一兎を想う飼い主は一兎を得る

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※作中には『長く一緒に暮らした動物と死別した人物』が主要な立場(攻)で登場します。同様の経験をされた方は、必要と感じられるだけの自衛をお願いいたします。

※作中に登場する曲名は架空のものであり、同名の曲が実在するとしても、一切の関係はありません。

 

【人物】
長ヶ耳 美月(ながみ みつき)
久摩 宵知(ひさま よいち)

龍屋(たつや): 蛇神からの強い加護がある、純粋な人間
花苗(かなえ): 猫の魂を持つ一族
戌澄(いぬずみ) : 犬の魂を持つ一族
瓜生(うりゅう) : 狐の魂を持つ一族
立貫(たてぬき) : 狸の魂を持つ一族


 

 

▽1

 所属している動物プロダクションには、時おり妙な依頼が舞い込む。

 最近は、犬が苦手な芸能人が克服のために触れ合いたいだとかで、ポメラニアンが依頼に応じていたそうだ。

 そういった妙な案件は、大抵が『動物の魂を持つ一族』が引き受けることになる。

 当たり前のことながら、動物と人との間で、人と人とのように言語を必要とするコミュニケーションは図れない。

 なのに、妙な依頼というものは、大抵その手の細かな連携が必要な依頼ばかりだ。

 だから、人でありながら動物の魂を持ち、動物の形を取ることができる者が依頼を請けることになる。

 大抵、こういった依頼をプロダクションが断れずに引き受けてきた場合、相手が大物だ。今回は、著名な作曲家なのだという。

 久摩宵知。独特な歌詞の語感と繊細な音作りを得意とする、と所属音楽事務所の人物紹介欄に書かれていた。

「────どうやら、長ヶ耳さんの兎姿が、依頼人の方が以前飼っていたウサギとそっくりなんだそうです」

 依頼の説明に、と呼び出されたのは、プロダクション社内の会議室だった。

 打ち合わせ用の椅子と移動可能な机を並べ、閉め切った部屋にはエアコンの動作音だけが響いている。

 龍屋、という動物プロダクションのスタッフは、向かい合うように椅子に腰掛け、書類を広げつつ説明を続ける。

 顔立ちは悪くないが、表情の動きが少ない。ドスの利いた声でも出されれば縮み上がってしまいそうな人物だった。

 彼はまだ大学生で、アルバイトの身分だと聞いている。それにしては様々な仕事に借り出されており、将来的には社員になりそうだ。

「……ええ、と。その。ウサギ、は存命では、ない……?」

「はい。一年くらい前に亡くされたと伺っています。学生時代にたっての希望で迎え入れてから長く過ごされ、大事にされていたそうです」

「はぁ……。それで気落ちして回復しないので、似たウサギを探していた、と」

 資料として渡された紙を見下ろす。

 時給は破格で、動物プロダクションの単価の二倍はある。まずは会ってみて、問題ないようなら、それから週に数日、三時間程度を一緒に過ごす。

「著名な方ですし、事情を聞く限り問題ないとは思うのですが、相手方が、ご自宅に招きたいそうで……」

「あぁ、それは。普通のウサギのタレントさんには、任せづらいですね」

「ええ。一対一で、相手の自宅で、となると、ウサギも慣れない場所でストレスになるでしょうし……」

 そう言った龍屋さんの視線が泳いだ。

 私だって見知らぬ場所に行くことはストレスである。申し訳なさを感じているようだ。

 作り笑いを浮かべ、大丈夫ですよ、と告げる。

「私はほら。人として思考できますし、タッパもありますから。嫌なことをされたら、人に戻ります」

 自分の頭の位置に手のひらを添え、水平に持ち上げてみせる。

 男性の平均身長から数センチ高い私の体格は、兎の一族からすれば珍しい存在だ。

 筋肉がある訳でもなく、細くてひょろりとした体格ではある。それでも、ちいさなウサギを向かわせるよりも安心安全だ。

「あと、相手方は『動物の魂を持つ一族』の存在をご存じでした」

「え!?」

「普通のウサギを長時間見知らぬ場所に置くのは気後れするので、長ヶ耳さんの兎姿に似た『動物の魂を持つ一族』が所属しているのならそっちの方がいい、と話されていました。ただ、長ヶ耳さん自身が『動物の魂を持つ一族』ですので」

「今回は、私以外ないでしょうね……。成る程」

 再度、ゆっくりと書類の条件欄に目を通し、抜けがないかを確認する。

 読み終えると顔を上げ、頷いた。

「お引き受けします。相手方が一族のことを知っているのなら、私が一族の人間だと明かしても構いません。世間に名の知れた人なら、それが抑止力になるでしょうから」

「ありがとうございます。直近で、依頼人から訪問日の希望も伺っています。……とはいっても、なる早が希望で、相手は仕事を休業中のようです」

「へえ、知らなかったです。最近まで、活動縮小気味とはいえ作品を発表されていたみたいなので」

 とはいえ、ああいった仕事は完成から発表までに時間があるものだろうか。休業の影響が出てくるのは寧ろこれから、と思い直し、自分の予定表を開いた。

 撮影の予定以外はまっさらな予定表と、相手の予定を擦り合わせ、直近の日付を指示する。会社勤めの人ではなく、平日も候補に入るのが有り難かった。

 龍屋さんから承諾の連絡を入れてくれる、とのことで、相手の自宅住所が渡される。住宅地が多く、利便性の高い駅もある暮らしやすい地域だ。

 当然、地価も高いのだが、書かれた住所から察するに一軒家のようだった。

「じゃあ、指定した時間にこの住所へお伺いします」

「よろしくお願いします。当日は俺は事務所にいますので、何かあったら連絡をください」

「はい。助かります」

 依頼に付随する細かな説明を終えると、はあ、と龍屋さんは息を吐く。

 どうやら疲れている様子に、気になって口を開いた。

「最近、お仕事多いんですか?」

「ああ、すみません。最近、こういった単価は高いものの厄介な案件が増えていて。一族からの所属者も増えているので、対応自体は可能なんですが。相手の地位も高かったり、と」

「そうですよね。蔑ろにしていい相手なら、断りやすいですし」

「はい。芸能人とか、社長とか、今回みたいな作曲家とか。金払いがいい相手って地位もある方が多く、断る際も一苦労です」

 依頼を受ける私のようなタレントより、仲介するスタッフのほうが細かな仕事をしているものだ。

 渡された資料には、タレントを保護するために交渉した記録が残っている。

「そういえば、今回の依頼人、『動物の魂を持つ一族』のことを知っている、って何かあるんですか?」

「ああ。おそらく、俺と同じで、特定の動物神から加護を受けている家系なんだと思います。会話をしている間、妙に落ち着きませんでした」

「……龍屋さんは、蛇神の加護を受けているんでしたよね。あぁ、じゃあ。名字から推測するに、熊とかでしょうか?」

 動物プロダクション内にも、動物に由来する名字は多い。久摩、という文字の読みを変えれば動物を特定するのは容易かった。

「おそらく。祖先は西欧の出だそうで、ご本人の身長もかなり高い方なんですよ」

 私よりも長身であろう、と添えられた言葉に驚いてしまったし、そんな人間が小さなウサギを亡くして消沈している、という事実にも興味を惹かれてしまった。

 私は丁寧に住所の書かれた紙を折りたたみ、鞄に仕舞う。

「熊からしたら兎なんて、どう考えても食べ物ですね」

「依頼人は、『ヒト科ヒト属』です」

 冗談だったのだが、真面目に言い含める龍屋さんの渋い顔につい笑ってしまった。

 

 

 

 約束の日、少し早めに最寄り駅まで移動し、調べておいた地図を見ながら見知らぬ街を歩いた。

 新しい街並みは、造成時から全体がコーディネートされているようで、家や道に統一感がある。土地を買うだけでも値が張りそうだが、依頼人である久摩さんの自宅は一軒家だ。

 メインが一部屋しかない自身の賃貸マンションを思い出し、長い息を吐いた。

「作曲家って儲かるんだなぁ」

 羨ましくない、と言えば嘘になるが、嫉妬とはまた違う。

 自分には、作曲などという習得に時間のかかる特技はない。

 大学を卒業後、就職した会社は馴染めずに直ぐ辞めてしまった。

 唯一、兎姿が可愛らしいことを利用してタレントとして働いてはいるが、技術が身についている気配もない。

 だからこそ、世間に認められる技術を持つ人物が停滞する程の哀しみが、こんなに何も出来ない兎で癒えるのか不安になってくる。

「ここ、かな」

 塀は高く、庭の様子は外から窺えない。

 出入り口らしき門の前に立っても、内部との繋がりはインターホンくらいしかなかった。恐るおそるボタンを押す。肩に変な力が籠もった。

 がさがさと音がして、マイク越しの声がする。

『はい』

 低く、短い声だった。通話を終わらせられる前に、慌てて口を開く。

「こんにちは。ご依頼を頂いてお伺いしました、長ヶ耳といいます」

 言うやいなや、またガサガサと音がして声が途切れた。

 唐突に通話が終わってしまい、私はぽかんとその場に立ち尽くす。帰った方がいいか、と不安になりかけた時、足音が耳に届いた。

 カシャン、と解錠音が響く。

「久摩さん、ですか?」

「ああ。……はい」

 龍屋さんが、長身、と称したのも頷ける。彼は平均身長よりも高い私より、更に長身だった。

 更には、目鼻立ちがはっきりしている上に髪色も赤茶っぽく、根元だけ色が抜けている様子もない。地毛なんだろうな、と勝手に想像する。

「お話は聞いていると思うんですが、私が兎で……」

「あぁ……。あまり外でしないほうがいい話だと思うので。まず、中に」

 ずっしりと重く、低い声は威圧されているようだ。こくりと頷き、促されるままに門の中に入る。

 庭は人工芝とコンクリートで塗り固められている。エクステリアにも統一感があり、整った庭に思えるが、これ以上、庭造りをするつもりは無さそうだ。

 一人暮らしで多忙であろう生活を思えば、妥当な選択であるように思う。

「どうぞ」

 扉を開け、言葉少なに家に招かれる。

 建ててから然程年数が経っていないように思える家は、無機質が過ぎるというほど物がない。モデルルームをそのまま使っているかのようで、薄ら寒く感じる程だった。

 玄関は主に白で統一されており、鍵置き場らしき場所に、自宅の鍵がぽつんと置かれているだけだ。

 近くにある姿見に、私の姿が映った。

 髪色は、兎の姿と同じで、柔らかくて彩度の低いココア……土色をしている。目鼻立ちは薄く、彼を洋と例えるならこちらは和だ。印象が強いと言われた例しがない。

 贅肉はないが、筋肉もあると言えない身体を長い灰色のコートが覆っていた。

「お邪魔します」

 靴を脱ぐと、来客用らしきスリッパを差し出される。

 足を通すが、そのスリッパでさえ真新しかった。人の出入りは多くないようだ。

 一人暮らしには広すぎる家は、廊下も長く伸びている。不安を抱えながら、ひたすら彼の背についていった。

 案内されたのはリビングらしき部屋だった。開放感があり、広々としている。……はずの場所だが、照明はあれど、カーテンが閉め切られている。

 久摩さんの手が、壁に備え付けられているパネルを操作する。カーテンが中央から動き出し、両側に寄った。

「お茶を淹れてきます」

 私の返事を待たずに、彼は台所に向かっていってしまった。

 近くにあるソファに腰掛けさせてもらい、周囲を見渡す。壁際にはレコードが数枚と、絵画が飾られている。

 その周辺にはキャビネットが置かれ、写真立てがあった。こちらを見るウサギの写真だ。

 耳が短く、柔らかい茶色と、小さくて丸い胴体をしたウサギが毛布に包まっている。亡くした、と話に聞いたウサギを生前に撮った写真なのだろう。

 驚いたのは、話に聞いていた通り、私の兎姿とそっくりだったことだ。

 薄い茶色のウサギは数多くいるが、私の兎姿は頭の天辺が少し濃い。そして、耳の長さや顔立ち、胴の丸っこさもよく似ている。

 よくも私の存在を見つけたものだ、と感心した。執念とでも呼べるものだろうか。

「────お待たせしました」

 身体を伸ばし、写真に見入っていると、背後から声が掛けられる。

 コースターの上にカップが置かれ、小皿の上に載った焼き菓子が添えられた。取っ手は私が握りやすい位置に整えられる。

 彼は自分の飲み物の用意を終えると、エル字型に配置されたソファの少し離れた位置へ腰を下ろす。近くで横顔を見ると、鼻筋の高さがよく分かった。

「改めて、久摩宵知といいます」

 彼は近くに置いていた名刺入れから、一枚引き抜く。

 差し出されたそれを両手で受け取り、私は困ったように眉を下げる。

「ごめんなさい。職業柄、名刺が必要なくて。……長ヶ耳美月です」

「『ながみみつき』?」

「あ、えっと……」

 携帯電話を取り出し、メモアプリに文字を綴る。

 打ち込んだ文字を見せつつ、名字と名前を区切った。

「ながみ、みつき、です」

「ああ。成る程」

 彼は興味深そうに画面を見つめた。私は携帯電話の画面を切り、話を進める。

「動物プロダクションでは兎としてモデルをしていて、そちらの芸名は『ココア』といいます。久摩さんから、会いたい、と依頼があった兎です」

「…………会わせて、貰えるんですか」

 そういう話だっただろうに、信じられないというように彼は呟く。

 途端に久摩さんの様子が変わり、落ち着かない様子で前のめりになる。私は自分の胸の前で両の手のひらを広げた。

「けど。写真経由でしか見ていらっしゃらないでしょう。近くで見たら、やっぱり違う、って思うかもしれません。その時は、依頼は無しで構いませんので」

「……そう、……ですね。それでも、今日、家に来ていただいた分の代金はお支払いします」

「ありがとうございます」

 私はひとくちだけお茶を頂くと、周囲を見回す。部屋は広く、物も少ない。隠れられるような場所は見当たらなかった。

「あの、『動物の魂を持つ一族』のこと、ご存じだそうですが……兎の姿に変化する時、服を脱がなきゃいけなくて。脱衣所、お借りできますか」

「構いません。……直ぐに、ご案内しましょうか?」

「お願いします」

 置かれていた焼き菓子を一つだけ口に含み、咀嚼する。

 私が腰を上げると、久摩さんも合わせて立ち上がった。廊下を歩き、浴室の隣にある脱衣所へと案内される。

 扉を閉じようとする家主を制止し、私は口を開いた。

「あの、扉。兎が通れる分だけ開けておくので、向こうをむいていて頂けますか?」

「ああ。そうか、扉、開けられませんね」

「そうなんです」

 久摩さんは兎が通れるだけの隙間を空けた上で、私が見えないように背中を向ける。

 私はばさりと服を脱ぎ、畳んで脱衣カゴに置かせてもらう。脱衣所もまた、必要最低限の物しか置かれておらず、モノトーン系で纏められていた。

 やっぱり、人の気配がしない。何となく寂しいものがある。

 服を脱ぎ終えると、輪郭を解いて兎へと転じる。一気に視界が低くなった。四つ足で脱衣所の床を叩き、空いていた隙間から外に出る。

 目の前には、大きな足があった。気づいて貰えるよう、身を擦り寄せる。

「『ミミ』!?」

 落ち着いていたはずの声が、悲鳴のように耳を打つ。

 ぶるぶると震える掌で彼は私の体を抱き上げると、そうっと背を撫でた。かくん、と高さが一気に低くなる。

 久摩さんは私を抱いたまま、その場にしゃがみ込んでしまった。怯えるような手付きが、私の背を何度も撫でる。

 固まっているのも悪いだろう、と寄せられた手に顔を寄せた。ぐいぐいと押しつけ、顎の下を擦りつける。

「…………ミミ。会いたかった」

 彼の目元から、ぼたぼたと涙が落ちる。

 低い声が、切ないほどよく耳に届く。ごめん、ごめん、と何度も彼は謝り続けていた。そう言われる度に身を寄せ、その手のひらを毛で暖める。

 しゃくり上げる間隔が段々と長くなり、どれだけの時間を掛けたか覚えてはいないが、彼の涙は止まった。

 はた、と私と視線が合うと、申し訳なさそうな顔になる。

「長ヶ耳……さん。すみません、付き合わせて」

『いえ。似ているようで良かったです』

 久摩さんは声の響いた場所を探すように視線を動かしていたが、やがて私と向き合って目を丸くする。

『はい。ここです。これ、声とは違うんですけど、声みたいに意思疎通ができるんですよ』

 お手、と言葉を伝えつつ、彼の手のひらに両前脚を乗せてみせる。

 確かに目の前の兎からの声だと分かったらしく、久摩さんは何度も目を瞬かせていた。

「あの……」

『はい』

「今日、このまま。少し、一緒に過ごして頂けませんか」

 縋るような眼差しは揺れていて、あまりにも脆く映る。私は断りの言葉を見失って、彼の腕の中で力を抜いた。

『いいですよ。サービスします』

 彼は私を抱いたまま、いそいそと廊下を歩き始める。足音は大きく、その顔は紅潮していた。

 連れて行かれたのは、小さな一室だった。床はフローリングではなく、その場に下ろされて歩いてみると滑りづらい材質だと分かる。

『ミミさんが使っていたお部屋ですか?』

「はい」

 彼はそう言うと、カーテンを開け、窓を開けて風を通した。

 僅かな埃っぽさはすぐに薄れ、気持ちのいい空間になる。私は部屋を一周すると、居心地の良さそうなクッションに身を横たえた。

 一年前に亡くしたにしては、空気の入れ換えで済むほど、綺麗に整えられている。

 久摩さんは私に近寄ると、近くの座椅子に腰を下ろす。

「よく、ここで一緒に読書をして過ごしていました」

 彼は思い出したように近くの小さな本棚に近寄ると、一冊の本を取り出して戻ってくる。表紙にはウサギの絵が描かれていた。

 彼が椅子の上で本を読み始めると、私は途端に暇になる。おそらく近くに居さえすればいいのだろうが、モデル職のサービス精神がもぞもぞと沸き起こった。

 身を起こし、彼に近寄ると、ぴょい、とその太股に飛び上がる。窪みに身をフィットさせ、丸くなった。

「……ココアさん、でしたか」

『ミミでもいいです。呼びたいように』

 彼は虚を衝かれたように押し黙ると、ゆっくりと唇を動かした。

「…………ミミ」

『はい』

 返事に対し、久摩さんは困ったように眉を寄せる。

「何か、こう」

『こう?』

「余所余所しい、というか」

 言われてみれば、何年も過ごした家族相手に敬語は使わないだろう。依頼人としては、喋っていようが何だろうが、『ミミ』として接してほしいらしい。

『宵知さん? 宵知?』

「後者で」

 返事は面白いほど迷いがなかった。

 くすり、と笑って、だらりと身体から力を抜く。

『分かった、宵知。…………なでてくれるなら、背中がいい』

 耳を持ち上げてみせると、彼は大きな掌で背に触れる。

 そろり、そろり、と思い出すような撫で方が、やがて記憶を取り戻していく。あまりにも心地よくて、ぺったりと太股に凭れた。

「部屋は、暑くないか」

『涼しいよ』

「寒くはないか」

『間違えた。ちょうどいいよ』

 随分と甘ったれなウサギを演じてしまったが、宵知は嬉しそうに私に構い倒し、夕方まで引き留められた上で、その日は高額なバイト代を加算して帰宅することになった。

 そして、私は取り敢えず週二、という契約で彼の家を訪れるようになったのだった。

 

 

▽2

 自宅を訪れて彼と過ごすたび、高額なバイト代が入ることになる。二度目の訪問時に、申し訳なくなって手土産を持参した。

 人の姿で食べるためのケーキと、兎の姿で食べさせてもらうための果物だ。玄関で持参した手土産を差し出すと、久摩さんは意外そうに目を見開いた。

 彼はゆっくりと受け取り、胸のあたりに抱える。

「気を遣わなくても良かったんだが」

 前回の訪問で敬語の外れた言葉は、静かに、低い音で紡がれる。

 体格がいい割には繊細で、指先は思いのほか器用だ。ウサギを撫でるのも上手い。

「折角こうやってお仕事するから、お菓子でも食べながら久摩さんの事を聞けたらなぁ、って思って。どう、……でしょう?」

 不安になって声が縮こまるが、久摩さんは空気を良くするために愛想笑いしたりもしない。

 ただ、変わらない表情のまま、私にスリッパを差し出した。ウサギのシルエットが入った、柔らかい材質のそれに足を通す。

「面倒な依頼を受けてくれただけで、感謝している。手土産は過剰だ」

 そう言うと、身を翻してリビングへ歩いていった。

 慌てて背を追いながら、言葉を心の中で繰り返す。怒っても、迷惑がってもいないようだ。

 彼は台所に入ると、ケーキをデザート皿に移し、紅茶を淹れてくれた。明るさにつられて窓辺を見ると、今日はカーテンが開いていた。

「お茶、ありがとうございます。久摩さんはガトーショコラ、でいいですか?」

 私の手元には、フルーツタルトが配膳されている。

 兎的には果物を食べられて嬉しいのだが、久摩さんが果物好きだったら申し訳ない。

 彼は私の言葉に僅かに眉を動かすと、ケーキに視線を向けた。

「ああ……。いや、無意識に、ウサギは果物が食べたいかな、と思ってしまった。長ヶ耳さんは、ヒトなのに」

 失礼なことをした、とでも思っているのか、肩が丸くなる。私は慌てて声を上げた。

「ううん。実は食の好みとか、魂が兎だから引き摺られる部分があって。果物は好きなんです。でも、身体が特殊だから、兎の姿でネギとかを食べても何ともなくて」

 魂で身体を作っている都合上、ウサギが食べてはいけないとされる野菜を食べたとして、異常を起こすことはない。

 ただし、野菜も果物も基本的には好きで、特に関連した印象の強いニンジンなんかは大好物だ。

「俺は、甘ったるいものも良く食べる。ガトーショコラもだ」

 そう言うと、黒い生地にフォークを突き立てた。

 おそらく好き、と言いたいのだろう言葉を受け取り、私も同じようにフォークを持ち上げた。

 苺を掬い上げ、真っ先に口に入れる。少し値が張ったケーキの果物は、お値段ぶんだけ甘い。

 思わず頬が持ち上がってしまった。

 その時、近くで僅かに息の動く音がする。顔を上げると、コンコンと息を整える久摩さんがいた。

「…………いや、ミミも苺が好きだったな、と」

「私。いま人の姿をしています、よね?」

「すまない。連想してしまうというか」

 彼は失言を誤魔化すように、割ったガトーショコラを口に入れる。

 兎を連想するにしては私の身長は高い方だと思うのだが、動きが似ているんだろうか。考えつつ、ちょこちょこと果物を頬張っていると、美味しさに悩んでいたことを忘れた。

 紅茶を口に含むと、甘さが一気に抜けていく。

「そういえば、聞きそびれていたんですけど、久摩さんの家系って熊と関係がある?」

「ああ。日本でいう氏神様が、熊に縁のある方だ。『動物の魂を持つ一族』の事も、代々言い伝えられていた」

 尋ねて彼が答えた『動物の魂を持つ一族』の定義は概ね正確だった。

 魂を元に身体が作られている為に、人とは別に動物の姿を持つ。私が兎であるように、動物の姿はそれぞれの種族に由来する。

 それと、魂で形作られる身体は、人間のように生殖をしない。

「────俺も気になっていたんだが、兎といっても、色々、姿形があるだろう? どうして長ヶ耳さんは、あの姿をしているんだ?」

「元々は魂だから、形は定まっていないんです。成長するにつれて、特定の形状に固定をする必要があって。兎だったら、耳の長短や、毛が白かったり、黒かったり、茶色だったり。……私は、好きな絵本に出てくるウサギを真似たんですよ」

