龍捕る猫は爪隠す

動物の魂を持つ一族の話
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◇1

【人物】
 花苗 玲音(かなえ れお)
 龍屋 成海(たつや なるみ)

 小豆(あずき)
 蚕四(さんし)
 左柄(さがら)


 

 猫神の一族。

 僕たち一族は『猫神の魂が分け与えられた存在』と言い伝えられている。

 始祖と呼ばれるひとは数百年生きてなお存命で、表舞台からは姿を消したものの、意見役として一族をまとめ続けている。

 僕たちと他の人間との違いは多くあるが、一番大きな違いは、僕たちが人とは別に猫の姿を持つことだ。

 ルームメイトの蚕四が同居解消を申し出てきたのは、まだ寒い時期のことだった。

 話がある、と言われ食卓についたものの、なんだかもじもじとして本題を切り出さない。蚕四とは地元にいた時からの幼馴染みで、彼は代々、猫神の一族の従者を務める家柄の出だ。

 人柄故か、僕たちの間で厳密に主従関係をやった記憶はない。困ったときは助け合うくらいの付き合いが続き、大学進学と共に生命力が薄いと案じられがちな僕を心配して、同居が始まった。

 同居自体は長い付き合いもあってか困ることはなく、お互いにつかず離れず上手くやってきたと自負している。

 長い間、食事に逃げていた蚕四が、ようやく茶碗を置いた。

「花苗。俺、けっこう前から彼女いるじゃん」

「うん、そうだね」

 初めての彼女だったはずで、蚕四の浮かれっぷりは見ていて微笑ましいほどだった。彼女との付き合いも一年は超えているはずだ。

 僕も箸を止め、箸置きに置いた。湯飲みに伸ばそうとした手は、彼の言葉によって止まる。

「それで、そろそろ彼女の家で同居しないかって言われてて……」

 ああ、と合点がいった。

 蚕四が彼女の家に泊まりに行く頻度は次第に増しており、この家には物を置きに来て、偶に僕と食事をするような生活になっていた。何より、彼女の家のほうが大学にも近い。

 蚕四の彼女が一人暮らししている家は両親が所持しているマンションだそうで、彼が転がり込むのは治安の面でも良いのだろう。

 ただ、大学を卒業したら彼女と同居だろうな、と思ってはいたが、前倒しになるとは予想外だった。

 よく見知った幼馴染みの眉は下がり、申し訳なさそうな感情がありありと伝わってくる。在学中に同居するならもっと早くとも良かっただろうに、僕を思って切り出せていなかったことは伝わった。

 彼が出て行けば、僕も引っ越すか、ルームシェアの相手を新しく探さねばならない。ただ、いくら従者の家柄とはいえ蚕四をそこまで拘束するのも本意ではなかった。

 僕たちは、ただの友人のはずだ。

「そっか。蚕四と暮らせなくなるのは寂しいけど、あちらの家のほうが便利だし。僕もそっちの方が良いと思うよ」

「……ごめんな。彼女の家の近くで変質者が出たみたいで、守ってやりたいなって思ったんだ」

 明確に彼女との間に差を付けられたのを切なく思う気持ちはあるが、それが当然のことだとも理解していた。蚕四が守るべきは彼女であって、僕ではないはずだ。

 改めて湯飲みを持って、一口啜った。

「じゃあ、早めに引っ越ししなくちゃね。共有の家具で必要な物の話をしよっか────」

 それから僕たちは必要な家具や物品の話し合いをして、大体の引っ越しの日付を決めた。とはいえ、基本的には僕が必要なものはほとんど残していってくれるそうで、蚕四の私物を運ぶくらいだ。

 ルームシェア解消にしては、問題なく済む方なのだろう。

「俺が出ていったら、家どうする?」

 心配そうな眼差しに、笑って答える。おそらく、この同居が終わったら僕と彼の関係は本当に友人のそれに変わるだろう。

「一度、ルームシェアの相手を探してみる……かな。大学には少し遠いけど、静かで治安もいいし、ここ気に入ってるんだよね」

 この地区は単身者用のマンションよりも家族用のマンションのほうが多く、この地区を離れて家を探すのは面倒に感じてしまう。

 特に、ペット可のマンションでなければ、僕が猫に戻った姿を見られては色々とまずいことも多いのだ。スーパーなどの立地も含め、落ち着いた内装のこの物件はとても気に入っていた。

「シェア相手の素性が分かるまでは、猫に戻らないよう気を付けろよ」

「そっか……。気を付けなきゃ、相手が悪い人じゃないといいんだけど」

「そういや。大学の掲示板にルームシェア募集の張り紙してた奴がいたな。大学内なら年齢も近いし、いいんじゃない?」

「そうだね。張り紙作ってみる」

 それから大まかなマンションの間取りや周辺の特徴、住人への希望などをまとめた張り紙を一緒に作り、忘れていて冷め切った夕食を温め直して一緒に食べた。

 彼との生活は気心知れた仲で、事情も分かってくれる相手とだった。だが、僕の体質も含め、新しい住人とは上手くやれるだろうか。

 心の重りが外れて明るくなった彼に合わせて笑いつつ、新しい住人が見付かるかの不安がちりちりと心に纏わり付くのだった。

 蚕四が引っ越していった翌日に、僕は作ったチラシを掲示板に貼り付けた。

 連絡先としては名字とアドレスだけを記したそのチラシは、色とりどりのサークル勧誘が貼られた掲示板の隅っこに鎮座する。

 すぐに連絡は来ないだろう、と、しばらくは初めての一人暮らしを謳歌するつもりだった。だが、連絡は意外にもその日の夜に届いた。

 僕はベッドに腰掛けながら携帯を操作し、メッセージを開く。

 元々の蚕四の部屋は空き部屋。お風呂とトイレ、そしてキッチン。そしてリビングが一室。

 蚕四がいなくなった後、僕は物が少なくなったリビングよりも自室で過ごすことが多くなった。

『初めまして、龍屋といいます。ルームシェア相手の募集のチラシを見て──』

 メッセージの文面には自己紹介と引っ越しを希望していること、一度会って話せないかと丁寧な文章で綴られていた。

 僕はその文面に返事をし、翌日の授業の合間に大学近くのカフェで話をすることにした。文面から想像するにあまり騒がしいタイプではないようで、その点は好ましく思う。上手くいくといいなあ、と思いながらその日はベッドに入った。

 ふかふかの羽毛布団に、ふわふわの毛布。色味は猫の毛が付いても目立たないような白地やベージュのものばかりを集めている。好みの物で纏まったベッドは大好きな場所だ。

 ふわ、と力を抜くと気疲れしていたのか、身体が猫の姿に引き摺られる。伸びをして力を抜けば、輪郭は朧気になり、淡い光を纏って猫に転じた。

 もぞりもぞりと服から這い出し、服と布団の間に収まる。まだ肌寒い中で、猫の毛は暖かかった。

 白地の毛をベースに少し灰色が混じり、長い尻尾と黄緑の瞳を持つ僕の猫姿を見た人は、ペルシャ猫だ、と言う。

 幼い頃に姿を固定する際、いちばん撫でてもらえそうだったから長毛種から猫姿を選んだ。

 とはいえ、幼い頃は良かったものの、大きくなれば家族も蚕四も撫でるのを遠慮してくる。喉がごろごろ鳴るくらい撫でてほしいのだが、最近ではわしわし撫でくられた記憶も遠い。

 ほとんどが白で統一されたベッドの中で、殆どが白の僕が、脚を引き寄せ丸くなる。

『撫でられたい……』

 呟く声はみゃあみゃあと耳に届き、夜の静けさの中で切なげに響いていた。

 翌日は猫の姿のまま目を覚まし、転がってベッドを抜け出る。伸びと共に人の形を造り、服に手を伸ばした。

 人の姿の時には服がないと心許ないのに、猫の姿では逆に億劫になるから不思議なものだ。

 あふ、と欠伸を噛み殺し、キッチンに向かった。食パンを焼いてバターを塗り、さくさくと立ったまま食べて温めたミルクを啜る。

 ミルクの表面を舌で叩きそうになりつつ飲み干すと、すぐに満腹になった。ぺろりと口の周りを舐める。

「ねむい」

 睡眠時間は長い方で、特に猫の姿だと何時間でも眠っていられる。またベッドに戻りたくなる誘惑を振り払い、歯を磨いて着替え、リュックを背負った。

 今日は龍屋と約束をしている。

 講義については興味のあるものしか頭に入らないが、新しい同居人候補には大いに好奇心が疼いていた。

 騒がしすぎない、以上の条件を求めるつもりはない。だが、希望を言うとするなら、いずれ事情を話せる仲になって、たまに毛を撫でてくれるような間柄になりたいものだった。

 玄関を出て最寄りの駅に向かい、電車で大学まで移動する。見慣れた風景も、蚕四と通うことがなくなると何だか寂しいものがあった。

 大学の移動までに絡まれるような治安ではないが、平均よりも低い身長では、周囲の人波に流されそうになりながら移動する他ない。

 大学に辿り着いた頃には少し疲れを感じながら、教室へ向かった。同じ講義を取っている蚕四は先に席に着いていて、僕はいつもどおり近くに寄った。

「おはよう蚕四。同居は順調?」

「おはよ。まだ荷物が片付いてなくてさ、でも順調」

 良かった、と返事をして隣に腰掛ける。眠気に負けて机に上に頬を付けると、見慣れている蚕四は隣で軽く笑った。

「俺がいなくなって眠れなかったか?」

「ううん。寝ても寝ても寝るよ僕」

「冗談だったのに。……まあ、花苗はそうだよな」

 蚕四はノートを開き、隅っこに日付を書き記した。あ、と思い出したように声を上げ、カチカチとシャープペンをノックする。

「昨日、掲示板のチラシ見た。すぐ見付かるといいな」

「あぁ……、さっそく入居希望者から連絡が来たよ」

 うそ、と蚕四の口から声が漏れる。だが、呟いておいて考え直したように、ううん、だとか言い直した。

「いや、まあ立地もいいし。同居人が花苗だしな、そりゃ引く手あまたか」

「僕の名前なんて皆覚えてないでしょ」

 くたりと力を抜きつつも、微睡みに落ちないように追い縋る。いや? と蚕四は意味深に言葉を続けた。

「髪の色薄くてふわふわだし、目の色もそう。目はくりくりで基本的にちょこまかしてるし、キャンパス内では目立つ方じゃない」

「え、やだ。名前覚えられてたら、あいつと同居かー、みたいになるじゃん」

「ならないからもう応募が来てるんだろ。相手が決まったらすぐチラシ剥がしとけよ」

 はぁい、とどうせすぐ忘れる返事をして、講義の前に起こして、と言ってしばらく寝た。講義自体はきちんと受けたが、新しい同居人と会う期待感からそわそわしてしまう。ノートにきちんと書き留めた割には、頭には内容が残ってはいなかった。

 講義の時間が終わると、蚕四と別れて予定通りカフェに向かった。

 大学近くのその店は大学生御用達で、同じ学生であろう人達でちらほらと席が埋まっている。古くからある建物は重厚な趣があるのに、中にいる学生達はお構いなしにざわざわと話に花を咲かせていた。込み入った話をするにも、雑音が混じって都合のいい店だ。

 相手の方が先に着いたらしく、先ほど『入って右奥の窓際の席にいます』と連絡が入っていた。僕は店員に待ち合わせだと伝えて、きょろきょろと視線を巡らせる。

 右奥の窓際の席。

 落ち着いた色のシートが張られた椅子には、周囲から少し浮いた黒髪の青年が腰掛けていた。

 僕は歩を進め、彼の席に近寄る。

「初めまして、花苗玲音です。ルームシェア希望の方ですよね」

「あ……はい。こちらこそ初めまして、龍屋成海です」

 座っている青年の足元は長さゆえか窮屈そうで、体つきもしっかりとしていた。

 顔立ちは整っているが、表情筋の動きが芳しくない。目つきの鋭さもあってか、かっこいい、よりも、怖そう、という印象が先に来る。声も低く通るいい声の部類なのだろうが、顔立ちの印象も相俟って、少しでも強く発せられれば身が竦んでしまいそうだった。

