宰相閣下と結婚することになった魔術師さん3

宰相閣下と結婚することになった魔術師さん
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▽1

 ◇

 僕はミイミル。姓は元よりない。

 両親の顔を知らず、気づいた時には孤児院で育った。孤児院にしては豊かなその施設では、すぐ親しげに話しかけてくる先生達の距離の近さに戸惑いこそあれど、人には恵まれていたように思う。

 孤児院を管理していた領主は、金銭的に裕福な方ではなかった。

 裕福な領民が寄付をすれば、領主の懐ではなく領地の図書館の本が潤う。領主は、金銭が巡ることこそを重視する。その傾向は孤児院にも向けられた。世話をする先生達は十分足りており、物資や金銭に困った様子を見ることはなかった。

 あの孤児院で、豊かなのは物だけではなかった。領主の親族が入れ替わり立ち替わり、特別授業に訪れる。豊かな知識と、優れた頭脳を持つ彼らは、多くが『モーリッツ』という姓を持つ、領主の親族であった。

 今はもう違うのだが、当時ロア・モーリッツと名乗っていた方と、初めて出会ったのもその頃だった。

「すみません、遅れました!」

 そう言って、最初の授業から教室に駆け込んでくるような教師だった。くしゃくしゃになった柔らかい髪を、照れながら直している姿が、最初に見たロア様だ。

 孤児院の中でも、魔力の多い者だけを集めた特別授業。魔術の基礎を教えるその授業は、ほぼ教室を使って行なわれなかった。森や川、図書館、領主の屋敷、様々な場所に連れられては、世界の仕組みを教わった。

 水は何故凍るのか、木は何故育つのか、ただそこに在るものの仕組みが伝えられる。そして、問いが与えられる。考えて考えて、辛うじて答えを用意する。そうやって僕達が導いた回答に講釈を加えることはあっても、彼が解答を直接言うことはなかった。

 最初こそ魔術の授業ではないと思ったものだが、しばらくした頃、唐突に気づくことがあった。魔術は世界に干渉を引き起こす。紙を裂く時に流れに沿えば軽い力で成せるように、世界の流れに沿えば、魔術は大きな効果を引き起こす。

 間違いなくあれは、魔術の授業であった。

「そんなに魔力があるのに、全く魔術が使えないのも変な話だな」

 全く魔術が使えなかった僕が、ロア様にそのことを告げたのは、図書館での調べ物の合間だった。ロア様は僕に触れて、魔力を感知すると、そのことをおかしい、と言ったのだ。

 初めて、自身の魔力が比較的大きいことを知った。

 大きな手は僕の手を引き、図書館の扉を開いた。空は晴天で、眩しさに目を細める。ロア様は僕の手を取ると、空いた手の人差し指を、目の前で立てて見せた。

 真似して、と言う言葉に導かれるように、人差し指を立てる。背後に回り込んだ身体が目の前から消えた。手の甲にひとまわり大きな手が添えられ、指先に何かが纏わり付く。

 導かれるがままに、指が空中を滑る。指に纏わり付いた光が形になり、文字として躍った。

「ひっ……!」

 情けない声が漏れた。身体の中を、渦巻くような熱さが一瞬で駆け巡っていく。この感覚は知っていた。

 定期的に、この感覚が身体中に停滞し、風邪を引いたときのように動けなくなることがあった。その度に寝込んでは苦しんだ。孤児院の先生も原因が分からず、ただ、その熱は待てば引いた。

 けれど、ロア様が導いた熱は一瞬で身体を突き抜けていった。風が前髪を持ち上げ、ぶわりと一瞬、通り過ぎる。浮かぶ。落ちる。認識よりも少し遅れ、髪は重力に従って、元の場所に戻った。

 ぱちり、ぱちりと瞬きをした。

 それがあたかも幻であったかのように、何度も目の前の光景を疑う。

「魔力が大きすぎて、使い方を覚えるのが難しいんだろうな。うちの親戚にもたまにいる」

 そう言ってにっと笑うと、続けて宙に文字を綴った。ばちばちとした小さな光がぽんと跳ねる。

 魔力が流れている。自覚することの少なかった力が、自身の中にあることを初めて知った。指先を降ろし、ロア様を振り返る。

「僕、魔力? が、溜まって、苦しいことがあって。そういう時は、熱が出るんです」

「ああ。そうか、若いしなあ。使うよりも、生成する魔力が大きくて、発散しようとするんだろう」

「もし、魔術を使ったら、治りますか?」

「勿論。溜まって苦しいのなら、使って解放してやればいい」

 ぱあっと顔を輝かせると、大きな手のひらが頭の上に乗った。わしわしと撫でる手は、自分のそれよりも随分大きく、それでいて加減を知る者の優しさがあった。

 ロア様はその日、暴走をしない魔術を一つだけ教えてくれた。ただ、ほんの小さな灯火が周囲を光らせるだけの魔術だ。熱が篭もるようになると、何度もその魔術を使った。それからは熱に魘されなくなった。

 その後もたびたび休暇で領地に帰ってきては、孤児院に立ち寄って魔術を教えてくれた。ロア様の仕事が忙しくなるにつれ、その頻度は減っていったが、それでも領地に戻ってきたときには、寸暇を惜しんで特別授業に訪れてくれた。

 やがて、僕は魔術学校に入学し、孤児院を離れることになった。

 その魔術学校にもモーリッツの一族はいたが、自分にとって最初に出会った師はロア様だ。彼の近くで働くことができたら真っ先に挨拶に行こう、と分不相応な願いを抱き続けている。

 ロア様が宰相閣下と結婚すること、大怪我を負ったこと、無事に復帰したこと、それらは立て続けに耳に届いた。

 聞いた頃には、全てが終わった後だった。

 随分、遠い人になってしまった。きっと、あの頃のロア様とは、変わってしまっているのだろう。

『王都で行われる勲章授与式典』。

 その御触書が出回ったのは、魔術学校の長期休暇の少し前のことだ。式典で勲章を受け取る名の筆頭には、ロア様の名前があった。

 寮に残る僕は、都合良く休暇を弄びがちになる。顔を見る、最後の機会になるかもしれない。

 すぐに手持ちの金銭を確認し、王都に滞在できる日数を調べることにした。幸運にも、相談した同室者……裕福な商人の息子……の厚意で、両親が長期で借りている宿の一室を貸してもらうことになった。

 同室者はいつも勉強を教えて貰っている、とお金を受け取ってはくれなかった。代わりに休暇に入るまで、同室者の試験勉強に付き合った。休暇前の試験は随分良い結果に終わり、成績表を手に実家に帰省する同室者は晴れやかな顔をしていた。

 王都の施設で学習、という名目で魔術学校の転移術式の使用許可を貰い、休暇に合わせて王都に旅立つことにした。

 きっともう、近くで会うことはできないはずの恩師に、遠くから『おめでとう』と伝えるために。

 

 

 

▽2

 ◆

 出勤直後にふらりと魔術式構築課の扉を開いたのは、先程屋敷で別れたばかりのガウナーだった。国王陛下の訪問にだって慣れつつある今日この頃だ、宰相閣下の訪れにはさすがに慣れもする。

 他の課の上長よりも気安い声音で、ばらばらの挨拶の声が掛かる。

「ああ、皆おはよう。少し、サーシ課長に用があってな」

 サーシ課長は返事と共に、応接机の椅子を勧める。椅子に座ったガウナーに、サーシ課長が杖を片手に寄って行った。

 部外者の立場で、ぼんやり伴侶を眺める。朝から執事が丁寧に梳る金糸の髪、たまに光が入ると薄く色付く海色の瞳、整えられた白い指先。屋敷の内でも外でも、ガウナーは見る度に眩しい。

 艶を取り戻しつつある自身の髪を摘まみ上げ、詮無いこと、と散らした。

 書類を取り出したガウナーは、それを見せつつ二人で何やら打ち合わせを始め、落ち着いたところで課員に召集が掛かった。

「今度、勲章授与式典を行なうのだが、サウレ国王陛下が是非ともゴーレムと共に余興を、と」

「……宰相閣下。それ、よく反対されませんでしたね」

 部下のシフが声を上げる。一番正直に、顔を顰めているのも彼だった。

「一応、反対はした。私の伴侶の仕事を増やさないでくれと」

「そういう反対の仕方じゃなくて、ゴーレムで余興、って部分な……。完全に王様の趣味だろ」

 つい抑えきれずに、言葉を差し挟む。課の中に、はいはいそうだよね、早く仕事を終えて一緒にいたいんだよね、という生ぬるい空気が流れた。ごほん、とガウナーが咳払いをする。

「ミャザでの八面六臂ともいえるゴーレムの活躍を、誰よりも喜んだのはサウレ……国王陛下でな。だからこそ尚更、王都でのゴーレムの認知度の低さに我慢ならないらしい」

「いや、おれたち我慢できますから。いいですよそこまでゴーレム推さなくても」

 シフが手を振った。そうですよ、と周囲の課員も苦笑と共に同意している。

 ミャザ地区での模擬戦で、即興で作ったゴーレムで暴れ回ったのは先日のことだ。その後の反響は凄まじいものだった。

 ミャザ地区の地方紙でもかなり長く報じられ、ミャザ市西区には多くの寄付が集まった。

 ただし、先にゴーレムを保有しているはずの王都では、ゴーレムが民の前に出て、というような行事を経験していない。

「とはいえ、ゴーレムの研究予算を勝ち取るのはこれからだ。防衛課の上はまあ、自分たちが国を守ってきた自負があるのか、積極的にゴーレムの予算を取りたがろうとしてはいない。唯一、申請の予定があるのは第二小隊くらいのものだ」

「……シャクト隊長の申請は、サーシ課長がゴーレムを便利に使ってるから、研究が進んだら嬉しいなっていう下心からでしょう。あれを申請に数えるのはあんまりです」

「あー……、まあ、多分そうだろうね……」

 サーシ課長は否定することなく、目を細めている。ただ、本人も便利になったら嬉しい自覚があるのか、シャクト隊長を止めるつもりは無さそうだ。

 第二小隊は国王の襲撃事件の折に、ゴーレムと一緒に戦った経験がある。その後も、手合わせ等で少しずつ、戦略的に使用する実験を進めているようだ。そんな第二小隊ならば、予算申請をしても不思議には思わなかった。

「だから、ゴーレムの実装費を第二小隊の予算。ゴーレムの研究費を魔装課、および魔術式構築課の予算で取得しようと思っている。そうなると、大臣達にそれを認めさせねばならん」

「ただの余興という訳ではなく、予算を認めさせるための演目として企画している、ということか?」

 俺の言葉に、こくり、とガウナーが頷いた。そういうことなら、とシフも弱くだが了承しかけている。

「式典の中で、第二小隊に協力して貰い、第一部に数人対数人の、ゴーレムを含めた演武を行なう。第二部として式典の勲章授与があり、その後に第三部として、魔術式構築課、魔装課と何か余興をやりたいと考えている」

「第一部、だけではいけない理由は?」

 短く問うた。ある程度予想は付いているが、今後の進行のためにも、はっきりと述べて貰いたかった。

 伴侶は、俺の意図も汲み取ったかのように眉を上げた。

「『ゴーレムを、戦いの為だけの存在として認識してほしくない』と。国王陛下はお考えだ」

 ガウナーから国王の話を聞く時、国の未来に憂いを感じることはない。国王陛下がゴーレムをそのように捉えているのであれば、協力のし甲斐があるというものだ。

 にんまり、と態とらしく口角を引き上げる。

「じゃあ、見て楽しく、ただしゴーレムが役立つ存在でもある、と印象づけられる余興がいいな?」

「そういうことだ。ただし、ロア。君が協力するのは構わないが、一応、担当外だ」

「へ?」

 何故、と言おうとして、これからの予定に思い至った。

 勲章授与式典の当事者である俺は、当日の衣装だの、受章者の一言だの、予行練習だのと予定がある。こちらの案件に、長時間関わっている余裕はなさそうだった。

 ガウナーがサーシ課長に視線を向けると、彼もまた頷き返した。

「つきましては昇格したばかりのシフくん。君主導で余興やってみようね」

「二度目ですね!?」

 そうだねー、とサーシ課長はのほほんと頷いている。ぐぐ、とシフは言葉に詰まるが、すっと顔を上げた。固めた拳もすぐ解かれる。

「頑張ります!」

 おや、とサーシ課長は目を見開いた。にしし、と俺は笑い、指で丸を作って見せた。少しずつ、部下は逞しくなっているらしい。

 ガウナーはシフの肩を叩き、よろしく頼む、と囁く。俺がもつ緑の瞳は、じとり、とその仕草を追った。

「『生き残ったら酒宴でも、という約束が伸びてしまっているから。式典が終わったら皆で酒を飲もう』と国王陛下から。式典の日の夜、こっそり無礼講の宴を用意するとのことだ」

 わっと場が沸いた。

 王様直々に酒宴の招待とは、何とも豪勢なことだ。楽しみだなあ、とわいわい盛り上がる課員の中、シフはガウナーに近寄り、少しいいですか、と声を掛けている。

「おれたちと、魔装課、はいいんですけど、ミャザの連中も呼ぶのはどうでしょうか? ゴーレムが三人いたら、映えると思うんですが」

「では、こちらからミャザ市長に打診しておこう。向こうの予定もあるだろうから、判断はあちらに委ねていいか?」

「構いません。おそらく宰相閣下から話があった方が、向こうの調整が早いと思うので助かります」

「いや、こちらこそサウレの我儘に付き合わせてすまないな。根回し出来ることはやるから、声を掛けてくれ」

 よろしくお願いします、とシフは頭を下げ、席に戻っていった。ガウナーとシフ、最近は会話を交わすことも増えてきた。普段なら何とも思わない光景のはずだが、なんとなく、胸がもぞもぞして落ち着かなかった。

 ガウナーはサーシ課長と少し話をして、式典の進行表などの書類を置き、足早に去って行った。目まぐるしい訪問に、ほう、と息を吐く。

 ずるずると椅子を引き、シフの傍に寄った。

「シフもまとめ役、慣れてきたなあ」

「まだまだ全然でーす。式典の余興でしょう? 犯人役の時と似たような案件ですよ」

「俺要らなくなるのかなー寂しいなー。仕事辞めたら、家で魔術書読んで暮らそうかなー」

「あー……。あの、おれはまだまだなので、もうちょっとその立場にいてくださいね」

 うん、と頷き、こちらにようやく視線を向けてくれたシフに、にへら、と笑いかける。呆れたように、ぱし、と肩を叩かれた。不安げにしているのが読まれたのかもしれない。しっかりしろ、と言われたようだった。