 そう答えると、久摩さんは目を丸くした。

「少し、待っていてくれるか」

 彼はそう言い置くと、ソファから立ち上がる。早足で廊下へ出て行くと、さほど経たないうちに戻ってきた。

 腕に抱えられていたのは、見覚えのある絵本だ。所々色褪せたページを、大きな手が捲る。

 指さされたウサギは、私とも、彼の言う『ミミ』とも似た姿をしていた。

「俺は、この絵本が好きなんだ。その中でもこのウサギは、のんびり屋で、けれど何があっても立ち止まろうとせず冒険する姿が好きだった。一人暮らしを始めて、即、同じ毛皮のウサギを探して、迎え入れるくらい」

 僅かに早口になった言葉に、絵本への好意が溢れ出ている。

 彼は目を細めて絵本を見るのだが、私は驚きに目を丸くしていた。

「凄いな……、その絵本。うちにもあるんです」

「え?」

「私。この子に似た姿になりたくて、ああいう姿に定めた」

 そう告げると、彼の目も私と同じように開かれた。

 どうやら、私たちは同じ絵本を見て、同じような兎に行き着いてしまったらしい。本を借り、ぱらぱらと中に目を通した。

「そっか。だから似てたんですねぇ。私とミミさん」

「あぁ……、俺も驚いた」

 絵本のページを開き、お気に入りのシーンを語り始めると、久摩さんの身体が近寄ってくる。

 二人とも思い入れのある本だからか、話は長引いてしまう。時計の針の進み具合に気づいたのは、私の方が先だった。

「あ。……長話、すみません。ケーキ食べちゃいますね」

 私は急いでフルーツタルトを頬いっぱいに詰め込むと、咀嚼して飲み込んだ。冷えてしまった紅茶を飲み干し、脱衣所を借りる許可を得る。

 久摩さんは何だか虚を衝かれたように手を止め、そうっと絵本を閉じた。私が脱衣所で姿を変え、リビングに戻ったときにも、ガトーショコラはまだ残ったままだ。

 美味しくなかったかな、と不安になったが、それよりも愛しいウサギの姿を目にした彼が私を抱き上げ、思考は止まった。

「……ミミ。果物があるから食べさせたいが、その前に少し運動しよう」

『うん』

 彼はしっかりと身体を確保しながら、ミミさんのために割り当てられた部屋へと向かう。扉を開け中に入ると、空調は整っており、中央に大きなケースが置かれている。

 中には、綺麗な土がたんまりと入っていた。

『遊んでいいの!?』

 思わず振り向き、勢いよく尋ねてしまった。私の勢いにも宵知は気を悪くする様子はなく、ゆっくりと土の上に下ろされる。

 大きなケースの周囲にはシートが敷かれており、土を飛び散らせても問題なさそうだ。本能に抗えず、前脚で土を掻く。

 さりさりとした感触が、毛の生えた足裏を過ぎていく。うっとりと穴を掘り、頭を突っ込んだ。

「砂とか、チップとか、いろいろ試したがミミは土しか気に入らなくて。洗うのが大変なのにな」

 突っ込んだ穴から顔を上げると、ぱらぱらと土が落ちた。伸びてきた大きな指が、目の上の土を払う。

『底が深くてすごくいい。潜るから、あとで身体洗って』

「ああ。穴掘り手伝おうか」

『自分で掘るのがいいの』

 ぺち、と土を掻こうとした手をはたき落とし、自らの前脚で土を掻いた。

 払っても払っても毛に土が絡み付き、それが心地いい。ごろん、と土の上で転がる。

 無防備な背を、大きな掌が撫でた。離れていくそれに、顔を擦りつける。

『宵知も土遊びしたら?』

「そうだな」

 彼は土を盛り、山を作り始める。

 側面を前脚で掻くと、ぱらぱらと崩れる。視線を上げ、もっと固い山を作るよう促した。手が側面を押し、固めるが、私が前脚で掻くとやっぱり崩れた。

『これ。宵知が作るのへた』

「ああ。俺が下手だな」

 兎相手に、彼は怒る様子はない。だらしなく顔を綻ばせ、土に塗れた手を払う。

 ごそごそと穴を掘り、頭を突っ込み、脚を伸ばして土を踏む。宵知は何かしら作ろうとしていたが、私が邪魔をするので上手くいかなかった。

 それでも彼は嬉しそうなのだ。在りし日の幸せだった光景を覗き見たような気がして、私がそれを取り上げてしまっているように思って、ちいさく胸が痛んだ。

「────そろそろ、お腹空いたか?」

『空いた』

 土の中から顔を上げると、身体を抱き上げられる。

 身体に付いた土が払われ、飼い主の胸のあたりに収まった。そのまま部屋を出て、風呂場に向かう。

 人の感覚を持つ私に水への恐れはなく、洗面器に入れたぬるめのお湯を用意してもらい、脚を入れる。ちゃぽちゃぽと水を揺らしながら身体を洗っていると、上から脚の届かない場所へとお湯が掛けられた。

 ぱしゃ、と水を跳ね散らかしながら顔を上げる。

『落ちた?』

「いや。もう少し」

 洗面器のお湯を交換し、改めて人間の指が土を落としていく。

 綺麗な毛皮に戻ると、風呂場から出て柔らかいタオルに包まれた。水分を含みやすい特殊な品らしく、良い具合に水気が落ちる。

「ドライヤーで早く乾いた方がいいか?」

 毛繕いをしていると、横から尋ねられる。

『五月蠅いから私きらい』

「そうか。じゃあ、もう一回タオルを使うから」

 抱き上げられ、新しいタオルに包まれる。丁寧に毛を撫でられる度に、水分は落ちていった。

 後は自然乾燥でもいいだろう、という程度までタオルを使って乾かされると、そのままリビングへ抱いて運ばれる。

 私にとっては別に廊下を歩くくらい何てことはないのだが、ミミさんと宵知の関係はこういうものだったのだろう。

 ソファに敷物が置かれ、その上に乗せられる。

「フルーツを切ってくる。少し待っていてくれ」

 背を撫でられる。言葉の代わりに、その掌に顔を擦り付けた。

 土の上で跳ね回ったおかげか、二度目のデザートが入るくらいにはお腹も空いている。敷物の上で寛いでいると、綺麗なガラスの器に入ったフルーツが運ばれてきた。

「おいで」

 伸ばされた手に近づくと、太股の上に乗せられる。

 切られた苺が手ずから口元へと運ばれ、ぱくりと口に含んだ。美味しい、と感じる感覚は、私のそれか兎のそれか、それとも人が定義するウサギの感覚なのかは分からないが、ともかく美味しい。

 もごもごと口元を動かす様を、彼は目尻を下げつつ見ていた。

「次はどれにする?」

『りんご』

 座っているだけで、口元に果物が運ばれてくる。

 しゃり、と噛みついて、さりさりと咀嚼して、こくんと飲み込んだ。美味しい、と近くにある腕に頭を擦りつける。

「どれくらい食べても平気なんだ?」

『身体は魂でできてるから、普通のウサギよりいっぱい食べても平気だけど。私の気持ちの方が満腹になっちゃうかも』

「じゃあ、少しずつ食べようか」

 時間も丁度おやつ時で、私は申告よりもたくさんの量を食べさせてもらった。

 お腹いっぱいになると、飼い主の太股の上で転がる。その様子を見て、彼は余った果物を自らの口に運び始めた。

 私の残した果物はすっかり空になり、からんとフォークが硝子の器に置かれる。空いた手は、自然に私の身体に触れた。

「もう、お腹いっぱいか?」

『うん。眠くなってきたよ』

 寝てもいい、と了承を貰い、乾いてきた毛を骨張った指が撫でる。

「実は今日、俺もお菓子を用意していたんだが……」

『えっ。被っちゃった?』

 私がぴょんと後ろ脚で起き上がると、彼はその動作を見て口元を綻ばせた。

 宵知は兎相手に、いや、ミミさん相手には表情が柔らかくなる。

「後で持って帰ってくれ。近くの和菓子屋の饅頭なんだ」

『…………後で食べるのはだめなの?』

「それだと、長ヶ耳さんの労働時間が増えてしまう」

 前回もそうだったが、彼の仕事時間、の計算はあまりにもきっちりしていた。

 太股の上に座り、ううん、と首を傾げる。ついでに軽く毛繕いをしてしまった。短い耳を前脚で折り曲げ、表面を撫でて、放す。

 ぴょこん、と持ち上がった耳が跳ねた。

『私が、久摩さんと人の姿でお菓子を食べるのは、労働ではないです』

「……そういうのは、公私の切り分けができなくなって、良くないと思うが」

『良くないのは、分かってますけど』

 ぺったりと耳が落ち、持ちあげていた前脚も降りてしまった。

 私、に戻ってしまった身体を、変わらない掌が撫でる。

「────じゃあ、お言葉に甘えさせて貰おうかな」

『……いいの?』

 彼の顔を見上げると、私を見返す表情は優しい。

「それは、こちらの台詞だ」

 私の毛が乾くまで兎の姿で過ごし、乾いた毛をブラッシングしてもらう。

 時間を空けて、お茶とお饅頭をいただいた。彼が選んだお菓子はいつも美味しく、もふもふと頬に詰め込んでいると、久摩さんはなんだか柔らかい表情をしていた。

 

 

▽3

 事務所に経過報告へ向かうと、いつもどおり龍屋さんが会議室で話を聞いてくれた。依頼通りに一緒に過ごしていることを伝えると、問題はないか尋ねられる。

 相手は優しいし、餌付けされているように感じるほど報酬以外にもお菓子を貰っている。特にない、と答えた。

「本来なら、そのまま続けてください、と、言いたいところなんですが」

「何か、問題が?」

「うちの事務所、彼の所属している音楽作家事務所とも繋がりがあって、そこから連絡が来たんですよ」

 プロダクションへの依頼は久摩さんからの個人的なものだが、その依頼について知った音楽事務所の上層部から、探りを入れるような連絡が入っているそうだ。

 龍屋さんは安心させるように、上手くない笑顔を浮かべようとしていた。

「探りを入れる、とはいっても、久摩さんの持ち直し具合を知りたいようでした」

「はぁ。曲を作っている様子はないですけど、元気、といえば元気に見えますよ」

「それは良かった。彼の所属事務所はできれば、元のように作曲活動を再開してほしい、という意向のようですが……」

 龍屋さんは言葉を切ると、どうぞ、と机の上に置かれていた菓子盆を私へ向けて押し出した。

 中からイチゴの飴の袋を探り当て、手元でちまちまと包装を剥く。

 菓子盆は彼が打ち合わせの際に持ち込んでいた。普段から、会議で置かれる、というようなものではない。

「久摩さんは、もう稼ぐ必要もない、くらいの資産をお持ちなんです。働くとして本当に趣味としての意味しか持たれないような」

「ですね。御自宅も持ち家でしたし、私もかなり高額な報酬を頂いています」

 しかも、報酬以外にも私に美味しいものを食べさせたがる傾向があった。受け入れてはいるのだが、出される食事も普段は食べられないようなものばかりだ。

 口に入れた飴は中から発泡するタイプだったようだ。しゅわしゅわと口の中が泡で満たされる。

「彼のご両親も著名な方で、それこそ熊に由来する神の加護もある。働くことを求めるのは、単純に自分達の都合、と事務所側も認識しているようでした」

「そっか、熊……。熊、は『自然』の象徴であり、動物の中では『王様』とか『上位存在』とも見做されますよね」

「自然からの『恵み』であり『暴威』でもありますね。『父や母』といった目上のものとしても扱われやすい」

「そういう存在からの加護であれば、生きていくのには困らないでしょうね」

 龍屋さんは『ねこちゃん型ビスケット』の袋を取り出すと、開封して中身をちまちまと摘まみ始める。

 彼は蛇神の加護を受けているそうだが、私は兎神の魂を分け与えられている存在のため、護りが強く恐怖感はない。それに、普段から恋人に対して柔らかく応対する様子もよく見かけている。

 面倒な話を挟みながらも、お互いに食べ物を囲んでいると空気が和らぐのは不思議なものだ。

「そのビスケット、美味しいですか」

「一ついかがですか」

 差し出されたそれを一個だけ拝借し、口に運ぶ。サクサクと軽く砕け、とても歯触りがよかった。

「美味しいです。それに可愛らしい」

「でしょう!? ……失礼。恋人が猫なもので、つい、こういうものを集めてしまって」

「ふふ。花苗さん、最近はお忙しいですねえ」

「外見が、非常にアイドルみがあるというか。愛らしく守ってあげたくなるというか。人気が出るのも分かる。……が、体調が心配なのでスケジュールの調整には気を配っています」

 そこまで一気に言い切ると、龍屋さんは僅かに肩を丸めた。恋人のことを話しすぎた、と思ったようだ。

 構いませんよ、と笑って、もう一枚、ビスケットを貰った。サクサクと音が鳴る。

「────龍屋さん的は、どの程度、その音楽事務所とやらに便宜を図るべきだと思いますか?」

「そうですね。プロダクションとして、第一は依頼人です。依頼人が気持ちよく時間を過ごせなければ意味がない。……それでいて、軽く探りを入れるくらいなら、とも思います。久摩宵知の音楽にはファンが多い。お金を稼がず生きていけるとして、それでも、生きていくには趣味があったほうが楽しいでしょう」

「そうですね。音楽事務所のため、ではなくて、音楽が好きで仕事にまでしてしまった久摩さんが、もういちど音楽を、趣味を取り戻すお手伝いなら、私も協力したいです」

 龍屋さんはもう一個どうか、と提案してくる。

 私は頷いて、机の上に展開された袋の上に広がるビスケットに手を伸ばした。小麦の匂いに僅かな塩味が混ざる。

「久摩さんと過ごすのは、気まずくないですか? 以前会ったときも、癖がある人物のように思いました」

「いえ。体格は大きい方なんですが、几帳面で繊細な感じがします。私が家を訪れる時、必ずお菓子が用意されていて、しかも、好みのものばかり。ふと好みのものを零したら、次回、必ず用意されているような感じで」

 私がそう言うと、龍屋さんは軽く目を瞠った。そして、ゆっくりと口元に笑みを刷く。

「何となく、分かるような気がします。久摩宵知の曲は、繊細に連なる高い鍵盤音が特徴なんです」

「ああ。龍屋さんって、久摩さんの音楽も知っていたんですね」

 丁寧な説明に菓子まで用意されていたのは、曲に思い入れがあった為なのだとようやく気づいた。

 龍屋さんは頬を書くと、携帯電話を取り出す。端末を操作して呼び出した曲のイメージ画像には、ウサギが使われていた。

「この曲が好きで」

「へえ。私、久摩さんのところに仕事に行っている割に、彼の曲を知らないんですよ。どの曲から聞いたらいい、とかってあります?」

 そう言いながら自分の携帯電話を取り出し、彼が挙げた曲をプレイリストに突っ込んでいく。

 本当に著名な作曲家だったようで、契約している音楽サービスで殆どの曲を聴くことができた。ただ、曲数も多く、元々知っている人が身近にいなければ混乱しただろう。

「なんだが、ちらほら可愛い感じのサムネイルがありますね」

 画面に映し出される曲のイメージ画像は、綺麗なもの、格好良いもの、そして可愛らしいものと幅広い。

「女性歌手への曲提供も多いですね。歌詞を書かれることもありますが、それがまた嫌みがなく自然で」

「分かる気がします。ウサギ一匹迎える為に、土の遊び場や玩具を用意したり、細かい。……というと悪口ですかね。でも、食器とかタオルとか、本当に細かく先回りして準備をしてくださるんです」

 一途に片思いをして、相手のために、と精一杯のおもてなしを考えているみたいだ。ミミさんへの想いは、今は形を変えて兎の私へ向かっている。

 二人の間にあったビスケットが無くなると、打ち合わせはお開きになる。菓子盆の中身を半分貰い、机と椅子を片付けて会議室を出た。

 扉を閉め、さて、と足を踏み出したとき、龍屋さんに引き留められる。

「────そういえば。長ヶ耳さん」

「はい?」

「これはプロダクションとは別に、個人的に気になっているだけ、なのですが」

 龍屋さんは一度、言い辛そうに唇を戸惑わせた。

「久摩さんに、変な触られ方とかしていませんか?」

「え?」

「ウサギの姿の時は仕方ない……、仕方ないと言いたくもないんですが、仕事ですので。ただ、人の姿で『妙な』触られ方をしたりとか」

 妙な、と強調されたことで、ようやく彼が尋ねたかった事を悟る。

 手を持ち上げ、自分の身の前で横に振った。

「い、いえ! ない! ないです!」

「それなら良かった。いくら依頼とはいえ、嫌なことをされたら張り飛ばして逃げてください」

「心配してくれるのは有難いですが。私相手に、そういうことはないですよ……! 身長もありますし!」

「久摩さん、長ヶ耳さんよりも体格がいいと聞きましたが?」

 そう念押されてしまうと、言葉もなく、肯定するしかない。

 あはは、と引きつった笑いを零して、彼との時間を思い出す。少しくらい、友達程度なら触れても構わないのだが、ウサギの時のべた甘な態度と違って、私にはまだ余所余所しい。

「いつも、兎姿にでれでれで、昔飼っていた『ミミさん』似のウサギと過ごす時間を失うようなことはしないと思います」

 その場では説明に納得して貰えたのだが、私は説明をしながら、久摩さんとの距離の遠さに少し寂しさを覚えてしまった。

 

 

 

▽4

 朝から街へ出て、その日は古くからある和菓子屋さんで苺大福を買い求めた。

 丸くて白い形状を好んでしまうのは、ウサギの毛皮を思い出すからか。それとも、常に月を見て跳ねるウサギの逸話故か。

 首を傾げつつ紙袋を持ち、久摩さんの家のインターホンを押した。変わらない遣り取りの後で、玄関に招かれる。

「あの、お昼をご馳走していただけるとのことで、苺大福を買ってきました」

「有難う。今日は緑茶でいいか」

「はい」

 昼食に一羽まるごとのチキンを焼くのだそうで、折角だから、といつもより早く来てご相伴にあずかる事になったのだ。

 奥からは肉の焼ける匂いと、香辛料の独特な香りが混ざって流れてきている。

 ちらちら視線を送りつつ靴を脱ぐと、軽く笑いながらスリッパを出された。

「長ヶ耳さんは、苦手なものはあるか?」

「生臭い海鮮、でしょうか」

「肉が焼ける匂いは?」

「兎の時はすこしヒュッとしちゃうんですけど、人としての思考が混ざるので、直ぐ落ち着きます。人の時は普通に美味しそうと思うだけです」

「良かった」

 どうぞ、と食卓に招かれると、生野菜やチーズ、調味料。それに、巻いて食べるための生地としてトルティーヤが置かれていた。

 手を洗わせてもらい、席に着くと、焼き上がったチキンがテーブルの上に運ばれてくる。

 二人の間に置いた丸焼きのそれに、久摩さんはナイフを入れる。皮がパリパリと裂け、間から肉汁がこぼれ落ちた。

「これがスイートチリソース。あと塩と胡椒と」

 私の近くに次々と調味料が置かれていく。切り分けられた鶏の美味しそうな部分を皿に積み上げると、こちらに差し出してくれた。

 両手で受け取り、礼を言ってフォークを手に取る。

「いただきます……!」

「どうぞ」

 私が口に運ぶのを見守り、彼はその場を離れる。スパイスが効いていて、表面に近い部分はほどよく塩味がある。じゅわ、と溢れる肉汁を口に閉じ込め、ほくほくした肉を噛み締める。

 焼き立ての熱々に咀嚼を繰り返している私の隣に、氷の浮いたお茶のグラスが置かれた。有難く持ち上げ、空になった熱い喉に流し込む。

「ありがと。ございま……、す。美味しい」

「ああ、見てたら伝わった。俺も食べよう」

 ようやく己の分を切り分けると、彼は大口で肉に食らいつく。熱さを物ともせず食事を進める姿は、熊みたいだ。

 しばらくは二人とも言葉少なに肉を食べ進める。

「アレンジするか?」

 トルティーヤの積み重ねられた皿を押し出される。皮を皿に広げ、鶏肉と野菜を載せてソースを掛け、包み込む。

 どうしても大きく口を開けなければいけないことに苦労しながら、端っこに齧り付いた。

「ん。また味が違って美味しい。何個でも食べちゃいそうです」

「丸焼きだと途中で飽きるかと思ってな。……良かった」

 彼の手で巻かれた方はなんだかやけに小さく見え、大きな口にあっさりと消えていった。机の上に置かれた調味料には珍しいものもあるが、すべて新しいものばかりだ。

 それにしては、味を尋ねると迷いなく口にする。ちぐはぐさに、つい問うてしまった。

「料理、が趣味なんですか?」

「昔は好きだったな。最近はついデリバリーなんかに頼ってしまって」

「それでですか、調味料にお詳しかったの。……じゃあ、何故、鶏をまるごと一羽も買ったんですか?」

 尋ねると、彼は苦笑した。トルティーヤを引き寄せ、野菜と鶏肉を載せてマヨネーズと胡椒を振る。

 くるくると包み込むと、上部から鮮やかな色の中身が覗き見えた。

「長ヶ耳さんの、ココアの姿を知らなかったときに、鶏をまるごと一匹料理して食べるくらいすれば、気も晴れるかと考えた。その割には、届いた後は冷凍庫に置きっぱなしで」

 お互いに笑って、そんな中で、静かに相手の表情を探っていた。

 音楽事務所とやらの希望を叶える義理はない。だが、いずれは久摩さんも前を向いて、私とも……ココアの姿とも距離を取ることが望ましい。

 きっと気が晴れなかったのは、ミミさんが亡くなったからだ。一年、振り切れないほどの死別というのは、満足のいく別れではなかったんだろう。

「その。私、はココアの姿で会ってからの久摩さんしか知らないんですが。塞ぎ込んでいた、と聞きました」

「…………ああ、そうだな。何となく、生活に張りのない。ただ過ぎていくだけの一年だった」

 肯定する久摩さんは、大きな口で肉に食らいついた。憂いを晴らすような、やけ食い、と称するのが相応しいような所作だった。

 長い咀嚼の後で、手元のグラスを引き寄せて空にする。表情は隠れ、喉が動く様が目に入った。

「どこまで踏み込んでもいいか、迷っていた。今も、迷ってはいるんですが……」

 今ここに、ミミさんはいない。彼を思いやる立場で、最も近くで見てきた存在はもういない。

 けれど、彼が私を抱き上げる仕草には、あの頃のミミさんが確かにいる。ウサギが居心地悪くないよう、身体を痛めないように、という経験がそこにある。

 私だけが、彼ら以外で唯一、その年月を知っている。

「いつも、兎を優しく抱き上げてくれる事を、私だけは知っています。久摩さんが張りのない日々を過ごしていることが寂しい。今じゃなくていいんです。吐き出したくなったら、……寄りかかってくれませんか」

