煩悩と狗は追いかけ去らず

動物の魂を持つ一族の話
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【人物】
戌澄 友(いぬずみ とも)
尾上 白夜(おのうえ はくや)


 

▽1

 狗神の一族。

 俺達の一族は『狗神の魂が分け与えられた存在』と言い伝えられている。

 始祖と呼ばれる存在は数百年生きているとされ、次々と主人を変えながら、まだこの世に存在し続けているらしい。

 俺達と他の人との違いは多くあるが、一番大きな違いは、俺達が人とは別に犬の姿を持つことだ。

 

 

 

 地元を離れて大学生活を送る人間には、働かざる者、で始まることわざが付きまとう。その日も頻繁に予定を入れている動物モデルの仕事に呼び出され、指示されていた会議室へ時間通りに入った。

 俺に続いて、顔馴染みの二人が部屋に入ってくる。

 動物プロダクション社屋の中にある会議室は、白い壁に金属の書類棚、天井にはプロジェクタが設置され、投影用のスクリーンとホワイトボードが隣り合うような事務的な部屋だ。キャスター付きのテーブルを動かし、各々がパイプ椅子を持ち寄って腰を下ろす。

 目の前では同じくバイト仲間の龍屋、花苗の二名が腰掛け、龍屋から、概要は聞いておいた、と俺の前に書類が差し出された。

 いつもクールな龍屋は、蛇神の加護が強くはあっても純粋な人間だ。ただ、花苗は俺みたいに魂が違い、人とは違った別の姿を持つ。彼は犬ではなく、猫だ。

「花苗も一緒の案件か?」

 尋ねると、花苗はちょこまかと可愛らしく首を横に振る。

「この後、別の仕事に成海と一緒に行くからいるだけ」

 成海、は龍屋の下の名前で、彼らは名前で呼び合うくらい親しい仲だ。

「そか。飴やるから食って待ってな」

 社員が席を外さざるを得ず、真面目な龍屋に書類を預けたのだろう。俺が鞄から数個の飴をテーブルに置くと、花苗は素直に礼を言って口に含む。

 差し出された書類を持ち上げると、日付と時間、そして依頼主の情報が書かれていた。

「『──』さんが、急用で席を外してすまない、と言っていた。依頼内容は書類に書かれてある通りだ。俳優の尾上白夜が今度、うちのプロダクションのタレントと共演する映画を撮ることになった。だが、当の尾上白夜は犬が怖いらしい」

「共演者はどの子?」

 挙げられた名前は、こちらも顔馴染みの柴犬の名だった。

 狗神の一族という訳ではない純粋な犬だが、他の犬より抜きん出て賢い子だ。いつも口角を上げてご機嫌そうで、感情の振れ幅が大きいわけでもない。中型犬相応の体躯も、怖い、と思う方が難しいだろう。

 尾上白夜、の事は流石に知っている。若手俳優の中では安定して仕事を得ている人物で、優しげな甘いマスクを武器にしている。かといって、演技に対して手を抜く印象はなく、端正な表情をぼろっぼろに崩しながら泣く様には、もらい泣きした覚えがある。

「あんなかわいこちゃんが怖いのか。……小さい頃に犬に噛まれた、って書いてあるな」

 ぺら、と書類を捲って、ヒアリングの欄に目を通す。

「そうらしい。そこで、相手の様子を見ながら徐々に犬に慣れさせてほしい。……という訳で、この件は戌澄に頼みたいそうだ」

 純粋な犬は、自然な演技をする。

 だが、相手の怖がっている細かな表情まで窺いながら犬慣れさせる、という仕事は難しい。人間がボールを持ってきたのなら、ただひたすらに遊びたがるし、極端に、好き、か、嫌い、の感情を持ちやすい。

 この動物プロダクションの所属タレントなら、ほぼゼロ距離で迫ってくるだろう。彼らは、与えられた愛を返すことに慣れている。

「他にも一族はいるけど、……あぁ、スケジュールが変則すぎるのか。じゃあ俺だ」

 大学生で、かつ単位に余裕ができた俺は、最近はバイトに勤しんでいる。報酬も悪くない金額で、スケジュールが変則とはいえ有り難い仕事だった。

 龍屋に承諾の返事をし、クリアファイルに纏めた資料を鞄に仕舞う。

「他に何か、言伝された事ある?」

「いや、特にはないな」

 龍屋は花苗から残った飴を手渡され、かさかさと大きな手で包装を剥く。龍や蛇というよりは、熊が木の実でも剥いているような仕草だ。

 飴を口に入れる前に、彼は思い出したように口を開く。

「……最近はどうだ、『飼い主』は。見付かりそうか?」

「全然。こればっかりは運命の采配だから、仕方ないんだけどな」

 うちの一族の特徴としては、一目惚れ、が多い。魂のかたちの所為で、決めた人に従えられたくて堪らなくなるのだ。

 神の姿は、信じる人が決める。人が認識する狗神の印象が柔らかくなってきた昨今では、一族の飼い主への感情もまた柔らかく変化している。それでも、前提が主従であることは変わらない。

 ずっと、自分に首輪をしてくれる相手を探している。

「犬が求める飼い主と、猫が求める飼い主は違うけど、花苗が羨ましいよ」

 両頬を飴で膨らませた花苗が、あどけなく笑う。

 花苗の飼い主……というか、恋人は隣にいる龍屋だ。猫神の一族であることも明かしており、魂の色が綺麗に混ざるほど深く愛し合っている。いずれ、龍屋の色に染まった花苗の魂を分ける……子を授かることも一族から打診されるんだろう。

「へへ、いいでしょ。でも、成海は飼い主って感じじゃないなー……。やっぱり、犬と猫じゃ求めてるものが違うのかもね」

「そうだな。龍屋は花苗をあからさまに束縛したりしないだろうし」

 自分の場合は、そのあからさまな束縛、を求めている性格もあり、相手選びには苦労している。

「そういや、龍屋。こんど技の練習したいから相手して。お前もそこそこ鈍ってきただろ」

「まあな。場所を用意するから、それから予定立てよう」

 龍屋と共通の趣味である武道の話、そして仕事の話。近況報告を交わしていると、あっという間に花苗の仕事の時間が近づく。会議室の備品を元に戻し、部屋を出て空室のタグへと差し替える。

 じゃあ、と公私ともにパートナーとなった二人と手を振り合った。少し離れて振り返ると、花苗の手が伸び、龍屋の手を取った様子が見えた。お熱いことで、いいことだ。

 ひと気の少ない廊下を抜け、プロダクション所有の建物を出る。日陰を出た瞬間に、眩しい光が目を刺した。外は蒸し暑く、シャツの首元を引く。

「……いいなぁ、飼い主。兼、恋人」

 思春期の頃は、恋人を作ろうと足掻いていた時期もあったが、付き合う、に発展する前に俺が冷めてしまう。相手が強く自分を求めてくれなければ、強く自分を縛ってくれなければ恋に落ちきれない。

 難儀だ、と浮いた汗を拭い、渇いた喉に唾を送り込んだ。

 

 

 

 尾上白夜との対面は、プロダクション内の小さな撮影ルームを借りて行われることになった。俺が犬の姿になったまま待機する必要があるため、龍屋の手を借りて尾上を案内して貰う。

 そして、ふたりきりになった所で龍屋に席を外して貰うことになっていた。俺は特殊な一族のために用意された更衣室で服を脱ぎ、姿を犬のものに変える。

 更衣室の端にある鏡に姿を映した。

 くりくりとした黒い瞳を持つ、真っ白いポメラニアン。人の姿を見た者がいたら想像もつかないような可愛らしいこの姿は、ちいさかった頃の俺が望んで固定した姿だった。

 幼い頃は、愛される姿になりたかった。誰もが目を向け、可愛いと黄色い声を上げるような姿になりたくて、ふわふわしていた魂をこの貌に定めた。人の姿との齟齬が表面化したのは、思春期になって順調に背が伸び始めた頃だ。

 長身、という訳ではなかったが、平均身長としては十分なくらい背が伸びた。そして、狗神の一族では主人を守るために戦う術を得ることが美徳とされ、俺も例に漏れず身体を鍛え、色々な武術を学んだ。

 そうなると、段々と白いポメラニアンではなく、もっと中型犬で活発な犬のほうが合っていたのでは、と思い始めた。もう、姿を固定しきっていて後の祭りだったが。

 人の姿の俺は、武術に邪魔にならない程度にしか髪は伸ばせないし、維持が面倒で髪も染めずにいる。適度に筋肉も付いた身体は、スポーツマンと自称できるくらいには服を押し上げる。

 キャンキャンと可愛らしく鳴くのが似合うような、この姿とは似ても似つかないのだ。犬の姿から人間の顔を連想するなら、もっと可愛らしく、それこそ花苗のような美少年であるべきだろう。

 可愛らしいポメラニアンになりたかった頃は通り過ぎたが、人と犬の姿の齟齬はふいに頭を擡げては、苦い思いをさせるのだった。

『詮無い、ってこういうことを言うんだろうな』

 ペット用のドアをくぐり、待っていた龍屋を見上げる。飛びかかって脛を後ろ脚で蹴り上げると、ぐっ、と苦しげに上の方から息が漏れる音がした。

『行くぞ』

「……小型犬でも、全力で掛かられると痛いんだが」

 龍屋は怒ることもなく、俺を先導して歩き始める。ごめん、の意味を込めて歩く足に擦り寄ると、一度立ち止まり、屈んで背を柔らかく撫でられた。

 廊下を少し歩き、撮影ルームに辿り着く。俺はロックを外してもらったペット用のドアをくぐる。ドアの前にいる龍屋は、そのまま尾上が来るまで待機するつもりらしい。

 撮影ルームは明るさが印象的な部屋だ。プレイマットが敷いてある柔らかな床のスペースとふかふかとしたソファ。そして部屋の端には犬用、猫用のおもちゃが入った箱がある。

 採光に優れた大きな窓のある部屋だが、今は開いている厚いカーテンを閉じてしまえば、設置してある大きな照明も使うことができる。動物用の撮影スペースだけあって、空調もしっかりしたものだ。

 俺は室内にあるソファにジャンプして乗り上がると、身体を丸めた。エアコンの効いた室内は涼しく、寝そべっていると、うとうとと睡魔が訪れる。

 部屋の外から喋り声が聞こえたとき、俺はゆっくりと身を起こした。

「どうぞ。こちらです」

「ありがとう。お世話になります」

 扉を開けて入ってきたのは、記憶にある尾上白夜そのままの人だった。素でもカメラ越しの姿と変わらないということは、生来の美形なのだ。

 マッシュスタイルに整えられた髪は染められ、次の役柄のためか、明るいグレー色をしている。肌色は白く、長い睫に垂れ気味の目元は色っぽい。龍屋と変わらないくらいの長身に、俺ほどではないが適度に鍛えられていることが分かった。

 くん、と鼻を動かすと、オーク系の香水の匂いがした。嫌な匂いという訳ではないが、必要だとは思えなかった。

 身を起こし、ほう、と見惚れてしまったが、向こうにはポメラニアンが何か見ているな、としか思われてはいないのだろう。

 尾上と視線が合った。途端、怯えの色が浮かぶ。

 俺はその場に座り直した。近付いてこようとしないことに、彼がほっと息を吐いたのが分かった。

「こちら、うちのプロダクションの『シロ』といいます。小さいですが、もう成犬です。落ち着きがあって、呼ばなければ無闇に近寄ってくることはありません。その点は、ご安心ください」

 シロ、は俺の芸名だ。ぱっと外見と印象が一致しやすい名前を選んだ。

 龍屋は尾上から離れ、俺に向かって手を振る。

「シロ」

 俺は小走りに龍屋へと近寄ると、その両手の中に顔を埋めた。クウクウと鳴いて、甘えていることを全身でアピールする。

 まずは、怖くない犬であることを彼に示さなければ。俺はその場で寝転がって、腹を見せて恭順を示した。勿論、普段はやらない仕草だ。飼い主以外には、あまりやりたくない仕草でもあった。

 ただ、背に腹は代えられない。

「こんな風に、シロは呼ばれれば来ますが、呼ばれなければ大人しくしています。人なつっこく、歯もこんなものです。噛みませんし、噛んだとしても痛みはありません」

 くい、と両手で顎を開かれても、大人しくされるがままになる。意図がなにも分かっていないような犬のふりをして、目をぱちぱちと瞬かせた。

 尾上は、それでも近寄ってこようとはしない。彼の恐怖心が根深いものであることを窺わせた。

「あの、元々はシロと二人きりで、という話でしたが、俺も同席しましょうか?」

 龍屋の提案に、尾上は首を振る。

「いや、その……シロがどうこうするとは思わないし、予定通りで構いません。犬と同じ空間にいることすらしてこなかったから、今日は、それを目標にしようかな、と思っています」

「そのくらいのペースでいいと思います。では、予定通り三十分ほどしたら、またお伺いしますので」

「はい、お世話になりました」

 龍屋は俺に視線を送ると、頷き返したのを確認して部屋から出て行った。尾上の視線が、こちらを振り返る。

 呼び掛けようとしたのか口が開かれたが、声は発せられないまま閉じられた。しばらく見つめ合っていたが、ふい、と視線を逸らされる。そのまま、彼は俺が座っていたソファではなく、撮影用に使われていた椅子へと歩み寄って、腰掛けた。

 手を組んで膝に肘を突き、じい、とこちらを見つめている。俺はこのまま見つめ合っていてもな、と元いたソファにとてとてと歩いていった。

 当然のように、尾上と俺との距離は開いたままだ。それから十分ほど、可愛いところでも見せるか、と無駄に毛繕いをする俺を彼は黙ったまま眺めていた。

 携帯電話はポケットに入れたまま、触り出すとか、興味が無いような仕草も見せない。しっかりと彼の視線は俺を追って、慣れたいのだという意志を感じさせる。

 埒があかない、と俺は身を起こし、そろそろと尾上に近付く。半分ほど距離を縮めて、その場に伏せた。ころり、と横になって、遠くで腹を見せる。

「…………本当に、可愛いな。さすがモデルだね」

 くすり、と彼の唇が笑みの形になった。蕾が花開くような、凝縮された美に当てられて俺はこてんと床に頭を倒す。

 矢に胸でも射貫かれたような心地だった。

 尾上は椅子から立ち上がると、俺との距離を半分だけ詰めた。そして、その場にしゃがみ込む。

「おいで、シロくん」

 呼ばれた声に引かれるように立ち上がると、とと、と自然に早脚になる。伸ばされた腕に顎をしっかりと閉じて鼻先を擦り付ける。

 ほんの少しだけ、彼の手のひらがヒゲを撫でた。彼はぐっと拳を握り締めると、二度なでてくれはしなかった。手を引いて、元いた椅子に戻っていく。

 俺はぽかんとその様を見送り、どうしよう、と困ってその場で脚踏みした。やっぱり、この姿とはいえ犬は怖かったのだろうか。

 俺は手持ち無沙汰になり、おもちゃ箱へ向かう。お気に入りの噛み心地のボールを引き出すと、自ら頭を振って部屋の隅に投げた。だだ、と駆け、追いついたボールを咥える。二度、三度とそれを繰り返して、ふと振り返った。

