフレットを取り出し、店の印象を兄に尋ねている。兄からしても反対ではない店のようだ。続いて、晴雨の嫌いな物を確認していく。

 無意識に手元に引き寄せた本は、先ほど家主が読んでいた会社の数字が大量に載っている書籍だ。特に目を通していても頭には入らない。

 服装の確認を終えると、日程の調整に入った。早依さんが開いた手帳に候補日として書かれた日付の中で、晴雨は第一希望から順に挙げていく。

 この日は駄目、とは言わなかったが、彼の中でも希望順位があるらしい。

「日程が纏まりそうで良かった。あちらのご家族にも相談してみるから、決まったら連絡するね」

「よろしく。『婚約者くん』は元気?」

 間が空いた事が気になり、視線を上げる。ぴく、と早依さんの眉が動いたのが見えた。

「……元気よ。体調を崩したら助けるわ」

「仲が良さそうで安心したよ」

 話としては一区切りついたようで、あ、と思い出したように彼女は声を上げる。

「実家から持ち出した本で、貸してって言ってた本。用意してある?」

「ああ、紛れてたやつか。持ってくるよ」

「お願い。受け取りも兼ねて来たんだから」

 晴雨が出て行くと、早依さんはくるりと顔をこちらに向けた。ばっちりと目が合う。ぱちり、ぱちりと瞬きをすると、彼女は膝をこちらに向ける。

 明らかに話がある、という態度に、俺も手元の本を閉じた。

「兄と、お付き合いされてるんですか?」

「は?」

 友人、と説明したのではなかったか。

 俺の態度に、彼女はむっとしたように唇を尖らせる。声の調子が荒れた。

「誤魔化さなくていいです。何日か前に通りかかった時、貴方の姿を見ました。今日明日、ということじゃなく、ずっと兄は貴方を泊めてるんでしょう。私たちだって、家に来ることを渋られるのに」

「いや……、ええと。恋人じゃないのは本当で……」

 どう伝えようか迷いながら、妹でさえも家に入れていなかった、という事実には納得した。カップも一個、食事も一セット。スリッパは数日前に買っていた。

 ここは、ひとり暮らしに最適化された家、かつ、来客を想定していない家だ。

「兄が、家が決めた婚約者を蹴ったこと、聞きました? 嫌いなものを、絶対に懐には入れない人なんです。こっちの家に引っ越すことも自分で決めて、最近まで私たちとの連絡も最低限だった」

 家にいる間、晴雨は極端なほど携帯電話を触らない。頻繁に連絡を取る必要がある人がいない、とは見ていて分かった。

「でも、たぶん、貴方と付き合いはじめたからなんですよね。私を、今日、家に入れてくれたの」

 はあ、と彼女は大きく息を吐いた。綺麗に整えられた髪を握り潰して、放す。ふわり、と長い黒髪が散らばった。

「でも、私は兄のつが────恋人が。貴方なのは嫌です。だって、貴方の魂、どす黒いんだもの。煤の中に、何十年も置かれてこびり付いたみたい。貴方……いままでどう生きてきたの……?」

「………………」

 ごく、と息を呑むと、耳元で妙な音が鳴った。

 妹である彼女も、俺の魂が狐であることを視ているような言葉だった。その上で、俺の魂をどす黒い、と表現している。

 割に合わない商品を売る手伝いをして、それを厭だと思いながら抜け出なかった日々を思い出す。結局、俺は金がなくなって尚、晴雨に金を出させて生き存えている。

「外見をどれだけ化けられても、その魂の色、私たち一族には視えるんだから。……兄が、なんで貴方を恋人にしたのか、理解できない」

 ふい、と彼女は顔を逸らす。

 喉が渇いて、緑茶の入ったカップに手を伸ばした。もう中身は冷たかった。

 俺がどう立ち直っても、過去は消えない。どす黒くこびり付いた物も消えない。金が無かったから、人を騙して許される訳もない。

 俺という人間を、言い当てられたような気がした。

「────お待たせ。これだったっけ?」

 晴雨は戻ってくると、早依さんに本を差し出す。彼女は本を受け取って、礼を言った。カバンの中に本を仕舞うと、用事は済んだとばかりにさっと席を立つ。

 もしかして、俺と話すことも含めて、用事、だったのだろうか。

「じゃあ、お邪魔しました。帰るね」

「ああ、送っていく」

「ありがと。近くのコンビニに『優しい婚約者くん』が迎えに来てくれてるの。そこまでで大丈夫」

 そう言うと、二人は連れ立って玄関を出て行く。俺はスツールに腰掛け、呆然と顔を覆った。

 仕事を指示されたからといって、実行したのは間違いなく俺だ。言い当てられた罪が、胸にずしんとのし掛かる。

 温かい家で、食事を食べて、風呂に入って眠る。騙してきた人達が、そんなことすら出来ていないかもしれないのに。

 考え込んでいると、玄関が開く音が聞こえた。無意識にふらりと立ち上がって、玄関まで向かう。

「ただいま。あれ? 何かあった?」

「…………いや、普通に。出迎えを……」

「そう? 嬉しいな」

 わぁい、と手を広げてハグされる。広い腕の中で、ぱちくりと目を開く。

 俺が大人しくしているのが意外だったのか、あれ、と晴雨はこちらを覗き込んできた。はっと我に返る。

「やめろって……、妹さん。俺と付き合ってるんじゃないか、とか誤解してたぞ」

 そう言った時、彼の眼が眇められた。

 冗談、と切り捨てられるかと思いきや、晴雨は一瞬だまり込む。

「僕が君の魂に一目惚れをして、拾ったって言ったらどうする?」

「は……。いや、…………冗談だろ」

 乾いた笑い声を上げると、俯いた瞳に影が差した。呆然と移り変わっていく表情を見ていると、腕が動いた。

 ぎゅう、と痛いくらい身体を締め付けられる。ぱっと手が放れた。

「冗談だよ」

 浮かべた笑顔は完璧だった。完璧すぎて、作り物のように思えて、仮面の奥を探ってしまう。

 彼の魂の色が見えるとしたら、どんな色をしているんだろう。抱かれた時の感触が残った肌が、ひりひりと傷んだ。

 

 

▽5

「おーはよ!」

「うわ……!」

 朝から洗濯籠を抱えていると、背後から抱きつかれた。

 妹から付き合っていると疑われている、と釘を刺した日から、逆に晴雨からのスキンシップが増えた気がする。

 何故かはまったく分からないが、人が近くに住むのも慣れなければ、人から触れられるのも慣れない。金を稼ぐ手段として女性の姿で水商売、という手段もあった筈なのに、俺はあまりにも嫌でその道を選べなかった程だ。

 晴雨に対しては、その拒否感が出ないのは不思議だが、慣れることはない。

「な……!? なんだよ!」

「ふふふ」

 背後から抱きつかれても、籠で手が塞がれている所為で引き剥がせない。ずるずると家主を引き摺って、廊下を歩く。

 玄関を開くと、眩しいほどの日差しが溢れた。

 仕舞っていた物干し竿を晴雨が持ってくると、カコン、と音を立てて水平にセットされた。リビングにある大窓は、そのまま庭へと繋がっている。窓を開け、洗濯籠を置いた。

 各々が洗濯物を持って、干し始める。家主は優しく、時間が掛かりそうな仕事はこうやって手伝いが入る。

「俺のパンツは干さなくていいから……!」

「大丈夫。僕は干したくて干してる、よ」

 普段は落ち着いた声音なのに、打って変わって語尾がぴょんと跳ねた。

「俺があんたのパンツ干してもいいのか……!?」

「干してくれるの……?」

 冗談か本気か分からない、強請るような上目遣いに、うっと口籠もる。雑に洗濯籠の中から相手の物らしきパンツを掴むと、洗濯バサミで挟んだ。

 おお、と呟いている晴雨は無視して、次の服の皺を伸ばす。

「今日、いい天気だね。どこか行こっか?」

「行ってもあんたの奢りになるぞ」

「うん、嬉しいよ。うちにある本って古い物が多いから、本屋に連れて行きたいと思ってたんだ」

 ばさ、と晴雨は両手で白いシャツを振る。

 ふわりと舞い上がった裾が、水色の背景の中に浮き上がった。ぶわ、と風か吹き抜けていく。彼が旗を振って、大気がそれに応えたかのようだった。

 携帯電話を使わない所も、家にいてもいないほど静かになる所も。そして信用のおけない人間を家に置く所だって、何というか、浮世離れしすぎている。

「服、貸してくれるか。並んで変に思われる服しか持ってない」

「いいよ」

 脚の長さはずいぶん違うが、折り曲げてしまえばどうにでもなるだろう。洗濯物を干し終えると、家の中に入り、内側から籠を回収した。

「朝飯どうしようか」

「駅でモーニングにする?」

「あんたが良いならそれでいいよ」

 二人で晴雨の洋服が仕舞ってあるクローゼットへと向かった。彼の服もまたお気に入りだけが揃って数が多くはないのだが、食器に比べればまだバッファがある。

 晴雨はハンガーごと服を持ち上げ、俺の胸元に当てる。

「ホットサンド好き?」

「好き」

「中身は何がいいかな」

「鶏肉」

「…………僕も」

 くすくすと彼は笑うと、服が決まったようで俺に一式を押し付けた。部屋着を脱ぎ、その場で服を身に付ける。大きな姿見は、この部屋にあるからだ。

 黒のワイドパンツに詰め襟の生成りシャツ、その上にモカ色のベストが与えられた。一番上の長いコートはくすんだオレンジだ。

 俺が着替えているのを、視線が追ってくる。あまりにもやりづらくて、振り返ってきっと睨み付けた。

 晴雨は肩を竦める。

「いや。肉付きが良くなったかも、って思ってね」

「それは、医者にも言われたな。あんたに飯をたかって力を付けろ、って」

「あの先生さぁ。そういうこと言うんだよ」

 晴雨もまた服が決まったようで、部屋着を脱ぎ落とす。仕事自体はのんびりしているが、周囲を散策することが多いからか、適度に筋肉量を保っているのが分かる。

 服の下に隠れている皮膚は白く、ぼうっと浮き上がって見えた。濃いネイビーのジーンズに、黒いタートルネック。短いコートはオフホワイトだ。

 今日のサングラスは暗い色だが、僅かに緑がかっている。

「サングラス、好きなのか?」

「単純に外が眩しいんだよね。あ、日焼け止め塗ろ」

 ついでに俺の露出している部分にも日焼け止めを塗ってくれて、そのまま洗面所へ引っ張っていかれた。ワックスで普段は跳ねがちな茶髪を整えると、服装も相俟って普段よりも上品だ。