 膝の上で両手を組んで、目線も下がり気味になってしまう。けれど、言葉だけは震える唇からなんとか伝えきった。

 目の前にいる人から、長いこと返事はなかった。ずっと言葉を待っていたが、痺れを切らして顔を上げる。

 彼の頬に、一筋、涙が伝っていた。

「あ……! ごめんなさい! 私、無神経なことを……」

 ハンカチを差し出そうとすると、久摩さんは手でそれを制し、近くにあったティッシュ箱のある場所まで歩いていく。

 私に背を向けたまま、彼は涙を拭った。

「まだあまり上手く飲み込めなくて……。最初に会ったときも、泣いてしまって悪かった」

「泣くことを、……謝る必要がどこにあるんですか」

 席を立ち、彼に身を寄せた。がっしりとした腕に手を添えると、服の下で僅かに震えている。

 ウサギの姿でそうしたように、相手の身体を支え、落ち着くようにと願いを込めて撫でる。手を伸ばすと、彼の頭まで届きそうだった。

 背を伸ばして、腕を持ち上げ、彼の髪に触れる。柔らかくて少し癖のある赤茶色の髪を、そうっと撫で付けた。

 二度、三度と繰り返しても、払いのけられる事はない。

「────食事の後で、少し話を聞いてもらえないか」

「はい。けれど、無理はしていませんか?」

「辛い。事は辛いんだが……、抱えているのもまた痛い」

 久摩さんは新しく伝った涙を指先で拭うと、食卓へ戻るよう促す。

 彼は、心配だと視線を送った私の両肩に手を置くと、ぽん、と軽く叩いた。大丈夫だ、と空元気でも、そう伝えたがっているのが分かる。

 椅子に腰掛けると、久摩さんはナイフを手に取り、新しく鶏肉が切り分けられた。皿に山盛りになったそれに、くすりと笑う。

「食べきれます?」

「食べきれる。というか、食べて気合いを入れる」

 気合い、とはこのあと私に何か話してくれる事を指すのだろう。どうやら、彼は独りきりで重いものを抱え込んでいたようだ。

 相手の気分が落ちないよう、やんわりと口角を持ち上げる。

「じゃあ、私もお腹に詰め込んじゃおう」

 鶏肉を取り分け、大好きな野菜と共にぐるぐると皮で巻いていると、それを眺めていたらしい久摩さんの声がする。

「長ヶ耳さん。このあと苺大福もアイスクリームもあるんだが」

「アイスクリーム増えてません?」

「俺からしたら、増えたのは苺大福だ」

 つまりは、鶏肉まるごと一羽を食べた後で、アイスクリームでもどうか、と久摩さんもおやつを買い求めていたらしい。

 今日もヘビーなおやつタイムになりそうだ、と手元の鶏肉巻きを見下ろす。

「三時じゃなくて、二時と四時にしませんか?」

「もう十二時過ぎてるのに?」

「じゃあ三時と五時にします!」

「晩ご飯の時間だな」

「じゃあ晩ご飯の後にするので、晩ご飯をください」

 私がつい口を滑らせると、久摩さんは柔らかく微笑んだ。彼の生来の性格が滲み出たような、自然な表情だった。

 優しいながらも強烈な輝きに、目を奪われる。

「カニ、好きか?」

「もしかして、それも鶏まるごと一羽みたいに」

「『みたいに』買って放置していた。鍋にするか、と思っていたんだ。どうだろう?」

 誘いに乗り続けていたら、仕事もプライベートも境がわからなくなって、ずるずると居心地のいいこの家に居続けてしまう気がする。

 ただ、きっと断ったらしょんぼりするんだろうな、と分かってしまって、首を横には振れないのだ。

 ちっぽけな兎でも、寄り添えば温かい。

「食事代、出させてくれます?」

「夕食前に足りない鍋の具材を買い出しに行こう。長ヶ耳さん持ちで」

「じゃあ、乗ります。鍋の後にアイスがいいです」

 会話を挟んで、囲む空気はふっと軽いものになった。具材を変えつつ食べ進め、大体の皿が空になる。

 残った具材は鍋に突っ込むか、明日消費するとのことで、ご馳走様、の後で片付けも手伝わせてもらった。

 キッチンは外から見たとおり広かったが、清掃は行き届いていた。食器を片付けた後、丁寧に拭っている様を見て、繊細で几帳面、という印象を強める。

 彼に加護を与える熊は、基本的には大人しく臆病で、警戒心だって強いとされる性格だが、守るものがあると途端に強くなる。

 久摩さんにとっては、ミミさんがそうだったのだろうか。もう一度踏み出すには、彼が守るものを得るのが早いだろうか。

「────じゃあ、悪いが、少し長話に付き合ってくれ」

 手を拭った久摩さんは、先導するようにキッチンから出る。私は返事をして、その背を追った。

 廊下を歩いている途中、ちらちらと私へ視線が送られる。身長よりも更に、脚の長さに差があるのは致し方ない。

 彼は家の奥にある他とは違った扉の前に立つと、重そうなノブを引き、奥へ進んだ。

「作曲をする部屋?」

「ああ」

 音楽スタジオを小さくしたような室内は、スピーカーや各種音楽機器、コンピュータにモニタ。キーボードやギターのような楽器類も置かれている。

 中央には座り心地が良さそうな椅子があり、近くにぽつんとヘッドホンが掛けられていた。

 彼は電気を点けた後、部屋の中に踏み込もうとはしなかった。

「埃っぽくて悪い」

「ううん。そこまで気にはならない、けど」

 毎日使われていた頃の部屋を知っているから、その変化が気になるのだろう。彼に言われて初めて、ツマミの並んだ機器の上に積もっている埃に気づく。

 部屋の中は、気温以上に冷たい。選び抜かれた機器類も、暫く使われていなかった物寂しさがあった。

「ミミは、昔から体が強い方ではなかった。年を重ねるごとに体調を崩す頻度が増えて、その日も、とても寒い日だった」

 部屋の中に深く入ろうとしない。彼はこの部屋を忌々しく思っているようにすら思えた。

「病院から帰って、よく見ておくようにと獣医に言われて。その日はずっと弱っているミミを見ていた。だが、午後になって連絡が入った。急ぎで、と言われて音の調整をしにこの部屋へ入った」

 その後の言葉は、言われずとも想像ができた。ぞっと底冷えするような風が、開いた扉から吹き込んでくる。

 彼は、パタン、と扉を閉じる。

「この扉は重くて、入ったら外の音は届きにくい。俺が依頼された仕事を片付けて部屋に戻ったときには、ミミは冷たくなっていた。…………その時に見た顔が、苦しそうに見えて」

 段々と下がっていく頭に、危うさを感じる。視線が泳いで、顔色も悪かった。唇は震え、彼がここまで持ち続けてきたこの一件の根深さを知る。

 心理的に負担が掛かっているのだろう。止めさせるべきか、と迷った。彼は、私へ話すという壁を跳び越えられるだろうか。

「久摩さん。……じゃないな、『宵知』」

 私は服を緩めると、その場で兎へと転じた。ぱさばさと落ちていく服に慌てて、宵知はしゃがみ込む。

 広げられた腕に向かって、その場で跳ね上がった。

「う、わ……!」

 上手に受け止めた腕の中に潜り込む。しばらく落ち着くように呼吸しながらも、彼は私の背を撫でる。

『まだ、お話できる?』

 顔を持ち上げ、手に擦り付ける。彼は近づいてきた顔を撫で返しつつ、兎の私を軽く抱きしめた。

 近づいてきた顔を舐めると、僅かに目が見開かれる。

『元気ないなら、今日はお話、いいよ』

「……いや。聞いてほしいんだ、ココア。……美月さんにも」

 宵知は『ココア』と、『美月』と呼んだ。長ヶ耳美月は、長ヶ『ミミ』月である。そう呼ばれると何となく、ミミさんと『ココアの私』を切り離せていないような感覚があった。

 けれど、今の言葉は間違いなく私に向けたものだ。

『さん付けじゃなくてもいいよ』

「じゃあ、美月」

『うん、宵知。撫でられながらお話、聞いてる』

 腕に体重を預けると、宵知は私を抱いたまま部屋の壁に背を凭れ掛け、床に座り込んだ。

 はあ、と長く息が吐き出される。胸元に前脚を押しつけて伸び上がり、頬同士を擦り付けた。

「俺は、ミミが苦しいとき、傍にいてやれなかった。苦しい、と俺を呼んだかもしれないのに、応えてやれもしなかった。寂しがり屋だったのに、どんなに。……最期は、寂しかっただろう。俺は、看取ってやれなかった」

『…………』

 毛皮が濡れても、私はその頬に顔を擦り寄せた。ちいさな兎だから出来ることを。必死に背を伸ばして、寄り添い続けた。

 撫でる指先はまだ、震えている。彼の方がよっぽど子ウサギのようだ。

「放心状態のままミミを骨にして、霊園に納めて。空っぽになった家に戻ってから、俺はこの部屋に入れなくなった。足が竦んで、ぐらぐらと床が揺れて、音楽なんてまともに聞いていられない。無音の方が心地いいくらいだ」

 彼を苛んでいるのは罪悪感と、後悔だ。言葉が途切れて、沈黙が横臥する。

 外界と音を隔てることを目的に作られた部屋は、今も尚、無情なほどに機能を果たし続ける。

 彼に届くのは、ちいさな兎の心音だけだ。けれど、私は生きていて、まだ彼に寄り添える。

『宵知。私が一緒にいたことで、少し、楽になった?』

「ああ。罪悪感が薄れて。けれど、同じように苦しくなった。……俺は、美月を無視して、ミミを求めてばかりだったから」

『…………? なんで、いいよ。別に』

 目を丸くして、もぞもぞと腕の中で動く。私を通してミミさんを見たところで、影響するのは私のちっぽけな嫉妬心くらいだ。

 名前を呼んでもらえなくて寂しい、というような、自分勝手な感情だ。

「良くは、ないだろう。でも、やっぱり姿は同じでも、ミミと美月は性格が違う。ミミはもうちょっと、我が儘なウサギだった。美月は自分勝手に振る舞おうとしても、俺を気にしていることが伝わってくる」

『そう、かなぁ……?』

 分からない、と首を傾げると、背中を撫で返された。長い指先が、動くようになっている事に気づく。

 もっと指先が温まればいいのに、と願った。

「だから、ミミの演技をしてもらうのも、そろそろ止めてもらう頃合いだと思った。ミミとの感情に折り合いをつけて、美月との時間を過ごしてみたい。そう、思い始めたところだ」

 彼が私を見ようとしている事への嬉しさと、ミミさんから宵知を取り上げた罪悪感がある。後者を狭い胸に押し込め、めいっぱい愛くるしさを振りまいた。

『折り合い、つけるなら。お話しするのがいいよね』

「そうかも、な」

『ミミさんとの事、言葉で教えてくれないかな? 私は、ミミさんと宵知がどんな時間を過ごしてきたのか、知らないから』

「…………長くなるぞ」

 抱かれた腕の中で丸くなり、ぴったりと手に寄り添った。耳をぴくりぴくりと動かし、得意の音を拾う。

『うん。耳が長くて聞くのは得意。……撫でて。聞いてる』

 彼の低い声が、馴れ初めから二人の記憶を語り始める。優しいエピソードばかりなのに時おり彼は苦しそうに声を詰まらせて、それでも言葉は止めなかった。

 宵知の家には、ミミさんの姿を集めたアルバムも、ペットケージも、水入れもそのまま残っていた。相槌を打ちながら、幸せだった記憶に寄り添う。

 結局、苺大福を食べる約束は夜になったし、目が腫れすぎて出歩けず、カニ鍋は後日に持ち越された。

 

 

▽5

 私にミミさんの事を語り倒した日から、宵知はめっきり明るくなったように思う。

 仕舞い込んでいたミミさんの写真がいくつもフォトフレームに入れて飾られるようになり、私は依頼の時間は兎の姿を取るものの、人に戻ってからも時間を共に過ごすようになった。

 友人、そう称すると特に反論もなく受け入れられる。

 依頼無しでも会いに行くよ、と言うのだが、特に金に困っていないらしい宵知は、兎の姿でも会いたいから、と依頼を止めようとする気配もない。

 友人、としても濃い時間を過ごすようになって、なんだか急に距離が近くなった。

「ねえ。生地の柔らかさ、これくらい?」

 今日は苺大福を作ろうと材料を持ち寄って集まり、二人で生地作成に苦戦しているところだ。

 宵知はレシピ本を片手に、生地をつまんで感触を確認している。いいだろう、と承認を得て、生地を切り分けた。

 手に粉を付け、妥当な厚みに広げる。頬を擦ると粉まみれになった。

「美月。頬が真っ白だ」

 はは、と楽しそうに笑っている。長くて骨張った指が伸び、私の頬、広がった粉の上を撫でた。

 こうやって、何の気なしに触れてくる。人でも、兎でも同じだ。元々はパーソナルスペースが狭い方なのか、ボディタッチも多くなった。

「もう。粉、拡げてるでしょう!」

「拡げてない」

 悪戯っぽく、自分の指の粉を付けてくる。私は粉まみれになった両手で、彼の頬を挟み込んだ。

 二種類の笑い声が上がる。お互いに頬は真っ白だ。

「ほら、生地できたから手、洗おうよ。餡子詰めなきゃ」

「はいはい。俺、苺のヘタ落としてる」

 私に対して、客人、という遠慮も抜けてきていた。彼がやっていた片付けなんかも分担させられ、家の物の配置を覚え始めている。

 手を洗い、頬に付いていた粉を拭い落としてから、できあがった生地に餡子を詰める。

「てっぺんに苺載せる?」

「そうするか」

 頂点から餡子が見えている形で整形し、その場所から洗ってヘタを落とした苺を押し込む。

 初めてにしては上々な出来栄えに、二人の間で歓声が上がった。次々と苺大福ができていき、余った生地と餡子で、普通の大福も出来上がる。

「お茶、沸かそうよ」

「ケトルの使い方は分かるか?」

「分かる!」

 急須を用意しに向かった彼とは反対方向に動き、水を入れたケトルの操作パネルを押す。

 反対側では茶葉が用意され、直ぐに沸いたお湯が注がれた。宵知は木のプレートに苺大福を並べ、写真に収めていた。

 大福の向かい側でポーズを決めると、無駄に連写される。

「なんで沢山撮るの!?」

「美月の写真が少ないから」

「増やさなくていいよ……!」

 放っておけば、私のアルバムも作られそうな勢いだった。

 宵知は納得がいかない、というように眉を寄せると、苺大福を食卓に運んでいく。その後を、急須と湯飲みをお盆に載せ、ゆっくりと追った。

 時刻は丁度おやつ時で、窓辺からは燦々と陽の光が差している。

「いただきます!」

「いただきます」

 お茶を注いで、苺大福を手に取った。初めて作った品特有の凸凹とした生地ではあったが、噛みつくと柔らかくて甘い。

 苺の甘酸っぱさと、餡子の甘さは幸福感を連れてくる。

「宵知。これ、大成功じゃないかなぁ?」

「だな。癖になりそうだ」

 ぺろりと一個を食べきってしまった宵知は、次の苺大福へと手を伸ばす。

 私はのんびり生地を伸ばしたりしつつ、食べ進める。とはいえ、二個も食べればお腹はずいぶん膨れてしまった。

「美月は、身長はまあいいとして。もう少し横幅を増やしてもいいんじゃないか? 折れてしまいそうだ」

 もしかして、細身だと心配されて色々と食べさせられていたんだろうか。身体が魂由来のため、単純に食べれば太る、という機構でもないのだが、説明が面倒で放り投げる。

「ううん……。兎の姿は毛があって気づかれないし、私は平均身長くらいあるけど、兎の一族は私よりも小さい子も多いよ」

「小柄で細身の人間が多いのか?」

「うん。それも人の印象由来なのかなぁ。耳があるぶん、シュッとして見られがちなのかもね」

「ああ。バニーガールなんかも、スタイルがいいものな」

 想像してはいなかったが、確かにバニーガール、といわれて想像するのはスレンダーで尚且つくびれのある姿だ。

 お茶を啜って、ほう、と息を吐く。

「あれはウサギが始終発情期だっていうイメージからだっけ。性的に強烈な印象を与える姿だよねえ」

「単純に興味本位で悪いんだが。そのあたりの印象から来るフィードバックは?」

 つまりは、性欲が強いかどうか、という事だろうか。

 相手をじっと見返すと、宵知は気まずそうな顔になった。当たっているらしい。くすくすと笑って、気にしていないと表情で示す。

「強いと思うけど。それが一族だと厄介で。多情なタイプもいれば、生涯の伴侶にだけ向くようなタイプもいてね。後者は、相手が見つかるまでは普通に過ごしてるかなぁ」

「ああ。じゃあ、美月のような人物は……」

「────どっちだと思う?」

 つい悪戯心が働いてしまった。因幡の白ウサギはワニを騙すし、天から炎を盗んだウサギだっている。

 悪戯をしては跳ね、そそくさと逃げるのもまたウサギだ。

「…………え?」

 ざっと顔を青ざめさせた宵知に、想像していた反応と違う、と呆気にとられる。もうちょっと慌てるかと思っていたのに、何を想像したんだろうか。

「深く考えなくていいよ。私は、伴侶はしっかり選ぶ方」

 答えた途端、相手の口から深く息が吐き出された。なんだか、肩もだらりと下がっている。

 やっぱり想像とは違った反応だった。

「私のこと、多情なタイプだと思った?」

「いや。『そうだったらどうしよう』と」

 確かに、多情な人間が家に頻繁に出入りをしていれば不安になる。悪いことを言ってしまったな、と心中でこっそり反省した。

 相手は私が考えている様子を見ることもなく、机の上に視線を彷徨わせている。

「美月の顔立ちは……大人しそうな和風美人だし……。と、言っても気分を悪くしないか?」

 不安そうに言われ、笑い声を返す。下心見え見えに言われれば引きもするが、目の前の人はなんだか慎重に言葉を選んでいるようである。

「ふふ。褒め言葉と受け取っておきます」

「そうしてくれ。まあ、そう思っていたから、……実は性的に奔放だと言われたら、動揺するかな……」

「おや。ご期待に添えなかったようで」

「添えなくていいんだ」

 必死にそう言われると、また口元に手を当て、ころころと笑ってしまう。熊を手玉に取ることに楽しさを覚えてしまった。

 一族の身体は魂で構成される。生殖は魂を分かつことで行う。だから性的に奔放でも子が際限なく増えることはないが、多数と粘膜で身体を繋げる事……魂を様々な相手の色で混ぜる事は忌避する一族は多い。

「そういえば、宵知って私たちの一族のこと、どのくらい知ってるの?」

「動物と人の形を取ること。動物と話ができること。神から魂を分かたれた存在だということ。……くらいを、ぼんやりと」

「ああ。じゃあ一族が雌雄で殖えないことは知らない?」

「知らないな。特殊な生殖方法なのか?」

 うん、と頷き、びよん、と手元で大福の生地を伸ばす。思ったよりも長く伸びた。

「性的交渉は持つんだけど、目的は魂を染めてもらうため。あとは、相手の色で染まった魂を分けて、新しい一族が生まれる」

 一定の長さまで伸ばすと、流石に生地は分かれた。片方の大福に噛みつき、咀嚼する。

 目の前の宵知はぽかんとして、次の苺大福に伸ばそうとしたであろう指先は頼りなく宙に浮いていた。

「はあ…………?」

 頭を抱え始めた宵知に、もう一度同じ言葉を繰り返す。

 魂の概念がよく飲み込めなかったようだったが、質疑応答を繰り返すうちに認識の齟齬が無くなっていく。

「────つまり、一族の誰かの魂を基に、番と呼ばれる他者の色を交ぜた魂を、別の存在として分けて新しい一族が生まれる?」

「そう。だから、私たちって番を選ぶ範囲は広いよ。人間でも一族でも、男女どちらでもいい。ただ、そういう理由で恋愛関係は重たく捉えやすいかもね」

 残ったもう一切れを口に運び、咀嚼する。そろそろお腹いっぱいだった。

 宵知は言葉にならない声を漏らし、真剣な表情で指先を組む。

「それは、その……。俺相手でも?」

「子どもを作れるかって話? 一族なら、誰でもできるよ。一族が減った時、相応しいであろう個体が選ばれて、魂を分けるから」

「そ、……そうなのか」

 はあ、と息を吐いて胸元を押さえている様子から、相手にとってはひどく意外な話だったのだろうなと想像する。

 彼は自身を落ち着かせるようにお茶を流し込み、ようやく視線をこちらに向けた。

「ちなみに、美月は……。人間がいいとか、一族がいいとか。男女どちらを好む、ようなものは?」

「うーん。拘りはないかなあ」

 こうやって深く、お互いの話をするのは初めてかもしれない。ずっとミミさんの事をどう受け止めるかに精一杯だった。相手の視線が私を向いていることが珍しく、くすぐったい。

 とくり、とくり、と跳ねる鼓動は悪いものではなかった。

「そうか。良かった」

「話、面白かった?」

「ああ」

 宵知は最後にもう一個、苺大福を食べきって腹を摩る。あちらもお腹いっぱいのようだ。しばらくお茶を楽しみ、残った大福は冷蔵庫に仕舞った。

 

 

 