 静かに椅子を勧められ、素直に腰掛ける。

 第一印象とは違って親切にメニューを手渡され、店員にミルクティーを頼んだ。目の前の彼にはコーヒーが届いており、湯気はなく少し減っている。

 僕はリュックから家の間取り図を取り出し、テーブルに広げた。

「えと。…………言葉、崩していい?」

 気圧された所為か敬語が上手く出てこなくて、正直にそう告げる。目の前の龍屋は表情を変えないまま頷いた。

「構わない」

 言葉も端的で、初対面だからとふんわり装ったりもしなかった。率直にこの人との同居は不安すぎたが、まず説明をしてから、と自分を奮い立たせる。

「元々、地元の友人とルームシェアをしていたんだけど、相手が家を出ることになって一室ぶん空くことになったんだ。家の間取りはこんな感じ。それぞれに一室ずつ部屋があって、キッチンにリビング。お風呂とトイレは別」

 間取りを指しながら細かい事を説明していると、頼んでいたミルクティーが届く。ふうふうと一生懸命冷まし、乾いた喉を潤した。

 一息つき、間取りを眺めている龍屋に声を掛ける。

「どう?」

「間取りには特に不満はない。思ったよりも広そうだ」

 彼が言葉を切ると、途端に沈黙が畳みかけてくる。必要最低限しかない返事にくじけそうになりながら、言葉を綴る。

「龍屋……、さん、はなんでルームシェアしようと思ったの、……か聞いてもいい?」

 継ぎ接ぎだらけの言葉だったが、龍屋は平然と答えた。

「さん付けはいい。……元々、猫を飼いたくて」

「え? 猫?」

 顔の横で手首を丸めて見せると、目の前の無表情な男も同じ仕草をした。お互いに可愛らしいと呼べるものではなかったが、認識に齟齬はなかった。

 端から見たら奇妙な図だろうな、と他人事のように思う。

「昔から小さくてふわふわした動物が好きで、特に猫が好きなんだ。だが、俺も家族も猫に好かれなくて、猫カフェだとか動物園の触れ合いコーナーでもよく避けられた」

「え。逃げられちゃうの?」

「ああ。怖い、という感情を持たれているのが伝わるから、あまりこちらから寄るのも可哀想でな」

 ふう、と彼の口から重い息が漏れた。顔は無表情だし、言葉に飾りっ気はないが、悪人ではないらしい。

 僕の肩からするりと力が抜ける。

「だから、長く付き合えば、怖がられることなく猫と暮らせるんじゃないかって。チラシにペット可の物件だと書いてあったから、一度こちらの希望を話してみようと思ってな。ちなみに、折角のペット可物件なのに、花苗は猫を飼っていたりはしないのか?」

 自分が半分猫なのに更に猫を増やしたりはしない、という本音を飲み込んで、首を振った。

「ううん。僕は何も飼ってはいないんだけど」

 返事に龍屋は残念そうに眉を下げた。本当に猫が好きなんだろう。

「でも、別に猫ちゃん飼いたいなら飼ってもいいよ。龍屋がいないときはお世話できるし」

 純粋な猫とは言葉が通じる。犬とか兎ではなく猫相手なら、同居人としては僕は龍屋よりも上手く付き合えるはずだった。

「そうか。とはいえ、初心者がすぐ飼う、という訳にはいかないし、立地や家賃も魅力的だとも思っている」

「あ、猫だけが理由じゃないんだね。よかった」

 猫を機に滑り始めた舌を面白く思いながら、少し上機嫌に見える表情の少ない綺麗な顔立ちを眺める。

 言葉が少なかったのは緊張していたからで、無表情だから緊張すらも伝わらなかったのだろうか。

「ああ。昔から猫が飼いたくて先にそれを伝えてしまったが、今の家が繁華街の近くで静かなところに住みたい、とか、理由はそれ以外にもあるんだ」

 へえ、と彼の現住環境の話を促すと、一度滑り始めた舌が回り始めた。

 龍屋の今の家はルームシェアをした場合と家賃は変わらないが、随分と狭く、夜中に酔っ払いの大声で目を覚ますことがあるらしい。

 耳栓などの対策はしているようだが難しいようで、切なげに『熟睡したくて』と言う。

 丸くなる肩が可哀想に見えてしまって、僕はつい提案を口にしていた。

「そうだ。今も部屋は空いてるし、お試しでしばらく、うちに泊まってみる?」

「いいのか? 俺は有難いが……」

「僕もあんまり龍屋の事は知らないし、上手くいきそうならそのままルームシェア、ってことにしようよ。どっちかが無理、ってなったらナシで」

 龍屋は一も二もなく頷く。会う日を決めた時のメッセージもそうだったが、何かを決める時の決断が本当に早い。

「いつ頃からなら泊まり始めてもいいんだ?」

「いつでもいいよ」

「今日でも?」

「…………本気?」

 僕の声音が探るように下がった。

 表情からは読めないが、声は冗談で言っている様子ではない。ダメ押しのように頷かれた。

 視線を彷徨わせ、断る言葉を持たないと諦める。この男は押しが強いというより、引くことを知らない。

「い、……いけど。特別に掃除したりしてないよ」

「むしろ、生活を知るにはその方がいいだろ」

 至極まっとうな意見に、僕はそれ以上の抵抗を示せなかった。その場で携帯から住所を送ると、龍屋は授業終わりに荷物をまとめてうちに来る、と言った。

 本気で今日来るつもりらしい彼だが、危害を加えたい、だとかそういう空気は感じられない。そもそも、犯罪に巻き込みたければ猫を飼いたいという頓珍漢な理由ではなく、もっと上手い理由を用意するだろう。

 手つかずだったミルクティーを飲み干し、話も付いたことだしそろそろ、と会話を切り上げる。

 ああ、と龍屋も同意し、伝票を持ち上げた。

 二人でレジまで向かい、そこで割り勘だと思っていたが、さっさと彼が支払いを済ませてしまう。

 僕が財布を出そうとすると、手で制された。

「別にいい。こちらの都合で呼び出したんだし」

 そう言って、カフェのレジ横で売っているクッキーの包みを僕に押し付けた。支払いの時についでに買ったらしい品を受け取り、僕はしどろもどろになりながら礼を言った。

 なんとなく二人で大学に戻り、連れ立って校舎を歩く。

 教室に戻りがてら、掲示板に貼ってあったチラシを剥がしに近寄ると、貼ったはずの場所からチラシは無くなっていた。

「あれ? チラシ……」

「これか?」

 龍屋の鞄から出てきたチラシは、見覚えのあるものだった。連絡先をメモするのをさぼって、チラシごと持っていったのだろうか。

「あ、龍屋が持ってたならいいや。剥がさなきゃって思ってて」

「そうか。あとでシュレッダーに掛けておく」

 そこまで念入りに細切れにしなくとも構わないのだが、僕は口に出さずに曖昧に頷くに留めた。

 それから先の講義も同じ講義は近くで受け、昼食を一緒に取って、講義が終わると帰り掛けに一旦は別れた。

 だが、短時間で荷物を纏めたらしい龍屋はさっさと僕の家に辿り着き、片付け中の家のチャイムを鳴らすのだった。

 

◇2

 龍屋は家に上がり込むと、片付け中の家を見るなり、内装がいい、と褒めた。さっさと荷物を下ろし、僕と掃除を分担しつつ家具や家電などを確認していく。

 僕が持っていない家電は持ってきてくれると言い、その日のうちに一度帰って質の良いコーヒーメーカーと掃除機が持ち込まれた。

 龍屋は几帳面な性格で、掃除も料理も細かい工程を卒なくこなしていく。泊まり始めて数日後には、家を汚さないための家具の配置換えと動線の変更を提案されるほどだ。僕はずるずると流されては、居心地のいい家を手に入れた。

 半分の質が猫なだけあって、僕は努力と怠惰にむらがある。一生懸命になれば獲物を追えるのだが、満腹ならいつまででも寝ていたいのだ。蚕四にすら呆れられるような性格の僕に対しても、龍屋は気が乗る時に上手く仕事を配分してくれる。

 ごちゃごちゃとルールで縛った訳ではないのに、僕たちの生活は滑らかに回り始めていた。

「龍屋…………。成海くん、あのね」

「その甘ったるい声は……何を頼みたいんだ?」

「明日のゴミ出し代わってほしい」

 深夜に見たい番組があり、明日は講義が遅くからだ。ゴミ出しがなければ朝から講義の直前まで眠っていられる。

 龍屋は冷蔵庫に近寄ると、貼ってあった講義予定を眺める。

「いいけど、次のゴミ出しは花苗だからな」

「うん!」

 ありがとう、と手を合わせると、わしわしと頭が撫でられた。龍屋は頭を撫でるのが好きなようで、許す、という意思表示にこうやられる。

 希望を言うのなら、もっと喉も腹も撫で回して欲しい。新しい同居人に与えられるようになったそのスキンシップを僕はいたく気に入っていた。

 僕が大人しく受け入れていると、龍屋は何かに気づいたように首を傾げる。

「少し体温が高いか……? 今日も寒いから、暖かくして寝るんだぞ」

 龍屋はもう寝るようで、リビングに僕を残して自室へ入っていった。

 初対面の人には目力が強すぎて怖がられる顔立ちは相変わらずだが、日々気遣いを与えられていれば慣れも出てくる。

 あの顔立ちと長身の近くが安全地帯なのは間違いない。彼はもともと武道経験者で、今のバイト先も警備会社だ。

 僕の素性を明かしていないことを除けば、蚕四よりも身の安全が保障できる同居人に違いなかった。

「正式に同居してもいいかもなぁ」

 まだ一ヶ月も経っていないのだが、あまりにも居心地が良すぎて忘れてしまいそうだ。龍屋のベッドも運び込めばもっと彼は快適に眠れるだろうし、いちいち家に物を取りに帰っているのも面倒だろう。