 尾上は、やはり俺を見ている。

 仲良くしたいのならもっと触れ、と叫びたかったが、吠え声を聞かせたくなくて黙ってボールを投げる。

 龍屋が戻ってくる頃には、走りすぎてへとへとになった俺が床でばてていた。

 

 

▽2

 龍屋との会話が終わって、尾上は撮影ルームを出て行く。見送りのためか龍屋も一緒に部屋を後にした。

 ふと、尾上が座っていた椅子を見ると、何かが置いてある。たっと地を蹴って椅子に跳び乗ると、携帯電話が置きっぱなしになっていた。勿論、俺のものではない。

 噛んで持ち上げるわけにもいかず、俺はまだロックされていないペット用のドアをくぐり、更衣室に飛び込んだ。姿を人に戻し、記憶にないほど急いで服を着ると、撮影ルームに戻って携帯電話を引っ掴む。

 大股に廊下を駆け抜け、玄関付近まで近付く。鼻先に、覚えのある香水の匂いが届いた。ばっと匂いの元へと顔を向ける。

 休憩スペースにある自販機の傍で、缶コーヒー片手に佇んでいる尾上の姿があった。

「あの、すみません。携帯電話、落とされませんでしたか?」

 俺が握っていた物を見ると、彼は目を見開いた。ぽん、と携帯電話を仕舞っていたポケットを叩く。

「ああ、僕の物です。……落としてしまったみたいだ」

 ほっとしたように携帯電話を受け取ると、待ち受けの画像を確認している。間違いなく彼のものであったようで、そのままポケットへと仕舞った。

 俺はほっと息を吐く。

「良かったです。では……」

 その場を去ろうとした腕が、目の前にいた人の掌で捕らえられる。俺が掴まれた腕を持ち上げると、目の前の人はにこりと笑っている。

 犬を前に怯えていた様子とは、全く違った顔つきをしていた。

「届けてくれてありがとう。ジュースでも奢るよ、何がいい?」

 彼は自分の缶を近くのテーブルに置くと、自販機の前に立った。小銭を入れ、どうぞ、と掌で示す。

 運動しすぎてぐったりとした俺は、ぺこりと頭を下げてスポーツドリンクのボタンを押した。ガコン、と音がして、ペットボトルが落ちてくる。

「ありがとうございます。いただきます」

 飲み物を持ったまま立ち去ろうとすると、また腕が掴まれた。今度はあからさまにぶらぶらと振るのだが、力の篭もった指は離れない。

 目の前のその人は、機嫌が良さそうに口角を上げている。

「次の仕事で忙しい?」

「いえ、今日の予定は、既に終わっていますが……」

 正確に言うのなら、今しがた終わったばかりなのだが。尾上の、にっこり、が更に深くなった。

「次の予定までの時間を潰していた所なんだ。飲み終わるまででいいから、付き合ってよ」

「はぁ……。いい、ですけど……」

 表面上は無関係とはいえ、バイト代の支払い主を邪険にすることは憚られた。手招きされるがまま、彼の近くに腰掛ける。

 ペットボトルの蓋を開け、ごっと喉に流し込んだ。潤いが戻ってくる。

 ぷは、と息を吐くのを、尾上が見ていた。シロを見ていた時と、同じ目をしていた。

「僕のこと、わかる?」

「尾上、さん」

 俺が答えると、尾上は嬉しそうに唇をゆるめた。

「流石に、知ってますよ」

「嬉しいな。僕、今日はここに犬に慣れるために来たんだ。君、はここのスタッフ?」

「はい。戌澄です」

「ああ。君が……」

 名前を知っている様子なのが気になった。龍屋が何かの話の時にでも挙げたのだろうか。俺は人としてもこの動物プロダクションに所属しており、肩書きは事務方のスタッフで、シロの飼い主だ。名刺入れから名刺を差し出すと、尾上は両手で受け取った。

 返す名刺は持っていないようで、俺のそれはパスケースに仕舞われている。

「僕はあいにく手持ちがなくて。ごめんね」

「いえ、芸能人だと無闇に渡さない方がいいと思います」

 気を遣ってそう言ったのだが、いや、と彼は俺の言葉を否定した。

「持っていたら、渡したかったんだけどな。そうだ、連絡先を交換しようよ」

 先ほど届けたばかりの携帯を振る様子に、身体の前で手を振る。

「いえ、要りません。尾上さんのうちのプロダクションへの依頼とも、俺は関係ありませんし……」

「あれ? シロくんの飼い主じゃなかったの?」

 え、と俺は声を漏らす。プロダクション内での表向きの関係通りではあったが、なぜ尾上が知っているのだろう。

「他のスタッフが、お伝えしていましたか?」

「最初の打ち合わせの時にヒアリングをしてくれた人が奥に引っ込んだとき『戌澄に相談』というような事を言っていのを覚えていて。あと、服に白い毛が……」

 尾上は骨張った指先を伸ばすと、俺の服の裾から犬の毛を摘まみ上げた。ちょうど濃い色のシャツを着ていたから、目立ったのだろう。犬に変化する時に付着してしまったらしい。

 彼は立ち上がり、几帳面にゴミ箱に毛を捨てると戻って来た。

「シロくんにはお世話になる予定だし、関係が深い人だったらご挨拶しておきたいな、と思ってね」

 強引と思えるほどの誘い方が、真面目な動機から来たものだったとは意外だった。ぽかんとペットボトルを握り締める。

「シロくんは賢いね。とてもしっかり躾がされている」

「あ、ありがとうございます」

 当人なので戸惑ったが、顔に出ないように振る舞う。

「僕は、犬が苦手で。ボールで遊びたがっていたのに、独りで遊ばせてしまって申し訳なかったな」

「ひとりでも楽しんでた……ん、でしょうから大丈夫です。あの、今回の依頼の概要、は聞かされてはいるんですが、犬が苦手な理由、を詳しくお伺いしてもいいですか? その。シロが努力して解決することなら、と……」

 真剣に言葉を選ぶ。

 尾上は気を悪くした様子もなく、渇いた喉を茶色の液体で潤した。苦ったらしいそれが、喉を潤せているのかは疑問だったが。

 コン、と缶の底がテーブルを叩く。

「子どもの頃に、公園近くの家に中型犬がいたんだ。きちんと番犬の役割をしていた子で、あまり近付きすぎると唸られていた。その家にね、垣根を越えて、ボールが入ってしまって。入れてしまったのが僕だったんだよ」

 彼の指先は缶の縁にあたり、器用にゆらゆらと缶を揺らす。倒れはしないが、はらはらと指先を見守った。

「勿論、拾いに行ったんだけど、あいにく家主は留守だった。ボールは犬小屋の近くにあって、その近くに餌もあった。無闇に近付いて噛まれて、外そうとして力を込めてしまったから、怪我をしてしまった」

 彼は、このあたり、と手首の裾を捲ってみせた。元々の傷も浅かったのだろう。薄くなっているのか、何かの傷痕があったことすら分からない。

「それからもその犬は、ずっとその家を守り続けたよ。両親も許可無く家に入ったこちらが悪い、という考えだったし、傷といっても小さくて、大ごとにするほどじゃなかった。大人達の間で話し合いが持たれて、それで終わり」

 ほっと胸を撫で下ろす。噛んだとはいえ、侵入者への対応で犬側に責任を問うのは気分が悪い。

「でも、僕は子どもの頃、彼が眠っているところをよく眺めていたんだ。ふかふかの毛並みが綺麗な、とても好きな子だったから、唸られて噛まれて、ショックでね」

 何だろうな、と彼は自問する。

「好きだった子に、同じだけの愛情を返して貰えなかったことがトラウマなのかな。犬を前にすると脚が竦んで、触れなくなってしまう。可愛い、とは思うんだけどね。シロくんも」

 飼い犬を褒められた筈なのに、ぼうっとして反応が遅れてしまった。ああ、と無味乾燥な声を返し、口元に指先を当てる。

 大好きだった犬に、愛情を返して貰えなかったこと。唸って脅され、噛んで傷付けられたこと。犬としての俺は、どうやったら彼のトラウマを乗り越えさせられるのだろう。

 じっと考え込んでいると、目の前で手を振られた。つられて顔を上げる。

「真剣に考えてくれているの?」

「そりゃあ……。シロの仕事ですから」

 過去を思って固くなっていた表情が、少しだけ柔らかくなったように思えた。美貌があまりにも眩しくて、つい視線を逸らす。

「……今の話だと、犬に愛される経験が必要なのかな、と」

「ああ。そうかもしれないね、しかも、僕が気に入った犬に」

 喉が鳴る音が聞こえた。

「シロは、あんまり好みではないですか?」

「性格は好みだよ。聡くて人をよく見ている。でも、あの子は……」

 ふむ、と彼は首を傾ける。さらり、と耳から髪が落ち、皮膚の上を滑っていった。造形として整っている顔立ちの中でも、目立つ鮮やかな唇が、くい、と弧を描く。

 上がった唇の端から、覗く牙を幻視する。

「少し、か弱すぎるかな。力を掛けたら傷付けてしまいそうで怖い」

 くい、と持ち上げたコーヒーを飲み干すと、彼は立ち上がってゴミ箱へ缶を捨てた。椅子には戻ってこないまま、背後から俺の両肩に腕を置く。

 振り返ると、間近に人形めいた、愉しそうな顔があった。

「戌澄くんくらい、身体がしっかりした子ならいいんだけど」

 凹凸のはっきりした顔立ちは、光を背にして陰を落とす。くちびるは艶笑んでいるようなのに、目の奥が暗い。ひゅっと息を呑み込んだ。

 どく、と心臓が重く鳴る。

 慌てて日の下に駆け出すように、俺は一気に息を吸った。途端に頭が回り、この状況で最適な答えを導き出すに至る。申し訳ないと言うような、冗談を受けて僅かに困っているような、是でも否でもない顔をつくった。

「………………犬でなくて、申し訳ないです」

 はは、と堪えきれないかのように彼は笑い出した。ようやく日差しが届ききった、暗いところのない、太陽の下に引き出されたような表情だった。

 ごめんね、と肩が柔らかく叩かれる。

「冗談だよ。シロくんとは仲良くなれると思うから、僕も歩み寄る努力をしてみるね」

 時間つぶしに付き合ってくれてありがとう、と尾上は言葉を重ねると、こちらに背を向けて歩き出した。

 彼は、誰にも愛されるであろうポメラニアンより、体つきのしっかりした存在を望む。きっと、首輪を掛けて、ぐい、と引いてもぶれないような。

 そろ、と指先を首に当てて、首の真ん中を指で辿る。犬の姿ではなく、今の俺に首輪を掛けられるかと思った。怖いのは、間違いない。

 それでも、きゅ、と首を軽く引くような感覚は、ひどく先まで尾を引いた。

 

 

▽3

 彼と二度目に会ったのは、一週間後だった。会った、といってもシロの姿だ。同じように龍屋が手配をしてくれて、犬の俺と依頼人とで二人きりになった。

 龍屋の去り際に、尾上が声を掛ける。

「今日は、戌澄くんはいますか?」

「え?」

 龍屋は不意を突かれたように、今は白いポメラニアンである俺に視線を向けた。不味い、とあからさまに逸らし、尾上に向き直る。

「約束がありましたか? 今は不在ですが、あと三十分もしたら戻ると思います」

 今日も触れ合いの時間は三十分だ。終わった後でしか、人としての俺は彼の前に姿を現せない。

 龍屋の言葉に、彼は機嫌が良くなった。

「彼に、お礼をしたくて」

「……そういうことでしたら、この後、連れてきましょうか」

 ふと龍屋を止めたいような気持ちになったが、声を上げるにも不自然すぎる。それに、尾上の前で怯えを掻き立てるような鳴き方をしたくなかった。

「お手間でなければ、お願いできますか?」

「大丈夫です。仲は良いので」

 仲が良かったのか、といつも表情の乗らない友人の顔立ちを見ていると、龍屋はこちらにちらりと視線を向けて、部屋を出て行った。

 二人きりになると、また尾上は椅子に座って動く様子はない。今日はボールで遊ぶ気力もないし、休んでいてもいいだろうか。とはいえ、給料が出ているのにさぼっているのは気が引ける。

 俺はおもちゃ箱などがある棚に近寄ると、前脚を伸ばして立ち上がる。鼻先でがさがさと棚を漁り、毛繕い用のブラシの柄を咥えた。

 身を翻し、ゆっくりと尾上へ近寄る。ぽとり、と彼の少し前でブラシを落とした。

「…………? 毛を整えて欲しい、かな?」

 俺は促すように脚でブラシを掻いた。

 尾上は恐るおそる近寄ると、手をめいっぱい伸ばしてブラシを持ち上げた。ブラシの先が、俺の毛を掠める。

 近寄りはしないまま、そよそよと吹き付ける風のように、毛先がほんの少しだけ撫で付けられた。

 彼を愛しているような態度を取るべきなのは分かっている。だが、あまりにも距離感が遠い。結局、床に置かれてしまったブラシを咥え、元の棚に戻した。

 どうしよう、と一定の距離をとって尾上の周囲を歩き回る。彼のトラウマを改善させることが仕事なのに、今のところ俺は全くの役立たずだ。

 ずりずりと這うように近付いて、足元でころんと寝転がった。

「…………遊んで欲しいの?」

 クゥ、と肯定を示すように短く鳴いてみせる。

 うぅん、と尾上の喉からは悩むような声が漏れ、指先が持ち上がった。だが、その指先は俺に伸ばされることはない。

 開いた拳はまた握り込まれ、俺は寝転んだまま放置された。

「なんだか、気分が乗らない。というか、気持ちが追いつかない、というか……」

 ぽつり、ぽつりと呟いて、尾上はまた黙った。俺はその場で立ち上がり、ゆっくりと距離を詰めた。ほんのすこし、背中だけを彼の靴下に擦り付けながら丸まる。

 傷付けるつもりはなく、友好の意思があることを示して、あとは時間が解決することに期待した。

 エアコンの風がそよそよと毛を揺らしていく。機械音だけが僅かに響くような室内で、お互いの呼吸音だけが届いていた。視線が合うことはない、だが、視線が向けられているのはわかる。