 上司から視線を離し、魔術機の元に戻っていった部下に少し視線を残す。

 仕事は少しずつ減りつつあり、その度にほんのちょっとした不安が訪れる。『いずれ、俺が要らなくなる』ことだ。直接的に表に出すことはないが、こうやって冗談交じりにシフに絡んでしまったのは、良くない傾向に思えた。

 しっかりしなきゃな、と肩を動かす。勢いよく回したはずなのに、音は鈍く鳴った。

 

 

▽3

 ◇

 同室者から融通してもらった宿屋は大きく、手続きの際には宿の女将さんが親切に施設の説明をしてくれる。同室者の家が期間分の代金を支払って借りている部屋であり、滞在費を払う必要はないが、食堂は都度料金が発生するそうだ。

 朝食だけお世話になって、昼食と夕食は食べに出ることにしよう。王都ならば、食事に困ることはなさそうだ。

 手続きは終えたが、早く着きすぎて部屋はまだ清掃途中らしい。荷物もあることだし、と休憩がてら待つことにした。

 受付の近くには数脚の椅子と、自由に読める新聞が置かれている場所があり、新聞を片手に椅子に腰を落ち着ける。

 疲労感の残る足を、ぶらりと振った。

 新聞を開くと、近く開催される、勲章授与式典の記事もあった。内容はロア様の話題で持ちきりで、絵姿と、国王の襲撃事件の概略もあった。絵で見る姿は、順当に、最後に会った頃のロア様から歳を重ねているようだった。

 その記事を食い入るように見つめていると、隣の椅子に小柄な青年が腰掛けた。ぶかぶかの作業服を着ており、首に防護用眼鏡を提げている。

 目元は揃った髪で少し隠れていたが、顔立ちは幼げで、目は隠れていて尚、隙間から大きく主張する。

 視線が合ってしまい慌てて頭を下げると、青年も軽く手を持ち上げる。新聞を差し出そうとするが、大丈夫、と辞退された。

「旅行か?」

「はい。勲章授与式典を見に」

 青年は驚いたように目を開く。どすり、と床に下ろされた荷物が音を立てた。

「俺もー。式典の手伝いに」

 その瞳の色と髪の色、顔立ちが唐突に符合した。新聞の絵姿と、目の前の人物を交互に見つめる。言うべきか言わざるべきか一瞬悩み、思い切って口を開いた。

「あの、モーリッツの方……だったりしませんか?」

 声を潜めると、青年も同じように小声で返事をする。

「よく分かったなあ」

「僕、ミイミルといいます。孤児院出身で、以前ロア様に授業で魔術を教わったことがありまして」

「ああ、成程。臨時教師か。俺も駆り出されたことがある」

 青年はウィズと名乗った。

 ロア様とは親戚で、同じく式典目当てに来たそうだ。同行者が宿の受付をしているところで、その間暇になり、椅子に腰掛けようとここに来たらしい。

 子どもっぽく足を揺らす様は同年代か少し上だが、臨時教師に駆り出されたことがある、という言葉が、その印象と事実が乖離していることを示していた。

「ウィズ様、は」

「様……? こう。なんかもうちょっと柔らかくならないかね」

「ウィズ……さん?」

「うん。よし、それでいこうミイくん」

 子猫の名のような愛称で呼ばれるのは最近では珍しいが、子どものころはよくそう呼ばれていた。

 敬称を直すと、ウィズさんは座り心地でも良くなったかのように、少し肩の力を抜いた。

「ウィズさんはもしかして、もうお仕事をされているんですか?」

「ああ。ミャザ市の魔装課で働いてる」

 目を丸くすると、ウィズさんは慣れたようにけらけらと笑って、勿論成人してる、と言った。あまり、年齢を正確に当てられたことがないそうだ。

 それにしても、ミャザ市といえば、観光に行くのが好まれている程には遠い地区だ。ロア様の式前の旅行がミャザ市で……、と思い出すにつれて、連鎖的に辿り着く発想があった。

「あ、ゴーレムの! 新聞で見ました! 初めて西区が勝って、その時にロア様の一行が技術協力をしたって」

「正解! そう、西区にはゴーレムがいる! いいだろー。いいだろー」

「いいですね!」

 ゴーレムがどういうものかを尋ねていると、ウィズさんの背後から、ぽす、とその頭に大きな手が置かれる。見上げると、長身の青年がそこに居た。

 移動が静かなのか、近寄られるまで気づくことはなかった。着崩したような服の着方をするウィズさんとは対照的に、青年はきっちりした性格のようで、立ち姿はどちらかといえばロア様の雰囲気に近いものを感じた。

 優しげで整った顔立ちと、銀髪と琥珀色の瞳。それらは豪華な金銀財宝を思わせるが、彼自身、おそらくは裕福な家庭の出身だろう。厚みのある服の材質も、磨かれた鞄も値が張りそうだが質が良いもので、僕達が気軽に持てるようなものではない。

「若い子を誑かして、ゴーレムの長話なんて迷惑じゃないか」

 はあ、と息を吐いて、頭を下げさせようとしている。手慣れた空気から察するに、ウィズさんはそういった長話の常習犯なのだろう。

「今から長くなるとこなんだ。あ、こいつはシュタル。ミャザ市防衛課の魔術小隊所属。魔術師だ」

 魔術師の職ならば、貴族の次男坊といったところか。立ち上がり、頭を下げる。

「初めまして、ミイミルといいます。僕、魔術学校に通っていて、ゴーレムのことについても僕から話を出したんです。…………あの、本当です」

 庇ってでもいるのか、と胡乱げになった瞳に、慌てて言葉を付け足す。シュタルさんは、丁寧に名乗り直し、開いた手のひらを差し出す。

 その手を両手で握り返す。力強い手のひらの皮は、所々硬くなっている。武器を使っての訓練なども受けているのだろう。

「悪い男じゃないけれど、どうも技術馬鹿なのが難でね。ウィズ、長話もいいが、荷物を置いたら魔術式構築課に行くんだろう?」

「そうだった。うーん、将来有望な若者にゴーレムの講義をしたいんだけどなあ」

 残念そうな様子だったが、また次の機会にでも、と引き下がろうとする。しかし、一歩後ずさった僕の手のひらは、離れてすぐ、別の手に捕まった。

「暇ある?」

「え? は、はい、荷物を置いたら……」

「じゃあミイくんも魔術式構築課……ロアの仕事場に行かない?」

「え、あ……い、行きます!」

 絶対に会うことのないと思っていたロア様に会える、と戸惑いながらも、提案に乗った。腕を捕まえ返し、連れて行ってください、と上下に振る。

 シュタルさんは、横で溜息をつく。

「向こうにも都合があるかもしれないし、王宮なら、入れてもらえないかも……」

「ロアの旦那なんて国家権力の塊じゃん。連絡取ってみればよくね?」

 ウィズさんはごそごそと鞄を漁ると、小さな名刺入れを取り出す。その中から、一枚の紙を引き出した。分厚く、装飾のされている、一見して特殊な造りの名刺だった。

「は!? それなら宰相閣下じゃなくロア代理に先に……」

 言葉を遮るように、ふわり、と名刺が空中に放り投げられる。指先が滑らかに空中を踊った。

 素早く書き記された文字は記述式の魔術の起動を示していたが、その動作は一瞬で、魔装課に所属している、という程度の人間の業ではなかった。

「どうもーウィズでーす」

『ああ、君か。ガウナーだ』

 会話の先で、止め損ねたシュタルさんが流れるような仕草で頭を抱えるのが見えた。

 がくんと顎を落とした。通話先から聞こえてくる名は、ガウナーと名乗った。ロア様の伴侶であり、我が国の宰相閣下の名前だった。

「今日そっちに行くことになってて、同行者が増えそうなんですが」

『通行許可か?』

「そうでーす。ロアの昔の教え子なんですが、その子をロアには内緒で魔術式構築課に入れてほしいんですよ」

『だが、ロアはこれから式典の準備で、魔構からは席を外す時間だが』

「そちらのほうが都合がいいです」

『まあ、構わんが……。一応、身分の確認と身体検査を受けること。門番まで話は通しておくし、ロアには君がいいと言うまで黙っておこう』

 ありがとうございます失礼します、と、ありがたく思っているのか疑問に感じるほどの早口で告げ、ウィズさんは通話を打ち切った。

 大きな、そして重たい溜息が再度、シュタルさんの口から漏れる。

「ウィズ! 宰相閣下が心が広い方だからいいものの、あの方は国で二番目に……!」

「つったってあの方、ロアの旦那だぞ。ロアにとって良いことなら喜んでやるだろーさ。ロアが自分の教え子に会いたくない筈がない。手に持てるもんは全部拾うような、あの性格だぞ」

「それは……、そう、なんだが……」

 思い当たる節でもあるのか、シュタルさんは過去に記憶を飛ばして無言になった。あわあわと二人を交互に見る。

 ウィズさんが引き起こし、シュタルさんが巻き込まれる。長い付き合いなのだろう、二人の関係性が垣間見えた気がした。

 やがて女将さんが部屋の掃除の終わりを告げるまで、ウィズさんはゴーレムの話を喋り倒し、シュタルさんは宰相閣下との会話を止められなかった後遺症からか、肩を落とし続けていた。

 

 

 

▽4

 宿屋に荷物を置き、馬車に乗せられて王宮へと向かうことになった。人の良さそうな御者に、お世話になります、と頭を下げる。

 乗り合い馬車では駄目なのかと尋ねると、後部座席に積んだ荷物の布が引かれる。

 そこに居たのは、ゴーレムだった。ミャザ市西区で作られ、新聞に取り上げられるほどの活躍を見せたゴーレムそのものだった。思わず声を上げてしまうと、ウィズさんは照れくさそうに鼻を掻いた。

「な、かっこいいだろー」

「はい!」

 後部座席の、ゴーレムの隣にお邪魔することにした。かたん、かたん、と揺れる馬車は、乗り合い馬車よりも格段に心地よい。もうすぐロア様の職場に着く。期待感にふわりふわりと浮く身体を、馬車が更に浮かせる。

 二人は勲章授与式典の余興として、ゴーレムを使った演し物の協力に来たそうだ。数日間滞在して予行演習をし、技術交流を行なう。

 王都とミャザくらいしか所持していないゴーレムの研究は、無論研究しているのもその二地方くらいのものだ。お互いに貴重な協力相手であり、交流も増えているらしい。

 王宮に辿り着くと、一旦心地の良い空間とはお別れだ。協力してゴーレムを馬車から降ろした。

「アンナ、行くぞ」

 手慣れた動作で魔力が込められ、歩き始めたゴーレム……アンナに声を漏らすほど驚いたが、門番は少し目を見開いたものの、慣れたものだった。

 門番から学生証で身分を確認され、持ち物を検められた。攻撃に使えそうなものは宿屋に置いてきたため、特に問題なく通過する。

 ゴーレムを検めた門番は、シャルロッテの方が可愛いな、とウィズさんに向けて軽口を叩いた。僕は首を傾げるが、声を掛けられた当人は心得ているように、うちのアンナのほうが可愛い、と言い返している。

「王宮にもシャルロッテ、という名の護衛用ゴーレムがいるんだ。だから門番も慣れているんだろうね。彼らにとっては協力者だ」

「へえ、可愛い名前ですね。会うのが楽しみです」

 門番から通行を認められ、歩き始める。王宮は見上げなければ頂は見えないほど高く、白を基調とした上品な壁は、塀の外から見ることは許されない。

 神話に由来する動物の意匠の彫刻。開花の時期が計算され、常に美しく咲き誇るであろう庭園。そしてその中央に位置する外観からして立派な王宮は、さぞ中も美しいのだろう。

 ふらふらと釣られるように王宮正面の白い通路を歩こうとしたが、突然首根っこを引っ掴まれ、塀沿いに歩かされた。

「あの、魔術式構築課に行くのでは……?」

「王宮内なんて立派な場所に、『あの魔術式構築課』があるはずないだろ」

「ウィーズ」

 窘めるように低く、長く呼ぶ声に、ウィズさんはちっと舌打ちして、僕の首から手を離す。その隙に襟を整えた。

「『あの魔術式構築課』って言って何が悪いんだよ。『あの』ロアが代理なんてやってる課だぞ。魔構じゃなく魔窟だ」

「言い方というものがあるだろう? 失礼だよ」

 失礼というならば、その言葉を否定しないシュタルさんも大概だった。だが、二人がしばらく言い争っている間、ただひたすら口を噤む。

 気を取り直したらしいシュタルさんが咳払いと共に、こちらだよ、と案内してくれ、やはり僕たちは塀沿いに歩くことになった。正面の通路を通っては辿り着けない場所らしい。

 道すらもない地面を歩いて辿り着いた場所は、王宮の片隅とも言える場所だった。王宮の建物内ですらなかった。

 外観を称するならば小屋だ。

 それも工事の間に仮に建てる小屋を、すこし補強したくらいの小屋だった。仮設ならともかく、世話になった恩師の常設の職場だと信じたくはなかった。

 更に言うなら、宰相閣下の伴侶が勤めている職場としても物寂しい。

「ロア様は……、王宮の皆様から迫害でもされていらっしゃるんですか……?」

「されてないされてない。まあ、金のない西区の魔装課のほうが建物だって主張できるだけまだましだな。なんで建て直されないんだろ……」 

 ウィズさんは呟きながら小屋の扉に近寄ると、がちゃがちゃと取っ手を何度か引く。どうやら鍵が掛かっているらしい。ふむ、と何やら考え込み、すう、と息を吸う。

「どうもー。ウィズでーす! フナトはいますかー?」

「……なんなのもうー、うるさいー!」

 ばたばたと走ってくる音が聞こえ、奇妙で軽快な音と共に、扉が僅かに開いた。

 東から来た異国の民特有の黒髪と、美しいかんばせが扉の隙間から顔を覗かせる。暗い色の瞳が、扉の外の光を受けて色を和らげた。

 彼……と称して良い筈の美しい人は、身体も小柄で、顔立ちも相俟って若く見えるものの、年齢は曖昧だ。

 扉の先に居るのが顔見知りであることを確認し、扉が大きく開いた。

「シュタル……ついでにウィズも、長旅おつかれさまー。それと、いらっしゃい」

 ふわり、と花弁が綻ぶような笑みは、ぱっと朱色を頬に差した。そして、感極まったらしいウィズさんが飛び付いていくのを、軽くいなしている。

 大声で呼ばれた彼の名前には覚えがあった。結界術の新しい術式が出回ると、必ずと言っていいほど付き纏う名。

「フナト。……フナト・イブヤ。結界術の権威の……」

「目だたない分野なのによく知ってるねー。魔術師……さん、だよねー? いい魔力だね」

「ミイミルといいます。魔術学校に通っていて、フナトさ……、さんの名前は結界術の文献で目にしました。会えて嬉しいです」

 手を差し出すと、フナトさんは躊躇うように手を見つめる。馴れ馴れしかったか、と手を引こうとした途端、細い指がすっと伸び、手を握り返した。顔を上げると、目の前の人はぎこちなくはあるが、微笑んでいた。