 晴雨の黒髪は手入れが少なくていいように切っているのか、軽く毛先を遊ばせただけで調整は終わった。

「かっこいいね。和泉さん」

「晴雨もな」

 はっと口元に手を当てる。気が抜けていたのか、恩人相手に年下らしい呼び方をしてしまった。

「呼び捨ては嬉しいよ。近くなれたみたいで」

「そ……か。世話になってる、って気持ちは抜けてないんだけどな。気が抜けて、つい」

「分かってるって」

 晴雨は、俺が普段お小遣い用として使っている財布……といっても元の財布より高価そうな代物なのだが……にお札を足すと、お小遣い財布と携帯、ハンカチを俺に持たせる。

 これくらいならポケットに仕舞えるので、地面に擦った痕のある手持ちのリュックは置いていくことにした。

 外に出ると、日差しは温かいのに風が冷たい。まだ地面の温度も上がりきっていないようだ。門を閉めると、駅に向かって歩き出す。

「晴雨さん」

「はーい」

「晴雨くん」

「…………! はい」

「晴雨」

「はい……!!」

 最後が嬉しそうなので、頭の中で新しい呼び名を慣らしていく。少し肩の荷が下りたというか、近くに寄ってもいい、と許しを得たような気がする。

 平日の住宅地は、通勤、通学のために歩く人ばかりだ。すこし前までは、あちら側に近かったのに、今はのんびりと誰かと連れ立って道を歩いている。

「和泉さん。ほら、キナコさんのご自宅って駄菓子屋の隣なんだけど、鉢植えの菊を育ててるんだよ」

「へぇ……やけに大輪だな」

 黄色と白。他の色もあったが、その二色が目に留まった。

 花弁は細く、円を描くように構成されている。風が吹けば僅かに揺れた。

「花弁がふわふわしてて、狐の毛並みが恋しくなるね?」

「ならない」

「えー」

 両手を握ったり開いたりする晴雨の服の裾を掴み、道を歩き出す。のんびりし過ぎて、駅に着いたら昼、になりかねない。

 住宅街を抜けると、新しい建物の駅が姿を現した。正面隣にホットサンドを取り扱っているカフェもある。

 何も言わずにカフェに入ると、すぐに席に案内された。モーニングのメニュー表から、チキンとチーズ、野菜が挟まったホットサンドのセットを指差す。

 同行者も同じセットが良かったようで、店員を呼んで注文を済ませた。

「ここ。適度に混んでていいな」

 外観は白く塗り直されて新しいのだが、机やテーブル、床は少し年季が入った木造りだ。ただ、磨き上げられている所為か味わいがある。

 店内は朝だからか混みすぎということもないが、席は半分ほど埋まっていた。

「そうだね。僕もあんまり混んでると、相席を求められるから面倒で」

「あんた美形だもんなぁ……」

 しみじみと言うと、晴雨は目を丸くする。

「和泉さんの感覚でも、僕の顔って『美形』の範疇に入るんだ?」

「うん」

「好み?」

 問われて、頷きそうで踏みとどまった。この顔は眺めていて楽しくなる顔だ。だが、素直にそれを告げるのは何故か憚られた。

 うーん、と首を傾げてみせる。

「観賞する分には好み、って感じだな。さっきの菊みたいな」

「えー。触りたくないって事?」

「そういう訳じゃないけど……」

 彼を見ていると、時おりぞっとするような凄みを感じることがあるのだ。美しさには温度感がある。彼が黙って集中しているときの美は、圧倒的に冷たい。

 雪原の白。触れたら指先がかじかむような冷たさに、指を伸ばすのを躊躇う。

「和泉さんの顔は、誤解されやすそう。喋ってるとそうでもないのに。動物の狐じゃなくて、あの、狐面みたいな印象」

「はぁ……まあ、目尻がちょっと上がってるから、そう言われることもあるかも」

「化けたらお目々きゅるきゅるの、かわいこちゃんなのにね」

 彼はまた両手を開いて閉じて、とやっている。狐姿をもふもふする感触は晴雨のお気に召したらしい。

 頼み事を狐姿ですると百発百中だし、クッションの上に狐姿で丸まって日向ぼっこをしていると、よく写真に収められている。

「君の魂は環境によって色を変えるけど、本質はあの『かわいこちゃん』だと思うけどね。僕は」

「………………」

 冷たいコップを持ち上げて、口に含む。

 兄と妹は、正反対のことを言う。二つの姿を持つ存在であるが故に仕方の無い事かもしれないが、困惑するのも事実だ。

 話題を変えて話していると、頼んだメニューが届けられる。二人して味を絶賛しながら食事を終えた。

 店を出るとき、晴雨に頭を下げる。

「ご馳走様でした。美味かった」

「うん。美味しかったし、和泉さんと外食できて楽しかった」

 頬を掻いて、先に歩き出す。背後から追ってくる足音がした。

 電車に乗り、店が集まっている駅まで移動する。元々住んでいた地域とは違い、通勤ラッシュに区切りが付いて尚、乗っている人が多い。

 席もあまり空いておらず、二人で隣の席になる。肩が触れる度に、なんだか気恥ずかしい。

「和泉さん、次だよ」

「あ……、ああ」

 腕に触れられ、変にびくつく。

 電車を降りると、離れないように近づいて歩いた。彼から与えられた服を着ていても、釣り合わない、友人だとは思われないような二人の筈だ。

 視線に怯えながら周囲を見渡して、向けられたものが無いことに安堵する。

 駅を出てすぐ、何階もフロアがある書店に入った。俺が興味深そうに端にあるフロアマップを見ている間、晴雨はただその場に佇んでいた。

「和泉さんって本好きだったよね。興味のあるジャンルから見てったら? 何階に行きたい?」

「……興味のある、ジャンル?」

 俺は問い返して、黙り込んでしまった。様子がおかしいと思ったのか、晴雨の腕が伸び、肩に触れてくる。

 伝えても、怒られはしないだろう。そろそろと口を開く。

「金がなくて……本を、あまり買ったことがない。俺、駅のゴミ箱に捨てられてる本とかを拾って読んでたから。なんに興味があるのか、分からない」

 肩に触れている指に、力が籠もった。

 綺麗な顔がこちらを覗き込み、にこり、と笑う。

「じゃあ、ちょうど良いんじゃない。一階から全部見てけば」

 肩を反転させられ、書店内を向けられる。

 ちらちらと動く、色の洪水があった。

 ポスター、書影、本の背、そして書店員の薦め書き。その中を、幾人もが留まることなく動いたり、立ち止まって眺めていたりする。

 色鉛筆のセットでは描き切れない。文字が表紙から飛び出して、多彩な波になっていた。

 圧倒されていると、大きな掌が、ぽん、と背を叩く。

「僕、新刊のコーナーを見るから。どこから見たら良いか決まらないなら、そっち行こ」

「うん……!」

 晴雨の家には古い本が多いが、置かれていた新しい本の中で見知った名前が時おり現れる。俺が手に取って差し出すと、晴雨は嬉しそうに背面へと裏返す。

 同じように、興味を持った本のあらすじを読んだ。ひとつ。読みたい、と思う本を見つけた。

 他の本よりゆっくりと元に戻して、一度だけ、背表紙を確認する。もし、また自分で稼げるようになったら、その時に買おうと思った。

 だが、ひょい、と晴雨が置いたはずの本を持ち上げてしまう。

「この著者、和泉さんが気に入って読んでるやつだよね? 買おっか」

「あ。いや……また働けるようになったら、買おうと思って……」

 彼は持ち上げた本を元に戻さない。

「僕も読みたいし。じゃあ、和泉さんが稼げるようになったら買い取ってよ」

「分かった……」

 気を遣われたのかもしれないし、元々は彼の持ち物で、好きだった著者なのかもしれない。ただ、彼が言うように買い取りたい、と思った。

 その為には、自分で稼げなければならない。自分の脚で立って、その上で、娯楽を自分で手に入れられるようになりたい。

「俺、持つよ」

「そう? ありがと」

 本を俺に預けると、二人して次のコーナーへと移った。手の中の本は、ずしりと重たい。

 書店を巡るのは楽しかったし、沢山の本を手に取って、読書欲も満たされた。だが、湧いた何かが心を占めて、自らを急かす。

 生きる以上の目標が、また一つできてしまった。

 

 

▽6

 病院への通院の日、俺は医師に、働きたいと考えている、と告げた。

 医師は反対はしなかったが、俺の前職についても伝えてある。次の仕事は、周囲へ相談の上で決める事を勧められた。

 もし、下手に同じような仕事を始めてしまったら、治療の意味もなくなるだろう。俺は素直に頷いて、通院を終えた。

 家に帰ると、晴雨が洗濯物を取り込んでいた。俺の服も買い足されて増えつつある。

「おかえり」

「ただいま」

 ちょうど取り込みが終わったところで、物干し竿を片付ける。空は曇って、雨が降ってもおかしくない。

 二人で玄関を潜ったとき、ぽつぽつと地面の色が水玉模様になりはじめる。

「セーフ」

 洗濯籠を抱えてリビングに入り、善は急げと畳み始めた。晴雨も仕事に戻らず、一緒に洗濯物畳みを始める。

「今日さ……医者にまた働き始めたい、って話をしたんだけど」

「そっか。それで?」

 続きを促す言葉は自然だ。

 合間に、窓の外からしとしとと雨垂れの音が届く。

「全く駄目、って感じじゃなかったけど、晴雨に相談しつつ進めたら、って言われた」

「ああ……。そうだね、あんまり重い仕事を始めると、和泉さん、またぶり返しそうだから。最初は時間とか、身体的な拘束が少ない仕事がいい気がする」

 彼の言葉は尤もだ。慣れない仕事で一杯になってしまったら、また俺は精神的苦痛を消化しようと、ギャンブルへ手を伸ばすかもしれない。

 彼は白いタオルの皺を伸ばし、四つ折りにする。

「和泉さんは、僕が紹介した仕事先、って抵抗ある?」

「…………抵抗、っていうか、申し訳なさはある。衣食住から、仕事まで、って」

 晴雨は顎に指を当て、数度叩いた。

「僕、和泉さんの狐姿、かわいい、って言ったじゃない?」

「ああ、まあ……」

 冗談半分として受け取っていたが、目の前にいる男の目は真剣だ。

「動物をタレントとして登録して、仕事の依頼があった時だけ働く、ってプロダクションがあるんだけど。そこ、人と動物の姿を持つ人たちも所属してるんだよね」

「え……? 猫神の一族とかか?」

「そう。登録後に仕事が来るかは分からないけど、だからこそ登録だけならハードルは低いと思う。そういった一族の出身者はそもそも少ないし、和泉さんに抵抗がないなら、応募書類を用意してみるのはどうかな、と思ったんだけど……」

 今までは、女性としての姿を利用して働いていた。狐の姿の方、は考えてもいなかった。おそらく撮影モデル、という形が多いのだろうし、べたべたと触ってくる人がいても足掻いて逃げればいい。