 そういえば、このあいだ覚えたはずの香水の匂いがしなくなっていた。いまは、尾上の生来の匂いが嗅ぎ取れる。

 匂いに包まれているような、ゆったりとした時間は悪くなかった。うとうとと睡眠と覚醒を行き来していると、龍屋の迎えの足音が聞こえてくる。ばっと身を起こして、ドアの方に視線を向ける。

 コンコン、と扉を叩く音がした。

「失礼します。…………少しは、慣れましたか?」

 背中だけを足にくっつけている、俺の姿を見ての言葉だった。尾上の顔は、人としての俺に会う予定を取り付けた時の、あの表情に近いものに変化していた。

 すこし。柔らかくなった、んだろうか。

「まだ、先が長い気がしますが。少しは」

 俺は低い声を全身で聞き、龍屋に促されてペット用のドアをくぐった。そのまま更衣室に入り、身体を人のものへ変化させて服を着る。

 鏡の前でぱさぱさと乱れた髪を直すと、更衣室のドアを開けて廊下に出た。扉の外には、龍屋が待っていた。

「なんで尾上に俺を会わせる、なんて言ったんだよ」

「は? いや、礼をされるようなことをしたんじゃないのか」

 訳が分からない、と言うように目を白黒させている龍屋の肩をばしりと叩くと、散れ、とばかりに手を振る。

「次の仕事があるだろ。もういいよ、ご苦労様」

「ああ。…………じゃあ」

 本当に次の仕事があったらしく、龍屋は撮影ルームとは別方向に歩いていく。俺はガシガシと頭を掻くと、さっきまでいた部屋へと向かった。

 扉のドアに手を掛け、本当に会うべきか一瞬ためらう。ぎゅっと目を閉じて、勢いで扉を押し開けた。

「お待たせしました。ええと、お礼、でしたっけ?」

 あたかも龍屋に聞いたかのように言う。うん、と尾上は立ち上がって、鞄から小さな紙袋を取り出した。

 持ち上げられた袋はお菓子店のロゴのようで、差し出されたそれを受け取る。

「ありがとう、ございます。あの、でも飲み物も以前いただいたのに……」

「あぁ。ちょうどその店の近くを通る機会があって、折角だから買っていこうと思ったんだ」

 袋の中を覗き込むと、クッキーで挟まれたサンドイッチのような形状の菓子が入っていた。

「バターサンド、嫌いじゃなかった?」

「……嫌いな人、少ないんじゃないですか。好きですよ」

 よかった、と小さく彼が言った。

 袋を見下ろす。ジュースも菓子も貰って、このままバイバイというのも気が引けた。

「……あの、次の仕事まで、まだ時間はありますか?」

「うん。もうちょっと時間を潰したいかな」

 撮影ルームの予定は、これから先は入っていなかったはずだ。

「俺、コーヒーとか、飲みたいもの買ってきますよ。ここで食べませんか?」

「素敵なお誘い。でも、どうして?」

 問いの答えは、俺自身も明確には持っていなかった。

「まだ、シロに完全に慣れた、という感じじゃないと龍屋に聞いたので。今日の様子でも聞かせて貰えないかと」

「真面目だなぁ。じゃあ、また相談させて貰おうかな」

 粘着テープ式の掃除用具でソファを綺麗にし、そちらに腰掛けることを勧める。尾上が言葉に従ったことを視界に入れ、撮影ルームの扉に手を掛けた。

 振り返ると、彼の視線はばちりと絡む。

「────飲みもの、何がいいですか?」

「コーヒー。無糖のやつ」

「甘いもの、苦手なんですか?」

「バターサンドが甘いから、バランスを考えてるだけだよ」

 確かに、と呟くと、部屋を出た。最寄りの自販機に近付き、小銭を入れる。じゃらじゃらと金属音が落ちていき、灯ったランプを押した。

 自分は、とラインナップを見て、無糖コーヒーに揃えた。普段なら、甘味がついているものを選ぶだろうか。

 落ちてきた缶を両手に持つと、撮影ルームに戻る。手の裏でノブを下ろし、身体を使って押し開ける。

「お待たせしました」

 小さいテーブルを寄せ、その上に缶を並べる。貰った菓子も袋から出して添えた。

 ソファを勧めたものの、自分が座るとなると位置に悩む。犬の時とは反対に少し距離を置いて腰掛けた。尾上の眉が上がったが、何も言われなかった。

 銀色の輪に爪を引っ掛けて、カシ、と缶を開ける。

「シロ、どうでしたか?」

 口火を切ったのは、余計なことを言われないためだ。あの首輪を掛けられたような感覚は、癖になることを避けたい味だった。持ち上げて口を付けたコーヒーは、風味はあれど苦い。

 尾上も、コーヒーのプルタブを引く。

「毛繕いをして欲しかったみたいで、ブラシを持ってきてくれたんだけど、気持ちが揺らいで、恐るおそるでしか整えてあげられなくて。それで、気を遣われちゃって、長いこと、僕の足元に身体を付けて寝転がっていたよ」

「それは、……あいつ、のんびりしていて。すみません」

 シロのことの体で、俺の反省でもあった。もうちょっとやりようがあった筈なのに、次のステップに進められなかった。

 亀の歩みのようなあの時間に、意味はあるのだろうか。

「いや、そうじゃなくて。聡い子だと言ったでしょう、シロは十分、自分の使命も分かっているし、いろいろと考えていると思うよ。視線がよく動くんだけど、全身で僕だけを見てくれる」

 ほう、と彼の唇が綻んだ。

 一見、ただ嬉しそうなだけの表情が、なんだか美しすぎて恐ろしい。造形の美というものは、根底に力を孕んでいる。

「戌澄くんと似ているね」

 ばちり、とまた視線が合った。自然界で視線が合うというのは敵対の意を持つと聞いたことがある、同じように、俺は恐ろしくてやんわり視線を逸らした。

「似て、ますか」

「うん。君は、ほんとうに人をよく見るな、と思って。仕事とはいえ嬉しいよ、関心を持ってもらえることも、知ろうと努力してくれることも」

 見ていることを、知られていた。ごくんと唾を飲んで、それでも喉が潤わない。びくびくと内心で怯えながら、視線を逸らせないでいる。

 今もそうだ、視線を彼に戻して、また捕らわれる。

「でも、あんまり……結果が出ていません」

「それは……。僕も、どうしようかなと思っているところだよ。けれど、シロくん以外の犬に頼っても、あの子で無理なら、もう無理じゃないかという気がするね」

 はは、と苦笑する口元から、白い歯が覗く。

 俺は、何を視線で追っているのだろう。

「予定では、あと三回、の筈でしたが……」

「そうだね。あと三週、で初回の撮影が始まる。それまでに何とかしておきたいけど、スケジュールもまあまあ詰まっていて、シロくんを長いこと拘束するのもね」

 一時間、の撮影ともなれば、長い、という印象だ。ただ、三十分が一時間になったところで、進展があるのかという気がしてくる。

 映画の撮影までには、犬との触れ合いを自然なものにしなくてはならない。与えられた仕事とはいえ、費用もそこそこ掛かっている。結果が出ないのは心苦しかった。

「…………尾上さん、は、口は堅いですか」

 転がり落ちた言葉に、俺自身が動揺する。

 何を提案しようとしているのか、頭の端では分かっていた。彼がどう答えるかも想像できていた。

 指先がめちゃくちゃに躊躇って、服の裾を握り締める。

「社会的な知名度もあるし、立場もあるよ。無闇矢鱈と、人の秘密は明かせない。明かした時、ペナルティも大きい。それに、性格的にもね、どうでもいいことにリスクを負うのは好きじゃないんだ」

 距離を保っているはずなのに、隣にでも座っているかのような威圧感だった。いくら空気を作るのが仕事の相手とはいえ、あまりにも呑まれている。

 唆されているように、口が滑る。

「空き時間にそちらの家に寄るか、俺の家に来てもらうことは、できますか。俺は時間の都合は付きやすいので、そちらの希望の時間でいいです」

「君の家に僕が行って迷惑が掛かるといけないから、僕の家がいいけれど。もしかして、シロくんを連れてこようとしてくれてる?」

 こくん、と頷いた。もう、逃げられないことを悟った。

「元々、バイト代が破格すぎました。……から、協力します。けど、プロダクションには黙っておいて欲しいです。友人になったから、家に呼んだ。そういう建前にしてください。あと────」

 力を込めると、視界がぶれた。何度も変化するのは力を使う。が、説明するのなら、このほうが早いだろう。

 ばさばさと犬の身体の上に服が降って、もぞもぞとその隙間から這い出した。驚いて目を丸くしている尾上と視線が合う。

 キャン、と犬の喉が高く鳴いた。

『俺が、シロなんです。すみません、黙っていて』

 尾上は目を丸くしたまま、固まっていた。

 俺は犬の喉を開いて、狗神の一族という存在と、自分のことを話し始める。耳には犬が鳴いているように聞こえるそれが、頭には人の言葉として伝わっているはずだ。

 俺の言葉を聞く度に尾上の表情は真剣なものになり、色々な質問を経て、また人の姿に戻った。

 全てが整合し、人から犬へ、犬から人へ、の変化を見た彼は、長い時間と対話を経て、俺という奇妙な存在を噛み砕いていった。

 

 

▽4

『もっと長く話をしたいから、一度、僕の家に来ない?』

 尾上の次の仕事ぎりぎりまで話をしたが、その日のうちは、やはり特殊な一族のことで理解が追いつかない、といった様子だった。

 そこで、今度こそ連絡先を交換すると、直近で早く帰宅できる日を提示される。

 彼の自宅の大まかな位置を聞くと、普段使っている路線内に最寄り駅があり、移動に不便はなさそうだ。行く、と返事をして、後から詳細な住所を送ってもらった。

 せっかく用意して貰ったバターサンドは、家に帰って一人で食べた。あまりにも美味しかった。

「こっち、だっけ」

 使い慣れない駅を出て、高級住宅地、であろう街並みを歩く。帰宅途中の人々も多くはなく、勤め人特有のせかせかした空気も薄い。

 携帯で地図を見ながら歩いていると、同じようにずっと携帯を見ながら歩いている女性とすれ違う。彼女から匂ったのは爽やかな花の香りのはずだが、付け方が悪いのか、俺の鼻が良すぎるのか、ひどく濃く突き刺さった。

 嗅ぎ分けられるぶん、何となくの種類も分かる。立てば芍薬、とは言ったものだが、マスクの下に顔を隠し、背を丸めてじっと携帯を見下ろしている様子はとても香りに相応しいとは思えなかった。

 人が遠ざかったのを確認して、鼻の下を擦った。

「鼻がいいのも考えものだよな……」

 細かく位置を確認しながら歩くと、ようやく目的の建物に辿り着く。

 高層マンション、と呼ばれるような物件を見上げる。十階に満たない俺の自宅とは大違いだ。携帯で、着いた、とメッセージを送ると、すぐに既読のマークが付いた。

 時間は普通の家庭なら夕食もとっくに終わっている時間で、それでも彼にとっては比較的早く帰れる日、であるそうだ。バイト代がてら夕食も用意してくれるそうで、俺は駅の近くで買った高めのプリンを手土産に彼が下りてくるのを待った。

 あまり待たずに、聞き覚えのある声が掛かる。

「おまたせ。こっち」

 手招きされるがまま、手早く入り口に移動する。管理人がいるマンションのようで、一言ふたこと会話を交わしてから俺を招き入れた。セキュリティはしっかりしているようだ。

 キーでロックを解除し、エレベータに乗る。

「それ、お土産?」

「うん。プリンだけど、食べられるか?」

「好きだよ」

 あの日、困惑した尾上と長く話している内に、敬語が面倒になってしまった。きっちりと敬語を外す承諾を得ようとした俺に、彼はすこしだけ笑って、いいよ、と言ったのだった。

 ふわり、と身体が持ち上がる感覚に軽く酔う。

「いいマンションだな」

「そうだね。まあ、でもそろそろ引っ越すかも」

「そうなのか?」

「あんまり、ひとところにいるのも面倒が多くてね」

 俺が理解できない、と首を傾げると、分からなくていい、と言うように作り物の笑みを押し付けられた。

 エレベータの扉が開くと、あの部屋、と一つのドアを指差される。彼は先導してドアに歩み寄り、キーを認証装置に触れさせた。

 カシャン、と動作音がして、尾上は扉を開く。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 玄関に入り、靴を脱ぐ間にも、その広さに圧倒された。ひとり暮らしには、絶対にこんなスペースは必要ない。

 シックな印象だが、全体の基となる配色には黒が多く使われていた。性格が見えづらいというか、染まらない気のする彼らしい選択だ。

 廊下はグレーの混ざった白地の床で、貸し与えられたスリッパを履いて尚、汚さないかはらはらした。手招きされ、リビングへと入る。

 わぁ……、と驚きすぎて気の抜けた声が漏れた。

 広々としたソファとテーブルを中心に、部屋は構成されていた。映像を見るための機器類が一箇所に纏められ、部屋の隅には間接照明用の大きなスタンドが置かれている。テーブルの上に物は少なく、リモコン類はラックに纏まり、雑誌が一冊だけ置きっぱなしにしてあった。

 窓辺にはつやつやとした観葉植物があり、大きな窓の先はレースカーテン越しにちかちかと夜景が光っている。近寄ってもいいか尋ねると、どうぞ、と勧められた。

 カーテンを開けると、普段は見ない高さだ。光の渦のように、自分の視界の真下に光源が集まっていた。カーテンを掴んだまま、見慣れない景色に見入る。

 我に返ったのは、背後から低い声が掛かったからだ。

「そういえば、食事、って犬用のごはんを食べたりする?」

「犬の姿だったら美味いよ。ペットフード」

 犬でなくとも美味い犬用フードがある昨今、市販されているものを不味く思うことは少ない。

 俺の返事を聞いた尾上は、キッチンらしき場所に入っていった。がさがさと惣菜店の袋をテーブルに広げ、その脇に小さな箱を置く。

 歩み寄って見下ろすと、ピザ、と書かれていた。しかも。

「犬用ピザ?」

「…………こう、興味があったというか」

 自分でやっておいて申し訳なさそうな表情に、ふ、と俺は唇から笑いの息を漏らした。

「あんたが怖いと思ってる犬になる必要があるけど、大丈夫?」

「シロくん。…………あ、そっか、シロくんじゃないんだ。戌澄くんって下の名前、友くんだったっけ。『友くん』は怖くないよ」

「ブラッシングすら、おっかなびっくりな癖に」

 俺は絡まりそうな運動用を兼ねた上着だけソファの背に置かせてもらうと、服を緩め、犬の姿に転じる。毎度のように絡まる衣服を掻き分けながら外に出ると、興味深そうにこちらを見ている視線とかち合った。