 頭を悩ませながら、テレビの番組表を眺める。深夜までもう少しあり、時間を潰すための番組を物色した。

 楽しみにしていた深夜番組は面白く、大声で笑わぬように気を付けながら最後まで楽しんだ。違和感を覚えたのは、目の前の画面が消えて我に返った時だった。

「確かに、熱っぽいかも……」

 ぴたりと額に手を当て、龍屋の言っていた言葉を思い出す。寒さに加えて、気を張って猫に化けないようにしているから、体力もうまく戻せずにいるのだ。

 リビングの照明を消し、自室に戻ってからパジャマの上に厚手のカーディガンを羽織った。

 ベッドに入った時までは人の姿を保てていたが、それからどれだけ長く、姿を保っていたか自信は無い。静かに熱が身を苛んでいくのを感じていた。

 朝になって目を覚ました時、周囲にはアラームの音が鳴り響いていた。

 ぱちり、と目を開けると、周囲には布団が広がっている。もぞもぞと前脚を動かして抜け出るが、力が抜けてぽすんとベッドに沈んだ。

 明らかに発熱しており、体力が保てず無意識に猫の姿に化けてしまったらしい。

『水……』

 からからに乾いた喉を無理に動かす所為で、うみゃうみゃ鳴くたびに喉が痛む。ぼとりと落ちるようにベッドから下り、熱に浮かされた頭で蛇行しながらドアに向かった。

 ぴょん、とドアノブに両前脚を引っ掛け、手前に動くように体重を掛ける。熱に節々が痛む身体には、その動きさえも酷だった。

 少しだけ開いたドアに身体を滑り込ませ、キッチンへと向かう。食器棚にジャンプして自分用のプラスチックのコップを咥え、流し台に運んで蛇口の下に置いた。

 レバーを引いて水を流すと、コップに水が溜まる。シンクから脚を伸ばし、ぴちゃぴちゃと水を舐めた。

『おいしい』

 思う存分水を飲み終え、レバーを元に戻す。

 人に戻る為に力を使うくらいなら、少し不便でも猫のまま水を飲んだ方がいい。水の溜まったコップはそのままに、肉球を近くのタオルで拭って寝室に戻った。

 ベッドはふかふかしていて、身をうずめれば眠気が訪れる。渇きが癒やされて少し楽になった気分と共に、また眠りに落ちた。

 猫の眠りは長い。

 アラームも掛けずに眠っていた僕は、同居人の存在を完全に失念していた。猫になっていた所為で、自室のドアを閉めずに眠っていた僕は、低い声によって起床の水面に近付く。

 最近では聞き慣れた低い声のように思えた。慌てているように、普段なら聞くことの無い声音は変に揺れている。

「なんで猫が……?」

 ぱちり、と目を開けて認識したのはその言葉だった。僕が目を覚まして見上げると、こちらを見下ろす龍屋の顔がある。

 視線が合った瞬間、彼は目をまん丸にした。

「あの。君は……何処からか入ってきてしまったのか?」

 そっと指を伸ばされ、とろとろと眠気に半分脚を突っ込んでいた僕はその指に口元を擦り付けた。

 見上げた所にいる龍屋は何故か目を潤ませ、大きな手のひらを背に伸ばしてくる。そっと撫でられた感触は心地よく、腹も撫でてほしくてころりと寝転がった。

 龍屋の手のひらが浮き、その指先が戸惑う。

 ここ、と前脚で掻いて腹を指しても、指先は伸びてこない。真っ白い毛が満ちた腹は撫でる側も心地いいはずなのだが、腹を撫でてはくれないようだ。

「ここは花苗のベッドだから、移動しような」

 背に手が回され、そろそろと抱き上げられる。まだ熱は落ち着かず、はあ、とあつい息を吐き出した。

 龍屋は僕を自分の部屋まで運ぶと、自分の布団の上に下ろした。

 まだ荷物が少ない部屋では、布団の上くらいしか柔らかい場所がない。落ち着いた色味ばかりの室内は、何だか物寂しささえあった。

「花苗が帰ってきたら、しばらく君を預かってもいいか聞いてみよう。きっと飼い主が心配してる、すぐ見つけてやるからな」

 撫でてくれる手は心地いいが、喉が渇いて仕方がなかった。動きたくないが、水は飲みたい。

 だが、僕が歩かずとも、龍屋が歩けるのなら水を持ってきてくれるのではないか。

 熱に浮かされた頭は、ただ楽に水を得ることだけを求めた。

『お水、が……欲しいの……』

 お願い、と彼に伝わるよう波に乗せ、その手を前脚で叩く。言葉は伝わったようで、彼はきょろきょろと周囲を見回した。

「花苗?」

 立ち上がって人である僕の姿を探そうとする龍屋のジーンズに、両前脚で爪を立てる。そっちじゃない、僕はここに居るのだ。

『目の前にいる猫、が僕なの……。熱が出てて、水が欲しい……』

 猫の口からはうみゃうみゃと力ない声しが漏れないが、同時に彼の脳は人としての僕の声を、波を拾っているはずだった。

 龍屋はえ、あ、と慌てた声を漏らすが、目を細めて僕を腕に抱き上げ、急いでキッチンまで運んだ。シンクに置いておいたコップに水を汲み直すと、僕の口元まで運んでくれる。

 猫の舌はぴちゃぴちゃと水面を叩き、水を体内まで運んでいく。たくさん水を含むと、ずいぶん身体が楽になった。

『ありがと、龍屋。お水おいしい……』

 ぺろりと彼の指を舐めると、彼は驚きつつも指先を引いたりはしなかった。腕の中で横になり、くいくい、と前脚を動かして、あのね、と空腹を伝える。

『……お腹も空いてるんだ。上の棚の一番右に猫用のおやつがあってね。それが食べたい』

 龍屋は棚を開けると、僕の言ったとおりに猫用のおやつがあることに驚きの声を上げる。そして、彼は引き出したチューブ状のおやつを僕に見えるように持ち上げる。

『それ。開けてお皿に出して』

 鳴いている僕の声はこの上なく甘えていて、彼が応えてくれると分かっている声色だった。下ろされた床の上で皿に載せられたおやつをがっつき、口の端に付いた分をぺろぺろと舐め取る。

 食事を終えると、こちらを黙って見つめている龍屋に気づいて首を傾げた。

『元気がなくてこれから寝るから、お布団に入れてくれる?』

「混乱している。…………俺の部屋でいいのか?」

 僕の部屋の方が暖かいはずだが、頭はまだ熱を持ってぼうっとしている。彼の体温があるのなら、どちらでもいいような気がしてきた。

『添い寝してくれるなら、いいよ』

 僕の身体が抱き上げられ、彼の部屋に連れ込まれる。

 掛け布団を持ち上げ、敷き布団との間に僕を横たえた。龍屋の身体が隣に潜り込んでくる。布団の隅っこに寝転がる彼の胸元に擦り寄り、身体を丸めた。

 近くにある呼吸音の間隔は早いのだが、身体はかちこちに固まっている。

「花苗は、何なんだ?」

 問い掛ける声は静かで、僕が眠るのなら妨げないように気を配られていた。目の前で珍妙な事が立て続けに起きているというのに、彼は僕を案じる姿勢を崩さない。

 ぽやぽやした思考の中でも、龍屋に対しての信頼が一定量、積み上がったのはその時だ。

『僕、……猫神の一族なんだ。猫とも人ともお喋りができて、こうやって猫にもなれるんだよ』

「………………」

 龍屋は返す言葉を失ってしまった。黙り込み、ただ胸元に収まる僕の背を撫でる。

 長い時間を掛けてようやく絞り出した声は、情けないほど力を失っていた。

「……初めて、俺を怖がらない猫を見た」

 中身が僕なのだから怖がらなくて当然なのだが、彼の声音には嬉しそうな響きが混じる。感情が読みづらい龍屋にしては、珍しく漏れ出た感情の色だ。

 猫神の一族だとか訳の分からないことを言われたのに、ただ怖がられない猫がいることが嬉しい、と言う。もっと引かれるかと思っていたが、初対面の相手にまず猫を飼いたい、と言うような相手を舐めてかかっていたようだ。

 猫に触れるのなら、僕みたいな不思議生物を受け入れようとする。肝が据わっているにも程があった。

『僕は龍屋、怖くないよ』

 同じ布団の中、違う声音で途切れ途切れの会話を交わし、やがて僕は眠りに落ちていた。

 

◇3

 起きたときには熱も下がっており、頭は鮮明だ。

 抱き込まれたまま眠っていたらしい僕は、朝っぱらから龍屋の腕の中でもがくことになった。

 そして体調が落ち着いてから、龍屋に猫神の一族の事をあらかた説明した。

 人と猫に姿を変えられること、人とも猫とも話せること。始祖は長命で数百年生きていること。人間のように生殖せず、一族を増やす必要がある人数まで減ったら指名された人物が魂を分けて一族が増えること。

 人とは違う僕たちの仕組みに、龍屋は目を白黒させた。

 けれど、最終的にはそれら全てを受け入れ、彼は同居の継続を望んだ。蚕四の家柄と元々の役目を話すと、代わりに護衛の役割も引き受けてくれるという。

 僕としては願ったり叶ったりで、龍屋が対価として、撫でさせて欲しい、と言ってきた時にも喜んで猫に化けた。

『喉とね、お腹を触られるのがすごく好き。たくさん撫でて欲しい』

 指先に顔を擦り付けてごろごろと上機嫌な僕に、彼は口元を覆って悶えた。

「猫ちゃんが俺の手を……!」

『うん……? ほら、ねぇここ。お腹』

 警戒なく腹を見せると、そろそろと伸ばされた掌でいっぱい撫でて貰える。たくさんの場所に触れられる掌の感触が、僕はたいそうお気に入りになった。

 そして僕が呼ぶ『龍屋』はそのうち『成海』になったし、彼が呼ぶ僕は『花苗』から『玲音』になった。

 成海の元の家は無事に引き払われ、彼の住所は僕の家になった。

 家賃などは当初話していたとおり支払われたが、家事の分担は彼の方が重いし、家の外でも一緒に過ごして護衛の役目を兼ねてもらっている。

 腕っぷしは元同居人よりも成海のほうが強く、爪切りやらブラッシングやら、世話も細かく行き届いている。家賃を安くしようとしたのだが、『猫カフェだって無料じゃないんだ』と謎の理論を展開する成海によって固辞されてしまった。

 今日も僕は、ソファに座った成海の膝の上で身体を伸ばし、ブラシを掛けてもらっている。

『ねえ』

 こちらを見る成海の目は蕩けきっていた。

「………………可愛い」

『ありがと……? あのね、喉さわって』

 強請るとすぐに伸びてくる腕に、喉をごろごろと鳴らす。うにゃうにゃと鳴き声で満足を表現すると、お腹も撫でてくれた。

 子どもの時にも、こんなに沢山、おおきな掌に撫でられることはなかった。今まで満たされたことのない欲が一気に満たされていくのを感じる。

 猫の僕はすっかり成海に懐き、彼がちょっとでも猫に触りたそうにするとすぐに化けては膝に転がる。

『ぁ、……ンう。喉のそこ、好き』

 彼の手を抱き込んで、すりすりと柔らかいヒゲを擦り付ける。その度に成海はうぐ、と呻いては、振り切れる何らかの感情を宥めている様子だった。

 たまに無理、だとか呟いているが、そういう時の成海の言葉は理解が追いつかず放り投げている。

「……今日のブラシはどうだ?」

『前のより柔らかくて気持ちいい、けど痒いとこは前のブラシでごしごしやってほしいかも』

 この質の良いブラシも成海が買ってきたものだ。僕はあんまりお金を使わないように言うのだが、初めて猫に貢げるんだ、と熱心に言われれば黙り込む他ない。

 成海は家族にも僕を会わせたいそうで、彼も家族も猫への恋情が煮詰まっているようだ。そこまで思い詰めるほど、動物に嫌われる家系というのも気の毒に思った。

『ゆび甘噛みしていい?』

「ああ。ご褒美だ」

『…………。痛かったら言ってね』

 手首を抱き込んで、差し出された指をがじがじと甘噛みする。

 牙が痒いような感覚が解消されて気持ちよかった。普通なら少し痛いはずだが、彼の指の皮膚は厚く、指自体も太くて噛み応えがある。

『あー……』

 恍惚の声を漏らすと、猫の喉からもぐる、とひっくり返った声が出た。

 骨張った指先は、人である僕のものとは違った質感があった。肌はすこしかさついていて、造りが大きい。たくさんの範囲を撫でてくれて、重さのある掌が僕は好きだ。

 手を抱いていると、たまに指先を使って控えめに撫でられる。その代わりに僕は皮膚をがじがじして、後ろ脚で腕を蹴りたくる。

 放っておけば永遠に続けられてしまうだろう遊びを、適度な所で切り上げた。

「もう終わりか……?」

『うん。明日も遊ぼうね』

 成海は僕が明日はもう遊んでくれない、とでも思っているかのように、その日の遊びを引き延ばしたがる。

 だから僕は明日の約束をして、ようやく彼から離れられるのだ。

 僕はリビングから自室に戻り、人に転じて服を着る。猫の姿の時は遠慮なくごろにゃんとしていられるが、人の姿では何だか気恥ずかしい。

 ぱし、と両頬を叩いて表情を作ると、リビングに向かった。

「ありがとー、成海。ブラシすっごく気持ちよかった」

「ああ。こちらこそ。ここ最近だけで、これまでの一生分より多く猫に触っている気がする」

 成海は丁寧に、新しいブラシを猫用のおもちゃ箱に仕舞い込む。

 流石に膝の上に転がったりはしないが、ソファに座っている彼の隣に腰掛けた。猫で散々触っているからか、人に戻ってもあまり距離は取らなくなった。

 近くに寄ってくるひ弱な猫にめろめろになっている人間を、怖いと思うことはもうない。

「人の姿で喉を触られても嬉しくないよな?」

「うーん。喉はくすぐったいだけかな。触られること自体は好きなんだけど、人だったら頭とか、肩とか腕、になるかも。猫の時だと、喉と……僕はお腹なんだけど」

「ああ。玲音の髪も、猫の時の腹の毛もふわふわで触り心地がいい」

 自然に成海は僕の頭に手を伸ばし、髪を撫でた。彼がふわふわだという髪は細く、軽く、彼の指に乱される。

 もっと、とは素直に言えないが、彼が撫でている間は黙って撫でられていた。隣で、くすりと笑う声が聞こえる。

「本当だ。人の時も猫の時も、撫でられるのが好きなんだな」

 からかわれた腹いせにもっと撫でろ、と彼の肩に寄り掛かるが、平然とくしゃりと髪を撫で続けられた。蚕四相手にもこんなことはまずしないのだが、猫の姿で散々触られるから、距離感がおかしくなってしまったのだろうか。

 その体勢のまま、成海は映画を見始めた。

 猫に変わった方がいいかとも思ったが、猫に触りたい時の成海はなんかもっと妙な、触りたいという感情が漏れ出る。僕に肩を許している今の成海は、人としての僕を欲してくれているような気がした。