 一気に自立することを求めないのなら、過程としては適切な勤め先に思える。

「でも、そうしたら、ここを出て行くのは遅くなるぞ……?」

 言葉を発して、声音に潜む、強請るような響きを自覚する。俺は、ここを出て行きたいと思っていないのだ。

「まだ調査は進んでないし、終わったとしても明日から出てけ、なんてこと言わないよ。和泉さんにはきちんと地盤を固めて欲しい。僕のことは、気にせず利用したら?」

 こくん、と頷いて、輪郭を解く。

 狐に化けると、晴雨の膝に乗り上がった。視線を上げると、驚いたような顔がある。すり、と相手の腹に頭を擦り付けた。

 腕が伸び、頭を撫でられる。

「ありがとう、ってこと?」

『うるさい』

 文句を言いつつ、太腿の上でころりと転がる。腹を見せ、好きな所を触れ、とばかりに四つ脚を投げ出した。

 真っ白い腹部は急所で、その部分を見せるのは服従であり恭順のあかしだ。

「え? そんなとこまで触って良いの?」

 尋ねつつ指先は白い毛に埋まっている。もぞもぞとした感触が腹のあたりを這っていく。狐の姿でなければ、おおごとだ。

 彼は延々と無言で触り続け、はっ、と憑き物が落ちたかのように我に返る。

「そうだ。折角だから応募用の写真を撮ろうか」

『確かに、必要だよな』

 洗濯物を押しやり、彼は自身の携帯電話を持ってきた。普段はあまり使われていないが、新しい機種のように見える。

 光の位置を確認すると、窓辺に寄らされた。

「かわいい感じのポーズして」

『かわいい……?』

 その場で、たた、と脚踏みをする。首を傾げる俺に、晴雨も考え込んだ。

「和泉さんがかわいい時は、甘えてる、って明確に伝わる時かな」

『明確に、甘える……』

 寝転がり、ふかふかの前脚に頭を乗せる。その状態で、相手を見上げるように口元を上げた。

 パシャパシャとシャッター音がする。ころん、と身体を回しても、相手の目を捉えたままでいた。自分の毛が豊かな部位を見せつけ、顔を擦る。

 あと毛が豊かなのは、尻尾だろうか。身体の前方へと動かし、相手に見えるようにした。シャッター音が止まる。

 晴雨の顔が、腹のあたりに突っ込んでくる。毛が頬にめり込んだ。

「和泉さん! 和泉さん……!」

『……発作を起こすな』

 相手の肌を動かした尻尾で擦り、両前脚で挟み込む。明確にサービスをしてやった事はあまり無く、目の前の男から、あぁ……、と蕩けるような低音が漏れ出た。

 撮影はどこへやら、男はもぞもぞと腹のあたりで感触を楽しみ、動けなくなった俺は天井を見つめながら転がる。

 尻尾は行く宛てもなく、たしたしと床を叩き続けていた。

 

 

 

 晴雨の知人を経由して、特殊な一族であることを動物プロダクションとやらに伝えると、書類を受け付けてくれることになった。良い写真を選び、簡単に狐としての俺の情報をまとめた書類を同封する。

 正式に登録が受理されるのには、そう時間は掛からなかった。講習にも呼ばれ、プロダクションの施設内を案内される。

 まだ仕事は来ていないが、『狐は珍しい』のでいずれ回ってくるだろう、とスタッフは言っていた。

 そして、準備金、という名目でいくらかお金を受け取った。俺はそのまま晴雨に渡そうとしたのだが、彼は受け取ってはくれなかった。

「いろいろ滞納してる分があるでしょ。まず返済から」

「ごめん。そう……だよな……」

 晴雨の言い分はもっともで、それから滞納していた各所に連絡して、返済の算段を立てさせてもらった。真面目に返そうと思っている、と謝罪し、数字を持っていくと、どこからも無茶な返済を提示されることはなかった。

 実家にも連絡を入れ、溜めていた分の返済を再開する旨をメッセージで伝える。予想外に、無理はしなくていい、と返事があった。優しさがかえって辛かった。

 余りにも手続きが細かく、全てが落ち着いた頃にはぐったりしてしていた。

 だが、漏れのないように、と調査を手伝ってくれる晴雨がいる以上、途中で止めることなどできなかった。

 金庫に仕舞ってあった財布は、その時、正式に俺の元に返ってきた。一緒に『現金出納帳』と書かれたノートを貰う。余っていたらしい。

 中はお金を何に使ったかが書き込めるようになっていた。早速、準備金の入金があった、と記録して、返済計画を記載していく。

「こんなものがあるんだ。日記帳みたいだな」

「補助的なものだけど、仕事にも使う帳簿だよ。会社でも物は買うでしょ」

「確かに。これ、晴雨へ報告するとき欄が整理されてて見やすい」

 無駄にお金を使っていないか、という監視してもらう為にも良い資料に思えた。俺がこっそりと目を輝かせていると、晴雨は拳を口元に当てる。

「衝動が強すぎる。……けど、目標を作って、好奇心をそちらに向けたら。衝動は別方向に強く働くのかもしれないね」

「…………?」

 俺は首を傾げると、貰ったノートをテーブルの上に置いた。ノートの表面に名前を書く。贈り主は隣で笑っていた。

 今はお互いに食事と風呂を終え、寝間着で寛いでいる所だ。眠気が増せば、寝ようか、と示し合わせることになるだろう。

 晴雨が瞬きを増やし始めたのは、それから直ぐのことだった。

「和泉さん。僕は眠い」

「分かった。寝るか」

 連れ立って晴雨の寝室へと向かう。

 最初の頃はソファと晴雨のベッドを交代制にしていたが、やがて、俺が化ければベッドの端で眠っても家主の不自由にはならない、と気付いた。

 それからは、示し合わせて寝台に行き、俺は化けて寝台の端を陣取るようになった。

 その日も部屋の中で変化し、とことこと室内を突っ切る。跳ね上がってベッドへと乗り、端っこを踏み固める。

 くるり、と丸くなった。

「和泉さん、ブランケット」

 よく貸し与えられているブランケットを身体の周囲に巻き付けられると、堪らなかった。ころんころんと柔らかい布の上を転がり、匂いを堪能する。

「そのブランケット好きだよね。感触がいいの?」

 伸びた腕が、ブランケットごと俺を撫でる。晴雨の匂いが強くなった。普段、近くにいる匂いに包まれている。

 ぱちん、ぱちん、と大きく瞬きを繰り返した。

『うん。触ってて気持ちいい』

 ぎし、と寝台に人間の体重が掛かると、表面が沈み込む。両腕が伸び、俺の身体を抱え上げた。

 彼は寝台に転がると、自分の胸の上に俺を乗せる。別の体温を毛皮越しに感じた。

「偶には、僕の近くで寝てよ」

 晴雨は器用に脚で布団を蹴り上げると、そのまま手で掴んで胸元まで引き上げる。のし、と重たい布団が俺の身体に乗っかった。

 近すぎる距離に混乱しながら、もぞもぞと位置を探る。

『あんたが重くて寝られないだろ』

 顔を上げると、美しい顔立ちが目の前にあった。鼻先が触れ合うほど近く。喋れば吐息が掛かってしまう距離だ。

 誰でも、────ひと目で恋に落ちてしまいそうな。

「じゃあ。枕の横?」

『仕方ねえなぁ……』

 半分だけ頭をずらしてスペースを空けてくれる。俺は胸の上をもぞりと這って、彼の枕の半分に頭を預けて丸くなる。身体の一部が彼の肩や腕に当たっていた。

 やっぱり顔が近い。俺の方が眠れなくなりそうだ。

 腕が伸び、照明が落とされた。窓からの光以外は、目の前に光量はない。家の前の道を時おり車が通る以外は、自然の音しかしなかった。

 晴雨は時どき目を開いたり閉じたりしつつも、睡眠には至っていないようだ。俺はそんな彼を、闇に慣れた眼で見守る。

「────和泉さんと最初に会った時さ……お金に困ってる、ってのは直ぐ分かったんだよね。服はしわしわで毎日洗えてる感じなかったし。大人なら珍しい駄菓子屋に入ったら、ほら、見栄を張ってたくさん買うでしょ。そういうこともなかった」

 あの辺には銭湯もある、と晴雨は言い当てた。安い値段で入れる風呂だから、そういった人、も来るのだ、と彼は言った。

 目を見開いて、なんで家に呼んだのか疑問に思う。

「なんで家に呼んだのか、って顔してる」

『そりゃそうだろ。わざわざトラブルを起こしそうな人間を……』

「なんでだろ。魂が見えたから、かな」

 彼には見えない闇の中で、びくん、と背筋を震わせる。妹……早依さんが嫌悪した魂を、目の前のひともまた見ているのだ。

 自分がここにいるべき人間ではない事を、言葉にされてしまうのが怖い。わざと音を立てて欠伸をして、彼の近くで丸まった。

「魂が────……。……あれ、眠い?」

『…………ずっと眠い』

「そっか。ごめん、寝ようね」

 晴雨は伸びをすると、今度こそ固く目を閉じた。そろそろと代わりに目を開けて、息を殺し、眠りつつある横顔を眺める。

 もう、その瞼を開いてほしくない。彼が、俺の魂をどう思っているのかなんて知りたくない。

 煤がこびり付いて汚れた魂の色を、俺すらも見たくなかった。

 

 

▽7

 動物プロダクションのスタッフが言った通り、俺に対しての撮影依頼は日に日に頻度を増していった。おそらく誰に対しても仕事、と呼べるくらい時間を割いている。

 接する職員も俺と似たような一族と関わり慣れており、以前の職場で聞いた怒声が嘘のように、晴雨に似た面倒見のいい人ばかりだ。

「────何よりも、真面目に働く『狐』は、珍しい」

 休憩ブースに腰掛けて机を囲み、龍屋、という名札を付けたスタッフがそう言う。

 プロダクション内では猫神と狗神の一族を見かけた。その双方の面倒を見ているのがこの青年だ。

 特殊な一族への慣れを買われたのか、この龍屋が俺の面倒も見てくれている。

「じゃあ、この明細、間違ってないのか」

 最初の給料、と呼べるような明細を貰い、あまりの高額さに間違いか尋ねにいったのだが、龍屋は事務室に依頼ごとの報酬資料を貰いに行き、提示した上で丁寧に説明を入れてくれた。