『なんだよ。あんたが食べてほしくて犬用ピザ出してきたんだろ』

「やっぱり真面目だね。……皿に取り分けるから待っていて」

 犬用だというのに紙皿ではなく上等な真っ白い皿を出され、その上にピザが一切れ乗せられる。

 ぽんぽん、とソファの上を促された。

『毛が付くぞ。床でもいい』

「お客様を床で食べさせたりしないよ。…………おいで」

 静かに、かつ圧をかけて放たれた声に、びくり、と背を伸ばす。クゥ、と短く鳴いて、ソファの席に跳び上がった。

 皿は尾上の手元にある。彼は、自分の太腿の上を叩いた。

「上手。こっちのほうが食べやすいでしょう?」

『こんなに近くて、怖くないのか』

「この前、僕の足にぴったりくっついてたよね、それで少し慣れた」

 そういえば、と思い出し、ゆっくりと近寄った。彼の太腿の上を前脚で、ちょいちょい、とやるとくすぐったそうに唇が歪む。

 平気そうだ、と膝の上に乗って座った。

 俺の前に、皿に載った犬用ピザが近寄ってくる。匂いはとても良く、犬の食欲を掻き立てる素材が使われているようだ。彼の手ずから生地が持ち上げられ、口元に寄せてくれる。

 食らいつこうとした瞬間に、鋭い声が掛かる。

「ステイ」

 俺は開けた口を閉じると、僅かに浮いた尻を落ち着けた。尻尾は上がったまま下りず、そのまま固まる。

 ほんの一瞬だけ、背筋がぞわぞわした。本当に、やんわりとしたそれではなく、言葉で首輪を掛けられたのだ。

「やっぱり、いい子だ」

『…………意地悪』

 何とかそう言うと、犬の口からも悲しげな声が漏れる。ああ、と尾上は何かが分かったかのように頷く。

「ごめんね。何だろう、君に命令したら、応えてくれるのか試したくなってしまった」

『試し行為をする前に、素直に尋ねてくれ。別に、遊びの一環なら応えるよ』

 そう、と彼はしょんぼりとして、今度は素直にピザを俺に差し出してくれた。ガブ、と苛立ちをピザ生地に押し付ける。

 いま、放り出したら駄目な気がした。犬が首輪から首を抜いて駆けだしたら、狼狽えるのは飼い主だ。

「そっか。友くんは、僕の言うこと聞いてくれるんだ」

『尾上……さんの、言動次第だ』

「はは。もう、名字もさん付けも違和感あるんでしょう。僕の下の名前、知ってる?」

 知らないはずないと分かっていて、尋ねるのは卑怯だ。

『白夜』

「覚えていてくれて嬉しいよ」

『本名?』

「本名。両親が趣味人なんだよね」

 もう一枚、と持ち上げられたピザに食らいつく。がつがつと咀嚼する俺の様子を眺めた『白夜』は、小さな口元に付いた欠片をティッシュで拭った。

「僕も食べてみていい?」

『いいよ。どうせ俺の身体じゃ、全部は食べきれない』

 身体の割に大食らいとはいえ、この大きさのピザ一枚は過剰だった。白夜は人にとっては小さな一きれを持ち上げると、口に運ぶ。

 何度も丁寧に口に入れ、ゆったりと咀嚼していた。

「味が薄いね」

『ああ、そうかもな。今の俺には美味いけど』

 白夜は残ってしまった部分を差し出してくる。はぐ、と尻を浮かせて噛み付いた。差し出される度に食いついていると、結局、犬の俺に用意されたピザは綺麗に消えた。

 トン、と床に下り、リビングのドアを開けるよう促す。

「そのまま戻ってもいいのに」

『全裸なの』

 自分の服で最低限のものをまとめて咥えると、ずりずりと床を引き摺る。見かねた白夜が全て持ち上げてくれ、脱衣所まで案内してもくれた。

 閉じられた扉を見やり、人に姿に戻って服を着る。脱衣所を出て、リビングへと戻った。

「おかえり、お腹の空きはどう?」

「人に戻ったら空いた。まだ何か用意してるんだろ、くれ」

 言葉を零しきってから不遜だったな、と反省したのだが、白夜はそれすらも機嫌よく受け取っている。

 チキンにローストビーフ、刺身にサラダ。上質な惣菜がテーブルに広げられた。追って持って来られたのはアルコールの缶で、おい、と睨めつつ見上げる。

 白夜は俺の表情すら、子犬相手であるかのようにさらりと躱す。

「え? 今日くらい良くない?」

「飯食ったら、犬の俺に慣れるための活動するんだよ」

「さっきちょっと出来たし、軽く、ならいいでしょ。成人してるよね?」

「してる」

 あーあ、と息を吐きながら、まだアルコールが軽い種類の缶を受け取る。カシ、とプルタブを引いて、仕掛けた相手に缶を差し出す。

「下手に呑むと俺、しばらく犬から戻れなくなるんだよな」

 相手の缶も開けられる。あちらはがっつりとビールだった。映画の撮影前に犬のことを解決する気はあるのだろうか。

「へえ、そうなんだ。なんで?」

「変化に生命力を使うから。……乾杯」

「かんぱーい」

 ごっと一気に喉に炭酸を流し、ぷは、と息を吐く。夕食時の一杯というものは、いやよいやよと言っていても、差し出されれば受け取ってしまうだけの魅力があった。

 ああ、と、やってしまった、と肩を落とす。

「あはは。同罪」

「年上の癖に何やってんだよ……仕事のために集まったのに」

「まあほら。酒を入れた方が気分も解けるし、いいかもよ」

 テーブルの上の食事を勧められ、いただきます、と手を合わせる。手近にあったチキンを掴むと、ざくざくの衣を囓った。

 胡椒の効いたしょっぱい味付けが、酒で馬鹿になりつつある舌にもきちんと作用する。

「あぁ……、美味い…………」

 完敗だった。若者の胃にクリティカルヒットする牛肉、鶏肉、魚。そして味を変えるためのサラダ。煮物なんかも用意されている。

 動物プロダクションの給料が多い時には貯金を選ぶような金銭感覚持ちの、ばかばかと金が使えない大学生にとって、この量のご馳走は夢のようだった。

 俺があまりにも夢中で食べていたからか、白夜は自分の食事もそこそこに、俺の皿に食事を盛ってくる。

「そうか。僕も学生の頃は、お腹減って仕方なかったな」

「今はそうでもないのか?」

 ローストビーフのソースも美味い。酒が進みに進んで、一缶に抑えるのはあまりにも切なく感じる。

 ちびちびと酒をセーブしているのが分かったのか、ほら、と白夜は発泡酒を差し出してくる。

「昔ほどでもないかな。こっちもどうぞ」

「うわぁ……」

「お酒、好きなんだね」

 う、と缶を両手で受け取って、視線を逸らす。

「狗神、だから神につられる。神は酒が好き、そういう認識だから。個体差はあるけど、酒好きの一族は多い。菓子もそう、三つ頭の化け犬を制するときに焼き菓子を使った逸話につられて、甘い菓子も好きな個体が多い。運動は得意だから、その所為もあるかな」

「魂が純粋なひとじゃない、ってそういうものなの?」

「人が、こういった神だ、と言い伝えることが俺達の魂を定義する。でも、人でもあるから、全体の傾向はあれど個体差も出る。みたいな感じ」

 一缶目が尽きた。プシュ、と迷いなく二缶目を開けた。

 それからは遠慮なく呑み、食べ、気分が良くなってくる。

 次第に、熱が身体を這い回っていた。ある時、炭酸を喉に流し込んで気づく。今日は随分と疲れていた。

「……残ったメシ、明日食べてもいい?」

 差し出した缶を白夜が手に取った途端、ぐん、と視界が縮んだ。絡んだ服の間で藻掻いていると、上から伸びた掌に抱き上げられる。

 こつん、と鼻先が間近に迫った人の鼻に触れる。

「可愛いね」

 目の前にある美貌に人であったら頬を染めていただろう。動きが止まった尻尾を垂らし、触れてしまった鼻を前脚で掻いた。

 すり、と近付いてくる頬同士が重なる。

『やめろ、やだ』

 くうくうと小さく鳴きながら、じたじたと手の中で暴れる。短い後ろ脚が彼の腕を掻いても、絡んだ指先は毛先を撫でるばかりだ。

 くたり、と暴れ疲れると、ようやく彼の太腿に下ろされる。

「やっぱり、いじめてると罪悪感があるかなあ。こちらだと」

『人の俺は苛めてもいいってか?』

「苛め甲斐がある、だよ」

 ろくでもねえ、と暴れる度に、ぐるぐると酒が回る。別に犬の形をしているからって犬そのものという訳でもなく、人の酔い以上の身体変化が起きるはずもない。

 だが、変に緊張しすぎたのか、力が抜けていた。両手で軽く力を込められるだけで、動きは制される。

「ああ、……なんだろう。慣れられそうな気がしてきたよ」

『……離せ』

「僕に慣れさせてくれるために、今日は家まで来たんでしょう」

 指先は僅かに震えていたが、俺が嫌がる様子が面白い方が上回るようだ。これまで触れてこなかったくらいの距離感で、もふもふとやられる。

 首も、胸も、腹も。基本的には避けて許さない場所を、長い指が這い回った。

『っや、…………うァ』

 噛まれた、という彼の過去を知っているから、甘噛みだとしても、噛み付いて逃れることはできない。

 必死に短い脚をばたつかせて、丸く整えた爪で厚めの皮膚を引っ掻く。だが、痛みなど感じていないことは明白だった。

「そのまま、うまく抵抗していて。触れば触るだけ、慣れられる気がする」

『ちくしょう!』

「その罵り文句、いいねえ」

 撫で方に慣れる頃には、彼は俺の毛皮が上等だということに気づいたらしい。気持ちいいなあ、などと嘯いては身体の隅々まで撫でたくる男にさめざめと降参した。

 家に帰らなきゃ、と思うのに、人に戻るだけの正気も力も残っておらず、俺は気絶するように眠りに落ちることになる。

 

 

▽5

 起きたら目の前に、極上の顔立ちをした半裸の男がいる。

 ぱち、と目を開いて、ぱちぱちと瞬きをした。驚きに手を突っ張らせるが、短い脚では距離を取ることさえできなかった。

 男は、俺の頭を器用に枕の低い場所に乗せると、毛に頬を擦り付けたまま眠っていたようだ。苦手意識は、トラウマは、と俺が穿った見方をしてしまうのも仕方ない。

 人として同衾していたのなら、何かあったと思うところだが、あいにく今の俺は犬である。白夜の腕から毛皮の滑りを使って、こっそり抜け出して服を探す。

 あれ、と服がないことに気づき、部屋から出ようとドア付近に向かった。だが、空調を効かせるためかドアは閉まっている。ジャンプしてドアに前脚を掛けるが、ずるりと落ちて床に着地する。

 何度か繰り返していると、低い声が床を這った。

「……あれ、友くん…………」

『ここ開けろ』

 身を起こした白夜は、ふあ、と欠伸をする。酒の後で暑かったのか、パンツ一丁で寝ていたらしい男は、パンツ一丁のまま立ち上がった。

 ドア近くまで歩いてきて、ちんまりした俺を見下ろす。にたり、と口が弧を描いた。ドアの前に立ち塞がる。

「そのまま戻っていいよ。人に」

『ポメラニアンの甲高い声で、朝っぱらから鳴き喚いてもいいんだぞ』

 流石に現実的に困ると思ったのか、ドアを開けて前から退いた。はあ、と息を吐く。

『服どこだ』

「脱衣所。パンツ貸そうか」

『仕事前に家に帰るからいい』

 時計が指す時刻は、早朝もいいところだった。アルコールの所為で、眠りが浅かったのだろう。

 脱衣所に入り、寝るまでに着ていた服を身に付ける。

「散々な目に遭った……」

 喉はからからで声も濁っている。背にそっと掌が添えられた。

「酒をがばがば飲んだのは友くんでしょう」

「うるせ。昨日の余り食うから出せ」

 まだ半裸の男を蹴ると、男は半裸のまま冷蔵庫から昨日の余りを出してきた。テーブルに並べられた皿を前に、余ってて良かった、と胸を撫で下ろす。

 酒で薄まった記憶でも、美味しかったのを覚えていた。

 ソファに腰掛けて、与えられた食器で食事を始める。白夜は寝起きで胃が半覚醒なのか、コーヒーの準備を始めた。冷蔵庫を開ける音の後に、豆を挽く機械音が聞こえてくる。

 咀嚼を止めて耳を澄ませていると、今度はかさかさと紙の擦れる音が届いた。戻って来た白夜は、両手にマグカップを持っている。

「この間、コーヒー飲んでたから、飲めるよね。砂糖いる?」

「……後から足すときは言う」

 そう、と白夜は言うと、カップをテーブルに置き、パジャマを羽織りに行った。戻ってくると、ソファに腰掛ける。メシ食う前にわざわざ服着るの、と尋ねると、熱湯が跳ねると痛い、と言う。あまり理解できないルーチンだった。