 嫌がられている様子がないことに、胸をなで下ろす。

「フナトといいます。結界術を研究しています。よろしくねー」

 相手の封鎖が弱く、妙に魔力が流れ込もうとするのを皮膚で留めた。魔力の強い人のようだから、遮ることに慣れていないのかもしれない。

「はい! よろしくお願いします!」

 疲れているだろうし、と中に入るよう促され、魔術式構築課に足を踏み入れた。

 部屋中に魔術機が並び、それ以外の装置も数多い。ぐあんぐあんと響く機械音は魔術機からのものだ。魔術学校のものよりも大型で、流れていく文字の速度を見るに高性能なもののようだった。

 こちらを見るなり、金髪の青年が笑顔で近付いてくる。

「ようこそ、長旅お疲れさまです。さ、座って座って」

 いつの間にか三脚の椅子が用意され、有難く腰掛けた。金髪の青年の号令で課員が呼び集められる。

「個別になるのも面倒だろうから、最初にまとめて自己紹介といこうか。……あと、なんで三人なんだ?」

「ああ、この子はミイミル。魔術学校の生徒で、ゴーレムの見学がてら連れてきた。詳しいことは余興の話の時に」

 ウィズさんの言葉に、真っ先に通る声が響いた。

「それなら、僕からいいかい? ……サーシといいます。魔術式構築課の課長です。今回の余興のために、ミャザ市からわざわざ来てくれてありがとう。名前で呼んでくれると嬉しいな」

 穏やかそうな壮年の男性……サーシと名乗ったその人は杖をついており、自己紹介を終えると、足が悪くてね、と断って椅子に腰掛けた。

「シフだ。式典の余興全般を取り纏めることになってる、よろしく」

 シフ……金髪の青年の名が分かったところで、勢いの良い挙手と共に名乗る者がいた。

「エウテルっす。歓迎に一曲歌……」

「あー……、次」

 シフさんがエウテル、と名乗った男性をずい、と手で遮り、他の者の背を押す。押し出された青年は、僅かに主張するように軽く手を挙げた。

「ヘルメスだよ。どうぞよろしく」

 そして最後に残った人物の肩に手を置く。

「……ツクモ・フィ……いや。間違えた……違う……ツクモです……。……あー…………、すいません……」

 最後にツクモ、と名乗った男性は、名乗り終えるとすぐ、居心地悪そうに他の人の影に引っ込んでしまう。

 何を謝ることがあったのだろう。ただ奇妙な名乗りに首を傾げるばかりだった。魔窟、と称される理由の一端をいま、垣間見たのだろうか。

 次は僕達の番、とそれぞれ名乗り始める。僕が何故ここに来たかを語ったところで、シフさんが声を上げた。

「もしかして、余興に引っ張り込む気か?」

「正解ー。この子に跳んでもらおうと思ってさ」

 途端、全員が無言になった。その場の時間が止まった気さえした。その中で、ウィズさんだけが自信満々に胸を張っている。

 最初に動き出したのは、その無茶ぶりに慣れきっているだろう人だった。

「ウィーズー」

「何だよ。いい案だろー。ミイくんはさ、ロアに世話になったらしい。それなら、きっと花束を投げるのに相応しいと思ってさ」

「花束?」

 きょとん、と問いかけると、ちょっと待て、という言葉と共に、最初に動き出したのはシフさんだった。

 自席から一枚の大判の紙を取り出すと、応接机に両手で伸ばす。図面にまっすぐ落ちる視線と共に、金髪が耳から滑り落ち、頬に掛かった。

「勲章授与式典で余興をやるんだ。基本的に、当日の式典は広場を中心に行なわれる。第一部の演武は広場に仮設で作られる舞台上。第二部の勲章授与は広場の時計台にある露台……ここだ。この高い位置にあるせり出している場所で、国王から受章者に勲章が渡される」

 ここ、とシフさんが指差したのは、広場と時計台を横から見たような図面の中で、時計台の中でも随分高い場所だった。

 時計がある位置のすぐ下あたり、かなり見上げなければ見えない位置だが、大勢の人が集まる広場では、それくらい高い位置でなければ見えづらいことを配慮してのものだろう。

 従来の勲章授与式典では余興はあまりなく、式典のみであったらしい。流石に演武を時計台で行うわけにもいかず、仮設の舞台が用意されることになったようだ。

 シフさんが広げた図面の中に、もう一つ位置として点が描かれている場所があった。時計台から少し離れてはいるが、時計の見える、正面の位置だ。

「それで代理……ロア代理な……にも勲章が授与される。その後で、この露台にいる代理に向けて、花束を投げるのがおれたちの余興、って訳」

「随分高い場所……なんですよね」

「そう、だからゴーレムと、身体強化の魔術の合わせ技で届ける。ミャザの模擬戦の時、ゴーレムが人をぶん投げたことがあってな」

「あった!」

 誇らしげな反応を見せたウィズさんに対して、横のシュタルさんは苦い顔をしている。あの時は肝が冷えた、と呟いているところを見るに、『ぶん投げられた』人はずいぶん近くにいるらしい。

「ゴーレムが人を跳ね上げ、人は身体強化の魔術で跳ぶ。その高さからこの露台に花束を投げ、代理に受け取ってもらう」

「それで、その跳ぶ役を僕に、ですか?」

「普通の子なら頼みやしないけど、魔術学校の生徒なら、落下なんて怖がらないだろう?」

 時計台の高さを実際に見た訳ではないが、魔術師が『風の毛布』を覚えるのは初歩の初歩だ。墜落死とは縁遠い。

 とはいえ、と口を挟んだのは先程サーシ、と名乗った人だった。

「いくら魔術師の卵でも、成人していない子を一人で跳ばせるのはあんまり好まれないだろうね。危ないことに巻き込んだ、と言われかねない。基本、高いところから落ちても死なないだろう、というのは魔術師だけに通じる常識だよ」

「そっか。いい案だと思うんだけどなー」

 僕なら大丈夫です、と口に出す前に、はい、と顎に手を当てたシフさんが手を挙げる。

「おれが背負って跳ぶのはどうですか? 投げるのはミイくん……だっけ? に任せるとして。ミイくんだって、青年と呼べる歳でしょう。おれが背負って離さないようにします。花束を投げた後、風の毛布を展開して、ゆーっくり降りていく様を見せれば、危ないことをしていた、という意識は起きないんじゃないでしょうか」

 うーん、とサーシさんは悩ましげな声を上げ、ぽん、と手を叩いた。

「宰相閣下に相談しよう」

「無難なところですね」

 結論が出た後ではあるが、自分の意思を伝えるべく口を開く。

「僕は、できれば、花束を投げたいです。駄目なら、他のことでお手伝いしたい。僕の手でロア様をお祝いしたいんです。勲章もですけど、……結婚も」

 シフさんの唇がゆるりと弧を描いた。窓から光が差す。

 きらきらと美しく髪を金に光らせる日差しの中、その人と自分は同じ輪郭の中に立っていた。

「うん、おれもだ。だから、いい式典にしたい」

 よろしく頼む、と大きな手が差し出される。照れくさそうなこの人も、ロア様にお世話になった一人なのだろうか。

 こっそりと仲間意識を抱きながら、その手を取った。

 

 

 

▽5

 ◆

 式典の準備は着々と進んでいる。衣装も出来上がり、試着をしてきたところだ。

 ローブを常用している身からすれば珍しい、白を基調とした衣装は慣れず、何度も鏡を見ては頬を掻く。似合わないのでは、と口に出してはみたが、幅の調整はあれど、衣装自体が覆ることはなかった。

 気疲れした、と寝椅子の上で本を腹に載せてごろごろしていると、やがて屋敷の主人が帰宅した。ひょい、と起き上がってぱたぱたと玄関に駆ける。

 反応が遅れたためか廊下の途中で落ち合い、両手を開く。

「ただいま、ロア」

「おかえり! 会いたかったー」

 様子が珍しかったのか、ガウナーは額にキスをし、顔を覗き込んできた。疲れている、と全身で示すように抱きつき、体重を掛ける。

「今日は甘えたがりだな」

「風呂入ろ。そのあと俺」

「魅力的な提案だが……、その前に食事かな」

 宥められ、しなしなと萎れながらガウナーに廊下を引き摺られる。

 食卓に座らされ、上着を脱いでいる伴侶を横目に、机に伏せながら手を伸ばして料理を温めた。

 向き合って今日の報告をしつつ、試着の愚痴を呟く。ただの愚痴だというのに、丁度良く相槌が打たれ、ささくれ立った部分が平らになってゆく。途中で語り手を交替し、今日の国王陛下、の愚痴を聞く立場になった。

 ゴーレムを使った余興について逐一探りを入れてくるので、最近特に鬱陶しいのだそうだ。部外者から見れば微笑ましいことだった。

 食事を終えかけた頃に、通話用の魔術が起動された。ガウナーに向けたもので、相手の魔力には心当たりがあった。

『こんばんは。夜分遅くに失礼します、宰相閣下。シフです』

「ああ、構わないが、珍しいな」

 ガウナーが、こういった突然の通話を無下に扱うことは少ない。生来、面倒見の良い性格なのだろう。

『あの、今近くに代理いますよね? ちょっと、声が聞こえないとこまで離れて貰えませんか』

「は? 何だそれ」

 抗議の声を差し挟むと、向こうにも聞こえていたらしく、シフの困ったような声が届いた。

『すみませんが、式典の余興絡みで内密にお耳に入れたいことが。代理は担当外ですし、もう終業後ですし、ゆっくり休ませたいんですよ。ね?』

 む、と口を噤むと、ガウナーの掌が俺の頭を撫でた。少し待っていてくれ、と囁かれ、はぁい、とふてくされた返事をする。

 席を立ち、部屋を出て行くガウナーを見送り、机に肘を突く。俺の知らないガウナーの一面と言うのなら、これまでの人生全てがそうだ。俺が関わることのできない伴侶の人生に、いちいち燻らせても始まらない。

 ふと、詮無いことを考えてしまう。自分より若く、素直で、鮮やかな色をした部下の方が、よく見える日が来るのではないか、と。

 静まりかえった屋敷では、少し離れた場所の声が僅かに漏れ聞こえる。

 言葉として認識はできない音が、あたかも朗らかで楽しいもので、伴侶もそれを喜んで受け入れているのではないか、という疑念が喉元に纏わり付いた。

 目を開いて、僅かに食事が残っている皿に指先で触れる。冷え切ってしまった食事に熱を灯そうとして、温めた食事が再度冷えるまでに帰って来てくれないことを恐怖した。それでも、口を開き、ぼそり、ぼそりと詠唱をする。

 きっと、この努力は只の願いでしかないのだ。

「お待たせ、ロア。……随分待たせてしまったかな?」

 優しく声を掛けられて我に返る。肘を浮かせ、椅子に座り直した。

「飯、温めておいた。早く食べて」

 それで、と口から言葉が零れた。

「今夜。その……」

 出迎えた時は調子に乗って甘えてしまったが、疲れているだろうか。その先の言葉に迷って、指先を擦り合わせた。

 やはり寝た方がいいか、と結論付け、先程の言葉は冗談にしようと顔を上げると、緩められた目元に気づく。

「……何だ、甘えてくれないのか?」

 合間に笑いが滲み出ている伴侶の言葉に、む、と唇を尖らせる。

「甘えたいに決まってるだろ。遠慮してんの」

「それは良かった。丁度私も君に甘えたいなと思っていた」

 ガウナーは残った食事を口に入れて礼を言い、ぽかんとしている俺を尻目に食器の片付けを始める。

 背後から近付いて、その作業を手伝う。疲れてはいないかとしつこく尋ねるが、その度に首を振られた。

 水を使って、少し冷えた手を引いて食堂を出た。風呂場に視線をやり、そのまま通り過ぎる。おや、とガウナーの目が見開かれる。

「ローブ。着たままとか、興味あるって言ってた……から」

 相手の視線の先で、く、と裾を引いてみせる。

「汚れてしまうんじゃないか」

「……汚したくないか?」

 こそ、と囁くと、同意の頷きが妙に力強く返ってくる。

 思わず、笑いを噛み殺しながら廊下を歩いた。寝室に雪崩れ込み、ガウナーを寝台に押しやる。

 ちょっと待ってて、と掌で制して、腕を持ち上げる。普段ならきちんと魔術的にも準備をしておくのに、今日は即興だ。気が急いて、呪文を綴る指先がぶれた。辿るべき軌跡を辿り切れていない箇所はなぞり直し、光の筋を補修する。

 ようやく起動した魔術に、ほう、と安堵の息を吐いた。

 肌着ごと下の服を脱ぎ捨て、俺の様子を眺めていたらしいガウナーの傍に寄った。どうだろう、とローブの裾を際どいところまで持ち上げてみる。

「……可愛い子とか美人とかがやったらこう……いいのは分かるんだけど、俺でもいける? 大丈夫?」

「私にとって君はずっと、『可愛い子』だよ」

 眼鏡を投げ捨てる勢いでチェストの上に放り、広げられる両手の間に飛び込む。素肌の太股を骨張った手が辿った。

 付け根付近まで性急に這う指先に、肌を震わせる。もう少し段階を踏むべきだ、と窘めるように口に齧り付いた。舌先を伸ばし、唇を舐める。

「ふ……、っぁ」

 開いた口内に舌が滑り込んでくる。温かい舌だった。仕掛けたのはこちらだが、手慣れているのは向こうだ。

 仕掛け返され、混ざって溢れる唾液を拙く飲む。喉を流れ落ちるそれが、喉奥に張り付いているような心地がした。

 唇が離れても、顔を捕らえる腕は離れない。唇の濡れた場所を、指の腹が薄く引き延ばす。

「自分で捲って」

 誘ったのは自分の方だ、眉を下げながら、そろそろと両手でシャツごとローブをたくし上げる。

 きっと意地の悪い笑みを浮かべているであろう顔が見られず、視線は寝台のシーツの上を這った。

 指先が露わになった胸元に伸びた。尖りの輪郭を軽く辿り、押し潰す。

「これはいいな。絶景だ」

 金髪が揺れた。胸元まで顔を近づき、その唇がぷくりと膨れた粒を食んだ。歯が肌を沿い、ざらついた舌が擦れる。

「……わ、くすぐった……」

 裾が相手の顔にかかり、慌てて持ち上げる。どうぞ、と言わんばかりに弱い箇所を晒し続けていることに、じわじわと羞恥が湧いてくる。ちゅう、と胸を吸われた。

 いくら嫉妬したとはいえ、いくら自分を見て欲しかったとはいえ、今すぐにシーツを被ってしまいたい。俺が差し出しているのをいいことに、胸元は舐めしゃぶられ、濡れた鴇色にまで育てられた。空気の刺激にさえ、ふるりと震える。