 彼は頬を掻き、申し訳なさそうに眉を寄せる。

「猫神の一族なんかはあまり細かなことに頓着しないから、配慮が足りなかった。納得してもらえたか?」

「こちらこそ悪かった。間違っていたら、そんなに払わせるのは申し訳ないと思って」

 互いに苦笑いを浮かべ、印刷してもらった資料を仕舞った。

 これで、予定通りに返済しても余りが出るだろう。受け取ってもらえない生活費は、入れさせてもらえるだろうか。

 パチンコ、スロット、競馬に競輪に競艇。それらよりも、これから晴雨へどう恩を返していくかに、好奇心の先が向いていた。

「お話、終わった?」

 ちょこん、と近づいてきたのは猫神の一族でもある可愛らしい青年だった。

 龍屋と仲が良いようで、よく彼の周囲をちょろちょろしている。俺が頷いて見せると、ぱあっと表情を明るくし、龍屋の腕に抱きついた。

 お熱い様子に、俺は目を丸くする。

「玲音……!」

 玲音、というのは目の前にいる猫の青年の名だ。確か、花苗玲音という名だった。龍屋はくっついた花苗を引き剥がす。

「仕事中だろ」

「もう休憩でいいでしょ」

 目の前で言い合う二人の言葉は、テンポが良い。会話に慣れた間柄のように思えた。

「それに、瓜生さんだって……」

「ああ、いや。仲良いんだな」

 俺が龍屋にそう言うと、腕にしがみつく猫は俺を見上げて眦をつり上げる。威嚇するような表情だった。

 彼らの関係が特別なのは、見ていてすぐ分かった。何となく、花苗から龍屋の気配を感じたのだ。魂を染めるほどの関係なのだろう。

「取りゃしねえよ」

 そう言うと、ほっとしたように龍屋にごろごろと甘え始める。龍屋を見る視線が強いと思っていたが、この二人は間違いなく恋人同士、らしい。

 一族の生殖は、指名された者が誰かに染められた魂を分けることで行われる。生まれたままの、純粋な魂を分けることは禁じられている。

 魂を染める為には、身体を重ねるのが手っ取り早い。そして、恋人が魂を染められる存在でさえあれば、同族であろうと別種族であろうと、人間であろうと構わない。雌雄で殖える訳ではないからだ。

「……付き合ってるのか?」

 問いは、龍屋に向けた。迷いなく頷かれる。

「何となく、そこの『腕にくっついてるの』から龍屋さんの気配がして。魂の混ざり方が濃いのかもな。俺はあんまり魂が視えない質だし」

「それを言うなら、瓜生さんだってそうでしょ。『狐』の気配がする」

 この猫は、俺の種族を知らなかっただろうか。不思議に思いながら、訂正のために口を開く。

「俺は狐だ。狐の気配くらいするだろ」

 猫……花苗は、む、と唇を尖らせた。

「それくらい知ってるよ。別の狐っぽい気配がする、ってこと」

「別の狐……?」

「…………え? 僕、間違えてる……?」

 俺が考え込んでいる様に、目の前の花苗のほうが慌てている。

 魂から別人の気配がするほど混ざる、というのは並大抵のことじゃない。俺が知らないうちに魂を混ぜられているというのは、異様なことだった。

 呆然と、言葉を発した。

「魂を混ぜられておいて、相手が分からない、ってこと、考えられるか?」

「……普通は、魂を意図して混ぜようとするくらい力のある一族が近くにいれば、何となく分かるよ。でも、狐でしょ。『化かす』の得意だから、気づけないかも」

 狐の魂、というのは人々の想像が反映されて変幻自在。人のみならず力の弱い同族さえも騙せるもの。

 だとすれば、花苗の勘違い、と共に、俺が気付いていないだけ、もあり得る気がした。

「僕の勘違いだったら、変なこと言ってごめんね」

「いや。知らないうちに魂が混ぜられてるとしたら、意図が分からなすぎて気味悪いな……。気をつけておくよ」

 龍屋は何か言いたげだったが、言葉を飲み込んだ。その代わり、何かあれば、と連絡先を差し出してくる、乗っかった花苗の連絡先と共に、携帯電話に登録する。

 今までは晴雨しか頼れる人がいなかったから、正直、安堵した。少し増える予定の通帳の残高、そして頼ることができる相手が二人。

 新しい流れを掴み取った予感は、悪いものではなかった。

 

 

 会いたくない人とは、望まなくとも顔を合わせるものだ。

 晴雨が不在のうちに庭の隅の草むしりをしていると、屈み込んでいる俺の手元を影が覆った。ビビッドなスニーカーが視界に入る。

 顔を上げると、色の薄いジーンズにパーカー姿の早依さんがいた。

「こんにちは」

「……こんにちは。晴雨はいないけど」

 俺の言葉に、彼女の片眉がひくついた。

 兄がいないのが不満なのか、その他に理由があるのか分からない。だが、俺は触らぬ神に、とばかりに抜いた草を掻き集める。

「借りた本を返しに来たの」

「ああ、じゃあ手を洗ったら預か────」

「客人にお茶も出ない家なの?」

 ぐ、と言葉を押し込める。にこり、と顔に笑みを刷いた。

「…………どうぞ」

 自分の表情が分からないまま立ち上がる。玄関の前で軍手を外し、いつも通りの場所に仕舞った。

 靴を脱いで上がりこみ、スリッパを差し出す。踵を返すと、背後から付いてくる足音がした。

「お茶を淹れてくるので、座って待っていてください」

 キッチンに入り、電気ケトルに水を入れる。沸くまでの間、早依さんの様子を窺いにいっても良かったが、何となく会いたくない気持ちが勝った。

 紙コップに入れたお茶をお盆に載せ、リビングへと向かう。

「お待たせしました」

「ありがとう、いただきます」

 両手で紙コップを持ち、リップが落ちることも厭わずに一口飲む。礼儀として口を付けた、という様子に、喉が渇いていた訳ではないのだと悟る。

 彼女はカバンから本を取り出し、テーブルへと置いて差し出した。

「これ。お兄ちゃんに返しておいてほしいの」

 受け取って、水に濡れないよう離れた場所へと移す。俺がソファから少し離れたスツールに腰掛ける様を、彼女はじっと見守っていた。

「あの、……以前、訂正しそびれたんですが、晴雨とは恋人ではないです」

「じゃあ、恋人でもない相手を、あの兄がずっと家に置いてる、ってこと?」

「それは……俺が、いま収入が少なくて。生活費を浮かせる為に、気を遣ってくれていて……」

「兄が、衣食住の面倒をみている訳ね」

 早依さんは、途端に眉を寄せた。明らかに不機嫌である事が伝わる表情に、ごくりと唾を飲み込む。

「兄は。……なんでだか分からないけど、貴方には寛容な気がするの」

「確かに、そう感じる事はありますが……」

「────それを、貴方は利用しているのね」

 問いかけではなく、彼女の中では断定だった。

 否定する言葉を躊躇った。俺だって、彼を利用しているであろう自覚はある。それを、晴雨の家族に咎められて当然、という意識もある。

 知らず知らずのうちに、指先が強張った。

「そう言われても、……仕方がないと思います」

 長い睫毛が、目の前でゆっくりと瞬きをする。晴雨に似た顔立ちに責められていると、ずきずきと心臓が痛む。

「妹としての立場だけで言うけど。私は、貴方が兄に甘えて、寄りかかっているように見える」

 はあ、と彼女は長く息を吐いた。

「……兄も兄ね。蒐集に向ける好奇心が変に働いたんだと思うけど、よりにもよって人を集め始めるなんて、理解が追いつかないわ」

 早依さんの言葉は正しかった。

 狐神の一族、という存在を調べるため、彼は俺を家に留め置いている。物を集めて調べようとする、眺めようとする目的と変わりない。

 膝の上で拳を丸め、唇を噛み締める。俺達の関係は、彼にとっては健全ではない。

「兄に対して、少しでも恩を感じているのなら、貴方から出て行く事を、……普通の友人へ戻る事を考えてほしいの。友人なら、友人なりの付き合い方があると思う。こんな長い間、生活の面倒まで見るのは、度を超している気がするわ」

 おそらく、彼女にとっては嫌味ですらなかったのだろう。

 早依さんは家同士の結婚を受け入れるほど家族思いで、おそらく、家族仲も悪くない。兄とだって、言われれば会食を受け入れる程度には関わりを保っている。

 家族と、借金の返済についての連絡だけ、を文面でしか行わない俺とは違う。

「……貴方を背負うことで、兄まで倒れるのが怖い。私は家族が大事よ」

 声は僅かに震えていて、彼女の不安を感じ取るには十分だった。

「────自分の親族より先に。友人でしかない兄を頼っている貴方には、伝わるか分からないけど」

 付け足された言葉は、トドメだった。泣き出さなかった事を不思議に思うくらい、魂を飛ばしていた。

 どれだけ、無言の時間が過ぎたか分からない。

「考えておいて」

 彼女はそれだけを言うと、席を立って、玄関から出て行った。見送る余裕すらなかった。誰もいなくなった途端、ふっと糸が切れた。

 ぼたぼたと目元から涙が零れ、拭っても拭っても落ちた。ふらふらと滲む視界のまま立ち上がって、浴室でタオルを拾った。目元に当てる。

 吸い取る度に頬が冷たい。晴雨に食事を与えられて泣いた時と、涙の温度が違った。

「────……」

 何となく歩いて辿り着いた先は、晴雨の寝室だった。ふっかりとした布団の上に身体を倒す。

 目元を拭いつつ、寝台に横になる。ここは、晴雨の匂いばかりがする。

 出て行くことを考えて、と言われて、気付いたことがあった。

「俺、出て行きたく……ないんだな…………」

 衣食住を失う事の怯えは少ない。動物プロダクションの仕事を真面目に続けていれば、食うには困らない。返済の算段も立てて貰った。これからはきっと、家を失うほど酷いことにはならない筈だ。

 だが、この家を出れば、晴雨との関わりは絶たれる気がした。

 彼の妹は出て行く事しか提案しなかったが、出て行けばきっと、俺は申し訳なさで晴雨に連絡を取れなくなる。

「やっぱり……自分勝手だな。俺」

 晴雨に提案したとして、気を遣って止められるだろう。話し合いの余地なんてない。彼の事を思うのなら、荷物だけをまとめて、出ていく方がいい。

 ぎゅう、と目を閉じる。

 友情とは、こんなに胸が千々に切れるほど痛むのだろうか。俺は、彼になんの感情を抱いているのだろうか。

 沢山の本で目にした、たった一文字が胸に絡み付く。頭を捩って、必死に追い払おうと身を捩った。

 

 