 もらったカップに口を付けると、立ち上るいい匂いがした。くん、と鼻を動かして、蒸気を食べる。

「苦みが強い豆、好きなの?」

「匂いだけで分かるんだ」

「うん。でも、コーヒーが近くにあると、そっちが強すぎてあんたの匂いが分からなくなる」

 ぽろりと零した言葉だったが、白夜は丁寧に言葉を拾い上げた。

「僕の匂い、探してくれてるんだ」

「はぁ?」

「じゃあ、友くんの前ではたまにコーヒー控えようかな」

 要らぬ気遣いだったが、言及すればするほど分が悪い気がして黙りこくった。貰ったカップに口を付けると、苦みの濃い液体が口に滑り込む。

 味を追えば追うほど、また違う味わいに気づいた。様々な色を重ねれば、やがて黒に行き着く。ただの一色と見て気軽に脚を踏み出せば、深みに嵌まってしまう気がした。

「美味い」

「そう。良かった」

 カップを持ったままの身体が傾いで、肩に擦り寄る。犬として接していたため気づかなかったが、もしかしたら彼はスキンシップが多い質なのかもしれない。

 高級そうなソファにコーヒーを零さないよう気を付けながら、ちびちびと啜った。

「次はいつ来てくれる?」

「……いつが空いてるんだ?」

「三日後の夜」

「金曜? ……は、いいけど」

 生憎、その日の夜は空いていた。だが、正直に返事をすることを躊躇った。白夜と付き合いを重ねることも仕事のはずなのに、言葉に出来ない怯えがある。

 もぐもぐと咀嚼していても、白夜は食事に手を付けず、俺が食べる様を眺めていた。

 ふと、余っていたチキンの銀紙の部分を掴む。ようやく食べる気になったのか、と食べる手を止めると、肉が付いている部分をこちらに向けた。

「どうぞ」

 食べろ、ということだ。

 彼の労働によって得た食物を、手ずから与える。狩りで仕留めた獲物を、巣穴に持ち込まれたような心地だった。

 瞳は真剣で、茶化されている様子もない。誘われるように、口を開け、牙を覗かせた。がじ、と噛むと衣こそ水分を含んでしまっていたが、柔らかくてジューシーだ。

 咀嚼して、ごくん、と胃に収める。彼の一部ごと、身体に入れてしまった気がした。

「美味い」

「……友くん。嘘を吐いたりしなさそうだよね」

 感想が率直すぎたのか、白夜はそう言って食べかけのチキンを囓った。

「犬が嘘をつくイメージないだろ」

「ああ、そっちにも引っ張られるんだ」

「うん。飼い主には、特にな」

 もぐ、もぐ、とお互いに咀嚼する。短い沈黙の間も、俺は毛を立てている。

「友くんには、飼い主はいるの?」

「いたら、仕事以外であんたに触らせたりしない」

「へえ。そういう、飼い主だけ、みたいなことがあるんだ」

「俺はあんまり意識したことないけど、飼い主以外の匂いが付くことが嫌になるらしい。操を立てるような感覚もあるみたいだしな」

「恋人、とか、伴侶、みたいな感じ?」

「ほとんど、飼い主と伴侶は兼ねる。指揮系統が分かれると上手くいかないから」

 だから、犬相手に放任主義な恋人だと上手くいかない。多少、縛られているくらいが丁度よく感じる。

 白夜のような、恋人がいても他の恋人にうつつを抜かしそうで、誰彼問わず言い寄られそうで、放任主義そうな相手だと、困ってしまう。

 そもそも、犬が苦手なこの男は、飼い主には向かない相手の筈だ。

「いいなあ。そういうの」

「そうか?」

「うん。僕は、わりと縛りたがりだから」

 どくりと胸が跳ねる。

 へえ、と無関心そうに返事をした。声が震えたりしなかっただろうか、きちんと、彼の言葉に興味が無いような響きが作れただろうか。

「────そうは見えないけどな」

「だろうね。僕は選り好みするから、それくらい入れ込むものを持てたことは少ないんだよ。それこそ、幼い頃に噛まれた犬とか、コーヒーとか、役者である事とか。あとは……」

 指を折ることもなく、悩むこともなく彼は事柄を挙げる。最後に何かを思い浮かべたようで、口を開くのだが、唇は何かを言いかけて閉じた。

 指についた脂をぺろりと舐める。赤い舌先が覗いた。

「最近。また増えそうだから、増えたら教えるね」

「べつに教えてくれなくてもいいけど……、良かったな」

 何も分からずに発した感想に対し、彼は、うん、と、かろやかに返事をする。

 人がトラウマを治そうと努力している時に自分は楽しそうだな、と言ってやりたくなったが、嬉しそうな表情に何も言えず、食事ごと飲み下した。

 

 

▽6

 誰かに縛られるような気がするから、予定を作るのが好きだ。

 案として出された時間を受け入れて、その通りに家に通う。自然と次の予定を言い出されるから、途切れることもなかった。

 白夜の自宅に行くと、美味しい食事が待っている。餌付け、という言葉が存在するように、幸せに腹が満たされれば、相手の言葉のささくれも忘れてしまうものだった。

 今日はブラッシングをやり直したい、という彼の提案で、新しいブラシが購入されている。ブラシの包装を剥いた彼は、丁寧に除菌用のウエットティッシュで拭い、じゃん、と持ち上げる。

 腹いっぱいになった俺は、犬の姿に形を変え、白夜の太腿の上で膨れた腹をさらけ出した。

 俺に慣れつつある白夜は、共演予定の柴犬と時間が合うときには動物プロダクション内で顔を合わせているらしい。俺との時ほどではないが、少しずつ距離を縮められているそうだ。撮影については、もう心配ないだろう。

 互いにそれを分かっている筈なのに、誘い続けて、誘われ続けているのは何ともむず痒い。

「触れるようになって犬の顔を気にするようになったけど、シロの君、アイドルみたいな可愛さだよね」

『動物プロダクションではまあまあ人気犬だぞ。作り物みたいなあざとさだって、この姿じゃ武器だ』

 動物の自然な可愛らしさの方が俺にとっては好ましいが、愛玩犬の整えられた可愛さを欲しがる人間は一定数いる。更に、中身が俺なのだからカメラマンの意図も理解できるし、いちばん自分が可愛く撮られる角度も計算できる。

 それらの計算に基づいて、胸のふかふかで真白い毛を見せ、目を瞬かせて小首を傾げると、ほう、と白夜は溜息を漏らした。

「見事なものだね。僕たちって、似たような仕事をしていたんだ」

 柔らかいブラシで、胸の毛が梳かれる。もぞもぞしてくすぐったいが、慣れないことをやっている視線の真剣さに、黙って思うようにやらせた。

 大きな掌で固定されると、適度に力が掛かって逆に心地よい。

『今度は俺と映画に出るかもな』

「いいね、それ。いつかやろう」

 最初は試し試しだったが、そのうち勝手を掴んできた。

 毛の絡まりを指で解き、ブラシで少しずつ整える。指先は器用にくるくると動いて、元々、そこまで汚れていない毛を更に艶めかせた。

 ついでとばかりに撫でる指先の力加減も、わるくない。

『あ──……』

 長々と気の抜けた声を上げると、蕩けた目元と視線が合う。虹彩の色は薄く、光が溢れた室内ではちかちかと光を乱反射させる。姿形も相俟って、常に光を纏っているような男だ。

 こんなに光が強ければ、陰も濃いのだろう。

「今日はさ、コーヒー断ちしてたんだよ。香水も付けなかった」

 なんで、と問おうとして、自分が匂いが混ざる、と言ったのを思い出す。近くにあった彼の手首に鼻先を擦り付け、生来の匂いしかないことに鼻を鳴らす。

『そっか。匂いがシンプルでいいな』

「やっぱり、鼻がいいと匂いに敏感なんだね」

 その匂いが、毛を撫でる度に俺の躯に染み付く。何度も、何度も毛を撫で擦られて、もうこれ以上は要らないのに、彼の匂いを含まされる。

 意識すると、一気に匂いの洪水に溺れた。

『鼻は利くか……、ら…………』

 ふと、記憶が掘り起こされた。今日、伝えなければ、と思っていたことだ。

『あのさ。杞憂だったらいいんだけど……』

「聡い君が、伝えなきゃ、と考えている言葉が杞憂だとは思わないよ」

 促すように黙る口元を見て、ぽとり、と前脚を腹に落とした。今日、彼の家へ来るまでの道筋で起きた事を思い起こす。

『白夜の家に行く道中で、いつもおんなじ女性に会うんだ。髪型が違ったり、服装の印象も毎回違うけど、匂いが同じ。その人、ずっと携帯をしっかり握っててさ。ちらっと見た画面、カメラのアプリなんだよ』

 覗き込む目元が、見開かれた。何らかの可能性に思い至ったような表情だ。

『だから、あの女性はこの周辺で何かをずっと撮って回ってる。一度ならいいけど、こんなに何度も会うと、すごく気になってさ。対象が白夜じゃない可能性の方が高いけど、でも、そんな人間が付近を頻繁にうろついてる、ってことは頭に入れておいてほしい』

 特に、彼女の臭いが酷く鼻につく。だが、自分の主観でしかないそれを、彼に伝えるのは憚られた。

「うん。……僕は、杞憂とは言いづらいと思うよ。このあたり、芸能人がすごく住んでる、って地域でもないし。マネージャー経由で、事務所には伝えておくね」

 その返事に、俺はちんまりした胸をほっと撫で下ろした。褒めるように両手でわしわしとやられ、やめろ、やめろ、と短い脚で抵抗する。

 端正な顔が近付いてくると、短い鼻の横に唇が押し付けられた。

『…………おい、人間の俺の姿を忘れたのか』

「忘れてないよ。友くんが気にしてくれているのが、嬉しくなっちゃってね」

 頬を押し付けられ、すりすりと弄ばれる。言い返す気力も無くされるがままになっていると、彼は、ぽつり、と低い声でつぶやいた。

「僕、結構そういった人を引き寄せがちというか、問題を起こしがちなんだ。頻繁に住むところも変えてるし、この家も、そろそろ限界かなあ、とは思っていたんだよね」

『そっか……』

 気の毒さにしょんぼりと目を伏せ、近くにある顔に抵抗する動きを止めた。こうやって彼が擦り寄って気持ちが浮上するのなら、それでもいいと思ったのだ。

「それに。今はほら、友くんが来ても鳴けないけど、ちゃんとペット可のところだったらキャンキャンやっても大丈夫だしね。そういうところもいいかなって」

『いや……。ちゃんと鳴かずにいるけど……?』

 信用がないのか、と思って釈明するが、白夜はにたりと愉しそうに唇を歪めた。

「啼かせるくらいのこと、できないでしょう?」

『…………犬の俺の身体は弱いぞ』

「人なら強いよ。それに、追い詰めても『キャンキャン鳴くぞ』って脅されて退かされるの、困ってたんだよね」

『困ってるのはその脅しを持ち出さざるを得ない俺のほうだ』

 ブラッシングはどこへやら、俺の腹をもにもにやって、ただ触れ合いを楽しみ始める。犬に慣れてくれることは仕事内容としては喜ばしいはずなのに、あまりにも近すぎた。ちゅ、ちゅ、とやることもハードルが下がってしまったようで、美麗な顔立ちは見飽きるくらいずっと近くにある。