 親指が臍から腰骨へ、やがて茂りにまで辿り着く。執拗に胸を苛められた結果か、芯は僅かに膨らみ、強く触れられるのを待ち侘びていた。

「見られて興奮した?」

「…………ちょっと、だけ」

 期待して、瞳は揺れていたかもしれなかった。自身が大きな掌に隠れ、擦り上げられる。弱い場所を知り尽くした動きと、じりじりと視線が肌を焼く。

 視線は、俺がぐずぐずになっている様だけを捉えている。俺だけを見られていることが、冷えた食事を温めた時の不安感を僅かに溶かしていく。

「……っぁ、うあ。そこ、好き……っで……」

「ああ。でも君は、後ろも好きだろう」

 背を押され、ガウナーの肩に倒れ込む。先程撫で回された太股に再度じっくりと手を這わせ、今度は付け根よりも先……尻を揉みしだかれた。

「後ろも見えるように、もう少し裾を上げて。……そう」

 肉付きの薄い尻をもう少し見せるよう催促され、裾を持ち直す。

 腕が伸び、引き出しを開ける音を焦がれながら聞いた。油の入った小瓶を持ち上げた手が、掌に中身をぶち撒けた。ぬめりを帯びた指先は丘を通り越し、鞍部に潜り込む。

「………っ、ひ」

「無防備で、白い尻が丸見えだ。弄りやすくていい」

「この、…………ぁあ、っ!」

 罵る言葉を吐くために開いた口が、嬌声だけを零して沈黙する。指先がしこりを撫でたのだ。

 何度も身体を重ね、その場所はもう知られてしまっている。そこでの快楽も知らない男がいる中、押し潰される悦びを拾える躰であることも含めてだ。

 曲がった指の骨が内壁を掻く。身体の仕上がりを探るためか、焦らされているのか、ゆるゆると弱い部分が指の腹で撫でられる。

「……あ、ぁあ……、や、あ、ンぁ………」

 指の動きは大きくなり、ぐちぐちと油が撥ねる音が静かな室内に響いた。

 顔を肩に押し付け、服に声を吸わせながら悶える。髪を縛っていた結い紐はいつの間にか抜き取られており、頭を振ると髪が頬に張り付いた。

「ガウナー。……焦らし、てる……、ん……」

「そんなことはないとも。もう少し柔らかくしないとな」

 宣う男の視線は、潜り込む指を食んでいるであろう尻に注がれている。ひ、と悲鳴にもならない声を上げ、言われた通りに裾を持ち上げながら、肩に縋り付き続ける。

 服を着替えていない所為で、相手の汗の匂いが鼻先に届いた。普段の整った香りではないそれは、くらりと芯を蹌踉めかせる。

 ずぽ、と引き抜かれ、もういいのかと期待するのに、無慈悲にその指はまた同じ場所へ突き入れられた。

「や、も、やだ。いれ、……いれて」

「もう少し我慢してくれ」

「だいじょ、ぶ。や。も、はいる、から……あ、ぁああン、あ」

「うん。君の身体のことは分かっているから」

 その時の俺は、間違いなく、絶望した顔をしていただろう。裾を落とせずに涙目になる俺が面白かったのか、その苛みは普段よりも長く続いた。もういいだろう、と言うのに、君の身体が大事だ、と偽り言で絶頂が引き延ばされる。

 ひぐ、と喉の奥から嗚咽に近い声が漏れ始めるまで、指先は後腔を弄り続けた。

「……いれ、いれて、く……ぁ、も、苛めな……! ―――――っ! ひ――――!」

「危なかった。まだ達してないな?」

 さらり、と。快楽が引き伸びて良かった、と酷い言葉を吐かれたのは気のせいだろうか。

「ロア。私もそろそろ君が欲しい」

 こくこく、と大振りに頷く。追い詰められ、ガウナーが欲しいのはこちらも同じ気持ちだった。

「寝台に四つん這いになって、膝を突いて、それで、ローブをたくし上げる。できるね?」

「ん。うん、できる」

 その腕から逃げるように寝台に手を突き、言われた通り、尻を突き出すように服の裾を上げた。

 背後で、服が擦れる音がした。腰が掴まれ、尻のあわいに熱いものが当たる。ぬるりとしたそれは、性急に中に押し入った。

「……あ、っあ、ぁああああっ!」

 ごつり、と筒を掻き分け、突き入れられた瞬間、軽く達したような心地さえした。僅かに残った部分をねじ込むように嵌められ、尻たぶに毛が当たる。

 ぐちゅ、ぐちゅ、と湿った音が、緩やかな抽送と共に耳に届く。

「……ぁ、ぁン、ふ、ぁあ」

「ああ。本当……に、服が、ぐちゃぐちゃに、汚れてしまった、な……っ!」

「あっ……、で、でも。よごれるの、が、い……――っ!」

 仕事場の匂いがしていた筈の服が、はしたなく濡れていく。服ごと、躰全部がこの男に犯されている。裸でいるときよりも更に、男の存在が纏わり付いた。

 零れる声の合間に、無意識に口元は笑みを刷いていた。シーツに押し付けている口の端から唾液が零れ、布に染みつく。

 押し込まれる魔力が、押し留める力よりも強く体内の魔力を侵食する。匂いも、体液も、魔力も、服ごとぜんぶ、この男と混ざってしまう。

 目の端に綺麗な金が揺れた。

 ぐい、と腰が突き出され、強い力で腰を引き寄せられる。この男にしか許していない場所が、思う存分、膨れた雄に抉られた。

「―――――ぁぁあああああっ、っあ―――っ!」

「……っ、う」

 肚の奥で、長く熱が吐き出された。

 どっと身体が肩から崩れ落ちる。はあ、はあ、と息を吐き、流し込まれている液体に身じろぎする。掴まれた身体は離されることはなく、遂げられた情が途切れるまで、ゆるりと揺さぶられる。

 やがて、背にどっしりと体重が掛かった。腕が腹に回り、顔が首筋に擦り寄る。くすぐったい、と顔を動かし、逃げを打つ。

「今日の君は儚げで、夢中になってしまった」

「……、そ、か。なんか今日……、すごく意地悪、だった、な」

 しばらくの間、しんと静かになった。

「……魔術師のローブは、禁欲的というか。なので、随分、……盛り上がってしまった」

 申し訳なさそうな声だったが、似たようなことが前にもあったのを思い出す。改善の余地はなく、絶対に次もあるのだろう。

「………………もうしない」

 声は少し掠れていた。拗ねて体勢を変えると、少し慌てたような伴侶がもう一回、と申し入れてくる。

 胸が見えるよう正常位で、との細かい要望を聞き返しながら、最後だから、と腕を持ち上げ、受け入れてしまった自分は随分甘いのかもしれなかった。

 

 

 

▽6

 ◇

 以前、ロア様の仕事が忙しくなって、帰省が一気に減った頃、孤児院からのお小遣いを使って手紙を書いた。ただ、孤児院の近況を書き記しただけの、面白みもない手紙だった。

 王都での住まいが分からず、モーリッツの屋敷に送った手紙は、おそらくはロア様の父上である領主様のご厚意で、ロア様の元へ送られたのだろう。丁寧な返信はすぐに届き、しばらくして、ロア様は一度帰省した。

 手紙のお礼の言葉と、丁寧な授業。久しぶりに会う姿に、手紙を出して良かった、と心から思った。

 ロア様の、目の下にある隈に気づくまでは。

 そしてしばらくして、やはりまた、ロア様は帰省しなくなった。

 もう一度手紙を出してしまったら、また帰ってくることを頼んだら、叶えてくれる人だからこそ、もう二度と手紙は出さなかった。

 その時に知ったのだ。努力して繋ぎ止めなければ、切れてしまう縁など何処にでも転がっているのだ、と。ロア様との縁は、僕が一生懸命繋ぎ止めなければ、相手に無理をさせなければ、切れてしまう類のものなのだ、と。

『また気が向いたら、手紙で近況を教えてくれると嬉しい。次に会うのを楽しみにしています』

 結びの文はそう綴られていた。

 思い出す度に開き直した手紙の隅はぼろぼろになってしまって、やがて手紙を見返すのも止めてしまった。

 

 

 

 翌日、夕方に近いくらいの時間に、こっそり王宮の裏門に集まるよう連絡があった。

 僕の参加を宰相閣下に相談したところ、落下地点に十分な緩衝材を用意すること、保険のための魔術を増やすことを条件に許可が下りた。

 念のため、昼には魔術学校にも連絡を入れたそうだが、魔術師の常識を持つ校長は、魔術式構築課と同じく『魔術師なら高所から落ちても死にはしない』と述べたそうだ。

 裏門に向かうと、魔術式構築課の面々と共に、技術交流を終えたばかりというウィズさんとシュタルさんの姿があった。馬車にはアンナが乗っており、別の課が管理している訓練場で予行練習をするのだと言う。

 馬車に乗っていたのは、アンナだけではなかった。

「三人!? シャルロッテだけじゃないんですね! 機体の形が違う! もしかして用途ごとに……!?」

「お目が高い! シャルロッテは護衛用ゴーレムなんだが、アンナは汎用性の高い機体でな。機体の強度をさほど重要視しなくても済むし、接合部に様々な機器を増設できるよう、設計が異なる。まずはこの指の形状なんだが……」

「ああ、いつもの発作だね。すまない、一旦止めるから」

 シュタルさんが僕とウィズさんの間に割って入り、続きは馬車で、と背を押し込まれた。

 ちぇー、と残念そうに発作を止められたウィズさんは話を切るが、馬車では僕の横に陣取り、指の形状が武器用の接合部か、汎用型の接合部かの違いを説明してくれる。少し離れた場所への移動だったが、道中何度も変わる話題に、飽きることはなかった。

 辿り着いた訓練場は、普段は防衛課が使っている場所だそうで、長物の武器等も使えるよう広々とした場所だった。

 シフさんが、訓練場を囲む塀の隅にある監視台を指差す。

「高さとしては、あの監視台の屋根より少し高いくらいだ。それ以上跳べるなら、あとは落下しつつ投げれば済む」

「ええと、余裕を持って高く跳んで、落ちつつロア様に向けて花束を投げればいいんですね」

 高さの目安……古びた塀のあるこの訓練場は、その点で練習に都合が良かったのだと言う。それにしても、魔術学校のそれよりも高い塀だった。昔に監獄があった場所だそうで、高い塀は訓練の機密性を保つため、そのまま残したとのことだ。

 本番では緩衝材が用意されるとはいえ、練習は地面の上で行われるようだ。特に何も用意されないのが、何とも魔術師らしい。

「そうだ。ミイくん、その魔力で不得意な訳もないだろうけど、ちょっと試しに跳んでもらっていいか? 着地も」

「はい」

 照れを誤魔化すように、すう、と長く息を吸う。周囲にその道の熟練者がいる中で、呪文を唱えるのは気恥ずかしい。

「地が空を産む。風は春を告げるが如く、その背を抱く。か弱き人の身よ、地に傷つくことなかれ」

「我は身体という轡を持つ。呪文という手綱を引く。我が脚は軽く。強く。雷鳴を運ぶが如く空を切る。仮初めの翼は、この一時、此処に宿る」

 とん、と足踏みをし、そのまま地を蹴って跳ね上がる。皆の頭が随分下に見える位まで飛び上がり、その場で風の毛布を展開した。

 ふよふよと浮きつつ地に着地すると、うん、とシフさんが頷いた。ぱちぱち、と気の抜けた拍手をしているのはウィズさんだ。

「悪くないなー」

「魔術学校の学生だろ。いい出来だよ」

 言葉を訂正したシュタルさんは、アンナに魔力を込めた。

「すぐに練習を始めても問題ないだろう。一度、ゴーレム達で跳ね上げてみようか」

 了解、と散っていった魔術式構築課の面々が、それぞれシャルロッテ、マグダレーネに魔力を込める。ゴーレム達は動き出し、僕とシフさんを囲むように立つ。

 シフさんがこちらに背を向けてしゃがみ込む。恐るおそるその背に覆い被さった。体重を預けると、シフさんがよろめく。

 慌てて飛び降りた。

「…………。まあ、シフそんなに体格良くないしなー」

「うっせ。強化魔術使えばいけるから!」

 ウィズさんの遠慮のない言葉に、シフさんがぎゃん、と噛みつく。滑らかな動きで、瞬く間に記述式の魔術を組み上げると、さらりと発動させた。

 もう一回、としゃがみ込まれ、そろそろと背に乗った。今度は問題なく立ち上がる。

「持ち上げてみて」

 三体のゴーレムの腕で足場を作り、その上にシフさんが乗り上がる。

「……あのさ。これ、跳ね上げる時、二体の方が安定するんじゃ…………」

「俺らがわざわざ来た意味ー」

「まあまあ。僕達は特別出演だから、いることに意味があるんだよ」

 結局、一番古くに作られたマグダレーネは腕を添えるだけのような形になりそうだったが、同時に腕を動かすことで遠目に見れば三体が協力して、という図が完成した。

 離れた場所では、数人が笑いを堪えている。

「じゃあ一回軽く跳んでみるか」

 シフさんは足場を確認し、息を吸い込む。

「風は春を告げるが如く、背を抱く。人の身よ、地に傷つくことなかれ」

「我は呪文という手綱を引く。我が脚は雷光を運ぶが如く、この一時、翼は此処に宿る」

 僕を背負ったまま助走を付け、足場を踏み込む。ぐん、と目線が下がると同時に力が掛かり、そのまま空中へ投げ出された。

 同時にゴーレムの手を蹴ったシフさんは、ぐんぐんと高所まで跳ね上がる。耳元を風が吹き抜けていく。

 一番高い場所に辿り着いたらしく、その後はふわふわと降り始めた。

 慌てて周囲を見渡すと、監視台の屋根よりも随分低い場所にいた。先程の話からすれば、まだ高度が足りない。

 すとん、と地面に降り立つと、シフさんは僕を降ろし、頬を掻いた。

「そっか。二人だもんな、思ったより飛べないな」

 困ったように手を当てている様子に、そろりと口を開く。

「……あの、提案なんですけど」

 手を伸ばし、シフさんの手を握る。

「僕が伴唱して、身体強化の効力を高めるのはどうでしょうか」

 勿論、息が合わなければ逆効果になりかねない。身体強化の魔術は特に術者と息が合うかが物を言う。

 けれど、王宮勤めの魔術師であるのなら、おそらく魔力のぶれの調整くらい、やってのける力量はあるだろう。その証拠に、目の前の青年はいい案だ、とでも言いたげに頷いている。