▽8

 そもそも、俺の荷物は多くない。ここに来た時に持ってきたリュックに元々の所持品を入れると、丸くなるはずの上部は空きが多すぎてぺちゃんこに萎れた。

 貰ったノートには記載しないまま、出て行く時に置いていく金銭をまとめた。少し厚みのある封筒が誇らしく。そして、これだけしか支払えない自分が歯痒い。

 ぐるぐる悩んでいても、仕事は続く。

 俺は夕食を終え、ソファに腰掛けて肌のメンテナンスをしていた。

 プロダクションからの準備金で買い求めた化粧水を肌に塗り、爪の長さを整え、髪を丁寧に梳かす。狐の姿の美しさには、人の姿での手入れが影響する。

 若さに頼って自分の容姿に気を配ったことは無かったが、狐の姿の毛並みを良く保持したい、とは考えるようになった。

「最近の和泉さん、全身がつやつやしてるよね」

「そうか?」

 ソファの背に腕を掛けていた晴雨は、移動して隣に腰掛ける。やたらと近い。部屋の中は静かで、俺と彼の声だけが空間を満たしていた。

 ふと、尋ねたかった事を思い出す。

「早依さん、晴雨のこと好きだよな」

「ああ、本を返しに来た時なんか言ってた?」

 出て行くことを考えるよう言われた、とは口に出さず、まあな、と呟く。

 ぴたぴたと叩いていたコットンをゴミ箱に放る。爪ヤスリを持ち上げ、爪の尖った部分に当てた。さり、と僅かに擦れる音がする。

 うーん、と彼は迷って、俺の肩に頭を預けた。

「早依の婚約者と、元々は僕の方が婚約する予定だったんだよ」

「…………は? そりゃまた、泥沼な……」

「はは、僕が断って家出したから、別に泥沼にならなかったけどね」

 相手は男か尋ねると、平然と肯定された。驚きすぎるのも悪いだろう、と顔の筋肉に力を込める。

「まぁ……、別に早依さんの婚約者のこと、好きだった訳じゃないんだろ?」

「当たり前でしょ。なんでまず僕の方に持ってくるんだ、って両親の見る目のなさに呆れたよ」

「それで家出か?」

「いい機会だな、と思って。両親の元にいたら見えない世界もある」

「円満で羨ましいよ」

 横から晴雨が爪ヤスリを取り上げ、俺の手を持ち上げる。さりさりと器用な手つきで、爪の角が丸められていった。

「……嫌なら話さなくて良いけど。和泉さんから、家族の話を聞かないのは気になってた」

「ああ、借金の清算してもらって、関係も清算したからな。借金に関する連絡以外はするな、って言われてる」

「ああ……。でも、そうだね。僕でも当時の和泉さんと親族だったら、縁を切るか迷ったんだろうな」

 返済の整理をした時、念のため、身に覚えのない借金が無いか調べたことがある。信用情報はあまりにも真っ黒で、そこに家族に精算してもらった借金の記録もまだ残っていた。

 尖っていた部分を探り、ヤスリを当て、指先で触れて滑らかになっているか確認される。むずむずとした感触が、肌を伝っていった。

「いまの和泉さんとしか出会ってないから。こうしてるんだけどね」

 晴雨は呟いて、また黙った。

 爪の角はすべて丸くなり、俺の指は昔とは違う形をしている。ふっくらして、肌艶がよく、誰かを傷つけるような爪の形をしていない。

「それは、助かったな」

 ヤスリが片付けられ、俺の手は彼の両手に包み込まれる。たまにこうやって、ゆっくり触れられる。

 狐の毛を撫でられるときよりも、ずっと近い距離だ。

「大丈夫だよ。僕は、和泉さんを追い出したりなんてしないから」

 何かを言おうとして、彼は唇を閉じた。堪えるような表情に、俺はいずれ出て行くんだ、と言葉を漏らしそうで、唇を噛む。

 温かい両手から指先を抜き取って、話題を変える。晴雨はすこし寂しそうな表情を浮かべて、話題に乗った。

 

 

 

 出て行く機会は、割とすぐ訪れた。晴雨が工房へ行く、と言い出したのだ。何を買いに行くのか尋ねると、曖昧に笑われる。

 長時間の彼の不在は、俺にとっては断頭台への道のようだった。これでようやく、全てを摘み取ってしまうのだ。この芽生えた気持ちごと。

 朝から出て行く背中を見送ろうと、玄関に立つ。晴雨は嬉しそうに靴を履いて、俺を振り返った。

「行ってきます」

 伸びた腕が、俺の背に絡み付く。俺が彼の頭を抱くような形で、互いに抱擁した。

 胸の鼓動の音が聞こえないよう、息を吸い込む。

「いってらっしゃい」

 背中から指が離れ、彼は振り返って玄関扉を開ける。口を開いて、何かを言おうとして、何も声にはならなかった。

 すとん、と脚から力が抜ける。しばらく座り込んで、自らの口から零れる嗚咽が落ち着くまで待った。

「よし……!」

 何も良くはないが、声に力を込めて立ち上がる。ここに来た時に着ていた服に着替えると、薄すぎて少し寒かった。

 彼に支払えるだけの紙幣を入れた封筒を目立つ場所に置くと、リュックを背負って玄関に立つ。靴を履きながら姿見を眺めると、この家に来たときより健康的で、同じくらい悲壮感に溢れた顔があった。

 家を出て鍵を掛け、合鍵は格子窓の隙間から室内に投げ入れる。

「お世話になりました」

 抜けるような青空を見ながら、いい外出日和だ、とゆっくり道を歩く。晴雨と歩き慣れた道は、よく見知った物になってしまった。

 以前に立ち寄った駄菓子屋の近くに来た所で、ぽつぽつと頭に水滴が当たった。ぱらぱらと水滴は多くなり、雨、と気付くくらい盛んに降り始める。

 慌てて駄菓子屋の軒下に避難した。おや、と駄菓子屋の店主であるキナコさんがこちらに気付く。

「いらっしゃい。雨宿りも大歓迎ですよ」

「はは。買い物もしていきます……」

 以前来た時と同じように身を縮めながら店内に入り、小さな籠を持って気になるお菓子を詰めていく。

 食べきれる程度に好きな菓子を買い求めて持っていくと、会計場所の近くで、きなこ棒を見つけた。

「あの、これも」

「ああ。以前食べてらしたわね、気に入った?」

「はい」

 計算されたお金を支払う。店主はにっこりと笑うと、きなこ棒を手に持たせてくれた。他の菓子は紙袋に入れ、そちらも手渡してくれる。

 店を出ても、雨は続いていた。店の前のベンチに腰掛け、丁度いい、ときなこ棒を齧る。

 晴れの日に降る雨を、人も狐雨と呼ぶ。この天候は、狐である俺達にとって喜ばしいものだ。

「誰が嫁に行くんだろうな……」

 ほっこりと甘い菓子を楽しむが、あまりにも雨は止まない。途中でキナコさんが紙コップに入れたお茶を出してくれた。

「雨、まだ止まないわねえ。この辺は、昔から狐雨が多いのよ」

「え? そうなんですか」

「近くにある社が、お稲荷様だからかしらね。商売をするならこの辺がいいわよ。昔から続いている店が多いの」

 お茶を貰うと甘味が欲しくなり、立ち上がって店に戻った。きなこ棒を追加で買い求める。

「ね。商売繁盛でしょう」

「店主の商売が、お上手だからですよ」

 ころころと笑った店主につられて、笑みを返す。俺はだらだらとベンチでお茶を飲み、きなこ棒を齧った。

 悩んでいたはずの事柄を、その時だけは忘れた。

 長い天気雨。雨上がりと共に、虹が架かる。

「キナコさん、ご馳走様でした。美味しかったです」

「はい。ご丁寧にどうも」

 紙コップと残った棒をゴミ箱に捨てると、ベンチから立ち上がる。雨が降っていないか手を翳しながら店を出ると、足元に影が差した。

 顔を上げると、息を荒らげた元家主がいる。彼は腕を伸ばし、がっしりと俺の手首を掴んだ。

 はあ、と長く息が吐き出される。

「帰ろう」

「は……!? いや、俺は……」

 俺を振り返った晴雨は舌打ちすると、強く腕を引きながら歩き出す。来た道を帰る方向、家に連れ帰られるらしいと分かる。

 珍しく怒気が漏れている彼の様子に、言い訳をするのは憚られた。逃げられなかった時点で、俺はきっと反対するであろうこの人を説得して、家を出るしかないのだ。

 家に帰り着き、がちゃがちゃと鍵を開ける間も、彼は俺の手を離さなかった。扉を開け、俺を家の中に押し入れる。

 渋々靴を脱ぎ、リビングへと向かった。背後で鍵を掛ける音と、チェーンを掛ける音がした。

「工房は……?」

「虫の知らせ、っていうか。嫌な感じがして家に戻ったら、封筒が置いてあった。荷物も消えてて、出て行ったのが分かった」

 声音はひんやりとしていて、刃物の冷たさを思わせた。

「まず、これは返す」

 突き返されたのは、置いていったはずの封筒だった。俺が立ったままでいるのが気になったのか、自分からソファに腰掛ける。

 いつもは隣に座っていたが、そうする事もできず離れたスツールへ座った。

 びりびりと怒っている気配が伝わってくる。魂が見えない俺でも伝わるほど、気が触れそうなほど、攻撃的な魂からの圧だった。

「和泉さんが罪悪感に駆られて出て行こうとするのは想定してた。……してたから、ずっといればいい、って言ってきたつもりだったよ」

「悪い。でも、ずっと居ていい、って言われ続けたら、出て行く機会を逃す気がして……」

「あのね! 正直に言うけど、今の和泉さんを放っておいたら同じ事を繰り返すよ。カウンセリングだってまだ時間をかけてやるべきだし、返済だって習慣付いてない。数十年培ってきた感覚を変えるんだから、他人の目はあったほうがいいよ」

 苛立つ感情がつぶさに皮膚を叩く。言われてようやく、また間違ったのだと肩を落とした。

 彼の為にやったことだと思ってきた。だが、目の前の男は怒気を隠しようもない。あれだけ面倒な事になった俺に対して一度も怒らなかった相手が、今、逃げようとした俺に対して腹を立てている。

「家を出て行きたいなら相談して。出て行くにしても、次の家を探すことだって手伝える。……僕は、和泉さんをもう……、あんな泣き方をするような状況に晒すのは嫌だよ……」

 怒気が萎んだ先にあるのは絶望だ。言葉を放った男が、届かなかった気持ちを胸に顔を覆う。

 手を伸ばしたくて堪らない。衝動に突き動かされて、立ち上がった。ふらふらと歩き、彼の目の前に立つ。

 そっと手を伸ばすと、空中で掴み取られた。腰を抱かれ、ソファに乗り上がるように抱き竦められる。ふらついた身体は、両腕で拘束された。

「でも。多分、晴雨が安心するまで居ようと思ったら、本当にあと何ヶ月も滞在することになる」

「居たらいい。…………居てよ。そう言ってるでしょ」

 ぎゅ、と力が籠もる。布地が擦れる音がした。触れていると、普段とは違った気配を感じ取る。

 人のものではない、同族の気配だ。

「晴雨……? お前の魂って…………」

 俺がそう言った途端、ぶわり、と相手の魂の枷が外れた。人とは違う。似た気配。押し寄せてくる気配は、間違いなく同族のものだ。

 化けの皮が剥がれる。そう表現されるに相応しいような、一瞬の変貌だった。

「『狐』…………?」

「ここまで長いこと、気付かれないとは思わなかったよ」

 彼は首元を寛げ、しゅるりと輪郭を溶かした。

 ぱさりぱさりと服がソファの上に落ち、変化が止まると、その場には大型犬ほどの白狐が鎮座していた。

 長い耳に、ふさりと大きく揺れる尻尾。毛は豊かで、筋肉が撓る度に稲穂のように揺れる。人の姿を反映したような、浮世離れした美しさを持つ狐だった。

 驚きに腰が抜ける。

『この姿では始めまして』

「あんたも、同じ一族だったのか……?」

『そうだよ。全くもって気付かれなかったけどね』

 神社で見る狐像のように、彼は大人しく座っている。色の薄さも、身体の大きさも、幼い頃に見かけた他の一族とは全く違った。

 俺が狐に化けたとしたら、首根っこを噛まれて持ち上げられるだろう体格差だ。

「なんで、そんなこと……?」

『いつ気付くのか、興味があったから』

 返答は、如何にも狐らしい言葉だった。彼の言動を思いおこせば、好奇心任せなあれこれが浮かぶ。

 同族の狐を化かすのだから、力が強い家系なのだろう。

「え。じゃあ、早依さんも……」

『狐だよ。妹の婚約者もそう』

 だから、古い家の婚約者同士を同性にしようとする、ことが成立しうるのだと合点がいった。古い家が重んじるのは、魂の色の混ざり方だけだ。

 同性同士であれ、家同士の魂の相性が良ければ、そちらの方を選びたがる気がした。

 晴雨は服を噛んでソファの背に隠れた。人としての身体へ戻すと、服を着てまた姿を現す。

「俺、猫神の一族から、別の狐の気配がする、って言われたんだが……」

「僕だよ。寝てる間に混ぜてた」

「なんで…………?」

 彼に対して、悪いことでもしたのだろうか。呆然と尋ねると、彼が乗り上がったソファの表面が沈む。伸びた腕に、また捕まった。

「和泉さんの魂を、染めたかったから。でも、いくら上手くやっても、セックス無しじゃ上手く染まらなかった。力の強い人が気付く、くらいの変化しか与えられなかったよ。いずれ元に戻る」

