白夜の盗撮騒動も落ち着き、家も親戚の伝手で決まって引っ越しを終えた頃、彼は世話になった礼に、と手土産を持って動物プロダクションを訪れた。
空室だった撮影ルームを借り、龍屋を呼ぶと花苗まで一緒に付いてきた。折角なので挨拶をしたい、と思ったそうだ。
花苗は更衣室に入っていくと、猫になって俺達の前に姿を現した。ペルシャ猫の中でも薄い毛色の花苗の猫姿は、どこぞのアイドルかと思わせるほど整っている。
『こんにちは!』
白夜が手を伸ばすと、撫でやすいように頭を下げる。喉を撫でられると、ごろごろとその指に喉を当てていた。
猫姿とはいえ、飼い主が奪われているのは癪に障る。花苗と同じように更衣室に入ると、犬の姿に転じて撮影ルームへ戻った。
扉が開くなり、白夜と花苗の間に割って入る。
『俺の方が毛艶いいし!』
『僕の毛だって成海がいっつもお手入れしてくれるもん』
がば、と前脚を持ち上げた花苗に、同じように立ち上がっては空中戦を繰り広げる。
ぱしぱしと互いに長くない脚でヒットアンドアウェイを繰り返し、二人して縺れる。おりゃ、と体重を掛けるも、さほど差のない体格でばたつかれ撥ね除けられた。暴れる所為で毛が飛ぶが、夢中で部屋中をごろんごろんと転がる。
体格差が大きくない所為か、遊び相手としては悪くない。互いの毛並みを尊重しつつも、トップスピードで駆け回った。
ぜえはあと息をついて身を起こした時、互いの恋人達は唇を持ち上げて見守っていた。
それぞれの飼い主の元へとぼとぼ戻る。白夜の膝の上にぽてんと横になると、慣れた手つきで背を撫でられた。
「折角の毛並みがぼさぼさだよ」
『いいだろ別に。またブラシしてくれ』
龍屋も花苗の背を撫でる。手のひらを柔らかな毛に埋めては、綺麗に整え直していた。白夜は手土産を持ち上げると、テーブルの上に中身を出す。
パッケージには犬と猫のイラストが描かれていた。
「『わんにゃんクッキー』……?」
商品名を読み上げた龍屋の表情に、戸惑いの色が浮かぶ。
「人間用もあるよ」
白夜は一緒に買ってきた缶コーヒーを龍屋に手渡し、カシ、とプルタブを引いた。
龍屋はわんにゃんクッキーの包みを開くと、中身のクッキーを花苗の鼻先に寄せる。見た目だけなら優雅な猫は、ちいさな口を開け、かぷりとクッキーを噛んだ。
シャクシャクと咀嚼音がする。
『おいしい!』
もっと、と肉球をぽてぽて当てながら催促する花苗に、龍屋はパッケージの裏面を見て、与えていい量を確認している。
特殊な一族ゆえ、別に食べ過ぎたとて影響はなにもないのだが、あちらの飼い主は几帳面なようだ。
俺は白夜を見上げ、自分にもくれと視線で促した。
「友くんも欲しいみたいだから、何枚かくれるかな?」
「はい。どうぞ」
龍屋は三枚ぶん白夜に手渡し、手渡されたクッキーは俺の鼻先に寄せられる。犬の嗅覚にとって、美味しそうな匂いがした。
食欲に負けてガァ、と口を開け、がぶりと齧り付く。ぼろぼろとクッキーの屑が零れた。
「うちの子、食欲旺盛なんだよなぁ……」
白夜がうぅん、と首を傾げ、こぼれた屑を拾う。丁寧に取り出したティッシュの上に載せると、俺ががぶがぶとやって散らかす度に片付けていく。
親指が俺の口の横を拭った。
「ついてるよ」
『…………』
多数のファンがされたいであろうその仕草は、贅沢にも、ちまっこくてクッキーをぼろぼろ零すポメラニアンに向けて行われている。
申し訳なく思いながら、大人しく世話を焼かれた。構造上、この小さな口と短い舌は器用に食べることが難しい。
「玲音がこんなに食いつくのは珍しいな……」