 できない、と彼は思ってはいないのだ。

「ミイくん。身体強化の魔術の伴唱は難しい」

「はい」

「間違いなく練習時間が増えるぞ。観光とかしたくないか?」

 いいえ、と手を繋いだ人を見つめ返した。

「その地に住んでいる人との触れ合いは、十分に観光だと思います」

 にい、とシフさんは笑って、僕の手を握り返した。魔力の波形を覚えろ、とでも言いたげに、軽く魔力が流れ込んでくる。

 それから先、シフさんは僕の魔力のぶれの調整をしようとはしなかった。

 寧ろ自分に合わせろとでも言うように、波形の正し方だけを指示してくる。最初は戸惑っていたが、何となく気づくことがあった。

 身体の筋に魔力を流し込むのだから、術者に沿う流し方のほうが効率がいい。シフさんが僕に合わせるよりも、僕がシフさんに合わせられたら、魔術は最高の状態となるのだ。成功率を上げるだとか、短時間で成功させるだとか、そういう目標は彼の中には無いようだった。

「もっと、高く跳ぼう」

 せーの、と調子を合わせる声が掠れ始めるまで、何度も、何度も跳び上がっては魔力の流し方を修正した。少し山に土を盛って、少し谷を削って、波打たせて、平らにして、不規則な相手の魔力に沿わせ、促す。

 日が暮れる頃には、魔力も息も切れていた。

 何度目か分からない跳躍の後、ふらり、と地面に倒れ込む。脚が、がくがくと震え始めた。

「おれも、もう限界」

 どさり、と横にシフさんが座り込む。まだ余裕がありそうな口振りだった。その気遣いに甘えながら、こくこくと頷いた。

 僕達の様子を見てか、歩いてくる姿があった。集中していて気づかなかったが、ずっと見られていたのかもしれない。

「ようシフ。終わったか?」

「おうトール。終わり終わり」

 トールと呼ばれた……赤毛が印象的な体格の良い男は、シャルロッテの状態を確認しつつ、シフさんの頭に手を伸ばした。わしわしと撫でられている姿は、体格差も相俟ってか、先程までとは打って変わって子どものようだ。

「初めまして、ミイくん。魔装課のトールだ。夕食の誘いに来た」

「夕食?」

 首を傾げると、トールさんはにやりと笑みを浮かべる。

「練習終わりだったら腹減るだろうし、学生なら金ないだろ。うちで飯食わないかと思ってな」

「おれもー!」

「……煩い先輩も一緒で悪いが」

 煩い、の形容に不満があるらしい先輩がきゃんきゃん吠えているのを横目に、その勢いに押されるように頷いた。

 学生の身ゆえ、お金がないのは確かだった。これだけ魔力を使った後だ。お腹も空いている。

「いいなー。俺も腹減ったんだよ」

「……来るか?」

 ちゃっかりとご相伴に与るつもりらしいウィズさんに、ついでに、とシュタルさんまで来ることになり、トールさんの家でお腹いっぱいになるまで、夕食をご馳走になった。

 椅子が足りず、床に布と料理を広げての食事ではあったが、次々に足される料理はどれも美味しく、話も尽きない。孤児院時代を思い出すような、話に話が被さり、話題が次々に飛ぶ場であったが、一生懸命、声を張った。声を上げて笑いもした。

 随分遅い時間までお世話になり、宿まで送ってもらった後は、全身に残る疲労感からすぐに布団に潜り込む。

 明日はもっと高く跳びたい、もっと魔術が上手くなりたい、ただそれだけを願いながら眠るのは、久しぶりのことだった。

 

 

 

▽7

 ◆

 ふと、隠し事の気配を感じるようになった。部下と、伴侶の二人に対してだ。

 質の悪いにおいは感じない、ただ、何らかの隠し事がそこにあることが分かるのだった。式典絡みの、おそらくは余興で、何かを目論んでいるのだろう。

 それは俺にとって悪くないことだろう、と信用はしている。ただ、寂しいだけだ。結婚後、自分の腕は思ったよりも広くなかったことを実感する日々である。

 日常的な業務の対応にかたかたと魔術機の釦を叩いていると、隣でシフが声を出した。こういう言葉は、大体俺に向けたものだ。

「代理って、実家の領地で教師やってたんですか?」

 モーリッツの内部事情。ウィズから聞いたのだろうか、と考えつつ、肯定する。

「……ああ。帰省すると、暇なら行って来い、って近くの孤児院に追い出されるんだ。生徒が集まれば授業をする。教える側が俺の親族だから、特別授業で、専門性が高いものが多い。でも、別に孤児院以外から聞きに来てもいいんだぞ」

「へえ。ずっと仕事と並行してやってたんですか?」

「まあな、ただ最近は忙しくて全然帰れてないな。いい魔術師になりそうで気になってた子もいたんだが、魔術学校に進学したらしくて、俺はお役御免になったし」

 また実家に帰ったらやるかな、とだけ答え、話題の意図を聞き返すことはしない。シフの手は完全に止まっており、俺が立てる打鍵音だけが響いていた。

「孤児院から魔術学校、は珍しいですよね?」

「俺の実家の領地以外では、珍しいだろうなあ。魔力が多い人間が生まれても、魔術学校に入れるまでの素養は必要だし、金もかかる」

「そんなに優秀な子だったんですか?」

「育ってる途中だったが、その時既に魔力が多かった。飲み込みが早くて、俺の言葉の意図を察するのが上手かったな。ただ、孤児だったこともあるのか……」

 ただ一点、あの少年の欠点を挙げるとするなら。呪文のきりのいいところで、一旦手を止める。かたん、と音が途切れた。

「押すか、引くか、の二択を与えると、絶対に引こうとする。それがずっと気がかりだった」

 俺とシフの視線は合っていなかった。それぞれが、手元の画面を見つめている。けれど耳は相手の言葉を拾おうとして、指先は音を立てることを止めている。

 ぴんと糸が張るようだった。相手を視線に入れていないからこそ、その僅かな動きで察することがある。

「何かを実行しないと、失敗であっても結果は知ることができない。引くことに慣れているのは、魔術師としては勿体ないな、って」

 知識を得られないこと、それを残念がる家風だったこともあり、少年の行動に気になる点は多かった。他の子よりも、無意識に声を掛けることが多かったかもしれない。依怙贔屓だったかもな、と静かな反省と共に息を吐き出す。

 ふふ、とシフは堪えきれないように笑いを漏らした。

「でも、もうしばらく会っていないんでしょう? もしかしたら、めちゃくちゃ行動派に育ってたりして」

 横を見ると、部下が俺に視線を向けていた。眉は上がっており、機嫌が良さそうに口元は緩んでいる。同じ表情を返すと、気分が浮上していくのが分かった。

「そうだな。……そう言われると気になってきた。手紙なんかは鬱陶しいだろうから、今度、実家経由で様子を聞いてみるかな」

「いいですね。おれたち大人ですから、付かず離れず、くらいでいかないと」

 隣の打鍵音が鳴り始める。会話の切り上げを察知して、俺もまた指先を動かし始めた。

 そこらの魔術師の名家の子息よりも、よほど魔術師の適性が高かった少年。幼げだった顔立ちは、少しは成長しているだろうか。魔術学校で勉強に躓いてはいないだろうか。

 一度、手紙の返事を書いたのだが、それから手紙が来ることはなかった。

 そういう時、なりふり構わず手紙を送ったりできないことが、大人の悲しいところだ。

 

 

 

▽8

 ◇

 昼は王都の図書館で伴唱について調べ物をして、空き時間には公園の隅で自主練をする。夕方になると、訓練場に通った。シフさんは律儀に毎日同じ時間に待っていた。

 ウィズさんやシュタルさんもそうだが、魔術式構築課の面々も律儀に同席しては、やいやいと賑やかしたり、たまに手伝ってみたりしている。

 当日は人混みで、音の響きが違うのでは、とエウテルさんとフナトさんが組んで、本番に近い遮音結界を張り始めたり、と、この数日間は目まぐるしいものだった。

 本番前日。ようやくこの日が来てしまった。

 どかりと座り込み、喉に手を当てた僕に、横から包みが差し出される。

「はい、どうぞ。喉にいい飴だよ」

 薄く黄色みを帯びた飴だった。礼を述べ、中身を口に含む。

「あ」

 止め損ねた、とでも言うようなシフさんの声が横から響いたのは、飴を舐め、その成分を飲み込んでしまった後だった。慌てて口内の飴を、頬袋の端に押し込む。

「吐くか? ヘルメスの飴は、たまに失敗するぞ」

 ぎょっと目を剥くと、失礼な、とヘルメスさんが腰に手を当てる。

「たまにしか失敗しないよ!」

 失敗するのか、そしてこの飴は自作か、とぐるぐると悩み始めた僕の肩を、すす、と近付いた手が叩く。振り返った先に居たのは、ツクモさんだった。

「………甘い……?」

「はい。甘いです」

「喉にいい……甘い草の根っこ……、乾かして、入れた。たくさんではない……大丈夫……」

 それだけ言って、用は済んだとばかりにすす、と引っ込んでいく。

「ツクモの知識なら、まあ失敗はないか。ヘルメス純正の食い物には気をつけろよ」

「失礼な!」

 ヘルメスさんが薬を作るのは趣味らしい。魔術師ながら、魔術を絡まない実験なども良く行うそうだ。

 たまに小規模に爆発するらしく、魔窟の称号に一役買っている。職場にも自作の薬を作ってくるそうだが、誰も飲みたがらないので、最近では料理に入れて持ってきては被害者を増やしている、とシフさんがぼやいた。

 対して、ツクモさんは古い魔術に造詣が深いようだが、同じく昔の知恵袋のような話をよく知っている。その知識によって作られた飴ならば安全だろう、とのことだった。

 飴自体は甘くて美味しく、のろのろと休憩がてら飴を舐めた。喉の奥のがさがさしていた場所に、しっとりと甘みが馴染んでいく。

「僕達だって、ミイくんの役に立ちたかったんだよ」

「…………、そう……です……」

 シフさんの前で、ヘルメスさんとツクモさんが並んで弁解している。僕なら許してしまいそうだったが、シフさんは容赦ない。

「で、お前らは食べたんだよな?」

「僕はいつも自分では飲まないことにしているよ。実験が止まるからね」

「…………食べた。……効いた」

 シフさんはツクモさんの肩をよくやった、とぽんぽん叩き、ばし、とヘルメスさんの頭を軽くひっぱたいた。手慣れている、流れるような動きだった。

 実験が止まるからねじゃねえよ仕事止まるわ、と怨嗟の声が低くシフさんの口から漏れ、ははは、とヘルメスさんは笑っている。長い付き合いではない僕でも、全く反省していないことが分かるものだなあ、と横顔を見つつ思った。

 ちらちらと様子を窺うツクモさんに、指で丸を作ってみせる。フードから覗くその口元が、少しばかり平らになった。

 よし、と力を入れて立ち上がり、シフさんに視線を送った。

「もう一回、やりましょう。まだ跳べます」

「よし、あと百回いくぞ」

「そうですねー。いけたらいきましょう」

 にい、と笑ってみせると、シフさんは目を見開き、ぐ、と腕を伸ばした。年若い魔術師の魔力量に付き合えるのだから、シフさんも大したものだ。

 魔力の全盛期は過ぎている歳のはずだが、呪文の質もさることながら、咄嗟の判断が抜群に上手い。今も僕の風の毛布が甘く、軽く笑いながら適度な補助が入った。

 ロア様の直属の部下と聞いたが、この人くらいしか下に残らなかったのかもしれない。

「「我は呪文という手綱を引く――」」

 来い、としゃがみ込む背は広く、何度乗っても越える想像はできない。

 ゴーレムに跳ね上げられ、ぐん、と暮れる空に身体が舞い上がる。髪は何度も頬を叩き、地への力から解き放たれる。視線の先には、いつも柔らかい金色が揺れている。

 汗のにおい、土のにおいを風が拭い去り、高く、高く。神しか届かぬ頂へと視線が上がっていく。当日は、この視線の先にロア様がいるのだ。

 忘れられていたら、驚かれもしなかったら、何度も悪い想像は頭を過り、その度にこうやって空へ身を躍らせる。

 ゴーレムに跳ね上げられるのも、誰かの背に乗って空を跳ぶのも初めてだ。高く空へ跳んだ時の景色を知った。そう言ったらロア様は喜んでくれるだろうか。

 

 

 

 いつ頃だったか、孤児院の宿題に困って、ロア様に相談したことがある。

 寒い季節の頃、いくら厚着をしても腹の底から凍えるようで、僕はたびたび、手のひらを擦り合わせた。

『将来の夢、の課題に困っていて……。ロア様の夢は何ですか?』

『はは。もう俺の歳じゃ既に将来だろ。そうだなあ』

 答えを既に得ているのか、すぐに彼の唇は開いた。唇の色を失いがちな季節ながら、その部分だけがやけに鮮やかに色付いていた。

『世界の全てを知りたい』

 彼の思う世界には、僕も含まれていただろうか。その場から、音が一瞬聞こえなくなった。

 指先を擦り合わせている姿に気づいたのか、温かい手のひらが冷えた指先を覆った。魔術を使うことなく、ただ皮膚を擦り合わせて、彼は熱を灯した。

 人に温めてもらう手のひらは、こんなにもあたたかい。

『死ぬまでに間に合いますか?』

 そう、茶化すように笑う。

『間に合うかもだろ』

『じゃあ、僕もそうします。二人なら、もっと早いですよ』

 立派な魔術師になることではなく、裕福になれる仕事に就くことでもなく、ただ、世界の全てを知ること、を夢として記した。

 