▽6

 兎の姿で戯れていると、急に雨が降り出した。

 折り畳み傘を持っているから雨に関してはいいのだが、今日は随分と風も強い。

 雨が壁を叩く音。自宅なら怯えていたのだろうが、この家は兎の耳であっても音が遠かった。それに、近くにはずっと私を撫でる手がある。

『雨、強くなってきたね』

「そうだな。帰りは車を出そう。送っていく」

『平気だよ。それにこの雨じゃ、車、危ないんじゃない?』

 もぞもぞと腕の中から出ると、ソファから飛び降り、テレビのリモコンへと駆けていってボタンを押す。

 背後から拍手をする音が聞こえてきた。

「ウサギがリモコンを操作している姿を見ると、なんだか感動するな」

『中身は私だってば』

 ぴょんぴょんと跳ね、宵知の膝の上に戻った。褒めるように背が撫でられ、気持ちよさに頭を擦りつける。

 しばらく待つと、天気情報が流れてきた。

【車で移動される方は十分にご注意ください。……──雨は明日の朝まで続くとみられ──────】

 全国地図にはほとんど全ての地域に雨マーク、そして私たちが住んでいる地域には強風のマークが添えられている。

『え? そんなに酷い雨なんだ。確認し忘れてた』

「俺もだ。テレビ自体も久しぶりに見た」

『普段、無音なの?』

「最近は少し音楽を聴くようにはなったが、それくらいだな」

 音楽を聴くようになった、という言葉に驚きつつも、どうしようかなあ、と腕の中で思案する。

 一つ、案は浮かんだのだが、来訪者側からは提案しづらいものだ。じっと宵知を見上げると、でれ、と相好が崩れた。

 この人のウサギ好きは相当らしい。私はミミさんに似ているので、ミミさん好き、なのかもしれない。

「明日の予定次第だが、泊まっていくか?」

 頭に浮かんでいた案が、相手の口から提示された。ぱちり、と瞬きをして、膝の上に身を横たえる。

 直ぐに指が伸びてきて、ふかふかの胸元の毛に埋まった。

『いいの?』

「ああ。下着は買い置きのものがあるが、パジャマは俺の使い古しで我慢してくれ」

『助かる。夕ご飯なににしよっか』

「今日こそカニ鍋かな。美月は、酒はいけるか?」

『いけるよ。最高』

 膝の上でころんころんと上機嫌に転がる。追い掛けてきた手にもみくちゃにされ、言葉にならない鳴き声が漏れた。

 大きな掌ながら繊細に、心地いい場所に触れてくれる。猫ならゴロゴロと喉を鳴らしていたところだ。

『眠くなってきた』

「少しお昼寝するか?」

 近くにあったブランケットで包み込まれると、本格的に暖かくて眠たくなってくる。

 宵知の膝の上に丸まって、相手の呼吸音を聞きながらただ微睡んだ。雨が外壁を叩く音も、遠ければ心地よい程度の騒音でしかない。

 しばらくすると、私は眠ってしまったようだった。

 

 

 

「────美月」

 目を開けると、端正な顔立ちがすぐ傍にあった。ひえ、と情けない声を漏らし、もぞもぞと毛布の中に潜り込む。

 毛布越しに、身体を撫でる掌があった。

「悪い。そろそろ起こそうかと思って」

『…………ん。や。寝ぼけて、びっくりしただけ』

 もぞもぞと毛布を抜け出て、身体を起こす。後ろ脚で立って、引いてしまった手に頭を押しつけた。

 ふ、と宵知の口元が緩む。本当にウサギ相手には柔らかい表情をする人だ。

「鍋の下拵えは済ませてある。寝起きでまだ腹が減らないなら、先に風呂はどうだ?」

『そうしようかな。宵知もシャンプーのいい匂いがする。借りてもいい?』

「時間が被ると面倒かと思って、先に汗を流してきた。置いてあるものは好きに使ってくれ」

 彼はそう言うと、私を抱き上げた。

 風呂へ向かう道中、パジャマや新品のパンツを回収しては身体の上に積まれた。脱衣所に辿り着くと、元々着てきた服の隣に着替えとタオルが置かれる。

 風呂場に入り、丁寧にシャンプー類の説明を終えると、彼は私を脱衣所の床に下ろす。

『ありがと。のんびりしてくる』

「ああ。上がったら飯にしよう」

 ゆっくりと脱衣所の扉が閉められると、私は遠ざかっていく足音を聞きながら人の姿に戻る。

 風呂場に足を踏み入れると、湯船は綺麗な湯が張られていた。どうやら、彼が上がったあとで張り替えてくれたようだ。

「ほんと、几帳面っていうか繊細っていうか」

 添えられたボディタオルもパッケージのままだ。包装を破り、脱衣所に置かれていたゴミ箱へ捨てる。

 ボディソープを泡立てると、きめ細かく大量の泡が立った。シャンプーもボディソープも見たことがないものだが、匂いは強すぎず、清潔感がある。

 身体をのんびり泡まみれにして、お湯で流す。

「自宅より極楽かも……」

 現在の自宅は一人暮らしに適したサイズで、流石に一軒家の風呂は広く感じる。髪を洗い終えて湯船に浸かると、足を伸ばして尚余った。

 ふと、家主の体格を思い出す。普段から宵知が入っている風呂だから、私が入っても広いのだ。

「雨、止まないなぁ……」

 少しでも小降りになりそうなら帰ろうと思っていたが、窓越しに響く音は今なお煩い。

 たっぷりの湯に身を沈めて寛いでいると、何となく空腹を覚え始める。風呂上がりには鍋だと言っていた。

 思い出すと、更に空腹感が強くなった。

「上がろ」

 湯船から出てふかふかのタオルで身体を拭き、貸し出されたパジャマを身につける。想像通り、足も腕も裾を折る羽目になった。

 平均身長以上はある私が服の裾を折る機会は然程なく、相手との身長差に感動すら覚える。やはり血筋ゆえなのだろうか。

 髪の水分を落とすと、ドライヤーを借りて髪を乾かした。雑に乾かしてしまい、普段はもっと纏まっている髪がふわふわと暴れる。

「まぁ、いっか」

 最近は、うたた寝して髪がぼさぼさになっている事もよくある。お互いにすっかり気が抜けてしまっているようだ。

 リビングに戻ると、私を見た宵知が立ち上がった。私の姿を見て僅かに眉が動く。何かを考えているであろう事はわかったが、内容に想像は付かなかった。

「…………。鍋、始めて平気か?」

 お腹をさすり、こくんと頷く。

「いけそう」

 食卓には卓上調理器に鍋が載っており、中には具材が入れられていた。

 嫌いなものは、とウサギが食べられない野菜を指差されるが、特にない、と笑って答える。調理器のパネルが操作され、中身が温められ始めた。

 席には皿と箸がきちんと揃っている。何なら、酒のグラスまで置かれていた。

「日本酒はどうだ?」

「きつすぎなければ」

「大丈夫だ。こういうラベルで」

 見せられたのは、ラベルに可愛いウサギが印刷された酒だった。初心者向けなようで、微発泡かつ度数も軽い。

 小さなグラスに中身が注がれると、腕を伸ばして乾杯する。

「あ、美味しい」

「甘みはあるが、甘すぎなくていいな」

 チェイサーとしてなのか、隣には冷たい緑茶が置かれている。やっぱり几帳面だ、と感動しながら、軽く和らげるための水分を挟んだ。

 鍋はくつくつと音を立て始め、具材も柔らかくなり始める。途中でカニの脚が足され、更に出汁が広がる。

「そろそろ野菜はいいんじゃないか?」

「ほんとだ。いただきます」

 白菜を取り分け、はふはふと口に運ぶ。主張しすぎない味ながらも、つゆと一緒に啜ると旨味が感じられる。

 私の様子を眺めていた宵知も、手元に具材を取り分ける。

「白菜を囓るのが似合うな」

「私は今は人間だよ?」

「はは。兎の姿がすぐ浮かぶ」

 上機嫌にキノコを取り分け、大きな口へと運んでいく。

 酒のラベルといい、使っている皿の模様といい、放っておけばウサギグッズにまみれてしまいそうだ。

 カニの脚が煮えると、しばらく無言で咀嚼する。沈黙が続こうとも、特に埋めようとはしなかった。

「────カニってさ。仲良くない人とだと気まずいね」

「長いこと黙るからな。…………俺とが気まずいって話か?」

「ふふ、そんな嫌味は言わないよ。美味しいね」

「ああ」

 殻から引き抜くと、一気に赤い身がこぼれだした。上手く抜けた中身を相手に見せつけ、口に運ぶ。

「くれる訳じゃないのか」

「……ん。上手く剥けたから見せたかった」

「そうか、上手だった」

 ウサギ扱いをされているのか、私に対しての態度は始終甘い。突然理由もなく背後から引っぱたいても何だかんだで許されそうだ。

 何かに怒っている姿を見たことがない。彼が牙を剥くとしたら、大事なものに害が及んだ時なんだろう。

「酒、もう一本開けるか」

「私けっこういい気分だよ」

「じゃあ、軽いやつにするか」

 立ち上がった宵知の手でチェイサーと一緒に、別のウサギラベルの瓶が運ばれてくる。

 酔いは重たくはないのだが、美味しい鍋も相俟ってふわふわとした感覚がずっと続く。私は上機嫌で家主にお代わりを強請り、カニを食らった。

「あー……、気持ちいい……」

「そろそろ酒はやめておくか」

 私の近くから酒が片付けられ、残りが宵知の喉へと消えていった。文句を言うと、ノンアルカクテルの缶が与えられる。

 冷たいそれに満足し、プルタブを引いた。

「お酒だー」

「ノンアルコール飲料だ」

 律儀に訂正すると、目の前の宵知は鍋の残りを片付けに掛かる。

 こちらはもうお腹いっぱいで、椅子の背に凭れながら缶の中身をちびちびと啜った。

「雑炊は明日にしようか」

「ん」

 返事をするのも面倒で、鍋の残り汁を片付け始めた家主をただ見守った。

 私の皿なども片付けられてしまい、飲んでいた缶とおやつを握らされてソファに追いやられる。握らされたクッキーはバターたっぷりで美味しい。

 しばらく待っていると、片付けを終えた宵知がビールの缶を片手にソファに腰掛ける。

「自分ばっかり」

「一口だけならいいぞ」

 ほら、と缶を渡され、ごきゅごきゅと呑み込む。途中で缶は奪い取られたが、数口はいけた気がした。

 はぁ、と呆れたように息が吐かれる。

「酔っ払いめ」

「んふふ」

 ソファに沈み込むと、ようやく外界の音が戻ってくる。雨の音は止まず、風の音もまた、明日の朝までは変わらないらしい。

 今までは遠かったその音が、やけに耳障りに思えた。

「雨の音、大きくなってきたね」

「なにか。テレビでも点けるか?」

 彼はリモコンを持ち上げてみせるが、特に見たい番組がある訳でもない。その場でゆっくりと首を横に振った。

 会話が止むと、雨の音が煩くなる。言葉は頭に入らない。大音量が聞きたいわけではない。

「兎になろうか?」

「え?」

「私といても、つまらないでしょう」

 言葉に自嘲気味な響きが混ざってしまったことに、ひっそりと嫌悪する。

 ずるり、と頭がソファの背を滑った。

「なんで、そう思ったんだ?」

「んー。なんかさ、ずっとそう思ってるんだよねぇ」

 間延びした声で答えると、相手の目が見開かれたのが分かった。

 酒というものはいけない。理性が溶けきって、隠していたものがぽろぽろと口から零れていく。

「……俺が、ミミばかりを求めたからか?」

 申し訳なさそうに言われ、分かりやすく首を横に振った。

 あはは、と声だけで笑って、がっしりとした肩に寄りかかる。急にそうしても、相手はびくともしなかった。

「私ね。いちど普通に就職してるんだよ」

 最初にそう思い始めたのは、何が切っ掛けだっただろう。頭の中を探って、ようやくそれに辿り着いた。

「最初から動物タレントをしていた訳じゃないのか」

「うん。でも、ずっと空回りしてる気がしてた。私、兎角押しが弱くて、ほら、お仕事ってちょっと押さなきゃいけないこと、あるでしょう。でも、上手くいかなくて。上手くいかないまま、居づらくなって辞めちゃったんだよね」

「それで、モデルに?」

「一族から紹介を受けてね。兎は臆病で表に出たがらないから、タレントなんて以ての外。……なんだけど、私は逆にほかに選べる仕事がなくて。ずるずる、今の仕事を続けてる感じ」

 人としての私は社会的に失敗して、兎としての愛くるしさは社会に受け入れられた。その結果が齎す落伍感は、ビールの後味と混ざってなんともほろ苦い。

「兎としての私が成功していく度に、段々とね、人の私が挫折していくんだよ。人としての私は学んで社会に出たはずなのに、それらは全部求められなくて。生来もつ兎の姿は、何の努力もいらない兎の姿は、かえって今の私を生かしてくれる」

 つい癖で、相手の腕に頭を擦りつけてしまった。撫でて、と甘えているときに無意識に出てしまう仕草だった。

 雨の音はまた遠くなった。私の声だけが、広い室内にぼんやりと響く。

「兎の姿は可愛らしくて、愛くるしい仕草だって纏える。でも、今の、人の私がね。そうするのは、なんとなく不格好で。一緒にいてもつまらないでしょう、って話」

 その割に、兎の時の癖で近くに寄ってしまった。腕を引こうと持ち上げると、二人の間で手首ががっしりと掴まれる。

 無意識なのか、皮膚に指が食い込んでいた。

「あ……」

「あ?」

「美月は、…………愛らしい、と思う」

 絞り出すような言葉が、人のほうを指しているのは何となく伝わってくる。彼が兎の姿を褒めるときには、こんなに言葉を躊躇わない。

 だからこれは、人の私に向けた言葉だ。

「本当は、馬鹿にされても仕方がないと思っていたんだ」

「え?」

「『飼っていたウサギを喪ったくらいで』長く塞ぎ込んで、仕事も失って。更に、似たウサギと金銭を支払ってでも会おうとする。自分が、世間的に見ればおかしいことをしている事は自覚していた」

 手首に籠もっていた力が緩む。それでも、指先は絡みついたまま、縋るようにほんの僅かな力だけが残っていた。

「だが、最初に話を聞いてくれた動物プロダクションの担当者は、話を聞くと、心情に理解を示してくれて、ただ引き受ける兎のタレントの心理的な負荷を気にしていた。俺がおかしい筈なのに」

 おそらく、私に説明をしてくれた、龍屋さんの事を言っているのだろう。

 彼は恋人であり飼い猫でもある猫神の一族を溺愛している。ウサギを喪ったことを『たかが』とは決して捉えない筈だ。

「驚いたのは美月もだ。仕事を承諾して、家に来たと思ったら、あっさりとミミのふりをしてくれた。ミミとして、俺に付き合ってくれた」

「それは。……お仕事だから。ちゃんと望まれていることをしようと思って」

「有難かった。違和感がない訳ではなかったが、俺の様子を見ながら、ミミとしての振る舞いに少しずつ仕草を寄せてくれた。驚くほどそっくりで、ほんとうに、毎回次に会うのが楽しみだった」

 相手の指先が離れていく。視界の端で動きを追って、つい、自らの指を伸ばしてしまった。

 二人の間で指が触れて、すこし時をおいて絡んだ。妙に鼓動が大きくて、伝わる体温が熱い。

「けれど、ココアの姿がミミに近づけば近づくほど、時々漏れ出る美月の素性が気になるようになった。人の姿をしている時だって、おやつを用意して無意識に引き留めようとしてしまって……。そうやって繰り返すうちに、二人を別の存在として捉えたい。ミミのことに向き合いたいと思うようになったんだ」

 こちらを見る瞳は優しくて、一カ所に定まらない。あからさまに照れているのが伝わって、鼓動がつられて跳ねた。

 私はミミさんとしての振る舞いをしながらも、自身に目を向けてもらいたくて寂しかった。言葉で表すとしたら、これは嫉妬なのだろう。

 嫉妬は、好意があるからこそ成立する感情だ。私は、彼に大事にしてもらえる存在になりたがった。

「人だけでもなく、兎だけでもない。美月が依頼を引き受けてくれたから、俺はこうやってカニ鍋を食べて、いい感じに酔っ払うことができている」

「…………。それ、いいこと?」

 ふっと笑いが零れた。相手にも伝染った。

 軽く指先に力を込める。皮膚同士の触れ合いは、兎の時とは違ってまた別の感情を連れてくる。

「いいことだ。楽しかったよ」

 彼は言葉を切って、その場に無音を齎した。宵知との間にある無音は、疎まれるものではないから、埋めなくてもいいから気が楽だ。

「鍋がふつふつと煮立っているとき、リズムだと思った。湧き上がる蒸気を見て、俺は水の底に沈む音楽を綴っていた。あの音は、煩くはなかったな」

 彼は音楽が詰まったあの部屋で、音に対しての拒否感を露わにしていた。私はそれを聞いて、彼が音楽の道に戻る日は来るのだろうか、と思ったものだ。

 宵知が所属している音楽事務所を助けたいだとか、そういう考えは今もない。ただ、選び抜かれた機材が埃を被っている様は、思い返すたびに切なくなる。

「鍋がこぽこぽしてて、窓の外はざあざあでさ。今日はずっと水の音楽ばっかりだね」

「うんざりするか?」

「うーん。一人で家にいたら、うんざりなのかも」

 繋いでいる手を見下ろす。何気なく持ち上げて揺らしてみると、きゅっと指先が掴まれた。

 隣で喉を鳴らす音がする。雨の音に浮かぶような、彼にしては珍しい響きだった。

「今日は、お話ししてるから、楽しいなって思ってるよ」

「俺もだ。人の姿の美月と過ごす時間も、つまらなくなんかない」

 視界の端で持ち上げられたビール缶が傾けられた後に、横から奪い取る。含んだそれは炭酸が少し抜けて、やや温い。

 兎の時に、大きな掌で包み込まれるのが好きだ。背中を指が伝っていくのが好きだ。持ち運ぶとき、本当に気を遣ってそろそろと動くあの幸せな揺れが好きだ。

 けれど、人の姿だと腕の中に入れては貰えない。友人と手は繋げても、親密に抱き寄せたりはしないからだ。

 

 

▽7

 その日も事務所への定例報告のため、プロダクションの建物へと呼び出しを受けていた。

 宵知が音楽の話をするようになった、と伝えると、龍屋さんはファンの顔とスタッフの顔を行き来しつつも、普段よりも柔らかい表情を見せていた。

 打ち合わせの後、ついでに事務所カレンダーの撮影も、ということで、龍屋さんと連れ立って兎の姿で撮影ルームへ向かうと、既に先客がそこにいた。

 猫、犬、狸に狐とあまり見ない大所帯。しかも全員が動物の魂を持つ一族の人間ばかりである。

 どうやら寒い季節をイメージした写真を撮りたいようで、白い床の撮影ルームには、ふわふわのクッションがいくつも置かれ、その上で犬と狐が取っ組み合いの喧嘩をしていた。

 カメラを向けている『大高』というネームプレートを付けたスタッフが止めに入る。

「もう! 本物の犬や狐ならともかく、いい大人が何をしてるんですか!」

『こいつがからかいやがったんだ!』

『撮影直前までクッション掘って遊んでるんだから、からかいもするだろ』

 狐はイメージ通りの狐だが、犬は白いポメラニアンである。脚のリーチの差で、ポメラニアンの攻撃は通らず、狐の肉球に押さえられている。

 二人の周囲をクッションを咥えた猫が楽しそうに駆け回り、その後をおどおどと止めようと苦戦する狸が追いかける。

 混沌。全員が人としての意識も常識も持っているはずなのに『こう』なのである。

『────あ! 成海! 兎だっこしてる! 浮気だ!』

 そう言いながら突っ込んできたのは猫。ペルシャ猫のような容姿の白い猫だ。

 成海、というのは龍屋さんの下の名前であり、この猫が彼の恋人であり番であり飼い猫である、その人である。

「誤解だ。長ヶ耳さんは小さいから、疲れるだろうと思ってこうやって連れてきただけだ」

 律儀にそう説明すると、私の身体をゆっくりと床に下ろす。

 どうも、と合図をして撮影スペースに跳ねていった。

『よろしくお願いします、長ヶ耳です。兎です』

 ぱらぱらと揃わない返事があり、初対面の人も含めて名前を教えてもらった。

 猫の花苗、犬の戌澄、狐の瓜生、狸の立貫。最近、一族の所属者が増えたとは聞いていたが、本当に一気に種族も人数も増えたものだ。

 白いクッションを選び、ぽふんと身体を預ける。いちど静かになると、全員が表情を作り、スムーズに撮影が進んでいく。

「次。皆で寄った感じの写真いいですか?」

 指示を受け、全員が大きなクッションに集まる。

 たった、と素早い身のこなしの犬と猫が中央を陣取り、その後でのんびり組の狐と兎、最後に様子を窺っていた狸が端を埋めた。

「もうちょい詰められます?」

 接近したショットを取りたい、と指示があった。

 全員がどう集まろうか思案している最中、何気なく狐が端から押す。押した場所があまりにも良すぎたのか、犬が体勢を崩し、巻き込まれた猫もすっ転び、兎が押し倒され、狸が心配そうに身を寄せる。