 僕は途中まで映画を見ていたが、しばらくすると隣に寄り掛かって眠っていた。揺り動かされて目を覚ました時には、もう映画は終わっている。

 起きた視線の先にいた成海にもう一度見るか尋ねられるが、首を横に振った。

「人の時も、猫の時もよく寝るな」

「成海が怖い顔してるから、隣にいたら安心なんだもん」

「…………。それはよかった」

 怖い顔、と表現した事に怒るかと思ったが、窺い見る成海の機嫌は悪くない。

「動かないでいてやるから、いつでも寝ていいぞ」

 またわしわしと髪を掻き乱され、成海は食事を作りにキッチンへ歩み去った。触れられていた場所に手を重ねると、髪が絡まってひどいことになっている。

 猫の毛は整えてくれるのに、なぜ人の髪はこうも扱いが雑なのか。

 寝起きで食事を作る元気は湧いてこなかったが、当然のように成海はキッチンに立って料理を用意し始める。

 肉と野菜を切る音に炒める音、続いてソースの濃い匂いが届いた。今日のご飯は焼きそばらしい。

 鰹節の気配にふらふらとキッチンに吸い寄せられると、フライパンを掻き回している成海がこちらを向いた。

「もうすぐ出来るから」

 用意してあった鰹節のパックをぺり、と開けてつまみ食いをすると、こら、と横から素早く回収される。

「今は人の姿なのに何やってんだ」

「秘められた猫の本能がこれ食べたいって言う」

「理性で我慢しろ」

 ええ、と非難の声を上げると、鰹節パックの残りは全て成海の手元に引き寄せられてしまった。

 焼きそばが出来上がると、その上に鰹節が振り掛けられる。用意された食事を食卓に運び、準備を整えて席に着いた。

「美味しそう! いただきまーす」

「いただきます」

 僕は素早く箸を取り、成海は静かに食事を始めた。早速たっぷりと鰹節が掛かった部分を箸で摘まんで口に運ぶ。

 きっと混ぜて食べた方が全体のバランスがいいのは分かっているのだが、目先の美味しさにしか気が向かないのだ。

「また鰹節ばっかり食べてるじゃないか」

「へへ。焼きそばが美味しいから鰹節が合うんだもん」

 焼きそばの上からは鰹節が消えてしまったが、何も掛かっていない部分も美味しい。鮮やかな野菜と豚肉、焦げたソースの味をゆっくりと口に運んだ。

 立ち上がって緑茶を淹れてくれる成海に礼を言い、口の端に付いたソースを舐める。

「やっぱり、鰹節がなくても好きな味だった。美味しい!」

「なら良いが」

 身体の差か、成海は大きな口でするすると焼きそばを胃に収めていく。大盛りの皿から小山が段々と崩れていった。

 自分の食事は彼に比べればゆったりだが、見ている分には気持ちのいい食べっぷりだ。

「そういえば、明日の朝食は要るか?」

「特に朝から外出とかはないけど……」

「なら作って置いておく」

「成海は朝早いの? バイト?」

 いや、と成海は首を振った。湯飲みに手を伸ばし、持ち上げる。

「引っ越しを機に買い換えようと思っていた食器類の買い出しと、久しぶりに猫カフェに行ってみようと思ってな」

 ず、と茶を啜る音が響き、僕はその間ぽかんとしていた。

「………………え、浮気?」

 僕が言うなり目の前の成海は気持ちいいくらい咽せ、げほごほ、と呼吸を整える。喉を押さえる彼に少し面白くなり、演技めかして言葉を続けた。

「あんなに隅から隅まで身体をもふもふしておいて。僕以外の泥棒猫の方が良くなったの? 絶対に僕の毛の方が柔らかいよ!?」

「……面白がっているだろう」

「ばれちゃった」

 大丈夫? と声を掛けると、成海はああ、と頷いた。喉の痛みも治まったようで、普段の通りに声を発する。

「いや。あの毛並みがどの猫よりいいのは確かだが、玲音に触れるようになったことだし、普通に猫ちゃんにも触れやしないかと……」

「やっぱり浮気じゃない。僕以外の猫に触りたいって事でしょ? 僕の身体だけじゃ満足できないってことでしょ!?」

「人聞きが悪すぎるから、やめないか……」

 まあ、隅から隅まで触ったのも身体を許したのも猫の姿なのだが。

 僕は素直にからかいを止め、普段の喋り方に戻す。

「でも、僕が特殊なだけで、他の猫に対しては今まで通りだと思うよ?」

「まあ、そう。なんだろうが……治ってたりとか……」

 僕が思っているより、成海の猫に好かれたいという気持ちは切実なのだろうか。うーん、と思考を巡らせ、あ、と胸の前で手を叩く。

 自分の特性を、今の今まで忘れていた。

「僕も付いていって、他の猫さんとの仲を取り持とうか? なんで成海に近付いてくれないのか、聞き出せたら変わるかもしれない」

「本当か? じゃあ、食器も一緒に選ばないか。どうせ混ざって二人で使うことになるし」

 いい提案、と乗っかり、明日の起床時間を決めていく。折角だからお昼は外で食べよう、とねだると、そちらも受け入れられた。

 家や大学では一緒に過ごすが、二人で揃ってきちんと出掛けるのは初めてだ。予定を話しているうちに楽しくなって、お腹も胸もいっぱいになってしまった。

 

◇4

 翌日の朝は、珍しく僕の方が先に起きたようだ。

 パジャマのまま部屋を出ると、成海の部屋からアラーム音が漏れ聞こえている。起きるには大きさの足りないらしい音を聞きながら、ふと猫特有の悪戯心が疼いた。

 自分の部屋に入り、猫の姿に変化する。

 そろそろと抜き足差し足で成海の部屋のドアに近付き、静かにドアノブにぶら下がった。そのまま体重を掛けて前に押し出すと、ゆるりと扉が開く。

 トッ、と音を立てないように着地して、同居が始まって運び込まれた大きなベッドに近寄った。ベッドサイドではまだ携帯からアラーム音が鳴っており、僕は停止ボタンをぺちぺちと肉球で叩く。

 音のなくなった室内で、まだ眠っている成海の顔付近まで動いた。

 熟睡しているらしい成海の顔は、普段よりも怖さが鳴りを潜めている。端正さが前に出ている顔立ちをしばらく見つめていたが、やがて、時間もあることだし、と起こすことにした。

『成海、起きて』

 にゃあにゃあと耳元でやってみたが、アラーム音で起きなかった男が猫の可愛らしい鳴き声で起きるはずもない。息を吐き、仕方ないなと全身で彼の顔に乗り上がった。

 猫の全身に下敷きにされた顔は、やがて呼吸が苦しくなったのか、もぞもぞと動き始める。起きたか、と察して横に逃れると、ぱちりと目が開いた。

『おはよ』

「…………天国か」

 伸ばして引き寄せてくる腕に抱きしめられながら、擦り寄せられる頬を舐め返した。猫一匹いるだけで事足りる天国は、なんてお手軽なんだろうか。

 ざりざりとした舌で舐められ、ようやく本格的な起床が訪れたらしい。僕を少し離すと、しっかり視線を合わせる。

「おはよう。最高の目覚めだった」

『でしょう。喜んでくれるって信じてた』

 ぺたぺたと頬に肉球を当てると、嬉しげに腹の毛に顔を埋めてきた。ここまで喜ばれると、サービスのし甲斐もあるものだ。前脚を黒髪に埋め、ぐりぐりと顎を押し付ける。

 布団の中でしばし戯れ、程々の所で空腹を訴えた。成海は名残惜しそうにベッドから下りると、僕を抱き上げて廊下まで運ぶ。

 ずっと抱こうとする腕からするりと抜け出て、いったん自室に戻る。脱ぎ落としていたパジャマを着直して部屋を出た。

 僕の姿を見た成海は、顎に手を当てて呟く。

「毎日起こしてくれないか?」

「眠いからやだ」

 僅かにしょんぼりと肩を落とした成海は、朝食を作りにキッチンへ歩いていく。背後から付いていくと、出汁のために持ち上げたらしき鰹節のパックをさっと隠された。

 取ろうと手を伸ばすと、腕の長さを使って遠ざけられる。

「身体に悪い」

 む、と頬を膨らませて分の悪さに諦める。ついでに、頼まれて焼き魚を作る工程を担うことになった。隣では成海が味噌汁を作り始める。

 たくさんの鰹節で出汁を取って、余った玉葱と人参を入れ、わかめを加えて味噌で味を調える。出汁が出た後の鰹節はごまと調味料を足しておかかを作り、おむすびを握り始めた。

 休日の朝食らしく一手間加わっているが、てきぱきと手を動かしていく様子に無駄はない。

「ご飯熱くない?」

「掌を水で冷ましたら平気」

 完成したおむすびの横。出来上がったおかかを一かけ口に運ぶ。こら、と声が届いたが、その時には既に舌先に味が広がっていた。

 この甘辛いおかかに、加えて塩気のある米粒と、味付き海苔が同時に味わえるなんて楽しみだ。

「美味し!」

「…………それならいいが。もうちょっとで終わるんだから」

 彼はおむすびを皿に盛り、食卓に運んでいく。

 焼き魚にお味噌汁、そしておかかのおむすび。二人暮らしにしては贅沢な朝食がテーブルに並んだ。

「お休みの日、って感じ」

「まあ、普通はおむすびまで作る余裕ないからな」

 皿を運んで食卓を囲むと、いただきます、という言葉を皮切りに食事を始めた。成海が食材の管理を主に担ってくれるが、本当に上手く食材を回してくれる。

 今日何を作ったらいいと思う? と聞けば使って欲しい食材が返ってくるのは有難い。箸で焼き魚を割り、口に運ぶと脂が溶けてほろりと崩れた。

 んー、と歓喜の声を漏らすと、成海の表情も和らいだ。

「お魚たくさんで嬉しいな」

「そうだろ。実は意識して増やしてる」

 椀の縁を唇に当てながら、にっと口の端が上がった。

 苦にしていないようなのは有難いが、彼の働きは二人暮らしをする上での負担も大きいはずだ。探りを入れるように会話を切り出す。

「そういうの、大変じゃない?」

「いや、一人暮らしだった時もこんなもんだったけどな」

「……ちゃんとした暮らしをしてたんだね」

 僕の一族の性質を差し引いても、性格の差で成海がこれまできちんと生活してきたことが窺えた。現在のルームシェアの家賃と一人暮らしだった時の家賃が変わらない、との言葉からも、金銭感覚はまともか厳しい方なはずだ。

 愛想を尽かされないといいな、と思いながら、日々の生活を省みた。

「僕が怠けたり嫌なことしたら、伝えてくれたら嬉しいな」

「それは……玲音が気持ちよくごろごろしていられるのが、俺の頑張りの結果だと思っているから。気にせず寛いでいてほしい」

 真面目に返事をされて、僕はぱくりと焼き魚を口に含んだ。

 ヒモのお仕事って、こんな気持ちで毎日務めているんだろうか。いっそ、頭まで猫だったら何も考えずに暮らせていたのかもしれない。

「美味しかったー。ご馳走様でした」

「俺も、ご馳走様」

 朝食の皿が全て空になり、茶碗洗いは流石にぜんぶ任せてもらった。お茶碗洗い終わった、とソファに座っている成海の元に歩み寄ると、ぽんと頭をひと撫でされる。

 二人で分かれて部屋に行き、それぞれ服に着替えた。

 ブラウンのジーンズと、ふわふわに起毛したセーターにベージュのダッフルコート。帽子は悩んだが、頭を撫でてくれなくなるのでやめておいた。

 僕が部屋を出ると、成海は着替え終わって洗面台に向かっていた。灰色のコートに鮮やかな青のセーターとシャツ、濃い色のジーンズを身に着けている。

 置いてあった櫛に手を伸ばそうとすると、成海が櫛を持ち上げて僕の頭を梳いていく。髪を整えやすいように立ち位置を変えると、猫の時と同じように髪型を整えられた。

 二人とも準備が終わると、連れ立って家を出る。

 隣同士で歩いていても、もう会話が途切れることはない。話題も多ければ、成海の沈黙を怖がらなくもなった。

 長身の彼からすれば、気にしなければ僕の姿は視界に入らない。けれど、ちらりちらりと見下ろして、場所を見ていてくれるのが分かる。

「成海って面倒見がいいって言われない?」

「……どうだろう。初見であまり人は近寄ってこないから、深い付き合いが多いかもしれないな」

 駅から移動している間も、いっそ手を繋いでしまったほうが楽なくらいスピードを合わせてくれていたし、常に僕の立ち位置を気にされていた気がした。

 目当てにしていた猫カフェは、ショッピングモールの近くに設けられている店だった。外観は新しく成海でも立ち寄りやすかったのだろう。前回おとずれた時の話を聞いたのだが、飲み物が美味しかった、と切なげに答えられた。