 抱く力は強く、驚きから正気に戻れない俺は抜け出す術を持たない。喉が渇いて唇を開けると、首筋を彼の手が捕らえた。

「ンっ……!」

 ぐ、と近づいた唇に呼吸が塞がれる。見られている事に動揺して、ぎゅっと目を瞑った。ただ長いこと触れるだけ、なのに、縫い止められたかのように俺はその場に留まった。

 魂の残り香を置き土産に、唇が離れる。

「本当は、関係を進めるなら、和泉さんの生活が落ち着くまで待つつもりだった。でも、駄目だね。そんな悠長な事してたから、あっさり出て行かれちゃった」

 はは、と彼は声だけで笑う。薄い色の瞳は細められると凄みを増し、柔らかい、と思っていた印象は、月が隠れるように消え失せた。

 長い指先が顎の下を撫でる。くすぐったさよりも、急所を握られているような感覚に支配されていく。

「僕を君のものにしてよ。……もう、離したくないんだ」

「おれ、……は……」

 呑まれて頷きそうになる自身を、必死に留めた。震える指先を握りしめると、晴雨の掌が覆い被さる。

 別の体温は、この温度しか知らない。

「……あんたに、相応しくない。金も無い、家族との縁も失った。俺を背負ったら、迷惑を掛ける」

「僕は、君の魂に一目惚れした。真っ黒く汚されて、でも、内側から光り輝くみたいだった。この魂を磨きたくて、磨いた後の魂と生きたい衝動に駆られた。……一緒に暮らして、変化していく君を見て、僕の衝動は間違ってなかったと分かった」

 掌は揺るがない。言葉に震えもない。言い聞かせるように、彼は俺の魂を磨き続ける。

「和泉さんは綺麗だよ。これからも、きっと益々綺麗になる」

 俺が信じられないことを、彼は信じきっていた。瞳に映る自身を見ていると、本当にそうなれそうな気がする。

 彼が、人生を隣で歩んでくれたら。

「…………駄目になりそうだったら、叱ってくれるか。あんたが見限ると言えば、目が覚めると思うから」

「うん。代わりに、僕が駄目になりそうな時も、叱ってね」

 こつり、と額をぶつける。ずっと見ていた晴雨の顔は、見慣れていて、それでいて別人のようにも思えた。

 上手い言葉を考えても、何も浮かばない。頬を近づけ、擦り寄せた。

「好き、なんだ。本当は、出て行きたくなんかなかった」

 背中に回った腕が、力いっぱい身体を抱き竦める。ちゅ、ちゅ、とキスを繰り返す男を、むずむずしながら受け止める。

 何となく、匂い付けのように思えるのは気のせいだろうか。

「あのさ、和泉さんが出て行こうとしたのって、早依が何か言った? 彼女が帰った後、様子がちょっと可笑しかったよね」

「いや。……俺が友人だって言ったから、友人なのに衣食住の面倒を見る、ってのは理解しづらい、って話をされただけ」

「で。和泉さんはそれを気にしたんだね?」

「………………」

「妹には、分かってくれるまで話をするよ」

 また頬に吸い付かれた。魂を混ぜておかないと、俺がすぐにでも逃げ出すと思われているようだ。

 気にしたのは間違いなく、何も言い返せない。早依さんを庇った方がいい気がするのだが、言葉を間違えば沼にはまる気がした。

「今度からは、相談してね」

「……分かった」

 抱き合って、お互いの匂いを交換する。息を吸う度、彼の匂いが届いた。

 腕の中で蕩けていると、体温が上がっている事に気付く。あれ、と視線を上げると、にんまり笑う晴雨がいた。

「なあ。……何かしただろ」

「何もしてない。誘ってるだけ」

 この狐は、俺の魂を僅かとはいえ彼の色に変質させたのだ。

 手の内に収められて、撫で回されるような感覚。内側から熱を上げられていく。

「誘ってる……、って」

「そりゃあ、ベッドに」

「……今日、恋人……になったばっかなのに?」

 そう言うと、晴雨はさり気なく視線を逸らした。抜け出ようと体勢を変えるが、腕が追うように絡み付いてくる。

 綺麗に化かされていたのだ。腕の中に居続けたら、さっさと寝台に引き摺り込まれる気がした。

 魂が相手の色に染まったら、もう色は変わらない。

「僕は、和泉さんをずっと染めたかった。将来、一族から子を持つ対象に選ばれるなら、君の色が混ざった子が見たい」

「……金遣いが荒い子になるぞ」

「僕の魂が混ざるから、どう転ぶかなんて分からないよ」

「ああ……そうなるのか」

 ねえ、と強請られる。相手の唇が、口の端へと触れた。もぞり、と動くたび熱を持った場所が擦り寄る。

「風呂くらい入らせてくれ」

「一緒に入る?」

「それは、…………今度、な」

 言い出した以上は自分が先に行くべきか。そろそろと腕を持ち上げると、絡まっていた手はようやく離れた。

 

 

▽9

 独りでとぼとぼと風呂に向かう道中で、ひとり思案する。

 風呂に入った後は、パジャマを着るべきだろうか。まだ昼と言える時間なのに。猥談が憚られるような時間に、身体を重ねるために服に悩んでいる自身が、余りにもふしだらに思えてくる。