 心臓が落ち着かなすぎて、今日は早めに切り上げることにした。近くにある顔を蹴り飛ばして腕から逃れると、ドアノブにジャンプして扉を開ける。

 家主が逃がさない為にドアを開けてくれないものだから、こうやってリビングを出ることにも慣れてきた。脱衣所に駆け込み、人に戻って服を引っ掴む。

 パンツを穿いた、ところで脱衣所の扉が開いた。

「はぁ!?」

「あ、パンツ見ちゃった」

「いや。なに?」

「泊まっていくなら服貸そうと思って」

 彼は、脱衣所の棚に置いてある服を手渡してきた。目を白黒させる俺に、平然と、じゃあ、と脱衣所を出て行こうとする。

 待てまて、とその襟首を引っ掴んだ。

「なんで泊まっていくこと前提なんだよ。触れ合いタイムは終わっただろ」

「人の友くんとの触れ合いタイムがまだだなぁ」

「ねえよ」

「開催してよ」

 冷蔵庫にケーキを買ってあるんだ、と言葉を重ねられると、ぴくんと耳も動くものだ。美味しい食事は終えていたものの、デザートはまだだ。

 つい、鼻をひくつかせてしまう。唾が湧いて、ごくんと飲んだ。

「ケーキ……」

「そのパジャマ着てくれたら食べさせたげる。美味しいよ。『────』の……」

 彼が挙げた店名は、有名店も有名店だが、味に比例するように値が張る店でもある。何個あるのか確認すると、全部で六個もあるという。

「好きなだけ食べていいよ」

 ダメ押しは強烈だった。

 手渡されたパジャマを被ると、僅かにだが白夜の匂いが残っている。匂いの薄さから洗ってはいる筈だが、最近まで使われていた物のようだ。

 人に貸す服というのは、あまり使っていないものを貸すのではないだろうか。俺が裾に鼻先を押し当てると、白夜は意味深な笑みだけを残してキッチンに入っていった。

 横幅は同じくらいだが、思っていた通り裾が余る。床についた裾を引きずりながら、彼がケーキを持ってきてくれるであろうリビングに入った。

 テーブルに皿と、ケーキの入った箱が置かれる。

 白夜は俺のパジャマ姿を見ると、余っている裾を引っ張った。

「あれ? 身長以外の体格はそんなに変わらないと思ってたけどな」

「嫌味か。手足が短いのは犬にも反映されてるのかもな。……あっちは可愛いけど」

 こっちはなあ、と解放された裾を折ると、彼はきょとんと目を開く。

「こっちも可愛いと思うけど」

「褒めても何も出ないぞ」

「…………? 褒めてるんじゃなくて、本当に」

 本心から不思議そうに見つめられる。からかっているような表情ではなかった。

「俺の顔は、可愛い、じゃないだろ」

「僕は、愛らしいと思っているよ。使い方は合ってる」

 はい、とケーキ箱の側面が開かれ、色とりどりのケーキが目に入る。へらりと口元が緩み、きょろきょろと視線がケーキから別のケーキへと行き来した。

 真剣に選ぶ時間が過ぎた頃、くすり、と笑い声が耳に届く。

「ね。使い方、合ってるでしょう」

「…………ケーキを目の前にしたら誰だってこうなるだろ!」

 しぶしぶ二つ選び、皿に移す。

「いちばん食べなさそうなの、どれ?」

「………………」

「はは。じゃあ、お皿にあるやつ、少しずつ分けっこしようか」

 白夜は自分の皿を出さず、立ち上がって飲み物を取りに行った。お湯を入れたカップに、ティーバッグが入っている。

 色が湯に染み出すと、ゆっくり引き上げた。コーヒーが好きだからそっちを飲みたいだろうに、今日は匂いの控えめな紅茶だ。気遣われているんだろうか。

 俺はフォークをケーキの生地に差し入れ、割って口に運ぶ。ふんわりとしたチーズ味がほろほろと口の中で溶けた。

「う……まい……」

 美味しさに、はあ、と溜め息を吐く。

 隣を見ると、彼は自分のフォークを持ち上げたりはしない。視線が合うと、あ、と口を開いた。

 明らかに、あーん、を求められている。

 ぎゅっと眉を寄せ、そろそろと生地を載せたフォークを差し出す。甘ったるい生地は開いた口に消えた。

「ありがとう」

 ぽん、と頭を撫でられる。

 犬に対してこれは反則だった。飼い主が願いを伝え、犬が叶え、そして飼い主に褒められる。俺達が、主従を定めるために繰り返す行為だ。

 そう云う形につくられた俺達にとって、飼い主から命令と褒美を与えられるのは至上の喜びだった。

 唇をわななかせ、こみ上げる悦びを胸のうちに押し込める。

「…………まだ食う?」

「友くんが飽きたとき、僕にくれたらいいよ」

 もう一度フォークで生地を割り、口に含む。自身の咀嚼が終わると、俺は次の一かけを白夜に差し出した。

 俺が食べさせようとしていることを不思議がっているが、差し出されたものは素直に受け取っている。

 自然と距離は近くなり、太腿を寄せるように腰掛けていた。肩もすぐ当たるほど近く、フォークを差し出せば見慣れない顔立ちが近寄ってくる。

「性格が優しい……のはいつもなんだけど、今日は行動も優しいね」

 はっと手を止めて、皿を見下ろす。俺が好きで食べるつもりだったケーキは、半分くらいが彼の腹に収まっていた。

 頬に熱が灯って、ゆっくりと視線が下がる。

「犬だから。褒められると、叶えてあげたくなる」

「友くんは犬だから、って言い訳するけど、誰かの好意を返したいって思う感情は、君の性格もあると思うよ」

 俺の性格の形成に、一族としての特性があることは否定できない。けれど、それだけでもないのだ、と彼は言う。

「君は真面目で、優しくて。……でも、真っ直ぐすぎて、悪い人に騙されないか心配だな」

「白夜みたいな?」

「そうだね、僕みたいな」

 すんなりと肯定する言葉に、肩すかしを食らったように頬を掻く。黙り込む彼を見ようと顔を上げると、待ち構えていたように肩を抱かれた。

 すっぽり包み込むように、両腕が回される。

「騙されて、知らないうちに飼い主を決めないでね」

「……飼い主は、互いの合意が要るし、魂を染めるのだって大変────」

 問い返されればまた慌てることになる言葉だ、と口を噤む。けれど、言葉はしっかりと彼の聡い耳に届いてしまったようだ。

「魂を染める……、のは、飼い主になる条件?」

 しかも、勘がいい。俺は視線を彷徨わせて、こくり、と一度だけ頷いた。突き詰めて尋ねないでくれ、という願いも空しく、彼は言葉の尻尾を捕らえる。

「それって、何をすると魂が染まるの?」

 ぐう、と喉から音が鳴った。

「…………人が、恋人になるときと同じ」

 抱き込まれて、顔はすぐ傍にある。白夜が声を発すると、耳の隣で空気が震えた。

「告白?」

「……じゃ、なくて」

「キス」

「それも、ちがう」

 嘘をつけない性を恨めしく思った。相手が絡め取る前提で言葉を発するとき、逃げる術を持たない。

「じゃあ、セックスか」

 顔を真っ赤にして、泣きそうになっている俺を覗き込むと、彼は正解を確信する。きゅ、と抱き込む力が強くなった。

 子犬のようにぶるぶると震え、白夜の腕に捕らわれ続ける。

「俺たちは、人のように生殖しない。飼い主に魂を染めてもらって、魂を分けて殖える。だから、飼い主を選ぶのだって、軽くないんだ。だって……」

「そっか。君にとって飼い主は、伴侶で、子どもの親になる相手なのか」

 いくつも名前が付く関係を、ただ一人に定めることになる。俺たちにとって飼い主とは、一番たいせつな存在を指す言葉の全てを兼ねる。

 くく、と近くで喉が鳴った。

「やっぱり。いいなあ……、飼い主」

 恍惚と呟かれる言葉は、どこか奥深くを覗き込んでいるようだ。力が緩んだのをいいことに、その腕を身体から離す。

 ケーキは美味しかったし、貸してもらったベッドは心地良かった。けれど、普段よりもじっとりと接触しながら近くに居続ける白夜が怖くて、そして目が離せなくて仕方なかった。

 

 

▽7

 白夜が『俺の飼い主』という存在に執着している。それに気づいていて尚、宙ぶらりんに関係性を定めないまま逃げ回っている内に、そもそもの目的であった映画の撮影が始まった。

 当然、定期的に会う機会もなくなり、彼も撮影で忙しそうだ。たまに夜遅くに連絡を寄越してくるが、会話は短く切り上げるし、会おうとは言われない。

 もう、俺の身体から白夜の匂いもしなくなってしまった。

 今日は、花苗と二人での撮影だ。

 似たような毛色で、典型的な愛玩犬と猫という姿形の俺達は、撮影に一緒に呼ばれることも多い。時間は少し余裕を持って用意されていたが、狗神と猫神の一族が揃った現場はするすると進み、予定よりずいぶんと早く終わった。

 花苗は恋人である龍屋の仕事終わりを待つそうで、俺もこれからの予定はない。撮影陣が引き上げていった撮影ルームに残り、ジュース片手にふたりで駄弁りはじめた。

 甘えんぼな花苗とは性格が合わないように思われがちだが、人好きなところは共通している。気まぐれで甘えたがり、という猫らしい相手。あまりにも予測しやすい性格も相俟って、付き合いやすい相手である。

 花苗はソファに腰掛け、全体重を預けている。

「────そういえば、尾上さん、だっけ。その後どう?」

「どう、……って」

「成海がね。尾上さんが戌澄の飼い主になるんだろうか、って気にしてた」

 ごっと咳き込みかけ、胸を押さえて呼吸を整える。隣で半分寝転がっている花苗は俺の様子を気にすることなく、勝手に話を続ける。

「尾上さんとは廊下ですれ違ったけどさ。僕は、やだな、って思っちゃった。だから、戌澄にはちょうどいいかもしれないけど」

「やだ、って。どこが?」

「説明しづらい。それで、あのひと、やけに人を惹き付けるでしょ。だから、純粋な人だけど加護持ちなのかなあ、って思ってさ。龍屋みたいに」

 ああ、と猫に嫌われる特性を持つ友人を思い出す。龍屋は純粋な人だが、蛇神の加護が強すぎて、生涯、金には困らないだろう。だが、その加護ゆえに純粋な猫から怯えられている。

「手がかりないかな、って思って尾上さんの今までの経歴、みたいなの読んだんだ」

「お前にしては能動的だな」

「僕だって友人の恋路は心配なんだから」

 眉を寄せる姿も愛らしい花苗は、ぷくりと頬を膨らませた。怒っています、と彼としては毛を逆立てているのだろうが、猫が毛を逆立ててもやっぱり可愛く見える。

 手元でソーダの残りを揺らし、しゅわしゅわと炭酸を無駄に空気中に逃がしながら、彼は口を開いた。

「ストーカー、多いんだって」

「ああ。それは聞いた」

「でもね、だいたい『何事もなく終わる』んだって。言い寄られていたところに警備員が偶然来たり、尾行されている時に近くをパトカーが通ったり。そういう事が、異様なほどある、んだって」

 彼は、そういう厄介ごとに慣れきっているようだった。芸能人、という立場からすれば、遭遇する件数としては多いのか、それが普通なのかは想像がつかない。

 だが、いま気にするべきは、それらを何事も無く収めていることだろう。

「厄が去る、の猿とか、鱗を持つ動物とか。いろいろ考えたんだけど分からなかったから、こんど尾上さんと映画を撮る子に何か知っているか聞いたんだ」

「ああ、あの柴犬の?」

「うん、あのね。まか、何だったっけ……興味なくて忘れちゃった。えっと、とにかく尾上さんの一族に加護を与えているのは『狼』の神なんだって。柴犬は狼に近しいから、あの子には分かるんだ、って言ってたよ」

 近しい種ゆえ、俺も狼の加護、その神の特性は知っている。

「ああ。『厄除け』だっけ」

「そう。だから、色々な厄介ごとを除けることができるのかもね。でも、顔立ちも綺麗だし、芸能人だし。あと、あの人、番無しで揺らいでるから。そういうものを惹いちゃうのかもね」

 礼代わりに飴を取り出すと、花苗は残っていたソーダを飲み干し、飴の袋を手に取った。ぱりぱり、と包装を剥き、飴玉を口に放り込む。

「狼は、群れと順位の感覚があるから主従をはっきりさせたがるし、一途な質だね。大変だ」

「…………お前、俺が白夜を飼い主に選ぶと思ってるのか」

「思ってるよ。だって、戌澄って勘が鋭いほうじゃない。それに、どちらかというと従いたがり。主人の選り好みは激しいから、ああいう、あからさまに主人、って位置を定めてくれるタイプは好きでしょ。束縛されるのもね」

「……………………」

「やった。図星だ」

 けらけらと花苗は笑った。言い返そうとも思ったが、わざわざ調べてくれた好意に対して怒りを向けるほど落ちぶれてはいない。

 はあ、と息を吐く。

「まあ、礼は言っとく。飼い主になるかどうかは、……まあ、向こうが求めるなら考えるよ」

「ふぅん。まあ、僕は何でもいいけど。でも、恋人っていいよ」

「惚気かよ」

「惚気ー」

 へへ、と顔を綻ばせる花苗は、春の陽気を思い起こさせる。もう夏らしく暑くなってしまった今では、恋しく思えてしまう気温だった。

 つい買ってしまった無糖コーヒーは、今日は苦み以外の味も分かる。黒いばかりに見えて、うっすらと缶の底が窺い見えた。

「そういえば、白夜の家の近くで、いつも同じ女性に会うんだよ。ずっと、カメラアプリ起動してる」

「え? なんか、……気になるね」

「うん。毎回、髪型とか服の感じは違うけど、香水の臭いが同じで。それで、厭な感じがしたから、白夜には伝えてあるんだけど。加護持ち、ってことならちょっと安心した」

 俺の言葉を聞いて、花苗は、ううん、と顎に手を当てた。俺の言葉を受け入れがたい、と思っている様子だった。

「加護持ち、なのは安心だけど、人間社会では色々な要素が絡むから絶対もないし。戌澄が『厭な感じがした』かぁ……」

「なんだよ」

「僕らの勘って当たるじゃない。犬は鼻が利くから、得られる情報も多いしね。だから、その人、何かありそうだよ」

 白夜とは、昨日の夜に携帯電話ごしにメッセージのやり取りをしたばかりだ。明日も遅くなる、と言っていたが、だいたいの帰宅時間の目途もつく。

 携帯を取り出して、返信のための画面を開いた。悩みつつメッセージを作る。

『渡したい物があるんだ。最寄りの駅で待ち合わせて、白夜の家まで少し歩かないか?』

 少し経って、承諾の返事があった。俺は息を吐き、携帯電話を仕舞う。様子を見守っていた花苗は、少しだけ安心したように唇を持ち上げた。

「────飼い犬も、楽じゃないね」

 飼い主じゃない、と釘を刺したが、花苗は受け入れる様子もなく、くすくすと静かに笑い続けていた。

 

 

▽8

▽8

 白夜とは、最寄りの駅で待ち合わせをした。

 パタパタとシャツを動かし、暑さに項垂れながら待っていると、しばらくして駆け寄ってくる人影がある。

 リネンのシャツとカーゴパンツ。目元はサングラス、口元はマスクで覆われていたが、体格と髪色で白夜だと分かる。

 俺を見つけて走ってくる姿は確かにイヌ科のようで、花苗から言い出さなければ気づかなかったことを恥じた。

「ごめんね。待たせて」

「いや、待ってない。飲み物ある?」

 首を振る白夜に、買ったばかりの麦茶のペットボトルを手渡す。この暑さなら欲しいだろう、と買い求めたものだった。ペットボトルを受け取った白夜は、それを首筋に当てて手で扇ぐ。

 少し身体が冷えると、蓋を開け、マスクを下ろして口に運んでいた。

「渡したい物、ってこれ、じゃないよね?」

「飲みもの渡したいからって、わざわざ呼び出すかよ」

 これ、と手に持っていた小さな袋を差し出す。会う口実に連絡したあとで買い求めたのだが、ずっと立ち寄ろうか迷っていた店の袋だ。

 白夜は両手で袋を受け取ると、中身を覗き込んだ。

「コーヒー豆?」

「プロダクションの近くに専門店があってさ。苦いの好きな人向けのブレンドを選んで貰った。ケーキの礼に」

 彼は紙袋の取っ手に腕を通した。腕を伸ばし、俺の頭をわしわしと撫でる。

「嬉しいな。ありがと」

「どういたしまして」

 行くか、と促すと、二人連れ立って歩き出す。近くにあの特徴を覚えた香水の臭いはしなかったが、今日たまたま香水をつけていないかもしれない。

 耳と鼻をせいいっぱい働かせながら、白夜の隣を歩いた。

「…………今日、なにかあったの?」

「え?」

「たまたま店に寄って、会おうと思ってくれたのかもしれないけど。それにしては────何か、緊張してる?」

 言い当てられてしまったのは意外だった。思い起こせば、彼はずっと俺のことを見ているし、仕草や行動の癖を覚えられてしまったのかもしれない。

 俺は慌てて首を振る。

「たまたまだよ。友達と話してて、思い付いたから」

「そう。何の話をしていたの?」

「白夜の守り神の────」

 ふと、鼻先に臭いが届いた。あの女性が近くにいるのだ。

 俺は足を止める。もう自宅は突き止められているかもしれないが、このままご丁寧に案内する訳にもいかなかった。

 近くの花壇に視線を向け、ポケットから携帯電話を取り出す。メッセージ作成のための画面を呼び出して、白夜の服の裾を引いて覗き込ませた。

「なに?」

 急なことにも関わらず、白夜は俺が促すまま自然に画面を覗き込んだ。勘がいいのも、違和感を口にしないのも助かった。

『このまえはなしたひと ちかくにいる かめらのひと においした』

「…………ああ、そっか」

 脚を止めると、臭いの元が背後にあることが分かる。指先を動かして、更にメッセージを綴った。

『このまま まわりみちして えきにもどって おれがあのひと ひきとめる』

 携帯電話を仕舞うと、相手が言葉を発する前に身体を反転させた。

 一気にトップスピードまで足を踏み込み、臭いの元に向けて駆ける。背後で声がしたような気がしたが、耳に入れなかった。

 一つの人影を視界に捕らえる。

 上はジャージで下はジーンズ、そしてキャップ。一見、男女が分からないような服装。

 けれど、あの臭いがする。手には、携帯電話が握られていた。

「────……っ」

 その女性の前に立ち塞がって、息を吐く。今日はメイクのない目元が見開かれたのが見えた。

「すみません。最近、この辺うろうろしてますよね。『──』日と『──』日と『──』日、あと、そうだ『──』日も」

 喉が緊張で動いたのが見えた。逃げようと身体を動かす先に脚を踏み込んで、逃さないように身体で遮る。

 その時、カメラの画面が見えた。画面の右下には、前回撮った写真のサムネイルがある。映っていたのは、白夜の浮き上がるような白いシャツと、薄い髪色だった。

「────なに撮ってるんですか」

 低く。あえて脅すように語気を強めた。

 目の前の鮮やかに塗られていない唇が、色を失うのが見えた。開かれていた唇は、何を言うこともなく、きゅっと引き結ばれる。

 その人の脚が踏み込まれるのが見えた。

 殴られるような動作に見えて、咄嗟に身を引く。すると、小柄な体格を利用して肩の脇を擦り抜けた。逃がすことも考えた。だが、この脅しで効かない相手ならまた繰り返す。

 腕を振り回し、ジャージの裾を掴んだ。

 藻掻く腕と、揉み合いになる。落ち着かせようと声を掛けるのだが、その人も諦めずに逃れようとする。傷付けていいのならやりようもあるが、一族の中でさえ、法を逃れつつ飼い主を守ることに苦心する昨今だ。