 入り口で飲み物を頼み、片手に持ったまま猫のいるスペースへ移動する。店内は丸みを帯びた仕切りも多く、あまり他の人が気にならない造りになっていた。

「気楽に来られていいね」

「ああ。あんまり俺一人だと行ける店も少なくてな」

 隅のほうのテーブルに移動し、持っていた飲み物を置く。近くの椅子に腰掛けて、さて、と周囲を見回した。

 動物の保護団体が運営している店だけあって純血種は少なく、色とりどりの毛色をした猫たちがいる。

 あれ、と違和感を覚えた。

 普段の僕は、猫に近寄られやすい性質をしているのだが、今は周囲に猫がいない。そういえば、今日ふたりで歩いている間も、猫には出会わなかった。

 首を傾げつつ、成海に断って一番近くにいた黒猫に歩み寄った。その猫は歳を重ねていて、クッションの上で身を丸めている。

「『こんにちは。お邪魔してます』」

 黒猫は目を開け、薄黄色の目をこちらに向けると、物珍しそうに見つめた。うにゃ、とその喉から静かな声が漏れる。

『あら、魂がおなじなのね。昔にもいちど、あなたのような人と会ったことがあるわ』

「『では、同じ一族の者かもしれません。僕は花苗っていいます。あの、いまお話をしても?』」

『いいわよ。まだ眠くないの』

 僕は離れた所にいる成海を指差すと、口を開いた。そわそわとしながら僕たちが会話している姿を見守っている。

「『あそこに……少し遠くにいる男の人。猫が近付いてくれなくて困っているそうなんです。貴方たちから見て、あの人に近寄るのは嫌ですか?』」

 黒猫はちらりと視線を成海に向け、目を見開いた。

 瞳孔が僅かに細く動く。それは、獲物を追っている時の動きか、天敵から逃げるために探っている時の動きに似ていた。

『あのひと、蛇の護りがある。わたしたちとは、相性が悪いわね』

 黒猫はにゃ、にゃ、と言葉を続け、僕の顔を見て不思議そうにする。

『あなたは怖くないの?』

「『僕は、怖くないですけど……』」

 家族単位で猫に好かれないのなら、よほど蛇……蛇神の護りが強い家系ということだろう。魂を分けるほど縁が深いわけではないが、蛇神が祖先を気に入ったか、祖先に恩を返しているといったところか。

『そうね。あなたは魂がちがう。その格があれば、怖くないかもしれないわね』

「『参考になりました。彼、猫に嫌われているって思っていたみたいです。そういうことなら、元気が出ると思います』」

 黒猫は尻尾を動かすと、成海に視線を向けた。態度は穏やかで、その黒色の毛並みの中に何もかもを抱き込んでしまうような多様な色を持っている。

『ひと撫でくらいなら、あの人に触られても動かずにいてあげる。でもあなたも近くにいて頂戴な』

「『本当ですか!?』」

 ええ、と黒猫はゆったりと了承し、とっ、とクッションから下りた。僕が成海の近くに歩み始めると、彼女も付いてくる。

 僕の後ろから付いてくる黒猫を見て、成海はぱっと顔を明るくした。

「あの、……大丈夫か? 近付いてもいいのか?」

「あのね。成海って蛇神様からたくさん護られているみたい。だから猫さんたちは怖いんだって。でも、この子に事情を話したら『ひと撫でなら触ってもいいよ』って言ってくれて」

 黒猫が進み出ると、成海は屈み込んで指先を猫の鼻先に差し出した。猫が身を低くすると、その背に手を伸ばす。

 ふかふかの毛に、成海の指が埋まった。

「そうなのか……。この子の名前は?」

「あ。聞いてなかった。『お名前、聞いてもいいですか?』」

『小豆よ』

「小豆ちゃんだって」

 黒猫……小豆ちゃんは、名前を聞くのが遅いのよ、と言って、ひと撫でどころではない時間、自分の背を触らせてくれていた。

 成海は引き延ばした時間の分、申し訳なさそうに小豆ちゃんを見つめ、手を離した。

『すこし離れるけれど、見ている分には構わないわよ。ゆっくりしていきなさいな』

「『ちょっと遠くに行くけど、見てていいよ。ゆっくりしていって、だって』」

「有難い」

 僕たちは寝床に戻っていった小豆ちゃんを見ながら、近くに置いてあった猫雑誌を広げることにした。

 だが、小豆ちゃんが離れていった後、そろそろと別の猫が訪れる。その子は僕たちに挨拶をして、成海にひと撫でさせて去っていった。

 小豆ちゃんの態度で何かが変わったのか、次々と猫たちが不揃いな間隔でこちらに訪れては、ひと撫でを許して去っていく。

『一人だとこわいけど。二人なら、まだマシかも』

 好き勝手言って去っていくところは猫らしい。各々が言った事を通訳しつつ、来訪に礼を言うと、猫たちは得意げに尻尾を立てて帰っていった。

 触らせてもらっている成海は身体ががちがちに固まっていて、毛の感触が伝わっているか怪しいほどだ。たまに目を潤ませ始め、隣で見ていると号泣しないかはらはらしてしまった。

 各々は短い時間だが、猫カフェの猫たちが満遍なく来ようとするので、ついつい滞在時間は長くなる。

 律儀な主人達に手を振ったのは、昼食にしては遅い時間だった。二人分の料金を支払って、店の外に出る。

「楽しかった?」

「胸が一杯で、楽しいどころじゃなかった……」

 ぎゅう、と服の胸元を握り締める様子は、プレゼントを与えられた子どものようだった。僕がにこりと笑って成海の腕に手を添えると、反対側の手が僕の背に回る。

 ぐ、と引き寄せられた身体は、容易く彼の胸元に埋まった。

「ありがとうな、玲音」

 頭を撫でる指先は、興奮からか熱い。僕は突然の事に抱き返す迷いすら持てず、ただ呆然と抱き竦められていた。

 身体が離れると、慌てて笑みの表情を作る。

「ううん、僕は理由を聞いただけだし。でも、蛇神様の加護、って言っても、あんまり驚かないんだね」

「ああ、うちの氏神様がそうなんだ。確かに、金銭に困る事がなかったり、と護られている感覚はあったんだが、猫が察知していたとは思わなかった」

 そういえば、と成海は思い出したように言葉を続ける。

「玲音は俺が怖かったりしないのか?」

「それ、小豆ちゃんにも尋ねられたけど、ぜんぜん怖くないんだよね。うちの一族の始祖は猫神様から魂を分けてもらった人だから、魂が違うんだろうね、って小豆ちゃんは言ってたよ」

 成海は目を瞬かせ、しばらく考えていたようだったが、やがて考えを放棄していた。僕も小豆ちゃんの言葉自体は分かるのだが、これまで人の中で生きてきて感覚的に飲み込めないものはある。

 そういうもの、と言うべきものは世の中にあるのだ。

「原因が解消できるものだったら、と思っていたが、できないものだと分かって、それはそれで良かったと思う」

「うん。その分、僕が撫でさせてあげるね。成海の家族にも」

 成海は咄嗟に目元を押さえると、僕から顔を逸らして歩き出す。

 素直じゃないなあ、と思いながら、追いかけてその背を叩いた。今すぐ猫の姿になってあげたくて、ふかふかの毛で寄り添ってあげられたらと願った。

 けれど、それと同時に自分の手のひらにつるりとした皮膚しかないことを実感する。

 可愛らしい容姿も、ぴんと張ったヒゲも、柔らかい肉球も今の僕にはない。きっと沢山のものを与えてあげられるのは、猫の僕なのだ。

 

◇5

 昼食を終え、二人で近くのショッピングモールに移動した。目的は雑貨屋で、中にある食器コーナーを眺める。

 成海の持ち込んだ食器も一見きれいに見えるのだが、背面が欠けている物だとかをこれを機に買い換えたいのだそうだ。

 僕も、成海と並んで長くリビングで何かをする事が増え、大きなマグカップが欲しいと思っていたところだった。容量の大きいものを持ち上げて重さを確かめていると、横から手元を覗き込まれる。

「マグカップを買い直すのか?」

「うん。成海が持ってる大きいやつと同じくらいのが欲しい」

「ああ、だったらこのシリーズが多分同じものだと思う」

 よく見ればマグカップの形が同じで、成海が持っている物と同じ色もあった。猫カフェに向かう時に、この店にも立ち寄っていたのだろう。

 猫の姿でマグカップを使うわけではない。僕がこの中からカップを選んだら、気を悪くしないだろうか。

「この中から選んだらお揃いになっちゃうけど、嫌だったりしない?」

「なんでだ?」

 逆に問い返されて、答えに戸惑う。

「自分だけのマグカップ……みたいな?」

「別に気にしない。適度な重みがあって使いやすい、いい商品だと思うが」

 そこまで言われてしまえば、この中から選ぶ他ない。いくつかの色を持ち上げ、どの色がいいだろうかと眺める。

 成海が持っていたマグカップは青みを帯びた紺色で、落ち着いた色味だった。

「ねえ、僕が持つなら何色だと思う?」

 さり気なく聞いたように言葉を発して、胸はどくどくと鳴っていた。せっかく二人でいる空間で使うなら、その色に自分を乗せてみたかった。

「橙色……かな」

 伸びた腕が、薄い橙色のカップを持ち上げる。猫の姿の僕が持たない色……その色を彼が選んだことを意外に思いながら、唇を開く。

「白とか、灰色とか、黄緑とかじゃなくて?」

「猫の時の色はそうなんだろうが、玲音ってゆっくり陽の光を浴びてるイメージだから」

「よく寝るって言いたいの?」

「起きてる時もあるだろ」

 成海が棚に戻そうとしたカップを横から奪い取り、手のひらに包み込む。橙色、お日様の色。彼が僕をイメージする色が、猫の姿だけから連想する色ではないことが嬉しかった。

 すこし浮上した気分に任せて、にこ、と微笑みかける。

「じゃあ、これにする」

 そっと成海が持つ買い物カゴに入れると、彼は頬を掻いた。

 その後、皿もいくつか選んで一緒にカゴに入れていく。同じ家の環境を整えるために話をするのが楽しくて、くすぐったい気持ちがした。

 やっぱりそれぞれ好みがあって、拘る箇所も違う。成海が普段どう考えて生活しているかが窺える言葉を、面白く思いながら受け取った。

 これくらいにしておこうか、とレジに向かうと、マグカップも含めてまた素早く支払われてしまった。猫カフェと昼食の時だってあわや奢りになりそうで必死に受け取ってもらったのだが、また成海は商品を持って無言で歩き出す。