 手脚も毛も絡まった状態で身を起こそうともちゃもちゃしていると、シャッター音が連続で鳴った。

『…………いや助けろよ!?』

 尤もな犬の叫びが響き、全員で思わず笑い出してしまう。床に倒れたまま動き出せず、妙なツボに入ってしまってしばらく笑い声は止まない。シャッター音も止まなかった。

 ひいひいと腹を抱えつつようやく起き上がると、全員の毛はぼさぼさになっていた。

『毛がひどいことになっちゃった。休憩にしようよー』

 猫が言い出すと、大高と龍屋のスタッフ同士で相談の後、毛並みを直しがてら休憩、という話になる。

 撮影に使ったクッションを集め、各々好き勝手に横になる。スタッフ達はブラシを持ち、乱れた毛の手入れが始まった。

『つか、人数増えたなあ。狐が入りやがったと思ったら、狸、それに兎まで増えてる』

 犬はそう言い、クッションの上で仰向けになった。口調は青年のそれなのだが、見た目は愛くるしいポメラニアンである。

『長ヶ耳さんは俺と同じ、社会人組だったよな?』

 狐が問いかけてくる。彼も私と同じく社会人経験がありながら、現在はタレントとして活動していると聞いた。

 私はこくんと頷き、相手に向けて耳を動かす。

『はい。転職先がプロダクションって感じです。花苗さん、戌澄さん、立貫さんは大学生でアルバイト先がここ、でした……よね?』

 三人はそれぞれ肯定を示した。

『お兄さん、若い人の勢いに疲れててさ。仲良くしよう』

『はい。どうぞよろしくお願いします』

 狐……瓜生さんを見ていると、別の狐の存在が分かる。魂の色、生来の気配、そういうものに、強い一族の力の片鱗があった。

 首を傾げ、近くにいるその人に問いかける。

『恋人、強い狐? 一族のひと、ですか? 気配が凄いですね』

『あー……、怖いか? 悪いやつじゃないんだけど』

 狐はヒゲを垂らし、肩を丸めてしまった。

 道を歩いていたら避けて通るかもしれないが、瓜生さんの気質としては悪い人ではないような気がしている。

『神様に近しいんですかね。強いな、って思うだけで、怖くはないですよ』

 そう言うと、狐は口の端を持ち上げ、私の跳ねていた毛を舌で繕ってくれた。

 狐の隣には狸が寄っており、ちらちらと私を窺っている。だが、狸は途中でスタッフの大高に抱き上げられ、ブラシを掛けられ始めた。

 なんだか気安い空気を眺めていると、魂の色が近しいのが分かる。あちらも恋人同士らしい。

 まだ近くにいる狐に問い掛ける。

『事務所内恋愛、多くないですか?』

『多いよなあ。長ヶ耳さんはどう?』

『いないですねえ』

『へえ。いそうに見えたのに、恋人候補も無し?』

 そう言われると、ぽん、と宵知の顔が浮かんだ。そして、浮かんでしまったことに動揺して、ぱちぱちと瞬きをする。

 私の様子を見て、ふうん、と狐が訳知り顔をする。

『事務所外?』

『いや。…………事務所外、ではあるんですけど。恋人候補、でもない、というか』

 気配に気づいてそちらを向くと、知らない間に、犬がこちらに歩み寄っていた。狐とは反対側を犬に押さえられる。

 もふもふともふもふの間にサンドされ、両側からぎゅっぎゅとやられた。

『なんか。匂い? 大型獣の気配がする。魂から』

 犬はぽつりと呟き、私の背に鼻先を当てる。すんすんとにおいを嗅がれているのが分かった。

 鼻先とはいえ、単純にくすぐったい。

『動物神……熊から加護を受けた人と、よく一緒に過ごしている、ので。それででしょうか』

『えぇ……。相手は恋人じゃないんだろ? 距離を取った方がいいんじゃないか』

 犬は私に対して心配そうにそう語りかけてくる。見た目はアイドルばりに可愛い白ポメである。

 つぶらな瞳に見つめられていると、段々と悪いことをした気になってくる。

『あの、距離を取った方がいいって、どうしてですか?』

『加護を得てる純粋な人間って、魂に与えられた加護や力を意図して使うことはできないんだ。けど、上手く使えないながらも、力の一部を借り受けることはできる』

『はぁ』

 肯定とも否定とも言えない、返事にしても微妙な声が漏れる。

 ポメラニアンは短い手を伸ばすと、私の肩を組むように動かした。だが、小さい肉球は毛の上を滑る。

『無意識に魂を染めようとされてるぞ。あんた』

『はぁ……? それは、どうして……』

 その問いに答えたのは、反対側から前脚を伸ばしてきた狐だった。今度は、肩を組むように引き寄せられる。

『さぁなあ。けど、一般論で言うと、人を自分色に染めたがるのは独占欲だぁな』

『だよなぁ』

 反対側にいる犬も同意している。何故か訳知り顔で頷いている二人を交互に見て、独占欲、と呟く。

 彼は私を見ようとしてくれているけれど、まだミミさんを、ウサギを独占しようと思っているんだろうか。

 それが、力として働いてしまったんだろうか。

『で、嬉しい? 独占欲』

 犬に尋ねられて、躊躇って、首を横に振る。

『…………たぶん、その独占欲。私宛ではないので』

『あんたに向けられているのに、あんた宛てじゃないって何?』

 分からない、というように小さな白い首が傾く。ふわふわの毛がくしゃりと首のあたりで纏まった。

 私は手短に相手と会うようになった経緯を告げる。独占欲も、飼っていたミミさんと混同しているのでは、という予想を一緒に伝えた。

 二人は静かに聞いていたが、話を終えると顔を見合わせる。

『瓜生サン。俺はひとつ仮説を思いついたわけだが』

『奇遇だな戌澄クン。俺もだ』

 通じ合った二人は互いに、どうぞ、と話の主導権を押しつけ合う。そうして、結局押し負けた犬が私に寄り添った。

『その人のこと、好きか?』

『はい。素敵な人ですよ』

『恋人にしたいか?』

 ヒュ、と喉が鳴って、咳き込みそうになった。どうどう、と肉球にさすられる。

『無理に答えなくていい。恋人にしたいと思ったら、恋人になって、って相手に言え。いいか、すぐにだぞ?』

『……あ、の。なんで?』

『ややこしくなるからだ』

 助けを求めるように狐に視線を向けるが、狐もうんうんと頷くばかりで、言葉を補足してはくれなかった。

 勢いに押されて頷きつつも、唇はぐっと引き結ぶ。

 恋人になったら、あの掌は私以外を親密に撫でることは無くなるんだろう。想像した先は酷く甘美で、それがまた、感情を滅茶苦茶にした。

 

 

 

▽8

 甘いものを食べるだけだった訪問に、食事が増え、更には飲酒を誘われることも増えた。

 食事だけならいいが、酒を飲むとそのまま泊まっていくよう言われる。宛がわれるのはゲストルームではあるのだが、近しい距離を許され、内心では戸惑ってしまう。

 友人だと思いきれば迷うこともないのに、彼を独占するという甘さが誘惑して離れない。その果実は囓ってはならない筈なのに、美味しそうに香りを放っていた。

「美月。まだ飲むか?」

 今日も夕食を共にして風呂に入らせてもらい、ラフな部屋着でソファを陣取っている。背後を振り返り、美味しそうな瓶が持ち上げられているのを視界に入れた。

「飲む」

 返事をすると、しばらくしてワインのボトルとグラスが二つ、目の前のテーブルに置かれた。

 近くにはチーズの載った皿が添えられ、あまりにも理想的な晩酌だ。

「ありがと。美味しそうだね」

「一時期お取り寄せグルメにハマっていたことがあってな。ここのチーズは美味い」

 宵知は当然のように隣に腰掛けた。

 グラスにワインが注がれると、片方を渡される。有難く受け取り、軽く縁を合わせた。

「ワインは詳しくないけど、お花みたいでいい匂い」

 照明の光を受け、透けた紫色がテーブルに移る。揺らして鼻先に当てると、また匂いが変化して、甘さが強くなった。

 口に運ぶと、度数は強くないようで、すっきりと喉を抜けていった。

「飲みやすいね」

「良かった。美月は果物が好きだから、そっちに寄せてみた」

「お花じゃなくて?」

「俺は果物だと思ったがな」

 同じ匂いでも、感じ方は違うようだ。チーズを囓りつつ、難しい、と呟く。隣から喉だけで笑う声が伝った。

「意見って合わないものだねえ」

「そうだな。どういった作品を世に出しても、得られる感想は千差万別だ」

 曲のことを言っているのだろう、ということは容易に想像できた。だが、珍しいこともあるものだ。

 彼はあまり曲のことを語りたがらない。そして、私も距離を置いた方がいいのだろう、と感じていた。

 手の中で、グラスを揺らす。色味に光が混ざって、別の温度を持った。

「…………私。宵知の曲、全部聞いてるんだけどね」

「は?」

「聞いちゃだめだったかな?」

 しゅんと肩を落とすと、作曲者は露骨に慌てたような顔をする。

「ちが……! そうじゃなくて、興味があったんだ、と意外に思っただけだ」

「最初はミミさんに寄せる切っ掛けになれば、って思って聞き始めたんだけれど。ピアノっぽい音が綺麗で耳触りがいいから、次に、次に。って、ついつい聞いちゃう」

「そうか」

 宵知は言葉少なにグラスを持ち上げ、何度も中身を口に運ぶ。

 頬は酒のせいではなく、わずかに染まっているように見えた。私がじい、と見つめている事に気づいたのか、顔が逸らされる。

「…………照れてる?」

「単純に嬉しい」

 口元を覆って、彼は表情を隠してしまう。横から服の裾を引いても、なかなか手を下げてはくれなかった。

 つい酔い混じりの悪戯心が疼く。チーズを持ち上げ、彼の口元に近づけた。

「はい。あーん」

 目元だけでも、逡巡しているのが分かった。そろそろと手が離れ、口元があらわになる。軽く開かれた口に、チーズをご機嫌に押し込んだ。

 にっこり、と笑ってみせる。

「美味しい?」

「美味い」

「もうちょっと曲の話、していい?」

「構わない。照れるだけだから放っておいていい」

 テーブルの上に放置していた携帯電話を持ち上げ、音楽アプリを開いてみせる。よく聞いた回数順にソートすると、一気に宵知の曲ばかりになった。

 肩に寄りかかり、見える位置で画面を操作する。整った顔立ちが近づいて、同じ画面を覗き込んだ。

「一番聞いてたの『ラビット』って曲みたい。これ、映画の主題歌だったよね」

「ああ。恋愛映画とのタイアップで、脚本を元に作ったんだ」

「兎の寂しがりってイメージに影響受けちゃうから、私はけっこう共感できる歌詞だったな」

「あぁ。寂しいと死ぬ、だったか……」

 宵知の言葉に、不味い、と顔から血が引く。

 ミミさんとの別れの中で、寂しくさせたまま別れた、という事実が重くのし掛かっていた筈だ。

 だが、私の予想とは相反して、彼はもう泣き崩れたりはしなかった。

「美月も、寂しがりなのか?」

「…………一人暮らしを始めてから慣れたと思ってたけれど。宵知に『泊まっていかない?』って誘われたらすーぐ泊まっちゃうから、そうなのかも」

「はは。じゃあ、また誘う」

 彼は指を伸ばし、ラビットの再生ボタンを押した。流れてくる楽曲を聴きながら目を細める。

 悲しい、というより、懐かしさの方を強く感じさせる表情だった。

「この曲はミミをモチーフにしたから、ちょっと我が儘な歌詞なんだよな。寂しくさせちゃ嫌だ、近くにいて、って」

「そうだね。私はそういうスタンス、憧れちゃうかもなぁ」

 だから、この曲を聞き込んでしまったのかもしれない。二人の間を、音が流れていく。顔を寄せて、会話のバックグラウンドを音楽が満たしている。

 宵知の表情が暗くないことに、私の唇も緩んでしまう。

「今なら、もうちょっと控えめな兎の曲を作るかもな」

「寂しいけど、来てくれるまで待ってる、みたいな?」

「そんな感じ。ちょっとだけ押しが弱くて、いじらしい感じの」

 言われてみれば、彼の話すイメージもまた、多くの人が思うウサギのイメージであるのかもしれない。

 一つのワインも、一つの楽曲も、一つのウサギにも、人は多様な印象を抱く。私とミミさんが違うように、種族という括りはあまりにも大雑把であるらしい。

「作ったら聴かせてね」

「ああ。一番に持っていく」

 彼は棚の中からノートを取り出すと、ウサギに纏わるイメージを鉛筆で書き付け始める。隣で見ていた私も面白くなって、ウサギが持つパブリックイメージ的な文言を口出しした。

 宵知は鬱陶しがることもなく、雑多な言葉を整えて書き残す。

 逸話、性格、傾向。

 飲酒を交えながら、長く、色々な話をしているうちに、ウサギという種族も存外悪くないんじゃないか、と思うようになった。

 これは、宵知が私を肯定してくれたから生まれた感情だ。私はどうあっても、人であって、兎でしかない。

「────角の生えたウサギ、わかる?」

「分かる。一本も二本も」

「ほんと詳しい。宵知はウサギが好きなんだね」

 ノートを見下ろして、彼は黒く汚れた指を擦った。ああ、と漏れた声は、豊かに感情を映す。

「ああ。今も兎は、好きだな」

 手が伸びてきて、私の頭に乗る。そのまま、わしわしと撫で繰り回された。

 意図が分からず、その場で首を傾げた。いくら兎に転じることができるとはいえ、今の私は完全に人の姿をしている。

「宵知。かなり酔ってる? 今は私、人間だよ」

「べつに酔ってない」

 続けて両手で私の肩を掴むと、そのまま抱き込まれた。慌てて近くにあったグラスをテーブルの奥に逃がす。

 他のことに気をとられているうちに、身体には腕が絡み付いていた。

「…………やっぱり、酔っ払いだ。もう寝ようか」

「それもいいかもな。気分がいい」

 宵知は私を解放すると、残っていたワインをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。ご機嫌に喉は鳴っているが、あまりにも心配な光景だ。

 止めに入ったのだが、飲み干す方が早かった。

「もう……! 歯磨きして寝るよ」

 残ったグラスを流し台に運び、余ったチーズを口に放り込む。

 ノートは放っておくことにして、一通り片付いたリビングで、ソファにもたれ掛かっている家主を引っ張り上げた。

 宵知はぼうっとしているが、歩けないほどでもない。腕を引いて、いつも歯磨きをする洗面台へと連れて行った。

 歯ブラシは棚に二つ並んで置いてある。私のそれはウサギのキャラクターが描かれているので分かりやすかった筈なのだが、いつの間にか同じウサギの色違いに変わっていた。

 宵知のほうはシンプルな歯ブラシだったはず、と迷いつつも、自分のではない歯ブラシを持ち上げた。

「歯ブラシ変えたの?」

「ああ。前のも古くなっていたし、ウサギ柄のほうが気分が上がるから」

 彼は照れも躊躇いもなくそう言い切ると、歯磨きを始めた。私は何か言うべきかと迷いながら、自分も隣で歯を磨く。

 口の中を濯ぐと、一気に眠気が襲ってきた。

「私も眠くなってきたかも。早く寝室に行こう」

「ああ」

 寝室へ、と言った瞬間、彼はぱあっと表情が明るくなり、率先して脱衣所から出ていく。転ばないよう気をつけながら後についていくと、廊下の途中で手が捕まった。

 そのまま手を引いて、彼の寝室の前まで連れて行かれる。

 ちらりと覗いたことしかない寝室の扉の先は、落ち着いた色味で纏められていた。濃い色のカーテンは分厚く、朝になっても光を通さないだろう。

 部屋の隅には凝った音響が置かれていたが、カバーが掛けられ、直近で使った様子はない。

 部屋の前で別れるかと思いきや、手を繋がれたまま室内へ誘導される。

「宵知……! あの、私はゲストルームに……」

 そう言った瞬間、身体が持ち上げられた。成人男性の、しかも平均身長より高身長の人間である。大人になって持ち上げられた経験などない。

 だが、宵知は楽しそうに私を持ち上げ、寝台に下ろした。

「へ…………?」

「寝よう」

 私を追ってきた宵知は布団を持ち上げ、二人まとめて被せる。真っ暗になった視界から逃れるように布団を押し上げると、本人は隣でうれしそうに横になっていた。

 逃げようとした私へ、彼は手招きをする。

「一緒に寝よう」

「狭いよ」

「狭くない」

 言われたとおり、彼の寝台は二人で寝ても十分なほど広く。言い訳に使うことはできないようだ。

 断り文句を考えているうちに長い腕が伸び、抱き込むように布団へと引き込まれる。

「もう……」

 がっしりと身体を拘束され、足掻いても子兎でも宥めるように撫でられる。

 兎の姿では普段から甘やかされていても、人の姿とはまた別だ。髪の間を過ぎていく指は、間違いなく人の私に触れている。

 相手に伝わってしまわないか、考えるたびに更に鼓動は跳ねた。

「いまは私、人なんだけど……!」

「知っている」

「可愛くも、ふわふわもしてないよ……!?」

「可愛いし、ふわふわだ」

 彼はそう言い張って、私の頭に頬を擦り付ける。

 ぼっと体温が上がって、わたわたと腕の中で暴れた。腕が離れることはなかった。

「……兎じゃ、ないんだよ…………?」

「兎だ。俺の────」

 彼はむにゃむにゃと何事か呟くと、そのまま一気に眠りへと落ちてしまった。

 垂れた腕を持ち上げれば逃れられそうだったが、何となく、そのまま枕に頭を預ける。

 手を伸ばして照明のものらしきスイッチを押すと、部屋は一気に暗くなった。はぁ、と息を吐いて、真っ暗な天井を見つめる。

 酔いが眠気を誘って、もうこのまま眠ってしまってもいいような気がしていた。

「……宵知の兎だったら、幸せだったかもねぇ」

 純粋なウサギだったら、ミミさんの後釜に座れたのだろうか。やっぱり、人の自分が邪魔なような気がするのに、皮肉にも宵知に掛けられた言葉が否定する。

 恋人になって、とは、きっと人の口で言うべきだろう。喉は重苦しく詰まって、しばらく眠れはしなかった。

 

 

▽9

 宵知から受ける依頼以外にも、撮影の依頼はいくらかある。その日も別のスタジオで仕事をして、動物プロダクションへ事務手続きに立ち寄った。

 事務室に入った私を、用事終わりに捕まえたのは龍屋さんだった。

「良かった。ついさっき、久摩さんから連絡がありまして」

「連絡?」

「少し、外にいいですか?」

 龍屋さんは事務室の外に私を連れ出すと、休憩スペースへと移動した。

 彼は周囲に人気がないことを確認すると、ようやく口を開く。

「明日、久摩さんのお宅に行く依頼がありましたよね?」

「はい」

「実は、二週間ほど依頼をお休みにしたい、と連絡がありました。連絡が急だったので、依頼料はお支払いするとのことです」

「え」

 つい声を漏らし、内容の衝撃に打たれて無言になってしまう。

 龍屋さんは私の反応が意外だったのか、僅かに目を見張った。

「あの、理由とかって……」

「多忙につき、という言い方をされていました」

「そう、ですか」

 多忙、といっても作曲はまだお休みしていたはずで、依頼を受けているような様子ではなかった。

 思うところはあるのだが、長く引き留めているのも申し訳なく、龍屋さんの方へ視線を向ける。

「分かりました。ありがとうございます」

「いえ。依頼料については、長ヶ耳さんが希望されるなら頂かないよう取り計らいますが、どうしたいですか?」

「そう、ですね。本人と話して、合意できたらお願いします」

「分かりました。では────」

 もし依頼料を貰わない、と決めたのならこの期日までに連絡がほしい、と日付を指定された。

 スケジュールアプリに日付を入れ、重ねて礼を言う。龍屋さんはいつもの表情薄めな顔に少しだけ心配を滲ませながら、事務室へと帰っていった。

 私は携帯電話を操作し、連絡アプリを起動する。

『依頼をお休みするって話聞いたよ。何かお仕事?』

 何度も文面に迷って、用件だけを綴り、送信する。

 宵知は割と連絡がすぐ返ってくる方なのだが、私が動物プロダクションから自宅に帰宅し、夕食を終えても、メッセージは既読ステータスに変わらなかった。

 そうして、連絡未読、は三日後まで続いた。

 一日目、二日目まではただ待っていた私も、三日も続けば不安にもなってくる。意を決して通話ボタンを押してみたが、それすらも不通だった。

「差し入れにかこつけて、行く……?」

 嫌がられるかもしれない、という不安もあったが、ミミさんに悩んでいた時のあの不安定さが頭を過る。

 簡単に食べられるものを買い出して、生存確認だけして置いて帰ればいい。意を決して、宵知の家に向かうことにした。

 道中、コンビニへ寄っておにぎりや栄養ドリンクなど、時間を掛けずに食べられるものを買い求める。

 忙しなく電車に乗り、通いの駅で降りた。

 つい気が急いて、早足になってしまう。兎の姿ならもっと早く辿り着くだろうか。そう思ってしまうほど、私の心を不安が占めていた。

 住宅街の道沿いで立ち止まり、息を吐くとぼうっと白んだ。

 彼の依頼が終わったら、私たちの関係はどうなるんだろうか。

 本人は心理的に安定していたように見えていた。今回のこれが、ただ私に対してどうでもいいが為の連絡不通だったら、そう告げられたら、私はどうなってしまうんだろうか。

 迷っても、家を訪れない選択肢はもう無かった。門の前までたどり着くと、はあ、と息を吐き、胸に手を当てる。

 震える指先でインターホンを鳴らすと、長い待ち時間があった。応答なし、不安が過りはじめた頃、スピーカーから何かが擦れる音がする。

『…………美月? 仕事は休みだと伝わってなかったか?』

「伝わってるよ……! けど、連絡があまりにも帰ってこないから、様子見に……」

 向こう側でまたごそごそと音がして、少し弱った声がする。

『……悪い。アプリの通知機能が死んでたようだ』

 はぁぁ、と思わず長い息が漏れる。

「電話もしたよ……?」

『朝か? 悪い。充電が切れていた』

 連絡アプリの通知は不具合、電話をしたタイミングは充電が切れていたそうで、あまりにも奇跡的に私とは連絡不通に陥っていたようだ。

「そう、……だったんだ。それなら良かった。忙しいみたいだし、差し入れだけ渡していいかな?」

『いや、ついでに休憩する。上がってくれ』

 門を開けて玄関に向かうと、ちょうど良く扉が開いた。

 迎え入れた宵知はよれた部屋着姿で、うっすら髭と隈が浮いている。私にスリッパを出し、恥ずかしそうに寝癖を撫で付けた。

 差し入れを渡すと、中身を見て嬉しそうにしている。

「助かる。そろそろ栄養補助食品の類しかなくなってきたところだった」

 茶くらい出す、と言われて上がり込むと、リビングも少し荒れていた。

 ソファ近くの机には紙が散らばり、参考書籍らしい分厚い本が積み上がっている。食卓の上も、包装を剥いたら囓れる類の食べ物しか置かれていなかった。

 つい眉を寄せてしまい、宵知は私の様子を見て肩を丸める。

「いつも、煮詰まってる時はこんな感じで……」

「身体に悪そうだね。ベッドで寝てる?」

「…………」

 彼の視線が向いたソファの端には、毛布が丸められている。仮眠を繰り返している様子がよく分かった。

 宵知を椅子に座らせて、差し入れを食べているように言う。彼は気圧されたように大人しくおにぎりの包装を剥き始めた。

 お湯を沸かし、緑茶を淹れて相手に出す。待ち時間には軽く食器も洗った。

「美月も、家事が上手だな」

 お茶の入ったマグカップを受け取り、宵知は礼を言った。

 自分のカップを持って、向かい側に腰掛ける。

「この家ではお客様だけど、一人暮らしだしね。流石にできるよ」

 机の上にあったお菓子を拝借し、開封する。栄養の取れるお菓子、という触れ込みとはいえずっと食べていると栄養が偏りそうだ。

「────それで。なんで急に忙しくなったの? お仕事?」

「いや。特に依頼とかではないんだが、曲を作ろうと思って」

 大きな口がおにぎりを囓ると、すぐに一個が無くなってしまう。もっと買ってくればよかった、と思いつつ、またフィルムを剥く長い指を見守った。

「依頼じゃないのに、こんなに急いでいるの?」

「まあ。長くやってもキリがないしな。それに……」

 彼の視線の先を追うと、ミミさんの写真がそこにある。

 胸の中がもぞりと騒いだ。私はやっぱり兎でしかなく、ウサギへ嫉妬するらしい。

「ミミの命日が近いんだ。それまでに、今の感情を形にしたい」

 少し前に、ウサギに纏わる語句を書き出していた姿を思い出す。

 曲は、ぽっと出の兎ではなく、長年連れ添ったミミさんに宛てたものになるのだろう。語り合ったあの時の楽しい記憶が褪せてしまった。

「……頑張るのはいいけど、体を壊しちゃ元も子もないよ」

「ああ。美月には異様に見えるかもしれないが、だいたい俺は忙しい時、こんなものだ。あんまり加減ができなくてな」

 全てを丁寧に先回りして揃えていた彼は姿を消し、今の彼は、スマートとはとても言えない生活をしている。彼から理性を失わせるのは、いつもミミさんだけだ。

「うーん……。せめて、連絡くらい返してね」

「………………」

 頷こうとしない様子に、連絡を必ず返すと言い切らない、ある種の誠実さを感じ取る。

 だが、私もまた連絡が不通になったら、倒れていやしないか気になってしまう。しかも、三日目でこうなのだ。これから二週間、連絡なしに宵知を放っておくのはあまりにも不安が過ぎる。