 

 日が長いこの時期であっても、やがて陽は落ちる。橙から薄墨へと、空は色を変えてしまう。

 それでも、例え何年経って、皆が変わってしまって、ロア様が夢を忘れてしまっても、きっと僕はあの温もりごと覚えている。

 

 

 

▽9

 ◆

 当日は朝早くの出勤になるため、朝からガウナーの乗る馬車に同乗させて貰うことにした。

 朝から一緒であること、に伴侶はご機嫌だ。秘密があるとしても、浮気の心配が無いことが一目で分かるのは、ガウナーの愛すべき美点だった。

 扉を開けてもらい、馬車に乗り込む寸前、ぶわりと大きな風が吹き、髪を巻き上げた。おっと、と髪を押さえる。

「勲章の授与がある時計台、高い場所なんだよな? 勲章が吹き飛ばないといいが」

 ぼすり、と座席に腰掛ける。ガウナーも隣に腰掛け、ぎゅっと俺の手を握った。

「そうだな。衣装もあまり乱れないと助かる」

 そろり、と探りつつ身体を近づけ、指先を絡める姿に、何となく部下の方が若くていいんじゃないか、と考えていた自分が馬鹿らしくなってくる。ぐい、と相手の肩に体重を掛けた。

「ガウナー、って、シフの顔好み?」

「…………は?」

 答えはわかっているだろう、とでも言いたげで、ただ問い返し、答える気は無さそうなガウナーに言葉を続ける。

「最近、なんかこそこそしてて、仲良いなーって思ってたから」

「……何だ。ルーカスの時のように、私はまた浮気を疑われていたのか?」

「浮気は疑ってないけど、何だろ。シフの方が若いし、可愛いし、捻くれてないしさ……」

 こつり、と横から頭がぶつかる。窘めるような軽い触れ方だった。

「君はシフよりも歳は上だけれど、その分私と歳は近いし、素直で愛らしいと思っているよ」

 ぶわ、と顔に血が上る。

 この男は本気でそう言っているのだ。勝手に部下の方がいいんじゃないかと邪推して、ぐるぐると悩んで、嫉妬で妙なことを言った自分に対して、まだ愛らしい、と。

 ずるずると滑り落ちるように、相手の肩と座席の間に顔を埋める。

「…………そうか」

「ああ。今日のこの会話は抜群だったな。頬にキスでも頂けると、更に愛らしく感じると思うのだが」

「抜群なら。もう、後押しは要らないだろ……」

 顔を上げる。申し訳ないことを言ったという自覚はあった。

 二の腕を掴み、座席から尻を浮かせる。眼鏡が当たらないよう頬に唇で触れると、ご機嫌そうな声が漏れた。既に疲れた、と俺はまた肩にもたれ掛かり、ガウナーは懐から取り出した手帳を開いた。

 手帳を覗き込むのは良くないか、と眼鏡を膝に置き、ゆるりと瞼を閉じる。

 やがて、少し眠ってしまったようだ。肩を揺らされ、気づいたときには、王宮に辿り着いていたらしい。

 目を開けると、少しぼやけた美形の顔が視界を独占した。

「ロア。よく眠れたかい?」

 寝起きの伴侶はいつも眩しい。眼鏡を掛けてその顔を見つめ直し、寝ぼけている振りをして堪能した後でこくりと頷く。良かった、と安心しているガウナーに促されるまま、馬車を降りた。

 腰を支えられ、魔術式構築課ではなく王宮に向かう。今回は王宮の中で服を着替えることになっている。仕事着がローブだからといって、式典までローブでの参加は許されなかった。

 衣装部屋に向かい、そこでお別れかと思ったが、ガウナーまで中に入って来た。疑問に思いながらも、少しの間付き合うのだろうか、とぼんやりと考える。

「おはようございます、ロア様」

 ふふ、と笑った顔馴染みの仕立師は、用意された二着の衣装の前に立っていた。一着は俺のものだろうが、もう一着は少し大きいのが分かる。

 す、と俺を追い越すように、ガウナーがもう一着の横に立った。

「実はな、式典での衣装は私のものと揃いになっているんだ」

 白を基調とした衣装は、さぞやガウナーに似合うだろう。そしてその二着は、対になるように設計されていた。細部は違うが、全体の意匠は二着とも共通している。

「今日、式典で国民に結婚の報告をしようと思っていてな。ああ、君が何をするということはなく、一言、宣言をするくらいのものだが」

「……それ、俺に黙っておく意味はあったのか?」

「衣装は、国王陛下からの贈り物だそうだ。元は結婚式用に案として出されたもので、採用はされなかったが、折角だから作って式典で着てしまえ、と。だから『贈り物というものは、当日、いきなり渡す方が驚くであろうな?』と言われてな……」

 ぽかんとしている俺を見て、驚かせすぎたか、とガウナーが視線を逸らす。

 白を基調とした衣装は、結婚式用と言われれば納得した。あきらかに、式典用にしては華美すぎるきらいがあったのだ。二着の衣装を見て、ふ、と口元を緩める。

「そっか。国王陛下からじゃ……着るしかないな」

「サウレは何度、結婚祝いを贈る気なのだろうな。ミャザの件も、ほぼ仕事だったのだから新婚旅行をやり直そう、と煩いし」

 そうなのか? と尋ねると、そうだ、と頷き返される。国王陛下は、従兄弟であり、旧友でもある宰相閣下の婚礼を全力で祝う心づもりのようだ。

「あれでいて、気にしているようでな。私がもっと早く君と結婚したい、と言い出せるほど国に余裕があれば、神託が降りるより早く結婚まで進んでいたのではないかと」

「……さあ、それはどうだろうな」

「私もそう言ったんだがな」

 真面目に返した俺に対して苦笑し、ガウナーは衣装を持ち上げた。

 お手伝いしましょう、と仕立師の助手がガウナーに付いて行き、俺は仕立師に手伝われながら服を着ることになる。細かい装飾が多く、着るのも大変で辟易したものだが、元は結婚式用というなら、これでもまだ地味な方かもしれない。

 ぱちり、と手首を留めると、鏡の前に立った。髪型も弄る予定だから、もう少し印象は違ってくるだろう。

 鏡台の前の椅子に座らせられ、顔の状態をぺたぺたと触れて確認される。

「ロア様は、肌質が良いですね。化粧は薄めにしましょう」

 肌を確認されていると、着替え終えたガウナーが歩いて来る。鏡越しに見た伴侶は、寝起きの時よりも数割増で眩しかった。

 すらりと長い手足は白い衣装を生かし切っており、どこぞの恋愛小説の王子のようだ。金に光る髪は梳き直され、更に艶やかな輝きを放っている。

 金、青、そして白。調和の取れた色合いは、殊更目を引く。

「……か、っこいいなぁ…………」

 つい言葉が漏れてしまった俺の横で、仕立師がぶんぶんと首を縦に振っている。だが我が伴侶は、いつものお決まりの台詞を吐くのだった。

「君の方が似合っている。普段は隠している君の魅力が、私以外にも分かってしまうのが心配だ」

 ぼとり、と仕立師の手から化粧筆が落ちた。そうだろう、そうだろうとも、と内心頷く。王子様然としたその衣装と美麗な顔立ち、そして台詞までもが本から抜け出てきたようだ。

 宰相閣下はこういう台詞を臆面もなく、本心で言うような性格なのだ。彼の目には、本気で俺が魅力的に見えているのだった。

 鏡を挟んで、視線を合わせる。

「……ありがとう」

 今日くらいは、べたべたに肌を塗られても構わない。きっとガウナーならば、その結果も褒めてくれるのだろうから。

 

 

▽10

 ◇

 本番の前日は眠れないものだと覚悟していたが、昨日はそんなこともなかった。

 最後の最後まで微調整を繰り返して疲れ切り、トールさんの美味しいご飯をお腹いっぱい食べ、宿に着いたら泥のように眠ってしまった。

 ぎょっとしながら起きて朝から身体を洗い、ぱしん、と両手で頬を打つ。

「魔力は十分」

 今日の朝は、他の人よりも多い魔力に感謝した。

 孤児院に預けられて以来、自分の出生を恵まれている、と感じたことはなかった。自分だけの家族に憧れていることも変わらない。それでも、間違いなくこの魔力は僕のものだ。

 昨日、当日用の服を貸し与えられていた。近衛魔術師用の、貸与品の中で一番小さい礼服だった。黒を基調としたそれは、風ではためくような部分を留められるよう、細かく釦が配置されている。布は厚く、歩いても脚に絡まない。

 鏡の前に立つと、数歳上になったように見えた。少し髪を整えていると、強張った顔が視界に入った。

 ぐ、と口の端を持ち上げる。ロア様の晴れ舞台に、緊張しきった顔で行くなんて失礼だ。

「ミイくんいますかー?」

「おはよう。もう起きてるかい?」

 だらりとした声と、ぴしりとした声が聞こえてくる。慌てて扉を開けると、同じく礼服姿の二人がいた。

 驚いたのはウィズさんの方で、目元にかかっていた前髪が……おそらくシュタルさんの手によって……左右に分かたれていた。覗く瞳は緑で、顔立ちは出会った頃のロア様にそっくりだった。

 髪に隠れて尚幼いと感じた印象は間違っていなかったらしく、礼服を着ていても僕と同年代と見られそうなほどだ。じい、と見つめていると、シュタルさんの背後に隠れられた。

 大きな身体の背後から、ちらちらと視線を向けてくる。

「そんなにじっくり見るなよー」

「すみません、髪あげてるのも珍しいな、と思って。似合ってますよ」

 そう言うと、またウィズさんはシュタルさんの背後に隠れた。

「ウィズ、僕も似合っていると思うよ。学生時代の君を思い出す」

「……何年前だそれ」

「さあ。でも君はずっと、あの時のままだ」

 二人はしばし見つめ合い、ウィズさんはふい、と視線を逸らす。耳が僅かに赤みを帯びていた。

 本人は照れを誤魔化すように、とことこと僕の所に歩いてくると、上から下までを一通り見る。

「まあ、素直でよく騙されそうな青年、って感じだな。似合ってる」

「うん。清潔感があって、それでいて背伸びしている感があって」

「……褒められてるんですよね」

 肩を落とすと、二人は褒めてる、と声を揃えた。おそらくだが魔術学校の入学当時から一緒なのであれば、こうやって気が合うようにもなるのだろう。

 二人が馬車の中でつまめるものを買ってきた、と言ったところで空腹を意識する。少しくらいは、胃にものを入れておいたほうがいいかもしれない。

 荷物らしい荷物もなく、二人に続いて宿屋を出る。ぶわりと風が吹き、髪を攫った。

 風くらいで跳躍の軌道がぶれるほど弱い身体強化ではない、と自身に言い含める。

「今日も乗り合い馬車じゃないんですか?」

「うん、まあ。厚意だから乗っとけ乗っとけ」

 馬車と共に待っていたのは、この間送ってくれた時と同じ人だ。人の良さそうな御者は、僕達を見て、よくお似合いです、と言った。

「ありがとうございます。あの、あの後、降りてから気づいたんですけど、馬車の側面。紋章の花が、国花で、この馬車は……」

 拙い言葉に対して、問いかけたいことを汲み取ったらしい御者は、その場で丁寧に一礼する。

「そういえば、前回は楽しそうにゴーレムの話をされていたので、自己紹介する機会もありませんでしたね。主人の、ガウナー様の命でお迎えに上がりました。ベレロ、と申します」

 ぽかん、と口を開いた。

「言ってなかったっけ?」

「宰相閣下の……ロア様の……おうちの、馬車……?」

 そうだと知っていれば、もう少し車内も興味深く見ていたものを、と頬に手を当てる。うああああ、と地から響くような声を漏らしている僕を、ベレロさんは苦笑しつつ馬車へ促した。

「いつもロア様が座られるのは、後ろの座席の奥側ですね。お隣にはよくガウナー様が座っていらっしゃいます」

「だってさミイくん。ロアの席、座っとけ」

「え、大丈夫ですか。ウィズさんは座りたくないんですか?」

「え? 大丈夫だけど。別に座りたくもない」

 そろそろとロア様の席に腰掛けると、前回の時より格段に座り心地がいいように感じた。思わず背を浮かせてしまう。

 前に座ったシュタルさんは、パンを頬張りながら第一部の資料に目を通している。

「そういえば、第一部もお二人は出演するんですよね?」

 貰った焼き菓子を片手に、前のめりに資料を覗き込むと、見やすいようこちらに傾けてくれる。やがて馬車が出発した。

「といっても、演武……こう、予め決めた型通りに組み合う形だね。お互いに拳を突き出す順序も部位も決まっているから、逆に間違えないようにするのが大変かな」

 シュタルさんは資料を手元に引き寄せると、再度確認を始めた。隣に座っているウィズさんは、我関せずというように車窓の外の景色を眺めている。自分も出演者の一人だろうに、随分様子が違う。

「ウィズさんは、演武は出ないんですか?」

「へ? 出るけど」

「予習はいいんですか?」

「ちゃんと覚えた」

 間違えることを想定していないような物言いに、シュタルさんに胡乱げな視線を向ける。予習させなくてもいいんだろうか、という確認のつもりだったが、シュタルさんは苦笑して首を振った。

「ウィズはちゃんと覚えているし、多分、アンナの操作を間違えることはないよ」

「へえ、案外真面目なんですね」

「真面目……そうだね。覚えるまでちゃんと読んで覚えるんだから、真面目ではあるだろうね」

 含みのありそうな言葉だったが、ウィズさんは窓の外を見ながら軽く菓子を囓るくらいで、その会話に口を挟もうとはしなかった。その瞳は偶にシュタルさんの姿を捉えていたが、彼が口を開き、声を掛けることはない。

 やがて広場の近くまで辿り着き、馬車はここまで、と僕達はベレロさんと別れた。最後まで律儀に頭を下げる姿に、乗り心地が良かったことを告げると、控えめな笑みと共に送り出してくれた。

 広場は第一部開演の準備が進められており、仮設された広い舞台の裏側には、魔術式構築課の面々の姿もあった。近くには数名、体格の良い者がいるが、トールさんを始め王宮の魔装課の人たちだ。

 広場は第一部の開演前だというのに多くの人が集まっており、例年の勲章授与式典はこのような大規模な式典であっただろうか、と疑問に思う。収穫祭でもあるかのような賑わいだった。