「ちょ、お金。マグカップは完全に僕のものでしょ……!」

「いやだ。折角プレゼントできるんだからいいだろ」

 よくない、と言いつつ追いかけると、速度を緩めてくれる。

 造りは綺麗だが固くて怖いと思っていたのに、いつの間に彼の表情はこんなに動くようになっていたんだろう。

 振り返った端整な顔立ちが今日は柔らかく見えて、一段と魅入られた。

「…………受け取ってくれないのか?」

 混じる不安げな響きに、唇を尖らせる。

「そういうのずるい……」

 僕が諦めたのを察すると、成海は嬉しそうに唇を持ち上げた。

 喫茶店で出会ったときは、こんな表情をするなんて知らなかった。何重にも積もった雪のようであったのに、今はこんなにも目まぐるしく別の波紋を見せてくれる。

 他の人に気づかれなければいい。誰も彼もが怖がって、彼の本質を見ないでいればいい。そう思ってしまう自分の感情は、可愛らしい猫、からは懸け離れていた。

 僕たちの二人暮らしは、順調に日を重ねていく。

 取り立てて問題と呼べるような事も起きなかったが、僕はよく猫の姿を取るようになった。猫であれば、成海が嬉しそうに撫でてくれるからだ。

 彼からくしゃくしゃにされていた髪を持つ人の姿だって嫌いではなかったはずなのに、今の僕は価値を見失っていた。

 服だって、僕はやたらと手触りのいいものを選ぶ。けれど、選んだとしても猫が持つあの手触りはない。

 猫だって、人だって、全部をひっくるめて僕のはずだ。片方だけが愛されて、僕は自分の半分に嫉妬心を向けていた。

 季節は暖かさを増していくのに反して僕だけ取り残されている。そんな日の教室で、蚕四を見つけた。

 幼馴染みの周囲に誰もいない事を確認して、ゆっくりと近付く。

「おはよう、蚕四」

 蚕四は僕の方を振り向くと、眉を顰める。

「お。おはよ花苗。……お前、隈できてんぞ。ちゃんと寝てるか?」

「うん。ちょっと夜更かししちゃっただけ」

 いまは少しずつ不安が重なって、体調を乱している。魂が身体に強く影響する僕たちは、精神に身体が引き摺られがちだった。

 蚕四は僕の腕に手を伸ばし、ぽんぽん、と叩いた。彼は人としての僕にも、猫としての僕にも態度が変わることはない。なんだか、ただそれだけの事がひどく懐かしかった。

「お前。精神が崩れると絶対に身体を壊すんだから、ひどくなったら大学休んじゃえよ」

「それは流石に休むよ」

「どうだか。龍屋に任せてたら、しばらく肌艶良かったから安心してたんだけどな。あいつもお前の面倒ばっか見てられないか」

 成海が体調不良を心配した時は、僕はさっさと猫の姿になって逃げてしまう。彼の責任ではないのだが、僕はあいまいに笑って誤魔化した。

 隣の席に鞄を置き、筆箱を取り出す。

「龍屋。お前に変な事してない?」

 ぼと、と手のひらから机に筆箱を落とした。はぁ? と僕の喉からは批難めいた声が漏れ、細められた視線は妄言を吐いた友人に向かう。

 いやいや、と友人は両手を挙げ、取り繕うように揺れた声を出した。

「もう付き合ってたりするのかな、って思って」

「付き合ってないし、成海は別に変なこともしないから!」

 ノートでぺしん、と幼馴染みの頭を叩くと、ぜんぜん痛くないのに痛え、と声が漏れる。

「いや、……割と真面目にカマ掛けたのにな。俺、龍屋は花苗だから同居を持ちかけたんだと思ってるよ」

「蚕四の妄想! 勘違い!」

「だって、そもそも猫を飼いたいんなら普通に引っ越せばいいじゃん。なーんかお前に対してやたら甘いしさ。花苗が龍屋と付き合う気ないなら、逆に警戒したほうがいいよ」

 どうなの、と突っ込まれて、僕はぐっと口籠もる。

 恋人になったら、きっとあの掌は人の身でも僕のものだ。追及されればそれが魅力的に映ってしまって、そう捉える自身に困惑した。

 返事をできずにいる僕に、蚕四は訳知り顔でにたりと笑った。

「あー、そう。へえ。まあ、花苗がいいなら別にいいけど。おまえ奥手なんだから、ちゃんと正直になれよ」

「うるさいー! 微妙なとこなんだからせっつかないでよ」

 彼女持ちの余裕か、蚕四は僕をからかっては励ますことを繰り返す。講義が始まる前、にたにたと悪趣味に笑う幼馴染みを罵っている内に、すこし気分は晴れた。

 気晴らしの所為か、講義は珍しく集中して受けることができた気がする。でも、それを幼馴染みに伝えて礼を言うのは何だか気恥ずかしかった。

 鞄の中に入っていた飴玉を投げつけるように渡して、成海と約束している学食へ向かって駆け去る。

 学内の渡り廊下まで歩いて、ふと冷たい風につられて顔を上げた。まだ時期としては寒いが、もう少ししたら春休みが始まる。

 成海の家に行こうか、と計画も立てていて、僕は彼のご家族なら秘密を打ち明けてもいいと思っていた。役に立ちたい、喜んでほしい、と猫らしくない奉仕感情に気が急いて仕方がない。

 こんな歪んだ顔を見てほしくないのに、会う時間を少しでも貰えるのなら受け取りたがる。長い冬に凍り付いた感情を、僕は完全に持て余していた。

「成海」

 学食のある棟は建て替え後さほど経っておらず、学食も清潔感のある色味と木の質感をわざと残した居心地のいいスペースだ。

 券売機の近くで目立つ姿を見つけて、腕に手を添える。まったく意識していなかった頃に始めたスキンシップは癖になってしまっていて、いま止めるほうが不自然だ。

 こちらを見返す成海の表情は、僕以外が見ても感じるくらい柔らかい。

「俺はもう決まってるが、玲音は何食べる?」

「何だと思う?」

 決まっていることを示唆するように問い返すと、成海が斜め前の券売機を見つめる。

「きつねうどん」

「狐はイヌ科だもん」

 お金を入れ、日替わり魚定食のボタンを押す。成海は残念そうに続けてお金を入れ、こっちは肉定食を選んだようだ。

 列に並んで定食を受け取ると、空いている席へと向かう。暖房の効いた室内は暖かく、大きな窓から見える中庭の寒さとは切り離されている。

「「いただきます」」

 箸を持ち上げ、さっそくアジフライに手を付ける。さくりと音を立てる衣、配膳時にソースを掛けた部分は甘辛く、ご飯に合う味付けだった。

 んー、と美味しさを表現していると、目の前の成海も生姜焼きを口に運んでいる。

「今日は魚が当たりだよ」

「肉だろ」

 意見が分かれるのだっていつものことだ。やいやい言いながら食事を終え、セルフで提供されているお茶を片手にのんびりと雑談を続ける。

 並んで寛いでいる僕たちに声が掛かったのは、会話が一息ついた時のことだった。

「龍屋、話してるとこ悪い。ノート借りっぱなしだったからさ」

 話しかけてきたのは、成海がよく行動を共にしている顔ぶれだった。

 おう、と成海はノートを受け取り、鞄に仕舞う。それで終わりかと思ったが、彼らの表情は好奇心に満ちている。

 対して、成海はもう用はないだろう、と言わんばかりに言葉を掛けようとはしない。

「……龍屋の同居人、紹介してくんないの?」

「別に俺が友達なだけで、玲音とは友達じゃないだろお前ら」

 やだやだとごねる友人達を押しやり、つなぎをする様子もない。あまりにも可哀想になって、横から口を開いた。

「初めまして。花苗です」

「こんにちは、俺は左柄。こっちは────」

 各々が自己紹介をする間、成海はむっつりと緑茶を啜っていた。

 明らかに表情の変わった成海の肩に、左柄が手を置く。

「かわいこちゃん独り占めしたいのは分かるけど、お前がいない時に俺らも見ててやれるじゃん。面識あるくらいいいだろ」

「バッ……カ! お前ら絡みたがりだから、面倒じゃないか心配してるだけだ」

 肩に乗った手を払い落とし、成海は僕の態度を探るように視線を向けてきた。にこ、と笑い返して、面倒に思っていないことを伝える。

「嬉しいよ。成海の大事なお友達だもん」

 言い終わると、その場に沈黙が満ちた。

 なんだか不味いことを言っただろうか、と成海を見ると、はあ、と口元に手を当てて嘆息する。

「やっぱ紹介したくなかった……」

「いや、紹介してよかっただろ。こういう子だったら、なおさら俺らの目があるほうが安全だぞ」

 左柄の言葉に、そうだそうだ、と他の友人達も同意する。

 人の僕は、たまにこうやって話の流れを切ってしまうことがあった。蚕四には肉体的に守られるのもそうだが、幼馴染みが近くにいることで安心してもいられた。

 けれど、そうやって幼馴染みに守られていたから、人としての僕の本質は幼い頃からあまり変わっていないのかもしれない。

 猫の僕は好きでいられるのに、人の僕を、自信を持って好きだと言うことは難しい。

「花苗くん。連絡先教えて」

「……いいよー」

 はっと我に返り、慌てて言葉を取り繕う。目の前の成海は、むすっとした表情が元に戻ることはない。口を開いて漏れる声音も駄々っ子のそれだった。

「別に同居してるんだし、俺経由でいいだろ」

「お前経由とか、ぜったい経由しないだろ」

「するわけないだろ」

「……花苗くん、交換しよ」

 僕はおろおろと成海と左柄の両方を見る。やがて成海は諦めたように好きにしろ、と手を振った。

 左柄はにんまり笑い、携帯を近づけてアドレスを交換する。他の友人達とも連絡先を交換し、僕は携帯を仕舞い込んだ。

 賑やかな友人達は成海に手を振ると、ざわめきの尾を引きながら去っていく。

「前に言ってた、深い付き合いのお友達、だよね?」

「まあな。あいつらどんだけ怖い顔しても気にしないから、怒った時は言葉で伝えるんだぞ」

 うん、と頷くと、成海は冷えたお茶を口に運んだ。

 成海は僕を友人達に紹介したくなかったのかもしれないが、僕はまた彼の新しい一面が見れたことを嬉しく思っている。口に出すには重たすぎる感情を、そっとまた胸に仕舞った。

 次の講義が近くなり、立ち上がって移動を始める。

 揃うようになった歩幅も、並んで歩く距離も、前よりも近くなった筈なのに、遠く感じるのは何故だろう。

「さむ」

 渡り廊下でついそう言ってしまうと、隣に並んでいた指先が伸びてくる。冷えた僕の指を捕まえて、きゅっと握り込んだ。

「本当だ」

 指先はすぐに離れてしまって、僕は彼の体温が残った指を握り込む。こっそりと唇を噛んで、漏れそうになる言葉を封じ込んだ。

 もっと指先を握っていてほしかった。並んで手を繋いで歩きたかった。猫にできないことは、人の姿の僕でなければ叶えられない。

 吸う息は冷たくて、喉を思いっきり冷やしていく。冷気が届いてしまったのか、胸はただ息ぐるしかった。

 