 ぶん、と腕が振られ、その腕を自身の腕で受け止める。その時にあえて振りかぶられた手の甲を叩くように力を込めた。カシャン、と音がする。

 拾おうとする手の前に、自らの足を差し入れる。シューズでガードされたような形になり、その人は拾うのを諦めたようだった。

 腕を引いて、逃走経路を提供する。相手は意図したとおりに身を翻し、夜闇に駆け去っていった。

 遠ざかっていく背を見送り、道路を見下ろす。

「拾得物か……面倒」

 はあ、と落とさせた携帯電話を拾い上げる。上手くいくとは思っていなかったが、あまりにも予想通りに動く相手だった。

 俺が割れた画面を見下ろしていると、背後から声が掛かる。

「凄いね。終わった?」

「駅に行け、って言っただろ。こっから離れるぞ」

 周囲に監視カメラがないことを確認し、彼の背を押して早足で歩き出した。白夜は指示されていた通りに駅に向かわなかったようだ。

 俺の体術を褒めるあたり、こっそり見ていたのだろう。

「それ、どうするの? 携帯」

「うちの一族に渡して然るべき措置を頼む。大ごとにしない代わりに、近付くなよ、ってかなり強く脅して貰う」

「へえ。一族、ってそういう事できるんだ」

「飼い主を守るためには、綺麗事を言ってられないこともあるから」

 携帯電話の中身を確認すると、俺が家に行くようになる前からの盗撮画像がずらりと並んでいた。白夜のマンションに入る直前の画像もある。

 げ、と予想通りながら、俺はがっかりと肩を落とした。

「今日、家に帰らない方がいいな」

「うわ。これは引っ越し確定か。安住の地は遠いなあ」

 口調は軽いものの、がっかりしている様子が伝わってきた。俺だって、明日引っ越し、ともなれば落ち込む。

「今日、取りに帰るものがないなら、このまま俺の家に来たら?」

 電源オフでも位置情報を示せる機種ではないことを確認し、携帯電話の電源を落とす。カバーもなく、位置情報タグも見当たらない。

 電源を点ければ位置情報は拾えてしまうから、次に起動するのはバレてもいい場所で、だ。

「いいの?」

「うん。俺の家の周りは一族の人が多いし、安全だと思う」

 付近には一族の人間が所有するマンションがいくつかあり、そちらはセキュリティをがちがちに固めた、飼い主を守るための物件だ。一族同士も手助けできる範囲で互いに守りあう体制が整っている。

 彼が飼い主であったのなら、是非そちらに引っ越してもらいたい所だった。

「────付いてくる様子ないな」

 臭いを確認するが、それもない。付近でタクシーを拾い、俺の家の住所を告げた。タクシーが走り出すと、息を吐いて座席に凭れる。

 ぽんぽん、と肩が叩かれた。

「お疲れ様」

「本当だよ。荒事なんて俺らでもそんなにないんだぞ」

 白夜も同じように力を抜く。

 彼も緊張していたようだ。確かに、ストーカーと友人が一戦交えるだなんて、見ている方もはらはらする。

 道中、当然ながら追ってくる車はなかった。

 俺の自宅付近に着くと、タクシーから降りる。料金はさらりと白夜が支払っていた。はんぶん渡そうとも思ったが、面倒がるだろう、と思ってやめる。

「ありがとな。腹減ってるなら簡単なメシは出すから」

「あー……食べてきたけど、確かにお腹空いちゃうかも」

 帰宅の道中も周囲を確認しながら歩き、自宅に着いた時にはほっと胸を撫で下ろした。追ってくる筈はないと分かっているのだが、万が一を捨てきれない。

 先に家に上がって、軽く片付けてから白夜を呼び込む。

 ひとり暮らしらしい狭い部屋だが、ペット可らしく壁は厚いし、風呂とトイレが分かれているのは上等だ。親族経由で借りた部屋だが、この地域自体の利便性もよく気に入っている。白夜の部屋と比べれば、片付いてはいるものの物と色は多い。

 白夜は俺の部屋を興味深く見渡している。冷蔵庫から麦茶を取り出して氷を入れ、マグカップに注いだ。

 狭いソファへ腰掛けるよう勧め、麦茶を小さなテーブルに置く。

「狭くて悪い」

 ソファに座ろうとすれば、ほぼ隣だ。仕方ないことだが、近くに腰掛けて喉を潤した。すぐにカップは空になって、机の上に逃がす。

「あのさ」

 白夜の腕が伸び、同じように空になったマグカップが机に置かれた。コトリ、という音にびくりと肩を震わせる。

 空いた掌は、俺の手に重なる。

「さっきからずっと、飼い主っぽく扱われてる気がしたんだけど、自惚れていいの?」

 ばくばくと胸が鳴った。指先は、逃がさないように、祈りを込めるように覆い被さって離れない。

 今日の俺は、飼い主を守るという特性を遺憾なく発揮しすぎていた。彼を飼い主に定めていることが、口調にも表れてしまっていただろう。

 俺が黙りこくっていると、肩を掴まれ、彼の方を向かされた。にこり、と赤い唇が笑んだのが見える。

 唇が開いたと思ったら、距離を詰められ、唇に噛みつかれた。

「────ッ、ふ」

 押し付けてくる身体を手のひらで押し返そうとするが、抵抗しようと思う度に力が抜けていく。

 滑り込もうとする舌を遮るように口を閉じると、べろ、と唇を舐められた。

 身を引き、口元を押さえる。

「お前な……!?」

「そっか、受け入れてくれるのか。じゃあ……」

 腰に手が回され、全身で抱き寄せられる。ぎりぎりまで顔を近づけると、鼻先がぶつかった。

「こう言えばいいの? 『僕を受け入れて』」

 藻掻いていた手足が、力を失う。

 彼は思った通りの結果を満足そうに笑うと、ちゅ、と額に軽くキスをした。命令に従った犬を、褒めるようだった。

「僕をきみの飼い主にして。恋人にも、そして伴侶にも」

「………………」

 黙りこくる俺に、顔を覗き込んで返事を促される。唇を震わせ、諦めに息を吐いた。

 彼の巣に入った時点で、俺は逃げる術を失っていたらしい。

「じゃなきゃ、無理やり魂を染めちゃおっか」

「な──!」

 この人間ならやりかねない。

 あぁ、と負け犬は遠吠えすら叶わず、情けなく声を漏らす。ぼす、と白夜の肩に寄り掛かると、ひくく声を出した。

「……犬にとっての飼い主って、重いんだぞ」

「君にとっていちばん重い存在になりたいんだよ」

 俺の背を抱いて、ぽんぽんと叩かれる。息を吸い込むと、今日の白夜も他の臭いは混ざっていなかった。

 この腕の中がいちばん好きだ。息をする度、彼の匂いでいっぱいになる。

 腕を伸ばして、その背を抱き返した。

「拾って、くれ」

「喜んで」

 ぎゅう、と力が篭もる。頬に、こめかみに、と、ちゅっちゅとやられ、居心地の悪さに唸った。

 ご機嫌な声は、そこかしこで跳ね回っている。

 抵抗せず好きなようにやらせていると、もぞもぞと服の下に手が入り、慌てて上から叩いた。

「…………な!? な、っに、を!」

「だって、必要なんでしょ。魂を染めるの」

 かっと頬を染めると、それをいいことに指先が背を撫でた。暴れるべきか、受け入れるべきか迷って、染められる誘惑の甘美さに足踏みする。

 俺を見ていた白夜は、更に駄目押しした。

「僕だけの犬になりたくない?」

 きゅう、と胸が引き絞られる。潤したばかりの喉はからからに渇いて、あ、と戸惑いが濁った声で漏れた。

 追い詰める手は止まない。

「きっちり君に首輪を掛けてあげる。僕は、君だけの飼い主になってあげられる。だから、その代わり────」

 欲望はストレートに言葉に溢れ出している。耳元に唇を寄せ、低い声が耳朶を震わせた。波は皮膚の浅いところを滑っていく。

 ぞくぞくと身体の芯が熱を帯びる。

「君は、飼い主に服従しないとね。──できる?」

 視線が交わった。逆らって、勝てないと分かる強い瞳だった。

 犬が腹を見せて寝転がるように、俺は静かに降伏した。

「……できる」

 改めて指先が背を伝い、ぞくぞくした感覚を伝えてくる。深いスキンシップに身を委ねていると、耳元に声を吹き込まれる。

「いい子だ」

 

 

▽9(完)