「その、連絡なしもそうだけど……。どうせ食事は不規則だろうし栄養も足りそうにないし、ソファで寝るんだよね?」

「…………まあ、否定はできない」

 畳みかける私に、彼は早々に白旗を揚げる。

 きゅ、とカップを両手で握り込む。どうせ、決められた期日を延ばして、と言ったところで叶えてくれはしないんだろう。

 私はたぶん、ミミさんを越えることはない。

「あのさ。依頼って、しばらく休みでしょう?」

「ああ。そうしてもらった」

「元々、依頼料は貰いすぎだと思ってたし、私、ここでしばらく家事をするよ。だから、ご飯を食べる時間と、ベッドで寝ることだけ、妥協してくれないかな。じゃなきゃ倒れちゃう」

 眉を下げて、か弱い兎の顔をする。案の定、宵知はうっと表情を変えると、そわそわと落ち着きがなくなった。

 人の私が兎を装っても、彼にとっては効くらしい。自分でやっておいて何だか申し訳なくなってしまった。

「…………泊まっていってくれるのか?」

 通いのつもりだったのだが、期待したような視線に押されてこくんと頷く。

 あからさまに嬉しそうに顔が変化し、後には退けなくなる。仕事中、人がいたら邪魔だと思わないんだろうか。

「じゃあ。軽く家事をしたら、着替えを取ってくる。しばらくゲストルームを借りていい?」

「勿論だ」

 宵知はおにぎりの二つ目を完食すると、温くなったお茶を飲み干して立ち上がった。

 私は片付けようとした彼の手を制し、仕事部屋を指差す。

「お仕事いってらっしゃい。頑張って」

「…………ああ。すまない、頼んだ」

 大股で仕事部屋へ移動する背を見送り、彼の飲み干したコップを持ち上げる。

 歩きながら自分のコップの中身を飲み干し、残っていた洗い物を片付けてシンクを磨いた。

 あとは、とまずは冷蔵庫を開ける。

 冷凍庫はそこそこ中身があったが、冷蔵庫の中身はほとんど空だ。とはいえ、賞味期限の近いものがあり、消化するのを目標に献立を組み立てる。

「別に料理、上手いわけじゃないけど。食べられればいいだろうしなぁ……」

 昼ご飯の買い出し時間を逆算すると、少し余裕があった。

 ふと思いついて脱衣所に行くと、案の定、洗濯物は溜まっていた。洗剤を入れ、機種の違いに戸惑いつつも乾燥までセットする。

 動き始めた洗濯乾燥機を見送り、風呂場に入って掃除を始めた。汚れは酷くはなく、シャワーで済ませていた様子が窺える。

「あとは、リビングを片付けて、掃除機を掛けて換気して。お昼ご飯買いだして、作って。休憩……してくれるかなぁ。兎の姿で誘えばいいかな」

 仕事は存分にしてもらいつつ、生活環境を整えるというミッションはそこそこ難題だ。予定した家事をこなし、買い出しに行ってから昼食を作った。

 メニューはお弁当の構成に近い。具沢山のサンドイッチ、卵焼きと野菜の肉巻き、それとミニトマト。全てにウサギのピックを刺し、仕事をしながら食べられるように整えた。

 仕事部屋に向かい、扉をノックする。強めに叩くと流石に気づいたようだ。

「…………もう昼か」

「お昼ご飯できたけど、持ってこようか? あ、コーヒーサーバーの中身も作り直すね」

 机の端に置かれた、ほぼ空のコーヒーサーバーを回収する。

 動き回る私を彼は目を細めて見守り、立ち上がる。伸びた手に頭を撫でられた。

「相談したいことがある。食卓に紙を持ち込んでいいか?」

「いいよ」

 宵知は机の上にあった紙を掻き集め、小脇に抱える。二人で食卓へと移動し、彼を椅子に座らせて作った食事を並べた。

 仕事場で食べないのなら特にウサちゃんピックを刺す必要はなかったのだが、目敏く見つけたウサギ好きは嬉しそうにしている。

 いただきます、と食事を始めると、お腹が空いていたのか勢いよく食べ始める。冬眠明けの熊のようだ。

「飲み物、牛乳でいい? 温めるね」

「ああ。ありがとう」

 マグカップをレンジに二つ並べ、あたためにセットする。

 出来上がったホットミルクは湯気を立てていた。熱いよ、と言い置いて机の上に並べる。

「美味い。美月の料理は味付けが柔らかいな」

「もうちょっと濃くする?」

「いや。外で買うと塩分が濃いものが多くて、手作りなんだな、と嬉しくなる」

 ウサちゃんピックにご満悦な様子を見るに、何でもこのピックを使えば美味しく食べるかもしれない。

 私もちまちまと食べ進めていくが、元々そこまで食べる方ではなく、大部分が宵知の胃に消えていった。

「それで、相談って?」

「ああ。食事が美味しすぎて忘れていた」

 自然と褒める言葉を貰い、こっそりと胸が高鳴る。

 宵知は持ち込んでいた紙束を空いていたスペースへと広げた。それらは歌詞を書き込んだもののようだ。

 歌詞の終盤、大サビ、と書かれた部分が長い指で示される。

「ここ、最初のサビでは『タータタター』だったんだが、大サビだけ『タータタタター』ってリズムに変えようと思っていて、元々決めていた歌詞から文字数を増やした別の言葉を考えようと思っているんだ」

「えっと、サビでは『跳ねてく』……『はーねてくー』って感じ?」

「上手い」

 何気なく歌った声を褒められてしまい、気恥ずかしくて飲み物を口に含む。

 歌詞は引っ込み思案でおとなしいタイプの『私』が、少しずつ相手の元へ跳ねてく……という、次第に前向きになっていく様子を描いたものになっている。

 相手に近づいて、跳ねていったら、きっと我が儘になっていくんだろう。私だけが跳ねていくんじゃなくて、相手にも歩み寄ってほしくなる。

「『跳ねてきて』じゃだめかな?」

「それは俺も思いついたんだが、歌詞の語り手が大人しいタイプを想定していて。それだと、相手に『来て』って言うのは違うかなと」

 私が思いつくのだから、勿論プロが思いつかない筈もない。だが、彼の中では印象が違っているようだ。

 改めて歌詞を読み込み、語り手である『私』というものを頭に思い浮かべる。だが、歌詞に使う言葉を一緒に考えたからか、どうしても自分がちらついてしまう。

「でも、歌詞の間にさ。『私』と『君』って結構近づいてない?」

「近づいている、と感じるように言葉を散りばめてみた」

「だったら。ちょっと我が儘な部分、出てくるんじゃないかな? ほら、私とかも宵知が心配で押しかけちゃって家事もしてる……し」

 歌詞の『私』はあからさまに『君』に対して恋心を抱いている。

 言葉の途中で、私と宵知の関係に重ねて変に思われないか迷ったが、向こうは特に重く捉えた様子もなさそうだった。

「それは、我が儘なのか?」

「昼食が終わったらちょっと休憩してもらおうと思ってるよ」

「それも、我が儘ではないな」

「じゃあ、兎の姿で撫でてもらおうと思ってる」

「…………嬉しい」

 我が儘のつもりだったのだが、嬉しがられてしまった。

 どう伝えようか迷っていると、先に宵知が口を開く。

「そうだな。歌詞としては『跳ねてきて』にしてみよう。いくら大人しくとも、我が儘は言いたくなるものなんだな」

「うん。むしろ大人しいからこそ、心の中ではすっごく我が儘かもよ」

「それは、……また可愛らしいな」

 彼の中での『私』は本当に愛らしいウサギのようだった。歌詞でしかない存在に嫉妬してしまいそうになる。

 胸がいっぱいになって食事を終えると、皿をまとめた私の隣に、そわそわとした宵知が立っていた。

「その。兎姿で…………」

「ああ。そうだったね。片付けの前に休憩にしちゃおうか」

 脱衣所に移動する時間も勿体ない、とソファの上で服を緩め、兎へと転じる。

 もぞもぞと服の隙間から這い出た私を、ご機嫌な指先が抱き上げた。

「美月」

 本当に柔らかい声で、彼は兎の私を呼ぶ。

 ソファに腰掛けた胸元に前脚を当て、顔を擦り付ける。本当は兎でなく、人の姿でもこうできたら、と考えてしまった。

『はぁい』

「今日もふかふかだな」

『日当たりのいいリビングでお掃除してたからかな』

「ありがとう。大変だっただろう」

 大きな掌が身体を撫でて甘やかす。リビングの掃除はそこまで大変という訳でもなく、空き時間についでに済ませたようなものだ。

 大袈裟に褒められ、気恥ずかしくなってしまう。

「いつもより温かいな」

『そ……、うぁ!?』

 急に鼻先が近づき、兎のふかふかした胸元に埋まった。すん、と匂いを吸い込む音がして、もぞりと唇が動く。

「いい匂いがする」

『も、や。ちかい……!』

 柔らかい脚裏で高い鼻を押すと、少し距離が空いた。

 睡眠時間も短いようだったし、ハイにでもなっているんだろうか。どこどこと暴れ回る心臓は、兎の心拍にしても速かった。

「近い、って何だ?」

『恥ずかしい!』

 まだ寄ってこようとする鼻に鋭い前歯を軽く当てる。ぺしぺしと攻撃力のない脚で叩いて、ようやく退いてくれた。

 宵知は肩を丸め、眉を下げて残念そうにしている。

「お腹の匂いも嗅ぎたかったんだが」

『際どいことしてるんだってば! 人間の私を思い出して!』

 叫ぶように伝えると、彼の視線が宙に浮いた。やがて、目元が僅かに染まる。

 何ともいえない余白が横たわって、私は相手の太股に下ろされた。

「悪かった。可愛すぎてつい理性が飛んだ」

『…………いいけど』

 落ち着いた掌は背中を撫で始める。昼食を消化するまでの一時をそうやって過ごし、彼は名残惜しそうに仕事部屋に戻っていった。

 適度に休ませる、というミッションは果たしたらしい。服を引き摺って脱衣所に向かい、人の姿に戻って服を身につける。

 作ったコーヒーを届けてしまうと、買い出しも済んでおり、午後からの予定は詰まっていない。リビングへ戻ると、ミミさんの写真がこちらを見ていた。

 視線が合うようにしゃがみ込んで、私とそっくりで、ほんの少し違う顔立ちを見つめる。

「私が、ミミさんだったらなぁ……」

 膝の上に頬杖をつき、つぶらな瞳とかわいらしい顔立ちをしたウサギと向かい合う。写真の中の存在は、答えを返してくれることはなかった。

 

 

▽10

「眠い」

 夜中にふらふらと仕事部屋から出てきた家主の声に、ソファから身を起こす。

 宵知は両手を広げ、何かを期待した瞳をこちらに向けた。首をかしげながら近づくと、腕の中に捕まる。

「いまは私、兎じゃないよ」

 大きな身体の中で、ひっそりと呟く。

「兎じゃなきゃ、愛でたら駄目なのか」

「ダメじゃないけど。お腹すいた?」

「いや。美味い夜食も貰ったし」

「歯磨きして仮眠とろっか」

 提案すると渋るような顔をするが、兎の仕草を倣って見つめ返すと、観念したかのように息を吐いた。

 広い背に手を回し、ぽんぽんと叩く。

「何時間寝る? お昼寝したし、さっきも少し寝たから、私はもうちょっと起きてられるよ」

「一時間半、かな」

「了解。歯磨きしたら寝室に行こうね」

 こくんと頷いた大きな身体を押して脱衣所に向かわせ、歯磨きが終わったら寝室まで付いていく。

 昼の間に、寝具は洗って乾燥を終えている。宵知もそれに気づいたようで、また近づいてきてハグをされた。

「今日、なんか甘えん坊だね。寝かし付けしてほしいの?」

 冗談だったのだが、尋ねた相手は真面目な顔で頷く。

「してほしい」

「…………そう?」

 彼は寝台に入ると、隣をぽんぽんと叩いて招く。

 苦笑しながら指示された場所に横になり、直ぐに船を漕ぎ始めた顔を見つめた。閉じていた唇が目の前で動く。

「美月」

「なに?」

「明日も、いてくれるか?」

「うん。午前はちょっとお仕事があるけど、午後には帰ってくるよ」

 帰ってくる、まるで自分の家みたいな言い方を、彼は自然に受け入れた。

 喉が動いて、低い声が照明を落とした部屋を満たす。

「──────夢みたいだ」

 ひっそりと呟いて、彼はそのまま眠りに落ちた。

 そうっと寝台から起き上がり、揺らさないように立ち上がる。携帯電話の時刻を確認し、あと一時間半、と起床時刻を頭に叩き込んだ。

 寝室の扉を閉め、リビングへ戻ると、停止した映画がそのままになっていた。

「コーヒー飲んじゃおうかな」

 コーヒーメーカーを動かすと、中からガリガリと豆を挽く音がした。外は暗く、レースカーテンの先は暗闇だ。

 独特のいい匂いが漂ってくると、しばらくしてマグカップが満たされた。買い置きのお菓子を拝借してソファに腰掛ける。

「……どうしたものかなぁ」

 宵知はどうも、新しい飼いウサギのように私を思っている節がある。

 視線は日を追うごとに甘くなり、今日なんて自然にハグされてしまった。寝る時には寝かしつけを強請られたし、懐に入れられている空気を感じ取ってしまう。

 私は、ミミさんから宵知を奪いたがっている。『私』だけの飼い主であり、「私」だけの伴侶にしたがっている。

「宵知も番の対象になること、忘れちゃってるのかな……?」

 ぺりぺりと包装を剥き、中身を口に含む。ココア味のビスケットはざりざりの砂糖を纏って甘く、コーヒーを含んでちょうど良かった。

 兎と人とが共にあるからこそ、飼い主でありながら恋人として共存できる。けれど、だからこそ二つともを選び取って貰わなければ、添い遂げることはできない。

 映画を見終えた頃には、一時間半が経っていた。

 寝室へと歩いて行き、泥のように眠っている身体を持ち上げる。ぱちりと目を覚ました宵知の顔色はだいぶ良くなっていた。

「おはよ」

「はよ。……一時間半か」

「そうだよ。さっぱりした?」

 目をしぱしぱとさせた宵知は、伸ばした腕で私を捕まえる。兎になってくれ、とも言わずに、人の私をそうする。

「これから朝までは作業してるから。起きていなくて大丈夫だ」

「そう? じゃあ、朝のお仕事まで寝ようかな」

「匂いを気にしないなら、このベッドを使ってもいいぞ」

 そう言い置いて、家主は仕事部屋へと歩き去ってしまった。

 確かにゲストルームのベッドよりも広く、居心地よく整えられてはいるのだが。置き去りにされた寝台の上で頭を抱えた。

 やっぱり、兎扱いされている。

「戌澄さんのアドバイス……正しいのかも」

 彼の曲作りが終わるまでは伝えないつもりだが、それを区切りに話をするべきかもしれない。

 私はいちど部屋を出て寝る準備を整え、宵知の部屋の前まで行く。ドアノブに手を掛けて、溜め息とともに踵を返した。

 ゲストルームの真っ暗な部屋の中で、ベッドに転がる。愛してくれているのに恋をされていないと上手くいかないなんて、あんまりだ。

 

 

 

 家主に帰ってくれるな、と甘えられてしまって、ずるずると滞在日程は延びていく。持ち込む私物が増え、曖昧な関係なのに居心地が良くなってくる。

 宵知は曲を作って、食事をするとまた曲作りに戻っていく。煮詰まるとリビングに出てきて、持ち出した楽器で音作りを始める。

 私はその度に素人意見を口にするのだが、宵知は肯定したり方向転換したりしながら何かしら納得して、また仕事部屋に戻っていくのだった。

 二週間、より短い期間だったように思う。リビングの主になりつつある私は、バン、と扉を開けて飛び込んできた家主を振り返る。

「お腹すいた? そろそろ夕食にしようか」

「や、あ。違う」

「眠い? 寝かしつけする?」

「もうちょっとしたら頼む。けど、先ずはこれを……!」

 何だか必死な彼は、ノートパソコンを持っていた。長い腕を必死に伸ばし、駆けるように近づいてくる。

 ソファの隣を空けると、倒れ込むように座った。

「細かい調整はこれからだ、が……」

 液晶の中には、作曲用ソフトの画面が映っていた。

 キーボードの上に載せて運んだらしきヘッドホンが私の頭に丁寧に被せられ、周囲の音が遠くなる。

 カーソルが再生ボタンを叩くと、鍵盤音が聞こえてくる。前奏が早々に終わり、歌声が挟まった。声が紡ぐのは、二人で書き殴った歌詞だ。

「歌!?」

「合成音声だ」

 合成音声らしく多少の違和感はあっても、最近は人よりもこちらを好む層もあるくらいだ。久摩宵知らしいポップな音と疾走するような旋律が流れていく。

 大人しい兎の心情を、跳ねた音で歌い上げる。

 以前聴いた『ラビット』と似た曲調であっても、歌詞はあくまで臆病で、ちらちらとこちらを窺うようないじらしさがあった。

「あ。『跳ーねてくー』……!」

「ああ」

 二人で画面を覗き込み、肩を寄り添わせる。甘い氷菓子のようなメロディに、時々歌詞を口ずさむ声が混じった。

 隣にいる宵知は腰が浮かびそうな姿勢で、そわそわと私の様子を窺っている。ヘッドホンを押さえつつ微笑んでみせると、触れ合っている肩同士が押し付けられた。

 曲は二番に入り、くるくると楽器を変えながら歌詞を浮き立たせる。

 彼が大サビ、と言った部分に入ると、音の種類が溢れた。色で表すなら極彩色であろう音たちが、絡み合いながら助奏する。

『ここにいるから 跳ねてきて!』

 一瞬の空白の後、洪水、ともいうような圧が、軽やかなはずのメロディに乗って押し寄せてくる。

 曲の中でもトップスピードな音たちが駆け抜けていくと、ゆったりと鍵盤の音だけが残った。

 高い音が四音。余韻を残して音が消えると、静寂が訪れた。

 手を持ち上げ、めいっぱい両手を叩く。目を細めた宵知は、その賞賛を静かに受け入れた。

「最初の鍵盤音でドキドキして、二人で案出しした歌詞に声が乗るとこんな音になるんだ、って、うれしかった。二人で声に出してた時は歌じゃなかったから。メロディと歌うと、こんなに弾けた曲になるんだね」

「ずっと俺達の声だけだったもんな。楽器や音は『ラビット』の時とわざと被せてあるんだ。曲だけ聴いたら似た曲だな、って思うかもしれないが……」

 大きな手が伸びてきて、私の頬に触れる。撫でる指先は、残酷なほどに兎へのそれと変わらない。

「だからこそ、歌詞の違いが浮かび上がる気がしたんだ」

「…………うん」

 もう一回聴かせて、とねだると、宵知はノートパソコンの蓋を閉じる。

 ええ、と不服を声で示すと、彼は眉を下げた。

「もうちょっと手を入れたい箇所があるから、それが終わったら聴かせるよ」

「……そう。じゃあ、待ってるから。出来たら聴かせてね」

 約束、と小指を伸ばすと、そろりと長い指が絡む。

 数度振って指を離すと、彼は遠くなった指先を眺めていた。

「お夕飯はご馳走だね」

「冷凍庫に仕舞い込んでた肉でも焼こうか」

「いいの!?」

 宵知は今日はもう仕事をしない、と宣言し、台所に入っていく。彼の言うとおり冷凍庫の奥には分厚い牛肉が仕舞われており、夕食はステーキに決まった。

 家主は酒瓶の並んだ棚の前で悩み、二本の酒瓶を取り出す。

「睡眠不足で飲んで大丈夫?」

「度数も低いし、これくらいなら平気だろう」

 珍しく二人で台所に立ち、温めたフライパンに解凍した肉を載せる。じゅわじゅわと溶けていく脂の匂いが漂うのを、唾を飲み込みながら見守った。

 肉と酒、あり合わせで作ったサラダとスープ。食卓は祝宴に相応しく皿が並び、久しぶりにゆっくりと向かい合って食事をした。

 軽く酒が入った宵知はご機嫌で、リビングにある音響装置から音楽が流れ始める。私は食器を片付け終え、手を拭いながらようやく違和感に気づいた。

 リビングに、音楽が掛かっている。

 私が見ている映画の効果音ではなく、テレビから短い時間流れるバックグラウンドミュージックでもなく、単体で聴くための音楽が流れている。

 グラスに冷たいお茶を注ぎ、ソファに腰掛けている彼を追いかけた。

「ジャズ?」

 英語は聞き取れないが、食後にちょうど良いテンポと賑やかさの曲だ。クラリネットとピアノの音が交互に現れては消える。

「ああ。月の歌だ」

「そうなんだ。私も兎だから、月、好きだよ」

 彼は両手でグラスを受け取ると、大きな一口を飲み干した。

 自然に隣を空けられ、促されるがままに腰掛ける。隣に座るのも、当然のようになってしまった。

「スピーカーがあるなぁ、とは思ってたけど。実際に聴いてみると音、凄いね」

「家を建てる時、拘って設置してもらったんだ。しばらく、埃かぶってたけどな」

「あ。リビング掃除ついでにハタキ掛けしたよ」

「その節は────」

 膝の上に手をつき深々と頭を下げる家主へ、隣で笑いながら肩を叩く。

 彼はずっと仕事部屋に籠もっていた。嫌な記憶がある場所だろうに、今回は曲を作りたいという感情が上回った。

 音楽が響く室内は、ミミさんがいた頃に戻ったかのようだ。

「実はね。宵知が所属してる音楽事務所さんから『宵知は元気にしてますか?』って尋ねられたんだ」

「なんで俺の事務所が……あ。俺がココアに会いたくて、動物プロダクションへ繋いで貰ったからか」

「そうだったんだ。元気だよ、とは伝えたけど、今はどう? お仕事、したい?」

 彼はグラスの中身で唇を湿らせると、長い腕を膝の上に放った。

「どんな依頼も、って形で請けるのは止めようと思ってる。だけど、作った曲を公表するつもりではあるかな。それで事務所が駄目だって言うなら独立するさ」

「じゃあ、のんびり作曲活動も再開、だね」

「ああ。…………長い休みだった」

 宵知は長い腕を上に伸ばし、長く息を吐く。

 休みを終わらせた事が彼にとって良かったのかは分からないが、晴れ晴れした顔の宵知を見るミミさんは、いつもより嬉しそうに見えた。

 あ、と思い出したかのように宵知がこちらを向く。

「美月、ありがとうな。明日がミミの命日なんだが、それまでに曲を完成させられた」

「ううん。作ったのは宵知だよ。私は、なんにも」

「いや。普段ならもっと詰まって止まって、を繰り返してた筈なんだが、今回の修羅場は手が止まらなかった。家事をしてくれただけじゃなく、煮詰まった時に話し相手になってくれた事も、アイデアを出してくれた事も、有り難かった」