 広場の周囲には色鮮やかな出店も並んでおり、舞台の演し物がなくとも、皆それぞれが楽しんでいるようだ。

 僕達も舞台の裏側に回り込み、集まっている一団に挨拶をする。揃える気もなさそうにばらばらに返ってくる挨拶も、耳慣れたものだ。

「ミイくん、魔力の貯蔵は?」

「万全です!」

 よろしい、と近寄ってきたシフさんは、こちらを上から下まで見回して、何やら嬉しそうに頷いている。

「大人びて見える。かっこいいな」

 今日初めて褒められた気分だった。

 しばらく魔装課がゴーレムの調整をするのを見学させてもらったが、そろそろ始まる、とのことで舞台が見える位置まで移動する。

 相手をするのは防衛課、第二小隊の人々だそうだ。魔装課よりも、シュタルさんの体格に近い人が多いように見える。

 同じ制服を身につけたその隊は、隊長らしき人物の指示の元、整った動作で舞台袖に待機していた。

 舞台上に両者が登場して驚いたのは、シャルロッテと共に立っていたのがシュタルさんだったことだ。ウィズさんとウルカさんの二名はそれぞれアンナとマグダレーネの操作を担当するらしい。

 舞台の広さから、演武は一対一で行われるようだ。

 お互いに一礼したところで、どよめきと拍手が起きる。皆がゴーレムを指差しては、口元に手を当てていた。ミャザを除いては人目に触れることのないゴーレムが一礼する、それだけでも観客は驚いているようだ。

 最初のウルカさんは、ゴーレムの基本動作を見せることに終始していた。

 拳を繰り出す、蹴りを食らわせる、体当たりをする。ゴーレムという存在がどのようなものであるか、それらを実践を交えて紹介するような演目だった。

 途中でがこん、と頭が落ちた場面では驚いたが、胴体で相手を牽制した後、頭を拾い上げて自身で装着する。戸惑いを帯びた拍手が、広場の人々から湧き上がった。

 次のウィズさんの演目は、魔装と連携したものだ。アンナはウルカさんが見せた基本の動作で相手を牽制し、その背後からウィズさんが様々な魔装具で攻撃を加える。

 おそらく何をするかは伝わっており、防衛課の出演者は手順通りに躱しているのだろうが、攻撃の間はほとんどなく、前情報なしにこれに対応するのは難しいはずだ。

 ウィズさんが用意した魔装は派手に音や光が出るものが多く、茶目っ気たっぷりに面白おかしく攻撃を繰り出し、途中には観客に手を振って見せもする姿は、物珍しさからこれもまた観客……特に子ども達……には喜ばれていた。

 最後のシュタルさんは何をするのだろう、と疑問に思っていると、演武が始まった途端、自身も前に踏み出た。シャルロッテとシュタルさんの立ち位置は、横一線に並んでいた。

 シュタルさんの手番では、相手も二人だった。

 相手方の二人が踏み出たのは、ほぼ同時だ。揃って繰り出される二撃を、シャルロッテが脚部を大振りにして牽制する。

 二人が一歩引いたその隙に、一人に対してシュタルさんが突っ込んだ。その攻撃は受け止められるが、食い下がらずに一旦シャルロッテの背後に引く。

 お互いに相手の隙を埋めるように攻撃を繰り出すが、シュタルさんは打撃を加えると必ず引き、基本的に攻撃はゴーレムが組み、受けていた。

 遠くて声は聞こえないが、シュタルさんの指先や、口元は詠唱の形に動いている。操作自体もシュタルさんが行っているようだ。

 ゴーレムとの別行動を強みとしていたウィズさんとは違い、正確に間合いと隙を計っているシュタルさんは、防衛課らしい、戦闘に慣れた者の戦い方に見える。

 途端、シュタルさんが舞台から身を躍らせた。

 舞台と丁字になるように配置された通路は、開演前に通行を禁止されていた。観客の整理のためかと思っていたが、その場所すらも使うつもりだったらしい。

 シュタルさんが通路を駆け抜け、シャルロッテが彼を守るように後に続く。

 どっと観客が通路側に殺到し、僕は一瞬体勢を崩した。背後からトールさんに首根っこを掴まれ、シフさんと共に抱き支えられる。

 シュタルさんの演目は最終局面であったらしい。

 シャルロッテがシュタルさんを跳ね上げ、身を捻って相手の背後に着地したシュタルさんが、拳を相手の首すれすれに当てる。

 跳ね上がった高さは中々のもので、鍛えられた身体も勿論だが、魔術師としても優秀であることが窺えた。もう一人はシャルロッテが拘束し、宙に持ち上げる。

 どっと観客が沸き、大きな拍手と声援が、礼をしている出演者に投げかけられる。式典後にゴーレムとの交流の場を用意していることが伝えられると、ざわめきで場が更に盛り上がった。

 舞台から降りてきた出演者達は、近くにいた観客達に捕まろうとするのだが、それを上手くアンナやシャルロッテ、マグダレーネが壁になって躱していく。

 観客達もゴーレムに触れられるのなら、と気を悪くするでもなく、ひんやりとした身体をぺたぺたと触っていた。

 皆が舞台裏に戻ってくると同時に、僕達も人混みを縫って合流する。

「第一部お疲れ」

「無事終わって良かったよ。通路で人が手を伸ばしてくるものだから、あわや跳べないかと。……ありがとう、シャルロッテ」

 ウィズさんがシャルロッテの背後にとと、と回り込み、その背に手のひらで触れる。シャルロッテが動きだし、シュタルさんに指先を差し出した。

 シュタルさんは背後で顔を伏せているウィズさんをにやりと覗き込みながら、その手を取った。

 

 

 

▽11

 第二部までは少し時間があり、僕とシフさんは現地を見て回ることにした。

 実際に跳ぶ地点や時計台は事前に確認していたが、人が入ったことにより、確かに音が通りづらくなっている。

 ただ、その通りづらさ、はフナトさんが用意した遮音結界の結果と酷似していた。声の通りが練習の時と変わらない、その事実は僕を安心させる。

 周囲を見て回っていた僕達の耳に、強いざわめきが届いたのはその時だった。

「国王陛下!」

「宰相閣下だ」

「ロア様も」

 反射的に視線を向ける。王宮から到着したらしい国王陛下と同乗してきたらしい宰相閣下、その隣にはロア様もいた。

 目を見開く。

 ロア様の服は白を基調としたもので、普段着ている黒のローブ姿ではなかった。隣に立つ宰相閣下と対になったものらしく、縫われた鳥の翼の刺繍は並び立つと左右対称だ。手を振る民に対し、慣れた所作で振り返している。

 背筋の伸びた立ち姿は、宰相閣下の隣にあっても危なげない。色彩として目を引く伴侶とは対照的に、ロア様の生来のそれは相手の鮮やかさを引き立たせるための色だ。

 けれど、じっと見ている人間には、彼の色もまた目に優しく、誰を害そうともしない色であることが分かる。

 珍しく白の衣装を纏った姿は、普段よりも少しだけ前に出て見えているのだろう。ひそり、ひそり、と普段は表に出ない人を語る声が耳に届いた。

「ミイくん。折角だし驚かせたいから、トールの後ろに隠れて。見たいだろうけど」

 そう言われ、慌ててトールさんの背後に回り込む。僕の存在を皆が皆……何と宰相閣下ですら……ロア様に隠してきたようだ。僕は特に知られても構わない、と思っていたのだが、何故かシフさんは熱心に僕の存在を隠すよう暗躍していた。

「なんか今日、宰相閣下にこやかじゃない?」

「今日はずっと代理と仕事ですもん」

「そりゃあ笑みが零れもするか」

 魔術式構築課の面々は、宰相閣下についても平然とそう述べていた。普段ロア様絡みで関わることも多く、人柄もよく知っているようだ。

 ロア様は近衛に守られつつ、時計台に向かっていく。その背を見送り、そろそろ準備を始めるか、というシフさんの合図で、各自が動き始めた。

 用意されていた緩衝材を始め、使う品が荷車に載って運ばれてくる。

「投げる花束、これですか?」

「そう、投げやすいように茎は強めに縛ってもらった」

 もう少し派手なものを想像していたが、黄一色の花束に使われている花は小ぶりで、色も鮮やかではない。本来なら、別の花を引き立てるために使われるような花だった。

 シフさんは幾つかあるうち、一つの花束を持ち上げて軽く投げる。

「一応さ。本人に花束を貰うなら、何の花がいいか聞いたんだよ」

「……この花がいいっておっしゃったんですか?」

「いや。『今年、今の時期、収穫しすぎて花屋で余ってるような花』って」

 その言葉の意図を、察することができたのは偶然だった。モーリッツ一族に受けた特別授業、領主の重視している施策の話を聞いたときのことだ。普段からとにかく貴族は人目に触れる、だから彼らは、『その時期に売りたい物を使う』という話があった。

 食品、服飾、そして花。地元の製品の中で、売りたい物をただ使い、それを言葉に乗せる。そうやって売買の輪を加速させるのだそうだ。

「ロア様が受け取った花なら、みんな、欲しがるかもしれませんね」

 シフさんから受け取った花を、ぽんと空中に放る。

 強く固定されており、花束自体も投げやすいような形状になっている。花弁も強い種なのか、落ちることはなかった。あまり普段は注目されない花なのだろうが、丈夫なのはいいことだ。

 傍らで勲章が授与されるのを横目で見つつ、お互いの服を確認する。時計台の露台では、勲章授与の際に渡される賞状が少し風に浮き、国王陛下がさり気なく手で押さえる一幕があった。

『――この機会に、報告しておきたいことがある』

 一際大きな拍手の後で、魔術の起動の気配がした。拡声器越しに伝わる声は、宿屋で聞いたものと同じ声だった。

 宰相閣下の隣に立つロア様は勲章を胸元に付けており、滞りなく授与された後のようだ。そっと宰相閣下は半歩引いたその背を押し、自身と並び立たせる。 

『私は、ロアと結婚することになった』

 しん、と一瞬の沈黙。そして、拍手の音が爆ぜた。

 驚きと、歓喜。これを待っていた、と言わんばかりの大きな音だった。あ、と手元にあった裾を離し、僕も一緒に手を叩く。

 だから、揃いの衣装だったのだ。勲章の授与と共に、初めて結婚が本人の口から語られる場。ロア様にしては派手な服は、今、この一声のためのものだった。

「おめでとう!」

「おめでとうございます! 宰相閣下、ロア様!」

 誰からともなく、祝いの言葉が場を満たす。何も語らず、宰相閣下は観衆の祝いの声をしばらく静かに聞いていた。

 突然、ロア様が隣で笑いを零した。指先が宰相閣下のそれと絡み、ぎゅっと握られる。

『良き伴侶を得て、足元が踏み固められたような気持ちだ。より一層、励んでいきたいと思う』

 少しは休んでくださいね! と野次が飛び、周囲の人々から苦笑が漏れる。どうやら仕事好き、というのは民にはよく知られた話らしい。

 宰相閣下は拡声器を切り、休んでいるよ、と通る声で言い返した。ぱらぱらと笑いと拍手が続く。

 続いて、拡声器が宰相閣下の手からロア様に渡されようとするが、ロア様は首を振った。伸ばした指先が空中を跳ね回り、輪郭が金に煌めく文字が虚空に現出する。

 どっと場がどよめいた。

『皆さん、初めまして。ロアといいます。王宮で魔術師の職に就いています』

 拡声くらい魔術で。彼が魔術師であることがよく分かる演出だった。

『同じく良き伴侶を得て、魔術師として、皆さんの生活がより豊かになるよう努めます。これからお目にかかる機会が増えると思いますが、どうぞ、お手柔らかに』

 控えめな笑みに、野次が飛ぶことはなかった。整った拍手が長く続く。ロア様は軽く頭を下げ、宰相閣下に視線をやる。

 ロア様はこのまま下がる、と思っているのだろうが、いつの間にか、宰相閣下から国王陛下に拡声器が手渡されていた。

 堂々とした、びりりと背筋が伸びるような声は、宰相閣下の声とも、ロア様の声とも質が違っていた。

『祝いの花束を……と言いたいところだが、折角だ。普通に手渡しても面白くはあるまい』

 国王陛下の言葉が切れた。

 シフさんが合図を出す。露台の下に、広々と開けられた空間。その場にゴーレムが三機、緩衝材を持って進み出る。

 ゴーレムたちは大型の緩衝材を大きな腕でぼすん、ぼすん、と地面に投げる。続いて身を屈め、細かな動作で位置を整えだした。

『花束を渡すため、魔術学校より、魔術師として将来有望な若者が贈呈者として王都を訪れている。この者はロアとも縁深く――』

 おそらく僕のことを紹介している声も、耳には届かなくなった。目まぐるしい式典の中で、忘れていた恐れが首を擡げはじめる。

 ぎゅっと拳を握り締め、胸元に引き寄せる。呪文を思い出そうとして、そこだけが空白になった。何度も何度も、それこそ息をするように口に出した呪文なのに、僕は息の仕方を見失った。

 ちらり、と向けた先でシフさんと視線が合った。

 大丈夫だ、と視線で語ろうとしても、背を丸めた姿勢は緊張しきった者のそれだった。はっと彼は何かに気づいたようにして、迷うように頭を掻いた。

 シフさんは震えている僕の手を引く。僕とそう変わらない体格で、傾いで倒れ込んでくる身体を受け止めた。ぎゅう、と過剰なほど強く抱き締められる。

「シフ、さ……」

「分かるか。おれも緊張してる」

 普段よりも速い心臓の音。荒れた呼吸。僅かに震える腕。

「おれは、ずっと代理と一緒に仕事をしてきた。ずっとあの人が前にいて仕事をして、失敗したとしても、仕事としては全部あの人が終わらせてきた。王宮っていう国の中枢で、魔術的な困り事として投げ掛けられたものを、全部、終わらせられるくらいの人なんだ」

 だけど、と唸るように声は続く。

「あの人は、自分を愛さない。おれが何度評価したって、何も聞いてくれない。それはいい、最後までそうだった。でも、そんな人が、おれはずっと嫌いになれない」

 語る言葉に、こくり、こくりと頷く。心音は、近すぎてどちらのものか分からなくなった。

「でも、せめて、部下が全力で結婚を祝うくらい、あ、……愛されている人なんだって、あの人以外には知ってほしくて……」

 こつり、と額をぶつける。

「……だから、悪い。震えていようとも、なんだっていい。おれと飛んでくれ」

 身を預けるに足るほど、強い瞳だった。はい、と自身に言い含めるように口に出す。

「驚いてくれますかね、ロア様」

「驚かせるんだよ。おれ達で」

 僕が詰めていた息を吐き出したのを確認すると、シフさんは腕を引いて駆け出した。

 詠唱の前にこんなに走ったら、きっと息が切れる。でも、息はいつか整う。それよりも僕の心が、脚を踏み出さない方がきっと失敗なのだ。

 ゴーレムの周囲にはシュタルさん、ウィズさん、そして魔術式構築課も、魔装課も、多くの面々が前に出て控えている。人の前に出るのが苦手なツクモさんですらも、杖を手にそこにいる。