 服を抱えて風呂に向かい、身体中を丁寧に洗って浴室を出た。身体を拭って、与えられて服を身につける。

 足先までほこほこになった身体では、床の冷たさが心地いい。

「風呂空いたぞ」

 リビングに戻って声を掛ける。普段よりも伸びた背中が、びくりと震えた。

「はーい」

 行ってくる、と大股で部屋を突っ切っていった後ろ姿を見送り、ソファの中央に腰を下ろす。頭の周囲を背もたれが押し上げた。

 本を読む気にもならず、大窓から庭を眺める。

 葉の上には雨粒が残り、陽光にちかちかと煌めく。静かな筈なのに、硝子を打ち鳴らしたような無音が庭のあちこちで起こっていた。

 晴雨の代わりに草をむしっていたおかげか、以前よりも更に整った庭へと様変わりしている。

 彼と過ごした日を、指を折って数えた。随分だらだらと居候してしまったようだ。

「────お待たせ。待ちくたびれた?」

「いや。早かった」

 両手で引かれて立ち上がると、するりと長い腕が腰へと回った。すこし前までは意識していなかった動作さえも、鼓動を跳ね上げる。

 視線を上げると、持ち上がった唇が目に入る。目の形は変わらないのに、奥に灯る光は鋭さを増している。

 二人で寝室に入ると、晴雨は窓辺に寄ってカーテンを閉じた。俺は寝台に腰掛ける。そわそわと待っていると、キッ、と寝台が音を立てて沈んだ。

 隣を見上げると、傾いた顔が覆い被さる。

「ん────」

 ちゅ、と触れさせ、伸びた舌が下唇を舐める。閉じた口を緩めると、舌先が滑り込んできた。びくつく自身の舌に、別の感触がする。

 口内の薄い粘膜を、ざりざりしたものがねぶった。

「……ン、……っう。ふ……ぁ……」

 唇が離れて息を吸うと、また合間を読まれて口付けられる。舌の先端でくすぐるように辿られると、背筋がびくびくと跳ねた。

 身体の間で水音を立てながら、唾液を混ぜる。

「ん、っう……!」

 途中で時間の感覚がなくなり、目の前の身体を軽く押す。ようやく唇が離れた。

 自身の内に秘めた蝋燭の芯を、赤い炎で舐められたようだった。

 パジャマの襟に手が掛かる。つつ、と滑らせると、指先がボタンに引っかかった。脱がせる手間を思って、肌着は身につけずに来た。

 ぷつん、とボタンが穴から外れると、下から肌色が覗く。

「やっぱり、綺麗だよ」

 大きな掌が、首筋に触れた。首を辿り、鎖骨を伝って、胸の中心へと移る。

 掌は大きく、心臓すら鷲掴まれそうだ。別の色の皮膚が、胸の中心に浮き上がって見える。

 肩に掛かったままのパジャマを滑り落とし、腕から抜く。白いシーツの上に無造作に落とした。

「和泉さん」

 にっこりと笑って両手を広げる動きをされ、動揺から視線が彷徨う。

 寝台に乗り上がって膝立ちになり、彼の身体にそろりと身を寄せる。頭を抱え込むように、相手の肩に手を回した。

 首筋を柔らかいものが伝い、時おり牙が当たった。

「……──ッ」

 唇は鎖骨から胸へと下りる。見上げてくる視線と目が合った。蕩けた目尻を見た瞬間、色づく先端が口内に含まれる。

「ひ、……な、っァ……!」

 ぬる、とした感触に包み込まれた。舌先で先端を押し潰し、起き上がれば宥めるように舐め上げる。

 空いていた方は指先に挟み込まれた。円を描くように捏ね、軽く引かれる。

「……ふ、……ッく、……う」

 ちゅう、と強く吸われると、拘束が無くなった途端、胸の先がしびれた。舌先が立てる音は、否が応でも耳に流れ込んでくる。

 彼の身体に、震える指先を食い込ませた。力を込めれば込めるほど、執拗に胸にむしゃぶりつく。

「ン────!」

 一際おおきな嬌声を上げると、顔が突起から離れた。濡れて赤くなったを、親指で拭っている。

 胸の先は吸ったり引っ張られて赤くなり、別物のようにいやらしく形を変えていた。

「気持ちよくなかった?」

「…………そんな、……ことは……」

 口ごもると頭を捉えられ、ちゅ、と唇を啄まれた。

 掌は肌を撫で回し、腹に触れる。この家に来てから、食事内容が改善している為か、ふっくらし始めていた。

 魂を染めるために最も効果的な手法の一つは、男女共、体内に相手の一部を入れて、体液を取り込むことだ。晴雨がこれから、やろうとしている事でもあった。

 身体の内側から、別の魂に染められる。ぞわぞわと駆け上ってくるのは、恐怖だろうか、それとも、期待なんだろうか。

 掌が包み込むように腰を撫でた。

「下、脱がせていい?」

「好きにしろ」

 相手の着衣はまだ乱れてもいないのに、俺ばかり脱がされている気がする。腰の両側に引っかかった指が、ずりずりと余韻を持たせるように服を下げる。

 顔に血が上るのを感じながら、脚から服を抜き取った。

「あれ、髪の色って地毛なんだ?」

 下の毛を見ながら、晴雨が驚いたように言う。まじまじと見つめられると流石に恥ずかしいものがあった。

「染めた髪を維持する金なんかなかったよ……。見つめるのはやめろ」

 太腿をもぞりと擦り合わせる。掌が隙間に滑り込み、両側へ押し開いた。

 茂みの隙間から、色の違う粘膜が覗いている。かあっと頬を染めると、目の前の男は満足そうに喉を鳴らした。

「最初から傷つけても嫌だから、濡らそうか」

 立ち上がると、彼の私物が入っているキャビネットから、チューブを持って戻ってきた。

 目の前でぺりぺりと包装を破り、中身を指に絞り出す。粘着質な液体のようだ。

「何でそんなに用意がいいんだ……?」

 怯えながら尋ねると、晴雨はいつもの笑みで俺を制する。もしかして俺は、ずいぶん前からこの男に身体と魂を狙われていたのだろうか。

「別の用途に使おうと思ってたんだよ」

「………………」

 しれっと告げた言葉にも、穿った見方しかできない。半眼になっていると、晴雨は、にま、と妙な笑みを浮かべた。

 ぬるぬるした液体に塗れた掌を、俺の股の間に突っ込む。

「おい……! この……、う、ァ……!」

 茂みは濡れ、ねっとりとした感触が芯へと絡み付く。長い指は一気に広い範囲に跨がり、にちゃ、と粘ついたものを塗り広げた。

 すりすりと、指が粘膜に擦り付けられる。

「……ァ、は。……うあ、ぁ……ン、……う」

 止められないと分かっていながら伸ばそうとした指は、空中で上手く制される。ついで、とばかりに先程まで弄っていた胸の突起を上下に挟んで引かれた。

 ヒッ──、と長く声が漏れる。解放された胸の先は、ゴムが伸びて縮んだように元のかたちを保っていない。

「ン……、ぁ、ふ。……ぁ、あッ…………」

 自身の先端をくちゅり、と抉られた。指の腹で引っ掻くと、栓を抜いたかのように薄い液が零れる。

 大量に潤滑のための液体を塗り広げられている所為で、股の間はぐちゃぐちゃだ。男の掌が動く度に、大きく水音が立つ。

 唐突に、ぴたりと手が止まった。

「…………な、……で」

「ここで気持ちよくなっちゃうと、僕が要らなくなっちゃうからね」

 最後にピン、と持ち上がりかけた半身を指で弾くと、晴雨は指を離した。彼はいちど手から離したチューブを持ち上げ、中身を掌に絞り出す。

「和泉さん、寝っ転がって」

「ぇ……?」

「お尻、触るから」

 戸惑っている内に仰向けに転がされ、脚が開かれる。衝撃に動かした脚が、空中で腕に捕まった。脚を引かれ、腰ごと持ち上げられる。

 尻の間を、指が伝った。

「ひッ────!」

 ぬめった感触と共に、つぷりと指が輪を潜る。ぬぷぬぷと太い指先が潜り込むたび、異物感に息を吐いた。

 くっと締め付ければ、緩めるよう指が動く。男の指は隙間を縫うように中へ潜り込み、強張った内壁を解していった。

「上手だよ。もっと悦いとこ、触ろうね」

「……うぁ、……ぁ…………」

 くち、と静かな音が立って、その度に道が拡げられていく。

 指だけでは全く足りない。いずれ、この中にもっと質量のあるものが含まされる。

 奥へ潜り込んだ指が、くっと曲がった。腹を押し上げるように力が掛かると、指の先が何かを捉える。

「ふふ」

「……────ァ? ……ッ、あああぁッ!」

 ずぐ、と痺れるような快楽が、触れた場所から湧き上がった。

 神経と、薄皮一枚で隔てられた場所を捉えられている。ひ、と拙く息を吸った。

「ァ、や。……そこ、は……──あッ!」

「イイ、んだよね。大丈夫、ちゃんと視てる」

 身体を捩ると、ぐり、と指の腹が強く押し上げた。ずくん、と痺れが突き上げる。

 脚は相手の片腕に捉えられ、閉じることは許されなかった。長い指を巧く使って、身体を割り拡げる。

 見知らぬ悦びへの感情が綯い交ぜになって襲いかかる。ひくひくと漏れ出る声は理性を失っていた。

「……ぁ、ン! ャ、そこ……で、きな……!」

「ちゃんと呑み込めてるよ。ほら」

 指の間を開かれると、肉輪がくぱりと開いた。すう、と空気が触れる。指が元通りになると、内壁は嬉しそうに男の指をしゃぶった。

 魂を染められるより先に、身体が造りかえられてしまいそうだ。

「……でも、欲しいのは指じゃないよね」

 ずるりと指が一気に抜けた。身を捩り、他者の腕から解放された脚を閉じる。身体を持ち上げると、晴雨は自分の服に手を掛けた。

 上着を脱ぎ去り、ベッドの上に落とす。そして、下の服にも手を掛けた。

「見て。ほら」

 服の、下着から持ち上げたモノは、ぶる、と持ち上がった。形は人のそれに間違いないが、張ったえらの形といい、受け入れるにはぞっとする形状をしている。

 知らず知らずのうちに、唾を飲んだ。

 躙り寄った晴雨はズボンを脱ぎ捨てると、俺の股の上に露わになった肉棒を乗せる。茹だった温度が、ずっしりとした質量が、突き入ることを宣告する。

「ぜんぶ挿入ると思う?」

「……知らない」

「あはは。和泉さんが知らないなら仕方ないな」

 両足が持ち上げられ、彼の方へと引かれる。指を受け入れて濡れそぼった場所に、色を変えた瘤が押し当てられる。

 ぬち、と一度触れて、糸を引きながら離れた。

「────試してみなきゃ」

 ずぷぷ、と一際膨らんだ部分が押し込まれる。

「……ひ。────く、ァ! ……ぁ、うあ」

 あんなに濡らしたのに、重たい質量を受け入れるには足りなかったらしい。粘膜が引かれる感触がある。

 晴雨は放っていたチューブを手繰り寄せると、結合部の上で絞って落とした。滑りが良くなったのをいいことに、ずぶずぶと刀身を埋め込む。

 指でさえ異物感があったのに、男の屹立は更に太く押し拡げる。内壁を削ぎ落とさんばかりに奥へ奥へと進む塊を、受け入れてしまう躰が恨めしい。

「…………う、……っく」

「きつい?」

「きっ……つい」

「……ッ、頑張って」

 身体の上にいる男をはたくと、仕返しとばかりに重たい動きを喰らう。息をする音しかしなくなっても、僅かずつ身体を繋げていく。

 晴雨が体勢を変えた。軽く引いた腰を上向きに突き上げる。

「────ァ。……ぁああ、あッ!」

「は、……ぁ。僕も、きつ……!」

 指ではない重さが、腹の皮膚すら押し上げんばかりに内臓を押し潰す。ひっ、と喉を鳴らし、臍の下に手を当てた。

 俺の様子に気付いたらしい晴雨は、掌を重ねる。すり、と撫でさすられると、奥にいるものに内壁が絡み付いた。

 周囲の気配は彼の存在で満ちている。それは、匂いだけではない。周囲を感じ取る俺の魂そのものが、染められ、造りかえられているからだ。

 ナカには目の前にいる男の、薄い子種が滴っている。

「……っく。……ぁ、あッ…………」

「もうちょい、……奥、空けて」

 脚を抱え直し、指では触れていなかった部分へと先端を押し進める。永遠と思えるほど僅かずつ、押し込む度に圧迫感が酷くなる。

 腹の下を、別の人間にすべて委ねているみたいだった。

 ようやく全部埋まりきるか、という所で、亀頭が何かを確かめるように重く宛がわれる。ぐっと力を掛けられた瞬間、彼が意図している事が分かった。

「────だ、だめ……?」

「……ッ、分かんないのに、ダメ?」

「……なん、か。……ぁ、こわい、んだ……」

 俺の前にいる男は、普段の印象から一番遠い笑みを浮かべた。本能にただ引き摺られているだけのような、肉の前で舌舐めずりをする獣の顔だった。