「改めて言われると照れちゃうな……」

 宵知の頭が下がった。目元が染まり、あ、と言葉に迷う声がする。

 黙って隣から顔を覗き込むと、やんわりと視線が逸らされる。

「美月、は」

「うん」

「また、…………泊まりに来てくれるか?」

 まただ、と思った。

 行動に、言葉の端々に、やっぱり私は兎としてしか必要とされていないことを自覚させられる。

 だから、話をしようと思っていた。貴方が抱いているのは愛情だけでも、私は恋情も抱いているのだ、と。

「いいよ。けど、家事してたとはいえ『他人の家』にお邪魔しすぎだったし、しばらくは自宅に戻ろうかな」

「そ……、そうだな。…………寂しくなる」

 伸びてきた手が頭を撫でる。彼の手は柔らかく毛を撫でてはくれるけれど、引き寄せて口付けてはくれない。

 私が望みを口にしたら、もしかしたら叶う未来もあったんだろうか。私が臆病な兎でなかったら、私たちの関係はどうなっていたんだろうか。

 ありもしない未来を夢想して、ただ口を噤んだ。

「…………あのさ」

「なんだ?」

「宵知。修羅場になると私生活が疎かになるから、誰かと暮らした方がいいと思うよ」

 私はこの言葉で、決定的に線を引く。もう相手の腕に跳び込んでいくことはないし、彼から跳ねてきてくれることを望むこともない。

 宵知は私を見て、目を細める。染まっていた目元は、もう既に白んでいた。

「────肝に銘じておく」

 私はその日に私物をまとめ、久しぶりの自宅へ戻った。

 玄関を開け、足を踏み入れた冷たい部屋は他人の家のようで、しばらく蹲って動けなかった。

 

 

▽11

 異変、ともいえる現象が起きたのは翌日からだった。毛の手入れをしようと兎へ転じようとして、姿を変えられない事に気づいた。

 先ず困ったのは、動物プロダクションの仕事が出来なくなったことだ。龍屋さん経由で上と相談し、直近の仕事に代役を立ててもらった。

 宵知にも依頼をお休みすることを龍屋さんから伝えてもらい、届いた私を心配するメッセージには『感染症に罹ったため会えない』と返事をした。

 買い出しなどを手伝えないか、との提案も貰ったが、プロダクションのスタッフが手伝ってくれるから、と嘘までついたのが先日のことだ。

「どうしちゃったのかなぁ……」

 一人っきりの室内、パジャマのままで寝台に転がる。

 何となく、心当たりはあった。魂とは元は形のないものだ、形成には心情が具に影響する。

 そして人の私は、兎の姿に対して宵知を取られたように感じて、嫉妬している。だからいくら感情をコントロールしようとしても、兎の姿を取れないのだろう。

 連絡を止めている宵知とのメッセージ画面を開く。ここ数日はかなり多くのメッセージが送られてきており、朝からも一通、受信している。

『そっちの事務所スタッフより俺の方が時間の自由が利くだろうから、何かあれば気軽に相談してくれ』

 返事はしていなかったが、メッセージが既読になっていることは伝わっているだろう。このまま返事をしないほうが、相手からのメッセージが届かずに早く治るような気さえする。

 腕を伸ばして唸っていると、急に携帯が振動した。着信だ。

「え……!? あ、もしもし」

『急に悪い。久摩だ』

 名乗らなくても声と言葉の調子で分かる。取り落としそうになった携帯電話を握り締め、唾を飲み込んだ。

『いま少し、いいか?』

「…………うん。大丈夫」

 声を聞いていたいという欲と、なぜ通話まで、という困惑が交差する。普段の調子で返してしまって、後悔しつつ耳を澄ませた。

『体調はどうだ?』

「……まだ本調子じゃなくて、もうちょっとお休みする予定だよ」

『困っていることはないか?』

 このまま兎に転じることができなくなれば、彼との繋がりも切れるだろう。恋心を封じてまで守ろうとした関係すら、絶えそうになっているのが滑稽だ。

「ん。食べ物もあるし、しばらくは仕事もお休みにしてもらったから」

『そうか。本当なら、俺が曲を作っていた時のように……、今度は俺が家事をしに行きたいんだが』

 こんなに曇った声は、出会った頃に聞いて以来だ。なんとか元気づけようと、声音を作ってみせる。

「有り難いけど。体調悪いの、伝染っちゃうと嫌だから」

『そうなってもいい、と言っても?』

 僅かに掛けられた圧を振り払うように、私は唇を持ち上げる。

 私たちは、あくまで只の友人だ。

 片方が病気だからといって、感染のリスクを冒してまで一緒に過ごすような間柄ではない。

「私は嫌だよ。一人で寝てる。困ったら相談するから……」

『………………』

 電話の先が無音になった。耳から携帯電話を離し、画面を見るがまだ通話中だ。電波も悪くはない。

 少し待つと、僅かに聞き取れるくらいの声量が届く。

『美月』

「なに?」

『俺、この前。────本当は、一緒に暮らさないか、って提案したかった』

 突拍子もない言葉に目を丸くする。目の前に彼がいなくてよかった、と心底思った。

 あの時。また泊まりに来るよう言われた時の喪失感が蘇ってくる。どうあっても、彼は私を兎として捉える。

 人の私の恋情を想像もしてくれない。だから、こんなに軽率に酷いことを言うのだ。

「…………嫌だよ」

 声が震えてしまっているのがわかった。つっと頬を冷たいものが伝っていく。

 指先で雑に涙を拭って、寝台の上で丸くなる。人の私に恋してくれない相手と一緒に暮らすなんて真っ平ごめんだ。

「ほんと、嫌。ごめん、宵知。私ね、…………私」

 兎の私だって、紛れもなく私の半身だ。だが、このまま黙り込んでいたら、人の私がまず駄目になってしまう気がした。

 人はこうやって潮時を知るのだ。苦しい胸を抱え込んで、ぶるぶると痙攣する唇を無理矢理動かす。

「覚えてる? ……私たちが、魂を染めてもらって生殖する話」

『あ……あぁ。それは、覚えている』

 こくん、と唾を飲んだ。頭の中は滅茶苦茶で、言葉を選ぶ余裕もない。

「私。宵知と。ずっと…………友達、じゃなくて。恋人になりたい、って。思ってた」

 言葉を伝えきって、私は終話ボタンを叩いた。続けて携帯電話の電源も落としてしまう。

 ぼたぼたと零れる涙をパジャマの裾で拭って、近くにあった毛布を身体に巻き付ける。拭っても拭っても頬は冷たくて、次第に擦りすぎて痛んだ。

 何もない天井を見上げて、あーあ、と呟く。

「やっちゃった……、なぁ」

 

 

 

 数日経っても兎に転じることはできず、時おり携帯電話の電源を入れて、事務所とだけは話をした。

 その中で、私たちのような一族の事情を知っている病院を紹介される。精神的なものが原因だと分かってはいたが、念のため、病院には向かうことにした。

 病院は住んでいる場所から遠く、久しぶりの日光に目を細めながら、長いこと電車に揺られる。

 辿り着いた病院は住宅街の一角にある、小さな建物だった。病院に入って受付を終え、待合室のソファに腰掛ける。

 平日の昼間だけあって、人は多くはない印象だ。待合室の隅にはテレビが置かれており、暇つぶしに視線を向けていた。

「長ヶ耳さん、診察室へどうぞ」

「はい」

 診察室へ通されると、待っていたのは初老の男性医師だった。座面が花柄の椅子を示され、目を見開きつつ腰掛ける。

「長ヶ耳さんは『ウサギ』でしたよね」

「え? あの、どうしてそれを?」

「プロダクションから個人的に連絡を受けておりまして」

「あ。そうだったんですね」

 特殊な能力でもあるのかと身構えてしまい、照れ笑いをしつつ持ち上がった肩を下げる。

「それで、兎に転じることができなくなった、と」

「はい。ちょっと、精神的に、兎なんて嫌だ、と思うことがあって……」

 医師は私の言葉を記録すると、またこちらへ向き直った。にっこりと笑みを浮かべたままで、柔らかい印象は崩れない。

 それから会話を交えつつ聴診を受け、指示されるがままに部屋を移動し、採血もされた。結果が出るまで時間がかかる、とのことで待合室にて待つことになる。

 しばらく待っていると、テレビではエンタメ紹介コーナーが流れはじめる。ソファに身を預け、何ともなしに画面を眺めた。

『次のトピックは作曲家、久摩宵知の新曲ゲリラ公開に関する話題です』

 え、と思わず声を上げるところだった。口元に手をやり、画面を食い入るように見つめる。

 テレビには久摩宵知の宣材写真と、これまでの作曲歴が記されている。そして、最近は活動縮小傾向であった事が伝えられた。

『曲のリリース時には、ミュージックビデオ等と同時公開するのが一般的ですが、今回は曲単体、事前告知なしのゲリラ的な公開となりました。では、曲を一部お聞きいただきましょう。久摩宵知で”HONEY≠BUNNY”』

 タイトルに聞き覚えはなかったが、確かに二人で聞いた音楽がブラッシュアップされた状態で流れ出した。

 もう少し調整する、と言っていた通り、サプライズ的な音が入っていたり、音に重みが足されている。

 つい前のめりになって聴き入ってしまい、短い曲紹介が終わると、はっと身を起こす。

『また、曲の公開時、久摩さんのSNSより発表されたコメントも話題を呼んでいます。 ”皆さん、本当にお待たせして申し訳ありませんでした。長い休みの間、支えてくれたすべての方にこの曲を贈ります。それと、』

 ぱちり、と瞬きを繰り返す。

 そこには、彼が発信した言葉がそのまま映し出されている。

『この場を借りて、大切な人へ伝えさせてください。頼むから、携帯電話の電源を入れてくれ” ……この、何とも意味深なメッセージにファンからは ”家族が失踪でもした?” ”恋人に逃げられたとかかな?” ”電源入れてあげてー” など、様々な感想が寄せられています。お相手に何事もなければいいですね』

 言葉が終わっても、私はぽかんと画面を見続けていた。

 携帯電話の電源は、病院だから、と切りっぱなしにしている。外に出て一度電源を入れるべきか迷っていると、診察室から呼び出しが掛かった。

 結果的に、現状わかる範囲で身体的な異常は見当たらなかったそうだ。食欲不振の症状に対する薬だけ貰い、残りの結果を聞きにまた来るよう言われ、病院を出る。

 冷たい冬風に吹かれながら、携帯電話を取り出した。躊躇いつつも、先ず、電源を入れる。

 ずっと開けなかった宵知からのメッセージ欄を開くと、怒濤のように届いていた言葉が溢れる。

 どれも私を心配し、連絡が欲しい、と呼びかける言葉ばかりだった。

「心配かけちゃった、かな……」

 確かに長く親しくしていた体調不良の友人が、告白して逃げたら不安にもなるだろう。迷惑を掛けたことに肩を落とし、縺れる指先で文字を綴る。

 はあ、と吐き出した息は白く染まった。

『急に連絡取れなくなってごめんね。少し話がしたいんだけど、時間を貰えないかな?』

 メッセージを送って数秒後だっただろうか、携帯電話が着信を告げる。

 着信元は『久摩』と表示されていた。数コール待って、通話ボタンを押す。

「もしも……」

『美月か!?』

「…………うん。あの、ごめんね。急に連絡取れなくしちゃって……なんか、気まずくて」

『いや。……俺も、直ぐに掛け直さなかったから』

 直ぐに掛け直したとしても電源は切っていたのだが、彼はそれを知らないようだった。私の伝えた言葉は、よほど驚かせてしまったらしい。

「『あの……』」

 言葉が被さって、お互いに一度、譲り合った。

「あのね。ちゃんとお話がしたいんだけど、いつか時間……」

『今も空いてる。空けろと言われたら、いつでも空ける』

 忙しない言葉に面食らいつつ、平静を装った。

 真っ白い空の下、頬を凍らせながら脚を踏み出す。靴が乾いた地面を踏みしめる音は、耳に突き刺さるようだった。

「いま外出してるんだけど、おうち、行っていい?」

『構わないが。感染症なんじゃ……』

「ごめん。それ嘘なんだ。……詳しくはそっちで話したいんだけど、会えなかったのは、別の理由」

『そうか。美月が苦しくないのなら、良かった』

 ぐ、と込み上げてくる熱を堪える。

「じゃあ、これから移動するね。また後で」

 早口でそう言い切って終話ボタンを押してから、溜め込んでいた息を吐き出した。

 のろのろと駅までの道を歩いたつもりでも、結局、目的地には辿り着いてしまう。律儀に次に来た電車に乗って、宵知の家の最寄り駅へ移動した。

 改札を通って外に出ると、見慣れた景色が広がっている。

「振られるために家にいくなんて、惨めだなぁ……」

 真っ白な空は雨に変わる様子もなく、ただ空虚に広がっているばかりだ。吹き付ける風の中、ポケットに手を突っ込みながらただ歩いた。

 もう来ることはないかもしれない景色を、感慨深く見る気にもならない。

 ただ反復動作を繰り返していると、家の近くまで来てしまった。

『そろそろ着くよ』

 送ったメッセージは、画面が開きっぱなしだったんじゃないか、と疑いたくなるほど早く既読状態になった。

 心持ちのんびりと門が見える場所まで移動すると、門の奥に人影がある。

「…………宵知?」

 ぼうっと呟くと、私の姿を見つけて門が開かれる。

「美月……!」

 部屋着にブルゾンを羽織っただけの宵知が、開いた門から出てくる。

 私の近くまで駆け寄ると、姿を確かめるように何度も瞬きを繰り返した。

「わざわざ来てもらって悪いな」

「ううん。音信不通になったこと、私が悪かったから」

 ごめんね、と呟くと、相手の首は横に振られる。風に吹かれたからか、頬は冷たそうに白んでいた。

「寒いだろう。家に入ろう」

「うん」

 振り返った広い背中を追って、門を通り過ぎる。

 コツコツと足音だけが周囲を満たすばかりで、どちらも言葉を発しなかった。

 私が玄関扉をくぐると、宵知は扉を閉めて、ゆっくりと鍵を掛ける。何ともなしにその動作を目で追って、靴を脱いだ。

 玄関近く、私に宛がわれたスリッパへ足を通す。

「…………リビングを片付け切れていなくて、散らかっているが」

「別に、気にしなくていいよ」

 そう言って扉を開け、目を丸くする。

 ソファの近くに散らばった書類、食卓に積み上がった簡易栄養食の数々。私が泊まり込む前の修羅場よりも尚悪いのは、空気が淀んでいるからだろうか。

 つい、いつものようにスイッチ群に近づいてボタンを押し、閉じられていたカーテンを開く。

 外は曇りだが、暗かった室内に一気に光が入ってきた。

「また忙しくしてたの?」

 宵知は振り返って尋ねた私へ、眩しいものを見るかのように目を細めた。続けて苦笑し、首を横に振る。

「いや。掃除する気分にならなかっただけだ」

「そっか。そういう時もあるよね」

 つい癖で机の上の書類を纏めてしまい、はっと手を止める。手に取ってしまった紙を隅に寄せた。

「……座ったらどうだ?」

「そうだね。えと、お邪魔します」

 コートを脱いで脇に避け、ソファの隅に腰掛けると、少し距離を置いて宵知が座った。

 恋心を告げるとは、こういう事なのだと思い知る。

「この前の、電話の事なんだが……」

「うん」

「聞き間違いで、……なかったら」

 熱にでも浮かされていたのだと、あの時の言葉を否定してしまうこともできた。けれど、今はそんな気力も湧かない。

 それならせめて、けりを付けて終わりたい。

「一緒に暮らしたい、って思ってくれた事自体は嬉しかった。だけど、宵知に必要なのは私が『兎』になった姿と、適切な距離を保てる友『人』だと思う。だけど私は。ずっと、私以外の全部に、それこそミミさんにも嫉妬してた。……私だけを見てほしくて」

 相手の顔を見られず、ただ感情だけを吐露する。まだ暖房が効いていない部屋は少し冷えた。

「好きだったんだ。本当は友人じゃなくて、恋人がよかった。そうしたら、他の誰にも、宵知のこと渡さずに済むから」

 言葉にすると真っ黒な、どろりとした感情に見えた。ウサギには相応しくない、嫉妬だけが渦を巻いている。

「……聞いてくれてありがとう。すっきりした」

「なあ」

「なに?」

「何で、俺が美月を恋人にしない、って前提で話をするんだ」

 冷静なようでいて、底に何かを隠したような声音だった。その牙の鋭さに総毛立つ。

 逃げたいという感情とは裏腹に、距離を詰められた。浮いた手首が掴まれる。

「逃げないでくれ。怒ってない」

 私はしおしおと耳を垂らして、視線を下げる。手首は捕らえられたままだが、力は一気に緩んだ。

「美月は、好意を抱いていない相手を同居に誘うと思うのか?」

「で、でも……。私は兎だから、一緒に暮らしたら、毎日毛を触らせてあげられるよ?」

「それは非常に魅力的だが。いくら兎になれるとしても、殆どは人として過ごすだろう。仕事場も家なのに、只の友人を同居に誘うものか」

 疑問符を浮かべている私の肩に手が置かれた。腰に手が回って、相手の体が覆い被さる。

 きゅう、と抱き竦められる感触は痛くない。だが、手足が絡みつき、その場に留められた。

「俺は、人の美月と一緒に暮らしたいと思った。理由は、美月と同じだ」

「同じ?」

「あの時期に寄り添ってくれた美月を恋しく感じるようになって、しばらく一緒に暮らしてくれて自分の感情に確信を持った。俺だって、美月を独占したい」

 彼は、人の私に恋心を持っていると言う。けれど、兎の私への態度が、一抹の不安を晴らしてはくれない。

「それは、ウサギへの愛情と、混同してるんじゃなくて……?」

 恐るおそる尋ねた言葉に、宵知は目を丸くした。

「つまり、俺はウサギが好きすぎて、ウサギが好きだから美月のことも好きなんじゃないか、って思われてるってことか?」

「まあ。……だいたい、そう、かな」

 否定できずにいると、肩口で大きく息が吐き出された。

 私が腕を抜け出せないのを良いことに、腰を更に深く抱き込む。

「美月の性格が兎という種族を基に形成された以上、全くゼロ、というと正しくないんだろう。だが、全くの他人の悲しい感情に寄り添ってくれたのも、大変な時期に支えてくれたのも、夜中に起きてきて煮詰まった俺に付き合ってくれたのも。それは全部、兎じゃなく、美月個人の性格からくるものじゃないのか? だから、俺が恋しいと思ったのは、人の美月なんだと思ってる」

 静かに、言い聞かせるように彼は耳元で囁いた。

「信用ならない、と言われればそれまでだし。…………まあ、ウサギ好きは間違いないから。ウサギと似た性格の人間を好きになりやすい、と言えばそれはそうなんだろうな」

 彼は身を起こすと、私の顔を覗き込む。整った顔立ちが近づいてきて、額同士が触れ合った。

 キスをされるかと思った。ぼうっと目元を染めたまま相手を見つめる。

「────そういう相手は、恋人にはしてくれないか?」

 唇が触れるギリギリの所で、相手の顔が止まる。ほんの僅かに空けられた距離を、私から埋めた。

 柔らかいものが触れて、離れる。ほう、と息を吐いた瞬間、今度は相手から距離を埋められた。

「────ん!」

 強く触れた唇は、名残惜しそうに引いていく。相手の首筋に腕を回し、今度は頬に口付けた。

「…………する」

「はは。それは良かった!」

 晴れ晴れとした笑顔に、こんなに春のような表情を見るのは初めてだと面食らう。

 つられて私の唇も持ち上がって、くすくすと笑っていると唇を盗まれる。私だけの恋人だ、と身を擦り寄せて匂い付けをしていると、耳元で不思議そうな声がする。

「思ったより、積極的なんだな」

「そうなのかな? 私の恋人……番だから、私だけのにしなくちゃ、って思う」

 過剰なスキンシップも、恋人はおおらかに受け止めてくれる。繋いだ指先を絡め、きゅう、と握り込んだ。

 うずうずと湧き上がってくるのは、間違いなく性欲だ。熱くなった腹を見下ろし、唇を窄める。

「宵知」

「なんだ?」

「私に発情できる?」

 目の前で、宵知はぱちぱちと何度も瞬きをした。

「それはその…………、勿論だが、意図は?」

「すぐ、セックスしたい」

 ごっ、と何か言おうとした相手が派手に噎せた。げほげほと喉を鳴らす恋人の肩を撫でる。

 兎の間では性欲が一に向くか多に向くかの違いはあれど、交渉自体がタブー視されることはない。だって、相手が見つかったら、したくなるのだ。

「宵知は、セックス、嫌い?」

「い、や……!? 嫌い、ではない。ではないが……!」

 相手の太股に乗り上がって、すり、とまだ大人しいままの股間に手を伸ばす。

 体格相応の膨らみを大事に撫で、背中撫でを強請るときと同じように、相手を見上げて小首を傾げる。

「じゃあ。私と、────しよ。ね?」

「な。待っ…………」

 胸元に頬を擦り付けるが、それ以上悪戯をしようとした指先は取り上げられる。

 あわよくばそのまま縺れ込もうと画策していたのだが、キャパオーバーで真っ赤になった宵知にタイムを挟まれることになった。

 