◇6

 今日も僕は猫の姿で、成海の太腿を横断するように伸びている。

 リビングで過ごす時に僕が猫の姿を取ろうとするから、贈られたマグカップもあまり使えていなかった。

 僕を撫でる成海は嬉しそうなのだが、最近はすこし違う表情をするようになった。

 戸惑いだとか、不安が混じった表情。そんな表情をさせたい訳ではないのに、僕は未だに混乱しては、猫の姿に逃げていた。

 けれど、その日は空気が違っていた。成海は唐突にテレビの電源を消し、番組の音声が途切れる。

「玲音。ちょっと時間を貰えるか」

 切り出された声音は、逃がさないという圧を含んでいた。みゃ……、とか細い声を漏らすと、ぐっと成海の表情が歪み、また元に戻る。

 彼は僕を抱き上げ、僕の部屋の前まで運んだ。

「人に戻って来てくれ」

 部屋に入れられ、戸惑いながら人の姿に戻る。先ほど脱ぎ捨てたはずの服を時間を掛けて纏い、リビングへと戻った。

 ソファ近くのテーブルには揃いのマグカップが二つ並び、湯気を立てていた。成海は僕の表情を見ると、唇を緩める。

「別に怒ってる訳じゃないから。おいで」

 成海は、僕を安心させたいが為に表情を作ったらしい。おずおずと近寄り、隣に腰掛ける。

 とはいえ、無意識に距離を作ってしまった。その隙間を、少し動いた成海が埋める。

「最近、家ではずっと猫の姿してるの、何故なんだ?」

 マグカップに伸ばそうとした手を止め、ちら、と重ねられない視線を逃す。

「猫が近寄ってこない原因、が解決しづらいものだって分かったから、猫の姿でずっといたら嬉しいかなって……」

 間違ったことをしてしまったのだろうか。表情の変化をちらちらと見ながら、両手の指を組む。

 成海の眉がぎゅっと寄り、視線は僕を捕らえて離さなかった。

「俺は、猫はもちろん好きだが……。玲音には家くらい、過ごしたい姿で過ごしてほしいと思う。最近は俺にばかり気を遣って、疲れているんじゃないか」

 彼の言葉は概ね間違いないのだが、成海ばかりを見ていたのは、ただ気になってしまっていただけだ。目がずっと彼を追って、好ましく思ってほしいと動いてしまう。

 これは、やっぱり素直に口に出すには重すぎる感情だった。

「僕は、無理はしてないよ。気を遣ってるわけでもない……ただ」

 そう。ただ、彼が好きで、好かれたかっただけだ。

 両手でパジャマの裾を握り込んで、震える声で言葉を紡ぐ。

「僕自身が。あんまり人の姿の僕を……、好きになれなく、なって」

 震えている指先に、別の色をした指先が重なる。一回り大きな掌は、震える指を宥めるように軽く覆い被さった。

 顔を上げると、成海は困ったような顔をしている。

「俺は人の姿をしていても、猫の姿をしていても。玲音が好きだ」

 友愛であろう言葉を突きつけられても、救いにはならなかった。彼の好き、と僕の好き、がかけ離れすぎていたら僕は報われないのだ。

 あ、と口を開いて、また閉じた。

 軽い冗談のように、好きだと返せたら良かった。考えすぎてたみたい、と言って、そうして明日からも友達として笑う。

 それができないくらい、感情が重たく育ちきってしまっていた。

「あの、僕……」

「────やっぱり、気持ち悪いか?」

 気持ち悪い、とは。僕はぽかんと口を開いて、彼を見上げる。じっと見つめていると成海の目元が朱に染まった。

 典型的な、照れている人間の表情だ。

「え……?」

「いや。……自分に好意を持ちすぎてる奴が同居しているというのは、気持ち悪いんじゃないか、と」

 目を見開いて、首を傾げる。引かれそうになった手を、今度は僕が捕らえた。

「僕だって、成海が好きだよ」

「でも。ほら、好きにだって色々、……あるだろ」

 そこまで言ってしまえば、もう白状しているようなものだった。あれ、と僕はようやく掛け違えを見つけたときのように、裾を手繰る。

 捕らえた指先を更に深く握り込んで、重ね合わせた。

「僕ね。猫だけじゃなくて、人の姿でも、もっと撫でて欲しいって思ってた。頭も、肩も、手も、お腹だって全部。でも、成海は猫が好きだから……」

「違……くて。俺は、猫の姿の玲音なら下心が……」

 あぁ、と情けない声が漏れ、かくりと頭が落ちる。顔を傾けて覗き込むと、成海はいっそせいせいしたとでも言いたげに笑っていた。

「人の姿の玲音にべたべた触るのは、もう。……それは好きだってことだろ。だから、猫の姿にしかあんまり触れなかった」

 腕が背後に回される。

 広い胸元に抱き込まれて、僕は彼の匂いに埋まった。僕の肩に顎を乗せて、成海はくすくすと笑い続けている。

 僕はそろりと彼の背に手を回して、軽く抱き返した。

「……人の姿も、触ってくれて良かったんだよ」

「そっか。俺もずっと、人でも猫でも、両方。たくさん玲音を撫でたかった」

 胸元に顔を擦り付けて、回した指先に力を込める。お互いの喉からは笑い声が漏れ、幸せな響きで満ちていた。

 顔が近付いてきて、額を合わせる。

「好きだ」

「僕も」

 そっと目を閉じると、柔らかく唇が重なった。

 首筋に手を回し、二度、三度とキスを繰り返す。かさついていた唇が潤むまで、ゆっくりと唇を寄せ合った。

 彼の腕は腰を撫で、髪を梳り、僕自身を強く抱き込む。伝わる体温は熱く、分け合うには過剰すぎるほどだった。

 僕を抱き込んで、成海はぽつぽつとこれまでの経緯を話してくれた。

 チラシを見つける前から、僕の顔は知っていたこと。猫を飼いたいのも勿論だが、僕と接点を持つことも目的であったこと。同居を始めてすぐ、本格的に恋に落ちていたこと。

「ただ、玲音がその気がないのに、手を出すつもりはなかった。本当に」

「……僕がいいよって言ったら、手を出してた?」

 成海はたっぷりの間を取って、神妙な声を出す。

「それは……、はい」

 ふっと笑って、成海の肩に寄り掛かる。毛が隔てていない彼の皮膚は近くて、胸元に耳を寄せれば鼓動音が聞こえてきた。

 怒っていないか窺うように覗き込んでくる瞳を見返して、唇を持ち上げる。

「それ、今でも?」

「当たり前だろ」

 腹を括ったように言い切る彼に、好奇心が疼いてしまった。

「その時には、お腹たくさん触ってね」

 成海は猫の僕を前にした時と変わらないくらい感情を必死に噛み殺すような顔をして、こてんと僕の肩に顔を押し付ける。

 それは猫の可愛らしさに悶えている時の表情だったはずだが、人の僕もその対象らしい。

「……殺し文句だ」

 ころころと変わる表情が可笑しくて、僕は彼の前に釣り糸を垂らすことにした。

「今度の週末、僕は予定空いてるけど……?」

「本気にするぞ」

 返ってくる言葉は、冗談にしないでくれ、という懇願の響きを含んでいた。

 かるく唇を尖らせると、見慣れた顔立ちが覆い被さってくる。首筋に縋り付いて、齧り付く唇を受け止めた。

 

◇7(完)

 恋人としての数日は、やたら甘ったるかった。

 猫に化ける事はしばらく禁止にされ、僕はある種のむず痒さを感じながら触れてくる彼の手を受け止める。間に猫毛があるとないでは大違いだ。

 猫の時にしかべったり近付こうとしなかった癖は、次第に解消されている気がする。

 金曜日の夕食は、おおきなチキンだった。

 クリスマス用かと言わんばかりの鶏肉に衣を付け、大量の油でからりと揚げる。僕の目はきらきらと輝き、皿に盛られたチキンにかぶり付いた。

 はふはふと息を漏らしながら食べている最中、僕を嬉しそうに眺める成海が言う。

「美味い?」

「うん! 成海ももっと食べなよ」

 彼は何事か考えるように言葉を切ると、上機嫌を載せたまま言葉を発する。

「食い過ぎたら動けないぞ」

 んぐ、と息を詰めた僕は、含みのある表情をする成海を見上げる。

 動く、とはつまりそういうことだ。何だか負けたような気分になって、チキンを皿に置く。

「冗談だ。ちょっと休んでからしような」

 自分もチキンを持ち上げ、大きな口で齧り付く。予告されてしまえば、唇も、指の動きも途端に意味深に見えて意識してしまう。

 どぎまぎと翻弄されつつ、美味しいチキンを味わった。

 余ったチキンは明日食べようということになり、僕が茶碗を洗っている間に成海は脱衣所に向かう。

「一緒に入るか?」

「まだ恥ずかしいからやだ」

「……どうせ見るのに」

 かあ、と頬を染めると、成海は僕の頬をつついて通り過ぎ、脱衣所の扉を閉めた。まだ洗い終わっていない食器を泡もこにして、水で流す。

 手を拭ってはあ、と息を吐くと、僕もパジャマを取りに自室へと戻った。

 手触りのいい柔らかいパジャマと、買い直した下着。照れに服を抱きしめると、柔らかい感触が押し返した。

 しばらく待つと、部屋の外から成海の声がした。近くに置いておいたドラッグストアの袋を持ち上げ、部屋を出る。

 廊下ですれ違った成海は、頭にバスタオルを掛けたまま僕の手元を見つめた。

「風呂で使うやつ?」

「うん」

 ビニール袋の取っ手の片方を引き、中を覗き込む。彼の視線が中身の内の一つを捕らえ、指がそのボトルを引き出した。

「ローションは風呂場では要らないだろ」

 ひゅっと僕の喉が息を吸う。

「あ、の……面倒だから、解しておこうかな……みたいな?」

 僕の返事に、成海は眉を寄せた。

「没収」

 ローションのボトルは高く持ち上げられてしまって、僕の手から離れていった。ああ、と悲壮な声を上げながら、手を伸ばしても届かない。

「そういうことも、俺がやりたいんだけど」

「でも、あの……」

 僕がもだもだとしている内に、成海はさっさとリビングに入っていった。持っていかれてしまったボトルを見送り、浴室に入る。

 全身の汚れを落として、肌や髪を整える。買い揃えた物をここぞとばかりに使い、何処を触れられても触り心地がいいように塗り込んだ。

「ローションは取られちゃったし」

 はあ、と息を吐いて風呂から上がった。

 ふかふかのバスタオルで身体の水気を拭い、直ぐに脱ぐのに必要なのか考えながら服を身に纏う。

 そして、髪を拭いながら成海が待つリビングへ向かった。彼は雑誌を捲っており、髪の雫が垂れることなど気にもせずに読み進めている。

 ドアの音で僕の方を見ると、おいで、というように手招きした。雑誌が傍らに避けられ、脚の間をぽんぽんと叩く。

 僕が大人しく指示された場所に座ると、彼の手が載っていたバスタオルで髪を拭い始める。感触が心地よく、されるがままに身を預けた。

 ふと、成海の鼻先が僕の頬の近くに寄ってくる。

「いい匂いがする」

「ほんと? あんまり匂いは強くないやつ選んだよ」

 腕は後ろからぎゅう、と抱きしめ、彼の腹が背にぴたりとくっつく。回った手に指先を重ね、ぐい、と背後に体重を掛けた。

 人としての触れ合いは、まったく別の感覚を与えてくれる。

「明日の朝、さぁ……」

「うん」

 テレビの音もない。たまに外から車の音が聞こえてくるくらいの静寂の中で、背後で唾を飲む音さえも聞こえそうだ。

「玲音が猫になってたら、俺、ぜんぶ夢だったって思っちゃいそうだ」

 彼の言葉は、何となく伝わるような気がした。うーん、と声を漏らして、眉を下げる。

「でも僕、疲れたら猫になっちゃうかもよ」

「何とかしてくれ」

 どうしたものかなあ、と悩みつつ、本当に何でもないことをだらだらと喋る。

 途中から成海は雑誌を広げ始め、いくら軽く腹を空かせるための休憩が必要だとしても、初夜にしてはのんびりすぎる空気だった。

 半分猫な僕の所為か、そんな僕に慣れきった成海の所為かは分からないが、背後にいる男に身体を明け渡すのが怖くないことは確かだった。

 猫の僕を触れる指先が、ただただ優しかったからだろうか。

 やがてお腹がいっぱいだった感覚が薄れ、会話もそわそわと上滑りを始める。僕は背後を振り返って、ちいさな牙を見せた。

「……そろそろ。いやらしいこと、する?」

 猫でこうやると成海が撃沈していたな、と覚えている小首を傾げる仕草も加えると、やっぱり成海は濁った妙な声を漏らしていた。

 猫だろうが、人だろうが、僕なら何でもいいのかもしれない。

「する」

 短い答えを聞いて立ち上がると、手を引いて成海の部屋へと招かれる。引っ越してしばらく経ったのに綺麗に片付いた室内は、部屋の主の性格を反映していた。

 ベッドに腰掛け、布団を隅に押し退ける。僕を追いかけるように成海も隣に腰掛けた。

「ちゅうしよ」

 ん、と唇を上げると、熱が重なる。舌に促されて唇を開くと、そのまま滑り込まれた。唇の裏を舐め、できた隙間から潜り込んで舌を絡める。

「ぁ、ン……、ん、ぁ……く……」

 舌裏が擦られる感触が気持ちよく、涎を零しながら夢中で貪った。触れ合っていた時間を数え切れなくなってきた頃、そっと唇が離れ、口の端に零れた唾液を指で拭われる。

 その手首を捕らえて、指先にちゅ、とキスを繰り返した。

「成海、に、お願いがあるんだけど」

「何だ?」

 掴んでいた手首をそのまま自身の腹に近づける。彼の掌がぺったりと僕の腹部にくっついた。

「成海の種をね、お腹に残してほしい。僕の魂が成海の色を覚えたら、将来、魂を分ける時にその色で染まったままにできるから」

 成海は考えるように黙り込んで、低く声を絞り出す。

「猫神の一族は、魂を分けて人を増やすんだったか」

「そう。でも、純粋なままの魂を分けるのは、子が凄く似てしまうから禁忌なんだ。その代わりに、別の人の色を分けてもらって魂を染める。いくつか染め方はあるけど、番がいたら身体を重ねて、種から染めてもらう」