 きっと何かあったときは、全員で補助してくれるつもりなのだ。

「ミイくん、いけるか」

「はい」

 差し出された花束を持って、時計台を見上げる。

 高く、高く見上げる視線の先。辿り着くことはないだろう、と王都に来る前は思っていた。

 こちらを見下ろして、口を開けているロア様と視線が合った。『ミイミル』口の形がそう動いたように見えた。

 そう見えた。もう、それだけで十分だった。

「風は春を告げるが如く、背を抱く。人の身よ、地に傷つくことなかれ」

「「我は呪文という手綱を引く――」」

 手を伸ばし、シフさんと手を繋ぐ。呼吸を揃え、視線は相手だけを捉える。心音が混ざるような、あの濃密な接触を思い出す。

 相手の魔力の流れ、呼吸の間、それらを溶け込ませるように、まるで一人であるかのように、混ざる。

「「我が脚は軽く、強く。雷光を運ぶが如く空を切る。仮初めの翼は、この一時、此処に宿る」」

 魔術の起動にほう、と息を吐き、僕はシフさんの背に飛び乗った。シフさんはだっと駆けると、ゴーレムが作った射場に足を掛ける。

「気をつけて。いってらっしゃい!」

 誰からの声援だったか、判断すら付かなかった。ぐん、とシフさんの膝が曲がり、跳躍と、ゴーレムからの跳ね上げが同時に起きる。

 風を切り、僕達二人は空を飛んだ。煩く鳴る風が頬を叩き、髪を空気が浮かす。

 目の前の時計台の外壁は見る度に色を変え、階の境にある色が何度も何度も目に入る。高度は確実に増している。

 そして、その時が訪れた。

 目の前にロア様と、宰相閣下が一瞬映り、そして過ぎた。目を丸くしている姿に、爽快感が一気に訪れる。

「越えた」

 すぐにゆっくりとした落下が訪れた。僕は大きく振りかぶり、花束を投げる。

 ただ、その動作と、大きな風が一瞬吹いたのは同時だった。花束が風を受けたように揺れ、大きく軌道がぶれた。まだ、露台までは距離がある。

 届かない。

 軌道修正にもう一術、間に合うだろうか。僕が腕を動かすのと同時に、持ち上げたロア様の指先に、光が灯った。

 その文字には見覚えがあった。最初に僕が使った魔術。彼に導かれて指先に光を灯され、綴られた魔術だ。

「起動!」

 鋭い声が放たれ、露台よりも離れた位置に落ちかけた花束が、魔術で引き起こされた強い風によって浮き上がる。

 僕達が落ちていく中、入れ替わるように花束は高度を増す。引き起こされた風で、僕の前髪も僅かに浮き上がった。

 そして、露台から少し身を乗り出した長い腕によって、それが捕らえられるのを見た。黄色の花束を大事そうに抱え上げる金髪の彼の人を、視界に焼き付ける。

 呪文を唱えかけていた口をそっと閉じて、僕達は無言で、ふわふわとゆるやかに落ちていった。落下地点では、補助するようにいくつかの魔術が展開されており、緩衝材に、ぽすりと二人して着地する。

 しゃがみこんだシフさんの背から降りると、ぼすり、とその身体は緩衝材の上に倒れ込む。

 すわ体調不良か、と僕が顔を覗き込むと、その口から呻くような声が漏れた。

「……同時に強風か。……あー、絶対詰めが甘いって代理に言われる。自分が受け止めなかったら、とか言われるんだよこれー! 必要だったのは対流での相殺だろ? 分かってたさ。でも他の術者が展開するには時間も含め範囲が広い。おれがやるには高度が犠牲になる。あの一瞬だけ吹かなければって……」

 悔しい、と泣き笑いの表情で、シフさんは緩衝材の表面を叩いた。

 湧き上がってきたのは笑いだった。無意識の緊張、本番の高揚、耳に残る風を切る音と、花束を浮かせ、そしてしっかりと受け止めてくれた、あの一対。

「ねえ、シフさん。……でも僕、結果、受け取って貰えたし、ロア様よりも高く飛べたし、悪くなかったと思うんですよ」

 シフさんの瞳が僕を見た。

 彼の持つ空色の瞳は、僕と、その背後に広がる空を映している。空を本来の色のまま映す瞳は、ぱちり、ぱちりと瞬きをした。

「………………そうか?」

「はい。まあ、風がなければ普通に成功でしたし、失敗したらもう一回お願いします、って言えば良かったんですよね。予備の花束、ありましたし」

「あー。予備って、まあ、そういうことだよな」

 何回か試して、一度でも成功すれば、この場としては良しとする。その保険のための口上も用意されていたのだろう。

 僕はシフさんの腕を両手で引いて、立ち上がらせる。

「ミイミル! シフ! みんなも!」

 立ち上がった僕に向けて、降ってきた声に視線を上げる。やっぱり、変わらず覚えていてくれた。

「花束、ありがとうな! びっくりした!」

 露台の上から、子どものように大きく手を振るロア様に、僕達も手を振り返す。

「「おめでとうございます!」」

 ありがと、と照れたような声が、聞こえるかどうかという声量で耳に届く。

 横で花束を抱えている宰相閣下も、控えめに手を振ってくれた。ロア様に隠れて、色々と手を回してくれていた人、そして伴侶と共に国すらも背負う人に、僕は手を下ろし、その場で一礼する。

 やがて、拡声器越しに式の進行が告げられ、余韻もそこそこに僕達は慌てて撤収の準備を始めた。

 そうだ、と思いついて、余っている花束の元へ駆け寄る。何度失敗すると思われていたのだろう、という程の数の花束を腕一杯に抱え、観衆に近寄った。

「差し上げたものとお揃いの花束です。どなたか、受け取っていただけますか?」

 欲しい、と真っ先に手を挙げた人に花束を手渡していく。失敗せず、こうやって無駄にならなかったのは幸運だった。

 花束を受け取った人に、他の観衆が見せて見せて、と近寄っていく。

 お裾分けを得た幸運な人は、集まった観衆の中心で揉まれながら、困ったように、満足そうに、くしゃりと表情を崩した。

 

 

 

▽12

 勲章授与式の後、国王陛下が開いた宴への招待を受けた。服もそのままに、王宮内の大広間へ通される。

 多くの卓には色鮮やかな料理が並べられ、傍らには酒瓶が並ぶ卓もあった。魔術式構築課は一つの卓に皆が集まり、皿には大量の料理が盛られている。

「ミイくんおいで」

「ご飯だよー」

「いっぱいお食べ」

 今日の主役、とばかりに沢山の料理を並べられ、与えられるがまま腹に入れる。皆、食事をしているが、どうやら酒ではなく、茶や果汁を搾った飲料ばかりを口にしていた。

「……シフさん。お酒、飲まないんですか?」

「おれ、酔うと説教始めるからなあ。ミイくんが帰ったら飲むよ」

 ほらほら飲んで、と甘い飲み物を注ぐ年上相手に、はい、と両手でその親切を受ける。誰も彼もが飲んで、と飲み物を与えてくるので、満腹になると共にお腹がたぷたぷになった。

 大人の世界も大変だな、と甘味を取り分けに歩く。

「あ、今日の主役みっけ」

 その言葉に、びくりと背を跳ねさせる。おずおずと振り返ると、式典の服のまま、こちらに向けて手を振るロア様がいた。

 背後には宰相閣下がいるのだが、ロア様は気にすることなく近寄ってきて、手を引いた。

「飯、食べた?」

「はい。皆さんが食べろ食べろ、と差し出してくるので」

「はは、それなら良かった。……少しいいか?」

 大広間の外を指差すロア様に、こくりと頷く。

 腕は捕まえられたまま、歩くロア様の後を追った。宰相閣下はいってらっしゃい、とでも言うように、手をひらりと振る。

 廊下を抜け、王宮の庭園の中でも、石造りの噴水のある一角に導かれた。水はもう流れてはおらず、周囲は静かだった。

 ロア様は噴水のへりに腰掛け、手招きする。誘われるように隣に腰掛けた。

「改めて、久しぶり。会えて嬉しいよ、ミイミル」

 覗き込んでくる瞳の色は、昔に見慣れた色だった。

「僕も、会えて嬉しいです。ロア様」

 心からそう伝えると、嘘、とロア様は口に出す。

「うそ?」

「うん。だって手紙くれなかったし」

 拗ねたように唇を尖らせる姿は幼く、彼が茶化していることはすぐに分かる。手を振り、声を上げる。

「そんな! お忙しいかと思って」

「うん。知ってる。ミイミルも魔術学校に入って、忙しいんだろうなあって。学校は慣れた?」

 ずっと学校に通ってきた僕からすれば随分遅れた問いに思えるが、こういった話すらも僕達はできていなかったのだ。

「はい。授業は格段に難しくなったけど、孤児院での授業がたくさん枝分かれして、伸びていく先が見えました」

 自分の出生を恵まれていたとは感じない、なんて傲慢なことだった。自分にはずっと、彼の一族が教師、という、恵まれた環境があったのだ。

 ロア様の手が伸び、頭を撫でられる。昔から変わらない、頭を撫でることに慣れた者の所作だった。

「でも、勉強はしていても、実際にああいった場で魔術を使ったのは初めてでした。すこし準備は足りなかったけど、シフさんとの伴唱は上手くいったから、今回はそれでいいかな、って思います」

 辛うじての成功、と称してもいいのだろう。それでもこれは、失敗、だ。

 足を踏み出さなければ、失敗は呼ばない。けれど、あの時得たものを捨てるくらいなら、今日の失敗を経験しない道を選べたとして、僕はもう一度失敗する道を歩く。

「ミイミル。昔さ、夢、決めただろ」

「覚えてたんですか?」

「そりゃ、覚えてるよ。寒かったし」

 自分は、本当にロア様を信用していなかったらしい。この恩師は、あんな何気ない言葉の一つまで、記憶に留めてくれていた。

「あの時、ミイミルがこれからたくさんのことに挑戦してくれたらな、って思ってたんだ」

「はい。あの頃は、僕、引っ込み思案でしたもんね」

 今も然程変わってはいないのだが、恩師を追って王都に来るようにはなった。けれど、押すのか、引くのか、あの時に越えた衝動の境界は、未だにはっきりとは思い出せない。

「ロア様は、あれから『将来の夢』変わりましたか?」

「うん」

 淀みなく、そう言い切った。

 そうか、と僅かな寂しさに、気づかれないよう顔を伏せる。それでも、彼がかつてあった夢を覚えてくれていたのなら、それで良かった。

「世界の全てを知りたい、のと――」

 末尾に付け加えられた言葉に、ん? と顔を上げる。

「最近、結婚したんだけどさ」

 風が吹いた。目の前にいる人は、頬杖を突き、照れたように視線を逸らした。

「相手……ガウナーを、俺がずっと守りたい、って思ってる。だから、それが将来の夢」

 夢が変わった訳でも、共有した夢を忘れられた訳でもなかった。ただこの人は、離れていた間に、夢を増やしていた。

 黙っていると、ロア様は恥ずかしいことを言っただろうか、とうろたえ始める。くくく、と笑みを噛み殺し、口元に手を当てた。

「すいません。ふふ、……宰相閣下を守るのは、僕、お手伝いできませんね」

「ん。でも、世界の全てを知るのは、手伝ってくれるんだろ? 空を飛ぶの、どうだった?」

 答えなんて決まっている。

「最高でした」

 その答えに、ロア様は満足げだった。きっと何を言おうとも、この人は喜んだのだろう。

「でも、僕も夢、増えたんですよ」

「え?」

 何、と不思議そうに尋ねられる。耳には大広間の喧噪が聞こえてきた。あの中で騒いでいるであろう面々を脳裏に思い浮かべ、口を開く。

「いつか、王宮で働きたいです。今回お世話になった人たちの、助けになりたい。……もし叶ったら、僕もロア様を『代理』って呼べるんですよ」

 首を傾げてみせると、大きな腕が広がり、背後に回る。うん、と耳元で頷く声は、少し涙声だった。

 いつも笑ってばかりだった恩師が案外泣き虫だということを、僕はその日初めて知った。

 

 

 ◆

 

 

 ミイミルとの別れはすぐに訪れた。

 転移魔術式の使用申請を式典の翌日に設定していたらしく、翌日お茶でも、すら叶わずに慌ただしく出立することになった。

 突然会いに来て、急に花束をぶん投げてきた、彼らしい別れ方だった。

「そうだ。ガウナーが、今度の長期休暇に、うちに滞在するのはどうか、って」

「は!? あ、はい! 是非!」

「悪い。これ社交辞令とかじゃなく、ガウナーは本気で言ってるから、忙しいなら来ない、で、来たければ来てくれると……」

 申し訳なさそうに言うと、ミイミルは目を瞠り、はい、と素直に返事をする。

「是非来たいので、お邪魔します。今度は、たくさん魔術のお話を聞かせてください」

 新しい住所は書いて押し付けた、次の約束も取り付けた。ミイミルの背後にはベレロが控えており、少ない荷物を積み終えたところだった。

 以前よりも、少し大きくなった生徒と向かい合う。

「またな」

「はい、ロア様。また」

 生徒はそう言って大きく手を振り、元の生活に戻っていった。

 シフを始め、皆が皆、長い蘊蓄を聞いてくれる素直な生徒が居なくなったことを残念がっていた。長期休暇には会わせてやりたいものだ。

 ミイミルがくれた花束のうち、一輪はガウナーの手によって押し花にされて手元に残ったが、残りは自然と萎れてしまった。同じ花を買ってこようとしたそうだが、今では品薄になっているようで、押し花に面影を残すばかりだ。

 本の栞に加工されたそれを、お互いに有難く共用している。

 

 

 俺が栞を見て、ミイミルのことを語ると、ガウナーはこう言うのだ。

「君が他の人間のことを好ましく語っていると、確かに妬けるな」

 そう言われる度に寄り添って、一途に想っていることを伝えている。案外、嫉妬深さはお互い様なのかもしれない。

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