 

▽12(完)

 空腹なので軽く食事をさせてくれ、と、身体を洗わせてくれ、という申し出を受け入れ、二人で遅い昼食を囲む。

 とはいえ、性交渉前、という事もあってか、宵知の様子がぎこちない。

 風呂には宵知が先に入る、と言うので見送り、リビングの音響装置を使って『HONEY≠BUNNY』を何度もリピートする。

 脚を揺らしながら楽しんでいたのだが、早々に風呂から上がったパジャマ姿の家主が戻ってきた。

「交代……。って、これ『HONEY≠BUNNY』か」

「いい曲名だね」

「ああ。美月を想像して歌詞を書いた」

 静かに自分を指すと、苦笑しながら肯定される。

「ミミさんへの歌詞じゃなかったんだ……」

「ミミは別に大人しくはない」

「私も大人しくないよ?」

 先ほどの攻防を思い出したのか、宵知は遠い目をして頭を拭う。

「そうだな。認識を改める」

「ふふ。お風呂入ってくるから、逃げないでね」

「…………はい」

 神妙に頷く宵知を置いて、駆けるように風呂へと移動した。

 忙しく服を脱いで、使うのにも慣れた風呂場で丁寧に身体を洗う。また一つ、ウサギのバスグッズが増えていた。最早ライフワークだ。

 湯船に身体を沈め、外で冷えた身体を温める。無駄に運動不足の筋を伸ばしておいた。

「のんびりしてたら逃げられるかもしれないし、出よ」

 風呂場を出て、バスタオルで軽く水気を取った後で気づく。

 今日は特にお泊まりセットを持ってきたということもなく、私の服は着てきた服だけだ。この服で出て行っても、興が乗らない気がする。

 うーむ、と頭の水分を拭いながら思案する。ふと思いついて、バスタオルを身体に巻き付けた。リビングのカーテンは、宵知が風呂に行った後で閉じている。

 ご機嫌なまま、浮かんだ足で廊下を跳ねる。

「お待たせー」

「おかえ…………り!?」

 グラスに入れたお茶を飲んでいたらしい宵知は、見事にまた噎せていた。近寄って背を撫でてやると、私を指さして口をパクパクしている。

 顔は真っ赤で、テレビで見た格好良い宣材写真と同一人物とは思えない。

「なんで、バスタオル一枚で……!」

 悲鳴を上げるような言い方に、首を傾げながら裾を持ち上げる。

「お泊まりセット忘れちゃったし」

「…………そうか」

 宵知はパジャマの上を脱ぐと、私に頭から被せる。どうせ脱ぐのに、と思いつつバスタオルは抜き取った。

 私も身長は低くないのだが、宵知との身長差はそこそこある。だぼだぼのパジャマは上手く股の部分を隠していた。

 興味深く裾を持ち上げていると、慌てた様子の恋人に止められる。

「寝室行くか!?」

「…………! うん!」

 表情を輝かせた私に対し、彼は罠に掛かったような表情をする。

 苦悶の表情を浮かべている様子を見るに、私よりも性交渉を重く捉えている空気があった。

 両手で彼の手を捕まえ、廊下に出て引き摺るように歩き始める。

「美月……」

「ん?」

「誰かと寝た経験が…………。いや、答えなくていい」

「答えなくていいの……? 本当に?」

 宵知はその場で頭に手を当て、唸った。兎の悪戯心が大層満たされる。

「躰を重ねて魂を染めちゃうと、色が抜けなくなっちゃうんだよね」

「それは、いずれ子に分けるための魂が、か?」

「そう。だから、多情じゃないって言ったでしょう」

 くす、と唇を持ち上げ、彼の手を引いた。とと、と廊下を足音が叩く。

 辿り着いた宵知の寝室も、使いっぱなし、といった具合に荒れていた。だが、恋人の匂いが染み付いた部屋は悪くない。

 きょろきょろと室内を見回していると、シーツを整えていた部屋の主が振り返った。

「どうした?」

「滑りが良くなるクリームとか、ある?」

 尋ねて数秒後、彼はまたぼっと顔を赤くした。

 ばたばたと妙な仕草でキャビネットに近寄ると、中から透明の液体が入ったボトルを取り出す。

 中身がたっぷり入ったボトルは開封され、ごとん、と取り落とすようにベッドのヘッドボードに置かれた。

 準備は万端、とご機嫌に寝台へと腰掛けた。手招きをすると、宵知が隣に腰掛ける。少しだけ空いたスペースは、速攻で埋めた。

「ね。キスしよ?」

 ん、と唇を突き出してみせると、嗚呼、と天を仰ぐような声が漏れ、しばらくして唇が塞がれる。

 相手の肩に手を置き、身体を持ち上げて更に触れ合いを深くする。舌に唇を開くよう促され、望まれるままに迎え入れた。

 舌先は唇の裏をなぞり、さりさりと舌裏を擽った。

「ん…………ん、ふ。ぁ、う……んん……」

 無意識のうちに首筋を抱き込み、深く舌を絡めていた。前戯めいた触れ合いは、芯の熱を否が応でも高める。

 いちど唇が離れても、二度目をねだった。混ざった唾液をうっとりと飲み込む。

「宵知。だいすき」

「俺も好きだ」

 寝台に乗り上がり、欲のまま頬に、額に、と口付けていると、途中で制止された。

 不満、と頬を膨らませていると、苦笑しつつ雑に留められた首元のボタンが外される。日に焼けていない部分が露わになると、二人の間の空気が次第に情事の色を濃くした。

 ボタンが次々と外されていき、胸元から臍、そして下の毛までもが相手の視線に晒される。

「すけべ」

「え!?」

「じっと見てた」

「それは……見るだろ」

「ふふ。嘘、もっと、私だけ見てて」

 欲を付け加え、肩から借りたパジャマを滑り落とす。衣擦れの音がして、布地はシーツの上に広がった。

 宵知の喉が動く様が、ゆっくりと見えた。

「撮影用に手入れしてるから、肌、綺麗でしょう?」

「撮影、は兎の姿で、だよな……!?」

「そうに決まってるじゃない。人の姿で手入れすると、兎の姿でも毛並みが良くなるんだよ」

 兎の姿もある意味、裸を晒している事になるのかもしれないが、毛皮が服ということで黙っておく。

 身体を起こして身を寄せると、相手の唇が首筋へと触れた。キスをして、そして舌先で舐め上げる。

「ん……、ふ。あは、くすぐったい」

 胸元に当たった唇は、吸い上げて痕を残す。独占欲を刻みつけられ、ぞくぞくと身体を快楽が駆け上がった。

 指先と唇が、同時に胸へと辿り着く。薄い色をしたその両側に、別々の刺激が襲いかかる。

「んん……! ぁ、ふ。うぁ……、ぁ」

 気持ちいいことを知らなかった場所が、性器として目覚めさせられていく。吸い上げられ、摘まみ上げられる度に、ぞわぞわとした感覚が走った。

 ぬめった舌先は、突起に絡みついて撥ね上げる。漏れた息は、相手を誘うように熱を持っていた。

「あ、……ゃ、あふ。…………んぅ、ン」

 そんなに吸われたら形が変わってしまう。相手の目元に手を差し入れ、やんわりと引き剥がす。

 ちゅぽん、と唇から離れた胸の先は、ぽってりとして熟れきったような色に変わっていた。

「もう終わりか?」

「もういいってば……! お乳はまだ要らないから」

「お、乳……?」

「雌雄関係ないって話したでしょ。子どもが小さいうちは出る人もいるよ」

「胸からか……!?」

「他にないでしょ」

 真っ赤になって頭を抱え始めた宵知を放っておいて、相手の下半身を覆う服に手を掛ける。

 脱がせたい、という意思表示に服を引っ張ると、腰を浮かせてくれた。容赦なく服を引っぺがす。ヘッドボードに置いておいたボトルへ手を伸ばし、蓋を開ける。

「触っていい?」

「ああ。俺もいいか」

「いいよ。触りっこしよ」

 ボトルの中身を相手の股間へ垂らすと、指先に粘性のある液体が絡み付く。股の間に手を突っ込み、彼の逸物を引き摺り出す。

 服の上から触るよりも重たいそれを、両手で擦った。

「何処が好き?」

「あぁ……、そこ、は。気持ちいい」

 相手の指が私の太股へ触れ、内側へと潜り込んだ。半身は直ぐに捉えられ、太い指先に弄られ始める。

 どちらからともなく、ぐちぐちと淫らな水音が響く。慣れた刺激で、弱い処を知った指で高められていく。

「ん、ぁ。うぁ……、先っぽ、だめ」

「お前だって。際どいとこばかり……、うあ」

 絞り上げるように下から上へと指を滑らせると、呻くように声が漏れる。じっとりと睨め付けられるが、暴発は免れたようだった。

 相手の指は私のそこから離れ、両手で腰を掴む。持ち上げるように寝台の上を移動させられ、仰向けに倒された。

 ぼすん、と柔らかいシーツの上に埋まる。

「出るとこだっただろ! 勘弁してくれ……!」

「出ても良かったよ?」

「良くない! ちょっと大人しくしててくれ」

「私のこと、大人しいって言ったくせに」

 宵知は過去の発言を後悔するように視線を投げ、私の脚を持ち上げた。腰は少し浮いている、視線の先には、繋がるときに使う窄まりがあった。

 空いた手がボトルを持ち上げると、股へ中身を垂らす。

「なんでローション持ってたの?」

「別名義として曲を依頼されたアダルトゲーム制作元の好意で、そういった玩具と一緒に送られてきた」

「へえ。玩具……」

 眼差しに期待が漏れてしまっていたのか、今度な、と窘められ、こくこくと頷いた。

 触りやすいように広げた股のを指が辿り、尻の谷間を伝う。後腔は直ぐに探り当てられ、指の腹が肉輪を撫で擦った。

 ねとねとした液体が絡みつき、ちゅう、と指に吸い付く。具合を確かめていた指が、くっと押し込まれた。

「あ──! うあ、ぁ」

 くぷくぷと前後に出し入れされ、少しずつ長い指が奥へと挿入る。

 内壁の具合を確かめながら慎重に押し入られ、痛みはない。だが、快楽の前兆のような、何とも言いがたい疼きがあった。

 力を抜き、指を招こうとしても身体が巧く動かない。びくびくと身を震わせ、指が中へ進むたびに喰い締めてしまう。

「ね、ぇ……。う、ふぁ。もう、挿れて、いいんじゃ……ぁ、な……?」

「怪我したいのか?」

 それでもいい、と言いかけて、彼の股を見る。指先で育てた重みを思い出し、口を噤んだ。

 黙っていると、着実に指の腹は知らない地を踏みしめていく。平穏な道行きかと高をくくっていると、突然、指がその場所へと辿り着いた。

「ひ、うぁ────!? ぁ、あ。な、……ン、ぁ」

 指の腹で柔らかく撫でられただけで、質の違う、痺れるような感覚を与えられる。

 強烈な刺激でありながら、妙に後を引くのが恐ろしかった。ひく、と喉を鳴らし、眉を寄せる。

「な、なに……!? さわ、て」

「やっと大人しくなったな」

「そういう話じゃ……ぁ、あァッ! ひぁ、あ」

 新しい感覚を覚え込ませるように、彼は指先でそこを撫でる。乱暴な触り方ではないのに、脚を震わせ、身体が本能的に逃げを打つ。

 彼の腕は私の脚を抱え直し、身体がねじ込まれる。そうやって、私は未知の快楽に揺られた。

「あ、ぁ。……や、ぁッ! ヘン、で、それ、こわ、ァ……ア!」

 ひぐ、と嬌声が濁り始めた頃、ようやく指先が抜かれる。彼の指先を食んでいた肉縁は捲れ上がり、ローションに塗れててらてらと光っていた。

「忘れてたな。ゴム……」

 チェストに向けられた視線をこちらに向けるように、甘えた声を出す。

「魂、染めてくれるんじゃないの?」

「は? …………あぁ、……そういうことか」

「そういうこと」

 彼はチェストに向かうことはなかった。

 寝台の上に転がっていたボトルを持ち上げると、芯を持った肉棒を濡らす。亀頭を伝い、粘性のある液体がぽたぽたとシーツに落ちた。

 躙り寄ってくる雄に対する怯えと、魂を染められる背徳感が唇を持ち上げる。閉じていた脚を自らの腕で抱え、綻んだ場所を露わにする。

 近づいてきた先端が、ちゅう、と肉輪と触れる。離れると糸を引き、また触れ合えばぬとぬとと粘着質な音を立てた。

「も、焦らしてる……?」

「してない」

 相手の腕が、私の腰を掴む。背がずっとシーツの上を滑り、ぐちゅ、とその場所が填まった。

 ひ、と悲鳴が喉から漏れる。一番太い部分が通り抜けたのを良いことに、ぐぐ、と一気に含まされた。

「ひ、ッあ────! ンン、ぁ」

「柔らかい、な」

 酷い質量を含まされている筈なのに、私の躰は巧く雄を呑み込んでいく。

 ず、ず、と小刻みに揺らされ、柔らかくなった内壁を擦り上げる。喉が絞まるような怯えがあった。

 こんなに、圧倒的な存在に色を塗り替えられてしまったら怖いはずなのに、私のそこは柔く怒張を食み、そして奥を許していく。

 嬌声の合間に、互いの呼吸音が混じる。ぐちゃぐちゃに身体を蕩けさせて、相手の形に変化することを望んだ。

「あ、ぁ。……、ンう。……ッは」

「……、ふ。痛みは?」

「ぁ、ない、けど。でも、お腹、ずくずく……して……」

 波を堪えるように、唇を噛む。堪えたと思っていたのに、その時、膨らんだ先端がその場所を捉えた。

 軽く小突くような動きだったが、指とは比べものにならなかった。更に重い質量で、弱い処が抉られる。

「ひ────」

 私の半身は、吐精してはいなかった。それなのに、与えられた刺激は絶頂に似ている。

 びくんびくんと太股を震わせ、痙攣した内側が男根にしゃぶり付く。その動きは、精をねだっているかのようだった。

 生殖行為をして、腹の中を許して、相手の色に書き換えられる。既に漏れ出ている子種が、自分の魂に色を混ぜる。

 そんなひどいはずの行為を、されたいのだった。

「…………宵知。もうちょっと、おく……ぁ、はいる?」

「奥?」

「おく、がいい……。いっぱい、ほしい」

 彼は脚を抱え直すと、突き上げていたその場所を通り過ぎる。余っていた砲身は、またずぶずぶと躰に埋まっていった。

 肉縁は捲れ上がって拡がり、可哀想なほど卑猥に色付いている。結合部はくぷくぷと泡立ち、粘膜同士が擦れ合った。

 雄の膨らみが、奥を探り当てる。ちょうど膨らみが填まるような柔らかい場所を、分け入るように拡げる。

「あ、ひう。ぁ……ぁあ、ア。……や。だめだって、……わかって、るのに」

 ぐぷん、と完璧に填まった時、喉から上がったのは悲鳴だったかもしれない。

 神経を擦り合わせているような快楽が、押し寄せては尾を引く。理性は焼かれて、本能だけで繋がっていた。

 乱暴なピストンではなく、ただ填まったモノを揺り動かされるだけ、ただそれだけの動作で、全身が陥落した。

「これで、奥。ぜんぶ、────埋まった」

「アッ、は。……うあ、ぁ、あ。ひ、ぐ……ァ、ア!」

 男の動きに合わせ、頼りなく腰を揺らす。楔を打ち込まれ、逃げることは許されなかった。

 理性はまだ警鐘を鳴らしているのに、本能は与えられる刺激に従順だ。

「よく、咥えられたな……。こんな、狭いとこ、で────!」

「ン、うぁ。あ、あ、あ。……ひッ、ぁああッ!」

 ぐぽぐぽと泥濘に押し込んでは引き抜かれる。雄が気持ちよく欲を吐き出すよう、無意識にもてなしてしまう身体が恨めしい。

 押しつけられた腰を、自らの脚で抱え込む。

「もう、いっぱい……、ふくらんで、るね……?」

 近づいてきた顔にそう甘く囁くと、腰が震えた。こぷりと溢れる子種を、悦んで飲み干す。

 はち切れんばかりの熱を柔らかく包み込んで、そして引き絞る。

「ほんとうに、大人しくない────!」

 苛立ちをぶつけるように、大振りに腰が引き抜かれる。

 その動きが助走なのだと、一瞬で理解した。近づいてきた腰を脚で抱き込み、突き入ってきた身体に腰を押しつける。

 こちらを見下ろす宵知と視線が合った。だらしなく蕩けた表情のまま、唇だけで誘い文句を囁く。

 ずるる、と細径を駆け上がった熱棒は、一度拓いたその場所まで辿り着く。体重を掛け、ぴったりと腰を押しつける。

 熱を持った身体がぶるりと震えた。

「ひ、ン。……うあ。ひ、ぁぁああああぁぁぁッ!」

 身体の奥に、白濁が叩き付けられる。雄に慣れきった腹は嬉しそうにその欲を飲み干し、色を覚えてしまった。

 魂への色付け。他者の精を受け入れる波は暴力的でありながら、抗いがたく身体を溶かす。

 長い吐精の間、私は寝台の上に押し付けられていた。びくん、びくん、と身体を震わせ、身を捩る。

「あ、……も。おなか、いっぱい……」

 文句交じりの声音でそう言うと、ようやく宵知は身を起こした。引き抜いた雄はローションと体液に塗れている。

 身体の中にはまだ余韻が残ったまま、今でも男を咥えているみたいだった。

 寝台に腕を預けて休んでいると、宵知は私の脚を持ち上げる。ぎょっと向けた視線の先には、既に勃ち上がった肉棒があった。

「はァ……!?」

「どうしたんだ?」

「…………インターバルは?」

「いや。俺は、こんな感じなんだが……」

 普通は、欲を吐き出したら一時的に賢者になるものではないんだろうか。けれど、彼のそれはもう二戦目を待ち侘び、持ち上がっている。

 目を白黒とさせていると、股に膨らんだものが押しつけられた。

「加護の一種……!? それとも個性……!?」

「それは分からないが、美月にとっては都合がいいんじゃないか? ほら、性欲が強いと言っていたし」

 性欲が強いことと、体力があるかどうかは別問題だ。文句を考えているうちに、蕩けきったそこは亀頭を迎え入れてしまう。

 ぐぷぐぷとまた潜り込む砲身に慌てても、もう遅かった。

「あ、あン……! あ、ひ」

「本当に、よく入るな」

 大きな掌が腹を撫でる。だが、その僅かな刺激さえも体には毒だ。

 いくら性欲が強くとも、それはあくまで草食動物の中での話である。体力のある獰猛な肉食獣の欲望を受け止めるには、あまりにも荷が重かった。

 

 

 

 宵知からの依頼については付き合うことを機に、正式に終了することになった。

 気持ちを通じ合わせてから兎に転じる事はできるようになったのだが、流石に恋人に触られて金を貰うのは、と私が固辞した為である。

 だが、宵知にとっては兎の私は金を払ってでも触りたい存在だったようで、普段よりもサービスすると、その度にお菓子を買い与えられている。

 同居についてはしばらく返事を迷っていたのだが、ミミさんの一件に加えて私が音信不通にしてしまい、トラウマになってしまったらしい宵知を慰めるために泊まっている内に既成事実化されてしまった。

 宵知の家に、私が生活できる程度の私物が用意されてしまい、自宅に帰る理由を無くされてしまったのだ。

 必要なくなってしまった私の自宅は引き払われ、残っていた私物はこちらの家に運び込まれた。

 引っ越しの日、宵知がとてもご機嫌だったのを覚えている。

「痒いところはないか?」

『前脚の後ろのとこ』

 今日も私は兎の姿で宵知の膝に乗せられ、ブラッシングをされていた。机の上にはお手入れグッズが並べられ、ソファに座った宵知は嬉しそうに世話を焼く。

 私と付き合った理由を置いておいても、この人はあまりにもウサギが好きだ。表情はでれでれとして締まりがなく、私が甘える度に眉が更に下がる。

「美月。お腹に顔を突っ込んでいいか?」

『どうぞ』

 友人なら断っていた甘え方も、まあ恋人だし、と許している。顔を輝かせた宵知は兎のお腹に顔を突っ込み、息を吸い込んだ。

 本物のウサギなら先ず逃げられていることだろう。釈然としない感情のまま、彼の頭を前脚でぽすぽすと叩いた。

 兎吸いを終えた宵知に脱衣所まで運んでもらい、人に戻って服を着る。

 リビングに戻ると、彼はお手入れグッズを片付け終え、飛び散った毛を粘着テープで掃除していた。

「今日のおやつは何にしようか?」

「苺のショートケーキ」

「分かった。午後になったら買ってくる」

 高いのに、と断られることもなく、当然のように受け入れられてしまった。試すようにお菓子の値段を上げたら、際限なく認められてしまいそうだ。

 掃除を終えた宵知の隣に腰掛けると、自然に手が重なった。指先を絡め、甘えるように寄り掛かってくる身体を受け止める。

 彼と身体を重ねるようになって、他の兎のように小さくなくて良かった、と思う日々である。

「今日ね。夢でミミさんと遊んだよ」

「……元気にしていたか?」

「うん。兎の始祖様と一緒にいっぱい跳ねてた」

 不思議だったのは、私とミミさんだけでなく、兎の一族の始祖様もいたことだ。始祖様は私たちよりも更に神の力を受けた存在で、かなり長く生きていると聞く。

 そんな存在を夢に出すような頭だっただろうか、と自分を疑ってしまう。

「それは良かった。また会ったら教えてくれ」

「うん」

 もしかしたら、夢を通じて本当に会っているのかもしれない。だが、本当に会っていたとしたら、会えない宵知が悲しくなってしまう。

 いくら同族とはいえ、夢で会う、と思っているくらいが丁度いいのかもしれなかった。

「ねえ。来年、ウサギ年なんだよ」

「知ってる。たくさんウサギグッズが出て嬉しい」

 あんなに無機質だった玄関も、正月飾りで賑やかなことになっている。ちまちまと買い足している姿を思い出し、思わず笑みが浮かんだ。

「年越しして、来年も一緒にいようね」

「来年だけか?」

「…………ううん、ずっと」

「そうしよう」

 絡み合った指先が、またぎゅっと握られた。顔を上げ、何も言わずに唇を寄せる。

 キスを繰り返すうちに盛り上がってしまい、その日は重たい腰を抱える羽目になったのだが、上機嫌な恋人は跳ねるように私の世話を焼くのだった。

動物の魂を持つ一族の話
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坂みち // さか【傘路さか】
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