 運動をして汗まみれの身体を洗わせてくれるよう頼むと、しぶしぶ受け入れられた。熱を灯された身体を持て余しながら、シャワーを浴びて身体を洗う。

 交代で浴室に入った白夜は、パンツだけ穿いて戻って来た。

 逃げられる余地はあるだろうか、と探っていたが、また逃げ道を塞がれた格好だった。

「腹減ってない?」

「食べたくなったら、した後で食べるよ」

 立ち上がった俺をベッドに促す勢いに、逃げる隙は与えられなかった。腰を抱かれ、狭いベッドに押し込まれる。

 隣に座った白夜は、俺を自分の膝上に招いた。太腿を跨ぐように膝立ちになり、肩に腕を乗せる。

 掌が服の裾から滑り込んだ。下着は身に着けておらず、指先はすぐ素肌に届く。くすぐったい、と身を捩った。

 手は背から腹に回り、服の下で乳輪を押し上げる。

「…………う、ぁ」

 慣れない刺激に、腰が引けてしまう。逃れようと身を傾がせると、回された腕がその場に固定した。

 服は捲られ、顔を出した場所に唇が近付く。ちゅぷ、と口の中に尖りが消えた。

「…………ふ、……っく。そこ、や……」

「……ふふ。犬の時は、あんなにお腹を見せてくれたのに」

 ちゅう、と吸い付いて舌先で転がされると、知らない刺激を教え込まれているようだ。目元まで染まり、静かに嬌声を零した。

 エアコンの効いた室内は、風呂上がりには寒く感じるほどだった。それなのに、もう既に点った炎は燃え上がって、汗が滲んでいる。

「……ん、う。……ァ、っア…………」

 胸が一段と尖ったあたりで、唇が離れた。ハァ、ハァ、と息を吐き、落ちた服を握り締める。

 俺が身体を隠そうとしているのを見て取り、彼は何事かを思い付いたように唇を撓ませた。

「脱いでよ、服」

 びく、と服に掛けていた手が震え、俺は逸らされない視線に羞恥した。ごくん、と唾を飲み込む。

 ひとつ、ふたつ。

 パジャマの釦を外していく様に、ねっとりとした視線が絡み付いた。ぱさり、と服をシーツの上に落とす。

 先ほど弄ばれた乳首はつんと尖って、あの舌先の感触を欲しがっている。

「これで、いい?」

 身体を腕で覆いたいのを必死で堪える。けれど、飼い主の要求は無情だった。

「下もだよ」

 ぎゅっと眉を寄せ、彼を睨み付ける。白夜は俺の視線すらもプレイの一環であるように、平然と見返してくる。

 自分の要求が通らないことは、想定していないようだ。

 俺は下の服に手を掛け、全てを脱ぎ去る。茂りの中から、形を変えつつあるものが持ち上がった。

「可愛いね」

 ピン、と指先で先端が弾かれる。ぷるりと震えたそこは、悦びに潤んだ。

 彼は長い指を竿に掛けると、慣れた手つきで扱き始める。

「……ン、ぁ。ぃ、イ…………!」

 胸と違って、既知の感触は心地いい。

 けれど、形を変えるのが早すぎたのか、長くは触ってもらえなかった。指先はすぐに離れ、解放されない熱は渦巻いたままだ。

 白夜は下の毛に指を絡め、くい、と引く。

「僕の鞄、取ってきてくれる?」

 裸のまま立ち上がり、俺は視線を浴びながら白夜の鞄を取りにいった。

 鞄を抱えてベッドに戻り、待っている飼い主に手渡す。手を鞄に突っ込み、チューブを取り出すと、彼はくるくると蓋を外した。

「後ろを慣らすから、ベッドで脚を広げて」

 俺は背中を丸めたままベッドに上がると、いちど膝を抱え込んだ。まだ、彼の手ずから脚を開かれる方がましだ。

 白夜は、逃げを許す様子はない。俺が言うことを聞かなければ、これ以上触れてくれることはないだろう。

 ぐす、と軽く涙目になりながら、脚を開いて局部を晒した。

「よくできたね。じゃあ、慣らそうか」

 彼はチューブの中身を掌に広げると、そのまま躙り寄った。指先が谷間を沿って動き、窪みに辿り着く。

 くっと曲がった指が、滑りを借り、くぷ、と内へ潜った。

「────っ、あ。う、あ……!?」

 指先は柔らかい肉を掻き分け、奥へと進む。骨張った指先は内壁を掻き、むず痒い感覚を残した。

 指先が、何かを探るように内側から粘膜を押す。

「────ふ? ……ぁア、ぁあああッ!」

 びくんと身体が跳ね、指を食む腹の奥からびりびりと刺激が走った。しびれるようなそれは、余韻を長く引き延ばす。

 俺が快楽を得ていることが分かると、指の腹は同じ場所を執拗に撫でた。

「……な、そこ。……は、アっ、……ふ、うぁ、ァああ、あ」

「そっか、ここ。好きなんだ」

「わか、な……ァ、ン……! ひっ……く、ふ」

 がぶり、と近付いてきた唇を噛みつかれる。いちど唇が離れると、軽く歯形で凹んだ場所を労るように舌で舐められる。

 唇に夢中になっていると、ぐり、と腹の奥が押された。んぐ、と塞がれた唇の奥で喘ぐが、呼吸に口が離れる以外はしつこく蓋をされた。

 耳元には水音が流れ込んでくる。

「…………────っ、は……ァ……!」

 唇が離れた途端、彼の口元に手のひらを差し入れる。は、は、と呼吸を繰り返すと、引き離された飼い主は面白く無さそうに口を窄めた。

 唇を塞がれないよう彼に背を向けると、首筋にキスをされる。腹を抱いて持ち上げられ、綻びかけた後腔に指が当たった。肉輪を辿るように撫で、中央に埋め込まれる。

「ま……、っァ……!」

 いちど中を許したそこは、すぶすぶと太い指の侵入を許す。奥まで届いたところでぐるりと掌が回り、知った悦びを呼び起こさせる。

 前後する動きに慣れてくると、指を使ってピストンされた。ぬめった液体をまぶされた孔は、ぐち、ぬち、と音を響かせながら拓かれていく。

「……ぁ、あァ、っ、あ。……っ、く、うあ──!」

 持ち上がった半身は、回された手によって鈴口を塞がれる。濁った音が鋭い聴覚を埋め、平静を失わせた。

 腕が離れると、くたり、とシーツの上に潰れる。腰をひくつかせながら、ただ白いシーツの波を掻いた。

 力を込めた指先の上に、別の指が重なる。一回りおおきな掌は、俺の手を覆い、押し付け、寝台に沈み込ませた。

「……他人の精で魂を染めるなんて、いやらしい、なぁ…………」

 うっとりと呟くと、押さえつけていた掌が離れる。そのまま手は腰に回り、解した場所を晒すように腰を持ち上げた。衣擦れの音がして、太腿をぬとりとしたモノが掠める。

 ちゅ、と肉輪に亀頭が当たった。ぬち、ぬち、と腰を前後させ、ぐぶん、と輪を潜る。

「────あ、ッあ。……ぁああああッ!」

 ぐっ、ぐっ、とキャパを超えた質量が潜り込む。反った背に顔が近付き、前進して逃れようとする身体を窘めるように、がぶり、と肩を噛まれた。

 痛みは柔らかく、きゅう、と後ろを締め付ける。力が緩むと、また腰を固定して押し込まれた。

「う……っあ、は。……っく、う。……ぁ、あ」

「上手だよ、気持ちいい」

 噛んだ痕を舐められ、また奥へと挿入った。ぐり、と大振りに押し込まれると、尻たぶに茂りが掠めた。一度抜いて、ばつん、と尻を叩かれる。

「……ァ。も……あ。はい……、った?」

「うーん。もうちょっと、……かなぁ」

 太いものが内臓を押し上げているのに、まだ尺は残っているらしい。顔をシーツに押し付けて、浮いた涙を拭った。

 探るように奥をぐりぐりとやられ、構造を掴んだように声が上がる。

「あ」

「────え、……ア?」

 僅かに腰が引かれ、ぐぶ、と膨れた先端が何かを踏み越えた。指で捕らえられた場所よりももっと奥、相手の腰との間で尻の肉が潰れた。

「……ぁ、あ。────ぁあああああッ!」

 腰を引こうとしても、嵌まって抜けない。上から体重を掛けてくる飼い主は、面白そうに雄の先端を敏感な場所に押し付ける。

 ピストンで起きる刺激はない。だが、膨らんだ質量が神経を剥き出しにした場所を、おもく押し潰した。

「……や、……そこ。や……あッ! あ、あ」

「……っ、く。ふふ、きゅー……、ってしてくれるの、きもちい……なぁ」

 僅かに抜けたかと思えば、首筋に歯が押し当てられる。今まで付けられた痕は残るような気がしたが、痛みよりもただ熱い。

 赤くなったであろう場所に舌を伸ばし、唾液を塗り広げて自分の匂いを擦り付ける。

「────ッ、あ、ひ。う、ぁ」

 体内でこぷこぷと液が漏れ、内壁を濡らしていた。魂が塗り替えられていく感覚は爆発的で、無意識に前に踏み出せば、追って腰が押し付けられる。

 そうすると、またあの深い処をぐずぐずにされるのだ。

「ぐす。……っ、ひっく……ぁ、うあ、あ」

 弱火で炙られ、絶頂を引き延ばされた嬌声は泣き声に近い。押し込まれる反射で肉棒を締め付け、逃さないように絡め取る。

 回り込んだ掌が、腹を撫でた。

「たくさん、出そうね。……っ、それ、で。もう、僕だけになって……」

 ずるり、と硬いままの昂ぶりが引き抜かれる。ぱく、と後ろの口は何かを失ったことに戦慄く。

 肩が持ち上げられ、視線が合った。ぎらぎらと鋭く、突き立てられていた牙が僅かに開いた口元から覗いていた。

 彼の背後には、レースカーテン越しに夜の闇がある。空調の送風で揺れる隙間から見える景色は、ただ黒ぐろとしていた。

 脚が掴まれ、仰向けに転がされる。天井よりも先に、少し崩れた美貌と目が合う。美しいものに綻びを与えられて尚、気圧されるような凄みがあった。

 腰が持ち上げられ、尻が浮く。つう、と濡れそぼった男根が尻を伝うと、また、見知った場所に潜る。

「────く、う……!」

 何度も行き来された場所は、ひと息で奥までの道を許す。

 目の前にいる男は、ただ嬉しそうだ。執拗に飼い主という立場に拘り、噛み痕を残す。俺が思っているよりも、この首輪は重く太いのかもしれない。

 伸びた親指が、喉仏のあたりを撫でた。包み込んで、力を込めることはない。これからもきっと、力を込められることはない。

 打ち込まれた楔が、ぐっと押し込まれた。

 以前は感じていたはずの怯えが、身体をしびれさせる。真綿で締められるような、やんわりとした拘束だった。

「……ッ。あは、奥のとこ、やわらかい……」

「ン──! あ、う……っあ」

 指先が腰に食い込み、みちみちと膨れるものが体重で押し付けられる。脈うつものはだらだらと涎を零し、隘路を濡らしていた。

 ごちゅ、と奥が潰される。突き入ったまま腰を揺らし、長いこと液体を奥に流し込んだ。喉は閉じ、息の音も濁る。

 使い慣れた寝台が、ギシ、ギシ、と聞き慣れない音を立てていた。背後にはエアコンの動作音がする。けれど、身体を繋ぐ粘着質な音だけが主張して、生活のための動の音はただ遠かった。

「友くん」

 濡れた前髪を、ごつごつした手が掻き上げた。指を伸ばして、彼の小指に引っ掛ける。薄い瞳が、光を遮っていた。

「……これで君は、僕以外のものにはならないね」

 開いた喉が渇いていた。彼の指を持ち上げ、その小指に噛み付く。深く食い込んだ場所には、半円型の噛み痕が残った。

 白夜は手を持ち上げ、その痕を見ると、一度だけ手を振った。

「……あッ。……あ、あ、く。ぁあッ!」

 腰が掴み直され、激しいピストンが始まった。大振りのそれは、欲を吐き出すためだけの動きだ。内壁がごりごりと押し上げられ、指で知った場所も、雄で知らされた場所もまとめて刺激される。

 限界が近いのはすぐに分かった。閉じていたはずの場所は、膨れた赤黒いものに押し拡げられ、可哀想なほど肉縁は伸びきっていた。

「……っく、うわ。……痙攣、して……」

「……ぁああ、ひ。くぁ、……ぁ、う。あ、あ、ぁあ、ひンッ!」

 似合わないはずの甲高い声を上げ、俺は小さく男の身体の下に押し潰されていた。爪先がゆらゆらと、雄が突き入るたび力なく揺れる。

 この男の激情を受け止めるには、人の身体でも力不足だった。もう、重たい熱は堰を切りそうだ。

 ばつん、ばつん、と互いの肉がぶつかって、跳ね返って音を立てる。

「────ッ。やっと、染められる」

 奥で、質量が膨らんだのが分かった。潤んだ目が見開かれると、直ぐに水分を失う。

 もう、抜けるかと思うほどに大きく腰が引かれた。引いた腰は、ずるる、と同じ道を通り、強く打ち付ける。

 押し上げられて形を変えた奥は、びゅる、と漏れ出すもので濡れた。

「────ァ、あ。……ひ、くぁ。……あ、ぁあああぁあああああっ!」

「っ、く。……っ、は、あ…………」

 腹の中で、白濁がぶちまけられた。緊張しきった脚は伸び、放精の間、ただ固まった身体は男の欲を受け止めた。

 腹が埋まった後で、俺はようやく息を吐き出す。魂の色は、新しい波を持っていた。俺らしくないその部分は、きっと白夜から染まったものだろう。

 手を伸ばし、腹を撫でると、そこだけ別物になったように思えた。俺の手のひらが持ち上げられ、手の甲にキスが落とされる。

「……僕は。飼い主に、なれた?」

「う、ん。……な、ンか、ちが……感じ、する」

 喋る度に繋がった処が揺れて、残った炎でじりじりと焼かれる。もう抜いてほしい、ともぞもぞと身体を動かしても、上に男が乗っている状態では逃れられなかった。

 身体の内にあるには物慣れないそれを、柔肉がやんわり食んでしまう。

「もう一回する? ……いいよ」

「ちが。そ、ゆことじゃ……!」

 俺が何を言おうとも、白夜はまだ続ける方向に持っていこうとする。

 わざと話を聞いていないことに気づいた頃には雄は形を変え始め、繋がれた首輪を引かれると、彼の腕からはしばらく逃れられなかった。

 

 

 

 もぞり、と身を動かすと、自分の白い前脚が目に入った。さんざん攻められ、まだ足りないと欲で染められ、疲れ切った俺は身体を洗ってもらい、犬の姿で眠りに落ちたのだった。

 器用に俺は白夜の頭のあたりで丸まっており、身を起こすと健やかな寝息が聞こえた。途端に昨夜のことを思い出して腹立たしくなり、その額をぺしぺしと短い前脚で叩く。

 やがて、飼い犬を手に入れた狼が目を覚ました。

「……うぁ。友くん。今日も可愛いね」

『その可愛い犬に散々無体を働いておいてその言い草か』

「犬の姿の君には、何もしてないよ」

 白夜は身を起こすと、その太腿の上に俺を乗せた。携帯電話で時間を確認すると、まだ早朝らしい。そのまま目が完全に覚めるまで、俺を撫でることにしたようだ。

 モデルで金が取れるくらいの毛並みは今日もふかふかで、白夜はようやく慣れてきた手つきで絡んだ毛を解していく。

 ピチチ、と外で鳥が鳴いた。朝らしい音を聞きながら、彼はほんとうに何でも無いことのようにさらりと言う。

「友くん。僕、引っ越すから、同居しよう」

『はぁ…………。はァ!?』

 ばた、と体勢を変えて彼を見上げると、本人はいつも通りの顔だが、冗談を言っているような表情ではない。

 俺が慌てている様子を見ても、言葉を訂正するつもりはなさそうだ。

『本気か?』

「当たり前でしょう。どこに飼い犬と別居する飼い主がいるの」

 跳び上がった俺を落ち着けるように、耳の裏がこしこしとやられる。いつの間にか覚えたらしいそれは、やけに心地良かった。

 ころり、と転がる。

『でも、俺。大学生だし、親が契約した部屋で……』

「じゃあ、ご両親に挨拶に行くよ。もう、魂も染めちゃったし、挨拶した方がいいよね。僕が先に引っ越すことになるけど、部屋は一緒に選ぼうね」

『あぁ。えと、物件は一族の人間が経営してるマンションがあって……』

 言いかけて、そうじゃない、と頭を振る。

『俺ら、付き合ったばっかりだし。その』

「君は、飼い主を選ぶこととか、魂を別の色に染めることを、ご両親への挨拶なしに済ませるほど軽い関係だと思っているの?」

 咎められているような空気だが、俺は悪くない、筈だ。

『お、思っては、ないけど……?』

 整った真剣な顔立ちから圧を掛けられ、でも現に付き合いはじめたばっかりだし、と言えないまま俺は黙り込んだ。

 俺が考えていたよりも、この男はあまりにも重たい。付き合った翌日に同居の打診をされるのは予想外だった。

「じゃあ、一緒に住んでくれる?」

『まあ、俺は……いいけど』

 親がいいって言ったらな、と保険を掛けた俺は、後日、この男の手腕の前ではその保険がまったく機能しないことを知ることになる。

 体力が戻っていることを確認した俺は、人の姿へと戻り、服を拾い上げて着る。食事でも用意しようとベッドを離れるはずだったが、そう言うと伸びてきた腕にまた囲われた。

 こつん、と彼の胸に頭を預け、もごもごと文句を言う。

「なんだよー……」

「友くんは、昨日できた恋人に対してドライすぎるよ。もっと構って」

「その恋人のために食事を用意しようとしたんだよ」

「食欲なんていいから」

 腹の前に腕が回され、ぎゅう、と抱き竦められる。あーあ、と俺は諦めると、身体から力を抜いた。

 犬の時のように、腕に抱かれたまま全てを委ねる。空腹を持て余しながら、ぽつぽつと足りなかった言葉を交わし合った。

「────あ。そういえばさ」

「ん?」

「白夜には、狼の加護があるんだって」

 花苗から聞いた話をそのまま伝えると、白夜は俺の言葉をすんなりと受け入れた。ああ、と言っているあたり、心当たりがあるようだった。

 すり、と背後から頬が擦り付けられる。

「前にも言ったように、妙に変な人から好かれるんだよね。でも、確かに、大ごとになったことはないなぁ……」

「友達にも蛇神の加護持ちで猫に怖がられる奴がいるし、白夜が犬に噛まれたのも、狼の気配が怖かったのかもな。俺も、最初にお前に会ったとき、妙に怖かったし」

 あの時のなんとも説明しづらい恐怖が、犬の姿としては対照的な大型の動物に対しての恐怖も含まれていたのだろう、と今なら分かる。

 白夜はその話を聞いて、すっきりしたような顔をしていた。

「そうか……。僕自身が嫌われてなかったのなら、良かったなぁ……」

 ふふ、と満足げな笑い声が届くと、ほっと胸を撫で下ろす。

 互いに何があったのかなんてもう分からないけれど、もう、分かることもないだろう。昔の事なんて、もう、それでいい。

 あ、と何事かに思い至ったかのように、白夜は声を上げた。

「狼って、基本的には一生、番を変えないんだよ。知ってる?」

「……あぁ、そんな気がする」

 知ってた、と言わんばかりに頷くと、彼は不思議そうに顔を傾げた。加護を受けた人間がこう、なのだ、加護を与えた存在が多情とはとても思えなかった。

 飼い主の腕の中で、脚を折り畳む。

 真白い毛並みを持つ狼の、ふかふかの腹のあたりで白いポメラニアンが丸まっている。なんとなしにそんな光景を思い描いて、くす、と俺も唇を綻ばせた。

動物の魂を持つ一族の話
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坂みち // さか【傘路さか】
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