龍屋は興味深そうに、もごもごしている花苗を見つめる。普段ならすぐに飽きるのだが、このクッキーは猫の味覚でも美味しいようだ。龍屋が戯れにクッキーを持ち上げると、後ろ脚で支えたまま前脚を挙げる。
シュッシュッと獲物を狩る猫パンチが空を切った。
『猫こっわ……』
鋭い爪の破壊力は犬にはなく、伸び出た爪に肝が冷える。ころん、と白夜の太腿の上で寝っ転がると、口元にクッキーが押し付けられた。
ぐうたらしたまま、美味しい食べ物を囓る。
「これくらいにしておこうか。その小さい身体だしね」
最後に口周りを拭ってもらうと、俺と花苗はペットドアから外に出て、更衣室で人の姿に戻った。裸を見せるのに抵抗がないのか、花苗は服を着替えながらだらだらとクッキーが美味しかった話をする。
はいはい、と適当に返事をして、手早く服を着た。背に残っている痕を教えてやろうかと思ったが、言って得することもないのでやめておく。
二人で元いた部屋に戻り、俺は白夜の隣に腰掛ける。
「ただいま」
「おかえり」
白夜は人間用、と取り上げたクッキーを開ける。俺は余っていたコーヒー缶を持ち上げ、プルタブを引いた。
ふと花苗に視線をやると、龍屋の膝の上に乗り、胸元に頬を押し当てていた。ごっ、とコーヒーを噴くのを堪え、必死に飲み込む。
「花苗、なにやってんだよ」
「えー? なに?」
「何いちゃついてんだって話」
「だって、成海に食べさせて欲しいんだもん。クッキー」
食べさせて欲しくとも膝の上に乗る必要はないのだが、唖然として言葉を失った。龍屋は照れくさそうだが、膝上の花苗を降ろす様子はない。飼い猫に甘いにも程がある。
助けを求めて白夜に視線をやると、自らの太腿を叩いた。
「友くんも来たら?」
「はぁ!?」
「食べさせたげる」
膝の上に乗って手ずから菓子を食え、と言うのか。俺が頭を抱えると、目の前のその人は嬉しそうにこちらを見返した。
「……今は犬じゃないし」
「流石に、犬と人を間違えたりはしないかな。『おいで』」
すっと落ち着いた声の響きに、びくりと身体を震わせる。命令を与えられて、それを叶えること。自分にとって最上の喜びが耳の後ろを擽る。
じわじわと距離を詰め、肩に寄り掛かった。回った腕が白夜へ、つよく引き寄せる。
「まあ、今日はこれくらいにしておこうか」
「……助かった…………」
家ならともかく、友人の前で膝の上に乗る度胸はまだない。目の前の花苗は龍屋の首に腕を回し、いちゃいちゃいちゃいちゃと戯れている。
大振りのクッキーが持ち上げられ、口元に運ばれる。犬の時ほど零すことなく囓り、大人しく咀嚼した。
「しおらしくなっちゃって」
「何だろうな……犬の姿なら別になんともないんだけど」
付き合いたての恋人との触れ合いなんて、まだ人に見せるのは気恥ずかしい。
目の前でクッキーを食べさせあいっこしているカップルも、目に入れないよう逸らす。だが、花苗がクッキーを咥え、ん、と龍屋に向けて突き出すに至ると、流石にあああ、と身悶えた。
俺の様子を見て、白夜はくつくつと笑っている。
「友くんもやろっか」
白夜がクッキーを咥え、こちらに突き出してくる。唇をわななかせ、背を逃がそうとする。だが、抱かれた肩ごと引き寄せられる。
案外ちからが強い白夜を、力任せに振り解けなかった。
「ん」
催促の声が上がる。諦めて反対側に噛み付き、一口だけ囓って離れた。恋人は残ったクッキーを指で押さえると、サクサクと口の中に収めてしまう。
艶やかな唇の端は上がっていて、楽しかったことが丸わかりだ。
「今度はもっと細長いお菓子を買ってくるね」
「要らない」
「遠慮しないの」
「してない」
目の前はまだ甘ったるく、手を伸ばしたコーヒー缶に口を付ける。苦い液体が流れ込んでくるのだが、この場にはそれくらいでちょうど良かった。