 身体を重ねるなら黙ったまま種を貰ってしまっても、と酷いことも考えたが、もし望んでくれるのなら、僕の魂はこの人の色に染めたかった。

 成海の掌は、僕の腹から離れなかった。

「でも、俺が染めたら……」

「うん。染めた色は取れないから、あんまり僕たちは身体を重ねる相手を多くは持たない。できるなら、僕は成海だけにしたいよ。……重たいのは、分かってるけど」

 僕たちの年齢なら、もっと軽い感覚で身体を重ねられる相手だって見つけられる。でも、僕は成海が頷くのなら、彼の色が欲しいのだ。

 成海の唇から、長いながい息が漏れる。

「願ったり叶ったり──、だ」

 ゆるりと肩を押して寝台に倒される。髪が広がったシーツの上で、僕はにんまりと唇を持ち上げた。

 覆い被さった掌が、パジャマの釦を外していく。

「ほんと、不思議一族だな」

「さっきの話は身内にしかしちゃいけないから、内緒だよ」

 重たい話をして彼を身内に引き摺り込んで、色を貰って染まってしまえば、もうきっと成海はずっと僕のものだ。

 猫にだって、爪も牙もある。

「言わないよ」

 パジャマの上着の下は素肌だけだ。日焼けしていない肌が恋人の目の前に晒されると、お気に召したか気になるものだ。

 じい、と胸元を見つめる視線を眺める。執着を感じる視線は、唾を飲み込まんばかりだった。

「見てばっかりじゃなくて、触ってよ」

 手を掴んで頬に寄せ、掌に擦り付ける。

 ぴく、と指先は反応を示し、頬から首筋へと伝った。くすぐったくて声を漏らしながら笑うと、掌は胸へと辿り着く。

 体温で色を変えている胸の尖りに指先が触れ、まだふっくりとしたそれを摘む。

「…………ン。なん……か、そわそわ、する」

 感触を面白がっているのか、ふにふにと指先で押し潰したかと思えば、また前へと引かれる。

 その刺激が、じんじんと変な感覚を呼び起こした。

「……ぁ。……それ、はダメ……かも」

「気持ちいい、ってことか?」

「そ……なン、だけ、ど。ひゃ……!」

 ぐりぐりと指の腹で押し潰されるのも悦かった。声を漏らし、知らない感触に翻弄される。

 指先が乳首の周りの肉ごと摘まむ。ぴんと立った部分を、近付いてきた舌が捕らえた。ねろ、と濡れた舌が敏感になった部分を伝う。

「ぁっ、あ……ンっ、く……」

 胸の先ごと口の中に消えていくと、見えない部分で舌が尖りに絡む。舌先で粒が転がされ、ぞくぞくが加速した。

 ぴちゃりと水音が立つ度に、反応する声と混ざっていく。静かな室内では、耳から音が入ってくることさえ刺激だった。

「魂を分けた子どもが出来たら、胸も変わったりするのか?」

「……ン。お乳、出るように、化ける……ッ。あ、まだ、しゃべ……ぁあ、ふ」

 へえ、と面白がるように声が漏れ、胸に潜り込んだ顔が乳首を吸う。長い刺激を声を漏らしつつやり過ごすと、彼が離れた場所は色を変え唾液でてらてらと光っていた。

 ぺろ、と唇を舐める表情は外での無表情とも、家での柔らかい表情ともまた違う。肉食獣の貌だった。

「下脱がすぞ」

 焦りを感じる声音に、こくんと頷いて腰を上げる。下着ごと引き下ろされると、疼いていた半身が顕わになった。

 さっき取り上げられたローションのボトルに手が伸び、蓋が開けられて腹に垂らされた。どろりとした透明な液体が、彼の指に絡む。

 太い指がその場所に絡み付くと、ほとんどが手に隠れてしまった。ねっとりとした液体が中心になすりつけられ、慣れた動作で扱かれる。

 胸と違って知った感覚は、直接的に快楽を引き寄せた。

「……ふ、ぁ。……やぁ、あぁ、ン、……っく」

 つう、と裏筋を指が伝い、先端に辿り着くと鈴口をぐりぐりと指先で苛められる。自分のものではない指先が、予想も付かない動きをするのが堪らなかった。

 ぎゅっとシーツを握り締めて、爪先を丸める。

「い……っちゃ……か、らァ、や、ン……!」

 限界を訴えると、膨れた半身から男の指先が離れた。

 ほっと胸を撫で下ろし、力を抜くと、脚が掴まれて左右に開かれる。反射的に閉じるように動かす前に、別の身体が滑り込んだ。

 腹に残っていたローションを指先で掬い上げると、ぬめりを纏った指は尻の合間を辿る。

「あ……ッ、さ、触る……の?」

「種、欲しいんじゃなかったっけ?」

 とぼけたような顔をする恋人に、む、っと眉を寄せる。制止の言葉を掛ける前に、くい、と指先が後腔に引っ掛かった。

 知らない感覚に、身体の動きを止める。ぬめった感覚と共に襞が掻き分けられ、指は奥へと進んでいく。

「…………ひ、う」

 身体の内側を他人に拓かれている感覚は心許ない。開いた脚を閉じられないまま、突き入る指先が深く進んでいくのをただ許した。

 指先は何かを探っているようで、内壁をぴたぴたと触り続ける。あぁ、と彼の喉から声が漏れたのと、僕の喉が反射的に声を発したのは同時だった。

「──────ぁあ、……ン!」

 すり、と指先がその場所を撫でた。撫でただけのはずだ。

 けれど、その快楽は長く尾を引いた。神経を直接撫でられているような、重い刺激がそこから齎される。

 く、と指先を食い締めても、力を緩めた瞬間に逃れられる。

「悦かった?」

「…………うん」

 恐るおそる肯定すると、指先にぬめりが足される。ゆったりと挿っていく指は、探り当てた場所をまた押し潰した。

 はくはくと不揃いな息を吐いて、重たい残響をやり過ごす。

「……ァ、うぁ。や……い、ぁっ。……んァ、ぁああッ」

 堪えようと食い縛っても、吐息と共に声が漏れる。

 僕が必死にやり過ごしているのに、成海はそんな僕を面白そうに見つめるばかりだ。腹立たしいのに、気持ちよさに誤魔化されていく。

 とん、と軽く握った拳を彼の肩に押し付ける。

「……イ、くの……なるみ、も、ぁ……一緒が、いい……ッ!」

 ちゅぷ、と音を立てて指が引き抜かれ、ひととき息を休める。

 目の前で彼のズボンに手が掛かり、一気に下がった。茂りの間から、質量のある物体が飛び出てくる。

 赤黒く光っているそれが視界に入り、僅かに目を見開いた。竿を握って数回擦り、そのまま視界が交わった。

「……いいの?」

 亀頭の先が肉輪にくっつき、ぬと、と糸を引く。

 そのサイズを収めきるには僕の孔は力不足に思えたが、もう肉塊は可哀想なほど張りつめて赤らんでいる。

 試してみようか、とこくりと頷いた。

「いいよ」

 先端がぬるぬると輪の周りを行き来して、突き立てる位置が定まると、ゆっくり力が掛かる。体格差から滑らかには進まず、次第に体重が重く掛かっていった。

 みっしりと埋まった重たい熱が、少しずつ身体の中を進んでいく。

「うァ……ぁ、なに、これ…………」

 雄の太さに腔はびくつき、そわそわと絡み付く。

 ず、ず、と押し付けられる度にそこが、きゅう、と引き絞った。足先をシーツに突っ張ると、逃れる方に力が掛かったのか、脚を捕らえて持ち上げられる。

 傾いだ身体をいいことに、剛直がさっき快楽を知った場所を一気に押し潰した。

「────ァああッ! ぁ、うあ、……そこ、は、……ダメ……ぁ、あ」

 指とは触れる量が違い、重すぎる刺激にがくがくと太腿が震える。

 ちろりと見える舌舐めずりは、獲物を前にした蛇の動作だった。ひく、と息を呑む、痙攣するように後口が竿を食む。

 一突きして勝手が掴めたのか、ゆるくピストンが始まった。

「ぁああ、……ン、くぁ。ぁ、ぁあ、あ、あ、あン……!」

 腰ごと揺さぶられ、弱点を容赦なく突かれる。

 腰から下には力が入らなくて、ただ持ち上げられる腕に身体を任せた。くぷ、じゅぷ、と水音が響き、限界が近い成海の呼吸音も次第に荒くなっていく。男根に食らいつく自分の腰が揺れているのが、他人事みたいだ。

 ふ、と嵐の間の凪のように、彼の掌が腹に当たった。何かを考えているような目を細める表情に、僕もまた見入る。

 その唇が、弧を描いた。ゆるりと掌が腹を撫でる。

「……ッ。今まで持てなかった物、……全部、お前がくれるんだな……」

 泣き出さんばかりの表情に手を伸ばそうとするのに、届かない。代わりに同じように震える唇を持ち上げた。

「うん……。全部、あげる……」

 脚が抱え直され、ずる、と引き抜かれた砲身が最奥まで押し付けられる。

 弱点だった場所よりも更に先、彼の茂りが尻たぶを掠める位置まで、雄を身体で銜え込んだ。

 ぐり、とその場所を分からせるように、奥が潰される。

「────ァ」

 場所を知られた。

 限界まで絶頂を引き延ばされた身体を、ず、とまた屹立が抜け出ていく。

 けれど、その先には絶頂が待っているはずだった。恐れに押し退けるように手を伸ばしても、もう力は届かない。

 引き抜かれた肉棒が、雄に慣れた細径を辿って一気に突き立てられる。

「う、ああ、ぁ。────ぁああああああああッ!」

 一瞬の間を置いて、身体の中に、白濁がぶち撒けられる。奥の壁を叩く感触と、自分とは違う温度が奥をじわじわと染めていく。

 ただ混乱して、彼の身体を抱き込むように精を飲み込んだ。ふ、と長い息を繰り返し、一滴も漏らさぬように戸を閉ざす。

 目の奥で、ちかちかと何かが瞬いていた。

「……玲音」

「や、漏れちゃう……」

 吐精が終わって尚、僕は抜かないでと首を振った。成海は息を吐くと、そのまま身体を倒してくる。ずしりと重い体重が掛かって、男根は位置を変える。

 またじわじわと、刺激が後腔を苛んだ。

「もっかい、……する?」

 笑いの混じった声が届いて、僕はすぐに首肯した。返事の勢いの良さに、今度は本当に笑われる。

「したい。きもちよかった……」

 回らない舌で告げると、伸びた腕に頬を撫でられた。彼の表情は猫の僕が可愛い仕草をした時と同じ表情をしていて、ああ、やっぱり捕まえた、のだと確信する。

 離さないようにその背にそっと手を回し、軽く爪を立てた。

 翌日の朝に起きたのは、僕が先だった。

 ゆっくりと確認した魂の色は、彼の色が混ざって上手く変化している。これから身体を重ね続ければまた色が変わるのかもしれないし、このままかもしれない。

 眠っている成海の顔を抱き、身体を猫に変化させる。もふもふとした毛皮で口元を抱き込むと、しばらくして閉じていた瞼が動く。

 ぱちり、と目を開けた成海は、明らかに驚いたような表情になった。ざりざりとした舌で額を舐め、ごろごろと耳に届くほど喉を鳴らす。

『だいすき』

 僕の言葉に、流石に夢ではなかったと察したらしい。

 指先が伸び、柔らかい毛が集まっている腹をゆったりと撫でた。ぽふ、と僕の胸から腹にかけてに顔を埋め、顔全体で柔らかさを堪能している。彼にとっては猫は猫で、何か嗜好を刺激するものがあるようだ。

 朝からもふもふを入念に提供し、僕は人へと姿を戻す。

 成海は目を擦ると、長い息を吐き出した。

「…………良かった。夢だったかと……」

 ごめんね、との意味を込めてすりすりと頬を寄せると、嬉しそうな声と共に抱き寄せられる。素肌が重なったままの身体では少しの刺激で勃ってしまいそうで、ほどほどの所で逃れた。

 ベッドから落とした成海のパジャマの上着を拾い上げ、身に着ける。

「玲音、それ俺のパジャマ……なん、だが……」

 言っている途中に彼にも意図が伝わったらしい。僕はぴら、と僕には長い裾を捲ってみせる。

「好き?」

「ぐッ……。あぁ、その……すごく、好き」

 体格差故に成立する彼シャツは、お気に召すようだ。

 そっか、と返事と共に、彼の手を引く。まだ身体には情事の汚れが少し残っていて、きちんと洗い落としたい気分だった。

 風呂場に連れ込まれて、彼は僕の意図を察したようだ。

「一緒に風呂……は、危険だと思う……」

 もう一回、になりかねないのは分かっているのだが、お互いに泡を擦り付ける触れ合いもしたくなってしまった。

 猫で慣れた誘う仕草は、人の身体であっても慣れっこだ。

「僕もそう思う。けど、洗いっこはしたくない?」

「したい」

 僕の手招きに釣られた返事は即答で、僕はまた笑いを零してしまった。ぽん、と頭が軽くはたかれ、そしてわしわしと撫でられる。

 きっと彼はこうやって僕の我が儘を聞いてくれるのだろうし、僕はそれを期待して悪戯を仕掛けるのだろう。

 人でも変わらずに触ってくれるようになった腕を懐に抱え込んで、僕はご機嫌に喉を鳴らすのだった。

 

動物の魂を持つ一族の話
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坂みち // さか【傘路さか】
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