 掴んでいた腰が抱え直される。止めに入る前に、ぐっぽりと突き入られた。

「ア──! ……ぁ、ひ。……あ、あ」

「ああ……、やっと」

 揺らされるたび、重すぎる刺激に声を上げる。互いの境界が分からない。身体の奥から、弱い電流のような長引く波が何度も打ちつけた。

 見下ろしてくる目尻は下がっているのに、瞳が怖い。重なりきった相手の腰が、触れている感触があった。

「……ぁ、ぁあぁッ! ……う、く。ひッ……!」

「ここ。ぐりぐりされるのが、いい、の……?」

「よく……ッ、な──! あ、あッ、あ」

 填まっている限り、刺激は止まない。力を掛けて、こりこりと奥を抉って。膨らんだ場所を使って悦い処が虐め抜かれる。

 溢れている体液を塗り広げられ、体内の形を変えるほどの逸物を銜え込まされて尚。口からは嬌声が零れ出る。細切れの息は獣のそれだ。

 この男の子種を飲み尽くして、自分の魂すらも塗りかえられたい。

「あッ。あ、ひ──、ぁ、あ、うあ、あ」

 突き上げが律動へと変わり、小刻みに身体を揺さぶられる。奥を押し上げ、ぐりりと抉ったかと思えば、波が引かないうちにどちゅどちゅと腰が打ちつけられる。

 身体を押し潰さんばかりに相手の身体が乗り上がり、ぴたりと腰が触れ合う。ぐう、と体重が掛かれば、更に奥へ征っている気すらした。

「や、うあ。……ァっ、ひン……! あァ、あ、あぁあッ!」

 自分の芯も持ち上がり、男の腹に擦れては嬉し涙を流す。

 ぐい、と滲んだ目尻を拭った。

 晴雨の掌が腰に食い込む。痕を残すほど強く掴まれ、親指だけが腹の皮膚を撫でた。

「和泉さん。これで、僕の色……ッ。消えな……ね……?」

「え……?」

 大振りに引き抜かれた腰が、何度も通った道を引き返す。

 ぱつん、と腰が当たった。探り当てられた場所が、真上から体重を掛けられて押し潰される。

「ァ、あ……あ。────アアッ、あああああああぁぁッ!」

「……ッ、うわ。……ふ、っく…………」

 砲身は正確に最奥を撃ち抜くと、開いた砲口から白濁を迸らせた。捏ね回されて雄を教え込まされた場所が、液体に濡れる。

 魂ごと、男の精に塗れた。頭のてっぺんから爪先まで、隙間なく男の色で塗り潰すような、暴力的な波だ。

「ァ──! ……ぁ、あ」

 たった一度の吐精が永遠にすら思える。敏感な場所に塗り込めるように、粘っこいものがこびりついた。

 男は填まった場所から抜け出ない。柔らかくなった肉棒さえも使って、敏感な身体に押し当てては躰をびくつかせた。

「も……ッ!」

 指先を動かして、彼の身体を押し退けようとする。だが、それに気付かれて微笑まれた。脚を引かれ、彼の元に引き寄せられ、ぐりぐりと楽しそうに雄を動かす。

 ひぐ、えぐ、と泣きを入れてようやく、彼の腕は俺を解放した。引き抜いた男根を俺の股に擦り付け、匂い付けをする。

「やすま、せ……」

 逃げるために寝転ぼうとした身体は、うつ伏せにされた。そのまま、大きな掌が背に触れる。ぐっ、と寝台に押し付けられた。

 尻の狭間に、ぬめったものが当たる。

「僕、化ける、っていうか。魂を操るのも、人より得意なんだよ」

 吐き出したはずの肉筒が力を取り戻し、片方の尻肉を押し上げた。両手が尻を掴み、左右に割り広げる。

 男が抜け出たばかりの洞は、次の訪れを待ちわびて濡れ、ひくついている。先端が引っ掛けられ、ずぶずぶと容易く侵入を許した。

 全身を使って体重を掛け、尻肉を押し潰す。絶頂を迎えたばかりで痙攣している場所まで、また届いてしまった。

「こういうこともね、出来ちゃう。力を使うと疲れるけどさ。僕、……体力には自信あるよ」

「い、……ッや。や、やめ……!?」

 振り返ろうとした頬に、彼の指が掛かる。俺の染まって蕩けた目元が、晴雨の目の前に晒された。

「眼がいいって言ったでしょ。和泉さん、『こうされるのも』好きみたいだね?」

「な……、あ────」

 どちゅ、とひと突きされた時に響く声は、媚びる音色をしていた。後腔は言葉とは裏腹に、男へと絡み付く。

 ああ、俺は、染められたいのか。

 くふ、と唇に笑みが浮かぶ。晴雨は目を見開くと、俺の腰を掴み直した。

 

 

▽10(完)

「それで。まあ、上手くいったみたいね……?」

 目の前で腕組みした早依さんは、棘の混じった音色で言う。

 リビングのテーブルには見慣れぬティーセットが並び、彼女の前に置かれたカップには琥珀色の茶が注がれている。

 とはいえ、お茶請けはきなこ棒だ。

 晴雨が呼び出したらしく家を訪ねた早依さんは、俺たちの様子を見るなり事情を察したようだ。

 長々と息を吐き、カップを持ち上げて中身に口を付ける。

「和泉さんに、余計なことを吹き込んだみたいだね」

「……ごめんなさい。最初に会った時は、魂が汚れすぎてて悪人だと警戒したの。二度目に会った時にはもう、魂は綺麗に戻りつつあったけど、それはそれで、脈のない片思いをして、貢いでるお兄ちゃんが心配になったというか…………」

「あぁ……そういう」

 彼女は、ぽつりぽつりと心情を語ってくれた。

 初対面の時は、俺があまりにも魂を汚している所為で悪人だと疑い、察している存在がいる、と俺に警告したつもりだったそうだ。

 晴雨が俺に対して盲目になっている様子は、妹の目から見てもあからさまだったらしい。

 二度目に会った時には、俺の魂は磨かれ始めていたようだ。実は悪人ではないのかも、という考えが浮かんだらしい。

 だが、それにしては兄の片思いに対して、俺に脈がある様子はない。俺に嬉々として貢いでいる兄が心配になり、ああいった発言になった、のだそうだ。

「だって、お兄ちゃんがいい人と落ち着いてくれなきゃ、困るから……!」

「……仲がいいんですね」

 俺がそう言うと、兄妹は二人して首を横に振った。え、と俺が首を傾げると、ソファで俺の隣を陣取っている晴雨が口を開く。

「早依は、僕と婚約者くんとの間に何も起きなくなる、ために番を作らせたいだけだよ」

「え……? でも、早依さんの婚約者は家が決めたんじゃ……」

 彼女は複雑そうに、唇を曲げた。

「兄の後釜、みたいな扱いをされたのは嫌よ。でも、相手としては……」

 ごにょごにょ、と言いつつ頬を染める。あまりにもしおらしくなった態度に、俺でも分かるものがあった。

「元々、婚約者さんのこと好きだったんですか」

「な……!」

 ぼっと頬を染め、それ以上、何も言わなくなった。つまり、彼女としては婚約者が好きだから、婚約が自分に回ってきたこと自体は喜ばしかったのだろう。

 兄はからかうように唇を持ち上げている。デリカシーがない、と肘を入れておいた。

「…………そういう気持ちも、あったわ。お兄ちゃんに添い遂げる番ができたら、私が何かやらかしたって、あの人はもう、お兄ちゃんとまた婚約なんてしなくなるから」

「でも、俺が晴雨の恋人になるとしても、魂が汚れてるんですよね?」

「少し前までの貴方はね……! でも、今は。……魂って、短期間でこれだけ変化するものなのね。兄の審美眼が鋭かった、って事なのかしら」

 彼女の俺に対する態度は、前回とはかけ離れたものだ。期待を込めて問いかける。

「…………つまり?」

「もう、……反対はしないわよ。様子は見させてもらいますけどね」

 文学作品で現れる御令嬢の、素直になれない様子を思い起こさせた。好きな相手に素直な言葉を紡げない彼女らを目の前に置いたら、きっとこんな感じなのだろう。

 彼女は、温くなったお茶をちびちびと飲んでいる。

「和泉さん、僕からもごめん。妹にきちんと説明をしておくんだった。この子、眼は良いけど感情にまかせて観察眼を曇らせがちだし、言葉も直球で……」

「ああ……。でも、そう言いたくなる気持ちは分かる気がするし」

 家族が魂の汚れた男に入れ込んで養っていたら、と考えれば早依さんの気持ちも理解できる部分はある。

 俺の言葉に眉を上げながらも、彼女は反論したりはしなかった。毒気の抜かれたような態度に、今後は上手くやっていけそうかな、と胸をなで下ろす。

「────あ、雨」

 窓の外を見て、晴雨が呟く。

 今日はいい天気で、と朝から洗濯物を干していたのだった。真っ先に立ち上がったのは早依さんだ。

 玄関まで早足で歩き、履いてきた靴を突っかけて洗濯物まで駆ける。

「お兄ちゃん、瓜生さんも! 急いで……! この雨は長引くから!」

 俺達もどたどた靴を履き、彼女を追いかける。頭を庇いながら外へ出てきた晴雨も、空を見上げながら言う。

「確かに今日は長引くね」

「そうなのか?」

「「うん」」

 兄妹の謎の確信を持った言葉に、手早く洗濯物を抱え込む。三人がかりで集中すると、あまり濡れないうちに玄関まで服を避難させることができた。

 三人して玄関に腰掛け、はあ、と息を吐く。

「間に合った……!」

 俺の言葉に、両側の兄妹もこくこくと頷いている。玄関から外を眺める。空は綺麗な青空のまま、雨だけが降っていた。

「駄菓子屋のキナコさんが、この辺りでは天気雨が多いって言ってたけど……」

「ああ。でも、天気雨が降るのって、だいたい良い事があった日なんだ」

「そうなのよね。洗濯物は壊滅するけど、天気雨が降るといい日で終わるから、憎めないっていうか……」

 じゃあ、今日もまた『いい日』になるのだろうか。確かに、早依さんと和解の切っ掛けが掴めたのは良かったかもしれない。

 洗濯物を取り込む彼女は家事にも慣れている様子で、兄よりもよほど頼りになった。

 これまでの小崎家の役割分担に思いを馳せる。どこか浮世離れした兄を支えるのは、早依さんの仕事だったのかもしれない。

 そして、巣立った後もまた。これまでのように世話を焼いてしまったのだとしたら。

「雨が止むまで時間が掛かりそうなら、他のお菓子も食べようか」

 俺が声を掛けると、彼女の顔がぱっと明るくなる。

「ほんと!?」

「ほんと」

 つい敬語を外してしまったが、彼女は特に怒る様子もない。まだふかふかで温かい洗濯物を抱え込み、立ち上がった。

 

 

 早依さんはお菓子を食べ、だらだらと喋って雨上がりに帰っていった。

 敵対心のない彼女と初めてゆっくりと話せたのだが、好きになった人の血の繋がった妹である。短時間でお互いに緊張は解れ、薦めた俺の手持ちの本が彼女に貸し出されることになった。

 俺達の仲をいちばん気にしていたであろう晴雨も、普段よりも目尻が垂れて上機嫌だった。

 早依さんが帰っていったあとのリビングでは、取り込んだ毛布の上に、白狐姿の晴雨がごろごろと横になっている。

 匂いがいいことに気付くと、そそくさと獣に化け、寝転がり始めたのだ。窓辺からは毛布に日差しが当たり、暖かそうでもある。

『ねえ、和泉さんもおいでよ』

「……仕方ないな」

 服を脱ぎ落とすと、狐に転じる。

 たた、と駆け、横たわっている彼の胸元で丸くなった。狐姿を比較すると、俺よりも彼の方が一回り大きい。前脚を回されると、すっぽりと覆われる。ふたり合わせて円になった。

 もぞもぞと豊かな胸元の毛に埋まると、温かさも相俟って心地いい。

『寝ちまいそう……』

『気疲れしたでしょ。寝ていいよ』

 長い尾が、器用に俺の身体を撫でた。ふかふかとした毛の塊を抱き込む。

 極上の手触りに、うとうとと瞼が重くなった。

『────……』

 彼が何かを言っているのだが、意識が眠りに落ちる狭間で聞き落とす。

 抱いていた尻尾が腕から抜け出た。俺の身体を包み込むように位置を変える。

 ふふ、と細く笑う音がした。

『また一段と、大好きな色になった』

 ちゅ、と耳に口付けられる。ぴくん、と耳を動かして、薄目を開けた。顔が擦り寄ってくる。

 窓から漏れる日差しが、真白い毛を輝かせる。雪原に降る光に包まれ、俺は今度こそ眠りに落ちたのだった。

 

 


『赤狐七化け白狐は九化け(せきこななばけ びゃっこはくばけ)』

動物の魂を持つ一族の話
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坂みち // さか【傘路さか】
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